ラジオ番組をやることになったわけですよ。左記の放送局で。
いや、月1の番組ですけどね、ジャズを思いっきり語っていいということで、もうお引き受けしたわけですよ。
このHPのファンの方には朗報かと思いましてね。まあお前の声を聴きたいわけじゃないという方も多いかとは存じますが、
「DOTCOOL」を公共の電波で再現するわけです。
「いらっしゃいませ、ジャズバーDOTCOOLへようこそ・・・。」なんてラジオでやっちゃうわけです。
しかし知ってのとおり、
皆にわかりやすく、ジャズを説明、とか、
初心者にやさしい、ジャズ入門なんてのはCOOLはとても苦手なわけです。
真実はシンプルで、難しいものなのですから。
だからラジオだろうがゴジラだろうが?いつものとおりぶっとばしてジャズを語ろうかな、と。
聴取者がわかろうがわかるまいが、COOLのもえたぎる情熱だけ感じていただければそれでOKかな、とそんな番組を作っていきたいと思います。
・・・
さて、
こんなことを以前書いたこともありますが、
COOLは深夜放送世代でね、「オールナイト・ニッポン」や「星空ワイド今夜もシャララ(誰かしっているのか?)」なんかに憧れて、
それこそ平成元年の就職活動では放送局を正面からアナウンサー志望で受けて撃沈してきた男なわけです、実は。
中部日本放送(CBC)などでは最終面接まで行き、ドウランを塗られてカメラチェックまでしておっこってきたわけですよ。
COOLのマスコミ嫌いはそんなところに端を発していたりするわけですがまあ今回の、
ラジオ番組レギュラー出演というのはまことに輝かしい出来事でありまして、
月並みにいえば、「少年の夢が実現した。」ということになるといってよいわけですよ、ホント。
そこで、
やっぱDJやりたいわけよ、当時の。
深夜放送のりのさ、DJ。今流行の皿回しDJじゃなくて、ディスクジョッキーさ。
だからさ、
おはがき紹介したいわけ、おはがき。
「それでは次のおはがき。ペンネームお口の恋人さんからです。COOLさんこんにちは・・・こんにちは・・・実は私・・・・・・」
とかやりたいわけよ。頼むよみんな、おはがきくれない?
もう、ジャズだなんだ関係ないから。感想でも文句でもひやかしでも恋愛相談でもなんでもいいからさあ、おはがき紹介したいねえ。
書いてよ、俺がたのみごとするなんてのはそんなにない事だしさ、感謝するよホント。
80年代ディスクジョッキー再びだよ、さあ楽しみだ!みなさんよろしく哀愁!!
番組名「Sound Area B★BTown」
コーナー名Blue Moon Lane
第一回放送10月15日(土) 午後5:40分くらい。(生放送のため2〜3分の前後あり)
毎月第3土曜放送
静岡市葵区紺屋町15-4静岡新聞別館1F FM−HI Blue Moon LaneのDOTCOOLまで。
それでは皆さん CHECK IT OUT!! ラジオでお会いしましょう!
隣の上司が恐いとか
北朝鮮はいつ攻めてくるんだろうか、とか
東海地震はもういつおきてもおかしくないぞ、とか
申告額ちょろまかしたの税務署にばれるんじゃないだろうか、とか、
私よりかわいいわよあの子ちょっと私の彼氏にちょっかいださないでよ・・・とか
まあ人には世の中に恐いものがたくさんある。
浮世に生きる者の宿命だね。
恐れていることがおきない場合も多いが、おきる場合もある。
恐れるな、と言われても恐いものは恐い。ゆえに
おきた場合は覚悟を決めるより他手がないが、おきないように用意周到準備を怠らないことも大切だ。
恐れていることは、おきない方が望ましい。
さて、
COOLにももちろん恐いものがある。
もうそれはそれは、本当に恐い。
映画、「エイリアン」で最初にエイリアンが襲い掛かってきた時よりはるかに恐い。
パーティーの会場で例によって盛り上がり過ぎて、隣の暗いイラン人が気分を害して突然おい表に出ろと言われ、「お前調子にノリスギネ、これ以上騒ぐと明日私お前殺すネ、それは私の手を使わず仲間にさせるから注意しろネ。」と言われた時よりずっと恐い。
突然アメリカに連れていかれ、明日WWEチャンピョンシップをかけてカート・アングルとサブミッションマッチで戦え、と言われることよりはるかに恐い。
・・・
COOLの恐いものは
「ジャズを嫌いになる」ことだ。
・・・
だってよ、
ジャズを嫌いになったらさ、この店は何?
ピアノって、何さ?
このでっかいスピーカー音を聴くにしちゃでかすぎねえか?いちいちレコードなんかで音ならさないで、i podつなげて鳴らせばいいじゃん何千曲も入って便利だぜ、真空管ってあほじゃねえのわざわざロシアからそんなものとりよせていったい何がしたいの?
となるばかりか、
店の酒一本一本、グラスの一つ一つ、内装、カウンター、トイレ・・・もうありとあらゆるものの意味が喪失する。意味ねえじゃんほんとばかばかしい。お酒出してお金もらってはーのんきな商売ですこと好きじゃなきゃできませんわねーそんなこと・・・ってことになっちまう。
つまりは店をやっている意味が全部喪失する。ただのガラクタのあつまり。果ては生きている意味もすべて喪失する。そりゃ他にも大切なものはいっぱいあるけど何をとりあげられたとしても俺から絶対に取り上げることができない唯一のものが「ジャズ」さ。こいつがなくなっちまえばほんと俺はただこの世を彷徨うさすらいののクラゲみたいなものになるだろうよ。あっちふらふらこっちふらふら、そりゃふらふらも人生大切なことだがちゃんと思いがすわってからの話でしょうよそれは。
・・・
大丈夫だろCOOL、そんなことあるわけないじゃんかお前あんなに好きなんだから・・・とおっしゃいますでしょうが、
ジャズを嫌いになりかけることは実際あるんだな、もうそこらじゅうに危険が潜んでいるのだ。
断れなくてチケット買ってジャズライブにでかけてそれがとんでもなくひどくて、一部で帰ればよかったものを全部聴いてそれに絶大な拍手が沸き起こったりさ・・・理解不能な奇妙な輪の中にほおりだされ自分がそこにいる意味を失う瞬間・・・信じているものの価値を否定されたその瞬間・・・まあそれはそれは本当に恐いもので遭遇したくないから、ここでは語りたくないけどね、ジャズを嫌いになりかける瞬間は結構存在するのだ。口にするのもおぞましい恐怖の瞬間。あるねほんとだから必ずしも俺は大丈夫というわけにはいかない。そういう瞬間に遭遇しないようにあらかじめ準備をしておく必要はある。
だからこそアナログレコードをわざわざ回し、真空管アンプでスピードのある音を追求し、グランドピアノを入れて少しでもいいライブ環境を整え、中途半端やいい加減なライブの企画を避け、自らもできるだけピアノを練習してスイングするジャズを追及する・・・これもすべてジャズを嫌いになりたくないからさ。恐いんだな俺、奇妙な瞬間が訪れることが。恐がりなんだほんと、もう目一杯準備してそういうことがないよう気をつけているわけ。もうその準備の入れようは普通じゃないしわかりにくい部分も多いと思うけど、ほんと必要なことなんだよ。
さあ大発表だ、今度は80インチを超えるビデオ・プロジェクターを導入するぞ、これでいよいよ動くベーシー、エリントンを眺めながらゴキゲンにスイングだ!!超大迫力の映像とサウンドで君ももうジャズの虜になること間違いなし!こうご期待。これもジャズを嫌いになりたくないから・・・さ。
野球と言えばもちろん巨人軍で、それは王と長嶋とそれ以外の選手たちで成立していた。
だから草野球をすると、1か3のワッペンをつけて、全員が一本足打法だ。
少年COOLの背番号も、すべての子供達が1か3をつけていたご多分に漏れず、1だった。
一本足の上げ方には特にこだわった。それこそフラミンゴのように美しく、身体を絞るように上げなければいけない。うっかり不恰好に上げると中日の木俣になってしまう。同じくゴロの捕球は逆シングルで、スローイングは体を翻して飛び上がって投げるのが基本だった。むろん長嶋になりたいためだ。こだわっていたのは勝敗ではなく、そうした細部にあった。
将来は野球選手になりたいと、誰もが自然に思っていた、そんな時代だった。
・・・
ビル・エヴァンスが例えようもないほど美しいハーモニーを紡ぎ出した時、
バド・パウエルがとんでもないスピードで駆け抜けながらグルーブした時、
バリー・ハリスが普通のテンポで普通に、バップの言葉で語りかける時、
ピアニストCOOLは思う。
おっつかねえや、こりゃ。
一生かかっても無理だな、俺んにゃ。
しかし実は、その瞬間頭のもう一方で、猛烈に考えている。
待てよ、このハーモニーは複雑そうに聴こえるけど、実はダイアトニック・コードに半音進行を入れただけなのかな?
このグルーブ感を出すためにはまずスケールをみっちり練習して、半分のテンポでゆっくりトライしなければ無理だなきっと。
まいったなこんなに普通に語りかけられたら俺たち日本人には手がだせんぜ、しかし4拍目から始まって小節線を越えるようにアドリブしていけば、こういう風に語れるようになるのかな?
考えて、考えて、ちょっとピアノを鳴らしてみる。
見当違いであることは普通だし、まったく及ばないことも多い。しかし何度かに一度、まんざら的外れでない時もある。
そんな時はまた聴き直し、ピアノに向い、また聴き直してはピアノに向う。
毎日はそんなことの繰り返しだ。そしてその偉人たちのニュアンスがかけらだけでも表現することができたなと感じられた時、
うれしいのだ。彼らのようにできたことがうれしい、彼らみたいにやれたことがうれしい。
芸術が、表現がどうだこうだではない。彼らみたいであることがたまらない。
かつての草野球がそうであったように、
王選手や長嶋選手が僕らにとってそうであったように、
今COOLは、バド・パウエルやバリー・ハリスになりたいと思っている。
COOLにとって、ジャズは、永遠の
「憧れ」であると思う。
収録中のCOOL え、COOLが FM−HI 76.5 放送局でラジオのコーナーをやっていたのは上記のとおりなのですが、
このたび春の番組改編により、このコーナー Blue Moon Lane も終了することになりました。
いやーほんとみなさんありがとうございましたー短かったけど・・・お葉書もこなかったし残念だったし・・・。
まあ一生懸命がんばりましたが力およばず終了となり・・・出会いと別れの4月にふさわしい形で終了の運びとなりにけりー・・・。
・・・
・・・
まあCOOLはピアニストだしそんなラジオ番組が終了ということでどうこうというわけではありませんが、
コーナー終了をディレクターから聴いて落胆しかけたところ、次の大発表となりました。
4月より
・・・
毎週木曜 6:30〜7:00の30分番組
番組名 サウンド・スペース LIFE TIME スポンサー浮月楼様他
無論 COOL大いにJAZZを語る!!
・・・
どうだ。どうどうのスポンサー付き、しかも1コーナーから番組へ昇格。しかも毎週30分、再放送も予定されているということだ。内容は今までどおりどジャズでOK(ディレクター千賀さんの多大なご理解)ということなのでCOOLはいつものとおりレッドゾーンばりばりぶっとばすまでの話しよ。毎週となればもう全力投球で盛り上がっちゃうしかないわけで、日本一熱いラジオ番組をFM−HIでぶっとばすまでよ。いやー冗談で「COOLさん今度は二時間ワイド狙いですねー・・・」なんて言って笑っていたのが二時間ワイドとはいかないまでも毎週30分とおもしろいことになってきたわけだ、ところで、
毎週ネタ考えなきゃいかんわけだ。もーさ、この現代にお葉書くれなんていわんからさ、リクエストでもご意見ご感想でも恋愛相談人生相談なんでもいいからさ、メール(こちら)頂戴ほんと。だせばボツはない(昔ノリノリダー歌謡曲でつボイノリオが言ってたっけなー)・・・いやほんとみんなでつくる視聴者参加型番組としてがんばっていく所存であるのだ。さあ盛り上がっちゃうぞ!
・・・
うーん社会は俺のピアノよりしゃべりを評価したか・・・ま、いいか。
喫茶店が少なくなった。
街中をはじめ、郊外にも喫茶店は一昔数多く存在した。日常を若干逸脱したおしゃれな店づくりで、たいしておいしくないコーヒーがメインでそこそこのランチが出るところもある。街中郊外を問わずそんないわゆる喫茶店が今は○トールコーヒー、○ターバックス、○ンマルクにとって変わってきた。喫茶業界もまた大手のチェーンが個人事業者を駆逐してきた格好の業界であると思う。あわれなマスター達が敵の存在に気づかず従来どおり妥協まみれのサービスをしていたから淘汰されたまで、と厳しく言われればそのとおりかもしれない。そんな議論はともかくその数は明らかに減少したことは事実だ。
しかしそもそも喫茶店とは何なのだ?
コーヒーを飲みながら休憩する場所、友人と待ち合わせをする場所、そんなところが喫茶店の機能的な側面だ。○トールコーヒーや○ターバックスは喫茶店のもつ機能的側面を的確にとらえて、利便性の高い地所に安価な価格で適切にサービスを充足させることで成功している。街のいわゆる喫茶店はコーヒ一杯180円などという価格でのサービスにとても対抗できず、消えることになったところも数多いと思う。時代の流れといえばそれまでだが、景気回復にともない、街の喫茶店は再びその息を吹き返すことができるのだろうか?
・・・
静岡の街の玄関口、紺屋町の西武百貨店が3月いっぱいでクローズする。
閉店セールをするというので足を運んでみた。閉店と聞いてかけつけたお客様で店はごったがえしていた。私は\15000円の靴やシャツが\11000になっているものに興味はない。\80000の靴が閉店、在庫処分で\30000になっていないか興味があって足を運んだ。結果\80000なんて靴は西武百貨店には2足くらいしかなく、それはそのまま\80000で売られていた。まあちょっと時期が早かったのかもしれない。西武百貨店だって在庫を持ちたくないはずだ、20日過ぎれば叩き売る可能性だってある、と考えあきらめて帰りがけにすでに叩き売られている靴をざっと見てみた。すると今まで日本製と信じていたメーカーの靴の生産国表示が、メード・イン・チャイナとなっているのが多かったのが気になった。日本のメーカーはもう靴を作ろうと思っていないのだろうか、と考えた。したい、作りたい、ということよりも安くつくり競争に勝ち生き残ることが当たり前の世の中だ。まあ靴にかぎらずなんだって中国で作らないともう生きていけないのが現代のメーカーの事情だ。しかしそれでは問うが、いやー俺靴作りてー、いい靴つくりてえよ俺はよ、一生かけてさ・・・という職人たちは一体どうすればいいのだ?
・・・
1980年代の半ば、CDが登場して以来、日本のオーディオ事情は急変した。
ともかく、小さくなった。CD以前のダイヤトーン、パイオニア、ヤマハ等のシステムコンポのスピーカーにはごく普通に25cmくらいのウーハ−が搭載されてきちんと3WAYだった。エンクロージャー(箱)もそこそこ大きく、ステレオというに相応しい大きさで、家庭ではそのいでたち、風格からある意味家具と同じような扱いを受けていたような気がする。もちろん、今はやりの10cmくらいのちっちゃなウーハ−から出る音よりはるかにいい音がした。
現代のオーディオ事情を的確に知ろうと思えば○ンキホーテに行くといいと思う。
仕事前に家電コーナーに立ち寄ってみた。ちっちゃく作らなければいけない宿命を帯びた現代のメーカーは恐らく悪戦苦闘した末、不思議なスピーカーを作り出していた。ウーハ−はやはり10cmくらいの大きさだった。しかしそれからは想像できない奇妙な低域を再生していた。よく見るとそこには低域だけを受け持つスーパーウーハーがあった。しかしそれはスピーカーではない。穴が空いていて筒状になって、それが共鳴管のような作用をしている。用はビンの口を横からフッと吹くとボーという音がなるようなあの原理をスピーカーに十分に応用し、低域のほとんどをそこに頼っている。専門的な言い方をすれば、バスレフに低域のほとんどを預けている。この場合ウーハ−そのものから音がでているわけではないので、音圧を表現できても音色を表現することは不可能だ。だからむやみやたらに音圧のある低音がボーボー店内に響きわたり、やたら耳につく高音がチープなツイーターから再生され、音色より音圧が最重視され、ボーボーシャキシャキ、そういうことで良しとなる若い子向けのミュージックソースがかけられ、まあ後はメディアがDVDなのでかわいこちゃんの画像でだまされる、オーディオはそんな風に堕してしまっている。当たり前だがあれではきちんとジャズを再生することはできない。ポール・チェンバースの美しい音色はどう消えてなくなるのだろうか、とちょっと想像してみた。
CDの後に現れたMP3はもっと強力に音楽を変革した。
ipodをはじめとするデジタルプレーヤーが出たことにより、人々は何千曲というソースを持ち歩くことが可能となるった。ポケットに入るサイズに数千曲、人はそれを他人のものをコピーしたりネットからダウンロードして手に入れる、まともに購入することはむしろばかげていると思われるくらい著作権を侵した。音楽著作権はすでに仁義なき戦いによりぼろぼろ状態だ。
しかし私の気になっていることはまったく別のことだ。
MP3というフォーマットは一般に、圧縮されたデータを使用する。例えばCDの音楽データを8分の1に圧縮してMP3にすることにより、何千曲という音楽を携帯できるようになる。当然音の質は元のものより落ちる。問題はここだ。デジタルは、オーディオにおいて本来重要である「いい音」で音楽を再生するということを、簡単に「便利」にすりかえてしまうことができるということだ。ああ、ちょっと音質は落ちちゃいますけど、ほらまあ許せる範囲でしょ、それより便利だもんねこんなに沢山曲入っているし・・・という具合だ。本質をいとも簡単にねじまげて、便利であることを強調する。アナログでは不可能な細工だ。デジタルにとって、クオリティーはある意味邪魔な存在だ。クオリティーではアナログに勝てるわけがなく、本質を曲げてでも利便性で勝負するのがデジタルの哲学である。この安直な考え方が私のデジタル嫌いの大きな理由だ。
・・・前置きがとても長くなった。ここからが本題だ。
私は喫茶店にコーヒーを飲みに出かけることはまず無い。
マスターに会いたいから行くし、お話ししたいから行くし、その店の雰囲気、センスに浸りたいから出かける。
ジャズをかけているところなら無論ジャズが聴きたいから出かける。かかっているジャズについてマスターと語りたいからわざわざ出かける。その曲から何かをもらいたいからわりと真剣に聴く。コーヒーや紅茶はむしろ間をつくるツールである場合が多い。それが私にとっての喫茶店の「意味」である。○トールコーヒーは私にとって喫茶店の意味を持たない、まったく別のものと考えていい。喫茶店の数が減少するということは、物事の「意味」が減少しているということであると思う。街が息づくための数々の「意味」の消失、それが喫茶店の減少の真の姿だと考える。
コスト低減と生き残りをかけて生産を安易に中国に切り替える靴メーカーからは、知らず知らずのうちに、自分の手で靴を作りたい、いい靴をなんとか世に出したいという靴作りの「意味」が希薄になっていると思う。いいやちがうんだよ低価格でいいものが現代はできるんだよ、と言い通すなら一度一足\80000の靴を履いてみるといい。職人の血の通ったその靴は外観から履き心地からすべてにおいて一線を画す。靴を履く我々が靴に機能を求めるのは自明だが、優れた靴は我々に「歩く」ことの本質を教えてくれる。履いた時の足との一体感、歩くということの意味を感じさせる確かな歩き心地、結果伸びざるを得ない背筋・・・すべてが変わってくる、それが靴の持つ「意味」だ。脱ぎやすく履きやすい、水に強い、安くて手入れ不要なんて機能は本来の靴に必要な意味ではない。いい靴とはなにか、そんな本質的な問題とも向き合おうとしないメーカーの姿がちらつく。
「いい音」で鳴らすというオーディオ本来の「意味」をMP3プレーヤーはいとも簡単に放棄する。デジタルという考え方は一般に、クオリティーを落として利便性をとる。結果オーディオはどんどん小さくなりしまいにポケットの中に収まり、チッチャなヘッドフォンで電車の中で音楽を聴くのが常識ということにまでなってしまった。すると今度は、そういう環境で聴くに適した音楽が業界の主流となり、いいものが生まれる土壌は更に狭められていく。
「意味」の喪失。泡のように消えてなくなっていく大事な「意味」は果たしてどこかで再生されているのだろうか。
ひょんなことから蝶ネクタイにこだわってみた。
まあ普通蝶タイを買えばこんなやつで、
アジャスタつき、フックでかけ止めするやつ。
締めればこんな感じ。
左右対称、かちっとね。しかしだ、
蝶タイだぜ、一度自分で蝶チョを結んでみようじゃないか。
手結びの蝶タイ、探せば売っているのだ。
ほれ豪快。ぎゅっと結ばった感じだ。
首元に個性がキラリ。左右の蝶のハネはまるで飛びたたんばかりだ。
COOLの二重あごにもびっくり!?
さてと、しかしCOOLは飲食業のプロだ。
これが究極、長さ調節なし、シルク、必要最小限の長さの、ザ・チョウタイだ。
練習して練習して、結べるようになると、
ほれ、どうだいかっちょいいだろう。
首モトキュッとね。
これさあ実は静岡老舗の○ビスヤさんで購入しようとしたらご主人に、
結べるんですかと聴かれて、ええ練習しましたと答えたら
そいつはたいしたもんだ、と言われてちょっとCOOLは気を良くしたわけよ。
で・・・と、
まあ業界的にいえばだな、
このようにはずしてちょっと酒屋にジンを買いにいったりすればかっこいいわけよ。
モノホンのチョウタイでなければできないこの姿、
一歩差をつけるぜ、とまあ今日はCOOLの自己満足です。
2006年 5月29日 (月) 03:17 産経新聞社
今春の芸術選奨の美術部門で文部科学大臣賞を受賞した洋画家の和田義彦氏(66)が、受賞理由になった展覧会にイタリア人画家の作品と酷似した絵を多数出展していたことが二十八日、分かった。イタリア人画家は盗作だと指摘、和田氏は「一緒にデッサンしたためだ」と主張している。文化庁は、芸術選奨の取り消しも視野に事実関係を調査している。
酷似が指摘されているのは、昨年四月から三重、東京、茨城の美術館で開催し、芸術選奨の受賞理由となった回顧展「ドラマとポエジーの画家 和田義彦展」の出展作など。和田氏がイタリア留学中に交流があったローマ在住の画家、アルベルト・スギ氏(77)の作品と構図などが似ている。
ある群像画では、踊る人の手足の形など細かい姿勢が一致。背景以外が酷似した人物画や抽象的な描線まで似た作品もある。
四月上旬、専門美術家らで構成される社団法人「日本美術家連盟」に匿名の投書があり、文化庁が調査を開始。現時点では十数点が似ていると判断している。文化庁はイタリアに職員を派遣してスギ氏の主張を確認した。スギ氏から盗作の正式な指摘が出れば、芸術選奨を選考した審査員に諮る方針だ。盗作と認定されれば、授賞取り消しも検討する。
これまでの調査では、和田氏は「スギ氏とは交流があり留学中に影響を受けた。酷似しているのは一緒にデッサンしたり共同制作したためだ」と説明。スギ氏は「コピーであり、やりすぎだ。あり得ない話」と主張しているという。
和田氏は東京芸術大大学院(油画科)を修了後、イタリアに留学。美術団体「国画会」で受賞を重ねたほか、平成十四年に安田火災東郷青児美術館大賞を受賞した。スギ氏はイタリア現代美術展の協会長も務め、同国内では著名な画家。
美術界では、他者の作品を一部借りる行為が珍しくなく、「盗作」かどうかの判断は難しいが、国内では動物写真を無断借用した画家が大学教員を辞めた例もある。美術評論家の瀬木慎一氏は「ほかの作家の作品を使う行為は多くの巨匠もしているが、これは全然違う次元の問題だ。なぜこんなことになるのか」と話している。
盗作 2006/6/2
COOLは・・・
いつもバド・パウエルのようにピアノを弾けるようになりたいと思っている。ウイントン・ケリーのようにスイングし、バリー・ハリスのようにゆったりとグルーブできればいいと心から思っている。
これは、生半可な気持ちではない。一生をかけて彼らの演奏に近づくつもりだ。私自身のオリジナリティーなんておこがましいことは微塵も考えていない。ただひたすら、彼らの音に迫りたい、あの感動の一部でもいいから自分も表現してみたい、そんな風にいつも考えている。
これは、正しいアーティストの一般的なスタンスであると私は考えている。アートで重要なことは個性的な作品を作ることではない。感動の核心に迫る、すぐれた作品を創ることがアーティストの仕事だ。個性などは後からいやでもついてくる。結果尊敬するアーティストの作品を徹底的に模倣することは非常に重要なステップだ。まねてまねて、絶対にまねられない。それがアーティストの日常である。私がどんなにバド・パウエルをまねようとしたってそれは全く及ぶものではない。それはどんなにがんばっても、本質的な意味合いにおいて彼らの音楽があまりにすぐれているため、天才の成せる音であるため我々には追いつくことができないということだ。だからこそ、必死に追いかける、それが私の仕事であると考えている。
ところで、
COOLが一生懸命バド・パウエルのまねをして、彼のスタイルをできるだけ踏襲して、一枚のアルバムを作ったとしよう。
タイトルはこうつける、「THE SOUND OF COOL」 バド・パウエルの名前はいっさい出さない。まあこんなアルバムを作ったとしようじゃないか。作品はどう聴いてもバド・パウエルで、けっこう見事にバドの核心にせまったプレーができていて、スイングする作品であったとしようじゃないか。
まあそれがおりに触れてのジャズ・ブームにのって、これがミリオン・セラーとなり、CMにもかっこよく起用され世間の話題もさらい、芸術選奨の美術部門で文部科学大臣賞を受賞しちゃったとしようじゃないか。そうなっちゃった時にね、
誰かが、「あれは盗作だ!」と言ったとする。
盗作だどうのと言う前に、もう明らかにバドの影響を受けた作品だ。そんなことは本人も重々承知、COOLのところにマスコミ殺到、マイクを向けられたCOOLはインタビューに答える。「バド・パウエルの影響を受けた作品であるのは全く自明のとおりです。むしろ彼の感動を現代において私が伝えたかった。彼に本質的な意味合いにおいて似ているといわれることは私にとって光栄なことです。クロード・ウイリアムソン氏にも、秋吉敏子さんにもできなかったことを私が成し遂げることができたとするなら、それは私にとって名誉なことであると思います。今回の芸術選奨で文部科学大臣賞の選考委員の方は私に賞を与えたというより、むしろ故バド・パウエル氏を評価したということかもしれませんね・・・。」
と私ははっきりと言い切る。もめない。絶対にもめることはないと思う。実際秋吉さんなんか自他共に認めるバド・フリークだけど何か叙勲されたらしいけどなにももめることは無かったぜ。
・・・・・・
さて、
今回の問題の争点は、二人のアーティストではない。この二人をとりざたして盗作か否かなんて芸術に対し無理解はなはだしい議論をしているから、問題の本質がわからなくなる。
議論すべきは、芸術選奨の審査員だ。
彼らはきっぱりとこう答えるべきなのだ。「和田氏の作品がアルベルト・スギ氏の作品に似ていることは我々は当然熟知しておりました。和田氏の作品からは、スギ氏の作品に溢れんばかりの敬愛 の念をもつ彼の思いがストレートに伝わってくる。我々審査員の評価は和田氏自信のオリジナリティーということはもちろんですが、むしろ彼のイタリア現代美術展の協会長を務めるスギ氏に対する敬愛の念、それはミケランジェロやダ・ビンチを輩出したイタリア美術界への敬愛の念そのものに対してであります。我々は彼に文部科学大臣賞を与えることにより、わが国日本は現代美術の底流を成すイタリア美術界を大いに称え、永遠に敬意を表するものであります・・・。」
と答えればそれでいい、きっぱりだ。そして実際そういうことでなくてはいけない。
・・・さて
まさか、まさかだが、
審査員がね、
イタリア現代美術展の協会長を務めるアルベルト・スギ氏の作品を知らなかった、とか、
似ているなんて、思いもしなかった、とか、
今回、似ているということが判明しましたので、文部科学大臣賞取り下げます、とか、
審査員は美術に関してド・ド・ド素人の集まりですなんてことをさ、世界に対してさらけ出すようなマネをしたなら、日本の美術界の権威はもう地の底だ。
日本の芸術界を代表する文部科学大臣は芸術ド・ド・ド素人ですなんてことを表明したらもう日本人は世界の笑いものだ。はあ瓶底めがねかけてますもんで、絵がもう見難くてしょんねえもんでまあ着ている服はぜーんぶ中国で作って靴は東南アジアで安上がりのもんですがそこそこですよ、まあイタリアの方はほんといい服着ていらっしゃいますねえ我々はケイタイでゲームとかこれからはこーんなちっちゃな画面でTVも見えるんですよすごいでしょだから絵画とかぜーんぜんわかんねえずらよ・・・なんてもう国家の品格もなにもあったもんじゃない。似ていることのなにが悪いのだ、敬意を表しているから故なのだ、それを盗作とはなにごとだ、とただそれだけのことを作者本人ではなくなぜ国家が発言できないか、問題の争点はそこに絞らねばいけない。
・・・
マスコミよ・・・
焦点ずれているぞ、いつものことだけど。
盗作だなんだ人の好奇心をそそるようなことばかり報道して、核心をそらすのもいいかげんにしてくれ。これは国家の品格にかかわる重要な問題なのだ。
日本人にとって芸術とは何か、今問われているのだ。君たちは一体それをどう考えているのだ。
えーと日本は初戦、オーストラリア戦は12日(月)の22時ね・・・
なるほど・・・
盛り上がるだろうねーそりゃ。
まあCOOLはさ、仕事しているからね。シェーカー振ってさ。
そりゃーそうさ盛上がろうがなんだろうが仕事は仕事さ。
・・・
いやーさあ、だから・・・
・・・
街には人でるのかね、こん時。
クロアチア戦は日曜か、セーフだぜ定休日だぜ。俺も家で盛り上がっちゃうもんね・・・。
・・・いやーさあ、だから、
俺をDOTCOOLでひとりぼっちにしないでよ、たのむからさあ、
ワールドカップの悪口でもなんでもいいから話しようよ・・・サッカー嫌いな人だっているでしょ・・・こういう時こそお友達でしょ・・・
まってるよ。