ベルナール・シャトレ 著    星根 浩二 訳

 この物語は私の大好きな「ベルサイユのばら」「ラ・セーヌの星」をモチーフに、それら優れた2作品に対する一種のオマージュとして書かれていますが、関係者から指摘があった場合は直ちに訂正または削除いたしますのでお許しください。


ベルサイユの星主題歌
「ラ・セーヌは美しく」

作詞作曲 小林亜畳
歌 堀江美都江と東京少女少年合唱団

飛べ飛べ流れ星、咲いている花ならば
ただ風を受けながら、輝く暁の星になる
(アロンジー!)
夜の暗さの定めに生まれた
鮮やかに剣を振るうのだ
(オー、ラムール!)
朝が来れば気高く咲いて
(エトワール!)
バラはバラは美しきラ・セーヌの星
セリフ「文句があるのならいつでもベルサイユへいらっしゃい」

©ボニーキャニオン、日本アニーメション、東京12チャン



第1回

 身を切る夜風に耐えながら腹を減らした痩せイヌが、微かな希望を託して民家の勝手口を訪れた。期待は見事に裏切られ、痩せイヌは騒ぎ立てる腹の虫をなだめるように、か細く尾を引く遠吠えを一つ。
 痩せイヌが見上げた遥か彼方、天蓋を覆う暗幕には数多の銀の菱が撒かれ、目を凝らせば居場所の定まらぬ幾つかが、天を追われて墜ちゆく様が見える。更にもう一条。しかし今度は鋼の音を伴っている。妙である。そして更に……。
 霧煙る薄暗がりの先、セーヌを渡す橋の上に目を凝らしていただきたい。朧ろに浮かぶ人影がふたつ、白刃を交えているのが見えるではないか。光と影が乱舞して、一方が払えば他方は薙ぎ、他方が翻れば一方は躱す。激しいながらも美しく、殺伐としながらも優雅であった。ともすれば剣舞と見紛うこの光景を、雲間の月がそっと覗き見た。
月光に浮かぶ二剣士のうち、一人は仮面をしているが明らかに女、もう一人も男装ながら女とおぼしい。それぞれに端整で気品に満ち、星にも花にも例え得る容貌であった。
 このような美女が二人、こんな時間に街中で剣を交えていることについて、訝しく思う方も多いだろう。ことの経緯については勿論おって説明しよう。だが、急ぐ必要はない。それよりも先ず、この決闘の行く先を見定めようではないか。
 二剣士は体力、技量、覇気ともに極めて均衡していた。だからといってそれが人並みという訳では断じてない。それどころか、おそらく一方はこの国一番の使い手であろう。
 丁々発止。斬っては結び、五合、十合と打ち合うごとに鬼気迫り、二十合、三十合と果てしない。あまりの激しさに月が思わず目を外らしたその瞬間、一方の影の手元から剣が弾かれ、回転しながら弧を描き、彼方の闇に吸い込まれた。
 勝負あった!



第2回

 敵陣に躍り込み大砲の口を塞ぐ勇者はいるかも知れないが、市場で立ち話に興じる女どもの口を塞げる者はいない。今日も今日とてかしましく、天気の話しに始まって、亭主の愚痴、パンの値段が高いの安いの、服の柄がどうの、近所の後家さんがこうのと、およそとりとめもない。ところがその日の昼下がり、彼女たちに奇跡が起こった。一頭の白馬が市場を横切り、彼女たちの口を塞いだ。いや、正確には話しを中断させただけで、塞いだとはいえない。彼女たちはポカンと口を開けたまま、その白馬と鞍上の人物に目を奪われた。
 黄金を流し込んだような金髪、大理石から削りだしたようなきめの細かい肌、空から切り取ったような蒼い瞳と、一部の隙もなく着込んだ白い軍服。まるで神話の世界からそのまま抜け出たようだ。この美貌の乗り手が街を行くとき、女達は話をやめ、男達も手を休め、乳飲み子さえも泣きやんで、その後ろ姿が見えなくなるまで見送るのだ。そして姿が見えなくなると、女達は前にもまして声高に、新たな話題で持ちきりとなる。
 「オスカル。おい、オスカルったら!」
白馬の乗り手の後ろから、長い黒髪の青年が追いすがってきた。オスカルと呼ばれた人物は手綱を引き、馬の歩みを止めた。
「どうした、アンドレ。何か事件か」
振り向きざまに黄金の髪が風をはらんでたなびいた。
 フランス軍近衛連隊隊長、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。父であるジャルジェ伯は代々王家に仕える家柄にありながら男子に恵まれず、ついに末娘のオスカルを男として育てることを決意した。それが二十数年前である。以来オスカルは、刺繍針の代わりに剣を、人形の代わりに馬を、ドレスの替わりに軍服を与えられ、ジャルジェ家の跡取りとして恥じぬよう厳しく育てられた。そのような生い立ちと彼女自身の努力もあって、オスカルは、剣でも馬でも武勲でも、並の男ではとうていかなわぬ域に達していた。
 立ち止まったオスカルにようやく追いついた、オスカルの幼なじみである馬丁のアンドレは、荒い息を整えながらオスカルを怒鳴りつけた。
「事件も事件、大事件だ。今、パリじゃあ貴族を狙った強盗だの暗殺だのが大はやり。なのに我らが王妃様付きの近衛隊長が護衛も付けずに街をうろついてるときた。やい、オスカル。おまえ一体どうゆうつもりなんだ!」
「おいおい、アンドレ。そんなにがなり立てないでくれよ。わたしだって自分の身くらい自分で守れるさ」
そう言いながらオスカルは腰に吊したサーベルの柄をチョンと叩いた。
「ああ、確かに相手が正面から剣を抜いて襲ってきたら、たとえ十人、二十人で押し寄せたところでおまえにはかなわないだろうさ。しかしな、オスカル、もしあの家の二階の窓から銃でお前を狙っていたら、一体どうするつもりだ」
アンドレは指でピストルの形を作り、片目をつぶってオスカルを撃つ真似をした。
「その時はアンドレ……お前がいてくれる」
オスカルの深空色の瞳をうっかり覗き込んでしまったアンドレは、禁じ得ない胸の高鳴りに一瞬言葉を失った。
「チェッ。やめだ、やめだ。ばかばかしい。誰がお前の心配なんてしてやるもんか」
自分の感情の決まりの悪さを紛らわせるように、アンドレはわざと大げさに悪態をついた。
「フフフッ……」
オスカルの妙な含み笑いに気を悪くしたアンドレが、何か一言言い返そうと口を開きかけたとき、オスカルが街路の向こうを指さした。指し示された先の屋敷から、役人達が家財道具を持ち出しているのが見える。
「アンドレ、あれは?」
「ああ、あれは確かド・フォルジュ候の屋敷だ。先代が亡くなった途端にお家取り潰しとはね」
「フォルジュ家といえばそこそこの名家、確か先王と共に留学もしていて王家には覚えめでたいはず」
「それが、どうやら息子ときたらとんだ変わり者で、市民に混じって酒を飲み交わしては国家に対して穏当ならざる風評を流していたらしい。そいつがとうとう王様のお耳にまで届いちまったって訳だ」
「それは確かなことなのか」
「さあね。でもド・フォルジュ候もその息子も、もともとクロジュール伯やオルレアン公といった連中と仲が悪かったようだし、おおかたそっちの筋から密告したヤツが出たんだろう。
 それに、ただいま国庫は火の車。有力な貴族の一つや二つ取りつぶして借金の返済に充てようと思っていたら、渡りに船とばかりにこんな噂が飛び込んで来たんだ。大臣連中だってほっとかないさ」
オスカルの目が一瞬厳しくなったが、アンドレは気づかぬ振りをした。
「で、フォルジュ家の人たちはどうなった」
オスカルは気を取り直して訊いた。
「新当主だったロベール・ド・フォルジュはパリ追放だ。それから、確かロベールには先代が養子にしたばかりの妹がいたな。可哀想に、どこでどうしているのやら」
 オスカルとアンドレが屋敷を眺めているその後ろの方で、同じように屋敷を眺める小さい影があった。
「たいへんだ。早くシモーヌに知らせなきゃ」
小さい影はサッと路地裏に入り込み、あっと言う間に見えなくなった。



第3回

 パリ郊外の小高い丘にそそり立つ、乙女たちの砦、パンテモン修道院。数百年の歴史を経てなお堅牢な石壁の中で、今日も修道女たちの祈りがこだまする。祈りを終えた修道女たちの列が、一糸乱れぬ歩みで礼拝堂から現れた。その列の最後尾、他の修道女たちから一歩遅れたところにその少女はいた。
 シモーヌ・ド・フォルジュ。彼女がこの修道院の門をくぐってから程なく半年が経とうとしている。ここに至る彼女の人生は、まさに波乱に満ちていた。
 シモーヌはパリのシテ島で花屋を営むロラン夫妻に育てられた。当時、彼女にはミランという恋仲の青年がいた。思えば、彼が反逆罪で手配され、シモーヌを残して新大陸へ逃亡したところから、彼女の人生の歯車が狂いだしたのかも知れない。
 その後、王妃マリー・アントワネットとデュ・バリー夫人の勢力争いの中、デュ・バリー夫人のドレスに縫いつける大量の黒バラをベルサイユ宮へ運ぶロラン夫妻の馬車が、暴走したアントワネット派の貴族の手によって谷底に落とされるという事件が起こった。この事件でロラン夫妻は亡くなり、シモーヌには黒バラを仕入れた莫大な借金と、「お前はわたしたちの本当の娘ではない」というロラン夫人の謎の遺言だけが残された。
 幸運なことに、シモーヌはロラン花店の得意先であったド・フォルジュ候爵に養女として引き取られ、名前もシモーヌ・ロランからシモーヌ・ド・フォルジュへと改められた。借金も精算されて、これでようやく幸せな生活が取り戻せたと思った矢先、オルレアン公の策略にかかってド・フォルジュ候は憤死、その後間をおかず、義兄ロベール・ド・フォルジュはパリ引き払いを命じられた。フォルジュ家は事実上取り潰され、残されたシモーヌはこのパンテモン修道院に押し込まれたのである。
 そんな紆余曲折を経ながらも、彼女は常に明るく、笑顔を絶やさなかった。冬の後には必ず春が来るということを、花売りの娘は知っているからだ。だが、それがいつになるのかは誰にも分からなかった。
 シモーヌが歩み行く足下の下生えから押し殺した声が呼びかけた。
「シモーヌ……。シモーヌ」
シモーヌが覗き込むと、薄汚れた服を来た、およそこの場にふさわしからぬ少年が隠れていた。
「まあ、ダントン!」
シモーヌは自分の声の思わぬ大きさに慌てて辺りを見回した。ダントンと呼ばれた少年も人差し指を口に当てている。ダントン少年は、シモーヌがシテ島時代から弟のように世話をしていた孤児である。
「どうしたの、ダントン。昼間からこんな所に来て。見つかったらどうするつもりなの」
「ヘッヘ、おいらのことなら大丈夫」
ダントンは鼻の下を指でこすった。
「それよりシモーヌ大変だよ。フォルジュの屋敷に役人達が入っていってさ、家具やら彫刻やらみんな持ち出してったんだ」
「エッ」
 いつかはそうなると予想していたこととはいえ、いざ知らせを聞くとシモーヌの声は震えた。シモーヌの心の奥に、あの楽しかったフォルジュ家での日々が蘇った。暖炉の前の揺り椅子で微笑むフォルジュ候、読み書きや行儀作法を教えてくれたロベール、親切な執事さんや気のいいお手伝いさん達、それら全ては過去のものとなってしまったのだ。
「シモーヌ、このままにしていいのかい」
「でも……、一体どうすれば……」
「フォルジュの屋敷をどうしたらいいかは分からないけどさ、おいら面白いこと考えたんだ。一ヶ月後オルレアンの別荘で舞踏会が開かれるんだ。ここで騒動を起こせばオルレアンは赤っ恥さ」
「そうね」
「さっそく今夜にでも下見にいこうぜ」
そのとき、宿舎の方からシモーヌを呼ぶ声がした。
「シモーヌ」
「ええ、ミシェール。今行くわ」
シモーヌのルームメイトのミシェールだ。走り去るシモーヌの背にダントンは「今夜だよ」と念を押した。
「どうかいたしまして、シモーヌ」
「いえ、あそこのニレの木陰に可愛らしいブタクサが咲いておりまして」
「まあ、シモーヌは優しいのね」
二人の修道女がいなくなった後、一人残されたダントン少年はつぶやいた。
「おいらがブタクサだって?」

 その夜、オルレアン公の別荘は上を下への大騒ぎであった。たくさんの兵隊が銃やサーベルを抱え、右往左往している。
「どうしよう、シモーヌ。見つかっちゃったよ」
「ダントンは西の門から逃げなさい。わたしはみんなを引きつけるから」
「わかった、シモーヌ。気を付けて」
ダントンが西に駆け出すのを見送って、シモーヌはやにわに屋敷のバルコニーに飛び上がった。
「いたぞ、あそこだ」
「ついに追いつめたぞ、何者だ!」
兵士達の掲げた松明がバルコニーの人物を照らし出す。
「アハハハハ、ラ・セーヌの星さ」
身体にぴったりとした短衣と星の飾りがついたベレー帽、蜂蜜色の髪に縁取られた顔を赤い仮面で覆っている。ロベールに仕込まれた剣と軽業でパリの義賊を気取る女剣士、これこそがシモーヌの第二の顔、ラ・セーヌの星なのだ。
ラ・セーヌの星はバルコニーから飛び出し、詰め寄る兵士の頭上でトンボをうって庭に植えられた杉の梢に降り立った。そこからさらに街路に面した塀の上にジャンプする。
「アハハハハ。兵士諸君、オ・ルヴォワール(さようなら)」
青いマントをなびかせて、ラ・セーヌの星は闇の中へ消えるのだった。
「ふぅ。まったく、シモーヌもよくやるよ」
この台詞はダントンの口癖となっていた。



 第4回

 副隊長ジェローデルを従えてベルサイユ宮の回廊を足早に進むオスカルの行く手を見知った男が遮った。
「やあ、オスカル」
「フェルゼン!」
パッと輝いたオスカルの顔が、次の瞬間険しく曇った。
「なぜ戻った、フェルゼン」
相手の視線を避けながら、真横に立つかたちでオスカルはフェルゼンを小声で問いつめた。
「安心しろ。アントワネット様にお会いするつもりはない」
 スウェーデン太子ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンとフランス王妃マリー・アントワネットとの禁じられたロマンスの噂は、フランス宮廷内に知らぬ者もないほどまことしやかに囁かれている。しかも、悪いことにこの噂は紛れもない事実であり、宮廷内にいる限り、フェルゼンもアントワネットもこれを否定できない。そこで、王妃を守る唯一残された道として、フェルゼンは逃げるようにフランスを去っていたのだ。
「近くへ来る用があったのでついでにお前の顔でも見ようと屋敷に寄ったら出仕中だと聞かされたのでね。それでちょっとベルサイユを覗いてみただけだ」
この自己弁護ともいえる言い訳は、明らかにある偶然を期待してのことだと気づいたオスカルだが、フェルゼンの心情を察してそれ以上は問いつめないことにした。
「わかった、今夜は空けておこう」
「すまん、オスカル。わたしもそんなにのんびりしていられないのだ。今夜にはパリを発たねばならなくてね」
「そんなに早くか!」
オスカルは大いに失望した自分に少し驚いた。フェルゼンに対する気持ちについて、オスカルは自分自身を大いに偽っているし、心の中でそのことを疑問に思う部分があったとしても、それを頑なに否定している。
「そうか、それは残念だ」
オスカルは平静を取り戻して言った。
「それにしてもオスカル、わたしがしばらく留守にしている間にパリもずいぶん物騒になったな」
「ああ、黒い騎士だの黒いチューリップだのといった連中か。話しには聞いているが、まあ、悪徳貴族が市民からかすめ取った金品を市民の手に返してやるなんて、なかなか粋じゃないか」
「ほう、ではまだお前の耳には届いていないのか」
「何がだ」
「昨晩、オルレアン公の別荘にラ・セーヌの星を名乗る賊が押し入ったそうだ。幸い盗まれた物も無く、怪我人も出なかったようだが、問題はその人物の風体だ。仮面で顔は知れないが、恐ろしく腕の立つ金髪の女剣士など、いくらパリに人が多いと言っても二人といるとは思えない、と考える者も多い」
「わたしがラ・セーヌの星だというのか? ハハハ、これはおかしい」
「お前は笑っているが、事態はそれほど楽観できないようだぞ。
 オルレアン公にこっぴどく叱られたパリ警備隊長のザラールとかいう男が、お前を名指しにして身辺調査をすると言い出したそうだ」
「ザラールには可哀想だがわたしには後ろ暗いところなど何もない。調べるなら好きなだけ調べるがいいさ」
「わたしの取り越し苦労なら良いが、とにかく用心にこしたことはない。こいつはわたしからの警告だ」
「わかった。心配には及ばぬと思うが、いちおう用心しておこう」
軽い挨拶をしてフェルゼンは立ち去った。
「フェルゼンも意外に心配性だな。わたしがザラールなど恐れるものか」
「お言葉ですが、隊長」
これまで傍らでじっと黙っていたジェローデルが口を開いた。
「隊長はよくそうやって降りかかる火の粉を払おうともなさいませんが、今回は少し勝手が違うようです」
「と言うと?」
「隊長もご存じだとは思いますが、ザラールという男、その野獣のような面相にも似て野獣のごとき残忍さを持った人物と聞き及びます。しかしこの男の最も恐るべき点は、その野獣の心に鋭い知性が宿っているところにあります。平民出身の男が、一体いかなる手管を用いてパリ警備隊長の地位に登りつめたかご想像下さい。
 わたしが考えますに、この男が隊長に目を付けたとなれば、まず隊長のお身内、おそらくはご母堂に災禍が及ぶかと」
「母上に? ウヌヌ、ザラールめ。母上に指一本でも触れてみろ。ただではおかんぞ」
「そのようなことにならぬよう、我々の手でラ・セーヌの星を捕まえるというのはいかがでしょう」
「なるほど。しかしラ・セーヌの星退治に近衛隊を動かしたとなると明らかに越権行為だ。ここは一つわたしの手でラ・セーヌの星を捕らえるとしよう。
 それにしてもザラールめ、わたしをラ・セーヌの星だと考えるなんて、間抜けな奴だ」
しかし、間抜けな奴はザラール一人ではなかった。



 第5回

 マクシミリアン・ド・ロベスピエール(一七五八〜九四)は、当時北フランスのアラスで弁護士を営んでいた。幼くして両親を亡くした彼は、奨学金を得てルイ=ル=グラン学院を優等で卒業した。貧困の苦しみを身を持って知っていた彼は、故郷に帰って困窮者を救うための法律活動をはじめたのだった。そのため、彼の元には多くの憂国の徒が集っていた。
 その晩もロベスピエールは故郷アラスの地下サロンに仲間を集めて講演会を開いた。
「いやぁ、先生のご明察、感服いたしました」
「いつもながら先生は遥か先の先まで見通していらっしゃる」
講演の後、ロベスピエールのまわりに群がる自称「知識人」たちは、口々に彼を賞賛し、握手を求め、ワインを注いでいく。その一人ひとりを注意深く観察していたロベスピエールは、やがて小さいため息をついた。
(なんともはや、嘆かわしい。我がフランスに人はいないのか。あいつとあいつは金の匂いを嗅ぎつけた山師。あそこの三人は名誉のみを欲する野心家。あいつは単に流行りものに飛びついただけだし、今度来た奴は貴族のスパイか。これだけ人が集まっても、いざというとき頼りになりそうなのはほんの一握りだけだ。フランス市民の目覚めはまだまだ先だな)
 そんなことを考えていたロベスピエールは、突然差し向けられた問いかけに取り乱しながら我に返った。
「先生はいかがお考えでしょうか」
「え、ああ……。すまん。ちょっと別のことを考えていてね、聞き逃してしまったようだ」
「先生らしくありませんねぇ。少しワインが過ぎましたかな」
「ハハハ、あまり虐めないでくれたまえよ。何の話しだい」
ロベスピエールは今さら威厳を取り繕う愚を犯さず、人間らしさをアピールすることでその場を凌いだ。
「いえね、昨晩オルレアン公の別荘に忍び込んだ英雄のことでして」
「昨今貴族に弓引く英雄は数あれど、オルレアン公ほどの大貴族の屋敷に忍び込んだのはこれが初めて。しかも、それが女性であるとは……」
「オホン。小生が愚考いたしまするに、このような快挙が女性の手によってなされたということは、とりもなおさず貴族の弾圧に耐えかねた市民達の運動が、女子供まで含めたかたちで広く浸透しはじめたというもので……」
取り巻きどもは口々に勝手な意見を出しているが、当のロベスピエールは何か考え込んでしまったようだ。やがてそれに気づいたのか、皆は黙ってロベスピエールの発言を待った。
「……正直に言うとわたしの意見は、皆さんのそれとはいささか異なっているようだ」
ロベスピエールは意識して重々しい口調で話し始めた。
「どれほど貴族が憎いといっても無法を働いて良いはずがない。我々は暴力ではなく話し合いによって自由を手に入れるべきなのだ。英雄気取りの人物が無思慮に暴れ回れば、貴族達の警戒心は強まり、我々の計画が遅滞する直接的な要因となるであろう」
ロベスピエールが言い終わると、再び取り巻きどもが騒ぎ出した。
「はい、まったくその通りで、いやはや恐れ入りました」
「先生は我々の心中を、常に的確なお言葉で表現なさる」
「オホン。小生が申したかったのもまさにその一点につきまする」
など、何とも節操がない。ところが、ロベスピエールが「何か手だてはないものか」などと言うと、突然辺りは水を打ったように静まり返り、皆は居心地悪そうにモゾモゾと落ち着かない。周囲を見回すロベスピエールだが、誰もが目を合わせないように顔を伏せたりあらぬ方を見たりしている。
「クククッ。その件なら私にお任せを」
その時、戸口の影の暗闇から、忍び笑いの混じった癇に障る高い声が聞こえた。
「クククッ。ラ・セーヌの星の件、私にいささか心当たりがございます」
「君か。うむ、任せた」
ロベスピエールは躊躇せず命じた。気配が消える瞬間、戸口の暗闇に酷薄な笑いを張り付けた病的に白い顔が一瞬浮かんだように見えた。
「せ、先生、あんな奴に任せてよろしいのですか」
「ペンにはペンの、剣には剣の役目があろう。サン・ジュスト君はある特定の意味においてはこの上なく信頼できる人物なのだ。
 市民が市民のための社会を築くためには、それぞれがそれぞれの役割を果たさなくてはならないとわたしは考える。彼はそれを地でいく男だ。諸君に与えられた役割が何であるかも早く教えていただきたいものだ」
傲慢とも取れるこの発言に聴衆は鼻白らみ、その日のサロンはそこでお開きとなった。
 一人残されたロベスピエールは再び小さいため息をついたが、今度は開放感によるものだった。



 第6回

 ジトジトした雨がコートの中に染み込み、男は下着までずぶぬれになった。
(朝はあんなに晴れていたのに、何てこった)
男は足を止めて恨みがましく空を見上げた。やがて再び重い足取りで歩き始めた。男の後方から轍をかき分ける音がした。男はやれやれと肩をすくめてから、道を逸れて草むらに一歩踏み込んだ。後ろから二頭立ての豪華な馬車が来て男の脇を通り過ぎて行く。馬車は追い抜きざまに男のズボンの裾にドロはねを飛ばした。それでも水浸しの長旅で疲れてきっていた男は、普段の彼らしくもなく「バカヤロー」と比較的おとなしい悪態に留まった。にもかかわらず馬車は30メートルほど先で止まった。
(おいおい、こんなところで貴族とやり合うなんて御免だぜ)
男が立ち止まって見ていると、馬車の中の人物が作りの良いコートの襟を立てて小走りにやってきた。
「きみ、わたしの馬車が失礼したね。よかったらそこまで送るよ」
「いや、別にそんな」
「この雨で難儀してたんだろ。いいから乗れよ」
馬車の男は貴族らしからぬ気さくな物腰で、ずぶぬれの男をなかば強引に馬車に乗せた。
「悪かったね。ズボンを汚してしまって。お詫びにそこのワインを自由にやってくれよ」
高級ワインの香りをかいでずぶぬれの男は機嫌を直した。
「わたしはロベール・ド……マントノンというんだ。ロベールと呼んでくれ」
馬車の男が言った。
「俺はアラン、アラン・ド・ソワソンだ」
ワインを飲んで人心地ついたアランはいつもの人をくった口調を取り戻した。
「それはいいけどよ、俺はパリに行く途中だったんだが、一体どこへ連れていくつもりだ」
「それは好都合。わたしもパリへ帰るんだよ。ちょっと人に会いにね」
それを聞いたアランは下卑た口笛を吹いてから言った。
「ヘッヘッヘ、女かい? まあ気を付けるこった。イイ女ってのはたいてい悪い女と相場が決まってんだ」
ロベールは少々困った顔で答えた。
「いや、違うんだ。まあ女には違いないんだが、実は妹なんだ。ちょっと面倒に巻き込まれたらしくてね」
「へぇ、あんたにも妹がいるのかい。実は俺にも妹がいてね。ディアンヌって名前なんだが、こいつが俺とは正反対で気だてが優しくて器量好し、おまけにたいした働きモンときてる」
「わたしの妹、シモーヌもそうさ。お互い親バカならぬ兄バカかな」
「違いねえ」
意気投合した二人はしばし談笑した。
 馬車はガタゴト揺れ、雨は一向に止む気配をみせない。
「親父がくたばっちまってお袋とディアンヌは田舎で二人暮らし。だから二人にパリへ出てきて俺と暮らすように勧めたんだが、お袋のやつ親父の墓のそばにいたいって言い張って聞かないんだ。せっかくボーナスが出たんで二人の部屋の敷金くらい出せるっていうのによ」
「まあ、お母さんの気持ちもわかってやれよ。長年暮らした土地というのはなかなか離れがたいものさ」
そう言ってロベールは馬車の外に遠い視線を送った。彼はしばらくそうしてから向き直って続けた。
「それはそうと、たいした羽振りじゃないか。君は何の仕事をしてるんだい」
「ああ、俺は衛兵隊さ。B中隊に所属してんだ」
衛兵隊と聞いて一瞬ロベールの体が固くなった。アランは気づかぬ様子で続けた。
「こないだ俺が夜警に立ったとき、怪しい男がいたんで取り押さえたんだ。そしたらそいつがパリを追放されたはずの悪徳貴族だったって訳。おかげで俺はご褒美に休暇とボーナスを頂いたって次第よ。
 こういう偶然ってのは続くもんかね。ロベール・ド・マントノン、いや、ロベール・ド・フォルジュ」
馬車の中に殺気が充満する。
「何故それを」
「馬車に乗ったときからずっとどっかで見た顔だとは思っていたんだ。そしたらあんたは長年暮らした土地ってのは離れがたいと言い出した。
 実はね、あんたが追放される原因となった事件の晩、俺達B中隊もあんたの屋敷を包囲してたんだ。その時チラッとあんたの顔を見た。そのことはそれっきり忘れちまってたんだが、ロベールという名前、妹のシモーヌ、そして望郷的な台詞。これらが結びついてたった今ピーンときたって訳さ」
アランは首を巡らせて窓の外を眺めた。
「けど、実際あんたの正体なんて興味ないね。とにかく今は休暇中なんだ。仕事の話しは抜きにしたいね。だからあんたも、そんな物騒な物から手を離しなよ」
アランに見破られ、マントノンならぬフォルジュは、外套の懐に忍ばせていた拳銃から手を離した。
「負けたよ。君はたいした男だ。君のような男に出会ったのがわたしの不運。わたしはパリには寄らずここから引き返すとしよう」
パリの手前の分かれ道で馬車は止まり、アランは馬車から降ろされた。
「好きにしたらいいさ。でも、あんたの妹がどうなってもいいのかい。俺なら多少の危険は冒しても会いに行くがね。
 俺はあんたのことを誰かに喋るつもりはねえ。お互い妹思いの兄バカ同士、今日のところは友人として別れようや」
馬車に背を向け、アランはパリへ向かう道を歩きだす。雨上がりの夕日を背景に、彼は振り向きもせずに手を振った。



 第8回

 オルレアン公の別荘はベルサイユにほど近い沼沢地を埋め立てて作られ、庭園を含めた総面積はゆうに100万平米を越える。屋敷部分は6つの広間と116もの客間をはじめ、控え室、小劇場、バー、厨房などを含めるといったいいくつ部屋があるのかオルレアン公自身も正確な数は分からないほどだ。使用人も常時300人を越え、まさにプチ・ベルサイユといった壮大なものであった。
 その日は昼過ぎから貴族の馬車の行列が遥かパリから続いていた。これから三日連続で続くオルレアン公の舞踏会にはフランスの名のある貴族が軒並み招待されており、中流の貴族達の間では、招待されることが貴族社会内における自分の地位のバロメーターのように思われていた。馬車の列は夜になっても一向に減る様子を見せない。
 「すごい数の馬車だよ、シモーヌ。一体どこからこんなにたくさんの貴族が出てきたのかね」
シモーヌとダントンはオルレアン公の別荘へ続く道を見下ろす丘の上に立って、集まりゆく貴族達の馬車を見下ろしていた。
「ねえ、ダントン」
シモーヌは心配そうな声で傍らの少年に言った。
「こんなにたくさんの貴族が集まっているのよ。騒ぎを起こすと言っても一体どうしたらいいのか……」
「何言ってんだい。今やフランス中どこでだって、ラ・セーヌの星が現れたっていうだけで大騒ぎさ。何も心配要らないよ」
「それもそうね」
「さあ、そろそろ出番だ。今日は警備も厳重そうだし、あまり無茶しないように気を付けてよ」
「心配ないって」
ラ・セーヌの星となったシモーヌは白馬を駆ってオルレアン公の別荘へ向かった。

 一方、オルレアン公の別荘では既に宴たけなわといった様子で、集まった貴族達は広大な広間のあちこちでダンスに興じたり、ワインに手を延ばしたり、お喋りに花を咲かせたりしていた。屋敷の警備の任に当たっているのはザラール率いるパリ警備隊だが、国王の到着に先駆けて近衛連隊も詰めている。隊長のオスカルは招待客の一人として、不審な人物はいないか、危険物は持ち込まれていないかと、広間の隅々にまで目を光らせている。舞踏会の招待客とはいえ、職務中でもあるオスカルはいつもの凛々しい軍服姿で、若いご婦人達の目を釘付けにして離さない。もっとも、職務を離れた場に姿を見せるときでもたいてい軍服で、ドレス姿などついぞお目にかけた事はないオスカルではあったが。
「フランス国王ルイ一六世陛下ご到着」
国王の到着を告げる声に一同は静まり返った。広間の両開きの扉が音もなく開き、ルイ一六世が現れると集まった貴族は深い礼と疎らな拍手で主人を迎えた。
「フランス王后マリー・アントワネット陛下ご到着」
王妃の到着が告げられると一同はさざめきたち、開いたたままの扉からアントワネットが姿を見せると、集まった貴族は感嘆と喝采で彼女を迎えた。
 彼女は美しかった。ドレスも指輪も首飾りもどれも一級品で身を固め、一流の髪結いの手による奇抜なヘアスタイルもさることながら、何より王妃自身が超一級の美しさを持っていた。集まった貴族は男であれ女であれ、彼女の美しさの虜となっていた。彼女の政敵といえどもその美しさを否定することはなかった。オスカルはそんな王妃が誇らしかった。
 オスカルの視線に気づいたアントワネットは他の貴族に先駆けて声をかけた。
「今夜は楽しみましょう。オスカル」
「ご存分に、アントワネット様」
これは誰もがうらやむ名誉なことであり、オスカル自身も歓喜に震え、しばし呆然と王妃を見つめた。
「オスカル様」
オスカルは自分を呼ぶ声にハッと我に返った。
「ああ、ロザリー。久しぶりだな。ポリニャック伯夫人と一緒かい」
「いえ、母は……体調が思わしくないようで」
 ロザリーは以前オスカルの家にいたことがある。貴族の私生児として下町で育てられた彼女は、育ての母の仇を捜してジャルジェ家に迷い込んだところをオスカルに保護されていた。その後、育ての母の仇が他ならぬ生みの母、ポリニャック夫人だった事が判った。一時はひどく恨んだものの、ロザリーの妹でもある娘のシャルロットを失い悲嘆にくれるポリニャックを思い、彼女のもとへ身を寄せたのだ。ロザリーの心情は察するに忍びない。
 落ち込んだ表情を見せたロザリーに気を使い、オスカルは優しく声をかけた。
「せっかくのパーティーだ。職務中とはいえ少しは羽目を外しても良いだろう。久しぶりに踊ってくれるかい、わたしの春風」
「ええ、喜んで」
ロザリーの顔がパッと明るくなった。
 オスカルとロザリーが華麗に踊りだすと貴族達の目は二人に集中し、オスカルファンの娘が何人も卒倒した。三曲ほど踊った後、ロザリーに別れを告げたオスカルの周りを「次はわたしよ」と何十人もの娘が取り囲んだ。オスカルは娘達の海をかき分け、這々の体で庭へ逃げ出さなくてはならなかった。
「ふぅ、えらい目にあった」
オスカルはようやく安堵して、少し夜風に当たろうと壮麗な庭園を歩き出した。
 オスカルの目の隅で何かがキラリと光った。
「何者!」
オスカルの行く手の木立から痩せた人影がゆらりと出てきた。
「クククッ、近衛隊長オスカル・フランソワとお見受けする」
月影に照らされたその顔は不気味な白い仮面で覆われていた。その右手には拳銃が握られている。
「ならばどうする」
オスカルは慎重に間合いを取りながら気丈に問いつめた。
「クククッ、オスカル、いや、ラ・セーヌの星……お命頂戴!」
 仮面の男の手の中で拳銃が凶悪な光を放った、まさにその時……



 第8回

 「ラ・セーヌの星だー。出会え、出会え」
屋敷の方から声がした。
「な、なに?」
仮面の男の気が逸れた一瞬、オスカルは疾風をはらんで走り寄り、手刀の一閃で男の右手から銃をたたき落とした。
「クッ!」
仮面の男は一瞬ひるんだが、すぐに体勢を立て直し、飛びすさって木立の向こうへ走り去った。オスカルは追おうかとも思ったが、仮面の男の狙いは明らかに自分であり、一方ラ・セーヌの星の狙いはあるいは王侯かも知れぬと考え直し、仮面の男とは逆の方向へ駆け出した。

 「アハハハハ。兵士諸君、捕まえてみたまえ」
ラ・セーヌの星は広間のシャンデリアにぶら下がり、取り囲むパリ警備隊の兵士を挑発する。
「撃て撃てー! 撃ち殺せー!!」
賊の進入を許してしまったザラールは躍起になって兵たちを叱咤した。ザラールの号令一下、数十の銃口がラ・セーヌの星めがけて火を噴いた。シャンデリアは砕け散り、ガシャンと大きな音をたてて貴族たちの足下に落ちてきた。しかしラ・セーヌの星は既にバルコニーへ飛び移っており、そこで立ちすくんでいた御婦人に傍らの花瓶から摘んだバラを一輪差し出すと、次の瞬間にはガラス窓を蹴破り、窓の外に身を乗り出していた。
「アハハハハ。兵士諸君、オ・ルヴォワール」
またもそう言い残してラ・セーヌの星は窓の外に飛び出した。

 追っ手を引き離したことを意識しながら迷路のような庭園を駆け抜けるラ・セーヌの星。彼女が刈り込まれた植木の角を曲がろうとしたちょうどその時、反対の方向から一人の将校が駈けてきて鉢合わせになった。一瞬ときが止まったかと思われ、二人はしばし相手を見つめたまま動けないでいた。ガラス細工のように繊細な均衡を破り、将校が先に口を開いた。
「なるほど、お前がラ・セーヌの星か。かなりの使い手と聞く。わたしは近衛連隊隊長オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。ひとつお手合わせ願おう」
オスカルが腰のサーベルを抜くと、ラ・セーヌの星もそれに従った。
“カッ!”
 達人ともなると最初の一撃で相手の技量が判るという。オスカルも自分の腕前はその域に達していると思っていたし、現にこれまではそうだった。しかし、ラ・セーヌの星と剣を交えた瞬間、オスカルに伝わったのは相手の底知れぬ強さの漠然としたイメージだけだった。
(つ、強い)
初めて自分と対等に渡り合える剣士に出会え、オスカルの胸はいやが上にも高鳴った。しかし、一方で彼女の動機にも疑問を持った。
「お前ほどの使い手が、何故賊に身を落とす」
「はっ! オスカル・フランソワ。聞いた名だと思ったら、アントワネットの子飼いね。貴族育ちのあなたなんかに民衆の苦しみは判らないわ」
ラ・セーヌの星はオスカルの足下をめがけて剣を突き出した。
「判らないのはお前の方だ。我がフランスは立派な法治国家。法を守らぬ輩に人の心を説く資格はない」
オスカルはラ・セーヌの星の剣を受けざま、返す刀で相手の手首に斬りかかった。
「貴族が作った法でどうして貴族を裁けるというの。わたしの両親が殺されたとき、一体誰が報いてくれたというの!」
無論これはラ・セーヌの星の本懐ではない。しかし、兵士達に追いつめられ、オスカルの剣技に追いつめられたシモーヌが苦し紛れに発したこの言葉は、あるいはシモーヌの心の奥底に眠っていた貴族に対する激しい憎悪、シモーヌ自身も意識していなかったラ・セーヌの星の真の動機を吐露したものかも知れなかった。この発言に驚いたのはオスカルよりもむしろシモーヌの方だった。
「私怨によって人を切るとは見下げ果てた奴。同じ剣士として許してはおけぬ」
「いえ、それは……違うの、でも……」
ラ・セーヌの星の太刀筋に迷いが生じたことを訝しく思ったオスカルは、攻めの手を休めて相手の心の整理がつくのをしばし待とうとした。しかし状況はそれを許さなかった。
「あそこにいたぞー」
兵士達の声がして、オスカルもラ・セーヌの星も我に返った。ラ・セーヌの星はオスカルに戦意なしと見て剣を収め、高らかに指笛を鳴らした。
 どこからか蹄の音が聞こえる。見ると庭木を飛び越えて純白の馬が駆けて来るではないか。その背には少年らしき姿が見える。白馬が近づくとラ・セーヌの星はサッとその背に飛び乗って、再び庭木を飛び越えてパリの方向へ駆けていった。
「馬を持て!」
オスカルが叫ぶが返事はない。今日に限ってアンドレを連れてこなかったことが悔やまれた。



 第9回

 今夜のパリ警備隊はまさに血眼である。白馬を疾駆するラ・セーヌの星は、パリ市街に入ると後ろに掴まっているダントン少年に折を見て馬を降りるように告げた。少年をこれ以上危険な目に遭わせることはできない。街路を曲がったところで一度馬を止め、ダントンを降ろしてから再び愛馬に鞭を入れた。
「どうか逃げきれますように」
さすがのダントンも今夜ばかりは勝手が違うと感じたようだ。

 数十分の後、追っ手の喧噪が遠のき、シモーヌはようやく手綱を緩めて振り返った。ところが、背後から猛スピードで迫り来る騎馬があるではないか。
「オスカル・フランソワ!」
オスカルの馬は矢のような速さでラ・セーヌの星に追いすがってきた。シモーヌは再び拍車をかけたが、ついにオスカルの馬が並んだ。
「ラ・セーヌの星殿は剣技も立派だが馬術もたいしたものだ。おかげで追いつくまでに三頭も馬を潰した」
オスカルは言いざまに剣を抜いた。
 ラ・セーヌの星とオスカルはセーヌ川のほとりを疾走する馬の上で再び剣を交えた。ここでも、並の剣豪が地上で戦う以上の凄まじい攻防が繰り広げられた。二頭の馬は前になり後ろになってはせめぎ合ったが、そのスピードは遅くなるどころか加速する一方であった。
 逃げるラ・セーヌの星は突如馬首を巡らし、セーヌを渡すノートルダム橋の方へ急角度で折れた。虚を突かれたオスカルが、一瞬遅れてさらに急な角度で橋にさしかかった。その時、にわか仕込みの馬具が激しい転回に耐えきれなかったのであろう、オスカルの乗馬の鞍が外れ、バランスを失ったオスカルの体は濁流逆巻くセーヌ川に投げ出されてしまった。
「ままよ!」
もはやこれまで、とオスカルが思った瞬間、細い手がサッと伸びてオスカルの腕を掴んだ。ラ・セーヌの星であった。
「なぜ助ける。わたしはお前の敵なのだぞ」
「いくらあなたでもここから落ちたら風邪をひくだけでは済まないわ。それが判っていながら手を離せって言うの?」
「しかし……」
「人が困っているのを放っておけるくらいなら正義の味方なんてやってないわよ。もう手が痺れてきたわ。とにかく早く上がってちょうだい」
 オスカルが何とか橋の上まではい上がると、二人とも息を切らして橋の上で仰向けに寝そべった。空は満天の星空だった。
「助かったよ。礼を言う」
「どういたしまして。これがわたしの仕事ですから」
「あなたはずいぶん変わった人だ」
「あら、ご自分の姿をご覧になったことがおありかしら」
「フッ、違いない」
二人はひとしきり笑いあった。
「命の恩人とはいえ、仕事は仕事だ。わたしはあなたを帰すわけにはいかない」
「わかっているわ。ここで決着をつけましょう」
ラ・セーヌの星はピョンと起きあがり、腰のサーベルを抜いた。オスカルはラ・セーヌの星が先に剣を抜いてくれたことを有り難く思った。オスカルは橋のたもとに落とした剣を拾い上げ、二人は三たび対峙した。
 月が雲間に隠れたのが合図だ。
 女剣士の最後の対決はまさに壮絶を極めた。激しい打ち合いはいつ果てるともなく続き、寝静まったパリの街路に金属音がこだました。いずれが勝ってもおかしくない勝負であったが、勝者は常に一人なのだ。
 三連続のフェイントを受けてバランスを崩したオスカルの腕めがけてラ・セーヌの星の剣が繰り出された。しかしこれこそオスカルの起死回生の陽動であった。不自然な体勢から右足を踏ん張って剣を延ばし、迫り来るラ・セーヌの星の剣の根元を受けたオスカルは、自らの剣を細かく回転させて相手の剣をからめ取った。ラ・セーヌの星の剣は回転しながら弾け飛び、セーヌの水面に沈んでいった。
 フェンシングの試合ならここで「勝負あった」である。ところが決闘の場で膝を屈したのは意外にもオスカルの方であった。剣を奪われると悟った瞬間、ラ・セーヌの星はブーツに仕込んだ短剣を引き抜き、一連の動作でオスカルの心臓めがけてそれを投げつけたのだ。並の者なら確実に心臓を一突きにされていたところだが、そこはさすがに達人と呼ばれるオスカルのこと、目前に迫った短剣を間一髪右腕で振り払った。しかし完全にかわしきることはできず、軌道をそれた短剣はオスカルの右の脇腹に深々と突き刺さってしまった。
 オスカルが短剣を引き抜くと、白い軍服がみるみる赤く染まっていった。ラ・セーヌの星はブーツに仕込まれたもう一本の短剣を抜いて構えた。剣を失ったラ・セーヌの星と、傷を負ったオスカル。勝負は再び振り出しに戻った。
 しかし、決着をつけることはついに叶わなかった。



 第10回

 「いたぞ、あそこだ!」
橋の西岸に別荘から追ってきたパリ警備隊と近衛連隊が同時に現れた。
「オスカル。手柄を独り占めしようとしてもそうはいかんぞ」
パリ警備隊長ザラールがだみ声で怒鳴った。
「何をおっしゃる。オスカル隊長が足止めしていなければラ・セーヌの星はとうに逃げおうせていたはず。隊長は貴公の失態を補ったのだ。むしろ感謝しろ」
オスカルを弁護したのは近衛連隊副隊長のジェローデルである。
 二隊が争っている隙を見て、ラ・セーヌの星は橋の東岸へ走りだした。しかし、橋の東岸からは衛兵隊が現れた。先頭に立ったアラン・ド・ソワソンが言った。
「ヘッ、残念だったな。逃がしゃしないぜ」
ラ・セーヌの星はきびすを返して再び橋の中央に戻った。
「どうやらここまでのようだな。ラ・セーヌの星」
背後からオスカルが声をかける。
「クッ」
東からはパリ警備隊と近衛隊、西からは衛兵隊、橋の下は逆巻く奔流、もはやラ・セーヌの星に逃げ道はない。さすがのシモーヌも諦めて短剣を捨てかけた。その時、
「黒いチューリップだ!」
「こっちは黒い騎士だ!」
東からは黒いチューリップ、西からは黒い騎士の名を叫ぶ声が聞こえ、両岸の兵士達は混乱をきたした。
 まず西の岸から黒衣の騎馬が抜けだした。黒髪をなびかせる仮面の男をシモーヌはこれまで見たことはなかった。しかし、それがパリで評判の「黒い騎士」であることは一目瞭然であった。黒い騎士は軽やかに馬をとばし、ジェローデルの剣をかいくぐり、見上げるザラールの頭上を越えて橋の中央へやってきた。
 他方、東の岸からは黒いチューリップが現れた。ラ・セーヌの星の剣の師匠でもある黒いチューリップは、衛兵隊の真ん中を単騎で切り結びながら現れた。行く手を塞いだアラン・ド・ソワソンは一刀のもとに黒いチューリップの馬を切り捨てた。しかし、黒いチューリップは素早く馬から飛び降り、「エクスキュゼ・モア(失礼)」と言ってアランの頭を踏み台に橋の中央へ降り立った。
 橋の上にパリで噂の三怪傑が揃った。両岸の兵士達も三人を半円形に包囲する形で集まった。
「ハッハッハ、ついに追いつめたぞ、ラ・セーヌの星。黒い騎士、黒いチューリップも現れおって。飛んで火にいる夏の虫、三人まとめて引っ捕らえてやるわ」
ザラールが手をかざすとパリ警備隊の兵士達が三人めがけて飛びかかった。三怪傑がサッと欄干に飛び乗ると、目標を失った兵士達は、あるいは柱に顔面をしこたまぶつけ、あるいは橋から落っこちそうになって必死にぶら下がる羽目にあった。欄干の上の三人は寄せ来る兵士を見回し、そのまま後ろに飛んだ。
「バカな、死ぬ気か!」
オスカルは欄干に走り寄り、逆巻くセーヌを見下ろした。そこには一艘のゴンドラがあり、三怪傑はその船上に降り立っていたのだ。
「撃て撃て撃て撃て!」
ザラールが叫び、何十もの銃火がゴンドラを取り巻く。しかし、そんなヘナチョコ弾が当たる三怪傑ではなかった。三人は離れゆく兵士達を見上げながら、声を揃えて
「兵士諸君、オ・ルヴォワール」
と言うと、ゴンドラの上で高らかに笑った。船尾で櫓を握るダントン少年はうんざりした表情で、
「まったく、揃いも揃ってよくやるよ」
と言った。



 第11回

 「ロベール、ああロベール。帰ってきてくれたのね」
ラ・セーヌの星は仮面を外してシモーヌに戻ると、兄のロベールに駆け寄った。生き別れの兄と妹は再会の喜びにあつく抱擁しあった。事情を知らぬ黒い騎士も胸に何か熱いものがこみ上げてきたし、ダントンに至っては柄にもなくうっすらと涙さえ浮かべていた。
「君の危機を風のうわさに聞いてね。こうして飛んできたってわけさ」
ロベールはシモーヌの両肩をつかんで胸からはがし、その瞳をまじまじと覗き込んでそう言った。
「ロベール……」
「シモーヌ……」
「ンッンッ! せっかくの再会を邪魔して悪いんだけどさ、誰かにお礼を言わなくっちゃならないんじゃないの?」
「あら、そうね。忘れるところだったわ。ごめんなさい、ダントン」
「いや、なぁに」
ダントンは得意顔でふんぞり返った。
「あらためてお礼を言うわ……黒い騎士様」
ダントンが後ろざまにずっこけたことに気づく者はいなかった。
「どういたしまして。ちょうど俺もオルレアン公の別荘に忍び込んでいたんでね。とにかく無事で良かった」
パリの義賊としてはラ・セーヌの星の後輩にあたる黒い騎士は、何気ない口調を気取って言った。
「わたしからも礼を言わせてもらうよ、黒い騎士」
黒いチューリップがそう言って握手を求めると、黒い騎士はそれに応じながら答えた。
「お互い因果な稼業、これからも助け合っていきましょう」
「そうしていただけると有り難いが……実はわたしはパリ追放の身、あまり長居はできないのだ。そのかわりと言っては何だが、我が妹、ラ・セーヌの星の面倒をみてはもらえないだろうか」
そう聞いてシモーヌの顔がこわばった。
「そんな……。もう行ってしまうの。どうして。パリは広いのよ、お兄さまが隠れ住む所なんていくらでもあるはずだわ」
「わたしもそう思っていたのだが、帰ってくる途中ですごい男に見つかってしまってね。パリにいることはできなくなってしまったんだ」
「あなたほどの男が、いったい誰を恐れるというんだ」
黒い騎士が尋ねると、ロベールは誰にというでもない口振りで言った。
「パリにはいるんだよ。わたしと同じ、妹思いの兄バカがね……」

 「ハックショーン!」
「おや、アランの旦那、風邪ですかい」
「バカ野郎、そんなわけねえだろ。おおかた、どこかで女達が俺の噂してるに違いねぇ」
「ハッ、そりゃたいしたもんだ」
「なんだ、喧嘩売ってんのか」
「滅相もない。くわばらくわばら」
男が引き下がったので、アラン・ド・ソワソンは再び考えに没頭した。
「エクスキュゼ・モア、エクスキュゼ・モアねえ……」
「おい、アラン。何ブツブツ言ってるんだ」
別の男がやってきて尋ねた。ここは場末の安酒場、衛兵隊のたまり場である。
「ん? いやね、今夜あの橋の上で黒いチューリップの野郎が俺の頭踏んづけたとき、『エクスキュゼ・モア(失礼)』なんて言いやがったんだ」
「そりゃ、礼儀正しくて結構なことじゃないか」
「違うんだ。その声がよ、どっかで聞いたことがあるような気がして」
「へえ、それじゃあ黒いチューリップはアランの知り合いかい。だったら今度紹介してくれよ」
「なに言ってやがる。だけどここまで出かかって思い出せねえっていうのは気分が悪いな」
「思い出せるように、俺がもう一度おまえの頭を踏んでやろうか」
「やれるもんならやってみろ。それにしても黒いチューリップめ、みんなの前であんな赤っ恥かかせやがって」
「いやいや、あんたはたいしたもんだよ。あんなでかい馬をぶったぎっちまうんだからな。ただ、相手が一枚上手だったってことさ。まあ、酒でも飲んで忘れちまいなよ」
男がアランのジョッキにエールを注いだ。
「それもそうだな」
「そうそう。そんなことで落ち込んでたらディアンヌちゃんが笑うぜ」
「ディアンヌがね……ディアンヌ……妹……」
アランの脳裏に閃くものがあった。
「そうだ、あいつ……」
「どうしたアラン。黒いチューリップの正体でも判ったのかい」
「いやなんでもねえ」
(そうかい、ロベール。あんたが……。どおりで強いわけだ。するとあんたは妹の危機を上手く救えたようだな。おめでとよ)
アランは立ち上がると大声で言った。
「おい、親父! もっとジャンジャン持ってきてくれ。俺の友人の祝いだ。みんなも好きなだけやってくれ」
酒場に集まった連中は、キョトンとした顔でアランを見た。



 第12回

 オスカルは自室のベッドで窓の外を眺めながら昨夜のことを思い出していた。昨夜は色々なことがいっぺんに起こった慌ただしい夜ではあったが、なんといっても印象に残っているのは仮面の女剣士のことである。女だてらに剣を握るとは、一体いかなる境遇の女性なのだろう。父母を殺されたことに対する恨み、貴族に対する憎しみ、しかしそれ以上に強い何かが彼女を突き動かしている気がしてならない。彼女の目に宿った光は、決して個人的な恨みや憎しみを原動力としている人間の目に宿るものではない。いささか楽観的と言われるかも知れないが、ラ・セーヌの星はフランスの民衆を立ち上がらせる起爆剤となりうる人物だ。オスカルはその日が来るのが恐ろしくもあり、待ち遠しくもあった。
 「いいかい、オスカル」
アンドレが戸口で声をかけると、ちょうど部屋の前を通りかかった婆やに見つかってしまった。
「アンドレ! お嬢様に向かってオスカルとは何ですか! オスカル様とお呼びなさい!」
婆やはそう言ってアンドレの尻を蹴飛ばした。
「はいはい、オスカル様。失礼しますよ」
アンドレはそう言って婆やの鼻先で扉を閉めた。
「クスクス、相変わらずだなあ」
オスカルは微笑んだ。アンドレは気を悪くして言った。
「あまり笑うとラ・セーヌの星にやられた傷に響くぞ」
「こんな傷どうってことないさ」
「しかし、宮廷ではお前がラ・セーヌの星に負けたって大騒ぎだ。オスカルファンの娘はバタバタと失神しているぜ。それはいいとしても、ド・ゲメネ公など女に近衛連隊は荷が重すぎると言い出した。お前は決して負けてなんかいなかったのに」
「まあ言いたい奴には言わせておくさ。それにあのまま戦ったとしても勝てたかどうか」
「何言ってるんだ。お前が負ける訳ないじゃないか。そのことははっきりさせておいた方が……って言っても言い訳してまわるようなたまじゃないよなぁ、お前は」
「いいじゃないか。おかげでわたしがラ・セーヌの星だという疑いは晴れたんだ。ザラールには気の毒だがこれで母上も安心だ」
「人の心配もいいが自分の身も心配したらどうだ。医者の話じゃ相当深い傷だって言うぜ」
「心配ない、ただのかすり傷だ」
「そう言うと思ったよ」
「ところでアンドレ、どうだった?」
オスカルが尋ねるとアンドレは小脇に抱えた包みを開きながら言った。
「お前が言ったとおり、確かにセーヌ川にサーベルが落ちてはいたが……」
包みから出てきたサーベルを受け取ったオスカルは、それを丹念に調べはじめた。
「これは……」
「どうした?」
「アンドレ、これを見ろ。剣の柄の部分」
「これは……紋章?」
「ああ、ド・フォルジュ家の紋章だ」
「えっ、フォルジュってあの?」
「そうだ」
オスカルはしばらく考え込んでから言った。
「アンドレ、たしかロベール・ド・フォルジュには妹がいたはずだが」
「ああ、確かにいた。じゃあなにか、その妹がラ・セーヌの星の正体なのか?」
「確かなことは言えないが、その可能性は大いにある」
「待ってろ、オスカル。その妹が今どこにいるか調べればすぐ判るはずだ」
「いや、アンドレ。それには及ばん」
「どうしてだ。ラ・セーヌの星を捕らえれば大手柄だ」
「わたしが手柄など望んでないことはお前だって知ってるはずだ。そんなことよりアンドレ、その娘のことを考えたことがあるか。彼女がどんな気持ちで剣を取ったか考えたことはあるか」
「……わかったよ、オスカル。お前の言うとおりだ。俺はこのことは決して誰にも話さないし、調べもしない。お前が決めたようにしたらいいさ」
「ありがとう、アンドレ」
オスカルは物思いに耽るように窓の外に首を巡らせた。その後ろ姿を見ながら、アンドレはその気高い精神に心を打たれ、主人に対する忠誠心を新たにした。
 部屋を後にしようとするアンドレの背中に向かってオスカルは言った。
「それに、彼女が捕らえられたら、彼女との決着がつけられないじゃないか」



 第13回(あとがき)

 いささか蛇足となるきらいはあるが、ここで著者のわたしから解説と後日談を語らせていただきたい。
 まず、読者の皆さんに知っていただきたいのは、本書が必ずしも史実通りとは限らないことである。ご存じの方も多いとは思うが、この物語はわたしが新聞記者として取材したことや、黒い騎士として体験したことをもとに構成されている。わたしとしてはできるだけ正確に思い出せる限りのことを書いたつもりだが、わたしが伺い知ることのできなかった部分について一部フィクションをまじえた可能性があることを理解していただきたい。
 「可能性がある」などと、いささか持って回った言い方をするのは、実はその部分は三人の女性の証言から構成されているからだ。
 一人目は本文中にロザリーとして登場する女性である。彼女はオスカルの屋敷で暮らしたこともあり、オスカルやアンドレの性格をわたしよりよく知っていた。また、オルレアン公のパーティーについては彼女の記憶に寄るところが大きい。実のところ、現在彼女はわたしの妻であり、わたしが言うのもおかしいがその証言についてわたしは全幅の信頼を寄せている。
 問題は二人目の人物、ロザリーの姉であるジャンヌ・バロアの証言である。可能な限り穏当な言葉を選んだとしても、彼女についてはよい噂を聞かない。心なき者は彼女を稀代のペテン師などと呼んでいる。しかし、彼女が宮廷の内情に通じていることは確かだ。
 国外へ逃亡中の彼女とロザリーとは何度か手紙のやりとりがあった。とは言え彼女からの手紙の内容は常に金の無心であった。わたしは若干の金と引き替えに、彼女から情報を買った。彼女の情報は興味深く、驚きに満ちたものが多かったが、一部は明らかに嘘であり、その他の部分についても真実かどうか疑わしい。しかし、本書の体裁を整えるためには、敢えて彼女の言に従わざるを得ない部分もあったのだ。
 ここまでの証言を得ても、本書はなお成立し得なかった。なぜなら、ラ・セーヌの星についての情報が圧倒的に不足していたからだ。わたしは一時本書の執筆を諦めた。しかし、類い希なる幸運がわたしを後ろ押ししてくれた。
 執筆開始から何年もしてから、わたしは仕事でウィーンを訪れたことがあった。その帰り、乗り合い馬車の中でわたしは盲目の尼僧と同席した。彼女はフランス人で故郷のことを懐かしがっていた。その会話の中で偶然にも彼女がラ・セーヌの星のことをよく知っている人物であることが判明した。彼女からラ・セーヌの星の人柄や生い立ち、そしてその後の革命期をどう生きたかなど、非常に詳細に聞き出せた。初対面の人物の話を鵜呑みにするのは少々危険にも思えたが、彼女の話しぶりは自信に満ちていたし、内容的にも食い違いがないことからわたしはこの証言を全面的に信頼することにした。
 彼女は実はわたしより若いのだが、外見は遥かに年老いて見えた。彼女の体験した過酷な人生は、彼女から若さを吸い取ってしまったのだろう。彼女がラ・セーヌの星とどのような関係にあるのかは定かでないが、わたしはあるいは彼女こそが……とも思っている。確かにわたしは黒い騎士としてラ・セーヌの星の素顔を見ているのにもかかわらず、尼僧が彼女と同一人物であると断定するのは困難である。しかし、尼僧の顔に残る受難の爪痕は、彼女の若かりし日を想像するにはあまりに深すぎるように思える。そのあたりは読者の想像に委ねたい。
 この辺で本書の登場人物のその後についてお話ししよう。
 たいへん興味深いことだが、本書に登場した二人の女剣士、オスカル・フランソワとラ・セーヌの星は、見事なほど対照的な人生を送っている。
 貴族として生まれ、王妃を守る使命を受けたオスカルではあったが、革命の気運が高まるにつれ市民の窮状を痛切に感じ取り、ついには衛兵隊を率いて市民軍に合流し、最期にはアンドレ共々凶弾に倒れた。
 他方、ラ・セーヌの星は市民を守るため剣を取り、王侯貴族に対しては強い敵愾心を抱いていたものの、後に自らが王妃マリー・アントワネットの妹であることを知るにいたり、苦悩の末に剣を収め、最終的には黒いチューリップと共に王妃を逃がすための計画に荷担したのである。
 時代のあだ花的な存在となった二人について、どちらが正しく、またはどちらが間違っていたかなどと判断することは決してできない。いずれもが無慈悲な運命に翻弄され、それぞれに悲劇の十字架を負わされて生きたのである。ただし、これほど複雑ではないにしても、当時は誰もが悲劇の渦中にあり、彼女たちだけが特別な存在であったかというと決してそうではない。彼女たちが特別なのは悲劇によるものではなく、むしろその崇高な志によるものである。これほど対照的に生きながら、二人の精神は驚くほどに似通っている。打ち寄せる時代の荒波の中にあって、常に信念を持ち続け、最終的にはこれまでの人生をなげうってまで自らが正しいと思った道を選ぶ姿勢は、有志が次々と名乗りを上げた革命期のフランス内にあっても独特の光を放っていている。
 彼女たちが歴史書に登場することはおそらく無いであろう。しかし、我々は彼女たちが生きた時代を決して忘れてはならない。彼女たちだけではなく、多くの人の叫びがそこにはあるからだ。
 ……とは言え、中にはこんな声もあるので注意されたい。
「ククククッ、私のこともお忘れなく」


ベルナール・シャトレ