特別編

サッカー王国静岡を築いた人々


先日ブロードキャスターで清水市の紹介するコーナーをやっていた。
そこでは清水がサッカーの町という事を主に紹介していた。
その日の夜、Qでしの姫を静岡県のサッカーについて話した。
その中でサッカー王国静岡をつくった人は誰なのか?とゆう疑問が出てきた。
ネットで最初調べたがそれらしい情報はなかったので、関係する機関に資料と意見を要求してみた。
その結果いくつかわかった事があったのでここで発表したいと思う。

まず最初に、日本にサッカーが上陸した時の事を話しておこう。
soccer(サッカー)はAssociation Futboll(アソシエーション・フットフットボール)の俗称で、イギリスの学生たちが愛称でAssociationのAとs1つとってをとってcを2つ付けてerを加えたものといわれ、日本では大正時代にすでに使われていたらしい。
(余談だが、soccerと呼ぶのは、日本とアメリカを含む数カ国だけで、その他のほとんどの国ではフットボールと呼んでいる)
サッカーが始めて伝えられたのは1873年イギリス人のダグラス海軍少佐が東京の海軍兵学寮で「フットボール」を行ったという記録がある。
また、1874年イギリス人ライメルジョーンズが東京赤坂の工学寮にて教え、1896年東京高等師範学校にフットボール部が創設されたという記録が残っている。
静岡に蹴球部(サッカー部)が出来たのは、1919年(大正8年)静岡師範高等学校にて創設されたのが始まり。
その後、浜松師範・浜松高工・旧制静岡中・浜松一中・志太中と相次いで蹴球部が誕生した。
昭和に入りサッカー熱は高まっていき、1931年(昭和6年)志太中(現藤枝東高校)が全国中等学校蹴球大会に初出場初優勝を飾った
その背景には、志太中初代校長錦織兵三郎氏が、蹴球を「高技」をして取り入れたということがあったからだと思う。
今でも藤枝東高校はサッカーが高技とないる。
藤枝東高に通っていた友人によると、入学時に男子は全員サッカーシューズを買わされ、体育はサッカーと水泳しかないと言っていた。
そこに藤枝東高の強さの秘密を垣間見る事ができた。

そこで藤枝東高校の黄金期を築きあげた監督を紹介しよう。
長池實監督です。この監督は昭和38年の第41回全国高校サッカー選手権大会において藤枝東高校を優勝に導いて以来、実に計8回の全国大会優勝を成し遂げた名監督だった。
当時、精神的根性論で指導をする監督が多かった中で、自らがプレイを見せて説明し納得させるという指導はとても斬新なものだった。
また個人技のレベルアップを計る為、毎年6月中旬から8月末頃までは藤枝東高校のOBに練習を任せていた。
当時の多くのOBはサッカーの名門大学で活躍し、全日本選手もいた。
そんなOB達が多い日には20名以上指導し、しかも毎日そのOBたちと練習試合をするのだから、強くなって当たり前である。
そして長池監督は昭和44年夏、千葉の検見川東大グラウンドにて行われたFIFAのコーチングスクールにてライセンスを取得する。
これ以降は夏でも全て自分で指導を行った。
コーチングスクールで学んだ事は県下の各種指導者に講習会を開いて広め、現在のコーチングシステムの基礎を作った。
「先生のサッカーに対する情熱、研究熱心さ、卓越した理論は、指導者の模範になるものと思う」と教え子の1人桑原勝義氏は語る。

現在の静岡のサッカーは清水市が中心と言っても過言ではないだろう。
essayの第2話でも書いたが、清水市に関係のあるJリーガーは非常に沢山いる。
しかし最初から清水市が中心であったというわけではないのだ。
清水市を名実ともにサッカーの町に育てた最大の功労者は堀田哲爾氏である。
昭和31年清水市立江尻小学校に教員として着任、この年を機に清水のサッカーは大変革をとげていく。
昭和37年には全国で初のサッカースポーツ少年団を結成、昭和42年には市内の小学生サッカーリーグをスタートさせると共に、清水FCの前身である清水選抜チームを結成した。
この清水FCは全日本少年サッカー大会にて計8回の優勝をほこっている。
現在の清水市出身のJリーガーの大半は、各スポーツ少年団よりピックアップされた清水FC出身者である。
また堀田氏は昭和45年清水市サッカー協会の理事長に就任すると、市に働きかけて清水一中に夜間証明施設を造り、社会人ナイターリーグを発足させた。その後市内の小学校のグランドに総て同様の施設が造られた。
現在静岡県下のすべての学校が行っている学校開放のきっかけをつくったのは、清水市であり堀田氏であった。
清水FCは昭和50年にヨーロッパ遠征、昭和53年にブラジル遠征、昭和55年にはカナダでのジュニア世界選手権大会に参加するなど、国際的規模の中での選手育成はまさに画期的であり、この中からなんと12名もの全日本代表選手が育っていった。
堀田氏が静岡サッカーの発展に多大なる功績を残したのは誰の目にも明らかである。

以上手元にある資料を元にサッカー王国静岡の歴史を振り返ってみた。
私が思うに、静岡サッカーの基礎をつくったのが藤枝で、それをより発展させたのが清水市ではないのか?と思う。
しかしまだ分からない事がある。
清水市のサッカーの発展の中心的な役割を果たしたのが堀田氏という事が今回わかった。
でわ藤枝市にサッカーを根づかせたキーマンは誰か?
もちろん錦織氏や長池氏の功績は多大なものがある。
しかしもっと他にも藤枝にサッカーを根づかせたキーマンがいるのでわないか?
この事に関してはもう少し調べて見たいと思う。
ただこれだけは言えるだろう。
今の静岡サッカーは藤枝、清水の特定の地域だけの力でなく静岡県全体の力で築き上げてきたものだということだ。
そしてその中でもサッカーが好きで好きでたまらない人達の日ごろの地道な活動が、サッカー王国静岡をつくりあげたのだと思う。

最後に貴重な資料そしてご意見を聞かせていただいた、静岡県庁様、静岡県サッカー協会様、清水市サッカー協会様、富士宮市サッカー協会様に深く御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。


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