反逆走路246

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 裏切り者の話をしよう。
 日本人なら誰もが知ってる、名前をきけば「ああ、あいつか」とツバを吐く、そんな奴の話だ。

 1
 
 相模大野駅前商店街は、全力疾走するには狭すぎる!
 夕方4時だからいちばん混む時間帯ではないはずだけど、それでも視界には何十人もの通行人がいる。
 ぼくは肩掛けカバンを抱えて走っていた。
 目の前に、通行人が次々と立ちはだかる。
 買い物袋さげたおばさん。でっかいカバンを振り回すジャージ姿の中学生。
「どいてー!」
 叫んで、飛びこんで、肩をぶつけて、転びそうになって、走り続ける。
 つかまったら、最後だ。
 芦刈優樹(あしかり ゆうき)15年の人生は終わる。
 9月なかばにしては今日はやたら暑かった。額を汗が流れていた。一歩踏み出すたびにしずくが飛んだ。汗が眼に入って痛かった。汗はぼくが着てる白ワイ シャツにも染みこんで、濡れたワイシャツが身体を縛りつけてるみたいに動きづらかった。足首と腿の痛みに耐えながら走っていた。胸の中には熱くて痛い塊が あった。息はゼエゼエと荒く、口の中はねばついて不快。
 それでも走った。
 あいつにいじめられるのはいつものことだけど。
 高校に入ってから、夏休み以外毎日だけど。
 今日だけは本気でヤバい。
「おい優樹! 止まれってんだよ! クソが!」
 野太い罵声が、思いがけないほど近いところで聞こえた。
 驚いて振り向く。
 小暮は、たった5メートルの距離にいた。
 肩掛けカバンを振り子のようにダイナミックに揺らして、大股で走ってくる。
 坊主頭の下には憤怒の形相があった。いつもぼくを殴っているときのニヤニヤ笑いとはまるで違う。
 ぼくと同じ学生服姿。黒ズボンと白ワイシャツ。
 ワイシャツの袖はまくられ、ぼくとは比べ物にならないほど太い日焼けした腕が露出している。ズボンにはべっとりとゲロがこびりついている。ドロドロに溶 けたご飯とサトイモと鶏肉。
 ぼくの昼の弁当だ。
 毎日恒例のイジメで、さっき小暮に蹴られて吐いてしまった。ズボンをぐちゃぐちゃにされた小暮は「ブッ殺す!」とわめいて追いかけてきた。だからぼくは 逃げている。
「あ、あやまってるじゃないか!」
「うるせえ!」
 ぼくの泣き声を一蹴して、小暮はどんどん距離を詰めてくる。いちど振り向いてフォームが崩れたのがいけないのか、それともスタミナ切れか、ぼくの足は思 うように動いてくれない。小暮は足が遅いけど中学時代は柔道やってて体力は有り余ってる。でもぼくは本を読む以外なんの能もないいじめられっ子。勝てるわ けがない。
 捕まったらどうなるのか。高校に入ってから6ヶ月、小暮に受けたいろんな仕打ちが頭の中を駆け巡った。
 5人で囲まれてサッカーボールにされる。押さえつけられて便器をなめさせられる。女の子の前で下半身を脱がされる。それよりもっとひどいこと。全身がこ わばった。本当に殺される。
 と、そのとき、前方に自転車を発見。おばさんが乗ってノロノロと走っている。
「借ります!」
 ぼくは叫んだ。とっさに体が動いていた。自転車のハンドルをつかんでひきよせ、オバサンを押しやって降ろして、かわりにぼくが自転車にまたがった。
「きゃあ!」
 ドサリとオバサンの倒れる音、悲鳴。ごめんと感じる余裕はなかった。立ち乗りの姿勢で、思い切りペダルを踏みこんだ。
 ぐい、と車体が前進する。
「待て! 待て! このやろっ!」
 小暮の怒声が小さくなってゆく。振り向く余裕はなかった。この自転車はマウンテンバイクじゃない、ママチャリで、サドルの高さも低すぎるしチェーンもギ シギシジャラジャラ整備不良。ペダルを踏みおろしてもあんまり進んだ気がしない。それに小暮だって別の自転車を見つけるかも。
 だからぼくは恐くて、ただ、あいつがあきらめてくれることだけを願って、こいで、こいで、こぎつづけた。
 商店街を端っこまで走った。一番端にある横浜銀行を通り過ぎると、目の前はバスのロータリー。クリーム色の神奈中バスが止まっている。駅ビルが右手にそ びえたっている。駅ビルと反対、左手側に走った。クルマと混ざって走る。サブウェイとファーストキッチンが並んでいた。
「待て!」
 まだ聞こえる。さっきより確実に小さくなってる。ぼくはシャカシャカこぎつづける。「行幸道路」と呼ばれる大きな通りに出くわした。二車線あって、いつ も車がビッチリだ。
 横断歩道を探してあたりを見回した。そのとたん、背後でブレーキ音が甲高く炸裂。
 小暮も自転車を奪ったんだ。背筋が冷たくなった。
 ダメだ、信号をまってられない!
 ぼくは自転車ごと車道に飛び降り、乗用車やトラックの間を抜けてゆく。行幸道路をわたった先は住宅地だ。だんだん店が減って、同じような小さい家が並ん で、林が増えていく。
「止まれよ! クソが!」
 罵声がまた耳に飛びこんでくる。 
 電撃を浴びたようなショック。あれでも振りきれなかったんだ。
 手近な林に飛びこんだ。あたりが暗くなる。セミの声に包まれた。木の根や地面のデコボコに車輪をとられ、うまく走れない。
 林の真ん中あたりまで走って、ガシャ、と倒れた。自転車の下敷きになった。自転車を起こそうとして、まったく足に力が入らないのに気づいた。
 右足首は変な風にひねったらしくてズキズキ痛いし、膝はガクガク勝手に動くし、足全体が、鉛でも詰まっているみたいに重い。
 なんとか自転車の下から這い出した。
 ゼエッゼエッという激しい呼吸が、胸の中で弾けそうだった鼓動が、しだいにおさまる。
 かわって全身の筋肉と関節が悲鳴を上げはじめた。もう起き上がる気にもなれない。いままでは火事場のバカ力という奴で、体の痛みが麻痺してたんだろう。
 林の中に、大の字になって転がった。空を覆いつくす枝と葉を見上げた。風に吹かれて葉と枝がそよぐたび、木漏れ日のパターンが変化した。綺麗だった。
 もう、小暮の声は聞こえない。ミンミンジジジというセミの声、ブオオオとクルマの通り過ぎる音がきこえるだけ。逃げ切ったらしい。
 だが喜びはちっともわいてこなかった。
 1回だけ逃げて、これだけ疲れて、なんになるんだ。
 明日からはまた、いや、もっと何倍もひどくいじめられる。
 そういうもんだってわかってるじゃないか。いじめにわずかな抵抗をしたときはいつも後悔する。一時的に楽になるだけで、結局何にもならないからだ。
「はあ……」
 ぼくは深いため息をついた。汗を吸いこんだシャツとズボンが、体にはりついてとても不快だった。額を汗が流れて眼に流れこんだ。痛みに眼をつぶった。

 2

 そのとき。
「……たすけて」
 声がした。女の子の声だ。
 え? と思った。確かにきこえた。かぼそい声だった。
「……たすけて……」
 またきこえた。さっきよりもはっきりと。
 声は右手の方角から聞こえてくるようだった。
 ぼくは地面に横たわったまま、ノロノロと首をめぐらして右を見た。
 すぐ隣、2メートルくらいしか離れていない木の根元に、誰かがよりかかっていた。
 恐怖とか脱力感とかのせいでまわりが見えなくて、今まで気づかなかったんだ。
 女の子だった。
 チェックのプリーツスカートが広がっている。スカートの裾からのぞいているのは紺色ハイソックス。靴はスニーカー。上半身は白いブラウス。胸元に水色の リボンを留めて、まるで学校の制服みたいだ。制服に似合わない大きなリュックをしょっていた。髪型はショートボブで、顔はうつむき気味で、
 そして、どきりとするほど整っていた。
 女の子の顔に眼が吸いよせられた。
 一重まぶたの半開きになった眼、木漏れ陽を浴びてきらめく、極上の細工物みたいな睫毛、小さくツンと上をむいた鼻、化粧っけのない、ひかえめな厚さの唇 と、柔らかそうな頬。全てが美しかった。
「……たすけて……」
 助けてって何が?
 彼女の体、足から頭までをもう一度眺めた。
 ぼくの背筋を冷たい塊が駆けた。
 女の子は大ケガをしていた。
 女の子の下腹部、おへその下あたりに、掌を押し当てたくらいの大きさの、真っ赤なシミがあった。
 血? もしかして血?
「たすけて……」
 ぼくは跳ね起きた。全身をしばりつけているはずの脱力感と痛みは、どこかにふっとんでいた。
 一気に2メートルを駆けて、彼女のすぐそばにしゃがんだ。
 抱きしめられるくらいの間近から彼女を見た。間違いない、林の中で少し暗いけど、彼女のお腹を汚しているのは間違いなく血液だ。しかもよく見ると、赤黒 くぬれているのはブラウスだけじゃない。シミはスカートにつながっていた。震える手を伸ばしてシミにさわってみた。指先に、ねっとりとした生暖かい感触。 間違いなく血だ。それも、流れ出たばかりの血。
 犯罪の犠牲者。被害者。殺人未遂。ストーカー殺人。抗争。
 いくつもの言葉がぼくの頭のなかではじけた。
「あっ、あっ、あの、あの、あの!」
 ぼくは女の子の手首をぎゅっとつかぶ。どもりながら叫ぶ。
「あのあのっ……だだ、大丈夫ですかっ!?」
 口走ったあと、自分のバカさ加減にあきれた。これだけ血を流して大丈夫なわけがない。
「あ、あの……救急車、いま呼びますから!」
 そのとたん、とろんと半開きだった彼女の眼が見開かれた。美しく澄んだ瞳に強烈な意志の光が輝いた。表情が引き締まった。鋭い声で言った。
「駄目。病院は駄目」
「そんなこと言ったって。救急車とパトカー呼びます」
「だめ。絶対に呼ばないで。警察にだけは見つかりたくない」 
 ぼくはとまどった。この人は暴力から逃げてきたわけじゃないの? この人自身が犯罪者?
「お願い、呼ばないで」
 真剣そのものの声だ。
「で、でも。病院なしでどうやって助けるんですか」
 すると彼女は、吊り眼気味の眼をぼくにむけて、じっと見つめた。ぼくは視線をそらせなかった。なんて綺麗なひとなんだろうと思った。心臓がものすごい ペースで脈打ちはじめた。
「……安全な場所に連れて行ってください。それだけでいいのです。警察だけは駄目です」
「そんな、ムチャだよ」
「たすけてくれれば、なんでもします」
 そう言って彼女は腕を伸ばしてきた。
 ブラウスの裾からのぞく白い腕が、ぼくの首を抱えこむ。ワイシャツの背中をぎゅっと握られた。そのまま彼女はぼくの体を引っ張った。腕の細さからは想像 も出来ない強い腕力だ。ぼくは倒れこむように引き寄せられた。彼女の白い顔が近づいてくる。
 抱きつかれた、ぼくは女の子に抱きつかれた。手だって握ったことないのに。
 今までの人生で経験したことのない事態にあわてた。次の瞬間もっとすさまじいことが起こった。彼女は顔を傾け、ぼくと唇を重ねた。唇と唇が触れあう柔ら かい感覚。もちろん女の子とキスをするなんて生まれてはじめてだ。同級生には彼女もちでキスまでいってる奴もいたけど自分とは別の世界の話だと思ってい た。ぼくの全身が硬直した。わなないた。
 ぼくの唇の隙間から何かがすべりこんできた。それは弾力があって、平たい塊で、表面は熱くヌルヌルとしていた。
 舌だ。舌を入れられた。
 普通のキスより一段階すすんだ、熱烈なキス。
 ぼくの頭の中が真っ白になった。いま自分がどこにいるのか忘れた。いじめっ子から逃げてきたことも忘れた。歩けないほど辛かった疲労感さえも忘れた。林 のすぐそばを通っているはずの車の音が、セミたちのがなり立てるミンミンジジジが、はるか遠くのように感じた。口の中を彼女の舌が動き回った。ぼくの舌と からみ、口の中の粘膜とこすれあった。
 ぼくの全神経が口の中に集中していた。頭の中が気持ちよさでどろどろに溶けていた。ただのキスが、ここまでの快楽を与えてくれるなんて想像もしていな かった。
 ふいに彼女は舌を抜いた。唇をぼくの顔から離した。薄桃色の唇から、白い唾液の糸が伸びていた。軽く首を振って、唾液の糸を切った。
 そして彼女はにっこりと微笑んだ。もう一度、きらきらと瞳を輝かせ、小さな唇から言葉をつむぎだした。
「……たすけて、くださいね」
 ぼくはうなずいていた。頭の中がぼうっと熱く、まともにものを考えられなかった。
「はい……」

 3

 女の子を後ろに乗せて、自転車で家を目指した。
 まだ頭の中はキスの衝撃でぼやけていた。
 安全な場所なんて、ぼくは家以外に知らなかった。
 盗んだママチャリはぼくがさっき酷使しすぎたせいか、二人が乗ったらギイギイと異音を発した。
 ぼくの家は先ほどの林から1キロばかり住宅地を走ったところにある。ならんでいるのは一軒家ばかり、ぼくの家は2階建ての小さな家だった。
 家の前に自転車を止めて、ぼくは自転車から降りた。
 ぼくの腰にまわされていた腕がほどけ、ドサリと女の子が路面に落ちるのがわかった。驚いて振り向いた。彼女は地面に転がっていた。
「え?」
 抱き起こそうとした。彼女の眼は閉じられていた。気絶しているようだった。
 手首を握ってみた。脈。脈はどこだ。見つけた。トクンという血管の動きが指先に伝わってくる。
 鼻に指先をちかづけてみた。息を感じる。命に別状はないようだった。
 彼女の腰と背中に腕を回して持ち上げようとする。あがらない。人間手こんなに重いのか。しりもちをつきそうになった。仕方ないので両腕をもって引きずっ てゆく。どうか誰にも見られませんようと願いながら。門をガラガラ開けて彼女の体を入れる。
 ドアを開けて玄関に入った。
「ただいま」
 家の中は暗くて誰もいない。ただいまと言ったのはただの習慣だ。うちの両親は共働きで、夜遅くならないと帰ってこない。
 玄関の段差を越えるとき、彼女の頭をゴツンと落としてしまった。それでも眼を開かない。
 まずはケガの様子を見よう。
 ぼくはそう決めて、彼女をバスルームに運んだ。
 脱衣所に彼女のリュックを置いた。中身を調べたいとも思ったけど、それより傷のほうが先だ。
 バスルームは彼女の体を横にできるほど広くなかった。壁に寄りかからせた。
 ブラウスをめくった。中のTシャツは真っ赤に染まっていた。Tシャツと一緒にブラウスを脱がせる。水色のブラジャーがあらわになった。レースで花が縫い 取られている。眼がブラジャーに吸い寄せられた。これって何カップ、とか考えてしまった。自分がいやになった。目の前で死にそうな人がいるのにエロいこと 考えてる。むりやり目をそらして視線をお腹に向けた。お腹は下半分が血まみれだ。どの部分が傷なのかわからない。洗うしかない。
 ……洗うなら、下も脱がさないと。
 ……治療なんだ、えっちなことじゃない。
 心の中でわけの分からない言い訳を並べて。プリーツスカートに手をかけて、一気に下ろす。
 眼に飛び込んできたのは、ブラジャーと同じ水色のぱんつ。バスルームの蛍光灯を浴びて光沢を発する不思議な生地。股間のわずかな盛り上がり。股下の部分 には縫い目が。こんなところに縫い目があるなんて知らなかった。眼がパンツに食いついて離れない。気がつけば鼻息が荒くなっていた。
 自分のいやらしさを心の中でののしって、無理やり視線をずらす。
 白くてすらりとした足。
 ぼくの目線が止まった。エロ気分がすべて吹き飛んだ。
 太ももには拳銃のホルスターがくくりつけられていた。
 おっかなびっくり手を伸ばして触ってみた。たしかにホルスターだ。黒くてナイロン製。これとそっくりのものが、こないだ読んだ『特殊部隊の装備 イラス ト図鑑』に出てきた。パチリとボタンを外して、ホルスターの中身を抜く。
 黒光りする拳銃が出てきた。大きさは拳をふたつ並べたくらい、15センチくらいか。グリップは茶色くてザラザラして、星のマークが刻まれていた。
「マカロフだ……」
 ぼくはうめいた。ロシアの自動拳銃で、ドイツの名銃・ワルサーPPKをモデルにした銃だ。最近はヤクザなんかもこの銃を使ってるらしい。
 ……まちがいない、この人はすごくヤバイ世界にいる。マフィア、ヤクザ、銃撃戦……
 震える手で、バスタブのフタの上にマカロフを置いた。カタッと小さな音が響いた。小さいはずなのにやたらはっきり響いた。
 ……じゃあ。このケガも銃で撃たれたの?
 まずは傷口にシャワーを向けて、血を洗い流した。
 白い肌があらわれた。おへその下辺りに、ぽっかり丸い穴がある。指先でつついたくらいの穴。
 体に腕を回して、ひっくり返して、背中を見た。背中に穴はない。
 ……弾丸が中で止まってる!
 ……も、盲管銃創とかいうんだ、これって。
「治せないよ、無理だよこんなの」
 ぼくはうめき声をもらす。
 立ち上がる。
 電話をかけて救急車を呼ぶつもりだった。
 でも浴室の壁にもたれかかる彼女の顔を見てると、血の気を失って眼を閉じている彼女の顔を見てると、ぼくの心の中に声がよみがえった。
 ……「たすけて」
 ……「警察だけは、だめ」
 声はぼくの胸をしめつけた。
 どうして? 決まっている。
 ぼくはあの声を知っていた。心のそこから絞りだすような「助けて」。ぼく自身が何度も、何百回も発してきた言葉だ。小学校の頃から、殴られるたび、ロッ カーにとじこめられるたび、牛乳や水をかけられるたび。そして一度も、この世の誰も聞いてくれなかった。
 いま、はじめて、他人に「たすけて」と言われた。
 心の底から、全力で、言われた。
 ぼくは拳を握りしめた。口の中でギリギリと鳴った。知らず知らずのうちに歯ぎしりをしていた。
 悩んでいたのは一瞬。
「待ってて!」
 ぼくは叫んで、バスルームを飛びだした。廊下に出て、階段を駆けあがった。狭い階段を上った先はぼくの部屋。
 中は狭苦しくて、本だらけだった。
 六畳あるから子供部屋としては悪くないかもしれない。でも窓際に机がドーンと置かれて、パイプベッドがあって、大きな本棚が二つもある。床面積はほとん ど残ってない。フローリングの床はわずかしか見えていない。
 机に駆けよった。本箱に入りきらなかった本が、机の上に無造作に積み上げてある。大型ノートパソコンもある。
 引き出しを開ける。ここには、誰にも見られたくないものがある。
 エロ本? ちがう。
 折りたたまれた一振りのナイフ。中野のナイフ屋さんで買ってきたタクティカルナイフだ。グリップは黒光りする合成樹脂、指の形にあわせてうねっている。 ナイフをつかみ出してパチンと開いた。刃渡り80ミリ、刃の根元にはギザギザの刃が刻まれている。
 ナイフのとなりにある分厚い本も取りだした。
 真っ赤な本で、表紙には「首の吹っ飛ばされたマネキン」。本のタイトルは「完全殺人術」。人間を絞め殺し、殴り殺し、刺し殺す方法が図解と写真付きで 載っている。
 中学2年のとき、ナイフと一緒にこの本を買った。ひどくいじめられた日の夜、ナイフの刃を見つめながら「ここを刺せばあいつは死ぬんだ」とか想像するの が楽しみだった。現実の世界ではパンチ一つ出せないけど、心の中では拷問処刑を何千回もやっていた。
 いまなら使える。
 ぼくは本とナイフを抱えてバスルームに戻った。途中で救急箱を持った。針と糸を持った。
 バスルームに飛びこんだとたん血の臭いにたじろいだ。彼女はさっきと同じ姿勢で壁にもたれていた。さっき洗い流したはずの傷口からまた血が流れ出して床 に広がっていた。
 彼女のそばにまたしゃがみこんだ。   
 本を開いた。『完全殺人術』。この本には載っている。人体の急所が。どこの血管をナイフで切れば大出血するか、どこの内臓をやられると助からないか。血 液をどれだけ失うと死ぬか。
 逆に使えば、どこなら切っていいのわかるはず。危険な内臓を、血管をよけられるはず。
 風呂おけのふたの上に本を乗せた。洗面器とボディシャンプーのビンでページを固定した。
 いま開いてあるのは、
 『図解 ここを突け』
 ページをにらみつけた。
 よし。
 ぼくはナイフを消毒した。シャワーを傷口に当てて血を流した。
 ナイフを彼女の肌に当てて押し込んだ。
 切り傷からつうっと血が出た。
 焦って本を見返す。いや、これでいいはず。
 開いた穴に、消毒したピンセットをつっこんだ。
 どこだ? 弾はどこにある?
 空いているほうの手でお腹をさすった。1センチずらす。ここか? ここなのか? 指先に圧力をかける。皮膚の向こうにあるものを感じ取ろうとする。駄目 だ。真っ白いお腹がゆっくりと、彼女の呼吸にあわせて上下するだけだ。
 ピンセットの先が、なにかにぶつかった! 丸くて硬いもの。銃弾だ!
 『完全殺人術』の図解を確認する。まさに動脈のすぐそばだ。背筋を冷たいものがかけた。粘っこい生唾を飲みこんだ。わずかでもミスったら血の噴水、 彼女はあの世いきだ。
 息をすうとすって、止めた。
 ピンセットをできるかぎりの慎重さで動かし、銃弾をつまみ出した。
 たった長さ2センチくらい、釣鐘みたいな形の金属片。9ミリ拳銃弾だろうか。
 つまんだ拳銃弾を、そのへんの洗面器の中に置いた。小さなコトリという音が、なぜだか大きく響いた。
 頭のなかで手順を確認する。
「次は止血だ」
 頭で思っただけのつもりなのに声が漏れた。震えた声だった。
 ガーゼを傷口に当てて、おへそ全体を覆い隠すようにして、ぎゅっと押し付けた。たちまちガーゼは真っ赤になる。
 止血の方法なんて他に知らない。腕ならともなくお腹だから。お願いだ、止まってくれ。
 と、彼女の顔を見て。
 心臓をわしづかみにされたような衝撃。
 彼女の頬が、あまりに白すぎるのに気づいた。
 唇の色がおかしい。赤みがない。まるで紫。
 ぼくはこの現象を知っていた。チアノーゼだ。血液を失いすぎると出る。
 やっぱりだめだ。ぼくの頭の中はパニックになった。輸血しなきゃ。でもどうやって。
 おろおろと、バスルームにあるものを見回した。ボディシャンプーや洗面器。もちろん何の役にも立たない。
 ぼくの血液型はO型だ。彼女がRHマイナスでもない限り輸血できる。でも手段がない。輸血の道具がない。
 どうすればいい? どうすれば?
 ガーゼ止血もできてないみたいで、ガーゼ全体をべっとりと濡らした血はガーゼの外に染み出している。いまでも流れている。
 どうすればいい?
 立ち上がった。全身に汗が噴いていた。それなのに肌寒さを感じた。なかば分かっていた。この人は死ぬ。そうだ、呼吸だって、おなかの動きだってどんどん 緩やかになっているじゃないか。
 どうすれば……
 と、そのときひらめいた。
 注射ならどうだ。
 ぼくはバスルームのドアに体当たり。
 濡れた足を拭くのももどかしく、びちゃびちゃと音を立てて廊下を走る。
 階段を駆け上ってぼくの部屋へ。押入れをかき回した。
 奥のほうに見つけた。
「あった!」
 思わず歓声をあげた。埃まみれになった「昆虫標本セット」。小学生のときに買ってもらったオモチャで、防腐剤を注射するための注射器がついてる。
 注射器を持ってバスルームに戻った。
 せいぜい5分くらいしか経ってないはずだった。
 でも彼女はさっきよりますます死に近づいているように見えた。肌は蝋のように真っ白。
「いやだ! 死なないで!」
 彼女のそばにしゃがみこむ。注射器を洗う。ぼくの腕に注射器をつき立てる。血を抜いて、彼女の手首をとり、注射。
 なんども、なんども繰り返した。ぼくの血を、おもちゃの注射器で彼女に輸血した。
 手首の脈があまりに弱いことに震えながら。
「死なないで!」
 
 4

 ぼくは自分の部屋で、椅子に腰掛けて、彼女が目覚めるのを待っていた。
 彼女はベッドに横たわり、毛布をかぶって眠っている。
 ぼくは膝の上で拳を固めていた。手に汗を握っていた。
 あれだけ出血した。いくら即席輸血したとはいっても、大丈夫なのか。
 黙って、彼女の顔を見つめていた。
 手術完了から、もう4時間。
 コッチ、コッチ……机の上の置時計が立てる音が、いやに大きく響いた。
「ピイピイ、ピイピイ……」
 置時計が電子音を発する。見ると、ちょうど9時。
 その音に刺激されたかのように、彼女の睫毛がピクリと動き、まぶたが開いた。
「あ、起きた!」
 ぼくはよろこびの声を漏らした。
 彼女の表情が一気に引き締まった。眼がぼくの姿を捉えた。
 次の瞬間。彼女は毛布を跳ね除けて飛び起き。
 水色ブラジャーとパンツだけをつけた肉体をさらして、床に立って、風を切るほどの勢いで足を振り上げ、ぼくの顔面に向けてハイキック!
 次の瞬間、彼女の整った顔が苦しげに歪む。
 軸足がグラリと揺らいで、バランスを崩してぼくの体の上に倒れこむ。
 ぼくの両足をまたぐような形だ。
 あ、柔らかい女の子の身体! 股間にお尻の感触が!
 とか感じた瞬間、彼女はぼくをにらみつけ、素早く手をひらめかせて机の上にあるマカロフ拳銃を取った。ほとんど同時に、もう片方の腕でぼくの片手をつか んでひねりあげていた。ボキッという音がして激痛が走る。
「うっ!」
 うめいた。首筋にマカロフが突きつけられた。
 ぼくを冷たい眼でにらみつけたまま、彼女は言う。
「……何者です」
 声も冷たく、刺すようだった。
「あ、あの……ぼ、ぼく、あの、あの……きみを助けた……んだけど……」
「たすけた?」
 彼女の表情が一気に緩んだ。吊りあがっていた眉がひょこんと落ち、八の字型に。冷たく氷のように光っていた瞳が、子供のようにつぶらに。すごい落差だ。
「そう、助けたんです。ほら、あなたが『助けてくれ』って言ってたから」
 彼女は眉根を寄せて「そうでしたか……?」
「ほら、林の中で『警察だけは呼ばないで』って」
「ああ……! あれは夢じゃなかったんですか」
「現実だよ」
「え、うそ……そんな」
 彼女はマカロフをおろした。自分の体を見下ろす。おなかに包帯。
「……え……これ、あなたが?」
「うん」
 ぼくは力強くうなずく。
 輸血の後、ちゃんと消毒して縫い合わせておいた。
「医術の心得でも?」
「ないけど、でも『警察と病院はダメ』って言うから」
「あ……」
 彼女は恥ずかしそうにうつむいた。
「お願い、きいてくれたんですね……」
 先ほどとはまるで別人のようにしおらしい。どっちが本当の彼女なんだろう。
 ぼくのほうを向いて、深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます。ほんとうに」
「いや、その、いいんだよ、あはは」
 笑ってごまかしてはいるけど、ぼくはもう踊りだしそうだった。嬉しかった。
 かわいい女の子に感謝されたから?
 それもある。
 でも、それ以上に。
 人の命を救ったから。命がけのでっかいことを、やったから。胸を張りたかった。ぼくはすごいんだ。全身にエネルギーと自信があふれていた。いまなら学校 に行くのも恐くないと思った。
「では、私はこれで」
 彼女は立ち上がろうとする。
「あ、待って待って!」
「え?」
「まだ動くのは無理だよ。おなかに穴が開いてるんだよ? しばらくここにいるといいよ」
「え……でも」
 彼女は困惑した様子で、自分の手の中のマカロフを見下ろす。
「いいんだよ、そんなこと」
 彼女が犯罪組織とか、そういう怪しい関係の人だってことは分かってる。
「本当にいいのですか? でも、家の家族の人が……学生さんですよね」
「うん、そうだけど。でも、親は夜遅くにならないと帰ってこないから」
「治るまで、わたしを置いてくれるんですか?」
「うん、任せなって」
 ぼくは笑っていった。できるだけ陽気に、できるだけ頼もしく見えるように。
「うれしいです……なんといってお礼をしたらいいか」
「お礼なんていいよ。あ、そういえば、名前をきいてなかったね。ぼくは優樹です。芦刈優樹」
「アシカリ……ユウキさん。女の子みたいな名前ですね」
「うん、よく言われる」
 彼女は両手を合わせ、なにか神仏にでも祈るかのように、
「わたしはヒカリ。姫里ヒカリです」
「姫里さんか」
 綺麗な名前だとおもった。姫里ヒカリ。ぼくがはじめてキスをして、抱きつかれて、ハダカを見て、命を救った人。
「ところで」
 ヒカリさんはまじめな顔で言った。
「やっぱりお礼が必要ですね? 手と口、どちらがいいですか?」
「え? 手と口?」
 きょとんとするぼく。
 ヒカリさんは立ち上がって、ぼくの股間を指差した!
「さきほどから、大変元気になっているんですが」
「あ……」
 ぼくはうめいた。その通りだった。パンツの中のものがカチカチに硬くなって、ズボンを押し上げていた。恥ずかしかった。でも、下着姿の女の子に、股の上 に乗っかられる。そんな刺激的な体験をしたら、15歳の男なら誰だって勃起する。
「じゃあ、いきますね」
 ヒカリさんはぼくの足元にしゃがみこんだ。
 ようやく「手か口か」の意味がわかった。ぼくだってエロ本くらいは読む。
「や、や、やめて……」
 ぼくは悲鳴をあげた。ヒカリさんは無視して、ズボンのファスナーを開けた。BVDの白ブリーフが露になる。ブリーフの真ん中は隠しようがないくらい盛り 上がっている。
 ヒカリさんがパンツの上から股間のこわばりに触れた。それだけで身体に電撃が流れたような衝撃。ヒカリさんの指はパンツの打ち合わせにすべりこんだ。
 中身が引っ張り出された。硬くなったぼくのペニスは、それでも手のひらにすっぽりおさまるくらいの小さなもので、先っぽまで包皮に覆われていた。よく学 校でいじめっこたちに笑われる。こんな小さなもので一生セックスできないんじゃないかと悩んでいる。
 それを、見られた。ヒカリさんの顔はペニスにキスできるほど近くだ!
 ぼくの心臓はバクバク、死んでしまいそうに高鳴っていた。ぼくはキスの経験だってなかったのに、いきなり女の子にちんちん見られて、触られて……身体が 硬直していた。緊張と興奮がぼくの頭の中を吹き荒れていた。
「あ、あの、あの、それは……」
「これは剥いてもいいものなのですか?」
 ぼくがこんなに動揺しているのにヒカリさんはごく普通に、冷静な表情で、日常会話という感じできいてくる。しかも、ペニスに指を這わせながら。
「え、あの、やっぱりこういうえっちなことは……」
 ヒカリさんがペニスの皮をむいて、小さな手で握った。手の中にすっぱり入ってしまった。こんなにみじめに小さい、という羞恥心で身もだえしたくなる。逃 げ出したい。でも痺れるほどの興奮が。ヒカリさんはしごきはじめた。先端の赤黒い部分を指がこすった。痛みと快感が股間ではじけて背筋を駆け上り一瞬で脳 に達して、ぼくの意志とは関係なくペニスが手の中で跳ねて、
「あ、うっ……」
 世にも情けないうめき声がもれた。頭の中で火花が散った。ペニスが白い液を噴出。
 ぼくは眼を閉じ、快感に酔った。
 バタン!
 まさにその瞬間、ドアが開いた。
「あんた、風呂場のあの臭い……」
 ……え?
 眼を開けた。ドアを開けて入ってきたのは母さんだった。
「臭いなによ……」
 母さんの言葉が途切れた。ぼくの姿を認識したからだろう。
 ぼくは椅子に座って、勃起したペニスをむき出し。しかもたったいま発射。
「……あんた」
「ち、ちがうんだよ、これは……」
 言い訳が出てこない。部屋の中を見回す。ヒカリさんがいない。どこに消えたんだ。
「これは……その」
 母さんは凍りついた表情のまま、
「あんたもいい年だから、やるなとは言わないけどさ」
 それだけ言って、部屋を出て行った。
 階段を降りる音。
 押入れの扉が開いて、ヒカリさんが顔を出した。一瞬のうちに姿を隠したらしい。
「危機一髪でしたね」
「……」
 ぼくは肩を落とし、うなだれて、
「……死にたい」 

 5
 
 べッドにはヒカリさんを寝かせて、ぼくは床に寝ていた。
 あのあと、ふたりでご飯を食べて、「どんなふうに隠れるか」話しあった。そして寝た。
 だけどぼくはなかなか寝つけなかった。
 『すぐそばに下着姿の女の子がいる』という事実がぼくの血をたかぶらせた。手を伸ばしさえすれば乳房でもお尻でもいじりまわせて、しかも開いてはいやが らない。一晩中、「やりたい、でもやっちゃだめだ、やりたい、でも……」という感じで悶々としていた。
 うつらうつらすることはあっても熟睡はできず、眠ってもまたすぐに目が覚めて、時間が30分しか経ってないことに驚いて。
 気がついたらもうあたりはすっかり明るくなっていた。
 ヒカリさんはべッドの上に、行儀よく腕をそろえて寝ている。寝顔は子供のようにあどけなかった。
 いったいこの人はどれだけ多くの面を抱えているのだろうと思った。
 ……起こさないでいよう。
 ドアの向こうで母さんの声がした。
「優樹! 早く起きなさい!」
 ぼくはとっさに答えた。
「い、い、いま行くから!」
「早くしなさいよ、また遅刻してもいいの?」
「だから行くって! あとちょっと待って!」
 たんたん、と足音がした。
 母さんが階段を降りていく音。
 ぼくはヒカリさんを揺り動かした。
 次の瞬間、ヒカリさんは目を開ける。アーモンド形の吊り眼に、射抜くような意志の光。やわらかそうなほっぺたが引き締まり眉間にしわがよった。スイッチ が切り替わったような瞬間的覚醒だった。
 ヒカリさんはぼくを見上げて蚊の泣くような小さな声で、
「おはようございます、ユウキさん」
「お、おはようヒカリさん。あのさ、母さんが呼んでるから、いかなきゃ」
「わかりました。お留守番してますね。いってらっしゃい」
「うん。母さんはもうすぐ仕事に行くから、10時ごろまで戻ってこないから。でも、できるだけ部屋から出ないほうがよくて」
 頭の中が焦りでいっぱいになった。決めてないことがいっぱいだ。この家で女の子をかくまうのはとても無謀なことに思えた。
 ヒカリさんは笑顔を浮かべた。朗らかな笑顔だった。そして、ぼくの肩をとんと叩いた。
「だいじょうぶですよ、落ちついてください」
「え、でも……」
「しっ、声が大きいです。あんまりおどおどびくびくしてると、怪しまれますよ。どーんと構えていればいいんです」
「どーんと……?」
「はい。頼りにしてますよ」
 ぼくの心がすうっと軽くなった。さっきまでたちこめていた不安は跡形も泣く吹きはらわれて、浮き立つような気持ちが胸を充たした。
 だって。生まれてはじめて「頼りにしてます」っていわれたんだ。こんなに心地よいものだったなんて。
 ぼくはヒカリさんの耳元でささやいた。
「いってきます」
  
 6
 
 鼻歌交じりでご飯を食べ、学校へ向かった。
 いつもは朝を迎えるたび、憂うつな気分になる。
 でもいまは違う。だってヒカリさんが、ヒカリさんがぼくのことを頼りにしてくれるって。家に帰ったら何をしよう。一緒に勉強しようか。服を買ってあげよ うか。お菓子を差し入れするのはどうだろう。何が空きなのかな。頭の中はヒカリさんのことでいっぱいだった。彼女のことを考えているだけで幸せだった。
 学校の正門前までやってきたとき、その幸せは消えた。
「なにへラへラしてんだよ!?」
 小暮が腕組みして門の横で立っていた。
「あ」
 いまのいままで小暮のことなんて忘れていた。体が硬直し、「あ、あ……」とうめき声をもらしてしまった。
「あれは……」
「昨日はナメたまねしてくれたじゃん?」
 小暮はにやりと笑って、鼻息がかかるくらい顔を近づけて言う。
「あ、あの、ぼく授業に行かないと……」
 後ずさりをはじめる。
「授業なんてどうでもいいんだよ、俺がもっといろいろ教えてやるよ、こっちこいよ」
 腕をつかまれた。離して! といおうとしたが、思い切りねじられて激痛で動けなくなった。
「ああっ!」
 通り過ぎてゆく男子生徒たちが、ちらちらぼくたちを見る。何もいわず立ち止まることもなくそのまま学校の中に消えてゆく。ぼくは眼でSOSを送った。
 助けて、助けて、助けて。
 だれも助けてくれない。足を止めてもくれない。
 腕をねじりあげる力が強くなった。身をよじって逃れようとする。
 もうひとりの男子が現れて、ぼくの腕を取った。
 ロン毛を真っ赤に脱色した奴だ。小暮ほど大柄ではなかったけど、うっすらとヒゲを生やして戦闘的な笑みを浮かべるその顔には迫力があった。
 小暮の兄貴分で、越智という奴だ。
「あの、ぼく授業に行かないと」
「授業なんかより、礼儀を教えてやるほうが大事だっつの」
 ぼくはそのまま引きずられていった。校舎の中に入り、階段の市場上の踊り場につれていかれた。
 ここはいじめの指定席だ。
 二人はぼくを責めつづけた。殴って蹴って、腐った牛乳を飲ませた。
 途中から女の子たちがやってきた。小暮たちの取り巻きで、ぼくがいじめられるさまを見物しに着たのだ。女の子たちが来るときはいじめのパターンがいつも 決まっていた。性的なものだ。だけど今日は違った。
 小暮がぼくのカバンを開けて弁当を取り出し、床の上に中身をぶちまけた。玉子焼き、ウインナー、ほうれん草のおひたし、鳥のから揚げ、ご飯……一瞬でぼ くの昼食が生ゴミだ。同じいじめは過去に10回くらい受けていた。「四つんばいになってこれを食え」というのだ。
 小暮と越智が後ろからぼくの腕をねじりあげて、
「足で食ってみせろ」
 もっとひどかった。
 ぼくは足で、床に飛び散ったご飯を食べさせれた。嫌がったり失敗すると殴られた。
 結局ぼくは教室にいけなかった。1時間目も2時間目も、放課後まで二人はこうやってぼくをいたぶり続けた。
 やっと足で食べられるようになった。はだしになって、足の指でウインナーをつまんで口に放り込んだ。一緒に床の埃と髪の毛が口に入って吐きそうだった。
 その瞬間、理解した。
 世界は変わらない。不思議な女の子と知りあっても、部屋にかくまっても、どんなにワクワクしても、ぼくは変わらない。9年前の入学式でおしっこをもらし てしまったときからずっと変わらない、いじめられっこなんだって。

 7

「……ただいま」
 ぼくはドアを開けて、薄暗い玄関に入った。
 ヒカリさんのために買ってきたお菓子のビニール袋を手にして、階段を上がる。
 ぼくの部屋のドアを軽くノック。

 とんとんとん。
 とん。
 とんとんとん。

 3回、1回、3回のノック。ぼくとヒカリさんの間で決めた合図。
 中に入ると、ヒカリさんが机に向かっていた。
 上はTシャツ、下はチノパンを身につけている。ぼくが貸した服だ。ノートパソコンをいじっていた。
「お帰りなさい、ユウキさん」
「う、うん。ただいま」
「パソコン使わせてもらってますよ」
「あ、うん……」 
 なにをやっているんだろうと画面をちらりと見た。掲示板だ。海外の掲示板で、メッセージは全部英語。
 ぼくは殴られた体の痛みをこらえながらヒカリさんの足元にヒザをついた。
「あ、あの……お菓子、いろいろ買ってきたんだ」
 ビニール袋の中身を一つ一つ渡してゆく。
「あ、プリンですか。いいですね。……え?」
 杏仁豆腐カップ入りを手に取ったとき、ヒカリさんが驚きの声をあげる。杏仁豆腐のカップを持ちあげてしげしげ眺めて、
「あ、なんだ。漢字ですか」
「あの……杏仁豆腐がどうしたの?」
 ぼくは不安になってたずねる。よっぽど嫌いとか?
「あ、なんでもありません。ちょっと勘違いしただけですよ」
「勘違いって?」
「なんでもありません。気にしないでください。
 そんなことより……」
 ヒカリさんの表情が一気に曇った。眉根をよせて、ぼくのお腹を指差す。
「けがしてるでしょう?」
「どうしてわかったの?」
「だって体の動かし方が不自然ですから。どうしたんですか? 見たところ、あちこちに打撲があるみたいですが」
「……」
 ぼくは口ごもった。
 『いじめられてる』なんて言えない。
 ぼくはよく知ってる。女の人が「いじめられて、抵抗できない男』をどれだけ嫌うか、蔑むか。クラスの女の子は全員が全員、ぼくには『汚いものを見る目』 しか向けない。
「……学校でいじめられたんですか?」
「……」
 ぼくはうつむいた。
「恥ずかしくて言えない」
「でも……ユウキさん。いまさら何が恥ずかしいんですか? 女の子に握られてあっさり出ちゃって、その瞬間を母親に見られるより恥ずかしいんですか?」
「そ、それは、その……」
 ぼくは下をむいたままもじもじと身もだえした。顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「話してくれますね?」
「う、うん……」
 ボソボソ喋りだした。
 小学校の入学式のとき、どうしても我慢しきれなくておしっこをもらしてしまったこと。
 『こいつもらした』『汚い』という言葉が波紋のように広がっていったこと。
 いつのまにか『ユウキは汚い奴だから何をしてもいい』って思われるようになったこと。
 クラスの中の乱暴な奴がぼくにプロレス技をかけるようになったこと。
 掃除当番のとき、水をかけられるようになったこと。
 そして中学性になってみんなが性的な事に興味を持ち始めると、いじめの内容もレイプまがいのことに変わっていった事。毎日かならず、ズボンとパンツを下 ろされてひどく小さいペニスを笑われた事。高校にはいってまた暴力に戻った事。この世の誰も助けてくれなかった事。
 絶対、こんなこと女の子の前でいえるわけがないと思っていた。でも、喋りだすと止まらなかった。胸の中が軽くなる気までした。
 一通りしゃべり終えて顔をあげた。おっかなびっくり、軽蔑されたらどうしようと思いながら。
 ヒカリさんの顔を見てハッとした。
 瞳につめたい光が宿っていた。小さな口をへの字にして、腕組みして、ヒカリさんはまじめに考えこんでいた。
「あの……ヒカリさん?」
「で、ユウキさんはどうしたいんですか?」
「どう……って言われても」
「だいたい状況は分かりました。
 よくあることです。世界のどこでも起こっている事です」
 その言葉にひどく冷たいものを感じてぼくはたじろいだ。
「そんなこと言われても」
 ぼくは失望をおぼえていた。「どうして抵抗しないの? やりかえせよ」ってみんな言うのだ。やれるものならやってる。でも本番になると恐くて逆らえない んだ。
「逆らいたいけど、逆らえないんですね?」
「う、うん」
 ヒカリさんは小さくうなずいた。
 そしてぼくに顔を寄せて、指を一本立ててささやいた。
「勝てる方法を教えましょう」
「む、無理だよ。あいつらは強くて……」
「いいえ。必ず勝てます。
 ただし、三つのこと守ってください。
 まず一つ。『なぜ? どうして?』と考えない」
「意味がわからないよ」
「ユウキさんは、いじめられてるときずっと思ってるはずです。
 『どうして?』
 『どうして俺がこんな目に?』
 『なにも悪い事してないのに?』
 思ってますよね?」
「うん。確かに」
「それがダメなんです。
 理由なんて考えてるうちは先に進めません。
 理由なんてないんです。ユウキさんがいじめられるのに理由はない」
 きっぱり言い切られて、ぼくは絶句した。
「不幸や苦しみに理由はないんです。人によっては神様や運命を持ちだすかもしれません。でもわたしは神様も運命も信じる事ができません。
 だから。この世界は『そういうもの』なんだって思ってます。
 この世界は、理由もなく人を苦しめるものなんです。
 だったら理由なんて考えても仕方ない。
 『この間違った世界で、どう生きるか。なにをするか』なんですよ」
 ヒカリさんは2本目の指を立てた。
「それから2つめ。
 スピード重視です。
 そのいじめっ子に会ったらその場で突撃です。体当たりがいいでしょう。喋る時間なんて与えちゃ駄目です」
 3本目の指を立てる。
「そして3つめ。体当たりで相手を倒したら、顔面を踏みつけて下さい」
「え、でもそんなことしたら死んじゃうかも」
「顔面がいちばん無難です。めったなことでは命を奪わない。胸とか喉の場合、本当に死なせてしまうかもしれません。肋骨は簡単に折れて肺に刺さりますから ね」
「無理だよ。できないよ。だってぼくは弱くて、あいつらの前に出たらなにもできなくて……」 
 目をそらして泣きごとを並べるぼく。
 とつぜんヒカリさんはぼくの手を取った。自分の手と重ね、ギュッと握る。
「弱くなんかありません。
 ユウキさんはわたしの命を救ってくれました。見ず知らずのケガ人を手術して直すなんて、普通の人にできる事じゃありません。ものすごい意志の力が必要で す。
 ユウキさんは強いんですよ。勇気だってあるんです。安心して下さい。かならず勝てます」
 力強い断言だった。ぼくは気おされて、「う、うん」とうなずいた。
 ヒカリさんの手の上にもう片方の手を重ねた。
 ……ぼくは……強い?

 8

 朝の教室で、ぼくは小暮を待っていた。
 今日、机の中にはカビたパンが入っていた。いつもの事なので、ぼくはカバンから出したティッシュで真っ青になったパンをつまんでゴミ箱に捨てた。小暮と は別のいじめっ子で、暴力は絶対ふるわない奴がいるのだ。おかげでぼくは1学期のうちに教科書もノートも体育のジャージも買いかえる羽目になった。
 うつむきぐあいに机に向かって、ぼくは1分ごとに時計を見ながら、あたりをきょろきょろと見まわしながら、小暮がやってくるのを待っていた。
 一人また一人とクラスメートが入ってくる。「おはよう」の声がする。女子3人の仲良しグループがテレビのお笑い芸人の話をしながら連れ立って入ってき た。さっそく教科書を広げて予習をはじめた奴がいる。男子二人がへラへラ笑いながら「女のおっぱいは右からもむか左からもむか?」と論じ合っていた。みん なぼくと眼をあわせようとしない。
 すっ、と気配が変わるのを感じた。ねばっこい夏の空気が、そちらの方角だけ冷たくなって、産毛がざわめいた。
 教室入り口の方を見た。
 小暮が入ってきた。今日は浅黒い顔に笑顔を浮かべている。やたら機嫌がよさそうだ。
 やれ! 今だ!   
 心の中で自分に号令をかけた。
 ぼくは椅子を蹴って立ちあがった。走り出した。教室の入り口まで5メートル、ぼくは脇目もふらずに走って、どんどん小暮の顔がでかくなって、
 身をかがめた。小暮の腹に力の限りタックルした。頭と首に重い衝撃があって、廊下の白い床とクリーム色の扉がぐるんと視界の中で回転して、
 ぼくは小暮を押し倒していた。小暮の180はあるでかい体は廊下に飛びだして、ぼくがその上に馬のりになっていた。
 小暮の顔から笑顔は消えて、でも怒りの表情も浮かんでなくて、ぽかんと口を開けていた。自分の身に何が怒っているのかわからないみたいだ。
 ぼくは立ちあがった。だが小暮の腕で足をつかまれて引き倒された。小暮の腹の上に尻餅をついた。
 立てない! 計画が狂った! ぼくはパニックを起こした。恐い恐い恐い、その2文字だけが脳内を埋め尽くして、
 小暮がパンチを繰り出してくる。頬に食らった。
 ……あれ?
 当惑で眼をしばたたいた。痛くなかった。後になって考えれば当然のことだ。倒れた体勢からパンチを打って威力なんてあるわけがない。でも当時のぼくには 理由なんてわからなかった。もしかしてぼくは本当に強いのか?
 ぼくは小暮の顔面に拳を振り下ろす。鼻に当たった。軟骨の柔らかいグニュリという感触。小暮は鼻血を噴いた。ぼくの拳は血まみれだった。
 え? なにこの威力?
 当惑しながら、ぼくは2度3度、小暮にパンチを叩きこむ。馬乗り状態からのパンチに小暮はなすすべもなかった。打たれ、打たれ、蛙が潰れたようなグエッ という呻きをあげ、腕を振り回してぼくの顔面や肩をつかんで、足をバタバタさせて逃れようとする。ぼくは全体力を振り絞って闘った。下から伸びてくる腕を 降りはらい、体重をかけて足を押さえこみ、パンチの雨を降らせる。
 ぼくは全体力を振り絞ってパンチの連打を続けた。
 何発目かのパンチでぼくの拳に痛みが走る。見ると皮がむけている。
 ぼくの心には恐怖があった。普段いじめられているときの、あきらめまじりの恐怖じゃない。「いま手を止めたら、反撃される。こっちがやられる」というピ ンと張り詰めた恐怖だった。だからぼくは背筋に冷たいものを感じて、恐怖に突き動かされて殴り続けた。10発、20発。
 やがて小暮は抵抗もできなくなった。彼の顔は鼻血と鼻水と涙でぐちゃぐちゃになっていた。赤い粘液が鼻から流れて顔の下半分を覆っていた。
「たすけてくれ……」
 消え入るような声を発した。
 彼のうめきを耳にした瞬間、ぼくの心に火がついた。
 恐怖は跡形もなく消えた。かわりに高揚感が押し寄せてきた。
 冗談じゃない、本番はこれからだ。これからお前の指を1本1本つぶして、腹に何十発も叩き込んで胃の中身を全部吐き出させて、そしてとどめに……
 歌いだしたくなるような気分だった。だからぼくはハイテンションの叫びを発した。
「いやだね!」
 叫びと一緒に、指をそろえて小暮の眼に突き立てようとした。
「やめろ!」
 怒鳴り声がした。
 ぼくは顔をあげる。
 いつの間にか、ジャージ姿の中年が目の前に立っていた。体育教師だ。
「もういいだろう。やめろ」
「いやです、先生」
「これ以上はイジメだ。リンチだ」
 そういわれた瞬間に頭が冷えた。
 ぼくは立ち上がって、あたりを見た。
 たぶん最初のタックルからたかが1分かそこらだと思うけど、廊下には人だかりができていた。ぼくと小暮がいる教室入り口を囲むように何十人も、男子生徒 も女子生徒も、眼をきらきらさせながら。ケータイのカメラを向けているものも10人くらいいた。
 もういちど小暮を見下ろす。
「たすけて、たすけて、謝るから……」
 その顔を、もちろんぼくは知っていた。
 ぼくは無言でその場を立ち去った。
 ……こんなにあっけないものだったのか。

 8

 それから10日たった。
 関東地方を巨大台風が直撃した日の朝、ぼくとヒカリは体を重ねていた。
 カーテンをしめきった窓から光は差し込んでこない。天井の黄色い豆灯の弱々しい光だけが部屋を照らしている。
 薄暗い中、ヒカリが全裸で横たわっていた。
 ギシギシ音を立てるからべッドは使わない。べッドと本箱の間の狭い空間にバスタオルを敷いて、その上に横たわっていた。
 ぼくは彼女の上に覆いかぶさっていた。片手で彼女の柔らかな髪をくしけずった。もう片方の手を頭の横に突いて、僕は彼女にくちづけをした。舌を入れ、く ちゅりくちゅりと唾液を交換する。そのまま唇を下のほうにスライドさせていく。なめらかな首筋、薄暗がりのなかに浮かび上がる鎖骨を舌で刺激した。うつぶ せの状態では2、3センチしか盛り上がって見えない控えめな乳房に口をつけた。いままでヒカリの髪をいじっていたほうの手を乳房にスライドさせる。右のふ くらみを口で、左を手で刺激した。ツンと立った大きな乳首を口に含んだ。汗の塩気が口の中に広がった。
 そのときカーテンの向こうから白い光が飛びこんで一瞬で消えた。外で稲妻が炸裂したんだ。雷光がヒカリの白い裸身を照らした。
 間近にあるヒカリの顔に微笑みが浮かんだ。これは快感じゃなくて余裕の表情だとぼくは知っていた。
 ヒカリが細い手をもちあげ、ぼくの裸の胸を指でなぞった。乳首をつまんでひねった。それだけで体の奥のほうにゾワゾワとよろこびが走った。
「うっ……くっ……」
 思わず声が漏れてしまった。
 ヒカリはぼくの顔を見ていたずらっぽく言う。
「あれ、このくらいで、だめなんですか?」
 からかうようにヒカリがささやく。
 ぼくは耐えて、ヒカリの乳房に指を立て、思い切り乳首を吸う。
 でもヒカリのほうが一枚も二枚も上手だった。触れるか触れないかの微妙な感触で、彼女の手はぼくの体を下りてゆき、股間のものをにぎった。包皮の上から つかんで、一気に皮をむいた。まだ、中身がむき出される感触には慣れない。指でペニスの裏をすうっとなぞられた。指は魔法のようにペニスを包み、玉の袋を 握り、強く、痛みを与えて、痛いと感じるギリギリのところで弱めて。そのたびに快感の奔流が高まっていく。 
 もう耐えられなかった。下半身をかけめぐるマグマが爆発した。ヒカリの手の中でぼくのものがはじけた。脈動しながら精液を吐きだした。ぼくはのけぞっ て、全身の筋肉を硬直させて、漏れそうになるうめき声をなんとかこらえた。頭の中が真っ白くぬりつぶされた。
 ヒカリはぼくの目の前で手を広げて見せた。
 にちゃあ、という感じで、指が白い粘液にまみれている。
「うふ、やっぱり我慢できませんでしたね? 10秒くらいで、だしちゃいましたね?」
 手のひらの中で精液をもてあそびながら、笑顔を浮かべてささやいた。
 ぼくは恥ずかしくなって眼をそらした。
「う……」
「そんなに気にすることないですよ、ユウキさん。最初の頃よりは、ずっとよくなりました」
 ぼくは勢いこんだ。顔を近づけ、手をあわせて訴える。
「よくなったよね? うまくなったよね? じゃあ、下のほうも…」
「それは駄目です」
 きっぱりした表情でヒカリは首を振った。
 ぼくとヒカリがこうやってえっちなことをするようになって10日。
 ヒカリは信じられないほどのテクニックでぼくの体を翻弄した。毎日毎日、深夜に、朝に、時にはまっ昼間から。でも、そのものずばりのセックスは許してく れなかった。
「どうして駄目なの。やっぱり傷?」
 ぼくはそう言って、ヒカリのお腹に視線を向ける。引き締まったお腹は包帯でグルグル巻きだ。
「セックスというのは全身運動ですから。体の負担が大きくて」
 そうだ、お腹を切ってからたったの10日じゃないか。
「そうだね。ごめん。治ってからにしよう」
「ええ、治ったらね」
 うなずきあった。『治ったら』。その言葉をかみしめて、ぼくはふと暗い気持ちになった。
 この10日間、ヒカリの体は信じられないくらいの早さで回復している。このあいだなんて、『体がなまるから』といって指立て伏せをしていた。見ている こっちが気が気じゃなかった。
 あと2、3日もすればヒカリは健康になるだろう。そして、この家を出ていく。
 夢のようなこの生活も、もうすぐ終わるのだ。
 この十日間、ぼくは幸福だった。いままでの人生で最高だった。ぼくが勉強をしているとヒカリは興味深げにのぞきこんできた。一緒にご飯を食べた。ぼくの 将来の夢を語った。ヒカリは自分の過去も未来も語らず聞き役に徹していた。でも話しただけで幸せだった。好きな小説の話をした。ヒカリはつきあってくれ た。熱心に聞き入ってくれた。なにより、「この部屋にかえってくれば、かならずこの人がぼくを待ってる」ってことが幸せだった。
 この幸せが、あと2、3日で終わる?
 出ていって欲しくなかった。ずっとここにいて欲しかった。でも、それを口にして、はっきりと断られるのが嫌だった。
 悩みが顔に出ていたんだろう、ヒカリはきょとんとした顔で首をかしげる。
「どうしたんですか?」
「い、いや、その、なんでもないよ」」
 ヒカリは微笑んだ。小さな子供のように無邪気な笑顔だった。
 ぼくの悩みに気づいて、明るく振舞ってごまかしてるんだろう。
「なにか、学校で困ったことでも?」
「ないよ。イジメもぴったりやんだし。こんな幸せでいいのかって感じ」
「いいんですよ。幸せは、幸せなときにめいっぱいたのしまないと」」
「……そうだね」
 そういわれると気が楽になった。
 ぼくは幸せなんだ。いまの幸せを、全力で味わおう。
「ヒカリさんっ」
 ぼくはヒカリの体をまた責めた。
 母さんが眼を覚ます6時になるまで、互いの体をむさぼりあった。

 9
 
 学校の便所で、誰に怯えることもなく用を足せる。 
 イジメから解放されて一番嬉しいのは、なんといってもこれだと思う。
 ぼくは鼻歌まじりで小便をして、教室に戻ってきた。
 ぼくが入ってきたとたん、クラスのあちこちでダベっていた連中が静まり返る。はじかれたように眼を背ける。落ちつかない様子で、ぼくとぎゃくの方向をな んとなく見ている。
 席に向かう途中で、太目の男子と方がぶつかった。岡島だ。アニメとか戦闘機とかのオタク趣味があって、何度かしゃべったこともある。そう、いじめられっ こだったぼくとも普通に口をきいてくれた、なかなかいい奴だった。
 その岡島が、
「ヒ、ヒイイ!」
 ぼくと方がぶつかっただけで悲鳴をあげて飛びのいた。
「ご、ごめんなさいごめんなさいっ!」
 滑稽なくらいにペコペコと頭を下げた。
「いや、気にしないから」
「ごめんなさい!」
 それでも岡島は謝りつづけた。
 震えるほっぺたと、あっちこっちに向く目玉。「いじめられっこ」の反応だ。ぼくに殴られるんじゃないかって怯えているのだ。
 ぼくはため息をついて、岡島の横を通りすぎた。
 小暮の奴にタックルかけて逆襲したあの日以来、いじめはピタリとやんだ。小暮は学校に出てこなくなった。何十人もの生徒がみてる前で、いじめられっこに ボロ負けしたのがよほどこたえたんだろう。
 でも副作用もあった。この目!
 クラス全員がぼくを恐がるようになっていた。怒ったら何をするか分からない、というイメージがみんなの心に焼きついてしまったのだ。
 さびしいけど仕方ない。
 ぼくが暴力をふるったのはあの時一度だけ。だからきっとわかってくれる。恐くなんてないって。
 椅子に座って、次の授業が始まるのを待った。
 そのとき、耳に叫びが飛びこんできた。
「すっげー、戦争だってよ」
 男子生徒の叫びだ。
 別の声が加わった。
「お、北朝鮮ですか。さっさとやっつけてくれるといいねー。でも日本も工作員がいるからさ……」
 こっちは岡島の声だ。
 工作員、という言葉がぼくの心に突き刺さった。胸の中でいやな予感がふくれあがった。ガタン! ぼくは立ちあがって声の方角に突進した。岡島たち2人の 男子が、仲良く座って携帯電話を見ている。
「貸せ!」
 携帯電話をひったくった。
 液晶画面にはテレビのニュースが映し出されていた。テレビ機能突きの携帯だ。
 画面の中ではアナウンサーが早口に喋っていた。
 『北朝鮮とアメリカ間で突如発生した大規模軍事衝突』
 『すでに日韓米軍は北朝鮮各所に航空攻撃を開始』
 『アメリカ国防長官は、この攻撃は北朝鮮の先生攻撃を察知して行われた予防的なものであると発表』
 『韓国ソウルからは市民の避難が始まっており』
 『……首相は緊急声明を発表、米国の決断を支持し国家間の義務を果たすと……』
 ぼくは震える手で携帯を握りしめていた。震えがどうしても止まらなかった。嫌な予感がする、北朝鮮の先制攻撃を察知し。
「なあ……」
 ぼくはうめくような低く押し殺した声を出す。岡島の肩をつかむ。
「な、なんですか」
「潜入工作員てのは?」
「あ、それはその。北朝鮮は日本にたくさんの工作員を潜入させてて。日本はスパイ天国だって。それがいっせいに、戦争の勃発に呼応して日本国内でテ、テロ 攻撃を……そんな眼でみないでッ!」
 ぼくはよほど険しい顔をしていたらしい。岡島たち二人は悲鳴をあげた。
 ぼくは携帯電話を机の上に投げ出した。
 あたまのなかで、ただひたすら自分を呪う。
 ……バカ。ぼくの馬鹿。
 お前だって本で読んでるだろうが。北朝鮮工作員が日本に潜入してるってのはお前も知ってるだろうが。どうして彼女と北朝鮮を結びつけなかった!?
「あっ、もうすぐ授業っ……」
 岡島の言葉を無視して廊下に飛びだす。
 無事でいてくれ、ぼくの思い違いであってくれ、ヒカリさん!
 
 10
 
 学校を抜け出して家に向かった。吹きつける風と、横殴りの雨の中を走った。トラックが爆風のように巻き上げる水しぶきを浴びて、ワイシャツが水びたし。
 家までたどり着いたところでひときわ激しい横風が吹いて、傘がぐしゃりと破壊された。玄関に残骸を叩きつけた。どうせ傘が役に立つような雨じゃない。ズ ボンもシャツも、パンツまでズブ濡れで体にまとわりついている。
 靴を脱ぐのももどかしかった。体を服のも忘れて、水しぶきを飛ばしながらぼくは二階への階段を駆け上る。ドアをノック。

 ドンドンドンッ
 ドンッ 
 ドンドンドンッ

 3回、1回、3回。
 いつもの通りの合図。
 勢いよく開け放つ。部屋に飛びこむ。
 彼女はいた。ヒカリはいた。
 最初に森の中で出会ったときと同じ、白いブラウス、胸元にリボン、チェックのプリーツスカート。
 机に向かって、ノートパソコンをひらいていた。
 パソコンの画面にはニュース画像が映っていた。
 上空から撮った映像らしい。
 ビルとビルに挟まれたた中を線路が通っていた。線路の上で緑色の電車が火を吹いて転がっていた。山手線だ。
 たったいま、電車から炎に包まれた人間が飛びだした。踊って、何歩か歩いて、その場に転がる。
 画像の下にはテロップ。
 『山手線 自爆テロ』
 ぼくは言葉もなく、その場に立ち尽くしていた。画面の中の出来事は間違いなく現実でそこでは何百人もの人間が亡くなっているはずなのに、まるで現実感が なかった。
 ヒカリが画面から眼線をはずして、ゆっくりとこちらを向いた。
「……あ、ユウキさん」
 いつもどおりのあどけない声で、白く幼い顔に微笑を浮かべながらヒカリは言った。
「きみは。きみが」
 ぼくはヒカリの顔を見つめながら問いかけた。声はまるで自分のものではないようにひびわれ、乱れていた。
 ヒカリは笑顔のままうなずいた。
「ええ。
 このゲリラ攻撃をやったのは、わたしの仲間です。
 わたしは『共和国』から来ました。
 日本人が『北朝鮮』と読んでいる、あの国からです」
「な……なんで」
「目的は撹乱と破壊工作です。今回のような戦争勃発時に、日本を攻撃するのが役目でした。共和国の軍備はひどく遅れていて、正攻法ではとても勝ち目がない からです。
 わたしは戦闘だけでなくて、メンバーの性欲処理も担当していました」
 メンバーの性欲処理。ぼくの心の中にいくつもの思い出がよみがえった。はじめて出会ったときのキス。風呂場で見た白い裸身。躊躇なくぼくのペニスをつま みあげて鮮やかに刺激した。そして毎日、この部屋で息をひそめて体を求めあった。
 あれと同じことを。彼女は。テロリストのメンバーに。やってたっていうのか。
 殺風景なアパートの一室で、ヒカリさんがレイプされる姿が思い浮かんだ。想像の中で、男たちは全員マッチョで、股間には腕くらいある黒々としたペニス、 なぜか全裸に覆面だけつけて、よつんばいにしたヒカリさんをうしろから……
 嫌悪感でたまらなかった。胸の奥から、わけのわからない痛みがこみあげた。
 ぼくがよほどひどい顔をしていたのだろう、ヒカリはクスッと笑って、
「潔癖ですね。
 メンバーの性欲処理って大事なことなんですよ。どうしても女が恋しくて、事件を起こしたり、女が原因で捕まってしまうことがよくあるのです」
 ヒカリは涼しい口調でいうと、たちあがって、床においてあったリュックを背負った。
  ヒラリとスカートをあげ、白い太股のレッグホルスターにマカロフを叩きこむ。
「どこに行くのさ!」
 ぼくは悲鳴のように叫んだ。
「もちろん、戦いですよ。私だけ寝てるわけには行きません。幸い、傷もだいぶよくなったし。
 ちゃんと命令されてるんです。『独力でゲリラ戦をやれ』って」
 ぼくはヒカリさんの両肩をぎゅっとつかんだ。
「し、死んじゃうよ!」
「あたりまえのことをいわないで下さい。わたしたちは戦争をしてるんです。命を捨てる覚悟なんていつだってできてます」
「どうして? どうしてだよ? どうして北朝鮮なんかのために死ぬんだよ!
 北朝鮮なんて悪い国じゃないか。
 国民も飢えてて、何の自由もなくて、どうしてそんな国のために。
 このままいようよ。ぼくの部屋にいようよ。何年だってかくまうよ」
 ヒカリさんの目に冷たい輝きが宿った。はぁ、と小さくため息をつく。
 仕方ないなあ、という感じの微笑みを浮かべる。
「ユウキさんの言うとおりです。
 共和国に正義はない。
 でも、わたしの国です。わたしは、この日のためにずっと訓練を受けて来たんです。訓練と選抜過程で多くの仲間が死にました。
 そしていま、仲間が闘って、死んでいます。
 ここで逃げたら、わたしの人生は無意味だったことになります。
 だから、闘います」
 ぼくは息をのんでヒカリの言葉をきいていた。
 彼女の顔を見ていることが苦しかった。でも眼がそらせなかった。黒い切れ長の瞳の中の、氷のように冷たく清らかな光から目をそらせなかった。こんなに純粋で気品のある 瞳はみたことがなかった。
 ぼくの心に確信が生まれた。
 説得は無意味だ。この人の決意は絶対的なものだ。
「……だから、さよならです」
 彼女の手が軽やかに動く。ぼくの手が肩からすばやく払いのけられる。 
「……ユウキさん、あなたには感謝してます。
 見ず知らずの怪しいわたしを保護してくれました。治療して、住む所まで提供してくれました。
 なにも詮索せず、わたしに安らぎの時間をくれました。
 この10日、わたしはとても幸せでした。
 暖かい寝床、おいしいご飯、それから、わたしに警戒せず接してくれる同居人。わたしにとっては夢でした。こんな人生もあったのかもしれない、と思わせて くれました。
 ありがとう、たのしい夢を見せてくれて。
 あなたの人生が豊かで、幸いでありますように。
 ……それでは」
 ヒカリはふかぶかと礼をした。実にさまになったお辞儀だった。そして流れるような動作でぼくの脇をすり抜け、ドアを開けて階段を降りていった。
 ぼくは呆然と立ち尽くしていた。
 ……たん、たん、たん。
 足音が遠ざかってゆく。
 ざああ、がたがた。風雨が窓を責め立てる音だけが残った。
 ……説得は無意味だ。
 ぼくは椅子に力なく腰を下ろし。
 ぼんやりと天井の木目を見上げ。
 そして、自分に言い聞かせた。
 これでよかったんだ。
 もともと彼女は危険な世界の人で、巻き込まれたら大変なことになる。よかったじゃないか普通の世界に戻れて。いじめからも脱出した。自信もついた。これ から胸を張って、いい人生をあゆもうぜ。
 いい人生。ぼくは想像した。彼女が出来て、デートして、セックスして、高校を卒業して、大学にいって仲間と騒いで、就職して結婚して子供つくって。こと細かに想像した。
 きっとそこにはすばらしい喜びがあるのだろう。
 でも……
 上をむいていたのに、涙がこぼれた。
 そこの人生にヒカリはいない。世界ではじめて「たすけて」と言ってくれた人。ぼくを求め、ぼくを頼って、ぼくに生きる力を与えてくれた人は、いないの だ。
 ぼくは立ち上がり、ドアをけやぶるように飛びだす。
 階段を駆けおり、玄関の外へ。
 よかった。まだヒカリはいた。まさに門を開けて出ていくところだった。アイボリーのレインコートを着ている。
「ヒカリさんっ!」
 ぼくは叫んだ。そして後ろから抱きついた。
 ぼくの行動は予想を超えていたのか、ヒカリの体が硬直するのが分かった。
 抱きついたまま、ぼくは言葉を叩きつけた。絶叫した。
「……つれていって!
 ぼくをヒカリさんの闘いに!
 つれていって!
 止めることができないなら、一緒に……一緒に闘いたい!」
 驚いた。自分の口から出た言葉に驚いた。でも、もう止まらなかった。
「……このままじゃ嫌なんだ! 今ここでヒカリさんと分かれて、ぼく一人だけ平和でへ等へらして、ヒカリさんはどこか遠くで殺されてぼくは何もできなく て……! いやなんだ! そんなのは絶対いやなんだーッ! だから、だからぼくはっ……」
 声がかすれて上手くしゃべれなかった。ただ、強く強くヒカリを抱きしめた。コートに包まれたヒカリの身体はとても固く感じた。あの狭いぼくの部屋で絡み 合っていたときはあんなに柔らかかったのに、いまのヒカリは固くて冷たかった。横殴りの雨がぼくの身体を叩き、学生服をずぶ濡れにしていた。
「……なぜ、ですか?」
 ヒカリが小さい声で言った。振り向かずにいった。
 風の音にかき消されてしまうほど小さくて、とまどうような声だった。
「……ユウキさん、外患援助罪というのを知っていますか?」
 突然出てきた意外な言葉。ぼくは言葉を返せずにいると、ヒカリは続ける。
「……日本の刑法にあります。外国の攻撃を手助けしたものは死刑または二年以上の懲役。重罪です。当然ですよね、国家反逆罪ですから。
 ユウキさんは、大変な罪を犯そうとしてるんですよ。
 それにいま、日本人は共和国のことをとても嫌ってます。ついてきたら、きっとユウキさんは売国奴呼ばわりされます。一生、蔑みの眼で見られることに……」
「だからなんだよ!」
 とうとうと淀みなく流れるヒカリの言葉を、ぼくは叫びで断ち切った。後ろから抱きしめたまま、ヒカリの髪の毛に顔をうずめるような姿勢で、ぼくは心の中 のすべてをぶちまけた。
「だからなんだよ。裏切り者がなんだよ、一生嫌われるのなんだってんだよ。ぼくは毎日殴られて、水をかけられてクラスメートから『虫』っていわれて、この 世の誰だって助けてくれなかったんだ。でもヒカリさんが、ヒカリさんが現れてから変わったんだ。ヒカリさんはぼくに楽しみをくれた。力をくれた。生きてて いいんだって教えてくれたっ。
 ヒカリさんがぼくを人間にしてくれた。
 だから、だから、ほかの連中がなんていおうと関係はない!」
「……でも」
 うろたえた様子で、ヒカリが一言。
「でもじゃない!
 簡単なことなんだ。
 ぼくは君が好きなんだ。死んで欲しくないんだ。
 君のために戦いたいんだ!」
 次の瞬間、ヒカリはぼくの両腕を振りほどき、その身を翻した。
 こちらに顔と身体を向けた。
 ぼくの目の前に、鼻先に、マカロフの短い銃身が突きつけられていた。眼にも止まらない速さだ。
 ぼくはおびえなかった。身じろぎ一つしなかったつもりだ。銃口をにらみつける。
 ヒカリは眼を見開く。
「……覚悟はできてる、みたいですね」
「もちろんだよ」
「あなたは戦闘の訓練を受けていない。足手まといになるでしょう。気合でどうにかなる問題じゃありません」
「いざとなったら、人質でも囮でもなんでもやるよ」
 即座に言い切ったぼく。ヒカリはマカロフをコートの下にしまい、いつもの冷たい微笑をうかべた。
「わかりました。
 では歓迎します、日本人義勇兵、アシカリ・ユウキ」

 11

 近所の銃砲店を襲って、上下二連式の散弾銃を手に入れた。
 そして散弾銃を抱え、国道16号線を走る。
 雨はますます激しく、レインコートを来ていても隙間から水が染み込んでくるほどだった。顔面の下半分をおおっているバンダナは、すっかり水をすって重く べっとりと頬にはりついてしまっている。強風が街路樹を揺らして葉っぱを飛び散らせていた。
 ぼくたちは風雨の中を走り、そして待っていた。
 来た!
 国道16号の南方向から、激しい雨の向こうから一台のバスがやってくる。クリーム色の車体。神奈中バスだ。
「ぼくがやる!」
 ぼくは叫んで、勢いよく車道に飛びだした。バスの前に飛びだした。
 神奈中バスは急ブレーキをかけ、ぼくの目の前たった3、4メートルくらいの距離で止まった。
 運転席の横から初老の運転手が身を乗りだし、
「あぶな……!」
 叫ぼうとして、口をぽかんと開けて硬直した。
 もちろんぼくたちふたりが、バンダナで顔を隠して銃を持った『テロリスト・ルック』だったからだろう。
 ぼくは即座に散弾銃をバスに向けた。バスの前面のいちばん上、『橋本駅南口』という行き先表示に向けた。トリガーを引く。
 ドウッ!
 軽い衝撃があった。撃ち方をヒカリに教わっていたけど実際に撃つのは初めてだった。衝撃にぼくは耐えた。飛びだした鹿打ちようの散弾が『橋本駅南口』を 粉砕した。
 ぼくは思い切りドスのきかせて叫ぶ。
「ドアを開けろ! 開けなければ撃つ!」
「はッ、はいッ!」
 運転手は甲高くわめいて、手元で何かを操作。全部のドアが開いた。
 ぼくとヒカリはバスに乗りこむ。
 バスの中は蛍光灯のあわい光に照らされていた。平日の昼という時間のせいなのか、乗客は老人と女ばかり、若い男はほとんどいなかった。埋まっている座席 は全体の3分の1、つまり20人くらいしかいない。
 ぼくたちの姿を見て乗客たちは恐怖に顔をこわばらせた。老人が目をむき、おばさんは抱っこしてる小さな子をしっかり抱きしめた。
「た、助けてくれ! 金は払う!」 
 老人の一人が分厚い財布を出しながら言う。
「殺さないで!」
 若い女が手を合わせて懇願する。
「この子を助けて」
 ぼくの散弾銃におびえた様子もなく、子供を抱えたおばさんが張りにある声で言う。
 子供は銃の恐さもなにもわからないのか、おばさんの腕の中できょとんとしている。
「どうする?」
 ヒカリは人質たちをチラリと見て、
「子供がいると邪魔です、あなただけ降りなさい」
「ありがとうございます!」
 おばさんはすぐに駆け出し、バスの外に飛び出してそのまま走っていた。
「俺も!」「わたしも助けて! お金出すから!」
 人質たちは次々に立ち上がって訴える。
「ダメだ!」
 ぼくは叫んで散弾銃の銃口をめぐらす。手が震えているのがばれませんようにと思いながら。
 人質が全員沈黙し、こわばった表情で眼をそらす。
 ヒカリがマカロフを抜き、運転手の首筋につきつけて、おごそかに宣言。
「我々は朝鮮共和国人民軍だ。このバスを占拠した。運転手!」
「は、はい」
「都心まで行ってもらおうか」
「る、ルートは……」
「任せる。ただし高速道路には乗るな。封鎖されるとひとたまりもない」
 ヒカリの声は、彼女の優しい面を知ってるぼくが聞いてもぞっとするくらい冷たく尖っていた。
 運転手はバスを発進させる。ブルブル、というディーゼルエンジン特有の騒音と振動。
 バスは次の交差点でUターンした。16号線を南下する。
「あ、あの」運転手が青ざめたまま、うめくように言う。「国道246で渋谷に向かいます、よろしいでしょうか」
「いいでしょう。さて皆さん。携帯電話を出してください。ポケットから出して。隠しているとためになりませんよ。それからいちばん後ろの席を開けてくださ い」
 ヒカリの指示に、人質たちは従う。
 ぼくは安心して、散弾銃を握る手を緩めた。
「ね、バスジャックでよかったでしょ?」
 ヒカリは笑ったように見えた。
「もっと威厳を。そんな軽薄なゲリラ戦士はいません」
 バスジャックを提案したのはぼくだった。ヒカリは最初「鉄道を転覆させましょう。ダンプカーでも奪って小田急線にでも突っ込ませれば大ダメージを与えら れます」といってぼくを青くさせた。それをなんとかバスジャックに変えたのだ。
 ただ殺して終わりより、人質をとって日本政府を揺さぶったほうがいい。ぼくはそういって説得したんだけど、もちろん本当の狙いは別にある。
 ヒカリに死んで欲しくなかった。大量殺戮にも手を染めて欲しくなかった。バスジャックなら、死なず殺さず終わる事もできるかもしれない。 
 どうかそうなってほしい。
 願いをこめて、ぼくは運転席のそばに立つヒカリを見つめた。
 ぼくの気持ちに気づいているのかいないのか、ヒカリはつめたい声で命令を放つ。
「なにをやっているのです。人質を監視なさい」
 戦士と呼ぶにふさわしい気迫だ。
「はい、同志!」
 名前を呼ぶわけにはいかないので、ぼくたちは同志と呼び合うことにしていた。
 ぼくはバスのいちばん後ろの座席に座った。ここは一段高くなっている。ここなら乗客全員を見渡せて、いつでも撃てる。
 おのれに言い聞かせた。
 ぼくは戦士。
 窓の外に視線を走らせると、バスはアンダーパスにもぐっていた。
 ヒカリは人質から取り上げた携帯電話で、どこかに電話をかけ始めた。
「……警察ですね。わたしは共和国人民軍のものです。たったいまバスを占拠しました。わたしの要求に従わない限り乗客全員を殺害します。これは冗談でもい たずらでもありません。同志、発砲しなさい。我らの号砲を聞かせてやるのです」
 ぼくは散弾銃を窓の外に向け、ブッ放した。ドウッ! 窓ガラスが砕け散ってふっ飛んでゆく。乗客の一人がヒィッと押し殺した悲鳴をあげた。
 ヒ力リはぼくのほうをちらりと見て満足げに微笑む。
「わかりましたか? そうです、わかればよろしいのです。
 では要求を伝えます」
 ぼくはヒカリの声を聞いてぞくぞくする快感をおぼえた。
 
 12
 それから20分。
 バスは国道246に入って7、8キロ走った。
 このあたりは横浜市青葉区。
 窓の外には、雨に煙る田園が見える。国道は少し高いところを走っているので田んぼと畑が見下ろせる。ところどころに民家と店があるだけで、畑の多いのど かなところだ。
 ぼくはいちばん後ろ、ヒカリはいちばん前に立って監視を続けている。
 乗客は声一つ立てずにいる。
 バスの中を充たしているのは低いエンジンのうなりと雨音と、それからラジオの放送だけだった。外の情報を知るために携帯ラジオをガムテープで張りつけて いるのだ。
「……さきほどお伝えした同時多発テロ関連のニュースですが、ただいま続報が入りました。首相官邸を占拠した武装集団からの声明が発表されました。『我々 朝鮮人民軍は日本国の降伏を要求する』とのことです。なお、声明とともに送られてきた携帯写メールによりますと官邸内には総理、官房長官はじめ8名がとら われの身となっている模様です。また、赤坂・アメリカ大使館ではいまだ武装勢力とアメリカ海兵隊による激しい戦闘が続いており」
 北朝鮮によるテロ……ゲリラ攻撃は順調みたいだ。
「あと一撃欲しいですね」
 ヒカリはぽつりと呟く。と、そのとき彼女の首から下げた携帯が着メロをかなで出す。「踊る大走査線」のBGMだ。この状況だと何かの冗談みたいだ。
「はい、わたしです。……あなたでは話になりません。もっと上のものと代わりなさい」
 警察との交渉が再開したんだ。人質たちがそろって顔をこわばらせる。それはそうだろう、決裂すれば自分たちは殺されるんだ。
「はい。……いえ、金銭では無意味です。……おだても要求していません。待ってください」
 ヒカリさんが電話に集中してる間はぼくが監視をしっかりやらないと。ぼくはバスの中、フロントガラス、リアガラスを交互に見て、警戒を怠らなかった。
 後方にパトカーを見た。2台、いや3台。赤灯をギラギラ光らせて接近してくる。追い上げてくる。
「同志、後方にパトカー!」
「運転手、もっと速度を出しなさい」
「無理です。この図体じゃ!」
 運転手は頑張っているらしい。でも前方にはたくさんの車が立ちふさがっている。バスの大きさではクルマとクルマの間を軽快にすり抜けられない。
 たちまちパトカーはバスを追い抜いた。拡声器で「止まりなさい!」「止まりなさい!」をがなりたてる。
 バスの前に一台回った。ぴったり寄せてくる。フロントガラス越しに、パトカーに乗ってる警官二人の顔までわかる。緊迫した表情でこちらを見ていた。前に はりついてパトカーが減速した。バスはガン! と追突してしまう。「ひ!」と運転手が悲鳴を漏らし、ブレーキを踏んだらしくバスは減速。
 するとますます前方のパトカーは減速。バスもそれに合わせて減速。
 ちょうど上り坂ということもあって、みるみる速度が落ちてゆく。後ろを見たら、そっちにもパトカーが張り付いていた。このままでは強制停止させられる。
「対応が早いですね、やるものです」
 ヒカリは面白そうにつぶやいて携帯を閉じ、ぼくに命じる。
「同志、後ろのパトカーを排除しなさい」
 冷たく、りりしい声だった。ぼくとヒカリの距離はおよそ8メートル、こまかい表情は分からない距離だけど、でもぼくは確かに見た。ヒカリの眼はぼくを見 つめて、問い詰めるような輝きを発している。
 ぼくの覚悟を確かめてるんだ。
「わかりました」
 短く答えた。いちばん後ろ、左の席に座った。窓を開け、身を乗り出す。顔に殴りつけられたような雨が降りそそぎ、ぼくは眼球を叩く雨の痛みに耐えてしっ かり眼を見開き、散弾銃を向ける。
 タイヤに向けて撃った。ドウ! 低い音がとどろく。散弾は見事タイヤに命中、パトカーは巨人の手で捕まれたようにスリップし、蛇行しながら交代してゆ く。バスの速度に取り残されてゆく。パトカーの運転席と助手席であわてている警官ふたりの顔が見えた。
 2発めを撃とうとした。だがカチリと音がしただけだ。
 これは上下2連だから弾が2発しか撃てないのだ。緊張のあまり忘れていた。ぼくは舌打ちして、散弾銃の銃身をパカリと折った。リュックから取り出した弾 薬を装填する。弾薬は緑色のプラスチック筒だ。
 装填を終えて、また後ろの窓から頭と腕を突き出し、
 そのとき、警官と眼が合った。
 警官はヘルメットをかぶっていた。四角くていかつい顔つきで、大きな眼でぼくをにらみつけていた。鼻の穴が膨らんでいるのが分かるほどの至近距離だっ た。たった4メートル後方で警官はパトカーの窓から顔と頭を出して、ぼくに拳銃を向けていた。
 撃たれる。一瞬にして恐怖が背中を駆け抜けた。腕と指の筋肉を突き動かした。ぼくは警官の顔に銃口を向けて引き金を引いた。
 ドウッ! さきほどより大きな銃声が響いた。ぼくの頬を銃弾が掠めていった。衝撃が頬の肉が痺れた。向こうも撃ったのだ。同時に撃ったから音が大きかっ たのだ。ぼくの見ている前で警官は電撃でも浴びたようにのたうち、パトカーのドアが穴だらけになって外れ、警官はそのままドアから転がり落ちた。地面をバ ウンドする。バスの動きから取り残されて後方へ消えた。
 撃った! 人を撃った。
 恐怖はなかった。罪悪感はなかった。機械的に次の弾をパトカーのタイヤに撃ち込んだ。パトカーが激しく蛇行するせいで当たらなかった。ボンネットがガガ ガン! と穴だらけになって車体から剥がれ落ちた。エンジンにも損傷を与えたらしく煙を噴いて、急減速して後ろにすっ飛んでいく。後方から来たトレーラー に追突された。ガラスは周囲に飛び散った。
「……よし!」
 ぼくの口から上ずった声が出た。生まれて初めて人を撃ったのに恐怖はなかった。それどころか高揚感があった。
 前に向き直った。再び人質たちににらみをきかせた。ぼくと入れ替わるようにヒカリが窓から身を乗り出し、前方に向かいマカロフで一連射。
 ドスドス! 鈍い音が連続してとどろく。
 正確な射撃だった。前方のパトカーはタイヤを破壊され暴れだした。サッカーのドリブルのように、バスの前面に何度も何度も激突する。金属のひしゃげる破 壊音。ボンネットとバンパーとフロントガラスとドアがはじけ飛んだ。運転手がバスの針路を左に曲げた。部品をまきちらしてパトカーは後方に流れてゆく。す ぐに見えなくなった。
「ふう……」
 ぼくは息をついた。いつのまにやら心臓が破裂しそうに激しく脈打っていた。
「我々の本気が理解してもらえるとありがたいんですが」
 ヒカリは落ち着いた様子で車内を見渡す。人質たちはこわばった表情でみな目をそらした。
 柱にくくりつけたラジオがテロ情報を流し続けていた。
「なお、静岡県浜岡原発は占拠されたことが確実と見られており」
 ヒカリが重々しくうなずいた。
「原発ですか。これなら屈服に追い込めるかもしれませんね」
「あれ? 知らなかったの?」
「全体の作戦計画なんて、末端は知らされてませんよ」
 ぼくは散弾銃をにぎる手に汗を感じた。
 原発まで占拠された。本で読んだ。原発をメルトダウンさせれば半径200キロが住めなくなる。静岡県なら東京と名古屋をつぶせる、日本滅亡の危機だ。こ れなら本当に日本を動かせる。心臓が高鳴った。ぼくは本当に世界史の転換点にいるのかもしれない。
 と、そのときぼくは気づいた。
「やけに道が混んでませんか?」
 青葉インターを過ぎて、まわりの景色は都会的なものに変わっていた。畑はまるで見えなくなり、レストランと自動車ディーラーとマンションが道の両脇を ビッチリ固めている。景色だけじゃなく、道路状況も変わっていた。さきほどは60キロくらいで普通に流れていたのに、いまは3車線全部がクルマで埋まっ て、せいぜい30キロがそこらで走り、すぐに止まる。
 ぼくの問いかけにヒカリはうなずく。
「検問が始まりましたね。空いてる道路を探せますか?」
「任せてください」
 即答して、背中のリュックからノートパソコンを出す。携帯電話につなげてネット接続、「道路状況」のサイトを呼び出す。東京周辺の地図が表示され、混み 具合に応じて色がつけられている。
 国道246は、いまいる青葉区から多摩川を越えるまで、ずっと真っ赤だ。ぼくは地図を眼で追って他の道を探した。多摩川を渡る手前で409号線に降り て、1キロくらい南にある多摩川大橋を使うか。それとも409を逆に3キロすすんで登戸の多摩川水道橋を使うか。だめだ。どの橋も真っ赤だ。
 ぼくは別のサイトに飛んだ。巨大匿名掲示板の『交通板』だ。ブラウザのウインドウ一杯に何百もののスレッドが並ぶ。早くも『多摩川周辺で検問?』というス レッドが立っていた。中を覗いてみると、

 15 匿名希望さん
 いま246いるんだけどサ 溝の口あたり
 もうたまらんよ渋滞 どうにかナンネーノ?

 16 匿名希望さん
 >15 検問だろ?
 おれも津久井道いるんだけどここでもやってるぜ
 いちいち持ち物チェックとかはじめてる

 17 匿名希望さん
 マジデスカ! やってらんねーつうの
 テロリストうぜー

「他の道でも検問が始まってます」
「そうですか……」ヒカリは小首をかしげ、その間も運転手にマカロフを向けたままで、
「では仕方ありません、強行突破しましょう」
「いいんですか?」
 検問というのは映画でしか見たことがないけど、警察官が何十人もいるはずだ。こちらは二人、それも片方は素人。
 しかしヒカリは一瞬のためらいもなくうなずく。
「狭い道を行って追い込まれるよりは、一点突破にかけるべきです。ただし、スピードが大切です。運転手!」
「無理です、渋滞している以上は進めません!」
「抜け道を探しなさい、多摩川の手前まで、渋滞にはまらずいける道です」
 運転手の後頭部にマカロフが押し付けられる。
「わかりました……」
 かすれた声で運転手がうめく。バスは246をはずれ、住宅地に入った。本来ならバスが通らないほど狭い道を進んでゆく。家が連なっていた。クルマがすれ 違えないほどの道だった。
 台風のせいか、住宅地に人通りはほとんどなかった。
 一戸建ての前を通過するとき、庭でなにかの作業をしていたおばあさんに出くわした。おばあさんが腰を抜かした。ぼくたちはそのまま通り過ぎる。宅配便の配達のクルマとであった。クルマの運転席には若い男がいて、こんなところに来るはず のないバスをいぶかしげに見て、「あ!」とでも言わんばかりに眼をむいた。拳銃をもったヒカリに気づいたんだろう。
 住宅地を通る片側一車線の道路に出た。やってくる対向車はことごとくスピードをゆるめて、運転手はおっかなびっくりの表情でこちらを注目する。ぼくたち がバスジャック犯だと気づいて、見世物のように感じているのだ。道沿いにセブンイレブンがあった。軒先でたむろしている若い男女が、ぼくたちを指差して何 事が叫んでいる。まるで芸能人を見かけたように嬉しそうだ。セブンイレブンもすぐ背後に消え去った。裏道は空いていた。運転手の土地勘は確からしい。
「あ、あの」
 運転手がボソリと言った。
「なんですか?」
「もうすぐ246です。梶ヶ谷あたりです」
 運転手の報告をきいてとっさに地図を確認した。梶ヶ谷というのは、多摩川をわたる3キロほど手前にある交差点だ。
「ありがとう、よくやってくれました」
 意外なほど落ち着いて紳士的にヒカリは言う。
 バスは坂道をあがり、一軒屋の間を抜けた。放置自転車を巻き込んでひき潰してしまった。道が狭すぎるのだ。
 246に出た。このあたりはすっかり都会だ。交差点には巨大なコジマ電気の店舗がそびえたっている。再びバスは渋滞の中にもぐりこんだ。
「いよいよです。同志、警戒を怠りなく」
「わかった」
 ぼくは散弾銃にまた弾を込めた。たった4回撃っただけなのにこの茶色い銃が頼もしい相棒に思えてくる。弾を込めて引き金に指をかけているかぎり誰にも負 けない、そんな気になっていた。
 前方の道路が持ち上がっていた。上り坂になっていた。さきほど地図を見て、ここがなんだかは知っていた。246と409の立体交差だ。
 ここを超えれば、あとはもう多摩川を渡るだけ。
 バスはクルマの流れに合わせてノロノロと坂を上った。
 坂を上りきった場所から、多摩川が見えた。
 幅広い河に大きな橋がかかったいる。橋のど真ん中にパトカーが並んでいる。
「いきますよ」
 ヒカリが小さな声で、しかし鋭く言う。
「運転手! 突撃しなさい」
 窓から前方に向けて射撃をはじめる。
 当てるつもりはなかったようだ。雨の流れる黒い路面にしぶきが上がる。
 だから当たらなくても誰もが意図を理解した。「どけ」といっている。
 前方のクルマはみんな車体を道路の両脇に寄せた。道路の真ん中に通路が出現。
「突撃です、運転手!」
 ヒカリはマカロフを前方に向けたまま、スッと足を翻して運転手の頭を蹴る。
「は、はい!」
 ガタガタとバスは加速した。道路の真ん中に作られた通路を突き進んだ。ヒカリは何度も撃った。ドスドスと銃声が響き、バスが駆け下り、モーゼの十戒のよ うにクルマの列が開いて道ができてゆく。道の幅が足りないのでバスの両脇がクルマをこすった。ゴリイゴリイ、という不気味な重低音が車内に充満する。
 下り坂を駆け下りて速度は60キロ、いや70キロ。
 多摩川を渡る橋、新玉川大橋へと突入した。
 橋のど真ん中にはパトカーが並んでいた。およそ数は10台。普通のセダン型だけでなくワンボックスカーもいた。いちばん後ろにはマイクロバスくらいある 水色の車両もあった。10台がそろって赤灯を回している姿が壮観だった。
 パトカー列の前には警察官たちが7、8人出ていた。ヘルメットをかぶり、透明な盾を持っている。
 機動隊員だろう。盾を持った人たちの後ろに普通の警察官が並んでいる。
「あなたは車両を攻撃してください。私は警察官を仕留めます!」
 窓から顔を出して射撃体勢を取りながらヒカリが鋭く叫ぶ。
「う、うん」
 バスはますますパトカー群に接近。パトカーから出てきた警察官のひとりが拡声器を持って大声を叩きつけてくる。
「警告! 直ちに停車しなさい! 停車しない場合は……」
 ぼくとヒカリは撃った。警告なんて無視だ。ギン! ギン! という甲高い音は盾に跳ね返されたのだろうか。パトカーは防弾されていなかった。窓ガラスが 吹き飛び、ドアが弾け飛んだ。
 盾の後ろの警察官たちが拳銃を抜いた。両手で持って腰を落として射撃姿勢を取って、
「止まれ! 警告する! 止まれ!」
 パン! 乾いた銃声がはじけた。同時にバスのフロントガラスが炸裂、車内にガラス片が飛び散る。
 もちろん無視だ。ぼくはヒカリの指示も持たず運転手を怒鳴りつけた。
「運転手! そのまま突っ込んで!」
「で、できません!」彼は頭を抱え込んだ。
 ぼくも疑問を覚えた。
 体当たりでパトカー10台吹っ飛ばすの?
 それはいくらなんでも無理じゃない?
 ヒカリはとっさに動いた。運転手を席から蹴り落とし、ハンドルに飛びついて、
「共和国、万歳(コハッグ、マンセー)!」
 何かギアチェンジレバーをいじったように見えた。
 体当たりした。
 ぼくは激突の瞬間、見た。
 盾を構えて勢ぞろいしたまま、逃げなかった警察官たち。
 彼らは全員、時速70キロで突っ込んできたバスに弾き飛ばされて宙を舞った。紙人形のようだった。ぼくの心のどこかにチクリと痛みが走った。
 次に瞬間、バスとパトカー群が激突……しなかった。
 車体が揺れた。浮いた。斜めになった、前のほうが浮き上がった。まるでオートバイのウィリー走行のように。
 そして衝撃がやってきた。真下からやってきた。バスが持ち上げられ、落下し、また持ち上げられ、落下した。車体が上下にシェイクされた。人質たちはみん な悲鳴を上げて席から放り出された。みんなの持っていた傘が宙を舞った。
 なにが起こっているのかぼくは理解した。パトカーに体当たりはしなかった。体当たりの代わりに飛び乗ったのだ。その上を走っているのだ。なんていうアク ロバット走行だろう。
 床下で金属を潰れる音ガラスの砕ける音がとどろいた。何万のコーラ缶とガラス瓶がまとめて破砕されるような大音響だ。いまバスはパトカーのボンネットを 駆け上がりフロントガラスと屋根をまとめて踏み潰しているのだ。
 削岩機のようにバスが揺さぶられた。
 ぼくは散弾銃を抱っこして柱にしがみついているのがやっとだった。他のことは何も出来なかった。
 バスのフロントガラスを通して見える前方の景色は、転がるように橋って逃げてゆく警察官、ひときわ大きいバス型パトカー。
 いけるか? あのでかい図体を超えられるか?
 ガン! 床の下でなにか硬い物同士が激突する音。車体が浮いた。浮かんだ。一瞬、重力が消える。
 飛んだ、ジャンプした、気づいたとき、ぼくは口を固く結んで柱に力の限りしがみつき、
 コンマ数秒後、バスは着地してこれまでで最大の衝撃が襲ってきた。しがみついていたのもむなしくぼくの体は座席から飛び出した。気を失った。
 意識を取り戻したのはたぶん、ほんの数秒後だろう。
 パチリと眼をあけて「人質!」と思い出す。
 人質を監視するのはぼくの重要な任務だ。
 まだ銃を抱えたままだったので、持ったまま立ち上がって車内を見下ろす。
 エンジン音が消えていた。
 いつの間にやらラジオの音さえも消えていた。
 天井の蛍光灯も消え、明かりはどす黒い空から漏れてくるわずかな自然光だけ。
 人質20名はみな、床に転がっていた。
「うう……」
 みんな腹や頭を抱えてうめいていた。どこかに怪我をしているらしい。
 ぼくはフロントガラスの向こう、前方を見た。
 パトカーはもう1台もいない。
 後方を見た。屋根をつぶされスクラップになったパトカーが乱雑に並んでいる。ひしゃげた窓から血まみれの腕が出ている。残酷だと感じるより先に高揚感を 覚えた。完全勝利、という4文字が脳裏に浮かんだ。
「やった! やったよ! 突破したよ!」
 ぼくは思わず叫んで運転席に駆け寄った。
 驚いたことにヒカリだけは、あの揺れにもかかわらず運転席に座ったままでいた。
「だめです」
 悲しげにヒカリはうめいた。顔の下半分をバンダナで隠しているが、上半分だけでも「苦悩の表情」を浮かべていることは分かった。
「なにがだめなんです」
「動かないんです、バスが。エアが上がらないんです。いまので故障したようです」
 その言葉にぼくは硬直した。じゃあ、もう進めない?
 ぼくが何かを言うよりも早く、ヒカリは沈痛な声で呟いた。
「代わりのクルマを用意させましょう。それから人質を減らしましょう。
 長丁場になりますよ。覚悟はいいですね?」
 ぼくはヒカリの眼を見た。彼女のつり眼気味のぱっちりした眼は、この状況でもきらきらと輝いていた。
「当たり前だろ」
 精一杯の気力をこめて、言い切った。
 
 13

「起きてください!」
 ヒカリの声に、目を開ける。
 自分はどこで何を? 最初の1、2秒、意識が朦朧としていた。
 記憶が急速に蘇る。
 ここはバスの中、いちばん後ろの席にいて、散弾銃を抱えている。あたりは明るい。窓の外が赤く輝いている。バスの窓には外から覗かれないよう新聞紙が 貼ってあるが、その新聞紙を透過して赤い輝きが差しこんでいる。
 ハッとなった。
 寝てしまったのだ。あまりにも疲れすぎて緊張感が持続しなかった。
 ぼくは散弾銃をしっかり握り締め、車内を見回した。銃口をめぐらす。車内の人質は10人ほど。バスジャックをはじめたときより減っているのは、ケガのひ どいものを解放したからだ。残った10人は全員が後ろ手に縛られて座席に乗っている。老人が3人、中年女性が6人、若い男性が1人。みな一様に疲れた表情 をしている。
 すぐ目の前にはヒカリがいた。アイボリーのレインコートを脱いで、白いブラウスとプリーツスカートの制服姿。顔の下半分をバンダナで隠している。
 ぼくのほうを鋭く見て、
「気が抜けてますよ」
 全くだ。
 バスジャックをはじめたのが昨日の11時、今は朝6時。ちょうど19時間が経っている。検問突破が失敗してからずっと、新多摩川大橋の上で立ち往生した ままだ。
「状況は?」
 ぼくの問いにヒカリはうんざりした様子で答える。
「相変わらずです。『降伏しろ、降伏しろ』」
「外はパトカーだらけ?」
「もちろん。何十台いるやら」
 そのとき、ぐうう、とヒカリのお腹が鳴った。
「あ……」
 恥ずかしそうに眼をそらした。
「ご飯、少し食べたら?」
 ぼくたちは出発するとき、コンビニで総合栄養食を買ってきた。このウェハースを食べれば一日分の栄養が取れる、というものだ。味気ないけど、コンパクト なのは大切なことだ。
「ダメです。人質に食べさせます」
 きっぱりと言い切るヒカリ。
「変なところで人命を尊重するなあ」
「当然です。人質を守る意志がゼロでは交渉できません」
 と、そのときヒカリの首から下げたケータイが鳴った。
 ヒカリは電話をとる。そのとたん、黒い瞳に挑みかかるような戦闘的な光が宿る。
「もしもし。ああ、あなたですか。だめです。ええ。お金はいりません。移動手段を用意してください。……違います。慰めの言葉は要りません。懐柔も必要あ りません。それから、最初の要求は日本政府に伝えましたね? 共和国への降伏は? わたしが要求しているのは二つだけです。では、考えが変わったらまた連 絡をください」
 ヒカリさんは電話を切って、ため息。
「また例の交渉人?」
「ええ」
 ここで包囲されてから19時間の間は、「交渉人」との戦いだった。交渉人はぼくとヒカリの両方に揺さぶりをかけてきた。携帯や拡声器で投降を呼びかけて きた。
 まさにその瞬間、バスの外から声が。
「おはよう、共和国戦士の、少年のほうに呼びかけるよ!」
 中年の声なのにやたら軽薄な喋りかただ。
「ねえ、一晩中考えていたんだけど、君ってその女の子にいやいや従ってるんじゃないかな?
 まだ君は若いし、たとえ共和国がすばらしいものだとしても、いまはすぐに命を賭けるんじゃなくて、もう少し考えてみるのはどうかな?」
 聞いているうちにイライラがつのってきた。
「貸して。これで掛けられるんだよね?」
 ヒカリさんのケータイを借りて、さっきの番号にリダイヤル。
「もしもし。男のほうですけど」
「やあ君か! 考えなおしてくれたのかい?」
「だめです。ぼくの考えは変わりません。ぼくはここで、ずっと彼女と一緒に戦います。では」
 ピッ。電話を切った。
「あとはどんな手で来るかな」
 ぼくはケータイをヒカリに返しながら呟く。
「あとは、あなたの家族を出してくるとか」
「そうだね。ぼくがどこの誰なのか、もう分かるころだよな」
 一瞬、母さんのことを思い出した。母さんと父さんがいる家、一人でご飯を作ってたまに母さんと喧嘩して、学校ではいじめられ続けて何も出来なかった、あ の頃。あの生活。
 愕然とした。まるで何年も昔のことみたいだ。
 いろいろあったはずだ。両親との思い出を回想した。ダメだ。遊園地に連れて行ってもらった、はじめてランドセルをしょった、一家で万座高原までスキーに 出かけた……だめだ。確かに記憶はあるけど、こにいる自分とはぜんぜん関係ない他人の記憶みたいだ。
「大丈夫。たとえ父さん母さんが説得してきても、ぼくの心は揺らがない」
 ぼくは力強く断言した。
「頼もしいですね」
「それより、いまの状況を確認しよう」
 ぼくはバスの柱を指差した。携帯ラジオがくくりつけられてある。
 スイッチを入れた。
 相変わらずテロのニュースが流れ出した。
「……爆破予告のあった中央線、京王線、西武新宿線は爆発物を発見できず、悪戯とみて平常どおりの運行を再開する見込みです。いっぽう、首相官邸・アメリカ大使館お よび浜岡原発を占拠した北朝鮮部隊はいまだ日米両政府に対し降伏要求をつきつけており、周囲を包囲する警察部隊との間で緊張が高まっております。本日正 午、首相は自衛隊の出動に関して国民に発表があるとのことです」
 ラジオから流れるアナウンサーの声は昨日と同じだ。もしかしてあなたは一晩中ずっと報道を続けていたのか。ご苦労なことだ。
「半島での戦況も知りたいところです」
「うん」
 さっそくノートパソコンを開いてニュースサイトを見た。
 新聞系ニュースサイトでは、のきなみ戦況を「米・韓国軍の圧倒的優位」と報じていた。開戦から20時間でアメリカ軍は北朝鮮軍事拠点の90パーセントを 破壊したとか。離陸するF16戦闘機の写真が掲載されていた。韓国空軍のものだ。
「我々のがんばりにかかっています」
 重々しい表情でヒカリは言う。ぼくもうなずく。
 もちろんたった20人を人質にとって、国を動かせるとは思えない。
 でも、ダムが蟻のひと穴で崩れることだってあるし。
 ぼくはこの人のために全力を尽くす。そう決めたんだ。
「つぎの交渉では食料を要求しよう」
「トイレも重要ですね、士気がさがる」
 ぼくたち二人は、明るく笑った。
 パトカー何十台に包囲されているという悲壮感なんて、微塵もなかった。
 ろくに寝ていなくて疲れているはずなのに、心と体にエネルギーが満ちていた。
 まさにぼくたち二人が笑顔を交し合っていたそのとき。
 ラジオが、告げた。
「……緊急のお知らせです。
 たったいま北朝鮮上層部でクーデターが発生。新政権は即時の停戦を受け入れるとのことです」
 空気が凍りついた。
 ぼくは硬直した。ヒカリさんがマカロフを取り落とした。
 一瞬おいて、人質たちが「おお……!」とどよめいた。
 戦争はこれで終わる、自分たちは解放される、そう思ってのことだろう。
「おい!」
 ヒカリはラジオを柱からむしりとった。両手でラジオをつかんで猛烈に揺さぶりながら、
「嘘だな? 嘘なんでしょう? 嘘ですよね? 嘘……嘘……謀略放送だ!」
 いままでの温厚さは跡形もなく蒸発していた。丁寧語すら使わず絶叫。
「……この声明を受けて中国が両国に仲介役を買って出ており、早ければ本日中にでも会談が持たれる見込みで……」
「嘘だッ!」
 ラジオを床に叩きつけた。破片と部品が飛び散った。
 その場に崩れ落ちる。
「……そんな……」
「おい、しっかりして。ヒカリさん、しっかりして!」
 ぼくは駆け寄ってヒカリを抱きとめた。あわてるあまりヒカリという名前を口に出してしまっていた。
「……ほんとうなのですか……?」
「そんなこと言われても。ぼくには確認できない。もっと情報を集めないと。元気出してくれ。ヒカリさん。まだ事実と決まったわけじゃない」
 ぼくはヒカリさんを抱きしめて、耳元で必死に励ました。
 だがヒカリの笑みはあくまで弱々しい。
 追い討ちを掛けるように、さっきの交渉人がバスの外から拡声器で怒鳴ってくる。
「やあ、いまのラジオ放送は聴いたかい。
 大変なことになったね。
 でも、ぼくたち日本だって、昔は戦争に負けたんだ。たくさんの人が戦争のために命を賭けた。負けを認めるのはきっとくやしかったろう。でも負けを認めて 一から出直したからこそ今の日本があるんだ。
 きみたちも明日のために、いまはあえて銃を置こうじゃないか」
 あくまで明るい声。
 だがその声をきいたヒカリは、うつろな目になって笑う。
「ふふふふ……はは。言いますね。明日のためにって。
 今日のために。この戦いのために。ただひたすら訓練してきたのに。仲間だってこの戦いのために死んだのに。スジャ。ソンウ、ダリョン……みんな、みんな 死んでいった。それなのに、こんなにあっさり。50年かけた戦争計画が1日で壊れちゃった。この戦いのために。この戦いのために国自体があったのに」
 ヒカリの声は小さく低かった。声は平板でまったく感情がこもっていなかった。
 でもすさまじい迫力があった。ぼくは何も言い返せなかった。どんな言葉も出せなかった。
 当たり前だろう。
 5年10年、ただすら一つの目標のために頑張って。血を吐いて、手を血で汚して、もちろん自分の命だってささげる気で。
 でも土壇場になって「全部なしね」って言われた。
 どれほど心が傷ついたか。プライドを粉砕されたか。そんな人間にぼくが何を言える。ぼくは命がけで何かに打ち込んだことなんかない。だからいえるわけが ない。
 ヒカリは、ぼくの腕を振り払った。
 ゆっくりとあるいて、バスの中央にゆく。
 そして、ぼくに頭を下げた。
「いままでありがとう。あなたは降伏して、人生をやり直してください。少年法があるから、命までは奪われないはずです。巻き込んでしまって、本当にごめん なさい。
 ……朝鮮共和国、万歳(チョソンコハッグ・マンセー)!」
 すべては一瞬で起こった。
 ヒカリはマカロフを激鉄を起こして口に加え引き金を引こうとして、それは確実に死ねる拳銃自殺の作法で、ぼくはそこにタックルして、マカロフを口から 引っこ抜き、ぼくとヒカリさんは二人で倒れ、ぼくの手はマカロフの銃口をつかんだままで、ヒカリはぼくの体の下に組しかれてもがいて、膝蹴りが跳ね上がっ てぼくの股間をヒットして気が遠くなって、
 何かの拍子にマカロフの引き金が引かれてしまった。
 ダン! わずか30センチくらいに至近距離で聞く銃声は大迫力だ。でも銃声どころじゃなくてぼくの掌を銃弾が撃ち抜いて、一瞬だけ全身を電撃のよ うなショックが貫いて汗が噴き出し、ついで焼けた鉄の棒を打ちこまれた痛みが生まれた。
 ……これが。これが銃で撃たれるってことか。
 一発、それも手を撃たれただけでこんなに痛い。手だけじゃなくて体中がワナワナ震える。おかげさまで股間を蹴られた痛みはどうでもよくなった。
 でも、ぼくは痛みを押し殺して、マカロフをヒカリさんから奪い取ろうとした。
「やめて! やめてヒカリさん! お願いだ! 死なないで!」
「黙れ! ユウキにはわからない!」
 そのとき、ガラスの割れる音がした。
 バスのリアガラスが割れたのだ。内側に貼ってある新聞紙も破られ、何かが転がり込んでくる。
 爆発した。
 世界が真っ白になった。耳に激痛が走った。音は何も聞こえなくなった。
 ……ものすごい閃光と轟音を叩きつけられたんだ。
 ……これはスタングレネードだ。
 ……銃声をきいて泡くって、突入を決意したんだ。
 ぼくはようやく状況を理解した。でも、理解したってなんにもならない。ぼくはいま視力も聴力も封じられてる。戦うことも逃げることもできない。こうして いる間にもドアと窓をぶち破って警察特殊部隊が突入してるはずなんだけど、その気配とかも全く感じられない。
 とつぜん、頭を蹴り飛ばされた。
 髪の毛をつかまれて引きずり起こされ、後ろから組み付かれた。手首をしっかりと握られる。手首に伝わってくる感触はゴワゴワした手袋。
 警察特殊部隊に捕まった! 脱出しようともがいた。でも特殊部隊員はがっちりとぼくの腕を抱え込んでいてどうすることもできない。
 そのまま後ろに引きずられてゆく。
 どうなる? 彼女はどうなる? ヒカリさんはどうなる? きっと無抵抗で捕まる。いや、その前に自決するか。逮捕されてもその後で自決する。いや、もう 自決してるかもしれない。だってぼくの視界はいまだに真っ白で何も見えなくて耳だってガンガン鳴るばかりで音も声も聞こえない。
 いやだ、いやだ、死んで欲しくない。
 だからぼくは絶叫した。
「ヒカリさんっ!
 たたかえーッ!
 理由なんて考えるな!
 『どうして』とか言うな!
 行動だ! こんな世界で!
 汚い間違った世界で!
 どんなふうに戦い!
 それだけだ!
 君は僕に嘘をおしえてたのかーっ!!」
 自分の口からほとばしる絶叫だけは、弱弱しく聞こえた。鼓膜抜きの骨伝導で聞こえるんだろう。
 でも、ぼくの叫びが届いたかどうかはわからない。そもそもヒカリさんは前にいるのか後ろにいるのかもわからない。それでも叫んだ。
 ただ叫ぶことしか、思いのたけのすべてをぶちまけることしか、ぼくにはできなかった。
「ヒカリさ……モガッ!」
 ぼくの口が強引に手袋でふさがれた。ほっぺたにパンチが叩き込まれた。予想していなかったので大きく頭が触れて気が遠くなった。このまま力が抜けて気絶 しそうだった。
 だが。
 そのとき鼓膜が、声をとらえた。
 スタングレネードの大音響がもたらす効果は弱くなり、声を捕らえた。
 ヒカリさんの声。
「了解!」
 鋭くはじけるような声。
 ほぼ同時に視力も回復した。ぼくの眼はとらえた。
 ボンヤリした視界の中を飛び回る、風のように身軽で稲妻のように激烈な、ヒカリの乱舞を。
 ヒカリはバスの中央で、床に押さえつけられていた。
 その状態から、何事かささやいた。黒ずくめの警察特殊部隊員が聞き取ろうと身をかがめたところ、ヒカリは隊員の手に噛み付いた。
 隊員の動きがとまったその瞬間、ヒカリは信じられない体のバネでそのまま隊員を吹き飛ばして起き上がった。一瞬前まで自分を押さえつけていた隊員はいま やバスの床に転がり、ヒカリはまさしくぼくに教えたとおり運動靴のカカトで隊員の首を、喉を踏みつけた。隊員が腕を振り乱して悶絶する。
 すぐ前にいたほかの隊員がナイフを抜いてすっ飛んできた。
 まだ殺さずにかたをつける気なのか、刺すのではなく腕を狙って袈裟懸けに切りあげる動きだ。
 むかえうつヒカリの足がムチのように空中でしなった。右の蹴りが隊員の手首に絡みついてナイフを吹き飛ばし、飛んだナイフをヒカリがキャッチ、そのまま ヒカリは一歩踏み込んでローキック、膝関節を打ち抜かれて体が隊員が前のめりになり、膝蹴りが首を刈った。ばきん!
 三人目は銃を向けた。彼の武器はMP5サブマシンガン。ドイツ製の、きわめて射撃精度の高い機関銃だ。
 タタタ! 短い銃声が車内にこだまして、
 ヒカリのものではない、黒い影が宙を舞った。
 隊員のものだった。ヒカリは倒した隊員の体を投げつけたのだ。銃弾は隊員の大きな体に吸い込まれた。隊員は胴体にプロテクターを身につけているからサブ マシンガンの弾を跳ね返した。
 囮で生まれたわずかな隙にうちに、ヒカリはナイフを構えて低姿勢で隊員に接近、隊員にはヒカリの姿が見えなかったらしく、足元に組 み付かれて倒された。矢継ぎ早に喉踏み潰し。カエルを潰したような声を上げた。
 一瞬だった。
 一瞬で3人の特殊部隊員を倒した。
 最後のひとりが、ぼくを拘束している隊員だった。
 バスの後部で、ぼくは後ろからしがみつかれた状態だ。喉まで締め上げられている。
「……投降しろ!」
 ドスのきいた声で隊員がどなった。
 あきらかに、ぼくの体を盾にしている。
 今度はぼくのほうが人質にされているのだ。
 どうすればいい。
 ぼくがいるかぎりヒカリは動けない。
 そのとき、足に何かが触れた。
 細長いものだ。
 なんだろう? 通路に細長いもの。
 散弾銃だ!
 さっきヒカリの自殺を止めるため突進して、銃を投げ出したままだ!
 これを使えないか?
 だが腕が自由にならない。足しか動かせない。どうすればいい。
 ……足?
 そうだ、足で何かをするのはさんざんやったじゃないか。
 ぼくは慎重に、隊員に気づかれないように靴を脱いだ。
 靴下だけになり、足の指で銃を撫でて、銃身の向き、引き金の位置を確認。
 頭の中にバスの立体図を描いた。発射された散弾は球体だから壁で跳ね返るはず。球体なら普通の弾丸と比べて反射角度を計算しやすいはず。もし間違えたら ぼくやヒカリが食らうことになる。でも、そのときは仕方ない。
「投降しろ!」
 隊員が勝ち誇ったようにもう一度叫んだ。
 ヒカリが悔しそうに唇を噛んでいる。
 隊員がぼくの手首をきつくひねった。ただでさえ掌はマカロフの弾でぶち抜かれて激痛が走っているというのに。手がまるごと千切れるんじゃないかというく らい痛かった。息が止まり、体中に脂汗が浮いた。
 歯を食いしばって耐え、片方の足で銃を固定、もう片方の足で引き金を引く。
 バスン!
 銃声がとどろき、ばら撒かれた散弾が、直径9ミリのベアリング9発が床と壁と天井を乱反射して跳ね回り窓をぶち破って飛んでゆき、そのうち一発がぼくの 頬をかすめた。すぐ後ろで「ゴイン!」と鈍い音。顔面のバイザーに当たったんだ。
 バイザーは散弾銃の鹿撃ち弾じゃ貫けない。でも隙を作る事ならできたはず。
 ヒカリはスカートを翻して跳躍。座席を足場にしてぼくの頭の上を飛び越え、隊員の背後に着地、
いう鈍い一発が轟いて、隊員は力なく崩れ落ちた。
「ヒカリさん!」
 ぼくはヒカリに向き直った。ケガも忘れて両手をぎゅっと握った。
 ヒカリさんはバンダナが落ちてむき出しになった顔に笑顔を浮かべていた。子供のように何の計算もない純真な笑顔だ。
「ありがとう。あなたはわたしに大切なことを教えてくれた。……わたしの生きる力を取り戻してくれた。あなたは最高の相棒です」
「へへ」
 ぼくはなんだかくすぐったくなった。
 と、ぼくは周囲の緊迫した状況に気づいた。
 突入してきた特殊部隊員を返り討ちしたのだ。
 いつの間にやら人質も逃げてしまっていた。
 もうぼくたちには、警察と交渉なんてできない。
「ヒカリさん」
「ええ。行きましょう」
 ぼくは倒れている隊員の装備、MP5短機関銃を奪った。散弾銃よりもこちらのほうが便利かと思った。ヒカリも落ちていたMP5を手に取り、字マカロフを レッグホルスターに収納。
 ぼくたち二人は威嚇射撃をしながら、バスを飛び出した。
 バスの周囲はパトカーだらけだった。とても突破できそうにない。
「河へ!」
「わかった!」
 パトカーの上に飛び乗り、橋のいちばん左へと走る。警察官たちはパトカーの陰に隠れながらおっかなびっくり射撃してくる。MP5を連射して黙らせた。
 この橋からは多摩川が見える。多摩川は台風の雨を吸収して数倍に流れを強めている。色はまっ茶色で、まさに濁流とよぶにふさわしい。
「……ユウキ」
 ヒカリがぼくに瞳を向けた。
 ほんとうにいいのか、と問うているようだった。
 このままヒカリと一緒にいたら警察に追われ闘い続ける日々。逃げ回る日々。永遠に安息はない。
「もちろんさ!」
 ぼくは、無傷なほうの手でヒカリの手をぎゅっと握った。
 数十メートルの高みから、怒涛のごとく流れる多摩川を見下ろした。
 恐くなんかない。
 この人さえいれば。世界の誰を敵に回しても。
 ぼくたちふたりは、手をつないだまま、跳んだ。

 おわり

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