秋山完の諸作品について

 この人は厳密にはプロではない。小説の収入だけで生活しているわけではないからだ。彼は生活の大半を、SFとも小説とも全く関係のない仕事に費やしている。家庭のために割かれる時間も相当なものだ。小説のために使っている時間は、多めに見積もっても人生の1割といったところだろう。
 本人は言う。「自分が小説家だという自覚がまるでわいてこない」「内職SF作家と読んでください」
 だがしかし、いや、まさしくそうであるが故に、彼の作品には独特の風味がある。
 彼は徹底して、弱い立場の人間達を描く。
 将軍や貴族の気高く雄々しい戦いぶりではなく、そういった人々の下で働かなくてはいけない兵士や召使いの苦労を描く。天才的な作戦を成功させて歴史に名を残す艦隊司令官ではなく、その作戦に巻き込まれて死んでいく無辜の民衆と、彼らを一人でも救い出そうと命をかける男たちを描く。
 これが秋山完なのだ。
 秋山完は戦争を否定する。いや、単に否定するだけなら誰にでもできる。だが彼は軍事マニアである。戦車が好きである。戦艦が好きである。巨砲が好きである。戦闘機が好きである。イギリス海軍が、アメリカ海軍が好きである。古今東西の戦史に精通している。兵器や戦闘の格好良さを知っている。そして歴史を知っているが故に、戦争を始めざるを得なかった事情もよく知っている。ただ「いけない」と言うだけではなんの解決にもならないことを知っている。
 それらすべてを知った上で、なおも秋山完は言うのだ。
 「たとえどれほど美辞麗句を並べても、やむにやまれぬ事情が、あるいは崇高な理想がそこにあったとしても、やはり戦争の本質は巨大な泥棒でしかない」
 これが秋山完なのだ。
 ただ理想を叫ぶのではない。理想ではなく現実を見ろと冷笑するのでもない。すべての現実を、この矛盾に満ちた世界をあまねく認識し、それでもなお「忘れてはならないことがある」と言い切るのだ。
 他の作家たちとは、明らかに違った見方で。
 これはフルタイムの作家が持ち得ないものであると、私は信じる。
 また、構想や発想の壮大さでも希有な作家である。
 何十年ではなく、何千年も時代の離れた複数の物語が、実はすべてつながっており、全体を通してみたときに一つの巨大な物語を構成する。しかも超スケールの設定に支えられた驚愕の物語が。いまのところこのジグソーパズルは四隅が埋まった程度であり、すべてのピースが合わさるのは5年、いや10年は先のことになるだろうが……それだけ待つ価値は十分にある。

 「ラストリーフの伝説」の批評
 「リバティ・ランドの鐘」の批評
 「ペリペティアの福音」の批評
 「ファイアストーム」の批評
 「天象儀の星」の批評



 「シリー・ウォーズ」シリーズ 
(ソノラマ文庫)

 「ラストリーフの伝説」
 どこまでも広がる草原、毛玉のような羊。その羊を飼って生きる、「惑星ラストリーフ」の人々。
 まさしく牧歌的と言うほかない情景だ。登場人物も「いいやつ」が異常に多い。
 そんな惑星を襲う不幸。少しずつ壊れていく安らぎと優しさ。
 私はこの作品についての判断を保留している。
 個人的には「気に入った」と言いたい。だがこの作品には問題が多すぎる。のんびり、ぼんやりした牧童が主人公で、しかも一人称。主人公の人格がこうであるから、文章全体にしまりがない。平和な部分を描くにはこれでもいいかも知れないが、後半は……惑星ラストリーフに危機が迫り、仲が良かったはずの人々がバラバラになるあたりでは、違和感を禁じ得ない。
 またキャラクターの人格の問題もある。この作品、女性には受けが悪いのだ。それはヒロインのフェンという人間の人格が、「あまりに善良で、献身的で、ひたむきすぎる」ことが原因だと思われる。この作品を読んだある女性は言った。「こんな立派で、けなげで、優しい女の人なんて滅多にいません。気になって読めませんでした」
 フェンの場合は状況が特別だったから仕方ない。私はそう思うのだが、一度抱いてしまった疑問がこんな説明で消えるものでもあるまい。
 おそらくこのあたりの批判は、秋山氏にとってもかなり痛かったのではあるまいか。以降、彼の作品に登場する女性キャラクターは、格段に立体的・多面的な人格を持つようになっているのだ。

 「リバティ・ランドの鐘」
 宇宙に浮かぶ遊園地。無数のロボットたちが働いている。何故か、そこを襲ってくる謎の敵。
 お菓子を武器に、必死で防戦するロボットたち。
 このあたりの発想は非凡である。
 キャラクターにも魅力があるし、おそらくこの作品は秋山作品の中でもっともバランスがとれた、初めて読む人にお勧めできる話だろう。
 
 
「ペリペティアの福音 上・中・下」
 凄まじい。
 その一言だ。
 イマジネーションの洪水。情報の乱舞。アイディアの爆発。そういった陳腐な言葉を持ち出さずに、私はこの作品を表現できない。
 上巻。主人公が「葬儀屋」というだけで「ああ、いかにも秋山氏らしい」と私は感嘆する。そして読み進めていくうち、戦争に対する冷徹な認識と、それでも悲劇を少しでも減らすべく戦う者達の姿に襟を正す。
 中巻では、「大帝の聖墓」をめぐる複雑怪奇な対立の構図が明かされる。登場する敵ひとつにつき単行本一冊分のドラマがある。とにかく凄まじい密度だ。戦史のパロディまで入れようとするのは、読者の気分を和らげるためか。いや、秋山氏自身の息抜きのような気もする。
 下巻。ついに種明かしだが、これもまた凄まじい。ここで姿を現すのは、ほとんどデウス・エクス・マキナといってもいい存在だ。「万能のカードを切られた。それだったら何でも説明できてしまう。ずるい」そう思わないわけではない。だが、そこに至るまでの過程でキャラクターが必死に頑張っているため、許せてしまう。
 
 「ファイア・ストーム」
 これまでの3作品よりも遙かに昔の物語である。
 以前秋山氏は「植物というのは人間の生活になくてはならないものだ。だが、植物を扱ったSFは非常に数少ない。このフロンティアに挑んでみよう」と宣言していた。実のところ、長編デビュー作「ラストリーフ」からして植物SFであり、氏の宣言はとっくの昔に実行されていたのだが、それでもなお私は、この作品を読んだときに衝撃を隠せなかった。
 「これか! 彼が言ってたのはこの作品みたいなもののことだったのか。これまでのは、植物SFにいたる前段階、練習のようなものだったのだな!」
 これはきわめて地味な作品である。アクションシーンはほとんどない。日記のような部分と、通信文が半分を占める。ここに描かれているのは、「火星を改造し、地球の様な星にする」ために苦闘する技術者・科学者たちの姿だ。自分のやっていることが壮挙ではなく、傲慢な侵略にすぎないと判っていても、それでもなお生きるために他の星を作り替えようとする、そんな人間達の姿だ。
 そして、そのキーワードとなるのが「植物」だ。植物こそ、この作品の主役である。理系の単語を使いすぎという印象は受けたが、豊富な知識と大胆な発想で導き出される「改造の方法」とその結末は、人間の業がいかに深いかを痛感させてくれる。そしてもの悲しさを呼び起こす。
 秋山氏には、「同じような作品を書く作家」というものが存在しない。彼にしか書けない作品を、彼にしか書けないやり方で書く作家である。とすれば、これこそもっとも彼らしい作品といえよう。

 
「天象儀の星」
 1993年、朝日ソノラマの「グリフォン」に掲載された短編「天象儀の星」「まじりけのない光」。それに、ハヤカワSFコンテストで佳作を受賞した作品「ミューズの額縁」。
 これら幻の作品を一冊の本に。それだけで十分価値はあるのだが、秋山完はさらに、シリーウォーズ・シリーズに連なる短編「光響祭」までも書き上げ、この短編集に追加した。
 収められた作品には、美しく真新しい視覚的イメージがある。その点において共通している。

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