麻生俊平の諸作品について
麻生俊平……彼の最大の特徴は、「敵の正しさ」にあると私は思う。
彼の作中に登場する「敵」は、実のところ「敵」ではない。
もっと正確に表現すると、「主人公に倒されることで主人公の強さと正しさをアピールするために作者に用意された、記号としての敵」ではない。確固とした人格と理念を持っている。なに、そんな作品は珍しくない? なるほどそれだけなら珍しくない。だが彼は本当に徹底している。敵には敵の正しさがあることを、たとえ主人公の目から見て「悪いこと」であっても、それにはそうせざるを得ない理由がはっきりあることを、緻密に、丹念に、それこそ執拗なまでに書く。
しかも、けっして「お涙頂戴」にはならずに。
なにも敵に同情させることを目的に書いているわけではないからだろう。あくまで「主人公の正義」をゆさぶることが目的だから。
ザンヤルマの剣士の主人公・矢神遼は、「どんなに悪い奴でも殺しちゃいけない。許せないけど、それでも殺しちゃいけない。人を殺すことで解決するのは、安易なやり方だ」と考えている。
そこにもう一人の剣士が現れ、澄んだ瞳で遼を見つめながら、鋭く言い放つ。
「だが、罪を犯した人間を見逃すのも安易ではないか」
ミュートスノート戦記の主人公・穂村響は叫ぶ。「優れた人間だから劣った人間を踏みつけにしても良い、道具として使っても良い、お前たちのそんな考えが許せない」と。
だがライバルは叫びを返すのだ、「自分はどうしても、人の上に立って、自分が一番だと確認しなければいけない理由があるんだ」と。
ヒロインは問いかけるのだ。「穂村さんも同じことをやっています、どう違うんですか?」
敵の博士は言うのだ、「娘を愛しているからだ、そのために他の人間を犠牲にしてもかまわないと考えるのは当然だ」と。
読者は敵の言葉に引き込まれる。少なくとも私にとって、これらすべてのセリフは途方もない衝撃力を持っていた。主人公にとってもそれは同様なのだろう、遼は、響は、説得力のある反論を受けて自分の信じるものを見失い、苦悩する。そしてそれを乗り越えて、戦いに勝利する。
敵の言い分を99パーセントまで認める。
本当に向こうの言っている事の方が正しいのかも知れない、主人公が、そして読者がそう思ってしまう寸前のところで、最後に残された1パーセントが奇蹟の輝きを放つ。主人公はどん底から這い上がり、敵の論を圧倒、そして勝つのだ。
この「一度どん底まで落ちる」というあたりが、最高のカタルシスをもたらしてくれる。
もっとも「最後まで読んだが、やっぱり敵の言っていることのほうが正しいとしか思えなかった」という人もいるだろう。
かくいう私も、「ザンヤルマの剣士」の終盤に関してはそれに近い思いを抱いている。こういった読者が出現したことは、麻生氏にとって誤算なのだろうか? それともこういった読み方もできるように、敵のキャラクターを魅力あるものにしたのだろうか?
もちろん彼の魅力は「敵の正しさ」だけではない。「緻密な心理描写」……とくに「人間の心の暗い部分、あまり直視したくない汚い部分をえぐり出す作業」を行わせたら、驚異的な力を発揮する。彼の作品によって自分の心の暗黒面と対峙させられ、もがき苦しんだ読者は数多いだろう。
それこそが麻生氏なのだ。闇が深ければ深いほど光はまばゆく輝くことを彼は実証しているのである。
「ザンヤルマの剣士」シリーズの批評
「ミュートスノート戦記」シリーズの批評
「若葉色の訪問者」の批評
「無理は承知で私立探偵」シリーズの批評
「ザンヤルマの剣士」シリーズ
(富士見ファンタジア文庫)
1巻「ザンヤルマの剣士」
ある人が言っていた。「気弱で臆病な少年を主人公にするとは冒険だ、そしてその冒険は奇跡的なまでうまくいっている」と。そうかも知れない。だが、私が仮にこの本を最初に読んでいたら、2巻を手に取らなかったかも知れない。まだ第1巻では「敵の正しさ」はそれほど前面に押し出されておらず、「麻生節」とでも言うべきものはまだ片鱗を見せ始めたばかりなのだ。
2巻「ノーブルグレイの幻影」
私はこの巻と次の巻から「真のザンヤルマ」が始まったのだと考えている。
3巻「オーキスの救世主」
主人公が作中の宗教にひきずりこまれていく過程は迫真のリアリティがある。
多くの人が宗教にはまっていく。遼だけではなく、人類全体を醒めた眼で見ていたはずの遺産管理人・氷澄丈太郎までもがその信念を揺るがせる。これは決して、相手の宗教が正しいからではなかった。我々の心の側に、「たとえ間違っていてもはっきりとした答えが欲しい」という欲求があるからだ……それが明らかになっていくあたりは読ませる。
4巻「フェニックスの微笑」
評価が分かれる作品。スケールが小さく、学校内での話だからか。一人の少女の心だけに焦点を絞った作品だからか。なるほど、このエピソードを省略しても、その後の話の展開には問題が生じないように思える。番外編的だという指摘もうなずける。
だが結局のところザンヤルマは、人が「自分のなかの駄目な部分をはっきり見つめ、それを克服していく」過程を描いた話なのだ。超古代文明イェマドも、世界を滅ぼす剣も、すべてそこにつながっている。
このエピソードは、ザンヤルマのエキスをもっとも濃縮したものだとも言える。
5巻「フェアノースノウの狩人」
実は、初めて読んだ麻生作品はこの本である。少なくとも、はっきり記憶に残っているのはそうだ。
ああ、そうだ、こんな本を読んで記憶に残さずにいられるものか。
これは断罪の書である。
私は「敵の正しさ」云々と書いた。だが、この作品に出てくる敵のひとり「少年」は、少しも正しくなどない。それどころか最低の人間といっても過言ではないだろう。しかし、なんと身近な「最低っぷり」であろうか。私は彼が身勝手な命令を叫ぶたびに、なんでも他人のせいにしてヒステリックにわめき散らすたびに、激しい衝撃と、そして戦慄を覚えた。
これは私だ。どう見ても私そのものじゃないか。私は外から見るとこんなに醜い人間だったのか。
そして……この麻生という人はどうしてこんなにも私のことを知っているのだ。
私は恥ずかしかった。ページをめくるごとに「少年」の駄目人間ぶりがひどくなっていく。眼をそむけたかったが、できなかった。そむければ、私は一生「少年」のままだ。あの時の恐怖と、自分の内面を切り裂かれるような感覚、そして……自分の罪が浄化されていくような感覚は、今でも忘れることができない。
そして巻末、衝撃を受けて精神防御の弱くなった私の前に、もう一人の剣士が現れ、衝撃的なセリフを叩きつける。
「権利ではない、それはあなたの義務だ、ザンヤルマの剣士!」
これがとどめだった。
この作品に出会っていなかったら、私は麻生俊平を読んでいなかっただろう。いや、富士見ファンタジア文庫や角川スニーカー文庫といった、いわゆるライトノベルを読むこと自体とっくにやめていたかも知れない。私の人生を変えてくれた一冊だ。
6巻「イリーガルの孤影」
中ボスとも言うべき「TOGO産業」の内幕が少し明かされる。パートナーたちを失い、たった一人になった遼が、いかにそれと戦っていくか……なかなか興味深く読めた。遼は「具体的に、どうやって攻めるか」「どうやって情報収集するか」とかいった細かい点においては、万里絵にまかせっきりだったからだ。
だが、遼よりも興味深かったのは、氷澄丈太郎だ。彼は前巻の戦いで敗北した。今の人間達を愚かな存在と見下し、クールな仮面をかぶり続けてきた彼が、実は自分は「愚かな人類」に劣る存在だと思い知らされたのだ。プライドの根幹にあるものをうち砕かれた彼が、少しずつ立ち直っていく過程は実に見事だ。
7巻「モノクロームの残映」
TOGO産業との戦いは終局を迎える。自分なりの結論と、自分なりの戦う理由を見いだした丈太郎と遼、万里絵……彼ら三人が再びタッグを組んで、敵をうち破っていく光景は爽快だった。
だが、今までの戦いの多くがそうであるように、遼は物理的に戦いに勝つことはできても、救いたかった人を救うことはできなかった。
8巻「ファイナルの密使」
私は「この8巻は必要なかったのではないか」と思っている。9巻の前半も必要ないと考えている。
いや、つまらないとまでは言わない。
だが、8巻および9巻前半で敵となる組織「FINAL」は、正直言って役者不足だ。
世界なネットワークを持ち、国家にまで食い込んでいる巨大な敵。科学技術のレベルもこれまでの敵のなかで最強といえる。ところが、そこにいる人間達はどうだ。間違っていることが明らかな考えしか持っていない。これでは主人公達の正義や信念は揺らがない。「しょぼい相手」に感じられてしまうのだ。
このエピソードを省略してしまうと、鷺沢さんとジェネラルは全く出番がなくなってしまう。それは哀しいことであるが、やはりTOGO産業を倒した直後、9巻後半の対佐波木戦に持ち込んだほうがよかったのではないか。
9巻「イェマドの後継者」
ザンヤルマシリーズの完結編である。私の見るところ、麻生俊平の最高傑作でもある。
後半、もう一人の剣士「佐波木敬」との対立が明らかになってから、この物語は真のクライマックスを迎える。彼の言葉一つ一つには、遼と同様かそれ以上の熱い想いと、そして経験に基づく重みがあった。遼の言葉は彼を止められず、そして二人は剣を交える。イェマドについての真相のすべてが、その過程で明かされる。そして、全てが一つに結びついてことがはっきりするのだ。
正直、セリフだけを取り出してみれば「説教臭い」としか映らないかも知れない。「青臭すぎる」という意見もネット上で眼にした。だが遼の言葉も佐波木くんの言葉も、作者の言葉ではなく、あくまでそのキャラクターが自分の経験と自分の心で紡ぎ出した言葉だ。そこには血が通っている。
どちらも正しいと感じられるが故に、どちらの主張も痛いほどよく判るが故に、この作品は私にとって決して忘れられないものとなった。
外伝「放課後の剣士」
外伝について、書くことはあまりない。この人の資質は短編では発揮されない気がする。少なくともこの時点ではそうだった。
「ミュートスノート戦記」シリーズ
(富士見ファンタジア文庫)
1巻「戦士の掟は炎で刻め」
ある人が言っていた。「麻生俊平はスロースターター」だと。
その通りだと私も思う。私はザンヤルマの5巻を読んだ後に1巻を読んだからなおのことそう感じられるのかも知れないが、とにかく1巻目には「麻生さんらしい特色」が、あまり感じられないのだ。まあゼロとまでは言わないが……「ほのかな香り」という程度のものである。
だからこの1巻は「普通の高校生が、偶然変身能力を手に手に入れてしまい、秘密結社と戦う」という粗筋から想像できる通りの話でしかない。私は「これからきっと面白くなるに違いない」という期待があったからこそ気にせずにいられたが……麻生氏を知らない人がこれだけ読んで、続きを読みたくなるかどうかは疑問だ。
2巻「道標なき戦野の咆哮」
かかってきた、かかってきた。麻生ブースター、かかってきた! 敵の正しさ、放出開始!
という感じだ。今回の敵として出てきた女の子が、自分がなぜZAMZAという組織に入ったか、入ってどれほど幸福になったかについて語るシーンは、私の血を沸かせるに十分だった。
これだよこれ! これが麻生さんだよ!
3巻「疾風果つる戦場」
前半のクライマックスというか、決戦だ。
いやあ……これは実にひどい話だ。こんなひどい話はなかなかない。
批判しているわけではない。最大級の褒め言葉のつもりだ。
嵩峯龍二という作家が、こんなことを言っていた。
「でも、この種のファンタジー作品では、いざとなったら、すべての悪意や誤解を悪い奴のせいにすることができるので、それほど状況にはならずに済んでいるのですよ、これでも。
本当に深刻な、救いのない悲劇とは、『悪不在』の悲劇です。『全員が本当に善意で、己の力の及ぶ限り最善を尽くしているにも関わらず、何故か最悪の事態になってしまう』というタイプのお話です」
この「疾風果つる戦場」がそうだ。そう思った。あの博士の行動が間違っていたとは、私には思えないのだ。だがしかし、主人公が博士を殺さずにいられなかったのも完全に納得できる。すべて、彼らが最善と信じることをやったまで。だが、それによって大切な人たちが何人も失われた。
痛く、辛い話だった。麻生俊平の真骨頂ここにあり。
4巻「戦鬼は雪嶺を駆ける」
しょっぱなから重い問いかけ。いいぞ。さて、この話は主人公のライバル・速水との決着篇である訳だが……正直言って、私はこの話を読むまでは速水というキャラクターにさほどの思い入れはなかった。彼の過去を知っても、行動理由を知っても、「まあ、ちょっとだけ同情してやろうかな」という程度のことしか思わなかった。ザンヤルマの佐波木敬が、たんなるライバルの域を超えた「もう一人の主人公」だったのにくらべ、速水は小物であると感じていた。まあ「敵の正しさ」を、速水からはほとんど感じなかったということだろう。
だが、これを読んで評価は変わった。サーカスの話をきいてから。そして「お前が死んだら、みんな忘れる。誰もお前のことなんか覚えてないさ」という響のセリフの直後、「だが委員長だけが速水のことを覚えていた」というオチのつけ方を見て。
相変わらず、彼が正しいとは思わない。だが、彼は哀しい。
とても、とても哀しい。
5巻「天に響け戦神の歌」
4巻から14ヶ月ぶりに発売された完結編。
一時期は発売が危ぶまれたものの、無事に出版されたことを祝いたい。
さて内容だ。
正直いって駆け足である。無理矢理に詰め込んでいる。なにしろたった400ページの中で、「最強の人間兵器との対決」、「敵の組織の目的を明かす」「敵の首領はどうして主人公にこだわるのか、主人公を使って何をしようとしているのか明かす」「主人公がその考えに立ち向かって、勝つ」と、ここまでのことを一度にやろうとしたのだ。しかも膨大な量のアクションと、きめ細かい心理描写を入れた上でだ。
おかげで終盤部分が、あまり終盤らしくなくなった。最終話の一話手前で終わってしまったような印象を受ける。だが、これはこれでいい。
様々な障害を乗り越えて戦い続けた麻生氏に、さして登場人物たちに、今はただ拍手を送りたい。
「若葉色の訪問者」(角川スニーカー文庫)
なんというべきか、全く印象に残らない作品だった。これは本当に麻生俊平が書いたのか、というのが正直な感想だ。
私が麻生作品に求めるものが、ことごとく欠落しているからだ。敵には正しさがない。主人公が「自分は本当に正しいのか」と悩まない。ものすごく駄目な人間が出てきて、しかもその駄目っぷりが読者自身と重なったりしない。
ただ、私が麻生氏の魅力だと感じる部分を「うっとおしい」と感じる人間も当然いるだろう。そういった人たちにも読んで貰えるように間口を広げ始めた、ということなのかも知れない。だとすれば、私は麻生氏の柔軟性と向上心に感嘆を禁じ得ない。
「無理は承知で私立探偵」シリーズ
(角川スニーカー文庫)
1巻「無理は承知で私立探偵(ハードボイルド)」
さらに間口を広げたらしい。コメディ小説である。
ここまでやってくれると、「これはこれで面白いや」という気もする。
実はこの作品、革命的なまでの新しさを持っているのだ。
超自然的な出来事が一切起こらない。宇宙人が攻めてこない。超能力に覚醒しない。実は人間界に降りてきた天使だったりしない。それどころかこの探偵の事件簿には、犯罪組織・麻薬・拳銃といった、「現実にも十分ありうるレベルの非日常」すら記されていない。高校生探偵山田君は、普通の学校生活で十分に起こりそうなことだけを扱っているのだ。まあ本物の探偵は浮気調査とかイジメの調査とか、せいぜいストーキング対策とか、そういうことしかやってないという話だから、ある意味リアルなのかも知れないが。
スニーカーとかファンタジアとかでは、こういうのはきわめて稀だ。
それから最後に。
私は、キャンディ頭の突っ込みがお気に入りだ。
2巻「出たとこ勝負の探偵稼業(マイ・ビジネス)」
1巻が意外と売れたらしく、なかなかのスピードで2巻が出た。相変わらず出来は悪くない。さらに今回の話は、読んでいるうちにジャズに詳しくなってしまうというオマケつき。
こっちの路線がメインになるのは嫌だが、「もう一本の柱」なら別に構わない。
3巻「運が良ければ事件解決(ザッツ・オーライ)」
かなり人気があるらしく、こっちの路線がメインになりつつある……
が、3巻は面白い。かけあいも笑えるが、私はコメディとして笑うより先に、プロ意識や作家のあるべき姿などについて深く考えこんでしまった。
「ポートタウン・ブルース」(富士見ファンタジア文庫)
麻生俊平のデビュー作である。渋い。暗い。重い。私にはハードボイルドというものが今ひとつよくわからないので、この作品についての詳しい論評は避ける。墓穴を掘ることは疑いようもないからだ。