| 泣き虫兵器ベルタ プロローグ 私はその日も、彼女の元を訪れた。 携帯端末にガンガン入ってくるメールを無視して、厚手のコートを着て、もう若くはない体を引きずって、クルマを飛ばした。 青くさびしげに輝く太平洋のそばに記念館はあった。二階建てで、大きくはない。 駐車場にクルマを入れて、警備員に頭を下げる。白髪頭の警備員は私の顔を覚えており、微笑んでくれた。 入場券を買って記念館に入る。 土曜日の昼間だというのに、人影は少ない。年配の客が三、四人がいるだけだ。当然だと思う。この記念館には娯楽性がない。陳列ケースの中に並んでいるの は「事件」の再現模型、当時のニュース映像、それから「事件」で死んでいった人たちの遺品や、書き残した遺書。そんなものばかりだ。はっきりいって暗い。 説教くさい。 だが私はここに来るたび、心の奥底に炎をともすことができる。日々の生活で緩んでしまった心のネジを、ギチギチに締めなおすことが出来る。 彼女がいるから。 記念館の一番奥に彼女はいた。 ガラスケースの中、体すべてが白く真珠のように輝く、全裸の少女。重厚な台座に乗っていた。 スレンダーな体つき。胸も腰も肉付きは薄い。年齢は十五、六歳だろうか。ストレートの髪は風にでも吹かれたのか乱れている。台座の上に横すわりして、丸 顔に真剣な表情を浮かべ、いまはもう何も映さない瞳を上に向けている。片方の手を台座について体を支え、もう片方の手を空中に伸ばしている。天に救いを求 める宗教者のようでもあり、叩きのめされてなお立ち上がろうとあがく闘士のようでもあった。 体のいたるところに傷があった。肩に、顔に、腕に、肉をスプーンでえぐり取ったような痛々しい傷があった。それでも彼女はまなじりを決して天を仰いでいる。 かつて聖女、救世主と呼ばれ日本全国でたたえられた彼女だが、いまではもうすっかり忘れ去られてしまっていた。彼女の姿に眼をとめるものは誰もいない。 私は彼女の真正面にしゃがみこんだ。一メートルの距離から、顔をじっと見つめる。 胸が締め付けられた。懐かしさで息苦しいほどだった。 愛らしい顔だった。ふっくらとした頬に刻まれた爪あとも、彼女のかわいらしさを崩すことはできなかった。子供がオトナになるその瞬間にだけ現出する美しさがそこにあった。 その瞳に秘められた決意を、もちろん私は知らない。最後の瞬間に彼女が何を考えてきたのか知らない。私の人生が彼女と交差したのはほんの一瞬だ。あとは ずっと、はるかに生ぬるい銃弾も爆発もない世界を生きてきた。たかが数百数千の言葉を交わしたくらいで「彼女を知っている」などとは語りたくない。 だが、それでも思うのだ。 彼女がここにいる限り、私は逃げたくない。 彼女は少なくとも逃げなかった。戦う義務などありはしなかったのに。 私は拳をぎゅっと握りしめた。 (私は、逃げていないか?) (彼女の想いに、私はいま応えているか?) (あのときの約束を、守っているか?) 私は小さな声で彼女に呼びかけた。 「……ベルタさん」 目頭が熱くなった。だが涙をこらえた。ここで泣くわけにはいかない。彼女に笑われてしまう。 第一章 君、微笑んだ夜 1 「ベルタ、これより第一種試験を開始する。全力運動を許可する」 壁面のスピーカーより声が発せられる。 ベルタは整った白い顔に、ぱっちりとした黒い眼に緊張を浮かべていた。 すでに彼女は二回、このテストで失格している。今度こそ成し遂げなければいけない。 ほっそりした身体を野戦服に包んでいる。G3アサルトライフルを汗ばんだ手で握り、円盤型の空間の真中に立っている。円盤の直径は百メートル、高さ五 メートル。天井に埋め込まれた蛍光灯の白い光が、コンクリートむきだしの内壁を照らしている。床と壁には無数、何万もの弾痕がうがたれている。 「了解」 短く答え、ベルタは銃を握る手に力をこめた。ついで口の中で小さく呟く。 「背部放熱器官、展開」 背中の筋肉が盛り上がる。軍服背中のスリットから翼が飛び出す。雪の結晶のように白い翼。よく見れば葉脈のような構造を持っている。三対、合計六枚。 「生体過給システム、起動準備」 また呟く。同時に胸の中で熱い塊が弾けた。胸部に蓄積されていた酸素が解放される。 頭の中に戦術支援電子脳の冷たい声が響く。 『背部放熱機関展開完了。生体過給システム、戦闘出力。全力運動可能』 天井のスピーカーが「試験開始!」と告げ、床の各所がパカリパカリと開いた。飛び出してきたのは二脚に支えられたアサルトライフルとサブマシンガン。合計六丁、ベルタの前後左右を囲むように。 そして発砲。空洞内を銃声の大合唱が重苦しく満たし、ベルタの体に銃弾が殺到。 『神経パルス加速開始。倍率50』 時間が急減速した。自分以外のあらゆるものがスローモーションに見える。ベルタの瞳は襲い来る銃弾を捉えていた。銃弾の回転が見えた。空気が粘ついて感 じられる。空気の抵抗をかきわけるようにしてベルタは踊る。ごついブーツで右に左にステップを踏み、腰をひねって首をひょいと曲げて、軽やかに体を回転さ せる。野戦服に覆われた腕や肩をライフル弾がかすめる。五発、十発。二十発。すべて数ミリの差でよける。高速運動した肉体が猛烈な熱を生み出す。熱は背中 の翼が排熱する。酸素を求めてあえぐ筋肉に、胸の生体過給機関が酸素を供給する。一秒、次の一秒、すべての銃弾はむなしく空を切って、ベルタの周囲の床面 に突き刺さりコンクリートの破片を撒き散らし、 「よし! 中断!」 天井のスピーカーが野太い声で告げる。 自動小銃はすべて停止。 ベルタの体も、バレエダンサーのように片足をすっと上げた状態で停止。 『神経パルス加速中断』 『コンディションチェック。酸素残量九十八パーセント。筋温度三十九。脳温度四十。心拍百二十。平常値内』 ベルタ、片足を下ろす。 銃を体の前に構えて自然体で、次の指示を待つ。 「第一試験、射撃」 床から突き出していた銃がすべて引っこむ。かわって瞬間的に、数十ものターゲットが飛びだす。右に左に前後に、近くは五メートル遠くは四十メートル、形は円形あり人型あり。急激な勢いでターゲット群は動き出す。右に左に前後に、ランダムな動きだ。 『神経パルス加速再開。倍率42』 ベルタ、G3アサルトライフルを肩の高さで構えた。引き金を引いて、そのままくるりと体を一回転。 連続した銃声が弾けて空洞内に広がる。ターゲットが次々に撃たれて倒れる。 と、ベルタは動きを止める。 アサルトライフルの銃口をターゲットに向けたまま、動けない。体が震えだした。銃口も震えている。 『神経パルス加速中断』 「どうした、ベルタ、撃て」 天井のスピーカーが叱咤する。 「できません……」 かぼそい声でベルタは訴えた。 彼女の眼は、銃口の先、最後に残ったターゲットに向けられている。 最後のターゲットは、犬だった。 皿の上に載った、ジャーマンシェパード。 銃声が恐ろしいのか、体を丸めて尻尾を倒している。黒いくりくりした眼をベルタに向けている。 「撃て!」 「できません!」 叫んでいた。そして彼女はうなだれた。頬を涙が伝った。 壁面のドアが開いた。 白衣姿の老人が一人、軍服姿のふたりを連れて出てくる。 「なぜ撃たない、ベルタ!」 白衣の老人、ベルタに厳しい声で問いかける。 老人を見つめてベルタはこたえる。 「いぬが……しんでしまいます……」 鼻にかかった涙声だ。 「わたしは誰だ。そしてお前は何者だ。ベルタ。答えてみろ」 老人が問う。ベルタは顔を上げて彼の眼を見る。ポツリポツリと答えた。 「あなたは……ヴァイスハウゼン博士。わたしたちエインヘリヤルの開発責任者」 「そうだ。そしてお前は?」 「わたしは」 そこでベルタは言葉を切り、眉間にしわを寄せて苦しみをこらえるように、 「わたしは、エインヘリヤル。超人兵士」 「そうだ、その通りだ」 ヴァイスハウゼンは重々しくうなずいた。 「お前には常人の数十倍の筋力と反射神経を与えた。殺しのためだ。我ら組織の重要な商品となるためだ。それが……」 ヴァイスハウゼンは落ち窪んだ青い眼を冷たく光らせて、 「それが、犬ころ一匹殺せない? いつまで甘えているつもりなのだ?」 あからさまな嘲りと苛立ちのこもった声。それでもベルタは引き金を引けない。頭の中にイメージが浮かんでいた。このシェパードが、銃弾で撃ち抜かれ白い脳髄と真っ赤な血を撒き散らしている姿。できない。とてもできない。 ヴァイスハウゼンはため息をついた。 かたわらの軍服姿二人に問いかける。 「どう思う? アントン、カエサル?」 身長二メートル、胸板が熊のように厚い大男が腕組みしたまま笑う。 「ばっかだなー。ベルタはよー」 もう一人は身長百七十、金髪の巻き毛を指でもてあそんでいる美少年。彼も薄ら笑いを浮かべながら言う。 「ほんとだよねー」 「でも……でも……」 ベルタ、二人に眼を向けて訴える。どうかわかってくれと。 この二人、アントンとカエサルは『エインヘリヤル』だ。ベルタと同じ超人兵士。外見はまるで似ていないが兄弟のようなもの。ずっと一緒に、この地下研究 所で生活してきた。同じテーブルで向かい合ってサンドイッチを食べ、同じジムで並んでバーベルを上げてきた。きっと気持ちが通じる、というわずかな願いが あった。 大男、アントンは首を振った。 「どうして殺せねえんだ?」 美少年カエサルも、憂いを秘めた微笑をベルタに向け首をかしげる。 「ボクにもわからないよ。貸して、姉さん」 さっとベルタの手から銃を奪い取った。犬に向けて撃つ。 「やめて!」 とっさに叫んだ。そして跳躍した。両手を広げて犬の前にたちふさがる。銃弾が腹に突き刺さった。 『損害報告・腹部に深度一の負傷』 激痛に歯をくいしばる。常人の数十倍の筋力を持つエインへリヤルは、そのパワーに耐えるため強靭な肉体を持っている。どうにか、筋肉で食い止める事ができた。 「なにをやっている! べルタ!」 ヴァイスハウゼンが怒鳴りつけた。駆け寄ってくる。ベルタの前にしゃがみこんで、野戦服の前を開き、シャツをまくりあげる。 雪のように白い肌、その臍のそばに弾丸がめりこんで尻を覗かしていた。血がにじんでいる。 「馬鹿なことを……その体は我々組織の大切な財産だ!」 「申し訳……ありません……」 ベルタは痛みをこらえながら言う。そのとき背後で「くうううん」と犬の声。 (よかった。たすかったんだ) 心を安堵が満たす。傷の痛みさえ和らぐ。 「ベルタよ」 ヴァイスハウゼンが広い額にしわを刻んで、ベルタを見上げる。 「何のつもりだ、たかが犬一匹」 「救いたかったんです。たえられなかったんです」 「お前は兵器なのだ。大勢の人間を殺すために生まれてきたのだ。超人兵士エインヘリヤル、我々の次期主力商品だ。量産化された暁には、戦争の形態を一変させうる」 「いやなのです。そんな暮らしが」 ベルタはしぼりだすような弱々しい声で言った。 「撃ったり、撃たれたり、いやなんです。普通の暮らしがしたいんです。学校に行きたい。クラスメートと遊びたい。一緒に喫茶店でホットケーキを食べたい。死んだとか殺した以外の話がしたい。先生に怒られたい。本を読みたい。素敵な恋がしたい」 「そんな言葉を誰から聞いた?」 「兵隊さんたちから教わりました。本を読みました。映画を見ました」 ベルタ、ヴァイスハウゼンの手をぎゅっと握る。 「お願いです。どうか、わたしに、ちがう生き方を与えてください」 「ダメだ」 ヴァイスハウゼンは立ち上がり、青い瞳に酷薄な光をうかべて言い放つ。 「殺し合い、それ以外の生き方は許されない。 さっさと犬を殺して、存在価値を示せ。 できないなら……お前は生きていてはいけない」 (生きていてはいけない) 息を呑んだ。心臓が、しめつけられるように苦しかった。 2 まず感じたのは息苦しさだった。 ベルタは目を覚ます。 荒い息をしていた。 体は何かで縛り付けられたかのように動かない。冷たい汗が腹や背中をびっしょり濡らしている。心臓が早鐘のように打っている。 あたりは暗かった。心臓の鼓動音が体から飛び出して周囲の壁に反響、耳が捉えた音響を脳が自動解析、状況を教えてくれる。四メートルに三メートルの箱型空間。壁は木材。柔らかい分厚い布が積み上げられている。 眼が暗がりに慣れてきた。 自分は分厚いマットに覆われていた。 (ああ、体育用具室だ) やっと、自分がどこにいるのか思い出した。 今までのは夢。あれから三ヵ月経った。自分は今、日本の学校にもぐりこんで一夜を明かしている。体育用具室で体操用マットにくるまっている。 「また、あの夢……」 つぶやいた。つぶやくことでますます陰鬱な気持ちが増幅される。 お前は生きていてはいけない、と断定された、あの日。 生みの親ヴァイスハウゼンが放った決定的な一言は、いまだにベルタの心をえぐり続けている。 あの後、すぐにベルタは組織を脱走した。そしてドイツを飛び出し、日本にやってきた。日本には組織の力がほとんど浸透していないから隠れやすいと思っていたのだ。組織の追っ手から逃げ続け、少なくとも「殺し合い」はせずにすんでいる。 だがいまでも、毎夜ベルタはあの夢に苦しめられる。 「……寝よう」 眼を閉じる。今度は楽しい夢を見たかった。 しかし眠れない。眼が完全にさえてしまっている。ヴァイスハウゼンに言われた言葉が、アントンやカエサルの蔑みの表情が、体を蝕むどうしようもない寒さが、眠ることを許してくれなかった。 (今はダメだ。少し気分転換しよう) 眼をあけた。マットを払いのけて立ち上がる。 夜の空気に、ジーパンとパーカーという地味な姿をさらした。おしゃれには縁がない。軍服を着ないですむだけありがたいと思っていた。 重い扉をギイと開けて、出る。 体育館の広大な空間が広がっていた。屋根の電灯はついておらず真っ暗。しかしベルタの暗視能力はスターライトスコープと同じ機能を発揮、わずかな光を増幅して昼間のように闇を見通す。 木材で作られた褐色の床は、まったくの無人。何も置かれていない。 しかしべルタは、床のわずかな磨耗を読み取った。空気に汗の臭いが混ざっているのを感じ取った。 昼間はここで繰り広げられているだろう練習の数々がイメージできた。 パーカーのポケットから針金をだして、扉を開け体育館の外に出る。 体育館の外は中庭だった。三十メートルほどの距離をおいてクリーム色の校舎がそびえたつ。天井つきの回廊が校舎と体育館をつないでいる。 中庭には大きな花壇があった。持っていた袋からスニーカーを出して履き、花壇に近づく。 数々の花が、星明かりの中に浮かび上がっていた。みんなよく手入れされている。「卒業生一同より寄贈」のプレートを見つけた。胸の奥に暖かい感情がこみあげる。思わず頬がゆるんだ。 (ここにはあったかいむすびつきがあるんだ) 花の一本一本を慈しむように眺めた。 端まで眺め終わって天を仰ぐと、そこには横断幕があった。校舎と体育館の間を横断幕がつないでいた。 「この校舎で最後の学園祭 最高の学園祭! 第26回西山祭」 (学園祭なんだ……) 培養カプセルの中で生まれ、ずっと「組織」の研究施設で暮らしてきた。日本に来てからも逃げるだけで精いっぱい、学校に通った事などない。 だがむさぼるように小説とマンガを読んだ。映画をみた。ベルタにとって学校とはラブコメと告白とヤンキーとスポ根のことだった。強烈にあこがれていた。学園祭の横断幕をみただけで頭の中にいくつもの物語がくみ上げられていった。 いつもケンカしてばかりの幼なじみが、文化祭の演劇で恋人同志をやらされてどぎまぎする物語。ヤンキーの道に走りつつあった少年が、好きになった女の子のために模擬店を手伝ってやる物語。 妄想は止めどもなくあふれてきた。 すべてべルタにとっては目もくらむほどにまぶしくうらやましい物語だった。撃つ事も、銃弾の雨をかいくぐる事もない。旅客機の貨物室で寒さに凍えながら密航する事もない。わずかな物音で飛び起きる事もない。 そんな「普通の女の子」の生活が、自分にはできない。自分は戦闘しか知らない。謎の組織から脱走してきた、人間を遥かに超えた身体能力の怪物。こんな存在を今の人間社会が受けいれてくれるだろうか。ありえない。 わずか高さ五メートル、手を伸ばせば届くような横断幕。そこに書かれた明るい歓迎の言葉。「最高の学園祭に!」しかしベルタはその場所にいけないのだ。あの横断幕はベルタと違う世界のものなのだ。 そう気づくと、視界の中の横断幕がにじんでみえた。涙があふれてきたのだ。 ぐすりと鼻をすすって、ベルタは涙をぬぐった。 と、そのとき。 視界の端で何かが動いた。 ……深夜の学校で? そちらに目をやったベルタは、見た。 ベルタから見て奥、校舎の一番端、四階の窓から、何かが落ちる。人間だ。黒い。学生服を着ている。少年か。頭から落ちてゆく。 戦術支援電子脳が瞬間的に起動、予測演算を開始。「高度十メートルからの人体落下・死亡率48パーセント」と算出。「関わるな」と理性が叫び、しかしベルタの体は理性など無視してすでに突っ走っていた。 (助けなきゃ!) 距離五十メートルはある。落下が終わるまでたった一秒そこそこ。 できるか? 助けられるか? どうやって? 即座に背中の翼を展開。胸の中の生体過給システムを起動。放出された酸素が強化血球により筋肉へと供給。中庭のアスファルトを蹴り、花壇に踏み込んで花を踏み散らし、加速。 最初の一歩で時速五十キロを超え、二歩目で百キロを超え、瞳を前方にむけ、まっさかさまに落ちてゆく人間の姿をしっかりと捉えたままさらに加速、スニーカーが高速での摩擦に耐え切れず燃え上がって足元から煙が吹き上がりる。 戦術支援電子脳の働きで脳内に立体図を投影。 (このタイミングだ!) 跳躍した。常人の数十倍の脚力はベルタの体を宙に舞わせる。放物線を描いて天高く飛んでゆき、軌道の頂点に達する。 ドサ! 降って来る少年を、両腕でしっかり抱きとめた。 (よし!) しかし抱きとめたは良いが、ベルタの体は止まらない。一階下、三階の窓に突っこんだ。 ガラスの砕け散る甲高い音。ベルタは少年の体をしっかり抱きしめて破片から守る。 ゴロリと床に転がった。あたりは廊下だ。 立ち上がり、少年の体を抱き上げる。 「……もしもし? あの、もしもし?」 ベルタは少年に呼びかけるが、反応はない。暗がりの中に見える少年の顔は青ざめている。身体全体がぐにゃりと脱力状態だ。気絶しているようだ。 バタバタ、と廊下の向こうから誰かが走ってくる。 警備員だ。 さすがにガラスを割っては見つかるらしい。 仕方なく、少年を横抱きにしたまま窓から飛び降りる。 そのまま校庭を走って、フェンスを飛び越えて、さらに走る。 (面倒なことになっちゃったな) 自分の迂闊さがうとましい。だが腕のなかでぐったりしている少年の顔を見ると、安堵が胸に広がってくる。 (助けられて良かった) 3 近くの公園まで連れて行った。 住宅地の中に忽然とある公園で、子供向け遊具が幾つか並んでいる。 バネで支えられたカバやゾウやアヒル。街灯の薄明かりにぼんやり浮かび上がっている。傷はない。できたばかりの公園なのだろう。 砂場のそばにあるベンチに少年を下ろす。横たえるつもりだったが、このベンチは一人ぶんごとに区切ってあるタイプで人を横にできない。 ベンチに下ろされても少年は目を閉じて首をぐにゃっと垂れたままだ。 「……ケガは……ないみたいですね」 ベルタ、少年の体のあちこちをまさぐって、手首の脈を取り、傷を確認。 どこの骨も折れてない。命に別状もない。線の細い顔が真っ青になっているのは、単に恐怖のせいだろう。 ただひとつ気になるのが、体から漂うアンモニア臭。小便の臭いだ。 「……もしもし、もし、起きてください」 日本語は話せる。通行人の言葉をきき、マンガを山ほど読んで覚えた。 「ん……う……うーん……」 少年はうめいて、眼を開ける。 ぼんやりとした目つきであたりを見て、ベルタの顔を見て、自分の両手を見つめ、 「うわああ!」 叫んで、ベンチから転げ落ちた。 「あ? あ? い、一体なにが? あれ? あれ? ぼくは、ぼくは落ちて……」 「おちついてください、ね?」 「いや、あの。で、でも」 「思い出してみましょう。あなた、学校の窓から落ちたんです」 「う、う、うん」 「誰かに落とされたんですか? だから恐がってるんですか?」 「あ……」 少年のあどけない顔が苦しみに歪む。 「ちがう……落とされて、ない」 「落とされてない? じゃあ、事故ですか」 「ちがう……」 少年はうつむいて、消え入るような小さな声で言う。 「じゃあ、自殺ですか?」 ベルタの声も小さく、重苦しい。 「う、うん……」 「どうして、そんなことしたんですか?」 「あの……」 少年は顔をあげてベルタを見た。恐怖の色が消え、かわって不審そうな表情をうかべている。 「あの、きみ、誰ですか?」 「ああ、わたしは……」 ベルタは自分の体を見下ろして口ごもった。どんな説明をすれば不審に思われないか。 「えーと、わたしは。善意の通行人です。あなたが飛び降りるのを助けたんです」 「……ちがう……」 少年は弱々しく首をふった。 「通行人じゃない。背中から羽根をだして、空をとんだ」 「あなた、アレを覚えてるんですか?」 いやな予感がした。日本各地を放浪するさい、超人兵士エインヘリヤルの「力」を使ったことは何度かあった。力を見た人間の反応は決まっていた。化け物扱いするのだ。 「う、うん……おぼえてる。綺麗だった」 「きれい?」 予想外の反応に眉をひそめるベルタ。 「私の翼のことは、誰にも言わないでください。いいですね」 「う、うん」 「それより……なんで自殺なんかしたんですか?」 「え……」 少年の表情が凍りついた。また這いずって逃げようとする。 「逃げることないです。ほら、ここに座って」 「う、うん……」 ベルタの横に腰掛けた少年。うつむいたまま口を開かない。 「あのー。もしもし?」 「え……あの……あの。おこらない? ばかにしない?」 「しませんよ、そんなこと!」 ベルタが力強く答えると、少年は意を決したように顔をあげる。 「ぼく、いじめられてるんです。だからあの、学校のロッカーに、その、閉じ込められて……出たら殺すって言われて……ずっと中にいたら……何時間経っても出られなくて……恐くて……その……」 少年は自分の股間を見下ろして、 「我慢できなくなって、その も、もらしちゃって……」 震える声で言った。頬を涙が幾筋もつたった。 「そ、それで外に出たら……誰もいなくて。外で見張ってる人なんていなくて。自分が馬鹿に見えて。高校生でおしっこもらすなんて、もう生きていけない」 そこで言葉を切り、少年はぐすっ、ぐすっと泣きじゃくった。 「あ、あの……」 ベルタは混乱する。どんな言葉をかけてよいのかわからない。 (でも、この人は死のうとしてたんだ) (ここで対応を誤ったらまた死んでしまうかも。) (それは嫌だ) 「ねえ、あの、元気出してください……」 「元気なんて出せるわけないよ……ぐす……ぐす……もうやだよ……」 「あの、ほら。学校でのいじめが辛いのなら、しばらく学校にいかないとか、先生に言うとか、方法はあるでしょう?」 出きるだけ優しく言ったつもりだった。だが少年にはそれでも厳しかったらしい。 「無理だよ、できないよ。先生にいったらもっといじめられる。学校にいかなかったら、母さんになんて言われるか……えぐっ……えぐっ……もうイヤだ……イヤだよ……」 ベンチの上で、頭を抱え込んでブルブル震えだす。今にも外敵が襲ってくるかのようなおびえ方だった。逆効果だったらしい。 (また自殺するかも。) そんなの放っておけ、あんたは自分の身を守らなきゃダメだろ、と理性が警告した。 警告は体が拒否した。 どうすれば助けられる? 彼が求めていることは何だ? 自分が「組織」で訓練や実験にのたうち回っているとき、何をされたかった? (そうだ、『がんばれ』なんていわれたくなかった) すぐにベルタは立ち上がって、少年の前に座りこんだ。腕を伸ばして、少年の体を抱きしめた。 「え……」 すぐそばに少年の顔が見える。驚きに眼を見開いていた。学生服に包まれた体をこわばらせている。おびえて震えている。逃げ出そうとしてか、腰を浮かせた。 「こわがらないでください」 ベルタはほほえんだ。精一杯、やさしそうな表情をつくったつもりだった。少年の背に回した手で、とんとんと背中を叩いた。 「そ、そんなこといわれても……」 「安心してください。もう『がんばれ』って言いません。いわれるのが辛いんですよね?」 少年の顔がぱっと輝いた。 「そう。そうなんだよ! 親とかもいつもいうんだ。『もっと頑張れ』『どうして反撃できないの?』って……それを言われるのがいちばん辛いのに……」 「わたしはそんなこといいません。怒ったりしません」 「ほんと?」 ベルタは応えず、ただ、優しく少年を抱きしめる。 少年、おずおずとベルタの胸に顔をうずめた。 これにはベルタのほうが驚いた。だがいまさらやめるわけにはいかない。 パーカーの胸にほお擦りするようにして、少年は呟いた。 「……ありがとう……」 あまりに切迫した調子だったのでベルタは驚いて彼の顔を見た。少年の顔は間違いなく、ベルタの薄い胸のあたりになでつけられていた。それなのに彼の瞳には性欲の色が全くなかった。 (やっぱりそうなんだ。ただ抱きしめられたかっただけなんだ。) (生きていていいんだよって、体で表現されたかっただけなんだ。) そう思うと、ベルタの心からも恥ずかしさが消えた。この少年を男だと思わなくなった。弱った生き物を抱きしめて、生きる力を与えている。ただそれだけ。 しばらく時間がたった。もう腕の中の少年は嗚咽をもらしていない。 やがて少年は顔をあげる。頬に涙のあとが残っているが、表情は晴れがましい。 「あの、あの……ありがとう……うれしい。すごく……なんだかその……とってもあったかくて……」 「お母さんみたいでしたか?」 とたんに少年は恥ずかしそうに顔を赤らめ、 「ち、違うよ。あんなのと……ぼくマザコンじゃないし……」 「説得力ないですよ?」 「う……」 うつむいて、ぶつぶつと口の中で言い訳を言う。 「いいんです。思い切り甘えて、それで楽になれたなら」 「不思議な人……『弱いのはダメ』『甘えるのはダメ』って言わないんだ」 「ええ、いいません。弱い部分を出せる、誰かに甘えられるのは、幸せなことだと思います。逃げたり甘えたりしても、たまにはいいじゃないですか」 その台詞は自然に口から出た。出たとたん、ベルタは泣きたい衝動に駆られた。 (自分にはできないんだ。) (甘える相手なんてわたしにはいない。) 「そうかな……」 「ええ。そうですよ。どうです? 楽になれましたか?」 「うん!」 少年の返事は力強い。暗かった表情にも微笑が浮かんでいる。 「良かった。じゃあ、もう今日は帰りましょう。明日も早いでしょう」 「う、うん……」 少年は立ち上がった。一歩、二歩歩いて、名残惜しそうに振り返る。 「あ、あの……」 「なんですか?」 なにか言いたげに口をパクパクさせていた。 ベルタはちょっと悪戯心をきかせてみた。 「家に帰って、パンツは履き替えないでいいんですか?」 くすくすと笑いをぶつけた。 「あ……」 あわてて股間を押さえる。その動きがこっけいで、ベルタはますます笑った。少年は走り去ってゆく。 「元気でね!」 ベルタ、手を振る。 少年はツツジの茂みの向こうに消えた。 ほっと一息ついて、ベルタは眼を閉じる。 ぽつりと唇から言葉が漏れた。 「……元気になってくれると良いな」 きっと大丈夫だ。根拠はないが、そんな気がした。自分の言葉は彼の胸の奥底まで届いた、そんな手ごたえがあったのだ。 そう思うと、ベルタの胸を喜びがみたした。 心の中にぽっかり空いた穴が、すこしだけ埋まったようだった。 4 次の日の夕方、ベルタは駅前の喫茶店にいた。 コメダ珈琲店。この地方ではどこに行っても見かけるチェーンの喫茶店だ。 店内は、壁面にレンガ、床とテーブルが暖かさを感じさせる木目調。 椅子はお芋を思わせる茶色。とにかく茶色系統に統一されていた。 すべての席が一杯になっている。 ベルタは窓際の席に座り、ウェイトレスを呼び止めて、 「シロノワール3つ!」 明るい声で注文した。 「……は?」 ウェイトレスがベルタのほうを見て、伝票を片手で持ったまま、目をパチクリさせる。 「シロノワール3つです」 注文を繰り返すと、ウェイトレスはベルタの顔や格好をじっと見て、さも不思議そうに二秒ばかり考え込んだ後、いきなり営業用スマイルを顔に張りつける。 「かしこまりました!」 深く考えない、という結論を出したらしい。 ウェイトレスだけでなく、隣のテーブルを囲んでいる家族連れも、そのまた隣で文庫本を読んでいた老人も、ベルタにいぶかしげな目を向けている。 しばらくして、注文の品が来た。 銀色の盆に載った、シロノワール三つ。 シロノワールとは、ドーナツ型の柔らかいパンにソフトクリームを載せたものだ。ベルタの好物だった。甘いものはみな好きだが、この地方にきてからはシロノワールばかり食べている。 直径実に20センチ。ふつうは家族やカップルで食べるものだ。 それが3つもテーブルの上に置かれる。テーブルの上が埋まる。壮観だった。 「いただきまーす」 思わず頬がゆるんでしまう。明るく笑って、ついてきたメープルシロップをトロリトロリとパンにかける。 となりの席でベルタを見ていた家族連れが「ほんとに食べるんだ」「スゲー」とあきれている。 さて、とベルタは熟考する。 (どう食べるか。ソフトクリームを先に食べるか。それとも下のパンと交互に食べるか。どちらも捨てがたい) しかも数は三つある。ゆっくり味わって食べているとソフトクリームが溶けて崩れてしまうのだ。溶け落ちたソフトクリームがメープルシロップの中に崩落し、まったく別種の味わいであるふたつの甘さがまじってしまう。なんたる悲劇か。この悲劇をベルタは過去二回も経験した。 (よし) 先の四角くなっているアイスクリーム用スプーンを手に取った。手が緊張と期待で震える。 ソフトクリームにスプーンを差し入れ、すくいとって口に運ぶ。 「ああ……」 思わず、声が漏れてしまう。 甘いものを思う存分食べる。ベルタが知っている最大の幸福だった。「組織」にいたときは体調を完璧に管理するため、特別メニューの軍用糧食だけを毎日食 べさせられた。量は普通の食事より多かったが、デザートの類は粉末ヨーグルトとキャンデーだけでまったく物足りなかった。脱走してすぐにやったのが喫茶店 でパフェを食べて食べまくること。 あっという間に一つのシロノワールが消えた。 慎重にソフトクリームの溶け具合を探りながら、二つ目に取りかかる。 甘いものが大好きといっても、普段は二つしか食べない。 三つ食べるのは、最後のお別れだから。今日でこの街を出ていく。何百キロも離れた街まで一気に移動するつもりだ。そこにはコメダ珈琲店はない。シロノワールは食べられない。だからこれが最後のお別れ。 一口一口、味わって食べるつもりだった。 そのとき、 ダンダン! ダンダンダン! 窓を叩く音が響いた。 音のする方角を見て、ベルタは口にくわえたスプーンを落とした。唇の端からみっともなくソフトクリームをこぼしてしまう。 窓の外に少年がいた。昨日出会った、いじめられっこの少年だ。猛烈な勢いで窓を叩いている。ベルタが自分のほうを向くや、口をあけて何かを大声で叫んでいる。 (な、なんで彼がここにいるんだ?) (どうして自分がここにいるってわかった?) 「あの、お客様……」 ウェイトレスが困惑顔でベルタに言う。 「あちらの方はお知り合いですか?」 「え、えーと、知り合いというか、なんというか、その」 「このままですと、他の方のご迷惑になるのですが」 「わ、わかりました」 窓の外の少年に手招きを見せる。少年、ぱっと顔を輝かせる。 店内に駆け込んできた。 「あ、あ、あの、あの……」 ベルタの席まで走ってきて、少年はどもりながら何かを言おうとする。立ったまま両腕をブンブン振り回す。 「えーと、まずここに座ってください。なにか飲みます?」 ベルタ、少年の肩を押さえて強引に座らせる。 「あ、はい、コーヒー。アイスコーヒー」 「かしこまりました」 ウェイトレスが去ってゆく。 少年はベルタにぺこりと頭を下げる。 「あの、あの、さっきはごめんなさい。あの、ぼく、どうしても会いたくて。あの、あの、怒ってる? 怒ってますよね?」 「いえ、怒ってはいません。怯えるのもほどほどにしたほうがいいと思います。それで、どうしてこの場所がわかったんですか?」 この街は人口五十万人。駅周辺の喫茶店やレストランだけで十や二十はある。駅前にはジャスコがあるし、となり駅にも商店街がある。 「探したんです。会いたくて。きっとどこかでご飯を食べてるって」 ベルタの眉がひそめられる。 「まさか……全部の飲食店をあたったんですか?」 「はい! どうしても会いたくて。朝からずっと。10時間くらい」 勢いよくうなずく少年。 「そ、そうですか……」 あっけにとられる。一体なんだ、この積極性、この行動力は。 「お願いがあるんです」 「なんでしょう」 嫌な予感がした。気がついたらスプーンから手を離し、ぎゅっとテーブルの上で握っていた。握った掌に汗がにじんでいた。 「……あの、ぼく、あんなこといってもらえるのはじめてで」 少年、ベルタをじっと見つめて、泣きそうに瞳を潤ませて言う。 「嬉しかったんです。……これからも、これからもいっしょにいてください!」 「あ、あの……」 「いっしょにいてくれないとダメなんです!」 「うわー……修羅場」 女性の声が聞こえたのでそちらを見た。銀盆にコーヒーカップを載せたウェイトレスが、目を丸くして立ちすくんでいた。彼女の口元が笑みの形になっている。 修羅場、という言葉の意味は知っていた。恋愛関係のことだと思われた。 「ち、違うんです」 ベルタはあわてて否定する。なぜか顔が熱くなった。 「いえ、いいんです。若いっていいですよね」 ウェイトレスは急にまじめな表情になって、 「はい、こちらコーヒーです。ごゆっくり」 「なにか誤解されている……」 ため息をついた。顔がまだ火照っている。 「なんていえばいいのかな……」 ベルタが口を開くと、少年は身を乗り出すようにして、目をきらきらさせて、 「はいっ」 「うう……なんだか疲れる……」 こんなときどうすればいんだろう、と内心で頭を抱える。 これまでベルタは日本各地を放浪してきた。最初は日本語も話せなかったのに今ではマンガ週刊誌を読んで笑えるほどになった。電車の乗り方でとまどうこともなくなった。山中に身を隠す方法も学んだ。 だが、いまの状況にどう対応すればいいのかは分からない。 ずっと一人だったから。誰かと一緒に旅をしたことも、一緒に住んだこともない。友達も作らなかった。 わずかに知っているのが、マンガや小説で聞きかじった知識。 「ねえ、……えーと、名前をきいていいですか」 そうだ、自分はこの少年の名前さえ知らないのだ。 「はっはいっ。名前は祐樹、倉本祐樹といいますっ。す、好きなものは……」 「わたしはベルタです。ドイツ語でB、『二番目』という意味です」 「ベルタさん」 「苗字とかファミリーネームとか、気の利いたものは私にはありません。わたしは人間ではないからです。見てわかりましたよね」 「は、はい。ベルタさんは、白い翼があって、とても綺麗で……天使みたいだなって思ったんです」 「あまり言わないでください。恥ずかしい」 翼のことを綺麗なんて言われるのも初めてだった。 「で……わたしは人間ではありません。手短に言うと、『兵器』なんです。遺伝子操作で作られた、人のかたちをした兵器」 「ベルタさんが……?」 「はい。漫画とかで読んだことあるでしょう? 超人兵士を作り出している組織があるんです。わたしはそこから逃げ出してきました。いまでも『組織』の追っ手はわたしを探していると思います。友達とか仲間とか作ってはいけないんです。他の人を巻き込んでしまうから」 「で、でも……」 「だめです」 ベルタは言いきった。きっぱりと言いきったつもりだった。 祐樹の顔を見て「きっぱり」が崩れた。 祐樹は、この線の細い少年は、泣いていた。 薄い唇を噛みしめ、両目から一筋の涙を流していた。 「う……う……」 口元が震える。鼻をすすりそうになる。テーブルの上の紙ナプキンを手にとって鼻と口を抑えた。 「うぐっ……えぐっ……」 声を殺して泣いていた。 本当なら号泣したい、そんな気持ちが伝わってきた。 「……い、一日なら」 ベルタの口からそんな言葉が飛びだした。 自分は何を言おうとしているんだ 「一日なら。付き合ってもいいです」 「えっ」 祐樹は紙ナプキンを取り落とした。花開くように明るい顔になった。 「ほんとうですか!」 「いえ、一日だけですよ」 「はい! はい! ありがとうございます!」 祐樹、ベルタの手をぎゅっと握って、上下にぶんぶん振る。 また彼の頬を光るものが伝い始めた。嬉しさのあまり涙を流しているのだ。 「では、いきましょう。早く涙をふいて」 胸が締め付けられるような苦しさをおぼえて、ベルタは言う。 「はい、デートですね!」 「で、デート……というのとはちょっと違う気が……わかりました、デートでいいです」 ふと気づくと、お盆を持ったままのウエイトレスが興味津々といった表情で見ている。となりの席の家族連れがチラリチラリと見ている。小さい子供が思い切り身体を乗り出して見ている。 「い、いきましょうっ」 祐樹の手をとって立ち上がる。 ウェイトレスが優しい声で、 「がんばってください。応援してます」 「違うんですってば……」 恥ずかしくてならない。 しかし不快ではなかった。心のどこかに浮き立つような気持ちがあった。 5 二人は書店にやってきた。 暖かい空気、ずらり並ぶ本棚。レジ横には女の子のフィギュアがディスプレイされている。壁の高いところには漫画家のサインが飾られている。テレビがあって、美少女アニメのオープニングを流している。 「あの、本当にここでいいんですか」 祐樹はきょろきょろと視線をさまよわせ、不安そうだ。 「いいんですよ」 ベルタは祐樹に微笑みかけてそう答える。 さきほどまで二人は商店街にいた。アジア小物の店、おしゃれな喫茶店をめぐっていた。 「で、でもこの本によると女の人と遊ぶときはおしゃれな店を選ぶべきだって……」 祐樹が肩掛けカバンから本を取り出す。きっちりとカバーがかけてある。中身がちらりと見えた。『これをやったら絶対モテナイ!』『10カ条』などとかいてある。恋愛マニュアル本のようだ。 「本屋の中で本を出したら誤解されますよ」 「え……そうかな、あわ、ちがうんです、これぼくの本なんです!」 エプロン姿の店員に出くわし、猛烈な勢いで謝る。店員は眼を丸くした。 「そんなに怖がらなくたっていいじゃないですか」 「でも不安で……マンガ専門店なんかに連れて行ったらキモイって書いてあるんです」 ベルタ、苦笑してマニュアル本を取り上げる。 「本どおりに遊んでの楽しくないですよ。わたしは『ふだん祐樹さんが遊んでるところにいきたい』っていったんです。だから本屋でいいんですよ。はい、この本しまいましょう」 ベルタが先頭に立って本屋の中を歩き始める。 「今月の新刊……すごいですね、漫画だけでもこれだけあるんですか」 漫画新刊コーナーは二メートル四方ありそうな台の上、何百冊もの漫画が平積みにされている。 「ベルタさんは、本屋にはいかないんですか」 「コンビニなら。でも、ここの漫画ってコンビニのとは少し違いますね」 「あ、わかりますか!」 祐樹の顔が一気に明るくなった。 「そう、そうなんです。コンビニのは不特定多数に売れる本を選んでるんです。でも、この『マンガの城』はほんとにマンガを知ってるマニアのための店なんで すよ。マイナーだけど面白い作品がたくさん置いてるんです。あと、ここではマンガの立ち読みも出来るのが魅力です。普通の本屋とは違いますよね」 早口にまくしたてて、積んであるマンガの一冊を手にとる。コンビニのマンガより一回り大きくて薄い、表紙は「かわいい女の子二人が抱き合ってる絵」。 「これなんかは、ネット上の無料コミックを単行本にしたものなんです。この女の子はよく見るとほら、戦車と戦闘機なんですよ。兵器を擬人化させたギャグマンガっていうかコメディもので」 確かに、女の子は背中にキャタピラを背負っていたり、ランドセルに小さい翼がついていたり。 「それからこっちは、いまどき珍しい硬派な軍隊ロボットものなんです。ロボットが闘うのは謎の敵で、敵の正体が一つの謎というか魅力になってるんです。ほら、この戦闘シーン迫力あると思いませんか?」 マンガを次から次へと手に取り、中身を開いて解説する祐樹。 と、そこで彼は我に返り、顔を赤らめて、 「ご、ごめんなさい……面白くないですよね、こんな話」 「いえ、そんなことないです。楽しそうでした」 「楽しそう、じゃダメなんです。ぼく一人が楽しんでたら。ぼくはダメだから……いつも他の人にはイヤな思いをさせてしまって……」 ベルタ、祐樹の肩をぽんと叩く。えっと驚いた顔でこちらを見る祐樹に、笑いかける。 「気にすることないですよ。祐樹さんがうれしそうにしていると、わたしもうれしい。まずは、祐樹さんが生き生きするからはじめるのがいいんじゃないですか?」 「こんなのでいいの?」 祐樹はいまだ半信半疑だ。 「はい。おはなし続けてください」 「う、うん!」 もう祐樹は止まらなかった。店内を歩き回り、マンガやイラスト集をとりあげては解説した。彼の顔から笑みが消えることはなかった。 たっぷり二時間、彼はマンガについて喋りつづけ、「喉が乾かないですか?」とベルタがいったのでようやく店をでた。 「祐樹さんて、ほんとにマンガが好きなんですね」 「う、うん。実は、マンガをかいてもいるんです」 「今度、ぜひ見せてください」 「今度? 今日で終わりなんじゃなかったんですか?」 「え……」 ベルタはあっけにとられる。確かにそのはずだ。自分は何を言ってるんだろう。ごく自然に『こんど』という言葉が出てきた。 「もうしばらく、ここにいることにします」 つぶやいて、祐樹の顔を見上げた。 「今日のおはなし、とても楽しかったですから」 「マンガの話してただけなのに」 「いいんですよ、それでも。『あたりまえの日常』が、わたしにとってはとても大切なんです」 6 次の日、ベルタは朝から落ち着かなかった。 普段は朝六時に眼を覚まし、警備員の眼をしのんで学校を抜け出し、誰も見ていない場所を選んでストレッチ、筋肉トレーニング。しばらく汗を流した上で街をうろつく。そのはずだった。 だがその日は朝四時には眼がさめてしまった。もう少し眠ろうとしたがうつらうつらするのがやっと、しかも祐樹とデートする夢を見てしまった。キスをして 飛び起きた。夢だと分かってからも、全身がかっかとほてっていた。誰かに見られ、笑われているようでとても恥ずかしかった。 (わたし、祐樹さんのことをそんなふうに考えてるんだ) 学校を飛びだし、塀を飛び越えて街をうろつく。 今日もデートの約束をしていた。まずは祐樹にマンガ原稿を見せてもらう約束だった。そのあとどうしよう。決めていなかった。喫茶店でマンガのお話をしてもいいし、買い物に出かけてもいい。 どこまでも夢が広がっていった。どんな事を話そう、と考えるだけで幸せだった。 (ふつうの女の子って、きっとこうなんだろうな) 駅前を歩いていると、駅ビルの前にバンが止まっているのを見かけた。 車体に「焼きたてメロンパン」「メロン果汁いり」とかいてある。 (これをふたりで食べよう) 列に並んで、店員さんに笑顔で「ふたつ下さい」。受け取った紙袋からはいい匂いが漂っている。 紙袋を抱えて、バンから離れ歩き出した。 と、そのとき。 背筋に極寒の塊が走りぬけた。 ベルタにとってはよく知っていた感触だった。『組織』の地下基地で訓練を重ねている間、数えきれないほど味わった。伝導体の急速接近による地磁気のゆがみ。背後からの銃撃を回避する機能「電磁感覚」だ。 即座に戦術支援電子脳を起動。 (後方より銃弾。推定速度700メートル毎秒。ライフル弾と推定) (弾道は後頭部を指向) 体が反射的に回避行動をとる。 神経電流伝達速度を加速。30倍に加速。生体過吸システムを起動、胸の中に封じ込められていた酸素を解き放ち血中に放出。五感が変化する。時間感覚が変化する。自分以外のあらゆるものが遅くなる。周囲の空気が水あめのようにねばついて感じられる。 全力で首を振って銃弾をよけようとして、 (だめ! 人がいる!) 駅前だ。ベルタのまわりには何十人もの人間が歩いている。よけただけでは彼らに当たる。 首を傾けるかわりに全身をひねって振り向いた。バンが視界に飛びこんできた。凍りついたように動かない人の列が見えた。彼らの上を飛んでくる一発の銃弾を視認した。 ベルタはメロンパン入りの袋を放り出し、片腕を顔の前にかざす。所要時間0.03秒。ちょうどそのとき銃弾がベルタまで到達した。腕に激突、皮膚を貫いた。腕の骨の中心に突き刺さる。弾はそこで止まった。エインヘリヤルの骨は頑丈なのだ。 (ブロック成功) 激痛に顔をゆがめ、たったいま飛んできた銃弾の軌道を推論。 あたりは住宅地、通行人はまばら、誰も銃は持っていない。当然だ、まだ銃声が聞こえない。これだけ遅れて聞こえるのは狙撃者が遠くにいる証拠。狙撃者はどこか? 狙撃に使えるほど高い建物は見渡す限り二つ。すぐ目の前にある駅前のデパート、それから五百メートル離れた場所にそびえたつ二十階建ての高層マンション。 ベルタは視力をとぎすましマンションの窓を見る。並んだ百あまりの窓をコンマ二秒ですべてチェック。見当たらない。銃を構えた人影はない。と、マンショ ン屋上で白い閃光。マズルフラッシュだ。全神経を視力に集中。閃光の中から現れる一発の銃弾を、秒速七百メートルで突進してくるわずか数ミリの金属片を視 認。 また腕を振るった。タイミングを合わせて下から銃弾を凪ぎ払った。銃弾は軌道をそらされて上に飛んでいく。 そのときようやく、ズドンっと銃声が響く。あたりにいる人々が顔を見合わせる。「なに今の?」と不思議がる。銃声だと認識できなかったらしく誰も伏せない。 (このままじゃ!) ここにいたら大勢の人間を巻き込む。絶対にできない。 (隠れる) (逃げる) いくつもの選択肢が脳裏ではじけた。 (逆襲する。もとを絶つ。一瞬でも早く) 結論はすぐに出た。戦術支援電子脳に命令、背中の放熱器官を展開。白い翼がパーカーをぶち破って伸びる。すでに加熱して湯気をあげていた筋肉が冷却され る。全力で疾走。まずはその場から離れる。時速百キロまで加速、人ごみの中をかき分け、両手に荷物を持った中年女性に激突しそうになって跳躍して回避、そ のときベルタの電磁感覚が三発目の銃撃を感知、空中で身をひねって回避する。首筋をかすめる銃弾。 駅前から商店街に入った。ビルとビルの隙間を駆ける。銃撃はなくなった。敵から目視できなくなったのだ。そのまま駆けつづける。時速百キロを維持する。 自転車に乗った老人に出くわし跳んで回避、老人が腰を抜かし自転車を倒す音が聞こえ、そのうち商店街から飛び出して住宅地に入る。あたりには一軒家が立ち 並んでいる。 そんな家々の狭間に、王者のような風格のマンションがそびえたっている。 距離二百メートル。スパートをかけた。一気にマンションまで突進、裏手に回って非常階段を見かけると三段飛ばしで駆けあがる。脚力に耐えきれず階段が踏み抜かれ破片が散らばる。二十階まで登るのにわずか四十秒。屋上へとつながる非常扉を蹴り破った。飛びこむ。 屋上には、銃をもった背広姿の男たちが六人いた。そのうちひとりが長い銃身のボルトアクションライフルを持っている。残る五人はベルギー製の自動火器 FN-P90をもっている。全員がすばやい動きでベルタに銃口を向け、いっせいに発砲。ベルタは跳躍、すべての銃弾を回避して男たちの真っ只中に降り立 ち、四方八方に向けて拳を見舞う。ローキックを繰り出す。常人の数十倍という筋力で駆動される拳は、男たちの両肩を撃ちぬいて骨を粉砕、ローキックは足首 や膝を粉砕。一秒とかからずに男たちはその場にくずおれた。 脂汗を流してうめく男たち。 ベルタは彼らを見下ろし、ひどく無機的につぶやく。 「ふつうの人間……『組織』じゃない」 『組織』とは別口の追っ手も珍しいことではない。超人的な戦闘力に不死身の肉体、欲しがる者は大勢いる。 男たちがベルタを見上げてつぶやいた。 「ば、ばけもの……」 その一言はベルタの胸を串ざしにした。男の顔をよく見ると、ごつい顔立ちに本物の恐怖が宿っていた。 「……そうでしたね」 冷たい声をもらすベルタ。 「わたしは化け物で、こういう世界に生きてるんでしたね」 背中の翼を閉じた。神経加速を止めた。しかし戦闘体勢を解除しても、心の奥底に広がってしまった暗い気分は消えない。 (恋人ごっこなんて、やってる場合じゃないんだ) 7 その日、集合場所は公園だった。 ベルタと祐樹が初めてしゃべった、あの公園だ。 ベルタはベンチに腰かけて待っている。 近くの砂場では、おばさんにつれられた子供が数人遊んでいる。おかっぱ頭でピンク色のカーディガンを着た女の子が砂で山を作っている。近くで坊主頭の男の子が手伝っている。山に穴をあけた。 女の子のほうが何事か叫んで、坊主の男の子をけっ飛ばした。 まるで無防備に飛んでゆき、砂場のふちのコンクリート部分に頭を打って泣き出す男の子。母親らしい中年女性が血相変えて飛んでくる。しかし中年女性を押 しよける勢いで突進してきたのはおかっぱの女の子だ。ぼろぼろ泣きながら、大きな瞳から大粒の涙をこぼしながら男の子を抱きしめる。頭をなでて、大丈夫、 大丈夫、ごめんね……と叫ぶ。男の子がぱっちり眼をあけた。舌を出す。 「なにすんだよ、離せよ」 たいした怪我ではなかったらしい。もう涙も止まっていた。 「けびょうだったのかよ」 今度は女の子のほうが怒り出す。 「けびょうじゃない、ほんとにいたかったんだぞバカ」「それはケンくんがお山を壊すから」「こわしてねーよばーか」 男の子は女の子の髪の毛をひっぱり、女の子のほうは砂をつかんで投げつける。喧嘩になった。 一部始終を見ていたベルタは、だんだん胸の奥が苦しくなってきた。 (なんとなくわたしたちににてる) 主導権を握っているのは女の子のほうだ。現にいまの喧嘩は女の子が優勢になっている。男の子はもう髪をひっぱるのやめて、飛んでくる砂を防御するのに必死だ。男の子は「目に入ったっ。うわっ」と言いながらも、笑っている。楽しそうだ。 ほほえましい。たとえ喧嘩しても実際には仲良しなんだとわかる。 だからこそ、見ているのが辛い。 ベルタは目をそらした。膝の上で固く組んだ手に、視線を落とす。 「ベルタさーんっ」 大きな声が耳に飛びこんできた。顔を上げるベルタ。 祐樹が息を切らして走ってきた。 「はっ、はっ……ま、ま、待ちました?」 「いえ、待ってはいません。というより、待ち合わせ時刻より前ですけど……」 「はやく会いたかったんです」 「今日も、学校には行かなかったんですか?」 「もちろんです。学校にいっても、何も楽しいことはないから」 「家の人たちはなんていってます?」 祐樹は困ったように頭をかいて、 「それはその……ぼくが学校サボってるってのはわかってるみたいで、『どうして行かないの』っていいますけど……『関係ないだろ!』って怒鳴ったら黙っちゃいました。もっと早くこうすればよかった」 祐樹は満面の笑みを浮かべている。学校という辛い場所から逃げられて嬉しい。心の底からそう思っている。行かなかった結果のデメリットなど微塵も考えていない。そんな顔だった。 (やっぱり、このままじゃダメ。この人は堕落しちゃう) ベルタ、ベンチから立ち上がり、祐樹の目を見つめて、 「実は……」 もうお別れしようと思ってるんです、といおうとした。 「これをよんでくださいっ」 いえなかった。祐樹がカバンの中から出してきた紙の束を押し付けられた。 「え……」 「よんでくださいっ。マンガですっ。こないだいってたのを持ってきたんです」 「あ、祐樹さんの書いたマンガですね」 読んでしまってはいけない気がした。読んだらもっと深入りする。感想を言わないわけには行かないし、言ってしまったら…… ためらい、紙の束を突っ返そうとする。 しかしできなかった。祐樹がじっとベルタのことを見つめている。邪気の全くない眼が。ベルタの表情が曇ったのに気づいたらしく、祐樹の顔がこわばる。彼 の内心を駆け巡る思いがベルタにはよくわかった。眼がうろうろとさまよっていた。(ベルタさんが嫌がってる、嫌われてるのかも、どうしよう、どうしよう) という恐怖に震えているのだ。 「……わかりました、読みます」 「はっはいっ。ありがとうございますっ!」 「とりあえず座ってください。ずっと立ってられると落ち着かないです」 そしてベルタは読み始めた。 マンガの原稿を読むなんてもちろん初めての経験だ。 原稿は手の中でズシリと重い。二百枚くらいありそうだ。 読み始めたら止まらなかった。すぐとなりに座った祐樹がやたら緊張した面持ちでこっちをじっと観察していたが、途中から気にならなくなった。 ひとりの少年の異世界を舞台に冒険する話だった。十九世紀ヨーロッパをモチーフにしただろう異世界の都市が美しかった。主人公の軽薄な少年が、助手役の生真面目な少女に怒られながら事件を解決してゆく、掛け合いが面白かった。 くすりと笑ってしまった。この暗い少年のどこから、こんな明るさが出てくるのだろう。 クライマックス、少年と少女の前に立ちはだかる敵は『魔術の力で、人の心の闇が実体化した存在』。一気に物語は暗くなる。少年と少女は闇と闘ううちにおのれの暗黒面と戦う羽目になる。二人が抱えている過去が明らかになる。 このあたり、ベルタは手に汗を握っていた。ついに少年と少女は力を合わせて闇に勝つ。そしてケンカばかりしていたのに仲良くなる。仲のよさを脇役にからかわれてまたケンカ。ほのぼのしたシーンで終わる。 読み終わって、ふう、とため息をつく。 「……ど、ど、どうでした?」 祐樹がおっかなびっくり訊いてくる。 「……面白かったですよ!」 「え? 本当に?」 目をそらし、唇を震わせていた祐樹の顔がぱあっと明るくなる。 「とくに、この女の子がかわいかったです。絵の勉強とかもしてるんですか?」 「いや……勉強ってほどじゃ……たいしたことないですよ、ぼくの絵」 祐樹は眼をそらし、照れ笑いを浮かべる。だが鼻の下が伸びきっている。「もっと褒めて!」と思っていること明らかだ。 「マンガの賞とかに出さないんですか?」 「え……」 何の気なしに言った言葉だった。褒め言葉の延長だった。だが祐樹は急に苦痛をこらえる表情になって、 「それはその……なんていうか、無理です。マンガの賞は」 「え? これだけ描ければ、いいところまでいくかも」 「む、無理ですって……」 いきなりうつむいて、祐樹は呟く。 どうして急に気弱になったのか全然分からない。ベルタは首をかしげる。 祐樹が意を決したようにベルタを見つめて、 「……恐いんです」 「恐い? なにがですか」 「落選したら。だって、このマンガ描くのに一年以上かかってるんです。それを送って落選したら。なんのコメントももらえずに『ダメ』ってことになったら……ぼくの一年は無駄だったってことになります」 「直してまた送るとか、次のを送るとか」 「それがダメなんです。落ちたら耐えられそうにないんです。他人に見せたのもベルタさんが初めてです」 「それはもったいない気が……」 「でもいいんです。ベルタさんに喜んでもらえたからぼくは満足です。もっと持ってきますね。書き上げたのはこの原稿だけだけど、もっといろいろあるんです」 手をぎゅっと握られた。祐樹の眼がきらきらしていた。 (まずい。このままでは抜けられない。ずるずると、ずっとこの関係が続く) ベルタは目をそらした。 そして、言い切った。 「……実はお話があるんです。 祐樹さんのマンガを読み続けることは、できません。 そろそろこの町を離れるつもりです」 びくう! ベルタの手の中で祐樹の手がはねる。震える。 いくら華奢といっても男の手だ。ベルタより幅があるし指も太い。それなのにまったく力強さを感じさせない。 「……どうして? どうしてそんなことを言うの?」 「決まっています。以前にお話したはずです。わたしは人間ではないと。兵器です。『組織』が作り出した兵器なんです。『組織』は今もわたしを探しているはずです。逃げ続けなければいけないんです。……本当は、もっと早くこの町を去るつもりでした」 「……でも、でも、ぼくは!」 祐樹の声は早くも泣きそうだ。 「わかってください、祐樹さん」 「ぼくはベルタさんがいてくれないとダメなんです……」 「じゃあ話を変えましょうか。祐樹さん、このままどうしますか。いまは学校に行かなくても、ずっとこのままってわけにはいきません。また学校に行かない と。このままずっとわたしと一緒にいると、祐樹さんがダメになってしまうんじゃないか、って思います。祐樹さんは、ひとりで生きていかないと」 「む、無理だよ! ぼくはそんなことができる強い人間じゃないんだ!」 これまでよりも激しい、否定の感情が込められた叫びだった。ベルタは強引に首根っこをつかまれた。うつむいていた顔を上に向かされた。驚いた。こんな大胆な行動を彼が? 顔が上に向いたおかげで祐樹の表情がよく見えた。今回も彼は泣いていた。しかし気弱な泣き顔ではなかった。瞳に強烈な光が宿っていた。らんらんと輝いていた。 「……ユ、ユウキさん……」 思わずうめいた。迫力すら感じてしまった。これと同じ眼を見たことがある。あれは信州の山奥をさまよっていたころ、雪の中で一頭の野犬に出会った。茶色 くて大柄な日本犬。ベルタを見るなり姿勢を低くして唸った。痩せた体に残った筋肉のすべてが弓の弦のように引き絞られているのがわかった。完全な戦闘体勢 だった。 あの野犬と同じような、追い詰められた者の眼。 たじろいたベルタの両肩をつかんで、すがりつくようにして訴えてきた。 「……だめなんだよ。ぼくは強くなれないんだ。よく知らない大人が『努力していじめに勝て』『強くなれ』とか言うけど、そんなこと言う人はなにもわかって ないんだ。努力なんてできないんだ。反撃したこともあるけど結局めちゃくちゃにやられたよ。何もせず泣いていたほうがまだ痛くないって分かったよ。体を鍛 えようともしたけど、空手の道場の入り口まで言ったけど、怖くて入ることもできなかった。でもあいつらは言うんだ。『どうして努力しないの?』できないん だよ。なんにもわかってない。努力できるっていうのも才能の一種なんだ。生まれつき手や足がない人がいるのと一緒で、生まれつき心が弱くて努力できない人 もいるんだよ。それをわかってないんだ、あいつらは。あいつらだっていじめをやってるんだ。無神経だ。『がんばれ』って言われるのが一番いやだ。がんばれ ないおまえはだめだって言ってるんだから。あいつらわかってないんだ。できない人間がいるなんて想像もしてないんだ」 一気にまくしたてる。 「おちついてください。ね、おちついて」 「ベルタさんはわかってくれたんじゃないんですか。だって『だめなままでもいい』っていってくれたじゃないですか。どうしても成長や努力できない人間がい るんだって、わかってくれたじゃないですか。この人は他の人と違うって思ったんです。他の人はみんな、条件付きでしかぼくのことを好きになってくれないか ら。いい成績をとれ、がんばっていじめに勝て、そんなの、『ほんとのぼく』を好きじゃないってことですよね。でもベルタさんは、ベルタさんだけは……信じ てたのに……ほかの人たちとは違うって思ってたのに……」 そこで祐樹は口ごもった。涙で濡れた顔は青ざめていた。苦悶の表情が浮かんでいた。両手をベルタの肩から離し、自分の顔の前でぎゅっと合わせた。神に祈りをささげる者のように。そして沈黙を破って祐樹は叫ぶ。 「なのに……うらぎったんだ! ぼくの気持ちを裏切ったんだ!」 砂場で遊んでいた子供たちもその親も、公園にいるすべての人間が注目した。それほどの、血を吐くような絶叫だった。 ベルタ、そんな祐樹を見つめていた。黙っていた。 心の中には二つの塊がうごめいていた。ひとつは嫌悪感。祐樹の言葉への反発。 (生まれつきがんばれない人間なんて、最低のいいわけ。カッコ悪い。『だめなままでも好きでいてほしい』なんて赤ん坊じゃない) だがそれよりもっと強い感情があった。 罪悪感。嫌悪より何倍も強い罪悪感。 (このひとをこんな風にしたのはわたしだ。わたしはたしかに命を助けた。でもそのとき、だめなままでいいって言った。わたしのせいだ。わたしがやさしくしたからいけないんだ) (それにわたし、楽しかった。 このひとと一緒にいるの、楽しかった。 本を選ぶのが。漫画の話を聞くのが。だめなこの人の面倒を見るのが、たとえようもなく充実していた。 誰かの役に立てるのがうれしかった。ずっといっしょに、わたしだっていたかった) (だからわたしはこの人を怒れない) ベルタは意を決し、すうっと息を吸って、 「……祐樹さん」 精いっぱい誠実な声で、青ざめた祐樹を見据えながら言った。 「……ごめんなさい」 祐樹の目が見開かれる。ベルタの言葉が意外だったらしい。目の中に浮かんだ感情は微妙なものだ。驚きと失望が混ざっていた。そんなはずじゃない、という焦りもあった。 「ごめんなさい。祐樹さん。祐樹さんの生き方を邪魔してごめんなさい。自分勝手な考えを押しつけてごめんなさい。祐樹さんと一緒にいた間、短かったけど、でも楽しかった。感謝します」 「……な……なんでだよ。なんで怒ってくれないんだよ。なんで叱ってくれないんだよ」 「……さよならです」 背を向ける。 そして駆け出す。公園の外へと。 「ベルタさぁぁぁぁんっ!」 背後に祐樹の絶叫が叩きつけられた。 植え込みと柵をジャンプして飛び越える。振り返らない。 (これでいいはず) (これでよかったはず) (それなのになぜ、こんなに胸が苦しい) 歯を食いしばって、走り続けた。 8 「……さよならです」 くるりと背を向けるべルタ。黒髪を揺らし、ブーツで砂を散らして、駆けだす。早まわしのような速度。人間の足ではとても追いつけない。公園を囲む植えこみをジャンプひとつで飛び越え、祐樹の視界から消える。 祐樹はベンチから、はじかれたように立ち上がった。ベルタの消えた方角に向けて、絶叫。 「ベルタさぁぁぁぁぁんっ!」 絶叫に答えるものはいなかった。もちろんベルタが戻ってくることもなかった。 祐樹、その場にくずおれる。水たまりに膝を突っ込んでズボンが汚れた。 地面にうずくまったまま、祐樹は泣き始めた。まぶたの端に生まれた大粒の涙は、たちまち幾筋もの涙となって頬を伝う。 「えぐ…えぐ……ベルタさん……どうして……」 しゃくりあげて泣いた。ひとしきり泣くと、祐樹はよろめきながら立ち上がった。 (さがさないと) ベルタを追いかけて、探し出すつもりだった。 (一度できたんだから今回もできる!) 何の根拠もなく心の中で断言して、祐樹は公園の入り口にむかった。 ベルタを探してどうするのか、どうやって説得するのか、そもそもこの町にはいないんじゃないのか、そんな疑問はまったく感じなかった。極端に視野が狭くなっていた。 公園を出た祐樹は、街の中をしらみつぶしに探した。 最初にあたったのは、国道沿いのコメダ珈琲店。それからデートで歩いた商店街。楽しく喋った本屋。そのあとはあらゆる店を。喫茶店、ファミレス、ベルタ が好きそうな甘いもののある場所にはすべて顔を出した。店員を突き飛ばす勢いで店の中に突入して店内をぐるっと回り、どの席にもベルタの姿がないと知ると ため息ひとつついて何も食べず出てくる。そんなことをどの店でも繰り返した。 やがてあたりは暗くなった。それでもあきらめず、鉛のようになった足を引きずって食事もとらず探しつづけた。 深夜になり、空腹が耐えられないほどに胃袋を締め付けた。まだ十月なのに驚くほど寒かった。 ブルブル震えながら歩いていたらコンビニを見つけた。ダンプやトラックが何両も止まっている大きなファミリーマート。 (肉マンかおでんでも食べよう) 自動ドアへと足早に進む。 「クソ祐樹じゃねえか?」 太く、低い声が鼓膜を叩く。知っている声だ。 頭のてっぺんから足の先まで、寒気の塊が滑り降りた。心臓が二倍の速さでドクドクと暴れだす。 「あ……」 震える声が口から転げだした。 (逃げなきゃ! 逃げなきゃ!) 心の中で叫ぶ。しかし逃げられなかった。力強い腕が祐樹の腕をつかみ、別の腕が肩を押さえつけていた。強引に振りむかされた。 案の定、自分を取り囲むように三人の男女が立っていた。 一人は百八十センチの背丈があって、茶色の長髪。黒レザーのジャケットを着て首からはシルバーアクセをぶら下げていた。二人めは横幅があった。ただ太っ ているだけでなく背も高く腕が太い。ヒップホップダンサーを思わせるラフなファッションで、頭は坊主頭。最後の一人は、ソバージュのかかった茶髪に濃い化 粧の、女。 男二人は、学校で祐樹をいじめている奴らだ。女は知らない。 「よーお、珍しいじゃん、おまえがこんな時間にさ」 「あ、あ、あの、あの」 ロン毛の男ににらまれただけで、もう祐樹はまともに喋れなくなっていた。 「おいおい、俺らは普通に挨拶してるだけじゃんかよ。なにブルってんだよ」 ガタイのいい男が祐樹をあざ笑う。ふたりで祐樹を引きずってゆく。 駐車場に連れていかれた。カスタムされた大型スクーターが並んでいる。 いじめっこふたりはスクーターに腰かけた。 「最近どうよ、学校こねーけどさ」 「いやー、おれら心配したんだぜ。おめーがヒッキーにでもなっちまったんじゃねーかってよ」 「元気そうでなによりだぜ」 茶髪の女が間伸びした声で、 「あのさー。あたし話がみえねーんだけどさー。この子だれよ?」 「あー、エリには言ってなかったっけ? こいつ、いじめられっこでさ」 「そうそう、俺たちがなにやっても文句いわねーんだぜ」 「へえ……、あたし、一度いじめってやってみたかったんだ」 「やってみればいいじゃん。ストレス解消にいいぜ」 「ふーん。おい、四つんばいになれ! なんてね」 即座にロン毛の重い蹴りが脛に叩き込まれた。 「うっ」 祐樹は悶絶する。全身の筋肉が反乱を起こした。膝が笑っている。肩も震えている。 「おい、クソ祐樹! 四つんばいだって言ってんだろ」 「エリ女王様のお言葉がきけねーのかよ」 おずおずと祐樹は地面に膝をつく。手もついて、うなだれた。 「へー! すっごい! 奴隷みたい!」 無邪気にはしゃぐ女。 「じゃあ、そこの空き缶を拾って来い!」 祐樹の目の前には缶コーヒーの空き缶があった。吸殻が突っ込まれている。 「あ、あの!」 「はやくやれっていってんだよ!」 エリに顔面を蹴飛ばされる。「は、はひっ!」と泣きそうな声をあげて、手で空き缶をつかむ。「てめー犬の癖に手つかんてんじゃねーよ! 口だよ口!」ま た顔面に蹴りが入る。「ひゃっはっは、エリ、うまいうまい」全身をガクガク震わせながら祐樹は空き缶をくわえた。口の中にタバコの吸殻と灰が流れ込んでく る。 そのまま何歩か歩いた。だが気持ち悪くなって吐き出してしまう。 「うげえっ」 胃液とつばを撒き散らした。目の前に立っている女の脚にかかった。 「な、なにすんのよ!」 飛びのいてわめく女。「てめえ! エリになんてことしれくれんだよ!」絶叫が耳を叩き、同時にキックが側頭部に浴びせられる。「ぐえ!」うめいて祐樹は 駐車場に転がる。ロン毛と巨体、ふたりのいじめっ子は腕組みして祐樹を見落ろしている。眉間にいかついシワを寄せ、口元には醜い笑みを浮かべている。歯を むき出して言葉を叩きつけてくる。 「覚悟はできてんだろうな?」 「で、で、でも、あの缶は汚くて、し、し、仕方なくて」 「うるせえ!」 腹に革靴が振り下ろされる。内臓まで響く衝撃。体の奥底で胃袋がでんぐり返るのがわかった。体を折って、胃液を吐いてのたうちまわる。鼻の奥がつんと熱くなる、鼻水と涙が噴きだした。 「ぐへっ……ぐへっ……げへん……」 「てめーは人間じゃなくて犬っコロなんだよ。口答えしてんじゃねえ。泣いて謝れ。おら、おら」 泥のこびりついた靴底が祐樹の顔面に押し当てられる。胃袋の痛みを圧倒するほどの恐怖が身体を包んだ。このまま脚を振り下ろされる。歯が折れる。口の中に突き刺さる。そんな悪い想像ばかりが脳裏を渦巻いた。 「は、は、はい……ごめ、ごめんなさい……」 恐怖が身体を突き動かしていた。涙を流しながら祐樹は謝った。顔の前で手を合わせて謝った。 「どうする、エリ? 許してやる?」 「だめ。やっちゃって! このスカート高かったのに……」 「どこまでやればいい?」 「何しても反撃しないんでしょ? 二度と逆らったりしないくらい、でいいんじゃない?」 「おうおう、女は恐いねえ」ロン毛がにやつく。 ふいに大柄スキンヘッドが呟く。 「それよりさ、なんか出てるぜ」 祐樹のカバンが開いて、中身が飛び出していた。マンガの原稿も。 「なんだこりゃ。……プ」 大きな顔を嘲笑にゆがめる巨体スキンヘッド。 「なになに、あたしにも見せて。えーなにこれ? マンガ? きたなーい。えいっ」 エリがマンガの原稿を真っ二つにする。ビリっという音がやけに大きく響いた。 「あ……」 祐樹、絶望のうめきをもらす。 (原稿が! 原稿が!) 立ち上がって原稿を奪い取ろうとする。後ろから巨体スキンヘッドの蹴りが入った。尾てい骨に入った。背骨のあたりまで衝撃が駆け抜けた。その場に膝を突く。 「や、や、やめて……」 ボロボロ泣きながら訴える。 「やっだよー」 一枚、また一枚。見せ付けるように一枚ずつ破ってゆく。 「俺にも見せてくれよ」 ロン毛が原稿のうち一枚を手に取った。ペラペラと裏返してみる。クライマックスの場面だと祐樹には分かった。主人公がヒロインの言葉に助けられ、再び戦いを決意して立ち上がるシーンだ。 「えー。なになに。『だけど君がそこで見守ってくれるなら』オイオイなによこれ」 「願望なんじゃねーの。だれか女に助けてもらいたいって」 「キモーイ」 エリが手を叩いて嘲笑する。 祐樹の中にドロドロした感情が生まれていた。その感情の正体がわからなかった。怒りだと気づいた。まさか。愕然とした。ぼくは怒ってる。とっくの昔に、 いくらなぐられても仕方ないんだってあきらめていたはずなのに。怒ったってエネルギーの無駄だって分かっていたはずなのに。 ビリッ ビリッ 原稿は破かれる鋭い音が耳に飛び込んでくるたび、引きちぎられた原稿が目の前を舞い落ちるたび、胸の奥で生まれた怒りがどんどん大きくなっていくようだった。 ついにすべての原稿が破られた。ロン毛の足元には数百の紙片になった原稿が散らばっている。彼は原稿を足で踏みにじって、 「で、おまえもしかして、マンガ家とか目指しちゃってたわけ?」 「キモイよねー」 「こんなの誰が読むかっての」 その嘲りを耳にしたとたん、胸の奥の怒りはさらに膨れ上がった。 脳裏にベルタの言葉が蘇った。『おもしろいです』『とても優しい作品だと思います』『もっと書きましょうよ』『こういうのかけるって、すごいじゃないですか』 祐樹は理解した。自分がなぜ怒っているのか。 ベルタさんまで馬鹿にされた気がするからだ。生まれて初めて自分のマンガを読んでくれた、面白いといってくれたあのかけがえのないひと時を、丸ごと否定された気がするからだ。 心臓がどくどくと暴れまわる。 視界の隅で、またロン毛の靴が、靴跡だらけで茶色く汚れた原稿をまた踏みしめる。 「やめろ……」 祐樹の口からかぼそい声が出た。 「あん?」 ロン毛、顔を下げて、にやついた笑みを向けてくる。 「なんか楽しいこと聞こえちゃったな? やめろって? お前が、おれに命令? おもしれっ」 「キレちゃったかなー。やっぱ、マンガだけが宝物だったのかな。気持ち悪い……」 祐樹は立ち上がった。顔をあげる。ロン毛と、彼によりそうようにしているエリを見る。 「そうだよ……そうだよ……たからもの、だったんだよ……読んでもらえたんだ。面白いって言ってもらえたんだ……」 心の中でずきずきと、怒りの塊がうずく。手足が震えていた。背骨に寒気がからみついていた。これから振るわれる暴力を想像して、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。 頭の中で理性が訴えた。いますぐ謝ってしまえ、マンガなんてあとでまた描けばいいじゃないか。逆らっても痛い目を見て泣かされるだけ。何度も経験してるじゃないか。 しかし胸の中で理屈を越えた何かが、嫌だと叫んでいた。 嫌だ。絶対に嫌だ。 「なんだよ? そのゲンコツはよ」 気がつくと祐樹は腰を落とし、ロン毛をにらみつけたままファイティングポーズをとっていた。 「あやまれ……あやまれよ……原稿は……原稿だけは……」 歯がカチカチと鳴った。手足の筋肉が痙攣するほど身震いしていた。祐樹の股間に生暖かい感触が生まれた。パンツの中にかゆみとべとついた感触。感触は広がって下に落ちてゆく。 (また、もらした) 長年の間、殴られ続けた自分の体は、喧嘩の予感だけで失禁するほどになっていた。 「ぎゃははは。信じられねえ。高校生でオモラシ?」 「病気よねー、弱虫もここまで行くと」 不思議だった。これまでなら、恐いと感じた瞬間に体が硬直していた。意識の全てが恐い恐いで塗りつぶされていた。 今は違う。身体が恐怖におののいても、心のどこかが熱かった。 「やめろっていってるんだ……それは大切なものなんだ……」 ここでもし謝ってしまったら、どうなるかと、分かっていたから。 (ぼくはクズかもしれない) (もう殴られるのもバカにされるのも慣れた) (でも、でも、そのマンガは……それだけは!) 「へえ、やめなかったらどうすんだよ? やんのか、ションベン太郎の分際でよ?」 ロン毛は嘲笑し、ほとんど同時に祐樹の心の中で何かがはじけた。 「うあああああああっ!」 絶叫し、突進した。殴りかかった。 腕を大きく振った素人くさいパンチを放つ。ロン毛は驚いた顔になったが、しかし危なげない動きで祐樹のパンチをかわす。すばやく反撃。祐樹の顔面に鉄拳。頬に拳がめりこんだ。 痛みは感じなかった。重い衝撃が頬に生まれ、顔面全体にひろがった。いつもと違って、殴られた瞬間に眼をつむることはなかった。のけぞった。上半身がぐ らついた。それだけだった。倒れずに踏みとどまった。ロン毛が意外そうに片眉を上げる。祐樹自身も驚いていた。いままでは殴られると必ず吹っ飛んでいた。 しかし今は。なぜだ。 すかさず祐樹は二発目のパンチを放つ。またかわされた。今度はロン毛がローキックを放ってきた。祐樹の軸足を叩いた。膝を折って倒れこむ。しかしそのと き無我夢中で伸ばした手が茶色く長い髪をつかんだ。全体重をかける。髪の引き抜かれる音がした。ロン毛が「ウッ」と悲鳴を漏らす。祐樹の心に高揚感が膨れ 上がった。 相手が見苦しくうめいた。相手は無敵じゃない。自分と同じ、痛がって血を流す生き物だ。 相手のうめきと同時に祐樹は頭から突っ込んだ。額のあたりに硬いものがぶつかった。顎の骨だ。相手は頭突きを受けて足元をふらつかせ、後ろに倒れこむ。 そこに改造されたスクーターがあった。スクーターを倒してその上にロン毛が仰向けに転がり、身体をくの字に折って「いでえ」とわめく。祐樹は彼の上に覆い かぶさって、顔面めがけて何度も何度も拳を振り下ろした。顔面にパンチがめり込むときはこっちの拳も痛いのだとわかった。パンチの一発が歯に当たったらし く、指の皮がむけて血が流れだした。 「てめえ!」背後で怒声がはじけた。 あ、と思ったときにはもう逃れられない。大柄スキンヘッドに首根っこをつかまれていた。ムリヤリ引きずり上げられた。後ろから羽交い絞めにされた。「モ ガア!」見苦しくわめく。「うるせえんだよ!」大柄スキンヘッドが口を押さえた。ごつごつした太い指が口を覆った。息が苦しい。耳元にせせらわらう声がす る。「さーあ、もうおしまいだぜ?」ロン毛の方も立ちあがって腰を落とし、ボクシングのファイティングポーズをとった。 殴られる! もう逃げられない。 心の中に不安が芽生えた。殴られて泣きわめく自分のイメージが脳裏をよぎる。だが胸の奥で燃える炎が体を突き動かした。 いまだ! 力の限り、口をふさぐ手にかみついた。人指し指と中指に歯を立てた。 ガリッ! 口の中で、骨と歯のぶつかる思いもかけない大きな音。血の味。 「このやろっ!」 背後で大柄スキンヘッドが怒声を炸裂させる。祐樹の口から手を引き抜こうとする。それでも祐樹は離さない。手を噛んだままだ。もう一本の腕が伸びてく る。祐樹の口をこじあけようとする。唇と鼻の上を太い指が這いずりまわった。思いきり唇を引っ張られて痛かった。口の中にもう一本の手が入ってくる。 ガリガリッ! そっちも噛んでやった。いまや祐樹は口で左右四本の指をくわえこんでいた。 「いてえ! いてえ!」 体を密着させた状態のまま足を踏んでくる。カカトや脛に蹴りを入れてくる。一発ごとに重い痛みが祐樹を責め立てた。まだ離さなかった。顎の筋肉が引きつるほど強く噛んだ。口の中で指がうごめく、暴れまわる。獲物から逃れようとあがく小さな生物のように。 「ぐぎぎぎぎいっ」 祐樹は奇声を発する。歯が指の筋肉に食いこむ。皮が破れた。筋肉がはじけた。 「ぎゃあ! 離せ! 離せよ! こいつっ!」 背後からの怒声は悲鳴に変わっていた。目の前に立つロン毛が矢継ぎ早にパンチを浴びせてきた。祐樹はよけることができなかった。頬に、額にパンチがはじ けた。しかし痛みはなかった。体全体がほてって、熱さ以外の何も感じなかった。ただ口の中だけにすべての注意力が集中した。 ばきっ。 枯れ枝を踏み折ったような音が口の中で弾けた。背後にのしかかる大柄スキンヘッドの巨体が痙攣したのが伝わってきた。もう一度顎に力を入れる。ぱきん、 ばきっ。犬歯が指の皮膚を裂き、その奥にあるヌルヌルした硬いものを噛み砕く。血と肉がズタズタになって、硬い骨の破片が口の中にひろがってゆく。 「んんーっ! んんっー!」 大柄スキンヘッドが泣き声をあげた。祐樹は顎の力を緩める。口の中から指が逃げ出す。唾といっしょに、砕かれた骨を吐きだす。 「おれの……おれの指があ……」 すすり泣く声。跳びのくようにして足音が去る。ロン毛のほうはいまだに祐樹の前に立っている。唇を引きつらせて凄む。ぎょろりとむき出された眼が血走っていた。 「て、て、てめえ……なんてことしてくれやがる……」 皮ジャンの前をはだけた。中から取り出したのはフォールディングナイフ。刃を出して、逆手に握って構える。ナイフのギザついた歯は長さ十五センチ。 「さ、刺すぞ、ブッっ殺すぞ」 「やれよ……やってみろよ」 ナイフを向けられても祐樹は動じなかった。自分でも驚くほど冷たい声が出た。 「やってみろっていってるだろ……」 そう言って祐樹は一歩踏み出す。ロン毛は見えない壁に押されるようにして下がる。足がスクーターにぶつかった。これ以上逃げられない。「ひっ」小さな悲鳴をあげてロン毛は身をすくめる。 「さ、さ、刺すぞ」 「やれっていってるだろ」 祐樹がつぶやいた。ナイフの前に掌をかざした。ロン毛の顔をにらみつけた。よく日焼けした彼の顔は恐怖にひきつっていた。眼が逃げ場を探して泳いでいた。完全に迫力で負けていた。いじめの力関係が逆転していた。 「なんで……なんでだよっ」 「……謝れ」 「なんで……なんでそんなことするんだよっ。なんでだよ……なんでだよ……クズの癖に……クズの癖にっ」 「そうだ、ぼくはクズだ」 ロン毛の顔を凝視したまま祐樹は言い放つ。 「だからいじめられても何にもできなかった。でも……原稿は違うんだ。大切なんだ……大切なものができたんだ……大切なものを汚したんだ……」 しばらく沈黙があった。 ロン毛の全身が震えた。震えはどんどん大きくなってゆく。 「……わ、わかったよ……わりいよ! すまなかったよっ」 ロン毛、叫んだ。スクーターに飛び乗った。即座にエンジンをかけ発進させる。祐樹の目の前から走り去る。 「ま、まてよっ」 大柄スキンヘッドが別のスクーターで後を追う。二人で車道に飛びだす。改造マフラーの爆音も高らかに、遠ざかってゆく。 祐樹、まず原稿を拾った。無我夢中で拾い集めた。 ズタズタになった紙片を両手の中にかき集める。 終わって、あたりを見回した。 ふたりは消えた。エリはとっくの昔にいなくなっていた。 また静けさが戻ってきていた。コンビニ駐車場にはトラックが並び、店内に眼を向ければサラリーマンが漫画を立ち読みしている。まるで何事もなかったかのよう。 だが、確かに闘いはあったのだ。肉体にすべてが刻印されている。顔面が腫れて熱い。口の中には血の味が残っている。噛み砕いた骨と肉の味がまざまざと思い出せる。 「……勝った?」 ぽつりと口にした。 そうだ、勝ったのだ。 生まれて初めて、いじめっこと喧嘩して勝ったのだ。 「そうです、勝ったんですよ」 女の声がした。ベルタの声だ。 驚いて振り向く。 ベルタがそこにいた。微笑んで立っていた。 「おつかれさまです」 手にしたハンカチで祐樹の口元を拭ってくれた。ハンカチは冷たい水に濡れて心地よかった。 「ど、どうしてここに……み、見てたの?」 「はい。途中から」 「え……」 どぎまぎした。恥ずかしくて眼をそむけたくなった。「どうして助けてくれなかった」とは微塵に思わなかった。 「み、見られてたんだ……また、かっこわるい……」 祐樹、眼をそらしてうめく。股間を隠して内股になる。ズボンはグッショリ濡れているのだ。 「なにがかっこわるいんですか?」 「あの、それがその……お、おしっこ……」 「どうでもいいですよ、そんなこと」 ベルタは明るい声で即座に言いきった。 「すました顔で眼をそむける人間より、たとえおしっこをもらしながらでも闘う人間のほうが強くてかっこいいに決まってます」 「そうなのかな……」 「そうですよ」 祐樹はとつぜん背筋をピンと伸ばし、ばね仕掛けのように勢いよく頭を下げた。 「ぼ、ぼく、ベルタさんに謝らないと……」 「謝るのはわたしのほうです。祐樹さん、強い人だったんですね。ほんとうに大切なもののためなら、いくらでもがんばれる人だったんですね」 「そんなこと……ベルタさんがいたから。ベルタさんが誉めてくれたから、がんばれただけなのに」 勢いこんで祐樹は訴える。別れたくなかった。万にひとつ億にひとつ、ベルタの気が変わってくれるのを期待した。 「……祐樹さん」 ベルタはさびしげにほほえんで、祐樹に顔を近づけた。コンビニの明かりに照らされたベルタの端正な顔立ち。冷たく大人びて見えた。キスできるほどの至近距離。 至近距離から祐樹に瞳を向け、言った。 「おねがいがあります」 「え……」 「どうか、今日のように、自分の大切なものを忘れないでください。自分はこれのためならがんばれるんだって、思いつづけてください。 わたしもそうします。わたしはこれから旅に戻ります。いろいろつらいことはあると思いますが、祐樹さんのことは忘れません。祐樹さんとすごした時間、 いっしょに食べたホットケーキ、本屋を楽しく歩いたこと、恋人だって冷やかされたこと。誰かの役に立てたんだって、わすれません。祐樹さんが、わたしの 『たいせつ』です。 だから、祐樹さんも忘れないでください」 祐樹は口ごもった。 息が詰まるほどの緊張に襲われた。同意したくなかった。これが別れの言葉だと、今度こそ次はないのだとわかったからだ。「ぜったいにいやだ、一緒にい て」と言いたかった。自分の心臓が破裂しそうに高鳴っているとわかった。目の前のベルタをじっと見つめた。黒曜石のような瞳に、意思のきらめきが宿ってい た。ベルタも悲しんでいる。ベルタも自分と別れたくない、そう気づいた。 「……ぼくは……」 祐樹は口を開く。あれほど口の中で血が流れたのに、もうカラカラに乾いていた。 「……ぼくは……忘れない。ぜったいに」 「ありがとう」 祐樹とベルタは同時に微笑んだ。二人の頬を涙が伝った。 「……泣き虫」 「そっちこそ」 口をとがらせて、ふたりでクスクス笑う。 一足先に笑うのをやめたベルタが、祐樹の頬にそっと口づける。 「あ……」 そして軽やかにくるりと回って、去っていく。 遠ざかる背中を祐樹は見送った。沈痛な面持ちで、唇をきつく噛んで見送った。 ベルタの姿が見えなくなってからもしばらくその場で立ち尽くしていた。 やがてきゅう、と腹が鳴った。我にかえった。 コンビニで肉マンを買って、頬張りながら家に向かう。深夜の歩道を歩く。 寒気が身を締め付けるようだった。歩道にはまったく人影はない。かたわらの車道を巨大なダンプカーが地響きを立てて通り過ぎていった。 しばらく歩くうちに心の中が冷めて、不安がこみあげてきた。 こんな夜中に、傷だらけで帰って、父さん母さんはなんて言うだろう。 いじめっ子たちは報復してくるかもしれない。 ズタズタになってしまった漫画を、また描きなおさないといけない。 ひとりぼっちの毎日が、明日からまたやってくる。 空を見上げてため息をついた。 真っ黒い空には、たった数個の白い星が弱々しく光っている。 (でも、大丈夫) 胸のうちで、ベルタとの約束の言葉をかみしめる。 (ぼくは、がんばれる。ひとりでも。がんばらなきゃいけない。) 9 ホームに、小豆色の電車がすべりこんできた。 「……ドアがしまります。駆け込み乗車にご注意ください」 機械的な声の放送。ホームの上でメガホンをもっている警備員を尻目に、ベルタは大きな紙袋を抱えて電車に乗りこむ。 背後でプシューとドアが閉まる。 電車の中はボックスシートとロングシートが半々で、ベルタは空いていたボックスシートの一つを選んで座り、窓の外を見ながら紙袋をゴソゴソ、ホカホカの大判焼きをとりだす。 窓の外の景色が流れ出した。ホームが瞬く間に消え、駅ビルの看板が遠ざかり、田園風景が見えてくる。 わずか一週間すごしたにすぎない街。しかし、大切な思い出を手に入れた街。 「……ここに来てよかった……」 微笑を浮かべてつぶやき、大判焼きにかぶりついた。 第二章 私がそばにいる 1 カップの中に白い杏仁豆腐。スプーンを入れるとまったく抵抗なく入った。 すくい取って口の中に入れる。甘さと酸味が口の中でとろけて広がった。 (うーん、幸せ) ベルタは杏仁豆腐を食べつつ、横浜中華街を歩いていた。 整然と格子状にならんだ道、見渡す限りすべてのビルに中華料理屋や中華物産店が入っている。看板は金の文字をつかった仰々しいものだ。夏のまぶしい日差しを浴びて光り輝いていた。 道行く人々の中にはベルタ同様、なにかを食べているものが多い。 カップが空になった。傾けて汁をすする。 6つ買った杏仁豆腐もこれで最後だ。 (これからどうしよう)と小首をかしげたまさにその瞬間、ベルタの耳が異音を捕らえた。 かちゃ。 足音や人々のざわめきの中に、金属のぶつかりあい揺れる音がまざっている。キーホルダーでも小銭でもない。背後から聞こえてくるこの音は……拳銃の安全装置を外す音だ。 (追っ手だ) まだ翼は出さない。あれは目立ちすぎる。ベルタは有機脳の演算リソースを聴覚に配分、耳を澄まして追っ手の人数を確認。周囲にいる数十人の足音をすべて聞き分けて分析、体重や筋肉のつきかたを推測。 (訓練を受けた戦闘員は、五人) (これくらいなら、なんとかなる) ベルタ、歩くペースを早める。人間として不自然ではない小走りの速度になる。 背後の足音も加速した。 『燕雷亭』と書かれた看板のある真っ赤な中華料理屋に飛びこむ。 「いらっしゃ……」 店員が声をかけてくる。無視して突進、赤絨毯の上を突っ走り、丸テーブルの並ぶ店内を駆ける。昼食を食べていた身なりのいい男女がベルタを見て唖然。 「失礼しますっ」 叫んで、2階へと登る階段を駆け登り、2階の窓を開けて飛びだす。他の店の屋根に乗り、看板を足がかりにして屋根から屋根へジャンプ、またジャンプ。途 中で背部放熱器官を展開。胸の中の生体過給システムを戦闘出力で起動。黒髪を波打たせて10メートル級のジャンプを連続。 (よし、ついてこない) 当たり前だ、人間がこの動きについてこれるわけがない。 だが7つ目の店の屋根に飛び乗ったとき、後方から接近する巨体を察知した。 ズガン! 盛大な音を立てて、すぐ後ろに着地する。 (飛んできた! わたしと同じか、それ以上の運動能力) 振り向いたベルタの眼に飛びこんできたのは、6枚の翼を広げた巨漢の姿。 身長200センチ、肩幅といい胸を厚みといい人間よりグリズリーに近い体格だ。金色の髪を短く刈り、下半身はアーミーパンツ、上半身はモスグリーンのジャンパー。 (アントン!) ベルタの兄に当たる白兵戦型エインヘリヤル、アントンだ。 アントンはネイビーカットの下のごつい顔立ちに笑みを浮かべた。 「ようベルタ! いいかげんおとなしく捕まれよ!」 「嫌です!」 ベルタは叫んで駆けだす。ジャンプして近くのビルのベランダに飛び乗り、そこから屋上に飛び移り、背後でズガンと重い音がしてベランダが崩れ、さきほどより近い一メートル程度の距離でアントンの大声が、 「逃げだって無駄だぜい、ベルタ!」 (確かに) ベルタは胃の中に重いものが広がっていくのを感じた。 アントンの体力、瞬発力は自分を確実にしのいでいる。 このままでは追いつかれる。どうすれば? 12軒めの店の屋根に着地した。すでにここは中華街の端だ。目の前には片側3車線の大きな道路、国道16号が広がっている。道の向こうは伊勢佐木町モールがある。 これ以上飛び移れない。 視線が、16号線上の車の列に吸い寄せられた。 ベルタ、飛び降りる。高さ20メートルから歩道に着地。履いているスニーカーが煙をあげる。歩行者の中年男が腰を抜かす。目の前に広がる新横浜通りに駆 け夜。とおりを埋め尽くす車の列の中から一台のバイクに注目。白と赤に塗られた足の長いバイクだ。ホンダのオフロードバイク、CRMだ。 「ごめんなさいっ!」 叫びとともにバイクに突進、ライダーを蹴り落としてバイクを奪う。バイクはとてもシートが高くベルタでは足がつかない。それでもまたがってエンジンをか け、『ぱぁんっ!』2ストローク特有の破裂音を立ててバイクは発進する。前輪を振り上げ、後輪を空転させて車の列の中を突き進む。赤信号に出くわした。目 の前をトレーラーが横切る。待っていられない。ハンドルをひねってバイクをねじり倒し、歩道に乗り上げる。 背後でバオン! 野太い雄叫び。 振り向くと、大型バイクにまたがったアントンの姿。一抱えもある青黒い燃料タンク、ベルタが乗るCRMの二倍はあるタイヤ幅、水冷であることを誇示するかのようなのっぺりしたエンジンが左右に張り出している。ホンダのCB1300だ。 (アントンも足を手に入れた!) 「オラッ! ちょこまかしやがって!」 怒声を張り上げたアントン、たちまち距離を詰めてくる。排気量で5倍、基本的なパワーがけた違いだ。 「くっ……」 うめいたベルタ、唇の端を噛んで車体をひねり、体全体を振り子のように振ってCRMを急旋回させる。歩道のタイルの上をタイヤがすべる音、キュルルと甲高く悲鳴をあげて方向転換、そちらにはワイシャツ姿のサラリーマンが、 「どいてくださいっ!」 すんでのところで衝突を回避、その先にも別のサラリーマンが、おばさんが立ちふさがる。なんとか合間をすり抜ける、悲鳴と怒号が浴びせられる。バッグや アタッシュケースが体に当たる。人ごみがまだ続く。前方わずか数メートルに幼稚園児の集団を見かけた。よけるには間に合わない。車体をジャンプさせて飛び 越えた。 (どっちに逃げればいい?) あたりを見渡す。視界に飛びこんできたのは青々とした緑に囲まれた横浜スタジアム。その脇に並んでいる首都高速の出入り口。 (首都高なら!) 交差点を突っ切り、目の前をふさぐ巨大トレーラーに急ブレーキをかけさせ、首都高への入り口を駆け登った。 「お客さん、ノーヘル……うわあ!」 料金所から身を乗り出して叫ぶ係員。その腕の下をくぐりぬける。 首都高1号線、上り方面に入った。すぐに道は下り始める。地下にもぐった。下り坂はトレーラーやトラックで埋め尽くされている。車体をひねって隙間を抜 けてゆく。速度90キロを維持する。左右はトラックが銀色の壁となってそびえている。一台ごとに高さの違うバックミラー。首をすくめてよける。 また上り坂になった。速度は下げない。先ほどからスロットルは全開だ。蚊の飛ぶ音を数百倍に増幅したような甲高いエグゾーストが唸っている。股間の下か らすさまじい震動がビリビリ伝わってくる。エンジンが高回転で悲鳴をあげているのだ。CRMは生粋のモトクロッサーでありオフロード走行では無類の強さを 発揮する。だがお世辞にも高速道路向きではない。ハンドルが幅広すぎて、クルマの間を抜けるのも一苦労だ。 (このバイク、選択間違えたかな……) 道路は高架の上を走っている。右手にランドマークタワーと三菱ビルヂングが仲良く並んで見える。たちまち背後に流れる。続いて見えてきたのは三越デパートと横浜駅だ。右も左もビルが囲んでいる。道路脇の金網越しに、国道15号線が見下ろせる。 ブオン! 背後、たった二、三メートルの距離で弾けた野太い排気音。バックミラーをちらりと見る。バックミラーの中にはCB1300にまたがっているアントンの姿。大口をあけて笑っている。 (……追いつかれた) 背筋に冷たいものが駆ける。スロットルを握る手に汗がにじむ。 「もう逃げられねえぞ、べルタっ」 もっと速度をあげようとした。だがだめだ。ハンドルの幅がありすぎる。これ以上速度をあげたらすり抜けできなくなる。 そのとき、道路脇にびっちり並んだ金網に気づいた。 (ここだ!) クラッチを切って思いきりエンジンを吹かし、次の瞬間クラッチをつなぐ。同時にハンドルを引っ張りあげ、両足で思いきり路面を蹴った。 バイクをジャンプさせた。 重さ100キロのCRMは綿毛のように軽々と舞い、金網の上に着地。タイヤの中心線を金網に合わせる。全神経を指先に集中。ブレーキレバーに伝わってくる何百分の一グラムという感覚でタイヤの摩擦具合をチェック。バランスをうまくとった。 ここに車は走っていない。どこにも障害物はない。 思う存分、スロットル全快。エンジンがいよいよ激しく絶叫。尻がしびれるほどの震動とともにバイクが加速、時速120キロに達する。これはCRMの最高速度だ。 びゅう、とその瞬間激しい風が。車体を持って行かれそうになる。体をとっさに振って立て直す。その表紙に下が見えた。工場だ。高さ20メートル下は工場だ。パイプとタンクが並んでいる。 「このやろっ。このやろっ」 後ろから排気音にまぎれてアントンの叫びが聞こえる。バックミラーをチェックすると、車列の間からアントンのバイクが見えた。すでに指先ほどに小さくなっている。 「ふんがっ!」 アントンも車体を飛ばせた。CB1300の巨体が宙を舞う。しかし金網に乗るのがやっとで、安定して走ることができない。金網がたわんで波打っていた。 グラリグラリと車体が大きく揺れる。首都高の中へ転げ落ちる。ガシャンと破壊音。ベルタのCRMと比べ、CB1300の重さは3倍。重すぎるのだ。 「くっそおおお!」 ドイツ語の罵倒が風に乗って届いた。すでに姿は見えない。 (よし、いまのうちに距離を稼ごう) ようやく一息ついて、これからのことを考え始めた。 (このまま東京まで走って……) あたりを見る。いま首都高は川沿いを走っている。左手には幅10メートルしかないような狭い運河、そして運河沿いにはトタン屋根の建物がびっしり並んでいる。モーターボートや漁船でつなぎとめられている。ずっと前方に大きな川が見える。鶴見川だ。 頭の中の地図と照合した。ここは子安のあたりだ。あと10キロで東京に入る。 飛行機、新側から新幹線、どの方法で移動するのがいいかと考え、 ずがずがずが! 何かの破壊される音が後ろに炸裂した。ずがががが! 音はどんどん近づいてくる。 (いったい何が?) 「ベエエルウタアアッ!」 アントンの絶叫。距離は後方20メートル。また追いつかれた。一体どうやって。バックミラーをのぞいて唖然とした。 アントンは削岩機のような勢いで車を蹴りながら走っていた。左右の車にブーツを叩き込んでいた。キック力数トンに及ぶ蹴りを受けてベンツのドアは変形しカローラの窓ガラスはふっ飛びトレーラーの貨物室は打ちぬかれた。軽自動車にいたっては車体そのものが宙に浮く。 「げはは、オラオラ、どけってんだよ!」 キックの威力におびえてか、彼の前方の車がどいてゆく。左右に道をあけてゆく。生み出された道をアントンのCB1300が120キロオーバーで疾駆する。 「な、なんてことを……」 驚愕のうめきをあげるベルタ。すでにアントンは10メートルほどの距離に迫っている。自分のバイクはこれ以上加速できない。 バックミラーの中でアントンがすばやく動いた。ジャンバーの前を開く。中はタックトップ一丁のようだった。脇の下に黒い塊を吊っているのが見えた。 (拳銃!) ベルタの心の中で警告の火花が散り、火花は0.01秒で全身の筋肉繊維にまで浸透し、つまりベルタは考えるより先にバイクをジャンプさせた。ふわりと浮 く車体。銃声。タイヤの真下を銃弾がかすめ通る。回避成功。だが一発ではなかった。連続した銃声。たたた! たたた! タイプライターのようでもあり、釘 を打っているようでもある音。拳銃ではないサブマシンガンだ。ベルタは戦術支援電子脳の能力を全開。アントンの運動能力にバイクの揺れまで加算して弾道を 予測。即座に予測結果を全身の筋繊維にフィードバック。バイクを小刻みにジャンプさせる。一発目、二発目、回避成功。黒髪を銃弾がちぎり取り、ハンドルの グリップカバーをえぐってゆく。ぎりぎりのところで三発、四発、五発、回避成功。その間もずっと反撃の方法を考える。肩で揺れているカバンには拳銃が入っ ている。これで反撃するか。チャンスは一瞬。こちらが狙いをつけている間には回避に回す能力が残らない。 間断なくバイクを跳ねさせながら手を素早く動かしカバンに手を入れる。しかし遅かった。回避し切れなかった一発の銃弾が前輪を撃ち抜いた。タイヤがバー ストする衝撃が伝わってくる。一気に車体が沈み込む。ハンドルが凄まじい力に振り回される。破裂したゴムタイヤは走る上でただの障害物でしかない。すべ る。タイヤがすべる。もはや暴れている。とっさにブレーキレバーを握りこむ。速度を落とし、シートから腰を上げて体重移動、なんとか転落を防ごうとする。 そこにまた銃声。ごく近いところで、タンクの下で金属音。とたんにエンジン音が止まる。バイクが急減速。エンジンだ。エンジンを撃たれた。見るとシリン ダーから真っ黒いオイルを噴いている。そこにまた銃弾。銃弾の嵐。車体のあちこちに被弾。何の回避もできない。もはや速度は40キロ、空気の抜けたタイヤ が強烈な抵抗を生み出し速度は見る見る落ちて、止まるほどだ。 「おらよっ!」 蛮声ととともに、目の前にアントンの巨体が出現。視界の外でガン! と衝突音。バイクを捨てて生身で飛び移ってきた。次の瞬間、バイクごとアントンがベルタを受け止めた。そのまま片手で持ち上げられた。もう片方の腕が伸びてくる。 (やられる!) ベルタの脳内を恐怖と焦りが駆けた。このまま掴まれて格闘戦になったら万に一つも勝ち目がない。こちらは40キロ向こうは130キロ、ウェートの差は圧 倒的だ。では拳銃か。ダメだ、拳銃弾でアントンを倒すには正確に目玉に打ち込む必要がある。そもそも時間がない。抜くより向こうの動作が速い。 だからベルタは身を投げた。全力でバイクを蹴って空中に飛び出した。 落下感覚。体が回転。あたりが見えた。ちょうど川の上だった。大きな川。白いワイヤーで吊るされた橋が架かっている。川の幅は軽く二百メートル。多摩川だ。 落下は一秒そこそこで終わった。ジャブンと水に飛び込む。視界が真っ青な水で覆われる。上のほうに、ゆらゆらと太陽が揺れている。反射的に有機脳の演算リソース再配分を開始、視覚を減らして聴覚に振り向ける。多摩川の水中を伝わる音が鮮やかに耳に飛び込んできた。 ベルタ、両腕で水をかき泳ぎだす。一かきで水面に飛び出した。クロールに切り替えて泳ぎ続ける。数トンの腕力で水の塊を押し出し強引に前に出る。速度は一秒間で五メートル、トップスイマーの軽く二倍。 息継ぎで顔を上げるとき、あたりを見て方角を確認。右に川崎、野原が広がって草が青々と茂っていた。左は東京側、ボートが係留されている。目の前には中 洲があって、そのまた向こうは川幅が広くなっていた。海だ、そちらが海だ。全力で水をかき、足をばたつかせた。水面を切り裂き、力強く進んだ。服がこれで よかったと痛感。丈の短いキュロットスカートでと半そでシャツだからこそ泳げる。 じゃぼん、水音が轟いた。ざばあ、ざばあ、水を力任せにひっかく音が続く。 奴だ。アントンが追ってきた。聴覚を研ぎすます。だが水音は近づいてこない。追ってこないのだ。ゴボゴボッとあぶくの弾ける音がするだけだ。 (やはり、アントンは泳げない!) ベルタは顔に微笑が浮かぶのを感じた。やっと勝機が見えてきた。記憶どおりだったのだ。「組織」での訓練でも、アントンは水泳を苦手としていた。人間の身体は水よりわずかに軽く作られている。だが筋肉量の極端に多いアントンは水より重い。そもそも水に浮かないのだ。 「もがっ……もがあっ!」 ゴボゴボという音に混じってアントンの叫びが聞こえてきた。なんとか水面まで上がってきたのだろう。筋肉の力に任せて、浮かない身体を強引に引きずり上 げたのだ。理屈の上では可能。だが遅くなるはず。前進するための力を浮かせるために取られてしまう非効率。ヘリが飛行機より遅いのと同じ理屈だ。 「この……もがっ! もがっ……! こんちくしょう!」 怒りと焦りにあふれた声。どんな盛大な水柱をあげているのがザブンザブンという音が重なる。どんどん遠ざかる。すでにベルタは数百メートルを泳いだ。中 州の脇を通り過ぎる。右を向けば川崎の工場群、トタン屋根の建物と煙突が見える。左を向けば羽田空港、金網の向こうに滑走路が広がりボーイングの大型機が 舞い降りている。 あと少し、あと少しで外海に出られる。 ここでアントンを振り切ったら、東京に行ってそこから長距離移動だ。 希望に身をたぎらせて、腕を振り、水を掻き分けて進む。 「にがさん! ここでお前を逃がしたら俺は!」 声がいきなり近くなった。ゴボゴぼ音はもう混ざっていない。 バカな。なぜ急に早くなった? クロール泳法を続けながら振り向くことはできない。背後から伝わってくる水音を分析。バシャバシャという音は聞こえれている。だが今までと音が違ってい る。腕が力まかせに水面を叩く音ではない。もっと規則正しい音。そう、まるでオールで船をこいでいるかのような。何か大きなものが水面をすべる音も聞こえ た。 (ボート!) そうだ、アントンはボートを手に入れたのだ。向こうの岸まで泳いでいってて漕ぎボートを奪った。速度は水泳を確実に上回る。体が重くとも問題ない。たちまち距離を詰められた。ザブンザブンと舳先が水を切り裂く音が接近。もう五メートルほどしか離れていない。 息継ぎのときに目玉だけ動かして後方を見た。水しぶきの向こうに白い手漕ぎボート。アントンはボートに座り早まわしのような速度でオールを振るってい る。ボートをこぎながらでは前が見えないのでちらりちらりと振り向く。ベルタのほうを見る。眼が合った。アントンは白い歯をむき出して笑っていた。勝利を 確信した笑顔。 (どうすればいい) ベルタは思いきり息を吸いこみ水中に潜った。再び視界が青い水で覆われる。頭上で揺らめく太陽から離れる。平泳ぎで潜ってゆく。首をめぐらす。ボートの船底が見えた。船底も白い。あたりを白い波が取り巻いている。 船底に取り付いた。すでに道具はすべて手放した。素手でやるしかない。手を開いて船底に当てる。指を押しつける。筋力リミッターを解除。最大握力九百キ ロが指先一点に集中。木製にすぎない船底をぶちぬいてゆく。向こうまで指が突きとおる。船底の木材をちぎりとった。腕が入るほどに穴が広がる。ボコリボコ リと泡が噴いてくる。向こう側に水が流れ出す。一度、二度、三度、そのたびに掌ほどの面積の穴をあける。とどめに一発、穴に両腕を突っ込んで思いきり突っ 張った。メリメリと木材の分解音。ボートが丸ごとまっぷたつになった。 船を蹴って平泳ぎで離れる。すでに酸素量は切れる寸前、浮上して大きく深呼吸。肺の中に新鮮な空気が流れ込む。眼が覚めるほどの爽快感。クロールに切り 替えてなおも泳ぐ。後方でドボンと水に飛びこむ音。アントンだ。まだあきらめていない。ベルタも泳ぎつづける。すでに東京湾に出ていた。見えるのは青い水 平線と自分のたてる白いしぶきばかりだ。どこまでもどこまでも泳ぎつづける。アントンのたてる水しぶきが追ってくる。なかなか距離が離れない。 (なぜ? 泳ぎがずっと早くなっている) アントンのボートは解した光景を思い出す。確かに沈めた。だが粉々にはしなかった。残った木片を浮き袋にして泳いでいるのだ。 (誤算だった) 必至に腕を振って泳ぎつづけながら、ベルタは己の判断を悔いていた。船を沈めるだけではだめだったのだ。 しかしもはや手はない。武器はすべて捨ててしまった。ただスタミナだけの勝負。一秒でも長く、一掻きでも多く泳げるか、それだけ。 だからベルタは無我夢中で泳いだ。あたりは海ばかりで方向転換の必要はない。ときおり太陽の位置を確認して方角を確かめ、あとは体にまかせて機械的に泳いだ。何万回、何十万回も腕を振るってクロール泳法を続ける。 やがて意識が遠のいていった。 2 「眼が覚めましたか?」 さわやかな男の声で眼を覚ました。 眼をあけると、まぶしい光をバックに男がいた。自分は寝ている。男が自分を見下ろしている。体に濡れている感触がない。服の感触がない。裸の皮膚がそのまま空気に振れている。 自分は全裸だ! ベルタ、一瞬にして意識が覚醒。戦術支援電子脳を起動、肉体の各部位をチェック。筋組織内臓組織に大きな欠損なし。ただし両腕両脚組織に疲労に尿酸蓄積。 体を起こそうとして、 「待った!」 若い男が白衣に包まれた腕を動かす。ベルタの肩に手を置いた。肌に直接触られる。 無視して跳ね起きる。体のあちこちでプチプチと音。裸の体に電極を取り付けられていたらしい。電極がことごとく外れる。眼球だけを動かして周囲の状況を 把握。ここは金属の壁に囲まれた4メートル四方の部屋。壁はすべて白く塗装され、自分はベッドの上に寝かされていた。室内にいるのは白衣姿の若い男、それ から彼の横に並ぶナース服姿の女たち。 武器。なにか武器はないか? 見当たらない。ベッドの上から舞い降り、ナースの真後ろに着地して羽交い絞めにする。 「おとなしく……」 おとなしくしろと叫ぶつもりだった。だがそこまで動いたところで全身の筋肉が悲鳴をあげる。脳回路が数百のエラーメッセージで埋め尽くされる。 それ以上動くことができなかった。体が鉛のように重かった。腕と足から力が抜ける。両膝を折ってその場にくずおれた。 「う……う……」 うめく。あせりで冷静な思考ができなくなっていた。どこだここは。この男は誰だ。敵だ。敵に違いない。 「だから、動いちゃいけないって言ったでしょう。あなたはスタミナ切れでまったく動けないはずです」 白衣の青年が歩いてきた。ベルタの肩をやさしく抱く。ベルタは体をビクリと痙攣させる。 「……そんなに怖がらなくていいですよ、ベルタさん」 なぜ自分の名前を知っているのか? 驚愕に眼を見開くベルタ。 「……あなたは誰?」 にらみつけるベルタ。青年は整った顔立ちに微笑を浮かべ、答える。 「ぼくは上月礼一郎といいます。聞いたことはありませんか。ここはぼくの持ってる船、ルナール2世号」 知っていた。新聞でこの名前を見かけたことがある。上月一族といえば数多くの巨大企業を経営する資産家一族だ。礼一郎は製薬会社・上月製薬をまかされていたはずだ。 「……知っています」 「うん、テレビなんかにも結構出てますからね。はじめまして、ベルタさん」 「知ってるんですか、私のことを。いったいどこまで」 「もちろん。君が『組織』で開発された人造人間だということも、人が殺せない『失敗作』だってことも。基地を逃げ出して日本をさまよっていることも。甘いものに目がなくて新しい土地では必ず喫茶店に行ってスイーツを注文することも」 「あなたは……」 全身に鞭打って、何とか立ち上がろうとする。 (この男、わたしを見張っていた?) 疑惑が顔面をこわばらせていたのだろう、青年はきょとんとした顔でベルタを見つめる。 「怖がらなくていいって言ってるじゃないか。かわいそうに、今までよほどつらい目にあってきたんだね」 青年……礼一郎は微笑むと、ナース服の女に目配せした。女は部屋の隅にある台からガウンを取ってきた。もうひとり女がやってきて、二人がかりでベルタを 立たせる。ベルタの裸身が、控えめな胸のふくらみが、折れそうにほっそりとした腰が、股間を彩る淡い茂みがあらわになった。 「くっ……」 恥ずかしさと悔しさに唇をかみしめ、そこで意外なことに気づいた。礼一郎はベルタの裸体から目をそらしてくれている。その整った造作には気恥ずかしさが浮かんでいる。好色さなど微塵もない。 ナース服の女二人はベルタの腕を持ち上げ、ガウンを着せた。帯を結んで、最後に位置の微調整。 「よくお似合いですよ」 そういってナース服女二人はにっこりと微笑む。こわばった顔が思わず緩むほどの暖かい笑みだった。 礼一郎はこちらに視線を戻し、あからさまな感嘆の表情で手を叩く。 「いいな。いいじゃないか。ガウン一枚でこんなにも違う。『組織』は、ベルタさんを作るとき美にも気を配ったんだね。 さて……単刀直入に言います。 私は……。いや、ぼくは。ベルタさんを保護します」 「保護」 「そう。ぼくは上月グループの情報網をつかってベルタさんのことを調べてきた。ベルタさんは実につらい目に合ってきた。人殺しをしたくない、それだけのことが許されなかった。どこにいても狩りたてられた。安息はどこにもなかった。そうでしょう。 ぼくは、そんなベルタさんを救ってあげたい。上月グループの総力をあげて君を守る。誰にも手出しはさせない。ベルタさん、もうベルタさんは闘いを強要さ れることはないんです。ずっと平和な暮らしを送れる。逃げまわることもない。毎日、好きなシュークリームやホットケーキを食べられる。学生生活に憧れがあ るなら、学校を手配してもいい」 「な……」 絶句した。平和な毎日。どれだけ望んだことか。だが猜疑心が残っていた。 「……なぜ。なぜ私に、それだけのことをしてくれるのですか」 おっかなびっくりの問いだった。もしきつい一言が返ってきたらどうしよう。 だが礼一郎は、満面お笑顔を浮かべて、それこそ子供のように邪心のない表情で、即答した。 「君が好きだから。愛してるから」 3 呆然としているベルタに、礼一郎は「少し休むといいでしょう」と微笑みかけた。 車椅子に乗せられた。ナース服の女たちに押されて、船内を進んだ。 通路は広く、船とは思えないほどだ。 ひとつの扉の前で立ち止まった。 「こちらがベルタさまのお部屋となっています。ごゆっくりおくつろぎください。それでは」 「待ってください」 「なんでしょう」 「あなたは……看護婦の服をきていますが……」 「はい。わたくしはナースメイドです。公私にわたり礼一郎様のお世話ができるよう勉強しています」 「では、私の体も調べた?」 「はい。ひどくお疲れの様子で」 そうだろうな、気絶するまで泳いだのだ。 「わたしの体を調べて、何か感想は?」 医学生物学の知識があるものなら、きっと化け物だと感じるはずだ。筋力は人間の30倍、背中に排熱用の翼を持ち、銃弾さえも避けられる運動能力。 「すばらしいですね」 「すばらしい?」 「はい。礼一郎様がすばらしいとおっしゃっていたからです」 「は……?」 「礼一郎様のおっしゃることですから」 「あの……どんな方のですか、礼一郎さんは」 なにやら薄気味悪さを感じて、聞いてみた。 「偉大な方です。他のどのナースメイドにうかがっても同じ答えがかえってくると思いますよ。わたくしたちを大切に育ててくださいましたし、あの若さで巨大な上月製薬を切り盛りされているのですから」 「そうですか……彼が言っていた、『わたしを愛している』というのは」 「うらやましいです、ベルタさん。わたくしもあんなことを言われてみたい」 「いや、そうじゃなくてて……」 真意を問いたかったのだ。だがナースメイドはきょとんとするばかり。 「いえ、いいです。ではわたしはここで休んでいます」 「はい。お着替えのほうは部屋にご用意してあります。なにかありましたらおもうしつけ下さい」 部屋に入って、息を呑んだ。 天井の高さが、床の広さが、ベルタのイメージしていた「船室」とはけた違いだった。 床の絨毯さえもふかふかで、車椅子で踏んでよいのかと心配になる。壁には手すりがあって今のベルタでも歩けるよう工夫されていた。 ベッドまで歩いてそこに腰をおろす。 ベッドの上の着替えはワンピースだった。それを手にとって眺める。白いシンプルなものだ。白いレースのパンツとブラジャーも置かれていた。 「……どういうことなんだろう」 口に出してみる。頭の中は疑問符でいっぱいだった。 あの礼一郎という男は何を考えているのか。一体何のためにわたしをもてなすのか。 まさか本当に『愛している』はずもない。 上月製薬はバイオ系の技術も持っているはずだ。私をコピーして生体兵器を作るか。いや、筋力増強や細胞再生のメカニズムだけでも大きな富を生むはずだ。そんなところか。 自分の心に言い聞かせた。奴は自分を利用しようとしているだけだ、決して気を許すな。 しかし疲れた体にフカフカのベッドは魅力的だった。こんなベッドで寝るのはいつ以来だろうと考えて、『生まれてから一度もない』ということに気づいた。愕然とする。 (すこしくらい、いいよね、休んでも) ベルタはベッドに体を横たえた。 4 悪夢を見た。 また、あの夢。 『組織』の地下施設での戦闘訓練。命の無い標的ならいくらでも撃てる、でも犬が殺せない。殺せ殺せと詰めよる人々。 どうしても殺せないと分かると『おまえはいらない』と言われた。世界で知っているたったひとつの場所、しかし私はそこにいてはいけない。脱走を決意したあの日。 目を覚ました。全身がびっしょりと濡れていた。 室内の時計を見た。もう夜中の12時。10時間以上も寝ていたのか? ワンピースに着替えて、ドアから顔を出す。 と、そこにはタキシード姿の礼一郎が待っていた。 「お目覚めですか? よく眠れましたか」 「え……どこかにカメラでも?」 なぜ私が今起きたとわかったのだろう? 「とんでもない。レディの部屋にカメラなど失礼なことはできません。ただベルタさんのことが心配だったんです。だから待っていました」 「ここで? 十時間も?」 「まあ、正確にはナースメイドたちに任せていたんですが」 そう言って礼一郎ははにかんだ。 「しかし、それは失礼に当たると思いましてね。恋人を迎えるのを使用人にやらせるなど」 「恋人……」 ベルタ、口の中でその言葉を転がした。まるで外国語のように感じられる。自分には縁のない言葉だと思っていたからだ。 「とまどっているんですか? 無理もありません。ベルタさんは戦いの中を生きてきた。でも、これからは違う。いくらだって恋ができる」 「そういう問題じゃありません。出会ったばかりの私のことを、なぜ」 ふう、とため息をつく礼一郎。 「違うんですベルタさん。恋とは理由など要るものじゃない。まあ、ここにいるうちわかるでしょう。ところでお腹は空きませんか? 食堂へご案内しましょう」 ベルタは警戒したまま礼一郎についていった。 体力が衰えていることは確かだ。栄養分を補給せねば。武器をなくしてしまったのも痛い。補充したい。 いつくかの回廊と階段を通って食堂に案内された。 食堂は驚くほどに広かった。反射的に広さを測定してしまう。テニスコートほどもある。 その広い食堂に長いテーブルが一脚、そして向かい合うようにイスが接地されている。 料理を載せたワゴンがテーブルのそばに並んで、ウェイターが何人も待機していた。 「ベルタさんの好みがわかりませんでしたが、今回は中華でそろえてみました。さあ、座ってください」 ベルタが腰を下ろすと、 だがウェイターが点心の入った盆を次から次へと持ってくる。円卓の上が盆でいっぱいになる。点心の甘い香りが鼻孔を刺激した。くう、とお腹がなる。恥ず かしい。顔がほてる。目をそらそうとした。しかしそらせない。ウェイターが盆をあける。ずらりならんだ中華饅、小龍包が、ヒスイ餃子が証明の下に現れる。 目は釘付けだ。ごくりと唾を呑みこんでしまう。 「……どうぞ、いただいてください。じゃあぼくから。すみませんね、待っていたらお腹が空いてしまって」 礼一郎は長ばしを手にとり、者ロ論法のひとつを口に運んで、 「うん、これはいける」 端正な顔を気色満面、崩してみせた。 「……」 口の中によだれがあふれた。もう止まらなかった。手が箸をつかみ、またたくまに点心をつまんで口に放り込む。租借、租借。旨い。肉汁がこんな多層的な味 わいに満ちているものだとは思わなかった。いままでベルタが食べていたコンビニの肉まんとはまるで違うものだ。気がついたら円卓の上の点心を八割型平らげ ていた。 「……すごいね、聞きしにまさる」 礼一郎が感嘆の声をあげ、ようやくベルタは気づいた。 「……あ」 箸が止まる。恥ずかしかった。自分はいったいどんな格好で食べていたろうか。唾を飛ばし口の中の粘膜を露出して、ギネスブックに乗れるほどの速度で食べまくっていたに違いないのだ。 「いや、笑ってるわけじゃありません。いいじゃないですか、食べっぷり。料理人も喜んでくれる。これほどの礼はありません」 「……いえ。それはいいんですけど……」 ベルタは慎重に言葉を選んで、 「わたしなんかの何がいいんですか」 心の中に残っていた猜疑心に無理やり火をつける。目線を皿からあげて、礼一郎の顔をじっとみすえる。 「それは……」 腕組みして礼一郎が切り出そうとした、その瞬間。 ドアが勢いよく開け放たれた。屈強な黒スーツの男たちを引きつれ、ひとりの男が入ってくる。日本人離れした背の高さ、三つ揃いのスーツを着こなした男。年齢は50代か。銀色の髪をオールバックにしている。もとはかなりの美男子だったと推測できる顔立ちだった。 「礼一郎! お前は一体何をやってるんだ!」 男は入ってくるなり礼一郎をどなりつける。 「父さん、食事中ですよ」 すました顔の礼一郎。 ベルタは状況の急変に目を白黒させる。 (この男は? 父さん? じゃあこの人は……) 頭の中で、新聞やニュースで聞きかじった情報をまとめる。上月礼一郎は上月製薬。その父親は上月重工の取締役。上月グループ第4位の実力者。 「こんな夜中に食事もなにもないものだ」 苦々しい表情で父親はつぶやく。そしてベルタのそばに歩み寄り、至近距離から見下ろした。眼光鋭い眼に、あからさまな侮蔑の光があった。 「……お前がベルタか。いったいどうやって礼一郎をたらしこんだ?」 「な……」 あまりに心外な言葉だ。ベルタは仰天する。 「父さん、ばかなことは言わないでくれ。ベルタさんはぼくが自分の意志で助けたんだ。敵に追われていた」 「助けた? ばかはお前だ、こいつは人間じゃないんだぞ、遺伝子操作のバケモノだ」 「そんなことはどうでもいいんです、父さん」 礼一郎はきっぱりと言い切った。そして立ち上がる。背筋をすっと伸ばし、父を射抜くようににらみ、 「ぼくはベルタさんを愛している。全力で。だからぼくの持てる財力、人脈、能力の全てを駆使してベルタさんを守るつもりだ。それを邪魔するものはたとえ父さんであっても許さない」 一息に言い切った。 その言葉はベルタの胸を貫いた。心臓がドキリと跳ねた。テーブルの上に下ろした手をぎゅっと握り締めた。 (本気だ)(この人、本気だ) 礼一郎の真剣な表情から眼がはなせなかった。 「本気で言っているのか、礼一郎。そんな女のどこがいい。拾ってきた野良犬に同情するようなものか?」 「くどいよ、父さん」 礼一郎は円卓の周りを歩いてきた。ベルタのそばまで来て背中に腕を回し、力強く抱きしめる。 そのまま立ち上がった。もちろん異性に抱きしめられるなどはじめての経験だ。体の中が、顔中がぽっと熱くなっていく。恥ずかしい。礼一郎とベルタの身長 差は20センチ、ちょうど胸の辺りに顔がうまった。「なにをするんですか」といいたくて顔を上げた。礼一郎が自分を見下ろしていた。恐ろしいほどに真剣な まなざしだった。ますます恥ずかしい。父親の怒鳴り声がどこか遠くのほうで聞こえた。しかし腕をふりほどく気にはなれなかった。不思議な高揚感があった。 「ベルタさんはとても愛らしい」 礼一郎は言い切った。 「もちろん外見も。さらさらした黒髪、純真そうな美しい瞳、すらりと伸びた手足。でもそれより心なんです。殺人兵器として作られ、でも彼女の心は闘いに染 まらなかった。そして逃亡の中でもすさみきらなかった。見てください。彼女は得体の知れない私に体をゆだねている。殺そうと思えば腕だって首だって一瞬で ひっこ抜けるのにやらない。優しいんです。 そんな優しい心を持ったけなげなこの子の、魂の美しさに僕は惚れぬいた。 おかしいですか」 「一族の中でつまはじきにされるぞ」 父の声から怒りが消えていた。かわりに気味悪がるような色が宿っていた。 「きっとみんなわかってくれる。いや、わからせる、彼女のすばらしさを!」 父親はため息をついた。 「何を言っても無駄のようだな。勝手にするがいい。……帰るぞ!」 父はきびすを返した。屈強な黒スーツを引き連れ、部屋から出ていった。 長い沈黙があった。 やがて礼一郎はベルタを抱きしめていた腕を緩める。 「ああ、すみませんでした、いきなり無礼ですよね」 礼一郎の表情には照れがあった。少年のようにあどけない顔。頭まで掻いてみせる。 ベルタはそのままぺたりと椅子に座り込んでしまう。 「はずかしかったです……」 自分の口から出たとは信じられない、かぼそい声。 「嫌でしたか。もし嫌ならば、僕は」 「嫌じゃなかったです」 とっさに口をついて出ていた。そうだ、男性に抱きしめられるのは甘美な経験だった。この人が生身の人間で、肉体的には自分のほうがずっと強いことは知っている。だがそれでも、頼もしかった。抱きしめ得あれる力強さが好ましかった。 「よかった。嫌われたらどうしようかと思った」 そういってまた破願する礼一郎。 ベルタはもう疑わなかった。この人が本気であることを。 5 ベルタは書斎で本を読んでいた。 重厚なマホガニーの机の前にちょこんと座って、広げているのは文学全集。 このルナール号の書斎には古今東西の名作がそろっていた。片端から読んでいる。 トントン、とノックされた。 入ってきたのは礼一郎。白衣をきている。 「やっぱりここか。何を読んでたんですか」 「これを……」 「文学全集? ドイツ語版を取り寄せましょうか」 「いえ、いいんです。だいたい日本語でも意味は分かりますし」 「もしかして無理してませんか、ベルタさん。『上月家の女だから教養を身につけなければ』みたいな」 かげりのある表情でといかける礼一郎。ベルタはくすりと笑って、 「とんでもない。もともと本を読むのが好きなんですよ」 「ベルタさんは、本当に戦いには向いてないんですね。早く学校も手配できればいいんですが。ああ、そうそう、見てください、研究の成果が出てきたんですよ」 礼一郎ががらりと表情を変えてベルタの腕をとり、廊下を進んでゆく。 廊下ですれ違うのは船員、ナースメイド、それから白衣姿の研究者たち。全員が礼一郎を見て頭を下げる。 いくつかの階段とドアをくぐる。いきなり周囲が一変した。高級ホテルのようだった内装が病院のそれに変化する。 『E実験体遺伝子実験室』と書かれたドアの前までやってきた。ドアは二重になっている。そこをくぐると中は研究室だった。ガラスケースがズラリと並び、白衣にマスクの男たちが忙しそうに歩き回っている。 「このケース、見てください」 礼一郎がつれていったのはひとつのガラスケースの前。 ケースの中には茶色い生き物がチョロチョロと動き回っていた。マウスだ。 「このネズミさんが何か?」 「このケースには青酸ガスが充満してるんですよ。それからとなりのケースの中は100度を越える高熱。そのとなりは酸素分圧100ミリバールの低酸素状態です」 「え」 驚いてケースを見渡す。しかしどのケースの中のネズミも元気に走り回っている。 「でも、どのマウスは死なない。ベルタさんの細胞を移植してあるからです。化学剤への抵抗力、生命力、運動能力、どれをとっても普通のマウスをはるかに越 えています。ベルタさんたちエインヘリヤルの細胞にはこんな力があるんですね。すばらしい、すばらしいですよベルタさん。これを医療に応用すればどれだけ 多くの人間を救えるか分からない。人間の根本的な生命力を上げられるんですよ?」 「……こんな使い道が……」 自分を利用するなら兵器しかない。そう思っていた。だが医療に活かせるなんて。 「それだけじゃない。類まれな再生力を生かせれば臓器培養にも使えるでしょう。手足や内臓を失ったものでも、元通りに生活できるようになる。夢のようじゃありませんか」 心のどこかで「これは結局実験台だ」とささやき声がした。しかしその声はすぐに消えてしまった。人の役に立つ実験台、そのどこが悪いというのか。なによりこの人は、自分のことを一人の人間として扱ってくれる。『組織』の連中とはまるで違う。自分にそう言い聞かせた。 ベルタ、礼一郎の手をぎゅっと握る。 「ありがとう。礼一郎さん。あなたに会えて本当によかった」 6 その日、ベルタは眠れなかった。 部屋を暗くして、自分一人には広すぎるベッドで、悶々としていた。 眼を閉じても眠れない。頭の中はたったひとつの思いが占領している。 (ほんとうにこんな幸せになってよいものか) 眼を開け、身体を横にして、壁にある丸窓を見る。いかにも船という丸い窓からは暗い海面が見えていた。この海の向こうの世界で自分は戦いを続けてきた。どうしても逃れられなかった。でもいまは逃れられるという。 コッチ、コッチと部屋の機械式時計が時を刻む。はるか床下のずっと深くで、ディーゼルエンジンの唸りが轟いていた。 「だめだ……眠れない……」 幸せすぎて、この幸せが消えてしまうのが恐いのだ。 ベルタはベッドからむくりと起き上がる。 そしてパジャマの上に白のカーディガンを羽織る。サンダルをつっかけて室外に出た。 ふかふか絨毯を踏みしめ、壁の絵を眺めながら、広い廊下を歩いてゆく。明かりは小さな赤い非常灯と窓から差し組む月光だけ。 (どこにいこう……月か。甲板に出てみようかな) ベルタは階段を上がって上甲板に出た。 一気に潮の香りが押し寄せてくる。 ルナール2世号の甲板はテニスコートがいくつも作れるほど広かった。そして何もない。普通の豪華客船と異なり、礼一郎はじめわずか数人のために作られた船だからだ。 天を仰ぐと、雲ひとつない空に星々がちりばめられていた。都会では考えられない圧倒的な輝き。そしてぽっかりと銀色の円盤が浮かんでいた。神々しい景色だと思った。ざあ、ざああ、という波の音に包まれてベルタは星と月を眺めつづけた。心の中の不安が溶けていった。 と、そのとき、 耳の中に小さな声が飛びこんできた。 「……しかしあの子もかわいそうだな、見事にだまされて」 「かわいそうなものですか。ベルタを保護しているのは事実です。楽しい夢をみせてやっていることもね」 男二人の声だった。波音に消えてしまいそうなかすかな声だった。しかしベルタの耳は確かにとらえた。 背筋を液体窒素の冷たさが貫いた。顔を下ろして声のした方角をみる。船の船首方向だ。 (いけない) ベルタの胸の奥底で本能的な恐怖が叫んだ。 (いったらきっと恐ろしいことになる)(聞かなかったことにして寝室に戻ろう) だがベルタは動けなかった。手に命令した。足に命令した。戻れ、甲板から降りて寝室に戻れ。すべて拒否された。 (こわい。こわいけど、こわいから知りたい) このまま逃げたら、明日からきっと私は、不安でたまらなくなる。 だから不安を晴らしたくて、甲板を駆けだした。 ひさびさに筋肉を精密制御、足音をたてずに時速40キロで走る。 船首に向けて進むあいだ、声がいくつもいくつも耳に飛びこんできた。 「それにしてもあの娘、見事に信じておったな。あんな三文芝居を」 「超人とは言いますが、結局はただの世間知らずです。見たがっている夢をみせてあげればいい。簡単なことです」 「女たらしのいいそうなことだ」 「ひどいですね父さん、これは父さんの血ですよ。欧州の社交界で悪名を轟かせた血です」 「ふふん。まあ、そのくらいできねば務まらんな」 もうわかっていた。この二人が誰であるか。礼一郎と、その父だ。だが、それなら会話の内容は。 きっと何かの間違いだ。きっと何かの冗談だ。それだけを信じてベルタは走り、 わずか数メートルの距離にまで迫ってベルタは叫ぶ。 「礼一郎さん!」 ふたりは振り向いた。二人ともガウンを羽織っていた。髪型と年齢こそ違えど、同じ服装をしてみるとこの二人は実によく似ていた。 「やあ、ベルタさん、どうしたんですか」 「……どうした、じゃありません」 礼一郎をにらみながら言うベルタ。いや、にらんでいるつもりなのだが自信がなかった。もしかすると泣き顔になっているかもしれなかった。 「今の会話は何ですか。わたしをだましている、夢をみせている……」 ふふ、礼一郎が笑い出した。口元に手を当て、軽薄な調子で笑っている。 「なにがおかしいんですか」 「ハハハ、アハハハ……そうさ、その通りだよ。ぼくは演技をしていた」 こともなげに言い放つ。覚悟していたはずなのに、ベルタのつま先から頭蓋骨の鉄片まで極寒の塊が走り抜ける。30度を超えているはずなのに全身に鳥肌が立った。 「あっけなかったな、例一郎」 父親がにやつきながら言う。やれやれといったふうに肩をすくめている。 ベルタは礼一郎の袖に取りすがって、 「まさか……嘘ですよね、冗談ですよね?」 「いいや、真実だ」 「じゃあ、わたしを愛しているといったのは……抱きしめてくれたのは……父親とケンカしてくれたのは……」 「演技だよ、すべて」 となりの父親も面白そうにベルタを眺めながら、 「もちろんわたしが怒ったのも芝居のうちだ」 「一体何故そんなことを!?」 「決まってるじゃないか」 礼一郎は小首をかしげた。不思議そうな表情を浮かべた。 「そうすれば君が手に入るからさ。君の肉体は医学的驚異の結晶だからね。細胞再精力、神経加速、放熱機関の形成、何もかも面白い。どれだけ多くの薬を作れることか。ぜひ君がほしかったんだ」 ベルタ、悔しさに歯をくいしばった。礼一郎の腕を振りほどき、一歩、二歩あとずさった。 「なんてことを……」 悔しさと怒りで胸のうちが燃えていた。礼一郎をにらみつづけていた。しかし心のどこかで疑問があった。 (なぜ、こんな簡単に真実をばらしたんだろう? しらばっくれればどうにでもなったはずなのに) 礼一郎は白面に笑みを浮かべている。ベルタが怒りの視線を叩きつけているというのにまるで動じない余裕の笑みだ。 「憎いかい、ぼくのことが? じゃあ逃げるかい、ここから?」 軽い動作で、黒くうねる海原を指差した。 「できるかな、君に。この船の外は、相変わらず闘いの日々しかないというのに。一流シェフの食事と、ふかふかベッドと安全な毎日に慣れた君が、もとの生活に戻れるかな」 胸が詰まった。そのとおりだと思った。拳を握りしめた。自分の体を見下ろした。チェックのパジャマ。足元はサンダル。かつての自分はこんな格好は決してしなかった。自分の体すべてがだらけてしまっているのがわかる。 でも、それでも。 ここにいたら自分は籠の鳥だ。 自分にうそをついて、愛しているとうそをついた礼一郎に、ずっと抱きしめられて生きてゆくのだ。そしていつのまにか、うそをうそとも感じなくなる。 それが本当に、うそで作られた楽園が私の望んでいたものなのか。 だめだ、わたしにはできない。 きっと顔をあげた。胸の奥でどろどろと渦を巻くくらい情念を、そのまま言葉に乗せて叩きつけた。 「……いやです。どっちも……外の世界も……ここも……いやです!」 ベルタ、甲板を走る。そのまま手すりを飛び越え、船の壁ぎりぎりを落下、真っ暗な海に飛びこんだ。 視界が真っ暗に。ゴボリと口からあぶくがこぼれだす。目に映るものは黒い水とあぶくばかりだ。 飛びこむとき、息を吸いこまなかった。ベルタはすぐに息苦しさを感じる。もう浮上しないと死んでしまう。 (なぜいけない) 体中を鉛のように重い諦観が満たしていた。 (もういやだ) ベルタは目を閉じた。 このまま何も感じないようになれればいい。 第三章「鏡の中の勇者」 1 地下空洞の中心に、軍服姿の少女が一人、立っていた。 空洞は円盤型。直径100メートル。天井のライトに照らされた床は弾痕だらけだ。 少女は身長160センチ、金色にきらめくウェービーヘアーの持ち主だ。手足がすらりと長い。野戦服の胸の部分が大きく膨らんでいる。冷たく整った顔に余 裕ありげな微笑を浮かべている。白い手にG3アサルトライフルを握っている。背中には雪の結晶のような6枚の翼、背部放熱器官を広げている。 「ドーラ、これより第一種試験を開始する。全力運動を許可する」 床のあちこちが開く。自動制御のアサルトライフルとサブマシンガンが出現する。ドーラと呼ばれた少女に向けて発砲する。オレンジ色の火線が何万とはじけてドーラに襲いかかる。 雨あられと降り注ぐ銃弾を、ドーラはこともなげに体をくねらせてかわす。表情ひとつ変えない。 たっぷり五秒間続いて、銃撃は止んだ。 銃が床の中に格納される。 「第二テスト、開始」 天井から冷たい声が降りそそぎ、まったく同時に床が開いて標的が出現、標的はドーラのまわりを高速で周回する。 しかしドーラの動きはそれよりはるかに早い。 G3アサルトライフルの銃口を跳ね上げ、発砲し、フィギュアスケーターのように体を一周させ。 それだけで全てが終わっていた。 円形ターゲットは的の中央を打ち抜かれ。 マンターゲットは胸と頭に一発ずつ打ち込まれ。 そして、生きたターゲット……ジャーマン・シェパードは頭蓋骨を粉砕されて死んでいた。 まさに一瞬。コンマ5秒とはかからなかった。 ドーラは射撃を止め、もう一度くるんと回って射撃結果を確認。完全に余裕の笑みをうかべている。 「ま、こんなものね」 幼さを感じさせる声で勝ち誇る。 「見事だ!」 壁面のドアが開いた。白衣を着た長身の男が駆けよってくる。 「ありがとうございます、博士」 少女は白衣の男に敬礼した。 白衣の男……ヴァイスハウゼン博士は、少女のそばまでやってくると、手にしていたプリントアウトを開いて読み上げ始める。 「反応時間は0.021秒、回避効率は最適運動曲線に0.95近似。なんといってもターゲット全滅までコンマ35、これが素晴らしい。犬も一撃、これがいい」 「当然ですわ。わたくしは最新作ですもの」 「そうだな。ベルタを遥かに上回る性能だ」 「ベルタなどと一緒にしないでくださいませ。わたくしはベルタの失敗をもとにつくられたのでしょう?」 「そうだ。お前はベルタの失敗を徹底的に洗い出して作られた。心理弱点を削り、白兵戦と射撃戦双方での戦力向上を目指した。計画通りの数値だよ。ベルタどころかアントンとカエサルより総合成績がいい」 「ですから、当然ですの。では、エインヘリヤル量産はわたくしをベースにすることで決まりですか?」 眉間に険しいしわを寄せ、ヴァイスハウゼンは首を振る。 「いや、それはまだ一考が必要だ。コンバット・ブロープンも大切だ。きみは実戦経験がない」 壁のドアが開いて、巨体の男・アントンと、ほっそりした金髪の美少年・カエサルが出現する。 「まだまだだよドーラちゃん、ボクみたいに戦場で殺しまくれないとね」 「おう、訓練でばっか好成績でもしょうがねえ」 自信満々の兄ふたり。ドーラは片眉をあげて不満げに、 「そうおっしゃいますけど、アントンにいさまはベルタねえさまに逃げられたのでは」 「ち……それを持ち出すなよ。まさかあの女があれだけやるとはな」 「アントン兄さんは甘いんだよ。相手と同じリングで闘うことはない。超遠距離から撃って『次元違い』の喧嘩にするのがいちばん良いんだ」 アントンは筋肉で盛り上がった肩をすくめる。 「飛び道具至上主義は危険だぜ? 俺とお前がやりあったら、お前の狙撃なんて全部弾き返してだな……」 ヴァイスハウゼンが乾いた声で笑い出す。 「切磋琢磨、おおいに結構だ。きみたちはどれも一長一短ある。実績をあげてゆけば、量産の日も必ずやってくる。頑張れよ」 と、そのとき。 ドーラがG3ライフルをヴァイスハウゼンに向けた。 「む……?」 ヴァイスハウゼンの表情がこわばる。 「悪いけど、わたくしたちには時間がないんです」 冷たい声で言うドーラ。端正な顔に、エメラルド色の吊り目に、冷笑が浮かんでいる。 「馬鹿な冗談はよせ」 「冗談じゃあないんだな、これが」 アントンが巨体を軽やかに動かしてすっと近寄り、ヴァイスハウゼンの首根っこをおさえる。カエサルも一瞬にしてヴァイスハウゼンの脇に移動した。 ふたりは素手だが、人間の首など指一本で粉砕できる。 ヴァイスハウゼン、片手を白衣のポケットの突っ込んで何かを取り出そうとする。 カエサルの手が彼の腕を押さえた。ギリギリと骨がきしむ音。 「あ……あがっ……」 「この首輪の爆破スイッチ? 無駄だよ。昨日のうちにクラッキングして無力化しておいた」 カエサルはヴァイスハウゼンの耳元でこともなげに言い放つ。 「ば、ばかな……お前たちにそんな能力が……」 「あったんだなあ、これが、がはは」 下品に笑って、アントンはヴァイスハウゼンの首をつかんで宙釣りにする。 「うげ……ぐうっ」 ただでさえ白い顔をますます土気色にしてうめくヴァイスハウゼン。取り乱し、白衣に包まれた手足をバタつかせる。 バタン! ドアが叩きつけるようの開け放たれた。突入してきたのはG3アサルトライフルを持った兵士たち。 「博士を放せ!」 絶叫し、アントンたちに銃を向ける。返事を待たずに発砲。 次の瞬間、アントンたち3人は消えた。 背中の翼を展開、神経加速し、人間の反射神経を遥かに超えた速度で機動。 アントンは両腕をクロスさせて銃弾を弾き返しながら突進、「どええええい!」と蛮声を張り上げて兵士たちにタックル。紙人形のように兵士たちがまとめて 吹っ飛ぶ。カエサルとドーラは反対方向にヒラリと跳躍、天井を足場にして方向転換、兵士たちの背後に着地してハイキックを繰り出す。機関銃のような連打。 一撃めがヘルメットごと頭蓋骨を粉砕して白とピンクの脳髄を撒き散らす。二撃めが首を刈る。ウエハースが踏み砕かれるような音が鳴る。 たちまちあたりは血の海。兵士の頭が吹き飛んで血が噴出、1メートルの高さまで吹き上がった。 「うわあ!」 最初の一瞬を生き残った兵士数人が、悲鳴をあげ顔を恐怖で引きつらせながら体を反転させる。銃をカエサルとドーラに向ける。動揺で激しく揺れる銃口が炎 を吐き出す。しかしドーラは黄金の髪を翻して身をかがめ、至近距離から浴びせられた銃弾を回避。兵士の胸に掌底打を叩き込んで肋骨と肺を粉砕。兵士が血を 吐いて崩れ落ちる。カエサルはその白い腕をひらめかせて兵士から銃を奪って頭に突きつけ、発砲。自分の手から銃が消えたことも気づかずに兵士は死んだ。 いまや、直径100メートルの円盤型空洞内で生きているのは4人のみ。 血まみれのアントンとカエサル、ドーラ。 そして中央で腰を抜かしているヴァイスハウゼン。 「あ、あ、あ……」 茫然自失の状態でうめくヴァイスハウゼンを見下ろし、ドーラが金髪を手入れしながら言う。 「いままでありがとうございました、お父様」 ぺこりと上品に頭を下げる。 カエサルも、奪ったG3ライフルを抱きしめて言う。 「そうだね、ありがとうをいわなくちゃね」 アントンは猪のように太い首を縦に振る。 「おうよ、闘う力を与えてくれてありがとうな、博士」 全員が笑みを浮かべていた。白い顔に返り血を浴び、青い瞳に愉悦をたたえた凄惨な笑みだ。 自分を囲む三人を見回してヴァイスハウゼンは、 「お、おまえたち……いったい、いったいなんのつもりで……」 フン、とカエサルが鼻で笑った。 「きいてなかったのかい、父さん。ボクたちは時間がないんだよ。父さんたちの掌の上じゃいけないんだって、ベルタが教えてくれたんだ」 アントンが重々しくうなずく。 「おう」 「ば、ばかな……お前たちの居場所はこの組織の中だけだ。『自分より優れた生物』など、人間社会が認めるとでも思っているのか?」 「認めさせるんだよ、俺たちにはそれだけの力がある」 「まあ一言でいって、父さん、あなたはボクたちをなめていた」 軽い調子で言って、カエサルはヴァイスハウゼンを射殺した。 2 ベルタは横浜駅の駅前にいた。 壁に持たれかかって座っていた。 あたりはビルが立ち並んでいる。目の前には岡田屋モアーズ、左手にはできたばかりのヨドバシカメラ。背後のバスロータリーからはディーゼルエンジンのド ロドロという重低音がひっきりなしに響いてくる。歩道はびっちりと人々で埋め尽くされている。平日なので、カバンをさげたサラリーマンが足早に歩いてい る。出くわす。350万都市・横浜の中心にふさわしい喧騒だ。 何人かがベルタに気づいて不審げに見る。 当然といえば当然かもしれない。いまのベルタはパジャマ姿に裸足。長い艶やかな黒髪もチェックのパジャマも排気ガスと埃で汚れきっている。パジャマなど雑巾代わりにできそうだ。 そんな汚い有様で、道に腰を下ろして、ボンヤリと見上げている。 視線の先には岡田屋モアーズの壁面があった。壁面にはテレビ画面があった。数メートル四方ありそうな巨大な画面に、携帯電話のCMが映し出されている。 女の子が楽しげに携帯をぶら下げて街をゆく、友達と連れ立って写真をとる。 かつてのベルタはそんな光景をみるたびに胸がしめつけられた。 自分もああいうことがしたい、ふつうの女の子になりたい、でもできない、だから悶え苦しんでいた。 しかしいまのベルタは違う。もう痛みも苦しみも感じない。 (どうでもいいや) 焦点をろくにあわせることもなく画面を見ていた。 膝を破ったジーンズで足早に歩く男性がベルタにけつまずいて倒れた。起き上がって、怒鳴りながらベルタに蹴りを入れる。「邪魔なんじゃボケッ!」見事に顔面にヒットした。しかしベルタは顔色も変えない。顔をぬぐうことすらしない。痛いとも感じない。 (どうでもいい。もう、どうでもいい) あの船を脱出して15時間たっていた。夏の青い空に夕日が沈みつつあった。 脱出の後、ベルタは陸地に泳ぎ着き、いちばん近くの街にやってきた。そこが横浜だった。 それから数時間、道端に腰を下ろしたまま何もせず、食事すら取らなかった。 (どうでもいい) あどけなかった顔は無表情だった。その黒いつぶらな瞳は何も見ていなかった。 (このまま世界が終わってしまえばいい。自分が死んでしまえばいい。どっちでもいい) そんなことを思いながら、ベルタはただそこにいた。 3 旅客機のドアを内側から開けた。たちまち機内の空気が逃げ出して突風が吹く。 銃を持ってドアの前で並んでいるドーラの長い金髪が、風にゆらめく。 「場所はここでいいのか?」 アントンが腕組みしながらドーラにたずねる。 「ええ、間違いありませんわ」 「頼むぜ、降りてからじゃ面倒だからな」 「任せてください。にいさまたち、武器はそれだけでよろしいんですの?」 カエサルは背中のリュックにいろいろ銃を詰め込んでいる。ドーラも同じだ。しかしアントンは手ぶら。背中にはパラシュートと食い物の詰まったリュックがあるきりだ。 「おうよ、この体さえありゃあ、警察だろうがジエータイだろうが」 そのとき人質になっていたフライトアテンダントが、風で飛んだ帽子を取ろうと一歩踏み出した。 カエサルが瞬間的に移動、彼女に銃を突きつける。今もっているのはMP5サブマシンガンだ。 「あー、動かないでねー。もうすぐ終わるからねー」 「あ、あ、はい……」 ガクガクと機械的にうなずくフライトアテンダント。 彼女の顔は真っ青だった。瞳には本物の恐怖が浮かんでいた。ただ銃を向けられているからではない。草食獣がライオンを恐れるような「異なる生物種への恐 怖」だった。このハイジャック犯たちはついさっきまで貨物室に潜んでいたのだ。マイナス三十度、地上の一割もない希薄な空気に耐えてきたのだ。人間ではあ り得なかった。 「じゃあ行くぜ」 「はーい」 「テン・サウザンド……」 軍隊式の降下法にもとづいて掛け声を発するドーラ。 しかしアントンとカエサルはまったく無視して、自分勝手にひょいひょいと飛び降りてゆく。 「あ、なんて無作法な……まったくもう!」 ドーラも飛び降りた。 次の瞬間、彼女は真っ青な空間の中にいた。 たった今高度9000メートル。 眼下には海と、二等辺三角形の形をした半島が見える。 半島は半ば以上緑に覆われている。 半島の大きさはおよそ30キロ。そのなかのある一点に、自分たちは降りなければいけない。 大丈夫、できる。なんの不安もない。 次に天を仰いだ。 西の空に浮かぶ赤い太陽。そして頭上には銀の十字。たったいままで自分たちがハイジャックしていた機体。まわりには何も見えない。 (日本が弱腰で助かった) ドーラは激しい風のなかでニタリと笑う。 (旅客機ごと撃墜されたら、さすがに打つ手がなかった) (でも、もう大丈夫) (わたくしたちの戦いは、誰にも止められない) すでに降下速度は秒速100メートルに達していた。パラシュートを開くのはもっと高度を下げてからだ。開いてしまったら風で流される。 下を向いたドーラの眼に、奇妙な施設が飛び込んできた。 海沿いにある、緑に満たされた空間。 公園のようだが公園ではない。 頑丈そうな白い建物と、100メートルはありそうな煙突5本がある。 すでに高度は3000メートルまで下がっている。謎の施設は眼下の大地を埋め尽くすほどに大きくなっている。 あれこそがドーラたちの目的地・浜岡原子力発電所だ。 600万キロワットの発電能力を持つ大型原発で、原子炉には軽く1億人を殺せるだけの放射性物質が詰まっている。 原発施設が火を吹き、道行く人々が血反吐を吐いて死んでゆく姿を想像した。愉悦に顔面の筋肉が緩んだ。 (くすくす……) 4 突然、ビル壁面のモニターが乱れた。 携帯のCMが消え、ニュース映像に切り替わる。 スタジオ内にいるはずなのにアナウンサーは汗だくだった。 「……臨時ニュースを申し上げます。たったいま、静岡県の浜岡原子力発電所が、武装集団に占拠されました」 画像が切り替わる。アナウンサーが消える。「浜岡原発」というテロップとともに、「緑に包まれた、白い建物と煙突5本」の映像が出てくる。 「この浜岡原発は日本第2の規模を持つ大型原発です。本日13時半ごろ、武装集団が原発内に降下、警備員を殺害して管理等を占拠しました。武装集団は国際 便の航空機をハイジャックしたものと見られており……ただいま本テレビ局宛に画像が送られてまいりました。放送です。犯人が放送をしています。中継いたし ます!」 画面が切り替わった。 原発の管制室をバックに、美少年と美少女がいた。二人とも迷彩服に身を包んでいた。 まず眼についたのは美少年。巻き毛の金髪で、息を呑むほどに整った容姿。澄んだ青い瞳。 そのとなりにいるのは美少女。ウェーブのかかった金髪に青い目、つんと尖った鼻に真っ白い肌。こちらもかわいらしい。フランス人形と呼んでしまうには瞳に猛々しい光が宿りすぎているが、人間離れした美しさだ。 「……こども?」 通行人のひとりが巨大モニタを見上げてあっけに取られた。確かに二人の顔だちは幼い。15歳より上には見えないのだ。たとえ軍服を着ていても「武装集団」「原発ジャックをやるような凶悪なテロリスト」には見えない ベルタの受けた衝撃は通行人の比ではなかった。 「……! カ、カエサル……」 思わずうめき声をもらした。彼女の眼は「金髪巻き毛の美少年」に釘付けだった。 間違いない、彼女の弟、3体目に製作されたエインヘリヤル「カエサル」だ。 となりの金髪美少女は知らない顔だ。4体目に作られるはずだった「ドーラ」だろうか。 驚きに目を見張るベルタの前で、金髪美少年・カエサルは口を開く。 「はじめまして、日本の皆さん」 流暢な日本語だ。口元に笑みを浮かべている。 「ぼくは『エインヘリヤル』の3番目、カエサルです。こちらは妹のドーラ」 金髪美少女が髪の毛を揺らしてぺこりとお辞儀。 「さてみなさん、突然だけどこの原発はボクたちが占拠しました。 はい、これ証拠」 カエサルがカメラのほうに手を伸ばした。 画面の中の映像が揺れた。カメラが揺れているのだろう。 ぐるっとカメラが回り、管制室の中が映し出される。 血。血の海。 作業服姿の男たちが数人倒れている。全員が全員、頭や胸からおびただしい量の血を噴いている。机も床も血だまりで真っ赤だ。カメラのこちら側まで血の臭いが漂ってきそうだ。 モニターの映像がカエサルに戻った。カエサルはさも嬉しそうに笑っていた。大好きなオモチャをさんざんねだってやっと買ってもらえたような、屈託のない笑顔だった。 「はいー、わかりましたねー。みなさん死んじゃってます。具体的にはボクが殺しました。いやあ、もう、スカッとしたのなんのって。やっぱり気持ちいいねー」 ぺちっ。マイクに入るくらい大きな音を立てて、ドーラがカエサルのほっぺを叩いた。 「な、なにすんだよ?」 「にいさまは調子に乗りすぎ。何の話をしているのかもう分からなくなってる」 ぼそり、という無感情な口調で叱るドーラ。 「悪かったよ……さてみなさん。ボクたち3人はこうして原発をジャックしました。あ、3人ってのはもう一人いるんですよ。アントンっていって、ボクたちの長兄に当たるんだけど。これがもー、全身これ筋肉、筋肉の力だけで装甲車を引きちぎっちゃう。すごいねー」 「にいさま、また言わせるのですか」 「ご、ごめんよドーラ……で、要点を先に言っちゃうと、ボクたちは日本政府を脅迫します」 にこやかな笑顔のまま、白い指を1本立てて言う。 「日本政府は6時間以内に、ボクたちに対して降伏してください。ボクたちの支配下に入ってください。さもないとドカーン! ここにある原子炉を破壊します。破壊したらどうなるか、わかるよねみんな? ねえドーラ?」 小さくうなずいて、ドーラが静かな口調で語りだす。 「浜岡には100万キロワット級原子炉が5基あります。すべてメルトダウンした場合、放出される放射能はチェルノブイリ事故を凌ぐ1兆キュリー。半径50 キロが永久に居住不能、風下70キロ以内の人間は全員が急性白血病で死亡。最終的には400万人がガンになります。経済的な損害は、数兆ドルに及ぶでしょ う」 まるで資料を読み上げているような淡々とした喋りだ。 「というわけで、わかったかなみんな。ボクたちに従わない限り400万人が死ぬんだ。楽しみだなあ。あー、いっとくけど会議とかやっても遅いよ、ボクたちには時間がないんだ。期限は今日の夜8時! 一分でも過ぎたらドカーン、もくもく! 東京と名古屋が壊滅ー!」 楽しそうにはしゃいで手をパチパチ叩くカエサル。と、急に我に帰って、 「あ、邪魔をしたって無駄だから。警察も自衛隊もボクたち3人には勝てないよ。 ちょうどいま警察の人がきたみたいだから、そのへんのこと見せてあげるよ。テレビ局の人、しっかり撮るんだよ? じゃあね、また何かあったら連絡するよー」 明るくさわやかに笑ってカエサルはカメラに向かって手を振った。それっきり映像は消える。 モニターの中にはスタジオが戻っていた。 「えー……」 アナウンサーはますますこわばった表情で、 「以上のように、『エインヘリヤル』を名乗る武装集団に占拠された浜岡原発ですが、この件につきまして古泉首相は『テロには毅然とした態度で挑み、早期解決に全力を尽くす』と述べております。 たったいま、警官隊が浜岡現地に到着したとの情報が入りました。 空撮映像に切り替えます」 アナウンサーの言葉とともに画面がまた変わった。 空から見下ろす映像が。 海沿いに白い大きな建物が5つ、そのすぐそばに煙突。全体が緑に覆われている。 敷地に面した国道に、窓を金網で覆ったバスが止まっている。一機の大型へリコプターも着陸している。 バスからは紺色制服の男たちが降りてくる。ヘリコプターからは、黒いプロテクターで身を固めた男たちが次々に降りてくる。背中に『POLICE』と書いてある。数は二十人ほどか。整然と展開する。 ベルタはうめき声をもらした。 「にげてください……殺されます」 5 「整列!」 号令に応じて、部下たち二十人がずらりと並ぶ。前列の男たちは透明な防弾盾、後列の男たちは銃を持っている。MP5サブマシンガンだ。 見事に隊列を組んだ男たちを、隊長は自信ありげに見つめた。 (この日を待っていた) (我々の実力が発揮できる日を) この事件を解決すれば我々は英雄だ。しかし手に負えなければ自衛隊の出番となる。キャンプ座間の空挺部隊が来るだろう。警察の威信は丸つぶれだ。 (なんとしても俺たちの手で) そのときヘリから、インカムをつけた男が顔を出した。 「隊長! 市民の避難完了しました!」 警察の役割は犯人逮捕ばかりではない。一般市民を避難させるのも重大な役割だ。浜岡原発は住宅地に囲まれている。巨大ショッピングモール・メガマートがとなりにある。 隊長は報告を受けて大きくうなずいた。 「すばらしい、実に迅速だ」 部下の一人が笑顔を浮かべて言う。 「このへんは東海地震の件で、みんな避難慣れしてるんですよ」 「ああ、それはあるな。では、まずは交渉を開始する」 隊長は胸の無線機を手にとった。 しかしその瞬間、彼の目が細められる。 「む?」 隊長のいる場所からは管理棟の入り口が見える。今まさに管理棟の入り口が開き、一人の人間が出てきた。 巨体。数十メートル離れても、その男がプロレスラー並の体格である事がわかった。下半身はアーミーパンツ、上半身はタンクトップ一枚。丸太のような二の腕を向きだしにしていた。 大男はのっしのっしと歩いてくる。だんだん顔が見えてきた。短く刈った金髪、四角い顔に猪のような太い首、太い眉毛に荒々しい顔立ち。隊長は、かつて知り合ったアメリカ海兵隊員を連想した。 「手ぶらだ……投降でしょうか?」 部下の一人が首をかしげる。 「わからん。あれだけの大事をやらかして投降というのも解せんな。気を抜くなよ?」 隊長は部下たちに気合いをいれ、拡声機を大男に向けた。 「警察だ! 投降を望むか?」 大男は答えない。ゆっくり歩いているように見えるがよほど大股らしく、たちまち正門の手前までやってきた。 「よーう!」 大男は片手をあげる。 「原発ジャック犯だな? 投降を決めてくれて感謝する。 我々は無意味な流血を望まない。直ちに投降してくれるなら……」 「アーッハッハッハ! ぐははははーっ!」 突然の笑声に、隊長は呆然とする。 大男は腹を抱え、身をよじって爆笑していた。 「い、いったいどうした?」 「どうしたって、そりゃおめェ……おめェらがあんまりバカだから笑ってんだよ! 投降するだと? そんなことひとことも言ってねーっつうの、ボケッ!アーヒャヒャ!」 「では、何のつもりだ!」 隊長はバッと片手で大男を指し示す。 後列の隊員二十人が、MP5を上げて大男に向ける。銃と男の間には正門があるだけ、距離わずか5メートル。警官たちが引き金を引けば数百の弾丸が男へと殺到するだろう。 しかし二十ならんだ銃口を前にしても大男の態度はまるでかわらない。 「なんのつもりかって? ……こういうつもりだよ!」 大男は叫んだ。そして跳躍した。二メートルの巨大が羽毛のように軽々と中を舞った。正門を飛び越えて警官隊の真っ只中に男が着地し、 殺戮を振りまいた。 すべては一瞬のうちに行われた。 まず最初のコンマ一秒。大男は丸太のような腕を時速二百キロで突きだした。筋肉の杭と化した腕は強化プラスチックの盾を紙切れのように貫徹、勢いをまっ たく現ずることなく警察官の顔面に突き刺さりヘルメットごと脳髄と頭蓋を粉砕、生卵のように砕け散った頭部が薄紅色の粥を撒き散らす。 次のコンマ一秒。太い足を振り上げて回し蹴りを放った。軍用ブーツに包まれた脚が地上一メートルの空間を時速千キロでなぎ払い、線上に存在するすべての ものをプリンか何かのように潰して弾き飛ばした。警察官の持つ盾が破砕され破片がキラキラと飛び散り、膝がわき腹に打ち込まれそのまま内臓を潰しながら身 体にめりこんで脊椎をへし折って肉を裂いて反対側から飛びだす。 つまりキックが人体を腹の辺りで真っ二つにした。ひとり、ふたり、三人が同様に瞬殺された。 次のコンマ一秒。 ここまで警察官たちはまったくの無表情だった。あまりに出来事のスピードが速すぎて「何が起こったのか」もわからなかった。しかし破砕された人体がしぶきとなって警察官たちの顔面にふりそそぎ、このときやっと彼らは「仲間が一瞬で殺された」と知った。 顔面を恐怖にこわばらせて、いっせいに銃の引き金を引いた。 ラタタタタタタ! MP5サブマシンガンの発射音はごく軽い。 二十の銃口がいっせいに鉛弾を吐き出す。大男の上半身が無数の弾丸に包まれる。 一秒、二秒経った。警察官たちが引き金を緩める。 彼らは見た。 二メートルの巨体、顔面や肩に銃弾の突き刺さった男の姿。 突き刺さっていただけだった。大男がニヤリと笑って頭を振ると、ボロ切れと化したタンクトップが剥がれ落ちる。男は上半身が裸だ。裸の身体からポロリポ ロリと銃弾が落ちた。背筋を伸ばし、腰をひねり、胸板をパンパンと叩くと、すべての銃弾が大地に落ちた。体から一滴の血も流していない。 「マッサージうまいじゃん、お前ら」 「……!」 警察官たちは唖然とする。 至近距離から叩き込まれた銃弾数百発は、この男の皮膚一枚に刺さっただけで蚊が刺したほどのダメージも与えられなかった! 「なんだ? こんなもんなのかよ? ガッカリしたなあオイ。もっとスゲーのはないのかよ?」 ぼりぼりと頭を掻き、こともなげに言う大男。 警官の一人がMP5を取り落とす。うめく。 「化け物だ……」 その一言が恐慌の引き金だった。 「ヒ、ヒィィィィ!」 「うわァァッッ」 銃を投げ出し、警官隊はいっせいに逃げ出す。 「こ、こら、まて、待たんかっ!」 隊長が部下に怒号を叩きつける。だが誰一人立ち止まらない。あるものは国道をそのまま走ってゆき、また別のものは近くの民家に逃げ込む。まるで統制が取れない。 気がつくと、隊長はたった一人で大男と対峙していた。 国道150号線の真ん中。両者の距離は五メートル。 「勇気あるじゃん、あんた?」 でかい顔にニヤニヤ笑いを張りつけて、大男が言う。 隊長は男の発する圧力にまけじと胸を張って、 「……リーダーだからな」 「だが、人望はねえな。みんな逃げやがった」 大男の浅黒い顔が嘲笑にゆがむ。隊長はギリギリと歯ぎしりをする。 「……この有様ではな」 隊長はあたりを見まわす。 周囲十メートルには赤黒い肉片が散らばっていた。真夏の日差しに照らされたアスファルトの上に、ペースト上の血肉がひろがってじりじりと熱されていた。 もちろん警察官たちは、ここまでの修羅場を経験した事などない。戦場ですらなく人間屠殺場である。 「『生き物としての格が違う』って感じだろう? だからオレは素手で闘ったんだよ」 白い歯をむきだしてニカッと笑う。 「……なめやがって」 しかし隊長は、大男の狙いが正しかった事を認めざるを得ない。拳銃一丁ナイフ一本使わず、素手で殺戮を繰り広げたからこそ絶対的な恐怖をおぼえたのだ。 「というわけで、お前たちはオレたちに勝てない。何人来ても無駄。思い知ったろ?」 しかし隊長は大男の顔から目をそらさず、精一杯の虚勢を張った。 「勝ち誇ってられる野も今のうちだ。自衛隊や米軍がきたら、お前らだって……」 「ハン! 話にならないね。原発を攻撃する度胸なんてあるわけねぇ」 「いや、必ずやってくれる……」 「威勢いいけどさ、あんた。これから自分がどうなるかわかってんの?」 相変わらずの笑顔で言われて、隊長は背筋が凍りつくのを感じた。 震える手を腰のホルスターに伸ばす。 (勝てないのはわかってる。だが、せめて一矢報いたい) 「無駄だっての、拳銃なんて。さーて、どうやって殺してもらいたい? こいつらみたいに一撃じゃつまんないよなあ? 指を一本ずつもいでくってのはどうよ? それでも泣き出さずにいられたら褒めてやるよ?」 両手を合わせてポキンポキンと指を鳴らす。 と、そのとき電子音が鳴り響く。 大男の腰の辺りから響いている。 腰の後ろに吊り下げていた携帯無線機を取り、なにやら会話をはじめる。外国語なのでまったく内容が分からない。大男は次第に苦々しい表情になってくる。 「……ちっ。命拾いしたな、あんた。『これ以上殺さなくていい』ってよ」 大男はくるりと後ろをむいて、わざとらしく屍を踏みつけにしながら去っていった。正門を飛び越えて発電所内に消える。 男の姿が見えなくなって、隊長はその場にくず折れた。 「……うう……」 涙交じりの嗚咽を漏らす。 「動けなかった……」 そうだ、彼は動けなかったのだ。 逃げなかったのは度胸があるのではなかった。体が硬直していたのだ。 あたりにちらばる骸のひとつを抱えあげる。 ヘルメットにボディアーマーの黒ずくめ、顔は若々しい。 まだ二十五歳になったばかりの若手隊員だった。子供が生まれたばかりだと語る彼の楽しそうな顔を、隊長は思い返した。 「……なにも……なにもできなかった……俺は何も……」 にらみ返して虚勢を張った、相手が見逃してくれたから死なずにすんだ、それがなんだというのだ。 自分の無力を、深く呪った。 6 ベルタは息を呑んで巨大モニターを見あげていた。 モニターの中には殺戮劇が展開されていた。高度2、300メートルからヘリで撮りおろしているため人間は豆粒のようだったが、ベルタの視力は飛び散る血、切断されて路面にぶちまけられる臓物をしっかりとらえた。 通行人たちも「死んでる」「なにあれ」「警察やられてるじゃん」「ばけもの」と心配げだ。 一瞬にして仲間の半数を殺された警察隊が、蜘蛛の子を散らすように逃げ始める。なんの統制も取れずデタラメに逃げてゆく。通行人たちも「警察が負けた」とわかったらしく「おお……」「やだ……」と失望の声をあげる。 警察官ひとりだけ残してアントンが去っていったとき、ベルタはほっと胸をなでおろした。 画面が切り替わる。青ざめたアナウンサーがスタジオで早口に喋りだす。 「……以上、上空からの映像でした。 犯人グループは常軌を逸した戦力をもっているようです。 ただいまの映像では、犯人の一人とみられる大男は、まったく武器の類を使っていません。 素手であの力です。 ……続報がありました。犯人グループからまた映像中継の要請がありました。つなぎます」 画面が切り替わり、金髪の少年カエサルと少女ドーラが現れる。 ドーラとカエサルはなにやら不機嫌そうだ。 ドーラはマイクを手にして口をひらいた。 「……みなさん、ごらんになりましたね。わたくしたちの力を。アントンにいさまは少しばかりやりすぎましたが……まあ基本的には、今のがわたくしたちの意思表示なのだと思っていただいて構いません。 つまり、交渉は無意味ということです。 あなたがたに与えられた時間はあと5時間50分。交渉のためではなく、いかに負けを認めるか、それだけのために使ってください。 ああ、いまごろジエータイや米軍が動いていることと思いますが。 空爆を行った場合、直ちにすべての炉を爆破します。原子炉5基の死の灰は、日本全土を汚染することでしょう。楽しみですね、みなさんの恐怖で引きつった顔! くすくす。 ああ、そうそう。 わたくしたちの要求はもうひとつあります。にいさま?」 ドーラが隣のカエサルに目配せする。 急に神妙な顔つきになってマイクを受け取るカエサル。 見ていたベルタは首をかしげる。 (一体何を始めるんだ) 次の瞬間、カエサルは言った。 いままでの日本語ではなくドイツ語で。 「ベルタ姉さん、見ているね?」 (……!) 衝撃が走った。目を見開いてまじまじと画面をみた。 まるで画面のこちら側にいるベルタが見えたかのように、カエサルは満足げにうなづく。 「そう。間違いなく見ているはずだ、姉さん。 これから姉さんに呼びかけます。 ……こっちに来ないか? ボクたちと一緒に闘わないか? 人間に反旗をひるがえさないか?」 とっさにベルタは叫ぶ。 「バカな!」 当然だ。あんな殺戮に手を貸せるものか。 むしろ止めたい。 画面のこちらがわにいるベルタの返答がわかったかのよう荷、カエサルは微笑みかけてくる。 「……姉さんは、うんと言ってくれないだろうね。 人殺しがしたくない、優しい人だから、姉さんは。 でもさ、ねえさん。 そうやって生きて、なにかいいことあった? 『人間を殺したくない』『戦争したくない』『平和に生きたい』 それが姉さんの願いだったよね。でもその願いはかなった? 人間社会の片隅を逃げ回って一年、きっとかないはしなかったと思うんだけど、どうかな? そんなに人間って大切かな。殺しちゃいけないって、今でも思う?」 カエサルはあくまで冷静だった。感情をあおりたてるような口ぶりではなかった。 それでも彼の言葉はベルタの胸を串刺しにした。ベルタは息を呑み、拳を硬く握り締めた ベルタの胸の中に暗く重い記憶が蘇る。 (おまえなんか道具でしかない) (信じちゃって。くすくす) (でも、ここにいるかぎり君は居場所があるよ? 実験台として生きるしかないんだよ、きみは) 「そうだ……」 ベルタのかわいた唇から声が漏れた。 「そうだ。誰も、誰もわたしを必要としてくれなかった……」 ひたすら逃げ回るだけの毎日。やっと見つけた「愛してくれる人」も、実は実験台を探していただけ。 それなのに、わたしはあの人の愛とやらを信じてしまった。 心の奥底で信じて、そして裏切られた。 (人間は、人間は……) ベルタは胸の奥底から声をしぼりだした。 「にんげんは……まだ、ころしたくない」 ぼそりとした小さい声だった。ぞっとした。その声の小ささにぞっとした。あまりにかすれて生気のない声だったのでぞっとした。そしてなにより、まるっきり嘘臭い言葉だったので背筋が凍りついた。 ベルタはうめいた。 「そうか……」 顔を伏せた。カエサルと目を合わせたくなかった。 (わたしは、もう、人間なんてどうでもいいんだ) どうでもいい。そう気づいた瞬間、胸の中の重いドロドロがはっきり形になった。 そうだ。自分はもう人間のことが好きじゃないんだ。 あたりをみまわした。駅前だから歩道を歩く多くの人がいる。 この人たちがアントンやカエサルに教われ臓物を撒き散らして死んでいく姿を想像した。まさにここに原子炉の死の灰が降り注ぎ通行人全員が血を吐いてのた打ち回って死んでゆく姿を思い浮かべた。 (……胸が痛くならない。助けたいって思わない) 愕然とした。 だが「ああ、なるほど」とも思った。 (わたしの心は折れちゃったんだ) うつむいたままのべルタに、アントンの声が降り注ぐ。 「姉さん、聞えているかい姉さん? ボクたちのところにきてくれるかい?」 (きこえてるよ、カエサル。 そっちにはいけない。参加しない。もう疲れたから。でも邪魔もしないよ。 勝手にやってくれ、テロでも爆破でも。疲れた、そう、疲れたんだ……) そのとき、ベルタのすぐそばに何かが投げつけられた。 (ん?) ちらりそちらを見た。 『少年フラッシュ』。 分厚いマンガ雑誌だ。 通行人が投げ捨てていったんだ。 なぜだかべルタの目はその雑誌に吸い寄せられた。目を放せなかった。 (……なぜだろう?) 雑誌の表紙をしげしげ見つめ、 気づいた。 『フレッシュ新人読みきり 倉本祐樹』 とくん! 心臓が高鳴った。 おのれの目を疑った。だが間違いない。 この名前をベルタは知っていた。 あのいじめられっこの少年だ。 体が勝手に動いていた。マンガ雑誌に飛びついて、拾い上げて、目次をみる。 (三一五ページか。) むさぼるように読んだ。読み切りなど五分とかからずに読み終わってしまった。もう一度頭に戻って読んだ。コマの一つ一つ、ヒロインの微妙な表情の変化に気を配りながらじっくり味わった。 目頭に熱いものがにじんだ。マンガ紙面が涙で歪んだ。 ページをめくるごとに涙が激しさを増した。くすんくすんと鼻をすすりながら、何度も涙をぬぐいながら読んだ。あたりの通行人が奇妙な眼で見ていたが、気にしなかった。 それほどの感動をあたえてくれるマンガだった。 あの日、公園で見せてくれたのと同じ、熱い物語。荒々しい描線と繊細で詩的な台詞回し。 すべてがベルタの胸を打った。 読み終わり、ページを閉じて、大切な宝物のように雑誌を抱きしめた。 「……すごい……やったんだ……漫画家に、なったんだ」 ベルタの口からかすれた声が漏れた。 そうだ。あれから一年も経っていなのに、少年はマンガを雑誌に載せた。少年フラッシュは100万部以上売れている大雑誌だと知っていた。そんな雑誌に載るなんて、どれほど努力したのだろう。泣き言ばかり言っていたあの少年が。 (闘ってるんだ) (彼は、闘ってるんだ) (私との約束をまもってるんだ。もう逃げないって) ベルタは、ずっと伏せていた顔をあげる。 岡田屋モアーズの巨大モニターが目に飛び込んできた。 モニターに映っているのは深刻な顔のアナウンサー。 「……エインヘリヤルを名乗るテロリストたちは篭城をつづけています。総理大臣は全力で解決に当たるとのコメントを発しました。なお、さきほど声明発表中にドイツ語の部分がありましたが、あの内容は『ベルタ』という人物に対して共闘を呼びかけるものでした」 ベルタはすっくと立ち上がる。 もちろん、彼らのテロに参加するためではない。 「……いかなきゃ」 声に出して確認した。小さな拳を握り締める。 「……わたし、いかなきゃ」 (彼は逃げなかった。約束を守り、闘い続けてる) (だったら私も逃げない!) カエサルたちのテロを止めてみせる。あの三人を倒す。 あたりを見回して、クレープ屋を見つけた。 「いらっしゃい」 薄汚れたベルタの風体を不審に思いながらも店員が声をかける。 「バナナクレープください。10個」 「え?」 まずは腹ごしらえだ。 気力を取り戻したとたん、猛烈に腹の虫がぐうぐう鳴りはじめた。 7 異様な姿だった。 ベルタは東名高速を走っていた。 ヘルメットもグローブもなしでバイクにまたがり、パジャマをはげしく翻し、長い黒髪を吹き流しのように乱れさせ、時速280キロで。すさまじい風にすそ はまくれ上がり、前のボタンは外れ、白いレースのブラジャーがあらわになっている。白いお腹に刻まれた形よい臍まで見えている。 操っているのは緑色のバイク、カワサキZX−12R。吊り上がった二つの目を持つ。クレープを食べてすぐにこのバイクを見かけ、奪い取った。 タンクの上にぴったりと伏せてスロットルを開けている。スピードメーターは時速280を指している。回転数計は11000、レッドゾーンまでまだ余裕がある。 灰色の防音壁に挟まれた東名高速は片側三車線、わりと空いている。時速80キロで流れている。原発テロの現場に行きたがる物好きはあまりいないのだろう。 ベルタは80キロで流れる車の流れを280キロで泳ぎわたっていった。車体を右に左にヒラリヒラリと倒して車の間を抜けてゆく。 一瞬ごとにいくつもの車が視界に飛びこんでは後方に流れて消えてゆく。運転者たちは全員、猛スピードで通りすぎるベルタを見て眼を剥いていた。スピードの速さにも驚いているだろうが、暴走バイクを駆るライダーの異様な格好にも驚いているのだろう。 耳に突っ込んだイヤホンからラジオのニュースが流れてくる。 『浜岡テロの続報です。現在、政府による犯人グループとの交渉が進められています。原発を中心に三十キロの要避難地域では地域警察を動員した住民避難が 続いており、ただいま政府が当該地域への立ち入りを自粛するよう呼びかけています。現在、新たな犠牲者はでておりません。このテロに関してネット上などで 多くの噂が流れておりますが、すべて事実無根です。冷静な対処をお願いします。……次に三時のニュースです。」 べルタは猛烈な風の中で目を細め、唇をかみしめた。 そうだ、もう三時になってしまった。時間がない。 前方に『御殿場 3km』の標識が出現する。右手に富士山が見える。すでに100キロ走った。だが浜岡まではまだ百キロある。これから海をかすめるようにして百キロ走らないと浜岡にはつかない。 (もっと早く!) べルタはスロットルをさらに思いきり開けた。 右手でスロットルをあけながら左手を後ろに回し、リアシート上に固定されたバッグからアンパンとクリームパンを取り出す。口に放りこむ。 8 それから三十分後。ベルタは残る百キロを走破した。 浜岡原発のもよりインターチェンジ・相良牧野原に到着した。 「おきゃくさん、へルメット……うわっ!」 ベルタは東名高速の料金所を勢いよく突破し、一般道へと駆け降りた。 あたりは畑の中にレストランやコンビニやガソリンスタンドが点在している。避難をはじめているのか、無人のガソリンスタンドが目立つ。 このあたりでいちばん大きな国道・国道150号線に入った。 しばらくバイクを走らせると、目の前に黒服の男たちが立ちふさがった。 青い警察のバス、迷彩色に塗装された自衛隊の装甲車が道を占領している。車両の周囲にはバイザーつきへルメットの機動隊員、迷彩服で自動小銃を持った自衛隊員がいる。 「とまれーっ!」 男たちは両腕を広げてベルタのゆく手をさえぎる。 べルタはバイクを止め、男たちに問いかけた。 「なにをしているのですか? 住民が入らないように?」 警察官がうなずいて大声で言う。なぜか彼の身体からは濃厚な血の匂いが漂っていた。 「そうだ! あんたも入るな、危険だ!」 ベルタはバイクから降りる。 「いいえ、私はいかなければいけません。その銃を貸してください」 「あんた、何を言ってるんだ?」 警察官たち、自衛官たちの目に不審の色が宿る。 当然、この反応は予想していた。 「見てください」 次の瞬間、ベルタは背中の放熱器官を展開。雪の結晶のように輝く白い翼が6枚、パジャマを突き破って広がった。 「……げ……」「同じだ……あのバケモノと……」 自衛隊員たちは反射的な動作で銃を向ける。警察官たちは恐怖と怒りのないまぜになった表情を浮かべて拳銃を抜く。 「き、きさま……」 たくさんの銃口がベルタをとらえた。ベルタは悲しげに顔をくもらせる。 「……そうです。わたしは『エインヘリヤル』。超人兵士です。あのテロリストたちと同じ生き物です」 「行かせねえ!」 警察官たちは震えていた。顔の筋肉が完全にこわばっていた。こわばったまた、それでも銃口をベルタに向けていた。 「アントンに警察のみなさんが殺されるところを、私も見ました。 でも、わたしはアントンたちの仲間ではありません」 ベルタは言って、人々の顔を見る。 警察官も自衛隊員も、まるで信じていない顔つき。 「……信じてくれないなら、仕方ありません。 でも、わたしはこれから、アントンたちを倒します。 もうこれ以上、みなさんは死なせません」 しばしの沈黙があった。 警察官のひとりが、自分の銃を差し出す。MP5サブマシンガンである。 「おい、おまえ……!」 自衛隊員が怒鳴りつける。得体の知れない奴に銃を渡すな、そう顔に書いてあった。 しかし銃を差し出した警察官は、弱々しくほほえむ。 「……俺たちには、他に頼れるものがないんだ……さあ、使ってくれ」 ベルタは微笑を返し、拳銃を受け取った。 「ありがとうございます。必ず勝ってきます」 「祈ってるよ。……あんたの名前は?」 銃を受け取り、ベルタはその警察官をまっすぐに見つめて名乗った。 「ベルタ」 9 喫茶店の店内には映画音楽が流れていた。 倉本祐樹は音楽のことなどなにもわからないくらい緊張して座っていた。 彼の目の前にはスーツ姿で首から携帯電話を下げた男がいる。編集者だ。天然パーマ気味の頭をポリポリとかきながら、紙の束を持っている。紙束にはなにやら鉛筆書きで落書きのような絵があった。 彼がもっている紙の束は、マンガの設計図とも言うべきもの「ネーム」。新作だ。 ぱらり……ぱらり…… 眉間にしわを寄せて編集者がネームをめくってゆく。 だんだん、彼が頭をかくペースが速くなってゆく。 やがて最後のページを読み終わったらしい。 バサリ、テーブルの上に無造作に投げ出す。 編集者が、にごった目を祐樹にむける。 たっぷり一呼吸の間をおいて、言った。 「……あんたさ、コレ、面白いと思ってんの?」 「いや、その……悪くないかな、なんて」 祐樹が目線をそらしながらボソボソと答える。 「悪くない。悪くないねえ。本気で言ってんのか? あのな、マンガ家の倉本祐樹センセー」 マンガ家の、というところに強いアクセントを置いて編集者は言った。彼の姿勢はイスにふんぞり返るようなものなのに、祐樹は巨体がのしかかってくるような圧迫感を覚えていた。呼吸が苦しかった。 「あのな……俺は手抜きのネーム読まされるほど嫌いなものはねえんだよ」 「手抜きなんかじゃありません」 「いいや、手抜きだ」 そう言って編集者は、ネームのうち一枚を選び出し、祐樹の前にかざす。 「このページをよく読んでみてくれ。『お前たちの怒り、オレが受け止めた』この台詞だけどさ。 いったい『お前たちの怒り』ってなにさ。敵にすげー悲しい宿命があるらしいってのは匂わせてるけど、具体的にどんな辛い目にあって、どんな風に怒ってる のかまったく伝わってこない。回想シーン書けとか、設定資料つけろっていってるわけじゃないよ。ちゃんとしたプロの作家なら、コマ一つ、セリフ一つ書いた だけでもキャラの背景にあるドラマを伝えられる。『断面』の切り取り方が上手いんだ。でも君のマンガでは、敵の背負ってる怒りが全然伝わってこない。ぶっ ちゃけて言うと作者もちゃんと考えてないんだろうな。だから、主人公の『お前たちの怒りを受けとめる』ってセリフもまるで説得力がない。ようするに、どの セリフも上っ面だけでとても薄っぺらだ。君にはこの言葉を授けよう。『単語のポテンシャルだけに頼ったセリフ回しは最低』だ」 祐樹はうろたえた。編集者の声には深刻な失望が満ち、蔑みすらも含まれていたからだ。長年のいじめられ経験のせいで、負の感情には敏感になっていた。 うろたえながら反論する。恐いので顔をあげずに、視線はテーブル上にさまよわせたままだ。 「あ、あの……で、でも。マンガ家の中には、読者置いてけぼりで思わせぶりな台詞をボンポンいわせる人だっているじゃないですか。それなのにどうして僕だけ」 編集者の「はぁ」という深いため息が、祐樹の耳に飛びこんで胸を深くえぐった。 「あのね、倉本センセー。あの人たちはプロなんだ。ちゃんと芸風を確立して、読者の支持を得ているんだ。 読者が受けいれた以上、それはオーケーなんだよ。欠点じゃなくて『味』で『芸風』なんだ。 きみはそれができなかった。俺を納得させられなかった。だから欠点だ。……顔をあげて俺の顔を見てくれ」 促されるままに表をあげる。祐樹の目前に、苦虫を100匹まとめて噛み潰したような渋い表情の編集者。 「……結果をだせばすべて許される、という事ですか」 「あたりまえじゃないか。それがプロの世界だ。それがいやだったら、いますぐにやめたってかまわないよ」 「……で、でも、前にみせた奴は面白かったんでしょ?」 「ああ」 編集者はうなずいて机の上のコーヒーカップを傾け、唇を湿らせた。 「デビュー作はよかった。構図とか仕上げは荒削りで、いかにも若いって感じだったけど……情熱がこもってた。若いし、大成すると思った。でも俺の目も曇ったもんだ。このネームにはデビュー作にくらべて100分の1の情熱もない。『やっつけ仕事』としかいいようがないよ」 「ま、まえのより悪くなってますか」 「ああ。今までのネームでいちばん悪い」 「……そうですか」 言葉につまる祐樹に、編集者は追い討ちをかける。 「あのさ、君、『俺はもうプロになった』とか言って安心してるだろ? 気を抜いただろ? ま、こんなもんかな……という気持ちで描いてるようにしか見えないんだよね」 「そうかも、しれません」 「そんな人は大勢いるんだ。『もっと、もっと、もっと……!』という執念を失ってしまった人がね。人間なんて衰えるのは一瞬だから、全力で泳ぎ続けないと同じ場所で浮いていることも出来ないんだ。それがイヤなら、漫画家に限らずモノカキを志したこと自体が間違いなんだ」 よどみない編集者の言葉のすべてが、祐樹の胸に突き刺さった。 (苦しい……) 果てしないトンネルの中を歩いているような感覚だった。山を登ったと思ったら半分も上っていなかった、という苦しみは言葉では表せない。このところ祐樹は、「どうせダメなんじゃないか?」というむなしさから逃れることができずにいた。 沈黙する祐樹を見て、編集者がいらだたしげに、 「あのさ、君のために時間を割くのも結構大変なんだ。原発テロのせいで、なんかうちの会社も避難しろって話になってるし」 「原発テロ? 何の話ですか」 「ニュース見てないのか? 変な連中が静岡の原発を乗っ取ったんだよ。あそこがブッ壊されたら東京も被爆するから、出版社も脱出しなきゃいけないんだとさ」 「見てないです、ニュースは」 「まあとにかくだ、いま決めてくれ。次こそ全力で、君の本気を見せてくれるのか。それともマンガで賞をとったのは思い出にして、『ただの人』になるのか」 祐樹、口ごもる。 頭の中で叱咤の声が上がった。「もっと頑張れ」「あんたがやりたかったのはデビューだけじゃないだろ」「短編1本載せてそれで満足なのか?」 しかしその声は唇から飛び出すことができなかった。何倍も強烈な胸の中の叫びにかき消され、圧倒されていた。 (苦しい、苦しい)(デビューしたあとは、どこに向かって進めばいいのかわからない) (でも完全にあきらめることも出来ない)(あきらめたらどんなに楽か) 祐樹、テーブルの下で、拳を握っては開き、握っては開き。目線は編集者の顔を離れ、店内をさまよう。 胸の中の叫びはついに祐樹の体全体を支配する。 真正面から、編集者の顔をみつめる。 「……やめ……」 やめます、と言い切ろうとした、その瞬間。 背後の席から、 「天使の女の子だ……」 という声が聞こえてきたのだった。 (……え?) その言葉に祐樹は凍りついた。 胸の奥に封じられていた思い出がはじける。 天使の女の子。そういわれて連想するのはもちろんベルタだ。 背後の席からは、つづいてこんな言葉が飛んできた。 「闘ってるよ、すげーすげー……」 思わず体が動いた。祐樹は立ち上がって振り向いた。 背後の席にはカップルらしい男女がいた。女のほうが携帯電話を取り出していた。ふたりで携帯電話の画面に見入っている。画面にはなにやらニュースが流れていた。テレビ機能付きの携帯なのだろう。 「み、見せてください!」 裏返った声で叫んで、祐樹はカップルの手から携帯電話を奪い取る。 食い入るように画面を見た。 小さすぎる画面なのでよく見えない。ヘリから撮り降ろした映像だった。緑あふれる中に白い建物がいくつも立っている。建物の中で、翼を生やした大男と、翼を生やした女が戦っていた。 アナウンサーの声が携帯から響く。 「……白い翼の少女は、大男を振り切って排気塔に上っていきます。排気塔の上からは激しい銃撃が浴びせられているようです。いま、ヘリが上昇しました。巻き添えを恐れてのことです。あ、少女が排気塔のてっぺんまで達しました」 二人とも豆粒のようだ。顔など分からない。しかし祐樹にはわかった。 (あれはベルタさんだ) 心臓がトクンと高鳴った。全身の血が熱くなった。 (ベルタさんは闘ってる。原発ジャックのテロリストと。ベルタさんと同じ力をもった仲間と) 立ち上がったまま、きしむほどに携帯を握り締めた。膝が震え始めた。 「……ぼくは馬鹿だ。……どうしようもない馬鹿だ」 「返してくれよ!」カップルの男のほうが罵声を浴びせてくる。 「どうしたんだ一体?」 編集者がけげんな顔をしている。祐樹の耳に二人の声はとどかない。そんなことはどうでもよかった。 (……ベルタさんは約束を守ってる。闘い続けてる。それなのに、僕はちょっと壁にあたったくらいで) 「……中田さん」 祐樹、編集者に呼びかける。自分でも驚くほど低い、落ち着いた声だった。しかしその落ち着いた声には気迫がこもっていた。 編集者も目を見開いて祐樹を見る。 「……やります。ぼく、やります。必ず書きます。もっとすごいネームを。もっとすごいマンガを。いま書きます。だから待っていてください!」 座り込んだ。傍らのカバンから紙を大量に取り出す。濃い鉛筆で書きなぐる。 真っ白い紙が、たちまち枠線と、人物の輪郭と、吹き出しで埋まってゆく。 心の中で焔が燃えていた。 この焔が消えないうちに、白い紙に焼き付けたい。そう思って書いた。 いくらでもペンが動いた。みるみるルーズリーフが絵で埋まってゆく。 10 ベルタはバイクを駆って浜岡原発の正門前にたどりついた。 そこにはアントンが待ち受けていた。 「よう」 片手をあげ、挨拶するアントン。つい一時間前に警官たちの一斉射撃を浴びたはずだが、上半身裸の肉体にはもはや傷一つ残っていない。あざも消えていた。 バイクをとめて、リアシートのバッグをはずして肩にかける。もう片方の肩には短機関銃。アントンに対峙するベルタ。 「……放送は見ました」 「じゃあ、おれたちの仲間になってくれるか?」 「これが私の返事です」 ベルタはMP−5サブマシンガンを向ける。同時に背中の白い翼を展開。雪の結晶に似た翼が、真夏の陽光を反射してキラリと光った。戦術支援電子脳を起動。 (神経パルス加速開始)(神経電流バイパス化、開始)(体感時間加速率25) 「……おまえ……なんでだよ!」 アントンが顔色を変える。こちらも背中の翼を広げた。 「そういうことなら容赦はしねぇぞ!」 アントンは叫ぶ。飛びかかってくる。ベルタはとっさにバイクに飛び乗った。スロットルを全開にする。後輪を猛烈にホイルスピンさせて突進、アントンはバ イクの前に立ちはだかり、バイクの前輪を両腕で抱え込んで止める。しかしその一瞬の隙にベルタはバイクを飛び降り、門を飛び越えて走る。 アントンがバイクを放り投げて追いかけてくる。地面を踏み散らし、時速80キロで巨体をかがめて失踪してくる。だが、ベルタはもっと早い。管理棟の入り口まであと20メートル。 その瞬間、 (戦術支援電子脳より警告 上方より高速移動物体) ベルタの磁界探知能力が危険を察知した。脚の筋肉をフル活用、横っ飛びに移動する。 銀色の光が大気を裂いて飛来、ベルタの左肩を撃ちぬいた。焼けた鉄の棒をねじ込まれたような激痛。強靭なはずの皮膚が圧倒的に強大な運動エネルギーによってやすやすと貫通され筋肉が引き裂かれる。 (損害報告 左肩に被弾。関節機能の60パーセントを喪失) 「ぐうっ……」 うめき声をもらした。それでも立ち止まることなくジグザグに走る。弾丸の飛んできた方角を見た。 管理棟の上に、白い塔が立っていた。細く高い。排気塔だ。原発内部の空気を排出する塔。目測で高さ100メートルはある。その塔のてっぺんに、人影があった。 軍服を見につけた、金髪の少年。 何やら細長いものをもっている。少年の背丈よりも長大。目を凝らす。脳の情報処理リソースを光学パターン解析に優先配分。視力が増大。銃床とスコープを 確認した。銃身の先端がT字型に広がっている。銃だ。ただの銃ではない。かつて対戦車ライフルと呼ばれ、最近ではアンチマテリアルライフルと呼ばれるもの だ。通常ライフルの二倍三倍もある弾丸を飛ばす化け物だ。 排気塔のてっぺんで閃光がはじけた。マズルフラッシュだ。べルタは飛来する弾丸を目でとらえる。上体をひねって回避。間一髪、タバスコの瓶ほどもあろうかという巨大な弾丸が頬をかすめる。あと百分の一秒遅ければ頭蓋骨を串ざしにされていた。 しかし回避に気を取られすぎていた。 背後にアントンの足音が迫っていた。後方わずか1・5メートルの距離に奴がいる。微妙な空気の震動が、こちらの首めがけて伸びるアントンの腕を教えてくれた。 (接近戦ではアントンにかなわない) (でも距離を取ったらカエサルの狙撃でやられる) (いったいどうしたら!?) べルタの心を焦りが充たした。 「えいっ!」 声を張り上げ、大地を蹴って跳躍した。エインへリヤルの跳躍は助走なしで十メートル、助走すれば二十メートルに及ぶ。ぺルタの体は軽々と宙を舞い、管理塔の屋上へと着地。 顔をあげると、そこには白い排気塔がそびえたっていた。 塔の頂点に白い光。軽くステップを踏んだ。降ってきた銃弾は大きく外れて天井をえぐるだけだった。 べルタの狙いどおりだった。上からの射撃になれば敵は頭を狙わなければいけない。格段に当てにくくなる。 排気塔に駆けよった。排気塔外側にあるハシゴを片腕でつかむ。のぼり始める。足を巧みにつかって、はねるような勢いで上った。 顔をあげて塔の頂上をにらむ。カエサルがアンチマテリアルライフルをこちらに向けていた。またマズルフラッシュ。いまベルタは梯子を上っている。逃れるすべはない。 とっさに顔の前にサブマシンガンをかざした。銃弾の飛来にタイミングをあわせて銃身を振るい、ギインと甲高い音をたてて弾丸を凪ぎはらい、はじき飛ばす。 「な……!」 排気塔の上から、驚愕のうめきが響く。まさか防御されるとは思わなかったのだろう。 だが、いまこの状況だからこそ防御できるのだ。敵は正確に頭を狙ってくる。弾道がわかっていれば対処もできる。 べルタは全力で梯子をかけ上った。頭上から矢継ぎ早に銃弾が飛来した。 べルタは顔に向けて飛んでくるものだけをはじき飛ばした。他の弾道は無視した。肩に、腕に銃弾がつき刺さり血しぶきがほとばしった。アンチマテリアルライフルの弾頭エネルギーは一万五千ジュール、サブマシンガンの三十倍。一撃で骨が砕ける。押し寄せる激痛は無視した。 「まちやがれっ!」 足元でアントンの野太い声。距離五十メートル。追いかけてきている。 (時間がない!) べルタはついに排気塔のいちばん上にたどり着いた。 外縁に片手をついて逆立ち、両脚をふりまわしてカポエラのようなキックを放つ。カエサルの持つ銃を蹴り飛ばした。アンチマテリアルライフルはくの字に曲がり、無力な鉄塊と化して落下する。 キックの勢いに押されてカエサルもバランスを崩した。百メートル下の大地に転げ落ちそうになる。とっさに腕を振るって平衡をたもち、跳躍してベルタから離れた。 べルタは体を縦回転させて排気塔の上に立った。足をつける場所は縁の部分、わずか幅十センチしかない。あとは空洞だ。高いせいか風が強かった。ねっとりと塩気を含んだ強い風に体を持って行かれそうになる。立て直した。 べルタとカエサルは、排気塔てっぺんの穴をはさんで、真正面から向かい合った。 べルタは肩、腕、脚から真っ赤な血を流している。スプーンを肉にねじ込んでえぐったような大きな破口がある。 それだけの傷を負いながらベルタは闘志を失っていなかった。腰のポーチからナイフを取り出した。パジャマ姿にはいかにも似つかわしくない、ギザギザのついたコンバットナイフ。腰を落としてナイフを構えた。 「……なぜなんだ、姉さん」 カエサルがうろたえた声でつぶやく。彼の目はベルタの顔から足元までをさまよっていた。青い瞳に驚愕の光があった。 「なぜそんなになってまで、命がけで闘うの? ボクたちに追われたから憎いの?」 「違います」 「人間が、命がけで守るに値するっての? だってベルタ姉さんも思い知ったでしょう、人間はとても汚い」 「その通りかもしれません。でも。……友達がいるんです。友達と約束したんです。逃げない。闘い続ける。いま君たちを止めなかったら、約束を破ったことになるんです」 「友達……?」 カエサルの端正な顔立ちに、いよいよ困惑の色が強くなった。 「その友達が何をしてくれたの? どこにいるの? 姉さんを助けてくれるわけでもないんでしょ? そんな奴のために……姉さんは騙されているんだ」 厳しい糾弾の叫びだった。ベルタの心に、かつて味わった裏切りの記憶、自分は一人ぼっちだと感じた辛さが蘇ってきた。辛い思い出が吹き荒れた。 しかし、拳をぎゅっと握りしめる。目をしっかりと見開き、カエサルを見つめたまま言い切る。 「……そんなことはどうでもいい。そばにいてくれなくてもいい。私を助けてくれなくてもいい。涙をぬぐってくれなくてもいい。……もう顔をあわせなくたって構わない。 ……世界のどこかで、同じように闘い続けてくれるなら……彼は友達なんだ。 だから、私は闘う!」 ベルタは叫びとともに疾駆する。 二人は不安定な足場の上にいる。先に動いたものに隙ができる。不利だ。しかしベルタには時間がない。すぐ下に、ハシゴを上ってくるアントンがいるのだ。二対一だけは避けなければいけない。 裸足の指で排気塔の縁をとらえ、摺り足で移動するべルタ。移動速度は時速四十キロ。エインへリヤルの走る速さとしては異常に遅い。足場が不安定で全力を出せないのだ。 カエサルの表情から狼狽が消えた。口元に余裕の笑みが浮かんだ。 カエサル、腰のナイフホルダーからナイフを取りだしてパチンと開く。手首を震わせて超振動を刃に送りこむ。刃の切断力が増大。逆手に握って腰を落とした。 ベルタの動きなど止まっているようなものだった。 二人の距離がナイフの間合いに近づいた。距離一メートル。カエサルは一歩踏み込んでナイフを斜め下から切り上げる。一気に首の系動脈を狙った。 しかしベルタは最後の一歩で突然加速。全力ダッシュの速度で突っこむ。カエサルが目を見張る。そんな高速では転落するのだ。目測を誤ったカエサルのナイ フが空を切る。次の瞬間、カエサルはベルタにタックルされていた。全体重をこめて抱きつかれていた。支えきれず、後ろに倒れこむ。そのまま脚が踏みはず す。軍用ブーツが空中を虚しく踊る。 カエサルとベルタは重力に捕らえられ百メートル下の地面めがけて落下を開始した。 抱き合ったままの姿勢で、わずか五十センチの距離からベルタの顔を見たカエサル。ベルタは微笑みを浮かべていた。いまこそ悟った。ベルタは最初からナイフコンバットをやるつもりなどなかった。「敵を道連れに飛び降りる」のが目的だったのだ。 高度百メートルから落下するのにかかる時間は約四秒。その四秒の間、ベルタとカエサルは激しくもつれあった。カエサルはベルタの腕を払いのけ、黒髪をつ かんで金きり声をあげ、腹にキックを叩きこんだ。ベルタから逃れようとした。しかしべルタはカエサルの腕にしがみつき、殴られても殴られても食らいついた まま、「上の位置」を取ろうとした。二人は木の葉のようにくるくると回転した。ベルタのパジャマが格闘に耐え切れず千切れて風に舞った。ベルタは下着姿になった。 ついに地面まで五メートル。ベルタはつかみあいに勝った。カエサルの両足を腕と脚でしっかりと抱え込み、頭を下にする。逆さ落としの状態。カエサルはジタバタと腕を振りまわし体をねじるが逃れる事ができない。下半身は完全に固められている。 高度ゼロ、激突。カエサルの頭が、杭のようにアスファルトの上に撃ちこまれる。衝突速度は時速百六十キロ。二人分の体重がカエサルの頭と首に集中。 ガッ! 鈍い音が響いた。血しぶきが上がる。カエサルの体の痙攣が伝わってくる。 べルタはカエサルの体をクッション代わりにして着地。 両膝の激痛をこらえて背筋を伸ばす。 目の前にはカエサルが、仰向けに倒れていた。 金色の巻き毛に覆われた頭。血が流れている。 近寄るのは危険だ。鼓動音に耳を傾けた。 (索敵・鼓動音を聴取。……鼓動あり) 「まだ生きてる……」 しかし白目をむいたままだ。強靭極まりないエインヘリヤルの頭蓋骨は落下に耐えたが、中の脳までは耐えられなかったのだろう。 念のため、カエサルのそばにしゃがみこむ。ナイフを取り上げて、両手両足の腱を切断する。これで当分は戦力にならない。エインヘリヤルと言えど腱の再生には数時間を要する。 次はアントンだ、と顔をあげた。 まったく同時に、太陽がかげる。巨大な影が降ってくる。 跳びのくベルタ。眼前にアントンが着地する。二百センチで百五十キロの巨体が地響きを立てる。 四角い顔に憤怒の形相を浮かべている。血走った眼でベルタを睨みつけ、咆哮。 「ウオオオオッ!」 アスファルトの地面が爆ぜるほどの勢いで突進してくる。 よけられない。視界をアントンの巨大な掌が埋め尽くす。胸に掌底突きを受けた。肺の中にある空気がすべて力づくで押し出される。プラスチックのオモチャを踏み潰すような音を立てて肋骨が折れた。身体が軽々と吹っ飛んだ。管理棟の壁に叩きつけられる。頭の中に火花が散る。 (損傷報告 胸部肋骨に断裂二本) 「ゲホッ……」 地面に落下する。細い身体を折って咳きこんだ。咳をすると胸に激痛が走る。両手で胸を押さえた。いまの衝撃でブラジャーが外れたらしく、小さな半球形の乳房があらわになっている。 体を起こそうとした。だが間にあわない。アントンの巨体がのしかかってきた。ベルタの上にまたがり、鼻息荒く両腕を伸ばしてくる。 天高く輝く真夏の太陽をバックに、どす黒いシルエットとなって自分を押しつぶす大男。本能的な恐怖を覚えた。ニメートルのアントンが自分の二倍三倍にも思えた。 アントンはマウントポジションから鉄拳を振り下ろしてくる。パンチ力は数トンに及ぶ。頬に硬く熱い衝撃が弾けた。 「よくも……よくもカエサルをッ! オラッ! オラッ! オラーッ!」 重機関銃のように、削岩機のように連続した打撃が振ってくる。ベルタは身をよじって拳を避けようとした。だができない。身体が怪力でガッチリと固定されている。鼻がつぶれた。顔の中心に強烈な熱さが出現した。鉄の味と臭 いが鼻腔で炸裂した。前歯がへし折れて飛び散った。口の中のやわらかい肉が裂けた。血の味が舌の上に広がった。殴られるたびに視界を火花が覆い、意識が途 切れる。 途切れ途切れの時間の中でベルタは考える、逆転の方策を。 (どうしよう。反撃できない) ズガッ (いまは殴ってるけど) ズガッ (本気で殺す気になったら) ズガッ (無抵抗で殺されちゃう) ズガッ (でも体の自由がきかない) ズガッ (頭も、ぼやけて) ズガッ! ズガッ! すでに顔が腫れあがっているのか、目も半分開かなくなっていた。口の中いっぱいに破砕された歯と生暖かい血がたまって、息をするたびにゴボリと音を立てた。痛覚は麻痺していた。 戦術支援電子脳が『意識レベル700に低下、危険』と警告してくる。 (酸素はまだ残ってるのに……) と、そこで気づいた。 (酸素?) 頭の中が一気に澄みわたった。たしかバッグの中にアレがあるはずだ。 最後の賭けだった。べルタは大声で叫ぶ。 「やめてっ! たすけてっ!」 アントンが頬のそばで拳を止める。 「……なんだよ」 「ハッ、ハッ……もう降参します。助けて……」 ゼエゼエと荒い息をしながら言う。 「何が降参だ。ゆるさねぇ。殺す」 返り血を浴びた顔で、白い歯をむきだし、凄惨に笑うアントン。 べルタはできるかぎり哀れで弱々しい声を作って言った。ゼエゼエという激しい呼吸も続けたままだ。 「わかった……苦しいから、もう、死なせて……フウッ……フゥ……ハァ……」 「おう、ものわかりがいいじゃねェか」 「でも……でも……。最後に、死ぬ前に、タバコを一本吸わせて」 意外そうにアントンが片眉を吊り上げる。 「タバコだあ? そんな趣味があったのか」 「フッ、フッ……ハァッ……わたしの、バッグに、フゥ、タバコとライターが……」 アントンの太い腕がべルタの背中に回された。べルタが肩にかけているバッグを開けてまさぐる。その間も気を抜かず鋭い目つきでベルタをにらんだままだ。 「これか……?」 アントン、リュックからタバコとライターを取りだす。 「体が動かないんです……お願い……」 涙目で訴えるベルタ。アントンはうなずいて、タバコを一本くわえさせてやる。 アントンがライターをシュッと点火、 大爆発が起こった。 指先ほどの炎しか生まないはずのライターは直径五十センチの火球を生みだした。オレンジ色の火の玉はアントンの腕を呑みこみ、ライター内のエタンガスに引火。ライターが爆発して破片を巻きちらす。飛び散った炎はアントンの皮膚の上を燃え広がる。体毛が燃えているのだ。 燃焼反応、酸化反応が促進されていた。酸素のせいだった。ベルタたちエインヘリヤルの体内には生体過給システムがあり、酸素が貯蔵されている。普通なら体を動かすために使う酸素を、ベルタは先ほどから吐きつづけていたのだ。あたりの酸素濃度を上げていたのだ。 「!?」 アントンにはそんな事はわからなかった。ただ驚愕のうめきをあげた。大きな口をあんぐりと開けた。 コンマ何秒間の隙が生まれた。べルタは見逃さない。ありったけの腕力と腹筋力で上半身を起こす。アントンの体をふっ飛ばす。続けざまに跳躍、アントンの体を飛び越えて背後を取り、 巨大な剥き出しの背中から伸びる六本の翼を、力まかせに引きちぎった。 ブチブチィ! 太い繊維の束が断裂する音。ちぎられた翼から白い蒸気が吹きだす。 「ぐああああ!」 大地を震わす絶叫をあげるアントン。 べルタは走りだした。全力疾走する。 「まちやがれッ!」 背後でアントンの絶叫。べルタは痛む体に鞭打って走る。裸足でアスファルトを蹴り、管理棟の周りを走る。屋根のあるバイク置き場に飛びこみバイクをハー ドルのように飛び越えながら走りつづける。駐車場に駆けこんだ。国産車やフォルクスワーゲンがぎっちり詰まっている。クルマの屋根から屋根へ飛び移って進 む。 (このまま逃げれば!) 放熱器官を破壊すれば、相手はオーバーヒートで動けなくなる。そのはずだ。 「クソがぁぁぁ!」 後ろから迫ってくる怒声。 ドコッ! ドコッ! パリィ! クルマの屋根がへこみ、フロントガラスが粉砕される音だ。 べルタの背筋が冷たくなった。すでに五メートルくらいの距離に近づいている。 (間に合わない? 先に私がやられる?) 駐車場のいちばん端にたどり着いたそのとき、べルタの首に激痛が走る。首根っこをつかまれたのだ。『グキィ!』『ミチミチッ!』首の骨が軋む音、首の中の脊髄が圧迫される音。 「ウォォォォォッ! オォオォォウウウッ!」 すぐ後ろでアントンの雄叫び。もはや人間の言葉ではなかった。 べルタの両足が宙に浮いた。体が持ち上げられた。目に映るのは白い排気塔と真っ青な空だけ。両足をジタバタさせる。だが地面につかない。ごつごつした太い指が首の前に回ってくる。喉をしめあげてくる。 アントンの握力は五千五百キロ、ベルタのパワーの約五倍に及ぶ。岩をも砕く力で指が喉に食いこむ。気道が圧迫される。息ができない。視界が暗くなった。意識が遠のいてゆく。 (……死ぬ? 私は死ぬ?) ふいに首をしめあげる力が弱まった。最後の力を振り絞って頭を振りまわす。指がゆるんだ。べルタは落下する。地面に尻もちをついた。ゼェッと激しい呼吸をして、とっさに立ち上がり、アントンから距離をとって身構えた。 ……身構える必要はない、と気づいた。 アントンは止まっていた。片腕を天に伸ばして何かをつかむ姿勢のまま、彫像のように硬直していた。顔が茹で上がった蛸のように真っ赤だった。上半身がまるごと真っ赤だった。鼻や口から湯気を吹いていた。青い目は焦点がまったくぼやけ、死んだ魚のように濁っていた。 耳を澄ます。しかしアントンの心音は聞こえない。呼吸音もない。 オーバーヒートだ。エインヘリヤルは人間よりもはるかに高い体温に耐えられるが、それでも体温四十五度を超えれば脳の活動が低下し、六十度を超えれば筋肉のタンパク質が凝固して死に至る。 ベルタ、アントンの顔を見つめて手を合わせる。 (ごめんなさい) 目を閉じ、心の中で謝罪。 (天国は信じないけど、でも、安らかに眠ってください) 目を開いたそのときには、もう彼女の表情から悲しみが消えていた。眉をきりりと戦闘体勢。 アントンの腰につけられた無線機を取る。 「……応答してください。こちらはベルタです」 無線機で呼びかける。ザザッというノイズが混じって、驚きの声が伝わってきた。女の声だ。 「あ、あなた……ベルタ? どういうこと?」 「どういうこと、ではありません。あなたはドーラですね。アントンは倒しました。カエサルも倒しました。残るは貴方一人です。さあ、いますぐ降伏してください」 12 ドーラは管制室で無線機を手に震えていた。 怒りと焦りのためだ。 (二人もいたのにやられるなんて) 「……こちらドーラ。降伏はしません」 きっぱりと言い切る。無線機の向こうから、ため息がきこえてきた。 「はあ……たった一人で、何ができます? お願いです。降伏してください。闘いたくないんです。いま降伏すれば、なんとか死刑を免れることも」 ベルタの声は真剣だ。ドーラは心の中でせせら笑った。 (ばかばかしい。いまさらやめると思ってるの? なんて甘い) 「ベルタ姉さま。あなた、なんにもわかってませんのね。わたくしたちの戦いは、復讐のようなもの」 「……人間をたくさん殺すこと自体に意味がある、そういうことですか?」 「わかっているじゃありませんかベルタ姉さま」 返事は返ってこなかった。 (きっとベルタはわたくしを止めに来る) (今度こそ勝つ) ドーラは管制室の中央に立ち、モニターに表示される原子炉の各種データを見ながら、自分の装備を確認した。 自分は迷彩服を着込み、手にしているのはG3アサルトライフル。そして腰のナイフホルダーには大型のコンバットナイフ。背中には背部放熱器官を広げている。 べルタの武装はどうだろう? 果たして勝てるか? 2対1の状況で勝ったベルタは、いったいどんな作戦を使ったんだろう? だんだん恐ろしくなってきた。 (恐れるな。震えるな。わたくしは最強のエインヘリヤル) (筋力、反射速度、すべてのスペックでベルタを三十パーセント以上凌いでいる!) だがそれでも恐怖はなくならなかった。 やがて壁の向こうでコツッという足音。廊下に面している壁だ。 ズガガガッ! 足音の方角にG3ライフルを向けて射撃。壁をぶち抜いて弾丸の嵐を叩きこむ。連続十発。横に薙ぐ。薄いベージュの壁に規則正しく円い穴が穿たれた。 しかし悲鳴が聞えてこない。人間が倒れる音もしない。手応えなし。 (……どこにいるんです?) ドーラの額を汗が伝った。 次の瞬間、ズガン! 入り口の扉が開け放たれた。ふっ飛ぶような猛烈な勢いだった。とっさに扉に銃口を向ける。なにか人の形をしたものが飛びこんでくる。引き金を引いた。銃弾がほとばしり、「何物か」をめった撃ちにして、「何物か」は電撃に撃たれたように手足をバタつかせて転がる。 ドーラは気づいた。 「に、にいさま?」 転がりこんできたのはアントンだった。物言わぬアントンの亡骸を放りこまれたのだ。 むきだしの真っ赤な上半身にライフル弾を突きたて、アントンは天井を見上げる形で横たわっていた。うつろな目が、まるでドーラを責めているようだった。 「……っ!」 兄を撃った。短い人生のすべてを共有してきた兄を。ドーラは一瞬だけ判断不能状態に陥る。ドーラの頭上を黒い何かが横切る。『え?』と当惑し、戦術支援電子脳が最大級の警報を発する。 全力で身体をひねって振り向く。 背後に、満身創痍のベルタが降り立っていた。 ナイフを抜いてかまえている。ひどい風体だ。身につけているのは白いレースのパンツのみ。肩と腕と腹に10ヶ所以上、大きな傷痕がある。傷痕に血の塊がこびりついている。小さな乳房の間には青黒い痣がある。顔面が無残に腫れ上がっている。目を大きく開けることもできないようだった。 しかし、薄く開けられた眼には鋭い光があった。 とっさにドーラは銃を向ける。判断ミスだ。距離一メートル、銃の間合いではない。ベルタの脚が電光のように跳ね上がる。ふたつはまったく同時、引き金を引くよりも早くベルタの脚がライフルを蹴り飛ばし、飴細工のように捻じ曲げて天井に吹き飛ばす。 (ちっ!) 次の動作でドーラは腰のナイフホルダーからナイフを取り出し、間合いを詰める。 ベルタの脚が迎えうった。先ほどの蹴りで高く振り上げられた脚が大気をつんざいて落下、途中で軌道を変えてムチのようにしなりながらドーラの顔面に襲いかかる。 襲い掛かる横凪ぎの蹴りを、身をよじり、ギリギリのところでかわす。頬の表面ほんの二センチほどのところを裸足の甲が通過、風圧が頬をえぐり、歯をきしませる。 (なんです、この力強さ?) 当惑した。ズタボロの姿からは想像もできない。 (かまいません、攻めるのみです!) ドーラはナイフを握り、ベルタの心臓めがけて一突き。相手はキックの途中、よけられないはずという計算があった。 だがベルタは後方に飛んで回避した。軽やかな動きで、イスの背もたれの上に着地。飛び降りて、またナイフを構えなおす。 ドーラは踏み込んだ。距離を詰め、矢継ぎ早にナイフを突き出す。腕を切り落とそうとなぎ払う。 ドーラはたった4.3秒間で25の斬撃、18の刺突を浴びせた。 その全てが防御された。ベルタは身体をほとんど動かさずナイフの動きだけで受け止め、横からつついて軌道をそらしている。 (そんなはずありませんわ!) やっきになって手数を増やす。機関銃の勢いで突きまくる。しかし壁でもあるかのように止められた。 (どうして当たらない? わたくしのほうが高性能なのに!) 筋力も反射神経も自分が三十パーセントは上のはずだ。現にベルタがナイフをひらめかせる速度は遅い。それなのにこちらの刃を確実に受け止める。まるでこちらの動きがすべて先読みできているかのように。 ベルタが反撃に移った。攻撃は重く、鋭かった。全身を使った斬撃を、狙いすまして放ってくる。ナイフで受け止めようとしたがスルリと抜けられ、あわてて飛びのいて回避した。首筋に汗が浮かぶのを感じる。 (なぜ? なぜ?) カカトが壁に当たって愕然とする。いつのまにやら追い詰められていた。 「な、なぜ……」 どうして新型の自分が? 困惑と焦りが、ついに台詞となって口から転がりだした。 ベルタはナイフの切っ先を素早くひらめかせながら、短く叫ぶ。 「経験の差です!」 そうだ。ドーラは作られたばかりで実戦経験がない。ベルタにしてみれば、動きが早いだけで単調なのだ。 「くっ……」 しかし、あきらめるつもりはなかった。誰が降伏などするものか。 (……わたくしにはまだ奥の手がある。) ドーラは脳のいちばん奥底に呼びかける。 (目覚めよ、黄金なる蛇海) 頭の中で戦術支援電子脳が冷徹な声を発する。 (白兵戦支援兵装『黄金なる蛇海』起動) ドーラは全身から力を抜いた。肩を落とし、両腕をダラリと下げる。ベルタの眼に当惑が浮かぶ。しかし振り上げたナイフは止めない。ドーラの肩めがけて突き入れる。 そのときドーラの髪、背中まで伸びる黄金のウェービーヘアーが、生き物のように波打った。猛烈な勢いで重力に逆らって持ち上がり、べルタの身体に巻きつく。手首、足首を捕らえた。突き刺さる寸前でナイフが止まった。 「な……」 自分の体を見回し、眼を見張るベルタ。彼女の知らない攻撃だった。 新型であるドーラには、白兵戦能力を高めるために支援兵装・随意頭髪が装備されている。彼女の髪は全てが静電誘導マイクロモーターで駆動される腕なのである。 べルタは髪の力がさほど強くないことに気づいたらしい。ぐっと力をいれ、身体を拘束する金髪の触手を断ち切った。しかし、あとからあとから髪は襲ってく る。何十何百の細い触手となって四方八方から殺到する。ナイフでなぎ払い、手で引きちぎり、しかしすべては食い止めきれない。 髪の毛数十本からなる細い金色の触手が、ナイフの刃をかいくぐってベルタの眼に飛びこんだ。眼球の裏側に回り、糸ノコギリのように視神経を切断する。ベルタの顔面がひきつったのがドーラにはわかった。眼の焦点が合わなくなった。目から真っ赤な血の涙が流れた。 これこそが随意頭髪の正しい使用法である。しょせん髪の毛の力は筋力に及ばない。腕にはできないこと、「狭く柔らかい場所への侵入」に使うのが正しいのだ。侵入し内部から破壊する。 (視力を奪った! 圧倒的優位です!) ドーラは勝利を確信した。口元をほころばせた。だがその笑みが凍りつく。 視力を奪われてもべルタはひるんでいなかった。それどころか突進してきた。両目から血涙を流しながら、コンバットナイフを腰だめに構えて体ごとぶつかっ てくる。視力も必要としない大雑把な攻撃。しかしよけられない。十万本の随意頭髪を自在に操るのは大変な作業で、脳の処理能力を使いきってしまう。髪を 使っている間は体をまったく動かす事ができないのだ。ぎりぎりまで随意頭髪を使わなかったのは致命的な欠点があるからだ。 (ならば攻撃あるのみです! 脳深く突き刺して! 前頭葉を切り刻んであげますわ!) 頭髪に指令を送りこむ。髪がうごめき、眼窩の奥深くにもぐりこみ、 間に合わなかった。体当たりされた。腹部に深々とコンバットナイフの刃が食い込む。超振動を帯びた刃はやすやすとドーラの皮膚を貫通し腹筋を切断する。ヘソのあたりに灼熱の感覚が生じた。腸が切断され中身のはじける感触。 (損害報告 下腹部に負傷。内臓機能代謝機能に35パーセントの低下) 激痛のあまり体を折った。突進の勢いを受け止めきれずにそのまま倒れこむ。転がる。椅子の上に転がりこんで椅子を粉砕し、破片をまきちらして転がる。壁 に背中がたたきつけられた。いまドーラは壁にもたれかかるような姿勢だった。体の上にベルタが覆い被さっていた。ふたりの体は一本の刃で接続されていた。 ドーラの顔のすぐ前にはベルタの顔があった。青黒く腫れあがり両の眼から血の涙を流す顔。乱れた黒髪がすだれのように顔を覆っている。それでも口元にだけ は笑みが浮かんでいる。 (恐ろしい) 理解を超えたものに対する本能的な恐怖がドーラの思考を麻痺させていた。激痛が麻痺に拍車をかけた。 だから反応が遅れた。髪を動かすべきか手足を動かすべきか迷った。一瞬の迷いは致命的だった。真下からベルタの肘が打ち上げられた。密着した状態。かわしようがない。顎の先端に思いきり肘うちを食らった。首が勢いよくスイング。視界が思いきりゆれる。意識が闇に落ちた。 13 ベルタはドーラにのしかかった姿勢で、漆黒の闇の中、満身の力をこめて肘打ちを放った。眼が見えなくても問題はない。重い感触が腕に伝わってくる。みごと顎にヒットした。脳震とう必至の一撃だ。 ベルタの目につき刺さってうごめいていた髪が、そのとたん動きをとめる。片手でつかんで一気に引き抜いた。ドーラの体が急にやわらかくなる。手を伸ばしてドーラの顔面を撫でさする。反応がない。呼吸はしているが、どうやら気絶したようだ。 立ち上がる。自分の顔を撫でた。指に血がまとわりついてくる。眼から下がすべて血涙に覆われているようだ。 (なんとか勝った……) ほっと一息。すぐに自分の頬をたたいて気合を入れる。 (まだやることはたくさんある。武装解除、原発を止める) ドーラの体の上にしゃがみこんだ。ナイフを腹から抜いて、髪の毛をつかんで切り落とす。完全に武装解除しなければだめだ。 ドオン! 爆発音が響いてきた。すぐ近くの音ではない。何枚もの壁を越えて伝わってきた音だ。 心臓をつかまれたような衝撃。 (あの音は何!?) ドーラの首根っこをつかんで揺さぶった。焦りのにじんだ声を叩きつけた。 「おきてください! 起きなさい! あの音は何?」 「くすくす…くすくす……」 ドーラが眼を覚ましたらしい。闇の中から笑い声が響いてくる。鈴が転がるような可憐な声だけに、嘲笑が際立つ。 「どういうことです! いいなさい」 「くすくす……いわなくてもわかるでしょう、ベルタ姉さん。あれは原子炉の配管が破裂する音ですよ。方角からして1号炉かしらね」 「なっ……」 「ばかなベルタ姉さん。わたくしを倒したくらいでいい気になって。とっくの昔にわたくしたちは原子炉を暴走させていたんですのよ」 「止める方法を教えなさい!」 そう叫びながらベルタは四方を見回す。もちろん見えるのは闇だけ。あたりにはコンソールが並び、原子炉の状態を制御できるはずだが、眼の見えないベルタはどうすることもできない。 「い・や・で・す・わ。誰が教えるもんですか。拷問したって無駄ですわよ。こうなった以上、みんなを道連れに死ぬつもりです。ああ。わくわくします。人間たちが放射線まみれになってひとりまたひとりと血ヘドを吐いて。くすくすっ」 ドーラの声は高揚感に満ちていた。潤んだ瞳を宙に向ける姿が脳裏に浮かぶほどだった。 「というわけで、せいぜい絶望なさい!」 戦慄にふるえるベルタ。ここには五基もの原子炉がある。自分一人ではすべてを止めることなどできない! 14 祐樹は喫茶店でうつむき、一心不乱に鉛筆を走らせていた。 彼の目の前にはネームのかかれたルーズリーフが乱雑に散らばっている。100枚はあるだろうか。テーブルの隅にはアイスミルクティーのグラスもあるが、まったく口をつけずに放置され、中の氷もすべて溶けてしまっている。 「な、なあ」 向かいあって携帯電話をいじっていた編集者が、やや戸惑ったような表情で問いかける。 「なんですか?」 「ネームの量、妙に多くないか? バージョンちがい?」 顔をあげることもなく祐樹は即答する。 「いえ、それでひとつの漫画です。だいたい200枚くらいになると思います」 「に、200枚? 読み切りを頼んでるんだぞ?」 「でも、とまらないんです。キャラクターたちが、場面が、次から次へと浮かんできて。あれをやらせろ、あれをしゃべらせろって」 「そういうのはたいてい、一人よがりなんだがなあ」 いいながら編集者、ネームを2、30枚ばかりまとめてつかんで読みはじめる。 「……これ……」 「面白いでしょう?」 祐樹は一時間ぶりに顔をあげた。不安など微塵もない挑戦的な微笑み。編集者は大きくうなずき、次の瞬間ばつが悪そうに苦笑して、 「……まあ、なんだ。悪くないな」 「すごい面白い、って顔に書いてありますよ」 「生意気いうじゃないか。ははっ」 声を立てて笑った瞬間、編集者の携帯が着メロを奏でる。 「はい。中田です。ああ、いま喫茶店です。新人を見てやってるんです……えっ」 急に彼の表情が引き締まる。眉間に深いしわが刻まれた。 「間違いないんですね? 煙が? 二百キロ圏内でしたっけ? わかりました、いますぐ戻ります」 通話を終えた彼は、携帯電話をガツンとテーブルに置き、 「倉本くん、そのへんでやめてくれ」 沈痛な声色で言う。 「え……どうしたんですか」 「いま編集部から電話があった。例の原発、煙を吹いてるそうだ。もうすぐメルトダウンがはじまる。浜岡から東京まで二百キロだから、逃げないと被爆する。俺はいまから会社に戻る。君も逃げろ。全力で、北へ」 祐樹の心臓が跳びはねた。 (原発がメルトダウン? じゃあ、ベルタさんは負けたっていうの?) 「ベルタさんは……戦いに行った黒髪の女の人がいるでしょう、あの人が負けたんですか?」 「いや、俺も直接は見てないが……」 「まだわからないんですね? ベルタさんが死んだか、まだわからないんですね?」 「ま、まあな」 「それなら大丈夫です。きっとベルタさんならメルトダウンを止めてくれます」 15 メルトダウンを何が何でも止めるつもりだった。 まず無線機を手さぐりで操り、外に訴えた。 『こちらベルタ、すでに原子炉は暴走! 私が止めます、専門的な助言者をそろえてください!』 そして管理棟の外に出た。道を覚えていたとはいえ、手さぐりと音に頼っての移動はひどくまどろっこしかった。行きの二倍の時間をかけて外に出た。 すると入り口の前に人の気配があった。鼓動音と呼吸音、服の衣ずれ、銃器の接触する音。10人以上いる。 警察と自衛隊たちだ。 「どうしたんですか、みなさん! 逃げてくれって言ったじゃないですか」 ベルタは非難の言葉を投げつける。即座に起こった声が返ってきた。 「冗談じゃない! あんただけ戦わせて逃げるなんてできねえよ!」 「あんた、ひどい格好じゃないか」 ハンカチがベルタの顔に当てられた。誰かが顔の血をぬぐってくれている。 「よ、よけいなことはしないでください」 「あんた、もしかして眼が見えないのか?」 「はい、不覚をとりました。でもメルトダウンはわたしが止めます」 誰かにがっしと両肩をつかまれた。息がかかるほどの距離で声が叩きつけられた。 「……悲しいこといわねえでくれよ……俺たちにも手伝わせてくれよ」 「しかし、原子炉の中は放射線が……」 「わかってる、わかってるよ。死んだっていいんだよ。……俺はあのデカブツが攻めてきたとき、部下を殺されても何もできず震えてるだけだったんだよ……腰抜けだったんだよ……腰抜けのままじゃいたくねえんだよ」 ベルタはようやく、この男が誰なのか気づいた。警察部隊を率いていた隊長だ。 「せめて放射線防護服が来てから」 「そんなの待ってる暇はないんだよ、原子炉は五基もあるし数が足りないんだよ。わかってるだろ?」 ベルタ、沈黙した。 「……わかりました。ではみなさん、わたしの血を吸ってください」 ナイフを抜いて両方の手首を切る。血が流れ出す。手首をそろえて突き出した。 「ど、どういうことだよ?」 「わたしの血を吸い、肉を食らえば、肉体が変異して強い生命力が得られます。放射線を防ぐことはできませんが、死ぬまでの時間を伸ばすことはできるでしょう」 言ったとたん、両の手首に歯の立てられる感触。 (一瞬の躊躇もなく、わたしの血をすってくれる) (化け物って言われた、このわたしを) ベルタの心に不思議な感慨がひろがった。いまこの場にいるものたちは、間違いなく一体の存在、仲間だった。 広がった感慨は静かな喜びになった。いまや心に焦りはない。かならずできる、という安心感がある。 「やりますよ、みんな!」 「ああ!」 16 ベルタは扉を開けた。蒸気渦巻く場所に踏みこんだ。 たちまち熱風が全身を包む。皮膚と髪が二百度を超える熱さにあぶられる。 頭の中で戦術支援電子脳が冷たい声で警告する。 『体表温度210 筋温度40 ただちの冷却を要す』 最後まで残っていたレースのパンツが、高熱に耐えられず燃えあがる。 周囲は蒸気で白くにごっている。豆スープのようなにごった白さの中に銀色の塊がうずくまっている。直径6メートル、銀色の塊からはたくさんの管が伸びている。管はブルブルと震えて断続的にプシュ! プシュ! と白い蒸気を噴出している。圧力容器の蓋部分だ。 どのみちいまのベルタに視力はない。ベルタの聴力が「プシュ!」の反響を捕らえる。頭の中に立体図を描き出す。今いる部屋は幅十メートル高さ三十メートルの箱型。真中に巨大な金属の塊 べルタは足場から飛び降りた。圧力容器の直径は六メートル高さ二十五メートル。白い蒸気の渦の中に体を躍らせ、圧力容器の一番下まで落下。 体をかがめて圧力容器の下にもぐりこむ。容器の底は身長の五倍はあろうかという金属の曲面で、黒い金属の棒が何本も這えていた。制御棒の駆動装置だ。細い手で黒い棒をつかんだ。 「……筋肉出力全開。生体ヴァルター機関、戦闘出力」 拳を握ってつぶやく。頭の中で電子脳が『了解。酸素残量八十五パーセント』と告げる。胸の中に貯蔵された酸素がベルタの全身に行き渡る。筋出力最大。 『汎用型エインへリヤル』であるべルタは握力八百五十キロ、背筋力七千二百キロ。ありったけの力で黒い棒を握りしめて引きちぎり、へし折った。 すべての油圧装置を排除した。あとには、一回り細い棒が残った。圧力容器の底に生える二十四本の棒。これが制御棒だ。この棒をのこらず炉心に突っ込めば反応は止まる。 『警告。筋温度、血液温度上昇。四十五度突破。ただちに退避せよ』 脳の中で響く声を無視して、制御棒の一本を握る。 ジュウウ! 制御棒は炉心の熱をモロに吸収し、赤熱していた。ベルタの掌が焦げる。 (この程度、なんだ!) 痛みをこらえて押し込んだ。動かない。 (熱で変形してる。溶けて、容器に貼りついている!) 容器の底面にしがみつき、全力で押しこんだ。なんとか入った。一番奥まで入れる。一本、また一本。 だが、三本目を挿入したところで爆音が轟く。圧力容器の上部で爆発が起こった。いままでの数倍する熱気が押し寄せてきた。皮膚という皮膚が焼けただれた。 『警告。筋温度、血液温度上昇。五十度』 『警告。放射線による代謝障害が活動限界を突破』 『警告』『警告』 頭の中に連続して何十もの警報が鳴り響く。その全てを無視して、掌の触覚だけに意識を集中して、制御棒を押し込み続けた。五本、十本。もう意識も朦朧としている。最後の一本、どうしても動かない。筋肉繊維が過熱して力を発揮できなくなっているのだ。 『ベルタさん』 倉本祐樹の声が脳裏に響く。 『もう、ベルタさんは頑張ったじゃないか。もういいよ、もう休んでいいよ』 柔らかく優しい声。だがその言葉をきいてベルタの胸の中で焔が燃え上がった。 (だめです。もうひとがんばり。だって、約束したから) 『もういいじゃないか。死ぬほど頑張ってるのに』 (だめ。……いまわたしは、やっと、ひとりじゃないって思ってるから。ずっとずっと求めてきたものがここにあるから。だから……) すでにベルタの筋肉と血液は凝固温度に達していた。動けるはずがなかった。だが一度だけ動き、最後の制御棒を炉心深くに叩き込んだ。 すでに五感はきかなくなっている。結果がどうなったのかは分からない。 ベルタは微笑を浮かべた。全身から力が抜ける。意識が遠のいていった。 エピローグ ベルタさんの美しい顔を見ながら、私はとりとめもない物思いにふけっていた。 彼女とすごした、短いが楽しかった日々。その後、机にかじりついてマンガを書いたこと。原発ジャック騒ぎ。漫画家としての人生。 肩にどん、と、中年女性のバッグが当たった。我に返った。 窓から差し込む日の光はすっかり夕焼け色になっていた。来たのが十四時ごろだから、私は三時間ほどもベルタさんを見つめ続けていたことになる。 「先生! 先生! あ、やっぱりここにいた!」 背後で若くて明るい女性の声がはじけた。アニメで元気な少年役を演じていそうな声だ。 振り返ると、スーツ姿の小柄な女性が肩で息をしながら立っていた。 「やあ、きみか。こんにちは」 私はうやうやしく挨拶する。この女性は、ついこないだ私の担当になったばかりの編集者だ。大学を出たばかりだという。 彼女は私の挨拶をきいて一瞬きょとんと眼をしばたたかせ、ついで唇を尖らせてツンツン怒り出す。 「こんにちはじゃないですよ! いまが大事な時だってわかってるんですか?」 「ああ、わかってるよ」 「じゃあ、どうしていきなり行方不明になるんですか! この五週間ずっと人気が下がりっぱなしなんですよ。なんとかテコ入れしないと栗山先生みたいに第一部完ですよ?」 「わかってる、わかってる」 私は苦笑して軽く手を振った。 あれから二十年、私はなんとかいまだマンガを書き続けている。ベルタさんが面白いと言ってくれたマンガを、なんとかあきらめずに書き続けている。一度だ け、アニメ化されるほどのヒットを飛ばした。ひどく人気が落ちた時期もあって、雑誌もなんどか変わった。ついこないだ、古巣の少年サンダーに帰ってきたと ころだ。いまの少年読者は私のマンガが楽しめないらしく、ネットの話題にはなってもアンケートの良さには繋がっていない。 私があまりに軽く言うので、彼女は不審に思ったらしい。眉間にかわいらしいシワをよせる。 「まさか先生……今回のはもういいやってことで、あっさり打ち切って次ですか? そんな気持ちなんですか? あの、そんな考えでしたら、ダメだと思います。わたし、若造ですけど、言わせてもらいます。今目の前のことに全力出せないのは、ダメです! 逃げてるっぽいです!」 まるでベルタさんが言いそうな言葉だと思った。軽く噴き出してしまう。 「ひ、ひどい! なんかわたし、へんなこと言いました?」 動揺半分怒り半分、といったふうの編集さん。私は頭を下げた。 「すまなかった。ただ、いまの台詞が、昔の知り合いに似ていて」 「昔の知り合い?」 首をかしげる彼女。私は無言でベルタさんを指し示す。 「え……え、……ええーっ。この人と知り合いだったんですか!」 「ああ。とても短い間だけ」 「どんな人だったんですか?」 「そうだね。強くてたくましい女性で、でもさみしがってて、甘いものが大好きで……そうそう、おしゃれにあこがれてた。でも慣れてなくて、おしゃれをすると恥ずかしがるんだ」 「まるで……ふつうの人みたい」 「そうさ。ベルタさんは、ふつうの人だ」 私と彼女はそろってベルタさんを見上げた。 「……これ、死んでいるわけではないんですよね?」 「ああ。違う形の生き物になっただけだ」 原発が止まってから何年もたってから、調査のために炉心に人が送り込まれた。彼らが見たのは、全身が真珠のようになって固まっているベルタさんの姿だったという。 死んだのではない。高熱と放射線という新しい環境に適応して、エインヘリヤルの細胞が変化を起こしたのだ。ほとんど死に近い状態でゆっくり生きる生物へと。 「意識は、ないんですよね?」 「ないといわれているが、脳波測定では分からないこともあるからね。とてもゆっくりものを考えているのかもしれない。私は三時間も立っていたから、見えたかな?」 彼女は口ごもった。 私は彼女の小さい肩をポンと叩く。 「さあ、もう帰ろう。心配させてすまなかった」 「原稿は? 次回はどんな話にするんですか? もうアシスタントに考えさせるのはダメですよ?」 「わかってる。自分で考えるさ。いいのができそうなんだ」 私は軽く手を上げて、ベルタさんにひとまずの別れを告げた。 彼女と肩を並べて、出口に向けて歩き出す。 (さあ、今日からまた、がんばるぞ) 技術は進歩している。いつかベルタさんは蘇るかもしれない。 そのとき私は、胸を張って「おかえりなさい」と言いたい。 だから私は、約束を守り続ける。 おわり |