泣き虫兵器ベルタ

 第1章 君、微笑んだ夜

 1

「ベルタ、これより第一種試験を開始する。全力運動を許可する」
 壁面のスピーカーより声が発せられる。
 ベルタは整った白い顔に、ぱっちりとした黒い眼に緊張を浮かべていた。
 すでに彼女は2回、このテストで失格している。今度こそ成し遂げなければいけない。
 ほっそりした身体を野戦服に包んでいる。G3アサルトライフルを汗ばんだ手で握り、円盤型の空間の真中に立っている。円盤の直径は100メートル、高さ 5メートル。天井に埋め込まれた蛍光灯の白い光が、コンクリートむきだしの内壁を照らしている。床と壁には無数、何万もの弾痕がうがたれている。
「了解」 
 短く答え、ベルタは銃を握る手に力をこめた。ついで口の中で小さく呟く。
「背部放熱機関、展開」 
 背中の筋肉が盛り上がる。背中のスリットから翼が飛び出す。真っ白い、雪の結晶のように白い翼。よく見れば葉脈のような構造を持っている。三対、合計六 枚。
「生体過給システム、起動準備」
 また呟く。同時に胸の中で熱い塊が弾けた。胸部に蓄積されていた酸素が解放される。
 頭の中に戦術支援電子脳の冷たい声が響く。
 『背部放熱機関展開完了。生体過給システム、戦闘出力。全力運動可能』
 天井のスピーカーが「試験開始!」と告げ、床の各所がパカリパカリと開いた。飛び出してきたのは2脚の支えられたアサルトライフルとサブマシンガン。合 計6丁、ベルタの前後左右を囲むように。
 そして発砲。空洞内を銃声の大合唱が重苦しく満たし、ベルタの体に銃弾が殺到。
  『神経パルス加速開始。倍率50』 
 時間が急減速した。自分以外のあらゆるものがスローモーションに見える。ベルタの瞳は襲い来る銃弾を捉えていた。銃弾が空気を裂いて放つ衝撃波さえも感 じられた。銃弾の回転が見えた。空気が粘ついて感じられる。空気の抵抗をかきわけるようにしてベルタは踊る。ごついブーツで右に左にステップを踏み、腰を ひねって首をひょいと曲げて、軽やかに体を回転。野戦服に覆われた腕や肩をライフル弾がかすめる。五発、十発。二十発。すべて数ミリの差でよける。高速運 動した肉体が猛烈な熱を生み出し、背中の翼が排熱する。酸素を求めてあえぐ筋肉に、胸の生体過給機関が酸素を供給する。一秒、次の一秒、すべての銃弾はむ なしく空を切って、ベルタの周囲の床面に突き刺さりコンクリートの破片を撒き散らし、
「よし! 中断!」
 天井のスピーカーが野太い声で告げる。
 自動小銃はすべて停止。
 ベルタの体も、バレエダンサーのように片足をすっと上げた状態で停止。
 『神経パルス加速中断』
 『コンディションチェック。酸素残量98パーセント。筋温度39。脳温度40。心拍115。平常値内』
 ベルタ、片足を下ろす。
 銃を体の前に構えて自然体で、次の指示を待つ。
「第2試験、射撃」
 床から突き出していた銃がすべて引っ込んだ。かわって瞬間的に、数十ものターゲットが飛びだす。右に左に前後に、近くは5メートル遠くは40メートル、 形は円形あり人型あり。急激な勢いでターゲット群は動き出す。右に左に前後に、ランダムな動きだ。
 『神経パルス加速再開。倍率42』
 ベルタ、G3アサルトライフルを肩の高さで構えた。引き金を引いて、そのままくるりと体を一回転。
 連続した銃声がはじけて空洞内に広がる。ターゲットが次々に撃たれて倒れる。
 しかしベルタの動きが途中で止まった。
 アサルトライフルの銃口をターゲットに向けたまま、動けない。体が震えだした。銃口も震えている。
 『神経パルス加速中断』
「どうした、ベルタ、撃て」
 天井のスピーカーが叱咤する。
「できません……」
 かぼそい声でベルタは訴えた。
 彼女の眼は、銃口の先、最後に残ったターゲットに向けられている。
 最後のターゲットは、犬だった。
 皿の上に載った、ジャーマンシェパード。
 銃声が恐ろしいのか、体を丸めて尻尾を倒している。黒いくりくりした眼をベルタに向けている。
「撃て!」
「できません!」
 叫んでいた。そして彼女はうなだれた。頬を涙が伝った。
 壁面のドアが開いた。
 白衣姿の老人が一人、軍服姿ふたりを連れて出てくる。
「なぜ撃たない、ベルタ!」
 白衣の老人、ベルタに厳しい声で問いかける。
 老人を見つめてベルタはこたえる。
「いぬが……しんでしまいます……」
 鼻にかかった涙声だ。
「わたしは誰だ。そしてお前は何者だ。ベルタ。答えてみろ」
 ヴァイスハウゼンが問う。ベルタは顔を上げて彼の眼を見た。ポツリポツリと答えた。
「あなたは……ヴァイスハウゼン博士。わたしたちエインヘリヤルの開発責任者」
「そうだ。そしてお前は?」
「わたしは」
 そこでベルタは言葉を切り、眉間にしわを寄せて苦しみをこらえるように、
「わたしは、エインヘリヤル。『組織』の開発した、超人兵士」
「そうだ、その通りだ」
 ヴァイスハウゼンは重々しくうなずいた。
「お前には常人の数十倍の筋力と反射神経を与えた。殺しのためだ。戦争のためだ。我ら組織の重要な商品となるためだ。それが……」
 ヴァイスハウゼンは落ち窪んだ青い眼を冷たく光らせて、
「それが、犬ころ一匹殺せない? いつまで甘えているつもりなのだ?」
 あからさまな嘲りと苛立ちのこもった声。それでもベルタは引き金を引けない。頭の中にイメージが浮かんでいた。このシェパードが、銃弾で撃ち抜かれ白い 脳髄と真っ赤な血を撒き散らしている姿。できない。とてもできない。
 ヴァイスハウゼンはため息をついた。
 かたわらの軍服姿二人に問いかける。
「どう思う? アントン、カエサル?」
 身長2メートル、胸板が熊のように厚い大男が腕組みしたまま笑う。
「ばっかだなー。ベルタはよー」
 もう一人は身長170、金髪の巻き毛を指でもてあそんでいる美少年。彼も薄ら笑いを浮かべながら言う。
「ほんとだよねー」
「でも……でも……」
 ベルタ、二人に眼を向けて訴える。どうかわかってくれと。
 この二人、アントンとカエサルは『エインヘリヤル』だ。ベルタと同じ超人兵士。外見はまるで似ていないが兄弟のようなもの。ずっと一緒に、この地下研究 所で生活してきた。同じテーブルで向かい合ってサンドイッチを食べ、同じジムで並んでバーベルを上げてきた。きっと気持ちが通じる、というわずかな願いが あった。
 大男、アントンは首を振った。
「どうして殺せねえんだ?」
 美少年カエサルも、憂いを秘めた微笑をベルタに向け首をかしげる。
「ボクにもわからないよ。貸して、姉さん」
 さっとベルタの手から銃を奪い取った。犬に向けて撃つ。
「やめて!」
 とっさに叫んだ。そして跳躍した。両手を広げて犬の前にたちふさがる。銃弾が腹に突き刺さった。
 『損害報告・腹部に深度1の負傷』
 激痛に歯をくいしばる。常人の数十倍の筋力を持つエインへリヤルは、そのパワーに耐えるため強靭な肉体を持っている。どうにか、筋肉で食い止める事がで きた。
「なにをやっている! べルタ!」
 ヴァイスハウゼンが怒鳴りつけた。駆け寄ってくる。ベルタの前にしゃがみこんで、野戦服の前を開き、シャツをまくりあげる。
 雪のように白い肌、その臍のそばに弾丸がめりこんで尻を覗かしていた。血がにじんでいる。
「馬鹿なことを……その体は我々組織の大切な財産だ!」 (索敵・鼓動音を測定。……鼓動あり)
「申し訳……ありません……」
 ベルタは痛みをこらえながら言う。そのとき背後で「くうううん」と犬の声。
 (よかった。たすかったんだ)
 心を安堵が満たす。傷の痛みさえ和らぐ。
「ベルタよ」
 ヴァイスハウゼンが広い額にしわを刻んで、ベルタを見上げる。
「何のつもりだ、たかが犬一匹」
「救いたかったんです。我慢できなかったんです」
「お前は兵器なのだ。大勢の人間を殺すために生まれてきたのだ。超人兵士エインヘリヤル、我々の次期主力商品だ。量産化された暁には、戦争の形態を一変さ せうる」
「いやなのです。そんな暮らしが」
 ベルタはしぼりだすような弱々しい声で言った。
「撃ったり、撃たれたり、いやなんです。普通の暮らしがしたいんです。学校に行きたい。クラスメートと遊びたい。一緒に喫茶店でホットケーキを食べたい。 死んだとか殺した以外の話がしたい。先生に怒られたい。本を読みたい。素敵な恋がしたい」
「そんな言葉を誰から聞いた?」
「兵隊さんたちから教わりました。本を読みました。映画を見ました」
 ベルタ、ヴァイスハウゼンの手をぎゅっと握る。
「お願いです。どうか、わたしに、ちがう生き方を与えてください」
「ダメだ」
 ヴァイスハウゼンは立ち上がり、青い瞳に酷薄な光をうかべて言い放つ。
「殺し合い、それ以外の生き方は許されない。
 さっさと犬を殺して、存在価値を示せ。
 できないなら……お前は生きていてはいけない」
 (生きていてはいけない)
 息を飲んだ。心臓が、しめつけられるように苦しかった。

 2

 ベルタは眼を覚ました。
 まず感じたのは息苦しさだった。
 荒い息をしていた。
 体は何かで縛り付けられたかのように動かない。冷たい汗が腹や背中をびっしょり濡らしている。心臓が早鐘のように打っている。
 あたりは暗かった。心臓の鼓動音が体から飛び出して周囲の壁に反響、耳が捉えた音響を脳が自動解析、状況を教えてくれる。4メートルに3メートルの箱型 空間。壁は木材。柔らかい分厚い布が積み上げられている。
 眼が暗がりに慣れてきた。
 自分は分厚いマットに覆われていた。
 (ああ、体育用具室だ)
 やっと、自分がどこにいるのか思い出した。
 今までのは夢。あれから三ヵ月経った。自分は今、日本の学校にもぐりこんで一夜を明かしている。体育用具室で体操用マットにくるまっている。
「また、あの夢……」
 つぶやいた。つぶやくことでますます陰鬱な気持ちが増幅される。
 お前は生きていてはいけない、と断定された、あの日。
 生みの親ヴァイスハウゼンが放った決定的な一言は、いまだにベルタの心をえぐり続けている。
 あの後、すぐにベルタは組織を脱走した。そしてドイツを飛び出し、日本にやってきた。日本には組織の力がほとんど浸透していないから隠れやすいと思って いたのだ。組織の追っ手から逃げ続け、少なくとも「殺し合い」はせずにすんでいる。
 だがいまでも、毎夜ベルタはあの夢に苦しめられる。
「……寝よう」
 眼を閉じる。今度は楽しい夢を見たかった。
 しかし眠れない。眼が完全にさえてしまっている。ヴァイスハウゼンに言われた言葉が、アントンやカエサルの蔑みの表情が、体を蝕むどうしようもない寒さ が、眠ることを許してくれなかった。
 (今はダメだ。少し気分転換しよう。)
 眼をあけた。マットを払いのけて立ち上がる。
 夜の空気に、ジーパンとパーカーという地味な姿をさらした。おしゃれには縁がない。軍服を着ないですむだけありがたいと思っていた。
 重い扉をギイと開けて、出る。
 体育館の広大な空間が広がっていた。屋根の電灯はついておらず真っ暗。しかしベルタの暗視能力はスターライトスコープと同じ機能を発揮、わずかな光を増 幅して昼間のように闇を見通す。
 木材で作られた褐色の床は、まったくの無人。何も置かれていない。
 しかしべルタは、床のわずかな磨耗を読み取った。空気に汗の臭いが混ざっているのを感じ取った。
 昼間はここで繰り広げられているだろう練習の数々がイメージできた。
 パーカーのポケットから針金をだして、扉を開け体育館の外に出る。
 体育館の外は中庭だった。30メートルほどの距離をおいてクリーム色の校舎がそびえたつ。天井つきの回廊が校舎と体育館をつないでいる。
 中庭には大きな花壇があった。持っていた袋からスニーカーを出して履き、花壇に近づく。
 数々の花が、星明かりの中に浮かび上がっていた。みんなよく手入れされている。「卒業生一同より寄贈」のプレートを見つけた。胸の奥に暖かい感情がこみ あげる。思わず頬がゆるんだ。
 (ここにはあったかいむすびつきがあるんだ)
 花の一本一本を慈しむように眺めた。
 端まで眺め終わって天を仰ぐと、そこには横断幕があった。校舎と体育館の間を横断幕がつないでいた。
 「この校舎で最後の学園祭 最高の学園祭! 第26回西山祭」
 (学園祭なんだ……)
 培養カプセルの中で生まれ、ずっと「組織」の研究施設で暮らしてきた。日本に来てからも逃げるだけで精いっぱい、学校に通った事などない。
 だがむさぼるように小説とマンガを読んだ。映画をみた。ベルタにとって学校とはラブコメと告白とヤンキーとスポ根のことだった。強烈にあこがれていた。 学園祭の横断幕をみただけで頭の中にいくつもの物語がくみ上げられていった。
 いつもケン力してばかりの幼なじみが、文化祭の演劇で恋人同志をやらされてどぎまぎする物語。ヤンキーの道に走りつつあった少年が、好きになった女の子 のために模擬店を手伝ってやる物語。
 妄想は止めどもなくあふれてきた。
 すべてべルタにとっては目もくらむほどにまぶしくうらやましい物語だった。撃つ事も、銃弾の雨をかいくぐる事もない。旅客機の貨物室で寒さに凍えながら 密航する事もない。わずかな物音で飛び起きる事もない。
 そんな「普通の女の子」の生活が、自分にはできない。自分は戦闘しか知らない。友だちとどんな話をすればいいのか知らない。謎の組織から脱走してきた、 人間を遥かに超えた身体能力の怪物。こんな存在を今の人間社会が受けいれてくれるだろうか。ありえない。
 わずか高さ5メートル、手を伸ばせば届くような横断幕。そこに書かれた明るい歓迎の言葉。「最高の学園祭に!」しかしベルタはその場所にいけないのだ。 あの横断幕はベルタと違う世界のものなのだ。
 そう気づくと、視界の中の横断幕がにじんでみえた。涙があふれてきたのだ。
 ぐすりと鼻をすすって、ベルタは涙をぬぐった。
 と、そのとき。
 視界の端で何かが動いた。 
 ……深夜の学校で?
 そちらに目をやったベルタは、見た。
 ベルタから見て奥、校舎の一番端、四階の窓から、何かが落ちる。人間だ。黒い。学生服を着ている。少年か。頭から落ちてゆく。
 脳内の戦術支援電子脳が瞬間的に起動、予測演算を開始。「高度10メートルからの人体落下・死亡率48パーセント」と算出。「関わるな」と理性が叫び、 しかしベルタの体は理性など無視してすでに突っ走っていた。
 (助けなきゃ!)
 距離50メートルはある。落下が終わるまでたった1秒そこそこ。
 できるか? 助けられるか? どうやって?
 即座に背中の翼を展開。胸の中の生体過給システムを起動。放出された酸素が強化血球により筋肉へと供給。中庭のアスファルトを蹴り、花壇に踏み込んで花 を踏み散らし、加速。
 最初の一歩で時速50キロを超え、2歩目で100キロを超え、瞳を前方にむけ、まっさかさまに落ちてゆく人間の姿をしっかりと捉えたままさらに加速、ス ニーカーが高速での摩擦に耐え切れず燃え上がって足元から煙が吹き上がり、
 戦術支援電子脳の働きで脳内に立体図を投影。
 (このタイミングだ!)
 跳躍した。常人の数十倍の脚力はベルタの体を宙に舞わせる。放物線を描いて天高く飛んでゆき、軌道の頂点に達する。
 ドサ!
 降って来る少年を、両腕でしっかり抱きとめた。
 (よし!)
 しかし抱きとめたは良いが、ベルタの体は止まらない。1階下、3階の窓に突っ込んだ。
 ガシャン! 
 ガラスの砕け散る甲高い音。ベルタは少年の体をしっかり抱きしめて破片から守る。
 ゴロリと床に転がった。あたりは廊下だ。
 立ち上がり、少年の体を抱き上げる。
「……もしもし? あの、もしもし?」
 ベルタは少年に呼びかけるが、反応はない。暗がりの中に見える少年の顔は青ざめている。身体全体がぐにゃりと脱力状態だ。気絶しているようだ。
 バタバタ、と廊下の向こうから誰かが走ってくる。
 警備員だ。
 さすがにガラスを割っては見つかるらしい。
 仕方なく、少年を横抱きにしたまま窓から飛び降りる。
 そのまま校庭を走って、フェンスを飛び越えて、さらに走る。
 (面倒なことになっちゃったな)
 自分の迂闊さがうとましい。だが腕のなかでぐったりしている少年の顔を見て、
 (助けられて良かった)
 とも思うのだった。

 3

 近くの公園まで連れて行った。
 住宅地の中に忽然とある公園で、子供向け遊具が幾つか並んでいる。
 バネで支えられたカバやゾウやアヒル。いずれも色あざやか、傷もない。できたばかりの公園なのだろう。
 砂場のそばにあるベンチに少年を下ろす。横たえるつもりだったが、このベンチは一人ぶんごとに区切ってあるタイプで人を横にできない。
 ベンチに下ろされても少年は目を閉じて首をぐにゃっと垂れたままだ。
「……ケガは……ないみたいですね」
 ベルタ、少年の体のあちこちをまさぐって、手首の脈を取り、傷を確認。
 どこの骨も折れてない。命に別状もない。線の細い顔が真っ青になっているのは、単に恐怖のせいだろう。
 ただひとつ気になるのが、体から漂うアンモニア臭。小便の臭いだ。
「……もしもし、もし、起きてください」
 日本語は話せる。通行人の言葉をきき、マンガを山ほど読んで覚えた。
「ん……う……うーん……」
 少年はうめいて、眼を開けた。
 ぼんやりとした目つきであたりを見て、ベルタの顔を見て、自分の両手を見つめ、
「うわああ!」 
 叫んで、ベンチから転げ落ちた。
「あ? あ? い、一体なにが? あれ? あれ? ぼくは、ぼくは落ちて……」
「おちついてください、ね?」
「いや、あの。で、でも」
「思い出してみましょう。あなた、学校の窓から落ちたんです」
「う、う、うん」
「誰かに落とされたんですか? だから恐がってるんですか?」
「あ……」
 少年のあどけない顔が苦しみに歪む。
「ちがう……落とされて、ない」
「落とされてない? じゃあ、事故ですか」
「ちがう……」
 少年はうつむいて、消え入るような小さな声で言う。
「じゃあ、自殺ですか?」
 ベルタの声も小さく、重苦しい。
「う、うん……」
「どうして、そんなことしたんですか?」
「あの……」
 少年は顔をあげてベルタを見た。恐怖の色が消え、かわって不審そうな表情をうかべている。
「あの、きみ、誰ですか?」
「ああ、わたしは……」
 ベルタは自分の体を見下ろして口ごもった。どんな説明をすれば不審に思われないか。
「えーと、わたしは。善意の通行人です。あなたが飛び降りるのを助けたんです」
「……ちがう……」
 少年は弱々しく首をふった。
「通行人じゃない。背中から羽根をだして、空をとんだ」
「あなた、アレを覚えてるんですか?」
 いやな予感がした。日本各地を放浪するさい、超人兵士エインヘリヤルの「力」を使ったことは何度かあった。力を見た人間の反応は決まっていた。化け物扱 いするのだ。
「う、うん……おぼえてる。綺麗だった」
「きれい?」
 予想外の反応に眉をひそめるベルタ。
「私の翼のことは、誰にも言わないでください。いいですね」
「う、うん」
「それより……なんで自殺なんかしたんですか?」
「え……」
 少年の表情が凍りついた。また這いずって逃げようとする。
「逃げることないです。ほら、ここに座って」
「う、うん……」
 ベルタの横に腰掛けた少年。うつむいたまま口を開かない。
「あのー。もしもし?」
「え……あの……あの。おこらない? ばかにしない?」
「しませんよ、そんなこと!」
 ベルタが力強く答えると、少年は意を決したように顔をあげる。
「ぼく、いじめられてるんです。だからあの、学校のロッカーに、その、閉じ込められて……出たら殺すって言われて……ずっと中にいたら……何時間経っても 出られなくて……恐くて……その……」
 少年は自分の股間を見下ろして、
「我慢できなくなって、その も、もらしちゃって……」
 震える声で言った。頬を涙が幾筋もつたった。
「そ、それで外に出たら……誰もいなくて。外で見張ってる人なんていなくて。自分が馬鹿に見えて。高校生でおしっこもらすなんて、もう生きていけない」
 そこで言葉を切り、少年はぐすっ、ぐすっと泣きじゃくった。
「あ、あの……」
 ベルタは混乱する。どんな言葉をかけてよいのかわからない。
 (でも、この人は死のうとしてたんだ。)
 (ここで対応を誤ったらまた死んでしまうかも。)
 (それは嫌だ)
「ねえ、あの、元気出してください……」
「元気なんて出せるわけないよ……ぐす……ぐす……もうやだよ……」
「あの、ほら。学校でのいじめが辛いのなら、しばらく学校にいかないとか、先生に言うとか、方法はあるでしょう?」
 出きるだけ優しく言ったつもりだった。だが少年にはそれでも厳しかったらしい。
「無理だよ、できないよ。先生にいったらもっといじめられる。学校にいかなかったら、母さんになんて言われるか……えぐっ……えぐっ……もうイヤだ……イ ヤだよ……」
 ベンチの上で、頭を抱え込んでブルブル震えだす。今にも外敵が襲ってくるかのようなおびえ方だった。逆効果だったらしい。
 (また自殺するかも。)
 そんなの放っておけ、あんたは自分の身を守らなきゃダメだろ、と理性が警告した。
 警告は体が拒否した。
 どうすれば助けられる? 彼が求めていることは何だ? 自分が「組織」で訓練や実験にのたうち回っているとき、何をされたかった?
 (そうだ、『がんばれ』なんていわれたくなかった)
 すぐにベルタは立ち上がって、少年の前に座りこんだ。腕を伸ばして、少年の体を抱きしめた。
「え……」
 すぐそばに少年の顔が見える。驚きに眼を見開いていた。学生服に包まれた体をこわばらせている。おびえて震えている。逃げ出そうとしてか、腰を浮かせ た。
「こわがらないでください」
 ベルタはほほえんだ。精一杯、やさしそうな表情をつくったつもりだった。少年の背に回した手で、とんとんと背中を叩いた。
「そ、そんなこといわれても……」
「安心してください。もう『がんばれ』って言いません。いわれるのが辛いんですよね?」
 少年の顔がぱっと輝いた。
「そう。そうなんだよ! 親とかもいつもいうんだ。『もっと頑張れ』『どうして反撃できないの?』って……それを言われるのがいちばん辛いのに……」
「わたしはそんなこといいません。怒ったりしません」
「ほんと?」
 ベルタは応えず、ただ、優しく少年を抱きしめる。
 少年、おずおずとベルタの胸に顔をうずめた。
 これにはベルタのほうが驚いた。だがいまさらやめるわけにはいかない。
 パーカーの胸にほお擦りするようにして、少年は呟いた。
「……ありがとう……」
 あまりに切迫した調子だったのでベルタは驚いて彼の顔を見た。少年の顔は間違いなく、ベルタの薄い胸のあたりになでつけられていた。それなのに彼の瞳に は性欲の色が全くなかった。
 (やっぱりそうなんだ。ただ抱きしめられたかっただけなんだ。)
 (生きていていいんだよって、体で表現されたかっただけなんだ。)
 そう思うと、ベルタの心からも恥ずかしさが消えた。この少年を男だと思わなくなった。弱った生き物を抱きしめて、生きる力を与えている。ただそれだけ。
 しばらく時間がたった。もう腕の中の少年は嗚咽をもらしていない。
 やがて少年は顔をあげる。頬に涙のあとが残っているが、表情は晴れがましい。
「あの、あの……ありがとう……うれしい。すごく……なんだかその……とってもあったかくて……」
「お母さんみたいでしたか?」
 とたんに少年は恥ずかしそうに顔を赤らめ、
「ち、違うよ。あんなのと……ぼくマザコンじゃないし……」
「説得力ないですよ?」
「う……」
 うつむいて、ぶつぶつと口の中で言い訳を言う。
「いいんです。思い切り甘えて、それで楽になれたなら」
「不思議な人……『弱いのはダメ』『甘えるのはダメ』って言わないんだ」
「ええ、いいません。弱い部分を出せる、誰かに甘えられるのは、幸せなことだと思います。逃げたり甘えたりしても、たまにはいいじゃないですか」
 その台詞は自然に口から出た。出たとたん、ベルタは泣きたい衝動に駆られた。
 (自分にはできないんだ。)
 (甘える相手なんてわたしにはいない。)
「そうかな……」
「ええ。そうですよ。どうです? 楽になれましたか?」
「うん!」
 少年の返事は力強い。暗かった表情にも微笑が浮かんでいる。
「良かった。じゃあ、もう今日は帰りましょう。明日も早いでしょう」
「う、うん……」
 少年は立ち上がった。一歩、二歩歩いて、名残惜しそうに振り返る。
「あ、あの……」
「なんですか?」
 なにか言いたげに口をパクパクさせていた。
 ベルタはちょっと悪戯心をきかせてみた。
「家に帰って、パンツは履き替えないでいいんですか?」
 くすくすと笑いをぶつけた。
「あ……」
 あわてて股間を押さえる。その動きがこっけいで、ベルタはますます笑った。少年は走り去ってゆく。
「元気でね!」
 ベルタ、手を振る。
 少年はツツジの茂みの向こうに消えた。
 ほっと一息ついて、ベルタは眼を閉じる。
 ぽつりと唇から言葉が漏れた。
「……元気になってくれると良いな」
 きっと大丈夫だ。根拠はないが、そんな気がした。自分の言葉は彼の胸の奥底まで届いた、そんな手ごたえがあったのだ。
 そう思うと、ベルタの胸を喜びがみたした。
 心の中にぽっかり空いた穴が、すこしだけ埋まったようだった。
 
 
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