泣き虫兵器ベルタ

 (分割版)

 第1章「君、微笑んだ夜」その3

 7

 その日、集合場所は公園だった。
 ベルタと祐樹が初めてしゃべった、あの公園だ。
 ベルタはベンチに腰かけて待っている。
 近くの砂場では、おばさんにつれられた子供が数人遊んでいる。おかっぱ頭でピンク色のカーディガンを着た女の子が砂で山を作っている。近くで坊主頭の男 の子が手伝っている。山に穴をあけた。
 女の子のほうが何事か叫んで、坊主の男の子をけっ飛ばした。
 まるで無防備に飛んでゆき、砂場のふちのコンクリート部分に頭を打って泣き出す男の子。母親らしい中年女性が血相変えて飛んでくる。しかし中年女性を押 しよける勢いで突進してきたのはおかっぱの女の子だ。ぼろぼろ泣きながら、大きな瞳から大粒の涙をこぼしながら男の子を抱きしめる。頭をなでて、大丈夫、 大丈夫、ごめんね……と叫ぶ。男の子がぱっちり眼をあけた。舌を出す。
「なにすんだよ、離せよ」
 たいした怪我ではなかったらしい。もう涙も止まっていた。
「けびょうだったのかよ」
 今度は女の子のほうが怒り出す。
「けびょうじゃない、ほんとにいたかったんだぞバカ」「それはケンくんがお山を壊すから」「こわしてねーよばーか」
 男の子は女の子の髪の毛をひっぱり、女の子のほうは砂をつかんで投げつける。喧嘩になった。
 一部始終を見ていたベルタは、だんだん胸の奥が苦しくなってきた。
 (なんとなくわたしたちににてる)
 主導権を握っているのは女の子のほうだ。現にいまの喧嘩は女の子が優勢になっている。男の子はもう髪をひっぱるのやめて、飛んでくる砂を防御するのに必 死だ。男の子は「目に入ったっ。うわっ」と言いながらも、笑っている。楽しそうだ。
 ほほえましい。たとえ喧嘩しても実際には仲良しなんだとわかる。
 だからこそ、見ているのが辛い。
 ベルタは目をそらした。膝の上で固く組んだ手に、視線を落とす。
「ベルタさーんっ」
 大きな声が耳に飛び込んできた。顔を上げるベルタ。
 祐樹が息を切らして走ってきた。
「はっ、はっ……ま、ま、待ちました?」
「いえ、待ってはいません。というより、待ち合わせ時刻より前ですけど……」
「はやく会いたかったんです」
「今日も、学校には行かなかったんですか?」
「もちろんです。学校にいっても、何も楽しいことはないから」 
「家の人たちはなんていってます?」
 祐樹は困ったように頭をかいて、
「それはその……ぼくが学校サボってるってのはわかってるみたいで、『どうして行かないの』っていいますけど……『関係ないだろ!』って怒鳴ったら黙っ ちゃいました。もっと早くこうすればよかった」
 祐樹は満面の笑みを浮かべている。学校という辛い場所から逃げられて嬉しい。心の底からそう思っている。行かなかった結果のデメリットなど微塵も考えて いない。そんな顔だった。
 (やっぱり、このままじゃダメ。この人は堕落しちゃう)
 ベルタ、ベンチから立ち上がり、祐樹の目を見つめて、
「実は……」
 もうお別れしようと思ってるんです、といおうとした。
「これをよんでくださいっ」
 いえなかった。祐樹がカバンの中から出してきた紙の束を押し付けられた。
「え……」
「よんでくださいっ。マンガですっ。こないだいってたのを持ってきたんです」
「あ、祐樹さんの書いたマンガですね」
 読んでしまってはいけない気がした。読んだらもっと深入りする。感想を言わないわけには行かないし、言ってしまったら……
 ためらい、紙の束を突っ返そうとする。
 しかしできなかった。祐樹がじっとベルタのことを見つめている。邪気の全くない眼が。ベルタの表情が曇ったのに気づいたらしく、祐樹の顔がこわばる。彼 の内心を駆け巡る思いがベルタにはよくわかった。眼がうろうろとさまよっていた。(ベルタさんが嫌がってる、嫌われてるのかも、どうしよう、どうしよう) という恐怖に震えているのだ。
「……わかりました、読みます」
「はっはいっ。ありがとうございますっ!」
「とりあえず座ってください。ずっと立ってられると落ち着かないです」
 そしてベルタは読み始めた。
 マンガの原稿を読むなんてもちろん初めての経験だ。
 原稿は手の中でズシリと重い。200枚くらいありそうだ。
 読み始めたら止まらなかった。すぐとなりに座った祐樹がやたら緊張した面持ちでこっちをじっと観察していたが、途中から気にならなくなった。
 ひとりの少年の異世界を舞台に冒険する話だった。19世紀ヨーロッパをモチーフにしただろう異世界の都市が美しかった。主人公の軽薄な少年が、助手役の 生真面目な少女に怒られながら事件を解決してゆく、掛け合いが面白かった。
 くすりと笑ってしまった。この暗い少年のどこから、こんな明るさが出てくるのだろう。
 クライマックス、少年と少女の前に立ちはだかる敵は『魔術の力で、人の心の闇が実体化した存在』。一気に物語は暗くなる。少年と少女は闇と闘ううちにお のれの暗黒面と戦う羽目になる。二人が抱えている過去が明らかになる。
 このあたり、ベルタは手に汗を握っていた。ついに少年と少女は力を合わせて闇に勝つ。そしてケンカばかりしていたのに仲良くなる。仲のよさを脇役にから かわれてまたケンカ。ほのぼのしたシーンで終わる。
 読み終わって、ふう、とため息をつく。
「……ど、ど、どうでした?」
 祐樹がおっかなびっくり訊いてくる。
「……面白かったですよ!」
「え? 本当に?」
 目をそらし、唇を震わせていた祐樹の顔がぱあっと明るくなる。
「とくに、この女の子がかわいかったです。絵の勉強とかもしてるんですか?」
「いや……勉強ってほどじゃ……たいしたことないですよ、僕の絵」
 祐樹は眼をそらし、照れ笑いを浮かべる。だが鼻の下が伸びきっていて、「もっと褒めて!」と思っていること明らかだ。
「マンガの賞とかには出さないんですか?」
「え……」
 何の気なしに言った言葉だった。褒め言葉の延長だった。だが祐樹は急に苦痛をこらえる表情になって、
「それはその……なんていうか、無理です。マンガの賞は」
「え? これだけ描ければ、いいところまでいくかも」
「む、無理ですって……」
 いきなりうつむいて、祐樹は呟く。
 どうして急に気弱になったのか全然分からない。ベルタは首をかしげる。
 祐樹が意を決したようにベルタを見つめて、
「……恐いんです」
「恐い? なにがですか」
「落選したら。だって、このマンガ描くのに一年以上かかってるんです。それを送って落選したら。なんのコメントももらえずに『ダメ』ってことになった ら……ぼくの一年は無駄だったってことになります」
「直してまた送るとか、次のを送るとか」
「それがダメなんです。落ちたら耐えられそうにないんです。他人に見せたのもベルタさんが初めてです」
「それはもったいない気が……」
「でもいいんです。ベルタさんに喜んでもらえたからぼくは満足です。もっと持ってきますね。書き上げたのはこの原稿だけだけど、もっといろいろあるんで す」
 手をぎゅっと握られた。祐樹の眼がきらきらしていた。
 (まずい。このままでは抜けられない。ずるずると、ずっとこの関係が続く)
 ベルタ、目をそらした。
 そして、言い切った。
「……実はお話があるんです。
 祐樹さんのマンガを読み続けることは、できません。
 そろそろこの町を離れるつもりです」
 びくう! 
 ベルタの手の中で祐樹の手がはねる。震える。
 いくら華奢といっても男の手だ。ベルタより幅があるし指も太い。それなのに欠片も力強さを感じさせない。
「……どうして? どうしてそんなことを言うの?」
「決まっています。以前にお話したはずです。わたしは人間ではないと。兵器です。『組織』が作り出した兵器なんです。『組織』は今もわたしを探しているは ずです。逃げ続けなければいけないんです。……本当は、もっと早くこの町を去るつもりでした」
「……でも、でも、ぼくは!」
 祐樹の声は早くも泣きそうだ。
「わかってください、祐樹さん」
「ぼくはベルタさんがいてくれないとダメなんです……」
「じゃあ話を変えましょうか。祐樹さん、このままどうしますか。いまは学校に行かなくても、ずっとこのままってわけにはいきません。また学校に行かない と。このままずっとわたしと一緒にいると、祐樹さんがダメになってしまうんじゃないか、って思います。祐樹さんは、ひとりで生きていかないと」
「む、無理だよ! ぼくはそんなことができる強い人間じゃないんだ!」
 これまでよりも激しい、否定の感情が込められた叫びだった。ベルタは強引に首根っこをつかまれた。うつむいていた顔を上に向かされた。驚いた。こんな大 胆な行動を彼が?
 顔が上に向いたおかげで祐樹の表情がよく見えた。今回も彼は泣いていた。しかし気弱な泣き顔ではなかった。瞳に強烈な光が宿っていた。らんらんと輝いて いた。
「……ユ、ユウキさん……」
 思わずうめいた。迫力すら感じてしまった。これと同じ眼を見たことがある。あれは信州の山奥をさまよっていたころ、雪の中で一頭の野犬に出会った。茶色 くて大柄な日本犬。ベルタを見るなり姿勢を低くして唸った。痩せた体に残った筋肉のすべてが弓の弦のように引き絞られているのがわかった。完全な戦闘体勢 だった。
 あの野犬と同じような、追い詰められた者の眼。
 たじろいたベルタの両肩をつかんで、すがりつくようにして訴えてきた。
「……だめなんだよ。ぼくは強くなれないんだ。よく知らない大人が『努力していじめに勝て』『強くなれ』とか言うけど、そんなこと言う人はなにもわかって ないんだ。努力なんてできないんだ。反撃したこともあるけど結局めちゃくちゃにやられたよ。何もせず泣いていたほうがまだ痛くないって分かったよ。体を鍛 えようともしたけど、空手の道場の入り口まで言ったけど、怖くて入ることもできなかった。でもあいつらは言うんだ。『どうして努力しないの?』できないん だよ。なんにもわかってない。努力できるっていうのも才能の一種なんだ。生まれつき手や足がない人がいるのと一緒で、生まれつき心が弱くて努力できない人 もいるんだよ。それをわかってないんだ、あいつらは。あいつらだっていじめをやってるんだ。無神経だ。『がんばれ』って言われるのが一番いやだ。がんばれ ないおまえはだめだって言ってるんだから。あいつらわかってないんだ。できない人間がいるなんて想像もしてないんだ」
 一気にまくしたてる。
「おちついてください。ね、おちついて」
「ベルタさんはわかってくれたんじゃないんですか。だって『だめなままでもいい』っていってくれたじゃないですか。どうしても成長や努力できない人間がい るんだって、わかってくれたじゃないですか。この人は他の人と違うって思ったんです。他の人はみんな、条件付きでしかぼくのことを好きになってくれないか ら。いい成績をとれ、がんばっていじめに勝て、そんなの、『ほんとのぼく』を好きじゃないってことですよね。でもベルタさんは、ベルタさんだけは……信じ てたのに……ほかの人たちとは違うって思ってたのに……」
 そこで祐樹は口ごもった。涙で濡れた顔は青ざめていた。苦悶の表情が浮かんでいた。両手をベルタの肩から離し、自分の顔の前でぎゅっと合わせた。神に祈 りをささげるもののように。そして沈黙を破って祐樹は叫ぶ。
「なのに……うらぎったんだ! ぼくの気持ちを裏切ったんだ!」
 砂場で遊んでいた子供たちもその親も、公園にいるすべての人間が注目した。それほどの、血を吐くような絶叫だった。
 ベルタ、そんな祐樹を見つめていた。黙っていた。
 心の中には二つの塊がうごめいていた。ひとつは嫌悪感。祐樹の言葉への反発。
 (生まれつきがんばれない人間なんて、最低のいいわけ。カッコ悪い。『だめなままでも好きでいてほしい』なんて赤ん坊じゃない。)
 祐樹の感情が高ぶるにつれて嫌悪もひどくなっていった。
 だがそれよりもっと強い感情があった。
 罪悪感。嫌悪より何倍も強い罪悪感。
 (このひとをこんな風にしたのはわたしだ。わたしはたしかに命を助けた。でもそのとき、だめなままでいいって言った。わたしのせいだ。わたしがやさしく したからいけないんだ)
 (それにわたし、楽しかった。
 このひとと一緒にいるの、楽しかった。
 本を選ぶのが。漫画の話を聞くのが。だめなこの人の面倒を見るのが、たとえようもなく充実していた。
 誰かの役に立てるのがうれしかった。ずっといっしょに、わたしだっていたかった。)
 (だからわたしはこの人を怒れない。)
 ベルタ、意を決し、すうっと息を吸って、
「……祐樹さん」
 精いっぱい誠実な声で、青ざめた祐樹を見据えながら言った。
「……ごめんなさい」
 祐樹の眼が見開かれる。ベルタの言葉が意外だったらしい。眼の中に浮かんだ感情は微妙なものだ。驚きと失望が混ざっていた。そんなはずじゃない、という 焦りもあった。
「ごめんなさい。祐樹さん。祐樹さんの生き方を邪魔してごめんなさい。自分勝手な考えを押しつけてごめんなさい。祐樹さんと一緒にいた間、短かったけど、 でも楽しかった。感謝します」
「……な……なんでだよ。なんでおこってくれないんだよ。なんで叱ってくれないんだよ」
「……さよならです」
 背を向ける。
 そして駆け出す。公園の外へと。
「ベルタさぁぁぁぁんっ!」
 背後に祐樹の絶叫が叩きつけられた。
 植え込みと柵をジャンプして飛び越える。振り返らない。
 (これでいいはず)
 (これでよかったはず)
 (それなのになぜ、こんなに胸が苦しい)
 歯を食いしばって、走り続けた。

 8

「……さよならです」
 くるりと背を向けるべルタ。黒髪を揺らし、ブーツで砂を散らして、駆けだす。早まわしのような速度。人間の足ではとても追いつけない。公園を囲む植えこ みをジャンプひとつで飛び越え、祐樹の視界から消える。
 祐樹はベンチから、はじかれたように立ち上がった。ベルタの消えた方角に向けて、絶叫。
「ベルタさぁぁぁぁぁんっ!」
 絶叫に答えるものはいなかった。もちろんベルタが戻ってくることもなかった。
 祐樹、その場にくずおれる。水たまりに膝を突っ込んでズボンが汚れた。
 地面にうずくまったまま、祐樹は泣き始めた。まぶたの端に生まれた大粒の涙は、たちまち幾筋もの涙となって頬を伝う。
「えぐ…えぐ……ベルタさん……どうして……」
 しゃくりあげて泣いた。ひとしきり泣くと、祐樹はよろめきながら立ち上がった。
 (さがさないと)
 ベルタを追いかけて、探し出すつもりだった。
 (一度できたんだから今回もできる!)
 何の根拠もなく心の中で断言して、祐樹は公園の入り口にむかった。
 ベルタを探してどうするのか、どうやって説得するのか、そもそもこの町にはいないんじゃないのか、そんな疑問はまったく感じなかった。極端に視野が狭く なっていた。
 公園を出た祐樹は、街の中をしらみつぶしに探した。
 最初にあたったのは、国道沿いのコメダ珈琲店。それからデートで歩いた商店街。楽しく喋った本屋。そのあとはあらゆる店を。喫茶店、ファミレス、ベルタ が好きそうな甘いもののある場所にはすべて顔を出した。店員を突き飛ばす勢いで店の中に突入して店内をぐるっと回り、どの席にもベルタの姿がないと知ると ため息ひとつついて何も食べず出てくる。そんなことをどの店でも繰り返した。
 やがてあたりは暗くなった。それでもあきらめず、鉛のようになった足を引きずって食事もとらず探しつづけた。
 深夜になり、空腹が耐えられないほどに胃袋を締め付けた。まだ10月なのに驚くほど寒かった。
 ブルブル震えながら歩いていたらコンビニを見つけた。ダンプやトラックが何両も止まっている大きなファミリーマート。
(肉マンかおでんでも食べよう)
 自動ドアへと足早に進む。
「クソ祐樹じゃねえか?」
 太く、低い声が鼓膜をたたいた。知っている声だ。
 頭のてっぺんから足の先まで、寒気の塊が滑り降りた。心臓が二倍の速さでドクドクと暴れだした。
「あ……」
 震える声が口から転げだした。
 (逃げなきゃ! 逃げなきゃ!)
 心の中で叫ぶ。しかし逃げられなかった。力強い腕が祐樹の腕をつかみ、別の腕が肩を押さえつけていた。強引に振りむかされた。
 案の定、自分を取り囲むように三人の男女が立っていた。
 一人は180センチ近い背丈があって、茶色の長髪。黒レザーのジャケットを着て首からはシルバーアクセをぶら下げていた。二人めは横幅があった。ただ 太っているだけでなく背も高く腕が太い。ヒップホップダンサーを思わせるラフなファッションで、頭は坊主頭。最後の一人は、ソバージュのかかった茶髪に濃 い化粧の、女。
 男二人は、学校で祐樹をいじめている奴らだ。女は知らない。
「よーお、珍しいじゃん、おまえがこんな時間にさ」
「あ、あ、あの、あの」
 ロン毛の男ににらまれただけで、もう祐樹はまともに喋れなくなっていた。
「おいおい、俺らは普通に挨拶してるだけじゃんかよ。なにブルってんだよ」
 ガタイのいい男が祐樹をあざ笑う。ふたりで祐樹を引きずってゆく。
 駐車場に連れていかれた。カスタムされた大型スクーターが並んでいる。
 いじめっこふたりはスクーターに腰かけた。
「最近どうよ、学校こねーけどさ」
「いやー、おれら心配したんだぜ。おめーがヒッキーにでもなっちまったんじゃねーかってよ」
「元気そうでなによりだぜ」
 茶髪の女が間伸びした声で、
「あのさー。あたし話がみえねーんだけどさー。この子だれよ?」
「あー、エリには言ってなかったっけ? こいつ、いじめられっこでさ」
「そうそう、俺たちがなにやっても文句いわねーんだぜ」
「へえ……、あたし、一度いじめってやってみたかったんだ」
「やってみればいいじゃん。ストレス解消にいいぜ」
「ふーん。おい、四つんばいになれ! なんてね」
 即座にロン毛の重い蹴りが脛に叩き込まれた。
「うっ」
 祐樹は悶絶する。全身の筋肉が反乱を起こした。膝が笑っている。肩も震えている。
「おい、クソ祐樹! よつんばいだって言ってんだろ」
「エリ女王様のお言葉がきけねーのかよ」
 おずおずと祐樹は地面に膝をつく。手もついて、うなだれた。
「へー! すっごい! 奴隷みたい!」
 無邪気にはしゃぐ女。
「じゃあ、そこの空き缶を拾って来い!」
 祐樹の目の前には缶コーヒーの空き缶があった。吸殻が突っ込まれている。
「あ、あの!」
「はやくやれっていってんだよ!」
 エリに顔面を蹴飛ばされる。「は、はひっ!」と泣きそうな声をあげて、手で空き缶をつかむ。「てめー犬の癖に手つかんてんじゃねーよ! 口だよ口!」ま た顔面に蹴りが入る。「ひゃっはっは、エリ、うまいうまい」全身をガクガク震わせながら祐樹は空き缶をくわえた。口の中にタバコの吸殻と灰が流れ込んでく る。
 そのまま何歩か歩いた。だが気持ち悪くなって吐き出してしまう。
「うげえっ」
 胃液とつばを撒き散らした。目の前に立っている女の脚にかかった。
「な、なにすんのよ!」
 飛びのいてわめく女。「てめえ! エリになんてことしれくれんだよ!」絶叫が耳を叩き、同時にキックが側頭部に浴びせられる。「ぐえ!」とうめいて駐車 場に転がる祐樹。ロン毛と巨体、ふたりのいじめっ子は腕組みして祐樹を見落ろしていた。眉間にいかついシワを寄せ、口元には醜い笑みを浮かべている。歯を むき出して言葉を叩きつけてきた。
「覚悟はできてんだろうな?」
「で、で、でも、あの缶は汚くて、し、し、仕方なくて」
「うるせえ!」
 腹に革靴が振り下ろされる。内臓まで響く衝撃。身体の奥底で胃袋がでんぐり返るのがわかった。身体を折って、胃液を吐いてのたうちまわる。鼻の奥がつん と熱くなって、鼻水と涙が噴きだした。
「ぐへっ……ぐへっ……げへん……」
「てめーは人間じゃなくて犬っコロなんだよ。口答えしてんじゃねえ。泣いて謝れ。おら、おら」
 泥のこびりついた靴底が祐樹の顔面に押し当てられる。胃袋の痛みを圧倒するほどの恐怖が身体を包んだ。このまま脚を振り下ろされる。歯が折れる。口の中 に突き刺さる。そんな悪い想像ばかりが脳裏を渦巻いた。
「は、は、はい……ごめ、ごめんなさい……」
 恐怖が身体を突き動かしていた。涙を流しながら祐樹は謝った。顔の前で手を合わせて謝った。
「どうする、エリ? 許してやる?」
「だめ。やっちゃって! このスカート高かったのに……」
「どこまでやればいい?」
「何しても反撃しないんでしょ? 二度と逆らったりしないくらい、でいいんじゃない?」
「おうおう、女は恐いねえ」ロン毛がにやつきながら、「ってなわけで、気がすむまでやるぜ」
 巨体スキンヘッドが呟く。
「それよりさ、なんか出てるぜ」
 祐樹のカバンが開いて、中身が飛び出していた。マンガの原稿も。
「なんだこりゃ。……プ」
 大きな顔を嘲笑にゆがめる巨体スキンヘッド。
「なになに、あたしにも見せて。えーなにこれ? マンガ? きたなーい。えいっ」
 エリがマンガの原稿を真っ二つにする。ビリっという音がやけに大きく響いた。
「あ……」
 祐樹、絶望のうめきをもらす。
 (原稿が! 原稿が!)
 立ち上がって原稿を奪い取ろうとする。後ろから巨体スキンヘッドの蹴りが入った。尾てい骨に入った。背骨のあたりまで衝撃が駆け抜けた。その場に膝を突 く。
「や、や、やめて……」
 ボロボロ泣きながら訴える。
「やっだよー」
 一枚、また一枚。見せ付けるように一枚ずつ破ってゆく。
「俺にも見せてくれよ」
 ロン毛が原稿のうち一枚を手に取った。ペラペラと裏返してみる。クライマックスの場面だと祐樹には分かった。主人公がヒロインの言葉に助けられ、再び戦 いを決意して立ち上がるシーンだ。
「えー。なになに。『だけど君がそこで見守ってくれるなら』オイオイなによこれ」
「願望なんじゃねーの。だれか女に助けてもらいたいって」
「キモーイ」
 エリが手を叩いて嘲笑する。
 祐樹の中にドロドロした感情が生まれていた。その感情の正体がわからなかった。怒りだと気づいた。まさか。愕然とした。ぼくは怒ってる。とっくの昔に、 いくらなぐられても仕方ないんだってあきらめていたはずなのに。怒ったってエネルギーの無駄だって分かっていたはずなのに。
 ビリッ ビリッ
 原稿は破かれる鋭い音が耳に飛び込んでくるたび、引きちぎられた原稿が目の前を舞い落ちるたび、胸の奥で生まれた怒りがどんどん大きくなっていくよう だった。
 ついにすべての原稿が破られた。ロン毛の足元には数百の紙片になった原稿が散らばっている。彼は原稿を足で踏みにじって、
「で、おまえもしかして、マンガ家とか目指しちゃってたわけ?」
「キモイよねー」
「こんなの誰が読むかっての」
 その嘲りを耳にしたとたん、胸の奥の怒りはさらに膨れ上がった。
 脳裏にベルタの言葉が蘇った。『おもしろいです』『とても優しい作品だと思います』『もっと書きましょうよ』『こういうのかけるって、すごいじゃないで すか』
 祐樹は理解した。自分がなぜ怒っているのか。
 ベルタさんまで馬鹿にされた気がするからだ。生まれて初めて自分のマンガを読んでくれた、面白いといってくれたあのかけがえのないひと時を、丸ごと否定 された気がするからだ。
 心臓がどくどくと高鳴った。
 視界の隅で、またロン毛の靴が、靴跡だらけで茶色く汚れた原稿をまた踏みしめる。
「やめろ……」
 祐樹の口からかぼそい声が出た。
「あん?」
 ロン毛、顔を下げて、にやついた笑みを向けてくる。
「なんか楽しいこと聞こえちゃったな? やめろって? お前が、おれに命令? おもしれっ」
「キレちゃったかなー。やっぱ、マンガだけが宝物だったのかな。気持ち悪い……」
 祐樹は立ち上がった。顔をあげる。ロン毛と、彼によりそうようにしているエリを見る。
「そうだよ……そうだよ……たからもの、だったんだよ……読んでもらえたんだ。面白いって言ってもらえたんだ……」
 心の中でずきずきと、怒りの塊がうずく。手足が震えていた。背骨に寒気がからみついていた。これから振るわれる暴力を想像して、恐ろしくて恐ろしくてた まらなかった。
 頭の中で理性が訴えた。いますぐ誤ってしまえ、マンガなんてあとでまた描けばいいじゃないか。逆らっても痛い目を見て泣かされるだけ。なんども経験して るじゃないか。
 しかし胸の中で理屈を越えた何かが、嫌だと叫んでいた。
 まぶたの裏に、ベルタさんとすごした短い大切な時間がやきついている。面白いといってくれた思い出がある。そんなものをまもめて馬鹿にされた。仕方がな いとは思えない。嫌だ。絶対に嫌だ。
「なんだよ? そのゲンコツはよ」
 気がつくと祐樹は腰を落とし、ロン毛をにらみつけたままファイティングポーズをとっていた。
「あやまれ……あやまれよ……原稿は……原稿だけは……」
 歯がカチカチと鳴った。手足の筋肉が痙攣するほど身震いしていた。祐樹の股間に生暖かい感触。パンツの中にかゆみとべとついた感触。感触は広がって下に 落ちてゆく。
 (また、もらした)
 長年の間、殴られ続けた自分の体は、喧嘩の予感だけで失禁するほどになっていた。
「ぎゃははは。信じられねえ。高校生でオモラシ?」
「病気よねー、弱虫もここまで行くと」
 不思議だった。これまでなら、恐いと感じた瞬間に体が硬直していた。意識の全てが恐い恐いで塗りつぶされていた。
 今は違う。身体が恐怖におののいても、心のどこかが熱かった。
「やめろっていってるんだ……それは大切なものなんだ……」
 ここでもし謝ってしまったら、どうなるかと、分かっていたから。
 (ぼくはクズかもしれない)
 (もう殴られるのもバカにされるのも慣れた)
 (でも、でも、そのマンガは……それだけは!)
「へえ、やめなかったらどうすんだよ? やんのか、ションベン太郎の分際でよ?」
 ロン毛は嘲笑し、ほとんど同時に祐樹の心の中で何かがはじけた。
「うあああああああっ!」
 絶叫し、突進した。殴りかかった。
 腕を大きく振った素人くさいパンチを放つ。ロン毛は驚いた顔になったが、しかし危なげない動きで祐樹のパンチをかわした。すばやく反撃。祐樹の顔面に鉄 拳。頬に拳がめりこんだ。
 痛みは感じなかった。重い衝撃が頬に生まれ、顔面全体にひろがった。いつもと違って、殴られた瞬間に眼をつむることはなかった。のけぞった。上半身がぐ らついた。それだけだった。倒れずに踏みとどまった。ロン毛が意外そうに片眉を上げる。祐樹自身も驚いていた。いままでは殴られると必ず吹っ飛んでいた。 しかし今は。なぜだ。
 すかさず2発目のパンチを放つ。またかわされた。今度はキックが祐樹の軸足を叩いた。膝を折って倒れこみ、しかしそのとき無我夢中で伸ばした手が茶色く 長い髪をつかんだ。全体重をかける。ブチブチっと髪の引き抜かれる音がした。ロン毛が「ウッ」と悲鳴を漏らす。祐樹の心に高揚感がはじけた。相手が見苦し く呻いた。相手は無敵じゃない。自分と同じ、痛がって血を流す生き物だ。
 相手のうめきと同時に祐樹は頭から突っ込んだ。額のあたりに硬いものがぶつかった。顎の骨だ。相手は頭突きを受けて足元をふらつかせ、後ろに倒れこむ。 そこには改造されたスクーターがあった。スクーターを倒してその上にロン毛が仰向けに転がり、身体をくの字に折って「いでえ」とわめき、そこに祐樹が覆い かぶさって、顔面めがけて何度も何度も拳を振り下ろした。顔面にパンチがめり込むときはこっちの拳も痛いのだとわかった。パンチの一発が歯に当たったらし く、指の皮がむけて血が流れだした。
「てめえ!」背後で怒声がはじけた。
 ロン毛に気をとられていたが、もう一人大柄スキンヘッドのほうだ。が太い腕で祐樹の首根っこをつかむ。ムリヤリ立ち上がらせる。後ろから羽交い絞めにさ れた。「モガア!」見苦しくわめく。「うるせえんだよ!」大柄スキンヘッドが口を抑えた。ごつごつした太い指が口を覆い隠した。息が苦しい。耳元に「さー あ、もうおしまいだぜ?」とせせら笑う声がする。ロン毛の方も立ちあがって腰を落とし、ボクシングのファイティングポーズをとった。
 殴られる! もう逃げられない。
 心の中に不安が芽生えた。殴られて泣きわめく自分のイメージが脳裏をよぎる。だが胸の奥で燃える炎が体を突き動かした。
 いまだ!
 力の限り、口をふさぐ手にかみついた。人指し指と中指に歯を立てた。
 ガリッ! 口の中で、骨と歯のぶつかる思いもかけない大きな音。血の味。
「このやろっ!」
 背後で大柄スキンヘッドが怒声を炸裂させる。祐樹の口から手を引き抜こうとする。それでも祐樹は離さない。手を噛んだままだ。もう一本の腕が伸びてく る。祐樹の口をこじあけようとする。唇と鼻の上を太い指が這いずりまわった。思いきり唇を引っ張られて痛かった。口の中にもう一本の手が入ってくる。
 ガリガリッ! 
 そっちも噛んでやった。いまや祐樹は口で左右4本の指をくわえこんでいた。
「いてえ! いてえ!」
 体を密着させた状態のまま足を踏んでくる。カカトや脛に蹴りを入れてくる。一発ごとに重い痛みが祐樹を責め立てた。だがそれでも離さなかった。顎の筋肉 が引きつるほど強く噛んだ。口の中で指がうごめく、暴れまわる。獲物から逃れようとあがく小さな生物のように。
「ぐぎぎぎぎいっ」
 祐樹、奇声を発した。歯が指の筋肉に食い込む。皮が破れ、筋肉がはじけた。
「ぎゃあ! 離せ! 離せよ! こいつっ!」
 背後からの怒声は悲鳴に変わっていた。目の前に立つロン毛が矢継ぎ早にパンチを浴びせてきた。祐樹はよけることができなかった。頬に、額にパンチがはじ けた。しかし痛みはなかった。体全体がほてって、熱さ以外の何も感じなかった。ただ口の中だけにすべての注意力が集中した。
 ばきっ。
 枯れ枝を踏み折ったような音が口の中で弾けた。背後にのしかかる大柄スキンヘッドの巨体が、はっきりと痙攣したのが伝わってきた。もう一度顎に力を入れ る。ぱきん、ばきっ。犬歯が指の皮膚を裂き、その奥にあるヌルヌルした硬いものを噛み砕く。血と肉がズタズタになって、硬い骨の破片が口の中にひろがって ゆく。
「んんーっ! んんっー!」
 大柄スキンヘッドが泣き声をあげた。祐樹、顎の力がゆるむ。口の中から指が逃げ出す。唾といっしょに、砕かれた骨を吐きだす。
「おれの……おれの指があ……」
 すすり泣く声。跳びのくようにして足音が去る。ロン毛のほうはいまだに祐樹の前に立っている。唇を引きつらせて凄む。ぎょろりとむき出された眼が血走っ ていた。
「て、て、てめえ……なんてことしてくれやがる……」
 皮ジャンの前をはだけた。中から取り出したのはフォールディングナイフ。刃を出して、逆手に握って構える。ナイフのギザついた歯は長さ15センチ。
「さ、刺すぞ、ブッっ殺すぞ」
「やれよ……やってみろよ」
 ナイフを向けられても祐樹は動じなかった。自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「やってみろっていってるだろ……」
 そう言って祐樹は一歩踏み出す。ロン毛は見えない壁に押されるようにして一歩下がる。足がスクーターにぶつかった。これ以上逃げられない。「ひっ」小さ な悲鳴をあげてロン毛は視線をさまよわせる。
「さ、さ、刺すぞ」
「やれっていってるだろっ」
 祐樹が叫ぶ。ナイフの前に掌をかざした。ロン毛の顔をにらみつけた。よく日焼けした彼の顔は恐怖にひきつっていた。眼が逃げ場を探して泳いでいた。完全 に迫力で負けていた。いじめの力関係が逆転していた。
「なんで……なんでだよっ」
「……謝れ」
「なんで……なんでそんなことするんだよっ。なんでだよ……なんでだよ……クズの癖に……クズの癖にっ」
「そうだ、ぼくはクズだ」
 ロン毛の顔を凝視したまま祐樹はいい切る。
「だからいじめられても何にもできなかった。でも……原稿は違うんだ。大切なんだ……大切なものができたんだ……大切なものを汚したんだ……。
 だったら殺しあいをするしかないよね。さあ、やろう、殺しあい」
 しばらく沈黙があった。
 ロン毛の全身が震えた。震えはどんどん大きくなってゆく。
「……わ、わかったよ……わりいよ! すまなかったよっ」
 ロン毛、叫んだ。スクーターに飛び乗った。即座にエンジンをかけ発進させる。祐樹の目の前から走り去る。
「ま、まてよっ」
 大柄スキンヘッドがスクーターであとを追う。二人で車道に飛びだす。改造マフラーの爆音も高らかに、遠ざかってゆく。
 祐樹、まず原稿を拾った。無我夢中で拾い集めた。
 ズタズタになった紙片を両手の中にかき集める。
 終わって、あたりを見回した。
 ふたりは消えた。エリはとっくの昔にいなくなっていた。
 また静けさが戻ってきていた。コンビニ駐車場にはトラックが並び、店内に眼を向ければサラリーマンが漫画を立ち読みしている。まるで何事もなかったかの よう。
 だが、確かに闘いはあったのだ。肉体にすべてが刻印されている。顔面が腫れて熱い。口の中には血の味が残っている。噛み砕いた骨と肉の味がまざまざと思 い出せる。
「……勝った?」 
 ぽつりと口にした。
 そうだ、勝ったのだ。
 生まれて初めて、いじめっこと喧嘩して勝ったのだ。
「そうです、勝ったんですよ」
 女の声がした。ベルタの声だ。
 仰天して、振り向く。
 ベルタがそこにいた。微笑んで立っていた。
「おつかれさまです」
 手にしたハンカチで祐樹の口元を拭ってくれた。ハンカチは冷たい水にぬれていた。心地よかった。
「ど、どうしてここに……み、見てたの?」
「はい。途中から」
「え……」
 どぎまぎした。恥ずかしくて眼をそむけたくなった。「どうして助けてくれなかった」とは微塵に思わなかった。
「み、見られてたんだ……また、かっこわるい……」
 祐樹、眼をそらしてうめく。股間を隠して内股になる。ズボンはグッショリ濡れているのだ。
「なにがかっこわるいんですか?」
「あの、それがその……お、おしっこ……」
「どうでもいいですよ、そんなこと」
 ベルタは明るい声で即座に言いきった。
「すました顔で眼をそむける人間より、たとえおしっこをもらしながらでも闘う人間のほうが強くてかっこいいに決まってます」
「そうなのかな……」
「そうですよ」
 祐樹はとつぜん背筋をピンと伸ばし、ばね仕掛けのように勢いよく頭下げた。
「ぼ、ぼく、ベルタさんに謝らないと……」
「謝るのはわたしのほうです。祐樹さん、強い人だったんですね。ほんとうに大切なもののためなら、いくらでもがんばれる人だったんですね」
「そんなこと……ベルタさんがいたから。ベルタさんが誉めてくれたから、がんばれただけなのに」
 いきおいこんで祐樹は訴える。別れたくなかった。万にひとつ億にひとつ、ベルタの気が変わってくれるのを期待した。
「……祐樹さん」
 ベルタはさびしげにほほえんで、祐樹に顔を近づけた。コンビニの明かりに照らされたベルタの端正な顔立ち。冷たく大人びて見えた。キスできるほどの至近 距離。
 至近距離から祐樹に瞳を向け、いった。
「おねがいがあります」
「え……」
「どうか、今日のように、自分の大切なものを忘れないでください。自分はこれのためならがんばれるんだって、思いつづけてください。
 わたしもそうします。わたしはこれから旅に戻ります。いろいろつらいことはあると思いますが、祐樹さんのことは忘れません。祐樹さんとすごした時間、 いっしょに食べたホットケーキ、本屋を楽しく歩いたこと、恋人だって冷やかされたこと。誰かの役に立てたんだって、わすれません。祐樹さんが、わたしの 『たいせつ』です。
 だから、祐樹さんも忘れないでください」
 祐樹、口ごもった。
 息が詰まるほどの緊張に襲われた。同意したくなかった。これが別れの言葉だと、今度こそ次はないのだとわかったからだ。「ぜったいにいやだ、一緒にい て」と言いたかった。自分の心臓が破裂しそうに高鳴っているとわかった。目の前のベルタをじっとみつめた。黒曜石のような瞳に、意思のきらめきが宿ってい た。ベルタも悲しんでいる。ベルタも自分と別れたくない、そう気づいた。
「……ぼくは……」
 祐樹、口を開く。あれほど口の中で血が流れたのに、もうカラカラに乾いていた。
「……ぼくは……忘れない。ぜったいに」
「ありがとう」
 祐樹とベルタは同時に微笑んだ。二人の頬を涙が伝った。
「……泣き虫」
「そっちこそ」
 口をとがらせて、ふたりでクスクス笑う。
 一足先に笑うのをやめたベルタ、祐樹の頬にそっと口づける。
「あ……」
 そして軽やかにくるりと回って、去っていった。
 遠ざかる背中を祐樹は黙って見送った。
 ベルタの姿が見えなくなってからもしばらくその場で立ち尽くしていた。
 やがてきゅう、と腹が鳴った。我にかえった。
 コンビニで肉マンを買って、頬張りながら家に向かう。深夜の歩道を歩く。
 寒気が身を締め付けるようだった。歩道にはまったく人影はなく、かたわらの車道には巨大なダンプカーが地響きを立てて通り過ぎていった。
 しばらく歩くうちに心の中が冷めて、不安がこみあげてきた。
 こんな夜中に、傷だらけで帰って、父さん母さんはなんて言うだろう。
 いじめっ子たちは報復してくるかもしれない。
 ズタズタになってしまった漫画を、また描きなおさないといけない。
 ひとりぼっちの毎日が、明日からまたやってくる。
 空を見上げてため息をついた。
 真っ黒い空には、たった数個の白い星が弱々しく光っている。
 (でも、大丈夫)
 胸のうちで、ベルタとの約束の言葉をかみしめる。
 (ぼくは、がんばれる。ひとりでも。がんばらなきゃいけない。)
 
 9

 ホームに、小豆色の電車がすべりこんできた。
「……ドアがしまります。駆け込み乗車にご注意ください」
 機械的な声の放送。ホームの上でメガホンをもっている警備員を尻目に、ベルタは大きな紙袋を抱えて電車に乗りこむ。
 背後でプシューとドアが閉まる。
 電車の中はボックスシートとロングシートが半々で、ベルタは空いていたボックスシートの一つを選んで座り、窓の外を見ながら紙袋をゴソゴソ、ホカホカの 大判焼きをとりだす。
 窓の外の景色が流れ出した。ホームが瞬く間に消え、駅ビルの看板が遠ざかり、田園風景が見えてくる。
 わずか一週間すごしたにすぎない街。しかし、大切な思い出を手に入れた街。
「……ここに来てよかった……」
 微笑を浮かべて呟き、大判焼きにかじりついた。 
 
 
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