泣き虫兵器ベルタ

 (分割版)

 第2章「私がそばにいる」
 1

 カップの中に白い杏仁豆腐。スプーンを入れるとまったく抵抗なく入った。この柔らかさは本物だ。
 すくい取って口の中に入れる。甘さと酸味が口の中でとろけて広がった。
 (うーん、幸せ)
 ベルタは杏仁豆腐を食べつつ、横浜中華街を歩いていた。半そでシャツにキュロットスカート、白くほっそりした脚をむき出しにしたラフな格好だ。
 整然と格子状にならんだ道、見渡す限りすべてのビルに中華料理屋や中華物産店が入っている。看板は金の文字をつかった仰々しいものだ。夏のまぶしい日差 しを浴びて光り輝いていた。
 道行く人々の中にはベルタ同様、なにかを食べているものが多い。
 カップが空になった。傾けて汁をすする。
 空いたカップはビニールにくるんで肩掛けカバンに放りこむ。
 6つ買った杏仁豆腐もこれで最後だ。
 (これからどうしよう)と小首をかしげたまさにその瞬間、耳が異音を捕らえた。
 (かちゃ)
 足音や人々のざわめきの中に、金属のぶつかりあい揺れる音がまざっている。キーホルダーでも小銭でもない。背後から聞こえるこの音は……拳銃の安全装置 を外す音だ。
 (追っ手だ)
 まだ翼は出さない。あれは目立ちすぎる。ベルタは有機脳の演算リソースを聴覚に配分、耳を澄まして追っ手の人数を確認。周囲にいる数十人の足音をすべて 聞き分けて分析、体重や筋肉のつきかたを推測。
 (訓練を受けた戦闘員は、五人)
 (これくらいなら、なんとかなる)
 ベルタ、歩くペースを早める。人間として不自然ではない小走りの速度になる。
 背後の足音も加速した。
 『燕雷亭』と書かれた看板のある真っ赤な中華料理屋に飛びこむ。
「いらっしゃ……」 
 店員が声をかけてくる。無視して突進、赤絨毯の上を突っ走り、丸テーブルの並ぶ店内を駆ける。昼食を食べていた身なりのいい男女がベルタを見て唖然。
「失礼しますっ」
 叫んで階段を駆け登り、2階の窓をあけて飛びだす。他の店の屋根に乗り、看板を足がかりにして屋根から屋根へジャンプ、またジャンプ。途中で背部放熱機 関を展開。胸の中の生体過給システムを戦闘出力で起動。黒髪を波打たせて10メートル級のジャンプを連続。
 (よし、ついてこない)
 当たり前だ、人間がこの動きについてこれるわけがない。
 だが7つ目の店の屋根に飛び乗ったとき、耳が風切り音をとらえた。後方から接近する巨体を察知した。
 ズガン! 盛大な音を立てて、すぐ後ろに着地する。
 (飛んできた! わたしと同じか、それ以上の運動能力)
 振り向いたベルタの眼に飛びこんできたのは、6枚の翼を広げた巨漢の姿。
 身長200センチ、肩幅といい胸を厚みといい人間よりグリズリーに近い体格だ。金色の髪を短く刈り、下半身はアーミーパンツ、上半身はモスグリーンの ジャンパー。
 (アントン!)
 ベルタの兄に当たる白兵戦型エインヘリヤル、アントンだ。
 アントンはネイビーカットの下のごつい顔立ちに笑みを浮かべた。
「ようベルタ! いいかげんおとなしく捕まれよ!」
「嫌です!」
 ベルタ、叫んで駆けだす。ジャンプして近くのビルのベランダに飛び乗り、そこから屋上に飛び移り、背後でズガンと重い音がしてベランダが崩れ、さきほど より近い1メートル程度の距離でアントンの大声が、
「逃げだって無駄だぜい、ベルタ!」
 (確かに)
 ベルタは胃の中に重いものが広がっていくのを感じた。
 アントンの体力、瞬発力は自分を確実にしのいでいる。
 このままでは追いつかれる。どうすれば?
 12軒めの店の屋根に着地した。すでにここは中華街の端だ。目の前には片側3車線の大きな道路が広がっている。
 これ以上飛び移れない。
 視線が、道路上の車の列に吸い寄せられた。
 ベルタ、飛び降りる。高さ20メートルから歩道に着地。履いているスニーカーが煙をあげる。歩行者の中年男が腰を抜かす。目の前に広がる通りに駆けよ る。通りを埋め尽くす車の中から一台のバイクに注目。白と赤に塗られた足の長いバイクだ。ホンダのオフロードバイク、CRMだ。
「ごめんなさいっ!」
 叫びとともにバイクに突進、ライダーを蹴り落としてバイクを奪う。バイクはとてもシートが高くベルタでは足が着かない。それでもまたがってエンジンをか け、『ぱぁんっ!』2ストローク特有の破裂音を立ててバイクは発進する。前輪を振り上げ、後輪を空転させて車の列の中を突き進む。赤信号に出くわした。目 の前をトレーラーが横切る。止まっていられない。ハンドルをひねってバイクをねじり倒し、歩道に乗り上げる。
 背後でバオン! エンジンの野太い雄叫び。
 振り向くと、大型バイクにまたがったアントンの姿。一抱えもある青黒い燃料タンク、ベルタが乗るCRMの二倍はあるタイヤ幅、水冷であることを誇示する かのようなのっぺりしたエンジンが左右に張り出している。ホンダのCB1300だ。
 (アントンも足を手に入れた!)
「オラッ! ちょこまかしやがって!」
 怒声を張り上げたアントン、たちまち距離を詰めてくる。排気量で5倍、基本的なパワーがけた違いだ。
「くっ……」
 うめいたベルタ、唇の端を噛んで車体をひねり、体全体を振り子のように振ってCRMを急旋回させる。歩道のタイルの上をタイヤがすべる音、キュルルと甲 高く悲鳴をあげて方向転換、そちらにはワイシャツ姿のサラリーマンが、
「どいてくださいっ!」
 すんでのところで衝突を回避、その先にも別のサラリーマンが、おばさんが立ちふさがる。なんとか合間をすり抜ける、悲鳴と怒号が浴びせられる。バッグや アタッシュケースが体に当たる。人ごみがまだ続く。前方わずか数メートルに幼稚園児の集団を見かけた。よけるには間に合わない。車体をジャンプさせて飛び 越えた。
 (どっちに逃げればいい?)
 あたりを見渡す。視界に飛びこんできたのは青々とした緑に囲まれた横浜スタジアム。その脇に並んでいる首都高速の出入り口。
 (首都高なら!)
 交差点を突っ切り、目の前をふさぐ巨大トレーラーに急ブレーキをかけさせ、首都高への入り口を駆け登った。
「お客さん、ノーヘル……うわあ!」
 料金所から身を乗り出して叫ぶ係員。その腕の下をくぐりぬける。
 首都高1号線、上り方面に入った。すぐに道は下り始める。地下にもぐった。下り坂はトレーラーやトラックで埋め尽くされている。車体をひねって隙間を抜 けてゆく。速度80キロを維持する。左右はトラックが銀色の壁となってそびえている。一台ごとに高さの違うバックミラー。首をすくめてよける。
 また上り坂になった。速度は下げない。プィィィンと甲高いエグゾーストが唸っている。股間の下からすさまじい震動が伝わってくる。エンジンが高回転で悲 鳴をあげているのだ。
 (これ以上だせない。このバイク、選択間違えたかな……)
 道路は高架の上を走っている。右手にランドマークタワーと三菱ビルヂングが仲良く並んで見える。たちまち背後に流れる。続いて見えてきたのは三越デパー トと横浜駅だ。右も左もビルが囲んでいる。道路脇の金網越しに、国道15号線が見下ろせる。
 ブオン!
 背後、たった二、三メートルの距離で弾けた野太い排気音。バックミラーをちらりと見る。バックミラーの中にはCB1300にまたがっているアントンの 姿。大口をあけて笑っている。
 (……追いつかれた)
 背筋に冷たいものが駆ける。スロットルを握る手に汗がにじむ。
「もう逃げられねえぞ、べルタっ」
 もっと速度をあげようとした。だがだめだ。このバイクはハンドルの幅がありすぎる。これ以上速度を上げたらすり抜けできなくなる。
 そのとき、道路脇にびっちり並んだ金網に気づいた。
 (ここだ!) 
 クラッチを切って思いきりエンジンを吹かし、次の瞬間クラッチをつなぐ。同時にハンドルを引っ張りあげ、両足で思いきり路面を蹴った。
 バイクをジャンプさせた。
 重さ100キロのCRMは綿毛のように軽々と舞い、金網の上に着地。タイヤの中心線を金網に合わせる。全神経を指先に集中。ブレーキレバーに伝わってく る何百分の一グラムという感覚でタイヤの摩擦具合をチェック。バランスをうまくとった。
 ここに車は走っていない。どこにも障害物はない。
 思う存分、スロットル全開。エンジンがいよいよ激しく絶叫。尻がしびれるほどの震動とともにバイクが加速、時速120キロに達する。これはCRMの最高 速度だ。
 びゅう、とその瞬間激しい風が。車体を持って行かれそうになる。体をとっさに振って立て直す。その表紙に下が見えた。工場だ。高さ20メートル下は工場 だ。パイプとタンクが並んでいる。
「このやろっ。このやろっ」
 後ろから排気音にまぎれてアントンの叫びが聞こえる。バックミラーをチェックすると、車列の間からアントンのバイクが見えた。すでに指先ほどに小さく なっている。「ふんがっ!」アントンも車体を飛ばせた。CB1300の巨体が宙を舞う。しかし金網に乗るのがやっとで、安定して走ることができない。金網 がたわんで波打っていた。グラリグラリと車体が大きく揺れる。首都高の中へ転げ落ちる。ガシャンと破壊音。
 ベルタのCRMと比べてCB1300の重さは3倍。重すぎるのだ。
「くっそおおお!」
 ドイツ語の罵倒が風に乗って届いた。すでに姿は見えない。
 (よし、いまのうちに距離を稼ごう)
 ようやく一息ついて、これからのことを考え始めた。
 (このまま東京まで走って……)
 あたりを見る。左手には幅10メートルしかないような狭い運河、そして運河沿いにはトタン屋根の建物がびっしり並んでいる。モーターボートや漁船がつな ぎとめられている。ずっと前方に大きな川が見える。鶴見川だ。
 頭の中の地図と照合した。ここは子安のあたりだ。あと10キロで東京に入る。
 飛行機、新側から新幹線、どの方法で移動するのがいいかと考え、
 ずがずがずが! 
 何かの破壊される音が後ろに炸裂した。ずがががが! 音はどんどん近づいてくる。
 (いったい何が?)
「ベェェェルゥタァァァッ!」
 アントンの絶叫。距離は後方20メートル。また追いつかれた。一体どうやって。バックミラーをのぞいて唖然とした。
 アントンは削岩機のような勢いで車を蹴りながら走っていた。左右の車にブーツを叩き込んでいた。キック力数トンに及ぶ蹴りを受けてベンツのドアは変形し カローラの窓ガラスはふっ飛びトレーラーの貨物室は打ちぬかれた。軽自動車にいたっては車体そのものが宙に浮く。
「げはは、オラオラ、どけってんだよ!」
 キックの威力におびえてか、彼の前方の車がどいてゆく。左右に道をあけてゆく。モーゼの十戒のように生み出された道を、アントンのCB1300が150 キロオーバーで疾駆する。
「な、なんてことを……」
 驚愕のうめきをあげるベルタ。すでにアントンは10メートルほどの距離に迫っている。自分のバイクはこれ以上加速できない。
 バックミラーの中でアントンがすばやく動いた。ジャンバーの前を開く。中はタックトップ一丁のようだった。脇の下に黒い塊を吊っているのが見えた。
 (拳銃!)
 ベルタの心の中で警告の火花が散り、火花は0.01秒で全身の筋肉繊維にまで浸透し、つまりベルタは考えるより先にバイクをジャンプさせた。ふわりと浮 く車体。銃声。タイヤの真下を銃弾がかすめ通る。回避成功。だが一発ではなかった。連続した銃声。たたた! たたた! タイプライターのようでもあり、釘 を打っているようでもある音。拳銃ではない。サブマシンガンだ。アントンの運動能力にバイクの揺れまで加算して弾道を予測。即座に予測結果を全身の筋繊維 にフィードバック。バイクを小刻みにジャンプさせる。一発目、二発目、回避成功。黒髪を銃弾がちぎり取り、ハンドルのグリップカバーをえぐってゆく。ぎり ぎりのところで三発、四発、五発、回避成功。その間もずっと反撃の方法を考える。肩にひっかかって揺れているカバンには拳銃が入っている。これで反撃する か。チャンスは一瞬。こちらが狙いをつけている間には回避に回す能力が残らない。
 間断なくバイクを跳ねさせながら手を素早く動かしカバンに手を入れる。しかし遅かった。回避し切れなかった一発の銃弾が前輪を撃ち抜いた。タイヤがバー ストする衝撃が伝わってくる。一気に車体が沈み込む。ハンドルが凄まじい力に振り回される。破裂したゴムタイヤは走る上でただの障害物でしかない。すべ る。タイヤがすべる。もはや暴れている。とっさにブレーキレバーを握りこむ。速度を落とし、シートから腰を上げて体重移動、なんとか転落を防ごうとする。
 そこにまた銃声。ごく近いところで、タンクの下で金属音。とたんにエンジン音が止まる。バイクが急減速。エンジンだ。エンジンを撃たれた。見るとシリン ダーから真っ黒い油を噴いている。そこにまた銃弾。銃弾の嵐。車体のあちこちに被弾。何の回避もできない。もはや速度は40キロ、空気の抜けたタイヤが強 烈な抵抗を生み出し速度は見る見る落ちて、止まるほどだ。
「おらよっ!」
 蛮声ととともに、目の前にアントンの巨体が出現。視界の外でガン! と衝突音。バイクを捨てて生身で飛び移ってきた。次の瞬間、バイクごとアントンがベ ルタを受け止めた。そのまま片手で持ち上げられた。もう片方の腕が伸びてくる。
 (やられる!)
 ベルタの脳内を恐怖と焦りが駆けた。このまま掴まれて格闘戦になったら万に一つも勝ち目がない。こちらは40キロ向こうは150キロ、ウェートの差は圧 倒的。では拳銃か。ダメだ、拳銃弾でアントンを倒すには正確に眼球に撃ちこむ必要が。そもそも時間がない。抜くより向こうの動作が速い。
 だからベルタは、身を投げた。全力でバイクを蹴って空中に飛び出した。
 落下感覚。体が回転。あたりが見えた。ちょうど川の上だった。大きな川。白いワイヤーで吊るされた橋が架かっている。川の幅は軽く200メートル。多摩 川だ。
 落下は1秒そこそこで終わった。ジャブンと水に飛び込む。視界が真っ青な水で覆われる。上のほうに、ゆらゆらと太陽が揺れている。反射的に有機脳の演算 リソース再配分を開始、視覚を減らして聴覚に振り向ける。多摩川の水中を伝わる音が鮮やかに耳に飛び込んできた。
 ベルタ、両腕で水をかいて泳ぎだす。一かきで水面に飛び出した。クロール泳法に切り替えて泳ぎ続ける。数トンの腕力で水の塊を押し出し強引に前に出る。 速度は1秒間で5メートル、トップスイマーの軽く2倍。
 息継ぎで顔を上げるとき、あたりを見て方角を確認。右に川崎、野原が広がって草が青々と茂っていた。左は東京側、ボートが係留されている。目の前には中 洲があって、そのまた向こうは川幅が広くなっていた。海だ、そちらが海だ。全力で水をかき、足をばたつかせた。水面を切り裂き、力強く進んだ。服がこれで よかったと痛感。丈の短いキュロットスカートでと半そでシャツだからこそ泳げる。
 じゃぼん、水音が轟いた。ざばあ、ざばあ、水を力任せにひっかく音が続く。
 奴だ。アントンが追ってきた。聴覚を研ぎすます。だが水音は近づいてこない。追ってこないのだ。ゴボゴボッとあぶくの弾ける音がするだけだ。
 (やはり、アントンは泳げない!)
 ベルタは顔に微笑が浮かぶのを感じた。やっと勝機が見えてきた。記憶どおりだったのだ。「組織」での訓練でも、アントンは水泳を苦手としていた。人間の 身体は水よりわずかに軽く作られている。だが筋肉量の極端に多いアントンは水より重い。そもそも水に浮かないのだ。
「もがっ……もがあっ!」
 ゴボゴボという音に混じってアントンの叫びが聞こえてきた。なんとか水面まで上がってきたのだろう。筋肉の力に任せて、浮かない身体を強引に引きずり上 げたのだ。理屈の上では可能。だが遅くなるはず。前進するための力を浮かせるために取られてしまう非効率。ヘリが飛行機より遅いのと同じ理屈だ。
「この……もがっ! もがっ……! こんちくしょう!」
 怒りと焦りにあふれた声。どんな盛大な水柱をあげているのか、ザブンザブンという音が重なる。どんどん遠ざかる。すでにベルタは数百メートルを泳いだ。 中州の脇を通り過ぎる。右を向けば川崎の工場群、トタン屋根の建物と煙突が見える。左を向けば羽田空港、金網の向こうに滑走路が広がりボーイングの大型機 が舞い降りている。
 あと少し、あと少しで外海に出られる。
 ここでアントンを振り切ったら、東京に行ってそこから長距離移動だ。
 希望に身をたぎらせて、腕を振り、水を掻き分けて進む。
「にがさん! ここでお前を逃がしたら俺は!」
 声がいきなり近くなった。ゴボゴボ音はもう混ざっていない。
 バカな。なぜ急に早くなった?
 クロール泳法を続けながら振り向くことはできない。背後から伝わってくる水音を分析。バシャバシャという音は聞こえれている。だが今までと音が違ってい る。腕が力まかせに水面を叩く音ではない。もっと規則正しい音。そう、まるでオールで船をこいでいるかのような。何か大きなものが水面をすべる音も聞こえ た。
 (ボート!)
 そうだ、アントンはボートを手に入れたのだ。向こうの岸まで泳いでいってて漕ぎボートを奪ったのだ。速度は水泳を確実に上回る。体が重くとも問題ない。 たちまち距離を詰められた。ザブンザブンと舳先が水を切り裂く音が接近。もう5メートルほどしか離れていない。
 息継ぎのときに目玉だけ動かして後方を見た。水しぶきの向こうに白い手漕ぎボート。アントンはボートに座り早まわしのような速度でオールを振るってい る。ボートをこぎながらでは前が見えないのでちらりちらりと振り向く。ベルタのほうを見る。眼が合った。アントンは白い歯をむき出して笑っていた。勝利を 確信した笑顔。
 (どうすればいい)
 ベルタは思いきり息を吸いこみ水中に潜った。再び視界が青い水で覆われる。頭上で揺らめく太陽から離れる。平泳ぎで潜ってゆく。首をめぐらす。ボートの 船底が見えた。船底も白い。あたりを白い波が取り巻いている。
 船底に取り付いた。すでに道具はすべて手放した。素手でやるしかない。手を開いて船底に当てる。指を押しつける。筋力リミッターを解除。最大握力900 キロが指先一点に集中。木製にすぎない船底をぶちぬいてゆく。向こうまで指が突きとおる。船底の木材をちぎりとった。腕が入るほどに穴が広がる。ボコリボ コリと泡が噴いてくる。向こう側に水が流れ出す。一度、二度、三度、そのたびに掌ほどの面積の穴をあける。とどめに一発、穴に両腕を突っ込んで思いきり突っ張った。メリメリと木材の分解音ボートが丸ごと真っ二つになった。
 船を蹴って平泳ぎで離れる。すでに酸素量は切れる寸前、浮上して大きく深呼吸。肺の中に新鮮な空気が流れ込む。眼が覚めるほどの爽快感。クロールに切り 替えてなおも泳ぐ。後方でドボンと水に飛びこむ音。アントンだ。まだあきらめていない。ベルタも泳ぎつづける。すでに東京湾に出ていた。見えるのは青い水 平線と自分のたてる白いしぶきばかりだ。どこまでもどこまでも泳ぎつづける。アントンのたてる水音が追ってくる。なかなか距離が離れない。
 (どういうことだろう。さっきより格段に泳ぎが早くなっている。)
 (さっきボートを沈めたはず……でも粉々にはしなかった!)  残った木片を浮き袋にして泳いでいるのだ。
 (誤算だった)
 必死に腕を振って泳ぎつづけながら、ベルタは己の判断を悔いていた。船を沈めるだけではだめだったのだ。
 しかしもはや手はない。武器はすべて捨ててしまった。ただスタミナだけの勝負。一秒でも長く、一掻きでも多く泳げるか、それだけ。
 だからベルタは無我夢中で泳いだ。あたりは海ばかりで方向転換の必要はない。ときおり太陽の位置を確認して方角を確かめ、あとは体にまかせて機械的に泳 いだ。何万回、何十万回も腕を振るってクロール泳法を続ける。
 やがて意識が遠のいていった。
  

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