泣き虫兵器ベルタ

 (分割版)

 第2章「私がそばにいる」その3
 
  5

 ベルタは書斎で本を読んでいた。
 重厚なマホガニーの机の前にちょこんと座って、広げているのは文学全集。
 このルナール号の書斎には古今東西の名作がそろっていた。片端から読んでいる。
 トントン、とノックされた。
 入ってきたのは礼一郎。白衣をきている。
「やっぱりここか。何を読んでたんですか」
「これを……」
「文学全集? ドイツ語版を取り寄せましょうか」
「いえ、いいんです。だいたい日本語でも意味は分かりますし」
「もしかして無理してませんか、ベルタさん。『上月家の女だから教養を身につけなければ』みたいな」
 かげりのある表情でといかける礼一郎。ベルタはくすりと笑って、
「とんでもない。もともと本を読むのが好きなんですよ」
「ベルタさんは、本当に戦いには向いてないんですね。早く学校なんかも手配できればいいんですが。ああ、沿うそう、見てください、研究の成果が出てきたん ですよ」
 礼一郎ががらりと表情を変えてベルタの腕をとり、廊下を進んでゆく。
 廊下ですれ違うのは船員、ナースメイド、それから白衣姿の研究者たち。全員が礼一郎を見て頭を下げる。
 いくつかの階段とドアをくぐる。いきなり周囲が一変した。高級ホテルのようだった内装が病院のそれに変化する。
 『E実験体遺伝子実験室』と書かれたドアの前までやってきた。ドアは二重になっている。そこをくぐると中は研究室だった。ガラスケースがズラリと並び、 白衣にマスクの男たちが忙しそうに歩き回っている。
「このケース、見てください」
 礼一郎がつれていったのはひとつのガラスケースの前。
 ケースの中には茶色いいきものがチョロチョロと動き回っていた。マウスだ。
「このネズミさんが何か?」
「このケースには青酸ガスが充満してあるんですよ。それからとなりのケースの中は100度を越える高熱。そのとなりは酸素分圧100ミリバールの低酸素状 態です」
「え」
 驚いてケースを見渡す。しかしどのケースの中のネズミも元気に走り回っている。
「でも、どのマウスは死なない。ベルタさんの細胞を移植してあるからです。化学剤への抵抗力、生命力、運動能力、どれをとっても普通のマウスをはるかに越 えています。ベルタさんたちエインヘリヤルの細胞にはこんな力があるんですね。すばらしい、すばらしいですよベルタさん。これを医療に応用すればどれだけ 多くの人間を救えるか分からない。人間の根本的な生命力を上げられるんですよ?」
「……こんな使い道が……」
 自分を利用するなら兵器しかない。そう思っていた。だが医療に活かせるなんて。
「それだけじゃない。類まれな再生力を生かせれば臓器培養にも使えるでしょう。手足や内臓を失ったものでも、もとどおりに生活できるようになる。夢のよう じゃありませんか」
 心のどこかで「これは結局実験台だ」とささやき声がした。しかしその声はすぐに消えてしまった。人の役に立つ実験台、そのどこが悪いというのか。なによ りこの人は、自分のことを一人の人間として扱ってくれる。『組織』の連中とはまるで違う。自分にそう言い聞かせた。
 ベルタ、礼一郎の手をぎゅっと握る。
「ありがとう。礼一郎さん。あなたにあえて本当によかった」

 6

 その日、ベルタは眠れなかった。
 部屋を暗くして、自分一人には広すぎるベッドで、悶々としていた。
 眼を閉じても眠れない。頭の中はたったひとつの思いが占領している。
 (ほんとうにこんな幸せになってよいものか)
 眼を開け、身体を横にして、壁にある丸窓を見る。いかにも船という丸い窓からは暗い海面が見えていた。この海の向こうの世界で自分は戦いを続けてきた。 どうしても逃れられなかった。でもいまは逃れられるという。
 本当に? 信じたとたん消えてしまいそうな恐怖があった。
 この数日、ずっと心にこびりつき、毎夜ベルタを苦しめていた。
 コッチ、コッチと部屋の機械式時計が時を刻む。はるか床下のずっと深くで、ディーゼルエンジンの唸りが轟いていた。
「だめだ……眠れない……」
 幸せすぎて、この幸せが消えてしまうのが恐いのだ。
 ベルタはベッドからむくりと起き上がる。
 そしてパジャマの上に白のカーディガンを羽織る。サンダルをつっかけて室外に出た。
 ふかふか絨毯、壁の絵、広い廊下を歩いてゆく。明かりは小さな赤い非常灯と窓から差し組む月光だけ。
 (どこにいこう……月か。甲板に出てみようかな)
 ベルタは階段をあがって甲板に出た。
 一気に潮の香りが押し寄せてくる。
 ルナール2世号の甲板はテニスコートがいくつも作れるほど広かった。そして何もない。普通の豪華客船と異なり、わずか数人のために作られた船だからだ。
 天を仰ぐと、雲ひとつない空に星星がちりばめられていた。都会では考えられない圧倒的な輝き。そしてぽっかりと銀色の円盤が浮かんでいた。神々しい景色 だと思った。ざあ、ざああ、という波の音に包まれてベルタは星と月を眺めつづけた。心の中の不安が溶けていった。
 と、そのとき、
 耳の中に小さな声が飛びこんできた。
「……しかしあの子もかわいそうだな、見事にだまされて」
「かわいそうなものですか。ベルタを保護しているのは事実です。楽しい夢をみせてやっていることもね」
 男二人の声だった。波音に消えてしまいそうなかすかな声だった。しかしベルタの耳は確かにとらえた。
 背筋を液体窒素の冷たさが貫いた。顔をおろし、声のした方角をみる。船の船首方向だ。
 (いけない)ベルタの胸の奥底で本能的な恐怖が叫んだ。(いったらきっと恐ろしいことになる)(聞かなかったことにして寝室に戻ろう)
 だがベルタは動けなかった。手に命令した。足に命令した。戻れ、甲板から降りて寝室に戻れ。すべて拒否された。
 (こわい。こわいけど、こわいから知りたい)
 このまま逃げたら、明日からきっと私は、不安でたまらなくなる。
 だから不安を晴らしたくて、甲板を駆けだした。
 ひさびさに筋肉を精密制御、足音をたてずに時速40キロで走る。
 船首に向けて進むあいだ、声がいくつもいくつも耳に飛びこんできた。
 「それにしてもあの娘、見事に信じておったな。あんな三文芝居を」
 「超人とは言いますが、結局はただの世間知らずです。見たがっている夢をみせてあげればいい。簡単なことです」
 「女たらしのいいそうなことだ」
 「ひどいですね父さん、これは父さんの血ですよ。若いころ欧州の社交界で悪名を轟かせた血です」
 「ふふん。まあ、そのくらいできねば務まらんな」
 もうわかっていた。この二人が誰であるか。礼一郎と、その父だ。だが、それなら会話の内容は。
 きっと何かの間違いだ。きっと何かの冗談だ。それだけを信じてベルタは走り、
 わずか数メートルの距離にまで迫ってベルタは叫ぶ。
「礼一郎さん!」
 ふたりは振り向いた。二人ともガウンを羽織っていた。髪型と年齢こそ違えど、同じ服装をしてみるとこの二人は実によく似ていた。
「やあ、ベルタさん、どうしたんですか」
「……どうした、じゃありません」
 礼一郎をにらみながら言うベルタ。いや、にらんでいるつもりなのだが自身がなかった。もしかすると泣き顔になっているかもしれなかった。
「いまの会話は何ですか。わたしをだましている、夢をみせている……」
 ふふ、礼一郎が笑い出した。口元に手を当て、軽薄な調子で笑っている。
「なにがおかしいんですか」
「ハハハ、アハハハ……そうさ、そのとおりだよ。ぼくは演技をしていた」
 こともなげに言い放つ。覚悟していたはずなのに、ベルタのつま先から頭蓋骨のてっぺんまで極寒の塊が走り抜ける。気温30度を超えているはずなのに全身 の産毛が立った。
「あっけなかったな、例一郎」
 父親がにやつきながら言う。やれやれといったふうに肩をすくめている。
 ベルタは礼一郎の袖に取りすがって、
「まさか……嘘ですよね、冗談ですよね?」
「いいや、真実だ」
「じゃあ、わたしを愛しているといったのは……抱きしめてくれたのは……父親とケンカしてくれたのは……」
「演技だよ、すべて」
 となりの父親も面白そうにベルタを眺めながら、
「もちろんわたしが怒ったのも芝居のうちだ」
「一体何故そんなことを!?」
「決まってるじゃないか」
 礼一郎は小首をかしげた。不思議そうな表情を浮かべた。
「そうすれば君が手に入るからさ。君の肉体は医学的驚異の結晶だからね。細胞再精力、神経加速、放熱機関の形成、何もかも面白い。どれだけ多くの薬を作れ ることか。ぜひ君がほしかったんだ」
 ベルタ、悔しさに歯をくいしばった。礼一郎の腕を不利ほど気、一歩、二歩あとずさった。
「なんてことを……」
 悔しさと怒りで胸のうちが燃えていた。礼一郎をにらみつづけていた。しかし心のどこかで疑問があった。
(なぜ、こんな簡単に真実をばらしたんだろう? しらばっくれればどうにでもなったはずなのに)
 礼一郎は白面に笑みを浮かべている。ベルタが怒りの視線を叩きつけているというのにまるで動じない余裕の笑みだ。
「憎いかい、ぼくのことが? じゃあ逃げるかい、ここから?」
 軽い動作で、黒くうねる海原を指差した。
「できるかな、君に。この船の外は、相変わらず闘いの日々しかないというのに。一流シェフの食事と、ふかふかベッドと安全な毎日に慣れた君が、もとの生活 に戻れるかな」
 胸が詰まった。そのとおりだと思った。拳を握りしめた。自分の体を見下ろした。チェックのパジャマ。足元はサンダル。かつての自分はこんな格好は決して しなかった。自分の体すべてがだらけてしまっているのがわかる。
 (でも、それでも。)
 ここにいたら自分は籠の鳥だ。
 自分にうそをついて、愛しているとうそをついた礼一郎に、ずっと抱きしめられて生きてゆくのだ。そしていつのまにか、うそをうそとも感じなくなる。
 (それが本当に、うそで作られた楽園が私の望んでいたものなのか。)
 (だめだ、わたしにはできない。)
 きっと顔をあげた。胸の奥でどろどろと渦を巻くくらい情念を、そのまま言葉に乗せて叩きつけた。
「……いやです。どっちも……外の世界も……ここも……いやです!」
 ベルタ、甲板を走る。そのまま手すりを飛び越え、船の壁ぎりぎりを落下、真っ暗な海に飛びこんだ。
 視界が真っ暗に。ゴボリと口からあぶくがこぼれだす。目に映るものは黒い水とあぶくばかりだ。
 飛びこむとき、息を吸いこまなかった。ベルタはすぐに息苦しさを感じる。もう浮上しないと死んでしまう。
 (なぜいけない)
 体中を鉛のように重い諦観が満たしていた。
 (もういやだ)
 ベルタは目を閉じた。
 このまま何も感じないようになれればいい。

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