| 泣き虫兵器ベルタ (全面改訂版) プロローグ 私はその日も、彼女の元を訪れた。 携帯端末にガンガン入ってくるメールを無視して、もう若くはない体を引きずり、クルマを飛ばした。 青くさびしげに輝く太平洋のそばに記念館はあった。ガラス張りの二階建てで、事件の巨大さを考えれば驚くほどささやかなものだ。 駐車場にクルマを入れて、警備員に頭を下げる。白髪頭の警備員は私の顔を覚えており、微笑んでくれた。 入場券を買って記念館に入る。 土曜日の昼間だというのに、人影は少ない。年配の客が三、四人がいるだけだ。当然だと思う。この記念館には娯楽性がない。陳列ケースの中に並んでいるの は「事件」の再現模型、当時のニュース映像、それから「事件」で死んでいった人たちの遺品や、書き残した遺書。そんなものばかりだ。はっきりいって暗い。 説教くさい。 だが私はここに来るたび、心の奥底に炎をともすことができる。日々の生活で緩んでしまった心のネジを、ギチギチに締めなおすことが出来る。 彼女がいるから。 記念館の一番奥に彼女はいた。 ガラスケースの中、体すべてが真珠のように白く輝く、全裸の少女。重厚なブロンズの台座に乗っていた。 スレンダーな体つき。胸も腰も肉付きは薄い。年齢は十五歳前後か。肩までの髪は風にでも吹かれたのか乱れている。台座の上に横すわりして、丸顔に真剣な 表情を浮かべ、いまはもう何も映さない瞳を上に向けている。右腕が肘のところで断ちきれていた。残った片方の手を空中に伸ばしている。天に救いを求める宗 教者のようでもあり、叩きのめされてなお立ち上がろうとあがく闘士のようでもあった。 腕だけでなく、体のいたるところに傷があった。それでも彼女はまなじりを決して天を仰いでいる。 かつて聖女、救世主と呼ばれ日本全国でたたえられた彼女だが、いまではもうすっかり忘れ去られてしまっていた。彼女の姿に眼をとめるものは誰もいない。 私は彼女の真正面にしゃがみこんだ。一メートルの距離から、顔をじっと見つめる。 胸が締めつけられた。懐かしさで息苦しいほどだった。 愛らしい顔だった。広い額、ふっくらとした頬、幼さを感じさせる大きなひとみ。その瞳に秘められた決意を、もちろん私は知らない。最後の瞬間に彼女が何 を考えてきたのか知らない。私の人生が彼女と交差したのはほんの一瞬だ。あとはずっと、はるかに生ぬるい世界を生きてきた。たかが数百数千の言葉を交わし たくらいで「彼女を知っている」などとは語りたくない。 だが、それでも思うのだ。 彼女がここにいる限り、私は逃げたくない。弱音を吐きたくない。 彼女は少なくとも逃げなかった。戦う義務などありはしなかったのに。 私は拳をぎゅっと握りしめた。 (私は、逃げていないか?) (彼女の想いに、私はいま応えているか?) 私は小さな声で彼女に呼びかけた。 「……ベルタさん」 目頭が熱くなった。だが涙をこらえた。ここで泣くわけにはいかない。彼女に笑われてしまう。 第1章 1 粉雪の混ざった希薄で冷たい風が、眼下の暗闇から吹き上げてくる。 ベルタは山岳迷彩の野戦服に身を包み、肩には黒塗りのアサルトライフルを吊るして、岩壁を登っていた。 崩れやすい切り立った崖にほっそりした手を伸ばして、激しい風に黒髪を乱しながらも、バランスを失わず登っていた。人間のクライマーに絶対不可能な、体 重がないかのような素早い動きだ。一秒で三つ、四つの足場を越えてゆく。彼女の筋肉は常人と比較して三十倍の収縮力を持つ。バランス感覚も人間の限界をは るかに超えている。だから可能だった。 ベルタの眼球は星明りを増幅し、闇を見通していた。聴力も研ぎ澄まし、冷たい風に乗ってくる音のすべてを把握していた。何百メートル下の谷底を吹きぬける風の音、兵士たちの話し声、銃のがちゃりと鳴る音。舌打ちや唾を呑みこむ音までもが聞こえた。 脳内で思考コマンドを念ずる。 (有機脳演算リソースを聴力に優先配分) 耳に飛びこんでくる音が数倍に跳ねあがった。頭上数十メートルの高さにいる兵士たちの息使いがわかる。足音で体格がわかる。会話の内容がはっきり聞き取れる。訛りの強いロシア語だ。 ……コンドラチェンコ将軍にも困ったもんだな。 ……まだ中央に打って出るとかいってるんだぜ。 ……おれたちはいつ国に帰れるのかなあ。 ……オレなんかはもう、ここを第二の祖国って決めてるから。 ……でも都会が恋しいよ……ここもイラクみたいに米軍が来るかもしんねーし…… ……大丈夫、この国なんて攻撃しても利益がないさ。 緊張感のない会話だ。ほっとした。 自分たちの襲撃はバレていない。 作戦成功率が上がったのを感じる。自然と頬が緩んだ。 (だめだ気合を入れろ) 自分にそう命令する。 (わたしはフェルトヘルンハレの戦士。超人だ。義務を果たせ) 頬を口元を引き締め、ますます勢いをあげて岩壁を登る。 登りきる寸前、どん! くぐもった爆発音が轟いた。岩壁が振動する。小さな石がベルタのまわりでも多数はがれ落ちてゆく。 ……なんだ!? ……敵襲だ! ……どこの軍閥だよ!? 兵士たちが叫ぶ。銃の安全装置を解除する音がガチャリガチャリと連続して聞こえてくる。 (よし! 時間通り!) 腕時計を見るまでもない。頭蓋骨に埋めこまれた戦術支援電子脳が正確な時刻を教えてくれる。現地時刻で二十四時ジャスト。計画通りに、彼女の兄アントンが陽動作戦をはじめてくれたのだ。 ベルタはスパートをかける。岩壁を登り切り、一番上に手をかけて一気に体をひっぱりあげる。体が宙を舞って、着地した。 百メートル程度の広がりをもつ平地だ。コンクリートの建物がそびえている。灰色で箱型をした飾り気のない建物だ。 「おい、きさま!」 怒声が浴びせられる。振り向くとそこに一人の兵士がいた。大柄な体を迷彩服に包み、頭には円筒形の帽子を載せている。顔の下半分が褐色のヒゲで覆われ、 手にはアサルトライフルをもっている。寸詰まりの銃身とバナナ型の弾倉、このカプルスタンではきわめてありふれたAK74だ。 振り向いた瞬間、兵士の眼に当惑がうかぶ。 理由はわかった。ベルタが子供に見えたのだろう。身長一五五センチの小さい体、胸と腰の未発達な体型、ふっくらした頬にくりくりと大きな眼、十五歳より上には見えない。 兵士の動きが止まった一瞬の間に、ベルタは念じる。 (起動・音撃制圧兵装『ギャラルホルン』) 息を吸いこみ、声帯構造を変換する。周波帯・波形パターンをチューニング完了。 「……ハッ!」 口から超音波の塊を吐き出す。兵士に叩きつける。 兵士の全身が弛緩する。その場に崩れ落ちる。AK74が地面に落ちる音がゴツンと響いた。 兵士に駆け寄って、ブーツで肩の関節を踏み砕く。 目の前の建物に駆けよる。窓をぶち破って飛びこんだ。ガラスの割れる音は、建物のむこうから響いてくる爆発音にかき消されてほとんど響かない。 コンクリートむき出しの殺風景な廊下が続いている。走る。 曲がり角を曲がったところでまた一人の兵士に出くわした。彼が引き金を引くより早く、ベルタは蹴り上げた。大気をつんざいて迫撃砲のように上昇した軍用ブーツが兵士の顎を直撃し、兵士は銃を投げ出してもんどりうって倒れる。 「いたぞ! 侵入者だ!」 背後からロシア語の叫びが連続して響いた。 振り向くまでもない。ベルタの聴力は足音と声をとらえて解析し、銃をもった五人の兵士がそこにいると教えてくれた。 体をひるがえした。 兵士たちはすでに発砲していた。銃口からオレンジの閃光が弾けた。身をかがめ、前傾姿勢のまま床を蹴る。何トンもの脚力で体が駆動され弾丸のように疾駆、前方の兵士まで数メートルの距離を突進。 弾丸が飛んでくる。見える。弾丸は二種類。螺旋状の白い尾を引いて飛んでくる、杭のように細習いライフル弾。白い尾を引かずに飛んでくるドングリ型の拳銃弾。 (……サブマシンガンもあるのか? それなら!) 身をかがめながら手を伸ばす。ドングリ型の小さな弾丸ばかりを手で受けた。一発、二発。いや一撃、ニ撃。掌に、鋼鉄の棒で踏みにじられたような痛みが走る。だがベルタの肉体は強靭だ。耐えられないほどではない。弾丸は掌の皮膚を食い破り骨に当たって止まった。 掌を振るう。つかみとった弾丸を放り投げる。 残った弾丸は空中に十発、いずれも細長い、衝撃波をまとったライフル弾。 身をよじる。左右にステップを踏む。弾丸と弾丸の間に体をねじ込むようにして回避する。頬を撫でて弾丸が飛んでゆく。衝撃波が頬の筋肉を叩く。肩を弾丸がかすめ、迷彩服の布地が引き裂かれる。 敵兵との距離はすでに二メートル。 すべての弾丸を回避したベルタは、前傾姿勢をますます強め、床に手を突く。冷たいコンクリートむき出しの床が見える。 そのままの勢いで体を逆立ちさせる。人間の数十倍に及ぶ筋力で両足を振り回す。大気をつんざいてベルタの蹴りが炸裂。ブーツに、膝に、アルミの空き缶を踏み潰したような衝撃が走る。 (……手ごたえあり) 床に着いた手に力をこめ、跳躍する。空中で回転して着地する。 あたりの兵士たちが一人の残らず倒れていた。 目に見えない爆発に吹き飛ばされたように、外側に倒れている。全員が銃を投げ出している。腕があり得ない方向に捻じ曲がっている。壁に倒れこんでいるものもいる。壁と頭の接触面が血まみれだ。 (……力が強すぎた) ベルタは唇をかみ締める。全員の体から呼吸音が聞こえている。死んだものはいないが…… 「いたぞ!」 背後で声がはじけた。 (……ぼんやりしてる場合じゃない!) 背中を『むずがゆさ』が駆けた。『電磁感覚』だ。金属の弾丸が飛ぶとき、地球磁場が歪む。歪みを感知しているのだ。後方からの銃撃を回避するため、与えられた能力である。 身をかがめて反転した。わずか数メートルの距離に若い兵士がいた。すでにAK74をこちらに向けて発砲している。 しゃがんだまま床を蹴って突進、地面すれすれをタックル。頭の上を銃弾が通り過ぎてゆく。兵士の脚と脚の間を、器用に体をよじって走り抜ける。その間、 わずか0.1秒。普通の人間には『相手が消えた』としか認識できない。兵士たちの向こうに飛び出して、振り向きざまにハイキック。 ブーツに包まれた足が常人の数十倍という速度で駆動され兵士の腕を粉砕する。 兵士が倒れたのを確認。ふたたび走る。走り続ける。 頭の中にこの建物の立体地図を思い浮かべる。目的地、コンドラチェンコ将軍の部屋まではあと一分でたどりつけるはずだ。奇襲効果が薄れる前に必ずやらなければ。 そうこうしている間にもドン、ドンと鈍い音が壁の向こうから轟く。コンクリートの壁と床がビリビリ震える。 (……アントンにいさんたち、陽動ちゃんとやってくれてるな) そのまま廊下を進んでゆく。 出くわした兵士たちはすべて素手で黙らせていく。 やがて、廊下の突き当たりの大きな扉に出くわす。 他の質素で飾り気のないドアとはまるで違う。このドアだけは重厚でレリーフまで施されている。 ベルタの超人的な聴覚は分厚いドアの向こうの声を捕らえる。 『……なんだ? 一体どうなってるんだ? 襲撃の規模は? 二人? 二人だと? 取り乱すな、それでも貴様ソビエト正規教育を受けた軍人か、ええい話にならん』 野太い男の声だ。 ベルタはこの声を知っていた。出撃前に覚えこまされていた。 この軍閥の長、コンドラチェンコ将軍だ。 ベルタは一気にドアに駆け寄る。防弾対爆処理の施されたドアを、ブーツで一気に蹴り開ける。飛びこむ。 向こうにはベッドルームがあった。 巨大なベッドの上に裸の老人がいた。コンドラチェンコだ。全裸の美少女二人に抱きつかれていた。 老人の反応は素早かった。手にしていた受話器を投げ捨て、枕元の自動拳銃を握ってベルタに向ける。 しかしベルタはもっと早く撃つ。 ガギン! 金属音を響かせ、コンドラチェンコの手から拳銃が吹っ飛んで床に転がる。 コンドラチェンコはシワの刻まれた顔を驚愕にこわばらせている。 彼の肩にしがみついていた美少女二人が、恐怖の声を漏らす。 「こわい……」 ベルタはアサルトライフルをコンドラチェンコに照準したまま、静かに言った。 「……コンドラチェンコ将軍、降伏してください」 「……お前、何者だ。まさか『フェルトヘルンハレ』の作っている化け物どもか……」 ベルタを作り出した組織である。傭兵の派遣を行っている。新製品をして開発されたのがベルタだ。 「そうです。わたしは『エインヘリヤル』の試作型」 「……だれに雇われた。きいておきたい」 「宣伝です」 「宣伝だと?」 「はい。このカプルスタンの軍閥を一つ潰せば、絶好の能力アピールになります」 ベルタは感情を押し殺した声で告げた。 「……ははは……たかが新商品の宣伝のためにか」 ひとしきり笑った後、コンドラチェンコは、 「さあ、やれ」 まったく怯える気配もなく、言う。 ベルタは硬直する。 「……どうした? そうだな、わしを撃つのはかまわんが、この子たちを助けてやってくれんかね」 コンドラチェンコは微笑む。自分に取りすがって震えている美少女ふたりの頭をなでる。片方は金髪で真っ白い肌、もう一人は褐色の肌で黒髪の吊り目だ。 そういわれてもベルタは反応できない。撃つことも、銃口をそらすこともできない。 (……全部殺せって言われてる。でも、できない……) 引き金にかけた指が、溶接したかのように動かなかった。 ふとコンドラチェンコが片眉を上げ、 「……まさか、君は撃てないのか?」 「……!」 動揺を隠そうとした。だが表情に出てしまったろう。 「そんなことはありません」 「では、その額の汗はなんだ。その青ざめた唇は? 指の震えは?」 「撃て……ます……」 撃てなければ、自分は『できそこない』と言われてしまうのだ。 そう思った。 しかし、それでも撃てない! ドガン! 鈍い音がした。 壁が破れ、巨大な影が踏みこんでくる。 異形の大男だ。 身長は二メートル、腕は丸太のように太く、胸板は肩幅と同じほどある。口と両目以外の全身を、真っ黒い物質が包んでいた。部屋の明かりを反射して光る、まるでコールタールのような光沢の物質だ。 その後からもう一人、迷彩服をまとった細身の男が入ってくる。いや男というより少年だ。淡い金色の巻き毛が照明を浴びて幻想的に輝いていた。はっとするほど美しい顔立ちに幼子のような無邪気な笑みをうかべている。武器はもっていないように見える。 大男の名はアントン。美少年はカエサル。ベルタと同じ超人兵士「エインヘリヤル」である。 アントンはベルタを一瞥。大きな口を失望の形にゆがめる。筋肉の盛り上がった真っ黒い肩をすくめて落胆の声を上げる。 「ベルタ、なんでブッ殺さねえ?」 「……アントンにいさん……」 カエサルも小首をかしげる。 「ねえさんの倒した敵兵をみたけどさあ。一人も死んでないね。それどころか銃で撃たれてもいない。なんで手加減するの?」 「それは……素手のみで倒したほうがより高い能力がアピールできるからで……」 ベルタは床や壁に視線をさまよわせつつボソボソと答える。そんな言葉に説得力がないことは自分でもわかっていた。案の定、カエサルは「はーあ」と大げさにため息をつく。 「嘘だね、ねえさん。ねえさんは本当に人を殺せないんだ。悲しいよ。ねえさんが欠陥兵器だったなんて」 そこでカエサルはかたわらのアントンを見上げ、何の気なしにたずねる。 「アントンにいさん、何人殺した?」 「おう、今回の戦いでざっと三、四十人。これまで合計で二百。まあ楽なもんよ」 カエサルはうっとりとして、目の前で手を開いたり閉じたりしながら、 「ボクは三十人くらいかな」 「へえ、おめえやるじゃないか。初陣なのに」 「人間って面白いね、殺すの」 カエサルは軽い調子で言って、白い手を振るった。挨拶するような何気ない動作だ。手から真っ白い光が噴出し、刃となって一閃する。 ジュッ! 黒い煙が吹き上がり、硝煙の臭いに加えて革の焼ける濃密な臭いが充満。 コンドラチェンコの両脇にいた少女二人が死んだ。 首ふたつがベッドの上に転がり落ちる。体を力をうしなって崩れる。切断面が真っ黒く焦げていた。 少女ふたりの間にいたコンドラチェンコはまったくの無傷。 カエサルの能力、『光学狙撃兵装グングニル』だ。二発のレーザーを放ったのだ。 二人が殺された瞬間、ベルタの胸に痛みがはじけた。ライフルを構えた腕が小刻みに震える。罪悪感がわきおこってくる。 しかしカエサルは罪悪感もためらいもない笑顔で、 「ほら、こうやってさ。残しておいたから、この爺さんやっちゃってよ」 コンドラチェンコは観念したのか、シワだらけの顔を苦々しくゆがめながらも、おとなしくしている。 「……できません……」 ついにベルタは唇と唇の間から声を絞り出した。 いつの間にか涙が頬を伝っていた。 「あん? なんでだよ」 アントンが怒りをふくんだ声。 ベルタは真っ黒い装甲に覆われた彼の顔を見つめ、ぼそり、ぼそりと小声で呟いた。 「いやなんです、人を殺すのだ。この人たちにも家族がいて、友達がいて……わたし、闘ったり殺したり、そんな生活はいやなんです。普通の生活がしたい。学校にいきたい。友達がほしい。このあいだ見た映画のように」 「……あのさあ」 カエサルが青い目を細める。蔑みにまみれた声を出す。 「じゃあ、いらないよ、ねえさん」 アントンが巨大な手で顎を撫でながら大げさにうなずく。 「おう。殺せないなら、いらねえ。オレたちの役目は兵器だ」 ベルタの胸にその声は突き刺さった。 「……わたしは……いらない?」 2 ベルタは目を覚ました。 「……!」 はあっ、と息の塊を吐き出す。 まず目に映ったのは自分の膝だ。眩しい太陽の光に照らされている。軍服を着ていない。ジーンズ姿だ。そろえた膝の上には紙製のカップがあって、溶けか かったラムレーズンアイスが乗っている。カプルスタンの戦場とはまったく違う、のどかな光景だ。視界の端に長い前髪が見える。自分の髪の毛は短いのに、背 中に髪の毛の感触。いまの自分はロングヘアのウィッグをかぶっている。 気温も違う。全身にびっしょり汗をかいてシャツが肌に冷たくはりついているが、気温は高い。十五度はあるだろう。そして空気の臭いが違う。ここに硝煙の臭いはない。あまったるいバニラエッセンスとラムレーズンの香りが鼻孔をくすぐってくる。 「……え?」 自分がどうなっているのかわからず、顔を上げた。 目の前に商店街があった。 幅四メートル、いまべルタが座っているベンチの向かい側にはビデオ屋がある。人気映画のポスターが張り出されている。道を数十人の人々が歩いている。老 若男女さまざま、だが大半は学校帰りの少年少女だ。ブレザーを風に翻した女子生徒がクレープをパクつきながら友達としゃべっている。よく日焼けした坊主頭 の少年が短パン姿でカバンをかついで歩いている。買い物袋を前カゴに積んで、自転車を押して歩いている中年女性もいる。 平和な風景。 (……ああ、そうか。夢か……) 目をしばたたかせる。 思い出した。いままでのは夢だ。べルタがカプルスタンで戦ったのはもう三ヶ月も昔のことになる。 あの後、ベルタはすぐにフェルトヘルンハレを脱走し、日本まで逃げてきた。 あれから日本中を転々としている。 「……寝ちゃうなんて、疲れてるのかな」 ぼそりとつぶやいて、べルタは手にしたアイスのカップを持ち上げる。中には溶けかけのラムレーズンが入っている。スプーンですくって食べてゆく。酸味のある甘味。心が満たされる。おいしい。 アイスを食べながら、商店街の人々を眺める。 みんな表情が明るかった。足取りが軽かった。まるで警戒心のない笑顔を向けあっている。 人々の会話に耳を傾ける。 「ねえミキ、あんた先輩のことどう思ってんのよ?」 「どうって言われても」 「おまえ部活どこはいるよ」 「おれ運動できねーからなー。見てるだけならテニス部がいいんだけどなー、あのプリーツスカートがひらっとなー」 「だれが女の話してんだよ」 そうかと思うと、早くもカップルが誕生したのか手をつないで歩いている男女がいる。 見ているうちに頬が緩んできた。 こんな生活にあこがれていた。戦いのない生活。殺すことも殺されることもない生活。 日本にやってきて、ますますその気持ちは強くなってきた。すぐ目の前で夢が実現しているのだ。 (わたしもこの人たちと一緒に学校に通ってみたい。友達となんでもないことで盛り上がりたい) (でも……) ベルタの耳は目の前を歩く人々全員の足音をとらえる。人間の限界を遥かに超えた聴力と分析力が足音を解析、人々の運動能力と戦闘経験を類推する。体重四 十五キロ、運動能力C、戦闘経験なし。体重七十一キロ、運動能力B、戦闘経験なし。知らず知らずのうちに、体が闘いに備えている。いまどこかで銃の撃鉄が ガチリと起きればすぐに戦闘に入れるだろう。 (……わたしは、ここには入れない) そもそも友達と何を話せばいいのだろう。ベルタは人の殺し方しか知らない。あとは、本や映画で聞きかじった知識しかない。 「はあ……」 ため息をついた。 そのときだ。 「はっ、はっ、はっ……」 目の前を、人を次々に突き飛ばして一人の少年が駆けていった。 制服だろうか、ブレザーを着た小柄な少年だ。息を切らしている。腕を前に突き出し、脚を乱雑に動かして走っている。顎を前に突き出していた。明らかに運動慣れしていない。 「待て! 待てっつってんだろコラ!」 怒声が背後から叩きつけられた。怒声の主はすぐに追いかけてきた。こちらもブレザー姿の少年だ。こちらは背が高く、胸板も厚い。頭を丸坊主にしている。 目はギョロリ、鼻と口は大きく、いかにも押しが強そうだ。走るフォームもしっかりしている。筋肉のついていそうな太い足で大股に追いかけてくる。 「うぎゃっ」 小さいほうの少年が倒れた。 よほど運動神経がないのかそれとも疲労のためか、受身も取らず顔面から道路に倒れこんだ。 まさにベルタがいるのその前だ。 「うっ……」 倒れこんだ少年は手をついて立ち上がろうとする。顔がベルタのほうを見た。 色白で、女の子とまちがえてしまいそうな線の細い顔立ちだった。すべすべの白い頬に早くも涙が伝っている。うるんだ目が空中を泳いでいる。口元は震えて いる。恐怖だ。少年の顔には恐怖が浮かんでいた。ベルタはこの表情を見たことがあった。まさに戦場で、銃口を突きつけられた人間の顔だ。 胸に痛みが走った。 「オラッ!」 泣きながら立とうとした少年に、大柄な少年が追いついた。首根っこをつかんで引きずり立たせる。 「たすけて……たすけて……」 小柄な少年はうめき声をもらした。小刻みに震えながら商店街の面々を見回す。 ベルタと目が合った。『たすけて』黒いつぶらな瞳がそう訴えていた。 「こいよ! ここじゃできねえだろ!」 大柄な少年は、小柄な少年を軽々とひきずってゆく。路地裏に向かう。 「たすけて……」 鼻をすする音が声にまじった。 ベルタは彼の泣き顔に目を奪われていた。助けたかった。 (わたしは敵に追われてるんだぞ? 暴力沙汰で目立つことはできない) だからやめろ、自分にそう言い聞かせた。 「……いやだ」 唇から自然に声が出た。知らず知らずのうちにクシャリとアイスのカップを握りつぶしていた。 ベンチから立ち上がった。 追いかける。 胸の奥で痛みがうずいていた。もし見逃したら後悔する。足早に裏通りへと向かった。 商店街から裏手に一本入っただけで、まるで雰囲気が一変した。 店は確かに並んでいる。しかしその全てがシャッターを下ろしている。「居酒屋」「スナック」「炭火焼肉」などと看板のある小さな店がある。「しばらくの間閉店させていただきます」という紙が張ってあるシャッターもある。紙はすっかり黄色くなっていた。 人通りはない。 そんな裏通りで、小柄少年は倒れていた。 ブレザーが乱れている。ボタンが吹っ飛んでいる。道路の真ん中に仰向けに転がっている。かたわらにはバッグが落ちて無残に中身が飛び出している。彼の腹を大柄な少年が踏みつけている。 「おらっ、謝れよ。俺のズボンに謝れよっ」 坊主頭の大柄少年は、大声を張り上げる。 「あ……あう……」 うめき声を上げる小柄少年。坊主頭は靴を移動させる。腹から胸、首をつま先で名でさするようにして顔面へ。 「アウじゃねーよ。人の服をゲロで汚しておいてそれかよ!」 そういわれてみれば彼のズボンには白い液体がべったりとついている。米粒らしきものもついている。 「は、はい……ごめんなさい……ごめんなさい……」 小柄少年は手を合わせ、しきりに謝る。顔面は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。 「謝るだけじゃダメだ。いいな」 「は、はい……でもお金……今月は……」 「うるせー、言い訳は聞きたくねーよ」 坊主の頭の少年は笑った。口元をぐにゃりと歪めた冷笑だった。そして顔面に蹴りを入れる。小柄な少年は体を胎児のように丸めて目を閉じた。まるで目をつぶれば辛い世界が消えてくれるかのように。 もう我慢がならなかった。 「やめなさい!」 「……あん?」 坊主頭はその言葉をきいて太い眉をひそめる。ギョロ目でベルタの頭からつま先までを眺め回す。 いまのベルタはジーンズにパーカー姿、リュックを背中にしょって、動きやすさを重視したごくラフな格好だ。頭にのった長いウィッグのせいで、ドンくさそうに見えるだろう。 「なんだ、おまえ?」 「やめてください。その……よわいものいじめは」 「ほっとけよ。俺は遊んでやってるんだ」 もちろんベルタはそんなこと信じなかった。 (さあ、どう倒す。超人的能力を知られずにどう倒す) 「お前も痛い目に……」 坊主頭が薄ら笑いを浮かべながら言う。その間にベルタは間合いを詰める。音もなく接近、坊主頭の脚を払う。手首をつかんでぐるんとまわす。彼の体を背負ってひょいと投げる。手首をつかんだままだと腕を折ってしまう。途中で手を離してやった。 どんっ。アスファルトの上に背中から落ちる。 「ぐえっ……」 道路に転がった坊主頭、顔面に驚愕の表情を張りつかせる。 「なにしやがんだよっ」 すぐに目をむいて立ち上がる。レスリング選手のように体を低くしてタックルしてきた。女を相手にしているという自制はすぐに吹っ飛んだらしい。もちろん彼のタックルなどベルタにとっては止まっているのと同じだ。サイドステップでかわし、脚をひっかけた。 ペタン、と彼は地面にはいつくばる。 目を丸くしてベルタを見上げる。自分の身に何が起こったのかわからないようだ。 ベルタは笑顔をつくって、上から坊主頭によびかける。 「やめてください、ってお願いしてますよ?」 (これで分かるはずだ、力量差が) 坊主頭は「くそっ」と悪態をついて立ち上がり、一目散に逃げ去っていった。 緊張を解くベルタ。肩から力を抜く。これでよかったかな。ただの「すごい武術」だと思ってくれたかな。 「もう大丈夫ですよ」 ベルタは小柄少年を助け起こそうとして、 「え……?」 彼を抱き起こして、目をパチクリさせた。 気絶している。 「あの……もしもし?」 肩を揺する。驚くほど小さく細い肩だ。 「ん……」 少年は目を開け、 「ひ!」 いきなり悲鳴をあげてその場にへたり込んだ。 「どうしたんですか? もう大丈夫です。さっきの人はいなくなりましたよ」 ベルタはしゃがみこんだ状態から優しい声をかける。 「え……」 少年はあたりを見回し、 「あの……あなたが……その……」 「はい。わたしが追い払いました」 「で、でもお金、ぼく持ってない」 「はい?」 「お金、取るんでしょ。助けてくれたからお金って……」 「まさか。そんなことしませんよ」 「嘘だ……みんなするんだ」 少年はまだ恐がっているらしい。落ちているカバンを手に取り、腰が抜けているらしく後ろに這いずって逃げてゆく。女の子のような顔が恐怖に引きつってい た。さきほどからツンと漂う臭いは何だろう。すぐにわかった。少年の学生ズボンの股間のあたりがぐっしょり濡れている。失禁しているのだ。臭いはアンモニ ア臭だ。 べルタの胸の中に締めつけられるような痛みが広がる。 (ここまで怖いんだ。いままでよっぽどひどい目にあわされてきたんだ) もう放っておけなかった。ベルタは彼の体を抱きしめる。 「……あっ……」 少年の口から声がもれる。腕の中で彼の体はひどく硬く、電気が流れたように震えていた。 「……だいじょうぶ……だいじょうぶ」 べルタは精一杯やさしい声を作る。語りかけながら、後ろにまわした手で少年の背中をトントンとたたいた。 「……う……?」 今までずっとうつむいていた少年が、ふしぎそうに顔を上げる。 「……いじめない?」 「もちろんですよ」 息が触れ合うほどの至近距離から、にっこりほほえみかける。 すると少年の顔がぱあっと輝く。 「あ、あ、あの……ありがと……ございます」 「どうしていじめられてたんですか?」 「ど、どうしてって……わからないです……そんなこと……」 少年はまた暗い表情でうつむく。 「……ぼくは、だめだから……」 「そんなことありません。あきらめずに戦えばきっとなんとかなります」 「あなたは……ぼくのこと、ダメだとか、キモイとかいわないんですか。女の人はみんな言うのに」 「いいません」 「しんじられない……」 そのとき少年の腹がきゅうっと鳴った。 「あ……」 「くすっ」 ベルタは笑って、背中のリュックからお菓子を出す。 シュークリーム、アップルパイ、クリームパンなどがどんどん出てくる。 「はい、これ。どうぞ」 「え……」 「気にしないで食べて下さい。まさか、『毒が入ってる』とか」 「い、いや、そんなことはべつに……思ってないけど……なんでこんなにお菓子……」 「大好きなんですよ、お菓子」 「そ、そうですか」 そこでまた腹がグウと鳴る。少年は恥ずかしそうに、ベルタの出したシュークリームを食べる。最初はおずおずと、だがそのうち夢中になって、口元をクリームで汚してほおばる。 「むが……むが」 「よっぽどおなかすいてたんですね」 「もがっ、ご飯食べさせてもらえなくて。弁当をトイレに捨てられて。もが」 「かわいそうに……でも、道端でこうやってると恥ずかしいです」 「あ……」 少年ははじめて自分の体を見下ろした。道のど真中にすわりこんで、しかも女の子と抱き合っている。 「わわっ」 急に悲鳴を上げて立ちあがり、2、3歩はなれて、そこで自分の股間がぬれていることに気づいたのか、恥ずかしそうに股間を押さえて前かがみになる。 「あ、あう……」 なんだかほほえましくなった。ポケットから出したハンカチで、少年の顔を拭いてやる。 「……はい。これでだいじょうぶ。おなかはもう一杯になりましたか?」 「……は、はい……ありがとうございます」 「『ありがとう』って言いながうペコペコ頭下げるの、やめたほうがいいですよ」 「は、はい……」 「胸をはって、ね」 「はい!」 ポンと肩をたたく。 ベルタは元気よく手を振った。少年は明るい笑顔を無理やりに作って、こっちを何度も振り返りながらさっていった。 少年が見えなくなって、ベルタは手をおろす。 胸の中に暖かい気持ちが満ちていた。 (元気出して、幸せになってくれるといいな) 少年の残したクリームパンを、口の中いっぱいにほおばった。 3 次の日の夕方、ベルタは隣駅の喫茶店にいた。 コメダ珈琲店。この地方ではどこに行っても見かけるチェーンの喫茶店だ。 店内は、壁面にレンガ、床とテーブルが暖かさを感じさせる木目調。 椅子はお芋を思わせる茶色。とにかく茶色系統に統一されていた。 すべての席が一杯になっている。 窓際の席に座り、ウェイトレスを呼び止めて、明るい声で注文した。 「シロノワール3つ!」 「……は?」 ウェイトレスが伝票を片手で持ったまま、目をパチクリさせる。 「シロノワール3つです」 注文を繰り返すと、ウェイトレスはベルタの顔や格好をじっと見て、さも不思議そうに二秒ばかり考えこんだ後、いきなり営業用スマイルを顔に張りつける。 「かしこまりました!」 深く考えない、という結論を出したらしい。 ウェイトレスだけでなく、隣のテーブルを囲んでいる家族連れも、そのまた隣で文庫本を読んでいた老人も、ベルタにいぶかしげな目を向けている。 しばらくして、注文の品が来た。 銀色の盆に載った、シロノワール三つ。 シロノワールとは、ドーナツ型の柔らかいパンにソフトクリームを載せたものだ。ベルタの好物だった。甘いものはみな好きだが、この地方にきてからはシロノワールを毎日食べている。 直径実に二十センチ。ふつうは家族やカップルで食べるものだ。 それが三つ並んで、テーブルの上が埋まる。壮観だった。 「いただきまーす」 思わず頬がゆるんでしまう。明るく笑って、ついてきたメープルシロップをパンにかける。 となりの席でベルタを見ていた家族連れが「ほんとに食べるんだ」「スゲー」とあきれている。 さて、とベルタは熟考する。 (どう食べるか。ソフトクリームを先に食べるか。それとも下のパンと交互に食べるか) しかも数は三つある。ゆっくり味わって食べているとソフトクリームが溶けて崩れてしまうのだ。溶け落ちたソフトクリームがメープルシロップの中に崩落し、まったく別種の味わいであるふたつの甘さがまじってしまう。なんたる悲劇か。この悲劇をベルタは過去二回も経験した。 (よし) 先の四角くなっているアイスクリーム用スプーンを手に取った。手が緊張と期待で震える。 ソフトクリームにスプーンを差し入れ、すくいとって口に運ぶ。 「ああ……」 思わず、声が漏れてしまう。 甘いものを思う存分食べる。ベルタが知っている最大の幸福だった。フェルトへルンハレにいたときは体調を完璧に管理するため、特別メニューの軍用糧食だ けを毎日食べさせられた。量は普通の食事より多かったが、デザートの類は粉末ヨーグルトとキャンデーだけでまったく物足りなかった。脱走してすぐにやった のが喫茶店でパフェを食べて食べまくること。 あっという間に一つのシロノワールが消えた。 慎重にソフトクリームの溶け具合を探りながら、二つ目に取りかかる。 甘いものが大好きといっても、普段は二つしか食べない。 三つ食べるのは、最後のお別れだから。今日でこの街を出ていく。何百キロも離れた街まで一気に移動するつもりだ。そこにはコメダ珈琲店はない。シロノワールは食べられない。 一口一口、味わって食べるつもりだった。 そのとき、 ダンダン! ダンダンダン! ガラスを叩く音が響いた。 音のする方角を見て、ベルタは口にくわえたスプーンを落とした。唇の端からみっともなくソフトクリームをこぼしてしまう。 窓の外に少年がいた。昨日出会った、いじめられっこの少年だ。 猛烈な勢いで窓を叩いている。ベルタが自分のほうを向くや、口をあけて何かを大声で叫んでいる。 (な、なんで彼がここにいるの?) (どうして自分がここにいるってわかった?) 「あの、お客様……」 ウェイトレスが困惑顔でベルタに言う。 「あちらの方はお知り合いですか?」 「え、えーと、知り合いというか、なんというか、その」 「このままですと、他の方のご迷惑になるのですが」 「わ、わかりました」 窓の外の少年に手招きを見せる。少年は顔を輝かせる。 店内に駆けこんできた。 「あ、あ、あの、あの……」 ベルタの席まで走ってきて、少年はどもりながら何かを言おうとする。 「えーと、まずここに座ってください。なにか飲みます?」 ベルタ、少年の肩を押さえて強引に座らせる。 「あ、はい、コーヒー。アイスコーヒー」 「かしこまりました」 ウェイトレスが去ってゆく。 少年はベルタにぺこりと頭を下げる。 「あの、あの、さっきはごめんなさい。あの、ぼく、どうしても会いたくて。あの、あの、怒ってる? 怒ってますよね?」 「いえ、怒ってはいません。怯えるのもほどほどにしたほうがいいと思います。それで、どうしてこの場所がわかったんですか?」 きのう少年と会ったのは隣駅の商店街だというのに。 「探したんです。会いたくて。きっとどこかでご飯を食べてるって。甘いもののあるところを」 ベルタの眉がひそめられる。 「まさか……全部の飲食店をあたったんですか?」 「はい! どうしても会いたくて。朝からずっと。十時間くらい」 勢いよくうなずく少年。 「そ、そうですか……」 あっけにとられる。一体なんだ、この積極性、この行動力は。 「お願いがあるんです」 「なんでしょう」 嫌な予感がした。気がついたらスプーンから手を離し、ぎゅっとテーブルの上で握っていた。握った掌に汗がにじんでいた。 「……あの、ぼく、あんなこといってもらえるのはじめてで」 少年、ベルタをじっと見つめて、泣きそうに瞳を潤ませて言う。 「嬉しかったんです。……これからも、これからもいっしょにいてください!」 「あ、あの……」 「いっしょにいてくれないとダメなんです!」 「うわー……修羅場」 女性の声が聞こえたのでそちらを見た。銀盆にコーヒーカップを載せたウェイトレスが、目を丸くして立ちすくんでいた。彼女の口元が笑みの形になっている。 修羅場、という言葉の意味は知っていた。恋愛関係のことだと思われた。 「ち、違うんです」 ベルタはあわてて否定する。なぜか顔が熱くなった。 「いえ、いいんです。若いっていいですよね」 ウェイトレスは急にまじめな表情になって、 「はい、こちらコーヒーです。ごゆっくり」 「なにか誤解されている……」 ため息をついた。顔がまだ火照っている。 「なんていえばいいのかな……」 ベルタが口を開くと、少年は身を乗り出すようにして、目をきらきらさせて、 「はいっ」 「うう……なんだか疲れる……」 こんなときどうすればいんだろう、わからなかった。 この三ヵ月ずっと一人だったから。誰かと一緒に旅をしたことも、一緒に住んだこともない。友達も作らなかった。 わずかに知っているのが、マンガや小説で聞きかじった知識。 「ねえ、……えーと、名前をきいていいですか」 そうだ、自分はこの少年の名前さえ知らないのだ。 「はっはいっ。名前は祐樹、倉本祐樹といいますっ。す、好きなものは……」 「わたしはベルタです。ドイツ語でB、『二番目』という意味です」 「ベルタさん」 「苗字とかファミリーネームとか、気の利いたものは私にはありません。それ以上くわしいことは内緒です。そして……わたしは追われています。ずっとこの街にいることはできません」 「で、でも……」 「だめです」 ベルタは言いきった。きっぱりと言いきったつもりだった。 祐樹の顔を見て「きっぱり」が崩れた。 祐樹は泣いていた。 薄い唇を噛みしめ、両目から一筋の涙を流していた。 「う……う……」 口元が震える。鼻をすすりそうになる。テーブルの上の紙ナプキンを手にとって鼻と口を抑えた。 「うぐっ……えぐっ……」 声を殺して泣いていた。 本当なら号泣したい、そんな気持ちが伝わってきた。 「……い、一日なら」 ベルタの口からそんな言葉が飛びだした。 (自分は何を言おうとしているんだ?) 「一日なら。付き合ってもいいです」 「えっ」 祐樹は紙ナプキンを取り落とした。花開くように明るい顔になった。 「ほんとうですか!」 「いえ、一日だけですよ」 「はい! はい! ありがとうございます!」 祐樹、ベルタの手をぎゅっと握って、上下にぶんぶん振る。 また彼の頬を光るものが伝い始めた。嬉しさのあまり涙を流しているのだ。 「では、いきましょう。早く涙をふいて」 胸が締め付けられるような苦しさをおぼえて、ベルタは言う。 「はい、デートですね!」 「で、デート……というのとはちょっと違う気が……わかりました、デートでいいです」 ふと気づくと、お盆を持ったままのウエイトレスが興味津々といった表情で見ている。となりの席の家族連れがチラリチラリと見ている。小さい子供が思い切り身体を乗り出して見ている。 「い、いきましょうっ」 祐樹の手をとって立ち上がる。 ウェイトレスが優しい声で、 「がんばってください。応援してます」 「違うんですってば……」 恥ずかしくてならない。 しかし不快ではなかった。心のどこかに浮き立つような気持ちがあった。 4 電車とバスをのりついで三十分、祐樹とベルタは大きな公園にやってきた。 公園の中央には大きな池がある。周囲に植えられた桜の木が薄紅色の花を咲かせている。 池のボート乗り場にやってくる。 「こ、ここがおすすめだそうです」 祐樹はベルタの二、三歩先を歩き、言う。 「ボートに乗るんですか?」 「は、は、はい。初心者だと、ふたりで体を動かすようなものが連帯感を高めてくれる、だからいい、ということです」 背筋をガチガチに伸ばして、背中を向けたまま祐樹が言う。 彼はここに車でのバスの中でも、ベルタと目をあわせなかった。 (ほんとうに楽しいのかな?) ベルタは不思議に思っていた。 乗りばの受付にいた老人にお金を払う祐樹。よほど緊張しているのか、財布からコインをまとめて落としてしまう。 「あ、あわわっ」 しゃがんで拾う祐樹。 手伝うベルタ。 十円玉の上で祐樹とベルタの手が重なる。 祐樹の手はやわらかく、男とは思えないほど細かった。触れ合った瞬間、祐樹は電流が流れたかのように体を震わせた。 「わ……」 「なんですか」 顔を上げるベルタ。吐息がかかるほどの距離に祐樹の顔。祐樹の目線がベルタの顔に向けられて、胸元に飛び込む。一瞬で顔が真っ赤になる。 「は、はやくいきましょうっ」 はじかれたようにたちあがり、ボートに乗りこむ。 そのときユウキはボートのふちにつまづいて、ボシャン! 池の中に転落した。 5 すぐにベルタは祐樹を岸に引っ張り上げた。しかし祐樹の服はズブ濡れだ。靴までぐちゅぐちゅと音をさせている。 「だいじょうぶですか?」 声をかけるベルタ。祐樹はそのままボート乗り場にしゃがみこんだ。 「もうだめだ……」 顔をくしゃくしゃにして泣きだしている。 「あ、あの……」 「ごめんなさいベルタさん。もういいです。迷惑かけてごめんなさい……」 「もういいって言われても……」 「だって、デートの最中にカッコ悪いところ見せたらもう終わりだって」 「それはだれが言ってたんですか」 「『失敗しない初めてのデート』という本にかいてあった」 べルタはひざまづく祐樹の目線にあわせてしゃがみこみ、ベルトポーチから出したハンカチで祐樹の顔を拭く。 「そんな本のことなんて、わすれちゃいましょう。だって……」 そこでべルタはくすりと笑い声をもらしてしまった。 「おしっこまでもらしたのに、いまさらカッコつけたって意味ないですよ」 「あ……」 「そんな死にそうな顔しないで下さい。さ、服を着替えましょう。わたしが買ってきます」 「え、いや、そんなのはずかしくてけ……」 「ずぶ濡れでしゃがみこんでるほうが恥ずかしいかと」 6 その後、べルタは服を買って祐樹に渡した。 公園の便所の前で、桜の木にもたれてベルタは待っている。 「あの……」 背後から祐樹の声。 ふりむくと、ポロシャツとスラックスに着替えた祐樹がおどおどした表情で立っていた。バスタオルで髪を拭いている。片手に持ったビニール袋の中身は濡れた服だ。 「あ、さっぱりしましたね」 べルタは笑いかける。祐樹の全身を見渡して、 「わたし、はやってるファッションとかわからないんで……店の中のお客さんを見て、無難な感じでまとめてみました。どうですか?」 「いや、いいです。すごくいいです。でも……」 そこで祐樹は自分の体、ズボンの股間あたりを見下ろして、 「なんか、サイズがぴったりあってるんですけど……どうしてですか?」 「ああ、それは……」 べルタは口ごもる。ベルタの超人的な五感あってのことだ。人間をちらりと見ただけで「身長158.5センチ、体重49キロ、ウエストは65センチ」とわかるのだ。 「まあ……勘みたいなものです。それより、これからどうします? 池の次はどこにいきましょう」 祐樹がためらっていると、ベルタは祐樹の肩に軽くてを乗せて、 「難しく考えることないです。そんな本のこと忘れて、ユウキさんが生きたいところ、一番好きなところにしましょう」 祐樹はひどく真剣な顔でベルタを見つめた。一秒また一秒と時間が流れた。 沈黙にベルタが絶えられなくなったとき、祐樹はようやく言う。 「……いきたいところがあります」 7 祐樹につれられてやってきたのは、商店街の中にある書店だった。 書店ならベルタも知っている。地図を買うために何度か訪れた。 だがこの店はべルタの度肝を抜いた。 店に入ってすぐのところにレジがある。レジ周辺に、とんでもない数の「人形」が置かれていていた。 プラスチック製で、透明なパックに入った人形。デフォルメされた三頭身のものだ。 店内を見回して、強い違和感を覚えた。 まず高い棚がない。店は学校の教室ほどの広さだが、どこを見ても平台と背の低い棚ばかり。平台には色とりどりの雑誌と単行本がずらりと並んでいる。店の周囲はさすがに棚に囲まれているが、そこに刺さっているのはすべてが、色鮮やかな……マンガ! ベルタの視力は一瞬にして、棚に並ぶマンガ数千冊を同時認識した。 「うわあ……」 この世にこんなにたくさんのマンガがあったなんて。 祐樹は足早に、一番大きな平台に向かっていた。 その人間が四人ばかり横になれそうな大きな台に、ひたすらマンガ、マンガ、マンガ。 女の子が表紙のものが多いように見えた。 あちこちに手書きの立て札が立っている。 『メイドの次はコレ! 液体少女! 店員Sオススメ!』 『美少女=軟弱だと思っているあなたはコレを読んで度肝を抜かれろ!』 いままでベルタが見たこともなかったものだ。 「この店、なんなんですか……?」 思わず口から驚きとあきれの声が漏れる。 祐樹が振り向いた。彼の顔を見てベルタははっと目を見張る。いままでと彼の顔が変わっていた。 恥ずかしそうに曖昧な笑みを浮かべていた。だが瞳だけはきらきらと輝いていた。臆病そうに空中をさまよっていない。 「ここは『マンガの城』。マンガ専門店です。ぼくはよくここに来るんです。アルバイトしてないから、あんまり買えないけど……」 祐樹はそう言ってマンガの一冊を手に取る。広げる。 かわいらしい絵柄の女の子が格闘技の試合をやっていた。 「ここでは自由に立ち読みもできるんです。ぼくの一番好きな場所です」 それからの祐樹は、もう止まらなかった。 マンガの一冊一冊を取り上げて、見所を解説する。 コマを指差し、台詞を読み上げる。 「このマンガ見てください、かわいいですよね?」 「ええと……」 目の前で広げられたマンガのコマを見つめる。まるっこいかわいらしい絵柄の女の子たちがなにやら話している。男の子が一人もいない。 「この人はもともと少年誌で学園ラブコメを書いていた人なんです。でも打ち切られて、マニア誌に来て、彼は気づいたんです。男を出さなくていいんだ、恋愛しなくていいんだって。いまはひたすら女の子達だけの日常を描いて、ほら、アニメ化される大人気です」 祐樹、「びしり!」と音が出そうなほど鋭く、ななめ上を指差す。 指の先にはテレビがあって、そこにはアニメのオープニングが映し出されている。 「それからあと、この人なんかも……」 この調子だ。機関銃のように話し続ける。ベルタの手を引いて、店内を歩き回り、マンガを紹介して回る。 たっぷり二時間もしゃべったあと、一冊だけ単行本を持ってレジに並ぶ。 「あ、それは買うんですか。でも、立ち読みで内容は知ってるんでしょう?」 小首をかしげるベルタに祐樹は、 「それじゃダメなんです。この本が好きだから、この漫画家も、この本も好きだから、一冊くらいは買わないと。そう思ってます!」 「そ、そういうものですか……」 ブックカバーをつけてもらった祐樹は、手にしたマンガ本をいとおしそうに撫でて、ベルタのほうに向き直る。 「……ベルタさんは何を買うんですか」 「え? わたし?」 マンガを買って読んだことはない。駅のホームに捨ててあったものを、興味をひかれて斜め読みしただけだ。 「いろいろオススメなのがあるんですよ」 そういう祐樹の顔はまさに喜色満面。弾むような足取りで駆け寄ってくる。 「あ、いや、わたしはその……」 結局、二冊買わされた。 8 店を出て、商店街を歩いてゆく。 通行人は少ない。 「そういえば、のど、かわきません?」 「あれだけしゃべれば、かわくでしょうね。でも、わたしは別に」 「ぼくはちょっと……ジュースを……」 そういって小走りで自販機に駆け寄り、ズボンのポケットに手を入れて、」 「あ……」 「どうしたんですか」 「お金、ない……ぜんぶ使っちゃった」 ベルタは即座に、自分のカバンから財布を取り出す。100円ショップで買ったナイロン製の、まったく飾り気のない財布だ。 「はい、おごりますよ。どれにします?」 「ベルタさんの好きな奴で」 「いいんですか? はい」 ゴトリ、缶が落ちてくる。 「なんですか、これ」 受け取った祐樹、缶とベルタの顔を交互に見る。 缶はきれいな小豆色だ。純和風美人のイラストつきで、こう書かれている。 『おしるこドリンク』 「おいしいですよ? 疲れたときにはこれです」 「……ベルタさんって……」 祐樹は苦笑いしながら飲み干した。 「ぷう……喉の渇き、治ってない気も……でも、おいしかったです」 「でしょ?」 ベルタは微笑みかける。祐樹も自然な笑みを浮かべた。 「甘いものが好きで好きで仕方ないって、マンガのキャラにはよくいるけど、現実にもいるんですね」 「ユウキさん、ほんとにマンガが好きなんですね」 「はい。ほんとうは、読むだけじゃなくて描くのも好きなんです」 「今度見せてくださいよ」 まったく自然に、ベルタの口からその台詞が滑り出た。 言った瞬間、ベルタは頭の中に疑問符を点滅させる。 祐樹も「え?」と顔つきになって、 「こんど? 今日だけ、ですよね、遊ぶのは」 「ええと……そのはずだったんですけど……」 「もしかして、明日もですか? 友達になってくれるんですか!?」 祐樹、ベルタの手を強く握ってくる。ボート乗り場であわてふためいていた小心ぶりが信じられない。 ベルタは考える。自分はフェルトヘルンハレから逃れなければいけない。危険だ。しかしあらゆる計算を感情が上回った。ここにいたい、そう思った。祐樹の輝くような笑顔が、思いを後押しした。 握り返した。 「……はい。もう少し、ともだちでいます」 9 ベルタは国道沿いを歩いていた。 祐樹との待ち合わせまであと一時間。 心が浮き立つのを感じる。 あれから一週間、ベルタは祐樹とのデートを繰り返していた。祐樹は学校に行かず、ベルタをあちこちに連れまわした。終わったら喫茶店によってマンガの話をした。 祐樹は自分の描いたマンガを持ってきて、ベルタに意見をきいた。ベルタがいろいろ意見を言う。 『この女の子がかわいいです』『拳銃でクルマが爆発するのはおかしいです』 『闘ってるとき、いちどくらい主人公のアップがあったほうが。表情が見たいです』 すると次の日には書き直されたマンガが持ってこられるのだ。 最初は数十枚のラフだった祐樹のマンガは、いまやペン入れされた二百枚の長編に成長していた。 ついつい熱くなって喫茶店で三時間も四時間も粘り、いつも気がつくと夜になっていた。 ごめんなさい遅くまで、いいんです楽しかったです、そんな会話を交わして分かれる。 そうだ、楽しかったのだ。友達と二人で過ごすことがこんなに楽しいなんて。ふたりでひとつの物語を作ることが、こんなに…… 頭の片隅に冷静な自分が残っていた。ねぐらにしている学校の体育用具室で横たわっていると、冷静な自分が警告してくる。『もう五日も同じ場所にいるぞ、危険だ』。 だが心の大部分は『あした祐樹さんとあったらどんな話をしよう』と考えている。 だから『もう行きます』と切り出せなかった。 足取りは軽い。もうそろそろ祐樹のマンガは完成だ。ぜひ読みたい。 「きゃっ」 背後で悲鳴。 振り向いたベルタは、見た。 あってはならない光景を。 交差点。横断歩道。ぴかぴかのランドセルを背負って渡る子供たち。小学校一年生か。 信号を無視して、子供たちに向かって突っこんでくるトレーラー! 運転手は目を閉じ、首を傾けている。居眠り運転だ。 ベルタ、一瞬で背筋が凍りつく。 思考速度が加速された。時間がゆっくりと流れる。考える。 どうする。どうやって助ける。ダッシュして子供を抱きあげて逃げる。ダメだ、十人もいる子供全員を助けられない。運転手をたたき起こす。いま起きてもブ レーキが間に合わない。「ギャラルホルン」でタイヤを破裂させてひっくり返す。いまここでひっくり返したら被害が大きくなるだけだ。 心の片隅にあった一つの思考が絶叫を上げる。 (放っておけ、目立つな! 関係ない子供なんて死んでも……) そう思ってしまった自分にぞっとした。もちろん放っておくなんてできない。 歩道を蹴った。全力疾走。最初の一歩で時速五十キロを越える。二歩目で百キロを超える。子供たちの前に飛び出す。すでにトレーラーは二メートルの距離にまで接近。減速の気配もない。 もっとも重要なのは足裏のグリップ力が不足していることだ。ガニ股になって、ズガンズガンと路面を踏んで、足をくるぶしまでアスファルトに突き刺す。レスリング選手のように、あるいは相撲取りのように姿勢を低くして身構え、 突進してくるトレーラーを、正面から受け止めた。 バンパーに激突した手のひらに激痛が炸裂。そのまま十トンの巨大質量が腕を押し曲げ、体を後方に吹っ飛ばそうとする。腕の筋肉に力をこめて対抗。耐え切 れない。腕が圧倒的な力でねじ曲がった。ひじ関節がメキイと変な音を立てる。肩がすっぽ抜けそうになって鋭い痛みが爆発する。車体は勢いを減ずることなく 進んできた。全身で受け止めた。腹にバンパーが食いこむ。内臓が強制的に移動させられる違和感、激痛。いっぱいに広げた腕を左右のヘッドライトにたたきつ ける。薄い胸板がエンジングリルに激突する。腰、腹筋にあらんかぎりの力をこめて対抗する。全身の筋肉を鋼のように固めた。耳の奥でツーンと音がした。体 はいまや一枚の鋼板だ。いや杭だ。杭なのに背筋が曲がる。視界を埋め尽くす茶色の鋼鉄塊がのしかかってくる。押し倒される。顔面に『FUSO』のマークが めりこむ。曲がる背筋を渾身の意志力でまっすぐに伸ばす。食いしばった歯が口の奥でギリリと鳴る。頭に乗っていたロングヘアのウィッグが落ちる。あれほど 深く突き刺した脚が、アスファルトを食い破って後ろ後ろへ押しやられる。砕かれたアスファルト片が飛び散って、十センチ、また十センチ、トレーラーの慣性 力で押しこまれ、踏みしめた路面がえぐられて、 ダンプは止まった。 ギュギュギュ、という音はタイヤの空転だ。 あたりにはタイヤのゴムが焼ける臭いと、砕いたアスファルトの粉末が立ちこめた。 ドロドロドロ、という怪獣のうなりに似たディーゼルエンジン音。 (まだエンジンがかかったままだ! 手を離せばまた走り出す!) ベルタ、車体の下に手を入れ、一気に持ち上げる。車体を真横にひねり倒した。 荷台に積んであった鉄骨が勢いよく路面になだれ落ちる。重い金属音が反響する。運転席ではようやく目を覚ました運転手が目を白黒させている。 これで安全は確保した。 すぐに叫んで、ふりむいた。 「大丈夫でしたかっ!?」 横断歩道の子供たちは、もちろん無事だった。男の子は腰を抜かしている。女の子は目と口をポカンとあけている。 「よかった……」 ベルタ、安心の吐息。気が緩んだとたん、体の各所で痛みが爆発した。まず脚。見ると、せっかくのスニーカーが血まみれのズタ袋になっていた。靴下まで真っ赤になっている。わき腹と胸にも何かが刺さるような痛み。衝撃で肋骨にヒビでも入ったのだろう。 痛みを訴える肉体を、ベルタは無視した。 こんな痛みなどなんでもない。一時間あれば治癒する。エインヘリヤルの再生力は人間の比ではない。 だが、重要なのは…… 腰を抜かしていた男の子の一人が、口をひらいた。 「すっげー……サンダーレンジャーみたい」 他の子供たちもみな、ベルタを驚きの眼で見ていた。突っこんできたダンプでなく、それを生身で止めたベルタに驚いていた。 あたりを見回す。目撃者はどのくらいいる? 国道沿いの歩道を、自転車で走っていた中年女性が二人。ジャージ姿でランニング中の老人がひとり。反対車線で急ブレーキをかけた乗用車が三台。 十人以上だ。 もちろんみな、驚愕に目を丸くしている。 超人少女。この日みた光景を彼らは一生忘れないだろう。 ベルタはため息をついて、子供たちの一人を抱きしめ、 「無事でよかった」 そして、ロングへアのウィッグを拾い上げ、ダッシュ。 全力で走り去った。 これだけ多くの人に見られた。超人ぶりを見られた。 もはやこの町にいることはできない。必ず噂をききつけたフェルトヘルンハレが追っ手を送りこんでくる。 もちろん、祐樹ともお別れだ。 「……わかっていた」 できるだけ目撃者を減らすため、国道から住宅地に飛びこんだ。クルマ一台通れるかどうかの道を選んで、オリンピック選手なみの速さで走る。人間としてぎりぎりあり得る速度だ。 知らず知らずのうちに言葉が唇からあふれてきた。 「……こんなことになるって、わかっていた」 自分は人間ではないのだ。ずっとここにいるなんて、平穏無事な毎日なんて、友達と一緒に喫茶店で談笑なんて、そんなこと。 「……夢みるんじゃ、なかった……」 このまま何も告げず立ち去るか。それがいい。それが安全だ。 理性がそう訴えた。しかし胸の奥でなにかが痛む。楽しかった日々が再生される。祐樹と一緒に飲んだおしるこドリンクの味が、マンガの話をするときの朗らかな祐樹の顔が、蘇ってはベルタを苦しめる。 せめてひとことお別れを。そう思った。 10 その日、集合場所は駅前の噴水だった。 駅ビルからエスカレーターで降りてすぐのところに噴水があり、噴水の中央には奇妙なオブジェがくるくる回転している。噴水の回りを派とが歩き回っている。ベンチがおかれ、数人の男女が休憩をとっている。 べルタは靴を買い替え、噴水まで走ってきた。 まだ待ち合わせの時刻まで十五分もあるのに、すでにユウキはベンチで待っていた。べルタの姿を見るなり、満面の笑顔で手を振る。 「こんにちわ」 「こんにちわっ。……あれ、べルタさん、足どうしたんですか?」 祐樹が首をかしげる。あのあとベルタは靴を買い直したが、足の傷はすぐには治らず、靴下が血がよごれてしまっているのだ。 「いえ、なんでもないです。今日も、学校には行かなかったんですか?」 「もちろんです。学校にいっても、何も楽しいことはないから」 「家の人たちはなんていってます?」 祐樹は困ったように頭をかいて、 「それはその……ぼくが学校サボってるってのはわかってるみたいで、『どうして行かないの』っていいますけど……『関係ないだろ!』って怒鳴ったら黙っちゃいました。もっと早くこうすればよかった」 祐樹の頬はゆるみきっている。 学校という辛い場所から逃げられて嬉しい。心の底からそう思っている。 (この人はダメになってしまう) ベルタ、ベンチから立ち上がり、祐樹の目を見つめて、 「実は……」 もうお別れしようと思ってるんです、と言おうとした。 「これをよんでくださいっ」 いえなかった。祐樹がカバンの中から出してきた紙の束を押しつけられた。 「はい……」 つい三十分前まで読みたくて仕方なかった。だが今は辛い。面白いのはわかっている。だが面白ければ面白いほど、『もっとここにいたい』と思ってしまう。 ゆっくりと、一ページ、一コマを味わうように読んだ。 「……」 読み終わり、無言で原稿を返す。 「ど、どうでした?」 「面白かったです。きのう言ったところが直ってますね。この主人公とヒロインのケンカ」 「はい! 構図の問題だったんです。それで躍動感がでるんですよ!」 手をぎゅっと握られた。祐樹の眼がきらきらしていた。 (まずい。このままでは抜けられない。ずるずると、ずっとこの関係が続く) ベルタは手を握り返した。自分の手が汗ばんでいるとわかった。 そして、言い切った。 「……実はお話があるんです。祐樹さんのマンガを読み続けることは、できません。そろそろこの町を離れるつもりです」 びくう! ベルタの手の中で祐樹の手がはねる。震える。 いくら華奢といっても男の手だ。ベルタより幅があるし指も太い。それなのにまったく力強さを感じさせない。 「……どうして? どうしてそんなことを言うの?」 「わたしは追われているんです。言ってましたよね。わたしはもう、ここにいられなくなりました。追っ手がやってきます。ほんとうは、何日も前にここを去るつもりでした。ムリヤリ引き伸ばしていただけなんです」 「……でも、でも、ぼくは!」 祐樹の声は早くも泣きそうだ。 「わかってください、祐樹さん」 「ぼくはベルタさんがいてくれないとダメなんです……」 ベルタは手を振りほどき、ベンチから立ち上がる。 「じゃあ話を変えましょうか。祐樹さん、このままどうしますか。いまは学校に行かなくても、ずっとこのままってわけにはいきません。また学校に行かない と。このままずっとわたしと一緒にいると、祐樹さんがダメになってしまうんじゃないか、って思います。祐樹さんは、ひとりで生きていかないと」 「む、無理だよ! ぼくはそんなことができる強い人間じゃないんだよ!」 これまでより激しく叫び、祐樹は強引に首根っこをつかんできた。 驚いた。こんな大胆な行動を彼が? 顔の高さはほとんど同じだ。至近距離から祐樹の顔を見た。泣いていたが、『弱さ』は感じなかった。黒い眼がらんらんと輝いていた。強烈な意志と感情が宿っていた。 「……ユ、ユウキさん……」 思わずうめいた。迫力すら感じてしまった。 これと同じ眼を見たことがある。 あれは信州の山奥をさまよっていたころ、雪の中で一頭の野犬に出会った。茶色くて大柄な日本犬。ベルタを見るなり姿勢を低くして唸った。痩せた体に残った筋肉のすべてが弓の弦のように引き絞られているのがわかった。完全な戦闘体勢だった。 あの野犬と同じような、『追い詰められた者の眼』。 たじろいたベルタの両肩をつかんで、すがりつくようにして訴えてきた。 「……だめなんだよ。ぼくはだめなんだ。ちいさいころからずっといじめられてたんだ。『がんばっていじめに勝て』っていう人もいるけど、頑張れなかった。 すると『どうしてがんばれない』って怒られた。つらかった。あの人たちはわかってないんだ。頑張れない人もいるんだって。そのうち誰も相手にしてくれなく なった。でもベルタさんは、『こんなぼくでもいい』って言ってくれたっ。いっしょにいて、ぼくの話でわらってくれたっ」 自分の顔から祐樹の手を引きはがし、ベルタは笑顔をつくって明るい声でよびかける。 「おちついて。ね、おちついて」 しかし祐樹は止まらない。またベルタの肩をつかみ直し、機関銃のように言葉を並べる。 「ベルタさんはわかってくれたんじゃなかったんですか。ダメなままでもいいって。他の人たちと違って、ほんとうのぼくを見てくれた。それなのに……裏切った!」 はき捨てるように叫んだ。そして口ごもる。顔は紙のように血の気がひいていた。苦悶の表情が浮かんでいた。 ベルタは気づいた。この表情はただの苦痛じゃない。罪悪感だ。 自分が暴言を吐いた、けっして超えてはならない一線を超えた、そう気づいている。 でも、いわずにはいられないのだ。 祐樹は両手を自分の顔の前でぎゅっと合わせた。神に祈りをささげる者のように。そして叫ぶ。 「だったら、いなくなってしまうなら、最初から希望なんてくれないほうがよかった!」 周囲のベンチに座っていた人間が全員、ぎょっとした顔でこちらを見た。それほどの、血を吐くような絶叫だった。 ベルタ、そんな祐樹を見つめていた。黙っていた。 心の中には二つの塊がうごめいていた。 ひとつは嫌悪感。祐樹の言葉への反発。 だがもっと強い感情があった。 罪悪感。嫌悪より何倍も強い罪悪感。 (このひとをこんな風にしたのはわたしだ。わたしは祐樹さんを命を助けた。でもそのとき、だめなままでいいって言った。わたしのせいだ。わたしがやさしくしたからいけないんだ) (それにわたし、楽しかった。 このひとと一緒にいるの、楽しかった。 本を選ぶのが。漫画の話を聞くのが。だめなこの人の面倒を見るのが、たとえようもなく充実していた。 誰かの役に立てるのがうれしかった。ずっといっしょに、わたしだっていたかった) (だからわたしはこの人を怒れない) ベルタは意を決し、すうっと息を吸って、 「……祐樹さん」 精いっぱい誠実な声で、青ざめた祐樹を見据えながら言った。 「……ごめんなさい」 祐樹の目が見開かれる。ベルタの言葉が意外だったらしい。目の中に浮かんだ感情は複雑なものだ。驚きと失望が混ざっていた。そんなはずじゃない、という焦りもあった。 「ごめんなさい。祐樹さん。祐樹さんの生き方を邪魔してごめんなさい。自分勝手な考えを押しつけてごめんなさい。祐樹さんと一緒にいた間、短かったけど、でも楽しかった。感謝します」 「……な……なんでだよ。なんで怒ってくれないんだよ。なんで叱ってくれないんだよ」 「……さよならです」 背を向ける。 そして駆け出す。 「ベルタさぁぁぁぁんっ!」 背後に祐樹の絶叫が叩きつけられた。 駅ビルへとエスカレーターを駆け上る。 (これでいいはず) (これでよかったはず) (それなのになぜ、こんなに胸が苦しい) 走りつづけた。 11 「……さよならです」 くるりと背を向けるべルタ。黒髪を揺らして駆けだす。早まわしのような速度でエスカレーターを上って駅ビルの中に消える。人間の足ではとても追いつけない。 祐樹はベンチから、はじかれたように立ち上がり、絶叫。 「ベルタさぁぁぁぁぁんっ!」 絶叫に答えるものはいなかった。もちろんベルタが戻ってくることもなかった。ただ周りの人間たちが白い目で見るだけだ。 祐樹、その場にくずおれる。 地面にうずくまったまま、祐樹は泣き始めた。まぶたの端に生まれた大粒の涙は、たちまち幾筋もの涙となって頬を伝う。 「えぐ…えぐ……ベルタさん……どうして……」 しゃくりあげて泣いた。ひとしきり泣くと、祐樹はよろめきながら立ち上がった。 (さがさないと) ベルタを追いかけて、探し出すつもりだった。 (一度できたんだから今回もできる!) 何の根拠もなく心の中で断言して、祐樹は商店街に向かった。 ベルタを探してどうするのか、どうやって説得するのか、そもそもこの町にはいないんじゃないのか、そんな疑問はまったく感じなかった。極端に視野が狭くなっていた。 まず商店街の喫茶店を探した。メロンパン売りのバンが行列を作っていると駆け寄って「ちがう、ちがう、いない」といらだたしげに叫んだ。国道沿いのコメ ダ珈琲店も探した。祐樹が落ちたあの池。楽しく喋った本屋。そのあとはあらゆる店を。ベルタが好きそうな甘いもののある場所にはすべて顔を出した。店員を 突き飛ばす勢いで店の中に突入して店内をぐるっと回り、どの席にもベルタの姿がないと知るとため息ひとつついて何も食べず出てくる。そんなことをどの店で も繰り返した。 やがてあたりは暗くなった。それでもあきらめず、もちろん家にも帰らず、「鉛のようになった足を引きずって食事もとらず探しつづけた。 深夜になり、空腹が耐えられないほどに胃袋を締めつけた。 急に冷えこんで、霧雨まで降ってきた。 震えながら歩いていたらコンビニを見つけた。ダンプやトラックが何両も止まっている大きなファミリーマート。 (肉まんでも食べよう) 自動ドアへと足早に進む。 「クソ祐樹じゃねえか?」 太く、低い声が鼓膜を叩く。知っている声だ。 頭のてっぺんから足の先まで、寒気の塊が滑り降りた。心臓が二倍の速さでドクドクと暴れだす。 「あ……」 震える声が口から転げだした。 (逃げなきゃ! 逃げなきゃ!) 心の中で叫ぶ。しかし逃げられなかった。力強い腕が祐樹の腕をつかみ、別の腕が肩を押さえつけていた。強引に振りむかされた。 案の定、自分を取り囲むように三人の男女が立っていた。 一人は百八十センチの背丈があって、茶色の長髪。黒レザーのジャケットを着て首からはシルバーアクセをぶら下げていた。二人めは横幅があった。ただ太っ ているだけでなく背も高く腕が太い。ヒップホップダンサーを思わせるラフなファッションで、頭は坊主頭。最後の一人は、ソバージュのかかった茶髪の女。 カットジーンズにTシャツだけの姿で、豊満な乳房を誇示するように胸を張っている。 ロン毛と坊主頭は、いつも学校で祐樹をいじめているリーダー格だ。 「よーお、珍しいじゃん、おまえがこんな時間にさ」 坊主頭の男が、息がかかるほど祐樹に顔を近づけてくる。 顔を見ただけで背筋を恐怖が駆け抜ける、そんな相手だった。 「あの女は、今日はいねーのか」 「あ、あ、あの、あの」 にらまれただけで、もう祐樹はまともに喋れなくなっていた。 「おいおい、俺らは普通に挨拶してるだけじゃんかよ。なにブルってんだよ」 ふたりで祐樹を引きずってゆく。 「助けて! 助けてベルタさん!」 腕を振り回し、脚で地面を引っかいて、わめく。 その様子がよほどおかしかったのか、茶髪の女が甲高い声でケタケタ笑う。 「たすけて……」 声はだだっ広い駐車場に広がってゆく。 「あの女にも見捨てられたか。ぎゃはは」 ロン毛が耳障りな甲高い笑声をあげる。 (そうだ。見捨てられた) 胸の中にどす黒い冷たい感情がひろがってゆく。無力感だ。無力感は手足から力を奪った。無抵抗になる。 駐車場の一番右端に連れていかれた。バイク置き場だ。カスタムされた大型スクーターが並んでいる。 二つ並んだスクーターの間で、突き飛ばされた。その場に尻餅をつく。 ロン毛と大柄坊主頭がスクーターに腰掛け、左右から祐樹に冷たい声を浴びせる。 「最近どうよ、学校こねーけどさ」 「いやー、おれら心配したんだぜ。おめーがヒッキーにでもなっちまったんじゃねーかってよ」 「元気そうでなによりだぜ」 祐樹はアスファルトにうずくまったまま、喋ることもできずにうつむいている。 このあと何が起こるか、いやというほどわかっているのだ。 茶髪女の間伸びした声も聞こえる。 「あのさー。あたし話がみえねーんだけどさー。この子だれよ?」 「あー、エリには言ってなかったっけ? 学校で友達とかいなくてさ。だから俺たちが遊んでやってるわけよ。……こんなふうにな!」 ロン毛がレザーパンツに包まれた足で蹴り飛ばしてきた。腹に重いキックがめり込む。 「ぐへっ」 うめいて祐樹は体を丸めた。頭の中はただひたすら『怖い怖い怖い』。立ちあがって反撃することなど思いもよらない。 「へえー。イジメって奴?」 エリの明るい声。好物を前にした小さい子供のように無邪気な声だ。 「ちげーってエリ。友達だっての。なー祐樹。おれさー、こないだオヤジにクソムカつくこといわれたんだけどさ。だからストレスたまってんだけどさ。手伝ってくれるよなー、ストレス解消。なー」 頭の上にブーツが乗せられた。髪の毛がジャリと鳴る。恐怖に駆られてすぐに叫んだ。 「はっはいっ」 「ありがとよっ」 顔面に、頬にブーツを打ちこまれた。口の中に熱さが炸裂する。骨がゴリッと鳴る。吹き飛ばされて仰向けに転がる。 見上げると、そこに大柄坊主頭がいた。まるまると膨らんだ顔に残忍な笑みを浮かべて、言った。 「オレさー、こないだ駅前でバイク停めといたらメット盗まれたんだよ。マジムカつくよな。おまえならわかってくれるよな?」 「はっ、はい」 「オラッ」 坊主頭が腹にスニーカーを踏み下ろしてきた。内臓が圧迫され、胃袋がねじれる。意志とは無関係に、体が丸まろうとする。口から透明な胃液を吐き出す。 「きたねえな、オイッ」 太い眉を吊り上げ、坊主頭が顔面にキックを浴びせてきた。 「ごっごめんなさいっ」 「なんで抵抗するんだよ? これはイジメじゃないよな? オレとおまえは遊んでるんだよな?」 「はい……」 弱々しく祐樹はうめく。涙が両のまぶたからあふれだして視界をゆがめる。 「わかってんなら、おとなしくつきあえっ」 またしても二発、三発、腹にスニーカーが打ちこまれる。胃袋の変形する音がゴボリと腹の底で響いた。なんとか吐き気に耐える。四発目は顔面に降ってきた。全身の筋肉が痙攣する。冷や汗が噴きだす。 「ねえ、それ、あたしもやっていい?」 エリと呼ばれた女の軽い声が聞こえた。 (ますますひどくなるのか。) 絶望に目を閉じる。 「あー。やっていいぜ」 「おらよっ」 ロン毛と坊主頭が二人して祐樹の体を持ち上げる。五、六歩運ばれて、駐車場の上に放り出される。一瞬だけ落下感、後頭部に鋭い衝撃。 気が遠くなった。顔面に冷たい何かが降ってきて、意識が現実世界に戻った。目を開くと、エリがペットボトルを逆さに持っていた。中身をぶっかけられたのだ。 「はやくうつぶせになりなさい。よつんばいになるのよっ。なんて」 慌てて祐樹は体をひっくり返す。手とひざをついて四本足になる。 「いやー、やるじゃん」 「おう、エリって才能あるじゃん。女王様の才能」 「そーかなー。じゃあ、これをくわえなさい」 エリが空き缶をけっ飛ばしてくる。祐樹の目の前に空き缶が転がってくる。青い缶コーヒーの缶だ。 命令どおり、四本足のまま近づいて缶をくわえる。口の中に何か小さいものが転がりこんでくる。苦みが広がる。この味は一体なんだ? 頭の中がパニックになる。タバコの吸殻が入っていたらしい。 「こっちに来なさい」 エリの声が前方から聞こえてくる。高揚で上ずった声だ。 吐き気をこらえて歩く。エリに向かって二、三歩すすんで、ついに耐えられなくなった。口の中のものをすべて吐き出してしまう。 唾が、エリの足にかかってしまう。 「ちょっと! あんた何すんのよ!?」 悲鳴をあげるエリ。ペットボトルを投げつけられた。鼻に当たった。まだ中身が入っている。鈍い痛みが弾ける。 「おいおい、エリになんてことしてくれんだよ? こりゃ、お仕置きしなくちゃな?」 楽しそうに笑いながらロン毛が近づいてくる。目の前に黒いブーツが並ぶ。至近距離から顔面を蹴り上げられた。鼻の中に熱さが弾ける。たちまち鼻血が流れ出す。腕で顔面を押さえようとする。 「むだだっつーの! ひゃひゃひゃ」 ついに高い声で笑い出したロン毛。腕のを踏みつけられた。ミシッと骨のきしむ音。 「どうしようかエリ、こいつ反省してねーぜ?」 「やっちゃって!」 「へ、女は恐いねえ。じゃあ遠慮なく」 「おれもー」 背後から坊主頭の野太い声がした。いつのまにか後ろに回りこんでいたのだ。両足をつかまれた。背筋を寒気が駆け抜けた。脚をばたつかせたが、もう遅い。足首を思い切りひねられた。激痛に目を閉じ、顔をしかめてうめき声をもらす。 「ううっ……なんでなんだよ……どうして、ぼくがこんな目に……」 目を閉じたまま、闇に向かって問いかける祐樹。一瞬の間があった。ロン毛の冷たい声が降って来る。 「ハア? おまえ今さらなにいってんの? 『世の中、そういうふうにできてる』からだよ。 お前を殴って、オレらはストレスが消えて嬉しいわけよ。クラスのみんなだってそうだ。お前がこの二,三日来ないから、みんなイライラして雰囲気悪くなってんだぜ。『異常』な奴を叩いてスッキリ、それが世の中のルールってもんだろ。学校も会社もそうだ」 祐樹、全身から力が抜けるのを感じた。 「……そうだね」 おもわず声が漏れた。きっと口元には疲れた笑みを浮かべていたはずだ。 (ずっと前から、わかってたはずじゃないか) (どんなに逆らったって無駄なんだって) (理由なんてない、脱出する方法もない) (小学生のころから十年、もういい加減あきらめていい) (火が燃えるように、物が落ちるように、日が沈むように、ぼくはいじめられる) (そういうものなんだ) はあ、とため息をつく。 (このままあきらめて、おとなしく殴られよう) (そうさ、ベルタさんがいたから、ちょっと勘違いしただけさ) (ずっと目をつぶって我慢していればそれでいい) (いつか誰かが、手加減を忘れてくれる。そうすれば楽になれる) アスファルトの上に伏せて、祐樹はまったく脱力した。 ゴッ、ゴッ。背中に、後頭部にキックが降りそそいでくる。 だがもう、悲鳴をあげる気にもなれない。 どうでもいい、本当にどうでもいい。 どうせ何をやってもダメなのだから。 そのとき耳を、エリのキンキン声が叩く。 「あー、なにこれ。マンガじゃん」 (え?) 一瞬にして意識が覚醒した。 目を見開く。体をよじって周囲を見回す。 先ほど自分が落とした肩掛けカバンを、エリが拾っていた。中から、マンガの原稿を取り出していた。 「お? なにそれ見せて」「なんだ?」 男二人も興味を示した。ロン毛のほうがキックの雨を一時中断して、マンガを覗きにいく。 「ぷ、何これ?」「わらえるでしょー」 「これ自分で描いたのかよー。暗い奴だとは思ってたけどさー」 「うわ、なにこれ、この女の絵、見てよ」 ロン毛が原稿のうち一枚を手にとって、ペラペラと裏返してみる。クライマックスの場面だと祐樹には分かった。主人公がヒロインの言葉に助けられ、再び戦いを決意して立ち上がるシーンだ。 「えー。なになに。『だけど君がそこで見守ってくれるなら』オイオイなによこれ」 「願望なんじゃねーの。だれか女に助けてもらいたいって」 「キモーイ」 エリが手を叩いて嘲笑する。 胸の奥で、なにかどす黒いものがわきおこった。 (なんなんだろう、これは) 「ほんと、キモチわりいよなあ。あんだけ殴られて、まだ自分がクズだってわかってねーのかな?」 「もしかして将来はマンガ家? とかおもってんじゃないのー」 「プ。かもしんねー。できねーって。こんなクズゲンコーで」 ビリビリと音がした。 (やぶった! 原稿を破った!) 心臓が跳ねた。耳の奥で、血液が突進するドクドクという音。 目を閉じて耐えていれば時間は過ぎていくと思っていた。 だが、目を閉じるなんてもうできない。 腹ばいの姿勢で、精いっぱい首を持ち上げてロン毛を見上げる。にらみつける。 ロン毛はちぎった原稿を何枚か投げ捨てる。祐樹の視線に気づいて、見下ろしてくる。 「は、なにその目? このマンガが大切だっての?」 きいた瞬間、胸のうちにいくつもの台詞が蘇った。ベルタの台詞が蘇る。 『ぜひこんど、祐樹さんが描いたのを読ませてください』 『とっても面白かったです』 『ここで主人公がアップになるといいですよ』 『このヒロイン、かわいい子ですよね。わたし好きです』 ベルタの台詞ひとつひとつが胸の中で刃となって暴れまわる。ベルタの笑顔が、ふっくらした愛らしい顔立ちに微笑を浮かべて真正面から見つめてくれた彼女 のことが、彼女と並んで歩いた楽しい日々が、脳裏で再生される。そのたびに胸がうずいた。知らず知らずのうちに拳を握り締めていた。 (ああ。そうか) 理解した。この体のうちでたぎる思いはなんなのか。 怒りだ。自分は怒っている。もう何年も怒ったことがないので、わからなかった。 (どんなに殴られてもよかった。どんなに馬鹿にされても、あきらめることができた) (ぼく自身のことなら!) (この原稿を馬鹿にされるのは、ベルタさんまで……) 「やめろ!」 祐樹は、首筋が痛くなるほどに顔をあげる。ロン毛に向かって言葉を叩きつける。 あっけにとられたロン毛、次の瞬間、噴きだす。 「プッ。お前、いまさら」 ロン毛の言葉など聴くつもりはなかった。 祐樹は、全力で脚を縮めた。「おっ」意表をつかれたのか、背後で大柄スキンヘッドがよろめく。そこで思いきり伸ばした。蹴りつけた。なにか柔らかいものに靴が命中する。 「げふっ!」 大柄スキンヘッドがうめいて、手を離す。脚が自由になった。 アスファルトに手をついて立ち上がる。 「やめろっていってるだろぉっ!」 原稿を持ったまま下卑た笑みを浮かべているロン毛に、殴りかかった。 「うあああああああっ!」 絶叫し、突進した。殴りかかった。 腕を大きく振った素人くさいパンチを放つ。ロン毛は驚いた顔になったが、しかし危なげない動きで祐樹のパンチをかわす。すばやく反撃。皮のグローブに覆われた拳が飛んできて視界を埋める。 重い衝撃が頬に生まれて顔面全体にひろがった。いつもと違って、殴られた瞬間に眼をつむることはなかった。のけぞった。上半身がぐらついた。それだけだった。倒れずに踏みとどまった。ロン毛が意外そうに片眉を上げる。 祐樹自身も驚いていた。いままで、殴られたら泣いてうずくまることしかできなかった。 だがいまは体の奥底から力がわいてくる。指の一本一本、頭の中、体の全てに熱気が充満している。痛みは感じない。 すかさず祐樹は二発目のパンチを放つ。またかわされた。今度はロン毛がローキックを放ってきた。軸足を蹴り払われた。バランスが崩れた。膝を突いて倒れ こむ。しかしそのとき無我夢中で伸ばした手が茶色く長い髪をつかんだ。全体重をかける。髪の引き抜かれる音がした。ロン毛が「ウッ」と悲鳴を漏らす。 祐樹の心に高揚感が膨れ上がった。 (こいつらだって泣いたりビビったりするんだ。人間だ) 相手がひるんだ瞬間、祐樹はまた突っこんだ。今度は腕など振りまわさなかった。何も考えず、ただ体中で渦巻くエネルギーに見をまかせて、頭から突進した。額のあたりに固くとがったものがぶつかった。頭蓋骨をつらぬく重い衝撃。顎に当たったのだ。 「ぐうっ」 ロン毛がうめいて後ろに逃れようとする。髪をふりみだし、白い歯をむきだしている。いつもの祐樹なら恐ろしげな姿だけで震え上がってしまっただろう。しかし祐樹にはわかった。取り乱している。 (逃がさない) 一気に腕を伸ばして組みついた。ちょうど祐樹の顔は相手の胸あたりだ。 「調子にのってんじゃねえ!」 背後で怒声が炸裂する。祐樹の二倍もある太い腕が背後から伸びてきて、引きはがされた。 「あ……」 背筋が寒くなる。興奮のあまり、もう一人の敵をすっかり忘れていた。 いまや祐樹はまるで動けなかった。背後からまわされた片方の腕が胴体をすっぽり包んで拘束している。もう片方の腕が首を締めている。グローブのような大きな手が口をふさいでいる。 「もう逃げられねーぜ!」 ロン毛が前方からボクシングのファイティングポーズをとって接近してくる。 「やっちゃえー!」 明るいエリの声。それを合図にロン毛はパンチを繰り出してきた。腹に、十発、二十発。胃袋がでんぐり返る。膝から力が抜けた。 「泣いて謝れよ! オラッ」 (絶対にイヤだ!) 祐樹、自分の口をふさいでいる手に噛みついた。ありったけの力を顎に入れる。 血の味でいっぱいになっている口の中で、太い指が暴れる。噛んだ。噛みつづけた。骨がきしむ音がギリギリと頭にまで響いてくる。 「いでっ、いでででっ」 耳元で坊主頭の声がする。 「離せよ! 離せよ!」 口の中から手を抜こうと暴れる。祐樹の足を踏みつけてくる。 目の前のロン毛も祐樹を殴りつけ、頭をつかんで揺さぶってくる。 「離せってんだよ!」 祐樹は噛むのをやめなかった。体の中の炎はいままで以上に燃えていた。飛び上がるほどの痛みが襲っているはずなのにまったく痛くなかった。どんなに殴られても蹴られても、腫れ上がったまぶたの下でロン毛をにらみ、ただひたすら、渾身の力をこめて指を噛んだ。 「わかったよ! 謝るから助けてくれよ!」 背後からの声が一変した。哀願してくる。 まだ祐樹は顎の力を緩めない。 「おねがいだよお、やめてえ!」 背後から聞こえるその声が祐樹の意識を貫いた。 涙声だ。泣いている。 (いつもぼくが泣いているのとそっくりだ) 急速に意識が澄んだ。頭の中に充満していた暴力衝動がすっと消えてゆく。 顎から力を抜いた。 坊主頭が「ひいい」とわめいて祐樹の口から指を引き抜く。数歩あとずさる。 「お、おい大丈夫……」 ロン毛が坊主頭のもとに駆け寄ろうとする。祐樹は彼に叫びを叩きつけた。 「謝れよっ!」 彼の足が止まる。血走った目を祐樹にむける。薄い唇が震えていた。祐樹は知っていた。これは怯えの表情だ。 「わ、わかったよ……」 背後を振り向く。そこにいた坊主頭は、祐樹がなにか言うまでもなく頭を下げて、 「悪かったよ! もうやらねえよっ」 「じゃあ、いけ!」 叫んで、路面を踏み鳴らした。二人は乱れた足並みで大型スクーターにまたがり、ヘルメットもせずに走り出す。 「ちょ、ちょっとまってよっ!」 エリがあわててスクーターに飛び乗る。 スクーター二台は国道に飛び出す。エンジン音が遠ざかっていった。 祐樹はあたりを見渡す。 いじめっ子たち三人がいなくなったコンビニ駐車場は、やけに広く見えた。 黒い池のようなアスファルトが広がっている。さきほど停まっていたトラックはもういない。クルマは一台もなかった。 ただ、祐樹の落とした肩掛けカバンと、原稿と、破られた紙片だけがある。 駆け寄って、風に舞う紙片をつかんだ。 紙片をかき集め、残った原稿を抱きしめる。一枚一枚をチェックする。 やぶられたのはたった三枚だ。 「よかった……」 ほっとした。その瞬間、いままで麻痺していた痛覚が一気に襲ってきた。手足が、腹が、激痛を訴える。 恐くなった。自分はあれだけの暴力を受けた。 (それなのに……なんで勝てたんだろう) 不思議に思う。 勝った、と呟く祐樹。どうして勝てたのだろう。 この湧き上がってくるエネルギーはなんなのだろう。 その場に腰をおろし、原稿に目を落とす。 少年主人公の顔が目に飛び込んできた。 これまで肝心なところで逃げてばかりだった主人公が、怪物を前にこう叫ぶのだ。 気を失ったヒロインを抱きしめて。 『俺はもう逃げない。大切なものができたから』 (そうだ、簡単なことじゃないか。ぼくも同じだ) ぼくには絶対に譲れないものがあるんだ。 ベルタさんと二人で作ったマンガ、ベルタさんと過ごした短かったけれど楽しい想いで。 それだけは大切なんだ。 ベルタさんはいなくなっても、心に刻まれた幸せは消えない。 目頭が熱くなった。あれだけ殴られても泣かなかったのに、涙があふれて頬を伝った。 祐樹は原稿を抱きしめ、天をあおいだ。 いつしか霧雨はやんでいた。雲の隙間で星がきらめいていた。 「……ぼくはもう逃げない。大切なものができたから」 第2章 1 それから三か月。横浜中華街。 ベルタは中華喫茶・山水楼に入った。 建物や路面ががぎらつくほど眩しかったのに、店内に入ったとたん一気に光が和らぐ。 窓にはめ込まれた龍や花の透かし彫りが、真夏の太陽をさえぎってくれているのだ。 一階の一番奥、角の席に座る。 店内を見回した。どの店に入っても、店内が一望できる場所を選ぶことにしている。 やはり流麗な装飾の施されたつい立が、店内のあちこちに置かれている。丸テーブルがいくつか見えてなくなっている。これで視線が少しさえぎられている。大丈夫か? 危険を察知できるか? いや問題ない。店内のBGMが静かだ、音で分かる。 座席といい机といい、すべてが木製であめ色に輝いている。 あちこちにガラスケースがあって、色鮮やかなの人形が展示されている。陶器の器も並んでいる。床や壁の茶色と陶器のミルク色がよく映えた。 綺麗だなあ、と思いながらメニューを広げる。 チャイナドレスのお姉さんがお絞りと水を持ってくる。ベルタは頭を下げて、 「あ、この杏仁豆腐と、緑茶入りカスタード団子と、それからライチティーを」 そこでちょっと考えて、おなかに手を当てる。 (ご飯も食べたほうがいいな) 「あと、この『大根もち』と、『小豆入り大福』を」 お姉さんが頭を下げて去ってゆく。 ベルタはちらりちらりと店の外を確認しながら、持っていたリュックを机の上に置いて、中からマンガ雑誌を取り出す。 さきほどコンビニで買ってきたものだ。祐樹と出会ってから三ヶ月、すっかりマンガを読む習慣がついていた。いまだにベルタは学生生活も恋愛も実体験できていない。日本のあちこちを逃げ回っている。だがマンガを読むときだけは「平穏な自分」を疑似体験できる。 だからベルタはこんなひとときがとても好きだった。 ひじを丸テーブルについて、パラリパラリとマンガのページをめくる。 ……そのとき、心臓が跳ねた。 いま、なにかとんでもない名前がのっていたような気が。 そのページをまじまじと見つめる。 『フレッシュ新人読みきり! 倉本祐樹』 「あ……」 おもわずベルタの唇から声が漏れた。 クラモトユウキ。彼の名だ。あのいじめられっこの名だ。 マンガの扉ページの絵柄に見覚えがあった。 彼と別れた日、公園で見せてもらったマンガと似ている。 だがあのときより力強さが増しているような。 ベルタは生唾を飲み込んで、中身を読み始めた。 すぐに引き込まれた。女の子はかわいらしく、少年は表情豊かで、ストーリーは密度が高い。 読み終わって、「ふう……」とため息をつき、たった三十二ページしかないことに驚いた。 もっとたくさんあった気がした。 最後のページの後には「作者紹介」の欄があった。 「倉本祐樹先生」の似顔絵があって、祐樹が肉筆でなにやら描いていた。 「デビューです! たった三ヶ月前にはこんなこと夢にも思わなかったです。 もう最高! などといってると痛い感じなので、これからもっと、100倍頑張るぞ!」 そして自己紹介が続いていた。 『好きな食べもの 甘いもの 友人の影響。 特技 マンガ以外何もない……でもいいさ、マンガが誰より得意なら。 好きな言葉 夢 でも嫌いな言葉も夢。 自分の性格 よく泣く。感情の沸点が低い人間です。』 読んでいるうちに、ベルタは視界が歪むのを感じた。いつのまにか泣いていた。胸ポケットからハンカチを取り出して拭く。それでもまだ涙が流れてきた。 「……よかったね……」 声とともに、頬をつたった涙が雑誌のページに落ちた。 そして、マンガ雑誌をぎゅっと抱きしめた。 彼のことを思い出した、わずか数日間つきあっただけの、しかしベルタの心にけっして消えない思い出を残してくれた少年。彼との別れは辛かった。なにも気 持ちがうまく伝わらなかった。ただ傷つけてしまった、そう思っていた。だからアレ以来臆病になって、ともだちを作らずにいた。 でも、伝わってたんだ。 彼、頑張れたんだ。 マンガ雑誌を抱きしめたまま、目を閉じ、イスに深く腰掛ける。 ウェイトレスの近づいてくる足音。 「こちら杏仁豆腐とライチティーになります」 目を開けて、皿の乗った盆を受け取る。 この店の杏仁豆腐はどんなものだろう? 顔をほころばせながら、白く艶やかに輝く杏仁豆腐へスプーンを入れる。 と、その瞬間。 耳に小さな音がひっかっかった。 ガチャリ。 金属の触れあう音だ。 ベルタはその音を知っていた。訓練で聴いた。戦場でも耳にした。サブマシンガンの安全装置を外す音。 窓の外から聞こえてくる! 全身を寒気が走った。 音のした方向に目を向ける。窓の外には横浜中華街の町並みが広がる。数十人の男女が歩いている。窓に面した道を一人の男が歩いている。その男は黒い箱型の物体をこちらに向けていた。 ベルタの脳内でいくつかの思考がはじける。 (ついに追っ手が来た。どうする? 回避? できるだろう。とっさにテーブルの下へ?) (いや、それではダメだ、店内には客と店員が大勢いる。掃射されたらみんなを巻きこんでしまう。それだけはダメだ) (よし) ベルタ、とっさにテーブル上のカバンをつかんで、足首の力だけで跳躍。体がテーブルの上まで浮き上がる。いま頭に載せている長い黒髪のウィッグも浮く。 首の後ろで二本のお下げが波打つ。飛び上がると、すぐそばにある壁を蹴り飛ばす。靴の底に、壁を踏み抜いてしまった感覚。反動がベルタの体を押し出す。 窓の外に向かってロケットのように飛びだす。カバンを顔の前にかざして。 らたたたたたっ! タイプライターを思わせる軽い銃声が耳を打つ。ガラスの割れる音も響いてくる。カバンを蹴り飛ばされたような衝撃。防弾繊維を仕込んだカバンで銃撃を受 け止め、そのまま飛んでゆく。ガラスの破片が舞い散るなか、体を横にしたまま突進、店の外まで飛び出して銃の持ち主に体当たり。 相手が倒れた。ベルタはとっさに男の腕を踏みつける。パキンとチョコレートを割るような軽い音。反対側の腕も折る。男の脇にいた別の男もサブマシンガンを出す。とっさに脚を蹴り上げる。キュロットスカートから延びるほっそりした脚が、一瞬で男の銃を吹き飛ばした。 こんどは背後でチャキリと金属音。 (ダメだ、ここでよけたら通行人に当たる) ベルタは目の前にいる男の体を抱き上げて振り向いた。まったく同じ瞬間、目の前にしたスーツ姿の男がサブマシンガンをこちらに向けて発砲する。オレンジ白の閃光と銃声が連続して弾ける。いま抱きかかえている男の体が銃弾を受け止めた。 「あがっ! げっ!」 男がうめいて体を痙攣させる。血は噴きださない。やはり防弾チョッキをつけている。 (よかった) ベルタ、男の体を振り回す。両腕をつかんで長さ百八十センチの棍棒として使う。目の前にいる男を一人吹き飛ばした。 (逃げなければ!) ベルタはカバンをひっつかかんだまま駆け出した。 足音が追いかけてきた。有機脳の演算リソースを聴覚に優先配分、追っ手の人数と戦闘能力を推測する。 (数は五人。戦闘力A。訓練されてるけど普通の人間。音から推測して武器はサブマシンガン。大丈夫。通行人にだけ気をつければ) 『燕雷亭』と書かれた看板のある真っ赤な中華料理屋に飛びこむ。 「いらっしゃ……」 店員が声をかけてくる。無視して突進する。赤絨毯の上を突っ走り、丸テーブルの並ぶ店内を駆ける。昼食を食べていた身なりのいい男女がベルタを見て唖然と口をあける。 「失礼しますっ」 叫んで、階段を三段飛ばしで駆け登り、二階の窓を開けて跳躍する。他の店の屋根に乗り、看板を足がかりにして屋根から屋根へジャンプ、またジャンプ。胸の中の生体過給システムを戦闘出力で起動。 途中で頭の上にバサリと空気の動く感覚。ウィッグが外れてしまった。短い黒髪が空気にさらされた。 (拾ってる場合じゃない!) 無視して跳躍を続ける。瓦を吹き飛ばし、看板に両手を引っ掛けて逆立ち状態で飛び、十メートルクラスのジャンプを連続する。 (よし、ついてこない) 当たり前だ、人間がこの動きについてこれるわけがない。 だが七つ目の店の屋根に飛び乗ったとき、耳が風のうなりをとらえた。 後方から風を切って接近する、何物か。 ズガン! 盛大な音を立てて、すぐ後ろに着地する。 (飛んできた! わたしと同じか、それ以上の運動能力) 振り向いたベルタの眼に飛びこんできたのは、巨漢の姿。 身長二百センチの巨体から丸太のような手足を生やしている。肩幅といい胸板の厚みといい人間よりグリズリーに近い体格だ。金色の髪を短く刈り、下半身はアーミーパンツ、上半身はモスグリーンのジャンパーで覆っている。 黒い装甲こそ展開していないが、間違いない。 (アントン!) ベルタの兄に当たる白兵戦型エインヘリヤル、アントンだ。 アントンはネイビーカットの下のごつい顔立ちに笑みを浮かべた。 「ようベルタ! 久しぶりだな! おとなしく捕まれよ!」 「嫌です!」 ベルタは叫んで駆けだす。近くのビルのベランダに飛び乗り、そこから屋上に飛びうつる。 背後でズガンと重い音がしてベランダが崩れ、さきほどより近い一メートル程度の距離でアントンの大声が、 「逃げだって無駄だぜい、ベルタ!」 (確かに) ベルタは胃の中に重いものが広がっていくのを感じた。 アントンの体力、瞬発力は自分を確実にしのいでいる。 すでに胸の中の過給システムは酸素残量七十パーセント。酸素が切れると激しい運動が出来なくなる。アントンはベルタの二倍以上もつだろう。 このままでは追いつかれる。どうすれば? 十二軒めの店の屋根に着地した。すでにここは中華街の南の端だ。目の前には巨大な空間が開けている。片側三車線の道路、新横浜通りが広がっている。通りに沿って、鉄道の高架が走っている。 (どうしよう。電車に飛び移るか?) 視線を下ろす。眼下の新横浜通りを見る。車とバイクが埋め尽くしている。 ベルタ、飛び降りる。高さ二十メートルから歩道に着地。履いているスニーカーが煙をあげる。歩行者の中年男が腰を抜かす。目の前に広がる新横浜通りに駆 けよる。通りを埋め尽くす車の列の中から一台のバイクに注目。白と赤に塗られた足の長いバイクだ。ホンダのオフロードバイク、CRMだ。 「ごめんなさいっ!」 叫びとともにバイクに突進、ライダーを蹴り落としてバイクを奪う。バイクはとてもシートが高くベルタでは足がつかない。それでもまたがってエンジンをか け、『ぱぁんっ!』2ストローク特有の破裂音を立ててバイクは発進する。前輪を振り上げ、後輪を空転させて車の列の中を突き進む。赤信号に出くわした。目 の前をトレーラーが横切る。待っていられない。ハンドルをひねってバイクをねじり倒し、歩道に乗り上げる。 背後でバオン! 野太い雄叫びが響く。 振り向くと、大型バイクにまたがったアントンの姿。一抱えもある青黒い燃料タンク、ベルタが乗るCRMの二倍はあるタイヤ幅、水冷であることを誇示するかのようなのっぺりしたエンジンが左右に張り出している。ホンダのCB1300だ。 (アントンも足を手に入れた!) 「オラッ! ちょこまかしやがって!」 怒声を張り上げたアントン、たちまち距離を詰めてくる。排気量で五倍、基本的なパワーがけた違いだ。 「くっ……」 うめいたベルタ、唇の端を噛んで車体をひねり、体全体を振り子のように振ってCRMを急旋回させる。歩道のタイルの上をタイヤがすべる音、キュルルと甲高く悲鳴をあげて方向転換。進路上でワイシャツ姿のサラリーマンが棒立ちになっている。 「どいてくださいっ!」 体を大きく振って進路を曲げ、すんでのところで衝突を回避。その先にも別のサラリーマンが、おばさんが立ちふさがる。なんとか合間をすり抜ける。悲鳴と 怒号が浴びせられる。バッグやアタッシュケースが体に当たる。人ごみがまだ続く。前方わずか数メートルに幼稚園児の集団を見かけた。よけるには間に合わな い。車体をジャンプさせて飛び越える。 前輪から着地する。フロントのショックが大きく縮んで、危なげなく衝撃を吸収した。こういうときはこのバイクがモトクロス用であることに感謝する。 (どっちに逃げればいい?) あせって、生唾を呑みこんであたりを見渡す。視界に飛びこんできたのは青々とした緑に囲まれた横浜スタジアム。その脇に並んでいる首都高速の出入り口。 (首都高なら!) 交差点を突っ切り、目の前をふさぐ巨大トレーラーに急ブレーキをかけさせ、首都高への入り口を駆け登った。 「お客さん、ノーヘル……うわあ!」 料金所から身を乗り出して叫ぶ係員。その腕の下をくぐりぬける。 首都高1号線、下り方面に入った。 高速道路は横浜の町を見下ろすように高い場所を走り、やがて二股に分かれる。石川町ジャンクションだ。左に曲がれば横浜の貨物港を通って金沢区へ。ベイブリッジを渡ることもできる。右に曲がればどんどん山の方に入っていって横須賀行きの道路につながる。 ベルタは左に曲がった。 ますます道路は高く上る。ゆるいカーブを描きながら左に曲がると、海が見えた。 トレーラーやトラックで埋め尽くされた道を、車体をひねって隙間を抜けてゆく。速度百キロを維持する。左右はトラックが銀色の壁となってそびえている。一台ごとに高さの違うバックミラー。首をすくめてよける。 先ほどからスロットルは全開だ。蚊の飛ぶ音を数百倍に増幅したような甲高いエグゾーストが唸っている。股間の下からすさまじい震動がビリビリ伝わってく る。エンジンが高回転で悲鳴をあげているのだ。生粋のモトクロッサーであるCRMはオフロード走行では無類の強さを発揮するが、お世辞にも高速道路向きで はない。ハンドルが幅広すぎて、クルマの間を抜けるのも一苦労だ。 (このバイク、選択間違えたかな……) ブオン! 背後、たった二、三メートルの距離で弾けた野太い排気音。バックミラーをちらりと見る。バックミラーの中にはCB1300にまたがっているアントンの姿。大口をあけて笑っている。 (……追いつかれた) 背筋に冷たいものが駆ける。スロットルを握る手に汗がにじむ。 「もう逃げられねえぞ、べルタっ」 もっと速度をあげた。いま速度計は百二十キロを指している。バックミラーは振動で像がぼやけ、今や何も見えない。どこからか飛んできた虫がベルタの頬に激突した。目にゴミが入った。涙がにじんでくる。 一瞬だけ振り向く。ダメだ、アントンはたった十メートルの距離にいる。引き離せない! そのとき、道路脇にびっちり並んだ金網に気づいた。 (ここだ!) クラッチを切って思いきりエンジンを吹かし、次の瞬間クラッチをつなぐ。同時にハンドルを力のかぎり引っ張りあげた。 バイクをジャンプさせた。 重さ百キロに満たないCRMは綿毛のように軽々と舞い、金網の上に着地。タイヤの中心線を金網に合わせる。全神経を指先に集中。ブレーキレバーに伝わってくる何百分の一グラムという感覚でタイヤの摩擦具合をチェック。バランスをうまくとった。 そしてブレーキをかける。思い切りバイクの後輪が浮く。前輪が暴れだす。ベルタはシートから腰を浮かして、前のめりのバイクを制御した。前輪で金網を捕らえたまま、体を左右にひねる。 体の動きに引きずられ、バイクがそのまま反転した。 これまでと逆向きに、金網の上で着地する。 こちらに向かって突進してくるアントンが見えた。眼を丸くしている。 思い切りスロットルを開けて加速。 金網の上を逆走開始。アントンのバイクとすれ違う。「くっそぉ!」と悪態が風に乗って聞こえてくる。前輪を持ち上げて加速、下り坂だから重力も味方する。たちまち百二十キロに達する。ここなら車を避ける必要もない。全力で走れる。 青い海の輝きと、埠頭にずらり並んだコンテナが、たちまち後方に流れ去る。横浜スタジアムと中華街が見下ろせる。そのまた向こうにランドマークタワーが白く光っていた。 「このやろっ。このやろっ」 後ろから排気音にまぎれてアントンの叫びが聞こえる。バックミラーをチェックすると、車列の間からアントンのバイクが見えた。すでに指先ほどに小さくなっている。 「ふんがっ!」 アントンも車体をジャンプさせ、金網に乗ろうとしている。CB1300の巨体が宙を舞う。しかし金網に載った次の瞬間、足元の金網が大きくたわんで、乗 るのがやっとで波打つ。グラリグラリと車体が大きく揺れる。首都高の中へ転げ落ちる。ガシャンと破壊音。ベルタのCRMと比べ、CB1300の重さは三 倍。重すぎるのだ。 倒れた車体を起こし、アントンは普通に道路を逆走してくる。しかしクルマを避けるのに手間取って、あまり速度が出せないようだ。どんどん引き離してゆく。 「くっそおおお!」 ドイツ語の罵倒が風に乗って届いた。すでに姿は見えない。 (よし、いまのうちに距離を稼ごう) ようやく一息ついて、これからのことを考え始めた。 (このまま東京まで走って……) あたりを見る。ランドマークタワーも通り過ぎ、いま首都高は川沿いを走っている。あたりの景色はいい気に下町めいたものになった。左手には幅10メート ルしかないような狭い運河、そして運河沿いにはトタン屋根の建物がびっしり並んでいる。モーターボートや漁船でつなぎとめられている。ずっと前方に大きな 川が見える。鶴見川だ。 頭の中の地図と照合した。ここは子安のあたりだ。あと十キロで東京に入る。 飛行機、新側から新幹線、どの方法で移動するのがいいかと考え、 ずがずがずが! 何かの破壊される音が背後で炸裂した。ずがががが! 音はどんどん近づいてくる。 (いったい何が?) 「ベエエルウタアアッ!」 アントンの絶叫。距離は後方二十メートル。また追いつかれた。一体どうやって。振り向いて愕然とした。思わず口が半開きになる。 アントンは削岩機のような勢いで車を蹴りながら走っていた。左右の車にブーツを叩き込んでいた。キック力数トンに及ぶ蹴りを受けてベンツのドアは変形しカローラの窓ガラスはふっ飛びトレーラーの貨物室は打ちぬかれた。軽自動車にいたっては車体そのものが宙に浮く。 「げはは、オラオラ、どけってんだよ!」 キックの威力におびえてか、車がどいてゆく。左右に道をあけてゆく。生み出された道をアントンのCB1300が百四十キロオーバーで疾駆する。 「な、なんてことを……」 驚愕のうめきをあげるベルタ。すでにアントンは十メートルほどの距離に迫っている。自分のバイクはこれ以上加速できない。 バックミラーの中でアントンがすばやく動いた。ジャンバーの前を開く。中はタックトップ一丁のようだ。脇の下に黒い塊を吊っているのが見えた。 (拳銃!) ベルタの心の中で警告の火花が散り、火花は0.01秒で全身の筋肉繊維にまで浸透。ベルタは考えるより先にバイクをジャンプさせた。ふわりと浮く車体。 銃声。タイヤの真下を銃弾がかすめ通る。回避成功。だが一発ではなかった。連続した銃声。たたた! たたた! タイプライターのようでもあり、釘を打って いるようでもある音。拳銃ではない、サブマシンガンだ。ベルタは戦術支援電子脳の能力を全開。アントンの運動能力にバイクの揺れまで加算して弾道を予測。 即座に予測結果を全身の筋繊維にフィードバック。バイクを小刻みにジャンプさせる。一発目、二発目、回避成功。黒髪を銃弾がちぎり取り、ハンドルのグリッ プカバーをえぐってゆく。ぎりぎりのところで三発、四発、五発、回避成功。その間もずっと反撃の方法を考える。リュックには拳銃が入っている。これで反撃 するか。チャンスは一瞬。こちらが狙いをつけている間には回避に回す能力が残らない。 間断なくバイクを跳ねさせながら手を素早く動かしリュックに手を入れる。しかし遅かった。回避し切れなかった一発の銃弾が前輪を撃ち抜いた。タイヤが バーストする衝撃が伝わってくる。一気に車体が沈み込む。ハンドルが凄まじい力に振り回される。破裂したゴムタイヤは走る上でただの障害物でしかない。タ イヤがすべる。もはや暴れている。とっさにブレーキレバーを握りこむ。速度を落とし、シートから腰を上げて体重移動、なんとか転落を防ごうとする。 そこにまた銃声。タンクの下で金属音。とたんにエンジン音が止まる。バイクが急減速。エンジンだ。エンジンを撃たれた。見るとシリンダーから真っ黒いオ イルを噴いている。そこにまた銃弾。銃弾の嵐。車体のあちこちに被弾。何の回避もできない。もはや速度は四十キロ、空気の抜けたタイヤが強烈な抵抗を生み 出し速度は見る見る落ちて、止まるほどだ。 「おらよっ!」 蛮声ととともに、目の前にアントンの巨体が出現。視界の外でガン! と衝突音。バイクを捨てて生身で飛び移ってきた。次の瞬間、バイクごとアントンがベルタを受け止めた。そのまま片手で持ち上げられた。もう片方の腕が伸びてくる。 (やられる!) ベルタの脳内を恐怖と焦りが駆けた。このまま掴まれて格闘戦になったら万に一つも勝ち目がない。ウェートの差は圧倒的だ。では拳銃か。ダメだ、拳銃弾でアントンを倒すには正確に目玉に打ち込む必要がある。そもそも時間がない。抜くより向こうの動作が速い。 だからベルタは身を投げた。全力でバイクを蹴って空中に飛び出した。 落下感覚。体が回転。あたりが見えた。ちょうど川の上だった。大きな川。白いワイヤーで吊るされた橋が架かっている。川の幅は軽く二百メートル。多摩川だ。 落下は一秒そこそこで終わった。ジャブンと水に飛び込む。視界が真っ青な水で覆われる。上のほうに、ゆらゆらと太陽が揺れている。反射的に有機脳の演算リソース再配分を開始、視覚を減らして聴覚に振り向ける。多摩川の水中を伝わる音が鮮やかに耳に飛び込んできた。 ベルタ、両腕で水をかき泳ぎだす。一かきで水面に飛び出した。クロールに切り替えて泳ぎ続ける。数トンの腕力で水の塊を押し出し強引に前に出る。速度は一秒間で五メートル、トップスイマーの軽く二倍。 息継ぎで顔を上げるとき、あたりを見て方角を確認。右に川崎、野原が広がって草が青々と茂っていた。左は東京側、ボートが係留されている。目の前には中 洲があって、そのまた向こうは川幅が広くなっていた。そちらが海だ。全力で水をかき、足をばたつかせた。水面を切り裂き、力強く進んだ。服がこれでよかっ たと痛感。丈の短いキュロットスカートでと半そでシャツだからこそ泳げる。 じゃぼん、水音が轟いた。ざばあ、ざばあ、水を力任せにひっかく音が続く。 奴だ。アントンが追ってきた。聴覚を研ぎすます。だが水音は近づいてこない。ゴボゴボッとあぶくの弾ける音がするだけだ。 (やはり、アントンは泳げない!) ベルタは自分の顔に微笑が浮かぶのを感じた。やっと勝機が見えてきた。記憶どおりだったのだ。フェルトへルンハレでの訓練でも、アントンは水泳を苦手と していた。人間の身体は水よりわずかに軽く作られている。だが筋肉量の極端に多いアントンは水より重い。そもそも水に浮かないのだ。 「もがっ……もがあっ!」 ゴボゴボという音に混じってアントンの叫びが聞こえてきた。なんとか水面まで上がってきたのだろう。筋肉の力に任せて、浮かない身体を強引に引きずり上 げたのだ。理屈の上では可能。だが遅くなるはず。前進するための力を浮かせるために取られてしまう非効率。ヘリが飛行機より遅いのと同じ理屈だ。 「この……もがっ! もがっ……! クソがァァッ!」 怒りと焦りにあふれた声。どんな盛大な水柱をあげているのがザブンザブンという音が重なる。どんどん遠ざかる。すでにベルタは数百メートルを泳いだ。中 州の脇を通り過ぎる。右を向けば川崎の工場群、トタン屋根の建物と煙突が見える。左を向けば羽田空港、金網の向こうに滑走路が広がりボーイングの大型機が 舞い降りている。 あと少し、あと少しで外海に出られる。 ここでアントンを振り切ったら、東京に行ってそこから長距離移動だ。 希望に身をたぎらせて、腕を振り、水を掻き分けて進む。 「にがさん!」 声がいきなり近くなった。ゴボゴボ音はもう混ざっていない。 バカな。なぜ急に早くなった? クロール泳法を続けながら振り向くことはできない。背後から伝わってくる水音を分析。バシャバシという音は聞こえている。だが今までと音が違っている。 腕が力まかせに水面を叩く音ではない。もっと規則正しい音。そう、まるでオールで船をこいでいるかのような。何か大きなものが水面をすべる音も聞こえた。 (ボート!) そうだ、アントンはボートを手に入れたのだ。向こうの岸まで泳いでいってて漕ぎボートを奪った。速度は水泳を確実に上回る。体が重くとも問題ない。 たちまち距離を詰められた。ザブンザブンと舳先が水を切り裂く音が接近。もう五メートルほどしか離れていない。 息継ぎのときに目玉だけ動かして後方を見た。水しぶきの向こうに白い手漕ぎボート。アントンはボートに座り早まわしのような速度でオールを振るってい る。ボートをこぎながらでは前が見えないのでちらりちらりと振り向く。ベルタのほうを見る。眼が合った。アントンは白い歯をむき出して笑っていた。勝利を 確信した笑顔。 (ボートを破壊する!) ベルタは思いきり息を吸いこみ水中に潜った。再び視界が青い水で覆われる。頭上で揺らめく太陽から離れる。平泳ぎで潜ってゆく。首をめぐらす。ボートの船底が見えた。船底も白い。あたりを白い波が取り巻いている。 船底に取り付いた。すでに道具はすべて手放した。素手でやるしかない。手を開いて船底に当てる。指を押しつける。筋力リミッターを解除。最大握力九百キ ロが指先一点に集中。木製にすぎない船底をぶちぬいてゆく。向こうまで指が突きとおる。船底の木材をちぎりとった。腕が入るほどに穴が広がる。ボコリボコ リと泡が噴いてくる。向こう側に水が流れ出す。一度、二度、三度、そのたびに掌ほどの面積の穴をあける。とどめに一発、穴に両腕を突っ込んで思いきり突っ 張った。メリメリと木材の分解音。ボートが丸ごとまっぷたつになった。 船を蹴って平泳ぎで離れる。すでに酸素量は切れる寸前、浮上して大きく深呼吸。肺の中に新鮮な空気が流れ込む。眼が覚めるほどの爽快感。クロールに切り 替えてなおも泳ぐ。後方でドボンと水に飛びこむ音。アントンだ。まだあきらめていない。ベルタも泳ぎつづける。すでに東京湾に出ていた。見えるのは青い水 平線と自分のたてる白いしぶきばかりだ。どこまでもどこまでも泳ぎつづける。アントンのたてる水しぶきが追ってくる。なかなか距離が離れない。 (なぜ? 泳ぎがずっと速くなっている) アントンのボートを破壊した光景を思い出す。確かに沈めた。だが粉々にはしなかった。残った木片を浮き袋にして泳いでいるのだ。 (誤算だった) 必至に腕を振って泳ぎつづけながら、ベルタは己の判断を悔いていた。船を沈めるだけではだめだったのだ。 しかしもはや手はない。武器はすべて捨ててしまった。ただスタミナだけの勝負。一秒でも長く、一掻きでも多く泳げるか、それだけ。 だからベルタは無我夢中で泳いだ。あたりは海ばかりで方向転換の必要はない。ときおり太陽の位置を確認して方角を確かめ、あとは体にまかせて機械的に泳いだ。何万回、何十万回も腕を振るってクロール泳法を続ける。 やがてアントンの水音が遠ざかってゆく。 (よかった……) 2 カエサルは潮風を浴びて目を細め、横浜ランドマークタワーを見上げていた。 真夏の陽光を浴びて真っ白く輝くタワーが、青い空に向かってそびえている。いくぶん小ぶりなビル群周囲に従え、女王のような風格だ。 携帯電話が鳴る。 「もしもし」 「オレだ」 電話の向こうから、怒りを押し殺したような野太い声。 「ああ、アントンにいさん」 「……ベルタの奴には逃げられた」 カエサルは不機嫌そうに髪の毛を指でかき混ぜる。 「やっぱり失敗か。アントン兄さん、バカすぎるよ」 「なんだと?」 「ボクが前から言っていた通りさ。正攻法を使うからダメなんだ」 「しかし……」 「不満かい?」 「できれば真っ向から勝負がしてぇな」 「そんなことを言ってるから兄さんはだめなのさ。ボクは賢いやり方でやらせてもらうよ」 そう言って電話を切った。 カエサルは隣を見る。肩の触れ合う距離に金髪の美少女がいた。チェックのプリーツスカートに白いブラウス、まるで学校の制服のようなものを着ていた。 まず目につくのが、まぶしい夏の陽光を浴びて鮮やかに輝く金髪だ。長い黄金の髪が腰まで伸びて風に踊っている。うりざね型の顔は町を歩く誰もが足を止め るほどに美しい。切れ長で吊り目気味の眼はエメラルドグリーンだ。ランドマークタワーのすぐ横に係留されている一隻の帆船を、興味深そうに見つめていた。 「ドーラ、そっちはどう?」 カエサルの問いに、少女ドーラは振り向く。挑戦的にほほえんで、 「準備完了ですわ」 3 編集部にて。 コッチ、コッチ。 机の上にある置時計の音がひどく大きく聞こえた。 倉本祐樹は顔を伏せている。イスに座って、拳を両膝の上においている。握った手の中にじっとり汗がにじんでいるのが自覚できた。冷房はキンキンに効いている。それでも冷や汗が止まらない。 視線を少しだけ上げて、机の上をさまよわせる。机の上には紙コップに入ったアイスコーヒーがあるだけだ。祐樹に出されたコーヒーだが、全く手をつけていない。氷が溶けてすっかり小さくなってしまっている。 パラリ、パラリ。 テーブルの向かい側からそんな音がする。祐樹は音のたびに体をこわばらせる。パラリと紙をめくる音、頭を引っかくボリボリという音が連続した。だんだん頭のボリボリが増してゆく。 やがて、二つの音が消えた。 「……倉本くん」 テーブルの向かいから声がかけられた。 「はいっ」 緊張そのものという声を出して、顔を上げる。 目の前は中年の男がいた。ワイシャツをだらしなく着崩している。ボサボサ頭で、目の下に病的なクマがある。しかし眼光は鋭い。 編集者だ。 「読ませてもらった」 そういって、彼は手にした紙の束をトントンとテーブルで叩いてそろえる。 この紙の束は「ネーム」。マンガのコマ割と台詞を書いたものだ。 「……どうでした?」 祐樹は問う。消え入るような小さな声になってしまっていた。 編集者は大きくうなずいた。 「いいね」 「え……」 気難しそうにしていた表情を一変させ、柔らかく微笑んで編集者は言う。ネームを広げて、その中の一コマを指差す。 「とくにこの台詞がいい。荒削りだが、間違いなく魂がこもってる」 祐樹は息を呑んでいた。彼がマンガの賞をとってデビューしたのはほんの最近のことだ。もともと地方在住ということもあって、この編集者とじかに会うのはこれがたったの三回目である。それでも「この人はお世辞を言わない、むしろ厳しいほうだ」と分かっていた。 そんな厳しい人が、ここまで褒める。 思わず頬が緩む。 「……おいおい、まだ喜ぶには早い。魂なんていくらこもってても、読者に伝わらなきゃ意味ないんだ。これと、これと、これ……このへんの台詞は悪い。あ と、この構図も平板。せっかくアクションなんだから、もっと戦いを盛り上げないとダメ。映画とか見ないでしょ? ダメダメ」 そうは言っても彼の口元は緩んでいる。嬉しそうに目をきらきらさせている。 「がんばります。かきなおします」 「どのくらいでできる?」 「明日にでも!」 「おいおい……いいの? 東京に泊まりじゃなくて、今日はもう帰るんだろ?」 「親戚が横浜にいるんでそこに泊まります。大丈夫、ネームなんて紙とペンがあればどこでも描けます。あ、いまちょっと描いて見せていいですか」 祐樹は足元においてあって自分のカバンを持ち上げる。中からノートを出し、鉛筆を紙面にたたきつける。 「こう……こう……こんな感じで。どうですか、さっきのシーン。構図良くなりました?」 編集者は苦笑した。 「いいね」 祐樹はその後、いろいろ編集者と話し、充実感をたっぷり感じて、出版社を後にした。 このネームが通れば、また読みきりを雑誌に載せることができる。 連載も近い。 鼻歌を歌いながら、本屋と喫茶店の並ぶ神田神保町の町を歩いてゆく。 地下鉄の入り口はどこかな……あ、道路の反対側か。 そのとき「ふらんす軒 カレー」という看板が目に入った。言われてみれば「スマトラ風カレー」「薬膳カレー」「元祖カレー」など、カレー屋の看板がやけに多い。 きゅう、とおなかがなった。 なにか食べてからにするか…… と、そのとき、背後でブレーキ音。 すぐそばだ。 危険を感じて振り向く。 目と鼻の先に、一台の真っ黒いBMWが止まっていた。いや、ブレーキをかけて歩道に乗り上げて、たったいま止まった。ひいてしまう寸前で止まったのだ。 「うわっ」 持っていたショルダーバッグを落として飛び退く祐樹。 すぐ八十センチほどの距離にあるBMWのドアが勢いよく開け放たれた。中から女の子が飛び出してくる。見た瞬間に美貌が目に焼きついた。腰まで届く長い 金髪を翻し、学校の制服にしか見えないチェックのプリーツスカートもあざやかに、美少女は飛び出してくるなり祐樹の腕をつかんだ。 「いでっ!」 女の力とはとても思えない握力で骨がきしんで祐樹は身をよじる。そのまま車内に引きずりこまれた。体のバランスが崩れ、BMWの中にころがりこんだ。美少女の体の上に倒れこむ。 「なっ、なにを……」 いま自分の尻が少女のやわらかい腰に触れた。しかし興奮や恥ずかしさより恐怖と混乱が何倍も大奇異。悲鳴を上げて腰を浮かし、逃れようとする。 「えいっ」 かわいらしく少女が言う。ドアノブをひねるような軽いしぐさ。 それだけで手首がパキンと抜ける。腕の筋肉が高圧電流でも流されたように硬直。全身の汗腺から冷や汗を噴出してシートに尻もちをつく。 「逃げるのはダメですわよ」 金髪の少女がにっこりと微笑む。丹精そのものの顔が祐樹を冷ややかに見ていた。 シートが震える。車は走り出した。 「ぼ、ぼくをどうするんですか。あなたはいったい、いでぇっ」 また手首をねじられた。このまま腕をへし折られたらどうしよう。そう考えただけで祐樹の全身に鳥肌が立った。 「おとなしくしていただけません?」 美少女は祐樹の肩に腕を回してきた。白いブラウスを押し上げている豊かな胸のふくらみが祐樹の手に触れてしまった。 相手の吐息を感じられるほどの至近距離で、美少女は語りかけてくる。 「う……」 「……わかりました?」 「わ……わかった」 「たすかりますわ」 美少女はつかんだままの祐樹の手首を軽くひねる。電流が流れたような鋭い痛み。パコッと音を立てて祐樹の手首ははまった。 前の助手席からも一人の少年が身を乗り出してくる。金髪の巻き毛で、目を見張るほど美しい。 「ドーラの言うことはよく聞いたほうがいいよ」 「あなたたちは……?」 「わたくしはドーラ」金髪少女は祐樹を見つめながら言う。「ボクはカエサル」と少年。 「さて、ユウキさん」 「どうしてぼくのことを……」 祐樹の質問をドーラがさえぎった。 「ベルタのことを話してください」 その言葉を聴いた瞬間、背筋を悪寒が走った。 そうだ。決まっている。ぼくを何者かの危険が襲うとしたら、それはきっとベルタさん関連だろうと。 「……何のことを言っているのかな」 ドーラを見つめ返したまま、言う。 「あら、強情を張っても無駄ですのに」 「時間はたっぷりある。いろいろ話してもらうよ。考え直すには十分な時間さ」 クルマは首都高に入った。ETCを使っているのか、窓を開けずにそのまま料金所を通過する。 祐樹は考えた。 どうすればいい? 拷問にかけられてベルタのことをきかれる。恐ろしい。 もっと恐ろしいのが……自分が人質にされることだ。 4 バスタオル一枚の姿で枝に腰掛け、空をみあげていたベルタ。 焚き火をみる。真っ赤に燃える火の上に、燃え移らないよう離れて枝が渡してある。枝には服がかけてある。火で乾かしているのだ。 枝に干してある服を触った。 もう濡れていない。 「よし」 ちいさく呟いて、枝から服を外す。シャツ、パンツ、キュロットスカート、靴下もだ。 焚き火には土をかけて消す。 きょろきょろ周囲を確認、誰もいないことを確かめると、バスタオルを外した。 あらわになった裸身は、白い。 顔かたちはあくまでアジア人のものなのに、肌はそれこそ白雪のよう。つま先、ほっそりした太もも、未発達な腰、片手の中にすっぽり収まるほどの小ぶりな 乳房、全てが白い。染みひとつない。あまりに白すぎて右の乳房を横切る静脈が際立っていた。ツンと上を向いた乳首が鮮やかだった。 裸身の上に、急いで服を身に着けてゆく。 アントンを振り切ってから二時間が経過していた。あの後、結局ベルタは東京湾を南下し、見ウワ半島に上陸した。その後、森を見つけていままで服を乾かしていたのだ。 服を身に着け終わると、リュックをもった。 ずいぶん軽くなってしまっている。中に入っていたマンガ雑誌も携帯電話も地図も、水に濡れてもう使い物にならず、捨てるしかなかったからだ。いまのベルタが持っているのはこの体と服と、後はわずかな金銭だけだ。 でも、よかった。ひとまず逃れることはできた。 これからどうしよう? まずは食べ物だ。そして交通手段。 森から一歩踏み出す。海からの塩気を含んだ風が肩までの黒髪をかき混ぜて乱した。小刻みに左右を見張る。今ベルタは海を見下ろす森の中にいる。片側一車 線の道路が目の前を伸びていた。曲がりくねって山を下って行く道。コンビニがある。大きな駐車場のあるセブンイレブンだ。口の中に唾がこみあげ、思い出し たようにお腹がきゅうと鳴った。 コンビニの店内に入った。空腹でパワーアップされたベルタの嗅覚が、店内の空気に反応する。レジ前のガラスケース内にはフライドポテトと焼き鳥とアップ ルパイが無造作に並べられている。熱されたリンゴのあまったるい臭いは、まるで鼻先に突きつけられたかのように濃厚だ。アイスクリームコーナーからはアイ スクリーム数百種の香りが渾然一帯となって立ち上っている。 よだれが口の中にひろがった。いくらでも糖分をとりたかった。 がまんして、アップルパイ二つだけにする。サイフを出そうとして、レジ横の「災害対策コーナー」に気づいた。地図と水筒、海中電灯に……ラジオ。 「あ、そのラジオも下さい」 今日はあの番組の日じゃないか。 買い物を終えたベルタ、コンビニをあとにする。山を小走りで進んでゆく。これから街に降りて現金と移動手段を盗む。慣れたものだ。今度はどこにしよう、いっそこの国から出ていったほうがいいかも知れない。 そう思うと、なんだか切なくなった。 コンビニ駐車場から見えるのは何の変哲もない田舎の風景だ。国道があって左右を森がはさんで、ガードレールがへこんで、歩道はイチョウ並木で、国道のずっと向こうにはガソリンスタンドとファミリーレストランの看板がのぞいている。 そんなあたりまえの風景も、もう見られなくなる。ベルタは風景のすべてを目に焼き付けた。たった今目の前を通り過ぎた大がたトレーラーのデコレーション、電柱に張ってある色あせたデリバリーヘルスのポスター、こんなものもきっと懐かしく思い出すのだろうと思いながら。 (現在、十七時) 頭の中で声が鳴り響いた。戦術支援電子脳が教えてくれたのだ。 (土曜日の午後五時。あの番組の時間だ) ラジオのスイッチを入れる。 ザザッパリパリと雑音が流れ出してくる。ダイヤルをまわして周波数をチューニング。一二四二キロヘルツだ。 「ザッザザッ。……まゆりんと! 深山京太郎の! 『こっちの汁はあーまいぞ!』」 若い男と女の声が聞こえてくる。軽快な音楽と女性ボーカルが聞こえてくる。 あの少年、祐樹に教えてもらったラジオ番組だ。 ふたりのパーソナリティが友達感覚で話しながら、甘いものにまつわる局をかけてゆく。マンガを紹介する。こんな狭いジャンルのラジオ番組が成立するのだから日本はすごい国だと思った。 「きいて下さいよ京太郎。今日ね、朝ご飯にホットケーキ食べてたらね、ママが『ふとるよー』とか言ってさー」 「それはひどいなー、朝にホットケーキは栄養学的に正しいんだよ。日本のホットケーキはもともとパンケーキという料理で、オリジナルだって知ってた?」 「えー、あれってフランス料理でしょう?」 「フランス料理はパンケーキ。ホットケーキより薄くて、ぜんぜん別のものだよ。そうは言ってもマクドナルドのホットケーキなんかは、どうみてもパンケーキなみの薄さなんだけどねー」 たわいもない会話。友達がいっしょに下校しながらいろいろ話すというのはきっとこんな感じだ。祐樹からこの番組を教えてもらったとき、なんと内容のない番組なのかと呆れた。しかしすぐに、このまったりした感じがいいのだと気づいた。 ベルタはコンビニの壁に寄りかかり、目を閉じる。片耳からはラジオの放送、もう片耳からは風の音が流れ込んでくる。こうしてラジオを聴くのも最後なのか と思うと、胸が締めつけられるような気持ちだった。他の国に行ってもわたしはこんな感じの「小さな楽しさ」を、「日常のかけら」を見つけられるだろうか。 ラジオ番組は音楽に入った。 『はい、ただいまの曲は』『まゆりんのデビュー曲です! タイトルはぷりんあらもーど!』『まゆりん、歌手デビューおめでとー!』ブッ、ザッ。 ベルタは自分の耳を疑った。 (いまのは何? ただの雑音じゃない!) 目を開け、ラジオを耳に押し当てた。有機脳の演算リソースを聴覚に優先配分。耳を澄ます。この状態のベルタはオーケストラ演奏中に虫ピンの落ちた音を聞き取れる。 『でもさーまゆりん、タイトルがぷりんあらもーどってどうかと思うなーオレは』 ザッ 『そーかなー』 間違いなかった。 いまの『ザッ』は、ドイツ語だ。数十倍の早回しで喋っているから人間にはわからないだろう。ベルタ向けに誰かがメッセージを混ぜているのだ。 意味は……『ベルタに告ぐ』『倉本祐樹は預かった』 「な……」 ベルタの唇からうめき声が漏れた。全身がわなわなと震えた。尻餅をついてしまう。 「ユウキさんが……いまさらになって!」 立ち上がった。すでに小さな拳をかたく握りしめている。自分の無能が憎い。迂闊さが憎い。祐樹と一緒にデートしていたころはともかく、これだけ時間がたったのだからもう安全と思っていた。 「……続きは? 預かったからどうしろというのですか!?」 思わず激昂してラジオを握り締める。バキリとラジオのケースが割れる。 『それじゃー、また来週!』 ザッ また「早回し」が混じった。 意味は「本日二十四時、青山墓地のど真ん中で待つ」 『この番組は、あなたの心に潤いを 安永製菓の提供でお送りしました……』 ベルタはラジオをにぎりしめたまま、うめいた。 「……本日二十四時、青山墓地……」 もちろん、メッセージを番組に混ぜたのはアントンたち追っ手だろう。 自分を誘い出して、捕らえるつもりだ。 だがいくしかない。人質を取られていては。祐樹を殺されるのは絶対にイヤだ。 祐樹とすごした短い、だが楽しかった日々の思い出が、脳裏でよみがえる。 彼の幸せは壊させない。 5 深夜の青山墓地は闇の中に沈んでいた。 真っ暗で、車の音も人の声もまったく聞こえない。ただひたすら、灰色の箱型墓石が並んでいた。 祐樹は墓地の中央にある大きな交差点に立っていた。 左右をドーラとカエサルにはさまれている。 体の節々が痛い。そして重い。疲労がある。 そわそわとあたりをみまわす。両手首をつないでいる鎖がジャラリと鳴った。 「なんですの?」 ドーラがいぶかしげに尋ねてくる。彼女は祐樹と方が触れ合うほどの距離にいるから、顔もすぐそばだ。街灯の白く淡い光に照らされ、エメラルドグリーンの瞳が祐樹を覗き込んでいる。恐ろしく美しく澄んだ、しかし冷たい瞳だった。 「……なんでもありません」 「空腹ですの?」 「いいえ」 祐樹は首を振った。ドーラの眼を見つめたままだ。 じっさい、腹は減っていない。不思議なことだ。昼に捕まってからもう10時間、なにも食事を与えられていないのに。興奮と緊張で感覚がおかしくなっているのだろうか。 「ドーラ、その子はね、ベルタねえさんが心配なのさ。こないでベルタさん、ってね。目を見ればわかるさ。そうだろ?」 ドーラと反対側から、カエサルの声が響く。ボーイソプラノというのか、男にしてはずいぶんと甲高い声だ。嘲笑の響きを帯びていた。 「……」 「そうなんですの?」 「ベルタねえさんは来るかな? ボク、ちょっと疑問なんだよね。やっぱり別の手を使ったほうがよかったんじゃない?」 「聞いた限りでは、ねえさまは他人の危機を見過ごせない性格。間違いなく来ますわ」 そこでドーラは言葉を切り、祐樹の両肩に手を置く。真正面から見つめてくる。 「まあ、あなたがどの程度の絆をつくっていたか、によるのですが」 「……」 目をそむける祐樹。ドーラが彼の足を踏んだ。 「ぐっ……」 炎を押し付けられたような激痛がはじける。 「あまり調子にのらないほうがよろしくてよ。ご自分の立場は人質なのだと、まだお分かりになりません?」 祐樹はあふれそうになる涙をおさえこみ、うめくような声でいった。 「……ベルタさんは……こないよ。人質作戦なんかにひっかかるほど馬鹿じゃない」 「それならあなたが死ぬだけです」 「それにしてもさあ」 カエサルがさも不思議そうに祐樹の体を眺めまわして、 「いったいベルタ姉さんはこんな奴のどこがいいのかなあ。弱そうで、臆病」 ドーラがエメラルドグリーンの瞳に冷笑の光を宿して、 「それが逆にいいんじゃありませんこと?」 二人は日本語でしゃべっていた。わざわざ祐樹にきかせているのだ。 「もしかして、母性本能を刺激されるってこと?」 「そういうことですわ。弱虫の男の子を世話して、『自分はこの人に必要とされてるんだ』って喜ぶ。人間にはありがちな心理ですわね」 「はは。いかにもできそこない。そんなの錯覚なのにね」 知らず知らずのうちに祐樹はカエサルに向き直り、恐ろしいほど整った顔をにらみつけていた。 「ベルタさんの悪口をいうな」 反射的に出てきた言葉だ。 「ははは……こいつはいい。うん、思ったよりこの二人は依存しあってるね。人質、きくかも」 「あ、にいさま。きましたわよ」 ドーラが声をあげる。交差点から延びる道路のずっと先を指差す。確かにそこに光の点があった。だんだん大きくなってゆく。点は小さく、一つしかない。オートバイのヘッドライトだろうか。 「まちがいありませんわ。あれはベルタねえさまです」 ドーラが小さくうなずく。彼女の視力は闇と距離を無視できるらしい。 カエサルは眉根を寄せて首をかしげる。 「なんでコートなんか着てるんだろう?」 祐樹は、近づいてくるヘッドライトに叫んだ。 「来ちゃダメだ! ベルタさん!」 6 ベルタは原付スクーターを駆り、青山墓地までやってきた。着こんだロングコートを風にはためかせている。 戦術支援電子脳は、いまの時刻が十一時四十分だと教えてくれる。 まだ時間はあるはずだ。それなのに気があせって仕方ない。 いま目の前の信号が赤になった。 舌打ちして、信号無視して突っ切る。 無事でいてくれ、祐樹さん。 青山墓地の中は外界とは全く異質の空間だ。 音がなく、光もわずかだ。街灯のあかりの中にまったく同じ形をした墓石が何千となく並んでいる。 ヘッドライトに照らされた先を見る。 いた。 大きな通りが交差する、墓地の中心。 街灯と信号機に囲まれた場所に、三人の人間が立っている。 ベルタは百メートル離れても彼らが何者なのかわかった。 金髪で、きっちりとしたスーツ姿の少年。カエサル。 ゆるやかなウェーブのかかった金髪の少女。 間にはさまれて立っているのは、祐樹だ。間違いない。 ……少女のほうは誰なんだろう? いっしょにいるということはエインヘリヤルだろうか。 まあそんなことはいい。 どうする。 と、前方から声が投げつけられた。 「来ちゃダメだ! ベルタさん!」 祐樹が叫んでいた。 ほぼ同時にカエサルがベルタに向けて片手を差し上げ、 「止まってくれ!」 急ブレーキをかける。 スクーターを止めて、降りる。 全身の筋肉は緊張させたままだ。次の瞬間にでも飛びかかれる。 しかし、まだ遠い。五十メートル離れている。この距離を走るにはベルタでも二秒はかかる。カエサルのレーザー『グングニル』で黒焦げにされるだろう。 「祐樹さんを帰してください!」 「ダメだね! まず背中のリュックを下ろして」 カエサルの指示に従い、リュックを下ろす。武装解除が目的だろう。 その間もベルタはずっと考えていた。どうにかして、駆け寄るだけの時間を稼ぐ。 (二秒。たった二秒だけ、二人の注意をそらせれば) 「上着を脱いで、両手を挙げたまま、こちらに歩いてきて!」 カエサルはベルタの思惑を知ってか知らずか、次の命令を出してくる。 ベルタの視力は五十メートル離れた彼の表情を克明にとらえていた。 嬉しそうだ。本来なら美の神に祝福されたかのような端正な顔立ちが、嘲笑にゆがんでいる。 と、次の瞬間ベルタは地面に下ろしたリュックサックを高く蹴りあげる。リュックは弾丸の勢いでカエサルたちに向かって飛んでゆき、 カエサルのレーザー『グングニル』が一閃した。彼の右手からほとばしった白い光条が一瞬にして数十メートルの空間を突っ切ってリュックを直撃。リュックは爆発する。布とプラスチックの小片を撒き散らし、真っ白い蒸気の塊が膨れあがる。 リュックの中にはペットボトル入りのコーラがたっぷり詰めこまれていた。レーザーを受けて爆発したのだ。 「なに!?」 白い蒸気が視界を覆いつくす。その向こうからカエサルの叫びが聞こえてくる。 (いまだ!) ベルタ、コートを脱ぎ捨てる。駆け出す。 露になったベルタの体は、全裸! いや全裸ではない。あまりに白く、あまりに輝いていた。躍動する脚も、未成熟な二つの乳房と腰も、服のかわりにキラキラと輝く何物かで覆われていた。光の小片が街灯の光を反射して輝いていた。まるでウロコのように。 白い蒸気の中をベルタは駆けた。前方からレーザーが襲い掛かってくる。光の棒が脚に、胸にあたった。しかし熱いだけだ。蒸気のおかげで拡散している。 (うまくいった。対レーザー防御、その一!) 蒸気はすぐに晴れた。ベルタはすでに距離二十メートルまで接近している。カエサルが額にシワを寄せ、冷たい殺意をこめてこちらをにらみつけていた。こち らに向けられた右手が白く爆発、またレーザーがたたきつけられた。レーザーはベルタの胸に命中、裸身を覆う銀色のウロコがまばゆく輝いて反射した。 小さな乳房に、焼きごてを押し付けられたような痛み。だがそれだけ。貫通されない。 「鏡!?」 今度こそカエサルが驚愕のうめきをあげた。ベルタはレーザーに対抗するため、クルマのバックミラーをたくさん割って体に貼り付けていたのだ。 (対レーザー防御、その二!) その間にもベルタは前傾姿勢で走る。アスファルトを蹴る。時速百キロで突進を続行、両腕を上げて顔面をブロック。その瞬間、まさに腕にレーザーが直撃。重ねた腕の隙間から眼もくらむ激しい光が漏れてくる。溶けた鏡が腕に食い込んで痛い。 だが、もうカエサルたちは目の前のはず! ベルタ、大きく地面を蹴って跳躍。 顔面をブロックしていた腕を解く。目を見張り、緊迫した表情を浮かべていたカエサルに飛びかかる。顔面に飛び膝蹴りを叩き込む。ぐしゃりと鼻の潰れる感触が膝に伝わってくる。 そのまま衝撃でカエサルを蹴り倒し、着地。 すぐそばにいる祐樹とドーラのほうに向き直り、 次の瞬間ベルタが見たのは、スカートを翻し電光のようなハイキックを放つドーラ。 思考よりも、戦慄よりも早く体が動いていた。全身の筋肉を総動員してのけぞる。 ごうっ! 大気をつんざいてドーラの脚が振り上げられ、ベルタの額すれすれ、わずか数ミリの距離をかすめる。空気の塊が頭蓋骨を叩いた。鋭利な刃物をつきたてられたような痛み。額が切れて血が噴き出す。 (かすっただけでこんな!) ベルタの背筋を冷たい恐怖が走る。のけぞった勢いのまま1歩下がった。 そのすきにドーラは脚を下ろし、祐樹を横抱きにして走り去ってゆく。 「ま、まちなさいっ」 後を追った。 ドーラは人間一人を横抱きにしていることを丸だ感じさせない動きで走る。軽々と跳躍して墓石の上に飛び乗った。 ベルタもその墓石に向かって跳ぶ。鏡の小片で覆われた腕を広げ、つかみかかる。しかしベルタが跳んだとき、ドーラも隣の石へと跳ぶ。追ってベルタが跳 ぶ。ドーラがスカートをフワリと広げ金髪を波打たせ、跳んで逃げる。余裕のある軽やかな動きだが、必死のベルタよりワンテンポ早い。 「ぎゃあ!」 男の子の悲鳴。ドーラが抱えている祐樹だろう。 悲鳴をきいてベルタの血が凍りついた。怒りが体を突き動かした。今度は思いきり墓石を蹴って、矢のように空中を突進した。それでもドーラは幻のように消える。ほんのコンマ一秒早く、後ろ姿はその場所を去っている。 腕を伸ばすがつかめない。手は空中をむなしくつかむだけ。たった三十センチ四方しかない墓石の上でバランスを崩しそうになって歯噛みする。 それを二、三十回ばかり繰り返しただろうか。 (どうして?) ベルタはあせりと当惑を覚えていた。 ドーラは少年一人を抱えている。重いし、うまくバランスを取れないはず。 (それなのに私より早いなんて!) またしても捕らえられなかった。体重がないかのように軽やかに跳んで、ドーラが墓石の上に脚をそろえて着地、くるりと振り向いた。 大人びたフランス人形のような顔に、微笑をうかべている。 ベルタは膝が笑うのを感じていた。体内の酸素残量も底を突きかけている。すでに体力の限界だ。それなのにドーラは余裕たっぷりといった感じだ。息も荒くしていない。 「な、なぜ……?」 「わたくしは最強のエインヘリヤルなんですのよ。ねえさまのような無能とは出来が違うのです」 ベルタは気づいた。ドーラの表情はただの笑みではない。嘲笑だ。声にも疲れの色がない。彼女にとっては遊びでしかないのだ。 彼女の腕の中の祐樹を見る。ぐったりしている。表情がたるんで、白目をむいている。激しい動きで気絶してるようだった。 「もっと楽しめるかと思ったのに」 くすくすドーラは笑う。腕に力をこめたのか、祐樹が目を開く。表情が苦悶の形に引きつる。ドーラが力を入れれば人間の首など簡単に折れる。 瞬間、ベルタの胸中を怒りと、焦りと、屈辱が交錯した。汗ばんだ手を握り締めた。 (……どうすれば。はっ!) 視界をさえぎり、隙を作ってやれば接近できるはずだ。 ベルタは頭上を仰ぐ。上は木々が枝をめぐらしている。緑の葉がひろがっている。 「ハーッ!」 『ギャラルホルン』を起動、指向性をゼロにして最大出力でぶっ放す。ベルタの口から放出された超音波は頭上にぶちまけられ、周囲数十メートルに広がり、枝を激震させ、葉という葉をことごとく引きちぎる。 緑の大瀑布が頭上から押し寄せ、ベルタとドーラを押し包む。 「……ちっ」 葉の乱舞する向こうからドーラの舌打ちが聞こえてくる。 視界がさえぎられた機会を逃さず、ベルタは跳躍。空中を突進して緑のカーテンに飛びこむ。さきほどドーラがやったように、キックを放つ! 風圧で葉が押しのけられて飛んでゆく。緑の中にトンネルができる。トンネルを抜けた向こうにはドーラがいた。すでに距離は数十センチしかない。 ドーラは祐樹を高く抱き上げている! (……!) ベルタは気づいた。血が凍った。頭の中でゴウ、と血の気の引く音がした。 祐樹を盾にされた! 脚の軌道上に祐樹の頭が! 渾身の意志力で、ベルタは脚の軌道を変えた。極小時間ではわずかにずらすのがやっとだった。岩をも砕くキックが祐樹の頭ではなく、手錠で繋がれた両手に突き刺さった。 ぶじゃっ。水でたっぷり濡れた雑巾を、思い切り踏んづけたような感触。 ベルタは着地した。祐樹の体も地面に転がった。墓石の周りにある土の部分にどさりと投げ出される。すぐそばにドーラが音もなく着地。 ベルタは祐樹の手を見た。見たくなかった。だが眼が吸い寄せられた。 彼の手はなくなっていた。圧倒的な力で粉砕され、指の骨と肉がなくなっていた。掌だった部分だけが残っていた。薄紅色で、ところどころから白い骨がのぞ き、カリフラワー状に広がっていた。フェルトヘルンハレの訓練施設でこんな写真を見せられたのを思い出した。そう、地雷を踏んだら手足がこうなるのだ。 「あ……」 ベルタの唇からうめきが漏れた。膝がガクンと折れた。体の震えが止まらなかった。 祐樹は真っ青で、ちぎれてしまった手を顔の辺りにまで持ち上げ、目を大きく見開いている。 「てが……てが……ぼくのてが……ぼくの……あえっ……あひっ……」 目の焦点があっていない。両眼から涙があふれている。激痛のためか。 それとも、もうマンガを描けなくなったからか。 「くすくす……うふふふふっ」 明るい笑い声が聞こえてきた。鈴の転がるような可憐な声。そちらに目を向ける。ドーラが笑っていた。プリーツスカートの腰に手をあてて、さもおかしそうに笑っていた。 「うふふふふっ……あなたがやったんですのよ、それ」 「え……」 絶句するベルタ。ベルタはドーラの勝ち誇る顔と、ちぎれてしまった祐樹の手を交互に見る。 「あなたが、ユウキくんを守って助けるはずのあなたが、やってしまったんですのよ」 表情を引き締め、まったくの無感情にして、細い指でベルタを指差す。 「平和な暮らしがしたかった? 戦いがイヤだった? 嘘ばっかり。友達をメチャクチャにしたくせに。この無能。このできそこない」 ベルタの中で感情が爆発した。怒りと悔しさが渾然一体となった荒れ狂う想いだ。 「うわあああ!」 裏返った声でわめき、無我夢中でドーラにつかみかかった。 繰り出した拳は空を切った。腕をつかまれた。体が浮いた。重力感覚消失。世界が回転する。ならぶ数千の墓石が、空を覆う樹木がぐるんと上下逆転する。 投げられた、と気づいたときには背中から地面に叩きつけられていた。起き上がろうとする。しかしすぐにドーラの脚がひらめく。地面すれすれをなぎ払うようなキックで、ベルタの首を刈る。 「げはっ!」 呻いて、エビのように体をのけぞらせる。裸身を包んでいた鏡の破片が飛び散った。ついでドーラはベルタの体にキックを見舞う。連続して肩に、膝に、その たびにバキン、パキャッ、乾いた木が折れるような音。膝の皿が割れ、肩が外れた。激痛にベルタは体を痙攣させる。手足を震わせる以外なにもできない。心の 中は恐怖でいっぱいだった。圧倒的な強さへの恐怖。そして、自分がやってしまったことへの恐怖。 「おやすみなさい、できそこないの、ベルタねえさま」 ドーラは無表情を崩し、朗らかに微笑んで、ベルタの頭を勢いよく蹴飛ばした。 意識が闇に落ちた。 第3章 1 漆黒の闇。冷たい闇。 地面もなく、空もない。 「えぐっ……えぐっ……」 少年がうずくまってないていた。 ブレザー姿の制服を着ている。前のボタンが千切れ飛んでいる。 ベルタは歩み寄った。 「どうしたの? またいじめられたんですか?」 祐樹はゆっくりと顔を上げた。 手も一緒に上げた。 指の全てが切り落とされた手。 「もうマンガをかけないんだよ……」 涙声。手をベルタの顔面におしつける。 「……あんたがやったんだよぉ!」 2 目を開けた。 心臓がドクドクと、弾けそうな勢いで脈打っている。 まず目に飛び込んできたのは、コンクリートむき出しの天井だ。 コッチ、コッチと時計の音がする。空調機が立てるフォーンという音もする。有機脳の演算リソースを聴覚に優先配分、音の反響でここがどんな場所なのか知 ろうとする。どうやら硬い壁に囲まれているらしい。広さは五メートル四方か。周囲に心音と呼吸音がある。人がいるようだ。 体に何かが密着している。裸の皮膚の上にバンドのようなものがきつくグルグル巻きにされている。口にも何かが突っ込まれて、喋れないようにされている。 自分の肉体状態をチェックした。痛みはない。体温も平常。砕かれた膝の皿も治っている。腕の火傷ももう治っている。少なくとも数時間はたっている。いまは朝のはずだ。 動こうとした。首をめぐらせて周りを見ようとした。 その瞬間、全身を激痛が叩く。首から足の先まで、すべての筋肉が硬直する。 高圧電流を流されたのだ。 「あっ……アゥッ」 かすれた声で呻いた。 「あら、お目覚めですの。ねえさま、おはようございます」 かわいらしい少女の声がかけられた。ドーラだ。 視界の中にドーラの顔が入ってくる。 いまのドーラは服装を変えていた。白いブラウスとプリーツスカートを脱ぎ捨て、都市迷彩の野戦服に身を包んでいる。軍服を着ておきながら、金色の長い髪だけは結ばずにそのまま背中へ流しているのが不思議だ。 「むぐう……」 なにがどうなっている? ベルタは思い出した。 そうだ、間違いない。あれは現実なのだ。 夢じゃない。自分が祐樹の手を潰したのは。 「おや、どうしたのですか、ねえさま。いとしのユウキくんと会いたいですか?」 ドーラはベルタの体を起こした。首根っこをつかんで、空中でぐるりと回す。 室内の光景が見えた。ソファは部屋の片隅に置かれている。部屋の半分以上を占領しているのは安いスチール製のデスクだ。デスクの上にはパソコンが並んで いる。スーツ姿の白人たちがパソコンに向かってなにやら作業してる。ベルタと眼が合うと、冷たい眼を向けてきた。恐怖と軽蔑の混ざったまなざしだ。 「ここはフェルトヘルンハレが東京に作った拠点ですわ」 そう言いつつ、ドーラはさらにベルタの体を回す。 自分は今までソファに座っていたらしい。ソファの向こう端には祐樹が座っていた。手錠を猿ぐつわをかけられている。 祐樹の目はうつろだった。 青ざめた顔には涙のあとが幾筋も残っていた。ベルタを見ようともしない。空中を見ている。 ベルタは眼球だけを動かして祐樹の手を見る。 息が止まった。赤茶けた包帯に覆われた手。握りこぶしが異常に小さい。指が全部なくなっているからだ。それにしてもなんだ、まるで治療を受けていないのか? いてもたってもいられなくなった。暴れようとする。ドーラの手から逃れようとする。 また背中に稲妻が打ち込まれた。全身の筋肉が瞬間的に数十回も痙攣。ドーラが手を離した。体が落下。背もたれに頭を打ち付けてソファに墜落する。 「うっ……あっ……う……」 ドーラが見下ろしながら言う。 「動いちゃだめですわ、ねえさま。その服は、『エインヘリヤル専用拘束服』ですもの。少しでも動いたら、脊髄に撃ちこまれた七十二本のスパイクが高圧電流を流します。アフリカ象が即死するくらいの電流ですのよ?」 筋肉の痙攣が止まらない。口が半開きになって、よだれが垂れて喉をつたっていく。 みじめだった。 「ぬぐうっ、めぐうっ」 目を動かして、祐樹のほうを見る。 (もうわたしはどうなってもいい、ユウキさんだけでもたすけて) そう伝えたかった。 「あら、ねえさま、どうしたんですの?」 ドーラはベルタの首筋からあごにかけてを、細い指でなでさする。 「おなかがすいたんですの? それとも……おしっこ?」 小首を傾げるドーラ。力エサルが割りこんでくる。彼も軍服に着替えている。 「うーん、『この人をたすけて』って言ってるんじゃないかな?」 「ああ、そうかも知れませんわね」 「そいつはできねェ相談だな」 野太い男の声。視界の外から響いてくる。アントンもいるらしい。 「言っておきますが、ねえさま。降伏してもムダですのよ」 「そもそも、もうボクたちはべルタ姉さんを必要としていないんだ。『貴重なサンプルだから回収したかった』のは昔の話。今のフェルトへルンハレは方針が変わった」 「世界各所で行った実戦テストで、あまりにもすばらしい成績を上げたのですわ。だからフェルトへルンハレの幹部は思った。もう傭兵派遣でせせこましく稼ぐ必要はないと」 (では、いったい何をする気?) 当惑するべルタ。ドーラはしゃがみこんで目線をあわせ、ぞっとするほど美しい白面に愉悦の表情を浮かべ、 「……わたくしたちは世界を掌握します」 (……なんだって?) ドーラはその言葉を残し、振り向いて歩み去ってゆく。 カエサルも軽薄な笑みを浮かべて手を振って、 「さようなら、姉さん。ぼくたちの戦いを見ているといいよ」 そして視界の外へ去っていった。ドーラとカエサルの足音が遠ざかる。大きく重いアントンの足音も遠ざかる。そしてすぐにバタンとドアの閉まる音。 3 それから二時間後。 新宿アルタ前。 平日の午前十時ということもあって、町を歩いている人々は背広姿が多かった。カバン片手のサラリーマンが、アルタの前に立ち、六百インチ巨大画面に映し出される携帯電話のCMをボンヤリと見上げている。 そのかたわらで若い男が携帯を取り、「あ、おれおれ。サヨコいまどこ? えー? キャンセル? なんか先週のデートの時も……わかったよ、また今度な……」肩を落として歩き出す。 と、そのときだ。 突然、画面が乱れた。 携帯のCMが消え、ニュース映像に切り替わる。 スタジオ内にいるはずなのにアナウンサーは汗だくだった。 「……臨時ニュースを申し上げます。たったいま、静岡県の浜岡原子力発電所が、武装集団に占拠されました」 サラリーマンは口をぽかんと開けて画面に見入る。かたわらの若い男も、そのとなりと歩いていた若い女も、なぜかセーラー服姿でアイス片手にうろついていた女子高生も、すべて立ち止まって画面に注目する。 画像が切り替わる。アナウンサーが消える。「浜岡原発」というテロップとともに、「緑に包まれた、白い建物と煙突五本」の映像が出てくる。 「この浜岡原発は日本第二の規模を持つ大型原発です。本日九時半ごろ、武装集団が原発内に侵入、警備員を殺害して占拠しました。……ただいま本テレビ局宛に画像が送られてまいりました。放送です。犯人が放送をしています。中継いたします!」 画面がまた切り替わった。 原発の中央制御室をバックに、美少年と美少女がいた。二人とも迷彩服に身を包んでいた。 美少年は巻き毛の金髪で、息を呑むほどに整った容姿。澄んだ青い瞳。 そのとなりにいるのは美少女。ウェーブのかかった金髪に青い目、つんと尖った鼻に、透き通るような真っ白い肌。こちらもかわいらしい。フランス人形と呼んでしまうには瞳に猛々しい光が宿りすぎているが、人間離れした美しさだ。 「……こども?」 通行人のひとりが巨大モニタを見上げてあっけに取られた。確かに二人の顔だちは幼い。せいぜい十五歳。たとえ軍服を着ていても「凶悪なテロリスト」には見えない 金髪美少年は口を開く。 「はじめまして、日本の皆さん」 流暢な日本語だ。口元に笑みを浮かべている。 「ボクの名はカエサル。『エインヘリヤル』の三番目です。こちらは妹のドーラ」 金髪美少女が髪の毛を揺らしてぺこりとお辞儀する。 「さてみなさん、突然だけどこの原発はボクたちが占拠しました。はい、これ証拠」 カエサルがカメラのほうに手を伸ばした。手が大きく映る。 画面の中の映像が揺れた。カメラが揺れているのだろう。 ぐるっとカメラが回り、中央制御室の中が映し出される。 部屋は小学校の教室ほどの大きさで、スイッチや計基盤だらけの机が並んでいる。机の上に、『作業服姿の首なし死体』が何人も崩れ落ちている。床にも死体がいくつも転がってる。血だまりが広がり、画面のこちら側まで臭ってきそうだ。 モニターの映像がカエサルに戻った。カエサルはさも嬉しそうに笑っていた。子供の笑みだ。大好きなオモチャをさんざんねだってやっと買ってもらえたような、屈託のない笑顔だ。 「はいー、わかりましたねー。みなさん死んじゃってます。具体的にはボクが殺しました。いやあ、もう、スカッとしたのなんのって。やっぱり気持ちいいねー」 ぺちっ。マイクに入るくらい大きな音を立てて、ドーラがカエサルのほっぺを叩いた。 「な、なにすんだよ?」 「にいさまは調子に乗りすぎ。何の話をしているのかもう分からなくなっていますわ」 「悪かったよ……さてみなさん。ボクたち三人はこうして原発をジャックしました。あ、もう一人いるんですよ。アントンっていって、ボクたちの長兄に当たるんだけど。これがもー、全身これ筋肉、筋肉の力だけで装甲車を引きちぎっちゃう。すごいねー」 「にいさま、また言わせるのですか」 「ごめんよドーラ。で、要点を先に言っちゃうと、ボクたちは日本政府を脅迫します」 にこやかな笑顔のまま、白い指をカメラに突きつける。 「日本政府は三時間以内に、ボクたちに対して降伏してください。さもないとドカーン! ここにある原子炉を破壊します。破壊したらどうなるか、わかるよねみんな? ねえドーラ?」 小さくうなずいて、ドーラが静かな口調で語りだす。 「ハマオカには百万キロワット級原子炉が五基あります。すべてメルトダウンした場合、放出される放射能はチェルノブイリ事故を凌ぐ一兆キュリー。半径五十キロが永久に居住不能、長期的には四百万人がガンと白血病で死亡します。経済的な損害は、数兆ドルに及びますわ」 まるで資料を読み上げているような淡々とした喋りだ。 「というわけで、わかったかなみんな。ボクたちに従わない限り四百万人が死ぬんだ。楽しみだなあ。あー、いっとくけど会議とかやっても遅いよ、期限は今日の十三時! 一分でも過ぎたらドカーン、もくもく!」 楽しそうにはしゃいで手をパチパチ叩くカエサル。と、急に我に帰って、 「あ、邪魔をしたって無駄だから。警察も自衛隊もボクたち三人には勝てないよ。 ちょうどいま警察の人がきたみたいだから、そのへんのこと見せてあげるよ。テレビ局の人、しっかり撮るんだよ? じゃあね、また何かあったら連絡するよー」 明るくさわやかに笑ってカエサルはカメラに向かって手を振った。それっきり映像は消える。 モニターの中にはスタジオが戻っていた。 「えー……」 アナウンサーはますますこわばった表情で、 「以上のように、『エインヘリヤル』を名乗る武装集団に占拠された浜岡原発ですが、この件につきまして古泉首相は『テロには毅然とした態度で挑み、早期解決に全力を尽くす』と述べております。 たったいま、警察の対テロ部隊・SATが浜岡現地に到着したとの情報が入りました。 空撮映像に切り替えます」 アナウンサーの言葉とともに画面がまた変わった。 空から見下ろす映像が映し出される。 海沿いに白い大きな建物が5つ、そのすぐそばに煙突。全体が緑に覆われている。 敷地に面した国道に、一機の大型へリコプターが着陸している。 ヘリコプターからは、黒いプロテクターで身を固めた男たちが次々に降りてくる。背中に『POLICE』と書いてある。数は二十人ほどか。整然と展開する。 4 「整列!」 号令に応じて、真っ黒いボディアーマーをつけた部下たち二十人がずらりと並ぶ。前列の男たちは透明な防弾盾、後列の男たちは銃を持っている。自衛隊が使っているものと同じアサルトライフル、「89式小銃」だ。 見事に隊列を組んだ男たちを、隊長は自信ありげに見つめた。 (この日を待っていた) (我々の実力が発揮できる日を) この事件を解決すれば我々は英雄だ。しかし手に負えなければ自衛隊の出番となる。警察の威信は丸つぶれだ。 (なんとしても俺たちの手で) そのときヘリから、インカムをつけた男が顔を出した。 「隊長! 市民の避難完了しました!」 警察の役割は犯人逮捕ばかりではない。一般市民を避難させるのも重大な役割だ。浜岡原発は住宅地に囲まれている。巨大ショッピングモール・メガマートが隣にある。 隊長は報告を受けて大きくうなずいた。 「すばらしい、実に迅速だ」 部下の一人が笑顔を浮かべて言う。 「このへんは東海地震の件で、みんな避難慣れしてるんですよ」 「ああ、それはあるな。では、まずは交渉を開始する」 隊長は胸の無線機を手にとった。 しかしその瞬間、彼の目が細められる。 「む?」 原発正門の中に、人を見つけたのだ。 道をまっすぐ歩いてくる巨体。数十メートル離れても、その男がプロレスラー並の体格である事がわかった。下半身はアーミーパンツ、上半身はタンクトップ一枚。丸太のような二の腕を向きだしにしていた。 大男はのっしのっしと歩いてくる。だんだん顔が見えてきた。短く刈った金髪、四角い顔に猪のような太い首、太い眉毛に荒々しい顔立ち。白人の若い男だ。隊長は、かつて知り合ったアメリカ海兵隊員を連想した。 「手ぶらだ……投降でしょうか?」 部下の一人が首をかしげる。 「わからん。あれだけの大事をやらかして投降というのも解せんな。気を抜くなよ?」 隊長は部下たちに気合いをいれ、拡声機を大男に向けた。 「警察だ! 投降を望むか?」 大男は答えない。ゆっくり歩いているように見えるがよほど大股らしく、たちまち正門の手前までやってきた。 「よーう!」 大男は片手をあげて挨拶する。 「原発ジャック犯だな?投降を決めてくれて感謝する。我々は無意味な流血を望まない。直ちに投降してくれるなら……」 「アーッハッハッハ! ぐははははーっ!」 突然の笑声に、隊長は呆然とする。 大男は腹を抱え、身をよじって爆笑していた。 「い、いったいどうした?」 「どうしたって、そりゃおめェ……おめェらがあんまりバカだから笑ってんだよ! 投降するだと? そんなことひとことも言ってねーっつうの、ボケッ!アーヒャヒャ!」 「では、何のつもりだ!」 隊長はバッと片手で大男を指し示す。 後列の隊員二十人が、89式小銃の銃口を上げて大男に向ける。銃と男の間には正門があるだけ、距離わずか五メートル。警官たちが引き金を引けば数百の弾丸が男へと殺到するだろう。 しかし二十ならんだ銃口を前にしても大男の態度はまるでかわらない。 「なんのつもりかって? ……こういうつもりだよ! ウォォォッッ!」 大男は叫んだ。全身の筋肉が膨れ上がる。数十本という血管が浮き上がり破裂する。噴出して真っ黒い液体が体を包む。頭を、顔を、肩を、腕を覆ってゆく。 一瞬にして、男の上半身はすべて黒光りする物質で覆われていた。顔は鉄仮面のようで、目の部分にだけスリットが入っている。 異形と化した男は、跳躍した。二メートルの巨大が羽毛のように軽々と宙を舞った。正門を飛び越えてSATの真っただ中に男が着地。 殺戮を振りまいた。 すべては一瞬のうちに行われた。 まず最初のコンマ一秒。大男は丸太のような腕を時速二百キロで突きだした。筋肉の杭と化した腕は強化プラスチックの盾を紙切れのように貫徹、勢いをまっ たく現ずることなく警察官の顔面に突き刺さりヘルメットごと脳髄と頭蓋を粉砕、生卵のように砕け散った頭部が薄紅色の粥を撒き散らす。 次のコンマ一秒。太い足を振り上げて回し蹴りを放った。軍用ブーツに包まれた脚が地上一メートルの空間を時速千キロでなぎ払い、線上に存在するすべての ものをプリンか何かのように潰して弾き飛ばした。警察官の持つ盾が破砕され破片がキラキラと飛び散り、膝が脇腹に打ちこまれそのまま内臓を潰しながら身体 にめりこんで脊椎をへし折って肉を裂いて反対側から飛びだす。 つまりキックが人体を腹の辺りで真っ二つにした。 次のコンマ一秒。 ここまで警察官たちはまったくの無表情だった。あまりに出来事のスピードが速すぎて「何が起こったのか」もわからなかった。しかし破砕された人体がしぶきとなって警察官たちの顔面にふりそそぎ、このときやっと彼らは「仲間が一瞬で殺された」と知った。 顔面を恐怖にこわばらせて、いっせいに銃の引き金を引いた。 ズガガガガガガッ! 89式小銃の発射音は爆竹を強烈にしたような音だ。 二十の銃口がいっせいに鉛弾を吐き出す。大男の上半身が無数の弾丸に包まれる。89式小銃は特殊なスチル弾芯を使用することで貫通力を増している。防弾チョッキも役に立たないはずだ。 一秒、二秒たった。警察官たちが引き金を緩める。 彼らは見た。 二メートルの巨体、顔面や肩に銃弾の突き刺さった男の姿。 突き刺さっていただけだった。大男がニヤリと笑って頭を振ると、頬にめりこんでいた銃弾が落ちる。背筋を伸ばし、腰をひねり、胸板をパンパンと叩くと、すべての銃弾が大地に落ちた。体から一滴の血も流していない。ボロ切れと化した服が落ちているだけだ。 「マッサージうまいじゃん、お前ら」 「……!」 隊員たちは唖然とする。 ゼロ距離からライフル弾を数百発撃ちこんで、蚊が刺したほどにも感じていない! 「なんだ? こんなもんなのかよ? ガッカリしたなあオイ。もっとスゲーのはないのかよ?」 黒い装甲で覆われた顔を撫でまわし、こともなげに言う大男。 隊員の一人が小銃を取り落とす。うめく。 「化け物だ……」 その一言が恐慌の引き金だった。 「ヒ、ヒィィィィ!」 「うわァァッッ」 銃を投げ出し、SATはいっせいに逃げ出す。 「ま、待て!」 隊長が叫ぶ。 「にがさねえよっ!」 大男も叫んだ。そして駆ける。動きの素早さも超人だった。すぐに追いつき、キックで胴体を両断し、あ頭を握りつぶし、蹴り倒して胸板を踏み抜いた。殺戮、また殺戮。 たった数秒で、二十名が皆殺しにされた。 殺し終わったあと、大男はすぐそばにある大型ヘリコプターに走る。 二つのローターを持つ、路線バスより巨大なものだ。 「オラッ! オラッ! オラッ!」 蛮声を張り上げ、素手でヘリを破壊した。キックで壁を破り、そこから腕を突っこんで外板を引きはがし、ローターを拳の一撃でへし折る。 数十トンもある大型ヘリがスクラップとなって転がるのに、わずか三十秒。 「ふう。いい運動だぜ」 破壊を終えると、大男はたったひとり生き残った隊長に手を振る。 「よお。勇気あるじゃん、あんた? まだ逃げてねえんだ」 隊長は男の発する圧力にまけじと胸を張って、 「……リーダーだからな」 「で、お前一人で何ができる?」 隊長はあたりを見まわす。 国道には死体が散らばっていた。全員、頭や胸などを大きく欠損している。真夏の日差しに照らされたアスファルトの上に、ペースト上の血肉がひろがってじりじりと熱されていた。 もちろん隊長は、ここまでの修羅場を経験した事などない。戦場ですらなく人間屠殺場である。 「『生き物としての格が違う』って感じだろう? だからオレは素手で闘ったんだよ」 白い歯をむきだしてニカッと笑う。 「……なめやがって」 しかし隊長は、大男の狙いが正しかった事を認めざるを得ない。拳銃一丁ナイフ一本使わず、素手で殺戮を繰り広げたからこそ絶対的な恐怖をおぼえたのだ。 「というわけで、お前たちはオレたちに勝てない。何人来ても無駄。思い知ったろ? 日本中がビビりまくったね」 しかし隊長は大男の顔から目をそらさず、精一杯の虚勢を張った。 「勝ち誇ってられる野も今のうちだ。自衛隊や米軍がきたら、お前らだって……」 「ハン! 話にならないね。原発を攻撃する度胸なんてあるわけねぇ」 「いや、必ずやってくれる……」 「威勢いいけどさ、あんた。これから自分がどうなるかわかってんの?」 相変わらずの笑顔で言われて、隊長は背筋が凍りつくのを感じた。 震える手を腰のホルスターに伸ばす。 (勝てないのはわかってる。だが、せめて一矢報いたい) 「無駄だっての、拳銃なんて。さーて、どうやって殺してもらいたい? こいつらみたいに一撃じゃつまんないよなあ? 指を一本ずつもいでくってのはどうよ? それでも泣き出さずにいられたら褒めてやるよ?」 両手を合わせてポキンポキンと指を鳴らす。 そのとき電子音が鳴り響く。 大男の腰の辺りから響いている。 大男は腰の後ろに吊り下げていた携帯無線機を取り、なにやら会話をはじめる。外国語なのでまったく内容が分からない。大男は次第に苦々しい表情になってくる。 「……ちっ。命拾いしたな、あんた。『これ以上殺さなくていい』ってよ」 大男はくるりと後ろをむいて、わざとらしく屍を踏みつけにしながら去っていった。正門を飛び越えて発電所内に消える。 男の姿が見えなくなって、隊長はその場にくずおれた。 「……うう……」 涙交じりの嗚咽を漏らす。 「動けなかった……」 そうだ、彼は動けなかったのだ。 逃げなかったのは度胸があるのではなかった。体が硬直していたのだ。 あたりにちらばる骸のひとつを抱えあげる。 ヘルメットにボディアーマーの黒ずくめ、顔は若々しい。 まだ二十五歳になったばかりの若手隊員だった。子供が生まれたばかりだと語る彼の楽しそうな顔を、隊長は思い返した。 「……なにも……なにもできなかった……俺は何も……」 にらみ返して虚勢を張った、相手が見逃してくれたから死なずにすんだ、それがなんだというのだ。 自分の無力を、深く呪った。 5 液晶ディスプレイは衝撃的なニュース映像を流しつづけていた。 へリコプターで撮り下ろしたのだろう、ゆれる画面の真っただ中に殺戮が繰り広げられている。 黒いプロテクター姿のSATが、アントンによって皆殺し。たった数十秒で死体二十とヘリの残骸が転がった。 その後、マスコミのヘリがレーザーで撃墜された。まずパイロットが殺され、パニックになる機内。ついでテールローターが破壊され、ヘリはグルグル回りながら落ちてゆく。その様子がテレビ越しに放映された。 不意に視界が涙でにじんだ。 いまのべルタは涙をぬぐうこともできない。流れるにまかせた。 いまべルタはあいかわらずソファに座らせられている。目の前に机が置かれている。机の上にパソコンの液晶ディスプレイがある。 ニュースを強制的に見せられているのだ。 「どうだね、べルタ? 気分のほうは?」 傍らにたつスーツ姿の白人男に声をかけられた。フェルトへルンハレ構成員で、普通の人間だ。 「……」 ベルタが無言でいると、スーツ姿の男は下卑た笑いを顔に貼り付けて、 「最悪かい、フフ……だが俺たちは最高だ。なあみんな」 大げさに腕をふって、室内の仲間たちに呼びかける。机に向かっていた仲間たちはヒューと口笛を吹き、あるものはこぶしを突き上げる。 「さぞくやしいだろうねえ?」 ベルタは、じつのところ男の挑発などきいていなかった。 液晶テレビの中で繰り広げられる殺戮劇、それも確かにつらかった。 だが…… それより、罪悪感がベルタをさいなんでいた。 すぐとなりに座っている祐樹。ベルタは前を向いたまま体を動かせないのでその姿を見ることはできない。だが脳裏に浮かぶ。切り落とされた指。治療も受けられないままの、血まみれの包帯で乱雑に包まれただけの傷痕。自分に向けられたうつろな表情。 それらすべてが脳裏に焼きついてベルタを責めていた。 テレビからも目をそむけたかった。だができなかった。 (お前がやったんだ) (お前が、あと少しでも配慮していれば) (あと少し冷静なら) ひたすら自分を責める。 (平和を求めていたのに、人を傷つけてしまった。最悪のミスで傷つけてしまった) (いまたくさんの人が殺されようとしている。だが自分には何も出来ない) (自分はクズだ。自分はダメだ……) ついに目を閉じた。視界が暗闇となる。かたくかたく目をつむって、何も考えないようにする。だが声はきこえる。かわいらしいドーラの声が責め立てる。 『この無能。できそこないの、ベルタねえさま』 『友達をめちゃくちゃにしたくせに』 胸の奥の一番敏感な部分に何かが突き刺さった。 痛くて痛くて仕方ない。 だから目を閉じた。 ひたすら嫌な現実から目を背けたかった。 そして、背けてしまっている自分が何よりいやだった。 目をかたくつぶり、自分の中の殻に閉じこもった。 ぎゅ。 誰かがベルタの脚の踏んでいた。靴で強く踏みつけている。 ぎゅう。また踏まれた。 目を閉じて、外側の世界のことを忘れようとしても、痛みが訴えてくる。 誰が脚を踏んでいるのか。 隣にすわっているのは祐樹だ。おそらく祐樹なんだろう。 ぎゅっ。ぎゅっ。踏んでは、また離れた。 何度も何度も繰り返す。 辛抱強く、何十回も続いた。 ふいに疑問に思った。 これは何だ。長い間踏んづけていたり、すぐに離したり。 もしかして…… ベルタは目を見張った。 (モールス信号か?) ぎゅ……ぎゅ、ぎゅ。 ベルタは反射的に頭の中でモールス信号に変換する。アルファベットのS? ちがう、これは「トン、ツーツー」だ。カタカナの「ベ」だ。 ぎゅうっ、ぎゅ、ぎゅう、ぎゅう、ぎゅ。 これは「ル」だ。 『べ る た さ ん』 意味がわかった。心臓がどくんと脈打った。 祐樹が、自分に何かを伝えてくれる。 いまの祐樹は声を出せない。そんな状況でなんとか意志を伝えてくれる。 嬉しい。 でも恐い。 全身の筋肉がこわばるのを感じる。 だって、責められるに決まっているのだ。 だが聴かなければいけない。聴こうと決めた。 『べ る た さ ん』 返事をしなければいけない。どうしよう。いまの自分は声も出せない。足も動かせない。 そうだ、息なら。 ふう。ふう。ふう。 息のパターンに変化をつけてみる。 『OK』 たった2文字を送るのが実にまだるっこしい。フェルトヘルンハレで受けた戦闘訓練の中にはモールス信号も含まれていたが、実戦で使う機会はまずない。 『べ る』 祐樹の脚の動きが止まった。先ほどより早く、嬉しそうに、まったく別の信号を送ってくる。 『よかった わかってくれたんだ』 さあ、祐樹はなんというだろう。何を言われても仕方ない。脳裏にフラッシュして蘇る光景。切断された祐樹の指。空虚に自分を見つめる顔。 すると祐樹は、 『べるたさん かなしまないで』 (え……?) 目を丸くした。あまりに意外な内容だった。 『ぼくは べるたさんのこと うらんでない』 恐る恐るベルタは呼吸音でメッセージを返した。 『どうして わたしは あなたに けがを』 『うん とても いたい』 そこで祐樹はたっぷり三、四秒間沈黙した。 『でも べるたさんにあうまで ぼくは なにもできなかった』 『ただ まいにち いじめられてる だけだった』 『ないてる だけだった』 『べるたさんが かえてくれた』 『このよに たのしいことがあるって ぼくといっしょにいて よろこんでくれるひとがいるって』 『ぜったいに ゆずれないたいせつなものがあるって たたわなきゃいけないって』 『みんな べるたさんが おしえてくれた』 『べるたさんとすごした あの1しゅうかんが たからもの』 『きみがいなければ ぼくはまだ なにもできずないていた』 『ないたまま じんせいがおわるのを まっていた』 『だから』 『まんが かけたのも しょうをとったのも みんな べるたさんの それだけで』 ここで祐樹からのメッセージがとまった。ぐすり、ぐすり、と涙をすする音が聞こえてくる。 『ごめん なくなんて かっこわるいね』 『とにかく だから なかないで べるたさん』 『まんがなんて あしでもかけるよ』 たどたどしく、途切れ途切れの言葉たちが.。ベルタの皮膚を通して胸の奥へ、心の中へ染みとおっていった。 しだいに目頭が熱くなる。固く閉じたまぶたの間から、幾筋も幾筋も熱い涙がこぼれてくる。 『どうしたの なかないで かなしむこと ないよ』 ベルタ、答えない。 行動で示した。 ソファに座った状態から、起き上がろうとする。 たちまち拘束衣が反応する。背骨に高圧電流が打ち込まれる。全身の筋肉が強制収縮。背骨がきしみ、膝が笑う。頭の中で白い火花が散る。耐えた。歯を食いしばって耐えた。 (こんな痛みなんて、たいしたことない!) (ユウキさんは、もっと痛かった!) がり、がり、ばきぃ。 奥歯が、小石をすり合わせたような鈍い音と共に砕けた。脚の筋肉を動かす。立ち上がる。 びちびちっ 腕を思い切り突っ張る。上半身の拘束衣がはじけ飛んだ。汗まみれの裸の肉体が空気の中にさらされる。背中から七十二本のスパイクが引き抜かれる。 「ぐうっ!」 「なに?」 机に向かってニュースを鑑賞していたフェルトヘルンハレ構成員、白人の男が驚きに目を見張っている。他の構成員があわててデスクの引き出しから何か黒い塊を取り出そうとしている。 (拳銃だ!) 下半身に拘束衣の残骸がまとわりついている。ベルタは跳躍、空中で脱ぎ捨てる。太股を大きく上げて空中を突進、キック。男の手首がへし折れ拳銃が転が る。別の男が発砲。とっさに手を伸ばし、発射された拳銃弾をつかみとる。手首をひねって投げ返した。弾丸を眉間にめりこませて男が倒れる。 室内で動くものはなくなった。 べルタ、口からボールギャグを引き抜く。思い切り深呼吸。 祐樹に歩み寄って、彼の手錠を破壊する。猿ぐつわをむしりとる。 「べルタさん」 たちあがった祐樹をベルタは抱きしめて、 「……かなしいんじゃありません。 うれしいんです。 だから泣いてるんです」 べルタは机の上にならぶパソコンのディスプレイを指差した。 まだニュースが続いている。 血まみれ管制室で、カエサルが金色の前髪をかきあげる。 『やあ。ボクたちの力、わかってくれたかな?』 ベルタ、画面に小さな拳を叩きこむ。液晶画面が木っ端微塵になる。 「あなたたちは、わたしが止める」 「闘うの?」 不安に満ちた祐樹の声。ベルタは祐樹と抱き合ったまま、 「はい。祐樹さんがおしえてくれたんです。 泣いているだけじゃダメだって」 「でも、相手は三人も……」 「それでも、わたしは行きます」 「ベルタさんが死ぬところなんて見たくない。逃げなきゃだめだ」 「では、約束しましょう。わたしは必ず、あの人たちに勝って、帰ってくる」 「信じていいの?」 「はい」 もちろんベルタにも勝算などない。だが、数センチの距離で祐樹の潤んだ瞳を見つめていると、不思議と力がわいてきた。明るい笑顔を作ってみせる。すると祐樹は緊張した声で、 「約束、必ず守って」 「もちろんです」 ベルタ、祐樹の腰に回した手に、力をこめる。乳房がぎゅっと祐樹に押し当てられる。 6 それから一時間後、ベルタはバイクにまたがって東名高速道路をひた走っていた。 バイクの名はドゥカティ999。目の覚めるような真紅のカウリングに包まれたイタリアのスポーツバイクだ。あのあと祐樹を病院に送り、その足でバイク屋を襲ってバイクとウェアを一式手に入れたのだ。 完全装備だった。フルフェイスヘルメットに、黒いレザーパンツ、上半身はメッシュジャケットに包み、燃料タンクの上に思い切り体を伏せていた。背中には登山用の巨大なリュックを背負っている。リュックは膨れ上がっている。 ドゥカティのカウリングは速度を出すためのもので、ライダーの負担を減らすためのものではない。タンクに伏せていてもヘルメットの中にゴウゴウと風が吹きこんできた。尻の下ではエンジンが激しい振動を発している。太腿の内側がエンジンに熱されて熱い。 現在、速度は二百五十キロ。もう一時間このスピードを出し続けている。警察はすべて振り切った。前方から乗用車が、トラックが飛ぶような勢いで迫ってくる。蛇行し、間をすり抜けながらまったくスロットルをゆるめずに突き進む。 (もっと速く!) じれったかった。店で一番速いバイクを選んだはずだが、選択を間違えただろうか。 右手に山、左手に光り輝く海を眺めながら走る。 やがて東京から二百キロ、菊川インターチェンジに到着。 料金所を勢いよく突破し、田んぼとミカン畑の広がる中を、海沿いに向かって駆け下りる。高速から」に下りても猛スピードを緩めなかった。トレーラーが道をふさいでいたら反対車線に飛び出し、百五十キロで対向車を避けて、突き進んだ。 (一秒でも早くつきたい) 原発前の道、国道150号線に入る。 非常によく整備された片側三車線の道路だ。左手は海で、街路樹と防風用の松林が並んでいる。風でねじれた松林の向こうに、まぶしく輝く真っ青な海が広がっている。 前方に視線を移すと原発の白い排気塔が五本、青い空に伸びているのが見える。 (あと少しだ) カーブを曲がって長い直線に入った。 『この先通行止め』 大きな看板がある。無視してベルタは突っこんでいった。 数百メートル先の道路をなにかがふさいでいる。 迷彩色に塗装された装甲車が道を占領している。ベルタの視力はその装甲車に日の丸が描かれていることをとらえた。 装甲車の周囲に、数十人の、迷彩色の軍服を着た男たちがいる。 片側三車線の国道を完全にふさぐ形で展開している。半分が道の向こう側を向いて、残り半分がこちらをむいていた。どんどん近づいてゆく。男たちの持っている自動小銃が自衛隊の89式小銃だとわかった。 (自衛隊だ) ベルタは速度をゆるめる。 よく見れば迷彩服の自衛隊の中に一人だけ違う格好のものが混ざっている。黒のボディアーマーを身につけた男で、透明なバイザーつきのヘルメットをかぶっている。 「とまれーっ!」 男たちは両腕を広げてベルタのゆく手をさえぎる。 べルタはドゥカティを止め、男たちに問いかけた。 「なにをしているのですか? 住民が入らないように?」 自衛隊員の一人が歩み出て、大声で叫び返した。 「そうだ! あんたも入るな、危険だ!」 ベルタはドゥカティから降りる。バイク用ヘルメットを外し、素顔を見せる。海からの潮気をふくんだ風が髪をかきまぜた。両手を広げて武器を持っていないことをアピールして、ゆっくりと自衛隊員たちに歩み寄ってゆく。 「私はいかなければいけません。その銃を貸してください」 「あんた、何を言ってるんだ?」 自衛官たちの目に不審の色が宿る。 当然、この反応は予想していた。 「見てください」 次の瞬間、ベルタはジャンプする。 膝を軽く曲げて、垂直に五メートル。 もちろん人間には不可能だ。 着地したベルタに、驚愕と恐怖の視線が突き刺さる。 「……げ……」 「同じだ……あのバケモノと……」 自衛隊員たちは反射的な動作で銃を向けてくる。 ベルタは悲しげに顔をくもらせる。 「……そうです。わたしは『エインヘリヤル』。超人兵士です。あのテロリストたちと同じ生き物です。しかし彼らの仲間ではありません。彼らを倒すために来ました。だから銃を貸して下さい」 自衛隊員たちをもう一度見回し、そのうち何人かが背中に筒を背負っているのに目をつける。 「それはカール・グスタフ無反動砲ですね? 貸してください」 「できるか!」 自衛隊員たちは叫ぶ。銃口をベルタに向けたままだ。 「なぜですか?」 「どこの誰とも知れない奴に渡せるか!」 自衛隊員の中でもひときわ目つきの鋭い、がっしりした体格の男が吼える。小隊長だろう。 ベルタ、一気に跳んで間合いを詰め、軽く手を伸ばした。吼えたその男の銃を、いとも簡単に奪い、男の頭の上に乗った。 「え……?」 男はあっけにとられて、突然空になった自分の手を見ている。人間の反射神経を超えた速度で奪ったのだ。何が起こったのかわからない。 きょろきょろと周囲を見回す。自分の頭に手を伸ばす。 「あ! きさま!」 ベルタは頭の上に乗ったまま、自衛隊員たちを見下ろして言う。 「わかったでしょう。わたしのほうが適任です。わたしの能力があってこそ、倒せる」 じっさいにはそこまでに自信はなかった。だが、相手も命がけなのだ。絶対の自信をもって振舞うつもりだった。 「くっ、降りろ!」 男は頭を振った。89式小銃を上に向け、ついに発砲する。 ベルタは体を軽くひねって銃撃をよけながら、隊員たちのど真ん中に着地する。 「う、撃て!」 男の号令に従い、隊員たち数十名はいっせいに散開する。角度にして六十度ほどの扇形になる。同士討ちを避けるためだ。 (仕方ない、ギャラルホルンを) ベルタが息を吸ったとき、 「やめてくれっ!」 誰かが叫んだ。 ベルタは声の主を叫んだ。隊員たちも見た。 声の主は、一人だけ黒のボディアーマーに黒ヘルメットの男。 持っている銃を路面にたたきつける。 隊員たちが目をむいた。銃をこんなふうに扱うなどよほどのことだ。 彼はヘルメットのバイザーを上げ、顔をさらした。あらわになった顔は中年男のそれだ。眉間に深いシワが刻まれている。隊員全員を見渡して叫ぶ。 「なあみんな……! この人の力がわかっただろう? 俺たちじゃダメなんだよ……あのバケモノを止められないんだ。同じ力だけなんだ、勝てるのは」 自衛隊員が反駁する。 「そんなことはない! 俺たち自衛隊がテロリストを倒す!」 「じゃあ、なんで今すぐやらない! 連中が言い出した『期限』までたったの一時間だ。なんで包囲してるだけなんだよ!」 「それは……」 「打つ手がないんだろう? 歩兵じゃあ、あのレーザーとデカブツにやられちまう。砲撃爆撃は原発を壊すからできない。そうだろう?」 彼は顔をくしゃくしゃにした。泣きそうな顔だ。 「だから……頼るしかないだろう! こいつに!」 しばらくの沈黙があった。 先ほどまで号令していた男が、自らの89式小銃をベルタに渡す。 「使え」 「いいんですか!?」 「俺たちは謎のテロリストに襲撃されて装備を奪われた、歴史に残る間抜け部隊だ。グスタフも持っていけ」 他の隊員が背中の筒を差し出す。長さ一メートル太さ八センチ、天体望遠鏡を思わせる筒で、緑色に塗られている。引き金と三脚がついていた。 ベルタ、銃とカール・グスタフを受け取って、頭を下げる。 「ありがとう……」 「だから必ず勝ってくれ」 「はい」 「お前の名前は?」 顔を上げ、胸を張って答える。 「ベルタ」 7 警察の封鎖を抜けて、五百メートルほど国道を走る。 原発入り口にたどりついた。 道の左側にある門の前で、アントンが待ち構えていた。全身を黒い装甲、完全防護兵装ジークフリートに包んでいる。巨大な三脚つきの機関銃を肩にかついでいる。米軍の誇る超ロングセラー兵器、M2ブローニングだ。 百メートルほどの距離でアントンが手を振った。 何事か叫ぶ。 この距離でもベルタには何を言っているのかわかった。 「まさか本当に来やがるとは。ドーラの奴は……」 話合いをするつもりはなかった。ベルタは時速百キロオーバーでドゥカティ999を突進させながら、背中のリュックからカール・グスタフを取り出し、肩に 担ぐ。重量十六キロの鋼鉄の筒はずしりと重い。すでに弾薬の装填されたそれをアントンに向け、照準器を覗きこんで撃った。 ズガンっ! すぐ耳の横で大砲が発射された音は銃声の比ではない。一瞬、耳が完全に麻痺した。 発射された砲弾は影となって突進。 アントンが目をむいた。体をひるがえして避けた。 ベルタは心臓をわしづかみにされたような冷たい衝撃を受ける。 (まさかよけられた! 最大のチャンスだったのに!) アントンの肩をかすめて飛んだ砲弾が、背後の地面に突き刺さって爆発。 成型炸薬弾(HEAT)は爆発のエネルギーを一点に集中させた貫通力重視の砲弾だ。命中したその場所の路面が爆発しアスファルトが噴水のように高く飛び散る。アスファルトが高熱で融解して真っ白い蒸気となって立ち上る。 (仕方ない、至近距離からもう一発うちこむ!) 唇をかみしめる。覚悟を決めた。 「ベルタてめえ! やりやがったな!」 アントンは『高速言語』で叫ぶ。 かついでいた巨大な機関銃、M2ブローニングをベルタに向けてくる。 反動でジープがひっくり返るほどの巨銃を、黒い腕で抱きかかえて撃ってくる。 真夏の太陽の下でも見えるほど眩しいマズルフラッシュ。岩どうしを叩きつけたような銃声が連続する。ズガガガガガッ。 ベルタは勢いよく上半身を左に振る。ドゥカティ999のイタリアンレッドに輝く車体が素早く反応、後輪を滑らせて左に曲がる。車体すぐ右に銃弾の嵐が襲 いかかる。アスファルトが爆発し、何千粒という砂利が吹き上げられる。拳が入るほどの穴がたくさん開いた。ベルタの腕に、足に、車体に、砂利が浴びせられ る。ヘルメットのバイザーに大きなものが当たった。 「オラッ! オラッ!」 アントンは怒声をあげながら機関銃の銃口を右に左に振り向ける。ズガガガガッ。ベルタが一瞬だけ早く、こんどは右に車体を傾ける。尻をバイクのシートか らすべり落とし、車体にぶらさがるようにしてなんとか曲がった。間一髪、今度も間に合った。車体のすぐ右をかすめるように弾丸が押し寄せ、地面が爆発。今 度は至近距離から砂利をくらってしまった。ヘルメットのバイザーは百人の暴徒に投石されたような有様だ。 ベルタは右に、左に車体を走らせる。ジグザグ走行を繰り返して距離を詰めてゆく。右手はスロットルを握って、開けては絞り、絞っては開ける。エンジン音 がオンッ、オンッと激しく変化する。エンジンが吼 えるタイミングにあわせて車体を右、また左に倒しこむ。一瞬たりとも直線を走らない動きだ。 片側三車線の道路をフルに使ってジグザグ走行、すべての銃撃を回避しながら接近。いまアントンまでの距離は五十メートル。すでにあたりの路面は酔っ払っ た巨人がでたらめに耕したようだ。あちこちで路面が砕かれ砂利の川が生まれている。ベルタは砂利さえも利用。前輪が砂利を踏んで滑った瞬間に思い切り車体 を傾け進行方向を強引にねじまげる。 順調に接近しながらも、ハンドルをにぎるベルタはしだいに焦る。口の中が緊張でカラカラに乾く。 (どうしよう、反撃のチャンスがない) いまベルタは、両手両足と、上半身の振りをフルに使ってドゥカティ999を操っている。0.01秒、コンマ一グラムの単位で完璧にコントロールしている。指一本でも休ませたらいまの動きはできない。 カール・グスタフを撃つために手をハンドルから離せば、回避が鈍って次の瞬間は蜂の巣だ。 (一体どうすれば?) 手を使わずに撃てる武器もある。『ギャラルホルン』だ。だがアントンの装甲には通じないはずだ。 そのとき、銃弾の雨がベルタの頭に向かって襲い来る。上体を傾けて回避した。ヘルメットのてっぺんを強烈な衝撃が叩いた。ヘルメットにギシリと音が響く。亀裂が入る音。縦に真っ二つになり、バイザーがはがれた。ヘルメットはバラバラになって時速百キロの風に飛ばされる。 (撃たれた?) 戦慄する。だが痛みはない。撃たれたらこんな程度ですむはずがない。銃弾がかすめただけだ。 (かすめただけでこの威力!) と、気づいた。直接、音波を当てる必要はない! 「ハッ!」 パワードリフトで旋回し銃撃をかわしながら顔をアントンに向け、『ギャラルホルン』を発動。超音波を最大出力で発射する。 アントンではなく、アントンの足元に向けて! 空中を超音波の塊が飛び、アスファルトに激突しその破壊力を解放。アントンを中心に二メートルあまりの路面がクレーターとなる。瞬間的に破砕され粉塵と なって舞い上がる。それはまるで大噴火だった。煙の中にアントンはすっぽり包み込まれる。視界が遮られた。「ぬおっ」煙の中からアントンが驚きの声を上げ る。 「いまだ!」 この隙が欲しかったのだ。ベルタはカール・グスタフに弾薬を装填、アントンに向けて撃った。 距離わずか三十メートル。しかも視界が不完全。 (よけられるはずがない) ベルタは必中を確信した。頬がゆるむ。 緩んだ頬が、凍りついた。目をむいた。 アントンはアスファルト粉塵の煙のなか、自分の顔面めがけて向けて飛んでくる砲弾を、両手ではさんで受け止めた。信管が作動、成型炸薬弾が爆発する。ア ントンの掌の中で、爆発エネルギーが光の剣となる。戦車の装甲を貫く超高熱の噴流、メタルジェット。しかし長さはアントンの顔まで届かない。一瞬で消え た。 あとは無傷のアントンだけが残った。支える手のなくなったM2ブローニングがゴオンと音を立てて転がった。 アントン、薄れてゆく煙の中で両腕を振り上げてガッツポーズ。 (そんな馬鹿な) ベルタの心に決定的な敗北感が刻まれた。 勝てない。カール・グスタフでは通じない。 いまは逃げるしかない。別の手を考えよう。 しかしバイクはアントンに向けてまっしぐらに突進していた。いまの距離は十メートル。 アントン、ガッツポーズをやめて落ちた銃を拾う。撃つ暇がないと判断したのか、棍棒のように振りかぶった。 ベルタ、とっさに右手をブレーキレバーに叩き付け、五本全ての指を使ってフルブレーキ。前輪のブレーキディスクが金属的な叫びをあげる。壁に激突したよ うな急激な減速に後輪が浮いて、車体が直立する。地面に突き立つような姿勢。ベルタはタンクを太ももで挟みこみ、体ごとバイクを回転させる。地面に突き 立った錐が回るようにドゥカティは向きを変えた。 棍棒は空を切る。 一瞬で向きを90度変えたベルタ。目の前にある原発の門に向かって突進する。 敷地内に入ってすぐ、左右を森がはさんでいた。片側一車線の細い道が続いている。 バックミラーの中のアントンがどんどん小さくなる。 「まちやがれっ」 咆哮が聞こえる。 ガガガッ、太い銃声が轟き、バックミラーの中でオレンジのマズルフラッシュが弾ける。 ベルタ、とっさに車体を傾け針路変更。右の森に飛びこむ。即座に太陽光が遮られてうす暗がりになった。木の根を踏んで車体が激しく上下した。見えない巨 人が左右からキックをくれているかのようにハンドルが暴れる。本来サーキット用のマシンであるドゥカティ999はデコボコ道を大の苦手にしている。なんと かおさえつけ、森の中を進む。 ガガガ、という銃声がまだきこえてくる。重いものが重なって潰れる音、木が倒れる音も聞こえてくる。乱射しているらしい。 ベルタ、再び脳裏に、原発の見取り図を思い浮かべる。 浜岡原発の敷地は一キロ四方。陸側の三分の一は森で占められている。森を抜けた向こうには、5基の原子炉とそれを管理する『管理棟』が一列にならんでいるはず。 いまは正門のそば。暗記した地図だと、ここから管理棟まで三百メートルあるはず。 などと考えながらガタガタと森の中を走り、木々が途絶えて開けた場所にでる。 と、悪寒が背筋をかけた。 (わたしがカエサルなら、この瞬間を狙う) 背中のリュック、そのサイドポケットからコーラのペットボトルを出し、握りつぶしてハッと超音波をたたき付け霧状に変化させる。掌から霧が噴出して体を包んだ。 霧の流れを引き連れてドゥカティは森から飛び出す。 すぐは大きな駐車場だ。 駐車場の向こうに、窓一つない灰色の箱がそびえている。原子炉の一つだ。 飛び出したまさにその瞬間。光が降ってきた。垂直に近い角度で、霧を貫いて一条の光線が伸びてきた。レーザーだ。 左の胸に灼熱の感覚。じゅ、と何かが音を立てて燃える。 「くっ!」 うめいた。胸を手を当てた。 大丈夫だ。霧のせいでレーザーは拡散して威力を減じていてた。メッシュジャケットとTシャツにこぶし大の穴が開いただけだ。スポーツブラがのぞいてしまっている。 霧の効果はすぐに消える。あわててバイクを反転させ、森に飛びこんだ。 やはりカエサルは待ち構えていた。あれだけ深い角度で降ってくるということは、おそらく高いところに立ってベルタを見張っているのだろう。 地図をまた脳裏に描く。立体模型を作って頭の中でまわしてみる。自分の位置とレーザーの角度を模型に書きこんでみる。 予測できた。おそらくカエサルがいるのは、いま見えた原子炉の向こうにある『第三号炉』の排気塔てっぺんだ。高さ百メートル、狙撃にはもってこいだ。 (どうすればいい?) 森を中を走り回りながらベルタは考える。 (あと残っているコーラは五本。合計で二十秒くらいはレーザー防御の霧を張れるだろう。だが二十秒で何ができる?) (いちかばちか、突進して管理棟に入るか) だが、それでは一時しのぎだ。敵を倒して数を減らさないと。一箇所に三人集まってしまったらもう勝ち目はないだろう。 (反撃するか。この89式小銃とカール・グスタフで) だが、撃ちあいになれば高いところにいるほうが圧倒的有利だ。 どうすれば…… ズガガガッ、 背後で銃声。とっさに車体を傾け、アクセルを全開。後輪が地面をかきむしって蛇行しながら加速。すぐ真横の一抱えもあるブナの樹が粉砕される。木片を撒き散らし、周囲の銃を何本も巻きこんで倒れる。 アントンの声まで響いてきた。 「ベルタァァ、そこにいたかあ!」 走って追いかけて来ている。 戦慄した。考える時間なんてないのだ。後ろからアントンの機関銃、前からカエサルのレーザー狙撃。 (いちかばちか、やってみよう) ベルタはバイクを止める。バイクに揺られながらではとてもできない。精密な角度のコントロールが狂ってしまう。 バイクのカウリングにくっついたバックミラーをへし折る。 心の中で謝る。そしてミラーを手にもったまま、森の外へと歩く。 一心不乱に計算を繰り返す。3Dモデルを頭の中に作り上げ、カエサルの位置と自分の位置をプロットして、何度も何度も角度計算を繰り返す。 ミラーを握った手を、樹の向こうに突き出した。 8 「逃げたって無駄だよ、ねえさん」 カエサルは冷たく言い放つ。 彼は迷彩服姿で排気塔の上に立ち、眼下を見下ろしていた。 高さ百メートルの位置からは敷地全体が見渡せる。白い箱のような原子炉棟が、森と海に挟まれて五つ散らばっている。五つの中央には小さな茶色の建物、管理棟が窓を光らせている。敷地のずっと外側を伸びる東名高速まで見えた。 風に乱れた金髪を神経質そうにいじりながら、カエサルは目を細める。 蟻のように小さく見える赤いバイクが、森に逃げこんだ。 森の木々に隠れてしまえば見ることはできない。 だがカエサルは口元に余裕の笑みを浮かべたままだ。 (必ず出てくる。どこに出ようとボクには見える) この高さから、地面に落ちている木の葉の種類まで見ることができるのだ。 「隠れたって無駄だよ、姉さん」 整った顔立ちに冷笑を浮かべる。 と、森の端から何かが突き出す。 ついにしびれをきらしたか。 必殺の確信をこめてレーザーを撃ちこむ。 次の瞬間、視界が真っ白に爆発。 顔面に炎を押し当てられたような熱さ。 それっきり何も見えなくなった。 「なっ……」 思わずうめき声をもらしてしまった。 何をされたのかは分かった。鏡でレーザーを反射されたのだ。レーザーに対してぴったり九十度の角度で鏡をかざせば、発射地点に戻ってゆく。 鏡の歪みだろう、レーザーはかなり拡散してしまっていたが、視力を失うには十分だった。 カエサルは恐怖を覚えた。これだけの距離で正確にコントロールしてくるベルタの能力に怯えた。一度の何千分の一という超精密コントロールが必要なはずだ。 ベルタは落ちこぼれだと思っていた。だが自分だって同じことができるかどうか。 視力が失われただけで、全裸になったような恐怖と居心地の悪さを感じた。 視神経と網膜が回復するまで、隠れなければ。 そう思って手探りと音だけで排気塔を降り始める。 ハシゴをにぎる手が汗で滑る。 そのときカエサルは、銃声をきいた。 89式小銃のものだ。 背筋を駆ける悪寒。銃弾が地球磁場をかき乱すのをとらえる『電磁感覚』だ。カエサルたちエインヘリヤルはこの感覚によって視力なしでも銃弾をよけること ができる。とっさにハシゴから手を離し、一瞬だけ落下する。頭上でギュン! と金属同士の激突音。銃弾が排気塔に当たったのだ。よけられた。ハシゴをまた 手でつかむ。もう一度背筋に悪寒。頭に向かって飛んでくる。とっさに首をかたむけた。耳元を銃弾が飛んでいった。 カエサルの萎えかけていた自信が蘇った。自然と口元に笑みが浮かぶ。 「……なんだ、目くらい見えなくたって簡単……」 言おうとした瞬間、後頭部を何かが直撃した。 電磁感覚では捉えられなかった固いもの。 (石か!?) (銃弾は囮か!) カエサルの指がすべった。足がすべった。ハシゴから外れた。風が体を包む。落下しているのだと気づいた。 (ハシゴ! ハシゴをつかまないと! ) 腕をめちゃくちゃに伸ばして、なんとか手がかりを探そうとする。だが手は空を切るばかり。なにもつかめない。 落下速度はいや増すばかりだ。 やがて、全身を激しい衝撃が貫いた。意識がとぎれた。 9 ベルタは森の外、駐車場にバイクを止め、二発目の石を握り締めて立っていた。いつでも投げられるように。 その必要はなさそうだった。 となりのそのまたとなりの原子炉、上に生えた排気塔から落ちてゆくカエサルが見えた。 まったく速度を緩めず、原子炉棟の上面に激突。バウンドして、地面に落ちた。 ドゥカティで走り寄る。 カエサルは仰向けに倒れていた。頭を打ったのか、動かない。 ベルタは四、五十メートルまで接近していったんドゥカティを止め、聴覚を研ぎ澄ませる。 (心音あり、呼吸音あり) 生きてはいる。近寄るのは危険だ。 89式小銃で、手足を狙って撃った。軽い反動が腕に伝わる。アントンの機関銃と比べてしまうとあまりのもささやかな銃声。両肩に連射を撃ちこむ。血が噴 きだす。激痛で目を覚ましたのか、カエサルは大きく目を見開いて悲鳴をあげる。体をよじって転がり、逃れようとする。銃口をずらし、今度は膝を撃った。高 電圧を流されたようにカエサルの体がのたうつ。 弾倉一つぶん、撃ち終えた。 カエサルはいまや起き上がることもできず、うらめしげにこちらを見ている。 エインヘリヤルといえ手足を砕けば、回復まで何時間もかかるはずだ。 (とどめは刺さなくていいだろう) 唇を固く引き結び、ドゥカティ999に再びまたがり、スロットルを開ける。 と、そのとき背後でバイクのエンジン音。ベルタの乗るドゥカティとはまるで違う、重低音の塊、巨獣の咆哮だ。 (アントンか? バイクを手に入れた?) 反射的にクラッチを離し、スロットルを全開、車体を思い切り右に引き倒す。 ドゥカティ999の前輪が思い切り跳ね上がる。尻がシートからずり落ちそうになり、タンクに抱きつくような姿勢でバランスを保つ。後輪がアスファルトをかきむしり、斜め右に向かって車体をすっ飛ばす。尻の下でエンジンが甲高く吼える。 銃声が轟く。 すぐ車体のそばを弾丸がかすめた。冷や汗がシャツの下ににじむ。周囲の路面が爆発した。何十発の掃射を受けて砂利を撒き散らす。 ベルタから三、四メートル離れた場所だ。さきほどより狙いが下手になっている。 (なぜだろう) 一瞬だけ感じた疑問を心の隅に追いやる。油断するな、まぐれでもなんでも、一発食らったら最後だ。 ベルタはドゥカティを突進させる。またしても右に、左に車体を振る。ジグザグ軌道で避けながら、森に逃げ込もうと加速する。 だが今度は銃声が遠ざからない。それどころか近づいてくる。 バックミラーに現れては消える、一台のバイク。 巨大で、異形だった。ベルタのドゥカティ999と違ってカウリングはない。燃料タンクの左右に、燃料タンクよりも大きなラッパ状のエア・インテイクが張り出している。鉛色に輝くV型のエンジンが車体に埋め込まれている。 猛烈な加速性能で知られるマシン、ヤマハV−MAXだ。 アントンはそのV−MAXにふんぞり返った姿勢で乗っている。なんと、ハンドルの上に足を投げ出し足でスロットルを開けながら、両腕でM2ブローニングを抱え撃っている。 あんな撃ちかたでは狙いが狂って当然だ。 だが、V−MAXの突進力は凄まじい。百キロ以上の速度でまっすぐこちらに突っこんでくる。ベルタは車体を振って逃れようとする。旋回ではドゥカティが 圧倒的に上だ。向こうが撃ち、ベルタは勢いよく曲がって回避、左右どちらかで地面が爆発。あとを追ってV−MAXが鈍重に旋回する。 何度も繰り返した。三号炉の建物の周りを何度も周回した。となりの四号炉、五号炉の回りも回った。 原発の敷地内を走り回っている。 でたらめに逃げているわけではない。 向こうもバイクを持っているなら、ただ逃げてもダメ。追いつかれる。 こうやって逃げ回って一定の距離を保つ。 そうすれば、かならず勝機が来る。信じていた。待っていた。 ベルタは原発敷地の中央、管理棟に近づいた。 芝生に囲まれた管理棟は五階建て、窓がずらりと並んでいる。街中に立っているビルと大差ない姿だ。 管理棟まわりを周回する。 バックミラーに映ったアントンの姿が思いのほか大きかった。戦慄に唇がひきつる。 もう三、四十メートルしかない。オレンジ色の炎がバックミラーで弾ける。銃声が空気の壁となってたたきつけられてくる。とっさに左右にバイクを振って回避する。バイクのすぐ脇で路面が爆発する。 最初は二、三メートルずれていた。さきほどは一メートルずれていた。いまは五十センチ。 (どんどん狙いが正確になっている。慣れてるんだ) 気づいたとたん、メッシュジャケットの下で腕に鳥肌が立つ。恐ろしい。体が硬直するほどに。 だが、勝機も近づいている。 バックミラーにアントンの姿が現れるたびに、体からぶらさげた弾帯が短くなってゆく。そうだ、弾切れだ。あれだけ撃てば弾がなくなるに決まっている。 弾切れの瞬間こそ撃つ。今度は89式小銃で牽制してから撃つ。今度こそ当てる自信があった。 その瞬間、尻の下のエンジンが異音を発する。 もともとドゥカティはメカニカルノイズが激しい。先ほどからずっと、排気音だけでなく歯車の噛みあうようなガシャガシャという音も聞こえていた。そのガシャガシャが急に大きくなった。ブレーキもかけていないないのに急減速した。 (なぜ?) ベルタは驚く。思い切りスロットルをあけているのに。 あわててドゥカティの各所をチェック。気づいた。カウルの中から、メーターの下から白い蒸気が噴出している。メーターパネルを見ると水温警告灯が真っ赤に点灯していた。 ラジエータが損傷したのだ。流れ弾を食らっていたのだろうか。 上半身をバイクからずらしてカウルの中に手を突っこむ。手探りでラジエータのホースをつかむ。ホースの穴部分を探して指でつかむ。 だが遅かった。尻の下のエンジンが「ガンッ!」と何かの砕け散る音を立てる。焼きついた。冷却不足で完全に故障したのだ。後輪が即座に止まった。蹴飛ばされたような衝撃がバイク全体を揺さぶる。一気にバランスが崩れる。 ベルタは覚悟を決め、左に滑り降りる。ジャッ、ブーツの裏が時速百キロオーバーで路面と接触して煙を上げる。なんとか転等せずにバランスを保って路面をすべり、 バイクを持ち上げ、背後に迫るアントンへと投げつけた。 たちまち火線が集中する。真っ赤なカウリングが粉砕される。前後のタイヤが別々の方向に吹っ飛んでゆく。とどめにタンクが潰れて火を噴く。 ドゥカティは火球と化してアントンへと飛んでゆく。 一瞬隙ができるはずだ、そのスキを狙って撃つ、そう思った。背中のリュックに左手を突っ込んだその瞬間。火球を通り抜けて飛んできた機関銃弾がベルタの腕を貫いた。 右手に二発。 (うかつだった!) 視界がさえぎられるのはこっちも同じだったのに! 逃げるべきだったのだ。 しかし後悔してももう遅い。右腕の骨がビスケットのように砕かれる音、筋肉が寸断される音が、頭蓋骨の中にまで体を伝って音が響き渡った。ほんの一瞬遅れて激痛がやってきた。 「……っ!」 口が半開きになった。絶叫をあげることすらできない痛み。体が強制的に痙攣する。 その場に倒れこんでしまった。時速百キロで路面を滑っていたのに。尻もちをつき、体が路面に倒れる。頭がアスファルトに激突し、視界に火花が散る。後ろ に何度も何度も転がった。抜けるような青空と黒いアスファルトが超高速で交代した。体が転がりながら跳ねた。いつのまにか芝生に飛びこんだ。芝生に入って もベルタは転がり続ける。草が粉砕される臭いが鼻の穴いっぱいに充満する。 やっと止まった。仰向けの姿勢だ。視界は真っ青な空と、眩しい太陽に占領されている。何本かの白い排気塔が視界の隅に見えた。 しびれる手足にむちうって、半身を起こす。 そこに野太い排気音をあげて黒い影が突進してきた。 V−MAXだ。巨大なバイクがベルタの体を縦に踏みつけた。 乗っているアントンを含め四百キロに及ぶ重圧が足から腹、胸、顔面を通り過ぎてゆく。 胃袋が踏み潰され、内臓の配置が入れ替わる不気味な音。いままでの人生で味わった最大の嘔吐感。胸のメッシュジャケットが巨大タイヤの空転で引き裂かれ て下着が露出、肺の中の空気が残らず押し出され、肋骨がきしんだ。顔の幅ほどもある極太のタイヤが顔面を踏みにじりホイルスピンしながら通過する。鼻の奥 でツンと金属の味。鼻血だ。 V−MAXは通り過ぎていった。銃声もきこえない。弾が切れたのだろうか。 ほっとする時間は与えられなかった。 次の瞬間、巨体が降ってくる。 アントンの真っ黒い体がベルタにとびのってきた。恐怖を覚えてもがく。逃げようとする。手を地面について這いずる。 無駄だった。 アントンが馬乗りになってきた。ベルタの腰よりも太い太腿ががっちりと胴体を挟みこんでいる。片手でベルタの喉を押さえつける。ギャラルホルン封じだろ う。天高く輝く真夏の太陽をバックに、どす黒いシルエットとなって自分を押しつぶす大男。本能的な恐怖を覚えた。二メートルのアントンが自分の二倍三倍に も思えた。 「オラッ!」 アントンは絶叫し、鉄拳を振り下ろしてくる。 最初の一撃が頬に当たった。後頭部が地面に叩きつけられる。口の中で歯が砕ける。十回、二十回、五十回百回。重機関銃のように、削岩機のように連続した打撃が振ってくる。ベルタは身をよじって拳を避けようとした。だができない。そんな一瞬の合間すら与えられない。 鼻がつぶれた。鉄の棒を顔面に突き立てられたような痛み。鉄の味と臭いが鼻腔で炸裂した。前歯がへし折れて飛び散った。口の中のやわらかい肉が裂けた。血の味が舌の上に広がった。殴られるたびに視界を火花が覆い、意識が途切れる。 「オラオラオラーッ!」 すぐ数十センチ頭上から浴びせられるアントンの叫び。 途切れ途切れの時間の中でベルタは考える、逆転の方策を。 (どうしよう。反撃できない) ズガッ (いまは殴ってるけど) ズガッ (本気で殺す気になったら) ズガッ (無抵抗で殺されちゃう) ズガッ (でも体の自由がきかない) ズガッ (頭も、ぼやけて) すでに顔が腫れあがっているのか、目も半分開かなくなっていた。口の中いっぱいに破砕された歯と生暖かい血がたまって、息をするたびにゴボリと音を立てた。 殴られているのは顔だけなのに、手足の感覚もなくなってきた。切断された腕の痛みすら感じなくなっていた。ものがよく考えられなくなってきた。 自分はなんでこんなところで殴られているのか。 自分は誰なのか。 よく思い出せなかった。 戦術支援電子脳が『意識レベル700に低下、危険』と警告してくる。 体の力が抜ける。まぶたが閉じる。 薄れてゆく意識の中、たったひとつの言葉が再生された。 『べるたさん かなしまないで』 意識を電光がつらぬいた。祐樹と過ごした楽しい思い出が、祐樹を傷つけてしまったときの悔恨が、祐樹に許されたときの衝撃が、一瞬のうちに脳裏を駆ける。 自分が何者なのか、なぜここにいるのか思い出した。 もちろん、なにをするべきかも。 (約束を守ると、私は誓った!) 腫れ上がった目蓋を押し上げ、強引に目を開く。真っ黒いアントンの拳が、いままさに上へと振り上げられる。 その瞬間、ベルタは口の中の歯を吹いて飛ばした。歯は秒速二百メートル、火縄銃の弾丸ほどの速度でアントンの眼に突き刺さった。 「うがあ!」 アントンは絶叫をあげた。グローブのような巨大な手で両目を覆った。指と指の間から血と涙がこぼれ落ちる。眼球の破片も混じっている。 「オレの眼がっ」 体を締め付ける力が緩んだ。ベルタは全身のバネをふりしぼって跳ね起きる。アントンの巨体を天高く吹き飛ばす。 体をひねって左手をついて起き上がり、片足だけで跳ねて、近くに止めてあったアントンのV−MAXにまたがった。あまりに巨大なバイクでブレーキペダル に脚がとどかない。しかもいまのベルタは右のひじから先を失っている。バイクに乗れる体ではなかった。左手を伸ばして右グリップをつかみ、スロットルを全 開した。エンジンが咆哮、前輪を持ち上げて突進した。 猛烈な加速で逃げる。管理棟の裏に回り込もうとする。 背後でダガガと機関銃の発射音が轟く。 バックミラーを確認する時間が惜しかった。背中を駆ける『ムズムズ感』、電磁感覚に頼ってバイクを左へと引き倒す。 「ぐっ」 驚いてうめいた。重い。傾かない。曲がらない。ドゥカティとは比較にならないほど重く、反応の鈍いバイクだった。なんとかねじり倒して曲げた。 よけきれなかった。ベルタの右肩を銃弾がかすめる。灼熱の感覚と激痛が襲ってきた。鮮血が噴き出し、ぼろきれとなって上半身に絡み付いていたメッシュジャケットを真っ赤に染める。 「ぐっ……」 うめき声をもらす。戦術支援電子脳が損害を報告してくる。 『右肩部に損傷、関節粉砕、上腕二等筋断裂。関節機能70パーセント喪失』 「右でよかった、どうせ腕はもうないから!」 強がりだ。しかし口に出していってみると力がわいてきた。 すでに89式小銃もカール・グスタフも失った。右腕もない。それなのになぜか絶望しない。痛みを吹き飛ばすエネルギーが体の底からわきあがってくる。 頭の回転も止まらない。 (逃げているだけではダメ) (なんとか反撃を) (カール・グスタフでも避けられるのに……) (右手のない状態でも撃てる武器が……) はっ。息を呑む。目を見開いた。 (そうだ、武器ならある) (よけようのない武器が!) ベルタは口もとに笑みを浮かべ、肩口から垂れ流される血を気もせずに走った。V−MAXを大きくカーブさせる。背後で弾ける銃声が遠のいていった。アントンは乗り物なし、自力で走っている。バイクの速度に追いつけないのだ。 目指すは、三号炉。この敷地の一番奥にある原子炉。 カエサルの倒れている場所だ。 三号炉が見えてきた。近くの路上に、カエサルが先ほどと全く同じ姿勢で倒れていた。 V−MAXを止め、カエサルに駆け寄る。 「ボ、ボクをどうする気だ。殺すのか!?」 ベルタが粉砕した肩と膝はまだ治っていないらしく、芋虫のように這いずって逃げようとする。白い顔が隠し切れない恐怖に引きつっていた。 「そんなことはしません」 ベルタはそう言って、カエサルの手を見る。軍服は血まみれだが、右手の手首から先には一発の銃弾も当たっていないことを確認する。 カエサルの腰のナイフホルダーからコンバットナイフを取り出す。 片手で鞘を外すのは少し苦労した。 「あなたの腕をもらいます!」 「なっ……」 絶句するカエサル。体をよじって暴れる。 「おとなしくしてください、時間がないんです!」 片腕で取り押さえるのは難しかった。彼のからあの上にしゃがみこんで押さえつける。 ナイフを当て、カエサルの右腕をひじのところで切り落とす。 あとは自分の腕だ。 すでに自分の右腕は千切れているが、切断面がギザギザすぎる。 『つなげる』ためには、もっと滑らかでないと。 自分の右腕の傷口のナイフを当てる。真ん中の飛び出した白い骨、その周囲に垂れ下がっている腱を削り落とす。痛みのあまり脳の奥でツウンと音がする。 (これでいいはずだ) はあ、と息をつく。 「見つけたぞこのやろおお!」 アントンの怒声が背後で弾ける。とっさにベルタは身を伏せる。カエサルの腕を抱えたまま路上を転がってゆく。視界の片隅で、V−MAXが銃弾を浴びて空き缶のようにひしゃげて火を噴く。炎に包まれる。 一瞬、銃声が途切れた。「くそっ」アントンの怒声が聞こえてくる。きっと銃弾が切れたのだろう。 (いまだ) ベルタは自分の腕の切断面にカエサルの腕を押し当てた。 (つながれ! つながれ!) 祈りにこたえたか、組織が高速で再生を開始する。うごめいて融合してゆく。 頭の中に戦術支援電子脳の警告メッセージが響く。 『警告。警告。この特殊兵装を制御するソフトウェアが搭載されていません。発射時に暴発する危険があります』 無視する。まったく異なる二つの組織が融合することにより強烈な痛みが生じる。免疫反応だ。額に幾筋もの汗がながれる。汗が目に入って青い空がにじむ。 手を開く。動いた。ちゃんと神経がつながった。 身を起こす。 まさに目の前、数メートルの距離に、両腕を伸ばして突進してくるアントンの姿! 取っ組み合いになったら今度こそ殺される。 「くたばれぇ!」 アントンが吼える。ベルタが右腕を突き出す。 「グングニル、最大出力!」 ベルタの腕がグロテスクなほど膨れ上がり、その表面に稲妻が走り、掌からまばゆいばかりの閃光がほとばしる。組織が耐え切れず、肉汁を噴出して自壊する。 アントンの突進は力強く、速かった。 しかしレーザーはアントンより千万倍速く空中を駆ける。彼が一ミリも動かないうちにレーザーが右目に突き立つ。装甲に覆われていない柔らかい眼球を蒸発させ、頭蓋骨内部に飛び込んで何度も何度も反射を繰り返し、脳組織のことごとくを焼き尽くす。 沸騰する脳の圧力に耐え切れなくなって頭の上半分が吹っ飛んだ。目から上の頭蓋骨がちぎれ、天高く飛んでゆく。ピンク色の液化した脳髄が噴出、二メートルの高さまで吹き上がった。 同時にアントンの体を覆っていた生体装甲も解除される。黒い液体となって流れ落ちた。頭の上半分が欠落した全裸の男がそこに立っていた。 どうと音を立てて、前のめりに倒れる。 10 倒れたアントンに近寄った。 有機脳の演算リソースを聴覚に優先配分。心音と呼吸音を聴取。 心音なし。呼吸音なし。 死んでいる。 すでにベルタの右腕は炙られたプラスチック片のように萎縮している。残された左手を握り締めた。くちびるを引き結んで、アントンの無残な死体を見下ろす。 あれほど強大に見えたアントンだが、死体になってみるとまったく力強さを感じない。大きさすら半分に縮んでみえた。 重苦しい罪悪感がわきおこってくる。 メッシュジャケットを脱いで、かぶせてやる。小さすぎて尻と背中を覆う事しかできなかった。 しゃがみこんで、アントンの腰のベルトから無線機を取る。 「……ドーラですか? わたしです。アントンとカエサルを倒しました。降伏しなさい」 11 管理棟の廊下をベルタは走っていた。 背中でリュックが揺れている。 あのあと、転がっていた武器を回収できるだけ回収した。アントンのM2ブローニングは弾切れでカール・グスタフはひん曲がってもう撃てそうになかったが、89式小銃はなんとか使えそうなので肩に下げている。 耳にあてた通信機からはドーラの声がきこえてくる。 「あなたこそ降伏なさい、ベルタねえさま。わたくしに手も足も出なかったことをもうお忘れですの」 しかしドーラの嘲笑するような口調をベルタは笑い飛ばす。 「でもあなたの兄弟たちを私は倒しましたよ? たったひとりで何ができるんです? いますぐ降伏してください。いま降伏すれば死刑にはならない可能性が……」 「はっ! ふざけるのもいい加減にしてください。いまさら善人ぶるのですか。死など恐れません。わたくしはフェルトヘルンハレの兵器ですから。最高傑作です」 まったくためらいのないドーラの言葉に、ベルタは舌打ちする。 (交渉の余地はないんですね) やがて、中央制御室のある階にたどりついた。 廊下に職員が倒れている。頚動脈を切断され絶命している。 手を合わせて、脇を通り過ぎた。 中央制御室。そうプレートのかけられた部屋を見つけた。 十メートルばかり離れて立ち止まる。室内の状況を知りたくて、耳をすました。 壁を通してドーラの心臓の鼓動音が聞こえてくる。足音も聞こえてくる。足音の位置が室内を移動している。同じ場所をぐるぐる回っているのだ。 間違いない、ドーラは不安を感じている。 通信機で、再びよびかけた。 「あなた、わたしが恐いんでしょう?」 「なっ……」 驚愕と怒りの声が聞こえてくる。 同時に中央制御室のドアが爆発した。いや内側から銃撃で吹き飛ばされたのだ。ベルタはとっさに跳躍して銃弾の列を避ける。一瞬前までベルタの存在していた空間を多数の銃弾がなぎ払ってゆく。 足を天井に突き刺してぶら下がる。 89式小銃を管制室に向けようとして、やめた。中の機械を壊してしまったら原発をとめられない。 ドーラの判断力はどの程度か? 冷静な判断力があるか? きっとあるはずだ、自分で最優秀だと自称するなら。 そう思ったベルタは、背中のリュックから金属の塊を取り出す。 鉛色で、金属で作られ、タプンと水音を立てる。 燃料タンクだ。アントンを倒した後、ベルタは駐車場に行って適当な自動車から燃料タンクを引きはがして持ってきたのだ。 燃料キャップを開けて、「ハッ」と超音波を照射する。とたんに燃料コックからガソリンが噴出する。タンクをドアの向こうに投げ込んだ。 とたんに銃声がやむ。 撃ったらガソリンに引火して爆発するからだ。 ベルタ、天井から飛び降り、勢いよく室内に駆けこむ。 そのとたん軍服姿のドーラが飛び掛ってくる。 心臓を串刺しにしようとナイフを突き出してくる。 ベルタは軽々と跳躍した。足の下でナイフが銀光を放って空を切る。突き出したドーラの腕の上に着地し、そこを踏み台にして背後に飛び降りる。 「なっ!?」 まさか避けられるとは思っていなかったのだろう、ドーラは驚愕の声を上げて振り向く。 ベルタが反撃に転じた。89式小銃を棍棒代わりにして殴りかかる。ドーラは横に飛びのいて避けた。室内に並ぶ椅子の上に飛び乗った。ベルタは跳躍して追 いかけてくる。縦に、横に、斜めに振り下ろす。 ドーラはそのたびに跳躍してかわす。二人は影となって室内を飛び回った。 ドーラはキックで反撃を試みた。 しかし中段の蹴りが銃で叩き落とされる。衝撃で銃がひん曲がったが、痛みでドーラの動きが一瞬だけ止まった。 「くっ」 そのときはもう遅かった。ベルタはドーラの長い金髪を左手でつかみ、逃げられないようにして「ギャラルホルン」を叩き込む。 「ハッ!」 至近距離で超音波のシャワーを浴び、ドーラは痙攣する。眼が血走って服が破ける。胸元がはじけて、量感たっぷりの乳房と乳房を包む白い質素なブラジャーがあらわになる。 大出力の超音波を浴びた場合、人間なら血管の中に無数の泡が出来て即死する。外傷がまったくないのに死ぬのだ。強靭なドーラの肉体はなんとか耐えたようだ。しかし口の端から白い泡が漏れている。管制室の壁にもたれかかったまま動けないようだ。 「……なぜですの……この強さ……きのうとはまるで違う……」 端正なドーラの顔が驚愕で歪んでいた。 ベルタはドーラの視線を受け止めたままひるむことなく答える。 「なぜでしょうね? でも、力がわいてくるんです。 わたしをおもってくれた、信じてくれた人がいるから。 わたしには闘う理由がある。 いままででいちばん、そう思ってます」 そのとたん、ドーラの眼に嘲りの光が走った。 「ほざきなさい!」 ドーラは叫ぶ。黄金の髪が燐光に覆われる、つかんだベルタの手の中で暴れだす。触手のように伸びて襲いかかってくる。 ベルタはとっさに手で髪の毛を払う。だが全部をさばききることができない。防げなかった数本が両目に入る。眼球の後ろに回りこんできた。バチンと視界を閃光が包む。そして暗黒。 『損傷報告。視神経に重欠損。視力ゼロ』 数百本単位の束が口と鼻から進入してくる。口の中をモゾモゾと髪の束がうごめき、舌をグルグル巻きに縛り上げる。喉の奥に侵入してくる。吐き気に身をよじった。次の瞬間、吐き気は激痛によってかき消された。喉が切り裂かれる。強引に声帯が髪の束によって押し開けられる。 『損傷報告。ギャラルホルン使用不能』 「ガハァッ」 ベルタは声を出そうとする。だが出たのはそんな声だけだ。 さらに一本が袖口から入ってくる。また一本がシャツと肌の間から進入しパンツの中に入りこんでくる。 体中の穴という穴を髪の毛が侵略していた。内側から肉体を破壊されていた。いまや痙攣するのはベルタのほうだった。全身の筋肉から力が抜ける。その場に 膝をつく。股間からなにか温かいものが流れ出してパンツを汚してゆく。太ももをつたっていく。失禁したのか、それとも出血か。おそらく両方だろう。 暗闇の中でもがくベルタに、ドーラの声が叩きつけられる。 「……これがわたくしの特殊兵装、『格闘支援兵装ヨルムンガンド』ですわ。ねえさま、強くなったと思っていましたが……その甘さ、相変わらずですね。さっさと止めをさせていれば勝てたものを」 くすくす、と笑う声が続いた。 ドーラが椅子につかまって身を起こす音がした。 目玉に侵入した髪の毛がますます奥へ進んでくる。 脳をやる気だ。 やられてなるものか。 暗闇の中で闘志を奮い起こし、ベルタは全身をさいなむ激痛をこらえて歯を食いしばる。手を顔のあたりに持ってくる。髪の毛の束を引っ張って抜く。髪の毛 の力はそれほど強くなかった。股間や口に入った髪の毛も抜くことができた。しかし抜いても抜いても手の中で暴れまわり、また口や目に入りこもうとする。 もがいた。椅子につかまって立ち上がった。 「やりますわね。でも……その有様でどう闘う気ですの?」 そのとおりだ。いまの自分は視力すら失っている。ギャラルホルンももう撃てない。 しかし…… ベルタは突進した。 (髪の毛の力が弱いことはわかった。わたしを傷つけることはできても止めることはできない!) たちまち空気を裂いて四方八方から髪の毛が襲い来る。手足を髪の毛が縛る。もがいてちぎる。目玉にまだ突き立つ。知ったことか。無視する。脚を進める。突進。ただ突進。耳にも入りこんでくる。鼓膜に激痛が走る。破られた。だがどうでもいい。音は皮膚でわかる。 今ドーラがどこにいるか、それはまさにドーラの髪が教えてくれる。目も耳もいらない。 綱引きのように髪を引っ張った。同時に突進する。立ちふさがる全てを踏み砕いた。 何かが体に当たった。そのままタックルで押し倒す。机の上に押し倒す。 相手の髪の毛をつかんでいる。身動きを止めている。その状態で上にのしかかってパンチを叩きこんだ。腹に、顔に、大きく膨らんだ乳房に当たった。相手も腕を伸ばして抵抗してくる。ベルタの顔にドーラの指が食いこんだ。はらいのける。ナイフで腹を刺された。気にしない。 ベルタは至近距離からドーラに肘打ちを叩きこんだ。ちょうど顎の骨に当たった感触。ドーラは動かなくなった。 12 ベルタの目につき刺さってうごめいていた髪が、そのとたん動きをとめる。片手でつかんで一気に引き抜いた。ドーラの体が急にやわらかくなる。手を伸ばしてドーラの顔面を撫でさする。反応がない。呼吸はしているが、どうやら気絶したようだ。 立ち上がる。自分の顔を撫でた。指に血がまとわりついてくる。眼から下がすべて血涙に覆われているようだ。 (なんとか勝った……) ほっと一息。すぐに自分の頬をたたいて気合を入れる。 (まだやることはたくさんある。武装解除、原発を止める) ドーラの体の上にしゃがみこんだ。ナイフを腹から抜いて、髪の毛をつかんで切り落とす。完全に武装解除しなければだめだ。 と、そのとき、ビリビリと床が震えた。 鼓膜は破れて聴力が低下している。だが今のは確かに『大きな音』がしたのだ。 (あの音は何!?) ドーラの首根っこをつかんで揺さぶった。焦りのにじんだ声を叩きつけた。 「おきてください! 起きなさい! あの音は何?」 「くすくす…くすくす……」 ドーラが眼を覚ましたらしい。闇の中から笑い声が響いてくる。鈴が転がるような可憐な声だけに、嘲笑が際立つ。 「どういうことです! いいなさい」 「くすくす……いわなくてもわかるでしょう、ベルタ姉さん。あれは原子炉の配管が破裂する音ですよ。方角からして一号炉かしらね」 「なっ……」 「ばかなベルタ姉さん。わたくしを倒したくらいでいい気になって。とっくの昔にわたくしたちは原子炉を暴走させていたんですのよ」 「止める方法を教えなさい!」 そう叫びながらベルタは四方を見回す。もちろん見えるのは闇だけ。あたりのキーボードやスイッチで原子炉の状態を制御できるはずだが、眼の見えないベルタはどうすることもできない。 「い・や・で・す・わ。誰が教えるもんですか。拷問したって無駄ですわよ。こうなった以上、みんなを道連れに死ぬつもりです。ああ。わくわくします。人間たちが放射線まみれになってひとりまたひとりと血ヘドを吐いて。くすくすっ」 ドーラの声は高揚感に満ちていた。潤んだ瞳を宙に向ける姿が脳裏に浮かぶほどだった。 「というわけで、せいぜい絶望なさい!」 戦慄にふるえるベルタ。ここには五基もの原子炉がある。自分一人ではすべてを止めることなどできない! 13 メルトダウンを何が何でも止めるつもりだった。 まず無線機を手さぐりで操り、外に訴えた。 『こちらベルタ、すでに原子炉は暴走! 私が止めます、専門的な助言者をそろえてください!』 そして管理棟の外に出た。道を覚えていたとはいえ、手さぐりと音に頼っての移動はひどくまどろっこしかった。行きの二倍の時間をかけて外に出た。 すると入り口の前に人の気配があった。鼓動音と呼吸音、服の衣ずれ、銃器の接触する音。十人以上いる。 自衛隊たちだ。 「どうしたんですか、みなさん! 逃げてくれって言ったじゃないですか」 ベルタは非難の言葉を投げつける。即座に怒りの声が返ってきた。 「冗談じゃない! あんただけ戦わせて逃げるなんてできねえよ!」 「あんた、ひどい格好じゃないか」 ハンカチがベルタの顔に当てられた。誰かが顔の血をぬぐってくれている。 「よ、よけいなことはしないでください」 「あんた、もしかして眼が見えないのか?」 「はい、不覚をとりました。でもメルトダウンはわたしが止めます」 誰かにがっしと両肩をつかまれた。息がかかるほどの距離で声が叩きつけられた。 「……悲しいこといわねえでくれよ……俺たちにも手伝わせてくれよ」 「しかし、原子炉の中は放射線が……」 「わかってる、わかってるよ。死んだっていいんだよ。……俺はあのデカブツが攻めてきたとき、部下を殺されても何もできず震えてるだけだったんだよ……腰抜けだったんだよ……腰抜けのままじゃいたくねえんだよ」 ベルタはようやく、この男が誰なのか気づいた。警察部隊を率いていた隊長だ。 「せめて放射線防護服が来てから」 「そんなの待ってる暇はないんだよ、原子炉は五基もあるし数が足りないんだよ。わかってるだろ?」 ベルタ、沈黙した。 「……わかりました。ではみなさん、わたしの血を吸ってください」 ナイフを抜いて両方の手首を切る。血が流れ出す。手首をそろえて突き出した。 「ど、どういうことだよ?」 「わたしの血を吸い、肉を食らえば、肉体が変異して強い生命力が得られます。放射線を防ぐことはできませんが、死ぬまでの時間を伸ばすことはできるでしょう」 言ったとたん、両の手首に歯の立てられる感触。 (一瞬の躊躇もなく、わたしの血をすってくれる) (化け物って言われた、このわたしを) ベルタの心に不思議な感慨がひろがった。いまこの場にいるものたちは、間違いなく一体の存在、仲間だった。 広がった感慨は静かな喜びになった。いまや心に焦りはない。かならずできる、という安心感がある。 「やりますよ、みんな!」 「ああ!」 14 ベルタは扉を開けた。蒸気渦巻く場所に踏みこんだ。 プシュウ、プシュウと蒸気の噴く音がする。何十箇所から聞こえてくる。 たちまち熱風が全身を包む。皮膚と髪が二百度を超える熱さにあぶられる。 頭の中で戦術支援電子脳が冷たい声で警告する。 『警告。体表温度210 筋温度40 ただちの冷却を要す』 超高温の蒸気を浴びて、上半身のブラジャーが、下半身のレザーパンツが燃えあがる。すぐに脱ぎ捨てた。 『警告。対応限界を大幅に上回る放射線被爆。』 いまのベルタに視力はない。聴力で「プシュ!」の反響を捕らえる。頭の中に立体図を描き出す。今いる部屋は幅十メートル高さ三十メートルの箱型。真中に巨大な金属の塊。 べルタは足場から飛び降りた。圧力容器の直径は六メートル高さ二十五メートル。白い蒸気の渦の中に体を躍らせ、圧力容器の一番下まで落下。 体をかがめて圧力容器の下にもぐりこむ。容器の底は身長の五倍はあろうかという金属の曲面で、黒い金属の棒が何本も生えていた。制御棒の駆動装置だ。細い手で黒い棒をつかんだ。 筋出力最大。『汎用型エインへリヤル』であるべルタは握力八百五十キロ、背筋力七千二百キロ。ありったけの力で黒い棒を握りしめて引きちぎり、へし折った。 すべての油圧装置を排除した。あとには、一回り細い棒が残った。圧力容器の底に生える二十四本の棒。これが制御棒だ。この棒をのこらず炉心に突っ込めば反応は止まる。 『警告。筋温度、血液温度上昇。四十五度突破。ただちに退避せよ』 脳の中で響く声を無視して、制御棒の一本を握る。 ジュウウ! 制御棒は炉心の熱をモロに吸収し、赤熱していた。ベルタの掌が焦げる。 (この程度、なんだ!) 痛みをこらえて押し込んだ。動かない。 (熱で変形してる。溶けて、容器に貼りついている!) 容器の底面にしがみつき、全力で押しこんだ。なんとか入った。一番奥まで入れる。一本、また一本。 だが、三本目を挿入したところで爆音が轟く。圧力容器の上部で爆発が起こった。いままでの数倍する熱気が押し寄せてきた。皮膚という皮膚が焼けただれた。 『警告。筋温度、血液温度上昇。五十度』 『警告。放射線による代謝障害が活動限界を突破』 『警告』『警告』 頭の中に連続して何十もの警報が鳴り響く。その全てを無視して、掌の触覚だけに意識を集中して、制御棒を押し込み続けた。五本、十本。もう意識も朦朧としている。最後の一本、どうしても動かない。筋肉繊維が過熱して力を発揮できなくなっているのだ。 『ベルタさん』 倉本祐樹の声が脳裏に響く。 『もう、ベルタさんは頑張ったじゃないか。もういいよ、もう休んでいいよ』 柔らかく優しい声。だがその言葉をきいてベルタの胸の中で焔が燃え上がった。 (だめです。もうひとがんばり。だって、約束したから) 『もういいじゃないか。死ぬほど頑張ってるのに』 (だめ。……いまわたしは、やっと、ひとりじゃないって思ってるから。ずっとずっと求めてきたものがここにあるから。だから……) すでにベルタの筋肉と血液は凝固温度に達していた。動けるはずがなかった。だが奇跡がおこった。一度だけ動き、最後の制御棒を炉心深くに叩きこんだ。 すでに五感はきかなくなっている。結果がどうなったのかは分からない。 全身から力が抜ける。意識が遠のいていった。 エピローグ 脳髄に衝撃が走った。 目蓋を通してうっすらと光が見える。 「心拍数、上昇中」 「体温三十五度七分、上昇中」 「脳波、脳電位、正常値内」 「眼球運動停止。覚醒します」 男たちの声が聞こえる。 重い目蓋をゆっくりと開けた。 白い天井と、眩しいライトが見える。 白衣にマスクの男たちが自分を見下ろしていた。 「おお、成功だ」 男たちは目を見張る。 どうやら自分はどこかに寝ているらしい。裸の背中と尻がシーツに当たっている感触。手や足の指を動かしてみる。どうやら手足はすべてそろっているらしい。 聴覚が、男たちの心音をとらえ、心音の反響をとらえて部屋の広さを教えてくれる。 大きな部屋だ。たくさんの機械が置かれているようだ。どこからか電子音がピッピッと規則正しく聞こえてくる。 「自分が誰だかわかるかね?」 男たちの問い。ベルタは考えてみる。 (じぶん? 誰だろう……この人たちは誰で、自分は誰で、なぜここにいるんだろう……) なにも分からなかった。頭の中にもやがかかったようだ。 「ベルタさん!」 声がした。白衣の男たちを押しのけて、初老の男が顔を出した。この男だけ白衣を着ていない。白衣姿の男たちより頭一つ小さい体をスーツに包んでいる。頭には白髪が混じっている。 (この人は誰だろう……) (どこかで会ったような……) 小柄な男はベルタの顔に手を伸ばしてきた。白い手袋に覆われた手。手から歯車やワイヤーの動作音が聞こえてくる。機械式の義手をつけているようだ。 (義手……?) 頭の中に疑問符が生まれた。義手、指に負傷。連想がつながり、少年の顔が脳裏に蘇った。自分がどこの誰なのか、原子炉内で死んだことまですべて思い出す。 「ゆ、祐樹さん……!」 驚きの声をあげる。体を起こす。胸や腕につながれていたコードやチューブが引きちぎれる。ベッドの上に起き上がって飛び降りる。途中で激しい貧血に襲われた。ツーンと耳の奥で金属音がする。上下の感覚がなくなる。膝から力が抜けてベッドから落ちる。 「あぶない!」 とっさに祐樹が腕を伸ばし、受け止める。ベルタの体は横抱きにされた。女一人とはいえ、両腕で持ち上げるのはかなりの筋力が必要だ。体を鍛えたらしい。 「ダメだよベルタさん、まだ起きちゃ。三十年以上、仮死状態だったんだから」 祐樹の腕に抱かれ、間近で顔を見る。少年だった彼はいまや五十歳ほどの年齢になっていた。だが確かに面影が残っている。よく見れば鼻の形が変わっていない。なによりつぶらな瞳が、別れたあのときと同じだ。祈るような感情をたたえて光っている。 「三十年……どういうことですか。わたしは死んで……原子炉の中で……」 ハッと息を呑む。 「原発は! どうなったんですか! 止められたんですか!?」 祐樹は苦笑する。笑い顔は少年のころとなにも変わらなかった。 「さすがだね。真っ先にそっちを心配する。大丈夫だよ。原子炉は止まった。そのかわり自衛隊の人たちはみんな死んでしまったけど。事件のあと、フェルトヘ ルンハレは米軍の徹底攻撃を受けて潰された。原発のそばに記念館が作られて、みんなの死を悼んで、ベルタさんもそこに飾られた。ベルタさんはね、原子炉を 止めたあと、仮死状態になったんだ。生きていけないくらいの放射能を浴びたから、それに適応するため体の状態が変化したんだ。真珠の像みたいになって、 とっても綺麗だった」 かたわらの白衣男が口をはさむ。 「倉本さんは、毎週のように記念館に来て、ベルタさんを日が暮れるまで見てたんですよ」 「はずかしいな、バラさないでください……とにかく、何十年かたって、やっとベルタさんを再生できる技術が確立した」 「費用を出してくれたのも、こちらの方です。記念館もすっかり忘れ去れましたから、そのままだと捨てられていたかも」 祐樹は恥ずかしそうにはにかんだ。 「いや……なんていうか、もう一度会いたかったんです。それに、ベルタさんはぼくを助けてくれたから。一度だけじゃなくて、何度も何度も。あのあとぼくは 漫画家になって、へこたれそうなとき、いつもベルタさんのところに来た。ベルタさんの顔を見て、自然に涙があふれて、最初の約束を思い出して帰ってゆく。 そんなことが何度も、何十回もあった。だからぼくはここまで来れた」 そこで祐樹は深呼吸をして背筋を伸ばし、ベルタの瞳を見つめ、恐ろしく真剣な顔になる。ずっと前から練習していたように、よどみなく一息に言う。 「ベルタさん、ぼくと一緒に暮らしてくれませんか。もう、ベルタさんを追い回す人なんていません。一緒に住んで、やりたかったことをしましょう。一緒に甘 いものを食べよう。マンガの話をしましょう。あの一週間のように、残りの人生をずっと二人で、ベルタさんのことをずっと、ぼくは」 言っているうちに、彼の瞳が震えて、しわのある頬を涙が伝う。 「……だめかな」 ベルタは一瞬だけ目を白黒させる。笑顔を作る。 「あいかわらず、泣き虫ですね」 「だ、だめですか」 急に弱気な声になる祐樹。目はベルタを見つめたままだが、頬が震えている。拒絶を恐れる心がありありと伝わってくる。 ベルタは笑顔を作った。横抱きの状態から腕を伸ばし、祐樹の肩をぎゅっとつかんだ。 「オーケーに決まってますよ!」 おわり |