泣き虫兵器ベルタ (全面改訂版)

  分割2

  2

 ベルタは目を覚ました。
「……!」 
 はあっ、と息の塊を吐き出す。
 まず目に映ったのは自分の膝だ。眩しい太陽の光に照らされている。軍服を着ていない。ジーンズ姿だ。そろえた膝の上には紙製のカップがあって、溶けか かったラムレーズンアイスが乗っている。カプルスタンの戦場とはまったく違う、のどかな光景だ。視界の端に長い前髪が見える。自分の髪の毛は短いのに、背 中に髪の毛の感触。いまの自分はロングヘアのウィッグをかぶっている。
 気温も違う。全身にびっしょり汗をかいてシャツが肌に冷たくはりついているが、気温は高い。十五度はあるだろう。そして空気の臭いが違う。ここに硝煙の臭いはない。あまったるいバニラエッセンスとラムレーズンの香りが鼻孔をくすぐってくる。
「……え?」
 自分がどうなっているのかわからず、顔を上げた。
 目の前に商店街があった。
 幅四メートル、いまべルタが座っているベンチの向かい側にはビデオ屋がある。人気映画のポスターが張り出されている。道を数十人の人々が歩いている。老 若男女さまざま、だが大半は学校帰りの少年少女だ。ブレザーを風に翻した女子生徒がクレープをパクつきながら友達としゃべっている。よく日焼けした坊主頭 の少年が短パン姿でカバンをかついで歩いている。買い物袋を前カゴに積んで、自転車を押して歩いている中年女性もいる。
 平和な風景。
(……ああ、そうか。夢か……)
 目をしばたたかせる。
 思い出した。いままでのは夢だ。べルタがカプルスタンで戦ったのはもう三ヶ月も昔のことになる。
 あの後、ベルタはすぐにフェルトヘルンハレを脱走し、日本まで逃げてきた。
 あれから日本中を転々としている。
「……寝ちゃうなんて、疲れてるのかな」
 ぼそりとつぶやいて、べルタは手にしたアイスのカップを持ち上げる。中には溶けかけのラムレーズンが入っている。スプーンですくって食べてゆく。酸味のある甘味。心が満たされる。おいしい。 
 アイスを食べながら、商店街の人々を眺める。
 みんな表情が明るかった。足取りが軽かった。まるで警戒心のない笑顔を向けあっている。
 人々の会話に耳を傾ける。
「ねえミキ、あんた先輩のことどう思ってんのよ?」
「どうって言われても」
「おまえ部活どこはいるよ」
「おれ運動できねーからなー。見てるだけならテニス部がいいんだけどなー、あのプリーツスカートがひらっとなー」
「だれが女の話してんだよ」
 そうかと思うと、早くもカップルが誕生したのか手をつないで歩いている男女がいる。
 見ているうちに頬が緩んできた。
 こんな生活にあこがれていた。戦いのない生活。殺すことも殺されることもない生活。
 日本にやってきて、ますますその気持ちは強くなってきた。すぐ目の前で夢が実現しているのだ。
(わたしもこの人たちと一緒に学校に通ってみたい。友達となんでもないことで盛り上がりたい)
(でも……)
 ベルタの耳は目の前を歩く人々全員の足音をとらえる。人間の限界を遥かに超えた聴力と分析力が足音を解析、人々の運動能力と戦闘経験を類推する。体重四 十五キロ、運動能力C、戦闘経験なし。体重七十一キロ、運動能力B、戦闘経験なし。知らず知らずのうちに、体が闘いに備えている。いまどこかで銃の撃鉄が ガチリと起きればすぐに戦闘に入れるだろう。
(……わたしは、ここには入れない)
 そもそも友達と何を話せばいいのだろう。ベルタは人の殺し方しか知らない。あとは、本や映画で聞きかじった知識しかない。
「はあ……」
 ため息をついた。
 そのときだ。
「はっ、はっ、はっ……」 
 目の前を、人を次々に突き飛ばして一人の少年が駆けていった。
 制服だろうか、ブレザーを着た小柄な少年だ。息を切らしている。腕を前に突き出し、脚を乱雑に動かして走っている。顎を前に突き出していた。明らかに運動慣れしていない。
「待て! 待てっつってんだろコラ!」
 怒声が背後から叩きつけられた。怒声の主はすぐに追いかけてきた。こちらもブレザー姿の少年だ。こちらは背が高く、胸板も厚い。頭を丸坊主にしている。 目はギョロリ、鼻と口は大きく、いかにも押しが強そうだ。走るフォームもしっかりしている。筋肉のついていそうな太い足で大股に追いかけてくる。
「うぎゃっ」
 小さいほうの少年が倒れた。
 よほど運動神経がないのかそれとも疲労のためか、受身も取らず顔面から道路に倒れこんだ。
 まさにベルタがいるのその前だ。
「うっ……」
 倒れこんだ少年は手をついて立ち上がろうとする。顔がベルタのほうを見た。
 色白で、女の子とまちがえてしまいそうな線の細い顔立ちだった。すべすべの白い頬に早くも涙が伝っている。うるんだ目が空中を泳いでいる。口元は震えて いる。恐怖だ。少年の顔には恐怖が浮かんでいた。ベルタはこの表情を見たことがあった。まさに戦場で、銃口を突きつけられた人間の顔だ。
 胸に痛みが走った。
「オラッ!」
 泣きながら立とうとした少年に、大柄な少年が追いついた。首根っこをつかんで引きずり立たせる。
「たすけて……たすけて……」 
 小柄な少年はうめき声をもらした。小刻みに震えながら商店街の面々を見回す。
 ベルタと目が合った。『たすけて』黒いつぶらな瞳がそう訴えていた。
「こいよ! ここじゃできねえだろ!」
 大柄な少年は、小柄な少年を軽々とひきずってゆく。路地裏に向かう。
「たすけて……」
 鼻をすする音が声にまじった。
 ベルタは彼の泣き顔に目を奪われていた。助けたかった。
(わたしは敵に追われてるんだぞ? 暴力沙汰で目立つことはできない)
 だからやめろ、自分にそう言い聞かせた。
「……いやだ」
 唇から自然に声が出た。知らず知らずのうちにクシャリとアイスのカップを握りつぶしていた。
  ベンチから立ち上がった。
 追いかける。
 胸の奥で痛みがうずいていた。もし見逃したら後悔する。足早に裏通りへと向かった。
 商店街から裏手に一本入っただけで、まるで雰囲気が一変した。
 店は確かに並んでいる。しかしその全てがシャッターを下ろしている。「居酒屋」「スナック」「炭火焼肉」などと看板のある小さな店がある。「しばらくの間閉店させていただきます」という紙が張ってあるシャッターもある。紙はすっかり黄色くなっていた。
 人通りはない。
 そんな裏通りで、小柄少年は倒れていた。
 ブレザーが乱れている。ボタンが吹っ飛んでいる。道路の真ん中に仰向けに転がっている。かたわらにはバッグが落ちて無残に中身が飛び出している。彼の腹を大柄な少年が踏みつけている。
「おらっ、謝れよ。俺のズボンに謝れよっ」
 坊主頭の大柄少年は、大声を張り上げる。
「あ……あう……」 
 うめき声を上げる小柄少年。坊主頭は靴を移動させる。腹から胸、首をつま先で名でさするようにして顔面へ。
「アウじゃねーよ。人の服をゲロで汚しておいてそれかよ!」
 そういわれてみれば彼のズボンには白い液体がべったりとついている。米粒らしきものもついている。
「は、はい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 小柄少年は手を合わせ、しきりに謝る。顔面は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「謝るだけじゃダメだ。いいな」
「は、はい……でもお金……今月は……」
「うるせー、言い訳は聞きたくねーよ」
 坊主の頭の少年は笑った。口元をぐにゃりと歪めた冷笑だった。そして顔面に蹴りを入れる。小柄な少年は体を胎児のように丸めて目を閉じた。まるで目をつぶれば辛い世界が消えてくれるかのように。
 もう我慢がならなかった。
「やめなさい!」
「……あん?」
 坊主頭はその言葉をきいて太い眉をひそめる。ギョロ目でベルタの頭からつま先までを眺め回す。
 いまのベルタはジーンズにパーカー姿、リュックを背中にしょって、動きやすさを重視したごくラフな格好だ。頭にのった長いウィッグのせいで、ドンくさそうに見えるだろう。
「なんだ、おまえ?」
「やめてください。その……よわいものいじめは」
「ほっとけよ。俺は遊んでやってるんだ」
 もちろんベルタはそんなこと信じなかった。
(さあ、どう倒す。超人的能力を知られずにどう倒す)
「お前も痛い目に……」
 坊主頭が薄ら笑いを浮かべながら言う。その間にベルタは間合いを詰める。音もなく接近、坊主頭の脚を払う。手首をつかんでぐるんとまわす。彼の体を背負ってひょいと投げる。手首をつかんだままだと腕を折ってしまう。途中で手を離してやった。
 どんっ。アスファルトの上に背中から落ちる。
「ぐえっ……」
 道路に転がった坊主頭、顔面に驚愕の表情を張りつかせる。
「なにしやがんだよっ」
 すぐに目をむいて立ち上がる。レスリング選手のように体を低くしてタックルしてきた。女を相手にしているという自制はすぐに吹っ飛んだらしい。もちろん彼のタックルなどベルタにとっては止まっているのと同じだ。サイドステップでかわし、脚をひっかけた。
 ペタン、と彼は地面にはいつくばる。
 目を丸くしてベルタを見上げる。自分の身に何が起こったのかわからないようだ。
 ベルタは笑顔をつくって、上から坊主頭によびかける。
「やめてください、ってお願いしてますよ?」
(これで分かるはずだ、力量差が)
 坊主頭は「くそっ」と悪態をついて立ち上がり、一目散に逃げ去っていった。
 緊張を解くベルタ。肩から力を抜く。これでよかったかな。ただの「すごい武術」だと思ってくれたかな。
「もう大丈夫ですよ」
 ベルタは小柄少年を助け起こそうとして、
「え……?」
 彼を抱き起こして、目をパチクリさせた。
 気絶している。
「あの……もしもし?」
 肩を揺する。驚くほど小さく細い肩だ。
「ん……」
 少年は目を開け、
「ひ!」
 いきなり悲鳴をあげてその場にへたり込んだ。
「どうしたんですか? もう大丈夫です。さっきの人はいなくなりましたよ」
 ベルタはしゃがみこんだ状態から優しい声をかける。
「え……」
 少年はあたりを見回し、
「あの……あなたが……その……」
「はい。わたしが追い払いました」
「で、でもお金、ぼく持ってない」
「はい?」
「お金、取るんでしょ。助けてくれたからお金って……」
「まさか。そんなことしませんよ」
「嘘だ……みんなするんだ」
 少年はまだ恐がっているらしい。落ちているカバンを手に取り、腰が抜けているらしく後ろに這いずって逃げてゆく。女の子のような顔が恐怖に引きつってい た。さきほどからツンと漂う臭いは何だろう。すぐにわかった。少年の学生ズボンの股間のあたりがぐっしょり濡れている。失禁しているのだ。臭いはアンモニ ア臭だ。
 べルタの胸の中に締めつけられるような痛みが広がる。
(ここまで怖いんだ。いままでよっぽどひどい目にあわされてきたんだ)
 もう放っておけなかった。ベルタは彼の体を抱きしめる。
「……あっ……」
 少年の口から声がもれる。腕の中で彼の体はひどく硬く、電気が流れたように震えていた。
「……だいじょうぶ……だいじょうぶ」
 べルタは精一杯やさしい声を作る。語りかけながら、後ろにまわした手で少年の背中をトントンとたたいた。
「……う……?」
 今までずっとうつむいていた少年が、ふしぎそうに顔を上げる。
「……いじめない?」
「もちろんですよ」
 息が触れ合うほどの至近距離から、にっこりほほえみかける。
 すると少年の顔がぱあっと輝く。
「あ、あ、あの……ありがと……ございます」
「どうしていじめられてたんですか?」
「ど、どうしてって……わからないです……そんなこと……」
 少年はまた暗い表情でうつむく。
「……ぼくは、だめだから……」
「そんなことありません。あきらめずに戦えばきっとなんとかなります」
「あなたは……ぼくのこと、ダメだとか、キモイとかいわないんですか。女の人はみんな言うのに」
「いいません」
「しんじられない……」
 そのとき少年の腹がきゅうっと鳴った。
「あ……」 
「くすっ」
 ベルタは笑って、背中のリュックからお菓子を出す。
 シュークリーム、アップルパイ、クリームパンなどがどんどん出てくる。
「はい、これ。どうぞ」
「え……」
「気にしないで食べて下さい。まさか、『毒が入ってる』とか」
「い、いや、そんなことはべつに……思ってないけど……なんでこんなにお菓子……」
「大好きなんですよ、お菓子」
「そ、そうですか」
 そこでまた腹がグウと鳴る。少年は恥ずかしそうに、ベルタの出したシュークリームを食べる。最初はおずおずと、だがそのうち夢中になって、口元をクリームで汚してほおばる。
「むが……むが」
「よっぽどおなかすいてたんですね」
「もがっ、ご飯食べさせてもらえなくて。弁当をトイレに捨てられて。もが」
「かわいそうに……でも、道端でこうやってると恥ずかしいです」
「あ……」
 少年ははじめて自分の体を見下ろした。道のど真中にすわりこんで、しかも女の子と抱き合っている。
「わわっ」
 急に悲鳴を上げて立ちあがり、2、3歩はなれて、そこで自分の股間がぬれていることに気づいたのか、恥ずかしそうに股間を押さえて前かがみになる。
「あ、あう……」
 なんだかほほえましくなった。ポケットから出したハンカチで、少年の顔を拭いてやる。
「……はい。これでだいじょうぶ。おなかはもう一杯になりましたか?」
「……は、はい……ありがとうございます」
「『ありがとう』って言いながうペコペコ頭下げるの、やめたほうがいいですよ」
「は、はい……」 
「胸をはって、ね」
「はい!」
 ポンと肩をたたく。
 ベルタは元気よく手を振った。少年は明るい笑顔を無理やりに作って、こっちを何度も振り返りながらさっていった。 
 少年が見えなくなって、ベルタは手をおろす。
 胸の中に暖かい気持ちが満ちていた。
(元気出して、幸せになってくれるといいな)
 少年の残したクリームパンを、口の中いっぱいにほおばった。

 3

 次の日の夕方、ベルタは隣駅の喫茶店にいた。
 コメダ珈琲店。この地方ではどこに行っても見かけるチェーンの喫茶店だ。
 店内は、壁面にレンガ、床とテーブルが暖かさを感じさせる木目調。
 椅子はお芋を思わせる茶色。とにかく茶色系統に統一されていた。
 すべての席が一杯になっている。
 窓際の席に座り、ウェイトレスを呼び止めて、明るい声で注文した。
「シロノワール3つ!」
「……は?」
 ウェイトレスが伝票を片手で持ったまま、目をパチクリさせる。
「シロノワール3つです」
 注文を繰り返すと、ウェイトレスはベルタの顔や格好をじっと見て、さも不思議そうに二秒ばかり考えこんだ後、いきなり営業用スマイルを顔に張りつける。
「かしこまりました!」 
 深く考えない、という結論を出したらしい。
 ウェイトレスだけでなく、隣のテーブルを囲んでいる家族連れも、そのまた隣で文庫本を読んでいた老人も、ベルタにいぶかしげな目を向けている。
 しばらくして、注文の品が来た。
 銀色の盆に載った、シロノワール三つ。
 シロノワールとは、ドーナツ型の柔らかいパンにソフトクリームを載せたものだ。ベルタの好物だった。甘いものはみな好きだが、この地方にきてからはシロノワールを毎日食べている。
 直径実に二十センチ。ふつうは家族やカップルで食べるものだ。
 それが三つ並んで、テーブルの上が埋まる。壮観だった。
「いただきまーす」
 思わず頬がゆるんでしまう。明るく笑って、ついてきたメープルシロップをパンにかける。
 となりの席でベルタを見ていた家族連れが「ほんとに食べるんだ」「スゲー」とあきれている。
 さて、とベルタは熟考する。
(どう食べるか。ソフトクリームを先に食べるか。それとも下のパンと交互に食べるか)
 しかも数は三つある。ゆっくり味わって食べているとソフトクリームが溶けて崩れてしまうのだ。溶け落ちたソフトクリームがメープルシロップの中に崩落し、まったく別種の味わいであるふたつの甘さがまじってしまう。なんたる悲劇か。この悲劇をベルタは過去二回も経験した。
(よし)
 先の四角くなっているアイスクリーム用スプーンを手に取った。手が緊張と期待で震える。
 ソフトクリームにスプーンを差し入れ、すくいとって口に運ぶ。
「ああ……」
 思わず、声が漏れてしまう。
 甘いものを思う存分食べる。ベルタが知っている最大の幸福だった。フェルトへルンハレにいたときは体調を完璧に管理するため、特別メニューの軍用糧食だ けを毎日食べさせられた。量は普通の食事より多かったが、デザートの類は粉末ヨーグルトとキャンデーだけでまったく物足りなかった。脱走してすぐにやった のが喫茶店でパフェを食べて食べまくること。
 あっという間に一つのシロノワールが消えた。
 慎重にソフトクリームの溶け具合を探りながら、二つ目に取りかかる。
 甘いものが大好きといっても、普段は二つしか食べない。
 三つ食べるのは、最後のお別れだから。今日でこの街を出ていく。何百キロも離れた街まで一気に移動するつもりだ。そこにはコメダ珈琲店はない。シロノワールは食べられない。
 一口一口、味わって食べるつもりだった。
 そのとき、
 ダンダン! ダンダンダン! ガラスを叩く音が響いた。
 音のする方角を見て、ベルタは口にくわえたスプーンを落とした。唇の端からみっともなくソフトクリームをこぼしてしまう。
 窓の外に少年がいた。昨日出会った、いじめられっこの少年だ。
 猛烈な勢いで窓を叩いている。ベルタが自分のほうを向くや、口をあけて何かを大声で叫んでいる。
(な、なんで彼がここにいるの?)
(どうして自分がここにいるってわかった?)
「あの、お客様……」
 ウェイトレスが困惑顔でベルタに言う。
「あちらの方はお知り合いですか?」
「え、えーと、知り合いというか、なんというか、その」
「このままですと、他の方のご迷惑になるのですが」
「わ、わかりました」
 窓の外の少年に手招きを見せる。少年は顔を輝かせる。
 店内に駆けこんできた。
「あ、あ、あの、あの……」
 ベルタの席まで走ってきて、少年はどもりながら何かを言おうとする。
「えーと、まずここに座ってください。なにか飲みます?」
 ベルタ、少年の肩を押さえて強引に座らせる。
「あ、はい、コーヒー。アイスコーヒー」
「かしこまりました」
 ウェイトレスが去ってゆく。
 少年はベルタにぺこりと頭を下げる。
「あの、あの、さっきはごめんなさい。あの、ぼく、どうしても会いたくて。あの、あの、怒ってる? 怒ってますよね?」
「いえ、怒ってはいません。怯えるのもほどほどにしたほうがいいと思います。それで、どうしてこの場所がわかったんですか?」
 きのう少年と会ったのは隣駅の商店街だというのに。
「探したんです。会いたくて。きっとどこかでご飯を食べてるって。甘いもののあるところを」
 ベルタの眉がひそめられる。
「まさか……全部の飲食店をあたったんですか?」
「はい! どうしても会いたくて。朝からずっと。十時間くらい」
 勢いよくうなずく少年。
「そ、そうですか……」
 あっけにとられる。一体なんだ、この積極性、この行動力は。
「お願いがあるんです」
「なんでしょう」
 嫌な予感がした。気がついたらスプーンから手を離し、ぎゅっとテーブルの上で握っていた。握った掌に汗がにじんでいた。
「……あの、ぼく、あんなこといってもらえるのはじめてで」
 少年、ベルタをじっと見つめて、泣きそうに瞳を潤ませて言う。
「嬉しかったんです。……これからも、これからもいっしょにいてください!」
「あ、あの……」
「いっしょにいてくれないとダメなんです!」
「うわー……修羅場」
 女性の声が聞こえたのでそちらを見た。銀盆にコーヒーカップを載せたウェイトレスが、目を丸くして立ちすくんでいた。彼女の口元が笑みの形になっている。
 修羅場、という言葉の意味は知っていた。恋愛関係のことだと思われた。
「ち、違うんです」
 ベルタはあわてて否定する。なぜか顔が熱くなった。
「いえ、いいんです。若いっていいですよね」
 ウェイトレスは急にまじめな表情になって、
「はい、こちらコーヒーです。ごゆっくり」
「なにか誤解されている……」
 ため息をついた。顔がまだ火照っている。
「なんていえばいいのかな……」
 ベルタが口を開くと、少年は身を乗り出すようにして、目をきらきらさせて、
「はいっ」
「うう……なんだか疲れる……」
 こんなときどうすればいんだろう、わからなかった。
 この三ヵ月ずっと一人だったから。誰かと一緒に旅をしたことも、一緒に住んだこともない。友達も作らなかった。
 わずかに知っているのが、マンガや小説で聞きかじった知識。
「ねえ、……えーと、名前をきいていいですか」
 そうだ、自分はこの少年の名前さえ知らないのだ。
「はっはいっ。名前は祐樹、倉本祐樹といいますっ。す、好きなものは……」
「わたしはベルタです。ドイツ語でB、『二番目』という意味です」
「ベルタさん」
「苗字とかファミリーネームとか、気の利いたものは私にはありません。それ以上くわしいことは内緒です。そして……わたしは追われています。ずっとこの街にいることはできません」
「で、でも……」
「だめです」
 ベルタは言いきった。きっぱりと言いきったつもりだった。
 祐樹の顔を見て「きっぱり」が崩れた。
 祐樹は泣いていた。
 薄い唇を噛みしめ、両目から一筋の涙を流していた。
「う……う……」
 口元が震える。鼻をすすりそうになる。テーブルの上の紙ナプキンを手にとって鼻と口を抑えた。
「うぐっ……えぐっ……」
 声を殺して泣いていた。
 本当なら号泣したい、そんな気持ちが伝わってきた。
「……い、一日なら」
 ベルタの口からそんな言葉が飛びだした。
(自分は何を言おうとしているんだ?)
「一日なら。付き合ってもいいです」
「えっ」
 祐樹は紙ナプキンを取り落とした。花開くように明るい顔になった。
「ほんとうですか!」
「いえ、一日だけですよ」
「はい! はい! ありがとうございます!」
 祐樹、ベルタの手をぎゅっと握って、上下にぶんぶん振る。
 また彼の頬を光るものが伝い始めた。嬉しさのあまり涙を流しているのだ。
「では、いきましょう。早く涙をふいて」
 胸が締め付けられるような苦しさをおぼえて、ベルタは言う。
「はい、デートですね!」
「で、デート……というのとはちょっと違う気が……わかりました、デートでいいです」
 ふと気づくと、お盆を持ったままのウエイトレスが興味津々といった表情で見ている。となりの席の家族連れがチラリチラリと見ている。小さい子供が思い切り身体を乗り出して見ている。
「い、いきましょうっ」
 祐樹の手をとって立ち上がる。
 ウェイトレスが優しい声で、
「がんばってください。応援してます」
「違うんですってば……」
 恥ずかしくてならない。
 しかし不快ではなかった。心のどこかに浮き立つような気持ちがあった。
 
 分割3へ