泣き虫兵器ベルタ (全面改訂版)

  分割4

 10

 その日、集合場所は駅前の噴水だった。
 駅ビルからエスカレーターで降りてすぐのところに噴水があり、噴水の中央には奇妙なオブジェがくるくる回転している。噴水の回りを派とが歩き回っている。ベンチがおかれ、数人の男女が休憩をとっている。
 べルタは靴を買い替え、噴水まで走ってきた。
 まだ待ち合わせの時刻まで十五分もあるのに、すでにユウキはベンチで待っていた。べルタの姿を見るなり、満面の笑顔で手を振る。
「こんにちわ」
「こんにちわっ。……あれ、べルタさん、足どうしたんですか?」
 祐樹が首をかしげる。あのあとベルタは靴を買い直したが、足の傷はすぐには治らず、靴下が血がよごれてしまっているのだ。
「いえ、なんでもないです。今日も、学校には行かなかったんですか?」
「もちろんです。学校にいっても、何も楽しいことはないから」 
「家の人たちはなんていってます?」
 祐樹は困ったように頭をかいて、
「それはその……ぼくが学校サボってるってのはわかってるみたいで、『どうして行かないの』っていいますけど……『関係ないだろ!』って怒鳴ったら黙っちゃいました。もっと早くこうすればよかった」
 祐樹の頬はゆるみきっている。
 学校という辛い場所から逃げられて嬉しい。心の底からそう思っている。
(この人はダメになってしまう)
 ベルタ、ベンチから立ち上がり、祐樹の目を見つめて、
「実は……」
 もうお別れしようと思ってるんです、と言おうとした。
「これをよんでくださいっ」
 いえなかった。祐樹がカバンの中から出してきた紙の束を押しつけられた。
「はい……」
 つい三十分前まで読みたくて仕方なかった。だが今は辛い。面白いのはわかっている。だが面白ければ面白いほど、『もっとここにいたい』と思ってしまう。
 ゆっくりと、一ページ、一コマを味わうように読んだ。
「……」
 読み終わり、無言で原稿を返す。
「ど、どうでした?」
「面白かったです。きのう言ったところが直ってますね。この主人公とヒロインのケンカ」
「はい! 構図の問題だったんです。それで躍動感がでるんですよ!」
 手をぎゅっと握られた。祐樹の眼がきらきらしていた。
(まずい。このままでは抜けられない。ずるずると、ずっとこの関係が続く)
 ベルタは手を握り返した。自分の手が汗ばんでいるとわかった。
 そして、言い切った。
「……実はお話があるんです。祐樹さんのマンガを読み続けることは、できません。そろそろこの町を離れるつもりです」
 びくう! 
 ベルタの手の中で祐樹の手がはねる。震える。
 いくら華奢といっても男の手だ。ベルタより幅があるし指も太い。それなのにまったく力強さを感じさせない。
「……どうして? どうしてそんなことを言うの?」
「わたしは追われているんです。言ってましたよね。わたしはもう、ここにいられなくなりました。追っ手がやってきます。ほんとうは、何日も前にここを去るつもりでした。ムリヤリ引き伸ばしていただけなんです」
「……でも、でも、ぼくは!」
 祐樹の声は早くも泣きそうだ。
「わかってください、祐樹さん」
「ぼくはベルタさんがいてくれないとダメなんです……」
 ベルタは手を振りほどき、ベンチから立ち上がる。
「じゃあ話を変えましょうか。祐樹さん、このままどうしますか。いまは学校に行かなくても、ずっとこのままってわけにはいきません。また学校に行かない と。このままずっとわたしと一緒にいると、祐樹さんがダメになってしまうんじゃないか、って思います。祐樹さんは、ひとりで生きていかないと」
「む、無理だよ! ぼくはそんなことができる強い人間じゃないんだよ!」
 これまでより激しく叫び、祐樹は強引に首根っこをつかんできた。
 驚いた。こんな大胆な行動を彼が?
 顔の高さはほとんど同じだ。至近距離から祐樹の顔を見た。泣いていたが、『弱さ』は感じなかった。黒い眼がらんらんと輝いていた。強烈な意志と感情が宿っていた。
「……ユ、ユウキさん……」
 思わずうめいた。迫力すら感じてしまった。
 これと同じ眼を見たことがある。
 あれは信州の山奥をさまよっていたころ、雪の中で一頭の野犬に出会った。茶色くて大柄な日本犬。ベルタを見るなり姿勢を低くして唸った。痩せた体に残った筋肉のすべてが弓の弦のように引き絞られているのがわかった。完全な戦闘体勢だった。
 あの野犬と同じような、『追い詰められた者の眼』。
 たじろいたベルタの両肩をつかんで、すがりつくようにして訴えてきた。
「……だめなんだよ。ぼくはだめなんだ。ちいさいころからずっといじめられてたんだ。『がんばっていじめに勝て』っていう人もいるけど、頑張れなかった。 すると『どうしてがんばれない』って怒られた。つらかった。あの人たちはわかってないんだ。頑張れない人もいるんだって。そのうち誰も相手にしてくれなく なった。でもベルタさんは、『こんなぼくでもいい』って言ってくれたっ。いっしょにいて、ぼくの話でわらってくれたっ」
 自分の顔から祐樹の手を引きはがし、ベルタは笑顔をつくって明るい声でよびかける。
「おちついて。ね、おちついて」
 しかし祐樹は止まらない。またベルタの肩をつかみ直し、機関銃のように言葉を並べる。
「ベルタさんはわかってくれたんじゃなかったんですか。ダメなままでもいいって。他の人たちと違って、ほんとうのぼくを見てくれた。それなのに……裏切った!」
 はき捨てるように叫んだ。そして口ごもる。顔は紙のように血の気がひいていた。苦悶の表情が浮かんでいた。
 ベルタは気づいた。この表情はただの苦痛じゃない。罪悪感だ。
 自分が暴言を吐いた、けっして超えてはならない一線を超えた、そう気づいている。
 でも、いわずにはいられないのだ。
 祐樹は両手を自分の顔の前でぎゅっと合わせた。神に祈りをささげる者のように。そして叫ぶ。
「だったら、いなくなってしまうなら、最初から希望なんてくれないほうがよかった!」
 周囲のベンチに座っていた人間が全員、ぎょっとした顔でこちらを見た。それほどの、血を吐くような絶叫だった。
 ベルタ、そんな祐樹を見つめていた。黙っていた。
 心の中には二つの塊がうごめいていた。
 ひとつは嫌悪感。祐樹の言葉への反発。
 だがもっと強い感情があった。
 罪悪感。嫌悪より何倍も強い罪悪感。
(このひとをこんな風にしたのはわたしだ。わたしは祐樹さんを命を助けた。でもそのとき、だめなままでいいって言った。わたしのせいだ。わたしがやさしくしたからいけないんだ)
(それにわたし、楽しかった。
 このひとと一緒にいるの、楽しかった。
 本を選ぶのが。漫画の話を聞くのが。だめなこの人の面倒を見るのが、たとえようもなく充実していた。
 誰かの役に立てるのがうれしかった。ずっといっしょに、わたしだっていたかった)
(だからわたしはこの人を怒れない)
 ベルタは意を決し、すうっと息を吸って、
「……祐樹さん」
 精いっぱい誠実な声で、青ざめた祐樹を見据えながら言った。
「……ごめんなさい」
 祐樹の目が見開かれる。ベルタの言葉が意外だったらしい。目の中に浮かんだ感情は複雑なものだ。驚きと失望が混ざっていた。そんなはずじゃない、という焦りもあった。
「ごめんなさい。祐樹さん。祐樹さんの生き方を邪魔してごめんなさい。自分勝手な考えを押しつけてごめんなさい。祐樹さんと一緒にいた間、短かったけど、でも楽しかった。感謝します」
「……な……なんでだよ。なんで怒ってくれないんだよ。なんで叱ってくれないんだよ」
「……さよならです」
 背を向ける。
 そして駆け出す。
「ベルタさぁぁぁぁんっ!」
 背後に祐樹の絶叫が叩きつけられた。
 駅ビルへとエスカレーターを駆け上る。
(これでいいはず)
(これでよかったはず)
(それなのになぜ、こんなに胸が苦しい)
 走りつづけた。

 11

 「……さよならです」
 くるりと背を向けるべルタ。黒髪を揺らして駆けだす。早まわしのような速度でエスカレーターを上って駅ビルの中に消える。人間の足ではとても追いつけない。
 祐樹はベンチから、はじかれたように立ち上がり、絶叫。
「ベルタさぁぁぁぁぁんっ!」
 絶叫に答えるものはいなかった。もちろんベルタが戻ってくることもなかった。ただ周りの人間たちが白い目で見るだけだ。
 祐樹、その場にくずおれる。
 地面にうずくまったまま、祐樹は泣き始めた。まぶたの端に生まれた大粒の涙は、たちまち幾筋もの涙となって頬を伝う。
「えぐ…えぐ……ベルタさん……どうして……」
 しゃくりあげて泣いた。ひとしきり泣くと、祐樹はよろめきながら立ち上がった。
(さがさないと)
 ベルタを追いかけて、探し出すつもりだった。
(一度できたんだから今回もできる!)
 何の根拠もなく心の中で断言して、祐樹は商店街に向かった。
 ベルタを探してどうするのか、どうやって説得するのか、そもそもこの町にはいないんじゃないのか、そんな疑問はまったく感じなかった。極端に視野が狭くなっていた。
 まず商店街の喫茶店を探した。メロンパン売りのバンが行列を作っていると駆け寄って「ちがう、ちがう、いない」といらだたしげに叫んだ。国道沿いのコメ ダ珈琲店も探した。祐樹が落ちたあの池。楽しく喋った本屋。そのあとはあらゆる店を。ベルタが好きそうな甘いもののある場所にはすべて顔を出した。店員を 突き飛ばす勢いで店の中に突入して店内をぐるっと回り、どの席にもベルタの姿がないと知るとため息ひとつついて何も食べず出てくる。そんなことをどの店で も繰り返した。
 やがてあたりは暗くなった。それでもあきらめず、もちろん家にも帰らず、「鉛のようになった足を引きずって食事もとらず探しつづけた。
 深夜になり、空腹が耐えられないほどに胃袋を締めつけた。
 急に冷えこんで、霧雨まで降ってきた。
 震えながら歩いていたらコンビニを見つけた。ダンプやトラックが何両も止まっている大きなファミリーマート。
(肉まんでも食べよう)
 自動ドアへと足早に進む。
「クソ祐樹じゃねえか?」
 太く、低い声が鼓膜を叩く。知っている声だ。
 頭のてっぺんから足の先まで、寒気の塊が滑り降りた。心臓が二倍の速さでドクドクと暴れだす。
「あ……」
 震える声が口から転げだした。
 (逃げなきゃ! 逃げなきゃ!)
 心の中で叫ぶ。しかし逃げられなかった。力強い腕が祐樹の腕をつかみ、別の腕が肩を押さえつけていた。強引に振りむかされた。
 案の定、自分を取り囲むように三人の男女が立っていた。
 一人は百八十センチの背丈があって、茶色の長髪。黒レザーのジャケットを着て首からはシルバーアクセをぶら下げていた。二人めは横幅があった。ただ太っ ているだけでなく背も高く腕が太い。ヒップホップダンサーを思わせるラフなファッションで、頭は坊主頭。最後の一人は、ソバージュのかかった茶髪の女。 カットジーンズにTシャツだけの姿で、豊満な乳房を誇示するように胸を張っている。
 ロン毛と坊主頭は、いつも学校で祐樹をいじめているリーダー格だ。
「よーお、珍しいじゃん、おまえがこんな時間にさ」
 坊主頭の男が、息がかかるほど祐樹に顔を近づけてくる。
 顔を見ただけで背筋を恐怖が駆け抜ける、そんな相手だった。
「あの女は、今日はいねーのか」
「あ、あ、あの、あの」
 にらまれただけで、もう祐樹はまともに喋れなくなっていた。
「おいおい、俺らは普通に挨拶してるだけじゃんかよ。なにブルってんだよ」
 ふたりで祐樹を引きずってゆく。
「助けて! 助けてベルタさん!」
 腕を振り回し、脚で地面を引っかいて、わめく。
 その様子がよほどおかしかったのか、茶髪の女が甲高い声でケタケタ笑う。
「たすけて……」
 声はだだっ広い駐車場に広がってゆく。
「あの女にも見捨てられたか。ぎゃはは」
 ロン毛が耳障りな甲高い笑声をあげる。
 (そうだ。見捨てられた)
 胸の中にどす黒い冷たい感情がひろがってゆく。無力感だ。無力感は手足から力を奪った。無抵抗になる。
 駐車場の一番右端に連れていかれた。バイク置き場だ。カスタムされた大型スクーターが並んでいる。
 二つ並んだスクーターの間で、突き飛ばされた。その場に尻餅をつく。
 ロン毛と大柄坊主頭がスクーターに腰掛け、左右から祐樹に冷たい声を浴びせる。
「最近どうよ、学校こねーけどさ」
「いやー、おれら心配したんだぜ。おめーがヒッキーにでもなっちまったんじゃねーかってよ」
「元気そうでなによりだぜ」
 祐樹はアスファルトにうずくまったまま、喋ることもできずにうつむいている。
 このあと何が起こるか、いやというほどわかっているのだ。
 茶髪女の間伸びした声も聞こえる。
「あのさー。あたし話がみえねーんだけどさー。この子だれよ?」
「あー、エリには言ってなかったっけ? 学校で友達とかいなくてさ。だから俺たちが遊んでやってるわけよ。……こんなふうにな!」
 ロン毛がレザーパンツに包まれた足で蹴り飛ばしてきた。腹に重いキックがめり込む。
「ぐへっ」
 うめいて祐樹は体を丸めた。頭の中はただひたすら『怖い怖い怖い』。立ちあがって反撃することなど思いもよらない。
「へえー。イジメって奴?」
 エリの明るい声。好物を前にした小さい子供のように無邪気な声だ。
「ちげーってエリ。友達だっての。なー祐樹。おれさー、こないだオヤジにクソムカつくこといわれたんだけどさ。だからストレスたまってんだけどさ。手伝ってくれるよなー、ストレス解消。なー」
 頭の上にブーツが乗せられた。髪の毛がジャリと鳴る。恐怖に駆られてすぐに叫んだ。
「はっはいっ」
「ありがとよっ」
 顔面に、頬にブーツを打ちこまれた。口の中に熱さが炸裂する。骨がゴリッと鳴る。吹き飛ばされて仰向けに転がる。
 見上げると、そこに大柄坊主頭がいた。まるまると膨らんだ顔に残忍な笑みを浮かべて、言った。
「オレさー、こないだ駅前でバイク停めといたらメット盗まれたんだよ。マジムカつくよな。おまえならわかってくれるよな?」
「はっ、はい」
「オラッ」 
 坊主頭が腹にスニーカーを踏み下ろしてきた。内臓が圧迫され、胃袋がねじれる。意志とは無関係に、体が丸まろうとする。口から透明な胃液を吐き出す。
「きたねえな、オイッ」
 太い眉を吊り上げ、坊主頭が顔面にキックを浴びせてきた。
「ごっごめんなさいっ」
「なんで抵抗するんだよ? これはイジメじゃないよな? オレとおまえは遊んでるんだよな?」
「はい……」
 弱々しく祐樹はうめく。涙が両のまぶたからあふれだして視界をゆがめる。
「わかってんなら、おとなしくつきあえっ」
 またしても二発、三発、腹にスニーカーが打ちこまれる。胃袋の変形する音がゴボリと腹の底で響いた。なんとか吐き気に耐える。四発目は顔面に降ってきた。全身の筋肉が痙攣する。冷や汗が噴きだす。
「ねえ、それ、あたしもやっていい?」
 エリと呼ばれた女の軽い声が聞こえた。
(ますますひどくなるのか。)
 絶望に目を閉じる。
「あー。やっていいぜ」
「おらよっ」
 ロン毛と坊主頭が二人して祐樹の体を持ち上げる。五、六歩運ばれて、駐車場の上に放り出される。一瞬だけ落下感、後頭部に鋭い衝撃。
 気が遠くなった。顔面に冷たい何かが降ってきて、意識が現実世界に戻った。目を開くと、エリがペットボトルを逆さに持っていた。中身をぶっかけられたのだ。
「はやくうつぶせになりなさい。よつんばいになるのよっ。なんて」
 慌てて祐樹は体をひっくり返す。手とひざをついて四本足になる。
「いやー、やるじゃん」
「おう、エリって才能あるじゃん。女王様の才能」
「そーかなー。じゃあ、これをくわえなさい」
 エリが空き缶をけっ飛ばしてくる。祐樹の目の前に空き缶が転がってくる。青い缶コーヒーの缶だ。
 命令どおり、四本足のまま近づいて缶をくわえる。口の中に何か小さいものが転がりこんでくる。苦みが広がる。この味は一体なんだ? 頭の中がパニックになる。タバコの吸殻が入っていたらしい。
「こっちに来なさい」
 エリの声が前方から聞こえてくる。高揚で上ずった声だ。
 吐き気をこらえて歩く。エリに向かって二、三歩すすんで、ついに耐えられなくなった。口の中のものをすべて吐き出してしまう。
 唾が、エリの足にかかってしまう。
「ちょっと! あんた何すんのよ!?」
 悲鳴をあげるエリ。ペットボトルを投げつけられた。鼻に当たった。まだ中身が入っている。鈍い痛みが弾ける。
「おいおい、エリになんてことしてくれんだよ? こりゃ、お仕置きしなくちゃな?」
 楽しそうに笑いながらロン毛が近づいてくる。目の前に黒いブーツが並ぶ。至近距離から顔面を蹴り上げられた。鼻の中に熱さが弾ける。たちまち鼻血が流れ出す。腕で顔面を押さえようとする。
「むだだっつーの! ひゃひゃひゃ」
 ついに高い声で笑い出したロン毛。腕のを踏みつけられた。ミシッと骨のきしむ音。
「どうしようかエリ、こいつ反省してねーぜ?」
「やっちゃって!」
「へ、女は恐いねえ。じゃあ遠慮なく」
「おれもー」
 背後から坊主頭の野太い声がした。いつのまにか後ろに回りこんでいたのだ。両足をつかまれた。背筋を寒気が駆け抜けた。脚をばたつかせたが、もう遅い。足首を思い切りひねられた。激痛に目を閉じ、顔をしかめてうめき声をもらす。
「ううっ……なんでなんだよ……どうして、ぼくがこんな目に……」
 目を閉じたまま、闇に向かって問いかける祐樹。一瞬の間があった。ロン毛の冷たい声が降って来る。
「ハア? おまえ今さらなにいってんの?
 『世の中、そういうふうにできてる』からだよ。
 お前を殴って、オレらはストレスが消えて嬉しいわけよ。クラスのみんなだってそうだ。お前がこの二,三日来ないから、みんなイライラして雰囲気悪くなってんだぜ。『異常』な奴を叩いてスッキリ、それが世の中のルールってもんだろ。学校も会社もそうだ」
 祐樹、全身から力が抜けるのを感じた。
「……そうだね」
 おもわず声が漏れた。きっと口元には疲れた笑みを浮かべていたはずだ。
(ずっと前から、わかってたはずじゃないか)
(どんなに逆らったって無駄なんだって)
(理由なんてない、脱出する方法もない)
(小学生のころから十年、もういい加減あきらめていい)
(火が燃えるように、物が落ちるように、日が沈むように、ぼくはいじめられる)
(そういうものなんだ)
 はあ、とため息をつく。
(このままあきらめて、おとなしく殴られよう)
(そうさ、ベルタさんがいたから、ちょっと勘違いしただけさ)
(ずっと目をつぶって我慢していればそれでいい)
(いつか誰かが、手加減を忘れてくれる。そうすれば楽になれる)
 アスファルトの上に伏せて、祐樹はまったく脱力した。
 ゴッ、ゴッ。背中に、後頭部にキックが降りそそいでくる。
 だがもう、悲鳴をあげる気にもなれない。
 どうでもいい、本当にどうでもいい。
 どうせ何をやってもダメなのだから。
 そのとき耳を、エリのキンキン声が叩く。
「あー、なにこれ。マンガじゃん」
(え?)
 一瞬にして意識が覚醒した。
 目を見開く。体をよじって周囲を見回す。
 先ほど自分が落とした肩掛けカバンを、エリが拾っていた。中から、マンガの原稿を取り出していた。
「お? なにそれ見せて」「なんだ?」
 男二人も興味を示した。ロン毛のほうがキックの雨を一時中断して、マンガを覗きにいく。
「ぷ、何これ?」「わらえるでしょー」
「これ自分で描いたのかよー。暗い奴だとは思ってたけどさー」
「うわ、なにこれ、この女の絵、見てよ」
 ロン毛が原稿のうち一枚を手にとって、ペラペラと裏返してみる。クライマックスの場面だと祐樹には分かった。主人公がヒロインの言葉に助けられ、再び戦いを決意して立ち上がるシーンだ。
「えー。なになに。『だけど君がそこで見守ってくれるなら』オイオイなによこれ」
「願望なんじゃねーの。だれか女に助けてもらいたいって」
「キモーイ」
 エリが手を叩いて嘲笑する。
 胸の奥で、なにかどす黒いものがわきおこった。
(なんなんだろう、これは)
「ほんと、キモチわりいよなあ。あんだけ殴られて、まだ自分がクズだってわかってねーのかな?」
「もしかして将来はマンガ家? とかおもってんじゃないのー」
「プ。かもしんねー。できねーって。こんなクズゲンコーで」
 ビリビリと音がした。
(やぶった! 原稿を破った!)
 心臓が跳ねた。耳の奥で、血液が突進するドクドクという音。
 目を閉じて耐えていれば時間は過ぎていくと思っていた。 
 だが、目を閉じるなんてもうできない。
 腹ばいの姿勢で、精いっぱい首を持ち上げてロン毛を見上げる。にらみつける。
 ロン毛はちぎった原稿を何枚か投げ捨てる。祐樹の視線に気づいて、見下ろしてくる。
「は、なにその目? このマンガが大切だっての?」
 きいた瞬間、胸のうちにいくつもの台詞が蘇った。ベルタの台詞が蘇る。
『ぜひこんど、祐樹さんが描いたのを読ませてください』
『とっても面白かったです』
『ここで主人公がアップになるといいですよ』
『このヒロイン、かわいい子ですよね。わたし好きです』
 ベルタの台詞ひとつひとつが胸の中で刃となって暴れまわる。ベルタの笑顔が、ふっくらした愛らしい顔立ちに微笑を浮かべて真正面から見つめてくれた彼女 のことが、彼女と並んで歩いた楽しい日々が、脳裏で再生される。そのたびに胸がうずいた。知らず知らずのうちに拳を握り締めていた。
(ああ。そうか)
 理解した。この体のうちでたぎる思いはなんなのか。
 怒りだ。自分は怒っている。もう何年も怒ったことがないので、わからなかった。
(どんなに殴られてもよかった。どんなに馬鹿にされても、あきらめることができた)
(ぼく自身のことなら!)
(この原稿を馬鹿にされるのは、ベルタさんまで……)
「やめろ!」
 祐樹は、首筋が痛くなるほどに顔をあげる。ロン毛に向かって言葉を叩きつける。
 あっけにとられたロン毛、次の瞬間、噴きだす。
「プッ。お前、いまさら」
 ロン毛の言葉など聴くつもりはなかった。
 祐樹は、全力で脚を縮めた。「おっ」意表をつかれたのか、背後で大柄スキンヘッドがよろめく。そこで思いきり伸ばした。蹴りつけた。なにか柔らかいものに靴が命中する。
「げふっ!」
 大柄スキンヘッドがうめいて、手を離す。脚が自由になった。
 アスファルトに手をついて立ち上がる。
「やめろっていってるだろぉっ!」
 原稿を持ったまま下卑た笑みを浮かべているロン毛に、殴りかかった。
「うあああああああっ!」
 絶叫し、突進した。殴りかかった。
 腕を大きく振った素人くさいパンチを放つ。ロン毛は驚いた顔になったが、しかし危なげない動きで祐樹のパンチをかわす。すばやく反撃。皮のグローブに覆われた拳が飛んできて視界を埋める。
 重い衝撃が頬に生まれて顔面全体にひろがった。いつもと違って、殴られた瞬間に眼をつむることはなかった。のけぞった。上半身がぐらついた。それだけだった。倒れずに踏みとどまった。ロン毛が意外そうに片眉を上げる。
 祐樹自身も驚いていた。いままで、殴られたら泣いてうずくまることしかできなかった。
 だがいまは体の奥底から力がわいてくる。指の一本一本、頭の中、体の全てに熱気が充満している。痛みは感じない。
 すかさず祐樹は二発目のパンチを放つ。またかわされた。今度はロン毛がローキックを放ってきた。軸足を蹴り払われた。バランスが崩れた。膝を突いて倒れ こむ。しかしそのとき無我夢中で伸ばした手が茶色く長い髪をつかんだ。全体重をかける。髪の引き抜かれる音がした。ロン毛が「ウッ」と悲鳴を漏らす。
 祐樹の心に高揚感が膨れ上がった。
(こいつらだって泣いたりビビったりするんだ。人間だ)
 相手がひるんだ瞬間、祐樹はまた突っこんだ。今度は腕など振りまわさなかった。何も考えず、ただ体中で渦巻くエネルギーに見をまかせて、頭から突進した。額のあたりに固くとがったものがぶつかった。頭蓋骨をつらぬく重い衝撃。顎に当たったのだ。
「ぐうっ」
 ロン毛がうめいて後ろに逃れようとする。髪をふりみだし、白い歯をむきだしている。いつもの祐樹なら恐ろしげな姿だけで震え上がってしまっただろう。しかし祐樹にはわかった。取り乱している。
(逃がさない)
 一気に腕を伸ばして組みついた。ちょうど祐樹の顔は相手の胸あたりだ。
「調子にのってんじゃねえ!」
 背後で怒声が炸裂する。祐樹の二倍もある太い腕が背後から伸びてきて、引きはがされた。
「あ……」
 背筋が寒くなる。興奮のあまり、もう一人の敵をすっかり忘れていた。
 いまや祐樹はまるで動けなかった。背後からまわされた片方の腕が胴体をすっぽり包んで拘束している。もう片方の腕が首を締めている。グローブのような大きな手が口をふさいでいる。
「もう逃げられねーぜ!」
 ロン毛が前方からボクシングのファイティングポーズをとって接近してくる。
「やっちゃえー!」
 明るいエリの声。それを合図にロン毛はパンチを繰り出してきた。腹に、十発、二十発。胃袋がでんぐり返る。膝から力が抜けた。
「泣いて謝れよ! オラッ」
(絶対にイヤだ!)
 祐樹、自分の口をふさいでいる手に噛みついた。ありったけの力を顎に入れる。
 血の味でいっぱいになっている口の中で、太い指が暴れる。噛んだ。噛みつづけた。骨がきしむ音がギリギリと頭にまで響いてくる。
「いでっ、いでででっ」
 耳元で坊主頭の声がする。
「離せよ! 離せよ!」
 口の中から手を抜こうと暴れる。祐樹の足を踏みつけてくる。
 目の前のロン毛も祐樹を殴りつけ、頭をつかんで揺さぶってくる。
「離せってんだよ!」
 祐樹は噛むのをやめなかった。体の中の炎はいままで以上に燃えていた。飛び上がるほどの痛みが襲っているはずなのにまったく痛くなかった。どんなに殴られても蹴られても、腫れ上がったまぶたの下でロン毛をにらみ、ただひたすら、渾身の力をこめて指を噛んだ。
「わかったよ! 謝るから助けてくれよ!」
 背後からの声が一変した。哀願してくる。
 まだ祐樹は顎の力を緩めない。
「おねがいだよお、やめてえ!」
 背後から聞こえるその声が祐樹の意識を貫いた。
 涙声だ。泣いている。
(いつもぼくが泣いているのとそっくりだ)
 急速に意識が澄んだ。頭の中に充満していた暴力衝動がすっと消えてゆく。
 顎から力を抜いた。
 坊主頭が「ひいい」とわめいて祐樹の口から指を引き抜く。数歩あとずさる。
「お、おい大丈夫……」
 ロン毛が坊主頭のもとに駆け寄ろうとする。祐樹は彼に叫びを叩きつけた。
「謝れよっ!」
 彼の足が止まる。血走った目を祐樹にむける。薄い唇が震えていた。祐樹は知っていた。これは怯えの表情だ。
「わ、わかったよ……」
 背後を振り向く。そこにいた坊主頭は、祐樹がなにか言うまでもなく頭を下げて、
「悪かったよ! もうやらねえよっ」
「じゃあ、いけ!」
 叫んで、路面を踏み鳴らした。二人は乱れた足並みで大型スクーターにまたがり、ヘルメットもせずに走り出す。
「ちょ、ちょっとまってよっ!」
 エリがあわててスクーターに飛び乗る。
 スクーター二台は国道に飛び出す。エンジン音が遠ざかっていった。
 祐樹はあたりを見渡す。
 いじめっ子たち三人がいなくなったコンビニ駐車場は、やけに広く見えた。
 黒い池のようなアスファルトが広がっている。さきほど停まっていたトラックはもういない。クルマは一台もなかった。
 ただ、祐樹の落とした肩掛けカバンと、原稿と、破られた紙片だけがある。
 駆け寄って、風に舞う紙片をつかんだ。 
 紙片をかき集め、残った原稿を抱きしめる。一枚一枚をチェックする。
 やぶられたのはたった三枚だ。
「よかった……」 
 ほっとした。その瞬間、いままで麻痺していた痛覚が一気に襲ってきた。手足が、腹が、激痛を訴える。
 恐くなった。自分はあれだけの暴力を受けた。
(それなのに……なんで勝てたんだろう)
 不思議に思う。
 勝った、と呟く祐樹。どうして勝てたのだろう。
 この湧き上がってくるエネルギーはなんなのだろう。
 その場に腰をおろし、原稿に目を落とす。
 少年主人公の顔が目に飛び込んできた。
 これまで肝心なところで逃げてばかりだった主人公が、怪物を前にこう叫ぶのだ。
 気を失ったヒロインを抱きしめて。
 『俺はもう逃げない。大切なものができたから』
(そうだ、簡単なことじゃないか。ぼくも同じだ)
 ぼくには絶対に譲れないものがあるんだ。
 ベルタさんと二人で作ったマンガ、ベルタさんと過ごした短かったけれど楽しい想いで。
 それだけは大切なんだ。
 ベルタさんはいなくなっても、心に刻まれた幸せは消えない。
 目頭が熱くなった。あれだけ殴られても泣かなかったのに、涙があふれて頬を伝った。
 祐樹は原稿を抱きしめ、天をあおいだ。
 いつしか霧雨はやんでいた。雲の隙間で星がきらめいていた。
「……ぼくはもう逃げない。大切なものができたから」
 
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