泣き虫兵器ベルタ (全面改訂版)

  分割5

 第2章

 1
 
 それから三か月。横浜中華街。
 ベルタは中華喫茶・山水楼に入った。
 建物や路面ががぎらつくほど眩しかったのに、店内に入ったとたん一気に光が和らぐ。
 窓にはめ込まれた龍や花の透かし彫りが、真夏の太陽をさえぎってくれているのだ。
 一階の一番奥、角の席に座る。
 店内を見回した。どの店に入っても、店内が一望できる場所を選ぶことにしている。
 やはり流麗な装飾の施されたつい立が、店内のあちこちに置かれている。丸テーブルがいくつか見えてなくなっている。これで視線が少しさえぎられている。大丈夫か? 危険を察知できるか? いや問題ない。店内のBGMが静かだ、音で分かる。
 座席といい机といい、すべてが木製であめ色に輝いている。
 あちこちにガラスケースがあって、色鮮やかなの人形が展示されている。陶器の器も並んでいる。床や壁の茶色と陶器のミルク色がよく映えた。
 綺麗だなあ、と思いながらメニューを広げる。
 チャイナドレスのお姉さんがお絞りと水を持ってくる。ベルタは頭を下げて、
「あ、この杏仁豆腐と、緑茶入りカスタード団子と、それからライチティーを」
 そこでちょっと考えて、おなかに手を当てる。
(ご飯も食べたほうがいいな)
「あと、この『大根もち』と、『小豆入り大福』を」
 お姉さんが頭を下げて去ってゆく。
 ベルタはちらりちらりと店の外を確認しながら、持っていたリュックを机の上に置いて、中からマンガ雑誌を取り出す。
 さきほどコンビニで買ってきたものだ。祐樹と出会ってから三ヶ月、すっかりマンガを読む習慣がついていた。いまだにベルタは学生生活も恋愛も実体験できていない。日本のあちこちを逃げ回っている。だがマンガを読むときだけは「平穏な自分」を疑似体験できる。
 だからベルタはこんなひとときがとても好きだった。
 ひじを丸テーブルについて、パラリパラリとマンガのページをめくる。
 ……そのとき、心臓が跳ねた。
 いま、なにかとんでもない名前がのっていたような気が。
 そのページをまじまじと見つめる。
 『フレッシュ新人読みきり! 倉本祐樹』
「あ……」
 おもわずベルタの唇から声が漏れた。
 クラモトユウキ。彼の名だ。あのいじめられっこの名だ。
 マンガの扉ページの絵柄に見覚えがあった。
 彼と別れた日、公園で見せてもらったマンガと似ている。
 だがあのときより力強さが増しているような。
 ベルタは生唾を飲み込んで、中身を読み始めた。
 すぐに引き込まれた。女の子はかわいらしく、少年は表情豊かで、ストーリーは密度が高い。
 読み終わって、「ふう……」とため息をつき、たった三十二ページしかないことに驚いた。
 もっとたくさんあった気がした。
 最後のページの後には「作者紹介」の欄があった。
 「倉本祐樹先生」の似顔絵があって、祐樹が肉筆でなにやら描いていた。
 「デビューです! たった三ヶ月前にはこんなこと夢にも思わなかったです。
 もう最高! などといってると痛い感じなので、これからもっと、100倍頑張るぞ!」
 そして自己紹介が続いていた。
 『好きな食べもの 甘いもの 友人の影響。
 特技 マンガ以外何もない……でもいいさ、マンガが誰より得意なら。
 好きな言葉 夢 でも嫌いな言葉も夢。
 自分の性格 よく泣く。感情の沸点が低い人間です。』
 読んでいるうちに、ベルタは視界が歪むのを感じた。いつのまにか泣いていた。胸ポケットからハンカチを取り出して拭く。それでもまだ涙が流れてきた。
「……よかったね……」
 声とともに、頬をつたった涙が雑誌のページに落ちた。
 そして、マンガ雑誌をぎゅっと抱きしめた。
 彼のことを思い出した、わずか数日間つきあっただけの、しかしベルタの心にけっして消えない思い出を残してくれた少年。彼との別れは辛かった。なにも気 持ちがうまく伝わらなかった。ただ傷つけてしまった、そう思っていた。だからアレ以来臆病になって、ともだちを作らずにいた。
 でも、伝わってたんだ。
 彼、頑張れたんだ。
 マンガ雑誌を抱きしめたまま、目を閉じ、イスに深く腰掛ける。
 ウェイトレスの近づいてくる足音。
「こちら杏仁豆腐とライチティーになります」
 目を開けて、皿の乗った盆を受け取る。
 この店の杏仁豆腐はどんなものだろう?
 顔をほころばせながら、白く艶やかに輝く杏仁豆腐へスプーンを入れる。
 と、その瞬間。
 耳に小さな音がひっかっかった。
 ガチャリ。
 金属の触れあう音だ。
 ベルタはその音を知っていた。訓練で聴いた。戦場でも耳にした。サブマシンガンの安全装置を外す音。
 窓の外から聞こえてくる!
 全身を寒気が走った。
 音のした方向に目を向ける。窓の外には横浜中華街の町並みが広がる。数十人の男女が歩いている。窓に面した道を一人の男が歩いている。その男は黒い箱型の物体をこちらに向けていた。
 ベルタの脳内でいくつかの思考がはじける。
(ついに追っ手が来た。どうする? 回避? できるだろう。とっさにテーブルの下へ?)
(いや、それではダメだ、店内には客と店員が大勢いる。掃射されたらみんなを巻きこんでしまう。それだけはダメだ)
(よし)
 ベルタ、とっさにテーブル上のカバンをつかんで、足首の力だけで跳躍。体がテーブルの上まで浮き上がる。いま頭に載せている長い黒髪のウィッグも浮く。 首の後ろで二本のお下げが波打つ。飛び上がると、すぐそばにある壁を蹴り飛ばす。靴の底に、壁を踏み抜いてしまった感覚。反動がベルタの体を押し出す。
 窓の外に向かってロケットのように飛びだす。カバンを顔の前にかざして。
 らたたたたたっ! 
 タイプライターを思わせる軽い銃声が耳を打つ。ガラスの割れる音も響いてくる。カバンを蹴り飛ばされたような衝撃。防弾繊維を仕込んだカバンで銃撃を受 け止め、そのまま飛んでゆく。ガラスの破片が舞い散るなか、体を横にしたまま突進、店の外まで飛び出して銃の持ち主に体当たり。
 相手が倒れた。ベルタはとっさに男の腕を踏みつける。パキンとチョコレートを割るような軽い音。反対側の腕も折る。男の脇にいた別の男もサブマシンガンを出す。とっさに脚を蹴り上げる。キュロットスカートから延びるほっそりした脚が、一瞬で男の銃を吹き飛ばした。
 こんどは背後でチャキリと金属音。
(ダメだ、ここでよけたら通行人に当たる)
 ベルタは目の前にいる男の体を抱き上げて振り向いた。まったく同じ瞬間、目の前にしたスーツ姿の男がサブマシンガンをこちらに向けて発砲する。オレンジ白の閃光と銃声が連続して弾ける。いま抱きかかえている男の体が銃弾を受け止めた。
「あがっ! げっ!」
 男がうめいて体を痙攣させる。血は噴きださない。やはり防弾チョッキをつけている。
(よかった)
 ベルタ、男の体を振り回す。両腕をつかんで長さ百八十センチの棍棒として使う。目の前にいる男を一人吹き飛ばした。
(逃げなければ!)
 ベルタはカバンをひっつかかんだまま駆け出した。
 足音が追いかけてきた。有機脳の演算リソースを聴覚に優先配分、追っ手の人数と戦闘能力を推測する。
(数は五人。戦闘力A。訓練されてるけど普通の人間。音から推測して武器はサブマシンガン。大丈夫。通行人にだけ気をつければ)
 『燕雷亭』と書かれた看板のある真っ赤な中華料理屋に飛びこむ。
「いらっしゃ……」 
 店員が声をかけてくる。無視して突進する。赤絨毯の上を突っ走り、丸テーブルの並ぶ店内を駆ける。昼食を食べていた身なりのいい男女がベルタを見て唖然と口をあける。
「失礼しますっ」
 叫んで、階段を三段飛ばしで駆け登り、二階の窓を開けて跳躍する。他の店の屋根に乗り、看板を足がかりにして屋根から屋根へジャンプ、またジャンプ。胸の中の生体過給システムを戦闘出力で起動。
 途中で頭の上にバサリと空気の動く感覚。ウィッグが外れてしまった。短い黒髪が空気にさらされた。
(拾ってる場合じゃない!)
 無視して跳躍を続ける。瓦を吹き飛ばし、看板に両手を引っ掛けて逆立ち状態で飛び、十メートルクラスのジャンプを連続する。
(よし、ついてこない)
 当たり前だ、人間がこの動きについてこれるわけがない。
 だが七つ目の店の屋根に飛び乗ったとき、耳が風のうなりをとらえた。
 後方から風を切って接近する、何物か。
 ズガン! 盛大な音を立てて、すぐ後ろに着地する。
(飛んできた! わたしと同じか、それ以上の運動能力)
 振り向いたベルタの眼に飛びこんできたのは、巨漢の姿。
 身長二百センチの巨体から丸太のような手足を生やしている。肩幅といい胸板の厚みといい人間よりグリズリーに近い体格だ。金色の髪を短く刈り、下半身はアーミーパンツ、上半身はモスグリーンのジャンパーで覆っている。
 黒い装甲こそ展開していないが、間違いない。
(アントン!)
 ベルタの兄に当たる白兵戦型エインヘリヤル、アントンだ。
 アントンはネイビーカットの下のごつい顔立ちに笑みを浮かべた。
「ようベルタ! 久しぶりだな! おとなしく捕まれよ!」
「嫌です!」
 ベルタは叫んで駆けだす。近くのビルのベランダに飛び乗り、そこから屋上に飛びうつる。
 背後でズガンと重い音がしてベランダが崩れ、さきほどより近い一メートル程度の距離でアントンの大声が、
「逃げだって無駄だぜい、ベルタ!」
(確かに)
 ベルタは胃の中に重いものが広がっていくのを感じた。
 アントンの体力、瞬発力は自分を確実にしのいでいる。
 すでに胸の中の過給システムは酸素残量七十パーセント。酸素が切れると激しい運動が出来なくなる。アントンはベルタの二倍以上もつだろう。
 このままでは追いつかれる。どうすれば?
 十二軒めの店の屋根に着地した。すでにここは中華街の南の端だ。目の前には巨大な空間が開けている。片側三車線の道路、新横浜通りが広がっている。通りに沿って、鉄道の高架が走っている。
(どうしよう。電車に飛び移るか?)
 視線を下ろす。眼下の新横浜通りを見る。車とバイクが埋め尽くしている。
 ベルタ、飛び降りる。高さ二十メートルから歩道に着地。履いているスニーカーが煙をあげる。歩行者の中年男が腰を抜かす。目の前に広がる新横浜通りに駆 けよる。通りを埋め尽くす車の列の中から一台のバイクに注目。白と赤に塗られた足の長いバイクだ。ホンダのオフロードバイク、CRMだ。
「ごめんなさいっ!」
叫びとともにバイクに突進、ライダーを蹴り落としてバイクを奪う。バイクはとてもシートが高くベルタでは足がつかない。それでもまたがってエンジンをか け、『ぱぁんっ!』2ストローク特有の破裂音を立ててバイクは発進する。前輪を振り上げ、後輪を空転させて車の列の中を突き進む。赤信号に出くわした。目 の前をトレーラーが横切る。待っていられない。ハンドルをひねってバイクをねじり倒し、歩道に乗り上げる。
 背後でバオン! 野太い雄叫びが響く。
 振り向くと、大型バイクにまたがったアントンの姿。一抱えもある青黒い燃料タンク、ベルタが乗るCRMの二倍はあるタイヤ幅、水冷であることを誇示するかのようなのっぺりしたエンジンが左右に張り出している。ホンダのCB1300だ。
(アントンも足を手に入れた!)
「オラッ! ちょこまかしやがって!」
 怒声を張り上げたアントン、たちまち距離を詰めてくる。排気量で五倍、基本的なパワーがけた違いだ。
「くっ……」
 うめいたベルタ、唇の端を噛んで車体をひねり、体全体を振り子のように振ってCRMを急旋回させる。歩道のタイルの上をタイヤがすべる音、キュルルと甲高く悲鳴をあげて方向転換。進路上でワイシャツ姿のサラリーマンが棒立ちになっている。
「どいてくださいっ!」
 体を大きく振って進路を曲げ、すんでのところで衝突を回避。その先にも別のサラリーマンが、おばさんが立ちふさがる。なんとか合間をすり抜ける。悲鳴と 怒号が浴びせられる。バッグやアタッシュケースが体に当たる。人ごみがまだ続く。前方わずか数メートルに幼稚園児の集団を見かけた。よけるには間に合わな い。車体をジャンプさせて飛び越える。
 前輪から着地する。フロントのショックが大きく縮んで、危なげなく衝撃を吸収した。こういうときはこのバイクがモトクロス用であることに感謝する。
(どっちに逃げればいい?)
 あせって、生唾を呑みこんであたりを見渡す。視界に飛びこんできたのは青々とした緑に囲まれた横浜スタジアム。その脇に並んでいる首都高速の出入り口。
(首都高なら!)
 交差点を突っ切り、目の前をふさぐ巨大トレーラーに急ブレーキをかけさせ、首都高への入り口を駆け登った。
「お客さん、ノーヘル……うわあ!」
 料金所から身を乗り出して叫ぶ係員。その腕の下をくぐりぬける。
 首都高1号線、下り方面に入った。
 高速道路は横浜の町を見下ろすように高い場所を走り、やがて二股に分かれる。石川町ジャンクションだ。左に曲がれば横浜の貨物港を通って金沢区へ。ベイブリッジを渡ることもできる。右に曲がればどんどん山の方に入っていって横須賀行きの道路につながる。
 ベルタは左に曲がった。
 ますます道路は高く上る。ゆるいカーブを描きながら左に曲がると、海が見えた。
 トレーラーやトラックで埋め尽くされた道を、車体をひねって隙間を抜けてゆく。速度百キロを維持する。左右はトラックが銀色の壁となってそびえている。一台ごとに高さの違うバックミラー。首をすくめてよける。
 先ほどからスロットルは全開だ。蚊の飛ぶ音を数百倍に増幅したような甲高いエグゾーストが唸っている。股間の下からすさまじい震動がビリビリ伝わってく る。エンジンが高回転で悲鳴をあげているのだ。生粋のモトクロッサーであるCRMはオフロード走行では無類の強さを発揮するが、お世辞にも高速道路向きで はない。ハンドルが幅広すぎて、クルマの間を抜けるのも一苦労だ。
(このバイク、選択間違えたかな……)
 ブオン!
 背後、たった二、三メートルの距離で弾けた野太い排気音。バックミラーをちらりと見る。バックミラーの中にはCB1300にまたがっているアントンの姿。大口をあけて笑っている。
(……追いつかれた)
 背筋に冷たいものが駆ける。スロットルを握る手に汗がにじむ。
「もう逃げられねえぞ、べルタっ」
 もっと速度をあげた。いま速度計は百二十キロを指している。バックミラーは振動で像がぼやけ、今や何も見えない。どこからか飛んできた虫がベルタの頬に激突した。目にゴミが入った。涙がにじんでくる。
 一瞬だけ振り向く。ダメだ、アントンはたった十メートルの距離にいる。引き離せない!
 そのとき、道路脇にびっちり並んだ金網に気づいた。
(ここだ!) 
 クラッチを切って思いきりエンジンを吹かし、次の瞬間クラッチをつなぐ。同時にハンドルを力のかぎり引っ張りあげた。
 バイクをジャンプさせた。
 重さ百キロに満たないCRMは綿毛のように軽々と舞い、金網の上に着地。タイヤの中心線を金網に合わせる。全神経を指先に集中。ブレーキレバーに伝わってくる何百分の一グラムという感覚でタイヤの摩擦具合をチェック。バランスをうまくとった。
 そしてブレーキをかける。思い切りバイクの後輪が浮く。前輪が暴れだす。ベルタはシートから腰を浮かして、前のめりのバイクを制御した。前輪で金網を捕らえたまま、体を左右にひねる。
 体の動きに引きずられ、バイクがそのまま反転した。
 これまでと逆向きに、金網の上で着地する。
 こちらに向かって突進してくるアントンが見えた。眼を丸くしている。
 思い切りスロットルを開けて加速。
 金網の上を逆走開始。アントンのバイクとすれ違う。「くっそぉ!」と悪態が風に乗って聞こえてくる。前輪を持ち上げて加速、下り坂だから重力も味方する。たちまち百二十キロに達する。ここなら車を避ける必要もない。全力で走れる。
 青い海の輝きと、埠頭にずらり並んだコンテナが、たちまち後方に流れ去る。横浜スタジアムと中華街が見下ろせる。そのまた向こうにランドマークタワーが白く光っていた。
「このやろっ。このやろっ」
 後ろから排気音にまぎれてアントンの叫びが聞こえる。バックミラーをチェックすると、車列の間からアントンのバイクが見えた。すでに指先ほどに小さくなっている。
「ふんがっ!」
 アントンも車体をジャンプさせ、金網に乗ろうとしている。CB1300の巨体が宙を舞う。しかし金網に載った次の瞬間、足元の金網が大きくたわんで、乗 るのがやっとで波打つ。グラリグラリと車体が大きく揺れる。首都高の中へ転げ落ちる。ガシャンと破壊音。ベルタのCRMと比べ、CB1300の重さは三 倍。重すぎるのだ。
 倒れた車体を起こし、アントンは普通に道路を逆走してくる。しかしクルマを避けるのに手間取って、あまり速度が出せないようだ。どんどん引き離してゆく。
「くっそおおお!」
 ドイツ語の罵倒が風に乗って届いた。すでに姿は見えない。
(よし、いまのうちに距離を稼ごう)
 ようやく一息ついて、これからのことを考え始めた。
(このまま東京まで走って……)
 あたりを見る。ランドマークタワーも通り過ぎ、いま首都高は川沿いを走っている。あたりの景色はいい気に下町めいたものになった。左手には幅10メート ルしかないような狭い運河、そして運河沿いにはトタン屋根の建物がびっしり並んでいる。モーターボートや漁船でつなぎとめられている。ずっと前方に大きな 川が見える。鶴見川だ。
 頭の中の地図と照合した。ここは子安のあたりだ。あと十キロで東京に入る。
 飛行機、新側から新幹線、どの方法で移動するのがいいかと考え、
 ずがずがずが! 
 何かの破壊される音が背後で炸裂した。ずがががが! 音はどんどん近づいてくる。
(いったい何が?)
「ベエエルウタアアッ!」
 アントンの絶叫。距離は後方二十メートル。また追いつかれた。一体どうやって。振り向いて愕然とした。思わず口が半開きになる。
 アントンは削岩機のような勢いで車を蹴りながら走っていた。左右の車にブーツを叩き込んでいた。キック力数トンに及ぶ蹴りを受けてベンツのドアは変形しカローラの窓ガラスはふっ飛びトレーラーの貨物室は打ちぬかれた。軽自動車にいたっては車体そのものが宙に浮く。
「げはは、オラオラ、どけってんだよ!」
 キックの威力におびえてか、車がどいてゆく。左右に道をあけてゆく。生み出された道をアントンのCB1300が百四十キロオーバーで疾駆する。
「な、なんてことを……」
 驚愕のうめきをあげるベルタ。すでにアントンは十メートルほどの距離に迫っている。自分のバイクはこれ以上加速できない。
 バックミラーの中でアントンがすばやく動いた。ジャンバーの前を開く。中はタックトップ一丁のようだ。脇の下に黒い塊を吊っているのが見えた。
(拳銃!)
 ベルタの心の中で警告の火花が散り、火花は0.01秒で全身の筋肉繊維にまで浸透。ベルタは考えるより先にバイクをジャンプさせた。ふわりと浮く車体。 銃声。タイヤの真下を銃弾がかすめ通る。回避成功。だが一発ではなかった。連続した銃声。たたた! たたた! タイプライターのようでもあり、釘を打って いるようでもある音。拳銃ではない、サブマシンガンだ。ベルタは戦術支援電子脳の能力を全開。アントンの運動能力にバイクの揺れまで加算して弾道を予測。 即座に予測結果を全身の筋繊維にフィードバック。バイクを小刻みにジャンプさせる。一発目、二発目、回避成功。黒髪を銃弾がちぎり取り、ハンドルのグリッ プカバーをえぐってゆく。ぎりぎりのところで三発、四発、五発、回避成功。その間もずっと反撃の方法を考える。リュックには拳銃が入っている。これで反撃 するか。チャンスは一瞬。こちらが狙いをつけている間には回避に回す能力が残らない。
 間断なくバイクを跳ねさせながら手を素早く動かしリュックに手を入れる。しかし遅かった。回避し切れなかった一発の銃弾が前輪を撃ち抜いた。タイヤが バーストする衝撃が伝わってくる。一気に車体が沈み込む。ハンドルが凄まじい力に振り回される。破裂したゴムタイヤは走る上でただの障害物でしかない。タ イヤがすべる。もはや暴れている。とっさにブレーキレバーを握りこむ。速度を落とし、シートから腰を上げて体重移動、なんとか転落を防ごうとする。
 そこにまた銃声。タンクの下で金属音。とたんにエンジン音が止まる。バイクが急減速。エンジンだ。エンジンを撃たれた。見るとシリンダーから真っ黒いオ イルを噴いている。そこにまた銃弾。銃弾の嵐。車体のあちこちに被弾。何の回避もできない。もはや速度は四十キロ、空気の抜けたタイヤが強烈な抵抗を生み 出し速度は見る見る落ちて、止まるほどだ。
「おらよっ!」
 蛮声ととともに、目の前にアントンの巨体が出現。視界の外でガン! と衝突音。バイクを捨てて生身で飛び移ってきた。次の瞬間、バイクごとアントンがベルタを受け止めた。そのまま片手で持ち上げられた。もう片方の腕が伸びてくる。
(やられる!)
 ベルタの脳内を恐怖と焦りが駆けた。このまま掴まれて格闘戦になったら万に一つも勝ち目がない。ウェートの差は圧倒的だ。では拳銃か。ダメだ、拳銃弾でアントンを倒すには正確に目玉に打ち込む必要がある。そもそも時間がない。抜くより向こうの動作が速い。
 だからベルタは身を投げた。全力でバイクを蹴って空中に飛び出した。
 落下感覚。体が回転。あたりが見えた。ちょうど川の上だった。大きな川。白いワイヤーで吊るされた橋が架かっている。川の幅は軽く二百メートル。多摩川だ。
 落下は一秒そこそこで終わった。ジャブンと水に飛び込む。視界が真っ青な水で覆われる。上のほうに、ゆらゆらと太陽が揺れている。反射的に有機脳の演算リソース再配分を開始、視覚を減らして聴覚に振り向ける。多摩川の水中を伝わる音が鮮やかに耳に飛び込んできた。
 ベルタ、両腕で水をかき泳ぎだす。一かきで水面に飛び出した。クロールに切り替えて泳ぎ続ける。数トンの腕力で水の塊を押し出し強引に前に出る。速度は一秒間で五メートル、トップスイマーの軽く二倍。
 息継ぎで顔を上げるとき、あたりを見て方角を確認。右に川崎、野原が広がって草が青々と茂っていた。左は東京側、ボートが係留されている。目の前には中 洲があって、そのまた向こうは川幅が広くなっていた。そちらが海だ。全力で水をかき、足をばたつかせた。水面を切り裂き、力強く進んだ。服がこれでよかっ たと痛感。丈の短いキュロットスカートでと半そでシャツだからこそ泳げる。
 じゃぼん、水音が轟いた。ざばあ、ざばあ、水を力任せにひっかく音が続く。
 奴だ。アントンが追ってきた。聴覚を研ぎすます。だが水音は近づいてこない。ゴボゴボッとあぶくの弾ける音がするだけだ。
(やはり、アントンは泳げない!)
 ベルタは自分の顔に微笑が浮かぶのを感じた。やっと勝機が見えてきた。記憶どおりだったのだ。フェルトへルンハレでの訓練でも、アントンは水泳を苦手と していた。人間の身体は水よりわずかに軽く作られている。だが筋肉量の極端に多いアントンは水より重い。そもそも水に浮かないのだ。
「もがっ……もがあっ!」
 ゴボゴボという音に混じってアントンの叫びが聞こえてきた。なんとか水面まで上がってきたのだろう。筋肉の力に任せて、浮かない身体を強引に引きずり上 げたのだ。理屈の上では可能。だが遅くなるはず。前進するための力を浮かせるために取られてしまう非効率。ヘリが飛行機より遅いのと同じ理屈だ。
「この……もがっ! もがっ……! クソがァァッ!」
 怒りと焦りにあふれた声。どんな盛大な水柱をあげているのがザブンザブンという音が重なる。どんどん遠ざかる。すでにベルタは数百メートルを泳いだ。中 州の脇を通り過ぎる。右を向けば川崎の工場群、トタン屋根の建物と煙突が見える。左を向けば羽田空港、金網の向こうに滑走路が広がりボーイングの大型機が 舞い降りている。
 あと少し、あと少しで外海に出られる。
 ここでアントンを振り切ったら、東京に行ってそこから長距離移動だ。
 希望に身をたぎらせて、腕を振り、水を掻き分けて進む。
「にがさん!」
 声がいきなり近くなった。ゴボゴボ音はもう混ざっていない。
 バカな。なぜ急に早くなった?
 クロール泳法を続けながら振り向くことはできない。背後から伝わってくる水音を分析。バシャバシという音は聞こえている。だが今までと音が違っている。 腕が力まかせに水面を叩く音ではない。もっと規則正しい音。そう、まるでオールで船をこいでいるかのような。何か大きなものが水面をすべる音も聞こえた。
(ボート!)
 そうだ、アントンはボートを手に入れたのだ。向こうの岸まで泳いでいってて漕ぎボートを奪った。速度は水泳を確実に上回る。体が重くとも問題ない。
 たちまち距離を詰められた。ザブンザブンと舳先が水を切り裂く音が接近。もう五メートルほどしか離れていない。
 息継ぎのときに目玉だけ動かして後方を見た。水しぶきの向こうに白い手漕ぎボート。アントンはボートに座り早まわしのような速度でオールを振るってい る。ボートをこぎながらでは前が見えないのでちらりちらりと振り向く。ベルタのほうを見る。眼が合った。アントンは白い歯をむき出して笑っていた。勝利を 確信した笑顔。
(ボートを破壊する!)
 ベルタは思いきり息を吸いこみ水中に潜った。再び視界が青い水で覆われる。頭上で揺らめく太陽から離れる。平泳ぎで潜ってゆく。首をめぐらす。ボートの船底が見えた。船底も白い。あたりを白い波が取り巻いている。
 船底に取り付いた。すでに道具はすべて手放した。素手でやるしかない。手を開いて船底に当てる。指を押しつける。筋力リミッターを解除。最大握力九百キ ロが指先一点に集中。木製にすぎない船底をぶちぬいてゆく。向こうまで指が突きとおる。船底の木材をちぎりとった。腕が入るほどに穴が広がる。ボコリボコ リと泡が噴いてくる。向こう側に水が流れ出す。一度、二度、三度、そのたびに掌ほどの面積の穴をあける。とどめに一発、穴に両腕を突っ込んで思いきり突っ 張った。メリメリと木材の分解音。ボートが丸ごとまっぷたつになった。
 船を蹴って平泳ぎで離れる。すでに酸素量は切れる寸前、浮上して大きく深呼吸。肺の中に新鮮な空気が流れ込む。眼が覚めるほどの爽快感。クロールに切り 替えてなおも泳ぐ。後方でドボンと水に飛びこむ音。アントンだ。まだあきらめていない。ベルタも泳ぎつづける。すでに東京湾に出ていた。見えるのは青い水 平線と自分のたてる白いしぶきばかりだ。どこまでもどこまでも泳ぎつづける。アントンのたてる水しぶきが追ってくる。なかなか距離が離れない。
(なぜ? 泳ぎがずっと速くなっている)
 アントンのボートを破壊した光景を思い出す。確かに沈めた。だが粉々にはしなかった。残った木片を浮き袋にして泳いでいるのだ。
(誤算だった)
 必至に腕を振って泳ぎつづけながら、ベルタは己の判断を悔いていた。船を沈めるだけではだめだったのだ。
 しかしもはや手はない。武器はすべて捨ててしまった。ただスタミナだけの勝負。一秒でも長く、一掻きでも多く泳げるか、それだけ。
 だからベルタは無我夢中で泳いだ。あたりは海ばかりで方向転換の必要はない。ときおり太陽の位置を確認して方角を確かめ、あとは体にまかせて機械的に泳いだ。何万回、何十万回も腕を振るってクロール泳法を続ける。
 やがてアントンの水音が遠ざかってゆく。
(よかった……)
 
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