ブラッドファイト 

 『蒼血殲滅機関』戦闘録

 1 
 
 2002年12月
 地方都市

 冬のある日、学校からアパートに帰ったら、姉が部屋のコタツで黒猫を貪り食っていた。
 身長百五十センチの小さな体をカーディガンとジーンズに包んだ姉は、黒猫をコタツの上に置いて、ポテトチップの袋のように大きく開いた腹からからピンク の腸を引きずり出して口に運んでいた。両親のかわりに敬介を支えてくれた細い手が血まみれだった。二十五歳の割に幼く見えるふっくらした顔の下半分も、血 に濡れていた。飛び散った血が眼鏡を汚していた。腸を噛みきる音が、美味そうに勢いよく嚥下する音が響いた。
 一瞬、何が起こっているのか分からなくて、敬介は硬直した。
 姉――愛美(まなみ)がゆっくりと顔を上げた。すでに窓の外は暗い。切れかけた蛍光灯の白い光に照らされて、うっとりと微笑を浮かべていることがわかっ た。レンズの向こうの瞳は涙に潤んでいた。目の焦点が合っていなかった。
「ねえ……さん?」
 震える声が、敬介の口から漏れた。混乱して、どんな言葉を喋ればいいのか判らない。それでも、「病気」という言葉が頭の中にひらめいた。テレビで認知症 の話をやっていた。排泄物を食べてしまう人の話だ。専門的なことは知らないけど、猫を食べてしまう症状だってきっとどこかにあるはずだ。きっと姉さんは心 の病気なんだ。あれだけ働けば病気になることも……
「おかえり……なさい。けい、すけ……」
 愛美の口から漏れた声は、途切れ途切れで平板なものだった。ますます、病気だと確信する。
 靴を脱いで、玄関に上がる。学校のカバンを置いて、深呼吸して話しかける。
「ねえさん……ね、おちついて?」
 どう言えば病院に行ってくれるだろう? 風邪を引いたとき、姉さんは無理やりにでも仕事にいった。こんな程度で休んだらみんなに悪いって。本当は熱が三 十八度もあって、それでも仕事を失いたくないから行ってたんだ。……家族を支えているのが自分の稼ぎだからだ。父さん母さんが亡くなって五年、姉は自分の 趣味や贅沢を全て捨てて、保護者の務めを全力で果たしてきた。それなのに弱音や愚痴を吐いたことは一度もない。そのかわりよく謝った。他の家みたいにゲー ムを買ってあげられなくてごめんね。他の家と違って貧乏で、ごめんね。こんな狭いアパートしか住ませてあげられなくて、ごめんね……滅私。それが姉の人生 だった。
 ……ぼくは。なにがなんでも姉さんを助ける。治す。そう思った。
 愛美は、猫の屍骸を指さした。赤い手で。
「すこし……まってね……けいすけ。わたし……これ……たべないと」
 黒猫の顔を両手で押さえた。細い人差し指を二つの目にめり込ませていく。ぷちりと小さな音がして眼球が砕ける。頭蓋骨の深くに左右の指を突き入れた。親 指と人差し指で眼窩をつかんだ。力を入れているらしく、猫の頭部がコタツの上で暴れる。
「あは……われないや……。ねこ、ずがいこつ、がんじょうだね。これじゃ、たべられない。やわらかそうなのに、なかみ、とってもやわらかそうなのに」
 眼窩から指を引き抜き、薄紅色のクリームがこびりついている指を舐め始めた。
 敬介はコタツの上に両手を突いて、愛美と視線を合わせて、早口で呼びかけた。
「あのさ……それ、猫だよね。姉さんがよく餌をあげてた、猫だよね。食べ物じゃないよね!? 姉さん、自分が何をやってるかわかる? 普通じゃないよ、少 しくらい休んでも大丈夫だから、病院に行って……」
「でも……」
 愛美はぼんやりした目つきのまま、顎に手を当てて小首をかしげた。そんな仕草は以前と何も変わっていなかった。
「でも……えいよう、とらないと。ちが、たりないから。いきたものを、たべないと。こども、こども、こどもを、つくるために。いきたものを、たべたいか ら……」
 何を言っているんだ!?
 説得が通じる状態じゃないのか。苦い絶望が胸の中に広がっていく。手足がわなないた。
「どうしても、じゃまするの? わたし、びょうきじゃ、ないよ。ただ、おなかが。おなかがすいて。ああ……」
 そこで、目を見開く。敬介をじっと見つめた。うるんでいた大きな目から、涙があふれ出す。
「……ここに、あったね。もっと、おおきな、にく。おおきな、えいよう」
 ふらりと、立ち上がる。
 愛美が飛びかかってきた。
 抱きつかれた。そのまま倒れた。台所に倒れた。頭が固いものに当たった。流しの角だろう。流しに背中を預ける形でずるずると倒れた。背中に回された姉の 腕がすさまじい力で抱きしめてくる。肋骨がきしむ音が聞こえた。視界いっぱいに姉の顔が見えた。ボロボロと涙をこぼしながら愛美は笑っていた。口から吐き 出される濃厚な血の臭いを感じた。愛美の頭の後ろでゴムがほどけて、長い黒髪が広がった。
「ねえっ……やめ……」
 腕を突いて起き上がろうとした。できない。姉の腕はあまりに強く、敬介の上半身を押さえ込んでいる。足で姉の体を押しのけようとした。できない。愛美の 腹に膝を当てて力を込めて押し上げても、体は冷たく、固く、まるで鉄塊のように動かない。
「けい……すけ。おいしそう。ちが、たくさん、ながれてそう」
 愛美が口を開いた。歯がことごとく血塗られていた。人間はこんなに大きく口を開けるだろうか、というくらいに開いた。首筋に、一直線に噛み付いてきた。
 反射的に首を振って逃れた。しかし激痛が耳ではじけた。視界には愛美の黒い頭。見えないが、耳を噛まれた事は判った。耳というのはこんなに敏感で、痛い ものか。薄い肉に歯が食い込んでいく感覚。何千もの焼けた針が突き刺されたかのようだ。熱い涙が溢れて、視界が滲んだ。ただ頭の中は痛い痛い痛い、姉のこ とも殺された猫のことも考えられず激痛だけが意識に満ちた。
 ごりっ、ごりっ、と軟骨を噛み砕く音。美味そうに喉を鳴らして飲む込む音。そのたびに痛みが倍加していく。
 もう動けない。
「ああっ……ああ……」
  うめきを漏らすことしかできない。
「けい……すけ。おいしい。こうきゅうな、そーせーじみたい」
 愛美の声に嬉しさが滲んでいた。高級なソーセージという言葉が敬介の記憶を呼び覚ました。昔から貧乏で、ソーセージといえば魚肉ソーセージか小さな物し か弁当に入れられなかった。皮の分厚くて弾力のある、掌からはみ出すほど大きなものを茹でてかぶりついてみたかった。スーパーのチラシに載っていたソー セージの広告を見てぼくは……ぼくは何を考えてる? 現実逃避だ。現実は消えてなくならないのに。でも信じられない。一体なにが。なんで姉さんがこんな。
「たりない……やっぱり、もっと、おおきな、ほかほかの、おにく」
 喉に、血でヌルヌルと滑る何かの感触。愛美が首に手をかけてきたのだ。きつく、きつく締められた。
「あっ……あっ……うええっ」
 蛙のような声であえいだ。息ができない。自分の心臓が凄まじい音で跳ねる。ありったけの力を込めてもがいた。だが愛美の腕はまったく揺ぎなく敬介の体を 抱え込んでいる。
「ねえ。けいすけ……」
 愛美の片言がどこか遠くの方で聞こえた。目を大きく見開いた。涙でゆがんだ視界の中で姉が笑っていた。ぼやけているはずなのに、笑っていることだけは はっきりわかった。姉がこんなにも激しく愉悦の表情を浮かべるとことを見たことがなかった。
 確信した。
 ぼくは。殺されて食べられる。
 視界がますます白くぼやけた。意識が薄れていく。
 その時だ。
 ガラスの割れる激しい音がした。
 視界が真っ白い閃光で塗り潰され、凄まじい重低音が鼓膜に突き刺さって腹の底まで掻き回した。体がフワリと浮いた。誰かが自分の体を持ち上げて運んでい るようだった。手足をバタつかせたが、空しく空中を引っ掻くだけだ。悲鳴を上げたつもりだが、聞こえない。喉が震えただけだ。
 どれだけ時間がたったのだろう。ようやく視力が戻り始めた。ゴシュウ、ゴシュウという奇妙な音も聞こえた。掃除機の音を何倍にも大きくしたような。
 焼けるように痛い目を開けると、ぼんやり室内が見えた。
 息を呑んだ。
 すぐ目の前に「装甲人間」がいて、倒れた姉を踏みつけていた。姉に銃を向けていた。
 全身を、鈍く銀色の光る装甲に隙間なく包んでいるのだ。頭にもフルフェイスヘルメットを被っている。ヘルメットのフェイスシールドはうっすらと黒く、そ の中にゴーグルまで装着して、顔はよく判らない。巨大な箱を背負っている。第一印象は、アニメで見た戦闘ロボットのようですらあった。アニメのロボットと 違うのは、たくさんポケットのついたベストを装甲服の上に着込んでいる点だ。
 装甲人間の銃は銀色で、先端にノズルのある奇妙な銃だった。銃からは真っ白い煙の奔流が吹き出して姉に叩きつけられていた。愛美は眼鏡のなくなった顔を 手で押さえ、ひっきりなしに大きく咳き込んでいた。口元からヨダレが溢れだし、手足を激しく痙攣させて暴れていた。髪もセーターも、小麦粉をかぶったよう に真っ白だ。
「ぐふぉ、ごほっ……うえっ……ごほっ……!」
 この咳き込みよう、催涙ガスか何かだろうか? しかし敬介のところにも煙は漂ってきているが、何も感じないのだ。
 そのとき初めて、「自分はどうなっている?」と思った。首をめぐらせて、心臓が凍りついた。
 玄関のドアが壊されていた。後ろにもう一体、装甲人間がいた。
 後ろのほうの装甲人間は、敬介の身体を軽々と持ち上げ、横抱きにして玄関のほうに後退した。
「目が覚めたか? 動くんじゃない」
 自分を抱いている装甲人間が声を発した。機械で増幅された声。女の声だった。
「はなして……!」
「動くと危険だ、すぐに片付くから待っていろ」
 そのとき、愛美に煙を浴びせていた装甲人間が声を発した。こちらは野太い男の声だ。
「こりゃフェイズ1ですね」
 自分を抱えている装甲人間が答える。
「ああ、『スケイル』も使えないとは。ハグレだな。早く見つけられて良かったよ」
「これなら、ノンリーサルで対処できます」
 装甲人間たちの喋りには緊迫感がまるで感じられない。当たり前の日常の業務、という印象だ。
「ぐええ……っ」
 涙を流して暴れながら、愛美はもがき、装甲人間の足の下から逃れようとする。
 装甲人間はすかさず顎を蹴りあげた。
「あっ!」
 敬介は叫んだ。頭の中で渦巻いていたいくつもの思い、恐怖、困惑、現実逃避願望が、「姉がかわいそう!」という気持ちに塗りつぶされた。
「やめてっ! ねえさんを! いじめないで!!」
 装甲人間は銃口をそらさない。
「おねがいっ! おねがいっ!」
 背後の女が、冷たい、落ち着いた声で答えた。
「……虐めてるんじゃない。助けているんだ。お姉さんの中にいる化け物を、追い出す」
「本当!? 姉さんは助かるのっ!?」
「助かるさ。その為に我々は来たのだ」
 そのとき男の装甲人間が緊迫した声を上げる。
「隊長! ヤツが変異します!」
 敬介は見た。
 真っ白い粉を全身に被り、髪を降り乱して起き上がる愛美の姿。
 立ち上がる愛美の姿が凄まじい早さで変貌していく。顔に、首筋に、何千という黒い水疱が生まれて覆い尽くす。すぐに水疱ではないと気づいた。鱗だ。大き さも形も違う不ぞろいの鱗だ。
 同時に体が膨張する。内側から巨大な力で押し広げられるかのように。 
 鱗の下の肉が脈動し、膨れ上がる。マネキンのようにほっそりしていた腕が二倍の太さになる。胸板が厚くなってゆく。カーディガンが膨らんで破れ、その下 のシャツ、Tシャツ、ブラジャーがいっぺんに破れて千切れ飛んだ。露になった体のすべてを、醜い鱗がビッチリと覆っていた。スレンダーだったはずの愛美 は、格闘漫画に登場する筋肉ダルマキャラのような体型に変貌していた。脚も膨張し、履き古したジーンズや下着も破れ落ちる。
 敬介は息をするのも忘れて見つめていた。どうしようもなくグロテスクな姿だった。
 一瞬で変貌を終えた愛美は、丸太のような腕を振り上げた。
 自分を抱き上げている女、隊長と呼ばれた女が、鋭く冷たい声を発する。
「対象、『スケイル』『ストレングス』使用。フェイズ2への移行を確認。リーサル装備の使用を許可」
「了解。装備をリーサルに変更」
 装甲人間が流れるような動作で動いた。煙を噴出する銃を背中の箱に突っ込んだ。箱の上部分が開いて銃を収納する。
「ウェポン2、イジェクト!」
 同時に箱から黒光りする銃が勢いよく突き出してきた。
 いままで使っていた、オモチャじみた銃とは違う。
 銃身は細長く、カバーがついている。引き金の前には細長い箱型の弾倉がついている。ショルダーストックはプラスチック製だ。 
 装甲人間は銃をつかんでストックを伸ばし、構えた。
 この銃を知っていた。テレビでやっていたアクション映画で見たことがある。M4カービンだ。M16ライフルを改良した銃で、やや射程が短いが、近距離で は高い命中精度を誇る。
 撃ち殺す気だ。
「やめっ」
 敬介は隊長の腕に抱き抱えられたまま叫ぶ。もがく。
 銃が火を噴く事はなかった。
 次の瞬間、愛美の膨れ上がった肩がぼきん! と大きな音を立てて外れた。手首が内側に曲がる。ばきっ。枯れ枝を踏み潰したような乾いた音。骨が折れる音 だ。そしてビチッ、ビチッ、輪ゴムがまとめて千切れるような音。体育の教師から聞いたことがある。アキレス腱が断裂するときはそんな音がするのだと。
 ばきん、肩が外れ。びちっ、体のあちこちで筋肉が切れて、骨が外れる。
「オッ……オオオオッ」
 愛美は口を開き、うめいた。目をむいて体を痙攣させ、その場に膝をついた。そうしている間にも体の各所から破壊の音が聞こえてくる。
 何が起こっているのか直感的に理解できた。
 膨張しすぎた筋肉がコントロール不能になって、自らの体を破壊しているのだ。
 倒れた愛美の体が急激にしぼみ始めた。風船が弾けて縮むような勢いだ。同時に体の表面から鱗が剥がれ落ちる。すさまじい早さで、何千という鱗が床に落ち ていく。腕、腹、背中。すべて。
 鱗の下から現れたのは、肉だ。蛍光灯の光を浴びてピンクに光る、筋肉組織そのものだ。理科実験室に置いてあった人体模型そのままに、筋肉はたくさんの筋 を束ねたものだった。あちこちで筋肉が裂けて血が滲んでいた。姉の顔面の鱗が数百枚まとめて落ちた。顔の肉はたくさんの筋が縦横に走っていた。真ん中に白 い鼻の骨が突きだしていた。体から透明な汁が滴った。
 敬介は理解した。ああ。読んだことがある。鱗というのは皮膚が変化したものなんだ。だから鱗が剥がれたら肉が剥き出しになるのは当然だ。
「 ぐっ、ぐえっ。ぐええっ」
  愛美は床の上をのたうちまわる。顎を一杯に開いて口からよだれを垂らして。剥き出しの肉が床で擦れて潰れて透明な汁を出す。
「やっぱりな。あれだけ銀を食らってマトモに移行できるわけがない」
 装甲服の男が冷たい声を発する。
 愛美はついに仰向けに転がった状態で動きを止めた。もう暴れる力も残っていないのか。
「げえええっー!」
 怪鳥じみた叫びをあげて、口を大きく開けた。バゴン、と乾いた音がして顎が外れる。筋肉の筋だらけの顔面の中でやけに目立つ眼球を剥き出しにした。目玉 がでんぐりがえった。
「ぐぼう」
 吐いた。顔を横に向ける力もないらしく、真上を向いたまま噴水のように吐しゃ物を吐き出した。
 噴き出すのは、グチャグチャに噛み砕かれた白い骨、太い麺のような猫の臓物。
 そして一緒に、青い、半透明な粘液が出てきた。
 泡を含んだ、コップ一杯ほどの青い粘液。
 ゴボリという音とともに飛び出した青い液体は、波打ち、触手をのばした。
 ただの液体ではない。生き物だ。巨大なアメーバだ。
  敬介は、心臓を握りしめられたような衝撃を覚えた。肌が粟立ち、震えが止まらない。
 この数分、身の毛もよだつ物を矢継ぎ早に見たのに。
 ――なによりもこのアメーバが恐ろしくて仕方がない。
 こいつは敵だ、けっして相容れない敵だと本能が警告していた。
 アメーバは姉の顔と首筋を滑り降り、床の上に降りた。その動きは鈍い。
「 『 蒼血』を確認。照射!」
 隊長が鋭く叫ぶ。
 男の装甲服の肩部分から、何かが勢いよく飛び出した。
 四角い箱だ。ズラリとレンズが並んでいる。大きな懐中電灯をいくつも縦に並べたような。
 カメラのフラッシュにも似ていると思った。
 想像は裏切られなかった。次の瞬間、レンズが目も眩むほどの紫の光を放つ。
 回復したばかりの目にまた痛みが走った。目を半分だけ閉じた。
 眩しい紫の光を四方から叩きつけられ、アメーバが悶える。波打ち、泡立ち、煙を吹いて、見る見る蒸発していく。跡形もなくなった。
「『蒼血』消滅を確認。武装解除」
 隊長の一言で、装甲服の男はM4カービンを背中の箱に収納する。
「これでもう安心だ」
 隊長が、敬介を床に下ろした。
 すぐに愛美に駆け寄る。
 全身の皮膚を剥がれ、薄紅色の肉汁を撒き散らして仰向けに転がっている。
 顔は目玉と歯だけが白い。目を覚ます気配もないが、胸が上下しているのに気づいて、はぁっ、とため息が漏れた。全身から力が抜け、その場にへなへな崩れ た。
 生きてる。ねえさん、まだ生きてる。
「ねえさんを! ねえさんをたすけてっ!」
 だが、果たして治せるのだろうか。もはや怪我人というレベルではない。いつだったかテレビで見た、東南アジアの市場で吊るされている『羽根をむしった 鶏』のようなのに。
「治せるとも。いいや、必ず治す。われわれ殲滅機関が、必ず!」
 その語気の強さに驚いて振り向いた。隊長の顔がすぐそばにあって敬介を見下ろしていた。ゴーグルで顔の上半分を隠しているが、口元だけでも表情はわかっ た。引き締まった、緊張と決意の表情。
「せんめつ、きかん?」
 オウム返しに尋ねる敬介。隊長はうなずいた。
「ブルーブラッド・アニヒレイト・オーガニゼイション。『蒼血殲滅機関』だ。邪悪な寄生生物『蒼血』を倒す。そして寄生された人間を救う。それが我々だ。 対『蒼血』組織の中で最大の物」
 寄生生物!
 そう聞いた瞬間、ようやくすべてが理解できた。あの青いアメーバこそが元凶だったのだ。姉の体を乗っ取って操り、化け物に変えたのだ。
 凄まじい嫌悪と怒りが込み上げてきた。よくもよくも姉さんを。体が激しく震えた。もうアメーバは倒されたのだと分かっていても、怒りは消えなかった。
 男のほうが声を掛けてきた。
「隊長、心肺に異常ありません。ショック症状だけです。治療難度はBマイナスです」
「よかったな。体と記憶操作を合わせて、3ヶ月もあれば治る」
「記憶操作?」
「当然だろう。『蒼血』のことは一般人に知られてはならない。きみの姉さんも記憶を消され、マスコミに関しても情報操作が行われるだろう。たとえば、変質 者に拉致されたとか。人間の皮を剥ぐ、とびきりの変態だな」
「……ぼくの記憶も消されるんだよね?」
「もちろんだ。こんな不愉快な記憶なんて棄てて、我々のバックアップのもと新しい生活を……」
「それじゃいやだっ!」
 叫んだ。力が抜けていたはずなのに一瞬で弾かれるようにして立ち上がった。
 隊長に顔を近付けて、一気に捲し立てた。
「それじゃいやなんだっ! 何もかも忘れて、姉さんを、こんなにしたヤツのことも忘れて、平和に! いやだっ! まだいるんでしょ!? こいつらの仲間、 まだいるんでしょっ!?」
 一瞬の沈黙を置いて隊長が答える。
「いるとも。日本国内だけで千は下らない。全世界で十万か二十万……。いまこの瞬間にも仲間を増やしている。かつては地球を支配していた化け物どもだ、そ う簡単には滅ぼせない」
「だったらっ! ぼくにもやらせてよ! こいつらをやっつけさせてよ! 仲間にしてよ!」
「おい、ぼうず……。バカなことは考えるな、死ぬぜ?」
 男が当惑の声を上げる。隊長はしゃがみ込んで敬介と目線を合わせた。
 そして、自分のヘルメットに手を当てる。プシュッ……空気の抜ける音がして、ヘルメットが外れた。
 ゴーグルも外した。
 露になった隊長の顔は、ベリーショートの黒髪で、軍人というイメージからは意外なほど白い肌で……タキシードでも着て舞台に上がったらよく似合うだろう 端正な顔立ちで……予想していたより、遥かに若い。二十代にしか見えない。薄い笑みを浮かべていた。
「わたしは殲滅機関日本支部、作戦局員。影山サキ軍曹だ。彼はリー伍長。わたしの片腕だ」
 隊長は名乗って、敬介の顔を覗き込んできた。目と目がしっかりと合った。彼女の黒い瞳がひどく深い。心の奥底まで見透かされそうだ。格好つけても無駄だ ぞ? と瞳で問いかけていた。
 拳をきつく握りしめて、見つめ返した。
 ……この気持ちは、ホンモノだから。
 隊長がフッ、と軽いため息をついた。
「……いい目をしているな」
「隊長まさか! 情報局になんて言われるか!」
「まあいいじゃないか。私は欲しいんだ。断固たる意志、強烈なモチベーションを持った隊員が」
「じゃあ、仲間にしてくれるのっ!?」
 部下が、ハア、と大袈裟にため息をついた。装甲板で着膨れした体で、器用に肩まですくめる。
「そりゃ感情移入する気持ちは分かりますがね。同じような境遇だし」
 隊長は小さくうなずいて、敬介をじっと見つめたまま問いかけてきた。
「だが、『殲滅機関』の戦闘局員は楽な仕事じゃない。命を落とす者も多い。今回のような弱い相手ばかりではない。フェイズ3や4の『蒼血』は車より速く走 り、片手を振るっただけで首を斬り飛ばす。……怖くはないのだな?」
 すうっ、と隊長の目が細められた。
 一瞬、この数分で起こったことを思い返した。猫を食っていた姉。怪物と化した姉。乱入してきた装甲服の男達。ウロコが剥がれ落ちた姉の無残な姿。そして 「蒼血」。人体に巣食うアメーバ。
 ……確かに怖かった。汗が噴きだして心臓が跳ねた。
「……怖いです……でも!」
 拳をぎゅっと握りしめ、隊長に向かって突き出した。
「……それ以上に! 奴らをやっつけたい! 許せない」
「そうか。それでいい。健全で正直だ。『怖くない』と言い張るようなら、適性はないと判断していた」
「隊長、そろそろ切り上げましょう。周囲の封鎖にも限度があります」
「わかった。ぼうずの事は上に話を通しておく。もしお前が選抜と訓練課程を通過できたら、また会おう」
 そう言って隊長は、装甲で覆われた手を差し出してきた。
 敬介は彼女の手を握った。
 冷たい金属の感触を想像していたが、滑り止めだろうか、小さなゴムの突起がたくさん掌に食い込んできた。きつい握手だ。ギリギリと手が締め付けられて指 がきしむ。
 それでも我慢して、握り返した。
「ぼうず、じゃない。敬介。天野敬介、十四歳です」

 2 

 二〇〇七年一二月
 長野県某所・加賀美家邸宅内

 あの決意の日から五年が経っていた。
 正式に作戦局員となってからは、一年。
 十九歳になった敬介は、対蒼血戦闘装甲服「シルバーメイル」に身を包み、作戦に参加していた。
 屋敷の分厚い壁、手を伸ばしても届かない高い天井の向こうから、連続した銃声が聞こえる。ゴオンとグレネードの炸裂音がして、天井にぶら下がる蛍光灯が 揺れて、明滅する。
 毛足が長い赤絨毯を踏みしめ、二人一組で歩く。曲がり角に立ち、相棒に背中を預けて自分だけ角を曲がる。
 曲がったとたん、影がすっ飛んできた。人間の限界を超えた瞬発力で飛び掛ってきたのだ。
 即座に、両手でしっかりと構えていた大型の銃……ミニミ・ライト・マシンガンMK49 mod0を連射する。通常のミニミはM16やM4カービンと同じ 弾薬を使用するが、これは目標の生命力を考慮して大口径化したバージョンだ。フルオートの反動を、シルバーメイルの筋力強化機構が微動だにせず受け止め る。秒間二十発、この銃の上限速度にまで増速してある。銃声は完全に一繋がりの、電気鋸にも似たギイイインという金属音だ。
 影は鋼鉄の暴風を浴び、全身いたるところに穴を開けて血を噴き出し、もんどりうって敬介の前に倒れた。
 屋敷の使用人だろうか、小柄で細身の体をタキシードで包み、顔や手は鱗に覆われている。鱗も高速ライフル弾の前には無力だった。下腹部に集中的に食らっ たらしく、大きく裂けてピンクの臓物があふれ出している。使用弾種は「炸裂銀弾(ESB)」。微細な銀粉末が体内に飛び散って「蒼血」に地獄の苦しみを与 えているはずだ。
 だが次の瞬間、怪物は上半身だけを分離、タキシードを翻して飛び掛ってきた。この能力はブラッドフォース「スプリット」だ。
 銃口を振るって、また掃射。だが怪物の肩を掠めただけだ。
 怪物は敬介に抱きついてきた。口を大きく開けた。顎が外れて蛇のように大きく開く。ナイフのような巨大な牙が口の中に並んでいる。腕が敬介の背中に回さ れる。首筋にかじりついてきた。銃から手を離して腕の力で振り解こうとする。だが筋肉肥大もしていないのに怪物の腕力は凄まじい。筋肉肥大ではなく、より 効率的に筋肉を強化するブラッドフォース「ストレングス2」を使っているのだ。シルバーメイルの筋力強化機構が全力を発揮して怪物の力とぶつかり合う。抱 きしめてくる腕の力はわずかに緩んだだけだ。装甲服のきしむ音がヘルメット内に響いてくる。
 援護を! と思って視線をめぐらした。だが後ろには相棒がいるはずなのに援護射撃が飛んでこない。
 舌打ちして、抱きしめられたまま床を蹴り、前に突進。あまりの加速度に一瞬だけ視界が暗転、短距離走の世界記録を塗り替える勢いで、クリーム色の壁に激 突。装甲服と敬介の肉体あわせて二百キロの衝撃力が怪物の後頭部が壁のコンクリートにめりこませた。
 絞めてくる力が少し弱った。腕を動かせる。
 とっさに右拳を、怪物の腹の下……体が真っ二つに裂けて腸がこぼれだしている「断面」に突き入れた。粘膜の感触。渾身の力で突き上げる。ヌルリと滑る太 く硬い腸の間を拳が滑り込んでいく。柔らかく薄い袋を突き破った。肺だ。激しく脈打つ肉の塊が拳に触れた。心臓だ。
 掌を開いて心臓に押し当て、鋭く叫ぶ。
「インパクトッ!」
 喉に当てられたマイクが音声コマンドをキャッチ、近接格闘兵装が作動。前腕部に内蔵された二本の長大な杭が火薬カートリッジの爆発で射出され心臓に突き 立つ。燃料電池が生み出す大電力がコンデンサとイグニッションコイルを駆け抜けて五十万ボルトに昇圧され、スタンガンの数千倍の大パルス電流となって心臓 に叩き込まれる。心臓がでたらめに暴れる。怪物の体が痙攣、筋肉の強制収縮に耐えられず手足の骨がへし折れる。口や鼻から煙が噴出。目玉が噴きだして眼窩 から零れ落ちる。
 手足を振りほどいて、怪物から離れた。両の目玉が外れた怪物は、口から涎を流してまだ生きている。だが壁にもたれかかり、腕を空中に伸ばしてブルブルと 震わせているだけで動けないようだ。あの日の姉のように、顔面から鱗が見る見る剥がれ落ちていく。
 まだ油断はできない。ミニミを拾って、至近距離から怪物に連射。銃身下の弾丸箱(アモボックス)から弾帯が銃に吸い込まれていく。吐き出された秒速千 メートルの弾丸は数十発、まんべんなく怪物の体に突き刺さって破壊していく。鮮血に染まったタキシードにたくさんの穴が開いた。顔面に飛び込んだ弾丸が脳 の中で衝撃波を発生させ、怪物の顔面が内側から弾けた。顎が外れて下に落ちた。
 まだだ、「蒼血」の本体を確実に潰さなくては。
 宿主ごと殺してしまうことに罪悪感はない。助けられないなら殺してやるのが慈悲だと、訓練課程で叩き込まれている。
「天野ッ」
 背後から切迫した声を掛けられ、とっさに振り向いた。
 背後を守っていたはずの相棒が仰向けに倒れていた。ズタボロのメイド服をまとった二体の怪物が彼の装甲服にのしかかっている。一体が首にしがみ付き、片 方は下半身を押さえ込んでいる。顔面はビッシリと鱗で固められ、頭の後ろで二本にまとめられた髪だけが人間のままなのが不気味だった。メイド怪物の手は巨 大なカギ爪になって装甲服に食い込んでいる。相棒はもがいているが、完全に押さえ込まれて身動きが取れないようだ。上半身にとりついたメイド怪物が片方の 手を上げ、カギ爪をフェイスシールドに突き立てた。フェイスシールドも防弾・対刃だが、他の部位よりは脆弱だ。貫通される可能性はある。
 さかさずミニミのフルオート射撃を叩き込んだ。相棒を巻き込むことは恐れない。「シルバーメイル」はライフル弾の直撃に耐えられる。
 上半身にいたほうのメイドの体が折れて鮮血が噴きだす。銃口を上にずらす。目を剥いてこちらを睨んだ鱗だらけの顔面に掃射が吸い込まれる。強靭な頭蓋骨 はライフル弾に耐え抜いた。だが目と鼻が弾けて真っ赤な噴水が上がる。もう一体のメイドが走って廊下の奥に逃げた。逃がす気はない。銃口を振った。火線が メイドを追う。確かに命中した。バランスを崩す。だが倒れそうな姿勢から体をのけぞらせ、跳躍し、窓を突き破って落ちていく。割れた窓から雪がチラチラと 入り込んでくる。
 敬介はまた舌打ちをした。
 まあいい。屋敷の外には、「蒼血」の逃亡を阻止するため重火器をもった火力支援チームがいる。彼らが片付けてくれるだろう。
 相棒が膝をついて起き上がった。自分のミニミを拾う。ヘルメットのフェイスシールドの向こうで髭面の男が恥ずかしそうに笑っている。目元がゴーグルで隠 されていてもわかる。
「何をやっているんですか、援護どころか……話にならないッ」
 睨み付けて、思わず、苛立ちの声をぶつけてしまった。
 この相棒は十五回も作戦に参加している。敬介より先輩なのだ。
 ……だが今の醜態はなんだ。なんという足手まとい。
 敬介の胸の中に、この男を蔑む気持ちが生まれていた。胸がむかむかして、口の中が乾いている。
 ……こんな奴がなぜいるんだ。俺達は戦士なのに。「蒼血」との戦いに全てを捧げなければいけないのに。危機感がなさ過ぎる。
 この五年、「蒼血」に蹂躙された姉のことを忘れた日はない。姉は現代医学の限りを尽くして治療を受けたが、それでも障害が残ってしまった。働くこともで きず、百歳の老女のようにたどたどしく喋る。
 姉をあんなにした蒼血を決して許さない。すべて滅ぼす。そのためにはもっと、もっと力が必要だというのに。
「すまねえ。ほんとすまねえ」
 ヘルメットの中で相棒が頭を下げた。敬介は喉まで出かかった罵倒を呑み込んで、
「いえ、いいんです。……それより、銃声が聞こえませんが」
 そうなのだ。さきほどまでさかんに、この館のあちこちで銃声と爆発音が轟いていたのに。
 正門から突入した敬介と相棒以外にも、窓から入ったチーム、屋上から入ったチーム、みんな戦闘を続けていたはずなのに。
「撤退したのでしょうか」
 今度は相棒の方が首を振った。胸元の無線機を操作する。
「撤退命令がねえ。……リーダー、応答願う。こちらデルタチーム。応答願う。……」
 すぐに応答があった。ハアハアと荒い息の混じった、苦痛を押し殺している、野太い男の声。リーダー……小隊長の声ではない。
「こちらアルファチーム。デルタ撤退しろ。撤退、撤退だ。作戦は中止だ。リーダーは戦死した。ブラボー、チャーリーは全滅した」
「なっ……」
 思わず敬介は声を上げてしまう。
 思えば最初から計算違いだった。長野県内で企業グループを経営するこの富豪一族が「蒼血」に汚染されているとの情報が入ったのは一ヶ月前。その後二週間 の調査で、潜伏「蒼血」はフェイズ3が一体、フェイズ2が二、三体と推測された。小隊規模の作戦部隊投入で殲滅できると判断された。
 だが作戦を決行してみれば、蒼血は予想より遥かに多かった。先ほど倒したメイドもタキシードもフェイズ3だ。屋敷に突入してから十体は倒しているだろ う。
 しかも、他のチームが全滅したということは。
 数の見込み違いだけでは有り得ない。根本的に次元の違う化け物がいるのだ。
 相棒が緊迫した表情で窓を指差す。
「窓から一気に行こう。階段は駄目だ」
 そう言って、装甲服の上に羽織ったベストから極太のザイルとロープを取り出す。
 確かに窓から逃げたほうが早いだろう。しかしそのためには、庭で待機する火力支援チーム・エコーに一報を入れなければいけない。黙って窓から飛び出せば 敵と誤認されて撃たれる。
 敬介は胸元の無線機を掴み、発信ボタンを押す。
「こちらデルタ。エコー応答願う。こちらデルタ。窓から撤退する。援護願う」
 まさかエコーまでやられてはいないだろうな、という嫌な想像で背筋が寒くなる。一瞬の間をおいて無事に声が聞こえた。
「エコーだ。援護を行う。東面、南面を援護できる」
 ベストから取り出した方位磁石をチラリと見て、敬介は応答する。
「南面の三階から降りる。援護……」
 そこまで言おうとしたところで、敬介は見た。
 まさに今降りようとした窓を破り、黒い大きな影が飛び込んできた。
 とっさに飛びのいた。シルバーメイルは生身の数倍の瞬発力で背後に敬介を吹き飛ばす。
 だがそれでも間に合わなかった。目にも留まらない速さで「影」が刃を一閃させる。腹部と胸に衝撃が走る。食らった、斬られた、とわかった。壁に体がめり 込んで止まった。
 飛び込んできたのは、服を纏わない、全身が黒光りする怪物。
 身長は二メートル程度か。全身を包むのは鱗ではない。熟練の職人が叩き出したプレートメイルのような、ツルリと曲面的な装甲だ。手足は細く長く、節くれ だっている。両腕の先端が大きな鎌になっている。顔面は逆三角形で、顔の下半分には巨大なペンチのような顎。上半分には大きな二つの……複眼。外骨格と複 眼、昆虫じみた肉体構造に変貌していた。蟻と蟷螂を混ぜ合わせたような姿だ。
 フェイズ4の「蒼血」だ。このフェイズは肉体の一部ではなく全体を変化させる能力を持つ。数十年生きて、宿主の肉体操作に習熟したモノだけがフェイズ4 に移行できる。
 銃声がすぐそばで炸裂した。相棒がミニミを発砲したのだ。
 昆虫人間の腹で、胸で、肩で、火花が弾ける。だが血が出ない。漆黒の装甲がライフル弾を弾き返していた。ESBを使っているせいもあるだろう。銀は鉛よ り比重が小さいため、通常のフルメタルジャケットより貫通力が低いのだ。
 昆虫人間が走った。弾丸をものともせず相棒に向かって駆け寄る。刃がひらめき、金属同士が激突するようなガリッという音。
「ぐあっ……」
 苦悶の声。相棒の腕が垂れ下がる。ミニミが床に転がった。膝をついた。装甲服の肘、両肩から赤い液体。血だ。人間の動体視力では捉えられないほどの一瞬 で、装甲の弱い隙間だけを切り裂いたのだ。ライフル弾を弾く装甲服をこうも簡単に。
 この武器ではダメだ。敬介はミニミから片手を離した。空いたほうの手を背中の兵装パックに伸ばす。口の中で小さく呟く。
「ウェポン2、イジェクト」
 背中の兵装パックから上に向かって筒が飛び出した。背中に手を回して筒をひっつかみ、ミニミの代わりにその筒を昆虫人間に向けた。
 リヴォルヴァー式拳銃を数倍に拡大して極太散弾銃の銃身を取り付けたような奇怪な武器。
 南アフリカ製のダネルMGL140リボルビング・グレネードランチャー。六発のグレネードを連発できる。最初の一発にはMP−HEAT(多目的対戦車榴 弾)が装填されている。爆発エネルギーの大半を一点に集中し厚さ三十センチの鋼鉄すら貫く兵器だ。昆虫人間の装甲すら紙同然のはずだ。
 即座に発砲。轟音。オレンジの火球が飛ぶ。通常のグレネードは一定距離を飛翔しないと炸裂しないように安全装置が付けられているが、「殲滅機関」は安全 装置なしで使っている。装甲服の着用が前提になっているから破片を浴びても大丈夫との判断だ。
 爆発は起こらなかった。ただ昆虫人間の腕が一瞬だけスッと消えて、その体に黒い破片がバラバラとぶつかった。爆発もせず床に落ちた。コショウ瓶ほどの円 筒と、円盤が転がった。
 一体何が起こった? 敬介は困惑に目を見開いた。昆虫人間は首をめぐらして、顔を敬介に向けて止めた。表情もなく目線の動きもないが、なぜか「睨まれ た」気がして敬介の心臓が跳ねた。
「……コンナモノハ、オモチャダ」
 声を発した。平板で甲高い、何十年も昔の合成音声のような声。声帯が人間のものとまったく変わってしまっているのだろう。
 ようやく何をされたのかわかった。飛んでくるグレネードを「視て」、「起爆しないように解体」したのだ。
 真冬の海に叩き落されたような悪寒が全身を包んだ。気持ちの悪い汗がどっと噴き出した。
 ……化け物だ。フェイズ4はこれほどまでに!
「ワタシノ、コドモタチヲ、ヨクモコロシテクレタナ」
 床に散らばるタキシードとメイドの死体に顔を向ける。大げさに首を振り、両腕を掲げた。
「オオ、カワイソウニ。ワタシノ、コドモタチ」
 鎌の片方を、敬介に向けた。
「オマエ、ユルサナイ。バラバラニスル。アタラシイコドモタチヲツクル、タイセツナエイヨウニ」
 どうすればいい……
 自分のダメージはどうだろう。腹を斬られたはずだが痛みがない。手を腹に当ててみる。指一本も入らないほどの細い傷跡があって、液体が流れ出していた。 冷却水だろう。このまま活動すれば服の中はサウナと化すが、すぐに死ぬことはない。
 だが逆転の方法がない以上、損害軽微でも意味がない。
「サア、ドコカラキッテホシイ? ウデカ? アシカ? ……スグニハ、シナサンゾ?」
 目線だけを動かして、昆虫人間の向こうにいる相棒を見た。相棒は床に膝を着いて崩れ落ちたままだ。装甲服から流れ出す血は止まる気配を見せない。すでに 周囲の絨毯を真っ赤に染めている。吸収しきれない血が溜まって、蛍光灯の明かりを反射している。
 だが、相棒の口元には笑いが浮かんでいた。目はゴーグルで隠されているが、それでも笑っているように見える。
 敬介が目を向けた瞬間、相棒が口を開けて、少し動かした。
 ……何?
 何か喋ろうとしている? 声を出したらばれるから唇の動きだけで?
 訓練課程で習ったことを必死に思い出した。作戦局員同士の連絡は基本的に無線で、無線封鎖中はハンドシグナルなどを用いる。基本としてモールス符号は 習っても、読唇術など……
 判らない。
「マズハ、アシダナ。アシヲヤレバ、ニゲラレマイ」
 相棒が思い切り大きく、大げさに口を開けた。唇の動きをゆっくりと。
 よし、これなら判る。 
 「ヒキツケロ」
 なんだ、何をひきつけろって?
 こいつをひきつけろと? そうすれば勝機があると?
 やるしかない。
 緊張にこわばっている顔面に、無理やり笑みを浮かべて、
「おい、少し話をしようよ。あんた、加賀見雄一郎さんだろ? この家の当主だろ?」
「ソウダ」
「あんた、いつから『蒼血』に寄生されてたの? いや……」
 生唾を飲み込んだ。
「一体いつごろから、その体をお使いになられていたのですか?」
「オウ?」
 突然の敬語に驚いてか、昆虫人間……雄一郎が妙な声を上げる。
「詳しく教えていただきたいのです。どうか、どうかお願いします。雄一郎様の戦いの軌跡を、このわたしに」
「シッテドウスル」
「私はいままで、殲滅機関で戦ってきました。皆さんを人間の敵だと思っていたのです。猛獣を駆除するようなものだと思っていたのです。ところが……今!  雄一郎様の力はあまりに強大でした。どう見ても、どう見ても……雄一郎様のほうが優れた生き物なのです。そう思えてならないのです。いままでのわたしはあ まりにも傲慢だったのです! どうかご無礼をお許しください!」
「キサマ……ワレラノナカマニ、クワワリタイカ?」
 「蒼血」に寄生されたものは脳を乗っ取られ、体の自由を奪われる。だがたいていの場合、宿主の意識が消滅するわけではないらしい。夢をみているような曖 昧な感覚ながら、自分が今何をやっているのかわかる。しかし体を動かすことだけはできない。
 それは大抵の人間にとって耐え難い苦痛だろう。啓介を含めて、「蒼血」のことを知った人間はたいてい、おぞましさに震える。
 だがごく稀に、自分が何もしなくても体が動いてくれる、そんな状況を有難がるものがいる。
 たとえ自分の意思を失ってでも超人になりたい、と考えるものがいる。
 人間辞めたいやつら。
 そんな人間を、演じるのだ。
「はい。はい、もちろんです。わたしは、もう殲滅機関など……狭い考え、人間の常識でしか、雄一郎様たちを推し量れない組織など……」
「ウソクサイナ。ホントウカ?」
 雄一郎は片方の鎌を上げたまま歩みだし、啓介に近寄った。
 顔が触れ合うほどの至近距離から、啓介の顔を覗き込む。
 精一杯、卑屈な愛想笑いを浮かべた……つもりだった。
 数十センチの距離で巨大複眼が、何千何万の「眼」が見てくる。
 瞳もない、ただのレンズの集まりなのに、「視線の圧力」を感じた。ぞわりぞわりと、何かが自分の中に入ってくる気がした。自分自身の鼓動がうるさくて仕 方ない。
「アヤシイナ……」
 鎌を、敬介の装甲服の首部分に押し当てた。
 駄目だ、もうごまかし切れない!
 その瞬間。
 銃声が轟いた。敬介と体を密着させていた雄一郎が痙攣し、のたうちまわってその場に倒れた。うつ伏せの状態だ。体の背中側を見て、あっと息を呑んだ。背 中もやはり黒い装甲で覆われているが……一箇所、首の真後ろに、装甲のない場所がある。そこに大きな破口ができて、血が噴き出していた。外見は昆虫なの に、血の色は人間と同じ真っ赤だ。神経もひどく傷つけたのか、手足を出鱈目にバタつかせ、立ち上がることができない。
 敬介が相棒を見ると、相棒は血まみれの腕でミニミを構え、微笑んでいた。
 この弱点に気づいた彼は、雄一郎が動きを止める瞬間を待っていたのだ。
「あり……」
「礼なんていい、とどめを刺せ!」
 そうだ。フェイズ4ともなれば生命力も凄まじい。フェイズ3ですら、体が半分になってまだ動いたではないか。
 敬介はミニミを拾い、震えている雄一郎の首後ろ、ピンポン玉ほどの破口に銃口を押し当てて連射した。ゼロ距離で撃ち込まれた銃弾が肉体を切り裂いてゆ く。弾が貫通することはなかった。強靭極まりない外骨格は弾を「内側で跳ね返し」た。だからこそ弾丸は体内を跳ね回り傷を深くした。細かった首が、銃弾の 圧力で押し広げられて二倍の太さになっていた。
 それでも両腕の大鎌を床に突き立て、立ち上がろうともがいた。上半身が持ち上がった。
「これでどうだ!」
 啓介は雄一郎の背中にのしかかり、グレネードランチャーを半分千切れた首に突き入れ、頭のほうに向けて押し込んだ。
 発射。二発目の弾は対人榴弾だ。破片をばら撒く爆弾だ。
 次の瞬間、発射されたグレネードは頭蓋骨の中で炸裂。さすがの外骨格も耐えられず四散した。あたりに白いペーストが飛び散る。脳だ。敬介のフェイスシー ルドも白い飛沫に覆われた。手でシールドをこすって落とす。雄一郎の頭部は、剥き終わった後のミカンの外皮のように裂けて広がっていた。頭の中身はまった くの空だ。
 自分の体を見下ろすと、腕も肩も白いペーストだらけだ。白いペーストのあちこちに青い液体が混ざっていることに気づいた。「蒼血」だ。
「照射!」
 音声入力で兵装管理システムが作動、シルバーメイルの肩から大型のライトが飛び出す。眩しい紫の光を発する。紫外線を照射された「蒼血」が煙を上げて消 滅してゆく。
 そうだ、たとえ宿主を倒しても、青いアメーバ本体を倒さなければ何度でも蘇る。
 青いアメーバが一粒残らず消滅してはじめて、敬介は立ち上がった。相棒のもとに向かう。
 相棒はすでに膝立ちですらなく、うつぶせに転がっていた。肩と首から流れる血は勢いを増すばかりで、シルバーメイルの周囲に真っ赤な血溜りを作ってい た。
 抱き起こした。相棒が土気色の顔で大げさな笑顔を作って、
「少しは先輩……らしいとこ……見せてやらねえとな」
「はい! あなたは立派な戦闘局員です! シルバーメイルを脱いでください!」
 もう彼は歩けないだろう。担いでいくつもりだったが、重量百キロ以上のシルバーメイルを着たままでは運べない。だが、相棒は弱々しく首を振った。
「いいよ、俺のことは放っておけ」
 絶句する敬介に相棒は、
「最近、どうも失敗が多くて……俺はどうも作戦局には向いてない……まあ、この怪我じゃあ前線復帰は無理だよ……これ以上、足を引っ張るわけにも……お前 ら優秀な奴に、任せる……」
「何をバカな!」
 たった今までこの男を低く見ていたのは確かだ。だが見殺しにするなどまったく問題外だ。
「服を開きます、パスを言ってください!」
 シルバーメイルは中の人間が気絶した場合に備え、外側から脱がせることもできるが、そのためにはパスワードが必要だ。
 相棒は目を閉じて答えない。
「くそっ!」
 悪態をついて、相棒のシルバーメイルに目を凝らした。正確には、肩のあたりから腰にかけて入っている装甲の隙間をじっと見た。この隙間を押し広げれば脱 がせることができる。
 ベストから大型ナイフを取り出して隙間に突っ込み、テコの原理で広げた。わずかに広がると、そこに手を入れてありったけの力で持ち上げる。
 バキバキ、と音を立てて、装甲の胸・腹部分が外れた。次にヘルメットを脱がせる。
「うっ……」
 敬介は思わずうめいた。相棒はシルバーメイルの下に全身タイツ状のインナースーツを着ていたが、ベージュ色のはずのインナースーツは真っ赤に濡れて、そ して肩口が大きく裂けていた。裂け目からはピンク色の筋肉組織と白い骨が覗いていた。骨に達するほどの傷を負って、なお銃を撃ったのだ。
 訓練課程で受けた初歩の医学を思い出す。人間が失ってよい血液の量は……そろそろ限界だ。
 体の下に手を回して、相棒の体をシルバーメイルから引きずり出した。ベストから救命キットを出し、肩の出血部にガーゼを押し付けてゴムバンドで縛って固 定した。
「いいって……いってんだろ……」
 うっすらと目を開けて不満げな声を発する相棒に、敬介は、
「黙っていてください」
 一言返して、相棒の体を片腕で抱きかかえる。相棒の体は完全に脱力しているので、どうしても体が「く」の字に折れ曲がって足をひきずる。仕方がないと諦 めた。
 ……死なせませんよ。
 胸元の無線機を掴んで、火力支援チーム・エコーに呼びかける。
「デルタだ。屋敷から脱出する。支援を」
 すぐに返答があった。
「エコーよりデルタ。脱出箇所を変更しろ。中庭に出ろ。中庭に装甲トレーラーを突っ込ませた」
「了解」
 なるほど、装甲トレーラーごと運んでくれば迅速に撤退できるだろう。
 中庭に出るなら、こちらだ。廊下に並ぶドアの一つを蹴り破った。この屋敷には似つかわしくない狭い殺風景な部屋、病院のような簡素なベッドがある。使用 人の部屋だろうか。部屋を突っ切って、窓から身を乗り出した。
 降りしきる雪だけが見えた。中庭は黒い闇の塊だった。今までずっと明るい場所にいたせいもあって、中庭を囲む建物の壁と窓以外、何も見えない。
「ノクトビジョン、オン」
 音声でコマンドを送る。シルバーメイルの暗視装置が作動し、敬介のかけているゴーグルに映像が浮かんだ。
 赤外線を増幅した映像だ。四角い庭の中に、大きな細長い箱型が見える。箱の前の部分が白く強く光っている。エンジンを掛けっぱなしのトレーラーだ。ト レーラーの近くに白い人影が四体。二人は身長ほどもある棒を手に持っている。もう二人は丸太のような極太の棒。棒はあくまで黒い。まだ発砲されていないか ら冷たいのだ。ふと思って相棒の体を見ると、すでにぼんやりとしか光っていない。体温が急激に低下している。一刻も早く治療が必要だ。
「こちらデルタ。負傷者一名を連れて行く。中庭に面した中央棟の三階から出る」
「オーケー、デルタ」
 返事がもらえるや否や、素早く行動。窓のアルミサッシにザイルを引っ掛けて、ロープを掴みながら窓枠を乗り越え……
 白い人影のうちふたりが、敬介に長い棒を向けた。棒から眩しい光が噴いて視界を埋め尽くした。同時にガガガガン、という重い連続的な銃声が鼓膜を叩い た。
 な!? と思った瞬間、胸と腹に衝撃が。油断していたところに体重の載った重いパンチを見事ぶち込まれた、という類の衝撃。呼吸が止まった。腸がでんぐ り返った。手が滑ってロープをつかめず、風を切って落下した。
 体が勝手に動いて、相棒を下にするまいと体を丸めて姿勢制御。落下はごく短かった。柔らかい土と雪にめり込んだ。
「ノクトビジョン、オフ」
 通常の視界が戻った。自分が抱えた相棒の姿を見た。
 屍とすら呼べない状態だった。首は跡形も無くなっていた。胴体にも腕が通るほどの大穴がいくつも開いていた。体内で爆発が起こったかのようだ。
 味方に射殺されたのだ。信じられない。当惑と混乱で体中の汗腺から冷や汗が噴きだしていた。心臓が踊りだしてとまらない。
 自分を撃った奴らは、自分達と同じシルバーメイルに身を包んで、ゆっくりと近づいてくる。
 二人が身長ほどもある巨大な銃を持っている。もはや「砲」と呼びたくなる巨大さだった。子供の腕ほどもある極太の銃身が、縦に二本並んで一つのストック に繋がっている。この二本の銃身が交互に発砲することで、通常型機関銃を遥かに上回る射撃速度を実現しているのだ。銃身の下にはポリタンクと見まごうよう な巨大な弾薬箱が取り付けられている。
 Gsh−23 PS(パワードスーツ)モデル。旧ソ連の23ミリ対空機関砲をベースに、手持ち式に改造したものだ。重量は五十キロを超え、タバスコの瓶 ほどもある徹甲弾を連射し、人体などプリンのよう粉砕してしまう。たったいま威力を実証したばかりだ。
 その怪物銃を、敬介に向けていた。
「な……なんで撃った!」
 叫んで、肋骨に激しい痛みを覚える。咳き込んで、さらに激しい痛みに悶える。間違いなく肋骨が二、三本は折れている。胸はもっとも分厚い装甲が施されて いるが、それでも衝撃を殺しきれなかったのだ。
 さらに二人がやってきた。この二人が持っているのは銃ですらない。グリップと引き金の付いた鋼鉄の円筒。中に螺旋状の溝が光っている。カール・グスタフ 無反動砲だ。
 なぜ撃たれる? 脱出する場所を確かに伝えたのに。
 チーム・エコーの四人は一片が五メートルほどの四角形を作って敬介を囲んだ。武器を敬介に向けたままだ。
 Gsh−23 PSモデルを持った二人のうち片方が、いたずらっぽく笑って言う。
「はは。わかりませんか?」
 ヘルメットの下の顔が音もなく変形した。顔が縮んでゴーグルが滑り落ち、皮膚が黒いツルリとした殻になり、巨大な複眼が膨らむ。
 フェイズ4蒼血。変身速度から判断して、かなり高位の。
「なっ……」
 昆虫人間と化した男は、金属的で耳障りな声を発する。
「コウイウコトデス。アナタ方ガ屋敷の中ヲ荒ラシマワッテイル間、我々ハ最大ノ火力ヲ持ツチームヲ……」
 そう言って、サッと片手を上げる。
 あとの三人も一斉に顔面が変貌した。こちらは鱗に覆われる。
「乗ッ取ラセテイタダイタノデス。ア、自己紹介サセテイタダキマショウカ。ワタクシ、『ブルーブラッド』トシテノ名は『ララージ』。ワガ家族ノリーダーヲ 務メテイマス」
「あり得ない……」
 敬介はうめき声を漏らした。
 そう、あり得ないのだ。「蒼血」が作戦局員の肉体を奪おうとすることは珍しくない。だがシルバーメイルは常に装着者の肉体状態をモニターしている。「蒼 血」が人間の脳に入り込んで支配すれば脳波が変わる。瞬間的に体温や心拍数も変化する。それらの変化を読み取って警告を発し、動かなくなるはずだ。まして 擬似昆虫形態になっているというのに。
「コノ着グルミノ安全装置デスカ?」
 そう言ってシルバーメイルの胸を叩く。
「人間ノ浅知恵ゴトキ、イツマデモ通用スルト思ッテハイケマセン。アナタ、我々ガナゼ『ブルーブラッド』ヲ名乗ッテイルカゴ存知デスカ?」
「知ってるさ。『貴族』だって言うんだろ?」
 殲滅機関と出会ってしばらく経ったある日、なんの気なしに英和辞典で「ブルーブラッド」を引いてみた。あのときの衝撃は忘れられない。ちゃんと載ってい たのだ。もちろん「寄生生物の意」とは書いていなかった。
 通常の英語でブルーブラッドは「貴族」。または「貴族の血統」。
「ソノ通リ。我々ハコノ惑星ノ支配者階級。貴方達ハ下僕ナノデス。タッタ百年バカリ優位ニアルカラトイッテ分ヲ忘レテモラッテハ困リマス」 
 蒼血の言葉を苦々しい思いで聞きながら、敬介は生き残る方法を考えていた。
 なんとか……なにか方法はないか。
 四人は、みな敬介から二、三メートル離れて立っている。体を起こして飛び掛るのは一瞬では出来ない。Gsh−23で滅多撃ちにされるだろう。
 先ほどのように、媚びて隙は作れないだろうか? いや無意味だ、あのときは相棒の不意打ちがあったからこそ時間を稼いだのだ。一人では何も出来ない。
 だが、なにか方法はあるはずだ……
 生唾を呑み込み、歯を食いしばって考えた。こんなところで終われない。
 姉のことを思った。辛いとき、苦しいとき、迷ったときには必ずそうしてきた。
 ……なに一つ悪いことをしていないのに、懸命に生きていただけだったのに、「蒼血」によって人生を破壊された姉さん。殲滅機関のことを知らされず、俺が 普通に就職したものと思って、帰りが遅いことを心配している姉さん。味覚がおかしくなって以前のように料理が作れなくなった姉さん。俺が弁当を買って帰る と、自分がダメだからこんなお金を使わせるんだと恥じる姉さん。もう弁当代なんていくらでも出せるのに。他人を責めるということのない姉さん。蒼血に感染 した記憶は消えているのに、「変質者に乱暴された」偽りの記憶に苦しみ続ける姉さん。今でもセラピーに通い続け、貰ってくる薬の量がだんだん増えていく姉 さん。
 そんな姉さんは。俺が死んでしまったらどうなるのだろう。
 だから。俺は死ねないのだ。
 動かずにいる敬介に、ララージと名乗った昆虫人間は一歩近寄ってくる。
「ドウシマシタ? 怖イデスカ? 命ゴイハ無駄デスヨ?」
 鱗顔の蒼血が口を挟んできた。
「ララージ様。さっさと殺して脱出を」
「イイエ。苦痛ヲアタエテカラデス。ワガ子ラヲ大勢殺シタ罪ヲツグナッテモラウノデス」
 敬介の腹に向けて撃った。
 目の前で眩くきらめくマズルフラッシュ。ゼロ距離で機関砲弾の直撃。
 凄まじい勢いで吹き飛ばされ、後ろに転がった。仰向けになった。絶対的な衝撃力が装甲を浸透し内臓を掻き回し押し潰す。激痛が体の中心を食い破った。灰 色の空が涙で滲んで見えなくなった。
「がっ……がっ……げぼっ……」
 蛙の鳴き声にも似た呻き声が自然と溢れる。内臓が暴れまわっている。間違いなく、どこかの臓器が潰れた。胃袋が強烈な吐き気を訴えてくる。だが吐けな い、ヘルメットを脱がずに吐くのは窒息の危険がある。視界も失われる。だから耐えた。熱病のように荒い息を吐いて、拳を握りしめて顔中を脂汗だらけにし て、耐えた。
 涙でぼやけた視界がようやく直った。
 昆虫人間ララージの黒光りする顔。自分のすぐ真上に立って覗き込んでいた。ララージ本人はもう銃を構えていない。数歩離れたところに鱗顔の蒼血がいて、 こちらは警戒を緩めず、Gsh−23の銃口を敬介の頭に向けている。
「オヤ。ソノ程度デスカ。モット苦シンデ下サイヨ」
 ギイギイと鼓膜に突き刺さるような高音を発して顎を左右に激しく開閉する。笑っているのだろうか。
 敬介はララージを睨みつけたまま、内心で毒づいた。
 ……三流悪役が。
 ……何が「この惑星の支配者階級」だ。
 ……ほんとに優れた存在が、いちいち威張るか? 勝ち誇るか?
 ……この油断、この倣岸、付け込む隙はある。
 まだ諦めない。諦めてなるものか。
 腹筋に力を入れようと試みた。そのとたん激痛がまた爆発する。だが耐えられないわけではない。
 できる。奴の気を一瞬そらせれば、何らかの手段でそらせれば、立ち上がって銃を奪うことは。
 23ミリで撃てばフェイズ4の装甲も破れるだろう。その前に俺が何発食らうか……耐えてみせる。奴らを根絶やしに、そう根絶やしにできるなら。
 どうやって気をそらすか……
 と考えた瞬間、敬介は見た。
 果てしなく雪の降りそそぐ灰色の空に、キラリと光る……
 十字架?
 十字架は凄まじい速度で落下して、ララージの隣に立つ蒼血の頭に突き刺さった。
 十字架ではないと気付いた。
 両腕を広げた人間。小柄な女の子だ。身長は百五十センチにも満たないだろうか、ほっそりした体つきで、上半身は薄手のパーカーを羽織っただけ。しかも パーカーの前を開けて縞々のシャツを露にしている。下半身に至ってはスポーツ着のように簡素なショートパンツを穿いただけだ。ショートパンツから伸びた二 本の素足が……膝のあたりから「レイピアを思わせる細い二本の剣」に変わって、鱗に包まれた頭をヘルメットごと貫通していた。剣が根元まで刺さっている。
 一瞬、その場にいた全員の体が硬直した。
 敬介は目を見開き、口も半開きにして、その少女に目を奪われた。なぜならその少女は。
 美しかったからだ。
 肉付きの薄い体のラインが美しかった。雪よりも白い肌が美しかった。あどけない丸顔が美しかった。固く引き結ばれた唇が美しかった。短く切りそろえられ た黒髪の下の、ぱっちりと大きな目が美しかった。水晶の塊から名工が削りだしたような、今まで見たこともない種類の美しさだった。非人間的な美しさ。肉を 感じさせない美しさ。究極の清純。天使。それなのに瞳は断じて無機的ではなくて、ハッとするほどの強い意志の光を湛えている。
 どうやって勝つか、逃げるか、合理的判断が脳から追い出された。この少女は何者なのか、とすら考えなかった。ただ息を呑んだ。
 少女はあたりを見渡した。
「あ、親玉はこっちか」
 大げさに眉をひそめる。
「撃チナサイ!」
 ララージが叫び、撃つ。残る二体の蒼血も発砲。腹の底まで響く重い銃声。Gsh−23が極太の火線を放つ。カール・グスタフが背後にオレンジの炎を噴き 出し、砲弾を発射。
 そのとき少女はすでに体を後ろに折り、自分の足が突き刺さる装甲服ごと倒れこんでいた。
「やっ!」
 気迫のこもった少女の声。敬介の見ている目の前で、少女は両手を地面に着き、回り踊った。
 以前スポーツ番組で見たカポエラの達人の動きを、さらに十倍にも早回ししたような動きで。両足で装甲服を串刺しにしたままで。
 自分の体よりずっと大きな装甲服を、棍棒のように、鉄槌のように超高速旋回させる。機関砲弾をことごとく遮り、カール・グスタフの巨大な砲弾を弾き飛ば す。飛ばされた砲弾が屋敷の壁に突き刺さって爆発、炎の柱を噴き上げる。高速回転は止まらない。そのまま竜巻のように突き進んで蒼血たちを蹂躙し、銃や無 反動砲を吹き飛ばした。
  二人の蒼血が、大きくバランスを崩して尻餅をついた。
 ララージだけが飛びのいてかわし、一瞬で装甲服の前を開いて飛び出す。少女に勝るとも劣らない素早さだ。地面に身を投げ出して転がって距離を取る。
「早ク脱ギナサイ!」
 何を言っているのかはわかった。「蒼血」の能力を用い、筋力や反射神経を強化して戦うなら装甲服はむしろ枷になるのだ。
「はっ!」
 尻餅をついた蒼血ふたりが、装甲服の前部を開いた。だが遅い。脱ぐ暇など無い。少女は足に突き刺さった装甲服を勢いよく吹き飛ばし、身軽になる。回転速 度をさらに加速。剥き出しの足――二本の剣が、蒼血ふたりの顔面をえぐった。鱗などものの役に立たない。目玉の位置を大きく深く、横一文字に斬られた。苦 悶の声を上げて顔面を手で覆う。
 足を開いて両足の刃を振り回し、銀の竜巻となって突き進む少女の前に、ララージが立ちはだかった。いつの間に変異させたのか、彼の左腕はなくなってい る。右腕だけが、異常に大きく、長く、包丁のように幅広の刀に変わっている。
「シャアアア!」
 奇声を発し、右手の蛮刀を振りかぶって斬りかかる。
 金属同士の激突が生み出す、甲高い音。
 少女が吹き飛ばされていた。空中で回転し、ララージから数メートル離れて着地。
 片足の膝から先、剣の部分がなくなっていた。だからもう片方の足だけで立っていた。
「やるね。見切られるとは思わなかった。フェイズ4としては相当鍛えてるね。もうすぐ5になれるかも。あとニ、三十年も修行すれば」
 挑戦的な笑顔を浮かべ、大きな吊り目を闘志に燃やしてララージを見る。
 だがその肩は激しく上下している。敬介の目には、苦痛を堪えているように見えた。訓練や実戦の中で、苦痛に耐えて無理やり笑う人間を何度も見てきた。ま さにそんな笑顔に見えた。笑顔の向こうに、引きつった心が透けて見えるのだ。
「剣術が好きなの? ボクも昔やってた。ちょっと親近感。ねえ、心形刀流って知ってる?」
 ララージは軽口に付き合わなかった。巨大な蛮刀を中段に構えなおす。間合いを計っているのか、少しずつ少女ににじり寄っていく。
「ナゼ邪魔ヲスルノデスカ」
「ボクを知らないの? ボクは……蒼血としての名は、エルメセリオン。キミは?」
 その名を聞いたとき、敬介の全身が震えた。
 知っていた。訓練課程の座学で教わった。同僚や上官の会話にも出てきた。
 ……このララージはフェイズ4。これより上に、「究極の蒼血」がいる。
 フェイズ5。百年以上の時を生き、宿主の肉体が持つ潜在能力を、完全に、一瞬にして引き出せるようになった存在。
 現在、全世界で十三体しか確認されていない。多くの手勢を引き連れ、その力は一国すら左右し、その存在は恐怖とともに語られる。誰が呼び始めたのか、子 供番組の悪役めいた二つ名までついていた。
 「魔軍の統率者」ゾルダルート。
 「神なき国の神」ヤークフィース。
 「黄金剣」アストラッハ。
 「混沌の渦」ナーハート=ジャーハート。
 そして……「反逆の騎士」エルメセリオン。
 蒼血でありながら蒼血を倒し、人間達を助けて回る、変り種中の変り種。
 エルメセリオンの名を轟かせたのは「アンデスの聖戦」だろう。蒼血に支配された南米の麻薬カルテル。全世界の麻薬の三割を扱い、地元警察も殲滅機関も手 を出せずにいたその強大な組織に、単身殴りこんで潰してしまった。
 敬介の震えは止まらなかった。恐いのではない。止められない興奮が沸き起こってくるのだ。
 話には聞いていたが、なんという強さ。この強さが俺にもあれば、こんな連中は全滅させられるのに。
「ヤハリ、ソウデスカ」
「ここに蒼血がいるって、気付くのが遅すぎたと思うよ。あと少しでも早ければ、こんな犠牲者は出さずに済んだ。殲滅機関の人たちだって、あと三十分早けれ ばみんな助けられたんだ。感じるよ。たくさんの命が消えたのを」
「ナゼ……」
「なぜ人間の味方をするのかって? 逆にボク訊きたいよ。なんで人間達を殺すの? こんなにも、こんなにも……」
 エルメセリオンは小さく首を振った。すうっと、頬を涙が伝った。
「知レタコトデス。我ラノ方ガ優レテイルカラ」
「そう思っているなら。ボクは手を緩めないよ。もしキミが、もしこれ以上の人間を殺さないなら。子供も増やさず、ひっそりと生きていくなら……」
 その言葉を遮り、ララージが言う。
「馬鹿ゲタ事ヲ。ソンナ事ヲシテモ殲滅機関ニ狩リ立テラレルダケ。ナラバ仲間ヲフヤシ、戦ウシカナイ」
 いつの間にやら、両者の間合いは三メートルそこそこにまで接近していた。エルメセリオンの「足剣」は刃渡り数十センチだが、ララージの蛮刀は一メートル 半はあるだろう。一足で斬りこめる間合いだ。
「そうなんだよね、結局そうなんだ。……だったらボクはやるよ」
 そう言うなり、エルメセリオンの上体がピタリと静止した。全力疾走したかのように上下していた肩も。揺れていた髪も。苦しみの表情が消え、大きな瞳に澄 んだ、落ち着いた光が宿った。
 そして音もなく、膝から先の剣が再生した。魔法のように鮮やかだ。
 ブラッドフォース「ファンタズマ」。細胞同士の結合を断ち、細胞の全能性を回復させることで、体を構成する六十兆の細胞をブロックのように配列変換。肉 体損傷を一瞬で回復させる。
 敬介は気付いた。この少女は。エルメセリオンは。足を斬られた苦痛を堪えていたのではない。
 ――悲しみを、堪えていただけだ。
「シャアアッ!」
 ララージが叫び、踏みこんで、
 全く同じ瞬間、エルメセリオンは両腕を突き出し、
 撃った。
 確かに素手だったはずの両手から、高速の弾丸が放たれ、ララージの顔面めがけて殺到。
 ララージ、振り下ろすはずだった蛮刀を顔の前にかざして防御。
 その隙をついてエルメセリオンが疾駆。距離を詰める。徒手の間合いに。
「シャッ……」
 ようやく接近に気付いたララージが剣を振るう。だが近すぎる。速度が乗らない。軽く体を振って交わしたエルメセリオンは、ララージの脇を走り抜けながら 跳躍、首の高さまで跳ね跳んで足の剣を振るった。
 銀の閃光が弧を描き、ララージの首が飛んで、雪の上に転がった。切断面から血が高くほとばしる。力なく倒れる。
 着地したエルメセリオンはすぐさま、転がっているララージの首のもとに駆け寄り、足の剣で勢い良く踏みつけた。複眼を貫き、奥へ奥へと刃が入る。顎がガ チガチと激しく動いた。まだ生きている。エルメセリオンは足の刃を丸く動かし、頭の中身をえぐる。顎が動かなくなった。
「あとは……」
 そう言ってエルメセリオンは周囲を見渡す。目玉を潰された二体の蒼血が、よろめきながら建物の中へ消えようとしていた。
 両手を向ける。パーカーの袖から覗く両手は、異様な姿の「銃」に変形していた。赤黒い血管と筋肉が盛り上がり、螺旋状に巻き付いて形づくられた「肉の 蕾」とでも言うべきものだ。 
 空気が抜けるような軽い音。「蕾」から弾丸が発射された。二体の蒼血は屋敷の窓を目前にして倒れる。手足から血を流し、バタつかせている。関節だけを正 確に撃ち抜いたのだ。四発撃ったはずなのに、銃声は一つにしか聞こえなかった。
 ブラッドフォース「マッスルガン」。筋肉の収縮力で体液を発射する「水鉄砲」だ。だがこれほど強力なマッスルガンは見たことがない。一般的には拳銃程度 の威力で、連射も効かず、しかも水滴は不定形のため弾道が安定せず、命中率が低いのだ。
 二体を倒したエルメセリオンは、しばらくその場に立ち尽くした。中庭のど真ん中にある装甲トレーラーをじっと睨んでいる。
「……うん、もういないか」
 敵を倒し終わったからどうか確認していたらしい。両手の「蕾」がほどけて縮み、もとの細い手に戻る。両足の剣も、普通の人間の足に戻った。素足で雪を踏 みしめる。冷たさを感じる素振りもない。
「ねえ、キミ」
 はじめてエルメセリオンが敬介に目を向けた。
「ノンリーサル装備が欲しいんだけど。あの銀をプシューっていうやつ。あれはどこにあるの? 使ってくれると嬉しいな。ボクには使えないから」
「装甲トラックの中に……どうするんだ、あんな物」
「決まってる。あの人たちを助けるんだよ」
 屋敷の前で突っ伏して痙攣している、たったいま自分が倒した蒼血を指さす。全身タイツに酷似したインナースーツ姿で、手足を投げだして震えている姿は惨 めで、滑稽ですらあった。
「目と手足しか潰してない。まだ命を助けられるかも」
 助けられる。その言葉をきいて、強烈な違和感に眩暈がした。
 こいつは蒼血だ。敵なんだ。
 こんな奴の言うことをきいていいのか。
 だが、確かに言った。まだ助けられるから助けると。
 人間の命を大事にしているのか?
「ダメならいいよ」
 そう言って、倒れて蠢いている蒼血のもとに歩み寄り、耳に手を当てる。
「がっ……あがっ……あがぁ……っ」
 奇声を発してますます悶える。エルメセリオンは片手で体を押さえつける。
 やがて、耳から青いアメーバを引きずり出した。寄生体を失ってブラッドフォースが解除され、すぐさま顔面の鱗が剥がれ落ちて、大きく痙攣した。姉と同じ だ。
「なっ?」
 驚く敬介をよそに、エルメセリオンは蒼血の上に覆いかぶさった。唇を重ねた。
 やはりこいつは敵だ。自分の断片を、「子供」として植えつける気だ。
 這いずって、近くに転がっていたミニミを拾う。荒い息をしながら、エルメセリオンの頭に狙いをつける。
 どん、と射撃した。
 エルメセリオンはキスの体勢のまま顔を起こしもせずに片手を振るって弾丸をはたき落とした。
「むぐっ。馬鹿なことはやめて。邪魔したら助からないよ、この人」
 顔をあげて敬介をにらむ。敬介は愕然とした。たったいまエルメセリオンがキスをした隊員の、大きくえぐられた目が……魔法のように、復元する。傷が収縮 し、眼球が盛り上がって瞼に覆われる。鱗が剥がれてむき出しになった顔面を、真新しい皮膚が覆っていく。
 もう顔には何の傷跡もない。目をこらすと、肘や肩の銃創も塞がっている。安らかな表情で眠っていた。
 エルメセリオンはもう一人にも同じことをした。耳から蒼血を寄生体を引きずり出し、キスひとつで肉体を再生させた。
 たった二、三十秒で終えて、両手にアメーバを載せて戻ってきた。敬介の体のそばにしゃがみ込む。
「はい、これに紫外線。できるよね?」
「……照射」
 敬介の言葉に応じて肩から紫外線ライトが現れ、眩い紫の光でアメーバを焼き尽くす。
「だいたい治したよ。後遺症がないとは言いきれないけど。殲滅機関の医療局に期待するしかないね……あ、ところで」
 エルメセリオンが敬介に顔を近づけた。
「キミも怪我してるよね。音からして肋骨?」
 先ほどのキスが脳裏に蘇る。背筋を極寒の塊が滑り降り、肌が粟立つ。
 こいつは蒼血だ、敵性生物だ。本能レベルで刷り込まれた危機感。
「やめろ! 近寄るなっ!」
 尻餅をついたままズルズルと後ろに下がる。
「あ、ひどいな。ボクいちおう命の恩人なのに」
 エルメセリオンは眉をハの字に下げ、頬を不満げに膨らませる。先ほどの緊張とは打って変わった、幼い態度だ。
「子供なんて植えつけないよ。『ファンタズマ』を応用して体を治すだけ」
「信用できるか。俺たちは、お前のことを信用しているわけじゃない……」
 その通りだった。蒼血を倒す蒼血・エルメセリオンを、殲滅機関は味方とは考えていない。あくまで「蒼血の仲間割れに過ぎない」という考えだ。その結果、 人間を助けているように見えるだけだと。銃火をまじえたことも一度や二度ではない。
「嫌われるのは慣れてるけどね。でもそこを押して、お願いがあるんだ。
 ボクをキミたち殲滅機関の仲間にして欲しい。キミたちと一緒に戦いたい。
 ボクひとりじゃ、もう無理なんだ。情報収集能力の問題だよ。他のフェイズ5と違って、ボクには部下も仲間もいないから。駆けつけたら手遅れで、犠牲者が 何百人も出てるとか。悔しい思いを何度もしてるよ」
「だから俺たちの情報力が欲しい? 虫のいい話だ。俺たちはお前を決して信用しない。諦めろ」
 殲滅機関がエルメセリオンに強い猜疑心を抱く理由は、悪しき前例があるからだろう。
 フェイズ5の一体、『神なき国の神』ヤークフィース。『この惑星の支配種族』を自称する蒼血たちだが、近年もっともこの自称に近づいたのはヤークフィー スだと言えるだろう。ソビエト連邦という、世界有数の大国を手に入れてしまったのだから。
 時に1942年初頭、第二次世界大戦の真っ只中。ソビエト連邦は存亡の危機を迎えていた。首都モスクワの陥落こそ免れたものの、ドイツ軍の猛攻により前 線の部隊を軒並み撃破され、数百万の死傷者を出していた。工業地帯を奥地に疎開させて猛増産を行っていたが、まだ戦力の回復はならない。暖かくなると同時 に、再びドイツ軍の攻撃が始まるだろう。
 そんな国家的危機の中、ソビエトの中枢クレムリン宮殿に一人の男が現れた。あらゆる警戒網を幽霊のように通り抜けて。
 彼は居並ぶソビエト首脳部を前に数々の超常能力を披露し、言った。
『私はヤークフィース。この偉大な国を救うために役立ちたい。協力させてくれ』
 首脳部は蒼血の危険性を知りながらも飛び付いた。ヤークフィースは自らの眷属を呼び寄せ、兵士に寄生させ超人部隊を作った。多くの兵士たちの傷を癒し た。彼の肉体を研究した科学者により、ソビエトの医学は飛躍的に発達、人体を強化する手段が数多く開発された。人間以上の知性で作戦を立案し、敵の作戦を 予測した。彼自ら戦場に出てドイツ軍の高官を暗殺して回ることもあった。
 彼は大戦を通じて百万の兵に匹敵する貢献を成し遂げた。スターリン極秘回想録には『ヤークフィースはアメリカの援助以上に役に立った』と明記されてい る。
 ソビエトがようやく戦争に勝ったのちも、ヤークフィースは蹂躙された国土を復興させるために尽力した。こうして恩を売りながら彼は、近づいてくる共産党 幹部を一人また一人と慎重に懐柔し、時には弱味を握って脅迫し、闇の人脈を広げていった。大戦が終わって二十年が経ったころには、彼はソビエトの実質的な 支配者になっていた。歴代の書記長は彼が笛を吹くままに踊る人形だった。共産党だけに権力が集中し、いかなる対抗勢力もチェック機構も存在しないソビエト では、一度膨れ上がった病巣を取り除く術はなかった。
 最後の書記長ミハイル・ゴルバチョフだけは彼の支配に立ち向かい、ソビエト連邦そのものを道連れにしてヤークフィース一党を駆逐することに成功するが、 それはまた別の物語である。
 だから殲滅機関に代表される対蒼血組織は、蒼血と交渉しない。降伏しても捕虜にとらず殺す。
「それは分かってる。ボクも何度か、仲間になりたいって申し出て、そのたびに撃たれてるから。だからキミに頼みがあるんだ。ボクが信用できるって証言して 欲しい。ボクと殲滅機関の橋渡しをして欲しいんだ」
「なっ」
 痛みすら超えた怒りに、敬介は勢いよく身を起こして怒鳴り付けた。
「俺に裏切り者になれってのかよ!」
「でもキミ、思ってるでしょ。『この力があれば』って。『自分にこんな力があればあれば蒼血をもっと倒せるのに』。ボクを仲間にすれば、ずっと大きな戦果 が得られるよ?ねえ、ボクはいろんな人間を見てきたよ。だから分かるんだ。キミの目は『悔しがってる目』。自分には力がないのが歯がゆくてしかないって。 ガキ大将ににこてんぱんにされて、膝小僧から血を出して、それでも泣かないで家に帰ってくる男の子の顔だよ。蒼血をもっと倒したい理由、勝ちたい理由があ るんだよね?」
「だからって! 店を盗られるわけにはいかねえよ!」
 エルメセリオンは大きな目を丸くして、小首をかしげる。
「軒先を貸して母屋を取られる、って言いたかったの?」
「細かい言葉遣いなんてどうでもいいだろう! 俺はずっと戦いだけやってきた。他の勉強なんてやる暇もなかった。その俺が、俺の勘が、お前を決して信じる なと!」
 エルメセリオンは眉を寄せた。生真面目な表情で、大きな澄んだ瞳で見つめてくる。
「具体的に、ボクの何が信用できないの?」
「それは……」
 言いよどんだ。生理的嫌悪感だけか? いや違う。
「これは脅迫だろうが。お前はどうしようもなく強い。俺は常人で、しかも怪我人。圧倒的な力を突きつけて、にっこり笑って『お願い』って。そんな胡散臭い 話があるか」
「そっか。それは言えてるね。脅迫じゃあ意味がないよ」
 大げさにうなずくと、エルメセリオンは口元に手を当てた。
「あんまりじろじろ見ないでね……けっこう恥ずかしいんだよ……もごっ」
 敬介は目を見張った。エルメセリオンが口元から手を離すと、なんと手の中には青い半透明のアメーバが納まっていた。粘ついた糸でエルメセリオンの唇とつ ながっている。
「やっぱり恥ずかし……さあ。これが寄生体の本体。これなら脅迫じゃないでしょ? ボクが信用できないなら、その肩のライトをピカッとやれば殺せるよ?  立場いっしょだよね?」
「な……な……」
 まともな言葉を発することもできず、敬介は小刻みに首を振る。
 『あり得ない』。頭の中はその言葉で一杯だ。
 蒼血は人間を蝕む凶悪な生き物だ。絶対の敵だ。心の一番深いところに刻まれていた常識だった。事実、遭遇する蒼血はみんな化け物だった。言葉を喋って も、人間らしい心など微塵もない。
 だが、それが。こんな。エルメセリオンは、いとも簡単に自分の絶対的弱点をさらけ出している。心臓をつかみ出すに等しい暴挙だ。敬介という人間を信じて いるのだ。命を懸けてもよいほどに、真剣なお願いをしているのだ。抱いてきた固定観念が木っ端微塵に砕けた。
 それに、おかしい。体の中から寄生体が出て行けば、体は支配を解かれ、倒れるはず。こんな風に笑って喋れるはずがない。
「まさかお前。脳を支配されてないのか。人間の意志で喋ってるのか」
 そう言われると手をパンと叩いて明るく微笑んだ。
「やっと分かった? うん、そうなの。エルメセリオンは、ボクに戦う力をくれているだけ。たまに交代はするけど、いまのボクは人間の心で動いてる。だから ボクは、正確には『エルメセリオン』じゃないんだ。エルメセリオンはこっち」
 彼女は掌の中のアメーバを敬介に向けた。
「ボクの、人間としての名前はリリコ。凛々しいと書いて、凛々子。そう、日本人だよ。東京府出身。こんな体になって八十四年。だから計算上は九十九歳なん だけど、十五歳って思ってくれると嬉しいな」 
 ますます衝撃的だ。脳を奪わず、自由にさせている蒼血がいるなど。
 蒼血と手を取り合って、人を救うために、八十年も戦い続けている人間がいるなど。
「キミはきっと理性的な選択ができるって、信じてるよ」
 エルメセリオン……凛々子は、明るい柔らかい声で言う。その声が、きらきらと生気にあふれた瞳が、蒼血のイメージをますます破壊していく。
 ふいに気付いた。心臓が高鳴っていることに。自分はこの少女に敵意を抱けない。好意すら芽生えている。この痺れるほどの強さと、勇気に。
 理性は、こいつを信じるなと今も叫び続けているのに。
「……べ、別にお前を信用するわけじゃない」
 やっとの思いで言葉を搾り出す。視線を彼女の瞳からそらし、
「道具として利用価値があると思ってるだけだ。いいよ、お前が味方だと証言する。売り込んでやる。一平卒ごときの意見がどれだけ役に立つか分からないけど な」
「やったあ!」
 飛びついて、勢いよく抱きしめてくる。とたんに肋骨の痛みが爆発した。
「ば、馬鹿ッ……げほっ……」
 咳き込むたびに痛みが倍加していく。
「あ、ごめん」
 凛々子は素早く寄生体を呑み込むと、敬介フェイスシールドに手を当てる。拳銃弾程度なら弾き返せる強靭なシールドを、軽々と外して投げ捨てる。その下の ゴーグルも外した。むき出しになった敬介の顔に、自分の顔を近づけて。
「やめっ……」
 何をするのか理解した敬介が呻く。だが凛々子は顔を傾けて、敬介の唇に唇を重ねる。半開きになっていた敬介の唇から何かが、柔らかく、滑らかなものが侵 入してくる。
 頭の中に、凛々子の声が響いた。
『これで痛くない』
 その通り胸の痛みが即座に消えた。そればかりか手足の感覚がなくなる。意識がぼうっとする。疲れ果てて暖かい寝床に潜り込んだときの、心地よい、安楽な 眠気が押し寄せてくる。凛々子の唇の柔らかな感触だけを最後まで感じていた。
 
  3

 相模原市。
 人口七十万人を数え、神奈川県三大都市の一つとも呼ばれるこの都市は、いくつもの米軍基地を抱える「基地の町」でもある。
 たとえばJR横浜線沿いに細長く伸びている「アメリカ陸軍・相模総合補給廠」。実に二百万平方メートルに及ぶ敷地を持ち、小銃や食料をはじめとする多量 の補給物資を備蓄している。
 だが電車内から基地を見たものは首をかしげることが多い。
 フェンス越しに見える基地には、確かに戦車が入りそうな巨大倉庫が何十と並んではいるが、倉庫と倉庫の間には何十メートルも隙間があるのだ。しかも三分 の一ほどが、建物すらない草ぼうぼうの空き地だ。
 土地を無駄に使っているのではないか。
 交通の妨げにならないよう、一部だけでも日本に土地を返還するべきだ。
 そう主張する者も多い。
 だが、返還が実現することはあるまい。
 ここの地下いっぱいに、人類の砦・殲滅機関日本支部が築かれているのだから。

 4

 2007年12月29日
 殲滅機関日本支部

 日本支部の下士官食堂に、敬介は入ってきた。
 午後七時。自主トレーニングを終えて、飯でも食おうかと思っているのだ。
 地下ゆえの圧迫感を感じさせない、天井の高い食堂を歩いていく。
 食堂のテーブルは「勤務服」と呼ばれるノーブルグレイの開襟ジャケットを着た隊員で七割がた埋まっている。夕食だけでなく、コーヒーカップを前に談笑す る人々も多い。ここは談話室や喫茶店の役目も兼ねているのだ。
 だが、みんな敬介が前を通ると黙ってしまう。冷たい目線を敬介に浴びせる。
 大ベテランで知られる初老の軍曹など、あからさまに蔑みの目で睨んできた。
「なにか?」と問う気はしない。すでにわかっている。エルメセリオン=凛々子と出会ってから一週間、さんざん同僚に言われて、もう理由を理解している。
 ……敵を招き入れやがって……!
 ……たらしこまれたか、こいつ!?
 そんな目だ。敬介はたった数時間の取調べを受け、その中でエルメセリオンの必要性を述べただけなのだが、いつのまにか話に尾鰭が付いて「涙ながらにあの 女を弁護した」ことにされている。
 そうではない、と最初は反論したが、敬介は普段から同僚とコミュニケーションをとらない。自分の考えや気持ちを言葉で伝えることに慣れていない。どう言 えばわかってもらえるのか困り、もう反論を諦めてしまっていた。
 セルフサービスのカウンターに行って、ビーフシチューとパンと牛乳とサラダを取る。「今週の新メニュー」と2ヶ国語で書かれている張り紙に一瞬目をやる が、すぐに目をそらして、機械的な動作で席を探す。はっきり言って料理には興味がない。栄養のバランスが取れていればいい。訓練をより効果的にしてくれれ ば尚いい。味を楽しむなど、自分には関係ない世界の出来事だ。
 座って食べ始めると、「ここ、いいか?」と声。
 顔を上げると、身長百七十以上ある大柄な身体を訓練で鍛え上げた、黒髪でベリーショートカットの女性。
 「隊長」だ。あの五年前の運命の日、家に突入してきた隊長、影山サキ。いまは曹長になっている。
 反射的に身体が動いた。立ち上がり、踵を揃えて敬礼。
「どうぞ、曹長」
 単に上官だから、という理由ではない。敬介にとってこの隊長だけは別格だった。姉を救ってくれた恩人でもあり、殲滅機関へと招いてくれた人物でもある。 この人なくして自分はない、と身体が覚えている。
「ありがとう」
 サキはそう言って、コーヒーだけを持って敬介の前に座る。そのあとようやく敬介が「失礼します」と着席した。
「相変わらず堅苦しいな」
「上官ですから」
「他の隊員を見てみろ、もっとずっとフランクだ。メシ食ってるときは階級など気にしてないぞ」
「他の隊員は他の隊員、私は私です」
「何も一人称まで変えなくても。いつになく不機嫌そうだな? あの噂が嫌なのか?」
「当たり前です。俺はただ、軍事的合理性を。フェイズ5を手駒として使えたら戦術の幅が広がるという、それだけの考えです。私情などありません」
「私もそう思うよ、君が美少女のウインクで考えを変えるとも思えない。自分のやったことに自信があるなら胸を張っていればいいさ」
 そこで隊長はコーヒーカップを置き、切れ長の目で敬介をじっと見つめた。口元にいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「それとも図星なのか? ああいう娘がタイプ?」
 動揺で、むせ返った。鼻から牛乳が出てしまった。
「ゲフッグフッ……あ、あ、ありえません!」
「そこまで取り乱すか。面白いヤツだな。でも、実際、そのくらいの人間味があってくれたらと思う」
 腕組みして、眉間にしわを寄せる。
「どの隊員にきいても、君の評価は一つだ。『訓練バカ』。若いのに、酒に誘われても女遊びに誘われても全部断って、同僚と口もきかずに訓練訓練……」
「他の隊員がどうかしているのです。雑誌の女の裸を俺に見せたがるんです。子供じゃあるまいし。そんなことやってる暇があったら、一本でも走り込みを、一 発でも射撃訓練を。それを実践してきたから、俺は良い成績を出せました。実戦部隊配属から一年で、スコア二十。悪くない成績だと思っています。俺の誇りで す」
「一年で二十体撃破は、驚異的な好成績だ。私も、君のようなのが理想の隊員だと思っていた。だが脆いよ。そういうのは」
「脆い?」
「ああ。私が殲滅機関に入った経緯は知っているな?」
「はい。俺と同じだと。蒼血に襲われているときに助けられて、入れてくれと懇願したと」
「そうなんだ。その時、私の無茶なお願いを聞いてくれた男が……首藤剛曹長。知っているよな」
「撃墜王……というか、蒼血撃破記録を残している人ですよね」
「そうだ。通算撃破記録三百五体は、日本支部のナンバーワンだ。彼と、彼の率いる第五十一小隊は伝説だ。彼はまさしく蒼血を倒すためだけに生きてきた。趣 味も持たず、女とも触れ合わず、ただ人生の全てで己を磨き上げて、蒼血を狩った。信じられるか? 十年前、まだシルバーメイルが未開発の時代に、生身で十 九体のフェイズ3に囲まれて、全部倒して帰ってきたんだぞ? 彼の口癖は、『俺は機械でいい』だった。人間であることをやめるくらい訓練に打ち込まない と、奴らには勝てないんだと。
 彼が偉大な隊員であることは疑いない。今でも彼を尊敬している。彼にめぐり合ったこと、彼の部下として戦えたことを幸福に思う。
 だが彼は脆かった。知っているな、彼の最期を」
「いいえ」
「知らないのか! そりゃ教本には載ってないが、隊員同士で話題にのぼるだろう?」
「俺は無駄話をしませんので」
 サキは呆れた表情で、大げさに肩をすくめた。
「首藤曹長が士官になれなかったのはコミュニケーション能力を疑われたからだが……君は彼以上だな! まあいい。彼は自殺したんだよ。あの無敵の首藤が、 ある日突然。それも任務中に、大勢の部下の目の前で、銃で自分の頭を……異様な自殺だった。原因などわからない。彼には親しい友はいなかった。日記も遺書 も残されていない。彼がいなくなって初めて、軍人として以外の彼を、彼の心の中で起こっていたか、誰も知らないと気づいた」
 そこで言葉を切り、敬介と目を合わせる。
「それが、『俺は機械でいい』という人間の末路だ。何かの拍子に、心がポキリと折れる」
 尊敬する隊長の言葉とはいえ、聞き捨てならない。敬介は座ったまま背筋を伸ばし、強い口調で言う。
「俺は自殺などしません。絶対にしてはならない理由があります」
「姉を悲しませたくないから、だろう? だが首藤の自殺だって、まさかと言われたさ。
 純粋な人間はな、脆いんだ。たった一つのことだけで心を染め上げているから。心棒が一本しかないから。首藤曹長だけじゃない。優秀だったのに突然不調に なる、戦えなくなる、自殺してしまう、そんな隊員を何人も見てきた。我々も結局、人間なんだ。だから、隊員は酒を食らい、女を抱くんだ。趣味を持ったって いい。私はこれだ」
 胸のポケットから掌に収まるほど小さなハーモニカを出して、神妙な表情で吹き始める。澄んだ細い音色があたりに広がってゆく。悲しげな曲だと思った。談 笑のざわめきが少しずつ小さくなっていく。周囲の人々が耳を傾けているのだ。
「どうだ?」
「え……その。綺麗な曲だと思いました」
 音楽鑑賞の趣味は全くない。クラシックを聞いた経験は中学校の授業が最後で、いま流行しているポップスのバンド名を尋ねられてもろくに答えられないだろ う。だから曖昧なことしか言えなかった。
 サキは苦笑した。
「興味がない人間の典型的な答えだな。だが、ありがとう」
 その時サキの背後から黄色い声が叩きつけられた。
「すごいすごい! かっこいい! 今のもう一回やって!」
 敬介が目を丸くする。いつの間にか、サキのすぐ後ろに、食事のトレイを持った凛々子が立っていた。
 サイズが大きすぎるグレイの開襟ジャケットを羽織り、その下にはワイシャツとネクタイ。殲滅機関の隊員が非戦闘時に着用する、勤務服と呼ばれるものだ。 身長百五十センチの凛々子は一般的な軍隊には入隊できない体格のため、サイズの合う服が用意されていないのだろう。トレイを持つ手が袖に半分隠れてしまっ ている。そのおかげか、やけに子供っぽく見える。
「構わないが……」
「ここ、いいよね?」
 凛々子も同じテーブルについた。敬介のはす向かいだ。
「訊いてから座れよ……」
 無礼な奴だと、胸の中に不快感が広がる。
「それより、お前なんでここにいるんだ。拘束具は? 檻は?」
 敬介の聞いた話だと、エルメセリオン=凛々子は、出撃命令が下っていないときは厳重に拘束されているはずだ。
 疑問をぶつけられて、凛々子は明るい笑顔を作った。手をぱんと叩いて、
「それがね、もう拘束具いらないって! ちゃっちゃっと六体倒したら、実績が認められたんだよー! この基地の中に部屋まで貰っちゃった! 意外と物分り いいよね、殲滅機関の人。キミのおかげもあると思うよ。ありがと。ホントだよ」
 身を乗り出して、敬介に向かって深々と頭を下げる。
 胸の中の不快感が数倍になり、背中にも悪寒が広がる。まわりの連中からどんな目で見られるか。
「ば、バカ、よせ。誤解されるだろうが、俺は感謝されることなんて何もやってない。お前と仲がいい、とか思われたら迷惑だ!」
「それにしても……」
 サキが顎に手を当てて首をかしげる。
「拘束なしとは、よく信用したものだな」
 凛々子はサキに向かって頭を下げる。
「あっ、影山曹長ですね。はじめまして、えーと……エルメセリオンの人間のほうですっ。氷上(ひかみ)凛々子と申しますっ。うーん……信用……信用は、た ぶん、されてないです」
 そういって頭をめぐらせ、サキに後頭部を見せる。
 首の少し上、延髄の辺りが大きく盛り上がっていた。
「……手術か?」
 サキが眉をいよいよひそめて問う。
「そうなんです。これ爆弾なんですよ」
「なっ……」
 敬介は呻いた。だがサキは驚きもしない。凛々子はほっそりとした白い手で延髄の膨らみを摩りながら、
「拘束具のかわりなんです。ボクが上官の命令に背いたり、殲滅機関を裏切ったら。即座に遠隔操作でドーン」
 握った手を、パッと開いてみせる。
「TNT爆薬二百グラムだそうです」
 米軍の一般的な手榴弾・M26と同じ程度だ。「蒼血」の寄生体はガスコンロで炙っただけで死んでしまう脆弱な生き物だ。間違いなく頭蓋骨ごと粉砕される だろう。
「逃げることもできないんです。これタイマーがついてて、二十四時間ごとに特別な設備でリセットしないと、やっぱりドーン」
「寄生体だけ脱出するのは?」
「それもダメらしいです。電極が寄生体にくっついてて、寄生体が頭蓋骨の中から移動したら爆発」
「それは……」
 敬介は顔をしかめて凛々子を見つめた。
 凛々子は言葉の深刻さとは裏腹に明るい表情だ。
「どうしたの? あ、いただきます」
 手を合わせて食事を始めた。せわしなく箸を動かして、鮭と味噌汁の定食を平らげていく。「おいしい!」という喜びが伝わってくる食べっぷりだ。爆弾より 美味しいご飯の方がずっと重大とでもいうかのようだ。
 その無邪気な振る舞いを見ていると、胸に苦々しい気持ちが広がる。哀れみと似ているが、違うような気もする。この気持ちの理由が分からない。こいつは蒼 血だ、敵性生物だと分かっているのに。
 敬介はパンの塊を食いちぎり、ミルクで飲み下すが、味がわからない。
「あ、もしかして同情してくれるの? やさしい! ボクの思ってた通りの人だ」
「誰が同情するか。お前なんか信用されないのは当然だ」
 口ではそう答えたが、凛々子と目をあわせることができない。
「まあね。これくらいのことは覚悟してたよ。ところでさ、デートしよ」
「ゲホゥッ!」
 敬介はまたむせかえった。スプーンをトレイに叩きつけて、
「お、お前は何の話をしてるんだよっ! 脈絡が、ぜんぜんわからん!」
「敬介くんって非番はいつ? ボク明日」
「俺も明日だが……なんでお前なんかと。絶対に嫌だ、冗談じゃない、お前と喋ってるだけで俺がどんな目で……」
 そういって周囲に目を走らせる。
 あからさまに敵意の目でにらんでいる屈強な黒人がいる。口の端を卑しく歪めて冷ややかに眺める日本人がいる。サキだけは蔑みではなく、興味深そうな笑み を浮かべてテーブルに頬杖をついている。
「曹長、なんとか言ってやってください……」
「オフの男女交際までは干渉できないなあ。ごちそうさま」
 コーヒーを飲み終え、カップを持って立ち上がる。
「いや、待ってくださいって」
「私の意見は先ほど言ったとおりだ。軍務一辺倒の人生は危険だ、女の子とデートくらいしてみるのもいいだろう。健闘を祈る。では」
「あ……」
「ねえねえ、どこ行こうか? このへん本屋あるよね? まずガイドブックとか買ってきて二人で検討……」
 身を乗り出してくる凛々子。敬介は無言で立ち上がって、食べかけのビーフシチューが載ったままのトレイを持って歩き出す。足早に歩いて返却口に勢いよく 叩きつけ、一瞬も止まらず、そのまま食堂を出る。
「あれもう食べないの? もったいないよー。体の具合でも悪いのかな?」
「お前のせいで胃袋に大穴が開きそうだよ。って言うか、付いて来るなっ!」
 振り向いて、大げさなに「しっしっ」という仕草をする。
「ねえ、なんでダメなのかな?」
「お前、自分の立場わかってないだろ!?」
「裏切りの可能性? でも、ボクいま爆弾つけてるよ。絶対裏切れっこない」
 更衣室に飛び込んだ。
 勤務服のまま外には出られないことになっているので、ここで着替える必要がある。あいつもそうだろう。女は俺より時間がかかるはず。ここで引き離せる。  鼻歌を歌っている初老の隊員を押し退ける勢いで自分のロッカーに到着。上下の勤務服を脱いで私服を身に付ける。私服はジーンズにポロシャツ、安物のセー ターに、千円で叩き売られていた薄手のジャンパーだ。焦げ茶色で、土木作業員が着ているようなあか抜けないデザインだが、ファッションには興味がないの で、問題を感じない。あとはマフラーを無造作に巻いて、鏡も見ずに更衣室を出た。
 と、廊下には、着替え終わった凛々子が待っていた。
「なっ」
「遅かったね」
 我が目を疑って、凛々子の服装を見る。
 空から降ってきたときと同じ、薄手のパーカーとショートパンツ。パーカーの下はセーター一枚なく、とても冬の服装とは思えない。あの夜と違うのは、ニー ソックスと運動靴を履いていることか。
「そうだよな……お前は普通の人間じゃないよな……」
 銃弾を手で払いのける超人が、なぜ着替えるスピードだけは人間並みなどと思ってしまったのだろう。
 ため息をついた敬介は早足で歩き出した。
 地上に出るための大型エレベーターにたどり着いた。エレベーターのドアの側にあるセンサーに掌を押し当てる。
 エレベーターには普段着に着替えた隊員たちが十人は乗っていた。肩がぶつかりあうほどに混んでいる。
「ついてくるなって」
「ボクとデートするの嫌? なんで? 理由を教えてよ?」
 デートという言葉に反応したのか、まわりの隊員が好奇の目を向ける。
「バカ、おまえっ、変なこと言うんじゃないっ!」 
「えー?」
 目を見開いて小首をかしげる凛々子。すぐに納得の表情になって両手をパンと叩く。
「あ、わかった。デートはじめてなんでしょ? オンナノコと付き合ったことないんだよね?」
「どうだっていいだろうが、そんなこと」
 敬介の両手をとり、小さな手で包み込むように握って、ぴったりと寄り添った。
「大丈夫、凛々子さんがぜんぶ教えてあげまーす」
「だから、ひとの話をきけっ」
 エレベーターが停止した。他の隊員とともにエレベーターから出る。
 そこは大きな薄暗い倉庫の中だ。鉄骨がむき出しになった天井は、一軒家が入るほど高い。
 外に出た。もう真っ暗で、周囲二、三百メートルは街灯すらない。同じような三角屋根の巨大倉庫が薄闇に溶け込むように並んでいる。倉庫の窓からも明かり は漏れておらず、とにかく暗い。だが敬介にとっては何百回も歩いた道だ。芝生を踏みしめて、迷いなく歩いていく。向かっているのは、この基地のゲートだ。
「ねえねえ、どんなとこに行くのが好き?」
「うるさいなあっ……」
 なんでこの女は自分なんかに付きまとうのか、さっぱり分からない。
 思い切って聞いてみることにした。
「なあ、なんで俺なんだ? 会ったのは一週間前で、ほとんど喋ったこともないよな?」
 そう言われた凛々子は小さな顎に手を当てて目をしばたたかせる。
「うーん……理由はいろいろあるけど。たとえば、若い隊員は敬介くん以外ほとんどいない。おじさんばっかり」
「そりゃまあな、普通はある程度経験のある軍人がスカウトされるわけだし。っていうか、お前、敬介くんって何だよ、もう友達気分か」
「ダメなの? ボクのことも凛々子でいいよ。リリコって、発音すると口の中で転がるみたいで、すごく良い名前だと思うんだよねー。あ、それから他の理由だ けど、もちろんキミに助けてもらったってことが大きい。ホントだよ? すっごく助かったんだから! もう敬介くんに保証してもらえなかったら入れなかった よー」
「関係ないだろう、一兵卒の保証なんて。だいたい、俺は女なんかといちゃついてる場合じゃないんだ」
「あ! もしかして他の誰か好きな人がいるとか! それなら仕方ないよね、でもどんな人?」
「人の話を聞けっ。好きな人というか……家族だ。もう拘束されてないっていうんなら、他の隊員と喋るだろ? 俺のこと、噂で聞かないか? 俺には姉がいる んだ。親代わりに俺を育ててくれた人なんだけど、俺にとってはとても大切な家族なんだ。自分の好きなことも、夢も、趣味も、友達も……何もかも捨てて働い て……一生懸命だったんだ。でも五年前、蒼血に寄生されてとんでもない目に遭った」
 喋っているうち、自らの言葉の熱量に浮かされて喋りのペースが速くなってくる。声も大きくなっていく。
「その時の蒼血は倒したけど、姉さんはひどく傷ついた。なんでも脳の中で蒼血が暴れたから障害が残ったんだと。いまでも杖を突いているよ。だから俺は殲滅 機関に入った。姉さんが大切だから。姉さんを傷つけた蒼血を、叩き潰すためだ。だから他のことなんてしちゃいけないんだ。それは姉さんを裏切ったことにな る。休みの日だって、ずっと姉さんの面倒を見るために使う。俺は姉さんのために生きる」
 知り合いですらない凛々子に、ここまで喋ってしまっていいのか、と恥ずかしくなった。
 だが、ここまではっきり言えばわかってもらえるだろう。
「うーん?」
 凛々子は眉間にしわを寄せて首をかしげる。
「姉さんが大切だから……? 蒼血を叩き潰す? なんだそれ……? やっぱり敬介君、ボクとデートしないとダメだよ!」
「なんでそうなる! 俺の話聞いてたのかよ!」
 などと喋りながら、補給廠の出入り口にたどり着く。
 コンクリート製の小さな検問所があり、検問所の屋根には回店灯が毒々しいまでの赤い光を放っている。銃を持った兵士が歩哨に立っている。
 検問の向こうには踏切と病院があって、その踏切の向こうはもう相模原駅の駅前だ。居酒屋やファーストフードのネオン看板が見える。
 迷彩服の兵士を載せたままのジープが検問所前で停まり、カードを見せて通過した。あとに続いて軍人達が出て行く。
 敬介たちも検問所に並んだ。
「パスを」
 サングラスをかけた無表情な検問係が要求する。敬介は財布の中から無言でパスカードを取り出して渡した。もちろん、パスカードに殲滅機関云々は書かれて いない。表向き、敬介は運送業者の人間ということになっている。
「はいっ」
 あくまで明るい声で凛々子がパスを出し、検問所を通り抜けた。
 検問を出たとたん、一人の若い女性が踏み切りを渡って近づいてきた。
 敬介は目を見張った。
 杖を突いている。不健康なまでに痩せて、肌は夜の暗がりの中でもわかるほど青ざめている。「病人」という強烈な印象が、整った顔立ちを台無しにしてい る。黒髪を柔らかそうな三つ編みにしてメガネをかけている。
 愛美だ。
「け い す け。」
 甲高い、途切れ途切れの声が愛美の喉から漏れた。抑揚などなにもない、昔の合成音声のようだった。いまや愛美はこんな風にしか喋ることが出来ない。
「あ……ねえさん、なぜここに?」
「夢 を み た の。け い す け が。ころされて しまう おそろしい夢。だから。 嫌な予感が して。 いても たっても、いられなくて。ずっと  まって いたの」
 そう言って、敬介の手を握る。冷たい手だ。
「そうか……」
 夢を見た、と言われてしまうと敬介としては何もいえない。姉がもっとも深く傷ついているのは精神だ。記憶消去しても拭いきれない恐怖の残滓が、悪夢と なって姉を襲っているのだ。
 だから。姉はこんなに苦しんでいるのだから。俺が守らないといけないんだから。
 女と遊びほうけるなど持っての外。わずかでも多くの訓練を、一匹でも多くの敵を倒す。
「ところで、そのかたは どなた?」
 凛々子の存在に気付いた姉が尋ねる。
 敬介は凛々子を睨んだ。「おい、ふざけて答えるなよ」とメッセージを答えたつもりだった。 
 ところが敬介の視線など全く気にもかけず、凛々子は薄い胸を張って答えた。
「ボクですか、ボクは氷上凛々子といいます。敬介くんのカノジョ候補ですっ。はじめましてっ」
 驚愕する敬介。あわてて訂正を試みる。
「ち、違うって姉さん。こいつはただの……」
 上ずった調子で言おうとするが、凛々子が彼の口を掌で素早くふさいで、明るい調子で喋りだす。
「一緒の職場で働いてるんです。さっきも二人でご飯を食べてきたんです。でも、彼が煮えきらなくて。ボクのほうからデートに誘っても、なんだか渋って。ひ どいよ敬介くん、キスまでしたじゃないか! あの日の熱い口づけを忘れないよ!」
 敬介は今度こそ絶句した。凛々子の両肩をつかんで睨み付ける。ご丁寧にも凛々子は瞳を潤ませていた。フェイズ5なら涙くらい自在に流せるのだろう。
「違うだろう、アレはキスじゃない! キスじゃなくて……」
 そこで口ごもってしまう。唇の柔らかい感触を克明に蘇ったのだ。その瞬間に自分が覚えた当惑。痺れるような快感。そういえば確かに、女性と唇を重ねるな ど初めてのことだ。アレはやはりキスの一種だったのだろうか。たとえその目的が骨折の治療だとしても。キスのあとに滑り込んできた脈打つ物体が少女の舌で はなく『蒼血』だったとしても。
「その時、敬介くんは言ったじゃないか、『君が必要なんだ、一緒にいよう』って。それなのにデートが嫌だなんて! ひどいよ、あれは嘘だったの? ボク とっても感動したのに! キミがいなければ、ボクはここにはいなかったのに!」
「いや、お前、それはだな……」
 自分の顔が赤くなり、冷や汗が吹き出していることを感じる。恥ずかしさと怒りで、身体が震えてきた。メチャクチャもいいところだ。『君が必要だ』は殲滅 機関の戦闘員として必要なだけだ。断じて口説き文句ではない。
 言葉に詰まり、凛々子を睨んだ。
 だが、怒りを込めて睨み付けても凛々子はまるで臆した様子もなく、くりくりと大きな吊り目に喜びの光を浮かべ、頬と口許にいたずらっぽい笑みを浮かべて いる。からかって楽しんでいるのだ。抗弁すればするほどエスカレートして敬介を翻弄するだろう。
 だから、敬介はため息をついて、
「わかった。付き合うよ。明日でいいんだな。細かいことは任せる」
「やったー! 敬介くん大好き!」
 内心、苦々しく思っていた。
 せっかくの非番、俺は姉さんの面倒をみたいのに。姉さんを一人にしておくのは心配だし。うわついて女とイチャついてるところなんて見られたくない。姉さ んだって俺のことを軽蔑するだろう。
 胃袋に、鉛を飲み込んだような冷たく重い感触が広がってゆく。
 ところが敬介の耳に、鈴の転がるような可愛らしい声のクスクス笑いが飛び込んできた。
 え? と当惑して横を見ると、愛美が笑っていた。折れそうに細い手を口許に当てて笑っていた。笑い声はしだいに大きくなって、もはやクスクス笑いとは言 えない。華奢な肩を震わせている。
 目と耳を同時に疑った。姉さんが笑っている。声をあげて! こんなの何年ぶりだろう。そう、蒼血に襲われたあの日以来だ! あれから五年も姉は塞ぎこん で、テレビのコメディドラマを見せてもうっすらと笑みを浮かべるだけだったのに。貧しくとも明るかった姉に戻って欲しくて様々な努力を重ね、しかし姉の表 情から憂いは消えなかったのに。
「姉さん?」
 戸惑って尋ねると、愛美は口元から手を離した。
「よかった けいすけ が そんな ふつうの おとこのこ みたいに なって」
「え……意味がよく……わからない」
 そのとき、足の甲に痛みが走った。靴を凛々子に踏まれたのだ。
「なんだよっ」
 凛々子のほうに振り向くと、彼女は敬介を引きずって姉から数メートル離れ、電信柱の後ろに隠れて、耳元に口を寄せて囁いた。
「あのさ、敬介くん。キミさ、ものすっごい勘違いしてるよ。ずっと付きっきりで手取り足とりするのが本当にいいことだと思う? そんなことされて本当に嬉 しいと思う?」
 横目で見ると、凛々子の眉は持ち上がり、口調は強い。先程の冗談めかした態度とは打って変わった、真剣な怒りの表情だ。
 なぜ怒られるんだ?
 とまどいながらも敬介は反論を試みる。
「いや、でもよ、姉さんは見ての通りの体だから、一人で家に置いておくのは危険だし、俺はたった一人の家族で……」
「二十四時間の介護が必要なの? そんな重い障害には見えなかったよ? お医者さんはなんて言ってる?」
「いや、介護しろとはいってないが。でもやっぱり不安だし……」
 そこで敬介は言葉を切った。自分の気持ちを一言で表すような言葉が見つかったのだ。
「つまり。裏切ったような気がするんだよ。姉さんのそばから離れると。俺は姉さんを一生守らなければいけないんだ」
「ふうん。つまり自己満足かあ」
「お前、何いって……!」
 敬介は声を荒げる。
「ちょっと立場を逆にして考えてみて。敬介くんが怪我とか病気で車椅子に乗ることになって、お姉さんが介護してくれて。なんでも代わりにやってくれて。最 初は嬉しいと思う。でも五年たっても十年たってもそのままだったら。一生、人生を君の介護のために犠牲にしたら。君はある程度なら身の回りのことだってで きるのに。どう思う?」
「あ……」
 言葉に詰まった。心臓が激しく跳ねて、額を冷や汗が流れる。
 それは確かに、辛い。
 俺のことなんかいい。姉さんは自分のやりたいことをやってくれ。きっとそんな気持ちで胸が張り裂けそうだろう。姉を大切だと思えば思うほど。だが相手の 好意がわかっているだけに「やめてくれ」と言うこともできず、ひとりで悶々と苦しむだろう。
 敬介の表情を見た凛々子は小さくうなずいた。笑顔に戻っている。
「だよね、それが当たり前だと思うよ。自分の大切な人が、自分のために頑張って、頑張りすぎて……それは嬉しいけど、辛いんだ。この人を縛っている自分が 恥ずかしくて、負担になっているようで。だから、もっと好き勝手に遊ぶのがいいよ。お姉さんのことは放っておいて、のびのびと。それが結局、一番喜んでも らえるよ」
「そうなんだろうか」
 今までの人生での前提が覆された。衝撃的で、認めたくない。
 だが、姉がここ数年で初めて笑ったという事実は揺らがない。
 敬介は凛々子から一歩離れた。そして頭を下げる。
「言うとおりにするよ。明日はお前と……どこかに遊びに行こう。明日、明日だけは、姉さんのことは忘れる。お前を信じる」
 デートという言葉を口にするのは気がひけた。言葉を変えても、まだ恥ずかしい。
「けいすけ なにを はなしてるの?」
 愛美に声をかけられ、慌てて向き直る。
「いや、何でもないよ、明日のデートの詳しい打ち合わせ!」
「そう たのしんで きてね。ひかみ、さん。けいすけを よろしく おねがいします」
 凛々子は自信満々、敬介と腕を組んで、
「ええ、まかせて下さい。彼、なんか女の子とか慣れてないみたいですけど、もう周りの人が嫉妬しちゃうくらいイチャイチャして、人生観変えますから!」
「いや、それは勘弁してくれ! もっと初心者向けなのでいいから!」
 その言い回しがおかしかったのか、また愛美が口を押さえて笑う。
 と、野太い男の笑い声が聞こえてきて、そちらを見て敬介は絶句した。
 基地の入り口の検問所にいる軍服姿の男が、笑っていた。
 そうだ、姉に気を取られてすっかり失念していたが、自分が今いるのは、毎日通う基地のゲート前。
 あたりを見回すと、基地を出て行く軍人、基地に入る軍人、通行人、その半分がニヤニヤ笑いを浮かべている。残りの半分は、目を反らすようにして足早に 去っていく。
「あ……」
 こんなに大勢に人に見られた。笑っているということは会話の内容も聞かれたのだろう。ニヤニヤ笑いながら基地に入ってゆく男達の中に知った顔を見つけて 絶望した。細い吊り目で東洋系の男は戦闘局のリー軍曹。サキ隊長の部下で、敬介のことをよくからかう。兵士達は噂好きだ。休み明けにはすっかり広まってい るだろう。訓練一筋のイメージは、微塵も残らないだろう。
 エルメセリオンにたらしこまれた、などと揶揄されてもまったく言い返せない。
 どうすればいいのやら。またも冷や汗をかきながら凛々子を睨む。
 やはり凛々子は明るく笑って、
「いいじゃん。堂々とやろうよ、隠すことじゃないよ。明るいダンジョコーサイ、嫌い?」
 まったく悪びれない笑顔を見ていると、怒る気が失せた。無責任に見えるこの態度が、結局は姉を一番楽にするというなら。
「そうだな……」
 敬介も笑うことにした。むりやり笑顔をつくった。

 5

 2007年12月30日
 JR町田駅

 翌日の午前十時過ぎ。敬介はJR横浜線の町田駅改札を出たところで待っていた。
 町田駅は一日に何万人もの人々が利用する、この沿線では二番めに客数の多い駅だ。
 年末ということもあってか、リュックやカバンを手にしたラフな格好の人々が、ずらりと十八台も並んだ自動改札をひっきりなしに抜けていく。改札の向こ う、階段の下でブレーキ音がして電車が停まると、そのたびに数百人もの人間がまとめて改札から吐き出されてくる。
 敬介はもう三十分以上もここで待ち続けていた。姉が言ったのだ。『女の子を待たせたら失礼だから早く出なさい』。
 五分前に到着するくらいでいいんじゃないか? と思った敬介だが、姉は楽しげに指を一本立てて、『氷上さんが早く来るかもしれないでしょう』と言うの だ。他にも髪型や服のシワにチェックを入れられ、どこかで聞きかじった『初デートのノウハウ』とやらを語ってくれた。挙げ句の果てにはネット上で見つけた 『恋が実る御守り』までプリントアウトして渡してくれたのだ。困惑したが、普段とは逆の立場になって敬介の世話を焼く姉は、とても楽しそうで。だから結局 敬介は、笑顔で御守りを受け取ったのだ。
 それにしても遅いな。
 腕時計を見た。すでに待ち合わせの時刻を十分過ぎている。
 どうしたものか。
 凛々子は普通の携帯電話と衛星携帯電話を持っていて、その番号も聞いている。だから普通の常識からすると連絡するべきなのだ。殲滅機関戦闘局員としての 敬介は、ポケットに手を突っ込んで自分の携帯を引っ張り出した。
 だが、電話をかけることができずに、液晶画面を見つめるだけだ。
 つい昨日まで眠っていた『普通の男としての部分』が抵抗するのだ。
 今電話かけたら、急かしているみたいで悪いなあと。
 しかし、かけた方がいいんじゃないかという気もする。もしかするとアイツが待ち合わせの時刻を間違えているのかもしれないし。俺が間違えているのかも、 いやまさか、携帯のメモで記録してあるし……
 どうしたものかと悩んで、ちらりちらりとあたりを見る。
 頭上には大型モニター。列車の遅延情報が表示されている。だが映っているのは、この路線とは関係ない路線のことばかり。凛々子が来ない理由とは関係なさ そうだ。
 時計を見て、十五分たっていることに気付いた。
 よし、と決意を固めて、生唾を呑み込み、携帯のボタンを押して凛々子の番号を出す。
 さあ、かけるぞ、かけるぞ、と自分に言い聞かせる。
 突然、凛々子の声が浴びせられた。
「電話するだけでそんな顔にならなくても」
「あ……」
 いつの間にか、凛々子が目の前に立っている。
「お前なあ! 遅いよ! あと遅れるんなら電話を一本入れろよ!」
 思わず大声を出してしまった。これは照れ隠しで怒っているんだと自分でも分かっていた。
「ごめんごめん。これを選んでいたんだ」
 自分の足を指さす。
 今日の凛々子は服を一新していた。上半身はピーコートに、かわいらしいデザインの小さなリュック、下半身はやはりショートパンツ。比べてみると、昨日の ショートパンツが運動着のようだったのに対して、今日のものは裾がふわりと広がり、スカートに近い形だ。すらりと伸びた一片の贅肉もない足を、縞々のロン グソックスが覆っていた。
「昨日の服とあんまり変わらないように見えるが。半ズボンで足が寒くないのか、という感じで」
「ひっどいなあ。これはキュロットスカートって言うんだよ。あと、このソックスのキュートさがわからないんだあ。女の子が『どーお?』と言ったらお世辞で も誉めておくもんだよ?」
「そうか?」
 敬介はごくりと唾を呑み込んで、凛々子のほっそりとした腿を凝視する。こんなに細く引き締まった足、きめ細かで白い肌を敬介は見たことがなかった。数え 切れないほどの戦いを乗り越えてきたとは信じられない肢体だ。フェイズ5の持つ完璧な再生能力の賜物だろう。抜けるような白い肌の中に、一筋の青を見つけ た。太腿の側面に細い静脈が通って、膝の裏側に回りこみながらロングソックスの中に消えていた。その僅かな青が、ますます肌の白さを際立たせていた。
「あ、足がスラリと見えて、いいと思う……」
 凛々子は噴き出した。
「それじゃただのセクハラだよっ。真剣な顔がなおさら怖いよ。なんか違うんだよねー」
 そこでバンドの細い繊細なデザインの腕時計に目をやる。
「うわ。もう時間がないよ。来ちゃうよ。早くいこ!」
 敬介の手を強引につかんで、早足で歩き出す。
 JR町田駅から数百メートル歩いた場所に、小田急線町田駅がある。新宿にも箱根方面にも通じる巨大なターミナル駅だ。
 手を引いたまま、敬介と凛々子がホームに上がってきたその時、列車がやってきた。
 美しい列車だった。他の線に並んでいる、クリーム色の箱に青線を引いただけの通勤列車とは違う。
 柔らかな曲面を帯びた、高貴さすら感じさせる真珠色のボディ。ボディ横に並ぶ窓はとてつもなく長く大きい。窓の下には鮮やかな朱色のラインが引かれ、冷 たい印象に暖かさを添えている。車両の先頭は西洋騎士の兜とも猛禽類の頭部ともつかない独特の流線型を描き、巨大な曲面の展望窓があって、その中には座席 が並んでいた。フルフェイスヘルメットを思わせるほどに巨大な展望窓だ。運転席は展望窓の上、二階部分にある。
 電車の種類になど興味のない敬介ですら、思わず目を見張った。
「間に合ったー! はい、これ特急券」
 凛々子が一枚の切符を渡してくる。
「んー、6号車だからもっと後ろのほうだね。ごめんね、もう展望席は売り切れだったんだよ」
 また敬介の手を比いて歩き出す凛々子。
「この電車に乗りたかったのか? わざわざ予約までして? なんでまた?」
 そう言われると凛々子は不満げに頬を膨らませた。
「だってこれVSEだよ? 小田急ロマンスカーの頂点と言われた夢の列車だよ? しかも普段VSEは小田原行き列車にしか使われないんだよ? 江ノ島方面 でVSEに乗れる機会はほとんどなくて……」
 列車のドアが開いて、待っていた乗客が乗り込み始める。凛々子は走って、近くのドアから車内に飛び込む。
「あ、待ってくださーい!」 
 まだまだ発車する気配はないのに何を慌ててるんだ? と思いながら敬介が後を追う。
いち早く座席に座った凛々子が手を振って、
「早く早く。窓際だよ!」
 敬介が隣に座ると、凛々子は満面の笑みを浮かべて天井を刺す。
「すごいよね、この天井!」
 なるほど、アーチ状の緩やかな曲面を描いてぼんやりと内部から発光している。普通の電車より高級感があると言えるかもしれない、と敬介は思った。
「まあな」
「カトリックの大聖堂みたいに荘厳だよね、非日常的空間だよね! トランペットの調べが天空から降り注ぐよ!」
「大げさすぎる! っていうかさ」
 そこで敬介は立ち上がり、荷物のリュックを荷棚に置いて、ため息をついて凛々子を見下ろす。
「お前、鉄道マニアなの?」
 電車の種類やら内装やらで興奮する凛々子にさっぱり共感できない。女でもマニアはいる、と聞きかじってはいたが。
「えー? マニアはこの程度じゃないよ。ただ、鉄道に強烈な憧れがあることは確かだよ」
「はあ? なんで?」
「だってボク、ふだん鉄道に乗れないし。日本に来てから半年間、一度も乗ってない。外国を転々としてる時も、よっぽどの急用じゃないと乗らなかった」
「だから、なんでだよ?」
「決まってるじゃない。駅にアレがあるから、君達に見つかっちゃうからだよ」
「あ……」
 そうだ。日本の大きな鉄道駅、空港、港などには必ず『エコーシステム』がある。殲滅機関情報局が秘密裏に設置しているのだ。通り過ぎる人々に超音波を照 射して、蒼血の寄生体を発見する装置。この壁は妙に分厚いなあ、という壁。なんで改札の目の前に作るんだよと評判の悪い柱。そんな場所にはたいてい、エ コーシステムが埋め込まれているのだ。日本以外の先進国でも状況は大差ない。
「電車に乗ったら、すぐに見つかって追いかけられちゃうから。だから今やっと、安心して乗れるんだ。線路沿いとかを歩いてて、電車を見るたび羨ましかった んだ。いつか思う存分のりたいなーって」
「なんていうか、お前……」
 敬介はまだ言葉に詰まった。こいつはとんでもない世界で生きてきたのだな、と改めて思う。自分にとって電車は毎日乗るもの、自分の足の次に身近な移動手 段だった。それに乗ることもできない生活など。こいつも蒼血なのだから当然だと頭で分かっていても、どうしても胸の奥にモヤモヤが広がる。凛々子のあどけ ない姿を見ていると。
「どしたの? 座りなよ」
 言われた通り座ると、列車が動き出す。音もなく衝撃もなく、高級リムジンのように滑らかな発車だ。
「凄い凄い、動いた動いた!」
「窓際のほうがいいよな。席変わろうか?」
「子供みたいに言わないでよ!」
 そわそわと腰を浮かしながら言われても説得力がなかった。
 話題を変えようと思った敬介は、
「ところでさ、どこに行くの? 江ノ島方面ってことは海なんだと思うけど……真冬になんで海?」
 すると偉そうに腕を組んでふんぞり返り、
「よくぞ聞いてくださいました! 今日のメインは新江ノ島水族館です。デート初心者の敬介くんにはうってつけです」
「はあ……?」
 水族館ときいてもまったく興味がわかない。小学校の頃に遠足で訪れたが、楽しい場所ではなかった。サメを見ては怖いと泣き出し、イルカやペンギンを見て 可愛いとはしゃぐ女子達がうざったかった、という記憶しかない。
「あ、その目、疑ってるなー。でもホント、初心者にはお勧めのスポットだよ。映画はつまんなくても二時間ずっと座ってなきゃいけないから気まずくなるし、 ショッピングはどっちかがボーッと待ってることになりがちだし……動物園だとけっこう長距離を歩き回るからうんざりする人もいるんだよ。獣の臭いを嫌がる 人、多いし。そのてん水族館は屋内だし、決まった展示ルートどおりに歩くだけだし」
「遊園地じゃダメなのか? よく学生とかのカップルが行くじゃないか」
「遊園地はボクがいやなのっ」
 なんで? と尋ねるまでもなく、指を一本立てて理由を言った。
「だってさ、ジェットコースターとかは恐怖を楽しむものだよ? 頭では安全だと分かっていても、身体が、うぎゃー落ちるー、死んじゃうー、って危機感を感 じるから楽しいんだよ?」
 そこから先は言わなくともわかった。敬介の頭の中に、凛々子と出会ったあの夜のことが鮮明に蘇る。蒼血を薙ぎ倒し、銃弾を片手で払いのけた、あの超絶的 な運動能力。あんな立ち回りに慣れていれば、遊園地の絶叫マシンにいくら乗ったところで恐怖はないだろう。
 なるほど、と思ったが、凛々子の言う事に少しだけ疑問を憶えた。
「初心者向けをやけに強調するけど、お前もこういうの初心者だったりするの?」
 凛々子の反応は思いもかけないものだった。その言葉をぶつけられたとたんに笑顔が凍りつき、たっぷり二、三秒は沈黙した後に、
「え……あ……う……?」 
 意味不明な声を発して、大きく瞬き。
 胸の前で片手を振って、大声で否定した。
「や、や、やだなあそんなこと! あるわけないでしょ? ボクが何年生きてると思ってるのさ! 大ベテランだよ! 男をさんざん手玉にとっときたさ! と くに戦前とか戦後すぐの時代は簡単だったよ、男尊女卑の時代で男はみんな女をナメてたから。でもキミが初心者だから、あんまり大人向けの渋いコースじゃつ いてこれないと思ってさ! ほ、本当だからね!? ボク大ベテランだよ! 女の子を疑うのはよくないよッ!」
 凛々子の声がうるさすぎたらしく、前列の座席から中年女性が顔を出した。
 肥満して、厚化粧した顔面は巨大で、髪の毛を短くしてパーマをかけた、いかにも押しの強そうな女性だ。
「うるさいわねあんたたち!うちの子が迷惑するじゃない!」
 敬介と凛々子は顔を見合わせ、すぐに謝った。
「ごめんなさい」「すいません……」
 しかし中年女性の怒りはおさまらず、椅子の背もたれから身を乗り出して敬介と凛々子を眺め回し、嫌味な口調で毒づく。
「まったくねえ、あんたたちねえ。高校生くらい? 初心者とか言ってたけど、初デート? そうでしょ?」
「ボク……」
 何か言おうとする凛々子を片手で制して、敬介が答える。
「え、あ。まあ、そのようなもので」
 中年女性は大きくうなずいて、早口でまくしたてはじめた。
「気持ちは分かんないでもないわけよ、そういう年頃だしねー。ドキドキしちゃうわよね。あたしだってそういう年頃はあったわけよ? でもね、そういう時だ からこそ踏み外して欲しくない、人間としてしっかりしないとダメなわけよ。ほら、電車の中って公共の場所でしょ? そういうところで一時の情欲にかられて イチャイチャするようなカップルはね、どうなると思う?」
 敬介たちが答える暇もなく続きを喋り始めた。
「子供よ、子供を作っちゃうのよ! あとのことなんて何も考えずにね! 犬や猫と同じで、ポコポコ作っちゃうの! うちの近所にもそういう若い子がいて ね、まだハタチそこそこなのに同棲しててね、あたしは最初からダメだと思ってたんだけどね、ほらやっぱりって感じで子供作っちゃって。彼氏なんて男だか女 だかわかんないカッコして、働いてるって言ったってねバイトでね、まあヒキコモリになるよりマシかもしれないけどね、うちの子の教育が……とにかく若いう ちは礼節をわきまえた男女交際をしないとね……」
 喋るうちに声は甲高く大きくなり、わめき声になっていく。凛々子よりも明らかに迷惑だ。
「すいません、わかりましたから、気をつけますっ」
 凛々子が手を合わせて頭を下げると、中年女性は言葉を切って、さも満足そうな笑顔を作る。
「あらそう、わかればいいのよ、わかればね」
 頭を引っ込めた。
 敬介と凛々子は顔を見合わせる。
 肩がごつんとぶつかってしまって、慌てて飛びのいて座りなおす凛々子。表情は羞恥にこわばっていた。たぶん自分も同じ表情だと敬介は思った。
 当然じゃないか、こいつが女だということも気にしないくらいで、軽い感じでしゃべってきたのに、大声で「赤ちゃんできる」とか「情欲」とか、そんなこと を言われたら……
 意識しざるを得なくなる。こいつが女だということを。今までは何も考えずに軽口を叩けたのに。大きな凛々子の瞳が、優美な曲線を描く頬が、緊張に引き結 ばれた小さな口が、その美しさが敬介の目を惹きつけて、視線を反らすことができない。初めて出会った、あの夜のように。
 何を言えばいいのか分からない。だが何かを言わなければいけないと思った。ただ焦りだけが膨らんでくる。頭の中がグルグル、というのはまさにこういう心 境だろう。口の中が乾いて、汗が額を伝った。
 凛々子のほうから口を開き、乾いた声で言った。
「なにか飲みたい。もってない?」
「ああ! それならある。水筒が……」
 ありがたいと思った。この気まずい空気を変えるために助け舟を出してくれたと思った。敬介は立ち上がって、荷物棚からリュックを下ろした。この中の水筒 にはハーブティーが入っている。ハーブティーを選んだのは姉のアドバイスの結果だ。「お砂糖が入ってると太るのを気にする子もいるし、カフェインが入って いるとおトイレが近くなるから」。姉は本当に気を配ってくれた。
「この水筒が……」
 そう言いながらリュックを開けたが、慌てていたためか取り落としてしまった。
 勢いよく床に落ちたリュックから、掌に載るほど小さな紙袋が飛び出した。袋の口を止めてあるテープが破れて、もっと小さな箱が滑り出す。
「やば……」「あっ……」
 敬介と凛々子の視線が箱に集中した。
 うっとりと目を細める女性のイラスト。女性の周囲を乱舞する蝶。箱に書かれている文字は、『女性にやさしい たっぷりジェル』『一段コケシ型で脱落防 止』『うすうすコンドーム』。
 冷たい声で凛々子が言う。
「……ねえ敬介君、これなあに?」
「え、衛生器具、であります、サー」
 なぜ兵隊言葉になってしまったのか自分でも分からない。
「嫌がってたのに。一日つきあうだけだって言ってたのに。こんなのを用意して……? じゃあ、さっきのおばさんの言葉じゃないけど、ほんとうにそういうつ もりで……?」
「違う違う違う!」
 凛々子の声を遮って敬介は叫び、コンドームの箱を引っつかんでリュック深くに押し込んで、凛々子の顔を真正面から見つめる。
「違うって。誤解だって。俺は別に……こんなものを必要だなんて……ただ遊びに行くだけで……」
 すると凛々子はすぐさま視線を外して、
「いや、ボクべつに責めてるわけじゃないんだよ。うん、そうだよね、エチケットだよね」
「勝手に納得しないで俺の話を聞いてくれ! 俺はな、ただの友達だからこんなの絶対必要ないって言ったんだよ。でもな、姉さんがな、万が一のこともあるし 女の子の方からは言い出せないって、訳の分からないことを……その、ほら、姉さんに切々と訴えられて、嫌だって言えるわけないだろ? ……他意はない、他 意はないんだっ……」
「そうだよね、うんうん、そういうことをオープンに話し合える家族っていいよね」
 目を反らして、相変わらず冷たい声の凛々子。
「だから、そういうんじゃないってー! 俺は決して、いやらしい意味で!」
 大声をロマンスカー車内に轟かせてしまった。
 前席から先ほどの中年女性。後席から白髪の老人。二人いっぺんに顔を出して、怒りの声を降らせた。
「うるさいって言ってるでしょっ!」
「やかましいわい!」
 敬介と凛々子は身体を縮こまらせて、かぼそい声で、
「すいません……」「ごめんなさい……」 
 
 6

 午前10時40分
 新江ノ島水族館

 水族館入り口。窓口に並んでいるのは家族連ればかりで、落ち着きなく周囲を見回している子供が特に目立つ。
「はい、大人二人」
 敬介が窓口でチケットを買った。チケットとパンフレットを凛々子に渡すときに手と手が触れてしまい、電流でも流されたかのように身体を震わせた。
 自意識過剰すぎるだろ、と自分を恥ずかしく思う。だが気になるものは気になるのだ。
 なぜだろう。こいつが彼女だというのは姉さんの誤解だ、そのはずなのだ。俺はこいつのことなんて何とも思ってない。ただの同じ組織の戦闘局員だ。会った のは一週間前、こいつのことなんて何も知らない。友達ですらないはずだ。
 そのはずなのに……こいつに誤解されてるのが恥ずかしいとか、どういう態度を取ればいいんだろうとか、そんなことばかり考えている。考えているときの、 息がつまるような、それでいて身体にエネルギーが有り余ってくるような不思議な感覚は一体なんだというのだ。
「ん。早く行こうよ?」
 いっぽう凛々子はもう混乱から立ち直っていた。敬介の心の迷走に気付いていないかのように朗らかな笑顔で、チケットを持ったままの手を差し伸べる。
「あ。ああ……」
 早く終わらせよう。そして、ちゃっちゃっと早く帰るんだ。姉さんと過ごす「いつもの休日」に、早く戻ろう。映画じゃないんだ、つまんなかったら早いペー スで回れる。時間なんてかかりはしない。
 だが、館内に入ったとたん、敬介は圧倒的な光景に立ちすくんだ。
 水族館入り口は二階で、入ってからほんの三十秒も歩かないところに大きな吹き抜けがあった。一階と二階をぶち抜いて、映画館のスクリーンほどもある巨大 な水槽があって青く輝き、その中では無数の魚が思い思いの軌跡で泳いでいた。二階も一階も、水槽の前に多くの客が立ち止まって眺めている。
 小さな、銀色にきらめく魚が数百も数千も集まり、軍隊のように一糸乱れぬ隊列をつくって水槽の端から端まで泳いでいた。その下には黒い菱形の身体をはた めかせ、巨大なエイが悠々と進む。そのエイに貼り付いている小さな尖った魚は、もしかすると子供のころに図鑑で見たコバンザメか。黄色やオレンジの派手な 色彩の魚もゆったりと泳いでいた。そればかりか、水槽の中に積み上げられた岩石から、黒く太い蛇のようなもの……ウツボが鎌首をもたげた。
「なんだ……これ……」
「おおーう。すっごーい」
 隣の凛々子も感嘆の声を発して、先ほど受け取ったパンフレットを開く。
「あ、これだよ、『相模湾大水槽』。江ノ島近辺の海を再現してるみたいだよ?」
「へえ。エイなんてこのへんにいるのか」
 大海原の真ん中まで出かけないと巡りあえない生き物だと思っていた。
「あの銀色の大群はイワシだって! すっごいねえ。ボク焼いたイワシしか知らないよ。あんな綺麗に泳ぐものなんだ。壮観だね! 銀河系! とかそういう感 じ。あとねー。エイもいいよ。みて、あれ。身体をぐわんぐわんって羽ばたかせて、すうっと上がっていって……宇宙船みたいだよ。ぎゅーん! かっこいいな あ」
 ぷっ、と敬介は噴いてしまった。
「子供だな。それも男子小学生の好みだ。ほら、あの子とか」
 そういって敬介が指さすのは、一階で大水槽の前に張り付くようにして見ている小学生低学年ほどの少年だ。とくにエイがお気に入りのようで、目の前を通過 するたびにガラスを叩いたり手を振ったり大はしゃぎだ。
「好みが男っぽくてもいいじゃない。じゃあ敬介は何が好きなの?」
「いや、ここには特に……みんなすごいとは思うが……」
 敬介が感嘆したのは特定の魚ではなく、これほどたくさんの魚が入り乱れて生命力たっぷりに活動している、「豊穣な生態系」そのものだ。
「そっか。じゃあ次いこっか? 入り口からこれだもん、期待しちゃうよ」
 凛々子に引きずられるようにして館内を巡った。
 不気味な深海生物の展示があった。長い足をもつ、一抱えもある蟹の展示があった。川魚が模造の河を跳ねていく展示があった。
 蛸壺にはまっている蛸までいて、凛々子が指を指して笑った。
「これっ、おかしいよねっ」
「なにが面白いんだ? ぐにゃぐにゃして薄気味悪いだろ」
「壷にはまってるのを見たら、ボクの笑いのツボにはまったんだよ!」
「くだらない! やっぱり子供だよ」
「うるさいなあ」
 その次の部屋は一味違った。円柱型の水槽が室内にいくつも立ち、ライトの淡い光で照らされていた。わずかに青みがかった光を放っていた。
 そして円柱水槽の中には、水に溶け込こんでしまいそうに透明性の高い小さな生き物が何十となく、その傘型の身体を躍動させて泳いでいた。
「これ……」
 クラゲだ。頭ではわかっていた。だが動いている現物を見たのは初めてだ。これほど幻想的で、ガラス細工のように繊細な美しさをもつ生き物だとは想像だに していなかった。
 ……これは。この世の、いきものでは、ない。
「あ、けっこう綺麗だね。……どうしたの?」
 立ちすくむ敬介に、凛々子が首をかしげる。敬介の肩を小突いて、からかう口調で、
「あー。もしかしてクラゲ好き? 癒されちゃった? こういう綺麗でフワフワしてるのが好きなの? そっちこそ女の子みたいだね?」
 凛々子の声は聞こえていなかった。フラフラ歩き出して室内を見て回った。
 見れば見るほど綺麗だ。ガラスのように透明で、まるで身体構造が感じられないものが泳ぐ姿は、新鮮だった。とても清浄なものだと思った。よく見ると水槽 ごとに違う種類のクラゲがいるではないか。指先より小さなもの、逆さになっているもの。子供の顔面ほどもあるもの。
 見ていると、心が落ち着く。ここは地上の汚れが排除された異界だ。そうとすら思った。
「あのー。敬介くん?」
 肩を叩かれて、ようやく我にかえった。
「ん?」
「そんなに好きだったら写真とか撮る? 使い捨てカメラ売ってたよ? びっくりしちゃったよー。魂とられちゃった? みたいな」
「いや、いいんだ……それより。さっきは悪かったな。男っぽいとかいって。男も女もない、いいものはいいんだ」
 凛々子は一瞬きょとんとした顔になって、すぐに微笑んだ。
「そう。いいものはいい」
 それから館内をめぐるうち、二人の好みの差は明確になっていった。凛々子は動きの激しい、怪獣のような外見の生き物を見て大喜びする。小学生男子と一緒 になってきらきらした瞳で見つめる。いっぽう敬介は綺麗なもの、可愛らしいものがゆったり動くのを見て、ぼんやりと癒されるのが好き。
 もうお互い何の文句も言わず、好きなものを見た。凛々子が目を輝かせてアザラシのエネルギッシュな泳ぎを見つめていると、なぜだか敬介もあたたかい気持 ちになった。
 最後は土産物屋に出た。水族館の生き物をかたどった置物が、キーホルダーが、お菓子類が、所せましと置かれている。
「商売うまいねー。必ずここを通るようになってるんだね」
 子供に頼まれて、ついつい買ってしまう親が多いようだ。いまもレジでは、ペンギンの形をしたヌイグルミを小さな女の子が買ってもらっていた。
「欲しいでしょ? 買ってあげようか?」
「いくらなんだってそこまで女の子っぽくはないぞ!」
「見たかったなあ、ヌイグルミ買って、電車の中で急に恥ずかしくなる敬介くん」
 水族館から出たところは海辺だ。すぐ右手が砂浜になっていて激しい波が押し寄せ、沖合いにはサーファーたちが数十人も波風と格闘していた。見上げれば雲 一つない澄んだ青空に、トンビがくるくると旋回していた。
 空を見てぼうっとしていると凛々子がぽんと肩を叩いた。
「どうしたの?」
「いや……なんていうかさ。すごく景色が綺麗に見えてさ。おかしいよな、こんなの水族館に入る前にも見たのにな。ぜんぜん違って見えるんだ」
「ん、それは当然のことだよ。受けとる側の心が変わったんだ。入る前はとても景色を楽しむような気分じゃなかったでしょ?いまはとってもリラックスしてる から、綺麗な世界を素直に受け取れるんだよ」
「リラックスか」
 そう言って敬介はまた天を仰ぎ、ため息をついた。
 リラックスは、だらけているだけだと思っていた。己を磨くことに全てを捧げられない怠け者の、単なる言い訳だと思っていた。
 でも違った。余計なものを脱ぎ捨てたような軽やかな気分だ。
「ところでさ、お腹すかない? どっかでご飯食べない?」
「え、今か?」
 時計を見たら、十二時半だ。
「混んでるだろ、今は。観光地の昼飯時だぞ?駅前にコンビニあったからそこで弁当買って」
「それじゃ楽しくないでしょ、もうっ。もっと楽しもうよ」
「ああ、そうだな。任せるよ」

 7

 13時10分
 小田急線車内

 食事が終わって駅へと向かった。
 帰りには特急ではなく普通の電車を使った。
 ホームに停車してドアが開くや否や凛々子は駆け込み、身体がバウンドするほどの勢いでシートに飛び乗って、「早く早く!」
「子供か……」
 と苦笑しながら敬介が隣に腰を下ろす。
 電車はゆっくりと街中を進んでいく。帰宅には早い時間のため車内は空いている。
 二人は水筒を出して、紙コップでハーブティーを飲み始めた。
「これ、美味いな」
「うん……」
 凛々子はなぜか生返事だ。
「楽しかったな……」
 まだ帰るのは早いんじゃないか? 町田でもう少し遊ぼう。そんなことすら考えていた。どうやって言い出そうか……
「うん」
 凛々子はまた、敬介の顔も見ないで生返事。不審に思って顔を見ると、憂いの表情を浮かべている。
「どうしたんだ?」
「あのさ。ちょっと考えてたんだけど……うーん、これ言っていいのかな……怒られそうだなあ。うん、今だから言うね。今なら聞いてもらえる」
 よほど大事なことなのか、神妙な顔つきになって、深呼吸を一つ。
「昨日さ、ボクが誘ったら、敬介くんは言ったじゃない。『俺には姉さんがいるから遊べない』って。『姉さんが大切だから、蒼血殲滅に全てを捧げる』って」
「言ったけど……」
 せっかくの楽しい気分だったのに、急に気持ちが醒めてくる。日常である「蒼血」の話題を浴びせられたからだ。
「あれってね。変だと思うんだ。落ち着いて聞いてね」
 そんな話を今するなよ、という不快感が込み上げてきたが、間近で見る凛々子の表情があまりに厳粛なものだったので言葉を失った。今日はじめて浮かべる表 情だ。むしろ蒼血と戦っていた時の表情に近い。
「だって、キミのお姉さんを酷い目にあわせた蒼血は、その場で殲滅されたんでしょ。つまり犯人は死刑になったんだ。それなのに、関係無い別の蒼血を、蒼血 という生き物自体を、仇として憎んでいる。例えば中国人犯罪者の被害を受けたからって、中国人をぜんぶ憎むのって変じゃないかな?」
「お前……」
 不快感に加え、不信感までもが急激に膨れ上がった。
「弁護するつもりか? 蒼血がたくさんの人間を殺しているのは事実だろうが。悪を憎んで何が悪い」
「『悪だから憎んでいる』なら、そう言えばいい。でもそれはお姉さんとは関係無いよね。『姉を大切に思っているから蒼血を滅ぼす』というのは理屈が通らな い。敬介くんが蒼血を倒したからって、お姉さんの幸せにどう繋がるの?」
「なっ……」
 敬介はあえいだ。
 今日一日かけて育まれた凛々子への好意も、友好的な気分も吹き飛んだ。胸の内の聖域に土足で踏み込れたからだ。
 睨みつけ、唸るような低い声を叩きつけた。
「何が言いたいんだ、はっきり言ってみろ」
 凛々子は動じない。大きな瞳でまっすぐに敬介を見詰めたまま、小さな顎に手を当てて喋りだす。
「あのね、ボクは昔、作家志望の男の人と知り合ったの。その人はね、子供のころ学校でひどくイジメられていたんだって。だから復讐のために小説を書いてい るんだって。
 『ベストセラー作家になって相手より偉くなってやる、みたいな感じ?』ってボクが訊くと、その人は自分に酔っている感じで微笑んで、『そんな単純なもの じゃない』って。
『自分が本当に憎んでいるのはイジメを容認している空気そのもので、その空気を一掃しなければ勝ったことにはならない』んだって。『だから僕は小説を書い て世の中に広めて、イジメを容認する空気をなくして世の中を優しくするんだ』って。『それが僕の戦いなんだ』って。どう思う」?
「どう思うって、そりゃお前。訳が分からない。ツッコミどころだらけで」
「うん。ボクもさっぱりわからなかった。イジメた奴に直接仕返しする訳じゃない。世の中を変えたいなら政治家になればいいのにそんなことは目指さない。 言ってる事とやってる事が矛盾しすぎて。でもボク変わった考えって好きだから、『それどういうことですか?』っていろいろ訊いたの。でも彼は何一つまとも に答えられなかったよ。しまいには涙目で怒り出しちゃった」
 そこで言葉を切って、
「たぶん自分を騙してる、ほんとの気持ちを隠してるんだと思うよ。ほんとはとっくの昔に仕返しをすることなんて諦めているのに、諦めてるって認めるのが嫌 だから、『自分は今でも戦っている』って思い込もうとしてる……自分に言い聞かせてるんだと思う。でもそれは本当にやりたいことじゃないから、彼はきっと ずっと、満たされない気持ちを抱えたまま生きていくことになると思う。その後会ってないから、わからないけど」
「そんなの、そいつが甘ったれっていうだけの話だろ? さっさとやり返すことも、潔く諦めることもできないからだ。なんでそんな話を?」
 そこで敬介は気付き、語気荒く詰め寄る。
「俺に似てるって言うのか、その甘ったれが!?」
「似てるよ。敬介君の心理は、彼ほど屈折してないと思うけど……理屈が通ってないという点では一緒。たぶん敬介君の場合は、『吊り橋効果』の一種じゃない かな。吊り橋効果って知ってるよね。吊り橋みたいに危険な場所に男女がいると危険のドキドキを恋のドキドキと勘違いして好きになっちゃうんだって。たぶん 敬介君は、蒼血に襲われた時の恐怖のドキドキと、お姉さんを大事だと思う気持ちがごっちゃになってしまったんだよ」
「何が言いたい? 蒼血を憎むなっていうのか!? 戦いをやめろって言うのか!?」
 唾がかかるほどの至近距離で、乱暴に言葉を叩きつける。
 車内の他の乗客たちが驚いて敬介を見る。非難の目を向けるものもいた。
 だが知ったことじゃない。
「そうは言わないけど。考えて。自分は本当は何がやりたいのか。お姉さんにとって本当に幸せなのは何か。ちゃんと考えておかないと、きっといつか破綻し ちゃうよ」
「余計なお世話だ! まさか、今日のことはこれが目的だったのか。俺に説教するのが目的で。そうなんだな!?」
 唇を噛み締めて目を背ける凛々子。敬介は確信した。やはりそうなのだと。
 顔が上気するのがわかった。胃袋がストレスでぎゅっと縮んだ。紙コップを持った手が震えた。
 ……傷ついた。あんなに楽しかったのに。日常を忘れるほどに。この新しい世界に踏み出してもいいと思っていたのに。
 こいつにとっては、ただの作戦だったのだ。俺を懐柔するための計略!
「……ごめん、ね。半分は、ほんとにデートしたかったんだよ。楽しかったのは、ほんとだよ?」
「ふざけるなよ!」
 胸のうちで膨れ上がる怒りが、敬介を動かした。ハーブティーの紙コップを握りしめたまま勢いよく立ち上がる。
 コップの中のハーブティーが空中に舞って、凛々子に頭からぶちまけられた。
「あっ……」
 敬介と凛々子が同時に声を上げる。液体が凛々子のつややかな髪を濡らし、小さく尖った鼻を、柔らかそうな白い頬を伝っていく。彼女は大きな目をますます 大きく見開き、頬は震えて、泣き出す寸前の子供のようだった。
 さすがに敬介は罪悪感を覚えた。凛々子の潤んだ瞳が胸をかきむしる。もちろん事故だ。だが凛々子は、「わざとだ」「それほど怒っていた」と受け取っただ ろう。
 謝ろうと思った。だが口を開けて凛々子を見おろしたものの、たった一言の謝罪が口から出てこない。かわりに、いがらっぽい喉からざらついた声で、一つの 言葉が吐き出された。
「あ……謝らないからな」
 なんで自分はこんなことを言ってしまったのだろう。言った瞬間に後悔が胸を衝いた。
 訂正するより早く、顔を伏せたままの凛々子が消え入りそうな声で答えた。
「……うん。わかってる。ごめんね」
 ふたつの感情が敬介の中で荒れ狂った。
 ……なんでお前が謝るんだ、俺を責めてくれ。 
 ……そうだ、お前は俺を傷つけたから当然だ。
 二つの感情の衝突には決着がつかず、敬介はいかなる言葉も発することができなかった。胸の中に冷たい鉛が詰まったような苦しみを抱えたまま、敬介はゆっ くりと腰を下ろした。
 二人は喋らない。列車の揺れる音がやけに大きく聞こえる。
 何かを言わなければ、と思って凛々子の横顔をのぞき見る。凛々子はハンカチで顔を拭ったものの、泣きそうな表情のままだ。こんな凛々子は見たことがな かった。明るくおどける凛々子、敵と戦う勇ましい凛々子、あわてふためく凛々子……いつだって凛々子の中にはある種の強さがあったのに。こんなにも脆い一 面があったとは。
 どれほど長く横顔を見つめ続けていただろう。ぎりぎりと胸を締めつける罪悪感が、凛々子への怒りを上回った。
 謝ろう。少なくともこの件については俺が悪い。
 手の中でクシャクシャになっている紙コップをさらに強く握りしめ、息をひとつ吸い込んで、
「……凛々子」
「え?」
 凛々子が顔を上げる。暗い顔のままだ。
 だが、その瞬間。凛々子の抱えるリュックから電話のベルが鳴り響く。敬介のポケットの中でも携帯電話が着信メロディを発する。敬介は音楽にこだわりがな いので、買ったときのままだ。
 ふたりに同時に電話がかかってくるなど、用件は一つしか考えられない。
 敬介は携帯を耳に当てる。
「……殲滅機関です。作戦局員・天野敬介に緊急招集指令を発します」
「はい、天野です」
「都内にて第一種蒼血事件が発生しました。ただちに日本支部へと集合してください。所要時間は?」
「了解。所要時間は……」
 そこで言葉に詰まった。敬介はそもそも遊びにいくこと自体がないので、いま電車がどのあたりを走っているのか分からず、時間など予測できない。
 目の前の凛々子を見ると、彼女も電話を取って、張り詰めた表情で会話している。
「現在、藤沢市内を町田方面に移動中。列車乗り換え時間含め、相模補給廠到着まで三十分。はい。はい。ヘリ送迎は必要ありません」
 そのまま真似して言うことにした。
「到着まで三十分程度です」
 電話を切ってポケットに戻した。
 凛々子と目が合う。彼女は爽やかな微笑を浮かべていた。先ほどまでの、涙をこらえる表情は消えていた。口元は引き締まり、目には決意と誇りの光があっ た。
「指令、入っちゃったね? 残念。でも、行かなかったからボーンとやられちゃうし」
 ボーン、のところで掌をパッと開いた。
 デートの最初のような、明るくおどけた仕草。
「……ああ」
「第一種ってことは、戦闘局員が大量投入されるかもね。ボクの足、引っ張らないでよ?」
 そうだ、彼女は強いんだ。その心も。
 八十年間、蒼血と殲滅機関の両方を敵に回して戦い抜いてきた戦士。「反逆の騎士」エルメセリオンだ。
 敬介を苛んでいた「謝らなければ」という気持ちが急速にしぼんでいった。
 ……謝るタイミングは完全に逸してしまったけど……
 いいよな……
 自分に納得させる。
 窓の外を流れていくアパートや一軒家の連なりが、やけに遅く感じられた。三十分? もっと早く着かないものか。

 8

 闇の中で、ふたつの超生命が会話していた。
 幾百年もの時を生き抜いたフェイズ5の蒼血。
 『神なき国の神』ヤークフィースと、『魔軍の統率者』ゾルダルートだ。
 二体の間を飛び交うイオン濃度信号のパルスを、人間の言葉に翻訳したならばこんな風になるだろう。
『時が来ました。目を覚まして下さい、ゾルダルート』
『本当にやるのか、ヤークフィースよ?』
『おや、怖じ気づきましたか? もしや久々の文明国が恐いですか? 日本には殲滅機関の大拠点がありますからね』
『ほざけ、小僧。儂がアフリカや中東を転々としておったのは戦が多いからに過ぎん。この日本で本当に戦など起こせるのか、と言っているのだ。儂とて歴史く らいは調べた。もう半世紀もの間、小競り合いすら起こっておらんぬるま湯の国ではないか』
『ご心配なく。日本は必ず戦火に包まれます。それも日本の歴史上有数の大戦争がね。神の戦によってこの国は焼き滅ぼされ、瓦礫の中から誕生するのです。こ のわたしに統治された理想の国家が!』
『やれやれ、また人形遊びか。ソ連邦を半世紀も弄んで、まだ満足できんのか?』
『当然ではありませんか。わたしは人類の救済を決して諦めませんよ。楽園の創造を、すべての争いや苦しみの除去を。ソビエトは楽園の器として不完全だった のです。この国ならば、世界への楔となり得る』
『まあ良い、人形遊びに興味はないわい。思う存分戦えればそれでよい』
『存分に腕をお振るい下さい。エルメセリオンと殲滅機関が力を合わせた今、わたしでは力不足。ゾルダルート殿の武勇が必要です』
『おうとも、任せておけ。だが頭を使うのはお前の仕事だ。失望はさせるなよ?』
『愚問ですな。必ずや成功させます。ソビエトより放逐されて十数年、すべてをかけてこの計画を練り上げてきたのですから。この国の人々の心に大きな穴が開 いていることはすでに把握しています。この姿を選んだのも、この場所を選んだのも、少女神というイコンを効果的にするため。いま神が降り立ちます。そして 生まれるのです、黄金なる世界が!』
 
 9

 12月30日昼
 東京都江東区・東京ビッグサイト

 敬介と凛々子が水族館で魚やクラゲに目を輝かせていたころ、愛美は東京のシーサイド、有明の東京ビッグサイトにいた。
 十年ぶりにコミケ会場を訪れていた。
 愛美はかつてアニメを観るのが好きだった。マンガを描くのが好きだった。中学生の時に入った美術部が熱烈なアニメファンの集まりだったことがきっかけ だった。中学卒業の頃には友達と一緒にアニメパロディの同人誌を作っていた。高校や大学に進むに連れて趣味はますます濃く、同人誌は立派な体裁になって いった。プロのクリエイターになるつもりはなかったが、同好の士と一緒にオタク趣味の世界を漂うのが何よりも楽しかった。ずっとこんな日々が続けばいいと 思っていた。まだ幼い弟の敬介にアニメのLDを見せて少しずつ洗脳しつつあった。美少年キャラのコスプレをさせて会場で見せびらかすんだ、などと夢見てい た。
 生活に不自由がなかった、遠い昔の話だ。
 ……1997年の暮れ、両親が事故で亡くなった日、そんな幸福な人生が終わった。
 彼女が一家の大黒柱になった。大学をやめて働いた。派遣社員の給料だけでは足りずに土日にはアルバイトを入れた。眠い目をこすり、自分の頬を叩いて活を 入れながら働いた。それでも収入は両親の稼いでいた額には遠く及ばなかった。弟と二人で、木造瓦葺の老朽化したアパートに転居した。そんな状況で趣味を続 けられるはずもなかった。観ているだけで辛くなるので、同人誌もアニメLDもすべて処分した。それでも電車に乗って、車内の人間がマンガの単行本を読んで いるのを見かけるだけで胸が締め付けられた。
 ああいう贅沢な世界はもう自分には関係ないんだと、自分に言い聞かせた。できるだけ仕事を入れて忙しくして、何も考えないようにして、ただ自分は弟を養 うために生きているんだと、家族を支えるために動く機械でいいんだと、そう自分を納得させた。もちろん弟の前では笑顔の仮面を被り続けた。
 それから十年の間にいろいろあって。変質者に襲われて働けない体になったり、生活資金の援助を受けてなんとか生きてこれたり。敬介が就職してくれて、 やっと金銭の余裕ができたり。
 だが暇になっても、敬介がたくさん給料をもらって貧乏から解放されても、オタク趣味を再開しなかった。
 敬介に悪いから。
 敬介はどんな仕事をしているのか詳しく話してくれないが、高い給料からしてよほど過酷な仕事なのだろう。そんな仕事に身を投じて、自分の趣味など一切持 たずに、驚くほど安物の服を着て……まだ十九歳なのに、自分の全てを姉のために捧げて。
 それなのに自分だけ、家でのんびりくつろいで趣味の世界に浸るなど、できるわけがない。
 だが昨日、驚くべき光景を目にした。
 敬介が可愛らしい女の子とじゃれあっていた。敬介は照れていたが、勘で分かる。あれは相思相愛だ。
 やっと自分の楽しみを、自分の幸せを見つけてくれた。
 だったら、自分も戻ってみようか? 十年も封印してきた気持ちが沸き起こってきた。今朝、デートに出かける敬介を見送った。そわそわしつつも楽しそうな 敬介の様子を見ているうちに、いてもたってもいられなくなった。
 ネットで調べてみたら、ちょうど今日が冬コミケの最終日だった。そして、十年前に仲良くつきあっていたサークルが、今でも同じ名前で参加していることが 分かった。
 自分は身体が弱ってるじゃないか、あんな人ごみに耐えられないよ、と何度も自制を考えたが、気がついたら電車に乗って都心を目指していた。
 不安もあったが、会場が近づくにつれて期待が不安を圧倒した。
 ……だいじょうぶ。ちゃんと調べた。いまの会場は身体障害者の来場にも対応してる。
 ゆっくり歩けばいいし、お昼過ぎに行けば、長く並ばないでもスムーズに入れる。
 その通りだった。りんかい線のホームから地上に上がってわずか十五分そこそこで、会場内に入ることができた。
 サークルのカタログはもう売っていなかったので、ネットのページをプリントアウトしたものを持って進んで、会場に入った。
 東京ビッグサイトと呼ばれる巨大な逆ピラミッド型構造物の奥にある、会場は。
 エネルギーの坩堝だった。無数の人と、そして美少女のイラストに満ち溢れた空間だった。
 コンクリートの柱が何十本も立ち並ぶ、四角い箱状の会場だ。横に百メートル、縦には三百メートルは軽くあるだろうか、しかも天井を見上げればボールを投 げても届かないほどに高い。そんな広大な空間に、机が縦に数十、横に数十と並んでいる。
 机の列には売り子がずらりと座って、色も形も様々な本を売っていた。
「新刊くださいっ」
 勢いこんで若い女性が売り子に話しかける。
「新刊はコレですが……うちの本けっこうモロな描写あるけど大丈夫ですか?」
「気にしません」
 若い女性は笑顔で答えて、同じ本を三冊も買っていった。
 歩きながら眺めると、やはり同人誌の印象は十年前から変わっていない。表紙がカラーの薄い本で、表紙はたいがい女の子。変わったのは女の子の服装くらい だ。昔はメイドなんてものは流行っていなかった。
 列の間を人が歩き回って、ときどき立ち止まっては本を手にとって読んでいた。売る側も美少女イラストの看板を立て、あるいはスケッチブックを開いてい た。看板が宙でふらふら動いているものもあった。よく見ると長い列ができていて、列の最後尾がその看板を持っているのだ。その看板の目の前を通り過ぎた。 看板には目のくりくりと大きな絵柄でメイド姿の娘が描かれ、娘は「ここが最後尾ですっ」と叫んでいた。最後尾のさらに後に次から次へと人が並んで行き、看 板が手渡されていく。
 そういう売れっ子サークルがあったかと思えば、机の上にコピーで作った小冊子を本の数冊だけ置いて、なんの宣伝もしていない売る気ゼロのサークルもあっ た。そのサークルの机には地味目の格好の女の子がふたり座って、マグカップを傾けながら楽しそうにアニメの話をしていた。
 みんな幸福そうだった。売れているサークルもそうでないサークルも、そして買いに来た人も。
 見ているだけで心が温かくなってくる。
 ……そうだ、自分はずっとここに帰ってきたかった。帰っていい、もう帰っていいんだ。
 そう思うと心が浮き立った。杖を突きながらゆっくりとしか歩けないことがもどかしい。もっと早くと自分に叱咤しながら、目当てのサークルを目指した。
 と、その時。目の前を大きな列が遮った。男性向けというか、ロリを強調しているサークルらしく、列の最後尾プラカードは裸の幼女が恥ずかしがっている 姿。並んでいる客達はやや老けた男性客ばかりで、手に提げている紙袋はことごとく美少女イラスト入りだ。
 温かい気持ちが少しだけしぼんだ。
 こんな通行の妨げになるような列の作り方、マナー悪いなあ、と思った。
 でも、どうやってどいてもらおう。自分はゆっくりとしか喋れないから、通じないかも知れないし。
 一瞬の逡巡のうちに、愛美のとなりを歩いていた若い男性が、同じことを思ったらしく列の連中を怒鳴りつけた。
「おい! これじゃ邪魔だろう、列どけてくれよ。常識考えてくれよ」
 だがロリコンサークルの列に並ぶ中年男性たちは動かない。白髪交じりの頭をさも不快そうに掻きむしり、苦々しい顔を青年に向けて、毒づいた。
「あ? 何が常識だ。おれたちゃ晴海のガメラ館の時代から並んでるんだ。ガキが勝手に常識とか作ってんじゃない」
 青年も即座に反発する。
「何年やってようが偉くもなんともないだろ。お前らみたいな奴がいるからコミケが誤解されんだよ」
 次の瞬間、ロリコンサークルに並ぶ男たちの顔が怒りと屈辱にひきつった。即座に彼らは列から飛び出し、青年に殴りかかった。
「なっ……?」
 青年は吹っ飛んだ。少年漫画風のイラストを展示している机に激突し、机を薙ぎ倒した。同人誌とスケッチブックが宙を舞う。その机に向かっていた人たちが 怒気もあらわに立ち上がった。その両脇のサークルの人たちも立ち上がった。彼らはみな若い男で、ロリコンサークルに並んでいる男達より小奇麗な格好をして いる。
「てめーっ!」「なにやってんだよっ!」
 最初に暴力を振るった二人組に、いっせいに飛びかかった。パンチが男の顔面をとらえて鼻血が噴出す。たちまち引きずり倒される。
「いてっ……おまえっ……いでぇっ……」
 数人の男に取り囲まれて、もう二人の姿は見えない。ごすっごすっと低い殴打の音と、涙声だけが聞こえた。
「やめっ……いやっ……やめっ……」
 悲鳴が途切れ、蛙の合唱にも似た嘔吐の音。
「きたねっ! 俺のジャケットが! いくらしたと思ってんだよ!」「くせえんだよ! てめえは!」
 怒声がさらに膨れ上がる。と、ロリコンサークルに並んでいた中年たちが加勢した。二人組を取り囲んだ人たちをさらに取り囲み、蹴飛ばした。
 ……え? なにが起こってるの?
 愛美は驚愕に震えた。まるで信じられない。
 コミケで暴力事件が起こることなど十年前の常識ではまず絶対になかった。最大級の犯罪といえばスカートの中を隠し撮りする類で、みんな平和的だったの だ。
 だが確かに目の前で暴力事件が起こり、反撃が繰り返されている。
「いでぇっ! こいつ! こいつナイフを!」
 ロリコンサークル側の中年男が頬を押さえて絶叫していた。頬に当てた手の下から止め処もなく鮮血が流れ落ちていた。
「おうっ! 悪いかブタが!」
 彼を斬りつけたのは若い男だ。手には大きなカッターナイフを握っている。同人誌の梱包を解くためにナイフを持ち歩くのは、サークル参加する人間にとって は常識的なことだ。
 刃物沙汰になって、さらに暴力は拡大した。周辺の机に向かっている売り子たちが次々に立ち上がり、拳を振り上げて殴りあいに加わった。吹き飛ばされた人 間が激突して、一つまた一つと机が倒れた。
 愛美は何もできなかった。殺気立った人並みが左右を高速で通過していくのに怯え、ただ杖をにぎりしめていることしか。真っ白だった頭の中に、やっと一つ の考えが浮かんだ。
 これがテレビで取り上げられたら。コミケのイメージは絶望的に悪くなる。もう開催できなくなるかも。
 だから叫んだ。
「やっ……」
 声が出ない。やめろと言いたかったのに。
「やあっ……」
 やはり声帯がでたらめに震えて、しわがれた小さな声が出ただけだ。
 押し合いへし合い、数十人規模で殴りあう人々に、愛美の声はなんの影響も与えられなかった。
 もう一度試そう。
 口を開いたその時、吹き飛ばされた男の背中が迫ってくる。よけられなかった。将棋倒しになって倒れた。痛い。後頭部を打って、頭が割れるように痛い。吐 き気がこみ上げた。たくさんの男達が怒りに歯をむき出しにして、愛美の上を走った。仰向けに倒れている愛美のことなど気にもせず、身体を踏みつけにして男 達が進んだ。パキリと胸のあたりで音がした。全身を悪寒と激痛が貫いた。胸を踏まれて肋骨が折れたのだ。
 涙がにじんだ。なんで。どうして。どうして。
「てめーっ!」「おおーっ!」
 訳の分からない叫びが何十人分もいっぺんに押し寄せてきていた。誰も混乱から逃げようとせず、むしろ乱闘に参加しようと押し寄せていた。信じ難いことに 女の声も混ざっていた。
「ひっ……ひっ……」
「邪魔だっ!」
 顔面に、重量のある一撃。歯が砕けるごりっという重い音。走る群衆の一人が、愛美の顔を蹴飛ばしたのだ。勢いよく身体が転がって、なにか鋭いものが後頭 部にぶつかった。倒れた椅子の足だろうか。
 鼻が痛くて、熱かった。それ以上に熱いものがとめどもなく溢れてきた。鼻血だろう。いっぽう頭の後ろからは、冷たいものが流れ出ていくのがわかった。こ れも血だろう。後頭部を切ったのだろう。不思議なことに頭の怪我は大して痛くなかった。ただ怪我のまわりに冷たい感覚が広がった。首筋の辺りにまで冷たさ が広がった。
 意識がぼやけてきた。
 視界もぼやけている。
 眼鏡が飛んでしまったのだろう。自分の体の上を通り過ぎていく人々の顔も分からない。ただ茶色や黒の大きな塊に手足が生えて動き回っているような。塊た ちの動きはますます激しくなっていた。ぐちゃぐちゃに茶色と黒と灰色の混じった濁流が頭の上を通過していた。数え切れないほどの罵声が怒鳴り声が、そして 悲鳴が聞こえた。
 これはもう、ただの暴力事件ではない。暴動というのだ。
 薄れていく意識の中で、愛美はただ怯えて、当惑していた。
 ……どうして? どうして?
 ……コミケは平和的で暖かい場所だったのに。絶対にこんな事件が起こるわけなかったのに。
 自分がいなかった十年の間に、この暖かい場所はどうなってしまったんだろう。
 そのとき一つの叫びが、無数の怒号と悲鳴を貫いた。
「みなさん、お静かに!」
 若い女の声だった。冷たく硬質な澄んだ声だった。声の大きさそのものは、決して怒鳴り声ではなかったはずなのに、なぜだかたくさんの怒鳴り声に紛れず に、すべての騒音を圧倒し、貫いて聞こえた。まるで『存在の根元的な質』が違うとでもいうかのように、その声は際立っていた。
 ついで、歌が聞こえた。同じ女性の声だろう。なんて綺麗な声だと、愛美は感動に震えた。
 ハミングからはじまり、愛美のまるで知らない言語でつむがれる歌。しだいに激しく情熱的になっていく。愛美が聴いたことのあるどんな音楽とも似ても似つ かないメロディだ。歌詞の意味が一つもわからないだけに、歌のようにも、異教の聖句のようにも聞こえた。愛美が知っている中でいちばん似ているのは讃美歌 だ。
 その歌声が大きくなってくる。近づいてくるのだ。歌声が強さを増していくと、反対に人々の怒号と悲鳴が弱まっていった。
 みんな聞き入っているのだ。愛美はそう思った。そうだろう、自分だって、こんなにも気持ちがうっとりして、怪我の痛みも忘れそうなのに。
 すぐそばに歌声の主が近づいた。きっとわずかに二、三メートル。目を凝らした。
 なんと、頭上に人間が浮かんでいた。間違いなく空中に立っている。
 近眼のせいでぼやけてよく顔が見えない。だが黒っぽい服を着ていること、髪を長く伸ばしていることはわかった。
 歌声の主が、ちょうどその位置で立ち止まった。
 歌をとめ、言葉を投げかけてきた。
「皆さん、静まってくださいましたね。ありがとうございます。わたくしは今から、みなさんの傷を癒します。まずは、そこの貴女」
 そう言って彼女は飛び降りた。すばやい動作で、愛美の前に膝を突き、覆いかぶさった。
「え……」
 愛美が驚いていると、もっと驚くべき行動に出た。
 唇を重ねてきたのだ。
 病気のせいで恥ずかしくも荒れてしまった愛美の唇に、恐ろしいほど柔らかい唇が触れる。
「うぐっ……」
 唇を強引に割って、舌を入れてきた。蕩けるように熱く柔らかい舌が、唇の間から滑り込んでくる。意志をもつ独立した生物のように口の中を動き回り、喉の 奥へと侵入した。
 愛美の全身に温かさが満ち溢れた。
 冬の日に凍える思いをして、やっとたどりついた家の布団にもぐりこめたような。激痛と緊張でこわばっていた筋肉が脱力していく。気持ちがよかった。この まま眠り込んでしまいそうだった。
 熱い舌がルートを逆戻りして口の中に上がってくる。唇を通して、口の中から出て行った。
 女性が身体を離した。
「さあ、貴女は癒されました。救われました。身体を動かしてごらんなさい」
 そう言われても。と思いながら手足を動かし、驚愕する。まったく痛みがない。それどころか素早く力強く動く。こんなに軽々と四肢が動いたのは、もう遠い 昔の話だ。
 床に着いた愛美の手は、力強く身体を持ち上げた。起き上がった。肋骨が折れる音が確かに聞こえたのに胸の痛みもない。
「え……?」
 自分の顔をさわってみる。鼻血が止まっていた。そればかりか、へし折られたはずの前歯が元に戻っている。頭の中が「ありえない!」という思いで一杯に なった。だが治っている。奇跡。これはまるで奇跡。
 他の部分はどうだろう、と思って、立ち上がった。
 今度こそ心臓が止まる思いだった。尻をついた状態から、杖もなしに立ててしまった。
 まさか。まさか。まさか。
 胸の鼓動が高鳴る。片足をバレエ選手のように上げてみた。すっと抵抗なく上がる。身体がバランスを失うこともない。足をそろえて、あるいは片足でジャン プしてみる。できた。できるわけがないのに。
 ズボンの上から太腿に手を当てた。筋肉が衰弱し腱が破損し、鶏がらのようにやせ細っていたはずの足が、普通の女性の太腿になっていた。
「うそ……こんな。こんなのって! 治ってる! 治ってる!」
 思わず歓喜の声が漏れた。その声をきいていよいよ驚いた。ここ数年聞きなれた、抑揚もない、たどたどしい自分の喋りではない。ちゃんと舌が廻っている。 これが本来の自分の声。
 言語機能まで含めて、あの五年前の日に失われたものが、健康な肉体がすべて帰ってきた。
「いかがですか」
 そう問われて、目の前に立つ女性をまじまじと見つめた。
 あ、と息を呑んだ。
 眼鏡は無くしたままなのにしっかりと見える。どんな奇跡なのか、子供の時からの近眼すら矯正されてしまった。
 こうやってみると、女性はまだ十代の少女だった。ただ身長百七十センチはある長身で、大人びた顔立ちであるだけだ。切れ長の目とよく通った鼻筋。生身の 人間らしさが薄い、つめたい、絶世の美貌の持ち主だ。髪も艶やかな漆黒のロングヘアで、照明を浴びて微妙に虹色に輝きながら背中へと伸びている。身体全体 を黒いロングコートで包んでいる。黒髪、恐ろしく整った顔の造作、漆黒のコート……この三つが相まって、厳かな雰囲気を生み出している。
「あの……あのっ。信じられません。ありがとうございますっ、ありがとうっ……いったい、あなたは、何者なんですかっ!?」
 愛美の問いには答えず、ただ漆黒のコートの少女は周囲を見渡した。演説でもはじめるかのように、長い腕をすっと左右に広げた。
「みなさん。他の方の傷ついた身体も癒します」
 おおっ、と声が上がった。
「ただし。私がいうことに従ってください。
 けっして憎みあわないこと。
 暴力を振るって自分を傷つけた相手のことも、自分を罵った相手のことも、けっして憎んだり、仕返しを考えてはなりません。なぜならみなさんが今やったこ とは、この愚かな暴力行為は、みなさんの責任ではないからです。みなさんの中の弱い心がやったことだからです。みなさんは弱い心の奴隷であったに過ぎない からです。
 だから憎まないでください、許しあってください。
 みなさんの中で、どうしても憎しみを捨てられない方はいますか? どうしても殴り合いを続けたいなら、今この場で申し出てください」
 愛美はまわりの人々を見た。
 誰ひとり怒りなど表していなかった。
 彼らのこわばった顔面には怯えと当惑だけが浮かんでいた。青ざめた顔をして、小刻みに身体を震わせている女性までいた。握りしめた自分の血まみれの拳 を、さも不思議そうにみつめている若い男性がいた。なんで人を殴ってしまったのかまったく理解できないのだろう。
 数秒が経った。誰も声を上げない。殴らせろと自己主張しない。
 黒コートの少女はうっすらと笑みをうかべてうなずいた。
「そう、それでいいのです。ならば癒します。まずはどなたから?」
 今度はすぐに、群集のあちこちで声があがった。
「俺! 俺です! 腕を折られたんです早く見てくださいッ」
「そんなことより彼女を! ぐったりして動かないんですよ!」
「子供の血が止まらないんです!」
 四方八方から叫びが殺到した。少女は軽く手を上げて、
「お待ちなさい。まずはこの子供です」
 そう言って、近くの机の下から六、七歳の男の子供を引きずり出した。
 人ごみにまぎれて愛美には見えず、誰も気付かなかったが、そんなところに子供が倒れていたのだ。集団に踏みつけにされた結果か、子供の手足はへし折られ ておかしな方向に捻じ曲がり、ヒューヒューと奇妙な音を出して息をして、顔は土気色だ。いますぐ救急車を呼ぶべき容態に見えた。
 少女は子供を抱きかかえてキスをした。わずか数秒間、子供の身体がわなないた。魔法でも見ているかのように手足の損傷が元に戻り、死人のようだった顔色 も回復する。子供がつぶらな瞳をあけて、
「あれ?」と首をかしげる。
 群集のあちこちからまた声が上がった。
 少女は子供をそっと立たせ、群集の中に分け入っていった。
 中で何が起こっているのか、愛美からは見えない。だが次々に歓喜の声が上がる。若者の、中年の声が。
「お姉ちゃん、ありがとう!」「ありがとうございます、ありがとうございますっ……」「こっちです。こっちにも来て下さい!」
 少女は果てしなくキスを繰り返し、怪我人を癒し続けているのだ。
 愛美の胸の中に感動が広がっていった。
 すごい。この人、本当にすごい。
 治療を何百回繰り返したろうか。
 少女は不意に、ふわりと浮かび上がって、また空中に立った。
 空中を歩きながら、人々を見渡して両腕を広げる。
「さあ、みなさん。みなさんの傷はすべて癒されました。約束を守ってくださって、ほんとうに感謝しています。
 でも、わたしはただ、傷を癒すためだけに来たのではないのです。
 さきほどから何度も問いかけられました。あなたは何者なのかと」
 そこで言葉を切り、立ち止まる。愛美を含め、何千とも知れない人々の視線が集中する。
「……わたしは嵩宮繭(たかみやまゆ)。
 わたしは、神の使いです」
 神の使い。突拍子もない言葉だ。
 だが愛美は驚かなかった。自分の身体がキスひとつで劇的に回復したのだ。医者が匙をなげた会話機能の障害までも。これが奇蹟でなくてなんだ。奇蹟を振り まく者を神と呼んで何が悪いのか。
 他の者もそう思ったらしく、疑いの声をあげるものはいなかった。
 黒衣の少女……繭は、強い口調で話し続ける。
「みなさんを救うためにきました。正確には、ほんのわずか前、みなさんが暴動を起こしたその瞬間、わたしは神の使いとして目覚めたのです。
 この者達を救えと、メッセージを受け取ったのです。救うための力と共に。
 みなさんの中から弱い心を一掃するためです。
 みなさん、自分の胸に手を当ててよく考えてください。暴力事件を起こしたくてこの場所に来たのでしょうか。自分と意見の違う者を殴ってやりたいでしょう か。いいえ、けっしてそんなことはないはずです。みなさんは、いまの日本にいる中で最良の人々です。誰も傷つけず、ただ美しい物語の世界で遊ぶことだけを 求める人たち。そして自制心にあふれた礼儀正しい人たち。
 それでも事件は起こってしまった。こんなにも拡大してしまった。
 なぜでしょう?
 それは人間の中に弱い心があるからです。嫉妬や怒りに我を忘れ、理性も優しさも失ってしまう心があるからです。人が人であるかぎり治せない病気です。
 でもわたしならば、みなさんの弱い心を取り除くことができます。わたしとともに来て、長い時間をかけて少しずつ心を作り変えていくのです。毒を出して、 心を鍛えなおすのです。必ずできます。
 わたしとともに、来て下さい」
 そこでまた言葉を切る。
 群集はざわめき始めた。愛美の目には、あちこちで顔を見合わせている人々が見える。
 戸惑っているのだ。何をすればいいのかと。
 人々を見おろしながら繭はまた喋り始めた。片手を振り上げる大仰な動作も忘れない。
「簡単なことです。わたしとともに国をつくりましょう。神によって導かれる国です。この日本の上に覆いかぶさる、もうひとつの社会です。すべての人が性別 も貧富も超えて、この国のもとに繋がります」
 愛美の傍らに立つ青年が小声で漏らした。
「宗教団体を……つくろうっていうのか?」
 繭はその言葉を聞き逃さなかった。
 立ち止まる。振り上げた腕を振り下ろして、その青年を鋭く指さす。
「そう、人間世界の言葉を使って言うならば、宗教団体ということになります。
 しかし、ただの宗教ではありません。
 世界で唯一つ、本当の神が率いる、本当に人を救える宗教なのです。
 さあ、来て下さい。今までの生活を捨てることになるかもしれません。しかし、それがどうだというのです。
 わたしとともにくれば、弱い心はなくなります。もう二度とこんな事件を起こすことはありません。もう他人に嫉妬も、蔑みも、怒りすら抱くことがなくなる のです。
 平穏で温かい心だけを、終生いだいて生きていけるのです。
 考えてもください。そんな温かい国が広がって、世界を多い尽くす事を。
 争いも妬みもない世界、傷つく人もいない世界を、わたしなら創れます。
 わたしと共に来ませんか。
 神の王国の建設は、決して容易なことではありません。参加する者は大変な抵抗を受けることでしょう。家族や友人さえもが敵に回るかもしれません。暴力で 弾圧されることもあり得ます。長く苦難に満ちた闘いになるでしょう。
 けれど。わたしは皆さんを信じています。みなさんの魂を信じています。みなさんはただ、マンガやアニメが好きだというだけでこの地に集まった。一文の利 益も求めず、社会の冷たい眼差しをものともせずに全国から集まった。
 皆さんこそ、愛のために生きる人々です。
 未熟で愚かな現世人類の中で、最良の人々なのです。
 そんなあなたたちならばきっと計画に加わってくれると信じています」
 人々は棒立ちで静まりかえっていた。人々の上に繭の言葉がふりそそぎ、心に染み透っていった。
 暴動という異常事態で揺さぶられ、治癒の奇蹟によって常識を剥ぎとられた、裸の心に。
 一人の男が手を挙げた。上ずった声で叫ぶ。
「わたしは参加します!」
 その一言がきっかけだった。
「わたしも! 俺も!」
「私も入れてください!」
 人々が次から次へと叫んで手を挙げる。
 愛美のすぐ隣でも、つい先程殴りあっていた二人の若者が涙声で叫んでいた。
「俺たちも行きます! いいよなっ!?」「ああ!」
 愛美の後ろからも次々に声が上がった。
「俺も!」
「私も!」
 強い熱をはらんだ、期待と喜びの声だ。
 たちまち何千本とも知れない腕の林が生まれて周囲を囲んだ。小柄な愛美の視界をすっかり塞いでしまった。繭の姿は、振り上げられた腕の林の向こうに隠れ てしまった。
 熱狂は愛美にも伝染していた。先程の涙が乾く間もなく、また熱い涙が溢れ出した。 
 わたしも。わたしも参加しないと。
 素晴らしい奇蹟を世界に広められるなんて。
 愛美も手を挙げようとして、一瞬だけためらった。
 先ほどの繭の言葉が胸をよぎったのだ。胸をチクリと刺したのだ。
 ……家族を敵に回して、家族を切り捨てて戦うこともあり得ます。
 敬介のことがどうでもよくなったわけではない。まだ赤ん坊のころからずっと敬介を見て、同じ屋根の下で過ごしてきた。この世で唯一の肉親、かわいい弟 だ。
 そんな敬介がもし反対したら。宗教に顔をしかめる者が多いことぐらい知っている。
 敬介が、あの生真面目な顔を悲しみに歪めてやめてくれよと懇願してきたら。わたしはどうすればいいんだろう。
 ためらいは一瞬だけだった。ハアッと深呼吸して背筋を伸ばし、片手を勢いよく挙げた。
 もう覚悟は決まっていた。
 反対したら説得すればいい。引き込めばいい。それだけのこと。いまのわたしには力がある。いくらでも喋れる。体だって動く。なにより、頭の天辺から爪先 まで、嬉しい! 頑張りたい! という気持ちに溢れている。
 だからきっと敬介だって説得できる。二人で肩を並べて、王国建設の手伝いができたらどんなに幸せだろう。そうだ、あのかわいい彼女にも、神の王国の話を しよう。
 もう、心の中に一切の迷いはなかった。
 決意をこめて、片腕をすっと上げた。
 数千本の腕の林を越えて、繭の声が降ってきた。
「ありがとう、ありがとうございます、皆さん。人類の最良の部分よ。いま目覚めた子供たちよ。永遠に感謝します。
 どこまでも行きましょう。この悪しき世界を幸福で満たす、その日まで!」

 10

 一時間後
 殲滅機関 格納庫内

 敬介はシルバーメイルを装着し、ヘルメットとゴーグルだけは着けていない状態で、格納庫内の大型ヘリコプターに乗り込んだ。
 CH47チヌーク。米軍や自衛隊で活躍している輸送ヘリだ。
 機内は幅二メートルに長さ九メートル、電車を半分に切ったほどの広さだ。赤い非常灯で薄暗く照らされ、剥き出しのアルミ材の上に簡素な座席が並べられて いる。シルバーメイル装着済みの作戦部隊員が着席している。座席は機体の側面を向いて設置され、座っている隊員の数は十五名。本来チヌークは完全武装の兵 士三十人を運べるが、シルバーメイルの重量を考えて人数を減らしているのだ。一人だけ立っている者がいる。同じくシルバーメイルを装着した長身の女性。影 山サキ曹長だ。
 機内に入るなり背筋を伸ばして、左手にヘルメットを抱えたまま右手で敬礼をする。
「天野伍長、遅れました」
 座っている隊員のひとり、黒い髪で糸のように細い眼のリー軍曹が、にやにや笑いを顔に貼り付けて声を掛けてきた。
「よぉ。天野。カノジョとのデートはどうだったい?」
 隊員たちが数人いっぺんにクスクス笑いを立てる。「あのカタブツがデートに誘われて頭のてっぺんから湯気出してたぜ」とでも尾ひれがついているのだろ う。
 今の敬介には軽口につきあってやるつもりはなかった。いつもは女・エロの話題を振られるたびに恥ずかしがりつつも怒ってきたが、いまは恥ずかしいという 気持ちも沸いてこない。
 お前黙れよ、ガタガタいうな、という毒々しい怒りがこみ上げてきた。上官相手にそんな言葉をぶつけることはできないので、押し殺した低い声で、目を逸ら して答えた。
「特にどうということはありませんでした」
「ひでえ顔だな……うまくいかなかったのか? まあ、お前だもんなあ」
 リー軍曹の口調はまだ軽い。これからどうなるかだいたいパターンが読めていた。女がらみの話の次は下ネタにつなげるのだ。出撃前の下品なジョークはいつ ものことだ。下卑た冗談を振られたらどう対応すればいいのか。イライラが高まっていく。普段なら愛想笑いを浮かべられるからかいに、もう耐えられない。
「そんなことはどうだっていいでしょう!」
 無礼と知りつつも言葉を叩きつけてしまった。リー軍曹が目を見開き、機内の空気が凍りつく。
 無言で、空いている座席に座った。
「すいません遅くなりましたっ、エルメセリオン、氷上凛々子ですっ」
 明るい女の声がして、扉から凛々子が駆け込んできた。
 彼女は初めて見る服装をしていた。首筋からつま先までを包む、真珠色に滑らかに輝くタイツ状の服。敬介たちがシルバーメイルの下に着ているインナースー ツの仲間だろうか。タイツが体のラインをはっきりと浮かび上がらせている。細く伸びやかな太股。ほとんど膨らんでいない未成熟な腰。掌で包み込んでしまえ そうな、ごくささやかな胸のふくらみ。
 彼女も片腕でフルフェイスヘルメットを抱えていた。 
 凛々子と目が合った。
「あっ……」
 凛々子は大きな目をますます大きくして、すぐにばつの悪そうな表情で目をそらす。
「な、なんでキミが同じ機にいるのさ?」
「それは俺の台詞だ。指示された通りの機に乗っただけだよ。どうやら同じ小隊らしいな。まったく災難だよ」
 サキがけげんな表情で問いかけてくる。
「どうした? 何かあったのか? ケンカか?」
「なんでもありません、隊長」
「はい、ボクもまったく平常です。戦闘に支障ありません」
「そうは見えんが。氷上伍長、もし天野伍長との確執が耐えられないようなら、この場で申し出てくれ。天野を降ろす」
「なっ」
 敬介は驚きと悔しさにうめいた。なぜ凛々子ではなく俺が一方的に切り捨てられるのか。よけいな波風を立てたのはアイツの方なのに。
 頭では分かっている。一介の作戦局員と、一騎当千のフェイズ5では戦術的な価値が桁違いだ。優遇されるのは当然と言える。
 分かっているのだが、どうしても心の中に暗い気持ちが沸き起こる。
 凛々子がサキ隊長に頭を下げる。
「気遣いありがとうございます。でもボクは全く平気です。
 あ、そうだ、エルメセリオンの方の挨拶がまだでしたね」
 凛々子は全身を包むスーツの手袋部分を外した。露出した小さな掌を、機内の隊員たちに見せる。
 掌に口がパクリと開いた。小さな口からは想像もできない、落ち着いた渋い声が流れ出す。
「みなさん、はじめてお目にかかります。フェイズ5の一体、エルメセリオンです。普段の肉体操作は凛々子に任せておりますが、彼女が睡眠などで脳を休ませ ているときは私がかわりに動かします。以後よろしく」
「ああ。よろしく頼む。
 では現場に向かいながらブリーフィングを行う。ランプドア閉鎖」
 機体の尻にある大きな扉が、上下に閉じる。
「離陸開始する。総員、大音響下通話体勢」
 隊員たちは抱えていたヘルメットからイヤホンと喉頭マイクを取り出して身に付ける。
 とたんに貨物室の壁の向こうから甲高い爆音が押し寄せてきた。金属を切断するときの音を数百倍に強めたような、イヤホンを着けても鼓膜を痛めつけてくる 凄まじい音だ。ジェット機のエンジン音によく似ている。ターボシャフトエンジンが二基、全開で咆哮しているのだ。マイクとイヤホンを通さないと会話などで きない。
 突き上げられるような衝撃。荒っぽく離陸した。
 サキ隊長がノートパソコンを持って立ち上がって、一同の前に立った。パソコンを広げて皆に画面を見せる。
「一時間ほど前、記録によると1310時、東京都江東区の東京ビッグサイトで、暴動が発生した」
 サキ隊長の声と共に、ノートパソコンに画像が表示される。
 きわめて大きな部屋の中を、上から見下ろした動画だった。全体に画像が粗く、人の顔などはわからない。
 コンクリート製の柱が一定間隔で立っている。長い机が並べてられて列が作られ、机の列の上には本のようなものがたくさん置かれている。そして列と列の間 の通路には、何千とも知れない人々が行き交っている。行き交う人々はたまに足を止めて、机の列の人々から本を受け取っていた。
 よく見ると何ヵ所かに行列が出来あがっているようだ。きわめて活気に満ちた市場の光景だ。
 と、会場の一点、行列の出来上がっている場所で混乱が生じていた。
 なにやら殴りあいが始まったのだ。殴られた側も反撃し、とばっちりを食った者も乱闘に加わる。たちまち画面内の何十人がすべて殴りあい掴みあうように なった。パイプ椅子が宙を舞い、机が薙ぎ倒される。
 画像が切り替わった。同じ会場内の別の地点の映像だ。本を売り買いしていた人々は最初は逃げ出そうとしたが、すぐに四方八方から殴り倒され、暴力の渦に 飲み込まれた。
 何度もカメラの場所が変わる。だがどこでも乱闘が繰り広げられていた。
「いったいこれは何だ?」
 リー軍曹のいぶかしげな声。
「なにが理由でこんな暴動が?」
 サキが張り詰めた声で答える。
「さっぱり分からないのだ。重要なのはこの先だ」
 パソコン画面内の動画に変化が生じていた。殴りあっていた人々が動きを止め、そろって何かを見上げていた。
 その何かが画面内に入ってくる。長い黒髪、黒コートの女。その女が、宙を歩いてくる。人々の頭上を歩いてくる。
 やがて人々は静まり返った。女は群衆の中に飛び降り、人々に次々とキスをする。
 ここで音声が入った。大勢の声が混じりあって聞き取りづらいが、人々は口々に叫んでいる。
「俺も、俺も治してください!」
「彼女も治して!」
「ありがとう! ありがとうございます!」
 黒い女にキスされた人間は大喜びのようだ。
 敬介は息をのんだ。
 これは自分がエルメセリオンに受けた治療そのものではないか。
「まさかこれは、隊長!」
「そのまさかだ、天野。謎の女は、暴動で傷ついた人々をキスひとつで次々に治していった。そして……」
 隊長がパソコンを操作する。画面が変わった。ふたたび宙を歩く黒衣の女。彼女は両腕を広げた。
 もう群衆は叫んでいない。その女の澄んだ声だけが聞こえた。
「私は嵩宮繭。神の使いです。
 この地上に、神の王国を建設するために来ました!」
 繭と名乗った女は、群衆の頭上を歩きながら演説を続ける。人間の心の弱さと、神の王国の素晴らしさについて語る。
 やがて群衆が腕を振り上げ、拳を高く掲げて、口々に叫ぶ。
「わたしも王国に参加します! 俺も入れてください!」
 そして画像が消える。
「こうして謎の女は、瞬く間に大量の信奉者を手に入れた。どう思う、氷上くん?」
 凛々子がすぐに答えた。緊張した声だ。
「これ、フェイズ5ですよ。恐らく、ヤークフィース」
「やはりか」
「はい。彼が神を名乗ることはよくあります。空に浮かぶのは奴がよく使う手ですよ。目に見えない糸を使ってるだけなんですが……楽園建設という目標を掲げ ることもよくあります。ただしヤークフィースだけではありません。
 さきほどキスで怪我人を治しましたよね?
 あれは『ファンタズマ』という能力の応用で、相手の体の中に寄生体を送り込んで肉体を再構成するんですけど。寄生体が向こうに入ってる間、もとの宿主の 方は蒼血がいなくなってるわけですから、人間の意識を取り戻してしまいます。そうなっていないということは、つまり体の中に複数の蒼血が寄生しています」
「複数寄生か。可能だという話は聞いていたが」
 サキ隊長が腕組みして顔をしかめる。
「身体の中で支配権がぶつかり合うから、よほどチームワークを訓練しないと難しいんです。ヤークフィース以外にどんな奴が入っているのか気になります。 ヤークフィースの眷属には有力なフェイズ4が大勢いたはずなんですよ。他のフェイズ5かもしれないし。
 ヤークフィースが得意なのは人身掌握と陰謀で、きったはったは得意じゃありません。フェイズ5の中では弱いほうです。でも『黄金剣』アストラッハや、 『魔軍の統率者』ゾルダルートがいたら……
 会場にどれだけの眷属が入っているかの情報は?」
「不明だ。ヤークフィースがよく連れている眷族の情報ならあるが」
「現在、会場はどんな状態ですか?」
 リー軍曹が尋ねる。彼も声が引き締まり、緊張をうかがわせる。
「警察を動かして、ビッグサイトのほかの会場から客を退去。いまの会場は完全に閉鎖させている。表向きは、暴力事件の加害者を逃亡させないため、というこ とにしてある。実際にはもちろん、キスされた人々を外に出さないためだ。いまのところおとなしくしている」
 蒼血にキスされたものは、そのとき蒼血の断片を体内に送り込まれた可能性がある。いつ怪物となって暴れだすかわからない彼らを、まさか街中に解き放つわ けにもいかない。
「我々の作戦は?」
 サキ隊長がうなずき、
「チヌーク八機、八個小隊を投入する。まずシルバースモーク弾と昏睡性ガス弾を会場に打ち込む。蒼血なら苦しんで暴れる。人間なら眠る。これで選別でき る。その後、氷上を突入させてあの女を倒す。われわれ通常の部隊は二手に分かれる。入り口を固めて脱出を阻止する部隊、氷上を支援する部隊。氷上があの女 を倒した場合、残存蒼血を掃討する」
 ノートパソコンに会場の見取り図が映し出された。
 あの会場はビッグサイト東展示場の1・2・3ホールというらしい。左側には三つの入り口があって屋外に通じ、右側にもまた三つの入り口があって別の展示 場につながっている。その地図の上に部隊番号つきの矢印が重ねられ、部隊の動きが示されている。
 敬介は情景を頭の中に描いてみた。八個中隊といえば百二十名。これだけの部隊が投入される作戦は確かに珍しいが、六つの入り口があること、会場の広さを 考えればむしろ少ないのではないか?
 気になったので片手を挙げた。
「隊長。装備はリーサルで?」
「可能な限りノンリーサルで。会場には一万五千人いるそうだからな、巻き添えをゼロにはできないにせよ減らしたい。リーサル使用時には私の許可を得てく れ。もちろん氷上は別だ」
 みなの視線が凛々子に集まった。
「あの、隊長」
 凛々子が尋ねる。
「なんだ?」 
「相手の戦力に間する情報が少なすぎます。相手はヤークフィース以外に誰が何体いるのか、そもそもどうやって会場に入ってきたのか、エコーシステムを騙し たのか。はっきりさせてから攻撃したほうがいいと思うんです。たとえば会場の外にも別働隊がいたらボクたちは挟撃される」
「調べ上げるだけの時間がない。いまは連中は一ヶ所に固まっているからいい。だが、もし繭という女が会場から脱出しろと命令したら? 警察などで抑えきれ るわけがない。蒼血は悠々と一般社会に紛れ込んでいくぞ。そうなったら摘発するのは大仕事だ。今しかない。一ヶ所に集まっている今しか。目撃者の問題もあ る。蒼血の力を見たものが会場に集まっているなら記憶操作もできる。だが社会に散らばったら苦労は百倍だ」
 凛々子は繭をハの字にして、口元に手を当てて首をひねる。
「そうでしょうか。ボクにはこれがヤークフィースの罠に思えるんです。あいつほどの大物が、たくさんの目撃者を出して、現場から逃げもせず、さあこいと待 ち構えている。どう考えてもボクたちを誘っているんです。ボクたちを返り討ちにできる自信があるんですよ」
「そうかもしれない。だがこれは作戦局と情報局の上が決めたことなんだ。現場の判断では覆せないよ。ベストを尽くすだけだ」
「組織って面倒なものですね」
「いまさら気付いたのか?」
 そう言ってサキは笑顔を作った。
 その時両耳のイヤホンに英語の通信が飛び込んできた。
「各中隊へ。現場到着まで五分。装備を整えよ」
 サキも凛々子も、全員が表情を引き締める。
 立ち上がって、壁面のウェポンラックから装備品を外す。背中の兵装パックに突っ込んでゆく。敬介達はミニミ・ライト・マシンガンとグレネードランチャー のフル装備。凛々子はM4カービンだけを手に取った。スーツで全身を包んだ状態ではマッスルガンを使用できないため、銃で火力を補うのだ。
 すべての装備を整え、ヘルメットにゴーグルをつけて再び着席したとき、敬介は奇妙に落ち着いている自分に気付いた。
 つい先程まで心の中に渦巻いていた鬱屈した想いが消えている。電車の中でも凛々子と喧嘩したことも、姉の本当の幸せを考えていないと言われたことも、凛 々子に謝った方がいいだろうかという迷いも。サキ隊長の忠告までもが。
 ミニミのグリップを握りしめる。圧力センサーを通じて固い感触が指先に返ってくる。
なれ親しんだ感触だ。
 ……やはり俺はこれが一番だ。
 ……隊長には悪いが、俺もやはり機械でいい。
 ……難しい人間関係がない、敵を倒すだけのシンプルな世界に居続けたい。
 自分にそう言い聞かせた。
 最後に凛々子が、壁のウェポンラックから一振りの剣をとった。日本刀のようだが幅広で、凛々子の体とくらべるとずいぶん長大に見える。抜刀し、ひゅん、 と軽く振る。刀身が非常灯の赤い光を反射して妖しく輝いた。
「頼んだとおりだ! ご用意ありがとうございます」
 凛々子も剣を手にするや、まったく迷いのない表情になっていた。
「すごく重いですが、なんでできてるんですか?」
「カーボンとタングステン合金の複合材だよ。タングステンだけでは柔軟性に欠けるからな。表面がキラキラしてるのは純銀でコーティングしてあるからだ。技 術局から聞いた話では、君の最大筋力で斬りつければM60戦車の正面装甲を貫通できるとか」
「へえ……楽しみだなあ」
「試し斬りでもするか? これが切れるか? 柔らかいものは難しいそうだが」
 そういってサキが、ベストのポケットからメモ用紙を取り出し、一枚だけ切って空中に投げた。
「やっ!」
 凛々子が即座に、刃を空中で走らせる。
 舞い落ちるメモ用紙を刃がとらえたかに見えたが、メモ用紙はそのままの形で落ちていく。
「なんだ、大したことないじゃ……」
 サキの声が止まった。
 床に落ちたメモ用紙が、すっと二枚になった。形も大きさもそのままで、二枚に。
 厚さだけが半分になって、向こうが透けて見えるほどになっている。
 縦に切ったのだ。
 ヒュウ、とリー軍曹が口笛を吹いた。
「ボクはベストを尽くしますよ?」
 凛々子は自慢げに笑って、刀を鞘に納めた。

 11

 ほぼ同時刻
 東京ビッグサイト

 会場の東123ホール。もはやそこで同人誌を売り買いしているものなど誰一人いない。
 机が片付けられ、繭を中心にして一万五千人もの人々が集っていた。人々は同心円になって並んでいる。
 愛美は円の中心のすぐ外側の列にいた。目の前に繭の姿を見ることができた。
 人々に向かって、繭は微笑を浮かべながら語りかける。
「我々はこれから、多くの苦難にさらされることでしょう。見てください、会場内にいる警察たちを。会場の入り口をかため、我らを睨み付けているものたち を」
 愛美も先ほどから不思議に思っていた。
 本当にあの警察たちは何なのだろう。
 暴行の加害者を逮捕するならわかる。目撃者の話を聞くのもわかる。だがどちらもせず、ただ出入り口を固めて人間の出入りを防いでいるだけなのだ。
「これから警察などとは比較にならない恐ろしい相手が来ることでしょう。
 我らが神の王国を建設することを恐れるものたちが。
 この世界を裏から支配する者ども。邪悪の軍勢です」
 ずっと黙って話を聞いていた群衆のあちこちにざわめきが生じた。
 当惑と懐疑のざわめきだ。
 愛美もさすがに眉をひそめた。この世界を裏から支配する邪悪の軍勢? あまりにマンガじみた話ではないか。一度は神と信じた気持ちが揺らいだ。信じよう とは思う。だがまさか。
 人々の感情を敏感に察し、繭は強い口調で言い放つ。
「なるほど、私の言葉が信じられない者がいるようですね。しかし邪悪の軍勢は必ず来ます。おのが眼で、しっかりと真実を見極めて下さい。
 その前に。戦うための力が必要です。
 明石美雪! 有川拓人! 皆口礼二! 長谷川貴史! 水原鞘! 滝山源! 多田野美樹!
 来るのです!」
 名前を呼ばれた人々が、同心円の中心に集まってきた。
「ほんとうの奇蹟を見せてあげましょう。みな、脱ぐのです」
 あまりに意外な言葉に愛美は耳を疑った。
 だが呼ばれた七人はためらうこともなく服を脱ぎ始める。年齢性別は様々だ。鍛え抜かれた体の男も、太った中年男も、まだ未成熟な体の少女もいる。
 繭もすばやく裸になった。あらわになった裸身は白く輝き、手足はすんなりと長い。豊かな乳房が若々しい生命力と弾力に溢れ、重力を無視して誇らしげに突 き出している。
 愛美は同性でありながら繭の裸身に目を奪われた。これほど豊満で、だがこれほど贅肉を感じさせない、美しい女の体を初めて見た。神聖なものだとすら思っ た。これと比較すれば自分の体など、いやほとんどの女の体など出来損ないだ。骨か贅肉のどちらかが目立ちすぎる。
「さあ!」
 繭が両腕を広げると、呼ばれた七人が一人ずつ、列を作って繭の前に並んだ。
 最初のひとり、鍛えられた肉体をもつ若い男が繭と抱き合った。
 次の瞬間、愛美は目を大きく見開いた。何が起こっているのか認識できない。
 全裸で抱き合ったふたりが、ダンスでも踊るように足を進める。二人はその場でゆっくりと回り出す。だから愛美にはよく見えた。抱き合って接触した胸に、 腹に、音もなく白い泡がたくさん生じた。泡の出現とともに若い男の体が縮んでゆく。太い手足がしぼみ、胸板が薄くなっていく。かわりに繭の肉体が膨張して いく。太るのではない。おそろしく均整のとれたプロポーションのままで、顔が、腰が、胸が……身体の各部分が膨らんでいるのだ。いくら長身といっても百七 十センチ程度だった繭の体が、眼で見てはっきりわかるほどに大きくなっていく。
 吸収! そんな言葉が愛美の脳裏に閃いた。人間の肉体を吸収している。あまりに非現実的だが、目の前で確かに起こっている。
「ああ……ああっ……まゆ……さまっ!」
 吸収されるのは快感であるらしい。体中の肉を吸い取られミイラのように縮んだ男は、顔を歓喜に歪ませて涙声で叫ぶ。
「ああ……ああっ……あっ!」
 ついに丸ごと繭の体の中に吸い込まれた。繭の身体がまた一回り大きくなる。
「次はあなたです」
 繭の声に答え、全裸で並んでいた二人目が前に出る。肥満してたるんだ皮膚の、中年の男だ。この男もまったく同じように吸収された。次の若い娘も。その次 も。
 七人の人間を吸い尽くした繭は、いまや巨人だった。身長は四メートル近いだろう。
「まだ奇蹟は終わりません。割目するのです」
 声帯が大きくなったせいか、繭の声は女のものとは思えないほど低く太い声になっていた。群集はもはや誰一人しゃべらず、ただ驚愕に目を見開いている。
 巨人となった繭はその場に手を着いて四つん這いになった。その体が変貌した。長い黒髪が縮んでいき、かわりに白い裸身を突き破って、無数の細いものが突 出する。
 針のように細く、紫に光るもの。それが顔といい背中といい、あらゆる場所から幾万となく生えて、体毛のように体を覆い尽くす。
 ごりゅっ がりゅっ
 岩の擦れるような音が連続して響く。腰の骨盤が回転する。
 みちっ みちっ みちっ
 ゴムや縄の引きちぎれるような音が加わった。長い脚が縮んで、逆に腕が伸び、逞しく筋肉が盛り上がる。前肢と後肢の長さの不均衡が解消された。もとより 四つ足で生きる獣だったかのように。いつの間にやら手足の先端も変化していた。長い指を持つ掌はない。犬や猫のような、短く太い指を持つ足先に変わってい た。足先からはナイフを並べたような鋭い爪が覗いている。
 最後に繭の、一抱えもある巨大な頭、黒い艶やかな毛で覆われた頭のてっぺんに、ふたつの器官が生じた。曲面を帯びた三角の肉板。そうだ、耳だ。
 最後に、両肩が盛り上がって、人間の腕ほどの長さを持つ奇妙な突起が形成される。突起の先端には穴が開いていた。愛美は大砲を連想したが、その突起もや はり紫の針で覆われている。
 たった数秒で変身は完了していた。いまやそこにいたのは、体長三メートルを超える、猫に似た獣だった。虎にしては体が細く、一番似ているのは豹だろう か。だが愛美が昔動物園で見た豹は人間の大人と同じくらいの大きさしかなかった。宝石のような輝く毛皮では覆われていなかったはずだ。
 直感的に理解した。これは豹に似ているが、地球上にはあり得ない超生物だ。
 紫に輝く巨大な豹、いや、神の獣が、口をきいた。

 み な さ い。
 こ れ が
 か み の ち か ら で す。
 
 愛美たちはもはや誰一人言葉を発せない。
 その直後、会場の外から別の音が轟いてくる。ぎいん、と金属的なエンジン音。バラバラという音。愛美はこの音を知っていた。ヘリコプターだ。会場の四方 八方から聞こえてくる。どんどん音が大きくなる。複数のヘリコプターがこの会場に接近している。
 神の獣、繭が顔をあげる。

 きました
 じゃあくの
 ぐんぜいが
 おそれる
 ことはありません
 わたしがうちやぶります

 がん! がん!
 重いものを叩きつけるような音が連続して響く。
 会場の左右に三つずつある、大型ダンプが通れるほどの開口部から、何かが撃ち込まれた。ヘリコプターの爆音もかき消すほどに強い爆発音。一発だけでなく 一度に五発も十発も。白い尾を曳いた砲弾が会場の上のほうを横切る。天井や柱にぶつかって跳ね返り、床に落ちて、まだ白い煙を噴き出す。まだ砲撃は止まら ない。数十発も飛んできた。周囲はたちまち真っ白な煙に包まれて完全に視界が遮られた。
 ガスを撒いているのだろうか。頭がぼうっとなる。体から力が抜けてまっすぐ立っていられなくなる。愛美は脱力し、その場に座り込んだ。他の人達もみな一 緒にくずおれた。薄めたミルクのように濁った視界の中に、ただ神の獣だけが悠然と立っていた。
 意識が遠のいていく。
 だが不安はなかった。
 神が、守ると明言したのだから。

 12

 同時刻 ビッグサイト外

 凛々子は大刀を手にして、M4カービンを肩にかけ、チヌークを飛び出した。すでにヘルメットを被っている。ヘルメットとスーツは防弾に加えて完全機密 で、酸素を供給し、空気中の銀をシャットアウトする。
 今いるのは、豪華客船が入りそうな巨大なコンクリートの箱の外。この箱は東京ビッグサイトの会場だ。箱には大きな入り口が三つある。入り口では警官達が 呆然と立ち尽くしてた。彼ら末端の警官は蒼血の存在も殲滅機関のことも知らない。指揮官らしき人物が何事か叫んで近寄ってくるが、その叫びはチヌークの ローター音にかき消されて聞こえない。
 凛々子が突入命令を待っていると、他のチヌークからシルバーメイルに身を固めた隊員たちが飛び出してくる。彼らは巨大な機械を抱えていた。
 第一印象は大型機関銃だ。モスグリーンに塗装され、赤ん坊の腕ほどもある太い銃身を持つ。三脚に固定され、銃の機関部からはコショウ瓶をベルト状に連結 したような弾薬がつながっている。
 オートマチックグレネードランチャーだ。敬介たちが使っている手持ちのグレネードランチャーを圧倒的に上回る速射性を誇る。
 隊員達は数十キロに達するランチャーを軽々と抱えて、入り口近くに設置する。銃口を斜め上に向けた。
 警官が数人、隊員たちの前に立ちはだかった。こんな状況でも、彼らは健気に職務を遂行しようとしていた。
 だが彼らは作戦にとって邪魔だった。隊員達が背中のバックパックからスプレーガンを取りだし、直に昏睡性ガスを浴びせた。警官達は次々に倒れていく。
「シルバースモーク弾、昏睡ガス弾、射撃開始せよ」
 電波回線を通じて命令が発される。隊員たちがオートマチックグレネードランチャーの後ろにしゃがみこんで一斉に操作する。
 十機を数えるランチャーの発射音は凄まじいものだった。風船が破裂するパアンという音を何百倍にも増幅した音が、ローター音すら圧倒し、機関銃のように 連続して何十何百となく響いた。ランチャーからグレネードが矢継ぎ早に発射される。白い煙の尾を曳いて会場内に叩き込まれていった。このビッグサイトは野 球場ほどに広大で、ガスで満たすためには膨大な量のグレネードが必要なのだ。
 凛々子は頭の中のエルメセリオンに呼び掛ける。
『いくよ、準備はいい?』
 頭の中に老人のように低く、暖かく優しげな声が響いた。もう八十年以上も苦楽を共にしてきた相棒の声。
『いつでも構わん』
 そのとたん、頭のなかで炎が燃え上がったような熱さが生まれる。熱さに悶える間もなく、熱さは一瞬にして体のすみずみにまで拡がった。
 ブラッドフォース『ストレングス2』発動。筋肉収縮力を増大。アデノシン三リン酸の燃焼速度を増大。体中の筋肉に静かな力がみなぎる。
 『アクセラレータ』発動。神経内のパルス伝達速度を増大。脳細胞のパルス発信速度を加速。
 あらゆる思考速度と知覚速度が桁違いに上がり、自分以外の人間が銅像のように止まって見える。軽いはずの空気が、重く粘性をもって手足にまとわり付いて くる。水飴の中にいるようだ。
 そのほか、普段は最低レベルでしか発動させていないブラッドフォースを一度に全力発動する。
 耳のイヤホンがサキ隊長の言葉を伝えてきた。
『シルバースモーク散布完了。敵情動きなし。氷上、突入しろ』
『了解!』
 明るく答えて抜刀し、会場へと駆け込んだ。背後にシルバーメイルの重い足音がついてくる。支援部隊だ。その中には敬介もいるはずだ。
 もちろん敬介とのやりとりを思い出して集中を乱すようなことはない。意識がまるごと戦闘用に切り替わっていた。
 会場内に入ってすぐ、猛烈な煙に包まれた。身長より深みのある白い煙が満ち溢れていた。数メートル先の人間すらぼやけた人影にしか見えない、ミルクの海 の中のようだ。いくらなんでも凄まじい銀の量だ。
 片目の網膜を変換させ、赤外線視覚を得た。
 赤外線視覚に切り替えた瞬間、音もなく巨大な何かが突っ込んできた。赤外線視覚が熱い塊の急速接近をとらえた。四本の脚をもつスマートな巨獣。背筋を悪 寒がはしる。通常視覚がとらえたのは白い煙の渦巻く姿だけだ。
 全身の筋肉をしならせ、横に跳ねとんで回避した。間一髪、風圧を感じるほどのすぐ脇を黒い影が駆け抜けた。四本足に見えた。ワンボックスカーほどの巨躯 だ。
 すぐに振り向いた。あの勢いなら止まるのが一瞬遅れるはずと思ったのだ。その間に戦いの主導権を握れる。
 甘かった。振り向いた凛々子の眼前にまたしても巨獣が突進してくる。あれほどの慣性力をいともたやすく殺してのけたのだ。
 もう避けられない。そう判断して逆に斬りかかる。相手の前足が凛々子を捉えるよりも先に、全力で顔面に向かって一撃。
 相手の体の突進の慣性に、自分の腕力を加えた大威力の斬撃だ。
 刃が巨大獣の顔面の真ん中をとらえた。額から鼻、顎まで一直線に。体を包む紫の針は強靭だったがそれでも刃の前に砕かれた。刃が頭骨に食い込む。 
 だが骨を切断できなかった。激突の瞬間、獣がわずかに首を振って刃を逸らしたのだ。腕に衝撃が伝導した。視界を巨大な顔が埋め尽くした。頭突きで吹き飛 ばされた。
 宙を飛び、後頭部が柱に打ち付けられる。柱のコンクリートが砕ける感触。
 柱から落ちた凛々子はすぐに手をついて立ち上がろうとして、片腕の骨が砕けているのに気付いた。叩きつけた打撃力のほとんどが跳ね返されてしまったの だ。刀を放さなかったことだけが救いだ。
 すぐにエルメセリオンに肉体を再生してもらおうとする。だがその隙すら与えられない。
 体のあちこちに何かが衝突した。鋭く細い、釘のようなものを打ち込まれた痛み。
 衝突したあたりから濃密な水のしぶきが飛び散った。
 マッスルガンだ。強烈な水鉄砲でめった撃ちにされている。
 威力はライフル弾程度だろうか。スーツは破れていない。だがひっきりなしの衝撃で、砕けた骨がますます砕かれる。内臓がかき乱される。頭に直撃してめま いを憶えた。
 凛々子にはこれほど連続してマッスルガンは撃てない。向こうは体が大きいから水分に余裕があるのだ。
 痛みを堪えて目を見開くと、相手は銃撃だけで片をつけるつもりはないようだった。両肩から突き出した「肉の砲身」から水弾を放ちつつ、煙を引き裂いて 走ってくる。
 突進してくる獣の顔にはもう傷が残っていない。
 無傷なほうの腕でM4を連射した。顔面に向かって撃った。だが避けもしない。何発かは目玉に飛び込んで眼球を潰しているのに、苦しむそぶりもなく駆け 寄ってくる。
 相手が飛び掛ってくるのを棒立ちで受けた。殴り倒され、踏みつけられる。凄まじい力で胸を踏まれて肋骨がきしむ音が聞こえる。
 絶体絶命状態の凛々子に、巨大な獣が話しかける。
「ものたりん! 貴様、それほど弱かったか」
「もしかして君、ゾルダルート?」
「いかにも。『魔軍の統率者』ゾルダルートだ。そしてこの体が『魔軍』だ」
 そうか、と凛々子は理解した。他に蒼血の姿が見えないのは、全て合体しているからだ。
 この巨体からして七、八人くらいの人間が合体しているだろう。七人とすると、四百二十兆の細胞を七体の蒼血で操っているのか。そんな大規模な複数寄生は 聞いたことがない。神業だ。
 その膨大な細胞量により、自分を遥かに超えた筋力・瞬発力、そして装甲防御を得ているのだ。
 このまま奴が一息に自分を食い殺すなら、どうしようもない。
 だがそんなことはしないはず。ゾルダルートが愛好するのは戦いだ。一方的な殺戮ではない。
 会話しながら一瞬の隙を作り出すしかない。
「久しぶりだねゾルダルート。アンデスでも会えなかったから」
「わしは懐かしくなどない。わしの知己はエルメセリオンのほうだ。女、お前ではない」
「あいにく、戦いのときはボクに任せてもらうことに決まってるんだ」
「実に愚劣な決断だぞ、それは?」
 さらに喋りながら、必死に頭を整理する。
 まだ謎は残る。このシルバースモークの中で苦しまずにいられるのはなぜか。息を止めて、体内の酸素だけで活動している? 理論上は可能だが、それなら高 圧で空気を貯蔵する器官がどこかに形成されているはず。その器官を破壊すれば倒せる。
 隙を作れれば……
「ヤークフィースも一緒にいるのかな?」
「教えるほど親切にはなれんな。お前には失望した。とっとと死ぬがいい」
 あちこちから銃声が聞こえる。きっと援護部隊が撃ってくれているのだろう。
「こしゃくな。まずは人間を片付けるか」
 そう言って四肢を伸ばし、立ち上がる。
 凛々子はその隙を見逃さなかった。
 上半身を前足で押さえられたままだが、下半身を跳ね上げ、足を振り上げ、足を刃に変化させて、長く長く伸ばし、巨獣の腹に突き立てる。劣化ウランの刃で も顔面を割れなかったが、腹には確かに刺さった。
 予想通り。全身を完全に装甲化したら柔軟な動きができなくなる。きっとどこかが柔らかいと思っていた。四足なのは柔らかい腹を守るためなのだろう。
「ぐおっ!? 離せ貴様!」
 不快げに唸り、空いている方の前足を凛々子の顔面に振り下ろす。胸を踏まれているので逃れる術はない。包丁を並べたような巨大な爪の列が顔面に叩きつけ られた。ヘルメットのフェイスシールドは最初は抵抗したが、二度三度と衝撃を加えられて大きくゆがみ、ヒビが入った。
 やばい、これは銀が来る。
 そう思って息を思い切り吸い込んだ。あとは息を止めるしかない。どれだけ止めていられるか。
 ヘルメットのバイザーが粉砕された。とたんに外気が顔に押し寄せる。煙を浴びたように目にしみた。熱く涙が溢れてくる。ワサビの塊を食べたように鼻の粘 膜が悲鳴をあげる。
 やはり身体が銀に拒絶反応を起こしている。
 むきだしになった凛々子の顔面に、なおも前足が叩きつけられる。頬に熱い痛み。頬の皮膚と肉がえぐらり取られて血が噴きだした。歯に爪が激突する音。も う一度爪が振り下ろされる。今度は額。頭蓋骨がきしむ音。脳が圧迫されて視界がぐにゃりと歪む。頭は割れなかったが、ぬるりと生ぬるい血が額からあふれ出 す。前足が巨大な棍棒となって何度も何度も降ってきた。そのたびに肉がえぐられ、歯が折れ飛ぶ。きっと自分はひどい顔をしているだろう。
 傷は再生できるが、それでも顔を傷つけられるのは特別に腹が立つ。
『女の子の顔を! ひっどいなあ!』
『怒る元気があるなら大丈夫だ』
 頭の中でエルメセリオンと軽口を叩き合う。
 怪我そのものより、血に銀が入るのがまずい。血中濃度が一定を超えたら何も出来なくなる。
 だが今は傷の回復に力を使っていられない。
 すべてのブラッドフォースを。細胞変換能力を。
 ただ、相手の腹に突き刺した「足剣」に集中させる。
 剣は長く伸びながら相手の内臓に滑り込んでいった。
 フェンシングで使う剣のように細い。相手を両断できるものではない。だが。
 ついに相手の脊髄に刃が到達した。突き刺さる。
「おうっ」
 さすがにくぐもった苦痛の唸りを上げて、獣の巨躯が揺らいだ。
『いまだ! 神経つないで! エルメセリオン!』
 刃の中に通った神経が伸びて、巨獣の脊髄を走る神経束にむすびついた。
「きさまあっ!」
 巨獣が怒りの声を上げるのと、凛々子が足の神経に全力で信号を送り込むのは同時だった。
 力を抜け! そう命令した。
 巨獣の手足が脱力する。凛々子の胸を圧迫していた足の重圧も和らぐ。
 とっさに手をついて体を滑らせ、前肢の下から抜け出した。
 頭の上には巨獣の腹。足の剣は相変わらず腹に刺さって、凛々子は逆立ちの体勢だ。
 足の先に溶岩を押し付けられたような激痛が走った。爪を剥がされる痛みを果てしなく増幅したような。剣の神経を逆に乗っ取られたとわかった。やはり蒼血 が多い分だけ、体の取り合いでは向こうが上なのだ。痛みが足先から太腿に上がってくる。筋肉が自分の意思に反して痙攣する。神経細胞の支配権をどんどん奪 われていく。あとコンマ一秒で頭まで痛みが来て、きっと体ごと奪われる。
 その前に、いま突き刺しているほうの足、その全細胞に命令した。
『ごめんね! 死んじゃって!』
 太腿の細胞が一気にアポトーシスして柔らかく崩れ落ちる。これでもう片足は丸ごと死体だ。フェイズ5といえど支配することはできない。腐ったバナナのよ うに柔らかくなったので腹に刺さっていることも出来ず、凛々子は体ごと落っこちた。
 すぐさま片手を伸ばして床を探る。あった。太刀。
 まだ残っているほうの膝を床に突いて、
「たあああっ!」
 裂帛の気合とともに刀を突き上げる。
 ごずん! 
 腹の皮膚と毛を突き破り、内臓を貫通する。腕力に加えて背筋力も動員して、刺さった刀を手前に引いた。腹が横一文字に切り裂かれた。人間がすっぽり入れ るほどに大きく裂ける。内臓が切断される感触が連続して伝わってきた。ほとばしる熱い血が洗面器一杯分ほども、凛々子の顔面にふりかかった。裂け目から腸 がこぼれだす。
 もっと、もっと深く、もっと広く斬るんだ。胴体をまっぷたつにする勢いで!
 刃が背骨に食い込んで止まった。ブラッドフォース「ハウリングブレード」を発動。全身の筋肉を極限まで緊張させて高速振動させ、その振動波を刃だけに集 中、伝導させる。超音波メスの原理で切断抵抗が減少し、刃が背骨にめり込んで、斬った。胴体を刃が完全に輪切りにした。
「ぐおおっ!」
 至近距離で巨獣が体を悶えさせ絶叫する。
 やった、と思ったところで凛々子は咳き込んだ。銀の微粒子が肺を焼いていく。咳き込んでしまったことでますます大量の銀が体に入った。体に急速にしびれ が回ってくる。頭痛と吐き気と、体の震えがまとめて襲ってくる。
 刀の柄をちゃんと手が握っているかどうかすら、もう分からない。
 両目からあふれ出す涙がますますひどくなった。痛みと涙でよく目が見えない。
 だけど、ダメージはあいつのほうが何倍もあるはず!
 いまなら止めを刺して……
 どこだ、「蒼血」の本体はどこにいるんだ? 全部で七体も八体も、どこに隠れている? 目を撃たれても平気だった。きっと脳じゃないんだ。神経の密集し た場所に寄生するのがセオリーだ。脳でなければ脊髄だろう。
 よし、この脊髄をまるごと引きずり出して……
 そこまで考えたとき、腹を思い切り蹴られた。杭を打たれたように足が胴体深くめり込んだ。
 体をくの字に折って吹き飛び、床の上を転がる。
 激痛が腹ではじける。もう体を丸めていることしかできない。
 痛む目をなんとか見開いて周囲を確認する。白い煙の中にぼんやりと四足の獣が見える。十メートル以上吹き飛ばされたようだ。だがおかしい。獣の姿が……
 赤外線視覚に切り替えて、驚きに目を見開いた。
「えっ……!?」
 驚きのうめきすら発した。
 ちょうど凛々子が斬った断面から、何百本とも知れない熱く輝く触手があふれ出した。
 触手が蠢きながら、切断された前半分と後ろ半分を繋げていく。
 もう胴体は完全につながったようだ。触手が縮んで体に吸収されていく。
 その間、わずか数秒。たちどころに元の姿に戻った。血を失ったせいだろうか、一回り身体が縮んで見える。凛々子をはるかに超えた「ファンタズマ」能力 だ。
 なんで銀の影響を受けない? 頭の中が疑問符で一杯だ。
 銀コーティングの太刀で刺したのに。腹を切り裂いて、たっぷり外気を送り込んでやったのに! なんで能力が低下しない?
 奴は……銀を克服してる!? 完全に!
 ならばこの状況は自分に圧倒的に不利だ。
 まだ支援部隊が獣を撃ち続けている。銃声は四方から聞こえてくる。支援部隊が包囲したようだ。浴びせられる銃弾が獣のあちこちに当たって弾き返される。 血が噴き出さない。効いていないようだ。だが獣は苦しげに唸り、姿勢を極端に低くして、あたりを見回す。這うような姿勢は、弱点である腹を守るためだろ う。
 重火器使用の許可が出されたのか、銃弾だけでなくグレネードも飛んでくる。獣の肩から突き出した突起が水の弾丸を発射し、ことごとく空中で撃墜した。宙 にオレンジの炎の花が咲いた。
 注意がそれている。幸い、蹴られた腹の痛みも和らいできた。さきほど壊した足を治す力はもうないが、片足だけでも逃げられるかもしれない。
 だが、ここで撤退して本当にいいのか。
 サキ隊長の言葉が脳裏に蘇る。
 そう、いまの機会を逃がしたら、会場に集まった一万五千人が散り散りになってしまう。蒼血の断片を植え付けられているかもしれない一万五千人が。
 もう少し粘ろう。過去八十年間で、この程度のピンチは何度もあった。
 だがどうやって打開しよう? と思った瞬間、頭の上に小さなコンクリートの欠片が降ってきた。流れ弾が柱にでも当たったのだろうか?
 そうだ、上に!
 最後に残った力を振り絞って、片足だけで跳躍した。
 煙の上に飛び出した。そこには澄んだ空気があった。
 やっぱり!
 銀粒子は空気より重い。沈殿していたのだ。
 天井まで跳んで、太刀を天井に突き刺して体を固定する。喜びの叫びをあげた。思いきり空気を吸い込んだ。何度も何度も。
 肺の中の銀まみれの空気が排出されていく。血液に溶け込んでしまった分があるので体の痺れはまだ残っているが、頭蓋骨が軋むほどの頭痛と吐き気は消え た。
 おいしい。空気がこんなに美味しいなんて。 嬉しさで涙が溢れてくる。
 眼下の煙の海を貫いて水の弾丸が飛んできた。手近な柱に跳び移って隠れる。
 能力が少し回復したので、柱に隠れながら負傷部位を再生する。なくなった片足を生やし、えぐられた頬を元に戻す。背中に翼を形成して、飛行能力を確保し た。
『うーん、餅肌、餅肌』
『やっとる場合か。どうする気だ』
『それなんだけど……』
 赤外線視力で眼下を見渡す。
 はじめて会場の全容が見えた。
 もはや巨獣は凛々子のことを脅威と認めないのか、頭上の凛々子には目もくれず、姿勢を低くしたまま走り出していた。自分を包囲する戦闘局員に向かって、 両肩のマッスルガンを乱射しつつ突っ込んでいった。
 隊員たちは散らばって柱の影に隠れながら銃を連射している。赤外線映像の中で灼熱の弾丸が巨獣に殺到する。だが巨獣の体の表面でことごとく弾かれてい た。巨獣の突進は止まらない。
 柱に飛びついて、隊員を前肢で張り倒した。動かなくなった隙を狙って銃弾が、グレネードが浴びせられる。無反動砲すら水平射撃された。白熱の砲弾が超高 速で襲い掛かる。だが銃弾はやはり弾かれる。グレネードと無反動砲弾は両肩のマッスルガンが撃ち落した。軌道を逸らされた無反動砲弾が巨獣から一、二メー トル離れた床に突き刺さって炎の噴水を上げる。
 石ころを投げつけられほどにも動じず、巨獣は体ごと隊員にのしかかって、ヘルメットを爪で粉砕する。勢いあまって顔面を潰し、血が吹き上がった。巨獣の 体の下から覗いた隊員の手足が、最後の力で空中を掻く。動かなくなった隊員の体に尻を向け、次の隊員に向かって走り出す。
『リー軍曹! 支援! 支援を!』
『バカ、距離を取れ! お前は後ろからやれ!』
『第2、第3小隊で一斉にやれ! 飽和攻撃だ!』
 通信回線を悲鳴と指示が飛び交った。
 だが無駄だった。時速百キロを超える速度で走り回る巨獣は、隊員が後ろに回りこむより早く距離を詰めてきた。数人の隊員が一斉にカール・グスタフの鋼の 砲身を担ぎ、四方八方から浴びせた。それでもすべての砲弾が迎撃された。マッスルガンの水鉄砲で軌道を逸らされて外れた。
 何人もの隊員がヘルメットのバイザーを破壊され顔を真っ赤に染めて転がっていく。頭ごと噛み砕かれたのか、首のない屍もあった。
 そんな光景を凛々子は、胸を締め付けられる思いで見おろしていた。
 いますぐにでも助けに行きたいが、下界は銀の充満する世界。有効な作戦を考えもせず降りるのは無謀だ。
 ……一体どうすれば倒せる。
 必ず手はあるはずだ。
 と、会場の真ん中、およさ三分の一を埋め尽くして倒れている人々のことが目に入った。
 ガスで眠っているのだろう、倒れたまま動かない人々。彼らに被害は出ていない。
 巨獣と戦闘局員が戦っているのは会場の端のほうで、昏睡する一万五千人からは遠く離れている。
 隊員の放ったグレネードが一発だけ目標をはずれ、そちらに向かって飛んでいったが、すかさず巨獣のマッスルガンが唸り、空中で爆発させた。
 気になって、指を唇に当てて、エルメセリオンに尋ねた。
『ねえ、もしかしてさ、エルメセリオン?』
『なんだ、凛々子』
『ゾルダルートたちも、会場の人達を死なせたくないのかな?』
『それはそうだろう。神を名乗って、自分が皆を救うと言い切ったのだからな。いま死なせてはまずかろう』
『そっか。そうだよね!』
『まさか、凛々子?』
『あは。ボクの考えてること、わかった?』
『分かるとも。八十年も一緒に戦ってきたではないか。君の思考は大体読めている。だが危険な作戦だぞ、二重三重の希望的観測の上に成り立っている』
『反対する?』
 一瞬の沈黙があって、温かい声が返ってきた。
『いいや。最終的に決めるのは君だ。八十年前のあの約束を、君が守り続けている限り、私は君を敬う』
「じゃあ、行くよ!」
 胸元の無線機の送信ボタンを押し込み、大声で叫ぶ。
『氷上です! みなさん聞いてください! いまみなさんが戦ってる化け物、ボクがあの化け物の動きを遅くします。だからみんなで組み付いて、あいつをひっ くり返してください。ひっくり返してさえくれれば、あとはボクが倒します!』
 すぐに困惑と怒りの声が返ってきた。
『できるわけねえだろう! 状況を考えろ! まるで歯が立たねえよ!』
『ひっくり返せだあ!』
『相手は亀じゃねえんだ!』
 だが一人、冷静な声もあった。リー伍長の声だ。
『十人がかりなら、できるかもしれん。俺がやる。少し待ってくれ、俺の部下だけでは……』
 リー伍長の言葉をきっかけに、肯定的な反応が集まってきた。
『俺もやる。使える部下が七、八人いる』
『影山だ。部下五人を連れて向かう。信じていいんだな?』
 いける。十人集まれば、きっとできる。
『はい! お願いします!』
 明るく答えた。すぐに柱の影から飛び出した。すぐに巨獣に気付かれた。マッスルガンを撃ってくる。体のあちこちを水の弾丸が掠める。足に直撃を食らっ た。翼をぶち抜かれた。衝撃で身体が回転し、高度が落ちる。激痛をこらえて、それでもバランスを立て直して再び上昇した。
 飛びながら息を思い切り吸い込む。下では呼吸できないから、わずかでも多くの空気を肺に詰め込んでおくのだ。常人の数十倍の筋力を振り絞り、ボンベのよ うに圧縮して詰めた。
 一万五千人が折れ重なって倒れる、その上にやってきた。一万五千人の真ん中には、トラックが入るほどの大きさの空間が空いている。その空間に向かって着 地した。
 再びあたりは白い煙に包まれた。
 巨獣に向かって大声で叫ぶ。息を決して吸わないように、一息で叫んだ。
「来てよ!! 戦いがしたいんでしょ! 弱いものいじめはやめてさ!」
 隊員を押し倒している途中の巨獣が振り向いて、こちらに向いて走ってきた。
 やはり。楽勝の相手よりこちらを選ぶに決まっているのだ。
 だが倒れている一万五千人に近づいて、その突進がはたと停まった。
 ……そうだよね、やっぱり。
 一万五千人は身体が重なるほど密集して倒れている。そこにいつもどおりの高速突進をかければ、違いなく人間達を踏み潰してしまう。
 ぐるる、と不機嫌そうに唸り、巨獣は倒れている人々を一人ずつ前足で持ち上げて横にどけ、道を切り開きながら進み始めた。その歩みは人間が歩く程度でし かない。ゆっくり進みながらも凛々子に向かってマッスルガンを連射するが、凛々子は水の弾丸すべてを太刀で切り払う。水しぶきがいくつも爆発して凛々子の 顔を濡らした。
 賭けだった。信者達を踏みつけてでも走ってくるかもしれなかった。
 翼を生やして信者達を飛び越えてしまうかもしれなかった。
 だが賭けに勝った。身体が大きすぎて、空中での機動性に自信がないのだろうか。
 巨獣が鈍い足取りで進んでいる間に、戦闘局員たちが動いていた。
 十数人の隊員が、もはや柱に隠れることもなく走ってくる。シルバーメイルの筋力強化機構のおかげで、彼らの足は速い。巨獣が振り向いてマッスルガンを放 ち、隊員達に命中する。体に命中弾を受けた隊員はよろめきながらも倒れない。顔面に食らった隊員だけが倒れる。しかしその数はわずか二人。残った隊員はひ るまずに駆けてくる。
 巨獣が凛々子を見た。ついで背後の隊員たちを見た。どちらを優先するべきか迷っているのだ。
 答えはすぐに出た。隊員たちを無視して、凛々子に向かって前進する。ペースを速めた。こちらのほうが難敵だと思ったのだろう。
 巨獣はついに凛々子の近くまでやってきた。もう赤外線視覚なしでも巨獣の姿をはっきりと見ることができる。凛々子の周辺には人間が倒れていない空白地帯 になっている。ここなら思う存分暴れられる。体中の筋肉をしならせて凛々子に飛び掛ろうとした、その時。
 隊員たちが、巨獣の四本の脚に組み付いた。
「きさまら!」
 脚を振り上げ、床に叩きつけて振り落とす。だが一人振り落とされても二人が、二人落とされても三人がとりつく。
「ぐるるっ……おおおんっ!」
 巨獣の体に生える紫の針が、突風に吹かれた草原のようにざわめいた。紫の針が伸び、硬質な触手となって隊員達の手足に絡まる。何百、何千本……手足を縛 りつける。
『くっ!』
 リー軍曹がとっさにベストからナイフを出して触手の切断を試みるが、切れない。
 体毛の変形した触手が、いま巨獣にしがみついている十人ばかりの隊員全てを縛った。ある者は上半身をがんじがらめにされ、ある者は肢だけを縛られて歩け なくなる。動けなくなった隊員たちの顔面に向かって、巨獣が前足の爪を振り下ろす。
 だがその中の一人が、拘束されていないほうの腕を動かして、振り上げられた巨獣の前足の、その爪の裏辺りに拳を突き立てた。絶妙のタイミングだ。
 凛々子は気付いた。ゴーグルで顔を隠しているが、敬介だ。
『インパクトォ!』
 開きっぱなしの通信回線を、敬介の雄叫びが駆け抜ける。
  杭が射出。ちょうど爪と指の間の柔らかい領域を貫通して、電撃を放つ。
 巨体が痙攣した。体中から伸びていた硬質の触手が、制御を失ってデタラメに暴れた。束縛の力が弱くなったのか、隊員達が触手から脱する。
「いまだよ! ひっくり返してッ!」
 祈りを込めて叫んだ。凛々子の叫びに答えて、巨獣の体にとりついた十数人が一斉に巨獣の手足を持ち上げ……身体が浮いた。
 そうだ。無防備な腹をさらせ。ボクが飛びこんで、今度こそ斬る。蒼血の一匹も残さず、脳を切り刻み脊髄を寸断し、体を賽の目にする勢いで斬る!
 そのつもりだった。
 だが、巨獣が横向きにひっくり返る、その瞬間。
 前足を持ち上げていた敬介が、素っ頓狂な叫びを上げた。
『ね……ねえさん!? なんで姉さんが!? 姉さん! 姉さぁんッ!?』
 叫んで、前足から手を離して、足元を見ている。
 凛々子も驚愕した。目は、敬介の足元に倒れている女性に釘付けだ。
 昏睡の程度が軽く、銃撃戦の音などで目を覚ましてしまったのだろう。その女性は……黒髪で、少し根が暗そうだが整った顔立ちで痩せぎすの女性は……眼鏡 こそかけていないが、どう見ても敬介の姉だ。姉は敬介の足元にしがみついて涙声で訴えていた。
「やめてえ……やめてえ……かみさまなの……わたしのかみさまなのっ……やっとみつかった……わたしのかみさま……」
『姉さん!? 姉さんだよな? 一体何があったんだ! なんでこんなところに! 神様って……こいつは神様なんかじゃ……』
「かみさまを……いじめないでええ!」
 敬介の足元にしがみつき、ぼろぼろと涙と流しながら顔を上げて叫ぶ愛美。
 その視線と表情には明確な敵意があった。
『なっ……あっ……?』
 まったく言葉にならない声を上げ、ふらついて尻餅をつく敬介。きっと彼にとって姉は世界の中心。姉に嫌悪や敵意を向けられるなどまったく耐えられない、 世界が崩壊するようなできごとなのだろう。
 だがそんなことを言っている場合ではない。
「作戦中だよッ!」
 凛々子の叱咤に、ようやく我にかえる敬介。
 遅かった。巨獣は、全員の力を振り絞ってようやく押さえつけられていた。敬介が手を離していたおかげで力の均衡は崩壊し、巨獣は隊員たちを振りほどき、 吹き飛ばして、凛々子に向けて突進した。
「くっ!」
 凛々子は少しでも衝撃を減らそうと、横に飛びながら太刀を振るう。だが巨獣の突進は速い。まだ銀の影響が抜けきっていない凛々子が対応できないほどに。 太刀は空しく空を切り、凛々子は巨獣に押し倒された。前回逃げられたことから学習したのか、四本の脚で凛々子の手足を完全に押さえ込んでいる。
「うわっ……」
 凛々子は体をよじって逃れようとする。駄目だ、床に押し付ける力が凄まじい。全く動かせない。
 こうなったら手足を全部なくして逃げてやる!
 思ったときには、もう巨獣が顔を傾けて、親指より巨大な牙が並ぶ口を開いて、凛々子の首に噛み付いていた。牙が筋肉繊維をどんどん食い破って、
 頚骨を木っ端微塵に噛み砕かれた。
 ばきん。ごりゅっ。
 骨の砕ける音が生々しく頭の中に響いた。首から下の感覚がまとめて消失した。
 とたんに気が遠くなった。いかにフェイズ5の蒼血といえど、首を切断されては酸素が脳に届かず、数秒で失神する。酸素不足で再生能力も発動できない。脳 を仮死状態にするのが関の山だ。
 声を発することもできず、視界がぼやけて暗くなる。冷たく、どろりとしたものに自分が沈み込んで、包まれていく感覚。
『エルメセリオン! エルメセリオン!』
 薄れゆく意識の中で、相棒の名、友の名を呼んだ。
『キミだけでも逃げて!』
『それは出来ない。爆弾がある。脳内から移動したら爆発する』
『そうか……ごめんね……ボクが気付くべきだったんだ。敬介くんのメンタル面の弱さは分かっていたのに、何も出来なかった……』
『いいや。われらは神ではない。想定できないアクシデントもある。謝るようなことではない。凛々子、最期まで君とともにいられて幸せだった。八十年も前 の、たった一度の約束を一度も破らなかった君のことを尊敬する。限りない敬意を持って別れを告げよう。さようなら、凛々子』
『待って。ボクはまだ諦めてないよ。きっと彼らは……人間は。この状況を打開すると思ってる。ボクたちのことも救い出してくれるよ。信じてる』
『はは……そうだったな。君はそういう人間なのだったな。果てしない楽観と覚悟を持っているのだったな。ならば私も信じるとしよう。人間を、その可能性 を』
 声はそれきり聞こえなくなった。
 凛々子の意識は闇に呑まれた。
 
 13

 数秒前
 同じビッグサイト会場内

「姉さん!? 姉さんッ!? 姉さんがなんでこんなところにッ!?」
 敬介は完全にパニックに陥っていた。
 もうすぐ巨獣を倒せそうなところで、足に女がすがりついてきたのだ。顔を涙でくしゃくしゃにして言うのだ。
 姉の顔で、言うのだ。
「かみさまを……いじめないでっ……」
 ショックのあまり、その場に尻餅をついた。
 頭の中は無数の思考の断片がデタラメに飛び回っていた。
 そんな馬鹿な。なんでここに姉さんが。姉さんはこいつらに洗脳されたのか。どうすればもとに戻せる。ここで戦ったら姉さんも被害が。ああ。ああ。ああ あ!
 戦闘中には思考の最適化が必須だ。いま考えるべきことを冷静に判断し、考えても仕方ないことは決して考えない。マインド・セットせよ。そう叩き込まれて きた。だが教わったことを全て忘れてしまっていた。
 頭では分かっている。姉をどうするかは後で考えることだ。いまは目の前の敵を倒すことだ。分かっている。わかっているんだ。
 だが頭ではなく、胸の奥で熱く脈打つものが、冷静になることを決して許してくれない。
 姉が。あの姉が、俺をに嫌悪を……憎しみの表情で……
 姉の幸せが全てだった。姉の笑顔が見たかった。姉を悲しませ苦しませるもの、すなわち蒼血を、ひたすらブッ殺すと決めた。
 だが今は自分こそが、姉を悲しませ苦しませ……
「あ、あ、ああっ……」
 がたがた震えながら、意味不明なうわごとを口走ることしかできなかった。
「作戦中だよっ!」
 凛々子の言葉が耳に飛び込んできた。その言葉をきっかけに混乱した意識がひとつにまとまった。
 そうだ、とにかく今は!
 深呼吸して、目を巨獣に再び向ける。立ち上がろうと脚に力をこめる。
 遅かった。何もかも遅かった。
 自分が混乱している間に巨獣は他の隊員たちを振りほどいていた。そして走った。地面に座り込む自分のすぐそばを駆け抜けて、凛々子へと飛びかかった。
 ごりゅっ。
 凄まじい音がした。敬介はその音を聞いたことがあった。太い骨が……首が折れるときの音だ。
 おそるおそる振り向いた敬介は見た。倒れた凛々子の上にのしかかった巨獣。巨獣はゆっくりと起き上がり、こちらを向く。その口には、凛々子の生首がくわ えられている。黒い大きな吊り目は濁って、まったく生命の光がない。
「あっ……」
 たったいま凛々子は死んだんだ。そう思った。人類に味方する唯一の蒼血、殲滅機関の秘密兵器だったはずのエルメセリオンも、死んだのだ。
 自分のせいで。
『撤退だ、撤退! エルメセリオン喪失! 全部隊撤退!』
 無線を通じて誰かの声がした。サキ隊長ではない。誰か男の声だった。投入された八個小隊全体の指揮官だろう。
 あとのことはよく憶えていなかった。呆けていたらサキ隊長に殴り倒され、引きずられて会場を後にした。巨獣は追いかけてこなかった。
 チヌークに飛び乗った。ターボシャフトエンジンの轟音が聞こえてきて機体が浮き上がった。
 敬介はずっと椅子に座ったままうつむいていた。
「天野、メットくらい脱げ」
 サキ隊長に言われ、ようやく顔をあげる。
「うあ……?」
 顔の周りを触ってみる。自分だけヘルメットやゴーグル類を着けたままだった。
 外して、また下を向いた。
 目を合わせたくなかった。隊長と。他の隊員達と。自分のせいで、作戦が失敗したのに。自分のせいで、多くの隊員の死が全て無駄になったのに。エルメセリ オンが……凛々子が死んだのも俺のせいなのに。
 どうして顔を合わせられる。
 姉に憎まれたことと、この大失敗のおかげで、心の中の柱が、自信の中核とでも言うべきものが粉々になってしまっていた。
 何も考えられない。これからどうしようとか、姉をどうやって元に戻そうとか、自分はどんな処罰を受けるのか、という考えすら、頭の中でまとまらない。
 ただ、怖い、怖い。みんなの顔を見るのが怖い。自分が嫌だ。自分の無能が、自分の弱さが。考えたくない。何も。
「何をいじけているんだ、天野!」
 サキ隊長にどなりつけられ、顎に手をかけてむりやり顔を上に向けられた。
 隣に座るサキ隊長が、鋭い目に剣呑極まりない光を宿して敬介を見ていた。心臓をわしづかみにされた気分で、身体がすくんだ。
「なあ、お前はなんだ?」
「……は?」
「お前は何者だ、と訊いている」
「殲滅機関の……隊員です。戦闘局員です」
「そうだ。戦闘局員の仕事は、真っ青な顔で膝を抱えていじけることなのか?」
「でも……だって……しかし……」
 震える声が唇から漏れた。自分が最低の行動を取っていることはわかっていた。失敗した人間がこんな惨めな言い訳ばかりしていたら、殴られて当然だ。だが サキ隊長はもう殴らなかった。問い詰めることもない。ただ黙って敬介を見つめ、敬介の次の言葉を待った。
 敬介が「だって……」以外なにも言えなくなると、はじめて口を開いた。
「私は、過去を罵ることに意味はないと考えている。たとえ三十分前のことであっても、それは過去だ。現在どうやって状況に対応するか、未来をどうやって勝 ち取るか、という問題に比べれば過去は些細なことだ。
 罪に問われないわけではない。戦闘中にパニックに陥り作戦を瓦解させた。処罰の理由としては十分だ。お前が引き受けるべき当然の責任だ。
 だが死刑になるとは考えづらい。
 お前にはまだ未来がある。ならば未来のことを考えろ」
「みらい……?」
「そうだ。今度戦うことになったらどうするかと。この程度の敗北でくじける我々だと思うか? エルメセリオンが失われても、戦う方法はいくらだってあるん だ。情報部との連携も重要だ。あそこに集まった一万五千人が社会に広がっていくんだ。どれほど忙しくなると思う? そう、我々の仕事はまだこれからなんだ よ」
 サキはそこで言葉を切って、はにかんだ。
「ピンときていない顔だな。そう、最後に一つだけ。首藤曹長の話は覚えているな?」
「はい。もちろん」
 凛々子とのデートの前日……遠い昔のように思えるが、つまり昨日だ! サキ隊長から聞いた、かつて殲滅機関日本支部最強と呼ばれた戦闘局員、首藤剛曹 長。数々の武勲を挙げた戦闘マシーンは、突然自殺したという。
「お前はある意味、首藤を超えたといえる」
「え?」
「首藤は戦闘機械のような男だった。完璧な機械になろうとした。だがなり切れずに『壊れた』。だがお前は首藤と違って決定的な失敗と敗北と味わった。今の お前の姿は実に人間的だ。戦闘機械になるという道は、もう閉ざされてしまった。
 逆にいえば、お前が首藤曹長と同じ轍を踏むことは決してない。
 期待している。高い能力を持つ『人間』であるお前に」
 なぜだか、その言葉に胸を打たれた。
 自分の犯した大罪は決して覆らないのに、なぜだか胸の重荷が軽くなる。
 顔を上げて、恐る恐るゆっくりと、機内を見渡してみる。
 何人かの隊員の顔が見えた。もちろん敬介に向ける視線は冷たく、友愛のかけらも感じさせない。とくに後列に座るリー軍曹は、細い目に殺気すら宿して敬介 を睨んできた。
 気付いた。リー軍曹がかわいがっていた隊員がいない。生きて帰れなかったのだ。
 ……憎まれて当然だ……
 目をそらさず受け止めた。卑屈になって縮こまっても意味がない。これは自分が受けなければいけない当然の仕打ちで、いまから信頼を回復させていけばいい のだ。そう前向きに思うことができた。
 敬介のことはもういいと判断したのか、サキが小さくうなずいて立ち上がる。
「みんなも聞いてくれ。今の言葉は天野一人のために言ったのではない。
 天野を特別扱いする意志は毛頭ない。
 君達、いや殲滅機関全体に対する言葉だ。
 我々は巨大な敗北を味わった。
 彼らは外に出るだろう。そして神を名乗った蒼血の元に宗教を作るだろう。
 我々が彼らをもっとも効果的に潰せる瞬間は、もう過ぎ去った。永遠に失われてしまった。
 これからは後手後手にまわって効率の悪い戦いだ。
 外国の対蒼血機関からは非難と嘲笑を浴びるだろう。
 だが、こんなことは何度もあった。
 国の中枢部に蒼血が入り込んだことも、巨大な犯罪組織を作られたことも……
 殲滅機関の大部隊、数百人が一人も生きて帰れなかったことも……
 だが、我々はそれでも諦めなかった。彼らにこの世界を渡してなるものかと、必ず再起して逆襲した。人間は不屈で、我々も不屈だ。
 今回の敗北は無意味ではない。精一杯悲しんで、だが明日のために胸を張ろう」
 しばらく沈黙があった。
 リー軍曹が口を開き、軽い笑い声を立てた。
「はははっ……言われなくてもわかっていますよ。こんなもの最悪じゃあない。葬式みたいな顔をするのはやめよう、みんな。暗い顔のままだと隊長のクサい説 教を聞かされ続ける、たまらないね」
 リー軍曹の笑いは機内に伝染していき、機内のあちこちで軽い笑いがあがった。
「そうだね、この程度でへこたれる俺たちじゃないさ!」
 機内の空気がはっきり変化した。
 ああ、この人は凄い。敬介は傍らに立つサキのことを見上げた。
 この人はたしかに指揮官の器だ。ただ強いというだけじゃない。部下の心を掴める。仁王立ちして一喝すれば、崩壊した士気を立て直せる。だから指揮官なの だ。
 敬介の心はずいぶん軽くなった。
 みんなと一緒に自分も笑おうとした。
 できなかった。笑みは凍りついた。笑声はくぐもった唸りになった。
 凛々子に関する記憶が一気に押し寄せて、胸が詰まった。
 天から降ってきた凛々子。
 剣を振るって勇ましく戦っていた凛々子。
 水族館でゴマフアザラシやエイのダイナミックな動きにはしゃいでいた凛々子。
 自分の楽しみのためだけに休日を過ごしてみるのも悪くないものだな、と教えてくれた凛々子。
 たとえ最後が喧嘩別れだとしても、それまで一緒に過ごした楽しい時間まで消えてなくなってしまう訳ではない。人生で味わったことのない幸福だった。
 電車の中で自分とケンカした凛々子。ハーブティーをかけられても怒りもせず、逆に謝った凛々子。
 自分との間にわだかまりを抱えつつ、機内で明るく振舞った凛々子。
 そして……首だけの姿になって巨獣に咥えられている凛々子。
 まだ死亡が確認されたわけではないが、奴らが首だけの凛々子を生かしておくとは思えない。
 もう会えない、心にそう刻まれた。
 どうして……もう会えなくなると知っていれば……
 せめて一言くらい……
 たとえ俺がこの先、作戦を潰した責任をとって、信頼を回復させて、仇を討ったとしても。
 姉に宗教を辞めさせたとしても。
 ずっと俺は、凛々子に謝れなかったことを後悔し続けるだろう。
 意地を張ってしまったことを、デートが楽しかったと言えなかったことを。
 掌で顔を覆って、小さく呟いた。
「凛々子……」
  
 14

 十二月三十一日
 殲滅機関日本支部の地下 第3会議室

 翌日、敬介を裁くための査問会が開かれた。ごく短いものだった。十二時ちょうどに始まって、現場に居合わせた者の証言を軽く確認し、たった三十分で結論 が出た。
 査問会の議長は、日本支部の作戦局長を務めるロックウェル少佐。筋骨たくましい身体をグレイの軍服に包んだ彼は、悠々と立ち上がり、岩から削りだしたよ うな厳つい顔を敬介に向けて、おごそかに言い切った。
「当査問会は、天野敬介伍長の死刑を宣告する」
「なっ……」
 敬介の全身が震え、唇からうめき声が漏れた。あとはもう声にならない。空気をもとめる金魚のように空しく口を開閉させる。
 ……そんな馬鹿な! 死刑は有り得ないとサキ隊長も言っていたのに!
 寒いほどに冷房が効いているのに、額を冷たい汗が流れる。あたりを見渡す。
 査問委員会が開かれているのは学校の教室ほどの広さの部屋だ。
 大きな楕円テーブルを挟んで敬介とロックウェル少佐が向き合っていた。ロックウェルの右隣には細身で細面、メタルフレームの眼鏡をかけた中年男性が座っ ている。副議長をつとめる法務士官のシェフィールド大尉だ。彼は死刑宣告にもまったく驚いていない。薄い唇を冷笑の形に歪めていた。青い瞳にも嘲りの光が あった。左隣には参考人として呼ばれた影山サキが立っていた。信じられない気持ちなのだろう、こころなしか青ざめ、驚愕に目を見開いている。
 敬介とサキ隊長の目が合った。サキの頬が震えた。かすかに後ろめたそうな表情を浮かべる。ほんの一瞬だけ、ふたりは見つめあった。
 サキはロックウェルの方に顔を向け、ためらいがちに口を開く。
「し、しかし、ロックウェル少佐……!」
「黙りなさい。君の発言は許可されていませんよ?」
 シェフィールドが金属質の冷たい声を浴びせた。
「まあ、待て」
 ロックウェルがシェフィールドの肩をポンと叩く。
「話くらいは聞いてやろう。何だね?」
 サキがうなずく。
「感謝します。……あまりに異常な決定ではありませんか? 私の記憶では、殲滅機関の軍法は米軍に準ずるはずです。米軍で死刑判決が出たことはもう何十年 もありません。敵前逃亡や上官殺害ですら死刑にはなっていません。単なる過失で作戦失敗、という例であれば、禁固三十日とか、不名誉除隊程度が適当ではな いかと……。日本国内の法律を考えても、彼のやったことは過失致死です。過失で死刑など……まったく有り得ません」
「ふむ、君のいわんとすることはわかった」
 ロックウェル少佐はにこりともせず、ただ太い眉を片方だけ上げた。
「だがね、君は軍事組織における法の運用というものを誤解しているようだ。シェフィールド君、説明してくれんかね?」
「はい」
 シェフィールド大尉が起立する。口元に冷たい笑みを浮かべたままテーブルを囲む一同を見渡した。芝居がかった仕草で両腕をばっと広げる。
「当決定に関する補足説明を行います。……軍事組織に軍法が存在する理由、軍法が運用される目的は、ただ一つ。その組織の戦闘力発揮を容易ならしめること です。一般の裁判においては法の平等、容疑者の人権が重要視されますが、軍事組織に限っては重要ではありません。『それで軍の能力が高まるか?』だけが問 題です。
 さて。現在は困難な状況です。この世に十三体しかいないフェイズ5が日本に現れました。そのフェイズ5を二体もまとめて倒す機会があったにもかかわら ず、この男、天野敬介伍長の錯乱により倒せずに終わったのです。もしこの男に甘い処分を下して、ともに戦った戦闘局員たちはどう思うでしょうか? 果たし て、組織への忠誠を保てるでしょうか。戦い続けようという意欲を発揮できるでしょうか。なぜ奴はのうのうと生きているのだろう、と思って当然ではありませ んか?」
 そこでシェフィールドは言葉を切り、また全員を見渡した。
「そう、彼を死刑にするのは組織の規律、戦意を維持する上で止むを得ない処置なのです」
 こほん、とわざとらしく咳払いして着席する。
 かわってロックウェルがサキに眼光を浴びせ、喋りだした。
「聞いての通りだ、影山曹長。ここで死刑にしなければ隊員の戦意が損なわれる。そもそも影山曹長、君は部下に同情していられる立場なのか? この査問会が 終われば、次は君の教育責任が問われる番だ」
 サキの顔がこわばる。
「わかっております。私の部下のやったことですから」
「ならば、これで終わりだ。天野伍長、今回の決定に不服があるなら正式に軍法会議の開廷を訴えることだ。わかったな?」
 敬介は何も答えられなかった。全身が小刻みに震えている。
 敵の攻撃は恐ろしくない。だが今は恐ろしい。いちど査問で決まった事を覆すには軍法会議を開くしかない。軍法会議では弁護人もつき、陪審員による裁判が 行われる。だが新たな証拠や証人などが見つからない限り、まず軍法会議開廷が認められることはない。
 命運は決したのだ。止まれ止まれと筋肉に命じても、どうしても体の震えが止まらなかった。冷や汗が全身から吹き出していた。
「では起立」
 ロックウェルの言葉で、いちど座ったシェフィールドも立ち上がる。
「これをもって査問会を終了する」
 背後の扉が勢いよく開き、屈強な隊員がふたり入ってくる。腕には「MP(ミリタリーポリス)」の腕章がある。憲兵隊だ。敬介の手に手錠をはめた。
「来い」
 荒々しく引っ張られて、廊下に連れ出される。
 ドアが閉まって室内が見えなくなる寸前、サキ隊長が敬介を見つめた。かすれる声で一言だけ発した。
「……すまんな」
 胸が詰まった。なんて人だ。これから自分の査問が待っているというのに、俺のために……
 まだ手はある。きっと覆す手はあるはずなのだ。
 
 15

 二〇〇八年
 二月三日
 殲滅機関地下七階独房
 
 それから一ヶ月たったある日、敬介は地下深くの独房で、マットレスの上に寝転がって廊下を眺めていた。
 カビくさい空気にもすっかり慣れてしまって、もう何も感じない。
 独房の、廊下に面している側は床から天井まで一つながりの鉄格子になっている。廊下の天井にはカメラがセットされ室内を二十四時間体制で見張っている。 持ち物はすべて取り上げられ、使い古しのスエットの上下だけを与えられ、何もできることはない。
 ただひたすら、自分を見おろすカメラを睨み続け、来る日も来る日も考える。
 何か手はあるはずだ……何か……
 足音が近づいてきた。鼓動が早まった。跳ね起きて、マットの上に胡坐をかく。
 ……なんだ? メシか?
 昼食はとくに嬉しくない。いざというときに体力がなければと思っていても食欲がわかず、今朝だってパンとミルクにしか手をつけなかったのだ。
 ……メシではないなら!
 死刑決定は覆っていない。まだ執行されていないだけなのだ。今日が執行の日ということだって十分に考えられる。自分の鼓動の音がいやに大きく聞こえた。
 二人組の憲兵が現れる。独房の前で立ち止まった。
「天野敬介。訴えの結果が出たぞ」
 二人組のうち年かさのほうが言う。胸ポケットから出した書類を胸の前で広げ、読み上げる。
「検討の結果、今回の訴えには妥当性がなく、軍法会議の開廷は不要と判断した。よって却下する。法務局」
「くそっ!」
 思わず悪態をついた。拳がきしむほどに握りしめた。
 死刑執行ではなかった。だが、軍法会議開廷要求が却下された。これで四回目だ。
「どうする? また提出するかね?」
「……やめておく」
 無駄だ。自分なりに頭をひねって、寝ずに考えて査問の無効性を訴えた。もう一度正式な裁判をやるべきだと書いた。だが、やはり根拠がないのだ。
 誰かが……俺の責任ではないと証言でもしてくれないかぎり。
 若い方の憲兵が嘲りも露わに吐き捨てた。
「それがいい。無駄さ。お前のような奴には紙一枚をくれてやるのも惜しいしな」
「おい、感情的になるな」
 年かさのほうはそう言うが、口元には苦笑がある。本気でとがめているわけではない。
 誰もが敬介のことを蔑みと怒りの目で見ていた。最低の局員、死んで当然だと。 
 その上、独房に足音が近づいてくるたびに「まさか、今日か!?」と心臓がすくみ上がる。
 こんな生活を一ヶ月。さすがにこたえる。
 憲兵ふたりの足音が去っていく。
 再びマットレスに転がった。
 いっそのこと脱走しようか。
 今まで何度となく考えた。
 だが、どうやって?
 具体的な計画になると、いつも詰まってしまうのだ。
 いま自分がいる牢は地下七階、基地の一番底だ。数え切れないくらいの人の目をかいくぐらないと地上には出られない。
 憲兵を倒すなり、鉄格子を壊すなりして部屋から出るだけならできるかもしれない。
 だが廊下に監視カメラがあるからすぐ発見される。基地には憲兵、戦闘局員、情報局員など全部合わせて二千人もいる。しかもこちらは丸腰。たちまち追い詰 められる。しかも基地内には、正規局員の指紋と網膜パターンがなければ開かないドアが各所にある。エレベータもそうだ。とっくに登録を取り消されている俺 には、エレベータを動かすことができない。
 格納庫まで行ってシルバーメイルを奪い、力ずくでドアを壊して出るのは?
 ダメだ。まさに格納庫こそもっとも厳重に管理されている部屋だからだ。
 誰かを人質にとって……
 無駄だ。蒼血が人間を人質にとる例など珍しくない。殲滅機関の戦歴を見ればそんな脅迫に屈したことなど一度もないと分かる。俺がやっても同じだろう。人 質救出の経験は豊富だし、仮に救出できないならためらいなく人質ごと俺を撃ち殺すだろう。
 誰か、できるだけ偉い奴を殺して、そいつの死体を使えば指紋や網膜パターンのチェックをクリアーできないだろうか? 
 そんなことまで考えた。
 だが、どうやって一人で、誰にも知られずに殺す……?
 そこまで考えて、ハッとなった。胃袋が痛みを発しながら縮む。
 俺は……もう機関への忠誠心なんてないんだな。とんでもないことを。
 そこまでして脱出して、それで何ができるって言うんだ。機関にとって最大級の裏切り者となり、地上に出ても逃げ回るだけの毎日。姉を助けることも、失敗 を償うこともできない。
 こんな最悪の手しかないって言うんなら、いっそ俺はおとなしく死刑になるべきなのか。
 それが、機関への最大の貢献なのか。
 分からない。
 理屈の上では確かにその通りだ。だが凛々子の笑顔が脳裏に浮かぶ。自分の足元にすがりつく姉の悲痛な叫びが耳から離れない。
 俺がこのまま死刑になったら、姉さんは教団に取り込まれたままだ。会うこともできず、俺が何故いなくなったのか姉さんが知ることもできない。そもそも、 いま姉さんがどうしているのかすら分からない!
 凛々子にも……それでいいのだろうか。
 俺は凛々子の戦いを無駄にしてしまった。
 ここで死刑になるだけで、その償いをしたことになるのか。
 ますます胃袋が締め付けられる。すっぱい胃液が喉のほうにまで逆流してきた。
 負けるか……
 廊下から室内を睨むカメラを、ますます気迫をこめて睨み返す。
 と、そのとき。
 また足音があった。先程より乱れている。急いでいる。
 尋常ではない出来事があったということか。
 まさか、執行?
 また跳ね起きて、鉄格子にしがみついて立ち上がる。
 もし執行なら、俺は……
 ここで一瞬の隙をついて武器を奪い、たとえ万に一つの勝機しかなくても……脱走するか!?
 握りしめた鉄格子が冷たく、ヌルヌルと滑って気持ちが悪い。違う、自分が手のひらに汗をかいているのだ。
 やるか、と覚悟を決めたその瞬間、先ほどの憲兵ふたりが姿を現した。
「天野敬介。面会だ」
 
  16

 五分後
 面会室

 面会室へ通された。トイレの個室を少し大きくした程度の狭い部屋だった。
「入れ」
 促されて敬介が個室に入る。憲兵もそのまま後ろについてきて、部屋の入り口のところで立っていた。背中にはりついている状態だ。ドアを閉めもしない。
 背もたれもない、床に固定された小さな椅子に腰掛ける。
 小さな穴のたくさん開いたプラスチックの遮蔽版をはさんで、向こう側の部屋にサキ隊長とリー軍曹が座っていた。向こう側の部屋も狭いので、肩がぶつかり 合っていた。
 なぜ、リー軍曹が? 俺とは顔を合わせたくないはずなのに。
 意外に思ってリー軍曹の顔を見る。目が合うと、リー軍曹は薄い唇を憎々しげに歪め、毒づいた。
「……意外に元気そうだな。面の皮の厚さだけは大したもんだ。真っ黒な隈を作って震えている姿を見たかったんだが」
「よせ、リー軍曹。裁きをちゃんと受けている人間を、これ以上貶めるな」
「……隊長は、なぜかこいつに甘いですよね……」
 敬介はハッと気付いて、遮蔽版に身を乗り出して訊ねた。
「隊長! 隊長のほうの査問はどうなったんですか?」
「私か? おかげさまで処分は受けずに済んだよ。本当に幸運だった。……天野、何か困ったことはないか? 牢の中で足りないものとか」
「足りないものというより……知りたいです。いま世の中がどうなっているのか。あの蒼血たちの教団がどうなったのか」
 独房の中でも、申し出れば新聞を読むことはできた。だが教団のことは一行も書かれていなかった。たった数行、「東京ビッグサイトで参加者同士がケンカに なって、その混乱に乗じてテロを行ったものがいた」と書かれてる。テロの犯行声明を出した過激団体もあるそうだが、もちろんこんな団体は実在しないだろ う。蒼血事件で死傷者が出るたびに、架空の犯罪者やテロ組織をでっちあげて情報を流す。昔から殲滅機関が行っていることだ。
 教団のことが一言もないかわりに、新聞は野党の大物政治家の汚職疑惑と、芸能人の破廉恥事件、多摩の工事現場で発見された白骨死体、などのニュースで埋 め尽くされていた。きっとこれらも情報局が「作った」事件なのだろう。大量の事件を作り出して民衆の関心を誘導するのだ。
「知りたいだろうな。それにお姉さんのことも、だろう?」
 サキ隊長は控えめな笑みを浮かべてうなずく。
「え? あ、はい」
「そうだろうと思って面会に来たんだ。
 まず現状から言うと、教団はこの一ヶ月で凄まじい急成長を遂げて、三十万人とも五十万人とも言われる信者を誇っている。しかも、この信者達の活動は実に 活発なんだ。ここに来るとき、相模原や町田の駅前を通ったんだが……すごいな、大勢がビラをまいて、道往く人に片っ端から声をかけて勧誘している」
「警察は捕まえないんですか?」
「逮捕する根拠が乏しい。末端の警察は蒼血のことなんて知らないからな。何人か、勧誘のときのトラブルで捕まった奴がいる。他の宗教団体と口論になって、 強要罪を適用して逮捕したケースもある。もちろんその程度じゃ活動をやめるはずがない。都心のほうじゃもっと激しく活動しているらしい」
「でも隊長。情報操作ができるなら、教団が犯罪やテロをたくらんでいるという風に仕立て上げれば……」
 サキは眉をひそめる。
「それで警察が強制捜査に入って、どうなると思う? 皆殺しにされるんじゃないか?」
「そう……ですね」
 一皮むけば蒼血の集団だ。普通の警察では対処できない。
「で、肝心の殲滅機関の活動のほうなんだが……これも首尾がよろしくないんだ。教団は今、池袋の駅前のでかいビルに本部を作ってるからな……あれだけ人通 りの多いところでは、作戦部隊の行動は制約される。強行突入なんて論外だ。二十四時間体制で監視して、幹部が出てきたら狙撃する、あたりが限度だよ」
「突入しても、ちょっとやそっとの戦力では勝てませんからね……」
 呟く敬介の脳裏に、紫の針に覆われた巨獣の姿が蘇る。
 多数の局員が浴びせる機関銃弾も無反動砲も、まったく物ともしなかった。
 しかも、ヤークフィースたちの眷属があれだけだという保証はない。
「より強力な作戦部隊を再編成しないとな。しかし蒼血事件は東京だけで起こっているわけじゃない。全国的に激化してる。つい昨日も北海道で戦ってきた。 たった十名で蒼血のコロニーを襲撃する羽目になったんだ。その前は九州、その前は沖縄」
「じゃあ、機関はどういう方針で対処するつもりなんですか?」
「そんな上の考えることなんて、私にはわからないよ。
 そうだな、いいニュースとしては、なんであの紫の怪物が銀に耐えられたのか、その理由がわかった」
「隊長!」
 仏頂面だったリー軍曹が色めきたつ。こんな重大な情報を裏切り者に知らせてなるものか、ということだろう。
「いいじゃないか、死刑になるなら、どこに情報を漏らしようもない。
 ヤークフィースの一党は、医療メーカーに人脈を張り巡らして、特殊な人工透析の機械を作らせていた」
「透析? じゃあ、それで銀を体から取り除いていたんですか?」
「そういうことだ。装置の重量は三十キロ、ちょっとしたリュックサック並みの大きさがある。体内に入れたら、とんでもない肥満体型になるな」
「じゃあ合体した状態ならともかく、普通の人間の形をしてるなら、銀は効くはず?」
「その通り。装置の数も十台を超えることは有り得ないそうだ」
 よし、これで攻略の糸口がつかめたんじゃないか?
 などと考えて拳を握りしめ、はたと気付く。
 死刑囚が作戦のことなんて考えて、どうする?
 サキ隊長もそのおかしさに気付いたのか、笑みをうかべてうなずく。
「前向きだな、こんなときも仕事のことか」
「はい……」
「何をどうしようが、お前が隊に復帰することは決してねェよ。無駄なこと考えんな。お前は懺悔しながら死ねばいい。それだけだ!」
 リー軍曹は遮蔽版に顔を近づけ、敬介に憎しみの視線を浴びせながら吐き捨てた。
「そうかもしれんな。私としても、君を助ける術はない。自分のことで手一杯でね。
 最後にこれを見せよう」
 そう言って、サキ隊長は持ってきたリュックからノートパソコンを取り出す。
「これの持ち込み許可は大変だったんだ。だが、私が口で言うより映像の方が手っ取り早いだろう」
 パソコンを操作する。動画プレイヤーが立ち上がった。
 CGで作られたロゴが画面上で踊る。
『突撃! ネットニュース』
 画面上に二十歳そこそこにしか見えない若い女性が現れる。スーツを着こんで理知的な顔立ちだ。カメラの方を向いて喋りだした。
『みなさん、情報弱者になってませんか? ホントの情報、見落としてませんか?
 マスコミが伝えないニュースを独自の視点で徹底追跡! 
 突撃! ネットニュース!』
 ニュースにしては変だと思っていたら、背景はカラオケ屋の個室だ。音質もよくない。パソコンとデジタルビデオカメラで、手作り感覚で番組を作っているの だろう。
『第21回、謎の教団・繭の会。みなさんは駅前でビラを配っている不思議な集団を目撃したことはありませんか。家に冊子を持った集団が布教に来たことはあ りませんか。『繭様』を崇め、『繭様がどんな病気も治してくださる』という彼らこそ、たった一ヶ月で巨大宗教にまで膨れ上がった謎の団体、『繭の会』なの です。
 当ネットニュースでは、マスコミがなぜか無視している教団の正体に迫ります! 教団幹部の特別インタビューも敢行しました』
「あれ? ニュース? だってマスコミにはすべて圧力を欠けているんでしょう?」
「マスコミは確かにそうだ。だが個人でやっているネットニュースまではね……そして、一度ネットに上げられた動画は完全に消滅させることができない。これ を作った女は黙らせたが、もう後の祭りだ。ネット上から削除しても、一度見た奴が再アップする」
 パソコン画面の中では、スーツ姿の女が駅前で教団メンバーにインタビューしていた。
『みなさんは何故、教団の活動をしているのですか?』
 レポーターがマイクを向けると、制服姿の少女が大きくうなずいた。
『お母さんの病気を治してもらったからです。どんな医者も匙を投げていたのに、ただ繭様のキス一つで……』
 胸ポケットから大型のロケットを取り出し、中の写真を見せる。教祖・嵩宮繭の写真だ。長い艶やかな黒髪、人間離れしているほどに整った容姿に、凛とした 微笑。写真になっても神々しさが伝わってくる。
 少女のとなりにいる中年女性も両手を合わせ、切々と語りだす。
『私もです。友達に誘われたときは疑う気まんまんで、インチキ宗教だと思っていたんです。でも繭様は、うちの子の足を治してくれたんです。もう一生歩けな いって言われていたんですよ!? 学者が何を言おうと、繭様はホンモノなんです。この後の人生を、繭様のために捧げようと決意しました』
『私も繭様が……』
 敬介は固唾を呑んで画面を見守った。
 姉は出ないのか。見当たらない。信者が何十万人もいるなら、姉にスポットライトが当たる確率はわずかだろうが、やはり見たい。
『では、これだけ多くの信徒をひきつける教祖・嵩宮繭の力とは? 本当に科学を超えた奇蹟を起こせるのでしょうか? 教団は実演ビデオを多数発表していま すが、やはり内輪で作った映像だけでは信じられません。ぜひこの目で見たい。そう思って、当ニュースは嵩宮繭へのインタビューと、治癒の奇蹟の公開実験を 申し出ました。
 残念ながら多忙を理由に断られましたが、かわりに教団幹部の一人・樋山理香子(ひやまりかこ)がインタビューに応じてくれたのです。樋山理香子は教団で は広報部長を務め、また『神の力』を持つ『覚醒者』の一人でもあると言われています』
 カクセイシャ? 不思議な単語に敬介は眉をひそめた。
 神の力とやらが蒼血の能力ならば、つまり寄生された人間ということか。
 画面が切り替わる。
 ビル内の応接室で、ソファーに座った妖艶な美女がカメラに向かって微笑む。
 日本人離れした、彫りの深い美貌の女性だ。
 柔らかそうな栗色の髪を長く伸ばし、大きな垂れ眼は潤んで、長い睫毛に縁取られている。冬だというのに肩を露出した派手なドレス。ドレスに押し込められ た乳房ははちきれそうだ。年齢は二十代後半くらいだろうか。
 敬介の周辺にはまったく存在しないタイプの、色気に満ち溢れた女だった。敬介は水商売の店に行った経験が一度もないが、なんとなく、そういう世界の…… 「夜の女」という印象を受けた。あるいは、「女占い師」。色香と甘言で男をたぶらかす占い師にピッタリだ。
『みなさま、はじめまして。わたくしが『繭の会』広報部長、樋山理香子です。繭様に代わり、わたくしが『繭の会』の真理をみなさまにお伝えさせていただき ます』
 声もハスキーだ。すこし頭を下げて瞬きをする。
『まず、なぜ人が争いをやめることができないのか。それは人に弱い心が……』
『ああ、すみませんが、教義の話よりも先に見せて欲しいものがあるんです』
 キャスターが口を挟んだ。
『なんでしょう?』
 樋山理香子は小首をかしげ、またパチパチと瞬き。
 キャスターはカメラに向き直り、カメラの視野の下からプラスチックのケージを持ち上げた。ケージの中では何かがゴソゴソと動いている。
 ケージから何かを取り出して、抱きかかえる。
 犬だ。短い毛の、痩せこけたミニチュア・ダックスフンドだ。だが後ろ足二本が切り株のように短くなっている。切断されているのだ。知らない場所と知らな い人間に怯えているのか、尻尾を伏せ、大きな黒い目を見開いてあたりをしきりに見回している。
『心無い人間に痛めつけられた犬です。カメラの前で、この犬を治していただきたいのです。教団のPR資料は観させていただきました。樋山さんは嵩宮繭さん と同様に、『癒しの奇蹟』を起こせるそうですね??』
 ……なんだって?
 敬介は耳を疑った。他人のケガを治せるなら、ただの蒼血ではないだろう。フェイズ5じゃないか。いったい十三人のうちの誰だ、この女は。
『ええ。わたくしは『覚醒者』の中でも、他のものより少しだけ神に近づいていますので』
 大きくうなずいて、ためらうことなくダックスフンドに手を差し伸べた。優しく抱きかかえる。
『さあ、よく観てください。もっと近くから撮ってもかまいませんよ』
 言葉に従って、カメラがキャスターから外れ、樋山と呼ばれた女の顔をアップにする。樋山は顔を傾け、犬のとがった口吻に唇を当てる。だが犬は身体をビク つかせて、口を開かない。
「怖くない……怖くありませんよ……」
 静かで優しい声で呼びかけながら、ゴツゴツと骨の目立つ背中を撫でさする。しだいに犬がわずかに口を開ける。犬歯のならぶ口に、女が細い指を差し込む。
「んっ……」
 はっきりと口と口を合わせた。舌を入れているのがはっきりと見えた。
 犬が目を閉じ、緊張していた身体をだらんと伸ばす。切断されていた犬の足に変化が生じた。ソーセージの端のように短く丸くなっていた足が盛り上がり、長 く伸びていく。関節が形成された。たった数秒で後ろ足が生えた。もう傷一つない状態だ。
 その後も数秒間キスをつづけて、ようやく口を離した。犬を持ち上げてカメラに向ける。
 たったいま生えてきたばかりの後ろ足を軽く撫でる。柔毛に覆われた足が軽やかに動いた。犬を床に下ろす。カメラが下がって追いかける。犬が部屋の中を歩 きはじめた。その足取りはスムーズで、怪我などまったく感じさせない。
「ごらんのとおりです」
 再び樋山にカメラが戻った。画面の中で彼女は華やかに微笑んだ。
「なるほど……みなさん! これはトリックではありません、CGでもありません! 私はこの動画をCGと特殊撮影の専門家に鑑定してもらうつもりです。よ ろしいですね?」
「もちろんです、わたくしたちの力は真の奇蹟、トリックの入り込む余地などないのですから」
「なるほど……一体なぜ、あなた方ははこんな力を使うことができるのですか? 普通の人間でも教団に入れば奇蹟を得ることができる、力を使えるようになる というのは本当ですか?」
「ええ。神の力は本来、すべての人に宿っているのです。ただ、それを目覚めさせることができないというだけで……繭様や、わたくしたち覚醒者は自らの力で 神の力に目覚めました。
 しかし、自力では目覚めることができない人たちであっても、『繭の会』に加わり、導きと研鑽を受けることで、内なる神の力を手に入れることもできるので す」
 敬介は、膝の上の拳をきつく握りしめた。
 ……神の力を手に入れるって、つまり蒼血を寄生させるってことじゃないか?
「そのための方法は一つではありません。
 繭様は、人それぞれに合った方法で会員を導きます。
 そう、たとえば……あなたが水族館に行ったとしましょう。水族館にはたくさんの生き物達がいます。キャスターさんはクラゲがお好きでしょうか? ゆらゆ らして癒されますよね。魚とはまったく違った形ですが、クラゲもまた海の中の環境に適応した姿なのです。やり方は一つではないと……
 ああ、ごめんなさい。女性の方だってクラゲが好きとは限りませんよね。男性のほうがクラゲ好きで、ずっとクラゲを見つめていて、女性はエイの格好よく上 昇する姿が好きかも知れません。性別に関わりなく、いいものはいいですよね」
「あ、あ……あ……」
 敬介は口を半開きにして、あえぎながら聞いていた。心臓が凄まじい速度で脈打ち、膝の上で握った拳が震えていた。
「どうした?」
 サキが眉根を寄せる。
「だ、だ、だって……この人! この広報部長は!」
 思わずうわずった声が出る。生唾を飲み込んだ。腰を椅子から浮かして、叫んだ。
「……こいつ凛々子ですよ!!」
 サキは目を丸くした。
「何だと? 確かか?」
「ええ! 確かですよ!」
 話の流れを無視した、唐突な水族館の話題。
『男はクラゲが好きで女はエイの動きが好き』……あの日の思い出そのものだ。
 生きていた。首を刎ねられたはずなのに生きていた。教団の仲間として生き延び……そして俺にそのことを伝えてくれている。
 水族館のクラゲなんて、俺個人を狙ったメッセージ以外の何物でもない!
 サキは動画を止めて、静止画像の樋山広報部長をじっと見つめた。
「ヒヤマリカコか。まあ確かに、ヒカミリリコと似ている。外見は好きに変える事ができるわけだが……名前だけではなんとも」
「違うんです。名前だけじゃないんです。いまの『クラゲが好きな男もいる、エイが好きな女もいる』『いいものはいい』ってのは実体験なんです。俺が凛々子 と一緒に、水族館へ行ったときの……こんな偶然が有り得るでしょうか?」
 リー軍曹が細い目に凶悪な光を宿して睨んできた。
「浮かれやがって。こんな時に、デートの思い出か!」
「まて、軍曹。その話は本当なのか? 意図的に、天野個人にメッセージを送っているって言うんだな?」
「はい、おそらく」
「事実なら重大なことだ。エルメセリオンが奴らに加わっているか否か……彼女に埋め込んだ爆弾は、爆発を確認されていない。解除されたらしいんだ。可能性 はある。もっと決定的な証拠を探し出せ」
 言われるまでもなく、目を皿のようにして、遮蔽版ギリギリまでパソコン画面に近寄っていた。
「動画、動かしてください」
 樋山理香子の画像が動き出す。相変わらずなハスキーボイスで、『繭の会』の教義を説明し始める。
『繭様は、もっと大きな力をもっております。東京ビッグサイトで起こった事件はご存知ですよね。あの暴動事件……繭様は、人の心があまりに弱いことを』
「……なんかこの人、瞬きの回数が多すぎませんか」
「こういう人間もいるだろう」
「いいえ。変なんです。これが凛々子なら……凛々子は、こういう仕草をしなかったはずなんです。だから、きっと何か意味があって……」
「どんな意味が?」
 気付いた。片目だけ瞬きをしている。それも、数が不均等だ。
「メモ用紙もってますか?」
「ああ」
「この人が登場したシーンまで巻き戻してください。はい、それでいいです。俺が言った通りにメモしてください。右2、左1、右1、左1……」
 目を凝らして、理香子の瞬きを数える。
 しらばくして、サキ隊長が腕時計をチラリと見た。
「もうすぐ面会時間は終わりだ」
「もうすぐ終わります。右1、左3!」
「それで全部か?」
「はい。で、見せてください。やっぱりそうだ。わかりませんか? 右の瞬き回数を五十音の縦の列、左を横の列にすれば……」
 サキはメモ用紙に五十音表を書いた。
「変換できるわけか。
 『に か つ い つ か
 ほ ん ふ い て ん』
 二月五日? 本部移転?」
「明後日ですよ?」
「なるほど、明後日に本部移転が行われたなら、偶然じゃない。確かにこいつは氷上凛々子で、内部情報をリークしている、そう言えるだろう。
 だが、何のために情報を漏らすんだ?」
「決まっています。俺達に便宜を図っているんです。表面上は教団の一味になっても、心まで売り渡したわけじゃない。俺達の作戦のために情報を流しているん です」
 しかめっ面で話を聞いていたリー軍曹が、拳を遮蔽版に叩きつけて怒鳴った。
「信用できるか! 偽情報かも知れねえ! 一回当たっただけなら偶然ってこともある! 適当なことを……」
「そうかもしれません! でも……もっと調べてください、彼女のことを。もっといろいろとメッセージを送ってるはずなんです!」
 リー軍曹を片手で制して、サキが問う。
「分かった。情報局に意見書を提出しておく。
 だが、そんなもの明らかにして、どうする? お前は処刑されるんだぞ?」
 敬介は考え込んだ。三人とも沈黙する。自分の鼓動だけが耳の奥でとどろいていた。狭苦しい面会室の壁が、凄まじい圧迫感をもって迫ってくる。
 怖い。だが、もしかしたら死刑を免れる突破口がここにあるかもしれない。
「明らかになったら……この広報部長が、間違いなく凛々子だと分かったら……俺が、教団に入って彼女にコンタクトします」
「お前である必然は?」
「俺だけが彼女のメッセージに気付けました。だから彼女といちばん強くつながっているのは俺です。彼女だって、俺にしか読み解けないメッセージを送ってき たってことは、俺である必要があるってことだと思います。
 俺が彼女に接触して、反乱を起こすように言います。そのタイミングにあわせて教団を襲撃してください」
「どうやって幹部に近づく? 氷上が反乱を起こせるという根拠は? まともな警戒心があるなら、なんらの手段で反乱防止措置をとるはずだ。我々が氷上の頭 に入れた、あの爆弾のようにな」
「近づく方法は……今から考えます。反乱を起こせないって言うんなら……」
 そこで言葉を切る。サキの深い瞳を見つめて、一息に言い切る。
「もし反乱を起こせないんなら、俺があいつを殺します。俺のことを信用しているなら、油断するはず。油断したときに後ろからやります。そうすれば混乱する はず」
「お前にできるか? それだけ心がつながっている女を殺すことが?」
「できます!」
「いいや、できないね。いま目が泳いだ。力んで、嘘を勢いで誤魔化そうとしている。わかるさ、長い付き合いだ。だが……悪くはない。若干の修正を加えれ ば、実行できるかもしれない作戦だ。もっと情報があればな。
 意見書と、軍法会議の開廷を要請しておこう。死刑をやめて潜入作戦に投入しろと。
 問題は、弁護人がお前の主張を納得するかだが……」
 敬介は肩を落とした。はあ、とため息をつく。
 たしかにそうだ。弁護人がこの危険な作戦に賭けようと思わない限り、無駄だ。まともな弁護人なら、死刑を回避するのにこんな主張はしないだろう。
「そうがっかりするな。私が弁護しよう」
「しかし、隊長は階級が……」
 そう、軍法会議は士官によって行われるものだ。曹長に過ぎないサキは弁護人になれない。 
 だがサキは薄く微笑むと、自分の勤務服の肩を指さした。
 何だろう、と視線を走らせた敬介。目を丸くした。
 いままでサキの肩には曲がった線が六本縫い付けられていた。「曹長」の階級章だ。
 今は、銀色の細長い四角が縫い付けられている。銀の四角の中には黒い小さな四角。
「准尉……」
 士官学校を出ずに到達できる最高階級だ。
「そうだ。ビッグサイトでの作戦と、その後の教団との戦いで、我々は多数の戦闘局員を失った。だから声を掛けられてね。殲滅機関の軍法では、准尉は弁護人 になれると明記されている。ギリギリだがOKだ」
「待ってください!」
 リー軍曹が語気荒く口を挟んできた。サキに顔面を近づけ、押し倒しそうな剣幕だ。
「なんでこんな奴を助けるんですか? イシカワ伍長は、こいつのせいで死んだんです。
 ……俺はあいつの両親に会いました。事故扱いで偽の証拠とか……本当のことをぶちまけたかったです。あいつの両親は一生、嘘を信じ続けて、息子のことを 思いながら……くそっ! なぜですか!」
 サキはリー軍曹を至近距離から見つめ返した。恐ろしく乾いた声で、答えた。
「助けるつもりなどない。より大きな利益を生み出したいだけだ。殲滅機関にとっての最大利益を。ミスをした人間を処刑しても、マイナスがゼロになるだけ。 プラス1、プラス2までもって行きたいと思った」
「本当にそれだけですか。隊長は……准尉は! この男に過剰に肩入れしているのではないのですか!?」
「もう一つ理由がある。……死刑にするより、こちらのほうが辛いからだ。生きて戦うことのほうが」
「え?」
 リー軍曹だけでなく、敬介も驚いた。
「どういうことでしょう?」
「理解できないならば、まだまだ未熟だな。天野、君はおそらく思うだろう。『いっそ死刑になっていればよかった』」
 そのとき面会室のサキ側の扉が開き、憲兵が姿を見せる。
「面会時間は終わりです。ただちに退出してください」
 時を同じくして、敬介の背後の憲兵が肩を掴んでくる。
「おい! 時間だ」
「ああ、そういうわけだ。……健闘を期待するよ、天野」
 敬介は立ち上がり、背筋を伸ばして敬礼した。
 牢に戻った敬介は、ふうっと息を吐いてマットレスの上に転がった。
 身体がわなないた。笑いが勝手に口から漏れてくる。
「あは……あははっ……」
 嬉しくて仕方ない。もちろん軍法会議の結果が出るまで安心はできない。だが、わずかに希望が見えてきた。
「これでやっと言える……あいつに……」
 自分の口からその言葉が出てきたことに驚く。
 なんで今、凛々子のことをまっさきに口に出してしまったのだろう。
 自分は姉を助けたくて、そのために死刑を免れたかったはずなのに。
 凛々子は、ただ手段に過ぎないはずなのに。
 天井を見つめながら考えたが、いくら考えても答は出なかった。

 17

  敬介の言ったとおり、教団は本部を移転した。
 これを受けてサキは軍法会議の開催を要請。
 敬介にとっては無限とも思える待ち時間の後、ようやく開催された。

 18

 二月十五日 午前十時
 殲滅機関日本支部 法廷

「被告人、入廷」
 ロックウェル少佐の野太い声が法廷の中からした。敬介は法廷に足を踏み入れる。後ろ手に手錠をかけられたままだ。すぐ横に憲兵がついている。
 法廷内は、地下とは思えない広々とした部屋だ。天井の高さは身長の軽く倍はある。真ん中の奥には一段高い裁判長席があり、屈強な肉体を軍服でよろった ロックウェル少佐が、すでに鎮座している。
 その背後には二本のポールが立ち、星条旗と、殲滅機関の旗が掲げられている。青い背景と、その真ん中を貫く銀の短剣。短剣の下には『B.A.O』の三文 字。
 裁判長席から十メートル以上の間隔を置いて、右に検察側のテーブル、左に弁護側のテーブルがある。二つのテーブルのちょうど中央には、ノートパソコンを 置ける程度の小さな背の高い机があった。発言台だ。
 検察側席にはシェフィールドが、弁護側席にはサキが待っていた。
 サキに視線を向けて頭を下げる。彼女は細い顎に手を当て、何かを堪える表情でうなずいた。
 さらに敬介は視線をさまよわせる。検察側のテーブルの隣には、木製のフェンスに囲われた一角があった。そこには椅子が並んで、グレイの勤務服に身を包ん だ人々が十二人座っていた。陪審員だ。たった一人だけが女性で、あとは青年や中年の男だ。顔を知らない人たちだ。作戦局ではなく、情報局や技術局の人間を 集めたのだろう。利害関係のないものを選ぶという陪審員の原則のためだ。
 彼らは落ち着かない素振りで、しきりに室内を見回している。敬介の視線に気付くと、そろって目をそむけた。
 そして弁護側テーブルの隣には、同じくフェンスで囲まれた小さな椅子。被告人席だ。
 敬介が被告人席に向かい、腰掛ける。憲兵がバーを閉めて立ち去った。
 椅子は、長い柱の先に小さな丸い腰掛がついているタイプで、尻が落ち着かない。何度も尻の位置を直した。
 ロックウェル少佐が立ち上がり、一同を見渡して言う。
「検察側、弁護側、準備はいいか?」
 シェフィールドとサキが同時に立ち上がる。
「はい、裁判長」「はい、裁判長」
「よろしい。では殲滅機関対天野敬介、開廷する。本軍法会議は殲滅機関軍法の六十一条、六十二条に基づいて簡易式の陪審裁判の形態で行われる。
 通常の陪審裁判との相違点は以下の三つである。
 一つ、陪審員の全員一致ではなく多数決によって評決がなされる。
 二つ、原則として当日中に結審する。
 三つ、有罪無罪のみならず量刑の決定に陪審員が参加する。
 検察側、主張を述べよ」
「はい」
 シェフィールドが検察側の席を離れ、法廷のちょうど中央……発言台の前で立ち止まる。
「皆さん、ウィリアム・シェフィールド法務大尉です。このたびは、殲滅機関の存在を揺るがしかねない大きな罪を裁くため、当軍法会議の検察官を担当いたし ます」
 乾いて冷たい、酷薄そうな声だ。肉付きの薄い顔からは表情が消えている。四角いメタルフレームの奥の青い瞳も、冷たい光を発している。
「陪審員の中には、この事件について不正確な認識しか持たないものもいるでしょう。また、いくら陪審員選出に公平性を求めてもしょせんは組織の中、被告の 知人であったり、あるいはもともと嫌っていたり、判断を歪ませかねない先入観があるかもしれません。
 よって事実を改めて説明します。陪審員は、今までに聞きかじった噂、知識ではなく、ここで明らかにされた正確な情報をもとに判断を行ってください」
 そこで、コホンとわざとらしく咳払いをする。
「十二月三十日、東京ビッグサイトの会場です。
 この会場内で暴動が発生しました。最初は小さな暴力事件だったものが、わずか数分で会場全体を巻き込む一万人規模の大規模な騒乱になりました。
 多くの者が血を流したとき、少女が現れたのです。
 その少女は人々にキスをして、すると人々のケガは治っていきました。奇跡な出来事に驚く人々は……」
 敬介はシェフィールドの顔をじっと見ていた。自分を死刑にしようとする男から、目を逸らしていることが嫌だったのだ。
 シェフィールドは敬介の視線に気付いたようだが、細い眉を軽く動かしただけで、まったく動揺なく喋り続ける。
「殲滅機関作戦部隊は、エルメセリオンとともに制圧行動を行いました。あと一歩のところまで敵蒼血を追い詰めたといえましょう。ところが、ここで一人の隊 員がとんでもない失敗をしでかすのです。
 映像をご覧に入れます。検察側証拠物件1を提出します」
 シェフィールドは言葉を切り、発言台の上に置かれた小さなリモコンを取って操作する。
 天井から自動車ほどもあるスクリーンが下りてきた。法廷が薄暗くなり、スクリーンに映像が生まれる。どこにスピーカーがあるのか、音声までついてきた。 ひっきりなしに響く銃声。くぐもった悲鳴。
  白い煙の中に浮かび上がる、紫の針で覆われた巨獣の姿が映っていた。巨獣の手足にシルバーメイルを装着した隊員たちが組み付こうとしている。だが巨獣は暴 れて隊員を吹き飛ばし、体の針を触手に変えて隊員の身体を縛り、一人また一人と行動不能にしてゆく。
 もちろん敬介はこの光景に見覚えがあった。これは自分が見ていた光景そのもの。自分のシルバーメイルに装着されたコンバットレコーダーの記録だろう。
『インパクトォ!』
 甲高い男の声が会場に溢れた。敬介は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに自分の声だと気づいた。本当は俺はこんなに高い声なのか。
 スクリーンの中では、装甲に覆われた腕が突き出され、拳が巨獣の前脚に激突していた。巨獣が苦悶の声をあげ、その全身を痙攣させる。
『いまだよ! みんな、ひっくり返して!』
 これは凛々子の声だ。声に応じて、複数の手が巨獣の足を抱え、持ち上げて、ひっくり返そうとする。
巨獣の足が持ち上がった。
 と、その瞬間、女の声が流れた。
『やめて!』
 スクリーンの中の映像が大きく上下に揺れて、カメラが下を向く。シルバーメイルの足に、黒い三つ編みの髪を銀粉で真っ白にした女が、しがみついていた。
『かみさまを……いじめないでっ!』
『なんで! なんでねえさんがこんな!』
 あの瞬間に感じた恐怖と混乱が、また敬介の心の中で蘇る。膝の上で拳を硬く握りしめて耐えた。
 映像を見続けるのは苦痛だった。自分の頬の筋肉が痙攣するのがわかった。それでも自分に鞭打って、むりやりに目を見開いてスクリーンを凝視した。
 混乱して行動不能に陥った自分。その隙を逃さず、疾駆する巨獣。凛々子を押し倒し、首を噛み千切った。
『エルメセリオン喪失! 全部隊退却!』
 荒々しい男性隊員の叫び。そしてスクリーンは暗転した。
 また一同をゆっくりと見渡し、シェフィールド法務大尉は言う。
「おわかりになりましたか? フェイズ5を殲滅できる千載一遇の機会を、この男が潰したのです。その場に姉が居合わせたというだけの理由で、戦闘中に錯乱 してしまったのです。
 これは重大な罪です。具体的には、殲滅機関軍法第六条『命令の遵守』、および第十二条、『戦闘拒否の禁止』に明確に違反します。
 このような不適格な隊員に甘い処置をするなら、もう二度と、隊員は命がけで戦わないでしょう。死刑にするべきです。私は天野敬介の有罪を主張します」
 シェフィールドは無表情のまま発言台を離れ、検察側の席に戻った。
「よろしい、弁護側、反対尋問は?」
「は……はい」
 サキが立ち上がって歩き出す。肩や足の動きがぎこちない。緊張してるのがありありとわかった。
 発言台に着いたサキは、敬介のほうに目をやって小さくうなずき、言葉を発した。
「影山サキ准尉です。本軍法会議の弁護人を務めます。私は、まず、みなさんに見て欲しいものがあります。裁判長、弁護側証拠物件1を提出します」
 シェフィールドと同じように、台上のリモコンを操作する。またスクリーンが下りてくる。
「これは、二月一日にネット上で公開されたニュース番組です。喋っているのは、『繭の会』広報部長の樋山理香子です」
 始まった映像は、面会室で見た「教団のPR映像」を加工したものだった。
 栗色の髪に大きな乳房をもつ女が、ねっとりとした声で教団の教義を語る。
『神の力は本来、すべての人に宿っているのです』
『そのための方法は一つではありません』
 喋りながら、女が瞬きをする。瞬きのたびに画面の下に「右1」「左2」と文字列が出現した。
 シェフィールドが立ち上がって、冷たい声を叩きつけてきた。
「異議あり、本件と関係のない映像です。本軍法会議は十二月三十日に起こった出来事について天野敬介の罪を追及しています。『その後』に起こったことは全 く本件に影響を及ぼさない。ただちに中断してください」
 サキは一瞬だけ固まったが、すぐに大きくかぶりを振った。
「いいえ、関係のある映像です。見ていただければ分かります。裁判長、続行の許可を」
 ロックウェルは肩をすくめた。
「続行を許可する、だが、どう関係があるのか充分に説明せよ」
「はい。……この画像の下にある右いくつ、左いくつという数字が……暗号になっています」
 サキがリモコンを操作すると、画面が切り替わる。
 真っ暗な画面の中に五十音表が浮かぶ。
『に』の文字が赤く明滅した。次は『か』、『つ』。
「このように、五十音表に当てはめると『にかついつか ほんふいてん』。このニュースが公開された後、教団の本部は移転しました。樋山理香子が我々に、教 団の内部情報を教えてくれたわけです。
 そして、この樋山理香子とは……」
 リモコンを操作する。映像がまた理香子になって、猛スピードで巻き戻った。
『……ああ、ごめんなさい。女性の方だからってクラゲが好きとは限りませんよね。男性のほうがクラゲ好きで……』
 リモコンを操作して、画像を一時停止させる。
「この理香子とは、氷上凛々子、エルメセリオンと同一人物なのです」
 シェフィールドは無表情を崩さなかったが、陪審員たちは驚きの声を上げた。
「その根拠は、ただ今の『女性だからってクラゲが好きで……』という発言です。天野敬介と氷上凛々子は、作戦のわずか二、三時間前に二人で水族館を訪れ、 クラゲやエイに関する会話をしています。まさに『女だからクラゲが好きとは限らない』という、まさにこの通りの会話です。
 つまり……」
 ここで言葉を切った。
「この女は氷上凛々子であり、繭の会の味方になったふりをしているのです。しかし実際にはまだ教団と戦う意志を持っている。だから我々に、さり気なく情報 を伝えてくれたのです。天野敬介にしか理解できない形で、です!
 それを利用するのです。ご覧になったとおり、彼女は被告と精神的に絆で結ばれている。だから被告を潜入させるのです。
 被告を潜入させて、外からの攻撃とタイミングを合わせて氷上凛々子に反乱を起こさせる。そうすれば今までの攻撃より大きな成果が出せます。
 だから私は。被告人の無罪を主張します。
 天野敬介は作戦を失敗させたが、現にこうして、新しい勝利の可能性をもたらしてくれているのですから。以上です」
 検察側の席から、乾いた笑い声が聞こえてきた。
 敬介が視線をやると、シェフィールドだ。
「検察側、主張はありますか?」
「あります。ありますとも、ははは、全くお話になりません」
 サキが自分の席に戻り、入れ替わりにシェフィールドが発言台の前に立つ。
「ただいまの弁護人の主張は、まったくナンセンスなものです。まず根拠が薄弱です。人間の仕草から一定のメッセージを引き出すなど、強引な解釈を行えば容 易なことです。聖書から大統領暗殺や世界滅亡の予言を読み取った、という類に過ぎません。
 この広報部長とやらが氷上凛々子である、という主張からして怪しい。会話内容が一致した? 水族館での会話は、あくまで天野敬介の記憶にあるだけ。なん の裏づけもないのです。いくらでも、あとからつじつまを合わせることができます。
 それに、仮にこのメッセージが事実としても、我々を誘うための罠だという可能性もあります。二重三重の憶測に基づいています。とても承認できません。
 もう一つ、弁護側の主張には根本的な無理があります」
 そこでシェフィールドは、壁際の裁判官席に座るロックウェルに身体を向けた。
「裁判長。検察はリー・シンチュアン軍曹を喚問します」
 ドアが開き、リー軍曹が入ってきた。細面に陰鬱な表情を浮かべている。室内を軽く見渡し、敬介を見た瞬間だけ怒りに顔を歪めた。すぐに目を逸らして、発 言台の前に立つ。
「リー軍曹、自分の姓名、階級、天野敬介との関係を述べてください」
「はい。リー・シンチュアン。階級は軍曹。殲滅機関日本支部作戦局、第44小隊に所属します。小隊を構成する十六名のうち、八名を指揮していました。また 先任軍曹として影山小隊長の補佐を行っていました。天野敬介の上官です」
「わかりました。ではリー軍曹。あなたは天野敬介と氷上凛々子の会話を耳にしています。二人の関係は親密なものでしたか?」
 リー軍曹は即座に答えた。
「親密には思えませんでした。私は確かに氷上凛々子が天野敬介をデートに誘うところを見ました。しかし天野は恥ずかしがってそれをなんとか拒否しようと試 みていました。最終的には承諾したのですが……」
「リー軍曹、それはいつのことですか?」
「はい、十二月二十九日の十九時過ぎです。私も訓練を終えてアパートに戻る途中だったので、よく憶えています。場所は相模原補給廠メインゲート前です。私 以外にも多くの目撃者がいるはずです。時間に関しては私がゲートを通過した時間が記録されているはずです。
 つまり、作戦の前日の時点ですら、デートをいやいや承諾する程度の関係だったんです。口からでまかせですよ、こいつの言うことは」
 サキがハッとした表情で口を挟む。
「異議あり。後半はただの憶測、印象です。客観的な参考意見にはなりません」
 どう反応するか。敬介はロックウェルのほうを見た。
 ロックウェルは四角い顎に手を当て、鋭い目でサキを一瞥した。
「異議は認められない。二人が親密な関係であったか否か、記録が残されていない以上は関係者の証言によるしかない。検察側、弁論を続けよ」
 今まで無表情だったシェフィールドが、薄い唇を笑みの形に歪めてうなずいた。わが意を得たり、という感じだ。胸を張って喋りだす。
「以上のことで明らかになったように、被告と氷上凛々子の間に密接・濃厚な絆など存在しなかった! よって天野を教団内に送り込む作戦は実効性がきわめて 薄いと考えられます。
 この計画とやらは死刑を免れようとする言い訳でしかありません。弁論は以上です」
 シェフィールドはすでに勝利を確信した表情で一礼した。
 陪審員は? 彼らの反応は?
 敬介はシェフィールドの隣の陪審員席に目を走らせた。
 心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。彼らは明るい表情で、しきりにうなずいていた。シェフィールドの説明で納得しているのだ。
 気が気ではなかった。あの陪審員十二人のうち、たった七人が「リーの言うことはもっともだ」といえば自分の命運は尽きるのだ。
 だからといって自分が反論するわけにもいかない。サキに熱い視線を送った。
 頼みます、隊長……!
 その視線に気付いてか、サキは小さく笑顔を作ってうなずいた。
「弁論側、反論は?」
 サキは諦めなかった。ロックウェルの威厳たっぷりの声を受け止め、立ち上がって発言台に向かった。
「みなさん、ただいまのリー軍曹の発言は、その場に居合わせただけの人間の、表面的な分析です。
 たしかにリー軍曹に目撃された時点では、天野と氷上は仲がよかったとは言えません。しかし、次の日はずっと、任務の緊急招集が入るまで二人きりで過ごし たのです」
 そこで言葉を切り、法廷内のすべての人々をゆっくりと見渡す。
「みなさんは異性と交際したことはありますか? あるはずです。結婚されている方もいるはずです。自分の胸に手を当てて、記憶を呼び覚ましてください。時 間だけが絆を育むのでしょうか? 短い時間のうちに印象が変わって、この人と一緒になろうと決めたことはありませんか?」
 敬介にはわかった。サキはよどみなく喋っているが、不安に駆られている。視線が定まらず、空中を泳いでいる。冷房が効いているはずなのに額に汗が浮かん でいる。シェフィールドの落ち着き振りと比較すると動揺は明らかだ。
 そのシェフィールドが声を上げた。サキを指さす。
「異議あり。根拠のない主観です。そもそも、あなたの経験はどうなんですか? 私の知った限りでは、あなたは独身で、交際男性もなく、今の歳まで任務一筋 だったはずですが? そんな聞きかじりは参考になりませんね」
 自分でも無理があると思っていたのか、サキは表情をこばわらせ、はっきりと身体をぐらつかせた。
 ロックウェルまでもが、ギロリとサキを見て言葉を投げつける。
「弁護人は想像でなく事実を語るように」
「わかりました。主張を変えます。
 みなさん、私はこれから事実を述べます。だから目を閉じて想像してください。何十年もの間、蒼血と人類の両方を敵に回して戦い続けてきた孤独な戦士のこ とを。そして、やっと安心して眠れる場所を手に入れたのです。我々殲滅機関の一員になれたのです。その時手助けをしてくれたのが天野敬介です。彼が、エル メセリオンと氷上凛々子は危険な存在ではないと証言したからです」
「意義あり! 一兵卒の証言が、機関の意志を左右するというのは常識的に考えられない。憶測だ」
「事実はその通りかもしれません、しかし問題は氷上の目から見てどうだったか、です。何十年も周囲を敵にする戦いの日々を送って、ようやく助けてくれた 人……心ひかれたとしても不思議では無いはずです。リー軍曹の証言は覆しえます」
 敬介は陪審員のほうを見た。彼らは曇った表情で小首をかしげている。
 ……ダメだ。陪審員の心を動かすには足りない。
 ため息をついた敬介。
 だが、サキはまだ奥の手を用意していた。
「証拠を用意しました。技術局の三嶋礼一技術中尉を喚問します」
 余裕綽綽だったシェフィールドが、はじめて目を見張る。
 ドアが開き、法廷内に一人の男が入ってきた。小柄で痩せこけ、気弱そうな顔つきだ。技術局というだけあって全く軍人には見えない。
 発言台の前に立った三嶋が、居心地の悪そうにうつむいた。サキが質問を浴びせる。
「上官に対し失礼します。氏名と階級、殲滅機関内での役職を言ってください」
「はい。三嶋礼一、階級は中尉、所属は日本支部の技術局です」
「答えてください、あなたは十二月ごろ、技術局でどういった任務に就かれていましたか?」
「氷上凛々子の頭に埋め込んだ爆弾の開発、および保守管理の責任者です」
 おおっ、とどよめきが上がった。とっさに敬介が声の主を見る。
 陪審員たちだ。
 これはいけるかもしれない。敬介は期待をこめて拳を握った。
「では三嶋中尉、その爆弾の主な機能を説明してください」
「はい。外部からの起爆信号で爆発する機能、二十四時間にわたって機関を離れた場合のタイマーによる自爆機能。それから、蒼血が脳内から逃げ出したときに 爆発する機能があります」
「その爆弾は、蒼血が脳から逃げ出すことをどうやって知るのですか?」
「脳波、脳電位の測定によってです」
「その脳波、脳電位は外部でモニターされていますね?」
「はい、バースト通信で定期的に外部に送信されています。エルメセリオンと氷上凛々子の共生関係に関するデータが欲しい、という研究上の理由もありまし た」
 サキは力強くうなずいた。
「その脳波のデータを見せてください。裁判長、弁護側証拠物件2を提出します!」
 三嶋中尉は陰気な顔で、発言台の上のリモコンを操作する。
 またスクリーンが下りてきて照明が暗くなり、映像が映し出される。
 今度の映像は、何かのグラフのようだった。黒い背景に格子状の目盛りが並び、赤と青の線が激しく波打っている。
「三嶋中尉、十二月三十日の午前十時から正午にかけてのデータをお願いします」
 サキの言葉に応じて三嶋がリモコンを操作する。画面が切り替わって、また同じようなグラフが出てくる。
「この脳波グラフから読み取れることは何ですか? わかりやすく答えてください」
「はい。これは軽い興奮状態です。それも性的な興奮状態に似ています。ドーパミンの分泌量が高まっています。また、記憶をつかさどるという海馬にも明確な 活性化が見られます。恋人のことなどを考えていると海馬の脳波が活発化するという説があります」
「専門家の目から見て、氷上凛々子は恋愛状態か、またはそれに近い精神状態にあったと考えて良いですね?」
「断定はできませんが、一つの証拠にはなると思います」
「わかりました、弁論は以上です」
 三嶋が発言台から離れようとする。と、すぐにシェフィールドが鋭く叫んだ。
「裁判長。反対尋問を行います。三嶋中尉、戻ってください。
 そもそも、なぜ氷上凛々子の頭には爆弾が仕掛けられていたのでしょうか?」
 三嶋はシェフィールドの冷たい声におびえたように一歩後ずさり、おずおずと口を開いた。
「いや、それはもちろん……裏切りを警戒してのことです。『裏切りの騎士』エルメセリオンは、蒼血だけでなく、殲滅機関と交戦したことも何度もあります」
「その通りです、では常識的に考えて、少しくらい恋愛感情があったからといって、自分の頭に爆弾を埋め込んだ相手を助けようとするでしょうか? このメッ セージとやらは妄想の産物に過ぎないか、あるいは殲滅機関を潰すための罠にすぎないのではと考えられます」
 三嶋が陰気な顔をますます曇らせて絶句すると、シェフィールドは声のトーンを一段階上げた。
「百歩譲って、仮に二人の間に精神的な絆があったとしましょう。まさに氷上凛々子は天野個人を頼ってメッセージを送ってきたとしましょう。
 それでも天野を教団に潜入させるのはまったくナンセンスだといわざるを得ません。天野はまさにあの戦いの現場で『姉さん!』と叫んでいます。天野敬介で あることを白状している。殲滅機関という敵対組織の人間であることを、ヤークフィースは間違いなく知っている。必ず警戒されます。情報局員を使ったほうが よほどマシです」
 敬介は陪審員たちにまた目線を走らせた。彼らはみな納得した様子でうなずいた。
 敬介は重苦しくため息をついた。口の中はカラカラに乾いている。
「裁判長!」
 サキの凛とした声が法廷に響いた。その声に宿る強い情熱に驚いて、とっさに振り向いてサキを見た。
サキは微笑んだ。もう額に汗はない。まだまだ諦めていなかった。
「シェフィールド法務大尉の主張はもっともです。殲滅機関の人間であることを隠すことはできません。
 よって隠しません。元々は殲滅機関だったが、改心して教団に帰依した、ということにするのです」
「そんな演技が通用するものですか」
「演技ではありません。天野敬介には、本当に信者になってもらうのです。
 弁護側は証人を喚問します。情報局の梅原圭吾技術少尉です」
 今度の証人は、三嶋とは打って変わって熊のように大柄だった。
「梅原圭吾です。階級は少尉。情報局で記憶操作第3班を指揮しています」
 記憶操作班。ある意味では戦闘部隊以上に重要な部署だと言える。蒼血の存在を知った部外者に、片端から偽の記憶を植えつけるのだ。
「では梅原少尉。記憶操作の技術を用いて、天野敬介に別人格を植え付けることは可能ですね? 天野は敬虔な信者として教団内部に溶け込み、ある条件が整っ たときに真の人格が目覚めるのです。たとえば、二人きりで氷上凛々子に会った時であるとか。教団内部で一定の地位に達して自由に行動できるようになった時 とか。そういうふうに催眠でプログラムを組み込むことは可能ですね?」
 すぐに梅原はうなずいた。
「はい、可能です」
 即座にシェフィールドが反論する。
「証人、その催眠によるプラグラムはどの程度確実に作動するのですか?」
「いえ、それは……」
「答えてください。私は記憶操作の専門家ではありませんが、記憶操作が失敗した例は多数見てきています。たとえば天野敬介の姉である天野愛美も、蒼血に襲 われたときの心的外傷を完全に払拭できない状態でした」
 答えられずにいる梅原をシェフィールドは問い詰めた。
「専門家として率直に意見を述べてください。記憶の一部の消去ですら危険を伴うのですよ? まったく別の人格を埋め込んで、しかもそれが一定のスイッチで 消滅するように仕向けるなど、成功の確率はどの程度でしょうか? しかも教団内には人間の脳について我々以上の知見を有するフェイズ5蒼血がいるのです。 『神なき国の神』とまで言われたヤークフィースを騙しとおせる可能性があるでしょうか? 成功確率はどの程度で?」
 梅原は先ほどの歯切れのよさはどこへやら、急に不安げな顔になって周囲の人々の顔色を窺う。専門家であればあるほど、不明な要素が大きくなって成功確率 など断言できないのだ。
「さあ、答えられませんか? 答えられないならば、つまり先ほどの『可能です』も根拠のない、あてずっぽうということですね?」
「それは……つまり。成功確率は。1割か2割程度はあります」
「たったそれだけですか。同様の処置を、天野伍長ではなく普通の情報局員で行った場合はどうですか?」
「やはり1割か2割程度は期待できるかと……」
「ただいま明らかになったとおり、成功確率が低い上に、専門の情報局員を使ってもいい作戦です。わざわざ専門外の天野局長を送り込むことに何の意味もあり ません。以上、弁論を終わります」
 敬介は陪審員たちの顔を見て絶望に震えた。
 十二人の大半が、迷いのない笑顔を浮かべてうなずいている。まだ首をかしげているのは一人だけだ。
 一体どうすればいい?
 どういう弁護戦術を取るかサキと話し合ったが、あのとき考えた作戦はここで終わりだった。
 やはりダメだった。サキはたかが准尉。軍法の知識は最低限。専門の法務士官に勝てる道理がなかったのだ。
 サキの表情をうかがう。さすがに眉間に皺を寄せていたが、体のこわばりはない。背筋をピンと伸ばし、顔を上げていた。敬介の視線に気付いたらしく、こち らに向かって笑顔を作った。まだ闘志を失っていない。
 サキは息を大きく吸い込み、言った。
「裁判長。弁護側は天野敬介を喚問します」
 ……え? 俺?
 ここから先のやりとりは打ち合わせにない。一体なにがどうなるのやら。
 混乱しつつも発言台に立つ。
「天野敬介。あなたは何故、潜入作戦を提案したのですか?」
「え……それは。ただ死刑になるだけでは、殲滅機関に貢献できないからです。少しでも役に立つことで、私のした失敗を償おうと……」
「本当にそれは主な理由ですか? 姉と会いたい、という気持ちはありませんでしたか? あるいは一日だけとはいえ心が触れ合った、氷上凛々子と会いたいと いう気持ちは?」
 驚いた。
 なぜ、こんなことを訊く?
 あくまで殲滅機関に尽くしたい、で押し切ったほうがいいじゃないか。私的な目的だとバラしてしまったら陪審員だって心証を悪くするだろう?
 質問の意図を知りたくてサキの顔をじっと見つめる。サキは、さきほどの笑顔を顔面から追い払い、真面目そのものの……気迫のこもった顔で敬介を見つめ返 してきた。
 ……正直に答えないといけないのかな。
「はい。そんな気持ちもあります」
「なぜ姉や氷上凛々子と会いたいのですか? あなたは今まで、殲滅機関という組織に身も心も尽くしてきた。その組織に逆らってまで、なぜ会いたがるのです か? やはりあなたは、検察側の主張するとおりの欠陥兵士なのですか?」
「意義あり。裁判に関係の無い質問です!」
 シェフィールドが鋭い声を浴びせてくる。
「いいえ、関係があります。裁判長、許可を」
「いいだろう」
「ありがとうございます。さあ、なぜ会いたいのですか?」
「それは……」
 法廷を見回す。
 ロックウェルがゲジゲジ眉をハの字にして腕を組んでいた。シェフィールドが眼鏡のレンズを光らせ、酷薄な笑みを浮かべていた。サキが真剣な眼差しで敬介 を射抜いてくる。陪審員たち十二名も、みな興味にあふれた顔つきで敬介を凝視していた。
 底知れない不安に襲われた。肩や膝が震えだす。
 死刑になる恐怖とも、裁かれる恐怖とも違う。
 ……心を剥き出しにされる恐怖。
 だが、ここは正直に答えるしかない。
 よく考えたら、どうせ記憶操作を受けるときには心の中の事をすべて探られる。いまウソをついたところですぐにばれるのだ。
「私は……姉のことが好きでした。
 子どもの頃から……姉に育てられてきました。父と母を早くに失って……姉が私の親でした。そして、その姉がある日、蒼血に侵されたのです。
 姉の仇を討ちたかった。
 だから殲滅機関に入って、今までずっと戦ってきたのです。
 姉は……私にとって……」
 そこで言葉に詰まった。
 自分の足元の床の感覚がすっと消えていく。頭の中に姉との思い出のすべてが、次々に蘇っていく。
 ……ごめんね、母さんみたいになれなくて。
 ……友達が馬鹿にする? うちが貧乏だから? 今度その友達連れてきて。どんな高級店にも負けないようなお菓子を作って、二度とそんなこと言えないよう にしてあげるから。
 ……うれしい けいすけが ふつうのひとに なってくれて
 ……やめてえ! かみさまを! いじめないでぇ!
 目頭が熱くなった。こんな場所で泣いて、弱い心を見せるのが恥ずかしい。あわてて目を閉じたが、押さえ切れない涙が溢れ出した。袖で拭ったが、またすぐ に溢れる。頬を伝っていく。
 もう仕方ない。この涙を止めることはできない。
 目を見開いた。視界は涙で滲んでいる。前方にはシェフィールドとロックウェルがいるが、その表情がよく見えない。
 ぼやけた視界の中で、途切れ途切れに語りだした。
「私にとって……姉は、長いこと、すべてでした。だからあの場で取り乱してしまったのです。いまでも、姉への気持ちはなくなっていません……」
 泣きじゃくりながら、喋り続けた。
「このまま終わりたくない、会いたいんです。会いたい人がいるんです。自分が悪くないと言っているわけじゃない……」
「最後に一つだけ。あなたは自分が死刑になることについてどう思いますか?」
 怖かったはずだった。独房の中で、今日こそ来るかとおびえていたはずだった。それなのに即座に否定の言葉が飛び出した。
「俺は……私は……死刑が怖いとは思いません」
 ほう、と感嘆の声がどこからか聞こえてきた。シェフィールドやロックウェルの声ではない。陪審員の誰かだろうか。
「でも! その前にやりたいことがあるんです! ただ何もできず死刑になるのではなくて……自分の大切な人の顔をせめて一目みて……死にたいと……それは おかしいですか! おかしいことですかっ!」
「以上の答弁をお聞きになってわかったでしょうが、被告は殲滅機関への忠誠心も、蒼血への怒りも忘れていません。自分の命を捨てても構わないと言っている のです。私はこう主張します。同じ死ぬなら、せめて役に立ててから死なせるべきではないか。作戦の成功確率が低いことは、このさい問題ではありません。 100パーセント無意味に死ぬか、一割二割でも役に立てる可能性があるか、ということです。弁護側からは以上です」
「異議あり。異常な主張です。裁判の原則を無視している。当初の無罪主張はどこにいったのですか。話をすり替えている」
 シェフィールドが声をあげるが、サキは眉一つ動かさず、あっさりと切り返した。
「シェフィールド法務大尉。あなたは以前、私に言ったはずだ。『軍事組織の法運用は、組織の戦闘能力に寄与することが目的で、そのためなら原則を曲げても 良いんだ』と。だから私も曲げさせてもらいました」
「なっ……」
 シェフィールドが驚愕の声を上げる。
 敬介も、「これは詭弁だろう」と思わずにいられない。
「検察側、反対尋問はあるか?」
 シェフィールドが即座に、「はい!」と叫ぶ。
 冷静さをかなぐり捨て、厳しい声を敬介にぶつけてきた。
「天野敬介。ならば問いますよ。
 弁護人は『わずかでも殲滅機関に役に立つ形で死なせたい』と言いました。しかし私は、あなたの潜入が機関にとって役に立つどころか有害であると断定しま す。教団内であなたが本来の人格を取り戻したとき、作戦を遂行するという保証がない。教団側についてしまう可能性が高い。絶対にそうしない、という保証は 何かあるのですか?」
「それは私が……」
 サキの言葉を、シェフィールドが片手を振り上げて遮る。
「私は天野敬介に訊いているのです。どうなのですか、天野? すでに大きな背信行為をした人間を、どうやって信頼しろと? 私には潜入作戦というのは逃げ 出すための口実にしか思えません!」 
 ……確かに……それは……
 敬介は絶句した。この問いに答えるのは難しい。今回は頭に爆弾を入れるわけにもいかない。策略の存在が教団側にバレては潜入の意味がない。
 何か方法はないか……
 ジャージの袖で涙を拭った。シェフィールドの冷たく光る青い目を見つめ、なんとか言葉を搾り出した。
「絶対に寝返らないように、記憶操作でプログラムを頭に書き込んでもらうのはどうでしょう」
「エルメセリオンは脳をいじれるから、そのプログラムを解除できます。意味がありません」
「この場で自分の身体を切り裂いて、殲滅機関への忠誠心を示します」
 シェフィールドは大げさに肩をすくめた。
「ナンセンスです。死刑を逃れるためなら、そんなパフォーマンスはいくらでもできる」
 口ごもっていると、シェフィールドは追い討ちをかけてきた。
「言っておきますが、影山准尉に証言してもらっても無駄です。彼女は天野が今回の事件を起こすことを予期できなかった。そんな人間が太鼓判を押しても信頼 できません」
「たとえば、そう……エルメセリオンでも解除できないように、殲滅機関を裏切ろうと考えた段階でプログラムが作動し、自殺するようにする」
「そこまで高度で確実に作動するプログラムは作れますかね? 人格を一つ埋め込むだけでも成功率が低いというのに? 専門家を喚問し確認しましょう」
「それは……」
 口ごもった。もちろん『自殺プログラム』など思い付きに過ぎない。本当に専門家を呼ばれたらボロが出ること確実だ。
「もう反論はできないのですね? やはり、逃げ出すための口実に過ぎないと……」
 最後の手だ。これで押し通すしかない。シェフィールドの言葉を遮って大声を出した。
「逃げたらどうだって言うんです!」
 シェフィールドが絶句する。敬介は発言台の天板に両手を突き、身を乗り出して、矢継ぎ早に言葉を繰り出した。
「教団を攻撃する計画は最初からあったんですよね? だったら、俺が裏切ったらそのまま教団攻撃を実行して俺を殺してしまえばいい。俺が裏切ってもなんの デメリットもない。何の特別な能力もない俺一人が向こうについたって、殲滅機関はそれで負けるんですか!」
「ま、待ってください」
 ようやくシェフィールドが反駁した。
「つまり貴方は、潜入作戦に成功しても死刑でいい、失敗しても死刑でいい、とにかく死刑でいいから、ただ送り込んでくれと……? 処刑の前にタバコを吸わ せてくれという、その次元の話だというんですか?」
「そうです!」 
 目を逸らさずに言い切った。シェフィールドは血色の悪い顔をこわばらせ、しばらく敬介と視線を合わせていたが、やがて目線を下に落とす。
「……反対尋問は以上です」
 そこでロックウェルが問うた。
「検察側、弁護側、主張は終えたか?」
「はい」
 サキが小さくうなずく。
「はい。もうありません」
 シェフィールドは苦々しい顔つきで答える。
「検察側も全ての弁論を終えました」
 ロックウェルは法廷の全員をゆっくりと見渡す。驚いたことに、岩のように厳つい彼の顔に苦笑が滲んでいた。
「では陪審員諸君。評決をお願いする。シェフィールド大尉が述べたとおり、予断や憶測、法廷外で聞きかじった知識によらず、今この場で明らかになった事実 に基づいて判断して欲しい。
 では被告、検察、弁護側は退室、評決があるまで別室で待機せよ。起立」
 全員が立って、姿勢を正す。
 
 19

 二時間後
 殲滅機関日本支部法廷 付属待機所

 陪審員の意見が出るまで、ひたすら別室で待機させられた。
 室内にソファーとテーブルが並び、テーブルの上にはトレーが並び、食べ物や飲み物が置かれている。
 天井も法廷同様、身長の二倍。
 いぜんテレビドラマでみたホテルのラウンジになんとなく似ている、と思った。曲の種類は全く分からないが、落ち着いたピアノ曲がどこかのスピーカーから 流れている。
 少しでもリラックしてもらおうという意図があるのか? だが……
「どうした、飲まないのか?」
 テーブルを挟んで座っているサキが、アメリカンコーヒーを入ったマグカップを持ち上げて言う。マグカップのとなりにはベーコンレタスサンドイッチがある が、こちらもまったくの手付かずだ。
「いえ、結構ですよ」
「すっかり冷めて……もったいないじゃないか。取り替えさせよう」
「いいですって……リラックスできるわけないでしょう。味なんて分からない」
 思わず、呆れた声が出てしまう。
 なにしろ、待機室のドアにはいまだ憲兵が二人立っているのだから。
 そして、これから判決が出るのだから。
 主張が認められようが認められまいが死あるのみ、という判決。
「これから死ぬからこそ、わずかな時間を楽しめ。私はいつもそうしている。出撃のたびに、死の危険はあるのだから」
 サキはすでに食事を終え、テーブルの上にトレイから、小分けにされたチョコレートクッキーを取って食べている。
「理屈ではわかっていますけどね……」
 それでも、戦闘で死ぬのと死刑になるのは違う。自分はもう、死亡率百パーセントの道に足を踏み入れたのだ。そのことを考えると胃袋がギュッと締め付けら れる。体の芯に冷たいものが走り抜ける。
「彼なんかは、ある意味天野よりも辛いかもしれないぞ」
 そう言って片手を振って、隣のテーブルを示した。
 敬介は手を振ったとおりに目線で追いかけて、げっ、と声を漏らす。
 隣のテーブルにはシェフィールドがいた。姿勢正しくソファに腰掛け、立派な装丁の英語の本を読んでいた。テーブルの上にはダイエットシュガーの入った小 皿と、ミルクティーの入ったカップ。
「死刑を突きつけた相手と、同じ部屋にいて、あんな澄ました顔で茶を飲んで……並大抵の神経じゃない」
 そういわれてシェフィールドは本をテーブルに置き、サキたちに向き直った。
「皮肉ですか? 貴方達と比べれば私の神経など細いものです。これほどデタラメで、法を侮辱した軍法会議は初めてですよ」
 サキは肩をすくめて答える。
「私達も必死なのだ、ということです」
「生きのびることに必死、ですか?」
「いいえ。蒼血を倒すことに、です」
「どうだか……」
 不信感も露わにシェフィールドが顔をゆがめて、また本を読み始める。
 と、その時、ドアが開いて憲兵がもう一人室内に足を踏み入れた。
「評決に達しました。法廷に戻ってください」

 20
 
 敬介、サキ、シェフィールドは法廷のそれぞれの位置についた。
 陪審員達の代表は、まったく特徴がなく顔を覚えづらい、まさに情報局員にうってつけの中年男だった。彼が書類を持ってロックウェルのもとに歩み寄り、書 類を手渡した。
 ロックウェルは毛虫のように太い眉をへの字にして読み上げた。
「判決。
 陪審団は、第六条『命令の遵守』第十二条『戦闘拒否の禁止』に違反した容疑について、天野敬介に有罪を宣告する。
 ただし検察側主張の即日死刑を退け、殲滅機関全体の利益のために、天野敬介に『繭の会』への潜入を命ずる。この際には記憶操作技術により偽装人格が植え つけられる。なお、潜入作戦の成功失敗を問わず、作戦終了後には天野敬介は予定通り死刑に処される。また殲滅機関は作戦中の天野敬介の身体・生命を保護し ない。作戦において排除が必要と判断した場合、ためらいなく排除が行われる。
 西暦二〇〇八年二月十五日。
 これをもって当軍法会議は閉廷となる。一同、起立」
 敬介は立ち上がった。拳を硬く握った。
 これでよかったはずだ。これ以上の結末はありえなかった。少なくとも一度、姉や凛々子と会う機会を作れた。
 それなのに、なぜ拳の震えが止まらないのか……

 21

 二〇〇八年三月一日  夜
 東京都千代田区
 『繭の会』総本部

 敬介は、気がつくと豪華な部屋にいた。ソファとガラステーブルの置かれたダイニングルームだ。
 靴の裏に、毛足の長い柔らかな絨毯を感じる。乳白色の間接照明で照らされた天井はジャンプしても届かないほどに高い。大きな窓の外に夜景が見える。ここ は二十階かそこらの高層階のようだ。闇に輝く首都高速都心環状線。そして闇そのもののような皇居。東京中心部が一望できる。他にも高層のビルが何軒か窓を 光らせている。
 そして大きなガラス机の向こうには、豊満極まりない乳房をビジネススーツに押し込んだ、派手な顔立ちの美人……教団広報部長が座っていた。
 とろんと潤んだ目で敬介を見上げて、こう言った。
「お座りなさいな、信徒天野」
 頭を強烈な眩暈が襲った。
 なんだ? なにがどうなっている?
 いま、どうして俺はここにいるんだ?
 冷たい汗で濡れた手を顎に当てる。思い出そうとする。自分は殲滅機関の……死刑判決が出て……
 頭の中で一気に記憶が弾けた。この一月ばかりに起こったことが全部まとめて再生された。体中に冷や汗が吹き出した。ありったけの意志力を動員して表情筋 を黙らせた。
 そうだ、俺は教団に潜入したんだ。
 偽の人格はうまく機能した。教団に入った俺は、過去の経歴を生かして警備担当になった。ヤークフィースは、俺が殲滅機関の人間だということをわかった上 で取り立ててくれた。
 いま俺がいるのは、新しい教団本部。老朽化した都心のホテルをまるごと買い取ったものだ。
 いま、この女と二人きりになったから擬似人格が解除されたんだ。
 そして俺はいま、来週の教団儀式について話し合いをするために広報担当に呼び出された。
「はい」
 そう答えて、ソファに座った。
 表情に出てないよな? 大丈夫だよな?
 手のひらが汗でベタベタだ。硬く握ってひざの上に置く。
 エルメセリオンは信用されてない、きっと、この部屋にも監視カメラの類があるはずだ。俺が記憶を取り戻したことを口には出せない。瞬きで伝えるのも危険 だろう。同じ手が何度も民度見逃されるとは思えない。    
「あなたに来てもらったのは、来週の『覚醒の儀』の警備体制についてうかがいたいから。せっかく歌手の方が何人も信徒になっているというのに、なぜ歌のイ ベントに二百人しか入れることができないの?」
  今度は、わざわざ思い出そうとするまでもなく対応できた。
「その件についてはすでに申し上げたはずです。会場が狭すぎて危険なのです。われら信徒は、あまりに熱狂的であるため……広報部長は警備部の苦労をまった く分かってくださらない」
 何気ない対応をしつつ、手を伸ばす。広報部長の手を取ろうとした。
 手を握って、掌を突いてモールス信号で伝えるつもりだ。
 だが手が触れた瞬間、掌にチクリと痛みが走った。痛みは冷たさに変わって腕の中に潜りこみ、一瞬で肩を越え、首の上まで駆け上がった。今までの人生で一 度も感じたことがない異様な感覚だ。
 頭の中に澄んだ可愛らしい声が響いてきた。
『ああ! やっとか! 長かったよ敬介くん。長すぎだよー! もう、待ちくたびれちゃったよ!』
 懐かしい凛々子の声だ。
 明らかに鼓膜ではなく、頭に直接声が届いている。ありえない現象に悲鳴を上げそうになった。空いているほうの手を口に当てて、なんとか声を押さえつけ た。
『びっくりしちゃった? ごめんごめん……でもさ、蒼血にこういう能力があるのは知ってたでしょ?』
 もちろん知っていた。いま凛々子は、自分の神経を相手の体内に伸ばして脳まで繋げたのだ。こうすれば思考を直接やりとりすることができる。相手の体をコ ントロールすることも可能だ。
 敬介は何か言おうと、頭の中で台詞を組み立てる。
『俺が記憶を取り戻したって……俺が何かする前から気づいたのか?』
『当然だよ。なにか殲滅機関の人たちに処置をされてるんだろうな、っていうのは想像していたわけ。やっぱりなって感じ。それにね、敬介くん、人格ごとに顔 つきが変わっちゃってるんだよ。人間観察の経験が豊富ならわかるよ』
『そうか、お前も気づいたんじゃ、ヤークフィースの奴も……』
『すぐにバレるだろうねえ……』
『そうか、それなら今しかないな。なあ、俺が送り込まれた目的というのは……』
『力を合わせて、教団に内乱を起こせって言うんでしょ? だいたい想像できるよ。でもね、難しいんだ。ほら、ボクは首だけになっちゃったじゃない? この 体はね、ヤークフィースがくれたものなんだ。体の中にあいつの側近が入って、ボクを二十四時間監視してるんだ。こうやって声に出さずにしゃべっていればバ レないと思うけど……でも、怪しいことをしたら、首から下のコントロールを取られる。内乱なんて起こせないよ』
 そこまで言ったところで、凛々子が敬介の手を離した。肉声に切り替えた。
「警備の苦労、ですか……」
 そこで悩ましげに微笑み、足を組んだ。
「我らが教団を大きくすることと、どちらが重要だというのでしょうか……?」
 ああ、そうか。あまり黙っていると怪しまれる。声に出しての会話もやらないと。
 そう気づいた敬介は、なんとか話をつなげようとした。
「大きな事故が起こってしまってからでは遅いのです。教団を襲う勢力もあります」
「つまり計画の変更はできないということですね? わかりました、残念ですが仕方ありません。下がりなさい。これからも教団のために尽力なさい」
 そう言って、また手を握ってきた。
 たまらず、強く台詞を念ずる。
『なんとか監視の目が緩む瞬間はないのか?』
『難しいねえ。一体だけなら気が緩むこともあると思うけど、二体いるからねえ。難しいよ。あえて言うなら……攻撃を受ける瞬間かな?』
『え?』 
『この教団が、殲滅機関に攻撃されて、ヤークフィースの命が危うい状態になったら、ボクの監視どころじゃなくなるかも。主を守りたいって気持ちが一番強い はずだもんね。まあ、そんなことより』
 そこで思考の伝達を一度切って、凛々子は敬介のことをまっすぐに見つめてきた。
 いまの凛々子は、体型といい顔立ちといいまるで別人になっている。それなのに、目を見た瞬間にわかった。
 ああ、やっぱりこいつは凛々子なのだと。
 いつの間にか、蕩けるような熱っぽく、妙に焦点の合わない目つきをやめている。
 澄んだ目、強い意志を宿した目になっている。
 思わず敬介が見つめ返したとき、一言だけ思考言語を送ってきた。
『会いたかったよ』
 たったそれだけの言葉が、敬介の胸に深く染み渡った。体の奥のほうがぎゅっと締め付けられたようなうれしさが襲ってくる。
 目頭が熱くなったのに気づいて、いそいで凛々子の手を振りほどいた。立ち上がった。
「では失礼します」
 できる限り感情を殺した声で言って、退室した。
 元がホテルだっただけのことはあり、廊下は幅広く、各所に絵が飾られて高級感にあふれている。いぜん作戦で訪れた、長野の富豪の屋敷と比較しても遜色な いほどだ。
 壁にもたれかかり、嘆息する。
「はあ……」
 落ち着け。
 自分にそう言い聞かせる。
 これは潜入作戦なんだ。凛々子に会ったからといって終わりでもなんでもない。これからなんだ、これから……
 わかってはいるが、それでも嬉しい。
 そうだ、姉もいる。姉は元同人作家のスキルを生かして広報部に所属、教団PR誌の製作に関わっている。あとで姉に会いに行こう。
 などと考えた瞬間、すぐ近くのエレベーターのドアが開いた。スーツ姿の男女数人が吐き出される。その中に姉がいた。
「あ、敬介」
 すぐに敬介に明るい声をかけて走り寄ってきた。
 姉はほっそりした体を地味なスーツに包んでいる。顔も化粧がほとんどないが、そんなもの必要ないほどに若々しい表情で、明るい笑顔を向けてきた。
 敬介は両手の指を組んで『繭の印』を形づくる。
「……こんばんわ姉さん。『我ら弱き人の子が、健やかに繭から羽ばたけますように』」
「うん。『羽ばたけますように』。敬介なんて言っちゃだめかな。もう警備の偉い人だもんね、第三隊長だっけかな?」
「あ、ああ……姉さんこそ……すごいじゃないか……たしか……こないだの雑誌に4コマを描いて……」
「大したこと無いよ、もっと実績ある漫画家さんがたくさんいるのに……あ、紹介するね敬介。こちらの方が、週刊少年マンデーに連載していた藤原フミカ先 生。こっちの人がヤングファンの菅野ケンヂ先生。それからこっちの……」
 連れていた人たちのことを紹介してくれる。マンガを読む趣味のない敬介だが、それでも名前くらいは聞いたことがある売れっ子だ。
「みんな、繭様とともに歩む道を選んでくれたの!」
「それはすごい……」
 思わず感嘆せずにはいられない。「神の使い」が降臨した場所がコミックマーケットだけあって、信徒には漫画家やイラストレーターが多い。アマチュアの漫 画家志望を含めれば何千人という数になり、宣伝担当には事欠かない。だが、ここまで一般に人気のある漫画家が入信したとなると世間へのアピール力もだいぶ 変わってくる。
 姉は華奢な手を胸元で合わせ、熱く語りだす。
「あのね、この先生方がみんなで、普通のPR誌とは別に、繭様の考えと世界観を伝えるための漫画雑誌を作らないかっていってくれたの。だから広報部長に話 を通しておきたくて……」
 数人の漫画家のうち一人、がっしりした体格で髪を後ろでまとめた男が、柔らかな笑みを浮かべて口を挟む。
「先生方、なんて言い方はやめてください。私たちはみんな同格です。同じ『心弱き者』。『繭様の導きを待つ者』です。人間世界の社会的地位など無価値なも のだと、繭様が教えてくださったじゃありませんか」
「そうですね……私……まだ繭様の教えの勉強が足りなかったみたい」
 さも恥ずかしそうに目を伏せる姉。だが口元は緩んでいる。目がわずかに潤んでいるのもわかった。恥ずかしくて泣いているのではない。信仰で繋がった仲間 がいることが嬉しくて泣いているのだ。
 姉さんは、幸せなんだ。心から。長い長い闇からようやく解放されたのだ。
 敬介はそう心の中で呟いた。自然と自分の顔も緩む。
 ――その瞬間、「それ」が来た。
 脳のどこかでパチリとジグソーパズルがはまった。姉の柔らかな微笑を、自分が今ここに立っているということを、まったく違った意味に感じた。杯の絵だと 思っていたものが、「向かい合った二つの顔」だと気づいてしまった瞬間のように。
 恐怖が押し寄せた。寒気が背筋を駆け上り、鳥肌がズボンの下を覆った。筋肉という筋肉が小刻みに痙攣した。耳の奥で鼓動が騒ぎ立てていた。
「ご、ごめん姉さん! ちょっとトイレ!」
 きっと死人のような顔色なのだろう。こんな顔を姉さんに見せたくない。廊下を駆けて、近くのトイレに逃げ込んだ。
 洗面台の大きな鏡で自分の顔を見る。やはり顔面は蒼白、おまけに恐怖にこわばって、目には涙すら浮かんでいた。もう耐えられなかった。豪華な洗面台の縁 をつかんで、倒れこもうとする体を何とか支えて、泣き出した。口元を片方の手できつくふさいで、声が漏れるのを防いだ。だが冷たく気持ちの悪い涙が止めど もなくあふれ出して頬をぬらしていく。
「うぇっ……うぇっ……」
 ……気づいてしまった。
 ……俺は馬鹿だ。こんな簡単なことになんで気づかなかったんだろう。
 ……姉さんは今、幸せなんだ。長い間得られなかった幸せ、俺の力ではプレゼントできなかった幸せを、教団に入ることによって得たんだ。この十年間で、姉 があんな屈託なく笑ったことが何度あったか。
 ……それを、俺は壊そうとしている。教団を裏切って、殲滅しようとしている。
 ……そんなことしちゃいけないんだ。姉が大事ならば。潜入任務のことなんて忘れて、教団のために力を尽くすべきなんだ。むしろ殲滅機関なんて叩き潰すべ きなんだ。
 ……俺は何もわかっていなかった。「自分が死刑になる」なんてのはどうだっていいことだったんだ。
 ……本当に大事なことについて、何も覚悟していなかった。
「凛々子……」
 震える声が唇から漏れた。
「お前は……これが言いたかったんだな……」
 電車の中で言われた台詞が脳裏でよみがえり、いまの敬介を鋭く刺す。
 姉さんにとって幸せとは何か。自分は本当は何がやりたいのか。
 それを突き詰めて考えずにいたからだ。蒼血や裁判という、目の前の敵だけを見ていたからだ。 

 22
 
 次の日 夜
 「繭の会」本部 嵩宮繭の部屋
 
 その日、敬介は繭に呼び出された。
 いったい何の用で。バレたのか。俺が潜入した目的が。
 ドアをノックして、しばらく待つ。反応がない。
「入ります、繭様」
 ドアを開けて室内に入った敬介は驚愕した。
 なんだ、この部屋は。
 魔方陣や曼荼羅に埋め尽くされた「いかにも教祖」という部屋を想像していた。
 だが部屋にそんなオカルト的なものは一切ない。
 広い部屋を、トラックほどの長さがある巨大な机が埋め尽くしていた。その巨大机の上に、見上げるほどの本の山が二つ築かれていた。何千冊あるだろうか。 文庫本もある。ノベルスもある。ハードカバーの外国語の本もある。週刊誌もある。政治団体や宗教団体の機関紙もあった。漫画雑誌すら積まれていた。
 その二つの本の山の間に、嵩宮繭……長い黒髪の少女が座って本を読んでいた。和人形のように気品ある整った容姿。たしかに顔の造作は少女の幼さを残して いるのに、恐ろしいほどの威厳が伝わってくる。ただそこに座っているだけで敬介は威圧され、背筋が自然に伸びた。繭は長い睫に縁取られた切れ長の目を、手 にしたハードカバーの本に向けていた。しなやかな指がすばやく動いて、フィルムを何十倍に早回しにしたようなスピードでページをめくっていく。
 たちまちハードカバーを読み終わってしまうと、立ち上がって山の片方に積んだ。もう片方の山から『季刊 政治討論』と書かれた本を取って、また異常な高 速度で読み始めた。
 気づいた。山が二つあるのは、片方が読み終わった本、もう片方がこれから読む本、ということではないか。もう数百冊はぶっ続けで読んでいることになる。
「あの……繭様?」
 声をかけると、繭はようやく顔を上げ、本を机の上に伏せた。座ったまま微笑み、軽く会釈した。その控えめな笑顔がまた、ぞっとするほどに美しい。
「あ、ごめんなさい。すっかり夢中になって」
 繭は毎日数時間、「奇蹟を授ける」と称して、教団を訪れる病人・怪我人を奇跡の力で癒している。それ以外の時間はずっと自分の部屋にこもっている。
 何をやっているのかまったく知らなかった。これだけの本を読んでいたとは。
「大変な読書家でいらっしゃるんですね」
「ええ、弱き人類を導き救うため、世界のあらゆることを知らなければいけないので。一晩でざっと千冊は読んで覚えますよ。
 ああ、そんなことより」
「私のような若輩に、不勉強な信徒に、いったい何の御用で?」
「かしこまらなくて構いませんよ。わたし、全て知っておりますから。あなたが昨日、本来の人格に戻ったことも。この教団に少しでも内乱を起こすため潜入し たことも」
 バレた場合、どんな行動をとるか、すでに決めていた。相手がすぐにでも自分を殺そうとするなら、その前に少しでもダメージを与えて死ぬ。できるだけ目立 つやり方で、教団に一太刀でも浴びせて死ぬ。相手が自分を殺さずにいるなら、だまそうと試みる、そして決定的なダメージを与えられる瞬間を待つのだ。
「あ、暴れても駄目ですよ」
 繭は優しく言った。そして軽く手を叩いた。
 次の瞬間、敬介の頭の中をたった一つの感情が支配する。
 ――怖い!
 この人が怖い。目を合わせたくない。いますぐ逃げ去りたい。だが脚が震えて立っていることもできない。どうしてこんなに怖いのかも分からない。
「あ……あ……?」
 嗚咽を漏らして、その場に尻餅をつくことしかできなかった。
「はい、おわり」
 そう繭が言って、また手を叩く。嘘のように恐怖が消えていく。
 力の抜けた膝にむち打って、立ち上がる。
「な……なんだ今のは?」
「神の力です。ふざけているわけじゃありませんよ。
 あなた方が神の力と呼んでいるモノです。
 ほんの、とるに足らない手品なんですけれどね。
 ある種の低周波……五感で捉えられない低音が、人間に不安感を与えるってことはご存知ですよね?
 その低周波をちょっと応用して、あなたの精神状態を操っているんです。細かい命令はできなくても、怖い、憎い、悲しい……感情くらいなら操れます。人間 の脳を知り尽くせば、できます」
 催眠術の一種? サブリミリナル・メッセージか? 催眠技術は殲滅機関の記憶操作でも使用されるが、なんの薬物も併用せず一瞬で効果を表わすほどのもの は夢のまた夢だ。
「ビッグサイトの事件もこれで起こしたのか」
「察しがいいですね。人間の心は、ケチな手品で操れる程度のものということです。
 抵抗は無駄だと、分かっていただけましたね?」
 確かに無駄だ。いま抵抗しても髪の毛一筋ほどの傷をつけることもできず殺されるだろう。
 抵抗をあきらめた瞬間、まだ何も口に出していないのに繭は小さくうなずいた。
「わかっていただければ良いのです。怪我はありませんか?」
「触らないでください。治療はいりません!」
 思わず声を荒げてしまった。怒りではなく恐怖のためだ。触られたら頭だって乗っ取られるかもしれない。
「残念ですね、そんなに警戒して……あのですね、わたし、天野さんを殺すつもりなんて全くないんです。
 ただ、提案がしたいのです。
 天野敬介さん。潜入のことなんて忘れて、殲滅機関なんて見捨てて、身も心も教団に捧げませんか?
 お姉さんも、きっとそれを望んでいますよ」
 繭の声は決して大きくなかった。むしろ控えめなその声が、魔法の呪文のように耳に突き刺さり胸をえぐった。脳天を殴りつけられたような衝撃に、敬介はふ らついた。
 すべて見透かされた。
「ええ。見透かしています。昨日、やっと気づいたんですよね。他の方から警告されませんでした? 『姉の本当の幸せが何なのか、ちゃんと考えないと大変な ことになる』って。もっと早く気づけばよかったって、泣きましたよね?」
 そんなことまで当てるのか。驚きをこめて、汗ばんだ手を握り締めた。
「あ、テレパシーではありませんよ。でも分かるのです。長年の経験で。その人の微妙な仕草、表情や声のトーンの変化で。その人が本当に大切にしているもの は何か、どこで嘘をついているか読めてしまうんです。わたしは色々な人間を見てきましたから」
「それで……その力で……ソビエトの要人を操ったのか」
 喉がカラカラで、いがらっぽい声しか出なかった。
 心から実感した。凛々子の時にはピンと来なかったが……フェイズ5の蒼血は人智を超えた怪物なのだ。たとえあどけない少女の姿をしていてもだ。
「まあ、一言で言えばそういうことです。これと感情操作を合わせれば、誰も逆らえませんでした。さて天野さん、お返事はいかがですか?」
 こいつは俺の心をすべて読めるのだ。だから口先で「はい」と言っても仕方がない。
 もう、どうにでもなれと、吐き捨てた。
「いやだ」
「なぜでしょう?」
 細く、美しく整った眉毛をこころもち下げて、繭は首をかしげる。
「決まっている。お前たちは人間を騙して、殺してるからだ!」
「そうですね。これからだって騙します。殺しますよ。生存を賭けた闘争ですから。手段を選んでいられません。でも、そんなこと天野さんにとって重要です か? 赤の他人の生命と、お姉さんの幸福とどちらが大切なのですか? 決まっていますよね、お姉さんが全てだからこそ、あの時パニックになってしまったん ですよね? もう答えはひとつしかないじゃありませんか」
「駄目だ。お前たちの目的は分かっている。今は平和に宗教なんか作っても……仲間を増やして、人間社会を乗っ取っていく。それが本当の目的だ。姉さんだっ てお前たちが頭に入り込んで、自分では何も考えられないようになるんだ。そんなのを認めてたまるか。絶対に駄目だッ」
 なぜだか大声になった。額に噴きだした冷や汗をスーツの袖でぬぐった。
「たしかにわたしたちは人間を宿主にします。でも、今はまだまだ数が少ないんですよ? 殲滅機関も正確な数字は把握していないでしょうから、お教えしま す。いま日本に生息する蒼血は、だいたい1300。全世界で8万3000体です。たったそれだけですよ? すでに教団の信徒は七十万人を超えています。す べての蒼血が日本に集まっても余裕たっぷりです。七十万体まで増えるのに何年かかることか。その間に信徒もさらに増えますからね。お姉さんの体をお借りす るのは当分先の話です。それまでの間、お姉さんは自由です。どうですか、天野さん」
「それでも駄目だ。お前たちの企みがずっとうまく行くわけがない。殲滅機関はちゃんと教団の襲撃計画を練っている。ここに蒼血が何体いるか知らないが、 きっと総力攻撃をかければ潰せる。お前たちに未来なんてないんだ。誰が協力するかっ」
 また声を荒げてしまった。また額の汗をぬぐった。部屋の中はセーターを着たくなるほどの気温なのに汗が止まらない。
「騙されないぞ。お前たちは……神様なんかじゃない。支配種族なんかじゃない。薄汚いアメーバだ」
 あの五年前の冬の日、はじめて蒼血を見たときのことを思い出そうとした。あの時、体が生理的に嫌悪に震えた。
「焦っていますね? 内心では、わたしの言葉に魅力を感じているんでしょう?
 そうですね……たとえ話をしましょうか。
 これ、この1000円札ですが」
 そう言って繭が手を掲げると、細い手のひらの中に1000円札が出現した。一体どこから持ってきたのか、取り出す仕草などまったく見えなかった。
「これ、何だと思いますか?」
「カネだろう」
「違います。これは紙切れです。和紙ですよ。この世の実在としては、塵紙の仲間でしかありません。けれど、お弁当と交換できます。たくさん集めると車や家 だって買うことができます。少し凝っているだけの和紙が、お弁当や自動車と同じ価値がある……何の役に立つものでもないのに。これほどの非合理はないので すよ。でも、実際にお金は使えます。『これはお金だ』『物と交換できるんだ』『そういう力があるんだ』って、みんなが思っているからです。その共通認識 が、紙切れに力を与えています。
 貨幣経済というのは信仰以外の何物でもない。信じる心が力になるのです。
 なるほど、わたしは薄汚いアメーバです。けれど、そのアメーバを神だと信じる人たちが何千万、何億と増えれば、わたしはもう本当に神なのですよ」
 繭の手の中から千円札が消え、かわり大きなファイルが現れた。繭はファイルを開いてみせる。
 
 入会申し込み
 鈴木誠二 
 職業 代議士 自由言論党所属

 政治家だ。ニュースでよく名前を耳にする大物代議士が入信したという書類だ。
 繭はファイルをゆっくりとめくっていく。入会申し込みの書類がたくさん閉じられているようだ。
 代議士、これも代議士、こちらは銀行の頭取、こちらはテレビ局の名物アナウンサーや司会者がずらり。局長まで。全国チェーンのスーパーの創業者がいる。 大病院の院長もいる。警察署長も何人か含まれている。
「わたしを神と思う者は、増える一方です。いずれ殲滅機関といえど手を出せなくなります。日本の政治、財界、官僚組織全てを道連れにする愚はおかせないで しょう。あと半年もあれば十分です」
 これほど日本社会への浸透が早いというのか。これが、「神なき国の神」ヤークフィースの実力。
 恐怖をおぼえながらも敬介は反駁した。
「半年なんて……殲滅機関がそんなに手をこまねいているわけがあるか。あと少しだ。あと少しで……明日にだってきっと攻撃がある!」
「いいえ。機関はまだ教団を攻撃できません。時間稼ぎは大成功です。殲滅機関は、蒼血の存在を秘密にしていますから。教団を攻撃する偽の理由をでっち上げ ないとなりません。攻撃するところを一般市民に見られても困りますしね。たとえば『教団がテロをたくらんで兵器を集め、仲間割れをして共倒れになった』と か……そういったシナリオを作り出す必要があるわけです。わたしたちの教団がマスコミや政治家に食い込めば食い込むほど、そういうでっち上げは難しくなり ますよ」
 言葉に詰まった。そこで繭はふわりと、上品に微笑むと、問いかけてきた。
「ひとつ、殲滅機関にはすべてを解決する方法があります。わたしの人心掌握も、教団の組織力も無力化して、いますぐ教団を潰せる方法があります。なんだと 思いますか?」
「見当もつかない」
「そうでしょうね。五年もの間、殲滅機関の思考法にどっぷり漬かってきたあなたには。
 それはね、全てを公表することです。
 蒼血という生物がいることも。
 その生物が人間に寄生して操ることも。
 フェイズ1から5までの能力も。
 わたしたち13体のフェイズ5について……
 そうやって全てを明かして、わたしの危険性を国民に分かってもらってから攻撃すればいいのです。
 それなら、情報操作の必要なんて何もありませんよ」
 何を言い出すかと思ったら、そんな馬鹿げたことを。
 殲滅機関に入隊したばかりの下っ端でも、不可能、あり得ないと知っている。
 蒼血の存在を人間社会にバラせば巨大な混乱が生じるからだ。あいつが蒼血なんじゃないか、あいつも? 互いに疑心暗鬼に駆られ、わずかに仕草や言葉遣い がおかしいというだけで「こいつが蒼血」と決め付けてリンチにかけるだろう。情報局が行ったシミュレートによると、ナチスのホロコーストのような大規模な 虐殺がそこら中で起こり、人類社会全体で数千万人の死者が出る。社会そのものが崩壊する危険すらある。
 『蒼血の存在を秘匿すること』。
 それは蒼血の殲滅と両輪をなす、殲滅機関の目的であり大原則なのだ。
 当惑が表情に出たのだろう、繭はくすりと声に出して笑った。
「そんな顔をしなくても。知っていますよ、殲滅機関が秘密を守っている理由は。
 けれど、それって『人間を信じていない』と思いませんか?
 人間は確かにホロコーストを起こしたが、いまは理性的に行動できるはずだ……そう信じているなら、公表すべきです。人類全体で、蒼血に対処しましょう よ。
 でも、ぜったいに公表できない。どうしてだと思います?
 人間を馬鹿にしているからです。
 人間は愚かな、無能な生き物。
 お前達ごときに正しい判断ができるわけがない、俺達エリートに任せておけと。
 民衆を侮蔑しているという点に関しては、殲滅機関も相当なものですよ?
 それに。殲滅機関は目撃者の記憶を操作して、蒼血事件のことを普通の犯罪やテロに見せかけていますよね。
 その記憶操作のせいで、どれだけの被害が出ているかご存じですか? 自分の娘が自殺したと聞いて心を病んでしまった母親。親を殺人犯に仕立てあげられた おかげで崩壊した家庭。
 どうです、あなたも聞いたことがありますよね?」
「……それは……」 
 敬介は口ごもった。
 記憶操作が多くの悲劇を生んでいるのは事実だ。記憶操作1000件につき最低でも0.3人、多い場合は8.5人の自殺者が出ることが知られている。殲滅 機関ではこの自殺者数をハーマン係数と呼び、3.0未満であるなら記憶操作は成功と考えられているのだ。
「独りよがりなプライドのため、おおぜいの人を死なせて……殲滅機関のどこに正義があるというのでしょう」
 口の中がカラカラに渇いて不快だった。震える声を、なんとか絞りそうとした。
「だが……」
 言葉は途切れた。唇が凍り付いて喋れなかった。
 どう言っても言い負かされる。そんな気がした。自分の言葉は虚しく空気を掻き回すだけだ。いっぽう繭の言葉は的確に臓腑をえぐってくる。胃袋の中に冷た い鉛の塊を埋め込まれたように苦しい。
「あなたは覚悟していなかったのですね。いまさらになって悩むなんて。
 ただ、なにも迷わず悩まず、目の前にいる敵だけを討って来た。それだけの人生だったんですよね。
 それはね、天野さん。ちっとも強くなんかありませんよ。
 視野が狭いだけ。目を背けてきただけです」
 凍てつくような冷たい声が、敬介の臓腑をえぐる。
 呼吸が止まった敬介に、繭は一転して優しく微笑んだ。恐ろしいほどに整った顔に浮かんだのは蕩けるほどの優しい笑みだ。「女神」の微笑。
 胸の中に、唐突に安心感が溢れた。
 ……この人は俺を救ってくれる?
 ……この人のそばにいれば俺は苦しまずにすむ?
 敬介は目に見えない力に引かれたかのように、ふらりと一歩踏み出した。机の端にぶつかって繭に倒れこみそうになった。
 我にかえった。
 ……俺は今、なにを考えていた?
「恥ずかしがることはないのですよ」
 繭がまだ微笑を浮かべたまま小さくうなずいた。
「迷えるものが神にすがるのは当然のことですから。
 救って差し上げますよ。私の元にきて、わたしに全てを預けてくれれば。
 それ以外、貴方が幸福になる方法はありません」
 発作的に机を掌で叩いて、語気荒く叫んだ。
「じょ、冗談じゃない! 誰が! 騙されないからな!」
 回れ右して、部屋から飛び出す。
 肩をいからせ、足早に歩いた。どこに行こう、とは考えていない。自分の部署である警備部に戻るか。それともどこかで気分転換をするか。休みを取って家に 帰ってもいいが、いま姉に出くわしたらどんな態度をとればいいのか……
 廊下の角を曲がった途端、若い女性の信者に出くわした。
「きゃっ」
 敬介の顔を見るなり、女性信者は悲鳴をあげて飛び退いた。脇に抱えていたクリアファイルを落とした。
 敬介はファイルを拾い、頭を下げた。
「すみません、驚かしてしまって。……そんなに怖い顔でしたか?」
 女性信者はまだ腰の引けた様子で、
「いえ、怖いというより、泣きそうな顔ですが……」
「え? 泣きそう?」
「はい。なんというか、顔全体が、泣くのを必死になって我慢してる子供みたいな……びっくりしましたよ。なにがあったんですか。繭様のお力におすがりして みては」
「いえ……なんでもありません」
 女性信者がいなくなっても、敬介は己の頬に手を当てて、呆然と立ち尽くしていた。
 俺は怖いのか。泣くほど怖いのか。ヤークフィースの言ったことが。
 俺はどうすればいいのだろう。

 23

 殲滅機関 体育館
 朝

 作戦局長・ロックウェル少佐じきじきの訓示が行われた。
 影山サキ准尉は夜勤後、軽い仮眠の後、朝食も取らずに体育館に足を踏み入れた。
 訓練やレクリエーションで幾度となく体育館を訪れているが、今はまるで印象が違った。グレイの勤務服に身を包んだ隊員が整然と整列して体育館を埋め尽く し、ロックウェル少佐を待っていた。
 五、六百名はいるか。日本支部の戦闘局員の大半だ。非番である者、夜間勤務に備えて睡眠中の者以外は全て、ここに集まっているのだ。
 体育館の前方には演劇や公演に使用できる舞台がある。舞台の上には星条旗と、『青い闇を貫く銀の刃』……殲滅機関の旗が飾られている。
 隊員達は基本的に階級順に並んでいる。前の一割程度が士官だ。サキは自分の並ぶべき列を見つけて、隊員たちの間に割り込んでいった。
「ちょっと失礼。失礼します」
 頭を下げながら進んでいくと、隊員たちは冷たい視線を向けて見おろしてくる。逆にわざとらしく目を背けるものも、あからさまに舌打ちする者もいた。
 錯覚ではない。隊員たちはサキに敵意を向けていた。
 ……ふっ
 思わず苦笑が漏れた。
 敬介の弁護をやってからというもの、すっかり嫌われ者になってしまった。階級の差を越えて、直接に批判をぶつけてくるリー軍曹はまだいいほうだ。大半の 者は口には出さず、態度で嫌悪を表す。
 だが嫌悪など、もう慣れた。
 天野が浴びせられていた侮蔑はこれ以上だったはず。
 弁護を引き受けたことも、法廷でとった行動も間違っていなかったと今でも思える。
 だから、つとめて顔に感情を表さず、ただ隊列の中を進んだ。
 ここだ。
 サキが来たのは遅刻寸前だったようだ。サキが所定の場所に着てから間もなく、舞台の袖からロックウェルが登場した。体育館にもとから満ちていた緊迫の空 気が、さらに刺々しさを増した。
「諸君」
 体育館の音響設備はお世辞にも良いとは言えない。法廷のほうがよほどマシだ。それでもロックウェルの渋く落ち着いた声は威厳を持って響き渡った。
「この二ヶ月、『繭の会』出現により国内の蒼血事件は激化の一途をたどっている。諸君らの奮闘に心から感謝する。 
 君達は思っているはずだ。
 なぜ、元を断たないのか。フェイズ5が複数揃っている、あの教団を直接叩き潰さないのか。
 もう待たせはしない。
 きたる三月六日、わが殲滅機関は『繭の会』に総力攻撃をかける!
 ヤークフィースらの野望を完膚なきまでに打ち砕き、蒼血の完全駆逐という悲願に向けて前進する!」
 そこでロックウェルは言葉を切る。
言葉を切ったとたん、サキの四方、体育館一杯に詰めこまれた隊員たちが歓声をあげる。
『おおおっ!』
 沸き立つ空気にクサビを打ち込むように鋭い調子で、ロックウェルは再び口を開いた。
 「諸君の中には疑問に思うものもいるだろう。
 『目撃者の問題はどうなったのか?』と」
 そこでサキはうなずいた。サキの周囲の隊員も、それを聞きたかったとばかりにうなずいている。
 「繭の会」が本部として使っている建物はもともと老舗のホテル「セルリアンホテル」だ。千代田区、東京都心部にそびえたつ。半径1キロには同様のホテル が何棟も立ち、出版社もある。国会や最高裁判所までもが存在している。こんな警戒厳重な、人の目が多い場所で作戦部隊を突入させれば、多くの目撃者が出 る。これをどうするかが最大の問題だったはずだ。
 どんな策にたどりついたか。耳をそばだてるサキに、ロックウェルは恐るべき言葉をぶつけた。
「周辺施設すべてを制圧する」
「なっ!?」
 サキが驚愕の声を漏らすのを気にもせず、ロックウェルは続ける。
「空中から全ての建物に昏睡ガス弾を撃ち込み、目撃者が出ないように眠らせる。マスコミは特に重点的に、ガスのみならず地上部隊を送り込んで制圧する。目 撃者が屋外にいるなど、ガスの効果が疑わしい場合は抹殺も考慮する。彼らが昏睡している間、我々は教団本部に突入、ヤークフィースたちを倒してすべての片 をつける。そののちに情報操作を行う。『教団は武装化しており、今回の騒乱は教団の内輪もめだった』という筋書きだ。
 このために技術局には新型のグレネードを開発してもらった。
 時間経過にともなって自壊し、証拠を残さないグレネードだ。
 詳細は各部隊長に作戦計画書として伝達する。
 諸君。大変な激闘が予想される。諸君らの健闘を期待する。人類の命運は諸君らにかかっているのだ。機関に入った日の誓いを忘れることなく戦い抜いてく れ!」
 ロックウェルが硬く握りしめられた拳を振り上げる。
 すぐさま作戦局員たちが呼応する。数百人が一斉にオオッと歓声をあげ、重低音のうねりとなってサキを包みこむ。
「待ってください!」
 サキは手を挙げて叫んだ。大声で叫んだつもりだったが、歓声の大渦に呑み込まれて、ろくに響かない。
「待ってください! 質問があります!」
 さらに声を張り上げてもう一度叫んだ。
 壇上のロックウェルが顔の向きを変えた。明らかにサキの方を見ている。
「何だね、影山准尉?」
「質問が……ガス弾とはいえ、死傷者はゼロではありませんね。……なぜ無関係な、出版社やマスコミの人間を殺すのですか? 異常な強硬手段です」
「機密保持上、止むを得ないからだ。他に作戦部隊を人々の目から隠す方法があるか。情報局と作戦局が協議を重ねてたどり着いた、もっとも確実な隠蔽策だ。
 それに、『教団が武装化して内輪もめをした』という筋書きに説得力を与えるためには、五人や十人くらいは死者が出たほうが良い」
 なんということだ。サキは胸を締め付けられる思いだった。無関係な人間をこれほど無神経に巻き添えにするとは。
「あなたは……」
 反論の意志を固め、思い切り背伸びをしてロックウェルの顔を見ようと試みた。
 気付いた。
 まわりの作戦局員たちがサキを見ている。みな目が冷たい。不審と冷笑の色が浮かんでいる。
 お前何をいってるんだ、と目が語っている。
「反論があるのかね? 一般市民に犠牲を出したくないと?」
 ロックウェルが自信に満ち溢れた声で語りかけてきた。
「だがな、影山准尉。我々はそんな細かいことなど気にしていられないのだよ。
 我々は神ではない。全員を救うことはできない不完全な人間で、にもかかわらず人類を守らねばならない。
 だから仕方が無いのだ。小さな犠牲だ。
 そう思わば作戦は行えない」
 違う……サキはそう言おうとした。
 たしかに、全力を尽くしてなお、助けられずに死なせてしまうことはあるだろう。敵と間違えて無関係な人間を撃ってしまうことはあるだろう。自分とてまっ たくミスがないわけではない。 
 だがミスはミスだ。なぜ失敗したのか考えて、根絶しようと努力するべきじゃないのか。
 だがロックウェルは……最初から犠牲を織り込んでいる。
 後悔も反省も鎮魂もない。傲岸不遜に、人間を駒のように見下している。
 まるで蒼血と同じように。
「その程度のこと、今までの経験で学んで来なかったのかね、影山准尉。
 それとも。……天野敬介との付き合いが長すぎて、忠誠心が揺らいだか?」
 サキは苦々しい思いで姿勢を正し、答えた。
「いいえ。私の忠誠心に揺らぎはありません。全力をもって任務に当たります。質問は以上です」
 そう答えるしかなかった。
 天野よ。私もまだまだ未熟なようだ。
 
 24
 
 3月6日 夜
 『繭の会』本部

 あれから数日、考え続けた。
 それでもどうしても答が出せない。
 だから敬介は仕事を終えた後、凛々子の部屋を訪れた。
 ノックして室内に入る。
 と、入った途端、驚く。室内の様子がまるで変わっていたからだ。
 絨毯もガラステーブルもなく、純和風。
 二十枚ほどはあるだろうか、畳が一面に敷き詰められ、窓には障子がはめられ、先日はシャンデリア風だった照明も和紙で覆われて柔らかい光を放っている。 畳の上には大きな行李と箪笥が並び、いちばん奥にちっぽけな文机が置かれていた。
 和服を着た女性が文机に向かっていた。よく見ると広報部長本人だ。長い茶髪をまとめて、豊満な体型を和服で隠しているから別人のように見えただけだ。
 どういうことだ? と目を見張っていると、
 彼女はゆったりとした動作で立ち上がり、微笑みかけてきた。
「こんばんわ、信徒天野。っていうか、もう敬介くんのこと、バレちゃったんだよね。じゃあ演技いらないね、こんばんわ敬介くん」
「え……あ……」
 どう切り出していいものやら言葉を失っていると、
 凛々子は室内を見渡して、子供のようにくるりと軽やかに回ってみせて、
「あ、この部屋? 模様替えしたんだ。たまには和風の部屋にしたくて。いいでしょ。ずっと演技してて、教団の教義がどうとか説教するのって疲れるんだよ。 だから気分転換」
 なにも敵地のど真ん中で、命の危険があるときに気分転換しなくとも……と想ったが、「だからこそ遊びを入れる」のが凛々子らしい気もする。
「顔を元に戻すね。そっちのほうが話しやすいでしょ」
 両手で顔を覆った。ほんの一瞬で手を離す。
「ばあっ」
 短い黒髪。幼さを感じさせる、丸みを帯びた頬。鮮烈な輝きを宿した、くりくりと大きな瞳。
 もとの凛々子の顔に戻っていた。
「……なんか暗いね、敬介くん」
 元気付けようとしておどけてくれたのだろうが、とても笑える心境ではなかった。
「凛々子……相談があるんだ」
 自分でも驚くほど、どんより濁った暗い声が出た。
 凛々子もその暗さに驚いたのか、眉をひそめて、
「いいけど……立ったままっていうのもなんだよ、そこに座布団あるから座りなよ。いまお茶入れるね」
「お茶なんて、いい……」
 物の味が分かるとは思えない。靴を脱いで、座布団を無造作に敷いてその上に腰を下ろす。凛々子とは二メートルほどの距離を置いて向かい合う形になる。
 敬介の暗さが感染したのか、凛々子もかしこまった姿勢で正座して、膝のあたりに拳を置いている。
「相談てのは?」
 促されて、敬介は喋りだした。
 姉の姿を見て、教団こそが姉の幸福だと気付いたこと。
 教団を倒すという意志が揺らいだこと。
 ヤークフィースに勧誘されてますます迷ったこと。
 敬介の話を聴きながら、凛々子は目まぐるしく表情を変えた。両眉を大げさに下げて八の字にしたり、ほっぺたを幼児のように膨らませたり、細い顎に手を当 てて小首を傾げたり。ただ背筋だけは過剰なほどにきっちりと伸ばしたままだった。
「それで……俺は。……いろいろ考えた。でも、どうしても分からないんだ、どちらの道を選ぶべきか」
 凛々子は顎に手を当てたまま、小さい声で呟いた。
「……ヤークフィースの、いつもの手だね」
「そうなのか?」
「うん。あいつはね、他人の脳を改造することもできるし、弱みを握って脅すこともできるけど、『あくまで自分の意志で、服従を選択させる』のがいちばん好 きなんだ。まったく強制しないでも従うのが一番の勝利なんだって。ほんとは選択肢、ほとんど残ってないのにさ、嫌な奴だよ。
 ……でも、ごめん。ボクは敬介くんに、どうしろとも言ってあげられない」
「なんでだ? お前はずっとヤークフィースたちと戦ってきた。敵だろう。俺があいつら側につくなんて、許せないはずだ」
 焦りを含んだ声で敬介は言った。言っているうちにわかった。自分は凛々子に叱り飛ばして欲しかったのだ。
 蒼血なんかに屈服するな、戦え! と、闘志を注入して欲しかった。
「敬介くんの気持ちもわかるから。自分にとって一番大切な人の幸せがかかってる、そういう状況なら誰だってオドオドするよ、迷うよ。そこであっさり『自分 は軍人だ、戦士だ』って割り切れる人、滅多にいないよ。……特に敬介くんは、あんまりお姉さんのこと、深く考えてこなかったし」
 そう言われると返す言葉がない。牢に入っている間など、暇な時間はいくらでもあったはずなのに、なぜ『教団を潰せば姉の幸せも失われる』ということにす ら思い至らなかったのか。これほどの馬鹿はいないだろうと思う。思わずうつむいて畳を見つめてしまう。
 だが凛々子に責める様子はなかった。むしろ声のトーンを下げて、柔らかく、いたわるように言った。
「いまさら過去を責めても仕方ないよ。ある意味で、敬介くんは『戦場に適応した』だけなんだ。だって戦争の真っ最中の兵士が『この戦争は本当に正しいの か』って考え出したら生きていけない。味方の足を引っ張るだけだよ。
 それで……ボクは、どうしろとも言えない。
 ボクはどうにかしてヤークフィースたちの計画を挫くつもりだよ。でも、協力しろとは頼めない。きっとその道は敬介くんと、敬介くんのお姉さんをすごく苦 しめるから。
 でもお姉さんのために殲滅機関を捨てても、きっと苦しむよ。たくさんの仲間を裏切ることになる。あの隊長も。戦友たちも……死なせることになるかも」
「俺だって、そこまでは考えた。でも、どっちも重くて、譲れなかったんだ……」
「そうだよね。どっちの道を選んだって後悔すると思う。でも選ぶしかないよ。ボクだって、誰かを見殺しにしたことはある。戦闘の最中は最善を尽くしたつも りでも、安全になったときは『もっとこうすれば』って思った。特にボク、紛争地域に行くことが多かったから。蒼血から助けたつもりの子供が、ゲリラになっ て死んでしまったり、旱魃で全員ミイラになってしまったり、村ごと紛争で焼かれたりすることもあって。蒼血に寄生されたほうがまだ長生きできたかもしれな いって……
 でも、自分で決めたことだから。後悔したって、やり抜こうと思ってる。敬介くんもそうするといいよ」
 最後の一言に深刻さが全くなく、『ごはんまだ?』くらいの調子だったので驚いて顔を上げた。
 凛々子は澄んだ大きな瞳を敬介に向けていた。口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。頬も緩んでいた。だが瞳だけはまったく笑っていない。純粋で透明な光 を湛えている。
 『覚悟』の目だと思った。
「八十年、だっけ? そのくらい戦ってきたのか。ひとりで」
「エルメセリオンと二人だよ?」
「なんで、できるんだ。俺なんて、命令を下してくれる組織からちょっと離れただけで、このザマだ」
「ボク的に当たり前のことを当たり前にやってるだけだよ。ボクは逆に組織に入って、ルールに従うのって大変だなあって思った。だから『なんでできる』って 訊かれても……」
 眉根を寄せて考えこむ凛々子。
 そのとき渋い男性の声が会話に割って入った。
「ふむ、凛々子。きみの過去を話すべきじゃないか?」
 声の主は、凛々子の首筋……に現れた、パクパクと開閉する小さな口だ。エルメセリオンだろう。
「きみが戦いを決意した理由、きっかけを知れば、彼にとって指針となるだろう」
「えー!? やだよう。恥ずかしい。あんなの他人に見せるもんじゃないよ」
 凛々子は露骨に嫌がるが、エルメセリオンは笑う。
「はは。きみが嫌がるなら私が見せよう、天野敬介、手を」
 エルメセリオンがそう言うなり、凛々子の身体が膝立ちになって敬介のほうに手を伸ばす。
「え、あ、はい」
 敬介が凛々子の手を取った。細い、脆そうな手だ。絹のような肌は、とても歴戦の戦士のものとは思えない。凛々子が握り返してきた。
 また手の平にちくりと針の刺さった感触。極寒の触手が腕の中を伸びてくる。首筋に侵入して上がってくる。脳に達した。
「では、行くぞ。情報量が多いから少し負担があるかもしれない」
 エルメセリオンが言った瞬間、敬介の脳の中に、記憶が流れ込んできた。
 膨大な量の音が。映像が。一挙に再生される。いままでの人生で味わったことのない感覚だった。夢から覚めたときとも違う。何かを思い出したときとも違 う。いま生きている現実が上書きされるほどの実在感を持って、時系列を無視して何千もの映像が、台詞が頭の中で弾ける。
「……っ!」
 あえいだ。言葉を発することができない。全身が痙攣するのがわかった。視界がぐにゃりと歪みだす。まっすぐ座っていられない。
 かたく繋がれた手の感触だけが確かで、あとはもう何も分からない。
 自分は誰だ? 天野敬介か……? そうだよな……?
 だが大正時代の東京を覚えている。横浜に汽船で来たことを覚えている。もっと昔、人々が城塞にこもり、巨大な火縄銃で撃ちあい、剣で斬りあっていた時代 を覚えている。もっと前、もっと前……
「力を抜くんだ。自分の意識を無にして記憶を自然に受け止めろ」
「そんな……こと……いわれ……ても……」
 意識が途切れた。

 25

 フェイズ5はそれぞれ全く違う個性を持っている。
 ヤークフィースは『人類を支配して理想社会を作る』という目標を決して譲らない。何度も社会を作っては壊してきた。
 ゾルダルートは戦いが大好きで、戦場を縦横に駆け巡り、殺しまくることができれば他の事に興味を持たなかった。
 とにかく人類社会を混乱させることを楽しむ者もいた。犯罪の世界に王国を築き、そこを守ることだけに専念する者もいた。
 そしてエルメセリオンは……探求者だった。彼はただ知りたがった。
 人間は、どんな生き物なのかと。
 蒼血たちは口を揃えて言う。人間は劣った生き物、愚かな生き物と。我らに飼われる家畜だと。
 だがしかしエルメセリオンは思うのだ。
 ……その愚かな生き物に、いまだ我々は勝てないではないか。完全な人類支配は実現していない。存在を秘密にしているのも、正面からの総力戦をやって勝て ない証拠ではないのか。真に君臨するものは、隠れる必要などない。
 かといって人類が、自称するほどの『万物の霊長』とも思えない。
 知りたい。ヤークフィースのように思い込みで突き動かされるのは嫌だ。人間がどんな生き物か、その真実を知り尽くしたいのだ。
 だからエルメセリオンは眷属を育成せず、人類社会に根を降ろすこともなく、ただ人間の体を適当に乗り換えながら、世界中のあらゆる国、あらゆる身分の人 々を見て回った。
 故に、この時期のエルメセリオンは『反逆の騎士』ではなかった。『千界の漂泊者』と呼ばれていた。
 何百年もの間、さまよい続けるエルメセリオンの中に、だんだんと結論がまとまりつつあった。
 ああ。人間は、やはり愚かで下らない。
 活力はあるかもしれない。数世紀を生きる我等にはない、短命だからこその煌きはあるかも知れない。
 戦争への執念も見上げたものだ。牙も翼も持たない、どれほど努力しても生やすことができない人間が、鉄を鍛え、火薬を調合して様々な兵器を作り出す様は 心がおどる。
 だが、そこまでだ。
 人間達は幾千年の昔より、殺すな、騙すな、奪うなと言い続けてきたのに。神の前に人は平等と言ってきたのに。
 道徳はついに実現されなかった。どれほど経とうと社会は変わらなかった。
 二千年前もそうであったように、人々は聖職者の前でこそ愛を叫ぶが、翌日には奴隷に鞭打って、知る限りの武器で殺しあう。全てが終わった後になって、 「戦いの原因はあいつらだ、俺は悪くない」と叫ぶ。数々の理想はあるが、いつだって現実は、ただ強い者が弱い者を殺し、貪るだけだ。
 口先だけの愛と、凶悪な本性を抱えたまま、人類はなおも科学を発達させ、その力を増し続けている。
 二十世紀がはじまり、世界大戦の死屍累々を見て、エルメセリオンはほとんど確信しつつあった。
 ヤークフィースは正しかったと。
 この野蛮な生き物を野放しにはできない。
 我々、聡明な優良種が管理するべきだ……
 そんなことを思いながら、日本を訪れた。東洋の片隅にあって、数々のハンデを乗り越えて欧米列強に追いつこうとあがく、新興の帝国だ。
 そして、天変地異に遭遇した。

 26

  一九二三年九月一日 夜
 東京市神田区
 
 大気は生臭く、濃密で。ひどく暑かった。
 大地震の発生から八時間。破壊されつくした東京を、エルメセリオンは歩いていた。
 日本人の、青年貿易商の体を借りている。世界各地を飛び回っても不思議に思われないので便利な身分だ。三十代で、人のよさそうな丸顔にロイド眼鏡をかけ て、スーツに山高帽、ステッキを突いた典型的な洋装だ。
 もう夜の八時、とうに太陽は没している筈なのに、空が明るく橙色に輝いて周囲を照らしていた。街灯は見渡す限り一本も無いのに、普通の人間でも新聞を読 めるほどの明るさだった。
 太陽の沈んだ方角とは逆の、東の空が輝いているのだった。
 エルメセリオンの人類を超越した視力が、膨大な量の赤外線と大気の揺らぎを捉えていた。きっと向こうでは火災旋風が起こっているのだろう。無数の火災が 一つにまとまって竜巻状になり、人間という脂の塊を喰って成長を続けているのだ。
「ん……あれは人間、か?」
 東の空を、小さなゴミ袋のようなカスが舞っている。目を凝らすと、確かに手足があった。
 上昇気流で人間が飛ぶほどの火災なのだ。数世紀を生きた彼も、これはあまり見たことがない。
「すごいですね……」
 思わず感嘆の声が漏れる。笑顔を作ってしまう。
 この大異変の中でなら、今までに無かったものを見ることができるかもしれない。人間についての理解を覆す何かを。
 彼の歩く道は幅が数メートル。この時代の日本のほとんどがそうであるように、未舗装だ。その道が、獣の背骨か何かのように、ぐねぐねと波打っている。道 の真ん中にはレールが走っているが、その上を往くはずの路面電車は道を塞ぐようにして転覆し、黒焦げになっている。路面電車の下からは、和服を着た小さな 手が伸びていた。地震の瞬間、振り落とされて下敷きになったのだ。
 そして道の左右には瓦礫しか無かった。 
 家屋は塀も残らず、ただ一面、視線の通る限り何百メートル四方にわたり、黒焦げになった柱と、砕けた瓦が出鱈目にぶち撒けられているばかりだった。
 幾人かの人々がスコップで焼け野原を掘っている。何をするでもなく瓦礫の中に座り込んでいる者もいた。筵にくるまれた遺体を大八車で運んでいる者もい た。彼らは全身が汗と煤まみれで、例外なく感情の枯れ果てた表情をしていた。そんな荒涼たる風景の中にところどころ、かろうじて形を留めた煉瓦の建物が点 在しているばかりだった。
「待てッ!」
 野太い罵声が響いた。
 声のしたほうをのんびりと見やる。
 焼け野原の向こうから男達が走ってきた。
 先頭の男は、遠くから見てもわかるほど痩せこけていた。作業服姿で、坊主頭からダラダラと血を流し、顔面を真っ赤に染めている。目玉をむき出し、口から 泡を吹いて必死の形相だった。裸足で、猛烈な速度で駆けている。足の裏もズタズタに裂けているだろう。
 追っている男達は十人もいて、この時代の日本人としては大男ぞろいだ。がっしりとした体格に和装姿。頭には懐中電灯を括りつけ、手には木刀や、身長ほど もある鉄パイプを持っている。武器はいずれも使用済みらしく褐色の汚れがこびりついている。一人だけ、ズボンにワイシャツにベストという洋装の老人がい た。老人は木刀を持たない。かわりに腰には自動拳銃を帯びている。
「逃げても無駄だぞッ!」
 怒鳴りながら走っているが、和装のせいか、逃げる男ほど足が速くない。
 作業服の男との距離は数十メートルも開いたままだ。追いつけないまま、一団はエルメセリオンの前を通過して……
 と、追っている集団の中の一人、洋装の老人が腰から自動拳銃を抜いた。
 走りながら片手で撃つ。逃げている男の足で鮮血が弾けて、男は倒れる。
 ほう、とエルメセリオンは片眉を上げて感心した。自分も相手も走りながら撃って命中させるとは、相当な熟練者だ。
「うっ……」
 倒れた男の周りに、追っていた和服集団が集まる。
「観念しろッ!」
「俺は何もやってない! 何もやってないんだ!」
 倒れた男は涙声で抗弁するが、和服集団は容赦の色も見せずに怒鳴りつける。
「お前の仲間はちゃんと白状したぞ! 毒を撒く計画があると!」
「そ、それはお前らが拷問するからだ! とにかくちゃんと調べてくれ! 俺だって皇国の臣民なんだ、文明的な裁判を受ける権利が……帝国憲法に……」
「黙れ!」
 男たちは絶叫して哀願を断ち切った。木刀や鉄パイプを連続して振り下ろす。熟れた果物が潰れるような音が、いくつもいくつも重なった。渾身の殴打だ。一 撃ごとに骨は砕け、肉は内部断裂して内出血で腫れあがったことだろう。たっぷり数十回、殴打は続いた。
「あがっ……あがっ……」
 男はもうまともな言葉を発することができない。呻きさえも押し潰すように殴打を続行しながら、和装の大男達は怒気あふれる声で喚き立てる。
「自分の立場が分かっていないようだな?」
「そう。お前達は重大犯罪、国事犯の嫌疑をかけられているんだ!」
「にも関わらず権利だと! 憲法だと!」
 男たちの中で一人、先ほど拳銃を撃った洋装の老人が、ふとエルメセリオンに目を止めた。
 歩み寄ってくる。
「失礼、騒がせてしまいましたな」
 エルメセリオンは老人を観察した。他の大男たちと違い、身長は百六十センチそこそこで、頭は禿げ上がり、顔には深い皺が刻まれている。
 だが、何気ない動作にも全く隙がなく、細い目が鋭い眼光を放っている。
 他の男達とは次元の違う鍛えられ方だ。陸軍の退役将校あたりかと見当をつけた。
「一体、これは何を? あなた方は?」
「ああ。我々は自警団です。こんな国難の只中ですから、警察力にも限りがありましょう。民の身は、民自身が守らねば」
 そう言って、老人は、輪になっている自警団員を指さした。
「社会主義者や朝鮮人が、毒や爆弾で皇国の転覆をもくろんでいるのです。近くに朝鮮人ばかり集まる宿舎がありましてな、踏みこんで捕らえたのですが、一人 逃げられまして……」
「なるほど……」
 エルメセリオンはうなずいた。
 「国家転覆計画」の証拠などあるまい。
 「異民族が俺たちを殺すんじゃないか?」という妄想が、天災や疫病をきっかけに爆発するのは、歴史上いくらでもある話だ。欧州では、「ペストはユダヤ人 の仕業」というデマによって数多くの虐殺が起こっている。
 老人はさらに歩み寄ってきた。
「ところで、貴方はどちら様で? 身分証明はありますか?」
 さて、どうするか。
 名刺は持っているが、これだけでは身分証明として弱いだろう。
 そもそも、こういった輩は確たる証拠で動いているわけではない。逆に言えば身分証明書を出そうが何をしようが、「社会主義者に違いない」と思い込めば襲 い掛かってくるのだ。
 人間はいつだって、そんな生き物だ。遠い昔から何も変わらない。
 やはり、ここでも新しいものは何も見ることができなかった。
 ここまで思ったところで、エルメセリオンの思考は遮られた。
「やめてください!」
 少女の、鮮烈な叫びによって。
 見ると、かぎ裂きだらけ、泥だらけの女学生袴を履いた少女が走ってくる。大きな目とふっくらした頬が目立つ愛らしい顔立ちだ。リボンで結んだ二本のお下 げを激しく揺らし、突進してきた。彼女もやはり手には木刀を持っている。
 少女は自警団がつくる輪のそばまで駆けて来て、持っていた木刀を地面に突き立て、再び叫んだ。
「やめてください!」
 細身の娘だ、声量そのものは自警団員に及ばない。だが少女の声には有無を言わさぬ気迫があった。自警団員はみな一瞬、金縛りになった。
 ただ一人、老人だけが驚きもせずに言い放つ。
「誰だ、キサマは? 我等にたてつく気か? 『主義者』か?」
 老人は自動拳銃を手にしたままだ。眼光の鋭さも殺人的な程だ。しかし少女は些かの怯えもなく、薄い胸を張って答えた。
「ボクは凛々子! 氷上凛々子です! 氷上道場の娘の! 父さんは昔、あなたと手合わせしたこともあります!」
「ひかみ……? 道場? ああ」
 老人が無表情を崩し、憐れみの笑みを浮かべてうなずく。
「話には聞いた。一家揃って失くすとは気の毒だったな。辛いのはわかるが、気を確かに持て。とち狂うとなると同情できん」
「ボクは狂ってなんかいません。おかしいのは、あなた達です! この人たちが爆弾とか毒を持ってたの? 国家転覆の証拠はあるの? なんで、なんの証拠も ないのにこんなことをするんですか?」
「たわけ。ワシは警官から聞いた。新聞記者や軍人から聞いた者もおる」
「ただの噂話でしょう!?」
「今は非常時なのだ。この現実が見えぬのか。今、悠長に証拠だと裁判だの、やっている余裕はない。わずかでも嫌疑があるなら、皇国のため、ひいては臣民の ため、敵を討つことをためらってはならんのだ! 迷っているうちに爆弾を使われたらどうする?」
「そのときは、ボクを捕まえて裁いてください。責任取ります。だからやめて下さい!」
「できん、と言ったらどうするね」
 老人が問うと、凛々子は無言で木刀をすっと持ち上げ、中段の構えをとった。
「腕づくでも、解放してもらいます。その人も」
「その人『も』だと?」
「ええ。あなたたちが拷問していた人達、みんなボクが解放しました。あとはその人だけです」
 老人の表情から笑みが消える。
「ほう……どれほどの大罪を犯したか理解できんようだな?」
 自動拳銃を持った腕を上げようとする。
「団長、銃などやめてください、娘相手に、帝国軍人の名折れです。我々だけで十分です」
 自警団員がそう言って、輪形を解いて散開する。アルファベットのVの形に列を作る。凛々子を挟み撃ちにできる隊形だ。武器は同じ木刀だが、自警団員は見 上げるような体格で、腕の太さは倍もある。
「やっ!」
 凛々子は躊躇もせず、十人の自警団がつくる「V」に真正面から飛び込んだ。
 木刀が振り下ろされる。だが凛々子はその時にはもう跳んでいた。襲い来る幾本もの木刀をかわし、伸びきった腕を足場にしてさらに跳躍する。頭の上に飛び 乗って、木刀を男の肩口に叩き込む。エルメセリオンには鎖骨の砕ける音がはっきり聞こえた。くぐもった声をあげて男の体が崩れる。他の自警団員が力任せに 木刀を振って凛々子を狙うが、軽々とよけて別人の肩の上に飛び乗った。また木刀を振って顔面の真ん中に強打を叩き込み、背後からの一撃すら回避してまた鎖 骨を折る。
 実力差は圧倒的だ。凛々子は鼻や鎖骨など、弱い筋力でも破壊できる人体の急所だけを狙っている。しかし喉は突かない。殺すまいという考えがあるのだろ う。四方八方からの攻撃をかわしながらそれだけの余裕があるのだ。
 凛々子はたちまち十人を叩きのめした。全員が顔を苦悶にゆがめてうずくまり、戦闘不能だ。
 倒れている作業服姿の男に駆け寄った。
 もともとは菜っ葉色だった作業服が真っ赤だ。そして顔面は青黒く変色して、餡パンのように膨れ上がっている。頬骨や顎の骨が砕けたのだろう、顔の下半分 が右に捩れるように変形している。半開きになった口から、血の気を失った舌がはみ出している。胸は、服の上からでもわかるほど陥没していた。肋骨が何本も 砕かれているのだ。
 その傍らにしゃがみこんだ凛々子は、はっと目を見張り、その男の口元に手を当て、手首を取った。うつむく。そのほっそりとした肩が震え始めた。木刀を 握ったままの手も震えている。
 勢いよく立ち上がった。
「死んでる……もう死んでるじゃないかッ!」
 もはや凛々子は丁寧語すら使おうとしない。叫ぶと同時に、大きな瞳の縁から涙が溢れ出した。
 老人は悪びれもせずに肩をすくめる。
「おや、そうかね。加減を知らん連中だ。単調な責めでは尋問にならんと教えたのだがなあ」
「なんだ……なんだよ……その口ぶりは! 死んだ! 人が死んだんだよ! あんた達が……あんた達が……なにか悪いことをやったのか、証拠もなかったの にッ!」
「そうさね、死んだ。だからどうしたのだ。今日、帝都では何万人もがあの世に行った。それが一人増えただけだ。ワシらが罪に問われることはない。非常時 だ、戦場と同じだ。誰もが納得してくれる。防衛のために犠牲は仕方なかったと」
 老人は口元を歪めた。心の底から楽しそうな、愉悦の笑みだった。
 凛々子は何かに気付いたように目を見張る。一歩後ずさる。
「なんだよ……ふざけるな……」
 凛々子は木刀で老人を指差した。
「ボクはあんたを『正義感で暴走してる』んだと思ってた。やり方は間違っていても、国を、みんなを守りたいんだと……悪人じゃないんだと……
 でも違う! 違うんだ! あんたは……人を殴ったり殺したりするのが楽しいんじゃないか? 『殺しても良い理由』が欲しいんじゃないか? そんなん で……」
「違うな、小娘。『ワシが』ではない。人間はみんな、殺し合いをやりたいのだ。普段は隠しているだけだ。ワシは日清日露の戦役で様々なものを見た。清国 兵、ロシア兵、日本兵……みな御立派な道徳を学んでいるのに、過酷な場所にいけば本性を露わにする。今は恐怖が帝都を覆っておる。常識も、倫理も剥がれ落 ちている。すべては仕方ない。ワシはただ人間であるだけだ。みな、一皮剥けば同じだ」
 大地を踏み抜く勢いで一歩だけ飛び出し、凛々子は言葉を叩きつけた。
「違う……『人間』を勝手に決めるな! 父さんは! 門下生を守るために柱を支えて、下敷きになったよ! 兄ちゃんは、炎の中に飛び込んで、ボクを助けて くれたんだ。普段から言ってたよ。弱い者を守れる奴になれ。男も女もない。悪を見過ごすな、義を捨てない人間になれ……! 修羅場でこそ、仁や義を忘れる なって……言ったとおりのことを、実行して死んでいったよ!
 だからボクは、『仕方ない』って言わない。
 一皮剥けば同じでも! その一皮を絶対に脱がない!」
「そうかね、物好きもいたものだ。それでどうする? お前が助けたかった男はもうおらん。いまさら何の意味があるのだね?」
 凛々子は息を吸い込み、背筋を伸ばし、木刀を中段に構えなおした。しかし腕全体が震えている。感情をまったく抑えることができていない。
「お前と戦う。お前を許さない。人間を馬鹿にするお前を。軽々しく人を殺して、悪いとも思わないお前を。そして兄ちゃんや父さんのように、優しくて、勇気 があって、卑怯なことは絶対しないで……そんな生き方をして……人を助けるんだ! ぜったいに曲げない! ずっと! ずっとだ!」
 凛々子が言い終わるや否や、老人の片手が勢い良く跳ね上がる。二つの銃声がほとんど同時に轟いた。
 凛々子の頭の両脇を弾丸が駆け、お下げを二本とも切断した。ハラリと髪がほどけて落ちていく。
「あっ……」
「吠える吠える。だが何もできん」
 銃口から薄く煙をひく拳銃を、凛々子の額に向ける。
 凛々子が大きく震え出す。潤んでいた瞳から、また涙が溢れる。
「うっ……うっ……」
「怖いか。いまさら泣いてもどうにもならんよ。ワシはお前の言うような、役にも立たぬ書生論が大嫌いでなァ」
 だがエルメセリオンには分かった。凛々子は、怖いから泣いているのではない。
「くそぅ……ちから……さえ……あればっ……」
 悔しいから、自分の無力さに歯噛みして泣いているのだ。
 老人はもう嘲笑の言葉すら発さず、発砲した。
 銃弾が凛々子を絶命させることはなかった。
 エルメセリオンが超高速移動で両者の間に割り込み、銃弾を二本の指で摘んで止めたからである。
 落ちた飴玉でも拾うように無造作に。
 金属同士が擦れ合うような音を立てて、銃弾が回転を止めた。
「なっ……!?」
 老人が、凛々子が、驚愕に目を見張る。
 エルメセリオンは銃弾を放り投げ、凛々子に笑顔を向けた。
「きみ! 興味深い! 実に興味深い! きみのような人間は初めて見た。人間は、いざ修羅場となれば『仕方ない』と言って倫理を捨てるものばかりだった。 弱い者を殺し、家族を捨てて逃げて、あとで言い訳する者ばかりだった。
 君は違うのだな? いま口にしたばかりの正義を、どこまでも、いつまでも貫くというのだな? 
 力さえあれば?」
「ま、待てっ……キサマ……」
 老人が、理解不可能の事態に怯えの表情を浮かべながらも、エルメセリオンに拳銃を向ける。
「黙っていてください。大事な話をしているんです」
 エルメセリオンは片手で軽々と拳銃を奪い、そのまま握りつぶした。男性にしては細く青白い手の中で、鋼の塊がチョコレートのように歪む。薬莢が炸裂して 煙を噴出する。指の隙間から部品が吹っ飛んだ。手のひらを開くと傷一つない。
「ひぃ!?」
 あれほど豪胆に見えた老人が悲鳴をあげて飛びのいた。
「さあ、どうなのだ? 見ての通り、私には人間を超えた力がある。そして君の事をもっと観察したい。
 これからも貫くと、他の人間のようにならないと誓ってくれるなら、この力を貸そう。君が信念を実行するところを見たい」
 凛々子は大きな目をますます見開いて、エルメセリオンと、恐怖に震える老人を交互に見た。
 だがほんの数秒で覚悟を固めた表情になり、エルメセリオンを至近距離から見つめた。
「貫く。絶対に。ボクは、今言ったことを守る」
「本当にいいのだな? 善行を積んだところで感謝されるとも限らない。誰かをかえって不幸にすることもあるだろう。弱者が常に善とも限らない」
「そんなこと分かってる。でも、それでも。ボクは……」
「よろしい、ならば契約だ。私の名は『千界の漂泊者』エルメセリオン。君の戦いを見届けよう。君が約束を守る限り、君の力となろう」
 エルメセリオンは凛々子の首筋に手を伸ばした。その掌に、牙の並ぶ口が開いた。
 そのまま首筋に噛み付いた。エルメセリオン本体が凛々子の体に潜りこんだ。
  
 26

 かくして、凛々子はエルメセリオンの被寄生体となった。
 最初にやったのは、自警団の面々を脅かして活動をやめさせ、怪我を治してやることだった。
 エルメセリオンは今まで使っていた実業家の体を捨てるつもりだったが、凛々子が抗議したため、記憶を作り上げて自由意志を与えてやることになった。彼は 普通の人間になって神戸に帰っていった。
 その後、帝都のあちこちを飛び回り、潰れた家の下から被災者を救い出し、今回と同様のリンチ行為や、どさくさ紛れの犯罪を何度も何度も止めた。
 この大震災においては帝都のみならず関東各地でリンチ殺人事件が起こり、一説によれば二千人もの人々が殺されたが、もし凛々子の活躍がなければ死者数は 何倍にも膨れ上がっていただろう。
 一月ほどたって、混乱が一段落した頃。凛々子は蒼血に戦いを挑むことを決めた。エルメセリオンから蒼血に関する詳細を聞いたからだ。人間を家畜と蔑み、 人間に寄生して社会を裏から操っている奴らのことを。ことに一国すら動かすフェイズ5のことを。
 あらゆる悪と戦い、あらゆる人間を救うには、あまりに力が足りない。
 たった一月で思い知った。
 ならば治安も回復したことだし、普通の犯罪のことは警察に任せておこう。
 警察では対処できない敵、蒼血と戦うことを主な使命としよう。そう決めたのだ。
 凛々子は世界各地を転々として蒼血と戦い、やがてエルメセリオンは、「裏切りの騎士」という新しい綽名で憎しみを込めて呼ばれるようになる。
 そして戦い続けること、八十年あまり。
 凛々子は約束を破ることはなかった。
 いついかなる時も、「人間はバカなんだから、ダメな生き物なんだから仕方ない」とは言わなかった。
 裏切られても、救いきれなくても、人間を信じ、苦しむ人のために涙した。彼らの幸福のための戦いを一日もやめることはなかった。

 27

 二〇〇八年三月六日 夜
 「繭の会」本部
 
 目を開いた。
 体中の力が抜けて、敬介は畳の上に膝をついて、そのまま倒れ込んだ。なんとか手を突いて、顔面から落ちることだけは防ぐ。
 心臓が凄まじい勢いで跳ねている。額から背中まで、体中にびっしりと冷や汗をかいていた。息も、数百メートルを全力疾走したように荒かった。
「ハアッ……ハアッ……これは……」
 凛々子を見上げる。凛々子は八十年前と変わらない顔で、変わらない真摯な瞳で敬介を見つめていた。言葉がうまく出せない。
 圧倒されていた。いま心の中に展開された記憶の密度に。
「おまえっ……げほっ……げほっ……」
 凛々子は背中を叩いて、抱き起こしてくれた。壁によりかかって休んだ。
「はい、お茶。一気に喋ろうとしないほうがいいよ。エルメセリオンも乱暴だよね、少しずつにすればいいのに」
 渡された湯飲みを一気にあおる。火傷するほどの熱い日本茶が口の中を蹂躙し、喉を灼きながら滑り降りていった。
「うぐっ……ぐうっ……」
 むせ返る。体中の汗が倍加する。
 だが、数秒間ごほごほと苦しんでいると、精神的な苦しさはだいぶ薄れた。
 いまが二〇〇八年で、自分が天野敬介で、なんのためにここにいるのかも、現実感を持って認識できた。
「ありがとう……それにしても……お前……」
 自然と背筋を伸ばしてしまう。
「すごいな……」
 きっと表情にも、隠しようのない驚嘆が浮かんでいるだろう。
「やだなあ、たいしたことないって。だから見せないでっていったのにー。泣いたところとか、いろいろ見ちゃったでしょ? 蒼血と戦い始めたあたり、失敗も 多かったんだよ。子供の体に入ってて、相手を殺せなくて絶体絶命、とかも……」 
「それでも、めげなかったんだろう?」
「まあね、ボクは頭よくないから、あの軍人みたいに、理屈をこねて『自分は悪くない』って言えないんだ。悪いものは悪いよ! 約束破ったら、ずるっこだ よ! って思っちゃう。だから破らなかった。子供っぽいよねー」
 そう言って笑う凛々子。だが敬介は笑えなかった。その「子供っぽい青臭い考え」を、どんな苦しみの中でも妥協せずに貫くことがどんなに難しいことか。
「でもね、キミはキミだから。ボクのマネをしろとは言えないよ。ボクはひとりだったから。大切な人を作らなかったから。だからワガママできた。ワガママの 結果はボクが受け止めて、ぐっと我慢すれば済むから。家族がいたら……そうはいかないよね」
 凛々子の戦いぶりを見て、ますます分からなくなった。どうすれば彼女のように、断固たる意志を貫ける?
 もういちど訊ねようとしたが、凛々子が先に喋りだした。
「ホントはね、敬介くんとは友達になったのも、少し悩んでるよ。これでボクの判断も曇るかもしれないって……いざって時に冷静な判断ができなかったらどう しようって……だから怖くて……
 でも、一度くらいしてみたかったんだ」
「何を?」
「何をって……デートだよ!」
 大げさに頬を膨らませて怒る。
 なんだそりゃ、とあっけに取られて、全身の緊張が緩む。
「ずーっと戦いながらね、遠くから街の中の男の人と女の人たちを見ながらね、あー、ボクも普通だったらああいうことしてたのかなーって……でも、蒼血の世 界に巻き込むわけにはいかないからね、敬介くんなら、もともと殲滅機関の人だし、ある程度は大丈夫かなって……ドキドキしてたんだよ?」
「だってお前、いろいろな男を手玉に取ってきたって言っただろう?」
「それは言葉の綾だよ! わかんないかなあ……あそこで『ボクもはじめてです』とか言えるわけないよ。どっちかがリードしないと、雰囲気めちゃくちゃにな るでしょ? まったく……敬介くんは! 女心がわかんなすぎ! 
 ほんとにさ、心配しちゃうよ。電車の中でも、しどろもどろになっちゃってさ」
 何のことだ? と思い返して、ああコンドームが見つかったときのことかと気付く。
「お前だって相当慌ててたぞ? お前もデート経験なかったんなら仕方ないかもな」
「むっ。なんだその勝ち誇った表情。いっとくけどボクが誘ったんだからね。ボクが誘わなかったら、敬介くんはずっと戦いだけの人生だったもん。最初の一回 すらなかったもん。
 でもね、誘ってよかったとは思ってる。
 一人きりでぶらぶらしても、世界のどこに行っても、あの楽しさは味わえないと思う。
 ただ少し、気持ちの通じ合う人が隣にいるってだけなのにね。
 蛸がツボにはまってるのを見て笑いあっただけなのにね。
 敬介くんは……?」
 握った拳を胸に当て、少し考え込んだ。
「うん……まあ、俺も悪くはなかった」
 確かに最後は、電車の中で口論になり、惨めな気持ちで任務に向かった。
 だが、「全体として、楽しくなかったか?」「行って後悔したか?」と言えばそんなことはない。
 二人でいる間、心の中のチューニングが、空気そのものが変わった。
 訓練で己を鍛え上げる。蒼血を倒す……そんなふうにピリピリと張り詰めていなくても、のんびりと二人で過ごしているだけで、下らない会話をしているだけ でも幸せはあるのだと、知ることができた。
 凛々子はほがらかな笑顔を作った。
「だよねっ。敬介くんが一番楽しかったのは、どれ? クラゲ? 魂吸われちゃってたよね?」
「クラゲも良かったけどな……一番面白かったのはお前かな」
「えっ? ボク?」
「蛸がツボにはまってるとか、エイが戦闘機みたいだとか、くだらないことで大喜びしてるお前が、面白かった。なんだか子供みたいで」
「ひっどいなあ! 遊びで童心に還って何が悪いのさ!」
 また眉を吊り上げて怒る凛々子。もちろん本気で怒ってはいない。
 そうやって、しばらく軽口を叩き合った。特に凛々子がハイテンションになって、デート中の楽しかったこと、滑稽だったことを語った。敬介もだんだんとそ の場の空気に乗せられて、笑いながら話すようになった。
 不意に凛々子が壁際の時計を指差す。
「あ、もうこんな時間だよ? ボクも仕事あるから」
「ああ、わかった」
 簡単な挨拶を交わして、敬介は部屋から出た。
 ドアを背にして、呟いた。
「俺の気持ちを明るくするためかな……」
 唐突にデートの話を持ち出して方向転換して、そのあとずっと明るい会話だけを続けた。
 このままでは俺がずっと、ドロドロと暗い気持ちで悩んだままだと思って、少しでも楽にしようと考えたのか。
 その可能性は高い、と思った。
 いつだって強く気高く優しく、という約束を凛々子が守り続けているなら、それも有り得る話だ。
 あいつ自身、辛いのに。体の中に監視役が入っていて、戦おうにも戦えない、突破口のない状況なのに。
 俺は一体どうすればいいんだろう……

 28

 二〇〇八年三月六日 二十三時五十分
 東京都千代田区 「繭の会」本部ビル近く

 敬介は夜の街を歩いていた。
 都心の深夜だ。あたりは窓の灯りの消えた高層ビルや、マンションらしき建物が並んでいる。高級中華料理店の大きな赤い看板が、たったいまネオンを消し た。
 ゆるやかな坂道が伸びて、その先には首都高速の高架が通っている。
 歩行者の姿はほとんどない。
 道路をゆく車も、たまにタクシーがあるくらいだ。
 だが、そんな静かな光景の中で一棟だけ異彩を放っているのが、並んだビルの向こうに頭を覗かせている教団本部ビルだ。窓はどこもかしこも光を放ってい る。ビルの屋上には「繭の会」と書かれた巨大な看板がライトアップされて鎮座している。
 戻ってきてしまった。
 雲に覆われた暗い空を仰いで、ため息をつく。
 くう、と腹が鳴った。
 時計を見れば、もう零時近い。
 ダメだ……一人になれば、考えをまとめられると思ったのだが。 
 あれから本部を出て、周囲数百メートルを歩き回った。あちこちの喫茶店に行ったり、公園のベンチに座ったり……考えをまとめようとしてきたが、いくら考 えても頭の中の霧は深まるばかりだ。
 ダメだ。今日はもう帰ろう。
 自宅のマンションには姉が待っている。
 心配しているかもしれない、一報入れてから帰ろう。
 携帯電話を自宅にかけてみると、誰も出ない。
 首をかしげ、今度は愛美の携帯へ。
「はい、あ、敬介?」
 真夜中であることをまったく感じさせない、元気な姉の声だ。
 背後で人々の和気あいあいとした話し声がする。
「あれ? もしかして……まだ本部にいるの?」
「もちろんよ。だって雑誌の企画が盛り上がってるのよ? あんな大御所の先生が夜を徹して、どんな本にしようかって話し合っているのに私だけ帰るなんて、 できないわよ。あのね、雑誌の企画はすごく豪華になったの。少年誌の編集だった人がついてくれてね……」
 すごい勢いで雑誌の内容を説明し始める。
「聞いてる、敬介?」
「ああ……」
 漫画を読む習慣は無いから専門的なことは分からない。漫画で宗教宣伝を行って、どこまで一般人に効果があるかも疑問だ。
 だが、姉が幸せであることだけで嫌というほど伝わってきた。
 まさに、嵩宮繭だけだ。「繭の会」だけが。
 姉に幸せを、生きる喜びを与えることができたのだ。
 これが壊されるところなど、想像もできない。
「いいよな……いいよな……」
 暗い空にそびえる、墓石のような高層ビルを眺めながら、敬介は呟く。
 自分に言い聞かせるように、何度も。
 殲滅機関を、裏切っても、いいよな。
 まだ決心は固まらない。だが心の中の天秤は、姉のほうに大きく傾いた。
「なあ、姉さん」
「ん?」
「いま外にいるんだ。買っていくものとかあるかい? もちろん今やってない店とかもあるけど」
「うーん……それじゃ缶コーヒー買ってきて。ボスね? もうすぐ切れちゃうの」
「コーヒーなんていくらでもあるだろう?」
「ボスじゃないと俺は脳細胞が活性化しないんだって」
「へえ……漫画家はいろいろあるな。わか……」
 わかった、と言おうとした。
 だがその時、ブツリと通話が切れた。
 同時に、街灯がいっぺんに消えた。マンションの踊り場や廊下には先ほどまで灯りがついていたのに、それも消えている。ヘッドライトの消えたタクシーが、 道路をメチャクチャに滑って歩道に乗り上げる。
「姉さん!? 姉さん!?」
 携帯に呼びかける。返事が無い。それどころか携帯の画面が真っ暗になって電源が切れていた。入れなおそうとしても反応しない。
 電子機器の、この壊れ方は見たことがある。強力な電磁パルスを浴びせられたのだ。殲滅機関はこの装置を保有している。
 来た。奴らが来た!
 姉さんを助けにいかないと!
 そう思って跳ね起き、坂道を駆けあがる。
 同時にバラバラという重低音が空から響いてくる。
 見上げた。
 頭上の空に、巨大な灰色の影が十も二十も浮いて、埋め尽くしていた。
 大きさは、ビルと比較して、ざっと二十メートル……大型トレーラーほどはあるだろう。巨大な二つのローターを旋回させながら舞い降りてくる。「チヌー ク」輸送ヘリだ。所属部隊を示すマークの類は一切ない。ただグレイに塗装されているだけだ。
 二十機を数えるチヌークは、低空飛行しながら、低空飛行しながら、脇のハッチを開けて何か撃っていた。オレンジの光の尾を引いて、何かがビルの窓に飛び 込んでいく。あたりのビルというビルに何かを撃ちこんでいく。爆発しないところを見ると昏睡性ガスか。
 走る敬介を左右から挟むように、二機のチヌークが降下してくる。
 一機のチヌークの側面が開いていた。ハッチシルバーメイルに身を包んだ隊員が、長い銃身の銃を持っている。銃の機関部からは弾薬がベルト状に垂れ下がっ ている。
 あいつの装備はグレネードじゃない。暗がりでもその程度はわかった。ミニミ・ライト・マシンガンか何か……完全な致死性装備だ。
 ななめ下、敬介に銃口を向けた。
 とっさに、路面に飛び込むように伏せて、全身のバネをフル稼働させて転がった。まったく同時に銃声が轟き、体のすぐ脇で路面が炸裂。腹に、背中に、鈍い 痛み。
 大丈夫だ、砕かれたアスファルトが肉に刺さってるだけだ、直撃されたらこんなもので済むわけがない!
 銃撃は一度では終わらなかった。かろうじて直撃は避けているが、逃げてもかわしても銃撃が追ってくる。
 営業を終えた中華料理店の駐車場、その脇に大きな植え込みがあるのが見えた。
 転がり続けながら植え込みに飛び込んだ。枝が力任せに折られて、折れた部分が顔面をえぐった。鼻の穴に小石や土が飛び込んだ。
 知ったことか、止まるな、一瞬も止まるな、止まったら蜂の巣だ。
 まだ機関銃の銃声は轟いているが、着弾点は植え込みから逸れている。
 少しは隊員の目をごまかせたらしい。この隙に植え込みから駆け出し、駐車場を一気に駆け抜けて、真っ暗になっている中華料理店のガラス戸を蹴り破って店 内に飛び込んだ。警報装置は鳴らない。やはり電磁パルスで壊れているのだ。
 店内にはコック服やエプロン姿の店員が恐怖と混乱の表情で立ち尽くしていた。
「あ、あんた一体……?」
「うるさいっ! 死ぬぞ伏せろ!」
 一喝し、自分も窓際に伏せた。伏せながら視界の端で窓の外を見る。
 ヘリがわずか数十メートルの距離に浮いて、店の周りを周回しているようだ。
 しばらくすると、そのヘリは去っていった。店の外から響いてくるローター音が、次々に途絶える。
 着陸している……どこにだ? 教団本部だけか? 周囲の道路や建物も全部押さえる気か?
 まだ一機だけローター音が残っている……距離は百メートルくらいか? 
 自分が伏せているので、見える範囲は空の上のほうだけだ。もっと広い視野が欲しい。
「あ、あ、あのさっ。あんた知ってるか? 一体何があったのか……」
 店員がおびえた声を掛けてくる。振り向きもせず、即座に答えた。
「今それどころじゃない! 鏡を持ってきてくれ。あと長い棒と、テープ。ガムテープでいい」
「え? あ?」
「SWATミラーを作るんだよ! 早く!」
「は、はいっ!」
 敬介の気迫に押されたのか、店員は這いずり、すぐに持ってきてくれた。
 鏡を手のひらサイズに割って、長い塗り箸にテープで固定した。
 その棒を上に持ち上げて、鏡を通して窓の外を見た。
 顔を出したら撃たれる、と判断してのことだ。
 やはり想像通りだった。空を埋め尽くしていた何十機ものヘリは、たった一機だけになっていた。他のヘリは、ひときわ大きなビル……教団本部の屋上に着陸 したのが三機ほど。教団本部周辺の駐車場にも何機か着陸していた。道路にも降りている。この中華料理店と教団本部を結ぶ道の、ちょうど真ん中に一機。
 みな尾部のハッチを開き、鈍く輝く装甲服の隊員たちを次々に吐き出している。隊員達は大きな装備を運んでいる。三脚のついた、小型の大砲……? オート マチックグレネードランチャーだ。
 路上に多数のグレネードランチャーを設置し、次々に射撃を開始した。輝く弾道が教団本部ビルへと吸い込まれる。機関銃のように連続射撃が、何百発と続 く。だが爆発は起こらない。昏睡ガス弾と、シルバースモークだろうか? ビルの反対側からも同じような炎の弾道が教団本部に襲いかかる。包囲するように布 陣したようだ。
 路上に停車していたタクシーから、人影が這いずるように脱出した。殲滅機関の隊員は一瞬の躊躇もなく銃を向け、発砲した。人影はなすすべもなく地面に叩 きつけられる。
 本気だ。屋外の相手に昏睡ガスは効き目が薄いから、抹殺する気だ。
 今までの、俺が知っている殲滅機関とは違う。
 ローター音が近づいてきた。鏡を、巨大なチヌークの黒い姿が埋め尽くす。
 まだ一機、着陸していないものがいたのだ。
 そのチヌークの側面ハッチからは乗り出していた隊員が、先ほどとは違う武器を構えていた。
 リボルバー式の拳銃をとんでもなく巨大化したような武器。
 これもグレネードランチャーだ。
「お前ら伏せろ!」
 叫びながら、とっさにテーブルの柱にしがみついて、力の限りテーブルを倒した。テーブルを壁の前に立てかける形になる。テーブルと壁の隙間に隠れる。こ んなものでグレネードの直撃は防げない。だがせめて破片だけでも防ぐ。威力をわずかでも減らす。
 爆発はなかった。テーブルの裏で衝突音がした。たちまち鼻をつく異臭が立ち込めて、激しい頭痛と眩暈が襲ってきた。
 昏睡ガスでまだ助かった。
 敬介はあたりに散らばるガラスの破片を握り締め、太腿に突き立てた。激痛が弾けて、濁っていた意識が覚醒する。
 ……誰が気絶なんかするか。
 ……姉さんを助ける。絶対にだ。

 29

 ほぼ同時刻
 「繭の会」本部ビル 広報部長私室

 凛々子は布団を敷いて、寝巻き姿になって、部屋の明かりを消して寝ていた。いつものように、寝ている間の体の制御はエルメセリオンに任せて、本人は眠り の中にいる。
 グレネードの発射音で、一瞬のうちに覚醒した。部屋の中は闇だった。目を開いた瞬間、超感覚を総動員して周囲の状況を把握する。このビルに向けて多数の 大型ヘリコプターが接近していることもわかった。強力な電磁パルスで周囲の電子機器が破壊され、送電も停止したことも把握する。
『今だ、凛々子!』
 頭の中に響くエルメセリオンの声。
 いわれるまでもなかった。殲滅機関による攻撃が始まった。今こそ、ヤークフィースがつけた監視役の支配を脱する時。
 体を起こし、寝巻きの前を勢い良くはだける。圧倒的な量感と弾力を持つたわわな乳房が飛び出した。この胸の奥に監視役が潜んでいる。だから抉り出す。乳 房を鷲掴みにした。指先が乳房の細胞組織と融合し、潜り込んでいく。
『無駄だ!』『無駄ですよ!』
 脳裏に二つの声が響いた。監視役の声だ。同時に極寒の塊が胸の中で炸裂する。液体ヘリウムを血管に流し込まれたかのように「冷たさ」が広がっていく。胸 が、腕が、痺れて動かない。脊髄にまで極寒が侵入する両足の先まで到達した。
 瞬く間に体の制御を奪われた。いま凛々子が動かせるのは首から上だけだ。
 乳房の先端にそれぞれ一つずつ、デフォルメされた顔が生まれた。男の顔と女の顔だ。二人と醜い嘲笑を浮かべている。
『この程度のことで我々が動揺すると思ったか!?』『有り得ませんね、ヤークフィース様は必ず勝つのだから! この身体は渡しませんよ!』
 凛々子の意志を無視して身体が立ち上がった。寝巻きのまま、それどころか露になった乳房すら隠さずにドアを開けて廊下に飛び出す。
 廊下はすべての照明が消えて真っ暗闇だった。あちこちのドアが開いて、驚愕と不安の表情を浮かべる信者たちが出てくる。
「広報部長!」「いったい何が!?」「お導きください!」
 信者たちが口々に救いを求める。だが足が勝手に動き、信者を無視して走った。
 走りながら、廊下に並ぶ窓に拳を叩き込んで、次々に割っていく。廊下の箸から端まで、何十枚もの窓が木っ端微塵になった。
 何をやっているのか? 一瞬だけ凛々子は疑問に思った。
 疑問はすぐに解けた。窓の外でヒューンと甲高い発射音が弾けて、グレネードが次々に飛び込んできたのだ。グレネードは壁や天井に激突して突き刺さり、ガ スを噴出。
 消火器でも使ったかのように白い煙があふれ出す。窓の外へも広がっていった。すぐに目や鼻に激痛が突き刺さった。涙がにじむ。喉も、口の中も、カラシを 塗りこまれたように熱く痛い。呼吸が苦しい。咳き込んだ。ますます痛みが強くなる。筋肉が痙攣をはじめる。
「うえっ……」「うっ……」
 信者達がうめいて、即座に廊下に昏倒する。
 いつも通りの、昏睡ガスとシルバースモークの組み合わせだろう。
 なんのために窓を割ったのかは理解できた。窓から煙を逃がすつもりなのだ。
 ……でも、この程度じゃ大して減らないよ?
 疑問の答えはすぐに与えられた。凛々子の体は飛び上がって天井に取り付き、怪力で天井の板を引き剥がした。天井の裏から、何か円筒形のものが転がり落ち てくる。
 枕ほどの黒いガスボンベだ。O2という白い文字が描かれている。
 凛々子の手が動いて、むきだしの胸に押し当てられた。二つの乳房の真ん中に、手がズブリと沈み込む。手が肋骨を掴んだ。凄まじい力が加えられる。痛覚が 遮断され、血流が制御される。
 力任せに、観音開きに、肋骨を開いた。
 ぽっかりと口を開けた肺の中に、ボンベを突っ込んでまた胸を閉じる。瞬時に骨が繋がり、肉が再生してボンベを包み込んだ。
 ボンベから気体が流れ出して肺を満たす。ハッカ飴を舐めたような心地よい清涼感が広がって、痛みと熱さをすぐに追い払った。
「なんだこれ……酸素?」
 目を見張る凛々子に、監視役二体は勝ち誇った声で答える。
「その通りさ。銀対策程度、考えていないと思ったか? 要は空気を持ち歩けばよいのだ」
 そして凛々子の体は駆け出した。廊下に折れ重なっている信徒を避けようともせずに平然と踏みつけて、階段をすさまじい速度で登っていく。
 その時、ビルの下の方から凄まじい大音量の超音波が押し寄せた。蒼血の聴覚なら聞き取れる。
『われらが眷属よ! 私はヤークフィース。殲滅機関の攻撃が始まりました。しかし恐れることはありません。取り乱してはなりません。私は奴等を撃退する術 を持っています。奴等の装甲服も、銃も恐れるに足りません。
 『神なき国の神』として断言します。私は勝利をもたらすと。奴等は必ず、尻尾を巻いて逃げ帰ると!
 だから、今しばらく踏みとどまってください。信徒を守るために戦ってください。
 上位眷属の指示に従って冷静に撃退してください。私はすぐに参戦します。それまでは我が腹心、ライネルとリッケルに指揮権を与えます』
 凛々子の両の乳房にあるデフォルメされた顔が、歓喜の声で叫んだ。
「ありがとうございますヤークフィースさま! ライネルは感激しております!」
「このリッケル、必ず信頼に応えます!」
 そのとき、階段途中のドアが蹴り破られた。銃声が轟いて、階段を掃射される。シルバーメイルを装着した殲滅機関隊員が数人、ミニミ・ライト・マシンガン を撃ちながら降りてきた。
 凛々子の体は素早く跳躍し、階段から飛び降りて銃撃をかわした。一階下の階段の裏に貼りつく。
 足音と銃声がすぐさま下に追いかけてくる。開け放たれたドアの向こうから白いシルバースモークが流れてきた。すさまじい銃声も聞こえる。銃声の数は十、 二十……グレネードのくぐもった炸裂音も聞こえる。少なくとも何十人がすでに侵入して、激しい戦闘を繰り広げている最中だ。人間の悲鳴がまったく聞こえな いところを見ると、殲滅機関側の圧倒的優勢のようだ。
 だが、凛々子の体に巣食う二体は全く怯まなかった。ただちに昆虫形態に移行した。全身の筋肉が移動し、骨格が融解する。手足が細長く伸びる。皮膚が黒光 りする外骨格に変化する。節を持つ長い手足は蟷螂か蜘蛛のようだ。最後に、顔の張り付いた乳房が外骨格に覆われ、巨大な複眼を持つ昆虫の顔に変わった。
 四本の細長い手足、二つの頭をもつ異形の昆虫だ。
 いまや人間の形を保っているのは凛々子の頭部だけだ。
「ハアッ!!」
 自分の掴まっている場所のすぐ上まで隊員が降りてきた瞬間、奇声を発して飛び上がる。その速度は変貌前を遥かに上回る。
 隊員たちはすぐさま銃口を向けるが、至近距離から浴びせられる銃弾を巧みに体をひねってかわし、隊員たちの間、足元に体を沈めた。隊員たちが散開しよう と動く。だがそれより早く、隊員の一人の片足にタックルをかけて引きずり倒して、強靭な顎で脚に噛み付き、装甲服込みで二百キロを超える隊員を軽々と振り 回す。
 隊員の身体が巨大な矛となって旋回する。他の隊員たちが足を薙ぎ払われて倒れる。よろめく。銃を持っていられなくなって空中に銃が飛ぶ。凛々子の身体は その隙をつき、床を這って高速移動、針のように鋭く尖った手足をシルバーメイルの顔面に突き立てた。突き立った瞬間、手足の先端が高速回転を始めて防弾ガ ラスを貫通した。そのまま頭に突き刺さった。四本の手足が四人の顔に、同時に。
 一瞬で引き抜いて、体をどかした。
「きさまっ……!」
 階段の下に転がって攻撃を逃れた隊員が怒声を上げて、拾った銃を凛々子に向ける。
 だが、たったいま頭を貫通された隊員がすばやく立ち上がる。その体で銃弾を受け止めた。
「おま……?」
 当惑する隊員。声が途切れた。もう一人起き上がって彼を羽交い絞めにする。
「よくできました、ふふっ」
 リッケルとライネルが冷笑し、彼のフェイスシールドに腕を打ち込む。また回転する杭が彼の額に潜り込んだ。恐怖と驚愕に青ざめていた彼が、弛緩しきった 恍惚の表情になる。
 頭に杭を打たれた全員が、同じ表情だった。
「あんた……こいつらを洗脳して!?」
 凛々子はうめいた。ほんの一瞬で、蒼血の断片を送り込んだわけでもないのに下僕に変えるとは、エルメセリオンにもできない離れ業だ。
「ちょっと脳の回路を繋ぎ変えただけです。私たち二人はね、戦闘能力ではゾルダルートの『魔軍』に及ばないかもしれない。でも……心を操る力は誰にも負け る気はしないんですよ!
 さあ、行け! この階の人間を殺しつくせ!」
 命令された隊員達は、散らばった銃を拾って階段を駆け上がっていく。ドアを蹴り破って廊下に消えた。連続した銃声。怒声と悲鳴が飛び交う。仲間に銃撃さ れて混乱を来たしている。
「愚かですね、全く、人間は!」
「ああ。たかが数人洗脳しただけでこの始末。ヤークフィース様の言われるとおりだ」
 凛々子は言い返さなかった。それどころではなかった。
 この二体の「肉体を掌握する能力」を完全にあなどっていた。尋常の手段で体を取り戻すことはできない。
 ……あれしか、ないか……
 上の階の銃撃が止んだ。凛々子の身体が階段を上がって、廊下に飛び出す。
 シルバーメイルを着込んだ隊員たちが大勢倒れている。白い信徒服をまとい、顔が鱗に覆われた者達が銃をもって立っている。倒れて動かない隊員たちを足蹴 にして、あるいは顔面に銃弾を撃ちこんでいる。彼らは凛々子が現れるや否や歓声を上げた。
「リッケル様! 我らに指示を!」
「この階は制圧いたしました!」
「ライネル様たちのおかげです!」
「現在、階段経由の攻撃を食い止めています! 我々が優勢です!」
 わきあがった歓声を、凛々子の体は片手を挙げて制した。胸部分にくっついた昆虫の顔が、甲高い声を発する。
「喜ぶのは禁物です。この程度で奴らが退くはずがない。もっと体勢を立て直してまた来ます」
 まさに言った瞬間、廊下にずらりと並んだ窓から一つずつ、つまり同時に何十発ものグレネードが叩き込まれた。壁や天井に当たったグレネードが爆音をあげ て破片をまき散らす。とっさに蒼血たちは伏せるが、間に合わずに体中を破片に食い破られた蒼血もいた。
「迎撃なさい! すぐに来ますよ!」
 リッケルが甲高い声で指示を発する。
 指示は間に合わなかった。蒼血たちが伏せた状態から立ち上がるよりも早く、窓から一斉に何十人もの隊員が飛び込んできた。彼らの背後にはロープが下がっ ている。タイミングを正確に合わせて上階から降下してきたのだ。着地と同時に、手にしたミニミ・ライト・マシンガンを容赦なく掃射。複数のミニミで一体の 蒼血を挟んで、左右から銃弾を叩きつける。床に伏せている蒼血たちは避ける術もなく肉体を粉砕されていく。
 凛々子の体が反射的に動いた。転がっている隊員の屍を蹴り上げ、銃弾がその隊員の屍をめった撃ちにしているわずかな隙に、手近なドアを突き破って室内に 飛び込んだ。
 室内は、信徒が泊り込む部屋だった。天井につかえる寸前の巨大な三段ベッドが部屋を占領している。ベッドの上には白い修行服の男女が転がって失神してい た。ガスが効いている。
 時間稼ぎにもならなかった。即座にドアが銃撃で吹っ飛んだ。コンクリートの壁も耐え切れず、腕が通るほどの穴が開いた。とっさにうつぶせに倒れ込んだ凛 々子の背中を、数百の銃弾がかすめて荒れ狂う。室内のすべての空間を舐め尽すような徹底掃射だ。ベッドが鉄屑になった。ベッド上の人間も殺戮された。血が 煙のように噴出して白いシーツを染めあげる。
「あっ……!」
 凛々子の唇から苦しみのうめきが漏れる。いくら人の死を見ても慣れることはない。助けられないことが辛い。うめいた瞬間、凛々子自身の頭に、背中に銃弾 が突き刺さる。頑丈な頭蓋骨と背中の外骨格が銃弾を弾き返すが、それでも痛みに筋肉が痙攣して息が止まる。一発だけでなく、何発も食らった。一ダースの削 岩機にめった刺しにされている気分だ。頭の上を、じっさいに命中する何十倍の弾丸が通過していく。
 ……起き上がれない……!
 この圧倒的な火力密度からして、起きて一歩も歩かないうちに眼球や関節など、弱い部分を撃ち抜かれるだろう。
 だが、怯んでなどいられない。肉体と精神の苦痛を押し殺して、頭の中で言葉を発する。
『ねえ、ボクに体を貸してよ。ほんの五分でいいんだ。この状況を打開して見せるよ』
  しかしライネルとリッケルは冷淡だった。まるで耳を貸さない。
『誰が貸すものですか』
『逃げる気だろ、その手に乗るかバカ』
『そんなつもりないって。ほんの少し貸してくれるだけでいいんだよ。だって、このままじゃ死んじゃうでしょ?』
『俺たちをなめるなよ?』
『この程度の状況、想定済みですよ』
『何度も使える手じゃないから、あんまりやりたくなかったんだがな!』
 またも頭の中で冷笑的な声で弾ける。身体が勝手に動いた。まず深く深呼吸して、酸素ボンベ内の酸素を思い切り吸い込んだ。瞬間的に仰向けになって胸骨を 開き、中からボンベを取り出す。
 部屋の外、廊下に向かって投げ出した。すぐにボンベは銃弾に貫かれ……
 次の瞬間、鮮やかなオレンジの炎が廊下に広がった。難燃素材のはずの絨毯が、藁束のように火の粉を散らして燃えあがる。
 驚愕したのか、隊員が跳びのく姿が見えた。炎の勢いは凄まじい。何十倍の早回しで見ているようだ。廊下を覆いつくし、凛々子のいる室内にも侵入してく る。大量に転がっている屍を包んだ。屍に燃え移った。服がたちまち灰になる。大量の水分を含んでいるはずの人体さえも、枯れ木のように炎を噴き上げた。
 何が起こったのかはわかった。
 ボンベの酸素がばら撒かれて、物が極めて燃えやすくなっているのだ。薬莢の熱だけで引火したのだろう。
 さらに、重い轟音をあげて爆発が起こった。
 とっさに眼をつぶったが、瞼をつらぬいて真っ白い閃光が眼球を灼いた。高熱と衝撃波が全身を叩いた。
 眼を開いてみると炎が激化していた。膝ほどの高さだった炎が、いまや人間の頭まで。室内の空間という空間にオレンジの炎が充満している。炎だけではな い。空中でパチパチと、線香花火のように小さな火花が散っている。
 空気に混じった「銀の微粒子」が燃えたんだ、と直感した。金属は粉末化すれば燃えるようになる。ひとたび燃えると木材などとは比較にならない高熱を発す る。
 隊員たちが銃を窓の外に投げ捨てるのが見えた。だが投げ捨てるのが遅かった隊員もいた。彼のミニミに取り付けられていた弾薬箱が爆発する。おそらく銃自 体も、この炎熱地獄の中では動作するまい。
 もちろん凛々子の体も高熱でダメージを受けていた。首から下の装甲は熱を防いでいたが、顔面の感覚がほとんどない。火ぶくれだらけになっているはずだ。 眼球も鼻の中も口の中も、焼けた鉄釘を打ち込まれたような激痛を発している。呼吸を止めるにも限度がある。肺の中の酸素が切れたら、あるいは装甲の隙間か ら熱が浸透してきたら、終わりだ。すでに血液温度が上がりすぎなのか、頭がぼうっとする。
 タイムリミットは三十秒。
 三十秒ほどで血液が沸騰して酸素を運べなくなる。筋肉も眼球も茹で卵のように硬くなって何の役にも立たなくなる。
 だがリッケルとライネルは自信があるようだった。体を操って立ち上がらせる。その動きは素早く、衰弱を感じさせなかった。
 廊下に飛び出す。廊下は部屋の中以上の灼熱地獄で、天井近くまで炎が渦巻いていた。転がっている屍はすべて服が燃え尽き、むき出しの肉も真っ黒に炭化し ている。
 シルバーメイルはこの熱に耐えられるらしく、まだ多数の隊員が立っていた。銃を失っても闘志は健在で、一斉に凛々子へと襲い掛かってくる。
『勝てると思いましたか!』
『バカどもが!』
 頭の中でライネルとリッケルが嘲る。
 隊員たちの動きは、高フェイズの蒼血にとってはあまりに遅すぎた。凛々子の体は隊員のパンチをかわし、長い足で足払いをかける。隊員はバランスを崩し た。もう片方の足が超高速で跳ね上がって、倒れこむ隊員の顔面に激突した。フェイスシールドが破壊される。
「ぐあああ!」
 数百度におよぶ灼熱の空気を顔に浴びせられ、隊員は絶叫した。
 反対方向から飛び掛ってきた隊員を、手首の関節をつかんでひねったまま投げ飛ばした。二百キロを超える自らの重量のせいで手首の関節は装甲ごと完全に破 壊された。彼は悲鳴すらあげることができなかった。即座に凛々子の脚がフェイスシールドを踏み砕き、鋭く尖った爪が顔の骨を砕いて脳深くまでぶち抜いたか らだ。
 投げられることを警戒したのか、三人目の隊員は凛々子の脚めがけて低いタックルを仕掛けてきた。これも一瞬で顔面を蹴り砕く。その間に四人目が後ろに回 りこんで羽交い絞めにしたが、人間の関節では有り得ない形に腕が曲がって、羽交い絞めにしている隊員の顔を襲った。腕の先端がドリル状に回転、フェイスプ レートもろとも顔の真ん中を貫く。肉と骨が粉砕され、噴き出した血液が瞬く間に沸騰する。
  そのまま脚の内側の空洞を通して、頭蓋骨の中身を吸い上げた。
 ずうう。ずうう。ぶじゅるるる。
 脳漿と血液と、粉砕されて柔らかくなった脳が体の中に吸収されていく。体の温度が少しだけ下がる。
 まだ生き残っていた隊員達は、フェイスシールド越しにはっきりわかるほど狼狽の表情を浮かべ、後ずさりする。銃を捨てたままいっぺんに走って逃げ出し た。
  部屋を飛び出してから、わずか五秒。
 ……うわあ……勝っちゃったよ……
 凛々子は凄まじい戦いぶりに驚きながらも、焦りを感じていた。
 もっと苦戦してほしかったのだ。あるいは戦っているうちに酸素が切れて苦しむとか。苦しめば苦しむほど、体を支配する力が弱まる。凛々子がこの体を奪回 できる可能性が生まれる。
 ……もう手はない?
 ……いいや、まだだ。きっと……
  殲滅機関が諦めるとは思えない。この階で銃が使用不能だと言うなら、他の階、いや、他の建物を使う。
 窓の外に眼をやった瞬間、数百メートル離れた空に溶け込んでいる墓石のようなビルの一角で、ごくわずかな閃光が走った。
 まさに予想通りだった。他のビルから狙撃してきた。凛々子の動体視力は自分の頭に向かってまっしぐらに進んでくる弾丸を捉えた。大きい。普通のライフル 弾の二倍、いや三倍はある、タバスコ瓶のように巨大な弾丸だ。 南アフリカには口径二十ミリ、装甲車をも撃破できるライフルがあるが、あれだろうか。それ とも航空機関砲の類だろうか。極端な大口径を使ったのは蒼血の生命力を恐れたか。
『こんなもの!』
 頭の中でリッケルが笑う。体を凄まじい速度で倒す。上半身が弾丸の進路から外れた。回避できる。
 凛々子が首の筋肉の力を振り絞って頭を振った。その反動で、倒れていた上半身が浮き上がる。脚が地面から離れる。
『なにを!?』
 凛々子のやろうとしていることを理解したらしく、ライネルたちは手足を振って逆方向の反動を作ろうとする。だが頭は重く、手足よりも大きな反動を生み出 す。間に合わない。
 弾道と凛々子の首の位置がピタリと一致する。頚骨の継ぎ目に乾電池ほどの極太弾丸が突き刺さった。装甲車をも破壊する圧倒的な運動エネルギーが解放され る。筋肉が爆裂し神経束が切断された。
 この一瞬だけ、神経信号が全く届かなくなった。待ち望んでいた一瞬。
 頚骨が内側から爆ぜる激痛をこらえて、凛々子はわずかに残った首の筋肉と骨に変形を命ずる。胴体との連結を断ち、筋肉を思い切り伸ばす。首が胴体から離 れて宙を舞った。次は頭蓋骨に命じて弾性を細かく変化させる。頭だけになった凛々子が天井にぶつかって跳ね、壁にぶつかってまた跳ね返る。そのたびに軌道 を細かく修正する。
 狙い通り、窓から飛び出した。 
 猛火の中から一転、摂氏零度に近い薄闇の中に放り出された。火照った肌が冷たい空気にさらされた。心地いい。
 空気を切り裂いて、上下逆さまになって落ちていく。
 脳への酸素供給が止まるまで数秒。その間にできるだけ周囲を把握しようと眼球をめぐらせた。動体視力と形態認識能力を最大に高める。
 闇の中から、無数の銃撃・砲撃が火線となって吹き上がっていた。
 この教団本部ビルは、百人を超える部隊に包囲されていた。チヌークがざっと二十機ばかり、駐車場や周囲の交差点に着陸している。シルバーメイルを着込ん だ隊員たちが、あるいはオートマチックグレネードランチャーを路面に据え付け、あるいは無反動砲をかついで、ビルを見上げている。大型の狙撃銃を持ってい る隊員もいた。そして散発的にビルの中に砲弾を、グレネードを撃ち込んでいる。窓から逃げ出す蒼血がいたら撃って、内部の隊員を援護しているのだ。凛々子 の視力は隊員ひとりひとりの、フェイスシールドの向こうの表情までとらえることができた。
 ……どこに落ちるのがいい?
 ……どこが一番、安全に生き残れる?
 凛々子は下に落ちて、誰か隊員の体を借りるつもりだった。もし拒否され、問答無用で撃ってくるようなら強引にでも体を乗っ取る。そのためにはどこに落ち ればいい? もう意識が朦朧としてきた。装甲服を突破して体を乗っ取る時間が残されているだろうか? でも、やらなければ。
 その時、発見した。
 路上に展開して無反動砲をぶっ放している隊員の後ろ、ツツジの植え込みの中に、誰かが隠れている。シルバーメイルを着ていない。背広姿でうつぶせになっ ている。
 あれは敬介だ。眉間に皺をつくり、歯を喰いしばって何かの苦痛に耐えている。
 姉を助けに来たのだろう。隊員達の隙をついてここまでビルに接近したが、これ以上は無理なのだ。
 彼なら!
 凛々子は首の筋肉をヒレ状に展開させた。ミサイルの尾部についているフィンと同じ働きで、ヒレの角度を微調整して進路を変える。真下に一直線だった進路 を敬介のもとへと。
 火線の一本が凛々子へと襲いかかった。ヒレによる軌道変更だけでは避けきれない。額に受けた。激痛が弾けて視界が揺らいだ。
 まだだ、気を失っちゃダメだ。あと少し……
 ヒレをバタつかせて、銃撃でブレた軌道を強引に元に戻す。
 すでに高度は半分、十数メートルになっている。隊員達たちの顔が、触れられるほどに近く見える。
 敬介の隠れるツツジの茂みが、視界一杯に大きくなった。ごん、と鈍い衝撃が脳全体を揺らす。意識が途切れた。

 30

 同時刻
 本部ビル近く 植え込みの中
 
 伏せて隠れながら、敬介は焦りに焦っていた。
 あたりが銃声で充満していても分かるほど、激しい鼓動が頭の中にまで伝わってくる。
 ……ダメだ……これ以上、近づけない……
 あの中華料理店を脱出してから、隊員達のわずかな隙をついて、木の陰や茂みの中、ベンチの裏などを伝って、ここまで近づいてきた。
 だがこれ以上はダメだ。目の前に隊員が複数、陣取ってしまった。今は無反動砲をひっきりなしに撃ちまくっているから爆音のせいで俺に気付かない。だが戦 闘の経験でわかる。背後の植え込みにもこの隊員が注意を向けていることを。俺が身動きした瞬間、撃ってくるだろう。
 どうすればいい。
 俺は馬鹿だ。姉さんと一瞬でも離れちゃいけなかったんだ。
 一体どうすれば。
 喰いしばった歯がギリリと異音を発したその時、何かが目の前に降ってきた。
 枝に引っかかって減速したせいだろう、バウンドすることもなく転がる。
 転がって、頬にぶつかった。
 息が止まった。生首だ。
 短い髪の毛は茶色く焼け焦げて、ふっくらと丸かった頬は火ぶくれだらけで……
 凛々子だ、と気付いた。
 一瞬のうちに考えがまとまった。
 高フェイズの蒼血は首をはねられても即死はしない。これもまだ仮死状態だ。
 ……こいつを俺の体に繋げれば。
 首の切断面を自分の首筋に押し当てた。だがダメだ、何も起こらない。冷たい生肉の柔らかい感触が伝わってくるだけだ。
 きっと酸素不足で仮死状態になっているのだ。何らかの方法で、こいつの中に酸素を送り込んでやらないと……
 隊員が振り向いて、こちらに向かって発砲したのはその瞬間だった。
 全身のあちこちを銃弾がぶち抜いた。体中の筋肉が痙攣した。その瞬間、痛みはなかった。電流を流されたように、身体が制御を失って暴れるだけ。一瞬後、 肩、腕、脚で激痛と灼熱の感覚。手足の骨がナイフのようなバラバラの砕片になって、内側から筋肉を食い破り腱を引き裂いているような痛みだ。とても耐えら れない。全身の汗腺から一気に冷や汗があふれ出す。必死に引き結んでいた唇からも声があふれ出す。
「うううっ……」
 また銃撃。今度は膝を正確に撃ち抜かれたのがわかった。もう手足は何の役にも立たない。ただの激痛の塊だ。
 ただ一本、凛々子の生首を抱え込んでいる右腕を除いては。
 痙攣する右腕を渾身の意志力で押さえつけて、凛々子の髪の毛を掴んで生首を動かす。大出血を続ける肩の傷跡に、力のかぎり押し付ける。
 ……入れ!
 ……入れ!
 ……俺の血! こいつの中に! 凛々子の中に!
 ごぼり。
 泡の音がした。
 肩の傷口に、温かい感覚が生まれた。たちまち全身に広がっていく。凍えるような日、ぬるめの風呂に全身を浸したときのような、肉体がそのまま溶けていき そうな心地よさだ。そんな心地よさが、銃創の激痛を跡形もなく押し流した。
「凛々子!」
 声を上げて凛々子の顔を見る。彼女の火ぶくれだらけだった顔の皮膚が剥がれ落ち、下から真新しい、傷一つない白い肌がのぞく。焼けて短くなっていた髪が 伸びる。
 そして、目を開けて微笑んだ。
「敬介くん……ありがとう」
「すまん凛々子。俺の体を貸してやる。だから頼みが……」
「お姉さんを助けるんだよね? それ以外ないもんね。じゃあ、もう決めたんだ。お姉さんのためなら殲滅機関を裏切ると? でも、それならボクとは目的が違 う、敵対することに……」
「そんな細かい話はどうでもいい、頼む、今はお前の力が必要なんだ!」
「どうでもいい?」
 凛々子の声が一瞬だけ当惑の色を帯びた。
「まあ、いいけど。その話は後で。体の制御はボクがやるね。お姉さんを助けたあとは、ボクの好きにさせてもらう」
 宣言とともに、体が勝手に起き上がった。
 すぐさま、凄まじい銃撃が浴びせられるが、小刻みなステップで全ての銃弾を軽々と回避して、敬介は走り出した。
 ぐん、と、すさまじい加速が首にかかった。
 最初の一歩で時速百キロを越える。だが見える。あたりに布陣する隊員たちの顔が、これだけの速度にもかかわらずはっきりと、唇の隣のホクロまで見える。 自分に向かって殺到する銃弾さえもゆっくりと見える。銃弾は虹色に光る螺旋を引っ張っていた。空気の揺らぎさえもすべて認識できるのだ。
 ……すげえ……
 これが、フェイズ5の見ている世界。
 隊員達の間をすり抜けて、敬介は走る。
 その瞬間、左右からの銃撃が彼を挟み込んだ。
 かわしきれない弾丸が数初、肩や背中をかすめた。
 痛みはない。服が抉られるのを感じたが、下の皮膚がたやすくライフル弾を弾き返していた
 フェイズ5は大したものだ。鱗でも外骨格でもなく、人間の姿を保ったままで装甲化を実現している。強度はフェイズ4の外骨格と同じ程度はありそうだ。
 ……これなら、いける!
 ビルに駆け寄り、大きく跳躍して窓から飛び込んだ。この階はもう制圧されていた。たった数人の隊員がシルバーメイル姿で見張りについていただけだ。
 敬介の姿を認めるや銃撃してくるが、また素早く跳躍して彼らの頭の上を通り過ぎる。
 ……それでいい。闘っている時間が惜しいからな。
 階段で上の階に、そのまた上の階に昇った。
 何階か昇ると、蒼血と殲滅機関が激闘を繰り広げるまっただ中に飛び出した。
 殲滅機関局員が行く手を遮った。顔面が鱗で覆われた蒼血の大群が一斉に飛びかかってきた。
 無言で彼らの弾丸をかわし、彼らの間をすり抜ける。どうしてもよけ切れない場合だけ、彼らを蹴り飛ばして道を開いた。
  いちいち倒していくよりこの方が早いのだ、と敬介には分かった。胸の奥が息苦しくなりつつある。さきほどからまったく呼吸せず、肺の中の酸素だけで行動し ているから苦しいのは当然だ。
 この調子で体を動かせば酸素切れは近い。時間がないのだ。
 階段を時速百キロ以上で駆け上がりながら、敬介は踊り場の階数表示を見た。
 十二階。
 姉がいるのは十五階。もう少しだ。
 と、そのとき、上の階から自分以上の速度で駈け降りてくる者がいた。手足のひょろ長い、首のない、黒い影が。
 相手をしている時間はない。とっさに飛び跳ねて頭上を抜けようとしたが、黒い影もまったくタイミングをあわせて跳躍した。
 空中で衝突する寸前、視界を銀色の閃光が一閃した。顔面に向かって、超高速の突きが飛んでくる。
 体を空中で捻って回避を試みた。かわし切れない。肩を鋭い何かが深く抉った。皮膚が突き破られて肉と骨が飛び散った。
 階段の上に叩き落とされた。とっさに受け身を取って頭からの落下を防ぎ、立ち上がって身構える。
 五段ばかり上に立つ、影。
 異様な姿だった。服はまったく身につけていない。そのかわり、黒い外骨格が全身を覆っている。手足は普通の人間の二倍も長く、節くれだってい た。両腕の先には螺旋状の刃があって、凄まじい速度で回転していた。
 フェイズ4の昆虫形態だ。
 ただし、過去に見たものと違って首から上がない。そのかわり、乳房のあたりに、巨大な複眼を持つ頭が二つ、くっついていた。
「こんなところにいましたか」
 昆虫の顎が動き、金属的で聞き取りづらい声を発する。
 ……なんだ、この化け物は?
 頭の中で発した呻きに、凛々子が思念で答える。
『だからこいつが監視役だよ! リッケルとライネル。かなり強いよ』
「醜い姿になりましたね、エルメセリオン、そうまでして我等に楯突くのですか」
「いくらでも、楯突かせてもらうよ!」
 そう言って凛々子は両腕を交差させた。肘から先に熱い感覚が広がって、腕が剣に変形した。
「やっ」
 気合を入れて、異形の昆虫……リッケルとライネルに斬りかかった。 
 だが異形の昆虫は長い脚を素早く動かし、凛々子の腕を蹴り上げようとする。脚の先端もドリルのような刃が高速回転していた。凛々子はなんとか脚をかわし て距離を詰めたが、かわし方を予期していたのか、体を傾けてよけた方角に、腕のドリルが待ち構えていた。
『……うっわ!』
 凛々子はとっさに腕の剣を振りかざし、敵のドリル腕と衝突させた。不快な金属音がまき散らされて、衝撃がこちらの腕に伝わってくる。剣はドリルの破壊力 に耐えた。だが体が吹き飛ばされてよろけた。思い切り階段を蹴り、跳んだ。長い敵の腕が空中を伸びて追いかけてくる。額を、肩をかすめた。なんとか避け きって、階段に着地した。
 敵との距離は六段。先程より間合いが伸びている。
「こちらから行きますよ!」
 異形の昆虫が体重を感じさせない高速移動で駆け下りてきた。左右のドリル腕で連続した突きを繰り出してくる。凛々子は剣でドリルを捌き、あるいは避け る。数発にひとつ、敵は蹴りまで混ぜてくる。ステップを踏んで避けると、着地の瞬間を狙って腕のドリルが襲ってくる。体をのけぞらせ、あるいは後ろに飛び のいてギリギリで回避する。
 足の裏に、広い平面の感覚。階段を降りきって踊り場まで来てしまった。一気に数歩分の距離を飛んで後ろに逃げる。だが敵は一瞬も遅れずについてきた。
『どういうことだよ! お前より強いってのか!?』
『そんなことないよ。いくらなんでも本来なら勝てるよ。でも……』
 そこで凛々子は意を決したのか、強い調子で問いかけてくる。
『よけいなことを考えてるでしょ、敬介くん?』
『おれが!?』
『うん。人間はどうしても、攻撃がきたら後ろに跳んだり、転びそうになったらバランスをとろうとしたり、そういう行動をとっちゃうよね。敬介くんも無意識 のうちに、そういう信号を出してるの。でもそれはボクがやりたい行動とは、ほんの少しだけ違うの。違う信号がノイズになって、体の反応が悪くなってるん だ。絶対に何も考えないで、ボクだけに任せて』
『そんなこと言われたってよ……』
 反射的に思ってしまうことをやめろ、と言われてもやめ方が分からない。
 そんな問答をしているうちに、背後に壁が迫る。追い詰められた。
『だよね、じゃあ交代する。ボクは黙ってるから、敬介くんが動かして』
 すうっ、と、体の中を熱い何かが移動するのがわかった。首に繋がっている凛々子の頭から「何か」が飛び出して、胸を通って頭の中に上がってくる。
 エルメセリオンだ、と分かった。
 頭の中に渋い老人の声が響いた。
『任せたぞ』
 そのとたん体から力が抜けた。凛々子が出していた『体を動かす信号』が急に消滅したのだ。弛緩した体は後ろに倒れこもうとする。
 その隙を逃さず、敵は両腕のドリルを連続して打ち込んできた。敬介は両腕の剣で片方を払いのけるが、もう片方は無理だった。あまりにも勢い良く剣を動か してしまって空を切ったのだ。
 左腕の肘部分をドリルが貫き、肉も骨も一瞬で滅茶苦茶に引き裂かれた。すべての神経と腱も断ち切られた。血液が真っ赤な煙となって吹き上がる。
 肘から先の、剣に変化した腕が吹っ飛んで、壁に突き刺さる。
「うっ……がああ!」
 悲鳴をあげた。
 どうする。激痛の中で必死に思考をめぐらした。
 すぐ前に敵。後ろは壁。ジャンプしようにも長い脚で迎撃される。左右に逃げるのが合理的だが、そのくらいは相手も読んでいるだろう。俺はまだ、この体 に……フェイズ5のもたらす超絶的な運動能力に慣れていない。力を使いきれない。
 だったら……!
 敵がドリル腕でさらなる突きのラッシュをかけてくる。
 敬介は、まっしぐらに突進した。右腕はダラリと体の横に下げたままだ。
 敵の腕が右の胸板に直撃し、肉をえぐり骨を木っ端微塵にして、さらに深く深く突き刺さる。
 ドリルの回転の感触がなくなった。先端部は完全に胴体を貫通してしまったのだ。それでも突進の勢いは止まらない。長く細い腕が、根元まで胸の穴に埋まっ た。
 敵は、目の前。長い脚のおかげで敵は背が高く、敵の胸が敬介の顔あたりだ。
 肺に大穴を開けられて、空気中の銀粒子が流れ込む苦痛は壮絶なものだ。だが敬介は苦痛を無視、ありったけの意志力で胸の筋肉に大号令を発する。
 締めろ、ただ締めろ。
 大胸筋と背筋の強烈な収縮が、敵の腕を締め上げ、くわえ込んだ。
「なっ!?」
 敵が敬介の狙いに気付いたのか、悔しげな声を上げる。だがもう遅い。もがいても腕は抜けない。敵の素早さは封じた。リーチの長さも封じた。
「オラアッ!」
 敬介は目の前の敵の、大きく胸から突き出した昆虫の頭に向かって、渾身の頭突きをぶちかました。頭蓋骨と外骨格が激突する。
「オラアア! オラアアア!」
 蛮声を張り上げて何度も繰り返した。何か柔らかい物が潰れる感触があった。粘液が飛び散って、目にまで滴り落ちてくる。
 見ると、敵の頭の複眼が潰れていた。まるで極小の鱗のような眼がたくさん剥がれ、内部が露わになっている。複眼の内側が白い無数の糸と粘液で構成されて いることを初めて知った。糸は神経線維だろう。
 潰れた複眼の内側に、右手を突き入れる。剣の形じゃやりづらい、と思った瞬間、手が元の形を取り戻した。五本の指で握りこぶしを作って、神経線維の奥深 くにねじ込んだ。複眼の奥には、糸ではなく豆腐のように柔らかい塊が、長く伸びている。なんだろう。力ずくで破壊して、さらに奥へ。
 敵はもう腕を抜くことを諦めたのか、もう片方の腕を大きく曲げ、敬介の背中に回した。後ろから突き刺すつもりだ。
 避けない。避けようがない。
 敵のドリルが背中に突き刺さった。すでに空いている大穴のせいか、もう痛みも感じない。痛みを感じる力さえ、使いきってしまったかのようだった。
 ああ、この場所は心臓だな。今度は的確に心臓を狙ってるな。そう分かった。
 ガチガチに緊張し収縮した筋肉さえもドリルは回転で引き裂き、心臓めがけて突き進む。
 どちらが早いか。
 ドリルの先端が心臓に接触し、心臓が痙攣して跳ねる。今まで感じていたのとは違う種類の、冷たい激痛が敬介の体の中心で炸裂する。暴れる心臓にドリルの 先端がめり込んだ。
 同時に敬介の手が、敵の体の中で激しく脈動する物体に触れた。
 ……向こうの心臓だ!
 掴んで、握りつぶす。熱い血が手の中で弾けた。頭上高く引きずり出す。
 ずるり、ぬるりと、いろいろな物が一緒に引きずり出された。
 突き上げた敬介の手は真っ赤に染まっていた。昆虫の姿をしていても血の色は赤い。手のひらの中には潰れて赤いボロ切れになった心臓と、白い、柔らかい紐 が何十本も絡まったようなもの。
 脊髄だ。
 脊髄の中に、ふたつの蒼いアメーバが潜り込んでいた。
 引きずり出した脊髄を床に叩きつけ、踏みにじる。特にアメーバの部分を念入りに。
 銀も充満していることだし、まず復活はあるまい、と判断できるまで十回以上も踏んだ。
 ようやく体から力を抜く。まだ自分に腕を刺したままの敵を振りほどいた。力なく崩れ落ちる。
「ううっ……」
 ようやく痛みにうめく余裕が生まれた。声を発すると、胸に開いた大穴から空気がヒュウと漏れ出し、かわりに銀が入ってきて、ますます肉体組織が灼かれ る。胸の大穴に手を当てる。治れ、傷が治れと念じる。じれったいほどにゆっくりと傷口が塞がりはじめる。
『ば、ばいおれんす〜。男の子って野蛮だよ……』
『バカなこと言ってないで。傷はもっと早く治らないのか?』
『難しいよ。銀が体に入りすぎた。あらゆる能力が落ちてる。どこかでじっくりと銀を抜かないと』
「そんなことやってる場合か!」
 思わず叫んだ。叫んだ拍子に空気を吸い込んでしまい、喉が銀に焼かれる。
「ううっ……」
『あ、そうだ! こいつの胸を開いてみて!』
 凛々子に言われたとおり胸を開いてみたら、大きな黒いボンベが出てきた。「O2」と書かれている。
 敵は二本目のボンベを補充していたのだ。
「酸素!」
 飛びついた。どこからどうやって吸うのか考えるのももどかしい。とにかく銀に汚染されていない空気が恋しかった。指を突き刺してボンベに穴を開け、吸 う。ただ一心に吸う。
「ああっ……」
 酸素が体に染み渡る。銀が少しずつ排出されていくのがわかる。頭の中に腐った泥が詰まっているような不快感が、筋肉の痙攣が、粘膜の焼けるような痛みが 薄らいでいく。胸の大穴が塞がって、切断された腕が生えた。
 ボンベは空に近かった。最後の一息を肺の中に深く吸い込んで、味わいつくした。
 また息を止める。
 あと少しだ。
 次の階は凄まじい火災の跡があった。階段を覆う絨毯はすっかり黒焦げで、階全体に肉や脂の燃えた悪臭が満ち溢れている。そして、階段といい廊下といい、 殲滅機関と蒼血が激しい戦闘を続けていた。
「どけっ!」
 回復した運動能力で、戦闘の頭上を飛び越え、あるいは隙間を走り抜ける。弾丸もいまの敬介をとらえることはできない。
 ついに十五階にたどりついた。
 ドアを開け放ち、暗い廊下に飛び出す。
 銃声はなかった。誰もいない。
 今までの廊下とは違って狭く、絨毯ではなく光沢を持つリノリウムが敷かれている。左右の壁には掲示板があって何かのグラフが貼り付けられている。
 もともと客室ではなく事務所として使われていた階だ。
 空気には硝煙の臭いがほとんど混ざっていなかった。つまり大規模な戦闘がなかったのだ。血の臭いも薄い。かわりに強いのは昏睡性ガスの、消毒薬に似た鼻 を突く臭いだ。
 廊下は照明が消えて真っ暗だが、それだけで、死体が転がっていることはない。
 胸が期待で高鳴る。知らず知らずのうちに拳を固く握りしめてしまう。
 ……いける、これはいける。
 ……これなら、姉さんはきっと生きてる!
 廊下の曲がり角から、二人組の隊員が現れた。驚いた表情で敬介に銃を向ける。
「撃たないでください! 天野敬介です!」
 叫んだが無視して撃ってきた。発射された弾丸を軽く片手で払いのけて、一瞬で間合いを詰める。隊員の肩をつかんだ。シルバーメイルの装甲に指がめり込 む。
 隊員がさらなる驚愕にこわばる。敬介はできるだけ優しい声で尋ねた。
「この階で戦闘はなかったんですね?」
「あ、ああ……この階ではほとんど闘わずに、蒼血は退却した。現在は教団員の治療に当たっている」
 ……大丈夫だ! 姉さんは無事だ!
 姉のいる部屋を目指した。
 第一広報部というプレートのある部屋にたどり着く。その部屋の前にも隊員がいて、担架で人間を部屋から運び出していた。
「どいてくれ!」
 怒鳴りつけて部屋の中に入る。
 部屋の中にはスチール机が整然と置かれていた。十数人の人々が崩れ落ちている。女性が多い。姉の言っていた漫画家たちなのだろう。 隊員達が、倒れてい る人々の顔に吸入マスクを当てている。
 隊員の姿などろくに眼に入らない。期待と興奮で肩を震わせながら室内を見渡した。姉さんはどこだ。
 愛美はいた。窓際の席で、スーツ姿で、座ったまま机に突っ伏している。机の上にはノートパソコンが広げられている。
「姉さん!」
 ……やっと来たよ。無事でよかった。姉さん。
 ……いま助けてあげるからね。俺がいるから。蒼血の力で治療できるから。だから姉さん。
 駆け寄って、手首を取った。
 ――つめたい。
「え」
 敬介の唇から怯えの声がこぼれた。体が硬直した。
「ねえ……さん?」
 肩に手をかけて起こした。上半身が起き上がった。頭は前方に垂れたままだった。
 べちゃり、ごぶりと、泥を踏みつけたような汚らしい音。
 なんだと思って見ると、机の上、ちょうど愛美の顔のあったところに灰色の粘液がぶちまけられていた。コップで二、三杯ぶんはあるだろうか。粘液の中に、 崩れた豆腐のような固形物がいくつか混ざっている。
「ねえさんっ!?」
 ぐちゃぐちゃに濡れている姉の髪を掴んで、顔を起こして横から見た。
 愛美には額がなかった。
 眉から髪の生え際にいたるまでの頭蓋骨が砕かれて、まるごと穴になっていた。大きな穴の中は薄暗く、灰色で、ぐちゃぐちゃに攪拌された脳髄が見えた。ウ エハースのような骨片もある。
 青ざめて、恐怖にこわばった表情で。
 ――絶命していた。
 即座に金切り声でわめいた。
「エルメセリオン! エルメセリオン! 姉さんを! 姉さんを早く!」
 一瞬の沈黙をおいて脳裏に響いた声は、いつも以上に重苦しかった。
『……無理だ。前頭葉が完全に破壊されている』
「だ、だ、だって! そんな!」
 敬介の口からこぼれたのは、甲高く震えた、泣き出す寸前の子供の声だった。
「なんで、なんで……ここにはいないのに! 蒼血もいない、戦闘もなかった、なのになんでっ!」
 敬介は震えながら視線を泳がせる。
 見つけてしまった。「なんで」の理由を。
 愛美の机に面した窓ガラスに、拳ほどの穴が開いている。破口は真円に近い。高速で何かが、ガラスを突き破って飛び込んできたのだ。                                   、
 気づきたくはなかった。だが気づいてしまった。
 グレネードだと。
 殲滅機関が大量に撃ち込んだ、昏睡ガスと銀粒子満載のグレネード。それが最悪の偶然で、姉の頭蓋骨を叩き潰した。炸薬を内蔵していない金属の 塊でも、直撃すれば人間を死に至らしめることはある。
 だから。
 はちきれそうだった心臓の鼓動がさらに速まった。
 だから、これは。
「せんめつ、きかんが」
 蒼血ではなく、間違いなく殲滅機関がやったこと。
「せんめつ、きかんが……」
 まったく同じ言葉をもう一度繰り返した。自分の声なのにどこか遠くのほうから聞こえるようだった。
「おい!」
 誰かに声をかけられた。
 敬介はゆっくりと振り向く。目の前には殲滅機関隊員が立っていた。
「あ……」
 隊員がなにか喋ろうとした。彼の言葉をかき消して敬介は絶叫した。
「おまえかっ!!」
  絶叫とともに、胸の奥、心臓のあたりで、とほうもなく熱いものが爆ぜた。『熱さ』は瞬時に手足の隅々にまで広がり、皮膚を突き破って飛び出した。
 突起だ。いや、針だ。鮮やかな紅色の、何千本という鋭い結晶の針が体をよろったのだ。ビッグサイトで戦った、あの巨獣のように。全身の服が針に裂かれて 四散する。
 『熱さ』はまだ消えない。手足に集中した。手足の指が伸びる。筋肉が膨張し、骨が変形しながら肥大する。五本の指は、細身の包丁を並べたような巨大な鉤 爪になった。肉食恐竜のような爪でもあり、神話の怪物のようでもある。足も同じだ。
 変貌を遂げた敬介は、目の前の隊員に向かって絶叫をあげて襲い掛かる。
「あああああっ!」
 巨大な足の爪で床を抉る駆動力、両脚の筋力、背筋力に腕の力。すべての力を束ねて、右手の鉤爪に乗せる。五本の長い爪が超音速で、隊員の顔面めがけて突 き込まれる。
 命中の直前、冷たい痺れの感覚が右腕の筋肉に絡みついた。筋肉に別の命令が割り込んでくる。骨格と腱がきしんだ。強引に軌道修正された。
 鉤爪は隊員の顔のすぐ脇をかすめた。フェイスシールドにヒビが入る。肩口からタックルする形になって、吹き飛ばされた隊員は机の上を転がっていった。
 だが殺せなかった。
「きさまっ」
 室内の隊員たちが敬介に銃を向けた。
「お前でもいいっ!」
 敬介は再び叫んで飛びかかる。発砲されたが、銃弾は敬介の胸や肩に命中してあっけなく弾き返される。
 敬介の視界の中で隊員の顔がアップになる。ゴーグルで覆われていない口元が恐怖に引き攣っている。
 ……そうだ、死ね!
 必殺の憎しみを込めて、今度は引き裂く形で爪を振るう。
 だがまたしても隊員の顔から外れて、肩の装甲を裂いただけだ。蹴りを放つ。同じだった。命中の直前で誰かが邪魔をする。頭を木っ端微塵にするつもりの蹴 りが、胸に突き刺さって装甲を変形させた。衝撃が中の肋骨を砕いた、と確信があった。隊員は転がって椅子を薙ぎ倒し、うめきを発する。
 しかし殺せなかった。
 そればかりか、手足に冷たい痺れが満ちていく。鎖で縛られたように重い。動かせない。敬介は棒立ちになった。
「凛々子ぉぉっ!邪魔するなあっ!」
 敬介が吼えると、頭の中に、凛々子の焦った声が響く。
『だめだよ敬介くん。殺しちゃダメだ。きっと後悔する。だって一緒に戦った仲間だよ? 隊員の中で誰が撃ったかも分からないのに、無差別に……』
「うるせえッ!」
『それに敬介くんだって、機関が教団を攻撃することはわかってたよね? 当然こんなリスクだって……』
「うるせえって、いってんだよ!」
 わかっている。凛々子の言っていることはわかっている。頭では姉を喪う危険性などわかっていた。隊員たちが当然の職務を遂行したこともわかっている。敬 介の怒りには一片の道理もない。
 だが、どんなにわかっていても。心が、血が、この現実を許さないのだ。
 俺が常にそばにいれば。俺がもっと早く、殴り倒してでも教団をやめさせていれば。俺があの時、ビッグサイト会場で錯乱しなければ。
 俺が、俺が、俺が……
「ああああっ!」
 またしても叫び、金縛りにあっている手足に、ありったけの意志の力を送り込む。
 隊員達は、敬介を完全に敵と認識したらしい。しゃがんで机を盾にしながら撃ってくる。グレネードを撃ってくる奴もいる。
 何百という銃弾が肩、腹、胸を叩いた。だが痛くない。こんなもの針状の装甲が弾く。グレネードが胸を直撃して爆圧を解放したが、それでも装甲は耐えた。 そんなことよりも、何もできなかったことが痛い。裁判も、記憶操作も全て意味がなかった。全て失われた。すべて終わりだ。いま自分の中を荒れ狂っている激 情がなんなのかわからない。怒りか虚しさか悲しみか。無形の感情で頭と体が内部から弾けそうだった。
 だから、だから。
「うるせえって……どけよお前らぁっ!」
 吼えて、懸命に手足を動かそうとする。殺す。こいつらを全て殺すんだ。何の意味もない愚かな逆恨みだということは分かっている。だがそれ以外、なにも考 えられない。どうにかして手足の自由を。奴らの頭蓋を握り潰し、奴らの胸板を蹴り破る自由を。
「ぬあああっ……!」
 体中の筋肉という筋肉が痙攣する。わずかに、右腕の痺れが薄らいだ。指を動かしてみる。骨がきしみながらもわずかに手が開いた。
『うそっ!?』
『信じられん! フェイズ5の支配力を、人間が!?』
 凛々子とエルメセリオンが驚きの念を発する。敬介は口元を笑みの形に歪めて、なおも手足の筋肉に意志を、激情を送りこんだ。
 もう一度右手を動かす。閉じて開いて、腕を前後に振って……動く。
 この腕は、自由を取り戻した。
『やめて!』
 凛々子の声が切なさを帯びた。
『お願いだからやめて。きっと後悔する。ぜったいだよ。ボクいろんな目にあってきたけど、人を死なせたときは、殺したときは、ぜったい後悔したよ。相手が どんな奴だって! 憎くたって! そんな、ぜったい、誰のためにもならない! お姉さんも喜ばない、敬介くんの気持ちも晴れない。絶対に。ボクはそれを 知ってる。たくさんの戦場で、たくさんの復讐者を見たよ! でも、みんな! だからお願いだよ!』
「だまれっ……!」
 こいつを、少し黙らせれば。
 それだけのつもりだった。わずかに傷つけて集中力を奪えばいい、そうすれば他の腕も動く、としか思っていなかった。
 しかし敬介の自由な右腕は、ギリギリまで撓んだバネが復元するように、凄まじい速度で動いた。
 胸の前の空間を薙ぎ、肩に生えている凛々子の首へと襲い掛かった。
 鋭い五連の刃が両の眼に突き刺さり、眼球も鼻もまとめて粉微塵にして深く深く突き進む。ちょうど目の高さで脳髄が上下に両断される。衝撃波で脳組織が沸 騰し爆裂する。頭蓋骨の奥に爪が当たってようやく止まる。
 敬介が「生ぬるい泥に手首を突っ込んだ感触」を覚えたときには、もう全て終わっていた。
 体を支配する力が消えた。だが敬介はそれどころではなかった。荒れ狂っていた「熱さ」が一滴残らず消えていた。机と机の間に、そのまま尻餅をついてしま う。
 脳を破壊されればフェイズ5の力でも治せない。つい先ほど思い知らされたことだ。
 もう頭の中に凛々子の声は響かない。あれほどやかましかったものが全く。
 そうだ。凛々子は死んだのだ。
 殺したのは、自分だ。
 なんで? なんでこんな……?
 混乱し、震える体。思考をまとめようとした。
 でも、でも俺は姉さんを……姉さんのほうが大切で……姉さんの仇をとりたくて……こいつが邪魔したから。
 だから俺じゃない俺は悪くない。そう思考をまとめようとする。
 その時、これまで聞いた事があるなかでもっとも重苦しいエルメセリオンの声が響いた。
『……私は。私は。お前を』
 地獄の底から響く声だ。心臓が縮み上がり、冷水をかけられたように思考のぼやけがまとまった。
 そうだ。俺はこいつの長年の相棒を殺してしまった。俺を憎むだろう。俺に復讐するだろう。
 だが一瞬の沈黙の後、エルメセリオンは低く、小さく、こんな言葉を搾り出してきた。
『……お前を。憎まない……』
「なぜ!?」
 あえぐような敬介の声に、エルメセリオンは答えた。
『凛々子が、最後まで貫いたからだ。
 彼女は約束した。けっして人間を蔑まず、苦しむ人々を救い続けると。
 そして私は言った。ならば私は力を貸すと。
 だからできないのだ、君を憎むことは。
 凛々子が最後まで救おうとしていたのは君だからだ。ここで君を憎んだら……凛々子がやろうとしたことを踏みにじることになる。できない。絶対に。彼女が 約束を守ったように、私も、だから私は、彼女が救おうとした人を憎めない。みてくれ、この顔を。これを踏みにじれるわけがない』
 そう言われて、敬介は凛々子の顔を覗き込んだ。
 息が止まった。
「あ……」
 そこにあったのは、ただ祈りだった。
 顔面はむごたらしく破壊されていた。両眼と鼻は跡形もなく、郵便ポストの投函口ほどもある横長の穴に変わっていた。眼球と脳が砕かれて混じりあって、薄 桃色の粥になって頬に流れ落ちていた。
 それでも。顔の下半分だけで十分だった。
 原型をとどめている唇、頬には真剣な祈りがあった。
 普通の人間には判別できないだろう。だが敬介にはわかった。
 その顔を、その表情を、かつて姉は浮かべていたのだから。数え切れないほど見てきたのだから。
 ただ、目の前にいる相手に幸せであって欲しい、という気持ち。
 それ以外、わずかな怒りも、恐怖も、媚びもない表情。
 蒼血に襲われる前の姉が、よく浮かべていた表情……
 痛くなかったはずがない。怖くなかったはずがない。
 だが一片の恐怖も浮かべずに、ただ凛々子は……俺のことを救おうとした。
 首だけでも動かせば回避できたかもしれないのに。すべての力を「俺への呼びかけ」に使った。
 ここにいるのはもう一人の姉だった。
 刹那、敬介の脳裏に無数の記憶が展開された。凛々子と過ごし、凛々子とかわしてきた言葉の全て。くるくると変わる表情の全て。かわいらしく怒った顔も、 ひどく傷ついて敬介を見つめる顔も……過去の記憶で見た、震災の地獄の中でも気高く戦う凛々子……凛々子の過去を知ったときの、胸の奥で痛みがうずくよう な羨望と感動……すべての気持ちがいっぺんに。
 そうだ、凛々子だって大切な人だったじゃないか。
 自分は何をやったのだ。もう一人の姉さんを、もう一人の大切な人を。
 おのが手で殺した。
「俺は、おれは……あああっ!」
 心の中で決定的に何かが折れた。
 敬介の全身がわななき、口から身も世もない悲鳴がほとばしる。両の眼から涙が溢れた。体を守っていた棘状装甲も強度を失い、ポテトチップを踏み砕いたよ うに脆く崩れていく。
「あああ……ああああっ!」
 瞬時に素っ裸になって、敬介は頭を抱えてその場にうずくまった。

 31

 その数分後
 教団本部ビル
 十一階

 ビルの上下から突入した殲滅機関は順調に制圧を続け、作戦開始から三十分ほどで全ビルの約七割を押さえていた。いまや残っているのは九階から十四階ま で。
 影山サキ率いる小隊十六名は、もっとも激しい抵抗の行われている十一階で、苦戦していた。
 十一階は客室階として使われていた階だ。廊下は広く、床は毛足の長い絨毯だ。
 だが粘液まみれだった。廊下のど真ん中、ドアを開けて十一階に出たばかりのところを、巨大な透明な粘液の塊が塞いでいた。塊の向こうはぼやけて見える。 厚さ何メートルもありそうだ。
 粘液は、左右の壁も、客室のドアも、天井や床さえも、覆っていた。こちらの厚さは数十センチ程度か。十一階に入った隊員達は、すぐに足元の粘液に足を絡 め取られた。粘着性のある泥、という感触で、足は沈み込んで周囲の粘液とくっついて、歩くのが難しい。
 直後、廊下を塞ぐゼリーの中に昆虫姿の蒼血が現れて、銃を持った腕をゼリーから突き出してこちらを撃ってくる。隊員から奪ったミニミだろう。
 サキたちは片腕で顔面をカバーして銃弾に耐えた。耐えながら反撃する。だが反撃に転じたとたん、蒼血はゼリーの中に引っ込んでしまった。こちらの銃弾は 飛沫を上げて粘液の中に飛び込むが、向こう側には抜けることができないようだ。グレネードの対人榴弾が炸裂して粘液を吹き飛ばし、穴を開けたが、すぐに周 りの粘液が生き物のように動いて塞いでしまう。
 隊員の一人が罵声を上げる。
「こんちくしょうっ!」
 足元の粘液の中を、爬虫類形態の蒼血が何体も泳いで、足首を捕まえていた。
 隊員がミニミを足元に連射するのと、引きずり倒されるのは同時だった。倒れて沈むこむ隊員に、蒼血が群がる。もがいて抵抗するが、蒼血のほうが動きが速 い。
 他の隊員が即座に援護の銃撃を加える。だがやはり粘液の中ではライフル弾の威力は大幅に減じられるらしい。銃弾を浴びたにも関わらず蒼血は悠々と泳い で、廊下を塞ぐ粘液塊の向こうに逃げていく。
 またすぐに床や壁の粘液の中を泳いで蒼血が集まってくる。銃を粘液から突き出して撃ってくる。こちらの動きは鈍くなってよけることができない。足元が不 安定なせいで、簡単に引きずり倒される。銃で反撃すれば逃げていくが、傷はやはり与えていない。
「このネバネバは一体! くそっ!」
 苛立つ隊員たち。ひとりサキだけは沈着冷静に、指示を出す。
「全員で二列になって繋がれ、前の奴の肩をつかんで、スクラムを組むんだ」
 隊員達は一瞬だけ顔を見合わせるが、すぐに行動した。装甲と人工筋肉で力士のような体型になった隊員たちが「電車ゴッコ」のように連なる姿は滑稽ですら あった。
「前進!」
 サキの号令とともに、八人ずつ繋がった列が二つ、ゆっくりと進み始める。
 効果はすぐに現れた。蒼血たちが粘液の中を泳いできて足首をつかむが、八人が一塊になっているためにビクともしない。蒼血を引きずって、そのままのペー スで歩いていく。他の隊員が蒼血を踏みつけた。慌てて逃げようとするが遅い。隊員の一人が抱きついている腕を片方だけ解いて、片手だけでミニミを器用に操 り、銃口をその蒼血に向けた。長い銃身を粘液の中にまで差しこんで、蒼血に押し付けて発射。くぐもった銃声が連続して弾け、噴水のように粘液がほとばし る。真っ赤だ。ついに手傷を負わせることができた。
 そのまま廊下を前進する。粘液で作られた透明な壁は、もうすぐそこだ。透明な壁の中に潜む蒼血たちが銃撃を浴びせてくるが、みなシルバーメイルの装甲が 防いでいる。
「ひるむな! このまま突破するぞ!」
 サキの言葉に、隊員達はいっそう足取りを力強くする。
 蒼血が作戦を変えてきた。今度泳いできた蒼血たちは足をつかまなかった。数体がいっせいに空中に跳躍し、隊員が背負っているリボルビング・グレネード・ ランチャーに飛びついて、奪い取ろうとする。ライフルの火力では倒せないなら、当然の行動だ。
 その動きを隊員たちは読んでいた。スクラムを組む八人が、まるで一つの生き物のようにスムーズに動く。ある隊員が蒼血の首根っこをつかんで空中にぶら下 げ、別の隊員が両足をつかんで動きを奪う。さらに別の隊員がミニミを蒼血の口に押し込んでトリガーを引く。仲間が撃たれても撃たれても恐れず飛び掛ってく る蒼血たち。連携プレイで撃退を続ける。ついに一体の蒼血がランチャーの奪取に成功した。粘液の上を転げながら発射。スクラムを組んだままの隊員たちには 避けようがない。肩に命中して爆裂し装甲板を破砕した。その隊員は苦悶の声を上げた。装甲には大穴が開いて、中の肉も抉られて骨が露出していた。それでも 他の隊員が支える。倒れない。顔面を激痛で冷や汗まみれにして、それでも彼は仲間とともに歩みを進める。
 蒼血は二発目のグレネードを放とうとした。だが寸前に別の隊員がミニミを乱射してランチャーを破壊する。蒼血は慌てて粘液の中に逃げ込んだ。また、他の 蒼血と一緒になって空中を襲い掛かってくる。倒されても倒されても、こちらの重火器を奪うことを諦めない。
 もう一度ランチャーを奪われて、一人の隊員を撃たれた。重傷を負うが、倒れずについてくる。倒れてスクラムから離れたら最期だからだ。
「あと少しだ!」
 サキが叫ぶ。
「おう!」
 威勢よく応えて、隊員達は進む。ついに粘液の壁に突入した。
 全身が粘液に包まれるため動きが鈍くなったその時を、蒼血たちは見逃さなかった。粘液の抵抗を感じさせない高速で襲い掛かってくる。鋭い爪を顔面に叩き 込んでくるものがいた。隊員の振り回して腕をつかんで、逆にへし折ろうとする蒼血がいた。次々に隊員が倒れていく。フェイスシールドを割られ、粘液で溺れ て苦しみ悶える。
 着実に進んできたはずだ。もう列の頭は粘液から出ていいはずだ。だが出ない。
 隊員の移動にあわせて、粘液も動いているのだ。
 列の先頭に立って蒼血と格闘していたサキが、通信回線を通じて叫んだのはその時だ。
「撃て! この穴を撃て! 全力でだ!」
 叫びながら、片足で床を何度も踏みつけている。隊員達の注意が集中した。足で踏みつけているその場所に、ピンポン玉ほどの小さな穴が開いている。
 隊員達は即座に動いた。粘液内では弾丸の勢いは極度に減衰する、よほど近寄らないと敵は倒せない。固く組んでいたスクラムを解体して、隊員達はバラバラ になって穴に近寄る。蒼血たちはここぞとばかりに隊員に斬りつけ、組み付いて倒す。倒されても傷ついても隊員達は進んだ。穴のまわりに群がってミニミを、 リボルビング・グレネードランチャーを撃ちこむ。
 水中爆発の衝撃は、空気中の比ではない。防音機能の限界をはるかに超えた巨大な重低音が隊員達の耳をつんざいた。分厚い装甲でよろわれた隊員たちが軽々 と浮き上がる。
 爆発で床の破片が飛び散って広がる。蒼く、燐光を発する破片も散らばった。サキが命令するまでもなく隊員達は動く。全員が肩の紫外線照射装置を展開し、 四方から紫外線を叩きつけた。
 粘液の塊が悶えた。渦巻き、揺れに揺れた。それでも隊員たちは照射をやめない。すると崩れていく。粘液はもう粘性と固さを失って、ただの濁った水になっ た重力のままに流れ落ちる。
 隊員達は解放された。蒼血達も体を支えるものを失って、まとめて尻餅をついた。
「やはり、こいつ自体が蒼血か!」
 サキが言葉を漏らした。感情を押さえた平板な声だが、わずかに喜びがにじんでいる。
 隊員達は揃って銃器を構えなおした。
「さあ、お前らはもう丸裸だ!」
 蒼血たちが一斉に飛び掛ってきた。だが隊員達の射撃が的確に撃ち抜いていく。ミニミのライフル弾が牽制し、動きが鈍くなったところをグレネードで仕留め る。多目的対戦車榴弾が超高熱のジェットを噴出して腹を食い破り、頭をも叩き割る。鱗や外骨格で覆われた屍が転がっていく。
 廊下を端まで掃討しつくし、客室を一つ一つ占領していく。こちらでも多少の抵抗はあったが、十分もすれば全ての敵を倒すことができた。
 敵の排除を確認して、一個小隊十六名がまた廊下に集まる。
「楽勝じゃありませんか! フェイズ5の本拠地がこんなにモロいなんて!」
 隊員の一人が明るく笑うのを、サキがとがめる。
「あまり楽観するな。たまたま私が敵の本体を叩けた、運のせいもある。ゾルダルートたち親玉が出てこないのも気になるしな」
 言いながらサキは、ベストの胸に取り付けられた無線機のスイッチを入れた。
「こちら44小隊、影山曹長です。十一階の占拠を完了しました。蒼血は完全に殲滅。昏倒状態の教団員を二十五人発見。なお、重傷者が三名発生しました。自 力で退避させます。
 次の指示……なんですって!? 今、なんて言った?」
「隊長、どうしたんですか?」
 隊員が不審げに問う。サキは大きくかぶりを振って、
「……それがな……ただちに戦闘を中断しろと。これ以上前進するな、防衛戦闘のみ許可すると」
 隊員たちがざわつく。
「どういうことですか?」
「私が知りたいさ!」
 サキが叫んだその瞬間、廊下の床に、壁に、天井に……あらゆる場所に何百という「眼」が生まれた。突き破って向こう側から現れたのだ。
 すべての壁や床が振動し、岩を擦り合わせるような重低音を浴びせてきた。
『知りたいならば
 教えてあげましょう
 あなたがたが どれほど 愚かなのかを。
 わが名は ヤークフィース。
 神なき国の、神』
 
 32

 同時刻
 殲滅機関日本支部 作戦司令室

 白を基調とした壁面に覆われた司令室は、小学校の教室ほどの大きさで、そこに集まっているオペレータや作戦参謀は二十人程度。室内にはピリピリと緊張感 が漂っているが、人々の表情は明るい。
 部屋前面の巨大モニターには、作戦進行状況が表示されていた。
 教団本部ビルを表した3Dモデルが赤と青に塗り分けられている。すでに全体の七割が、味方を示す赤色だ。快進撃だ。
「十一階の制圧に手間取っているようだが?」
 部屋の一番後ろの座席に陣取るロックウェル少佐が、四角い顎を撫でながら言う。
 参謀の一人、若い眼鏡をかけた女性が快活な声で答える。
「44小隊が攻略中です。火力強化型の編成ですし、歴戦の影山隊長です。心配はないかと」
「一個小隊で充分なのか? 複数小隊を集中投入しなくて良いのだな?」
「はい。狭い廊下や部屋が並ぶ場所では、数十人規模を投入しても混乱するだけです。事前のシミュレートで明らかになっています」
「ふむ。損耗率と、教団員の救出はどうだ?」
「どちらも予想以上にうまく行っています。損耗率十二パーセント、うち死亡者四パーセント」
「教団員は二百名以上を救出、うち治療に急を要する四十名をチヌークで当基地に搬送中です」
「心配無用です、局長! 進捗率は事前のシミュレートを遥かに超えてますよ! 問題といえば……」
「いえば? 何だね?」
「たったいま十五階で、突発的戦闘があったという報告があります。天野敬介が暴れたというのです。天野は蒼血の能力を手に入れているようだ、という報告で す。天野は逃走した模様です」
「ふうむ……?」
「追撃するべきでしょうか。優先的な兵力配分を?」
「いいや。他の蒼血と同じ対応でいい。遭遇した場合は殲滅を」
「了解!」
 と、その時、オペレータの一人が緊迫の声で告げた。
「部隊=本部回線に割り込みがありました。ヤークフィースを名乗っています」
 ロックウェルは片眉を上げた。本部に通信を送れること自体は不思議ではない。シルバーメイルを一体手に入れれば、特別仕様の通信機がついてくる。使用方 法は隊員の脳を漁ればよい。
 だが何のために通信を?
「降伏でもする気でしょうか?」「そいつは楽でいい」「あっけないもんだな」
 参謀達が軽口を叩く。すでに場の空気は楽観に支配されていた。
「つなげ」
 ロックウェルが命じ、オペレータが操作する。
 次の瞬間、そこにいた全員が目を見張った。
 巨大スクリーンいっぱいに激しい戦闘が映し出された。
 教団本部の暗い廊下で、マシンガンを撃ちまくる装甲服の集団。
  撃ち倒されていく、ウロコに身を包んだ怪物達。すさまじい速度で天井や壁を這い回る、昆虫型の怪物達。怪物に押し倒されて装甲を破られ、中身の肉を食い尽 くされる人間達。
 人間の姿をした物が、撃たれて怪物に変貌する場面もあった。
 若干荒い映像ではあるが、殲滅機関と蒼血のすべてが映し出されていた。
 ついで、柔らかく澄んだ女の声が司令室にあふれた。
『……お久しぶりです、殲滅機関日本支部のみなさん。いいえ、前にお会いしたのは数十年も前のことですから。はじめましてと言ったほうがよろしいですね。
 単刀直入に言いましょう。
 我々は、今回の戦いをすべて撮影しました。取引をしましょう。
 いますぐ戦闘を中断しなさい。さもなければ、この映像を公開しますよ。
 私はこの動画を国内外のインターネットに流す能力があります。都内各所に、直接投影して人々に見せることもできます。
 あなた方の隠し通したかった蒼血のことが、すべて世界中に知れ渡ってしまいますよ。
 ハッタリではない証拠をお見せします。国内最大の動画サイトをご覧ください」
 オペレータが青ざめた顔をキーを叩く。先ほどとは一転した、恐怖に歪んだ声を上げる。
「み、見てください……新着動画が……」
 ロックウェルは思わず身を乗り出してしまった。
 モザイクをかけたように粗く、注意してみないと何が起こっているのかわからないが、それでも十秒程度の短い動画がアップロードされていた。
 シルバーメイルを着た隊員がマシンガンを乱射して、「明らかに人間ではないシルエットのもの」を倒す姿が。 

 33

 教団本部ビル内

 壁の目玉から光が噴き出し、壁面に動画を投影していた。
 殲滅機関と蒼血の激しい闘いを。
 動画が消えた。
 サキが生唾を飲み込んで、うめくように言う。
「……まさか。最初からこれが目的だったのか。私たちを撮影することが」
『ご名答です、影山准尉。しかし気づくのが遅すぎましたね。
 わたしは体を細長く引き伸ばしてビルの壁面に潜り込み、小さなレンズをこっそり出して、あなた方が来るのを待ち受けていたのです。撮り放題で した。
 みなさん目の前の闘いに夢中で、レンズなんか気がつきもしませんでしたねぇ』
 壁全体が鈍く、低く、ぐふう、ぐふうと唸った。嘲笑しているのだ。
「た、隊長……」
「うろたえるな」
 サキは部下を叱り飛ばし、壁に浮かんだレンズをにらみつけた。
「それで勝ったつもりか。映像記録を破壊する方法なんていくらでもある。情報操作だって」
「無駄です。すべて無駄。電子記録じゃありませんよ。このわたしが憶えているのです。むろん複数の脳にバックアップをとってあります。
 情報操作ですか、言い訳のしようがない動画映像を何百何千もバラ撒かれて、どんな情報操作が可能だっていうんですか?」
「ハッタリに過ぎない。お前達蒼血だって、自分達の実在が暴露されるのは恐ろしいはずだ。できるはずがない」
 壁全体が、またしてもぐふう、ぐふう。
『笑えますね。あなたもまた、殲滅機関に洗脳されきっている。固定観念から抜け出せない。 
 蒼血の存在は絶対に秘密……それはもう過去のことです。
 実験はもう終わったのですよ』
 どういうことだ、とサキが問うよりも先にヤークフィースは言葉を続ける。
『わたしは教団をつくりました。自分を……蒼血の能力に憧れ、崇拝するものたちの集まりを。
 そして確信したのです。もはや明かしても大丈夫だ……私への尊崇が崩れることはないと。
 私がアメーバの化け物に過ぎなかったとしても。医者に見捨てられた者の苦しみは変らない。この私だけが彼らを癒せる、という事実には変わりない。
 一度、私を崇拝した者は真実を知っても離れないし、これからも崇拝者は増える、という確証を得たのです。全世界は無理であっても、この一国くらいを支配 することは可能だと。
 まあ、人類側からの攻撃も激しくなるでしょうが、私を崇拝する者も増えるので差し引きゼロ、ということですかね。
 真実を明かす。それはそれで良いのです」
「バカな……」
「ハッタリだと思いたければ思っても構いませんが。しかしあなた方の上官は、真剣に受け止めたようですよ。こうやって戦闘中止命令を出しているんですか ら。
 ちなみに私は、殲滅機関は日本から出て行って欲しい、と要求しました。
 要求に応じれば映像データは破棄しますと。
 猶予期間は十分間。さて、彼らはどう返答しますかね?」
 サキは絶句した。日本からの撤退。この国を蒼血に明け渡す。大変な譲歩だ。だが蒼血の全てが公開される混乱と比較すれば……ありえない、とは言い切れな い。
 額を冷や汗が流れ、ひどく息苦しく思えて、フェイスシールドを外したくなった。
 そこで気づく。
「……機関は、お前の要求なんて呑まない。手はある」
「あなたのおっしゃりたいことはわかりますよ。このビルを跡形もなく破壊するんですよね?」
「そうだ」
 サキがうなずくと、背後で隊員たちが感嘆の声を上げる。
 殲滅機関は秘匿性重視のため、ビルを破壊できるほどの大火力兵器は持っていない。だが米国大統領を通じて空軍を動かせば話は別だ。
 爆撃機から誘導爆弾やトマホークミサイルを数十発も叩き込む。同じタイミングで、四方から爆圧を浴びせてビルを圧砕する。同時にナパームも叩きこんで超 高熱を発生、鉄を溶かして崩落。さらに地下壕破壊用のディープスロート爆弾を数十メートルの深さまで撃ちこんで基礎ごと粉々にする。
 そこまでやれば、このビルに根を張るヤークフィースを殺せる。バックアップまで含めてデータを消せるだろう。
 ただし、とサキは拳を握りしめて独白した。
 自分達も一緒に抹殺されるわけだが。
 隊員たちを見渡した。顔の上半分がゴーグルで隠されていても、ともに死線をくぐってきたサキには分かった。隊員達は恐れていない。
「立派な心がけです。死なばもろとも、ですか。
 でも、できますかね?
 空軍の兵士達は蒼血のことなど知りません、士官のごく一部、上層部だけが知っています。東京都心のビルを破壊しろ……命令に従いますかね? たった十分 で、従わせることができますかね?」
「できるさ……」
 サキはとっさに答えたが、確証があって言ったわけではない。
 実際には難しいだろう。日本はアメリカにとって最重要の同盟国だ。「テロリストが潜伏」くらいの偽情報を流したところで、いきなり都心のビル攻撃を受け 入れる軍人は少ない。無理矢理に強行したら、それこそ「蒼血の存在」という情報が漏れてしまう。そもそも、日本の都市を攻撃して民間人をたくさん死なせ、 その後の国際社会はどうなるだろうか。ヨーロッパや中国にしたところで国民の大半は蒼血など知らない。アメリカの暴挙を非難し、対立するだろう。人間同士 の戦争の火種にもなるだろう。
 それでも、もはや自分達にできることはない。
 信じるしかないのだ。
「はは……では、拝見といきましょうか、あなたがたの力を」

 34

 数分後
 教団本部ビル内
 
 敬介は、あのあと泣き喚いて逃げた。
 普通の人間ならば一寸先も見えない真っ暗な、トイレの個室にいた。
 惨めな素っ裸で便座に腰掛けて、うつむいて耳を覆い、恐怖と不安に震えていた。
 かつて子供時代、小学生の頃に何度もやったように。
 両親を失い、姉一人の稼ぎで学校に通っていた彼は、見るからに貧しい子供だった。着てくる服のバリエーションが極端に少なかった。大きすぎる靴を、ボロ ボロになっても履き続けた。クラスメートで携帯ゲーム機が流行ったが、そんな高いものはとても買ってもらえなかった。とどめは、遠足のときの弁当箱が一人 だけ新聞紙で包んであったことだ。ほかの子たちはみんな色とりどりのナプキンなのに。
 哀れみと蔑みの入り混じった目で見られるようになった。悪ガキにからかわれるようになった。
 怒って反撃することはできなかった。もし相手に怪我でもさせたら姉が学校に呼び出されるから。
 黙って耐えることもできなかった。嫌がらせがエスカレートしたらどうする。教科書を水びたしにされたり体操服を切り裂かれたり、そんなことを姉に知られ たら姉が自分を責める。
 だから敬介は当時、ひたすら逃げた。うつむいて給食をかきこんで、その後の休み時間は被害にあわないようにずっと逃げ続けた。保健室、図書室……一番の お気に入りは校舎の端にある、ほとんど利用者のいないトイレだった。やり返したい悔しさをぐっと堪えて、ずっと座っていた。こうやって我慢していれば、姉 の笑顔は壊れない。それだけが心の救いだった。
 だが姉はもういない。人生を捧げたはずの組織、殲滅機関に殺された。
 姉と同じように気遣ってくれた女性もいた。だが凛々子もいない。この手で殺してしまった。
 だから……どちらも、あまりに取り返しがつかなくて。
 このままじゃいけない、やったことの責任を取らねば、そう思っても何をすればいいのか分からなくて。
 敬介を苦しめるのは自責の念だけではなかった。思い切り耳をふさいでも声が聞こえるのだ。
 壁を通して、低く嘲笑う、ヤークフィースの声が。
『私はヤークフィース。神なき国の、神』
『すべて計算どおりだったのですよ』
『日本から撤退しないならば、この動画を世界に公開します』
『回答までの期限は十分』
『もう実験は終わったのです。私としては、公開しても、それはそれでよし』
 ヤークフィースはサキ達と喋っているだけではない。この本部ビルの至るところで顔を出し、突然の戦闘停止命令に戸惑う隊員達に、挑発的な言葉を投げつけ ていた。
 フェイズ5の強化聴覚は、四方八方から殺到するヤークフィースの声を全て捉えていた。
 だから分かる。いま殲滅機関は、いや人類社会は大変な危機に陥っていると。
 ……だが……俺にどうしろっていうんだ。
 ……俺はもうできない。なにもできない。
 ……姉さんはいない。凛々子も殺してしまった。
 ……なんで、やらなくちゃいけないのか。これ以上頑張らなくちゃいけないのか。
 ……わかってる。わかってるよ。何かやらなくちゃいけないってことは。
 ……でも、できない。何かやらなくちゃ、って考えるたびに……
 姉の仇を討たねば。
 凛々子を殺した償いをせねば。
 どちらもやりたい。いや、絶対にやらなければいけない。だが両立できない。
 姉のため、殲滅機関に復讐すれば凛々子の気持ちを踏みにじることになる。
 絶対の重さを持った、絶対に両立できないもの。
 だから胸の中が、鉛のように重く冷たいもので溢れかえっていた。苦しさで張り裂けそうだった。
 震えていた敬介の唇から言葉が漏れた。
「なんで……だよ……なんで何にも、言ってくれないんだよ……」
 頭の中で、場違いなほどに落ち着いたエルメセリオンの声が響いた。
『ふむ? 何のことかね?』
「なんで……俺を憎まないんだよ……お前は屑だって……死ねって言ってくれれば……せめて……」
 そうだ。誰かに罵ってもらえば、ずっと楽になれただろう。いっそ今すぐ俺の心臓を止めて欲しい。できないはずがない。
『憎まない理由は、すでに説明した』
「俺は……俺は。凛々子の気持ちを。まるで分からなくて……最悪に裏切ったんだぞ。殺せよ……こんな奴、憎んで、殺して、当然だろう?」
 喘ぎながら吐き出した言葉に、やはりエルメセリオンは冷静に答えた。
『私たちは八十年以上も戦いを続けてきた。
 人間に裏切られるなど、まったく珍しいことではないよ。
 私たちの旅の始まりは、関東大震災だ。その時私と凛々子は、虐殺される朝鮮人を大勢助けた。
 しかし二十年ばかり後、戦争で破壊しつくされた東京に戻ってきた私たちは、驚くべき光景を見た。
 朝鮮や中国の人々が、進駐軍と結託して日本人に暴虐の限りを尽くしていた。
 日本人の商売を潰し、土地を奪い、女を襲い、人まで殺して、もみ消した。
 ふんぞり返ってギャングを気取る彼らの中に、二十年前に助けた、見知った顔がいくつもあった』
 一瞬の間を置いて、さらに続ける。
『凛々子はさすがにショックを受けていた。自分のやったことは正しかったのかと思いもした。
 だが結局は揺らがなかったよ。全員がこうなるわけじゃないし、改心してくれる人だっている、次はきっとこんなことにはならないと……それでも人を信じ て……
 世界の各地で、同じような出来事に出くわした。
 それでも最期まで凛々子は、あの日の誓いを捨て去らなかった。
 だから私も力を貸したのだ』
 ああ、そうだろう。凛々子なら、そうするだろう。
 絶対の純真を持つ彼女なら。
 だが敬介はかぶりを振って叫んだ。
「迷惑だっ……俺はそんなんじゃない……信じられたって、何もできやしない……凛々子のようにはなれはしないんだ。……分かるだろう!? 俺がどんな奴な のか知ってるだろう? 俺はもう、壊れそうなんだ。姉さんを殺した奴らをブッ殺してやりたい……でも凛々子の気持ちにもこたえたい……できねえよ、こんな の! 両立なんて……俺は凛々子じゃない! あんな凄い奴じゃない」
 初めて、エルメセリオンの声が怒りを帯びた。
『天野敬介よ。君は勘違いをしている。
 凛々子は、君が言っているような意味で『凄く』などない。
 凛々子と言えど両立などできなかった。ギリギリまで努力して、それでも誰かを犠牲にせざるを得なかったことがある。本人も語っていたはずだ。
 凛々子は奇跡を可能にするヒーローではない。君の延長線上にある、ただの人間に過ぎない。
 ただ凛々子は、両立できない選択肢、救いたいが救いきれない誰かに出くわしたとき、君のように喚かない。逃げ出して震えることはない。ただ、決断し、救 える人間を救い、救えなかった人間から目を逸らさない。そして救いきれなかったことを誰にも言い訳しない。ずっと一人で背負い続ける。
 凛々子が凄いと、君が言うのなら、『凄さ』はその違いしかない」
 胸を突かれた。ずっとつぶっていた目を見開き、顔を上げた。闇の中に沈む、クリーム色の個室の内壁。狭い空間。
『だから凛々子は楽になれない。力不足で全員を助けられなかった、ということを永遠に背負い続ける。
 君もだ。両立する道がないのなら、どちらかを選んで、選べなかったことを受け止めればいい。
 その結果、罪の意識が永遠に続くことになろうと、自分で選んだのだから仕方ない。
 人間にはそれができると、凛々子は教えてくれた』
「どちらが……どちらが正しい道なんだ。姉さんの復讐と、凛々子の……」
『正しい道などない。君の選んだ道があるだけだ。
 言っておくが、仮に君が復讐を選んだとしても。
 凛々子の想いを犠牲にして、それでも姉の死が許せないというのなら。
 止めるつもりはない。
 復讐のために力を貸してくれ、というなら考慮しよう』
 今度こそ息を呑んだ。反射的に便座から立ち上がって、叫んだ。
「なぜだ!? 凛々子はあんたの……」
『私の目的は、人間を知ることだからだ。
 私はもっと知りたい。
 人間はどんな生き物なのか。
 凛々子はたくさんのことを教えてくれた。だが君はそれ以上に凄いものを見せてくれるかもしれない。凛々子を覆せるほどのものを。
 たとえば、何千人という殲滅機関員を皆殺しにしても、まだ渇きが収まらないような絶対的な復讐心を。
 どうだ、見せてくれるか? 復讐のためだけに全てを捧げられるか?
 それならば協力しよう。ただ一言、『捧げる』と言いさえすれば」
 敬介は絶句した。
 薄闇の中を、立ち上がったまま、震えながら見回した。
 クリーム色の壁に、すうっと姉の幻が浮かんだ。
 長い三つ編みを心細そうに握りしめて。
 野暮ったい古着のセーターを着て。
 大きな古めかしい眼鏡をかけた愛美が、儚げに微笑んでいた。
『わたしのことなんて気にしなくていいよ』
 表情で、目で語っていた。
 逃げるように反対の壁を見る。
 そちらでは凛々子が、眉間に可愛らしい皺をつくり、眉をきりりと上げて怒っていた。
『まったくもう、敬介くんは!』
 怒っていても大きな瞳には、敬介の事を気遣う優しさが溢れている。
「ああ……ああ……っ!」
 選べない。できるわけがない。
 だが、このまま選べずにいるのが最低の行為だということはわかっていた。
 確かに聞いた。あと十分ですべてが決する……
 何度も、何度も、敬介は首を左右に振った。視線が、左右の二人の間をさまよった。
 さまよううち、少しずつ凛々子のほうに吸い寄せられていく。
 そこで止まった。
 だが言葉を出せない……
『そうだ。公平な判断のため、ひとつ教えておくことがある。凛々子が殲滅機関に入りたがった理由は、第一に君のためだ』
 驚きに硬直した。
『当然ではないか。『殲滅機関の情報力が欲しい、共闘したい』だけが目的なら、もっと早くやっていればよかったではないか。凛々子はな、出合ったときの君 を一目見て、わかったのだ。この人はとても無理をしている。無理矢理に自分の心を狭めて、戦いの機械にしている。もうすぐ壊れてしまうと。助けたかったの だ』
「じゃあ……俺にやたら話しかけて……デートに誘ったりしたのも……?」
『そうだ。凛々子の個人的な興味も皆無ではなかったが』
「なんで? なんで見ず知らずの俺のために?」
『人を助けることに理由など要らない、凛々子は。目に映る全てを、助けられるだけ助けたかったのだ』
 ドクンと、胸の奥で心臓が跳ねて。
 それが最後の一押しになった。
「そんな……こと……言われたら……俺……俺は……」
 まだ乾ききっていない頬を、また熱い涙が濡らした。
「やらなきゃ……俺……やらなきゃ……」
『何をやるのだね』
 息を吸い込み、背筋を伸ばして宣言した。
「……俺は、凛々子を殺したことを償う。方法は。……凛々子のやってきたことを継ぐ。人を信じて、救うために戦う。ずっと。どんなに苦しくても。そうでな かったら。それをやらなかったら。俺は。
 だから力が欲しい。凛々子と同じ、人を救うための力を」
『その結果、君は姉の仇を討てなくなる。姉を切り捨てて生きる。永遠に後悔する。いいのだな?』
 間髪いれずに答えた。
「構わない」
 答えた瞬間、胸の中で「力」が爆発した。姉を殺されたときとは違う、熱くない、ひたすらに冷たいエネルギーの奔流。それは手足の隅々まで満ちて、肉体を 変貌させる。
 みりっ……みちっ……めりっ……
 また真紅の棘が全身から突き出した。筋肉が膨張し、骨格が変形する。指が伸びて、まがまがしい長い爪が生え揃った。
『わかった。ならば君が贖罪を続けている限り、私は力を貸す。
 私は人間が、自らの罪から眼を背けるさまをずっと見てきた。見せてくれ。『それは嘘だ』と。『人は罪を償える』と』
 無言でうなずいて、敬介は首をめぐらせた。
 姉のほうは見ない。
 凛々子の幻に、眼を合わせた。
 凛々子はハッと眼を丸くして、唇をかみ締め敬介を見つめ返した。ぎこちなく微笑を作って頭を下げて。
 消えた。
  
 35

 教団本部ビル内

 サキは待っていた。
 通路で、壁に無数に浮かび上がるヤークフィースの目玉を睨みつけながら、押し黙っていた。
 他にできることはない。
 他の隊員達も同じだった。傷ついた何人かの隊員を横たえ、シルバーメイルを脱がせて応急処置をしているが、他には何もできない。せめて傷ついた隊員を後 送したい、と本部に連絡したが、「余計な行動はヤークフィースを刺激する」といって許可が下りなかった。
『ずいぶん落ち着いていますね』
 壁をふるわせて響くヤークフィースの声。ふんと鼻で笑ってサキは答えた。
「いつか死ぬときが来る。それは分かっていた。できるなら政治的取引なんかは抜きで、戦った結果として死にたかったが。まあ仕方ない、組織に所属する者の 義務だ」
『もう諦めていると?』
「誰が諦めるといった。信じているんだ」
『信じる? そんな行動に何の意味が。まったく人間の愚かさは度し難い。空虚な精神論で破滅を糊塗する癖を、いつまでも捨てられないようですね?』
 その時だ。天井が力ずくで粉砕され、穴から誰かが飛び降りてきた。
 人に似ているが、全身を毒々しい緋色の棘で覆われ、眼はさらに煌々と、赤く輝く化け物。
 手足は人間としてはありえないほど太く長く、巨大な爪をそなえている。
 人間らしさを残しているのは、棘のない口の周辺だけだ。
「な……?」
 驚くサキに、化け物は静かに歩み寄った。
 抱えていた丸いものを、サキに差し出した。
「隊長。これを預かっていてください」
 顔は棘に覆われて判別できない。だが声は間違いなく。
「お前。天野か!」
 差し出されたものを受け取る。
 人間の生首だった。両目が完全に破壊されて、大きな横長の穴になっている。ふっくらと柔らかそうな頬を、こぼれた血が汚していた。
「これは……氷上? 氷上凛々子か? 天野、一体何があったんだ」
「説明はあとで。いまはただ、そいつを頼みます。戦いの場には持っていけないので」
 素っ気無く敬介は答えて、あたりを見渡し、倒れている隊員に近づいた。フェイスシールドを片手で軽々と粉砕し、隊員に口づけする。
「もごっ……もごぉっ!?」
 隊員はうめく。すぐに敬介は体を起こした。
「まだ痛みますか」
「え? ……おう……」
 隊員も軽々と半身を起こした。肩には血のにじんだ包帯が巻いてある。この隊員は骨まで粉砕される負傷を負って、歩くのもやっとの状態だったはずだ。
「痛くねえ……」
 不思議そうに首を振った。敬介が爪を一閃させる。彼の傷口を覆っていた包帯がバラバラになって飛び散った。
 包帯の下から現れたのは、赤ん坊のような傷一つない、真新しい肌。
 敬介は立ち上がり、壁に並ぶヤークフィースの目玉をつかんだ。
「聞こえるか、ヤークフィース!
 俺が今、何をやったのかわかるか。
 そうだ、『治癒の奇蹟』って奴だ。
 お前の言う奇蹟なんて、フェイズ5なら誰でも起こせるんだ。
 俺でも神になれるぞ。
 話はすべて聞いた。もしお前が、これからも自分が神だって言うなら。治癒の力で人の心を弄ぶなら。俺も神になってお前に立ち向かう。お前の教団の信者を 一人残らずいただいてやる。お前の計画は、絶対に成就しない。
 嫌だろう? 嫌ならば……」
 つかんだ目玉を壁面から千切り、床に叩きつけて踏み潰した。
「俺を倒してみせろ。ヤークフィースでもいい。ゾルダルートでもいい。両方いっぺんでもいい。俺と勝負をしろ。決着がつくまでは、データを流す話を延期し ろ」
 サキが不安げな声を出した。
「天野。それは無謀だ」
 振り向きもせずに敬介が答えた。
「分かっています。けれど、他に方法がない」
 しばらくヤークフィースは沈黙したが、壁全体を大きく揺らして喋りだした。
『まったく馬鹿馬鹿しい。下らない要求です。データをばらまいて世界を乱し、その後で貴方を倒せば済む話です。
 ……しかし……
 いまいましいことに、ゾルダルートが乗り気です。
 あなたと全力で戦いたいそうです。取引で決着がついてしまうのが面白くないそうで。信じがたいです、あの戦争馬鹿は!』
「それでは」
『受け入れざるを得ませんね……仕方ありません。決着が着くまで、動画の件は後回しにします』
 隊員たちが、「おお」と歓声をあげる。
 敬介は振り向いたまま、
「隊長。俺は時間を稼ぎます。その間に、奴の……ヤークフィースの本体を突き止めてください。そして動画のデータを破壊するんです」
「わかった。必ず」
 この巨大なビルの全体に広がった、何千メートルとも知れない長大なヤークフィースの、本体を探す。困難なことだろう。だが期待には応えなければいけな い。彼が掴んでくれたわずかな勝機だ。
「それから……」
 そこで敬介は、はじめて振り向いた。棘に覆われているため、その表情はよく分からない。だが声は弱く、震えていた。
「……隊長。俺は隊長に謝らなければいけません」
 なんのことだ、と問うまでもなく、
「隊長は俺に言ってくれました。心の柱が一本しかない人間は脆いと、もっといろいろなことに興味を持ったほうがいいと。でも、俺は決めました。俺はたった 一本の柱、一本の道だけで戦います。隊長の助言を無視することになりました。すみません。でも、そうでなければ、俺はいやなんです」
 敬介の顔がわずかに傾いて、視線がサキの腕の中に飛び込んだ。
 そこに抱えられている、凛々子の生首に。
 何が起こったのか理解し、サキはかぶりを振った。
「それでいいのかもしれない。
 『俺にはこの世界しかない、見えない』というのと。
 『他の世界も見たけれど、俺はこの道を行くと決めた』
 この二つは違う。私にはただ、健闘を祈るとしか言えない」
 その先の言葉は、あえて呑み込んだ。
 人間には、あまりに辛い道ではないか……?

 (ここから先が更新分です)
 
 36

 教団本部 地下駐車場

 敬介は重い鉄扉を開けて、駐車場へと足を踏み入れた。
 すべての照明が消えているため、墨を流したような絶対の闇が満ちている。
  だが敬介は暗所戦闘に備えて自分の五感をすでに変化させていた。
 視界が左右に分かれている。
 右半分は、闇の中に白いぼんやりとしたシルエットが見える。四足の何か。熱源映像で敵の体温を見ているのだ。たくさんあるはずの自動車や柱は熱を発さな いため、まったく見えない。
 左半分は、大昔のコンピュータゲームのようにワイヤーフレームで立体が表現されている。四角い柱と、箱型の自動車がずらりと並んでいる。自らの心音の反 響を聞き分けて、障害物を感知しているのだ。
 どちらも得られる情報はわずかなものだ。
「……よく来たな、小僧」
 敵のシルエットが……ゾルダルートが、重低音を発した。
「……そういえば、お前には名乗っていなかったな。儂はゾルダルート。『魔軍の統率者』……」
 相手の名乗りが終わらないうちに、敬介は走り出した。
 たった数歩で時速百キロを超える。あまりの高速に、視界右側の超音波画像が歪んだ。ドップラー効果で音波の波長に狂いが生じたのだ。
 同時にゾルダルートも巨体を唸らせて突進を開始。
 敬介は距離を詰めながら身を屈め、振り回されるゾルダルートの前腕をかいくぐった。コンクリートの床を滑って、腹の下を通り抜ける。
 装甲のない、腹の下を。
「馬鹿がっ!」
 間近でゾルダルートが嘲りの声を上げる。
 嘲りの理由は分かった。右目の熱源視覚に、白くまばゆい光の突起が並んでいる。極限まで張り詰めた、筋肉の砲列。腹の下に多数のマッスルガンがあったの だ。ゾルダルートは前回の戦いに学び、腹部の防備を固めたのだ。
 敬介に向けてマッスルガンが一斉に咆哮。岩塊を両断する超音速水流が頭上から降り注ぐ。
 だが敬介はひるまない。こんな攻撃など予測していたから。手の鉤爪で床を引っ掻いてさらに加速、ウォータージェットが放たれた瞬間には通り過ぎていた。 背後で水流がコンクリートを粉砕して飛沫を撒き散らす。
 股下をくぐり抜けた敬介は高速滑走を続けながら立ち上がり、体を捻ってゾルダルートの方を向く。相対速度数百キロで遠ざかる敵の体に、あらんかぎりの瞬 発力で腕を伸ばした。
 正確には、敵の体の一点。太い両脚のあいだで無防備な粘膜を晒す、肛門に。
 狙いは最初から、腹ではない。
 敬介の長い腕が肛門に突き刺さり、直腸を押しひろげて侵入。肘まで入ったところで敬介は指を広げ、腕の刺を逆立てる。何百の刺が臓物に食い込んだ。
 敬介の体に急激な減速がかかる。関節が悲鳴をあげ、筋肉と腱が弾ける寸前までミチミチと伸びて、かろうじて体が止まった。腕は抜けない。
「グオオオッ!」
 ゾルダルートが苦悶の叫びを上げる。尻を振ってコンクリートの床に叩きつける。敬介は避けることもできず尻の下敷きになった。棘の密生した巨大な獣の尻 が顔面を潰し、頭の上にのしかかる。それでも敬介は耐えた。ゾルダルートは転げまわった。連なる車を片端から踏み潰して、巨体が転がる。敬介は風車のよう に振り回される。腕が捩れてへし折れそうだ。クルマのフロントガラスに、ボンネットに顔面を打ちつけた。ガラスの破片が爆散して散弾銃の弾丸のように飛ん でくる。
 耐えた。左腕を巨獣の背中に伸ばして爪を突き立て、引っ張る。右腕を腸の奥深くに押し込む。腕の付け根まで入った。
 ゾルダルートは後ろ脚を器用に旋回させて敬介を蹴り飛ばした。顔面を爪が抉り、腹に丸太ほどもある脚が突き刺さる。
 それでも耐える。腕の骨を変形させて、伸ばしながら振り回した。ミキサーの中で旋回する刃のように。爪が臓物を切り刻んでいく。大腸と小腸を何十もの断 片に変え、生ぬるい血の海の中を、さらに奥へと伸びる。目指すは脊髄と心臓だ。
「オオオオッ!」
 またゾルダルートが咆哮。作戦を変えてきた。腹の中が激しく蠢く。筋肉を移動させている。腹筋の全てが、肛門に……敬介の腕の周りに集まってくる。太い ゴムタイヤの感触が敬介の腕を取り巻き、しっかりと押さえ込んだ。極限まで強化された肛門括約筋が全力収縮を開始する。
 万力のような力が肘の前後を締め付けた。腕を抜こうとするがまったく動かせない。筋肉が乾いた音を立てて幾度も断裂。骨がミゾレ状にすり潰される。激痛 の塊となった腕が痙攣した。
「ガァッ……!」
 今度は敬介が苦痛に呻く番だった。腕の細胞に死滅を命じ、腕をまるごと引きちぎって、力の限り飛びのく。
 背中がコンクリートの柱にぶつかって跳ね返る。受身を取る余裕などない。無様に床を滑って転がった。
「ハアッ……」
 右腕は肩より下がほとんどなくなっている。切り株のような丸い筋肉の塊しか残っていない。傷口には骨が露出し、細胞が壊死して柔らかいペースト状になっ ている。動脈は閉じたはずだが止血しきれなかったらしく、屠殺場に鼻面を突っ込んだような濃厚な血の臭いがする。なにより激痛がひどく、敬介は転がったま ま傷口を押さえて震えた。
 しかし巨獣も攻撃してこなかった。
 右目の熱源映像の中で、巨獣の口から白く輝くものが溢れだす。血を吐いているのだ。いかにフェイズ5の再生能力といえど、回復には何秒かを要するのだろ う。
「グフッ、……ゲホッ……やるではないか、小僧!」
 苦悶の声の中にも喜びが混じっている。
「手段を選ばぬ、醜く浅ましい戦いぶり……餓狼のようだ。かつてのエルメセリオンでは考えられぬ」
 すっと頭の中が冷え、敬介の震えが止まった。
 激痛? それがなんだと言うのだ?
「……当然だ」
 氷上凛々子は死んだ。軽やかに舞って全ての攻撃をかわし、剣光の一閃で敵を屠ってきた『反逆の騎士』エルメセリオンは、もういないのだ。
 ここにいるのは、一匹のケダモノだ。
 尻の穴だろうが何だろうが食らいついてやる。
「俺も名乗ってなかったな。
 天野敬介。……『贖いの獣』エルメセリオンだ!」
 叫ぶと同時に、立ち上がって飛びかかった。
 
 37

 殲滅機関日本支部 作戦司令室

「以上です。天野敬介の作戦を認めてください」
 作戦司令室の大スクリーンの片隅に映し出されたサキが、そう言って口を閉じた。
「よかろう。事態を打破しうる作戦と判断する。ただちに作戦の詳細を詰めろ。前代未聞だ、作戦部以外に意見を求めても構わん」
 ロックウェルが大きくうなずいた。
 すると参謀連中が渋い顔で議論を始める。
「しかし、いかにして映像記録を探し出すか……」
「ヤークフィース本体が記憶という形で保存している公算が高いでしょう。電磁パルスの影響を受けませんから」
「しかし、その本体をどうやって探せばよいのだ。奴はあの300フィートはあろうかというビルの隅々まで体を伸ばしているのだぞ」
「奴がネットに繋いだとき、どの回線を使用したか特定できないか? それで場所がわかるだろう」
「駄目だ。計算しているが、二十ヶ所程度までしか絞り込めない」
 なかなか結論が出ない。全員の顔に焦りの色がある。
 と、大スクリーンに人の顔が現れた。軍人には見えない陰気で気の弱そうな中年男だ。凛々子の頭に爆弾を入れ、裁判で証言した、あの技術士官である。
「三、三嶋礼一技術中尉です。意見があるのですが……」
「なんだね?」
「我々が蒼血と呼んでいる寄生体は単一の生物ではなく、数千億という微生物の集合体です。微生物はすべてがDNAコンピュータの素子になっており、超並列 演算によって人間並みの知性を得ているわけです」
「そんなことは周知の事実だ。何が言いたいのかね?」
「蒼血は微生物の一部を体内に放出し、筋肉や神経などの組織内に入り込ませて、さまざまな肉体強化を行っています。しかし、素子同士の距離が離れれば離れ るほどDNAコンピュータとしての性能が低下していきます。ですから蒼血が完全にバラバラになることはできず、どうしても脳などに本体を残す必要がありま す。そして本体からの距離が離れるほど、肉体強化の能力……いわゆるブラッドフォースは低下していく……」
「そうか!」
 ロックウェルはその巨体を揺らし、大声をあげる。
「つまり、反応速度の違いを見れば本体の場所が分かるのだな!」
「はい、その通りです。体の各所に一斉に攻撃を加えます。するとヤークフィースは逃げるなり、反撃するなり……その動きをカメラで撮影して、速度の差を調 べるのです」
「うむ、さっそく部隊に……まて」
 言葉を切るロックウェル。毛虫のような眉毛がうごめく。
「場所がわかったとして、奴がそこを動かないという保証はあるのかね?」
「それは……」
 三嶋大尉は言葉を濁した。
 隊員たちが本体の場所にたどりつくまで、どうしても数分、途中で向こうが反撃すれば、それ以上の時間を要する。逃げ放題ではないか。
「壁や天井の中に銀粒子を充満させるとか……」
「その程度、すぐに効果が現れるものではない」
 参謀達も押し黙ってしまった。逃げ放題では、場所を特定してもまったく意味がない。
 大スクリーンの片隅にもう一つのウインドウが開いたのはその時のことである。
 痩身の男が現れた。顔も細く、血色の悪い顔に四角いメタルフレームの眼鏡を載せている男。
「ウィリアム・シェフィールド法務大尉です。私に腹案があります」
「言ってみたまえ」
「裁判のテクニックを応用します。
 裁判において、どうしても被告を有罪にしたいが、不十分な証拠しかない、これでは弁護側がいくらでものらりくらりと誤魔化して逃げることができる……そ んなとき、どうすればいいかご存知ですか。
 演技するんです。
 『逃げられる不十分な証拠』を、あたかも『完璧な証拠』であるかのように。
 堂々と追及するのです。証拠の不完全性に気付かない間抜けになりきるのです。
 演技をやり抜けば、被告も弁護側も慢心します。そして必ずボロを出すんです。発言の矛盾。今まで言っていなかったことを漏らしてしまう。一転して、そこ を突いて突きまくります。
 今回の作戦についても同じことが言えます」
 ロックウェルが太眉を嬉しげに上げる。
「敵の移動に気付かない振りをして、全力で攻めるのだな?」
「その通りです。そうすれば、敵はこちらを馬鹿だと思って、『警戒せずに移動』するでしょう。『普通なら行かないだろう、危険な場所』に行ってしまうこと もあり得る。つまり敵の移動場所を誘導できる」
「その誘導した場所に隊員を潜ませ、迎撃するか……参謀、どんな場所に来る可能性が高い?」
 参謀たちは即座に答える。
「はい。奴は銀粒子の充満環境で長時間活動しており、また体を極端に細長くしているため、例の濾過装置での銀除去も困難です。つまり呼吸できない状態が続 いているわけで、酸素のある場所に来る可能性が高いでしょう」
「参謀。五階、七階、十六階で酸素ボンベが発見されているな?」
「はい。十階で発生した大火災も、酸素ボンベによるものです。以上のうち、ボンベが使用されずに残っているのは七階のみです」
「よし、では七階の、ボンベのある部屋に隊員を潜ませよう。だが……」
 そこでロックウェルは思案顔になる。参謀の一人が呟いた。
「騙し抜くためには、本当に潜ませる必要がありますね。シルバーメイルなし、生身で」
「その通りだ」
 シルバーメイルは動力源の燃料電池こそ無音であるが、手足を動かすためのアクチュエータ、武装を取り出すためのモーター、生命維持装置のポンプなどがど うしても音を発する。蒼血相手に、存在を秘匿することは不可能だ。
 すると生身状態で、床に倒れている教団員に混ざって待ちうけるしかない。
「しかも数の問題がありますよ……そこに潜伏していることを覚られてはならないのですから、大部分の部隊はあくまでヤークフィース本体攻略に向けてぶつけ る必要があります」
「そうだな。大規模な部隊移動を隠すことは難しい。潜伏させられるのは数人、理想をいえば2、3人だな」
 参謀達全員が『馬鹿な』と眼をむいた。戦闘に疎いシェフィールドですら唇を驚愕にゆがめている。
「たった二人で……フェイズ5を迎え撃つ、ですって?」
「そうだ、危険な賭けであることは認めよう。しかしシェフィールド大尉、君のいう裁判戦術とやらも賭けではないかね?」
「はい。相手が引っかかってくれなければ、不完全な証拠で浮かれているだけの道化です。完全に敗北します」
「それでも君が賭けをするのは何故かね?」
「……それがもっとも有効な戦術と信ずれば、やりましょう。細心に検討し、大胆に実行するのみです。現場で躊躇ってはなりません」
「だとすればだ、諸君」
 ロックウェルは屈強な巨体を椅子から立ち上がらせた。それだけで室内の圧迫感が数段は増す。
 一同を見渡して、
「賭けようではないか、大いに」
 もはや不服を申し立てる者はいなかった。
 ただ一人で、生身で蒼血を倒した例が、まったくないわけではない。
 そう、日本支部最強と呼ばれた首藤剛曹長のように。
「さて人選だが。これも長時間かけて決めている余裕はない。
 私の責任で指名する。
 影山サキ准尉。リー・シンチュアン軍曹。
 この二人が適任だ」
 
 38

 10分後
 地下駐車場

 漆黒の闇の中で、戦いは続いていた。
 音と熱源で判断し、巨獣のいる方向に向かって敬介は走る。
 柱の陰から柱の陰に飛び移りながらジグザグに近づいていく。風切り音とともに水流が飛来。一瞬前まで彼が隠れていた柱に激突。大きな弾痕を作る。
 戦いが始まって十分あまり、すでに数千の攻撃を互いに放っているが、敬介の有効打は尻の穴をえぐった一回だけだった。
 有効打を与えられない理由は……
 数メートルの距離まで敬介は迫った。ここから先、障害物はない。柱の陰から飛び出して疾駆する。
 同時に、柱のコンクリートの破片を投げつける。深手を負わせることは期待していない。せめて注意を逸らすことができれば。
 と、熱源映像で異変をとらえた。巨獣の肩から突き出している肉の砲身が、眩しさを増す。
 筋肉の異常収縮。マッスルガン発射の兆候。
 弾道を予測。とっさに体を捻り、走りながらも左右に進路を捻じ曲げて回避を図る。
 予測が甘かった。脇の下や肩を水の弾丸がかすめる。下半身は避け切れない。一筋の水流に膝を撃ち抜かれた。足がもつれ、倒れこみそうになる。身体がふわ りと浮いてしまう。足場のない空中では回避方法が限定される。何とか足を着こうとあがく。その動きを完璧に予測されていたのか、第二第三の水流が来る。頭 に、胸板に、また足に水流が着弾する。
 頭の中が衝撃で真っ白になる。足の筋肉が痙攣する。もう立っていられない。吹き飛ばされた。反射的に手を突いて、側転を繰り返して逃げる。全身のバネの 力を振り絞って、わずかでも早く、巨獣から離れて柱の陰に。すぐ近くで水流の着弾音、コンクリートの砕ける音。
 やっと柱の向こうに逃げ込めた。
 ……また攻撃に失敗した。こんなことを、どれだけ繰り返しただろう。
 圧倒的な体格差を覆すには超接近戦しかない。組み付いて急所を狙うのがいいだろう。
 だが、敵の火力が強力すぎて近づけないのだ。
 柱から敵まで、自分が無防備になる数メートル。この数メートルをなんとか守れれば。
 ……やってみるか?
 ゾルダルートは巨体を躍らせ、走り出す。敬介がいる柱の裏側に回り込もうとする。敬介がそのまた裏側に回る。ゾルダルートがさらに回り込む。絶えず射撃 を続けながらだ。
 結果としてゾルダルートは緩やかな螺旋を描きながら敬介に近づいてゆく。敬介のいる柱は全周囲から均等に水流を浴びせられ、食べかけの林檎のように細く 削れていく。
 大型トラックを縦にしたほど巨大だった柱は、いまや人間ほどの太さしかない。
「……ぬあああっ!」
 突如として敬介は蛮声を張り上げ、細くなった柱に両掌を叩き付ける。コンクリートが乾いた破砕音とともに割れる。渾身の力で、敬介は柱を抱え上げる。腕 の筋肉が膨れ上がり、柱が宙に浮く。
「小僧! はかりおったな!」
 意図を悟ったゾルダルートがいまいましげに吐き捨てたが、もう遅い。敬介はコンクリートの柱を抱え、盾にして突進した。太さ数メートルの柱を持ち上げる ことはできない。だから敵を利用して、持てる大きさまで削ったのだ。
 水流が何度も何度も柱を撃った。ビスケットのようにたやすく削れ、えぐれていく。厚さが半分になり、三分の一になり、幅も小さくなって、もう体を隠しき れない。肩に水流がぶち当たった。筋肉が抉れ、骨を水流が叩く。ともすれば痙攣をおこしそうになる腕を、肩を、胸をあらんかぎりの意志力で抑え込んで、た だ敬介は疾駆する。
 最後に残った、丸盆ほどのコンクリート塊がついに砕けた。しかしその時、すでにゾルダルートは目の前、格闘ができる距離。
 身をかがめ、獣の頭の下にもぐりこみ、全身の力を束ねた鉄拳を打ち上げる。狙うは喉。
 と、そのとき熱源視界を、真っ白い何かが埋め尽くした。
 え? と思う間もなく、巨大な衝撃が下から顎を撃ち抜いた。眼球の裏で何百の星が散る。頬骨と頬肉が抉られ、頭全体が凄まじい勢いで振り回される。頭蓋 骨の中で脳が揺さぶられ、ぼやける意識。なんとか繋ぎとめる。
 たった一撃で、顔の右下四分の一を、肉も骨も刈り取られた。
 体の勢いは止まらず、突き上げた腕は相手の喉に達したが、体の軸がぶれているので打撃力を発揮しない。分厚いゴムのような皮膚に弾き返された。
「かはっ……!」
 強烈なアッパーカットを食らったのだ、こちらの攻撃よりも数段早く。
 そう理解して、よろめく体を建て直し、足を踏ん張った時。
 また熱源視界の中で真っ白いゾルダルートの巨体が膨れ上がる。
 体当たりだ。一個の弾丸と化して飛び込んできた。避けようと体をひねって、足がもつれる。
 腹と胸に、一抱えもある頭部が激突。
 鉛の塊を何千気圧で高圧注入されたような重い苦痛。肋骨がまとめてへし折れ、肺が潰れてすべての空気が強制排出される。圧迫された胃が破裂するが、苦悶 の声さえもあげることができない。
 体をくの字に折って、吹き飛んだ。
 頭をコンクリートに何度もぶつけた。天井や柱に衝突したのだろう。自動車の屋根の上を身体がバウンドする。ようやく床に落ちた。呻こうとして、血の塊が 口から飛び出した。
『エルメセリオン! 早く肉体を修復してくれ!』
『来るぞ!』
 頭上にごう、と風切音が迫る。奴が飛んでくる。降ってくる。
 胸の中で暴れる激痛を無視。体をひねり転がって避けようと試みる。
 間に合わない。奴の動きは数倍早い。
 巨大な破城槌を打ちつけるような音とともに、奴は着地してきた。
 敬介の体の上に。
 敬介の手足一本ずつを、獣の手足で押さえつけて。
「があっ……!」
 包丁を並べたような爪が筋肉組織を食い破り骨に達した。爪が微かな唸りを発する。高周波を流しているのだ。切断力が桁違いに跳ね上がり、敬介の臑を。前 腕を。爪が貫通した。もう動かせない。意志を無視して出鱈目に痙攣するだけだ。
 完全に体を固定された。
 即座に次の攻撃が襲ってくる。巨獣の下腹部に並ぶマッスルガンが、敬介の下半身に向かって一斉に撃ちおろされた。わずか一メートルの高さから超音速水流 が殺到する。何度も、何度も。
 最初の一撃で針状装甲が消滅。
 次の一撃で腹筋に大穴が穿たれた。
 三度目で内臓が数十の断片に分解され。
 四回目で腰骨と腰椎がついに打ち砕かれた。
 もう痛みすらない。神経さえも残っていないのだ。
 見ることはできないが、おそらく臍から腰にかけての肉体の全ては、バラバラの肉片骨片になって飛び散リ、水に流されてコンクリートの床を広がっているの だろう。
 下水を漂う残飯のように。
「……!」
 もはや悲鳴をあげることもできない敬介。顔面の筋肉がわななき、口からは荒々しい息が溢れる。
「……愚かよのう。肉弾戦ならば勝てるとでも思ったか、儂に?」
 生臭い吐息と一緒に、ゾルダルートの声が降ってくる。奴はたった数十センチの高さまで顔を下げているようだった。
「痛かろう。恐ろしかろう。すぐに楽にしてやる」
 ゾルダルートの声は優しげですらあった。戦士に対する敬意、というものが欠落している。遥かに格下の存在を、苦笑しつつたしなめるような。
 舐められても仕方がない実力差ではあった。周りに人がいない、全力発揮が可能な場所では、ゾルダルートはこんなにも強いのか。
 だが敬介は。
 痛覚信号の奔流で脳髄を灼かれながら。鋭く、鮮やかに、思った。
『こんな物、誰が痛いものか。』
『この程度、何が怖いものか。』
 なぜなら知っているから。
 本当の痛みを。
 ――愛する姉が、殺されてしまった。もう一人の大切な人を、自分の手で殺めてしまった――
 真実の恐怖を。
 ――俺はこの道を行くと決めたから、俺は決して姉の仇は取れない――
 だから。敬介は冷静だった。その心は澄み渡っていた。わずかに残っている、臍から上の部分を再生させる。肺と肋骨を繋ぎなおす。肉の量が足りない、腕を 生やすことはできないか……?
 そして考えていた。脳細胞を焼き切れんばかりに高速稼働させて、この場を脱する策を。どうにかして逆転の手段はないかと。
 だが考えても考えても浮かんでこない。
 浮かんでくるのは、頭の中で火花のように弾けるのは、凛々子の思い出だけ。
 ――『ボクはエルメセリオン。九十九歳なんだけど十五歳って思ってくれると嬉しいな』
 ――『ところで敬介くん、デートしない?』
 ――『だってロマンスカーの頂点VSEだよ! 天空からトランペットの調べが降り注ぐよ!』
 ――『宇宙船みたいだね、ぎゅーん!』
 ――『一皮向けば同じでも。ボクはその一皮を、絶対に脱がない!』
 ――『ボクはそれを知ってる。たくさんの戦場で、たくさんの復讐者を見たよ! でも、みんな!』
 ああ、凛々子。かけがえのない思い出。
 これから幾万回、幾億回、思い出すたびに胸を締め付け、だが力を与えてくれるだろう思い出たち。
 だが、いま必要なのは思い出ではないのだ。
 いま目の前の敵を倒せなければ、『これから』など来ないのだ。
 思い出じゃ駄目だ、具体的な戦術を……!
 生半可な攻撃では、奴の細胞配列変換で再生される。
 一撃必殺の手段を……!
 だが、浮かんでくるのは凛々子の表情、台詞……
 水族館での台詞が、ふと心に引っかかった。
 お前は本当に好みが男の子みたいだな、と言った敬介に、凛々子は膨れっ面で答えたものだ。
 ――『そんなことないもん。イルカとかも好きだもん。とくにシロイルカとか凄いよ。オデコのところに超音波を集中させるレンズがあって、超音波で敵を攻 撃するんだよ? かっこよくない?』
 そういうところが男の子だって言ってるんだ、と敬介は笑ったはずだが。
 まて。何かが気になる。
 超音波……? 細胞配列変換?
 ハッと気がついたときには、ゾルダルートはすでに顎を開き、敬介の首筋に噛みつくところだった。極限まで加速された時間感覚の中ですら、顎の動きは滑ら かで速い。猶予は、あとわずか。
『エルメセリオン!』
 呼びかけた。
『何だ?』
『一瞬だけ、奴の隙を作れるかもしれない。一瞬で、手足を再生させて攻撃できるか?』
『細胞の数があまりに足りない。それに蒼血細胞も、大部分が流れ出してしまった。大きな負担をかけて蒼血細胞をたくさん死なせて、それでも成功率は……二 割というところか』
『上等だ! やってくれ!』
『なにをしようというのだ?』
『後悔させてやるのさ! ――無駄口叩いて、俺に時間をくれたことを!』
 敬介は、体の中にわずかに残る脂肪分を集めて額に配列。
 特殊な脂肪組織の円盤――超音波を収束する生体レンズ、「メロン器官」を作り出す。無論、実物のシロイルカを遥かに上回る高出力の物だ。
 そして肺の中の空気のありったけで、吼えた。
 咆哮はレンズを通り向けて一本のビームとなって空気をつんざく。目の前であんぐりと口を開けるゾルダルートの顔面に吸い込まれ、その頭蓋の内側で焦点を 結んだ。
 突如として膨大な量の超音波を注ぎこまれた脳漿が、爆発的に沸騰。何万何億の微細な気泡が溢れて頭蓋骨の中を埋め尽くす。キャビテーション現象。超音波 洗浄器と同じ現象を、巨大な出力で再現。無数の気泡が弾けて脳を叩き、全方位から脳を押し潰す。脳の血管の中でも同様のキャビテーションが起こり、血管が 気泡で埋め尽くされて血流が停止する。酸素が脳に送られない。
 変化は劇的だった。顎を開いて首をくわえ込もうとしてた、ゾルダルートの頭がぐらりと傾ぐ。体全体が脱力し、大きく揺れて、倒れそうになる。手足をじた ばたと動かしてなんとか転倒を防ぐが、その動きはあまりに鈍く、無駄だらけで、まるきり泥酔者のそれだ。
「アガッ……オウッ、き、きさ……ま……っ」
 口から泡を噴き、憤怒の声を垂れ流すゾルダルート。だが体はふらついたままだ。 
 脳漿も血液も、細胞成分に乏しい。「細胞配列変換能力」では治癒できない。間接的な手段で回復させるしかない。通常の負傷より回復は遅くなる。
 その間に敬介は、跳んでいた。
 首の筋肉の力だけを使って床を叩き、反動で跳躍。
 もし闇を完全に見通す目の持ち主がここにいたならば、世にも奇妙なものを見ただろう。
 いまや敬介は腕も足もなく、ただ頭部と胸部だけが残っている状態。折れた背骨が胴体の断面から突き出している。
 そんな屍にしか見えない物が跳躍し――空中で融ける。
 頭も肩も胸も、残っている肉体の全てが液体に変化する。
 蛹の中で、芋虫から蝶へと姿を変える時のように。
 すべての細胞結合を解除して、内臓も骨も原形質に還して、組み立て直す。
 コンマ一秒に満たない時間で、新たに液体が人の形を成す。
 身長はたかだか一メートル。手足は幼児のように短く、胸板も薄い。脳だけは小さく作れなかったのか、頭はスイカほどに大きい。
 棘に覆われた、巨大な頭の目立つ化け物。
 化け物――敬介はさらに空中を舞い、ふらつくゾルダルートの背中に飛び乗った。首の後ろにしがみついた。そのままゾルダルートの耳を引きちぎる。耳は頭 蓋骨の開口部だ。これで道が開いた。耳をちぎって出来た穴に、赤ん坊のような細い腕を突き入れる。中耳と内耳をまとめて粉砕、脳髄に指をめり込ませる。
 そのとき、敬介の体を幾本もの触手が貫いた。おそらく「魔軍」は脳にはいなかった。脊髄だろう。だから力を失っていない。ゾルダルートに代わって肉体を 制御すると、触手を作り出し、敬介を攻撃したのだ。
 敬介は何の抵抗もできない。両手は塞がっている。避けることも、装甲で防ぐことも。肉体の再構成にすべての力を使ってしまったから、針状装甲は脆弱なも のしか作れなかった。たったいま作られたばかりの肺を、肩を、臓物を、何十本もの触手が串刺しにして機能を奪っていく。穿たれた穴から、血液がほとばし る。一瞬で血液の半分が流れ出した。
 気にしない。痛みも麻痺も、迫り来る死も。
 ただ指を、頭の中に深く、深く刺し入れて。
 指先が何かを捉えた。引っ張り出す。
「ヤメロォォォ!」
 巨獣が絶叫する。主を慕う眷属たちの、悲痛極まりない叫び。
 もちろん敬介は止まらない。掌に掴んだ生ぬるいアメーバを、高く掲げて、天井へと投げつけた。
 音速ですっ飛んだアメーバは天井に衝突して四散。霧状の細かな微粒子になって、駐車場内の空間に広がっていく。
 蒼血は微生物の集合体で、細胞ごとにバラバラになっても生きることはできる。だが、ある程度の数が密集して相互に信号を飛ばさなければ、知能や人格を維 持できない。
 「魔軍の統率者」ゾルダルートは、いま死んだのだ。
 だが敬介は油断せず、緊張をたもったまま、次なる攻撃に身構えた。
 激怒した『魔軍』は主の仇を討とうとする。そう思ったのだ。
『エルメセリオン。相手の体を乗っ取って戦うぞ。フェイズ5がいなくなったから、支配力の競争で勝てるはずだ!』
『待て。様子がおかしい』
 エルメセリオンの言う通りだった。巨獣は微動だにしない。怒りの咆哮をあげることもない。そればかりか、敬介の体に突き刺さった触手までもが、力を失っ てしおれ、千切れていく。
「なんだ……?」
 当惑する敬介。
 巨獣が顔を上げた。
 いまだ駐車場内は真っ暗闇だ。熱源視界では表情はわからない。
「……天野敬介よ。礼を言おう」
 表情はわからないが、その声は……静かで、落ち着いて、満足の色すら滲んでいた。
「我等はゾルダルート様の眷属。ただゾルダルート様の手足となり刃となることが望み。
 ゾルダルート様の望みは戦いを楽しむこと。
 きっとゾルダルート様は喜んでおられるだろう。
 これほどの敵手と巡りあえた事を。
 ならば我等が、お前を憎む理由は何もない。
 そして我等が生きる理由も、もはやない」
 それきり声は途切れた。敬介が座り込んでいる巨獣の体が、たちまち柔らかく変化、泥のように崩れ落ちる。心音も呼吸音も消えている。
 骨も残さず溶けて、床に広がった。
 蒼血細胞は人間の細胞と発熱量が違うので熱源視覚で捉えることが出来る。だが見当たらない。
 すべて死を選んだか。
 敬介はあっけにとられる。ようやく胸や腹の風穴が激痛を訴えてくる。
「勝った……のか?」
『そのようだな。だが油断してはならないぞ。
 こんなもの、君が越えていく千の戦い、万の敵の、最初の一つなのだから』
「ああ……!」
 そうだ。俺は誓ったのだ。
 力強く答えて、立ち上がり、地下駐車場を去った。
 
 39

 その十分ほど前

 教団本部ビルの各所で、作戦部隊が一斉に行動をはじめた。
 何百人の兵士が、床や天井に広がるヤークフィースの目玉に、銃撃を浴びせる。
 目玉が飛び散る。即座に他の目玉が壁の中に逃げ込んだ。なおも壁に銃撃を叩きこんで穴だらけにすると、ドアを突き破って爬虫類姿や昆虫姿の眷属たちが飛 び込んでくる。怒りの声をあげて襲い掛かってくる。通信回線にヤークフィースの声が轟く。
『なんのつもりですか! 裏切りましたね!』
 各小隊の隊長は眷属と抗戦しながらも、「撃ってから反応が起こるまでの時間」を記録し、作戦本部に送信した。

 40

 殲滅機関作戦本部

「十一階、北西ブロックより連絡。銃撃より反応までコンマ六秒。眷属の襲撃まで八秒」
「十五階、南西ブロックより連絡。銃撃より反応まで……」
 作戦司令室では、大勢のオペレータが通信内容を読み上げ、手元のキーボードを操作して、大型モニターに表示されたビル立体図に、数字を書き込んでいく。
 数字が揃ったところで、別のオペレータがプログラムを走らせ、ヤークフィース本体の位置を推測する。
「もっとも可能性が高いのは十二階のこの部屋です。その次がこの部屋、第三候補はこの部屋です」
「わかった。総力をもって攻撃しろ」

 41

 数分後
 十二階

 ホテル時代に客室だった部屋に、長い黒髪の美少女がいた。
 ヤークフィースだ。
 リビングルームで豪奢なソファに深く腰を下ろしている。漆黒の法衣をまとった両腕には透明なチューブが突き刺さり、チューブはリビングの中央に置かれ た、一抱えもある機械に繋がっていた。体内の銀を除去する透析装置だ。
 恐ろしいほどに整った顔に、しかし焦りの色があった。
 ゾルダルートからの連絡がない。宿主を変えたばかりのエルメセリオンなど、たやすく蹴散らして当然だと言うのに。
 そして人間たちは、戦闘中止命令を無視して先ほどから猛然と攻撃をかけている。
 正確にヤークフィースのいる場所めざして進撃を続けている。奴らは三百名以上の大戦力を投入しているらしい。チヌークの数から逆算すると、全戦力の八割 だ。ビルの外で狙撃態勢をとって待ち構えている数十名をのぞき、すべての力を結集しているのだ。
 蒼血たちは必死の防戦を行っているが、一階また一階と突破されている。最大の戦力を持つ「魔軍」が出払っているせいだ。
 こうなったら。ゾルダルートとの約束を無視して、動画を公開するか?
 そうも思ったが、ゾルダルートに臍を曲げられてはかなわない。動画を公開すれば、人間と蒼血は全面戦争に突入する。ゾルダルートと「魔軍」なくしては生 き残れない。
 では自分だけでも逃げるか?
 しかし、人間達の行動はどうみても罠ではないか。自分がこの場所から逃げられることを、まさか気付いていないはずがない。にも関わらず、すべての戦力を 集中させてくる。
 罠だ。私をこの場所から逃がして、どこかに誘導する気なのだ。
 動くまい。
 と、暗がりのなかで決めた、その瞬間。
 ドアが開いて、昆虫姿の蒼血、爬虫類姿の蒼血が転がり込んできた。体のあちこちに銃創があり、おびただしい血を流している。
「ヤークフィース様! 装置を使わせてください」
「私も、私も装置を……!」
 彼らの膝は震え、声も苦痛にかすれている。ライフル弾の傷ごとき、たちまち回復するのが蒼血であるのに。
 ヤークフィースは嘆息すると、装置から伸びるチューブを手渡した。
「お使いなさい」
 これが苦戦の理由の一つだ。人間達は膨大な量のシルバースモークを投入している。もはやビル内の空気は蒼血にとって猛毒に等しい。ならば息を止めて戦 い、酸素は敵の死体から奪うか。この装置で銀を抜きながら戦うしかない。いずれにせよ戦術的な自由度を大きく奪われる。戦力を十分に集中できない。
 ……酸素さえあれば。
 このビルに持ち込んだ数十本の酸素ボンベ。あれを持ってくることができれば。肺に圧縮酸素を押し込んで、呼吸せずの長時間戦闘が可能だ。
 七階にボンベがまだ残っていたはずだ。
 これこそが罠ではないか、という危惧と、酸素を手に入れない限り打破できない、という焦燥が心の中でぶつかり合う。白くたおやかな指で拳をつくり顎に当 て、眉間にしわを寄せる。
「銀を、銀を受けました!」
 悲鳴と血しぶきをあげて、また一人の蒼血が飛び込んできた。
 ヤークフィースの心は決まった。
「仕方がありませんね」
 手首のチューブを抜き、立ち上がる。
「ヤークフィース様、どちらへ?」
「酸素を取りに行きます。お前達は防戦に努めなさい。この装置を防衛することを最優先に。不可能な場合は、可能な限りの人間達を道連れにして自爆なさい。 逃げることを考えてはなりません。
 『神なき国の神』『魔軍の統率者』ある限り、我らの勝利は揺らぎません」
「仰せのままに!」
 ヤークフィースは服を脱ぎ、豊満でありながら引き締まった美しい裸身を闇の中に晒す。裸身が歪み、細長く伸びながら捩れていく。
 蛇のように体を変形させ、天井を突き破って消えた。
 
 42

 ヤークフィースは壁の中、天井裏のパイプスペースや通気口を通り抜け、すぐに七階に到達した。
 目標は、七階廊下の端にある喫煙スペースだ。プラスチックの透明な板に囲まれた椅子とテーブル。このテーブルの中には空気清浄機とともに酸素ボンベが隠 してある。
 細長い体を天井から出し、飛び降りる。空中で肉体を変形させ、美少女の姿を取り戻して着地する。ドアを開けて喫煙スペースの中に入ろうとした、その瞬 間。
 喫煙スペースの近くに倒れていた二人の人間……純白の信徒服を着た男女が、一斉に体を起こす。隠していたM4カービンを撃った。
 ヤークフィースは自分に向かって浴びせられた銃弾をとっさに払いのけた。だがもう片方が撃ったほうはヤークフィースではなくテーブルに吸い込まれた。
 テーブルの中のボンベに。
 噴き出した酸素と銃弾の熱が、炎を生んだ。
 明るいオレンジの炎が絨毯に広がり、プラスチックの壁を溶かしてさらに膨れ上がる。
 酸素はたちまち消費しつくされてしまうだろう。
「……あなたっ!」
 普段の丁寧語をかなぐり捨てて喚き、ヤークフィースは男の方へ突進した。銃を蹴り上げて吹き飛ばし、片手で首根っこを掴んで持ち上げる。背後から連射が 浴びせられたが無視する。男の首筋に噛みつき、頚動脈を食いちぎる。
 ……酸素が駄目ならば、酸素のたっぷり含まれた血液を奪っていくまで。一滴残らず奪いミイラにしてやりましょう。
 あふれ出す血液を啜り、牙を通じて体内に取り込んだ瞬間、激痛が弾けて怒りを挫いた。
 吸い込んだ血が、まるで硫酸のように血管を、内臓を灼く。血液中の蒼血細胞が何十億という単位でまとめて死滅する。あらゆる筋肉が反乱を起こし、高圧電 流でも浴びたように手足が痙攣する。
「あ……がっ!?」
 これはまさか、銀!
 この男、血液の中に何らかの手段で銀を流し込んだ!
「そうさ!」
 男は糸のように細い眼に執念の光をきらめかせて叫んだ。
 正気の沙汰ではない。大量の銀は人間にとっても有害ではないか。
 血を吸われることを予期し、自らを罠と化して待っていたというのか。
「おのれっ……」
 男がヤークフィースの裸の背に腕を回して、抱きすくめてくる。ヤークフィースは力ずくで振りほどこうとした。骨が軋み、男の顔面に冷や汗が浮き、腕が緩 む。いかに大量の銀を受けたとはいえ、生身の人間と力比べで負けることはない。
 だが女のほうが、何かの機械を手にしてヤークフィースの背に突進してきた。
 視界の片隅で見た。女が持っている機械は、細長く、パイプやスプリングで構成され、先端には銀色の太く禍々しいスパイクが生えている。
 それがシルバーメイルの近接格闘武器だと理解した時には、もう女は体ごとぶつかってきていた。
「インパクト!」
 裂帛の気合のこもった一声とともに、背後で火薬カートリッジの炸裂音。肋骨を避けるように背中の下の部分に、銀皮膜でコーティングされたタングステン合 金の杭がぶち込まれた。男の体もろともヤークフィースを串刺し。
 ――縫い付けられた。
 電流は流れない。電装系に接続されていないからだろう。だが銀の杭は、ただそれだけで内臓を焼く。力がますます奪い取られていく。杭を抜く力が出せな い。
「リー軍曹! 行けぇっ!」
 女が苦しげな声を張り上げる。苦しげなのは負傷したからだろう。生身の腕で反動に耐えられるはずがない。間違いなく腕がへし折れている。
「はいっ!」
 リーと呼ばれた男は叫び返すと、ヤークフィースを抱きかかえて窓に向けて走る。
「離しなさいッ!」
 ヤークフィースは頭突きを浴びせた。男の鼻に直撃。鼻骨が粉々に砕ける感触。衝撃は頭蓋骨全体に伝わったはずだ。陥没した鼻から生ぬるい血が噴出。耳か らも目からも血が溢れ出す。
 それでも男は止まらない。そのままガラスに体当たりして、突き破って落ちた。
「まさか……!」
 何なのだ、一体こいつらは。自分の腕を潰してまで、仲間ごと敵を串刺しにする女。そしていかなる負傷にも耐え、七階からダイブする男。
 人間は。人間とは。もっと弱く、哀れで、騙されて現実から目をそむけるばかりの生き物ではなかったのか。
「きさまは……?」
 風切り音の中、ヤークフィースはリー軍曹の顔を覗き込む。
 顔面を血まみれにしたリー軍曹は凄惨に微笑んだ。
「ヤツが命懸けなんだ。負けるわけにいかねえだろ、俺も……!」
 直後に、二人は大地に叩きつけられた。リー軍曹が下になる。
 軍曹の骨盤が破砕される音がヤークフィースに伝わってくる。手足が奇妙な方向に捻じ曲がる。二人の体がバウンドして止まる。
 軍曹は声もなく白目をむいて気絶した。即死はしていないが、すぐに治療しても助かる確率は低いだろう。
 ヤークフィースは無傷だった。ピクリとも動かない軍曹の体から、力任せに杭を抜く。
 立ち上がり、自分の体からも杭を抜く。
 だが、その時にはもう囲まれていた。シルバーメイルを装着した隊員たちに。
 全員が一斉に銃を向けてくる。巨大な銃。こいつらは火力支援チームだ。自分がここに降ってくる事を分かっていたのだ。
「くっ……」
 舌打ちする。
 あれを使うしかない。周囲の人間すべて……低フェイズの蒼血までふくめて無差別に巻き込むため、今まで使わずにいたが。
 肺と声帯を変形させチューニング。唇から、特殊な暗示の込められた極低周波の歌声がほとばしる。シルバーメイルの防音機構さえも突破できる最大の音量で 歌った。
 人間には聞こえない歌。だが無意識を鷲掴みにして、絶対の恐怖で震え上がらせるはず。
 ……さあ怯えなさい、泣き喚きなさい。
 ……これが神の力なのです。
 だが隊員たちは銃を下ろさない。
「なぜ……?」
「聞いてるんだよ! お前の声のことは! エルメセリオンからな!」
「お前の暗示を打ち消させるように、念入りに精神をいじられてるんだ!」
 馬鹿な! たった3ヶ月で対応策を編み出したというのか!
 万策尽きたヤークフィースは隊員たちに襲い掛かった。もはや変身する力もなく、全裸の美少女の姿のままで。
 二人を殴り殺し、一人を蹴り殺し、奪った銃でさらに一人を殺した。
 だがそれが限界だった。Gsh−23の大口径徹甲弾で手足を打ち砕かれ、グレネードランチャーの多目的榴弾で腹を食い破られ、とどめに顔面へとカール・ グスタフ無反動砲を叩き込まれた。超高熱の金属噴流が頭蓋骨も脳髄もまとめて吹き飛ばす。四方に飛び散った黒焦げの肉片に、隊員たちは念入りに紫外線サー チライトを照射していく。
 「神なき国の神」はここに滅び、二度と蘇ることはなかった。

 43

 数時間後
 教団本部ビル屋上

 敬介は人間の姿に戻り、裸の体にカーテンを巻いて服代わりにして、ビルの屋上の一番外側に立っていた。
 朝日の昇りつつある東の空を見つめていた。
 まだ大気には硝煙と血、そして銀の臭いが混じっている。ひと呼吸ごとに口や鼻の中を棘のように刺してくる。
 そして広大な市街地の向こうに顔を見せる赤い太陽も、もはや、昨日の太陽とは違う。
 ……太陽が怖い。陽光を浴びると鳥肌が立つ。太陽を見ているのが怖い、目を背けたくなる。
 理由は分かっている。蒼血細胞が、銀に並ぶ弱点である紫外線を恐れている。むろん皮膚の下に紫外線が届くはずもないが、実害のなさを頭で理解しても、遺 伝子に刻み付けられた恐怖は消えず、宿主にまで伝染する。
 凛々子は陽光の下で楽しげに笑っていたが、あれは努力の結果なのだ。
 自分は本当に、「人間ではなくなってしまった」のだと、太陽が教えてくれる。
「天野。本当に行くのか?」
 背後で女の声。
 振り向くとサキがいた。他の隊員はいない。屋上に着陸しているチヌークに、みな乗り込んでしまっていた。
 あれから数時間、目の回るような忙しさだった。親玉二体を倒したのち、敬介と殲滅機関は、残る蒼血を掃討して安全を確保すると、「証拠隠滅」にとりか かった。
 「教団が武装蜂起をたくらんでいて、仲間割れを起こした」という「設定」で情報操作するのだから、銃弾や弾痕はあってもいい。だが化け物の屍は存在して はならない。徹底的に運び出された。「銃弾ではなく牙や爪で殺されたような人間」もいてはならない。原型が残らないほどバラバラにされた。
 もちろん、戦いで負傷した人々の治療も平行して行った。敬介の能力は数十人を死の淵から救った。リー軍曹は血中に銀があるため苦労したが、例の装置で銀 を抜きながらなんとか治療を試み、命を取り留めた。だが脳に損傷があったため、細胞配列変換をもってしても完全には治せず、軍務に復帰できるかどうかは怪 しいところだ。
「もちろんです、隊長」
 自分は、殲滅機関とは別れる。
「お前がいてくれると、どれだけ助かることか。死刑命令がまだ撤回されていないことを問題にしているのだろう? 私からも嘆願書を出しておく。大丈夫だ、 軍法は曲げられると思い知っただろう?」
「死刑だけが問題なんじゃありませんよ」
 敬介はそこで言葉を切り、サキ隊長をじっと見つめる。
「恨みの問題というか……ここの人たちと、うまくやっていくことは、もう無理だと思います。
 俺がかつて、作戦で大失敗したことは変わらないし。
 今回も暴れて、何人も大怪我させたし。
 納得しないでしょう、被害を受けた隊員たちが。
 それに……」
 また言葉を切った。一番重要な理由を、口には出さず、胸の中に閉じ込める。
 ――姉さんを殺した人たちと一緒には戦えない。
 復讐しないと決めた。憎しみを向けないと決めた。
 だが、それでも心の奥底で、煮えくり返った感情が釜の蓋を持ち上げている。
 毎日、同じ場所で働いて顔をあわせて、作戦のときは背中を預けることができるか?
 未来永劫、とまではいかないが、いまはできない。何かのきっかけで気持ちを抑えきれなくなって殺してしまうかも、という不安もある。そんなことになった ら姉のみならず凛々子をも裏切ることになるのだ。
 だから、いまは殲滅機関を去り、一人で戦う。そう決めた。
「そうか……」 
 サキは肩をすくめる。
「ならば、引き止める言葉はない。ただ健闘を祈る、としか」
「俺も、健闘を祈ります。隊長たちの……すべての人たちの」
 サキは軽く微笑むと、無言でチヌークに乗った。
 チヌークがターボシャフトエンジンの金属的な轟音を発し、天高く舞い上がっていく。
 明るくなり始めた空に消えていくチヌークを、敬介は背筋を伸ばして見送った。 

 44

 2013年3月 富士山麓 巨大霊園

 あれから五年が経った。
 敬介は青く澄んだ空の下を、砂利を踏みながら歩いていく。
 あたりは霊園だ。一面に砂利が敷かれ、クルマほどの大きさに区切られた区画が何千と並び、その区画の中には墓石が立っている。どの墓石も見事に掃除さ れ、昨日切りだされたばかりのようにピカピカだ。墓石の周囲には必ず花や、小さな樹が植えられている。緑溢れる、空間の余裕を大事にした墓地だった。
 そして空には、白く雪を頂いた富士の山が浮かんでいた。裾野の方は空に溶け込む同じ色で、山頂に近づくに従って雪の白さを帯びていくのだ。
 世界を旅してきた敬介も、これは素直に美しいと思った。
 先ほどからずっと、冷たい風に乗って、ハーモニカの演奏が聞こえてきていた。敬介が歩いていくにつれ、その響きがだんだんと強くなってくる。
 奏でているのは、墓石の前に立つ一人の女性だった。長身を象牙色のコートに包んでいる。髪はごく短いが、女性であることは間違いない。背筋を伸ばして肩 をいからせ、ただハーモニカを持つ手だけが滑らかに動いて、音が紡ぎだされていく。
 曲が盛り上がり、終わるまで、敬介はその女性の後ろに立ち尽くしていた。
「隊長」
 女性の背に声をかけると、彼女は振り向いた。
 サキだ。
「遅かったな」
「時間通りですよ。隊長が早すぎるんです。いまの曲は?」
「これは大正期の流行歌だ。気に入ってくれるといいのだがな。お前はどう思う?」
「その……とても良かったです。ラストの高音の盛り上がりが、ブワーッという感じで、聴いている俺の気持ちも、なんていうかブワー……感動しました」
「わかった、わかった。悪かったよ。無理に訊いて。相変わらずだな」
 サキは苦笑する。敬介はサキの隣に並んで、墓石を見下ろした。
 墓石は、同じ大きさのものが二つ。

 天野愛美
 氷上凛々子

 御影石の美しいグレイの表面を、いく滴もの水滴がつたっている。今朝の雨がまだ乾ききっていないのだろう。泣いているようだと思う。
 サキは無言で、持ってきた桶と柄杓で墓石を洗う。敬介はやはり無言で、墓石の前に線香を供えた。
「素晴らしいお墓だと思います。本当にありがとうございました」
「ありがたいと思うなら、もっと頻繁に来てくれよ」
「すみません……」
 あれから五年。敬介とサキは、凛々子たちの命日に会うことにしていた。
 いつも大して喋らない。挨拶と、ほんの数分の会話を交わすだけで、敬介は頭を下げてその場を去っていた。
 サキも殲滅機関のメンバーだ。姉を殺した奴らだ。そんな気持ちが心の中で頭をもたげるので、恐ろしくなってすぐに去ることにしているのだ。
 それでも敬介にとっては大きな救いになっていた。歳をとることもなく、仲間や家族を作ることもなく、闘いの道をゆく敬介にとっては。
「最近、どうなのですか、隊長のほうは」
「ああ、大尉になったよ。お祝いはいい。現場に出られなくなるのが憂鬱だ。この五年、情報局の発言力ばかり大きくなってな。いろいろ大変なんだ」
「そうでしょうね」
 ヤークフィースとゾルダルートを倒したことで、有力な蒼血は恐れをなして日本から逃げていった。いまでも国内の蒼血の活動は不活発で、作戦局員の出動自 体が減っている。かわって大活躍しているのが情報局だった。もと教団員を何十万人という単位で逆洗脳し、普通の人間に戻してきた。かつてない規模の記憶操 作のためにアメリカ本国から惜しみなく資金と人材が送り込まれ、いつしか情報局は「有力な部署」ではなく「日本支部の中心」になっていた。
「知っているか、今年から殲滅機関情報局は、与野党や財界のトップクラスに直接工作をかけて、記憶操作や人格改造で操ることにしたんだ。また蒼血に浸透さ れるのを避けるため、だと」
 胸糞の悪い話だった。
「初耳です。ではヤークフィース達のやっていた事と大して変わらないですね」
 今も敬介の脳裏には、ヤークフィースの投げ掛けてきた皮肉が焼き付いて離れない。
 ……『民衆を侮蔑していることにかけては、あなたがた殲滅機関も相当なものですよ』
 苦々しい思いに唇を歪めた。
「まあ、私のことはいいだろう。天野はどうなんだ。アフリカでの活躍はうちの支部にまで聞こえてくる。今日はちゃんと教えてくれ」
「ちゃんと……ですか?」
 敬介は口を半開きにして固まった。
 何を話せと言うのだろう。
 アフリカに殺戮と狂気を振り撒き続け、永遠の暗黒大陸たらしめてきた蒼血、『混沌の渦』ナーハート=ジャーハートとの闘いを、その場にいない者にどう伝 えればいいのだろう。
 伝えようがないし、ここでサキに泣き言をいっても始まらない。すべて背負っていくと決めたのだから。
 だから敬介は意識的に笑顔を作り、喋り始めた。
 ――飢えや伝染病で虫けらのように死んでいく子供達を、大勢治したこと。
 ――蒼血に乗っ取られた軍閥やカルト教団に殴りこんで、いくつもいくつも壊滅させてきたこと。
 ――そのほか、幾多の勝利の物語を。
 死から救った子供達の大半は少年兵となり、十五歳にもならないうちに自動小銃で殺しあって死んでいった、ということは話さなかった。
 軍閥を潰しても、軍閥に参加していた人々は戦いをやめず、むしろ細かな民族の差や宗教の差、四代前の祖先がどんな出自だったかで分かれて、今まで以上に 激しく殺しあったことも、話さなかった。
 カルト教団を滅ぼした途端、信者達は心の支えを失って集団自殺したことも。
 ナーハート=ジャーハートとその眷属は、人間を洗脳や暴力で直接操ることは好まなかった。人間の中に必ずある無知や偏見や欲望につけこんで踊らせてい た。蒼血が先ではなく、人間の愚かさが先にあった。だから、戦っても戦っても、蒼血をどれだけ滅ぼしても争いは減らなかった。むしろ増えているような気が してならなかった。こんな愚かな人々は蒼血に支配されるべきだ、というヤークフィースの言葉を何度思い返し、慌てて心の奥底に封じ込めたか、分からない。
 今では胸の中に、重く冷たい諦観が、冷えたアスファルトのようにこびりついている。
 敬介がこれらの悩みを隠して明るく喋り続けるのを、サキは黙って聞いていた。
 最初は棒立ちで聞いていたが、やがて腕組みを始め、眉がハの字になった。眉間に深い皺を寄せ、唇を噛むようになった。
 敬介が喋り終えると、深いため息をついた。
「……相変わらずだな、本当に。隠すのが下手だ。なんでも抱え込んで深刻に悩んで、でも他人の目からは、悩みを隠していることがバレバレだ。素直なんだ な」
「そんなこと」
 大きくかぶりを振って否定したが、サキは引き下がらない。
「つまりだ。お前は辛くて仕方ないんだろう。自分の頑張りは無駄なんじゃないかと、思えてならない」
「かなわないな、隊長には」
 肩を落として呟くしかなかった。
「そうです。隊長のおっしゃるとおりです。
 でも、俺は諦めませんよ。
 決めたから。絶対にやり抜くと。
 どんなに辛くても戦うと。
 命が尽きるまで、です」
 笑顔を浮かべることはもうできなかった。胸の奥で渦巻く、泣きたい衝動をこらえて、顔面をむりやりにこわばらせて喋った。きっと悲壮極まりない顔になっ ていると思った。
「……ふむ」
 サキは腕組みを解き、いたずらっぽく笑う。
「ところで、今日はもう一人来るんだ」
「え? 聞いていませんよ。やめてくださいって言ったはずです。姉さんは殲滅機関と関係ないから呼ばないで欲しい、墓参りをされる筋合いはないし、俺だっ て殲滅機関の人たちとは、あまり会いたくない」
「そう言うな。どうしても行きたい、お前に会って言いたいことがある、頭を下げられたんだ。
 リーの奴だよ」
「な……」
 敬介は動揺した。日常的に銃弾の嵐をかいくぐっている肉体が、恐怖にわなないて冷や汗を分泌した。
「待ってくださいよ!」
 あいつは俺の事をいまでも憎んでいる。間違いない。細い目に宿る、刺すような憎悪の光をいまでも覚えている。「戦友を殺された」。まったく抗弁のしよう がない、正当な恨みだ。
 他にも恨まれる理由はある。敬介はあの戦いで多くの負傷者を治したが、リーは治しきれなかった。 
 そして俺はこの十年、凛々子のことぱかり考えて、彼のことは切り捨てて生きてきた。彼もまた、償うべき相手だというのに。頭を下げることすらなかったで はないか。
 そしてこれからも……俺はリー軍曹に、本当の意味で償うことはないのだ。
 大切な人を奪われた遺族は、犯人の謝罪程度では到底納得しない。
 『お前も死ね』それが遺族の本音だろう。敬介自身、『お前も死ね』の気持ちが身に滲みて分かる。
 だが死んで償うなど論外だ。俺は凛々子の償いのためだけに生きると、約束したのだから。
 たとえ他の全てを切り捨て踏みつけようと。
「駄目です、隊長。俺はリー軍曹に会いたくありません。会う資格がないのです」
「まあ待て、逃げるなよ」
 立ち去ろうとする敬介の首根っこをサキが掴む。もちろんサキがどれほど肉体を鍛えても敬介の指一本ぶんの力もあるまい。力ずくで振りほどくなら簡単だ。
 それなのに体が固まって、振りほどくことができなかった。
 遠くの方から足音がする。
 シャリリ、カツン、シャリリ、カツン。砂利の上を誰かが歩いてくる。
 敬介の鋭敏な感覚は足音を反射的に分析してしまう。足だけでは有り得ない音。杖を突いている。そして片方の足にだけ体重がかかっている。バランスは悪 く、歩行のペースはひどくゆっくりとしている。
 今までリーの事は全く訊かずにいたが、やはり後遺障害が残っていたのだ。
 と、そこで一つの符合に気付いた。体を縛りつける苦々しい思いが、さらに増した。
 ……姉さんと同じだ。
 俺が仇討ちを諦め、こんな冷たい土の下に閉じ込めて、ろくに顔も見せに来ない、「切り捨ててしまった」姉さんのように。
 姉さんの無念が、形を変えて現世に現れたかのように。
 リーの足音がますます近づいてくる。
 カツン、シャリリ、カツン……
 ……俺に何を言うんだ、リー軍曹。
 ……俺をどれだけ憎むんだ。
 ……俺は。受け止めなければいけないのか。
 ……凛々子なら、どうしただろう?
 頭の中が濁って、ぐるぐると同じ事を考えてしまう。どうすればいい、どうすればいい。
 答えは出てこないまま、暗澹たる気持ちでリーを待ち受ける。
 曲がり角からリーが姿を現す。
「……え?」
 思わず、驚きの声を漏らす。
 リーはジャージにスニーカー姿という恐ろしくラフな格好だった。不自由な体にはこの服装が便利なのかもしれない。
 かつては筋肉に包まれていた肉体は見るも無残にやせ衰えている。片足がろくに動かないらしく、ひきずってゆっくりと歩いてくる。体全体を小刻みに痙攣さ せているところを見ると、脚以外にも具合の悪いところがありそうだ。
 だが、その表情は何とも明るいのだ。
 リーは敬介たち二人の姿をみとめると、細面ににっこりと笑顔を浮かべ、片手をぎこちなく挙げて挨拶した。足が不自由なりにペースを上げ、せかせかとした 動作になる。
 あっけにとられる敬介の前にやってきた。
「や あ。 ひさしぶり だな。 あまの。」
 体を震わせながら、不明瞭な発音でゆっくりと喋った。これも姉を思い出させてならない。
「ご……ご無沙汰しています、リー軍曹」
「天野、彼はもう軍曹じゃない。除隊したからな」
 そうだろう、この体ではどうしようもない。
「あまの。おれの じょたいのことについて。おまえに ひとこといいたくて きたんだ。」
 ……ああ。来るぞ、怨嗟の言葉が。
 敬介は両の拳をかたく握りしめ、せめて目を逸らすまいと、リーの糸のように細い目をじっと見つめた。
「おれいを いいたかった。ありがとう。」
 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。馬鹿みたいに口を半開きにして、たっぷり二秒間は経ってから声を上げる。
「……はあ!?」
「おれは たたかえない からだになって じょたいした。
 さいしょは つらかったよ。
 まいにち、 むかしのことを ゆめにみて、とびおきた。
 そうけつと たたかえない。なんのいみがあるかと、おもった。
 でも、おれと おなじようなからだの あつまりで。 
 にょうぼに であったんだ。」
 そこで、恥ずかしそうに顔をほころばせる。リー軍曹がそんな純情な一面を見せるところなど、敬介は一度も見たことがなかった。彼はいつだって皮肉や冷や かしを言っているか、さもなくば本気で何かを罵っているか……
「とっても いいおんなだ。すぐに むちゅうになった。あんなしあわせが あったなんて。
 だから」
 そこで微笑を消し去り、この上なく真摯な表情で言い切った。
「おまえには かんしゃしてるんだ。
 おまえが、なおしてくれなければ。
 しんでいた。にょうぼにはあえなかった。
 ありがとう。」
「……でも、でも。俺は軍曹を、ちゃんと治せなかったんですよ。他の隊員はみんな元通りなのに、軍曹は脳の損傷がひどくて……そんな体に」
「だから。いってるだろ。こんなからだ だから あえたんだ。」
 頭をガツンと殴りつけられたような衝撃だ。
 だが敬介は、動揺に声を震わせながらも、ためらいがちに問いかけた。
「俺は確かに、良いこともしたかもしれません。
 でも五年前、全くのミスで、軍曹の部下や戦友をたくさん死なせました。軍曹は、俺を殺したいくらい怒ってましたよね。
 他のところで良い事をしたって。消えるわけがないと思うんです。こんなことが、これだけのことが。
 それでも恨んでいないんですか、俺のことを!?」
 最後のあたりは声高に、叫びに近くなってしまった。
 有り得ない、頭の中でそう叫びがこだましているのだ。
 リーは黙り込んだ。顔を伏せ、沈痛な面持ちだ。
 数秒間、誰一人リーに声をかけない。
 そして……ふたたび笑顔を取り戻すと。
 不自由な足で歩き出し、敬介にさらに近づき、背中に腕を回して抱きついた。
 震える手で、敬介の肩を叩き、耳元でささやいた。
 遠い日のように。
 ベテランの下士官が、失敗にしょげ返る新兵をなぐさめるように。
「いいってことよ。」
 その途端、敬介の胸の中で何かが解き放たれた。冷たく鬱屈していた想いが、勢いよく蒸気と化して体の中を吹き上がる。吹き上がった熱い気持ちは、涙腺に 殺到した。
 いけない、と思って瞼をきつく閉じたが、もう涙は溢れ出していた。
「……あれ。おまえ、ないてるのか。」
「な、泣いてなんていませんよ。なにを馬鹿な……」
 そうは言っても、涙は勢いを増すばかりだ。
 瞼が作る闇の向こうから、サキの優しい声がした。
「なあ、天野敬介。
 いまでも思うか?
 人は変わることなどできないと。
 自分のやってきたことには、なんの意味もなかったと」
 敬介は即座に答えた。
 涙声で。万感の思いを込めて。
「そんな事。そんな事……思うわけないじゃないですか!」

 終わり 

 2010年8月3日 第1稿完成
 
 

作者サイ トのトップへ