ブラッドファイト 『蒼血殲滅機関』戦闘録 分割7 32 同時刻 殲滅機関日本支部 作戦司令室 白を基調とした壁面に覆われた司令室は、小学校の教室ほどの大きさで、そこに集まっているオペレータや作戦参謀は二十人程度。室内にはピリピリと緊張感 が漂っているが、人々の表情は明るい。 部屋前面の巨大モニターには、作戦進行状況が表示されていた。 教団本部ビルを表した3Dモデルが赤と青に塗り分けられている。すでに全体の七割が、味方を示す赤色だ。快進撃だ。 「十一階の制圧に手間取っているようだが?」 部屋の一番後ろの座席に陣取るロックウェル少佐が、四角い顎を撫でながら言う。 参謀の一人、若い眼鏡をかけた女性が快活な声で答える。 「44小隊が攻略中です。火力強化型の編成ですし、歴戦の影山隊長です。心配はないかと」 「一個小隊で充分なのか? 複数小隊を集中投入しなくて良いのだな?」 「はい。狭い廊下や部屋が並ぶ場所では、数十人規模を投入しても混乱するだけです。事前のシミュレートで明らかになっています」 「ふむ。損耗率と、教団員の救出はどうだ?」 「どちらも予想以上にうまく行っています。損耗率十二パーセント、うち死亡者四パーセント」 「教団員は二百名以上を救出、うち四十名をチヌークで当基地に搬送中です」 「心配無用です、局長! 進捗率は事前のシミュレートを遥かに超えてますよ! 問題といえば……」 「いえば? 何だね?」 「たったいま十五階で、突発的戦闘があったという報告があります。天野敬介が暴れたというのです。天野は蒼血の能力を手に入れているようだ、という報告で す。天野は逃走した模様です」 「ふうむ……?」 「追撃するべきでしょうか。優先的な兵力配分を?」 「いいや。他の蒼血と同じ対応でいい。遭遇した場合は殲滅を」 「了解!」 と、その時、オペレータの一人が緊迫の声で告げた。 「部隊-本部回線に割り込みがありました。ヤークフィースを名乗っています」 ロックウェルは片眉を上げた。本部に通信を送れること自体は不思議ではない。シルバーメイルを一体手に入れれば、特別仕様の通信機がついてくる。使用方 法は隊員の脳を漁ればよい。 だが何のために通信を? 「降伏でもする気でしょうか?」「そいつは楽でいい」「あっけないもんだな、何十年も宿敵だったのに」 参謀達が軽口を叩く。すでに場の空気は楽観に支配されていた。 「つなげ」 ロックウェルが命じ、オペレータが操作する。 次の瞬間、そこにいた全員が目を見張った。 巨大スクリーンいっぱいに激しい戦闘が映し出された。 教団本部の暗い廊下で、マシンガンを撃ちまくる装甲服の集団。 撃ち倒されていく、ウロコに身を包んだ怪物達。すさまじい速度で天井や壁をはい 回る、昆虫型の怪物達。怪物に押し倒されて装甲を破られ、中身の肉を食い尽くされ る人間達。 人間の姿をした物が、撃たれて怪物に変貌する場面もあった。 若干荒い映像ではあるが、殲滅機関と蒼血のすべてが映し出されていた。 ついで、柔らかく澄んだ女の声が司令室にあふれた。 『……お久しぶりです、殲滅機関日本支部のみなさん。いいえ、前にお会いしたのは数十年も前のことですから。はじめましてと言ったほうがよろしいですね。 単刀直入に言いましょう。 我々は、今回の戦いをすべて撮影しました。取引をしましょう。 いますぐ戦闘を中断しなさい。さもなければ、この映像を公開しますよ。 私はこの動画を国内外のインターネットに流す能力があります。都内各所に、直接投影して人々に見せることができます。 あなた方の隠し通したかった蒼血のことが、すべて世界中に知れ渡ってしまいますよ。 ハッタリではない証拠をお見せします。国内最大の動画サイトをご覧ください」 オペレータが青ざめた顔をキーを叩く。先ほどとは一転した、恐怖に歪んだ声を上げる。 「み、見てください……新着動画が……」 ロックウェルは思わず身を乗り出してしまった。 モザイクをかけたように粗く、注意してみないと何が起こっているのかわからないが、それでも十秒程度の短い動画がアップロードされていた。 シルバーメイルを着た隊員がマシンガンを乱射して、「明らかに人間ではないシルエットのもの」を倒す姿が。 33 教団本部ビル内 壁の目玉から光が噴き出し、壁面に動画を投影していた。 殲滅機関と蒼血の激しい闘いを。 動画が消えた。 サキが生唾を飲み込んで、うめくように言う。 「……まさか。最初からこれが目的だったのか。私たちを撮影することが」 『ご名答です、影山准尉。しかし気づくのが遅すぎましたね。 わたしは体を細長く引き伸ばしてビルの壁面に潜り込み、小さなレンズをこっそり出して、あなた方が来るのを待ち受けていたのです。撮り放題で した。 みなさん目の前の闘いに夢中で、レンズなんか気がつきもしませんでしたねぇ』 壁全体が鈍く、低く、ぐふう、ぐふうと唸った。嘲笑しているのだ。 「た、隊長……」 「うろたえるな」 サキは部下を叱り飛ばし、壁に浮かんだレンズをにらみつけた。 「それで勝ったつもりか。映像記録を破壊する方法なんていくらでもある。情報操作だって」 「無駄です。すべて無駄。電子記録じゃありませんよ。このわたしが憶えているのです。むろん複数の脳にバックアップをとってあります。 情報操作ですか、言い訳のしようがない動画映像を何百何千もバラ撒かれて、どんな情報操作が可能だっていうんですか?」 「ハッタリに過ぎない。お前達蒼血だって、自分達の実在が暴露されるのは恐ろしいはずだ。できるはずがない」 壁全体が、またしてもぐふう、ぐふう。 『笑えますね。あなたもまた、殲滅機関に洗脳されきっている。固定観念から抜け出せない。 蒼血の存在は絶対に秘密……それはもう過去のことです。 実験はもう終わったのですよ』 どういうことだ、とサキが問うよりも先にヤークフィースは言葉を続ける。 『わたしは教団をつくりました。自分を……蒼血の能力に憧れ、崇拝するものたちの集まりを。 そして確信したのです。もはや明かしても大丈夫だ……私への尊崇が崩れることはないと。 私がアメーバの化け物に過ぎなかったとしても。医者に見捨てられた者の苦しみは変らない。 この私だけが彼らを癒せる、という事実には変わりない。 一度、私を崇拝した者は真実を知っても離れないし、これからも崇拝者は増える、という確証を得たのです。全世界は無理であっても、この一国くらいを支配 することは可能だと。 まあ、人類側からの攻撃も激しくなるでしょうが、私を崇拝する者も増えるので差し引きゼロ、ということですかね。 真実を明かす。それはそれで良いのです」 「バカな……」 「ハッタリだと思いたければ思っても構いませんが。しかしあなた方の上官は、真剣に受け止めたようですよ。こうやって戦闘中止命令を出しているんですか ら。 ちなみに私は、殲滅機関は日本から出て行って欲しい、と要求しました。 要求に応じれば映像データは破棄しますと。 猶予期間は十分間。さて、彼らはどう返答しますかね?」 サキは絶句した。日本からの撤退。この国を蒼血に明け渡す。大変な譲歩だ。だが蒼血の全てが公開される混乱と比較すれば……ありえない、とは言い切れな い。 額を冷や汗が流れ、ひどく息苦しく思えて、フェイスシールドを外したくなった。 そこで気づく。 「……機関は、お前の要求なんて呑まない。手はある」 「あなたのおっしゃりたいことはわかりますよ。このビルを跡形もなく破壊するんですよね?」 「そうだ」 サキがうなずくと、背後で隊員たちが感嘆の声を上げる。 殲滅機関は秘匿性重視のため、ビルを破壊できるほどの大火力兵器は持っていない。だが米国大統領を通じて空軍を動かせば話は別だ。 爆撃機から誘導爆弾やトマホークミサイルを数十発も叩き込む。同じタイミングで、四方から爆圧を浴びせてビルを圧砕する。同時にナパームも叩きこんで超 高熱を発生、鉄を溶かして崩落。さらに地下壕破壊用のディープスロート爆弾を数十メートルの深さまで撃ちこんで基礎ごと粉々にする。 そこまでやれば、このビルに根を張るヤークフィースを殺せる。バックアップまで含めてデータを消せるだろう。 ただし、とサキは拳を握りしめて独白した。 自分達も一緒に抹殺されるわけだが。 隊員たちを見渡した。顔の上半分がゴーグルで隠されていても、ともに死線をくぐってきたサキには分かった。隊員達は恐れていない。 「立派な心がけです。死なばもろとも、ですか。 でも、できますかね? 空軍の兵士達は蒼血のことなど知りません、士官のごく一部、上層部だけが知っています。そんな状況で東京都心のビルを破壊しろ……命令に従いますかね? たった十分で、従わせることができますかね?」 「できるさ……」 サキはとっさに答えたが、確証があって言ったわけではない。 実際には難しいだろう。日本はアメリカにとって最重要の同盟国だ。「テロリストが潜伏」くらいの偽情報を流したところで、いきなり都心のビル攻撃を受け 入れる隊員は少ない。無理矢理に強行したら、それこそ「蒼血の存在」という情報が漏れてしまう。そもそも、日本の都市を攻撃して民間人をたくさん死なせ、 その後の国際社会はどうなるだろうか。ヨーロッパや中国にしたところで国民の大半は蒼血など知らない。アメリカの暴挙を非難し、対立するだろう。人間同士 の戦争の火種にもなるだろう。 それでも、もはや自分達にできることはない。 信じるしかないのだ。 「はは……では、拝見といきましょうか、あなたがたの力を」 34 数分後 教団本部ビル内 敬介は、あのあと泣き喚いて逃げた。 普通の人間ならば一寸先も見えない真っ暗な、トイレの個室にいた。 惨めな素っ裸で便座に腰掛けて、うつむいて耳を覆い、恐怖と不安に震えていた。 かつて子供時代、小学生の頃に何度もやったように。 両親を失い、姉一人の稼ぎで学校に通っていた彼は、見るからに貧しい子供だった。着てくる服のバリエーションが極端に少なかった。大きすぎる靴を、ボロ ボロになっても履き続けた。クラスメートで携帯ゲーム機が流行ったが、そんな高いものはとても買ってもらえなかった。とどめは、遠足のときの弁当箱が一人 だけ新聞紙で包んであったことだ。ほかの子たちはみんな色とりどりのナプキンなのに。 哀れみと蔑みの入り混じった目で見られるようになった。悪ガキにからかわれるようになった。 怒って反撃することはできなかった。もし相手に怪我でもさせたら姉が学校に呼び出されるから。 黙って耐えることもできなかった。教科書を水びたしにされたり体操服を切り裂かれたり、そんなことを姉に知られたら姉が自分を責める。 だから敬介は当時、ひたすら逃げた。うつむいて給食をかきこんで、その後の休み時間は被害にあわないようにずっと逃げ続けた。保健室、図書室……一番の お気に入りは校舎の端にある、ほとんど利用者のいないトイレだった。やり返したい悔しさをぐっと堪えて、ずっと座っていた。こうやって我慢していれば、姉 の笑顔は壊れない。それだけが心の救いだった。 だが姉はもういない。人生を捧げたはずの組織、殲滅機関に殺された。 姉と同じように気遣ってくれた女性もいた。だが凛々子もいない。彼女の気持ちなど全く知らずに、この手で殺してしまった。 だから……どちらも、あまりに取り返しがつかなくて。 このままじゃいけない、やったことの責任を取らねば、そう思っても何をすればいいのか分からなくて。 敬介を苦しめるのは自責の念だけではなかった。思い切り耳をふさいでも声が聞こえるのだ。 壁を通して、低く嘲笑う、ヤークフィースの声が。 『私はヤークフィース。神なき国の、神』 『すべて計算どおりだったのですよ』 『日本から撤退しないならば、この動画を世界に公開します』 『回答までの期限は十分』 『もう実験は終わったのです。私としては、公開しても、それはそれでよし』 ヤークフィースはサキ達と喋っているだけではない。この本部ビルの至るところで顔を出し、突然の戦闘停止命令に戸惑う隊員達に、挑発的な言葉を投げつけ ていた。 フェイズ5の強化聴覚は、四方八方から殺到するヤークフィースの声を全て捉えていた。 だから分かる。いま殲滅機関は、いや人類社会は大変な危機に陥っていると。 ……だが……俺にどうしろっていうんだ。 ……俺はもうできない。なにもできない。 ……やりたくても姉さんはいない。凛々子も殺してしまった。 ……なんで、やらなくちゃいけないのか。これ以上頑張らなくちゃいけないのか。 ……わかってる。わかってるよ。何かやらなくちゃいけないってことは。 ……でも、できない。何かやらなくちゃ、って考えるたびに…… 姉の仇を討たねば。 凛々子を殺した償いをせねば。 どちらもやりたい。いや、絶対にやらなければいけない。だが両立できない。 殲滅機関に復讐すれば凛々子の気持ちを踏みにじることになる。 絶対の重さを持った、絶対に両立できないもの。 だから胸の中が、鉛のように重く、冷たいもので溢れかえっていた。張り裂けそうだった。 震えていた敬介の唇から言葉が漏れた。 「なんで……だよ……なんで何にも、言ってくれないんだよ……」 頭の中で、場違いなほどに落ち着いたエルメセリオンの声が響いた。 『ふむ? 何のことかね?』 「なんで……俺を憎まないんだよ……お前は屑だって……死ねって言ってくれれば……せめて……」 そうだ。誰かに罵ってもらえば、ずっと楽になれただろう。いっそ今すぐ俺の心臓を止めて欲しい。できないはずがない。 『憎まない理由は、すでに説明した』 「俺は……俺は。凛々子の気持ちを。まるで分からなくて……最悪に裏切ったんだぞ。殺せよ……こんな奴、憎んで、殺して、当然だろう?」 喘ぎながら吐き出した言葉に、やはりエルメセリオンは冷静に答えた。 『私たちは八十年以上も戦いを続けてきた。 人間に裏切られるなど、まったく珍しいことではないよ。 旅の始まりを君は見たな? 私と凛々子は、虐殺される朝鮮人を大勢助けた。 しかし二十年ばかり後、戦争で破壊しつくされた東京に戻ってきた私たちは、驚くべき光景を見た。 弱々しい被害者だった朝鮮や中国の人々が、進駐軍と結託して日本人に暴虐の限りを尽くしていた。 日本人の商売を潰し、土地を奪い、女を襲い、人まで殺して、もみ消した。 ふんぞり返ってギャングを気取る彼らの中に、二十年前に助けた、見知った顔がいくつもあった』 一瞬の間を置いて、さらに続ける。 『凛々子はさすがにショックを受けていた。自分のやったことは間違っていたのかと。 だが結局は揺らがなかったよ。全員がこうなるわけじゃないし、改心してくれる人だっている、次はきっとこんなことにはならないと……それでも人を信じ て…… 世界の各地で、同じような出来事に出くわした。 それでも最期まで凛々子は、あの日の誓いを捨て去らなかった。 だから私も力を貸したのだ』 ああ、そうだろう。凛々子なら、そうするだろう。 絶対の純真を持つ彼女なら。 だが敬介はかぶりを振って叫んだ。 「迷惑だっ……俺はそんなんじゃない……信じられたって、何もできやしない……凛々子のようにはなれはしないんだ。……分かるだろう!? 俺がどんな奴な のか知ってるだろう? 俺はもう、壊れそうなんだ。姉さんを殺した奴らをブッ殺してやりたい……でも凛々子の気持ちにもこたえたい……できねえよ、こんな の! 両立なんて……俺は凛々子じゃない! あんな凄い奴じゃない」 初めて、エルメセリオンの声が怒りを帯びた。 『天野敬介よ。君は勘違いをしている。 凛々子は、君が言っているような意味で『凄く』などない。 凛々子と言えど両立などできなかった。ギリギリまで努力して、それでも誰かを犠牲にせざるを得なかったことがある。本人も語っていたはずだ。 凛々子は奇跡を可能にするヒーローではない。君の延長線上にある、ただの人間に過ぎない。 ただ凛々子は、両立できない選択肢、救いたいが救いきれない誰かに出くわしたとき、君のように喚かない。逃げ出して震えることはない。ただ、決断し、救 える人間を救い、救えなかった人間から目を逸らさない。そして救いきれなかったことを誰にも言い訳しない。ずっと一人で背負い続ける。 凛々子が凄いと、君が言うのなら、『凄さ』はその違いしかない」 胸を突かれた。ずっとつぶっていた目を見開き、顔を上げた。闇の中に沈む、クリーム色の個室の内壁。狭い空間。 『だから凛々子は楽になれない。力不足で全員を助けられなかった、ということを永遠に背負い続ける。 君もだ。両立する道がないのなら、どちらかを選んで、選べなかったことを受け止めればいい。 その結果、罪の意識が永遠に続くことになろうと、自分で選んだのだから仕方ない。 人間にはそれだけの力があると、凛々子は教えてくれた』 「どちらが……どちらが正しい道なんだ。姉さんの復讐と、凛々子の……」 『正しい道などない。君の選んだ道があるだけだ。 言っておくが、仮に君が復讐を選んだとしても。 凛々子の想いよりも、姉の死が大事だと言うのなら。 止めるつもりはない。 復讐のために力を貸してくれ、というなら考慮しよう』 今度こそ息を呑んだ。反射的に便座から立ち上がって、叫んだ。 「なぜだ!? 凛々子はあんたの……」 『私の目的は、人間を知ることだからだ。 私はもっと知りたい。 人間はどんな生き物なのか。 凛々子はたくさんのことを教えてくれた。だが君はそれ以上に凄いものを見せてくれるかもしれない。凛々子を覆せるほどのものを。 たとえば、何千人という殲滅機関員を皆殺しにしても、まだ渇きが収まらないような無限の復讐心を。 どうだ、見せてくれるか? 復讐のためだけに全てを捧げられるか? それならば協力しよう。ただ一言、『捧げる』と言いさえすれば」 敬介は絶句した。カラカラにかわいた口であえいだ。 薄闇の中を、立ち上がったまま、震えながら見回した。 クリーム色の壁に、すうっと姉の幻が浮かんだ。 長い三つ編みを心細そうに握りしめて。 野暮ったい古着のセーターを着て。 大きな古めかしい眼鏡をかけた愛美が、微笑んでいた。 『わたしのことなんて気にしなくていいよ』 表情で、目で語っていた。 逃げるように反対の壁を見る。 そちらでは凛々子が、眉間に可愛らしい皺をつくり、眉をきりりと上げて怒っていた。 怒っていても大きな瞳には、敬介の事を気遣う優しさが溢れている。 「ああ……ああ……っ!」 選べない。できるわけがない。 だが、このまま選べずにいるのが最低の行為だということはわかっていた。 確かに聞いた。あと十分ですべてが決する…… 何度も、何度も、敬介は首を左右に振った。視線が、左右の二人の間をさまよった。 さまよううち、少しずつ凛々子のほうに吸い寄せられていく。 そこで止まった。 だが言葉を出せない…… 『そうだ。公平な判断のため、ひとつ教えておくことがある。凛々子が殲滅機関に入りたがった理由は、第一に君のためだ』 目を見張った敬介に、エルメセリオンは呆れた声で語り続ける。 『当然ではないか。『殲滅機関の情報力が欲しい、共闘したい』だけが目的なら、もっと早くやっていればよかったではないか。 凛々子はな、出合ったときの君を一目見て、わかったのだ。この人はとても無理をしている。無理矢理に自分の心を狭めて、戦いの機械にしている。もうすぐ 壊れてしまうと。苦しむ君を助けたかったのだ』 「じゃあ……俺にやたら話しかけて……デートに誘ったりしたのも……?」 『そうだ。凛々子の個人的な興味も皆無ではなかったが』 「なんで? なんで見ず知らずの俺のために?」 『人を助けることに理由など要らない、凛々子には。目に映る全てを、助けられるだけ助けたかったのだ』 ドクンと、胸の奥で心臓が跳ねて。 それが最後の一押しになった。 「そんな……こと……言われたら……俺……俺は……」 まだ乾ききっていない頬を、また熱い涙が濡らした。 「やらなきゃ……俺……やらなきゃ……」 『何をやるのだね』 息を吸い込み、裸の胸の前で拳を固める。背筋を伸ばして宣言した。 「……俺は、凛々子を殺したことを償う。方法は。……凛々子のやってきたことを継ぐ。人を信じて、救うために戦う。ずっと。どんなに苦しくても。そうでな かったら。それをやらなかったら。俺は。 だから力が欲しい。凛々子と同じ、人を救うための力を」 『その結果、君は姉の仇を討てなくなる。姉を切り捨てて生きる。永遠に後悔する。いいのだな?』 間髪いれずに答えた。 「構わない」 答えた瞬間、胸の中で「力」が爆発した。姉を殺されたときとは違う、熱くない、ひたすらに冷たいエネルギーの奔流。それは手足の隅々まで満ちて、肉体を 変貌させる。 みりっ……みちっ……めりっ…… また真紅の棘が全身から突き出した。筋肉が膨張し、骨格が変形する。指が伸びて、まがまがしい長い爪が生え揃った。 『わかった。ならば君が贖罪を続けている限り、私は力を貸す。私は人間が、自らの犯した罪から眼をそむけるさまをずっと見てきた。 見せてくれ。『それは嘘だ』と。『人は罪を償える』と』 無言でうなずいて、敬介は首をめぐらせた。 姉のほうは見ない。 凛々子の幻に、眼を合わせた。 凛々子はハッと眼を丸くして、唇をかみ締め敬介を見つめ返した。ぎこちなく微笑を作って頭を下げて。 消えた。 35 サキは待っていた。 通路で、壁に無数に浮かび上がるヤークフィースの目玉を睨みつけながら、押し黙っていた。 他にできることはない。 他の隊員達も同じだった。傷ついた何人かの隊員を横たえ、シルバーメイルを脱がせて応急処置をしているが、他には何もできない。せめて傷ついた隊員を後 送したい、と本部に連絡したが、「余計な行動はヤークフィースを刺激する」といって許可が下りなかった。 『ずいぶん落ち着いていますね』 壁をふるわせて響くヤークフィースの声。ふんと鼻で笑ってサキは答えた。 「いつか死ぬときが来る。それは分かっていた。できるなら政治的取引なんかは抜きで、戦った結果として死にたかったが。まあ止むをえん、組織に所属する者 の義務だ」 『もう諦めていると?』 「誰が諦めるといった。信じているんだ」 『信じる? そんな行動に何の意味が。まったく人間の愚かさは度し難い。空虚な精神論で破滅を糊塗する癖を、いつまでも捨てられないようですね?』 その時だ。天井が力ずくで粉砕され、穴から誰かが飛び降りてきた。 人に似ているが、全身を毒々しい緋色の棘で覆われ、眼はさらに赤く輝く化け物。 手足は人間としてはありえないほど太く長く、巨大な爪をそなえている。 人間らしさを残しているのは、棘のない口の周辺だけだ。 「な……?」 驚くサキに、化け物は静かに歩み寄った。 抱えていた丸いものを、サキに差し出した。 「隊長。これを預かっていてください」 顔は棘に覆われて判別できない。だが声は間違いなく。 「お前。天野か!」 差し出されたものを受け取る。 人間の生首だった。両目が完全に破壊されて、大きな横長の穴になっている。ふっくらと柔らかそうな頬を、こぼれた血が汚していた。 「これは……氷上? 氷上凛々子か? 天野、一体何があったんだ」 「説明はあとで。いまはただ、そいつを頼みます。戦いの場には持っていけないので」 素っ気無く敬介は答えて、あたりを見渡し、倒れている隊員に近づいた。フェイスシールドを片手で軽々と粉砕し、隊員に口づけする。 「もごっ……もごぉっ!?」 隊員はうめく。すぐに敬介は体を起こした。 「まだ痛みますか」 「え? ……おう……」 隊員も軽々と半身を起こした。肩には血のにじんだ包帯が巻いてある。この隊員は骨まで粉砕される負傷を負って、歩くのもやっとの状態だったはずだ。 「痛くねえ……」 不思議そうに首を振った。敬介が爪を一閃させる。彼の傷口を覆っていた包帯がバラバラになって飛び散った。 包帯の下から現れたのは、赤ん坊のような傷一つない、真新しい肌。 敬介は立ち上がり、壁に並ぶヤークフィースの目玉をつかんだ。 「聞こえるか、ヤークフィース! 俺が今、何をやったのかわかるか。 そうだ、『治癒の奇蹟』って奴だ。 お前の言う奇蹟なんて、フェイズ5なら誰でも起こせるんだ。 俺でも神になれるぞ。 話はすべて聞いた。もしお前が、これからも自分が神だって言うなら。治癒の力で人の心を弄ぶなら。俺も神になってお前に立ち向かう。お前の教団の信者を 一人残らずいただいてやる。お前の計画は、絶対に成就しない。 嫌だろう? 嫌ならば……」 つかんだ目玉を壁面から千切り、床に叩きつけて踏み潰した。 「俺を倒してみせろ。ヤークフィースでもいい。ゾルダルートでもいい。両方いっぺんでもいい。俺と勝負をしろ。決着がつくまでは、データを流す話を延期し ろ」 サキが不安げな声を出した。 「天野。それは無謀だ」 振り向きもせずに敬介が答えた。 「分かっています。けれど、他に方法がない」 しばらくヤークフィースは沈黙したが、壁全体を大きく揺らして喋りだした。 『まったく馬鹿馬鹿しい。下らない要求です。データをばらまいて世界を乱し、その後で貴方を倒せば済む話です。 ……しかし…… いまいましいことに、ゾルダルートが乗り気です。 あなたと全力で戦いたいそうです。取引で決着がついてしまうのが面白くないそうで。信じがたいです、あの戦争馬鹿は!』 「それでは受けるんだな?」 『受け入れざるを得ませんね……仕方ありません。決着が着くまで、動画の件は後回しにします』 隊員たちが、「おお」と歓声をあげる。 敬介は振り向いたまま、 「隊長。俺は時間を稼ぎます。その間に、奴の……ヤークフィースの本体を突き止めてください。そして動画のデータを破壊するんです」 「わかった。必ず」 この巨大なビルの全体に広がった、何千メートルとも知れない長大なヤークフィースの、本体を探す。困難なことだろう。だが期待には答えなければいけな い。彼が掴んでくれたわずかな勝機だ。 「それから……」 そこで敬介は、はじめて振り向いた。棘に覆われているため、その表情は分からない。だが声は弱く、震えていた。膨大な感情を押し殺しているときの声だっ た。 「……隊長。俺は隊長に謝らなければいけません」 なんのことだ、と問うまでもなく、 「隊長は俺に言ってくれました。心の柱が一本しかない人間は脆いと、もっといろいろなことに興味を持ったほうがいいと。でも、俺は決めました。俺はたった 一本の柱、一本の道だけで戦います。永遠にそのつもりです。隊長の助言を無視することになりました。すみません。でも、償うと決めたんです」 敬介の顔がわずかに傾いて、視線がサキの腕の中に飛び込んだ。 そこに抱えられている、凛々子の生首に。 何が起こったのか、ただちにサキは理解した。かぶりを振る。 「それでいいのかもしれない。 『俺にはこの世界しかない、見えない』というのと。 『他の世界も見たけれど、俺はこの道を行くと決めた』 この二つは違う、決定的に違うからな。 好きなだけ行け。……私には、それしか言えない」 (ここから先が更新分です) 36 教団本部 地下駐車場 敬介は重い鉄扉を開けて、駐車場へと足を踏み入れた。 すべての照明が消えているため、墨を流したような絶対の闇が満ちている。 だが敬介は暗所戦闘に備えて自分の五感をすでに変化させていた。 視界が左右に分かれている。 右半分は、闇の中に白いぼんやりとしたシルエットが見える。四足の何か。熱源映像で敵の体温を見ているのだ。たくさんあるはずの自動車や柱は熱を発さな いため、まったく見えない。 左半分は、大昔のコンピュータゲームのようにワイヤーフレームで立体が表現されている。四角い柱と、箱型の自動車がずらりと並んでいる。自らの心音の反 響を聞き分けて、障害物を感知しているのだ。 どちらも得られる情報はわずかなものだ。 「……よく来たな、小僧」 敵のシルエットが……ゾルダルートが、重低音を発した。 「……そういえば、お前には名乗っていなかったな。儂はゾルダルート。『魔軍の統率者』……」 相手の名乗りが終わらないうちに、敬介は走り出した。 たった数歩で時速百キロを超える。あまりの高速に、視界右側の超音波画像が歪んだ。ドップラー効果で音波の波長に狂いが生じたのだ。 同時にゾルダルートも巨体を唸らせて突進を開始。 敬介は距離を詰めながら身を屈め、振り回されるゾルダルートの前腕をかいくぐった。コンクリートの床を滑って、腹の下を通り抜ける。 装甲のない、腹の下を。 「馬鹿がっ!」 間近でゾルダルートが嘲りの声を上げる。 嘲りの理由は分かった。右目の熱源視覚に、白くまばゆい光の突起が並んでいる。極限まで張り詰めた、筋肉の砲列。腹の下に多数のマッスルガンがあったの だ。ゾルダルートは前回の戦いに学び、腹部の防備を固めたのだ。 敬介に向けてマッスルガンが一斉に咆哮。岩塊を両断する超音速水流が頭上から降り注ぐ。 だが敬介はひるまない。こんな攻撃など予測していたから。手の鉤爪で床を引っ掻いてさらに加速、ウォータージェットが放たれた瞬間には通り過ぎていた。 背後で水流がコンクリートを粉砕して飛沫を撒き散らす。 股下をくぐり抜けた敬介は高速滑走を続けながら立ち上がり、体を捻ってゾルダルートの方を向く。相対速度数百キロで遠ざかる敵の体に、あらんかぎりの瞬 発力で腕を伸ばした。 正確には、敵の体の一点。太い両脚のあいだで無防備な粘膜を晒す、肛門に。 狙いは最初から、腹ではない。 敬介の長い腕が肛門に突き刺さり、直腸を押しひろげて侵入。肘まで入ったところで敬介は指を広げ、腕の刺を逆立てる。何百の刺が臓物に食い込んだ。 敬介の体に急激な減速がかかる。関節が悲鳴をあげ、筋肉と腱が弾ける寸前までミチミチと伸びて、かろうじて体が止まった。腕は抜けない。 「グオオオッ!」 ゾルダルートが苦悶の叫びを上げる。尻を振ってコンクリートの床に叩きつける。敬介は避けることもできず尻の下敷きになった。棘の密生した巨大な獣の尻 が顔面を潰し、頭の上にのしかかる。それでも敬介は耐えた。ゾルダルートは転げまわった。連なる車を片端から踏み潰して、巨体が転がる。敬介は風車のよう に振り回される。腕が捩れてへし折れそうだ。クルマのフロントガラスに、ボンネットに顔面を打ちつけた。ガラスの破片が爆散して散弾銃の弾丸のように飛ん でくる。 耐えた。左腕を巨獣の背中に伸ばして爪を突き立て、引っ張る。右腕を腸の奥深くに押し込む。腕の付け根まで入った。 ゾルダルートは後ろ脚を器用に旋回させて敬介を蹴り飛ばした。顔面を爪が抉り、腹に丸太ほどもある脚が突き刺さる。 それでも耐える。腕の骨を変形させて、伸ばしながら振り回した。ミキサーの中で旋回する刃のように。爪が臓物を切り刻んでいく。大腸と小腸を何十もの断 片に変え、生ぬるい血の海の中を、さらに奥へと伸びる。目指すは脊髄と心臓だ。 「オオオオッ!」 またゾルダルートが咆哮。作戦を変えてきた。腹の中が激しく蠢く。筋肉を移動させている。腹筋の全てが、肛門に……敬介の腕の周りに集まってくる。太い ゴムタイヤの感触が敬介の腕を取り巻き、しっかりと押さえ込んだ。極限まで強化された肛門括約筋が全力収縮を開始する。 万力のような力が肘の前後を締め付けた。腕を抜こうとするがまったく動かせない。筋肉が乾いた音を立てて幾度も断裂。骨がミゾレ状にすり潰される。激痛 の塊となった腕が痙攣した。 「ガァッ……!」 今度は敬介が苦痛に呻く番だった。腕の細胞に死滅を命じ、腕をまるごと引きちぎって、力の限り飛びのく。 背中がコンクリートの柱にぶつかって跳ね返る。受身を取る余裕などない。無様に床を滑って転がった。 「ハアッ……」 右腕は肩より下がほとんどなくなっている。切り株のような丸い筋肉の塊しか残っていない。傷口には骨が露出し、細胞が壊死して柔らかいペースト状になっ ている。動脈は閉じたはずだが止血しきれなかったらしく、屠殺場に鼻面を突っ込んだような濃厚な血の臭いがする。なにより激痛がひどく、敬介は転がったま ま傷口を押さえて震えた。 しかし巨獣も攻撃してこなかった。 右目の熱源映像の中で、巨獣の口から白く輝くものが溢れだす。血を吐いているのだ。いかにフェイズ5の再生能力といえど、回復には何秒かを要するのだろ う。 「グフッ、……ゲホッ……やるではないか、小僧!」 苦悶の声の中にも喜びが混じっている。 「手段を選ばぬ、醜く浅ましい戦いぶり……餓狼のようだ。かつてのエルメセリオンでは考えられぬ」 すっと頭の中が冷え、敬介の震えが止まった。 激痛? それがなんだと言うのだ? 「……当然だ」 氷上凛々子は死んだ。軽やかに舞って全ての攻撃をかわし、剣光の一閃で敵を屠ってきた『反逆の騎士』エルメセリオンは、もういないのだ。 ここにいるのは、一匹のケダモノだ。 尻の穴だろうが何だろうが食らいついてやる。 「俺も名乗ってなかったな。 天野敬介。……『贖いの獣』エルメセリオンだ!」 叫ぶと同時に、立ち上がって飛びかかった。 37 殲滅機関日本支部 作戦司令室 「以上です。天野敬介の作戦を認めてください」 作戦司令室の大スクリーンの片隅に映し出されたサキが、そう言って口を閉じた。 「よかろう。事態を打破しうる作戦と判断する。ただちに作戦の詳細を詰めろ。前代未聞だ、作戦部以外に意見を求めても構わん」 ロックウェルが大きくうなずいた。 すると参謀連中が渋い顔で議論を始める。 「しかし、いかにして映像記録を探し出すか……」 「ヤークフィース本体が記憶という形で保存している公算が高いでしょう。電磁パルスの影響を受けませんから」 「しかし、その本体をどうやって探せばよいのだ。奴はあの300フィートはあろうかというビルの隅々まで体を伸ばしているのだぞ」 「奴がネットに繋いだとき、どの回線を使用したか特定できないか? それで場所がわかるだろう」 「駄目だ。計算しているが、二十ヶ所程度までしか絞り込めない」 なかなか結論が出ない。全員の顔に焦りの色がある。 と、大スクリーンに人の顔が現れた。軍人には見えない陰気で気の弱そうな中年男だ。凛々子の頭に爆弾を入れ、裁判で証言した、あの技術士官である。 「三、三嶋礼一技術中尉です。意見があるのですが……」 「なんだね?」 「我々が蒼血と呼んでいる寄生体は単一の生物ではなく、数千億という微生物の集合体です。微生物はすべてがDNAコンピュータの素子になっており、超並列 演算によって人間並みの知性を得ているわけです」 「そんなことは周知の事実だ。何が言いたいのかね?」 「蒼血は微生物の一部を体内に放出し、筋肉や神経などの組織内に入り込ませて、さまざまな肉体強化を行っています。しかし、素子同士の距離が離れれば離れ るほどDNAコンピュータとしての性能が低下していきます。ですから蒼血が完全にバラバラになることはできず、どうしても脳などに本体を残す必要がありま す。そして本体からの距離が離れるほど、肉体強化の能力……いわゆるブラッドフォースは低下していく……」 「そうか!」 ロックウェルはその巨体を揺らし、大声をあげる。 「つまり、反応速度の違いを見れば本体の場所が分かるのだな!」 「はい、その通りです。体の各所に一斉に攻撃を加えます。するとヤークフィースは逃げるなり、反撃するなり……その動きをカメラで撮影して、速度の差を調 べるのです」 「うむ、さっそく部隊に……まて」 言葉を切るロックウェル。毛虫のような眉毛がうごめく。 「場所がわかったとして、奴がそこを動かないという保証はあるのかね?」 「それは……」 三嶋大尉は言葉を濁した。 隊員たちが本体の場所にたどりつくまで、どうしても数分、途中で向こうが反撃すれば、それ以上の時間を要する。逃げ放題ではないか。 「壁や天井の中に銀粒子を充満させるとか……」 「その程度、すぐに効果が現れるものではない」 参謀達も押し黙ってしまった。逃げ放題では、場所を特定してもまったく意味がない。 大スクリーンの片隅にもう一つのウインドウが開いたのはその時のことである。 痩身の男が現れた。顔も細く、血色の悪い顔に四角いメタルフレームの眼鏡を載せている男。 「ウィリアム・シェフィールド法務大尉です。私に腹案があります」 「言ってみたまえ」 「裁判のテクニックを応用します。 裁判において、どうしても被告を有罪にしたいが、不十分な証拠しかない、これでは弁護側がいくらでものらりくらりと誤魔化して逃げることができる……そ んなとき、どうすればいいかご存知ですか。 演技するんです。 『逃げられる不十分な証拠』を、あたかも『完璧な証拠』であるかのように。 堂々と追及するのです。証拠の不完全性に気付かない間抜けになりきるのです。 演技をやり抜けば、被告も弁護側も慢心します。そして必ずボロを出すんです。発言の矛盾。今まで言っていなかったことを漏らしてしまう。一転して、そこ を突いて突きまくります。 今回の作戦についても同じことが言えます」 ロックウェルが太眉を嬉しげに上げる。 「敵の移動に気付かない振りをして、全力で攻めるのだな?」 「その通りです。そうすれば、敵はこちらを馬鹿だと思って、『警戒せずに移動』するでしょう。『普通なら行かないだろう、危険な場所』に行ってしまうこと もあり得る。つまり敵の移動場所を誘導できる」 「その誘導した場所に隊員を潜ませ、迎撃するか……参謀、どんな場所に来る可能性が高い?」 参謀たちは即座に答える。 「はい。奴は銀粒子の充満環境で長時間活動しており、また体を極端に細長くしているため、例の濾過装置での銀除去も困難です。つまり呼吸できない状態が続 いているわけで、酸素のある場所に来る可能性が高いでしょう」 「参謀。五階、七階、十六階で酸素ボンベが発見されているな?」 「はい。十階で発生した大火災も、酸素ボンベによるものです。以上のうち、ボンベが使用されずに残っているのは七階のみです」 「よし、では七階の、ボンベのある部屋に隊員を潜ませよう。だが……」 そこでロックウェルは思案顔になる。参謀の一人が呟いた。 「騙し抜くためには、本当に潜ませる必要がありますね。シルバーメイルなし、生身で」 「その通りだ」 シルバーメイルは動力源の燃料電池こそ無音であるが、手足を動かすためのアクチュエータ、武装を取り出すためのモーター、生命維持装置のポンプなどがど うしても音を発する。蒼血相手に、存在を秘匿することは不可能だ。 すると生身状態で、床に倒れている教団員に混ざって待ちうけるしかない。 「しかも数の問題がありますよ……そこに潜伏していることを覚られてはならないのですから、大部分の部隊はあくまでヤークフィース本体攻略に向けてぶつけ る必要があります」 「そうだな。大規模な部隊移動を隠すことは難しい。潜伏させられるのは数人、理想をいえば2、3人だな」 参謀達全員が『馬鹿な』と眼をむいた。戦闘に疎いシェフィールドですら唇を驚愕にゆがめている。 「たった二人で……フェイズ5を迎え撃つ、ですって?」 「そうだ、危険な賭けであることは認めよう。しかしシェフィールド大尉、君のいう裁判戦術とやらも賭けではないかね?」 「はい。相手が引っかかってくれなければ、不完全な証拠で浮かれているだけの道化です。完全に敗北します」 「それでも君が賭けをするのは何故かね?」 「……それがもっとも有効な戦術と信ずれば、やりましょう。細心に検討し、大胆に実行するのみです。現場で躊躇ってはなりません」 「だとすればだ、諸君」 ロックウェルは屈強な巨体を椅子から立ち上がらせた。それだけで室内の圧迫感が数段は増す。 一同を見渡して、 「賭けようではないか、大いに」 もはや不服を申し立てる者はいなかった。 ただ一人で、生身で蒼血を倒した例が、まったくないわけではない。 そう、日本支部最強と呼ばれた首藤剛曹長のように。 「さて人選だが。これも長時間かけて決めている余裕はない。 私の責任で指名する。 影山サキ准尉。リー・シンチュアン軍曹。 この二人が適任だ」 38 10分後 地下駐車場 漆黒の闇の中で、戦いは続いていた。 音と熱源で判断し、巨獣のいる方向に向かって敬介は走る。 柱の陰から柱の陰に飛び移りながらジグザグに近づいていく。風切り音とともに水流が飛来。一瞬前まで彼が隠れていた柱に激突。大きな弾痕を作る。 戦いが始まって十分あまり、すでに数千の攻撃を互いに放っているが、敬介の有効打は尻の穴をえぐった一回だけだった。 有効打を与えられない理由は…… 数メートルの距離まで敬介は迫った。ここから先、障害物はない。柱の陰から飛び出して疾駆する。 同時に、柱のコンクリートの破片を投げつける。深手を負わせることは期待していない。せめて注意を逸らすことができれば。 と、熱源映像で異変をとらえた。巨獣の肩から突き出している肉の砲身が、眩しさを増す。 筋肉の異常収縮。マッスルガン発射の兆候。 弾道を予測。とっさに体を捻り、走りながらも左右に進路を捻じ曲げて回避を図る。 予測が甘かった。脇の下や肩を水の弾丸がかすめる。下半身は避け切れない。一筋の水流に膝を撃ち抜かれた。足がもつれ、倒れこみそうになる。身体がふわ りと浮いてしまう。足場のない空中では回避方法が限定される。何とか足を着こうとあがく。その動きを完璧に予測されていたのか、第二第三の水流が来る。頭 に、胸板に、また足に水流が着弾する。 頭の中が衝撃で真っ白になる。足の筋肉が痙攣する。もう立っていられない。吹き飛ばされた。反射的に手を突いて、側転を繰り返して逃げる。全身のバネの 力を振り絞って、わずかでも早く、巨獣から離れて柱の陰に。すぐ近くで水流の着弾音、コンクリートの砕ける音。 やっと柱の向こうに逃げ込めた。 ……また攻撃に失敗した。こんなことを、どれだけ繰り返しただろう。 圧倒的な体格差を覆すには超接近戦しかない。組み付いて急所を狙うのがいいだろう。 だが、敵の火力が強力すぎて近づけないのだ。 柱から敵まで、自分が無防備になる数メートル。この数メートルをなんとか守れれば。 ……やってみるか? ゾルダルートは巨体を躍らせ、走り出す。敬介がいる柱の裏側に回り込もうとする。敬介がそのまた裏側に回る。ゾルダルートがさらに回り込む。絶えず射撃 を続けながらだ。 結果としてゾルダルートは緩やかな螺旋を描きながら敬介に近づいてゆく。敬介のいる柱は全周囲から均等に水流を浴びせられ、食べかけの林檎のように細く 削れていく。 大型トラックを縦にしたほど巨大だった柱は、いまや人間ほどの太さしかない。 「……ぬあああっ!」 突如として敬介は蛮声を張り上げ、細くなった柱に両掌を叩き付ける。コンクリートが乾いた破砕音とともに割れる。渾身の力で、敬介は柱を抱え上げる。腕 の筋肉が膨れ上がり、柱が宙に浮く。 「小僧! はかりおったな!」 意図を悟ったゾルダルートがいまいましげに吐き捨てたが、もう遅い。敬介はコンクリートの柱を抱え、盾にして突進した。太さ数メートルの柱を持ち上げる ことはできない。だから敵を利用して、持てる大きさまで削ったのだ。 水流が何度も何度も柱を撃った。ビスケットのようにたやすく削れ、えぐれていく。厚さが半分になり、三分の一になり、幅も小さくなって、もう体を隠しき れない。肩に水流がぶち当たった。筋肉が抉れ、骨を水流が叩く。ともすれば痙攣をおこしそうになる腕を、肩を、胸をあらんかぎりの意志力で抑え込んで、た だ敬介は疾駆する。 最後に残った、丸盆ほどのコンクリート塊がついに砕けた。しかしその時、すでにゾルダルートは目の前、格闘ができる距離。 身をかがめ、獣の頭の下にもぐりこみ、全身の力を束ねた鉄拳を打ち上げる。狙うは喉。 と、そのとき熱源視界を、真っ白い何かが埋め尽くした。 え? と思う間もなく、巨大な衝撃が下から顎を撃ち抜いた。眼球の裏で何百の星が散る。頬骨と頬肉が抉られ、頭全体が凄まじい勢いで振り回される。頭蓋 骨の中で脳が揺さぶられ、ぼやける意識。なんとか繋ぎとめる。 たった一撃で、顔の右下四分の一を、肉も骨も刈り取られた。 体の勢いは止まらず、突き上げた腕は相手の喉に達したが、体の軸がぶれているので打撃力を発揮しない。分厚いゴムのような皮膚に弾き返された。 「かはっ……!」 強烈なアッパーカットを食らったのだ、こちらの攻撃よりも数段早く。 そう理解して、よろめく体を建て直し、足を踏ん張った時。 また熱源視界の中で真っ白いゾルダルートの巨体が膨れ上がる。 体当たりだ。一個の弾丸と化して飛び込んできた。避けようと体をひねって、足がもつれる。 腹と胸に、一抱えもある頭部が激突。 鉛の塊を何千気圧で高圧注入されたような重い苦痛。肋骨がまとめてへし折れ、肺が潰れてすべての空気が強制排出される。圧迫された胃が破裂するが、苦悶 の声さえもあげることができない。 体をくの字に折って、吹き飛んだ。 頭をコンクリートに何度もぶつけた。天井や柱に衝突したのだろう。自動車の屋根の上を身体がバウンドする。ようやく床に落ちた。呻こうとして、血の塊が 口から飛び出した。 『エルメセリオン! 早く肉体を修復してくれ!』 『来るぞ!』 頭上にごう、と風切音が迫る。奴が飛んでくる。降ってくる。 胸の中で暴れる激痛を無視。体をひねり転がって避けようと試みる。 間に合わない。奴の動きは数倍早い。 巨大な破城槌を打ちつけるような音とともに、奴は着地してきた。 敬介の体の上に。 敬介の手足一本ずつを、獣の手足で押さえつけて。 「があっ……!」 包丁を並べたような爪が筋肉組織を食い破り骨に達した。爪が微かな唸りを発する。高周波を流しているのだ。切断力が桁違いに跳ね上がり、敬介の臑を。前 腕を。爪が貫通した。もう動かせない。意志を無視して出鱈目に痙攣するだけだ。 完全に体を固定された。 即座に次の攻撃が襲ってくる。巨獣の下腹部に並ぶマッスルガンが、敬介の下半身に向かって一斉に撃ちおろされた。わずか一メートルの高さから超音速水流 が殺到する。何度も、何度も。 最初の一撃で針状装甲が消滅。 次の一撃で腹筋に大穴が穿たれた。 三度目で内臓が数十の断片に分解され。 四回目で腰骨と腰椎がついに打ち砕かれた。 もう痛みすらない。神経さえも残っていないのだ。 見ることはできないが、おそらく臍から腰にかけての肉体の全ては、バラバラの肉片骨片になって飛び散リ、水に流されてコンクリートの床を広がっているの だろう。 下水を漂う残飯のように。 「……!」 もはや悲鳴をあげることもできない敬介。顔面の筋肉がわななき、口からは荒々しい息が溢れる。 「……愚かよのう。肉弾戦ならば勝てるとでも思ったか、儂に?」 生臭い吐息と一緒に、ゾルダルートの声が降ってくる。奴はたった数十センチの高さまで顔を下げているようだった。 「痛かろう。恐ろしかろう。すぐに楽にしてやる」 ゾルダルートの声は優しげですらあった。戦士に対する敬意、というものが欠落している。遥かに格下の存在を、苦笑しつつたしなめるような。 舐められても仕方がない実力差ではあった。周りに人がいない、全力発揮が可能な場所では、ゾルダルートはこんなにも強いのか。 だが敬介は。 痛覚信号の奔流で脳髄を灼かれながら。鋭く、鮮やかに、思った。 『こんな物、誰が痛いものか。』 『この程度、何が怖いものか。』 なぜなら知っているから。 本当の痛みを。 ――愛する姉が、殺されてしまった。もう一人の大切な人を、自分の手で殺めてしまった―― 真実の恐怖を。 ――俺はこの道を行くと決めたから、俺は決して姉の仇は取れない―― だから。敬介は冷静だった。その心は澄み渡っていた。わずかに残っている、臍から上の部分を再生させる。肺と肋骨を繋ぎなおす。肉の量が足りない、腕を 生やすことはできないか……? そして考えていた。脳細胞を焼き切れんばかりに高速稼働させて、この場を脱する策を。どうにかして逆転の手段はないかと。 だが考えても考えても浮かんでこない。 浮かんでくるのは、頭の中で火花のように弾けるのは、凛々子の思い出だけ。 ――『ボクはエルメセリオン。九十九歳なんだけど十五歳って思ってくれると嬉しいな』 ――『ところで敬介くん、デートしない?』 ――『だってロマンスカーの頂点VSEだよ! 天空からトランペットの調べが降り注ぐよ!』 ――『宇宙船みたいだね、ぎゅーん!』 ――『一皮向けば同じでも。ボクはその一皮を、絶対に脱がない!』 ――『ボクはそれを知ってる。たくさんの戦場で、たくさんの復讐者を見たよ! でも、みんな!』 ああ、凛々子。かけがえのない思い出。 これから幾万回、幾億回、思い出すたびに胸を締め付け、だが力を与えてくれるだろう思い出たち。 だが、いま必要なのは思い出ではないのだ。 いま目の前の敵を倒せなければ、『これから』など来ないのだ。 思い出じゃ駄目だ、具体的な戦術を……! 生半可な攻撃では、奴の細胞配列変換で再生される。 一撃必殺の手段を……! だが、浮かんでくるのは凛々子の表情、台詞…… 水族館での台詞が、ふと心に引っかかった。 お前は本当に好みが男の子みたいだな、と言った敬介に、凛々子は膨れっ面で答えたものだ。 ――『そんなことないもん。イルカとかも好きだもん。とくにシロイルカとか凄いよ。オデコのところに超音波を集中させるレンズがあって、超音波で敵を攻 撃するんだよ? かっこよくない?』 そういうところが男の子だって言ってるんだ、と敬介は笑ったはずだが。 まて。何かが気になる。 超音波……? 細胞配列変換? ハッと気がついたときには、ゾルダルートはすでに顎を開き、敬介の首筋に噛みつくところだった。極限まで加速された時間感覚の中ですら、顎の動きは滑ら かで速い。猶予は、あとわずか。 『エルメセリオン!』 呼びかけた。 『何だ?』 『一瞬だけ、奴の隙を作れるかもしれない。一瞬で、手足を再生させて攻撃できるか?』 『細胞の数があまりに足りない。それに蒼血細胞も、大部分が流れ出してしまった。大きな負担をかけて蒼血細胞をたくさん死なせて、それでも成功率は……二 割というところか』 『上等だ! やってくれ!』 『なにをしようというのだ?』 『後悔させてやるのさ! ――無駄口叩いて、俺に時間をくれたことを!』 敬介は、体の中にわずかに残る脂肪分を集めて額に配列。 特殊な脂肪組織の円盤――超音波を収束する生体レンズ、「メロン器官」を作り出す。無論、実物のシロイルカを遥かに上回る高出力の物だ。 そして肺の中の空気のありったけで、吼えた。 咆哮はレンズを通り向けて一本のビームとなって空気をつんざく。目の前であんぐりと口を開けるゾルダルートの顔面に吸い込まれ、その頭蓋の内側で焦点を 結んだ。 突如として膨大な量の超音波を注ぎこまれた脳漿が、爆発的に沸騰。何万何億の微細な気泡が溢れて頭蓋骨の中を埋め尽くす。キャビテーション現象。超音波 洗浄器と同じ現象を、巨大な出力で再現。無数の気泡が弾けて脳を叩き、全方位から脳を押し潰す。脳の血管の中でも同様のキャビテーションが起こり、血管が 気泡で埋め尽くされて血流が停止する。酸素が脳に送られない。 変化は劇的だった。顎を開いて首をくわえ込もうとしてた、ゾルダルートの頭がぐらりと傾ぐ。体全体が脱力し、大きく揺れて、倒れそうになる。手足をじた ばたと動かしてなんとか転倒を防ぐが、その動きはあまりに鈍く、無駄だらけで、まるきり泥酔者のそれだ。 「アガッ……オウッ、き、きさ……ま……っ」 口から泡を噴き、憤怒の声を垂れ流すゾルダルート。だが体はふらついたままだ。 脳漿も血液も、細胞成分に乏しい。「細胞配列変換能力」では治癒できない。間接的な手段で回復させるしかない。通常の負傷より回復は遅くなる。 その間に敬介は、跳んでいた。 首の筋肉の力だけを使って床を叩き、反動で跳躍。 もし闇を完全に見通す目の持ち主がここにいたならば、世にも奇妙なものを見ただろう。 いまや敬介は腕も足もなく、ただ頭部と胸部だけが残っている状態。折れた背骨が胴体の断面から突き出している。 そんな屍にしか見えない物が跳躍し――空中で融ける。 頭も肩も胸も、残っている肉体の全てが液体に変化する。 蛹の中で、芋虫から蝶へと姿を変える時のように。 すべての細胞結合を解除して、内臓も骨も原形質に還して、組み立て直す。 コンマ一秒に満たない時間で、新たに液体が人の形を成す。 身長はたかだか一メートル。手足は幼児のように短く、胸板も薄い。脳だけは小さく作れなかったのか、頭はスイカほどに大きい。 棘に覆われた、巨大な頭の目立つ化け物。 化け物――敬介はさらに空中を舞い、ふらつくゾルダルートの背中に飛び乗った。首の後ろにしがみついた。そのままゾルダルートの耳を引きちぎる。耳は頭 蓋骨の開口部だ。これで道が開いた。耳をちぎって出来た穴に、赤ん坊のような細い腕を突き入れる。中耳と内耳をまとめて粉砕、脳髄に指をめり込ませる。 そのとき、敬介の体を幾本もの触手が貫いた。おそらく「魔軍」は脳にはいなかった。脊髄だろう。だから力を失っていない。ゾルダルートに代わって肉体を 制御すると、触手を作り出し、敬介を攻撃したのだ。 敬介は何の抵抗もできない。両手は塞がっている。避けることも、装甲で防ぐことも。肉体の再構成にすべての力を使ってしまったから、針状装甲は脆弱なも のしか作れなかった。たったいま作られたばかりの肺を、肩を、臓物を、何十本もの触手が串刺しにして機能を奪っていく。穿たれた穴から、血液がほとばし る。一瞬で血液の半分が流れ出した。 気にしない。痛みも麻痺も、迫り来る死も。 ただ指を、頭の中に深く、深く刺し入れて。 指先が何かを捉えた。引っ張り出す。 「ヤメロォォォ!」 巨獣が絶叫する。主を慕う眷属たちの、悲痛極まりない叫び。 もちろん敬介は止まらない。掌に掴んだ生ぬるいアメーバを、高く掲げて、天井へと投げつけた。 音速ですっ飛んだアメーバは天井に衝突して四散。霧状の細かな微粒子になって、駐車場内の空間に広がっていく。 蒼血は微生物の集合体で、細胞ごとにバラバラになっても生きることはできる。だが、ある程度の数が密集して相互に信号を飛ばさなければ、知能や人格を維 持できない。 「魔軍の統率者」ゾルダルートは、いま死んだのだ。 だが敬介は油断せず、緊張をたもったまま、次なる攻撃に身構えた。 激怒した『魔軍』は主の仇を討とうとする。そう思ったのだ。 『エルメセリオン。相手の体を乗っ取って戦うぞ。フェイズ5がいなくなったから、支配力の競争で勝てるはずだ!』 『待て。様子がおかしい』 エルメセリオンの言う通りだった。巨獣は微動だにしない。怒りの咆哮をあげることもない。そればかりか、敬介の体に突き刺さった触手までもが、力を失っ てしおれ、千切れていく。 「なんだ……?」 当惑する敬介。 巨獣が顔を上げた。 いまだ駐車場内は真っ暗闇だ。熱源視界では表情はわからない。 「……天野敬介よ。礼を言おう」 表情はわからないが、その声は……静かで、落ち着いて、満足の色すら滲んでいた。 「我等はゾルダルート様の眷属。ただゾルダルート様の手足となり刃となることが望み。 ゾルダルート様の望みは戦いを楽しむこと。 きっとゾルダルート様は喜んでおられるだろう。 これほどの敵手と巡りあえた事を。 ならば我等が、お前を憎む理由は何もない。 そして我等が生きる理由も、もはやない」 それきり声は途切れた。敬介が座り込んでいる巨獣の体が、たちまち柔らかく変化、泥のように崩れ落ちる。心音も呼吸音も消えている。 骨も残さず溶けて、床に広がった。 蒼血細胞は人間の細胞と発熱量が違うので熱源視覚で捉えることが出来る。だが見当たらない。 すべて死を選んだか。 敬介はあっけにとられる。ようやく胸や腹の風穴が激痛を訴えてくる。 「勝った……のか?」 『そのようだな。だが油断してはならないぞ。 こんなもの、君が越えていく千の戦い、万の敵の、最初の一つなのだから』 「ああ……!」 そうだ。俺は誓ったのだ。 力強く答えて、立ち上がり、地下駐車場を去った。 39 その十分ほど前 教団本部ビルの各所で、作戦部隊が一斉に行動をはじめた。 何百人の兵士が、床や天井に広がるヤークフィースの目玉に、銃撃を浴びせる。 目玉が飛び散る。即座に他の目玉が壁の中に逃げ込んだ。なおも壁に銃撃を叩きこんで穴だらけにすると、ドアを突き破って爬虫類姿や昆虫姿の眷属たちが飛 び込んでくる。怒りの声をあげて襲い掛かってくる。通信回線にヤークフィースの声が轟く。 『なんのつもりですか! 裏切りましたね!』 各小隊の隊長は眷属と抗戦しながらも、「撃ってから反応が起こるまでの時間」を記録し、作戦本部に送信した。 40 殲滅機関作戦本部 「十一階、北西ブロックより連絡。銃撃より反応までコンマ六秒。眷属の襲撃まで八秒」 「十五階、南西ブロックより連絡。銃撃より反応まで……」 作戦司令室では、大勢のオペレータが通信内容を読み上げ、手元のキーボードを操作して、大型モニターに表示されたビル立体図に、数字を書き込んでいく。 数字が揃ったところで、別のオペレータがプログラムを走らせ、ヤークフィース本体の位置を推測する。 「もっとも可能性が高いのは十二階のこの部屋です。その次がこの部屋、第三候補はこの部屋です」 「わかった。総力をもって攻撃しろ」 41 数分後 十二階 ホテル時代に客室だった部屋に、長い黒髪の美少女がいた。 ヤークフィースだ。 リビングルームで豪奢なソファに深く腰を下ろしている。漆黒の法衣をまとった両腕には透明なチューブが突き刺さり、チューブはリビングの中央に置かれ た、一抱えもある機械に繋がっていた。体内の銀を除去する透析装置だ。 恐ろしいほどに整った顔に、しかし焦りの色があった。 ゾルダルートからの連絡がない。宿主を変えたばかりのエルメセリオンなど、たやすく蹴散らして当然だと言うのに。 そして人間たちは、戦闘中止命令を無視して先ほどから猛然と攻撃をかけている。 正確にヤークフィースのいる場所めざして進撃を続けている。奴らは三百名以上の大戦力を投入しているらしい。チヌークの数から逆算すると、全戦力の八割 だ。ビルの外で狙撃態勢をとって待ち構えている数十名をのぞき、すべての力を結集しているのだ。 蒼血たちは必死の防戦を行っているが、一階また一階と突破されている。最大の戦力を持つ「魔軍」が出払っているせいだ。 こうなったら。ゾルダルートとの約束を無視して、動画を公開するか? そうも思ったが、ゾルダルートに臍を曲げられてはかなわない。動画を公開すれば、人間と蒼血は全面戦争に突入する。ゾルダルートと「魔軍」なくしては生 き残れない。 では自分だけでも逃げるか? しかし、人間達の行動はどうみても罠ではないか。自分がこの場所から逃げられることを、まさか気付いていないはずがない。にも関わらず、すべての戦力を 集中させてくる。 罠だ。私をこの場所から逃がして、どこかに誘導する気なのだ。 動くまい。 と、暗がりのなかで決めた、その瞬間。 ドアが開いて、昆虫姿の蒼血、爬虫類姿の蒼血が転がり込んできた。体のあちこちに銃創があり、おびただしい血を流している。 「ヤークフィース様! 装置を使わせてください」 「私も、私も装置を……!」 彼らの膝は震え、声も苦痛にかすれている。ライフル弾の傷ごとき、たちまち回復するのが蒼血であるのに。 ヤークフィースは嘆息すると、装置から伸びるチューブを手渡した。 「お使いなさい」 これが苦戦の理由の一つだ。人間達は膨大な量のシルバースモークを投入している。もはやビル内の空気は蒼血にとって猛毒に等しい。ならば息を止めて戦 い、酸素は敵の死体から奪うか。この装置で銀を抜きながら戦うしかない。いずれにせよ戦術的な自由度を大きく奪われる。戦力を十分に集中できない。 ……酸素さえあれば。 このビルに持ち込んだ数十本の酸素ボンベ。あれを持ってくることができれば。肺に圧縮酸素を押し込んで、呼吸せずの長時間戦闘が可能だ。 七階にボンベがまだ残っていたはずだ。 これこそが罠ではないか、という危惧と、酸素を手に入れない限り打破できない、という焦燥が心の中でぶつかり合う。白くたおやかな指で拳をつくり顎に当 て、眉間にしわを寄せる。 「銀を、銀を受けました!」 悲鳴と血しぶきをあげて、また一人の蒼血が飛び込んできた。 ヤークフィースの心は決まった。 「仕方がありませんね」 手首のチューブを抜き、立ち上がる。 「ヤークフィース様、どちらへ?」 「酸素を取りに行きます。お前達は防戦に努めなさい。この装置を防衛することを最優先に。不可能な場合は、可能な限りの人間達を道連れにして自爆なさい。 逃げることを考えてはなりません。 『神なき国の神』『魔軍の統率者』ある限り、我らの勝利は揺らぎません」 「仰せのままに!」 ヤークフィースは服を脱ぎ、豊満でありながら引き締まった美しい裸身を闇の中に晒す。裸身が歪み、細長く伸びながら捩れていく。 蛇のように体を変形させ、天井を突き破って消えた。 42 ヤークフィースは壁の中、天井裏のパイプスペースや通気口を通り抜け、すぐに七階に到達した。 目標は、七階廊下の端にある喫煙スペースだ。プラスチックの透明な板に囲まれた椅子とテーブル。このテーブルの中には空気清浄機とともに酸素ボンベが隠 してある。 細長い体を天井から出し、飛び降りる。空中で肉体を変形させ、美少女の姿を取り戻して着地する。ドアを開けて喫煙スペースの中に入ろうとした、その瞬 間。 喫煙スペースの近くに倒れていた二人の人間……純白の信徒服を着た男女が、一斉に体を起こす。隠していたM4カービンを撃った。 ヤークフィースは自分に向かって浴びせられた銃弾をとっさに払いのけた。だがもう片方が撃ったほうはヤークフィースではなくテーブルに吸い込まれた。 テーブルの中のボンベに。 噴き出した酸素と銃弾の熱が、炎を生んだ。 明るいオレンジの炎が絨毯に広がり、プラスチックの壁を溶かしてさらに膨れ上がる。 酸素はたちまち消費しつくされてしまうだろう。 「……あなたっ!」 普段の丁寧語をかなぐり捨てて喚き、ヤークフィースは男の方へ突進した。銃を蹴り上げて吹き飛ばし、片手で首根っこを掴んで持ち上げる。背後から連射が 浴びせられたが無視する。男の首筋に噛みつき、頚動脈を食いちぎる。 ……酸素が駄目ならば、酸素のたっぷり含まれた血液を奪っていくまで。一滴残らず奪いミイラにしてやりましょう。 あふれ出す血液を啜り、牙を通じて体内に取り込んだ瞬間、激痛が弾けて怒りを挫いた。 吸い込んだ血が、まるで硫酸のように血管を、内臓を灼く。血液中の蒼血細胞が何十億という単位でまとめて死滅する。あらゆる筋肉が反乱を起こし、高圧電 流でも浴びたように手足が痙攣する。 「あ……がっ!?」 これはまさか、銀! この男、血液の中に何らかの手段で銀を流し込んだ! 「そうさ!」 男は糸のように細い眼に執念の光をきらめかせて叫んだ。 正気の沙汰ではない。大量の銀は人間にとっても有害ではないか。 血を吸われることを予期し、自らを罠と化して待っていたというのか。 「おのれっ……」 男がヤークフィースの裸の背に腕を回して、抱きすくめてくる。ヤークフィースは力ずくで振りほどこうとした。骨が軋み、男の顔面に冷や汗が浮き、腕が緩 む。いかに大量の銀を受けたとはいえ、生身の人間と力比べで負けることはない。 だが女のほうが、何かの機械を手にしてヤークフィースの背に突進してきた。 視界の片隅で見た。女が持っている機械は、細長く、パイプやスプリングで構成され、先端には銀色の太く禍々しいスパイクが生えている。 それがシルバーメイルの近接格闘武器だと理解した時には、もう女は体ごとぶつかってきていた。 「インパクト!」 裂帛の気合のこもった一声とともに、背後で火薬カートリッジの炸裂音。肋骨を避けるように背中の下の部分に、銀皮膜でコーティングされたタングステン合 金の杭がぶち込まれた。男の体もろともヤークフィースを串刺し。 ――縫い付けられた。 電流は流れない。電装系に接続されていないからだろう。だが銀の杭は、ただそれだけで内臓を焼く。力がますます奪い取られていく。杭を抜く力が出せな い。 「リー軍曹! 行けぇっ!」 女が苦しげな声を張り上げる。苦しげなのは負傷したからだろう。生身の腕で反動に耐えられるはずがない。間違いなく腕がへし折れている。 「はいっ!」 リーと呼ばれた男は叫び返すと、ヤークフィースを抱きかかえて窓に向けて走る。 「離しなさいッ!」 ヤークフィースは頭突きを浴びせた。男の鼻に直撃。鼻骨が粉々に砕ける感触。衝撃は頭蓋骨全体に伝わったはずだ。陥没した鼻から生ぬるい血が噴出。耳か らも目からも血が溢れ出す。 それでも男は止まらない。そのままガラスに体当たりして、突き破って落ちた。 「まさか……!」 何なのだ、一体こいつらは。自分の腕を潰してまで、仲間ごと敵を串刺しにする女。そしていかなる負傷にも耐え、七階からダイブする男。 人間は。人間とは。もっと弱く、哀れで、騙されて現実から目をそむけるばかりの生き物ではなかったのか。 「きさまは……?」 風切り音の中、ヤークフィースはリー軍曹の顔を覗き込む。 顔面を血まみれにしたリー軍曹は凄惨に微笑んだ。 「ヤツが命懸けなんだ。負けるわけにいかねえだろ、俺も……!」 直後に、二人は大地に叩きつけられた。リー軍曹が下になる。 軍曹の骨盤が破砕される音がヤークフィースに伝わってくる。手足が奇妙な方向に捻じ曲がる。二人の体がバウンドして止まる。 軍曹は声もなく白目をむいて気絶した。即死はしていないが、すぐに治療しても助かる確率は低いだろう。 ヤークフィースは無傷だった。ピクリとも動かない軍曹の体から、力任せに杭を抜く。 立ち上がり、自分の体からも杭を抜く。 だが、その時にはもう囲まれていた。シルバーメイルを装着した隊員たちに。 全員が一斉に銃を向けてくる。巨大な銃。こいつらは火力支援チームだ。自分がここに降ってくる事を分かっていたのだ。 「くっ……」 舌打ちする。 あれを使うしかない。周囲の人間すべて……低フェイズの蒼血までふくめて無差別に巻き込むため、今まで使わずにいたが。 肺と声帯を変形させチューニング。唇から、特殊な暗示の込められた極低周波の歌声がほとばしる。シルバーメイルの防音機構さえも突破できる最大の音量で 歌った。 人間には聞こえない歌。だが無意識を鷲掴みにして、絶対の恐怖で震え上がらせるはず。 ……さあ怯えなさい、泣き喚きなさい。 ……これが神の力なのです。 だが隊員たちは銃を下ろさない。 「なぜ……?」 「聞いてるんだよ! お前の声のことは! エルメセリオンからな!」 「お前の暗示を打ち消させるように、念入りに精神をいじられてるんだ!」 馬鹿な! たった3ヶ月で対応策を編み出したというのか! 万策尽きたヤークフィースは隊員たちに襲い掛かった。もはや変身する力もなく、全裸の美少女の姿のままで。 二人を殴り殺し、一人を蹴り殺し、奪った銃でさらに一人を殺した。 だがそれが限界だった。Gsh−23の大口径徹甲弾で手足を打ち砕かれ、グレネードランチャーの多目的榴弾で腹を食い破られ、とどめに顔面へとカール・ グスタフ無反動砲を叩き込まれた。超高熱の金属噴流が頭蓋骨も脳髄もまとめて吹き飛ばす。四方に飛び散った黒焦げの肉片に、隊員たちは念入りに紫外線サー チライトを照射していく。 「神なき国の神」はここに滅び、二度と蘇ることはなかった。 43 数時間後 教団本部ビル屋上 敬介は人間の姿に戻り、裸の体にカーテンを巻いて服代わりにして、ビルの屋上の一番外側に立っていた。 朝日の昇りつつある東の空を見つめていた。 まだ大気には硝煙と血、そして銀の臭いが混じっている。ひと呼吸ごとに口や鼻の中を棘のように刺してくる。 そして広大な市街地の向こうに顔を見せる赤い太陽も、もはや、昨日の太陽とは違う。 ……太陽が怖い。陽光を浴びると鳥肌が立つ。太陽を見ているのが怖い、目を背けたくなる。 理由は分かっている。蒼血細胞が、銀に並ぶ弱点である紫外線を恐れている。むろん皮膚の下に紫外線が届くはずもないが、実害のなさを頭で理解しても、遺 伝子に刻み付けられた恐怖は消えず、宿主にまで伝染する。 凛々子は陽光の下で楽しげに笑っていたが、あれは努力の結果なのだ。 自分は本当に、「人間ではなくなってしまった」のだと、太陽が教えてくれる。 「天野。本当に行くのか?」 背後で女の声。 振り向くとサキがいた。他の隊員はいない。屋上に着陸しているチヌークに、みな乗り込んでしまっていた。 あれから数時間、目の回るような忙しさだった。親玉二体を倒したのち、敬介と殲滅機関は、残る蒼血を掃討して安全を確保すると、「証拠隠滅」にとりか かった。 「教団が武装蜂起をたくらんでいて、仲間割れを起こした」という「設定」で情報操作するのだから、銃弾や弾痕はあってもいい。だが化け物の屍は存在して はならない。徹底的に運び出された。「銃弾ではなく牙や爪で殺されたような人間」もいてはならない。原型が残らないほどバラバラにされた。 もちろん、戦いで負傷した人々の治療も平行して行った。敬介の能力は数十人を死の淵から救った。リー軍曹は血中に銀があるため苦労したが、例の装置で銀 を抜きながらなんとか治療を試み、命を取り留めた。だが脳に損傷があったため、細胞配列変換をもってしても完全には治せず、軍務に復帰できるかどうかは怪 しいところだ。 「もちろんです、隊長」 自分は、殲滅機関とは別れる。 「お前がいてくれると、どれだけ助かることか。死刑命令がまだ撤回されていないことを問題にしているのだろう? 私からも嘆願書を出しておく。大丈夫だ、 軍法は曲げられると思い知っただろう?」 「死刑だけが問題なんじゃありませんよ」 敬介はそこで言葉を切り、サキ隊長をじっと見つめる。 「恨みの問題というか……ここの人たちと、うまくやっていくことは、もう無理だと思います。 俺がかつて、作戦で大失敗したことは変わらないし。 今回も暴れて、何人も大怪我させたし。 納得しないでしょう、被害を受けた隊員たちが。 それに……」 また言葉を切った。一番重要な理由を、口には出さず、胸の中に閉じ込める。 ――姉さんを殺した人たちと一緒には戦えない。 復讐しないと決めた。憎しみを向けないと決めた。 だが、それでも心の奥底で、煮えくり返った感情が釜の蓋を持ち上げている。 毎日、同じ場所で働いて顔をあわせて、作戦のときは背中を預けることができるか? 未来永劫、とまではいかないが、いまはできない。何かのきっかけで気持ちを抑えきれなくなって殺してしまうかも、という不安もある。そんなことになった ら姉のみならず凛々子をも裏切ることになるのだ。 だから、いまは殲滅機関を去り、一人で戦う。そう決めた。 「そうか……」 サキは肩をすくめる。 「ならば、引き止める言葉はない。ただ健闘を祈る、としか」 「俺も、健闘を祈ります。隊長たちの……すべての人たちの」 サキは軽く微笑むと、無言でチヌークに乗った。 チヌークがターボシャフトエンジンの金属的な轟音を発し、天高く舞い上がっていく。 明るくなり始めた空に消えていくチヌークを、敬介は背筋を伸ばして見送った。 44 2013年3月 富士山麓 巨大霊園 あれから五年が経った。 敬介は青く澄んだ空の下を、砂利を踏みながら歩いていく。 あたりは霊園だ。一面に砂利が敷かれ、クルマほどの大きさに区切られた区画が何千と並び、その区画の中には墓石が立っている。どの墓石も見事に掃除さ れ、昨日切りだされたばかりのようにピカピカだ。墓石の周囲には必ず花や、小さな樹が植えられている。緑溢れる、空間の余裕を大事にした墓地だった。 そして空には、白く雪を頂いた富士の山が浮かんでいた。裾野の方は空に溶け込む同じ色で、山頂に近づくに従って雪の白さを帯びていくのだ。 世界を旅してきた敬介も、これは素直に美しいと思った。 先ほどからずっと、冷たい風に乗って、ハーモニカの演奏が聞こえてきていた。敬介が歩いていくにつれ、その響きがだんだんと強くなってくる。 奏でているのは、墓石の前に立つ一人の女性だった。長身を象牙色のコートに包んでいる。髪はごく短いが、女性であることは間違いない。背筋を伸ばして肩 をいからせ、ただハーモニカを持つ手だけが滑らかに動いて、音が紡ぎだされていく。 曲が盛り上がり、終わるまで、敬介はその女性の後ろに立ち尽くしていた。 「隊長」 女性の背に声をかけると、彼女は振り向いた。 サキだ。 「遅かったな」 「時間通りですよ。隊長が早すぎるんです。いまの曲は?」 「これは大正期の流行歌だ。気に入ってくれるといいのだがな。お前はどう思う?」 「その……とても良かったです。ラストの高音の盛り上がりが、ブワーッという感じで、聴いている俺の気持ちも、なんていうかブワー……感動しました」 「わかった、わかった。悪かったよ。無理に訊いて。相変わらずだな」 サキは苦笑する。敬介はサキの隣に並んで、墓石を見下ろした。 墓石は、同じ大きさのものが二つ。 天野愛美 氷上凛々子 御影石の美しいグレイの表面を、いく滴もの水滴がつたっている。今朝の雨がまだ乾ききっていないのだろう。泣いているようだと思う。 サキは無言で、持ってきた桶と柄杓で墓石を洗う。敬介はやはり無言で、墓石の前に線香を供えた。 「素晴らしいお墓だと思います。本当にありがとうございました」 「ありがたいと思うなら、もっと頻繁に来てくれよ」 「すみません……」 あれから五年。敬介とサキは、凛々子たちの命日に会うことにしていた。 いつも大して喋らない。挨拶と、ほんの数分の会話を交わすだけで、敬介は頭を下げてその場を去っていた。 サキも殲滅機関のメンバーだ。姉を殺した奴らだ。そんな気持ちが心の中で頭をもたげるので、恐ろしくなってすぐに去ることにしているのだ。 それでも敬介にとっては大きな救いになっていた。歳をとることもなく、仲間や家族を作ることもなく、闘いの道をゆく敬介にとっては。 「最近、どうなのですか、隊長のほうは」 「ああ、大尉になったよ。お祝いはいい。現場に出られなくなるのが憂鬱だ。この五年、情報局の発言力ばかり大きくなってな。いろいろ大変なんだ」 「そうでしょうね」 ヤークフィースとゾルダルートを倒したことで、有力な蒼血は恐れをなして日本から逃げていった。いまでも国内の蒼血の活動は不活発で、作戦局員の出動自 体が減っている。かわって大活躍しているのが情報局だった。もと教団員を何十万人という単位で逆洗脳し、普通の人間に戻してきた。かつてない規模の記憶操 作のためにアメリカ本国から惜しみなく資金と人材が送り込まれ、いつしか情報局は「有力な部署」ではなく「日本支部の中心」になっていた。 「知っているか、今年から殲滅機関情報局は、与野党や財界のトップクラスに直接工作をかけて、記憶操作や人格改造で操ることにしたんだ。また蒼血に浸透さ れるのを避けるため、だと」 胸糞の悪い話だった。 「初耳です。ではヤークフィース達のやっていた事と大して変わらないですね」 今も敬介の脳裏には、ヤークフィースの投げ掛けてきた皮肉が焼き付いて離れない。 ……『民衆を侮蔑していることにかけては、あなたがた殲滅機関も相当なものですよ』 苦々しい思いに唇を歪めた。 「まあ、私のことはいいだろう。天野はどうなんだ。アフリカでの活躍はうちの支部にまで聞こえてくる。今日はちゃんと教えてくれ」 「ちゃんと……ですか?」 敬介は口を半開きにして固まった。 何を話せと言うのだろう。 アフリカに殺戮と狂気を振り撒き続け、永遠の暗黒大陸たらしめてきた蒼血、『混沌の渦』ナーハート=ジャーハートとの闘いを、その場にいない者にどう伝 えればいいのだろう。 伝えようがないし、ここでサキに泣き言をいっても始まらない。すべて背負っていくと決めたのだから。 だから敬介は意識的に笑顔を作り、喋り始めた。 ――飢えや伝染病で虫けらのように死んでいく子供達を、大勢治したこと。 ――蒼血に乗っ取られた軍閥やカルト教団に殴りこんで、いくつもいくつも壊滅させてきたこと。 ――そのほか、幾多の勝利の物語を。 死から救った子供達の大半は少年兵となり、十五歳にもならないうちに自動小銃で殺しあって死んでいった、ということは話さなかった。 軍閥を潰しても、軍閥に参加していた人々は戦いをやめず、むしろ細かな民族の差や宗教の差、四代前の祖先がどんな出自だったかで分かれて、今まで以上に 激しく殺しあったことも、話さなかった。 カルト教団を滅ぼした途端、信者達は心の支えを失って集団自殺したことも。 ナーハート=ジャーハートとその眷属は、人間を洗脳や暴力で直接操ることは好まなかった。人間の中に必ずある無知や偏見や欲望につけこんで踊らせてい た。蒼血が先ではなく、人間の愚かさが先にあった。だから、戦っても戦っても、蒼血をどれだけ滅ぼしても争いは減らなかった。むしろ増えているような気が してならなかった。こんな愚かな人々は蒼血に支配されるべきだ、というヤークフィースの言葉を何度思い返し、慌てて心の奥底に封じ込めたか、分からない。 今では胸の中に、重く冷たい諦観が、冷えたアスファルトのようにこびりついている。 敬介がこれらの悩みを隠して明るく喋り続けるのを、サキは黙って聞いていた。 最初は棒立ちで聞いていたが、やがて腕組みを始め、眉がハの字になった。眉間に深い皺を寄せ、唇を噛むようになった。 敬介が喋り終えると、深いため息をついた。 「……相変わらずだな、本当に。隠すのが下手だ。なんでも抱え込んで深刻に悩んで、でも他人の目からは、悩みを隠していることがバレバレだ。素直なんだ な」 「そんなこと」 大きくかぶりを振って否定したが、サキは引き下がらない。 「つまりだ。お前は辛くて仕方ないんだろう。自分の頑張りは無駄なんじゃないかと、思えてならない」 「かなわないな、隊長には」 肩を落として呟くしかなかった。 「そうです。隊長のおっしゃるとおりです。 でも、俺は諦めませんよ。 決めたから。絶対にやり抜くと。 どんなに辛くても戦うと。 命が尽きるまで、です」 笑顔を浮かべることはもうできなかった。胸の奥で渦巻く、泣きたい衝動をこらえて、顔面をむりやりにこわばらせて喋った。きっと悲壮極まりない顔になっ ていると思った。 「……ふむ」 サキは腕組みを解き、いたずらっぽく笑う。 「ところで、今日はもう一人来るんだ」 「え? 聞いていませんよ。やめてくださいって言ったはずです。姉さんは殲滅機関と関係ないから呼ばないで欲しい、墓参りをされる筋合いはないし、俺だっ て殲滅機関の人たちとは、あまり会いたくない」 「そう言うな。どうしても行きたい、お前に会って言いたいことがある、頭を下げられたんだ。 リーの奴だよ」 「な……」 敬介は動揺した。日常的に銃弾の嵐をかいくぐっている肉体が、恐怖にわなないて冷や汗を分泌した。 「待ってくださいよ!」 あいつは俺の事をいまでも憎んでいる。間違いない。細い目に宿る、刺すような憎悪の光をいまでも覚えている。「戦友を殺された」。まったく抗弁のしよう がない、正当な恨みだ。 他にも恨まれる理由はある。敬介はあの戦いで多くの負傷者を治したが、リーは治しきれなかった。 そして俺はこの十年、凛々子のことぱかり考えて、彼のことは切り捨てて生きてきた。彼もまた、償うべき相手だというのに。頭を下げることすらなかったで はないか。 そしてこれからも……俺はリー軍曹に、本当の意味で償うことはないのだ。 大切な人を奪われた遺族は、犯人の謝罪程度では到底納得しない。 『お前も死ね』それが遺族の本音だろう。敬介自身、『お前も死ね』の気持ちが身に滲みて分かる。 だが死んで償うなど論外だ。俺は凛々子の償いのためだけに生きると、約束したのだから。 たとえ他の全てを切り捨て踏みつけようと。 「駄目です、隊長。俺はリー軍曹に会いたくありません。会う資格がないのです」 「まあ待て、逃げるなよ」 立ち去ろうとする敬介の首根っこをサキが掴む。もちろんサキがどれほど肉体を鍛えても敬介の指一本ぶんの力もあるまい。力ずくで振りほどくなら簡単だ。 それなのに体が固まって、振りほどくことができなかった。 遠くの方から足音がする。 シャリリ、カツン、シャリリ、カツン。砂利の上を誰かが歩いてくる。 敬介の鋭敏な感覚は足音を反射的に分析してしまう。足だけでは有り得ない音。杖を突いている。そして片方の足にだけ体重がかかっている。バランスは悪 く、歩行のペースはひどくゆっくりとしている。 今までリーの事は全く訊かずにいたが、やはり後遺障害が残っていたのだ。 と、そこで一つの符合に気付いた。体を縛りつける苦々しい思いが、さらに増した。 ……姉さんと同じだ。 俺が仇討ちを諦め、こんな冷たい土の下に閉じ込めて、ろくに顔も見せに来ない、「切り捨ててしまった」姉さんのように。 姉さんの無念が、形を変えて現世に現れたかのように。 リーの足音がますます近づいてくる。 カツン、シャリリ、カツン…… ……俺に何を言うんだ、リー軍曹。 ……俺をどれだけ憎むんだ。 ……俺は。受け止めなければいけないのか。 ……凛々子なら、どうしただろう? 頭の中が濁って、ぐるぐると同じ事を考えてしまう。どうすればいい、どうすればいい。 答えは出てこないまま、暗澹たる気持ちでリーを待ち受ける。 曲がり角からリーが姿を現す。 「……え?」 思わず、驚きの声を漏らす。 リーはジャージにスニーカー姿という恐ろしくラフな格好だった。不自由な体にはこの服装が便利なのかもしれない。 かつては筋肉に包まれていた肉体は見るも無残にやせ衰えている。片足がろくに動かないらしく、ひきずってゆっくりと歩いてくる。体全体を小刻みに痙攣さ せているところを見ると、脚以外にも具合の悪いところがありそうだ。 だが、その表情は何とも明るいのだ。 リーは敬介たち二人の姿をみとめると、細面ににっこりと笑顔を浮かべ、片手をぎこちなく挙げて挨拶した。足が不自由なりにペースを上げ、せかせかとした 動作になる。 あっけにとられる敬介の前にやってきた。 「や あ。 ひさしぶり だな。 あまの。」 体を震わせながら、不明瞭な発音でゆっくりと喋った。これも姉を思い出させてならない。 「ご……ご無沙汰しています、リー軍曹」 「天野、彼はもう軍曹じゃない。除隊したからな」 そうだろう、この体ではどうしようもない。 「あまの。おれの じょたいのことについて。おまえに ひとこといいたくて きたんだ。」 ……ああ。来るぞ、怨嗟の言葉が。 敬介は両の拳をかたく握りしめ、せめて目を逸らすまいと、リーの糸のように細い目をじっと見つめた。 「おれいを いいたかった。ありがとう。」 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。馬鹿みたいに口を半開きにして、たっぷり二秒間は経ってから声を上げる。 「……はあ!?」 「おれは たたかえない からだになって じょたいした。 さいしょは つらかったよ。 まいにち、 むかしのことを ゆめにみて、とびおきた。 そうけつと たたかえない。なんのいみがあるかと、おもった。 でも、おれと おなじようなからだの あつまりで。 にょうぼに であったんだ。」 そこで、恥ずかしそうに顔をほころばせる。リー軍曹がそんな純情な一面を見せるところなど、敬介は一度も見たことがなかった。彼はいつだって皮肉や冷や かしを言っているか、さもなくば本気で何かを罵っているか…… 「とっても いいおんなだ。すぐに むちゅうになった。あんなしあわせが あったなんて。 だから」 そこで微笑を消し去り、この上なく真摯な表情で言い切った。 「おまえには かんしゃしてるんだ。 おまえが、なおしてくれなければ。 しんでいた。にょうぼにはあえなかった。 ありがとう。」 「……でも、でも。俺は軍曹を、ちゃんと治せなかったんですよ。他の隊員はみんな元通りなのに、軍曹は脳の損傷がひどくて……そんな体に」 「だから。いってるだろ。こんなからだ だから あえたんだ。」 頭をガツンと殴りつけられたような衝撃だ。 だが敬介は、動揺に声を震わせながらも、ためらいがちに問いかけた。 「俺は確かに、良いこともしたかもしれません。 でも五年前、全くのミスで、軍曹の部下や戦友をたくさん死なせました。軍曹は、俺を殺したいくらい怒ってましたよね。 他のところで良い事をしたって。消えるわけがないと思うんです。こんなことが、これだけのことが。 それでも恨んでいないんですか、俺のことを!?」 最後のあたりは声高に、叫びに近くなってしまった。 有り得ない、頭の中でそう叫びがこだましているのだ。 リーは黙り込んだ。顔を伏せ、沈痛な面持ちだ。 数秒間、誰一人リーに声をかけない。 そして……ふたたび笑顔を取り戻すと。 不自由な足で歩き出し、敬介にさらに近づき、背中に腕を回して抱きついた。 震える手で、敬介の肩を叩き、耳元でささやいた。 遠い日のように。 ベテランの下士官が、失敗にしょげ返る新兵をなぐさめるように。 「いいってことよ。」 その途端、敬介の胸の中で何かが解き放たれた。冷たく鬱屈していた想いが、勢いよく蒸気と化して体の中を吹き上がる。吹き上がった熱い気持ちは、涙腺に 殺到した。 いけない、と思って瞼をきつく閉じたが、もう涙は溢れ出していた。 「……あれ。おまえ、ないてるのか。」 「な、泣いてなんていませんよ。なにを馬鹿な……」 そうは言っても、涙は勢いを増すばかりだ。 瞼が作る闇の向こうから、サキの優しい声がした。 「なあ、天野敬介。 いまでも思うか? 人は変わることなどできないと。 自分のやってきたことには、なんの意味もなかったと」 敬介は即座に答えた。 涙声で。万感の思いを込めて。 「そんな事。そんな事……思うわけないじゃないですか!」 終わり 2010年8月3日 第1稿完成 |