だめてん 第3章 1 慎一は体を10センチサイズにまで縮めて、みかん箱の上に立っていた。 ミレイが頭上の空間を埋め尽くすようにして自分をのぞきこんでいた。 その顔だけで自分の身長より何倍も大きい。 巨大顔面は怖かったが、本能的な恐怖を精神集中で追い払う。 「えい!」 背中に手を伸ばし、勘と記憶で羽根を一枚引き抜く。 指で挟んで、強く念じる。 「ぬぬぬぬ……」 念じ続けると、羽根は光を発し、扇風機に姿をかえた。 「あれ?」 首をかしげて扇風機を投げ出す。 こんなアイテムは出すつもりがなかった。 丸太サイズの指が唸りをあげて飛んできた。デコピンだ。 よけられずに吹っ飛ぶ。みかん箱の上を転がって、起き上がったらミレイの怒声が飛んできた。 「やる気あるのか! アイテムひとつ出すのに2秒かかってそのざまか!」 「ご、ごめん……なさい」 頭を下げる慎一。 「ところで、仕事はいつもらえるんですか。きょうもずっと訓練ですか?」 「君にはまだ早い」 「突撃出勤」からまる3日。慎一はまったく仕事をもらえず、ひたすらミレイの言われるがまま訓練をしていた。 事務所の片隅のみかん箱の上で、体を小さくして練習練習。体を小さくするのは「失敗したときの被害を減らすため」なのだそうだ。 「さあ、もう1回だ」 「おにー! あくまー! こんなのただのイジメだ!」 ミレイが即座に声を張り上げる。 「その言葉遣いはなんだ!」 声の圧力だけで飛ばされそうになる慎一。膝をつき、ミレイを見上げる。悔しそうに顔をゆがめた。 「……すいませんでした。でも、ここまでやる必要は……」 「どんな事態にも一瞬で的確に対処できないと仕事はできない」 「別に戦争やってるわけじゃないんでしょ? 奉仕天使ってボランティア活動というか人助けでしょ?」 「いま目の前で女の子が車にひかれる! アイテムをとっさに出せなくてどうやって助ける?」 「でも、これはイジメだと思います! せめてご飯くらい……」 「私が天界軍に入ったころは、訓練でミスをしたらできるようになるまで飯を食わせてもらえなかった。やっともらえた一切れのスパムハムがどんなに旨かった ことか」 「いや、でも軍隊と一緒にされても……」 ……軍隊と同じノリだったのか。そりゃついていけないわけだ。 さすがにあきれた。どっと疲れがわいてくる。みかん箱の上に腰を下ろした。 ただ厳しくすればいいと思ってるんだ。ひどい女だ。美弥子さんとは正反対。せめてもう少し優しいところがあればいいのに。 いくら美人でも、こんな人と一緒に仕事するのはやだなあ。 「どうした、不服そうだな」 「仕事をさせてください。実力は仕事で証明します」 そうだ。早く証明して実績を積まないと。天使階級を上げないと。 なにより、仕事をもらわないと、地上にはいけない。 美弥子さんをひとめ見たい、という願望すらかなわなくなるのだ。 ミレイは微笑を浮かべて言う。 「そうだよな、早く好きな女の子に告白しなくちゃいけないんだよな」 「う……」 「そのために、どんな苦労をしてでも天使として出世する! ぼくは決めたんだ! みたいなこと言ってたよな」 からかわれる。ばかにされる。そう思って身構えた。 「別に笑うつもりはない」 心を読んだかのようにミレイが答えた。 「え……」 「わたしは人の心を笑ったりしない」 ミレイの顔を見上げた。 さきほどは冷笑にみえたほほえみが優しい微笑にかわっていた。眼鏡の奥で輝く青い瞳は、おそろしいほどに真剣だ。 「わたしが笑うのは、具体的な行動の失敗だけだ。心の中は聖域だと思っている」 ……わりと優しいとこあるんだな。 だまされちゃダメだと自分に言い聞かせる。だが、厳しい後の優しさはとても心によくひびいた。 そのとき、電話がジリリリリとなった。 慎一にとっては耳慣れない音だが、天界のメカはどれもこれも古臭く、電話はダイヤルつきと決まっていた。 ミレイはすぐに机に向かい電話をとり、 「……はい、ヒドリ町分局です。奉仕天使……はい。対象Sに? わかりました。救済ランクを1に上げます」 引き締まった声で応対する。電話を切った。 足早に戻ってきたミレイは言った。 「実力で証明してみるか? 初仕事だ。わたしが監督しよう」 「はい!」 2 下界に慎一とミレイはやってきた。 2人でグロ吉に乗っている。 雲を抜けて、いまは東京の街の上。 朝の光に照らされた、東京タワーや六本木・汐留の巨大ビル群が見える。 「うひゃあ、でかいビルをおっ立てやがったもんだぜ! 若、ちょっとあのビルに寄ってかまいやせんか?」 「え? 六本木ヒルズ? いいけど……」 「そんなことやってる時間はない! 仕事中だ! わかってないのか、とくにシンイチ」 「ご、ごめんなさい……」 「まったくミレイのアネゴ、そんなに怒るとシワが増えますぜ?」 「天使は歳などとらない!」 「おや、その反応は気にしてるってことですかい?」 「そういえば、ミレイさんっていつの時代の人なんですか? 格好が今風だし、あんまり古くはないかなーって思うんですけど」 「余計なことはいい。ほらグロ吉、銀座に向かえ。銀座6丁目だ」 「へいへい」 ミレイに体を蹴飛ばされたグロ吉はスピードを速めた。 銀座にやってきた。 「もう少し北だ。あそこだ、急降下!」 ミレイが指差す。その場所に向かって舞い降りるグロ吉。 銀座6丁目。格子状に並んだ道には路上駐車したクルマがズラリ。背の低い建物群にはバーや寿司屋の看板。人通りは少ない。 そんな銀座の裏通りで、黒服の男たちが少女を囲んでいた。 女の子は金髪。髪の毛を頭の後ろ2箇所で結んでいる。いわゆるツインテールというやつだ。 やけに小柄だが白人のようだ。 ベージュ色のコートを着て、チェックのマフラーを首に巻いて。体全体が小さいためマフラーは大蛇のようで。 黒服軍団をにらみつけて、 「わたくしはいきません!」 叫んだ。 かわいい声だと慎一は思った。 「ワガママばかり言わずに。この国の観光でしたらいくらでも融通を利かせましょう」 黒服の男たちが言う。彼らはみな体格がいい。サングラスをかけていた。 「いやです! あなたたちに見張られていては息が詰まります!」 「われわれはただ、お嬢様の健全な人生を祈って……」 「それが迷惑なのです! せめて、せめて今日一日くらい!」 「お母上のときも『たった一日』だったのですよ! おとなしくしてくださいお嬢様」 黒服軍団はじりじりと包囲の輪を縮める。 「なるほど、この黒いのが悪党って寸法で」 「いや、外見で判断しちゃうの!?」 「あの少女が今回の救済対象だ。少女の身元はあとで説明する。まずあの状況から助けるんだ」 「でも。べつに危害を加えられてるわけじゃ……」 「ああもう、まだるっこしい! 若、『カラダ人形』出してくだせえ!」 「う、うん……」 慎一は背中の羽根を引き抜き、「えい! いでよカラダ人形!」。訓練の成果あって羽根は一瞬で人形になった。デッサン人形にそっくりだ。 この人形は天使が乗り移るための入れ物だ。 妙に猟奇的なこの名前は誰が付けたんだろうと慎一は思っている。 「あっしがいきやすぜ!」 グロ吉は「カラダ人形」を奪い取ると、慎一やミレイを振り落として急降下。 ひとつとなりの路地に入って、空中に浮かべた人形に体当たり。 全長5メートル近い巨体が変形して人形に吸いこまれ、人形は膨らんで、「仮の肉体」をつくりだす。 着流しにゲタ。ごつい体。角刈り頭に鉢巻き。 江戸時代の博徒みたいだと慎一は思った。 人間の体を手に入れたグロ吉は走る。 ちょうど、黒服男たちが少女の腕をつかんでいた。少女は「やめて! いやあ! はなして!」抵抗している。 「まちなせい!」 黒服男たちに駆けより、叫ぶ。 「なんだ、お前は?」 「あっしは通りすがりの江戸っ子、グロ吉でい! 母はグロ美、父はグロ之進、南太平洋に産湯を使い……って、ちんたらやってる場合じゃねえや!」 「我々の邪魔をすると怪我の元ですよ? お嬢様の安全は確保しますが、他の方の安全までは保障できません」 サングラスを光らせて威圧する黒服男。 グロ吉は一歩もひるまない。 「なんでいなんでい! さっきから見てりゃ、大の男が娘っ子相手になにやってんでい! このドチンピラどもがあ!」 「あのっ、たすけてくださいっ」 金髪少女がグロ吉に向けて呼びかけた。少し舌足らずだが、ちゃんとした日本語だ。 よく見れば小柄なのも道理、まだ12歳ほどだろうか。 「見やがれあの顔を! 怖がってるじゃねえか!」 「ちがう! われわれはお嬢様を保護するのが目的だ!」 「寝言は寝てから言えってんだ! お嬢ちゃん、こいつら悪党なんだろ?」 「はいっ!」 「ちいとばかりまってな、あっしが片付けてやる」 「それでは我々も、少しばかり手荒な手段をとらせていただきます」 黒服男が三人、大きな体格に似合わない素早さで前進。 腕を伸ばしてグロ吉をつかまえようと…… 「ふんっ! ハゴロモ殺法でいっ!」 グロ吉は殴ることも蹴ることもしなかった。 叫んだだけで黒服たちは、 「ぐああ!」「臭いが! 臭いが!」「魚くせええ!」「うげえ!」 悲鳴を上げ、ある者はその場にうずくまり、ある者はゲーゲー吐き出す。 「な、なにあれ、毒ガス!?」 驚く慎一に、ミレイが一言。 「あれはもしやハゴロモ殺法・那摩愚鎖瓦斯(なまぐさがす)!」 「知っているんですかミレイさん!」 「恐ろしい技だ。強烈に魚臭い息を吐くことで敵を悶絶させるという……」 「そもそもハゴロモ殺法ってなに!?」 「天界5大武術のひとつで、天界マグロ一族につたわるものだ!」 グロ吉は少女の手をとった。 「さっ、いまのうちでさあ!」 「ありがとう……サムライのお兄さん」 「サムライ? よしてくだせえ、あっしはそんなんじゃありませんぜ、ただの通りすがりの江戸っ子でい!」 「エドッコ……?」 未知の単語に首をかしげながらも、少女はグロ吉に手を引かれていく。 「まてーっ!」「ストーップ!」 背後で、回復した黒服男たちの怒鳴り声。 「ありゃ、やつら鍛えてやがる、立ち直りが早いのなんのって。しょうがねえ、ちょっと失礼しやすぜお嬢ちゃん」 「きゃ!」 グロ吉はたくましい腕で少女を抱き上げる。そのまま横抱きにして走り始める。 早い。横断歩道を突っ切り、歩道を駆け抜け、人間一人の体重をものともせずに。 慎一とミレイはすぐ真上に浮かんで追いかける。 「おい、きみも助けにいかなくていいのか?」 「ぼくはここでサポートします。生身に入ると、かえって不便そうだし」 実際、生身の体を手に入れてもグロ吉ほど機敏に動ける自信はまるでなかった。 「お嬢ちゃん、どこまでにげりゃいいんですかい?」 「あ、あの……わたくしは……」 「まてー!」 黒服たちはしつこく追いすがってきた。 「ちい、しょうがねえなあ、人ごみでまくとしやすか」 走るペースを速めた。そのまま銀座をはじまで走りぬけ、築地魚市場に突入。 白熱電球の下、多数の店が広げられ、魚の入った発泡スチロールがつみあげられた場所。 ごった返す店の人と客をかきわけ、間をすりぬけ、ときには人間離れしたジャンプで机を飛び越え、 「ぎゃっ」 何人かの人間にぶつかった。持っていた箱が落ちる。氷が飛びちった。 「すまねえなあ! 人助けのため、不可抗力ってこった!」 そう叫ぶグロ吉の前に、小山のような男が出現。 レスラーなみの体格。足にはゴム長靴上半身はベスト、白髪頭にハチマキ。顔にはシワが現れているが眼光はあくまで鋭い。 築地で働いて30年、という風格があった。この市場の顔、という感じだ。 「わかいの! とまれ!」 その大声に迫力を感じたのか、グロ吉は急ブレーキ。 「どいてくだせえ! お嬢ちゃんの命、ってことはねえか、貞操、と決まったわけじゃねえか、いや、まあなんつうか、安全がかかってるんでい!」 「ここは商いの場だ、商売の邪魔だ! 鬼ごっこなら外でやってもらおう」 「そこをなんとか! ちょいと通してもらうだけ、5分もかかりませんぜ!」 「その5分が大事なんだ! 素人にはわからねえだろうがな!」 「素人? あっしを素人と? おやっさん、この眼を見てもまだ言えやすかい!?」 「なに? ぬっ、こ、この眼は……」 おやっさんの全身が、イカヅチに打たれたように硬直。 「な、なんという眼だ……魚のすべてを知り尽くした眼……30年働いて、こんな眼は見たこともねえ! 玄人のなかの玄人だ! 俺なんか遠くおよばねえ! と、とんだご無礼をー!」 土下座しかねない勢いで頭を下げた。 「いいってことよ。ものは相談だけどよ、あとから来る黒スーツをヤクザもんを足止めしてくれねえですかい?」 「わ、わかりました! 全力を尽くします! なあお前ら!」 周囲の連中にも声をかける。 「すまねえ! 恩に着るぜ! これからも毎日魚食うぜ、でもマグロだけは勘弁な!」 また走り出す。 背後で、「NO! NO!」「築地市場の誇りにかけてもここはとおさねえ!」「NO! どいてください!」あとは殴り合いの音。 グロ吉の頭上で浮いている慎一とミレイが、 「ねえ……ミレイさん……『本人が魚』の場合も『魚の玄人』って言うのかな……?」 「……どうなんだろうな……」 3 バラバラバラバラ…… ヘリの操縦席にエンジン音がとどろいていた。 副操縦士席に座った女性が、騒音に負けじと無線のインカムにどなる。 「お嬢様がさらわれた!? どういうことです!」 女性はメイド服姿。かぎりなく黒に近い紺のワンピースに、フリルの大きな白いエプロン。だが膝の上で双眼鏡を握り締めている手は皮手袋で包まれていた。 足元はブーツ。 白い顔に緊迫した表情がうかんでいる。 「……それで? さらった男は? 振り切られた!? たった一人に? あなた方はプロでしょう!? 不思議な術を使った? ニンジャだとでも言うつもりで すか!? エドッコ? なんですかそれは。ええ。わかりました。我々も加わってよろしい、ということですね? わかりました。全力を尽くします。見ていて ください! われらマクレイン家戦闘メイド隊の活躍を!」 彼女は勢いよくたちあがった。膝丈のスカートをひるがえし、頭のホワイトプリムを揺らして。 主操縦席で操縦桿を握っていたショートカットの娘がきいてくる。彼女はメイド服の上にフライトジャケットを羽織っている。 「隊長、出撃ですか」 「ああ!」 隊長は座席の後ろにあるドアに飛びこんだ。 小さい窓しかない貨物スペース。そこには隊長の部下たちが直立不動の姿勢で並んでいた。 金髪、赤毛、黒髪……髪の毛はショートカットか三つ編み。どちらかといえば小柄でかわいらしい女性が多い。ヒルダ隊長が一番の長身だ。しかし彼女たちは 全員が軍用の背嚢を背負っていた。足元をブーツでかため、太ももには大型ナイフを装備していた。 「隊長、出撃命令ですね!」 「ああ、許可が取れた。ボディガード隊の奴らは失敗したらしい。我々の出番だ」 「敵の戦力と状況は?」 「相手は一人だそうだ。しかしお嬢様を抱えたままボディガード隊を完全に振り切った。かなりの手練れと予想される。 しかも不思議な術を使うそうだ」 そこでヒルダ隊長は言葉を切り、部下の戦闘メイド12人を見渡して叫んだ。 「みんな! いまこそ汚名を晴らすときだ! マサキ様がいなくなってから不遇を囲っていた我ら! マサキ様のおもちゃ、ANIMEの見すぎ、いまどき戦闘 メイドではネタとしてもイタい、無駄飯ぐらいのお笑い三等兵と呼ばれていた我ら!」 「隊長、さすがに最後の2つは言われてないかと」 ヒルダ隊長は無視して続けた。 「お嬢様を奪還し、戦闘メイド隊の名をあげるのだ! お嬢様を傷つけないため武器の使用は極度に制限される! しかしわたしは諸君ならやってくれると信じ ている!」 「もちろんです! 隊長!」 4 グロ吉は金髪ツインテール少女を抱えたまま、築地市場の中を走っていく。 机と机の間を高速で走りぬけ、「はいちょっくらごめんよ!」と言いながら、積み上げられた発泡スチロールの箱をよける。前方にたむろしていた客や卸業者 は、グロ吉の姿を見るやさっと左右にどいて道をつくる。 ちらりと後ろをみて、グロ吉は笑う。 「いいぜ、もう来ねえや!」 「ありがとう……」 抱えられたままの少女がまたお礼を口にする。 「あの……もう大丈夫なのでしょう? 疲れますよ。下ろしてかまいませんわ」 「そういうわけにもいきませんや。連中、あれしきのことであきらめますかね?」 「それは……でもエドッコさんの体が……」 さきほどからグロ吉は短距離走なみの速さでずっと走りづめだ。 「なあに、マグロは持久力のカタマリでさあ」 「まぐろ……?」 グロ吉は間近にある少女の顔を見て、 「そういやあきいてませんでしたな、嬢ちゃん、いったいなんであのチンピラどもに追われてるんで? 誘拐犯にしちゃあ妙だ。話ちゃあくれやせんか?」 少女のそばかすが浮いた幼い顔がこわばった。 「わたしはアリス・マクレイン。マクレイン家の娘です」 「まくれいん?」 「知らないのですか?」 すぐ真上を飛んで追いかけていた慎一が手を叩く。 「知ってるしってる! マクレインってマクレイン財団でしょ? イギリスの大金持ちっていうか名家だよ。いっぱい会社持ってる。たしか15年くらい前に日 本人が婿養子になったって……」 「おう、マクレインてのはマクレイン財団ですかい? 日本人が婿養子に入ったって」 「やはりご存知なのですね」 「たったいまききやした」 「は? その婿養子が、わたくしの父様です」 「それで、あのガラが悪い連中は?」 「あの方たちはわたくしのボディガード部隊です。母様の命令を受けて動いています」 「するってえと……嬢ちゃん、家出ですかい?」 「そういうことになりますね……個人的なことにまきこんでしまいましたね。すみません」 「いいってことよ! 好きで首突っ込んじまったんだ。それに逃げたくなる家だってあらあな。ガキのじぶんはヤンチャしたほうがいいとあっしも思いますし ね」 「あなたは……わたくしを責めないんですか?」 「家出の理由てえもんをきかねえと」 少しためらってアリスは、 「わたくしは恋がしたいのです」 「こい?」 目を丸くするグロ吉。その間も走り続けている。ひょいとテーブルを乗り越えた。 「わっ! はい、母はわたくしの人生を何から何まで決めてしまっているのです! 学校も習い事も、将来嫁ぐ家も……自分はあんな素敵な恋をしたというのに わたくしにはなにも許して」 「ううううっ、うおおおんんっ」 「ど、どうなさったんのですか!?」 「す、すまねえ、涙が、涙がとまらねえや! あっしはちょいとばかり涙もろいもんで。泣かせてくれるじゃありやせんか! それで嬢ちゃんは、恋の思い出作 りに家を出たと、そういう寸法でっ。うっうっ」 「ええ。日本を訪れる機会があったので絶好の、前! 前!」 アリスを抱えたままの姿勢で、100メートルダッシュの速度で、積んであった箱に激突。涙のせいで見えなかったのだ。なにしろ両腕がふさがっている。ぬ ぐえない。 箱が崩れ落ち、魚とぶっかき氷が雪崩を起こした。 「じょ、嬢ちゃーーん!」 あわてて魚と氷を掘り返す。 「ぷはっ、ぐすっ」 氷と魚の山からアリスが顔を出した。 「魚くさくなっちゃいましたね……」 汚れた自分のコートを見下ろして笑うアリス。その頬に血が一筋。どこかを切ったらしい。 グロ吉の顔色が変わる。その場に正座して、 「うひゃあ……あっしはなんてことを……女の肌を傷物にしたこの不始末、なんと落とし前を……」 どこからともなく短刀をとりだしたグロ吉。 「ちょ、ちょっと待ったー!」 飛びおりてきて慎一は絶叫。 「とめねえでくだせえ若! こりゃ言い訳のしようがありませんや!」 「腹を切る気でしょ?」 「とんでもねえ、指の1、2本でさ。おあつらえ向きに氷もありまさあ」 「どっちにしてもだめー!」 慎一は霊体だから普通の人間には見えない。アリスの目には「とつぜん電波を受信!」と映った。 グロ吉の両肩をつかんで揺さぶる。 「しっかりして! 気を確かに! わたくし、何も気にしてませんから! 捕まって、またあの生活に戻ることを考えればこのくらい!」 「しかし、おとがめなしじゃあ、あっしの気がすみやせん!」 「それじゃあ、わたくしを守って! 召使のように、騎士のように!」 グロ吉は目を白黒させた。だがアリスの青い瞳を間近に見て、口元を引き締め、 「わかりやした、嬢ちゃんの家出が続く限り、まもりやしょう」 5 「脱出成功!」 慎一はトラックの屋根に腰かけて叫んだ。 「ああ。第一段階クリアだな」 いま、トラックは築地市場を出た。 渋滞の晴海通りをノロノロ走る。目の前は勝鬨橋。 このトラックの貨物室にグロ吉とアリスが乗っている。なにしろグロ吉は和服にゲタ履き、金髪の美少女を連れている。目だって仕方がない。業者にかけあっ て乗せてもらったのだ。 「これからどうなると思います?」 「どうって、彼女は恋をしたいのだから相手を探すのだろう。若者が多いところでおろしてもらおう。たとえば渋谷とか」 「ぼくたちはそれをサポートする?」 「当然だ。正確には、サポートするのは君だ。わたしはダメだしをするだけ」 「上手くいくといいんだけど……恋愛ってのは『さあやるぞ、相手探すぞ』でできるものですか?」 「ずいぶん詳しそうな口をきくじゃないか? マンガとゲーム以外の恋愛経験があるのか?」 「な、ないですけど! そんなはっきりいわなくたっていいじゃないですかっ!」 むきになる慎一。笑うミレイ。 「面白いなきみは……あれ?」 ミレイの表情が急に変わった。頬からすべての緩みが消える。眼鏡のレンズを手で拭いて、空の一点を見つめ、 「あれを見ろ」 指差したのは北の空。 「なんですか?」 慎一がそちらを見ると、ヘリコプターが飛んでいた。まっすぐこちらに向かってくる。ダークグリーンに塗装された、鼻先の尖ったヘリ。 「リンクスだ。なんでこんなところに?」 「りんくす? ゲーム機?」 「違う。ウエストランド・リンクス。イギリス軍の多目的ヘリコプターだ。旧式だが信頼性が高い。あれは兵員輸送タイプのようだな。完全武装の兵士を10名 程度空輸し小規模ヘリボーン作戦を行うことができる」 ヘリは勝鬨橋の上空に来ると、ゆっくり旋回しながら高度を下げてくる。 「なんで軍隊のヘリがこんなところに?」 「わからない。なんだ、『あいあんめいどん』!?」 ヘリの側面が見えた。 「あいあんめいどん」 ひらがなで書いてある。まるっこくてかわいい書体だ。 「な、なんだありゃ……」 謎のヘリは高度をさらに下げる。もう100メートルもない。 ちょうどこのトラックの真上だ。 「追っ手のヘリか!?」 慎一の叫びと同時に、謎のヘリからも叫び声が発される。 低い、りりしくひきしまった女の声だ。日本語だが、微妙に発音がおかしい。 「そこのトラック、止まれ! 『ありま水産』のトラックだ! ナンバー品川へ14−22! 止まれ! 我々はマクレイン家戦闘メイド隊! 誘拐犯に告ぐ! 抵抗は無意味だ、ただちに停車し投降せよ!」 「どうしようミレイさん! 完全にばれてるよ!」 「なぜだ? 発信機か?」 「繰り返す! 直ちに停車し投降せよ!」 そのときヘリからの声に、別人の声が割りこんだ。 幼女を思わせるきんきん声でたどたどしい喋り方。 「たいちょー。ヒルダたいちょー、あれやりましょうよー」 「あれか! よし! 輝くプリムは正義のあかし! たとえ嵐が吹こうとも、 イロモノ部隊と笑われようと、 清く正しく美しく! 鋼の忠誠どこまでも! われら! マクレイン家戦闘メイド隊『あいあんめいどん』! ここに見参!」 勇ましく一気に言い終えると、いきなり女性の声から力が抜けて、 「決まったー! やっぱりコレをやらないとダメだな。気合の入り方が違う。『われら!』のあと一瞬タメをつくったほうがいいかな? どう思うポーラ副隊 長?」 「ところでたいちょー。さっきからマイク入ってますよー。ぜんぶきこえてますよー?」 「はわわわわわ! しっ、しまったぁー!」 「たいちょーは相変わらず天然さんなんだからー」 「ちっ、違う! 今のはたまたまだっ! もう克服したんだっ!」 そこで女はマイクで聞こえるくらい大きく『すうっ』と息を吸いこんで、 「……ふっ……とにかく誘拐犯、ただちに投降しろ! お嬢様を引き渡せ! 要求に応じない場合は……」 「たいちょー、たいちょー。その物言いはどっちかっていうと悪役のほうですー」 「そ、そうか? ではどうすればいいのだ!?」 「そうですねー……」 もちろんこのやりとりも全部拡声器で垂れ流し。 「ミレイさん……なにこのひとたち」 「そういえば聞いたことがある」 笑っているのか困っているのか微妙な表情のミレイ。 「マクレイン家のマサキ・マクレインが『あいあんめいどん』とかいう私兵をつくっていると。評判は確か、無駄飯ぐらいのお笑い三等兵とか……」 「マサキ・マクレイン?」 「アリス嬢の父だ」 「へんな人なんだね」 「君が言うのはどうかな」 ヘリがさらに高度をさげた。ザイルを垂らした。ザイルをつたって人間が滑り降りてくる。 白いエプロン! 頭にはプリム! 慎一がゲームなどで知っているメイドよりスカートが短い。足が黒く見えるのはタイツをはいているのか。 「ほ、ほんとにメイドだよ!」 「さまになってるな。訓練はまともなようだ」 「感心してる場合じゃないでしょ!」 慎一はトラックの屋根を通り抜けて貨物室に入る。 真っ暗な中、からっぽの部屋にアリスとグロ吉の2人はいた。 「グロ吉! 追っ手が来た。なんかメイド隊とかいう変なのが!」 「めいどたい!? 嬢ちゃん、ご存知ですかい?」 アリスにとっては、「突然、グロ吉が大声で独り言」。目を丸くした。 「ヒルダ隊長たちのことですか? たしかにメイド隊はありますけど……誰と喋ってるんですか?」 「そいつは秘密ってやつで。嬢ちゃん、ここにいてくだせえ。あっしが戦いやす」 「あ、待って!」 「待ってください!」 慎一とアリスの制止もきかず、貨物室の扉を開けるグロ吉。 大柄な体に似合わない身のこなしで、ひらりとトラックの屋根に飛び乗った。 そこにはメイド隊の一人がすでに降りたっていた。 「やいやい、メイドタイだかキンメダイだか知らねえが……げっ、女ぁ!?」 戦闘メイドは無言で、警棒を振りかざして殴りかかってきた。ポニーテールにまとめた黒髪が揺れ、スカートの端が白くひらめく。 「ちょ、ちょいとまちなせえ、あっしは女は、ありゃっ、やっ!」 奇声をあげて、メイドの猛打をかわすグロ吉。カッ! カッ! と、彼のはいた下駄がトラックの屋根を打つ音。 しかし防戦一方。体勢がゆらいだそのとき、メイドの足が残像を残して跳ね上がる。グロ吉の股間にブーツが直撃。 「ぐえっ……」 グロ吉が乗り移っている「カラダ人形」は余計なところまで人間そっくりだった。股間の痛みに顔をゆがめてうめく。腕が反射的に股間へと伸びて急所を守ろ うとする、とそこにメイドの第2撃。顔の中心線、鼻の下あたりに警棒が叩きつけられる。 グロ吉の体がゆらいだ。 「グロ吉ー!」 トラックの屋根を抜けて慎一が飛び出してくる。 「わっ、わかっ、あっしのことは心配っ、それより嬢……」 顔面に連続した肘うち。 そうこうしている間に、一人またひとりとメイドが降りてきて、貨物室のドアを開けようと、 「させねえ!」 グロ吉の動きが急に鋭くなった。 よけない。あえて頭から突っこんでいく。振り下ろされる警棒。首筋に直撃。だがグロ吉はひるまず、警棒を握った手首をつかんだ。ねじりあげる。 「おんなにゃ手をあげたくなかったんですがねえ。はあっ!」 グロ吉の技がまた炸裂した。魚臭い息を至近距離で浴びせられ、倒れるメイド。 今まさに貨物室の扉があけられようとしていた。 そこにグロ吉が飛び降り、また息で倒す。 3人目が来た。4人目、5人目がトラックの周囲に降りてくる。まだ前の車が先に進んでくれない。トラックは走り出せない。それどころか倒したはずのメイ ドも息をふきかえして挑んでくる。 「信じられねえ! あっしの技が……」 うろたえつつ警棒をかわすグロ吉。扉の前に陣取ってはいるが3方を囲まれて苦しそうだった。 「当然だ! 催涙ガスや嘔吐剤への対応訓練をつんでいる!」 メイドのひとりがそう叫びかえしたが、英語だったのでグロ吉にはわからなかった。 慎一は右往左往。 「こいつらカッコ変だけど強いじゃないか! たすけないと! ああでも、武器とかないし……乗り移っていいの!?」 天使が生身の人間に乗り移るのは危険だと研修所では習った。もともとの体に入っていた精神を傷つけてしまうのだ。 「慎一! このアイテムを使え」 ミレイが羽根を変化させてアイテムを出す。 黄色いピコピコハンマー! 「な、なにこれ!?」 「天界武装のひとつ、『ざんげハンマー』だ! 使い方はこう! まずダイヤルをセットして! 今回はレベル3!」 ミレイ『ざんげハンマー』の柄の部分にくっついたダイヤルをいじる。 そして空中をとび、大きく振りかぶって、メイドの一人をぶん殴った。 ハンマーがメイドの頭にあたったとたん、 ピコピコピコーン! 安っぽい電子音が響いた。メイドの全身が硬直した。両眼から涙があふれた。その場にひざまずき、泣きながら激情のままに叫ぶ。 「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! わたし一ヶ月前、基地のトイレ掃除をさぼっちゃいましたっ! あとシンシア先輩のドーナツをつ まみ食いしました! ごめんなさい!!」 両手を合わせて「お許しください、お許し神よー!」と言い出す。 「ど、どうしたってんですかいっ!」 仰天するグロ吉。他のメイドたちもあっけにとられる。 「おい、大丈夫かしっかりしろっ!」 慎一も驚いてたずねた。 「な、なにこれっ」 「ざんげハンマーは、人間の罪悪感を何百倍にも増幅するアイテムだ。人間誰でも少しは悪いことをやってるからな。殴れば泣いて謝る。平和的な武器だ」 「そ、そうかなあ……!?」 ハンマーを手渡された慎一、よく見る。 柄の部分のダイヤルは4段階に調節できるようだった。 レベル1 ちょこっとゴメンネ レベル2 すまんかった! レベル3 愚かな僕を撃て! レベル4 あぽかりぷす 「レベル4だけは絶対にやめておけ、取り返しのつかないことになる」 そう言いながらミレイはもうひとつハンマーを出し、メイドたちを次々に叩く。 「ごめんなさいごめんなさいー! わたし昔ご主人様のティーカップを……あああ!」 みんなその場で青ざめて泣き始め、とても戦うどころではなくなった。 慎一はレベル3に設定し、手近なメイドの頭を叩く。 そのとたん、眼鏡をかけたそのメイドはうずくまり、 「ごめんなさい! わたしは実はだて眼鏡だったんですー!」 「それなの!? それが罪悪感なの!?」 2人めを叩いた。 「うわあああ! ごめんさい、わたしなんて償えばいいのやら……わたし、ほんとはちっともドジじゃなくてテキパキこなせるのにマサキさまの受けがいいから ドジっ子のふりをしてましたーっ!」 「そ、それはそれで萌えるかも……」 「言ってる場合か! 君の罪悪感はどんなのだ?」 「うわあハンマー向けないでー! まじめにやりますー!」 6 「なんだ、なにがどうなっている!?」 ヒルダ隊長は混乱していた。 ヘリの副操縦士席からは、大混乱の様相がみおろせた。 トラックの周りでは、投入したメイド12名全員がうずくまってわんわん泣き、トラックのボディに頭をうちつけ、ふらふらと夢遊病者のようにあるきまわ り…… インカムを通じて命令した。 「おいシンシア! なにをしている! 任務を忘れたか! ガラス割ったことなんてどうでもいい! 下剤入れたことも不問だ! だから任務を! 泣いていて もだめだ! こらシンシア! パメラ! お前もだ! つまみ食いと任務放棄どっちが重罪だー!」 しかし返ってくるのは、すすり泣きと、「ごめんなさいごめんなさい」「わたしもうだめですー!」 彼女たちの肩をつかんで揺さぶり、何事か怒鳴っていたメイドがいた。正気をたもっていた最後のひとりだ。しかしその彼女も、突然体をビクンと痙攣させ、 泣きながらざんげをはじめた。 「な、な……」 操縦士席のデイジー副隊長が言う。 「これってボディガード部隊の言ってた『変な術』じゃないですか?」 「そ……そうかもしれんな……エドッコ? エドッコだと言っていたな……恐ろしい……ニホンのエドッコにはこんな能力が……」 「あ、にげちゃいますよ!」 デイジー副隊長のロリ声でわれにかえる。 トラックの貨物室が開き、着物姿のエドッコが、アリスを連れて駆け出した。 ふたりはクルマとクルマの間を抜けていく。 「おいかけろ!」 「え、でも……」 2人は、すぐそばにあった地下鉄・都営大江戸線の勝どき駅に駆けおりていく。 「くっ! 追え!」 「ヘリじゃ入れませんよ。生身だと変な術をくらうし……」 「くそっ! 変形しろ! ドリルを出せ!」 「そんな機能ないですよ」 「マサキさまなら、きっと無理やりにでも実装していた!」 「それより、これからどうします?」 「まずは隊員を回収。立てなおしをする。あの能力を克服しなければ何もできない」 「その間に逃げられちゃったら?」 「発信器がある。お嬢様の居場所はモニターできる。隠し場所に気づいたとしても……」 「ええ、場所が場所ですからねえ」 「お嬢様は、蝶よ花よと育てられたかた。PHN状態には耐えられまい」 「そうですね」 機体が降下してゆく。 もはやクルマがまったく進まなくなった勝鬨橋、その中心で停車するトラックへ。 7 グロ吉はアリスを横抱きにしたまま大江戸線の列車に乗りこんだ。 慎一とミレイもついてくる。 ドアが閉まる。 車内はそこそこ混んでいたので、慎一は上に逃げ、天井に張りつくようにして浮かんだ。 「なにをやってるんだ?」 そういうミレイは、列車のドアに体を半分めりこませる形で立つ。 「異様だ……」 「これで外と中を同時に警戒できるんだ」 列車が走り出した。 グロ吉はアリスをまだ抱っこしている。 車内の視線が集まる。サラリーマンや学生がちらりちらりと見る。 「も、もうおろして下さって結構ですっ!」 「あ? おう、そりゃそうだ。すいやせん」 周囲のサラリーマンや学生がじろじろ見ている。 「ちょいとばかり目立ってやがる、いけやせんな」 「だっこしてたら、そりゃ目立つに決まってますわ。エドッコさんの格好も風変わりですし」 なにしろ和服にゲタ履きだ。 「そういうもんですかい。じゃあ服でも買って、しゃべりかたも今風にしやすか。うわー、マジありえねー、みたいな感じで」 アリスはちょっと引きつりながら、 「それは違う意味で目立つんじゃないでしょうか……」 「それより、これからどうしやしょう?」 「恋がしたいのです」 「その話はききやした。しかし、好いた惚れたなんてのは『さあやるぞ』でできるもんじゃありやせん」 「お詳しいんですのね」 ふたりがそんな話をしている間、慎一とミレイも話していた。 「それにしてもどうしてみつかったんでしょう?」 「やはり発信機だと思う。調べてみよう」 ミレイは背中の羽根をアンテナに変換、アリスの着ているベージュ色のコートに突っこむ。するりと通り抜けるアンテナ。 「どこ……かな」 上下にアンテナを動かす。胸の辺りから足まで。 「間違いない、ここだ。ここから電波が出てる。発信機だ」 アンテナはアリスの股間あたり。 「えー、そこ!?」 自分の体にアンテナをつっこまれてることなど気づきもせずアリスは恋の話を続けていた。 「母さまは、一族の反対を押し切って父様と結婚したんです。駆け落ち寸前までいったんですのよ。ぎりぎりのところでお婆さまとお爺さまが認めてくれて」 「なんでも日本人だってぇ話ですな、親父さんは」 「そうなんです。マサキという名前です。それですごいんですの、父さまと母さまが出会った場所というのが晴……」 「あ、それはそうと嬢ちゃん」 「はい?」 「ぱんつ脱いでくだせえ」 「は?」 アリス、目をぱちくり。 「あの……わたくし、耳が悪くなったのかしら? それとも日本語のほうが少し……ごめんなさい、あまり本格的な勉強はしてないんです。パンツを脱げ、とい われたように聞こえたのですけれど」 「いやあ嬢ちゃんの日本語は達者なもんですぜ。そうです、ぱんつ脱いでくだせえ」 グロ吉は真顔だ。あごの発達した四角い顔は、まるで笑みをうかべていない。 アリスはあとずさった。後ろにいるサラリーマンに背中をぶつけた。早口でまくしたてる。 「あ……あの……わたくしに、ぱんつをぬげと!? ぱんつはいてない状態になれと!? 略してPHN状態になれと!?」 「なんで略すんだかしりやせんが、まあ簡単にいやあ」 まるで今すぐ服を脱がされそうになっているかのようにコートの前を押させてしっかりガードして、アリスはとんでもない早口で一気に、 「そんな……エドッコさんがそんな方だったなんて。それはわたくしだって、親しくなった殿方とどんなことをすればいいかは! でもエドッコさんはちゃんと 手順を踏む方だとばかり! まさか、まさかそれとも父様が力説していたアレですか!? 『日本人はぱんつはいてない女の子が大好きだ。ぱんつはいてない女 の子の絵を売り物のイラストレーターもいる。そもそも日本の文化はぱんつと相容れない。それが俺のジャスティス』……冗談だとばかりおもっていたけれどほ んとうのことですの!? アメリカの殿方が牛さんのようなバストを好むように、日本の方は、ぱんつはいてない女の子をっ! い、いやぁっ……」 しりもちをつくアリス。金色ツインテールをふりふり振って、そのまま後ずさり。 「おちついてくだせえ。そういう話じゃありやせん」 「どういう話なんですのっ!」 「嬢ちゃんのパンツから悪い電波が出てるんでさあ!」 「……でんぱっ!?」ますますアリスのほっぺた、ぴくぴく。 「いやあ、あっしは口下手でいけねえ! 発信機! 発信機でさあ! 嬢ちゃんのパンツには発信機が仕こまれていて、それが電波をだして嬢ちゃんの位置をし らせてるんでさあ」 「……たしかに、トラックの中にいても見つかったのは、変な気がしますわね。発信機はあるかもしれませんわ。でもなんで、ぱんつですの!?」 グロ吉は言葉につまった。ミレイや慎一のことは説明できない。 「お、教えてくれたんでさあ」 「誰が?」 「あ……あっしの師匠が……発信機を仕掛けるときはパンツにつけろと」 「な、なんの師匠ですの!?」 グロ吉は周囲の目を気にせず、ひざをついた。目の高さをアリスと合わせた。 太い眉をひきしめ、 「……あっしの目を見て下せえ。この目が信用できませんかい? いやらしいことを考えてる目ですかい?」 「え……」 たった数十センチの距離でグロ吉とアリス、見つめあう。 そのまま数秒間、2人は沈黙。 まわりの乗客がみんな注目。 「それは……わかりました。そういえば、わたくしがいまはいているぱんつは誕生日に母様が買ってくれたものです。なにか仕込まれていても不思議ではありま せん」 「ぱんつを? 誕生日に?」 「ええ。12歳の誕生日に。レディにふさわしいぱんつを……それまでは、子供っぽいのしか持ってなかったから……」 「乳当てはもらわなかったんですかい?」 「ブラジャーのことですか? そっちのほうは必要なくて。発育がまだ……でも友達はみんな……って! 何をいわせるんですかっ! やっぱりいやらしい!」 「嬢ちゃんが自分で言ったんですぜ!?」 「そ、それはそうですけど……守ってくれるんじゃありませんでしたの? それをこんな……こんな辱めを……」 ようやく周囲を見回す。興味津々の乗客たち、サラリーマンや学生と目が合う。自分は大勢の人が見ている前でパンツだと貧乳だのとカミングアウトしたの だ! 恥ずかしくてならなかった。 「嬢ちゃん、恥ずかしいのが嫌なんですかい」 「当たり前ですわ! 恥ずかしいのが好きな人なんていません!」 「それじゃあ、好いた惚れたは、まだ早い。いや、いっそできねえと言っちまったほうが」 「え……」 「誰かを好きになるのは恥ずかしいもんです、気持ちを伝えるならなおさらでさ。ひらたく言やあ心をハダカにするってことですからね。パンツごとき、それと 比べりゃ屁でもねえ」 様子を見守っていた慎一がボソリと「そりゃ意味が違う気が……」 「そう……なんですの?」 アリスは立ち上がった。顔が赤くなっていた。 「ごめんなさい。まじめにききます。ぱんつのことも」 頭をさげた。 「いいんでさあ」 そのとき、近くにいた乗客の一人、大学生くらいの青年が。 「あのー」 「なんですの?」 「ぱんつ、いつ脱ぐの?」 8 とにかく地下にいるうちにパンツを脱がなければいけない。 二つ先の駅、汐留で降りた。 ホームを走ってトイレを探す。 走る必要などなかったが、「はずかしい、はやくすまさなきゃ」という気持ちが強くて、つい走ってしまった。 「あそこです。あっちの赤いマークが女便所でさ」 「はい。では、ここで待っていてください。あの……ぱんつは、どうすればよいんでしょうか?」 「捨てちまうのがいいでしょうなあ」 「わかりました……」 意を決し、女子トイレへと突撃。 わたしはいまから、ぱんつを脱ぐ! 個室に入った。ドアを閉め、コートを脱いで丸め、マフラーを外す。さてどこにおいたものかと困り、ドアの上のほうに引っかけておく。 コートの下は、紺色のブレザーとプリーツスカート。学校の制服のようにきっちりした服装だ。 これはアリスの母親の趣味でもあった。 スカートを片手でまくりあげ、すうっと冷たい湿った便所の空気が両の素足に触れ、アリスは一気にパンツに手をかけて、おろした。 入浴と用を足すとき以外は常にある「股間にぴったりはりついた下着の感触」が消えた。 あたりまえのこと。これはひつようなこと。だいたいトイレでパンツぬぐのは、あたりまえ。 自分で自分にそう言い聞かせる。 だが緊張していた。心臓がどきどきしていた。 太ももを何かがつたった。汗! 汗だ! 冬なのに! 汗をかくほどの緊張だった。 足をあげてパンツを完全に脱いだ。 パンツを手にとって広げてみる。 白で、フロントには水色の花柄レース。 レースの部分に違和感。 よくみると、金属の網の目のようなものが縫いこまれている。 「ほんとにあった……」 どうしてわかったんだろうエドッコさんは。 それなのに自分は変態扱いなんかして。 あのとき怒って帰ってしまっても良かったのに。 普通の人ならそうするのに。 でも、彼は辛抱強かった。 どんなに疑われても軽蔑の眼で見られても…… どうしてそこまでしてくれるんだろう…… ふとアリスは、自分の胸がひどく高鳴っていることにきづいた。 実体験は一度もなかった。だが小説で読んで、マンガで読んで、知っていた。 いまのこの状態が何であるかを。 パンツをごみ箱に捨て、トイレを出る。 違和感。異様な感覚。一歩ごとに股間のやわらかく無防備な部分がこすれあう。それだけで、全裸にでもなったかのような気分。 よちよちと変な歩き方になってしまった。ペンギンみたいだと思った。 入り口のすぐそばに立っていたグロ吉が、 「すみやしたか?」 「は、はずかしい。もう少し言い方を考えてください」 「すまねえです。あっしは不器用なもんで」 「そうですね、ほんと。もう慣れました」 「じゃあ、いきやしょうか。場所はどこにしやしょう、嬢ちゃんの彼氏候補を見つけるには。この汐留ってとこもわりと若い連中には人気があるそうですぜ。ど んな野郎が好みとか、ありますかね」 「そのことなんですが」 アリスは小さい背をピンと伸ばした。 呼吸を整え、声を落ち着けて、でも実際に出た声はどこか挑みかかるようで、 「わたくし、あなたを好きになってしまったようです!」 9 それをぼうっときいていた慎一、仰天。 「はいー!?」 グロ吉もぎょろりと目をむいて、 「はあ!? な、なんていいやした!?」 「好きになってしまった、といったです! 恋です! ラブですわ!」 「ですわって言われても困りやす、嬢ちゃん落ち着いてくだせえ。あっしと嬢ちゃんは会ってから1時間もたっちゃいないんですぜ」 「時間なんて関係ありませんわ。一目あったその瞬間に誰かを好きになるってマンガとかではよくありますもの!」 「マンガと現実はちがいまさあ!」 「しゃべるマグロが言っても説得力ないよ!」 慎一がツッコミ。 「いいえ、これはきっと恋です! だって、胸がすごくドキドキして、エドッコさんのことを考えただけで素敵な気分になって、どこに逃げようとか、母様につ かまったらどうしようとか、そんなこと気にならなくて、とにかく目を閉じたら、ほら、こんなにドキドキ……さっきです! さっき、それがわかったので す!」 「そいつぁ……あれでさあ、釣り堀効果」 「つりぼり?」 「釣堀があるとしやす。そこにあんちゃんと嬢ちゃんが遊びにいって、そこで次から次へと魚釣って、『うわあ、こんなに釣れる! きゃー、どきどき!』って なもんで、そのドキドキを好いた惚れたのドキドキと勘違いするんでさあ」 「それ、『釣り橋効果』じゃありません?」 「そう、それでさあ!」 「ツリバシとツリボリじゃ全然違いますわ」 「50パーセントも正しけりゃ上等じゃありませんか。とにかくまあ、嬢ちゃんのドキドキは恋とはちがいまさあ」 アリスは譲らなかった。グロ吉を真正面から見つめたまま、 「母様も同じことを言われたそうですわ。『それは恋愛じゃない』って。一族みんなが猛反対して。でも何が何でも、という勢いで押し切ったんです。わたくし も同じ気持ちです」 「そうはいいやしても、嬢ちゃんのご両親はもっとちゃんとおつきあいってもんを……」 「してませんわ! 晴海会場で同人誌を拾って、その瞬間ビビビッと結婚してください!」 慎一は明らかに動揺して、 「いま同人誌っていった?」 「確かにわたしにもきこえた」 「ちょ、ちょっと落ち着いてはなしてくだせえ。ハルミカイジョウ?」 「父様は、立派なオタクでした」 オタクという言葉を発するときのアリス、その表情にはひとかけらのためらいも羞恥もなかった。 「なんでも、コミケ晴海会場のガメラ館というところで、メンヨーボンというものを作っていたそうです。トップクラスのドージン・アーティストだったんで す」 「は、はあ……」 ちらりと、慎一が立っているほうを見る。 「先輩だ! 大先輩だ!」慎一興奮。 「まさかコミケなんて言葉をこの流れで聞くとは。呪いか? 呪いなのか? それとも類友? オタクはひかれあう?はあ」ミレイはため息。 指を一本立てて、アリスはハイテンションにしゃべりつづける。 「いっぽう母様は、日本のアニメに興味を持っていました。でも『低俗な趣味だからダメだ』ってお爺様に言われてたんです。でも母様はあきらめませんでし た! 日本に旅行したときこっそり抜け出してコミケ会場へ。大喜びで同人誌を買いあさっていたら、買いすぎて紙袋の底が抜けてしまって大変なことに。そこ に通りがかった父様が、散らばった本を拾ってくれたんです。ひと目で恋に落ちた母様は……」 「その場で求婚したんですかい!?」 「ええ! 父様は少しも驚かずに『わかりました!』って……一族の猛反対を押し切って、父様はマクレイン家の養子という形で母様と結婚! あのときあきら めていなくて良かったって、よく母様いってました。それなのに、どうしてわたくしの恋を止めるんでしょう。さっぱりわからないです」 「世、世の中には変わった人がいるもんですなあ」 「グロ吉、グロ吉、きみに言われても困る」 慎一のツッコミをまたスルーして、 「嬢ちゃんとこのご両親についてはわかりやした。でもそいつとはまた話が違いやして……」 「ちがいませんわ!」 「困りやしたねえ」 慎一も腕組みして、 「困ったー!」 「難題だな。アリス嬢を幸せにするにはグロ吉と恋愛させなければいけない」 「でもグロ吉はずっと地上にいるわけにいかないんだよ? 人形に宿ってるだけなんだから」 「そうだな……」 ミレイは小さくうなずく。 「大変だと思うが、きみの仕事だ、自力で解決してくれ。なにしろ今まで君はグロ吉任せでぜんぜん働いてない。功績とは認められない」 「う、うん」 慎一、真剣なまなざしで、アリスとグロ吉をじっと見る。 「そうはいっても嬢ちゃん、あっしみたいなどこの魚の骨ともつかねえ奴より、ずっといい男がこの世には……」 「母さまと同じことを言うんですのね! でも、他人の目から見ていい男かどうかなんて関係ありませんわ! わたくしのこころに響いたのです! ほらエドッ コさん自身がいってたでしょう、自分の心をさらけだしたんです!」 慎一、考える。 どうすればいい。 グロ吉はマグロだ。人間と恋愛なんかできない。 あの体は人形だし、次の仕事が入ったらこの場を去らなきゃいけない。ずっとここにはいられない。。 でもアリスは恋愛したがっている。 どうすれば…… よし! 「ぼくがやる! グロ吉の代わりにぼくがやるよ!」 「体を入れ替えるのか? 人形の中に入る?」 「それだと結果が同じでしょ。ぼくもオタクであることを最大限利用してやる!」 「気合はいってるな。グロ吉がもててくやしいのか?」 「ち、ちがう! これはただ天使の任務を果たしたいからってだけで! 別に嫉妬とかはなにもなくて! ありません! ほんと!」 「……きみ、嘘をつくの下手だろう?」 10 グロ吉とアリスは2人きりで秋葉原に向かっていた。 がたんごとんと電車の揺れる音。 「ここが秋葉原でさあ」 アリスはグロ吉と手をつないだまま、明るい声で、 「うわあ……あのビルにくっついてる顔はなんですの?」 「オノデン坊やでさ」 「トラファルガー広場のライオンみたいなものですの?」 「たぶん別のもんだと思いますぜ」 「あのネオンがぎらぎらしてるのは電気屋さんですの? ぱそこん、びでお、DVD……」 「親父さんからは、秋葉原のことは聞いちゃいねえんですかい?」 「なんでも、父様が現役のドージン・アーティストだったころは、アキハバラは今と少し違ったとか。父様を連れてきたかったですわ! きっと喜んでくれたで しょうに! そして紹介するんです! この人がわたくしの大切な人です! ちょっと気が早いですか? そうですよね……」 「嬢ちゃん、ちょいと思いこみが激しいって言われやしませんか?」 「父様と母様の娘ですから!」 「開き直りってのは強ぇもんですなあ」 電車が止まる。 黄色い総武線の列車からでてホームにおりたとたん、冷たい冬の風が吹き込んできてアリスは「きゃ!」とスカートをおさえる。 アリスは着替えていた。コートを脱いで、クリーム色のカーディガンにチェックのスカート。どれも追っ手の目をごまかしたくて急いで買った安物だが、アリ スに着せるとまるで安物には見えない。もともとの服はカバンを買ってもちあるいている。 「ちょっとこのスカートみじかすぎでしょうか……どう思います?」 「すいやせんが、あっし洋服にはとんと詳しくねぇもんで」 「そうですか。それにしても、その服で『あっし』ってのはちょっとあってない感じですわね」 アリスはかたわらのグロ吉をしげしげとみる。 グロ吉もジャンパーとズボン姿に着替えていた。和服は目立ちすぎますわ! とアリスが言って町をうろうろ、結局パンツと一緒にドンキホーテで買ったの だ。売り物のなかに妙なオモチャや道具を見つけるたびに「これは何ですの!?」を連発してグロ吉を困らせた。 「まあ、しゃべりかたってのはクセになってるもんですから、そうそうは治りませんぜ。にあってねえってことですかい?」 「そんなことありませんわ! シブヤやハラジュクにいてもおかしくないですわ、ナウなヤングですわ!」 「……嬢ちゃん、その言葉いつのマンガで読んだんですかい?」 「え? いまは使わない言葉ですの?」 「まあ、それよりいきましょうや」 背後で走り出す電車。グロ吉はアリスの手をひいて歩き出す。 ぎゅっと手を握りかえしてアリスは、 「でも、なんで秋葉原? デートで秋葉原っておかしくないですか」 「そうでもありませんぜ、ほら」 ホームには眼鏡をかけた男女のカップル。 「オタクカップルってやつでさあ」 「父様と母様もあんなかんじだったのかしら……」 うっとりするアリス。 「そうよね、デートする場所はどこでもいいんだわ……ただ、好きな人といっしょにいられればそれだけで……マンガにもそうかいてあったもの!」 グロ吉、「嬢ちゃんは恋愛ってもんがよくわかってないんですなあ」 アリスはちょっとおびえるようにこちらを見て、 「え……わたくし、なにか間違ってます?」 「いやあ、まちがっちゃあいません。誰だって最初はうまくできねえもんでさ」 「ちょっと、変なこと言わないで欲しいです、最初はうまくできないなんてそんな、えっちな意味だと思われたら困るじゃないですか! いくら、そんな……」 みんなの目線を気にして、恥ずかしそうにあっち向いたり、こっち向いたり。 「……気にしすぎにもほどがありまさあ」 「そ、そう……かも」 「ところで嬢ちゃん、のど渇いちゃいませんか」 そういうなりグロ吉はホームの自販機に金を入れる。 「なんにしやしょう」 「エドッコさんが好きなもので」 「嬢ちゃんにきいてるんですぜ?」 「だって、わたくしよりエドッコさんのほうが絶対にのど渇いてるでしょう?」 「はは、嬢ちゃんは優しいですな。じゃあ、半分ことしやしょうか」 ペットボトルいりの『生茶』を買ってアリスに手渡す。 「まずは嬢ちゃんから。あ、紅茶かなにかをほうがよかったですかね?」 「え……いいんですか? でもこれって……」 「間接キス、ですかい?」 「……はい」 なにげない口調のグロ吉にたいし、アリスは目をあわせられず、ペットボトルを握りしめて視線をあわせられない。 「気になるなら別々に買いやしょう」 「いえ、気になるなんてそんな!」 一気にグビグビッと飲んだ。 「はいっ!」 グロ吉に勢いよく渡す。叩きつけるような荒っぽさ。眼がチラチラグロ吉の顔をののぞき、白い頬が薄紅色にそまっている。恥ずかしさをごまかしたがってい るようだ。 「へい、どうも」 グロ吉は平常心そのものといった態度で、アリスの唇がついたペットボトルをあおる。 「うい、やっぱり日本人はお茶ですぜ」 「そ、そうですか。い、いきましょう」 アリス、足早に歩き出す。まだ恥ずかしがっている。グロ吉がまるで平気な顔をしていることに驚いているような、さびしがっているような微妙な表情。 「道知ってるんですかい?」 「もちろん知りませんわ」 「じゃああっしが先導します」 秋葉原駅のホームからは直接デパートに入れる。 アキハバラデパート。 中に入ると、いきなり人間サイズの「ザク」プラモがお出迎え。 「な、なんですのこれ……」 「オタク天国秋葉原の、入り口だそうですぜ」 アリスの表情が引きしまった。瞳に興味の光が宿る。恥ずかしさを興味があっとうしたらしい。 中に入ったアリスはツインテールをヒョコヒョコふって歩き回り、 「あれはなんですの? あの箱ってプラモデルですよね? ますたーぐれーど、っていうものですの?」 「いやあ、あっしはオタクじゃないもんで」 「そうなんですか? じゃあ、あれは?」巨大なリュックを背負ったオタク青年に肩をぶつけられ、 「きゃ! あれは?」 無礼なふるまいを受けても、怒るより先にデートを楽しんでしまっていた。 とても追われてる人間の行動ではなかった。 内心、グロ吉は独白する。 ……夢中じゃありやせんか。 ……大丈夫なんでしょうね、若!? 秋葉原に彼女を誘導してくれれば、あとはぼくがやる! かならず彼女をほれさせて幸せにする! 慎一は確かにそういったのだ。そう行ってどこかへ飛んで いってしまった。 「エドッコさん、あのガラスケースの中のはなんてプラモデルですの?」 「がんだむ、じゃありませんか?」 「……あれは?」 「丸っこいガンダム。あっちのは青いガンダム」 「エドッコさん、もしかしてアニメのロボットは全部ガンダムだとおもってませんこと?」 「一般人はたいがいそんなもんでさ」 「日本の方がスコットランドまでふくめてイギリスと呼んでしまうような?」 「嬢ちゃんのたとえはいまいち分かりにくいですが、そんなもんかと」 「ごめんなさい、エドッコさん詳しくないんでしたら、こんなところにいてもつまらないですわね。別のところにいきましょう、どこにいきます? シンジュ ク? シブヤ? リョーゴク? コーキョ?」 そこに「ちょっと待った、美しいお嬢さん!」と声。 アリスとグロ吉は振り向いた。 オタクがいた。 どこからどう見てもオタクだった。 背は割と高かったが、背の高さよりもやせた体と姿勢の悪さが目につく。 やたらフレームの太い黒ブチ眼鏡をかけていた。長いボサボサの髪を上半身は糸のほつれたセーター、首のところからはみ出したシャツはチェック。下半身は 色あせたジーンズ。そして背中にはでっかいリュック。パンパンに膨れ上がって、中からはビームサーベルか何かのようにポスターが突き出している。 絵に描いたようなオタク男だった。周囲にいるオタク客たちとくらべてもなおいっそう濃縮されたオタク度の高さ。 「な、なんでしょう?」 アリスの声は硬い。 「お嬢さん、秋葉原に興味があるようで。アニメに興味があるようで」 「え……あ、ありますけど……?」 「そちらの彼はあまり詳しくない様子。ぼくが案内しましょう。ぼくの秋葉原知識は広いですよ? パーツ屋からメイド喫茶まで」 「ひ、広いんですかそれ……?」 なんだこいつは? とあっけにとられて男を見ていたグロ吉、気づく。 オタク男の頭上にはピンク色に光る輪っかが。 あれは最下級天使デミエンジェルの輪。この男は慎一だ。乗り移っているのだ。 (若、若!) グロ吉は声を出さず、思念だけを飛ばした。 (なに?) オタク男も思念を返してくる。 (どうしてそんな野郎に入るんでさ? もっとかっこいい奴がいくらだっているでしょうに?) (甘い甘い。アリスさんは大金持ちのお嬢様だよ。上流階級だよ? ハンサムなプレイボーイとかファッションのカッコイイ奴なんていくらだってみてるは ず! 逆に『珍獣』ってくらいのキモオタの方が新鮮に感じるはずなんだ! だって彼女の母親だってそうじゃないか!) (そういうもんですかねえ) 「とにかくお嬢さん、案内して欲しいところがあればどこへなりとも。フッ」 (その『フッ』ってのは何ですかい?) (え? かっこよくない? おかしいなあ) 「ええと……たしかにいきたいところとかはたくさんあるんですけど……」 「はい! はい! なんなりと!」 オタク男(中の人は慎一)は背中の巨大リュックをあけて分厚い本を取り出した。 『アキハバラ完全ガイドブック2005』 かなり使いこんだ本らしく、背表紙やページの端がよれている。 「まずお嬢さんの好みは……さてさて困ったなー、さっきガンダムっていってたから、この『ヤマタカソフト・VIDEO館』かな? ここなんかはDVDや LDの品揃えがすごくいいです。お勧めです」 (礼儀正しいのか無礼なのかよくわからない態度ですなあ) (それがオタクの基本。とくに異性を相手にしてるときはそう) 「いえ……その……」 アリスは困った様子でグロ吉を見て、グロ吉もやっぱり困った顔をしてることに気づくと、 「すみません、DVDを買っても持ってかえれないんです」 「それはいったいなぜ!?」 「それは家出……ええと、親がすごく厳しいんです、こういう趣味に対して」 「おお、それは悲しい! とても悲しい! オタク趣味は日本を代表する文化だって最近は言われてるのになあ。昔は日本といえばフジヤマ、サムライ、ニン ジャで、いまはソニー、ホンダ、ドージンシですよ」 「それはさすがに嘘だと思うんですけど……」 アリスの『困った顔』が『迷惑そうな顔』に変わりつつあった。ぐぐいっと一歩ちかづいてオタク男(中の人は慎一)は勢いよく喋る。 「でもお嬢さんはオタク文化のすばらしさを理解してるんですよね!? いいなあ、外国の方なのに! すばらしい、握手しましょう!」 突き出された手。アリスはとびのく。 「やっやめてくださいっ」 「え……?」 「いやなんです、すみません……」 (おかしいなあ、フレンドリーかつさりげないスキンシップをはかったのに) (いまのどこがさりげないんですかい!) 「とにかく、あの、結構ですから、いきましょう」 アリスはグロ吉の太い腕をつかんで歩き出す。 「ちょ、ちょっと待ってくれお嬢さんっ!」 オタク男は両腕を広げてアリスたちの前に立ちふさがった。ばさりと床に落ちる「アキハバラ完全ガイドブック」。 「じ、実はどうしてぼくがお嬢さんに声をかけたのかというと、お嬢さんがあまりに美しかったからで……!」 「え……」 アリスの青い目がパチクリと見開かれる。 「そうなんです! お嬢さんは……ええと……」 女性の美しさをどう形容したらいいのかまったく分からなかったらしくオタク男の顔が苦悩にゆがみ、一瞬言葉につまったあと手を叩いて、 「そう! まるであなたは……タンポポのように可憐で! バラのように美しく! アニメ雑誌の表紙に乗ってる萌えキャラより10倍萌える! 白ワンピース に麦ワラ帽で避暑地のお嬢様コスプレだと言い張ればコミケのコスプレ広場で人気者だ! 有料撮影会でも主役がはれる! えーっと……あとは……そうだ、そ のままのかっこでステッキを持てば魔法少女としても通用する! それから……うーん……」 だんだんしゃべり方がしどろもどろになってくる。 (若! 若! 女の褒め方ってもっとあるでしょうが!) (だ、だって……いつもは『萌え』『ハァハァ』の2種類だけで全部すむんだよ! 2次元の女の子相手ならそれで十分だったんだよ!) (すこし疑問を感じなせぇ!) 「とにかく! ぼくは!」そこでぐいぐいっとアリスに歩み寄り、 「お嬢さんのような方とお知り合いになりたいっ!」 アリスはオタク男の顔を気持ち悪がるように「きゃ!」と叫んでとびのき、持っていたカバンを振り回してオタク男の顔を張り飛ばして、オタク男がひるんだ すきにその脇を駆け抜けた。 階段をタッタッと軽快に下りていく。 「ま、待ってくだせえ! ひとりでいくと迷子になりますぜー!」 グロ吉も走り出す。ゲタを運動靴にはきかえているのでいままでよりもさらに早い。 張り飛ばされたオタク男、「こんなはずは……」と自分のほっぺたを押さえ、アリスたちをおいかけはじめる。ドタバタと体の動きばかり大きくて足は遅い。 「まってくれー! アキハバラは恐ろしいところなんだ案内なしでウロウロすると大変なことにハァハァ……絵、絵を売りつけられたり……オタク狩りにあった り……カッター持ってるだけで警察に捕まったり……」 (まって、待ってよー。おかしいなあ……ここまで嫌がられるなんて……) 慎一はオタク男に乗り移った状態でしきりと不思議がる。 数段下を走るアリスとの距離はなかなか詰まらない。 と、そのときアリスが転んだ。 「あぶねえ!」 グロ吉がとっさにアリスを抱きとめる。 そのとき、スカートがはだけた。 白く細い腿があらわになる。 そのつけ根の……スカートの奥……までは見えなかった。ぎりぎり危ないところだった。 「きゃああ!」 アリスが悲鳴を上げて足を閉じ、グロ吉の腕を振りほどいて階段に座りこむ。 白い顔が、ほっぺたも、小さい鼻も、真っ赤。 おびえたような、おいつめられたような目で慎一を見上げ、 「み、み、み、……みました? まさか、みました!? みてないでしょうねっ!?」感情が高まりすぎたのか途中から英語に切り替わって、「もし見られてた ら、私……みたんですか!?」 「どうしたんですかい嬢ちゃん? まさか、まだぱんつはいてねぇとか?」 「はきましたっ! ちゃんとはきましたっ! さっき買ったのをはいてますっ! でもパンツが見えるのも十分恥ずかしいんですっ!」 オタクたちが集まってきた。 「なんだなんだ」「女の子が転んだ」「あの金髪の子?」「そうそう」「かわいいじゃん」「ツインテールようじょハァハァ」「ツインテは金髪に限るよな?」 「あの子は幼女って歳じゃないんじゃない?」「ようじょは肉体でなく魂の属性ですが何か?」「お前ツインテ語らせると熱いよなぁ」「ツインテールではな い、ダブルポニーと呼べ」「呼び方なんてどうでもいいじゃん」「どうでもいいことにこだわる! それがオタのジャスティス! ちなみに大事な事は忘れる! それもオタのジャスティス!」「ところでいま、パンツがどうとかっていってなかった?」「知らん」「そういや確かに『ぱんつはいてない』って」「な にっ! PHNか!」 浸透している略称らしい。 「どこだどこだ! ぱんつはいてない子は!」「ぱんつはいてないこはいねがぁ!」「なんでナマハゲ!?」「よーしスレに書きこんじゃうぞー」器用にノート パソコンを広げて立ったままいじっている奴も。 いろいろ口々に喋りながら階段の上から下からやってくる。 たちまちアリスたち3人はオタク集団に取り囲まれた。 「え……」 事態の急転に驚いてアリスがおびえた声を出す。 その声に恐怖が混じっていたのは、男性率100パーセントのオタク集団がみんな妙に目をギラギラさせているから。 「み、みなさん……わたくしになにか用ですの? わたくし、お買い物が……」 途切れ途切れにアリスは言う。 オタクたちは鼻息も荒く、 「ぼくが案内してあげるよなに買うの?」「ぼくも! ぼくも案内する」「あの、あの、ぱ、ぱ、ぱんつ……」「ばかっ、いきなりその話はやめろっ、まずフラ グを立ててからだっ」「なんだよフラグって」 グロ吉にぴったりアリスはよりそった。 「この人たち……こわい……」 「よし、ここはあっしに」 グロ吉はまたアリスを横抱きに、 しようと思ったがアリスが「やめて!」と叫ぶ。 「どうしたんですかい」 「やっぱりスカート短すぎですわ! これだと、押さえてないと、見えちゃうかも……」 確かにスカートが短い女の子を抱っこして走りまわるのは危険だ。 そこで慎一が思い切りかっこつけて叫ぶ! 「ここはぼくに任せて! それそれそれーっ!」 背中のリュックを開けて、中身を階段の上のほうに向かって放り投げる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、投げたのはみんな、本、DVDのケース…… オタクたちの反応はすさまじかった。 「ゲッゲェーッ! ××の新刊がこんなところにーっ!」「これは幻の第14話ーっ!」「猫耳コスプレ写真激萌えですよあなたーっ!」「おれにも、俺にもみ せろーっ!」 集まったオタク数十人が、いっせいに怒涛となって、上の階にかけあがる! 一瞬、階段の下側にはオタクが誰もいなくなった。 「今だっ!」 慎一が叫ぶのと同時に、全員が走る。 「おれだッ!」「おれに見せろっ!」「へるもんじゃなし」「へるんだ、真の萌えを理解してない奴が萌えキャラに触るとへるんだッ!」 オタクたちは階段の上のほうでグッズのとりあいをしている。追ってこなかった。 無事、アキハバラデパートの外に出ることができた。 「ふう……」 グロ吉、胸をなでおろす。 「怪我はないですかい?」 「ええ、ありません」 そこでアリス、慎一に向かって日本風に頭をペコリと下げる。 「ありがとうございます」 「いえ、あの、そんなことははは。当然のことをしただけですよ」 「キモイだけのひとじゃなかったんですね」 「き、きついなあ、はは」 「ところで……」 グロ吉が周囲を見回しながら言った。 アキハバラデパートを出たその前には数件の電気屋が並んでいる。電気屋といいつつ、看板には堂々と『同人誌』『フィギュア等』。 「アキハバラのことならぼくに任せておいてください、ふっ」 「あの……たすけてもらっておいてなんですけど……その喋り方はちょっと……マンガに出てくる『イタいオタク』の典型みたいで……自分ではかっこいいつも りなんですか?」 「ぐさっ」 擬音をわざわざ口で言って、慎一は頭を抱えた。 「うわあ、だめかあ……」 グロ吉が思念を送る。 (若。若。しっかりしてくだせえ) (だ、大丈夫だ。挽回してみせる。きっとアリスちゃんは今日のうちにメロメロだ) (どうもいやな予感がしやすが、若がそういうなら精一杯若を立てさせていただきやす) 「ところでどこに行くんですの?」 「秋葉原の主要な店は中央通りのむこうです、いきましょう」 「はい」 デパートを出て中央通まではたった数十メートルだ。 中央通り、15号線ともいう。 秋葉原の中心。両脇にはびっしりオタクビル。 休日には歩行者天国となる中央通りも、今日はクルマがひっきりなしに通っている。だが平日でも歩道には人があふれて、判で押したような「巨大リュック・ チェックのシャツ、手には紙袋」の格好で歩いている。 「まずはアソビットシティでも軽く流しましょう」 「よくわからないけど、はい」 慎一に先導されて歩き出すアリスとグロ吉。 キョロキョロと周囲を見回し、アリスは慎一にたずねてくる。 「あの女の子の顔がくっついたビルはなんですの?」 「あれは『とらのあな』。同人誌うってる店」 「まあ。プロレスラーとか養成してそうなお名前ですわね」 「……えーと、なつかしマンガに詳しい人?」 「父様がいろいろ教えてくださいましたわ」 「そ、そう」 「あの人たちは?」 中央通りの向こう側にある店では、なにやらテレビが道に面して置かれ人がたむろしている。 「ゲームのデモか何かをみてるんだと思います」 「面白いですか? わたくしゲームってあまりやったことがないんです」 「いや、面白いとは思うんですが、たぶんエロゲ……」 「えろげ?」 「うーん、なんていうか……ちょっと特殊な趣味のオタクの人が買うものなんだけど数の上では多数派というかなんというか、ははは」 「父様も遊んだことがあるのでしょうか? それならわたくしもいちどは触れてみなければ」 「いや、それはわからないけど、ちょっと女の子にはお勧めできないっていうか、今おすすめしたら犯罪だっていわれちゃうかな、みたいな感じで」 「はあ……?」 「いやあ、あんたは秋葉原のことにくわしいですなあ」 グロ吉がにこにこ笑いながら言う。 「いやあ、それほどでもないですよ、はっはっは」 慎一はそう返して、思念を送る。 (おい、ちょっとわざとらしすぎない!?) (若こそ、もう少し気のきいた説明ってもんがあるでしょうが!) (うーん、やっぱり女の子の相手はむずかしいよ……) (もうメゲてるんですかい!?) 「あ、あれは!」 慎一はアリスの指さす先を見上げて、にこやかに微笑みながら、 「ああ、あれはただのヘリ……って、ヘリ!?」 上空にヘリコプターが現れていた。 黒くて鼻先が尖ったヘリ、機体の横にはまるっこい文字で『あいあんめいでん』。 「な、なんでメイ……!」 「なんでもう場所がわかったんですかい? にげやしょう嬢ちゃん」 「ええ!」 歩道を走る。駅にむかってかけもどる。 だが、ヘリはアリスたちに急接近! 高度たった十数メートルにまで降りてきてザイルを垂らす。 ひとり、ふたり、メイド姿がザイルをつたって秋葉原の歩道に降り立つ。 「まってください! お嬢様!」 戦闘メイドたちは英語で叫びながらアリスたちをおいかける。 「早く駅に!」 グロ吉、アリスを引きずる勢いで腕を引っ張った。 総武線が走る高架が近づいてくる。 線路の向こうを左に曲がればそこはさきほどまでいアキハバラデパートだ。 向こうではなく手前を曲がった。 真新しい巨大なビルが見えてくる。秋葉原ダイビル。 ダイビルと駅の間の広場ではイベントが行われることもあるが今日はなにごともなくただの広場で、 そこを突っ切って慎一たちがジタバタ走って、あと駅舎まで30メートル、30メートル、 バラバラバラバラバラ! ローターとターボシャフトエンジンの立てる爆音が頭上にとどろく。 みあげると、イギリス軍用ヘリ・リンクスがたった数メートルの高度。 機体の下面にとりつけられた着陸用のスキッド(ソリ)が刃のように光る。 「は、はいってきやがった! なんてぇ無茶を!」 「こんな狭いところに!」 ローターの巻き起こす風圧でアリスの髪がバタバタ、そのへんにいるオタクたちが 「ヘリだ!」「メイドだ!」「なんでこりゃ! すげえぜ秋葉原!」 と叫び、彼らが握ったチラシは次々に飛ばされていき。 ヘリは駅の出入り口を封鎖するようにして地面すれすれでピタリとホバリング。 背後にカツッカツッとブーツの音。 「お嬢様、もう逃げられませんよ!」 振り向くと数人の戦闘メイドが、なぜかガスマスクを装着した異様な姿で迫ってくる。 「よくしゃべれるね!」 「感心してる場合じゃありませんわ!」 前方に目を向け、アリスが絶句した。 さっきからずっと開かれていたヘリの扉から、一人の人間が姿を現す。 それはメイドの姿ではなく。 黒いスーツに身をつつんだ一人の女性。 すらりと高い背、ジャケットを着たままの状態でもしまったウエストと豊かな胸がはっきりとわかる。長い金髪には少しウェーブがかかって、ローターの激し い風で旗のようにざわつき。 鋭く、つめたい眼を周囲に向け。 ヘリは目の前に降りたとはいえ、数メートルはあるはずなのに。 慎一は、まるで至近距離でにらみつけられたかのような圧迫感をおぼえた。 反射的に体があとずさり、グロ吉の胸板にぶつかった。 「……母さま!」 スーツの女性にむけて、アリスは叫ぶ。 「え?」 慎一とグロ吉、驚いて叫ぶ。 「この人が、嬢ちゃんのおふくろさん!?」 「ええ。わたしの母、パトリシア・マクレインです!」 よくよく見れば似ていないこともない。だがこんな大きい娘がいるなら30代のはず。 しかしスーツ姿の女性は、顔を見る限り大学生のように若々しく美しい。 パトリシアに続いて、ヘリからは戦闘メイドが次々に降りたつ。ガスマスクを小脇に抱え、なぜか首からプラカードをさげている。 ひときわ背が高いメイドのプラカードには、日本語と英語でこう書いてある。 『わたしはパトリシア様の手をわずらわせた無能なメイドです 隊長ヒルダ・フォスター』 そのとなり、小柄でショートカットのメイドは、 『私は敗北主義者です 副隊長デイジー・シートン』 そのまたとなりのメガネをかけたメイドは、 『ユニオンジャックに謝罪します 隊員キャサリン・チャールトン』 全員、青ざめた顔だった。 全身がコチコチになっていた。 圧倒的な強者の前でふるえ上がっているような、刑罰を恐れているような。 「ミレイ!」 慎一がさけんだ。さっきからずっとついてきていたミレイは背中の羽根を『ざんげハンマー』に変化させ、パトリシアの頭をパコン! しかしパトリシアは一瞬だけ顔をしかめたものの、すぐに不敵な笑みをうかべた。 グロ吉を頭のてっぺんから足の先までじろりと一瞥、 「ふうん、それがあなたの『不思議な術』? でもね、これしきの罪悪感で動揺するようじゃ、上流階級はやってられないのよ!」 ミレイはあっけにとられた表情になる。天界アイテムの神秘力に対抗できる人間はそれほど多くない。とっさにとなりのメイドたちに標的を切り替える。 ぱこん! ぱこん! ぱこん! メイドたちが「ぐぇ!」「うわあ! ごめんなさ……!」英語でうめき、わき起こる罪悪感にもだえ苦しみ、 しかし次の瞬間、パトリシアが一言。いや一喝! 「任務を放棄するか!?」 メイドたち、電撃に打たれたように硬直。 「ばら戦争の時代より伝わるマクレイン家の拷問芸術を味わうか!?」 もう一度メイドたちの全身が震え、 「NO!」 全員が叫び、直立不動の姿勢に戻った。 「……き、きかない!?」 「どういうことだ……」 「おっそろしいアネゴもいたもんだ……」 ミレイ、慎一、グロ吉の三人は驚く。 パトリシアは勝ち誇る様子も見せない。 ごく自然な様子で口を開く。 「アリス。どうして母さんのいうことがきけないの?」 グロ吉が「嬢ちゃん」と心配げな声をかけた。 アリスはグロ吉の手をぎゅっと握って、小さい体を精一杯背伸びさせて、 「誰かを好きになりたいって、おもっちゃいけないんですの!?」 「ええ、いけないわ」 「母さんだって、昔は同じことをしたんでしょう!?」 「ええ。父さんとめぐりあってね」 「おじいさまも、ひいおじいさまも、おじさまも大反対だったんでしょう!? どこの馬の骨だって……それなら、どうしてわたくしが同じことを……」 パトリシアの表情が変化した。仮面のようにはりついていた挑戦的な笑顔が消え、どこかはかなげで、しかし疲れたような笑みをうかべる。 「……このこと、しっかり教えてあげるべきだったわね。 確かにわたしは昔、マサキと恋をしたわ。 あなたよりは少し年上だったけど、同じくらい世間知らずで、向こう見ずな娘だった。 でも、だからこそ『絶対に同じことをするな』って言ってるのよ」 「どうしてですか!?」 アリス、1歩もひるまない。ヘリのローター音に負けないほど強く叫ぶ。 「ヒルダ、例のものを」 「はい!」 パトリシアが命令すると、ヒルダ隊長がすぐさまヘリに飛びこんで、トランクを持ってくる。 パトリシアはトランクを開ける。中には分厚い本が10冊以上詰まっていた。 「これはマサキの日記よ」 「そんなものをつけていたなんて知らなかったです」 「内容を知れば、わたしの言っていることがわかるわ」 一冊をとって広げた。読み上げ始める。 日本語だ。もともと日本語で書いてあるのだろう。 「……『1992年12月18日 待望の娘が生まれる。顔が猿っぽいと思った。だが生まれたばかりなので仕方ない。ロリィな美少女に育ってくれることを 祈ってアリスと名づける。不純な動機だろうか? いいや、天国のルイス・キャロルはきっと力強くうなずいてくれる。つまリ英国文化は俺を肯定している。よ し問題ない』」 「……わたしがうまれたときね」 「そう。 『1993年7月6日 アリスがつかまり立ちをするようになった。好奇心旺盛でなんでも口に入れたがる。興味をもったのでアリスの目の前にガンプラと 美少女フィギュアを置いてみた。するとアリスは美少女フィギュアの足の部分をチュウチュウ吸いはじめた。なかなか見どころがあるが、お父さんは少し心配 だ』お前の頭が心配だ!」 「え……ええ!?」 アリスが驚く。慎一が眼を白黒。 周囲に集まっていたオタクたちもざわつきはじめる。 「さて次だ。 『1993年12月25日 社の連中とクリスマスパーティーの最中、緊急連絡が入った。パトリシアからだ。アリスが立ったという! 俺は直ちにパー ティーを中止し、ヘリで本邸に戻った』」 「そんなに喜んでくれたんだ。ちょっと親バカだけど、うれしい」 「甘い。この先だ。 『確かにアリスは立っていた。技術陣を呼んでアリスの歩行を調査させる。赤ん坊が歩き始める過程を研究すれば巨大ロボ開発に生かすことができる。完成し たらきっとアリスにも聞かせよう、このロボットは君を研究してつくられたと。なんと名誉なことか』」 アリスがぽかんとしているのを見て、パトリシアは別の日記を読み始めた。 「『1995年10月21日 最近パトリシアがコスプレを拒否する。せっかく集めた撮影チームが無駄になってしまった。アニメやゲーム全般に興味がなく なってきたようだ。仕方がないのでアリスにエリート教育を開始する。アニメの台詞をいくつか覚えさせた。するとパトリシアに怒られた。長い間かけて環境を 整える必要がありそうだ。困難な道だが逃げるつもりはない。逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ(最新のネタをさりげなく入れてみる俺)』 『1999年7月18日 ロボットがいっこうに完成しない。人型機械を否定する勢力、バチカンの陰謀か何かだろうか? 仕方がないのでメンバーを先に集 めることにした。名前は英国文化に敬意を表して、戦闘メイド隊あいあんめいどんとする。ロボットに乗ったメイド隊を率い、世界の平和を守る。これぞ男の夢 だ。パトリシアはいまだに反対している。ロマンの分からない奴だ。昔はああじゃなかった。男の俺ものけぞるくらいだった。悲しいことだ』 『2002年1月20日 女王陛下とパーティーで会う機会があった。日本のアニメのすばらしさについて力説していたらパトリシアが血相変えて飛んでき た。そのあとのことは思い返すのもつらい。いつか書ける日も来るだろう。とにかくアリス、強く生きてくれ。俺ができなかったオタク文化による全ヨーロッパ 制覇の夢を! ああ、奴の足音が近づいてくる(日記はこうして中断するのが美学)』」 アリス、言葉もない。 パトリシアは全員を見回した。 「わかった? これがマサキの本性よ。 自分のオタク趣味のために娘も、一族の財産もオモチャにする男だったのよ! このあとのことは知ってるでしょう? 大喧嘩をして、結局は一族から追放し たわ」 パトリシアは日記を閉じた。ヒルダ隊長が日記を受け取ってまたトランクにしまう。 「これが離婚の理由……!?」 どこか自嘲の感情をこめた声でパトリシアは言う。 「そうよ。日本にもいるそうね。旦那がオタクの場合は。『子供とプラモどっちが大切なの!?』『プラモに決まってるだろうが!』はいサヨナラ、よ」 そこでため息。さきほどまでいからせていた肩も脱力させる。さびしげに微笑んでアリスを見つめる。 「……そんな男に引っかかって、10年以上いっしょにいたのは私だけどね」 「……でも。母様だって昔は日本のアニメが大好きで……だから父様と……」 アリスの反論は弱々しかった。動揺していた。視線をさまよわせ、小さい拳を握ったり閉じたり。 父親への信頼が揺らいでいる。慎一にもグロ吉にもそれが分かった。 「そんなの、若いときのハシカのようなものよ。ウィンストン・チャーチルも言ってるでしょう?『20歳までにオタクにならない者は情熱が足りない。20歳 をすぎてオタクをやっている者は知性が足りない』 」 その言葉がパロディであることを指摘するものは誰もいなかった。 「……ジョークがすべるのはわりと屈辱的ね。 とにかく、一時の感情に惑わされるときっと後悔するわよ! とくにそっちのほう」 パトリシアの青い眼が鋭く慎一を射抜いた。 「え……ぼくですか」 「見るからにオタクね。それもかなりダメな部類の。マサキよりもずっと程度が低いわ」 「ちがいます!」 アリスが突然声を張り上げ、 「こっちのひとは関係ありません。ただの通りすがりの人です」 一瞬でフラれた慎一。 「私が好きなのは……」 指差したのは、もちろんグロ吉。 「へえ。ちょっと変わった好みをしてるのね、あなた。マサキには全然似てないじゃない」 「わたしだって、いつまでも『父さん、父さん』じゃありません」 「でも……でも、この人は違います。きっとわたしのことを……」 「ことを? あなた、あってから1日も経ってない男のことをどれだけ知ってるの? そこのあなた、答えてみなさい、あなたはどこの誰? 仕事は? アリス をかばい立てするのはなぜ? どんな魂胆なの?」 厳しい声で矢継ぎ早に浴びせられる詰問。グロ吉の表情がこわばるのが慎一にも分かった。 「……そいつは言えねえ」 当然だ、下界での身元などないのだから。 「わたしが思っていた以上に怪しい男みたいね。わかったでしょアリス。こんなのと……」 パトリシアの言葉が止まった。 彼女の視線は、アリスの顔に釘付け。 慎一は見た。グロ吉も見た。 アリスの、丸みを帯びた頬が、やや吊り眼気味の青い眼が、つんと上を向いたアングロサクソンらしからぬ小さい鼻が、薄い唇が、 怒りと決意の表情を形作っていた。 あきらめていない。ひるんでいない。 「……わたしの言うことが聞けないの」 「きけません」 「ほんとうに子供ね。どうするつもり? もう逃げられないことは分かっているでしょう? 言っておくけど、もうチャンスはないわよ。国に帰ったら、屋敷か ら出さない。勉強はすべて家庭教師に……」 アリス、パトリシアの言葉をさえぎった。 両手で自分のスカートをつまんで、持ち上げる。 「……なんのつもりよ?」 次の瞬間アリスが口にした言葉に、その場の全員が硬直した。 「わたし。 いま、ぱんつはいてないんです」 沈黙。パトリシアの慎一もグロ吉も。 次の瞬間、周囲のオタクたちがどよめく。一人、二人、十人。 「うおおお! リアルだ! リアルワールドでパンツはいてないが! ぱんつはいてないはほんとうにあったんだ!」「しゃ、写、写真を!」 グロ吉が「お嬢……」言おうとするのをアリスが眼で制する。 新しく買ったパンツのことは話さない。 あくまで、はいてないで通す。 そのつもりのようだった。 「あ……あなた、なんて破廉恥な……」 「コドモですから。もっと破廉恥なことをするわ」 アリスは笑う。挑戦的に。その笑みは母親にどこまでも似て。 「もしわたくしとこの方の仲を認めてくださらなかったら、わたくし、このスカートをあげて中を見せます! 一気にがばっといきますよ!」 おおおお! オタク集団、歓声の大爆発。 きそって携帯を、カバンの中のデジカメをアリスに向ける。 「拘束しろ!」 パトリシアが鋭く命じる。メイド隊が一動作で警棒を取り出す。 「動かないで! 動いたら、こうよ」 アリス、スカートを上げる。膝丈だったスカートは膝上20センチまで引き上げられ、そしてローターの猛烈な風にあおられてはためき。冬の大気の中に真っ 白い腿が露出、やがて露出の面積は少しずつ増大して、 「や、やめなさいアリス! 自分が何をやっているのかわかっているの! マクレイン家の令嬢が、高貴な一族が……なんてくだらない脅迫を……」 立場は逆転した。 アリスは微笑を絶やさないまま、少しずつスカートを上げていく。 「やめてアリス! こんな大勢の前で……ハダカを、それも、それも……一族のどんな恥になることか!」 「おもしろいことになるでしょうね。わたくしも追放してもらえるのかな?」 パトリシアの視線がさまよった。アリスの顔。不敵に微笑んでいる。アリスの手。震える小さい指でスカートをぎゅっとつまんでいる。アリスの足。アリスを 横から背後から狙っているカメラの群れ。 「やめて……おねがい、アリス、やめて」 「わたくしの条件はひとつ」 「わかった! わかったわ! 交際を認める! だからやめて!」 「その言葉、ほんとうね!?」 「マクレイン家の歴史にかけて誓う!」 「じゃあ、やーめた」 アリスは手を離した。 マクレイン家が、ぱんつはいてないの前に敗北した瞬間であった。 「ふう……ドキドキしましたわ……」 カメラ片手のオタク集団までふくめて全員を見回し、ぺこりと頭を下げる。 「おさわがせしました」 「アリス……あなた……」 「約束、守ってくれる?」 「わかったわ。一族の名を出した以上、ひるがえすことはできないわ。 ……怖いもの知らずね、アリス」 アリスは笑顔でこたえた。 満面の笑み。ぱあっと花開いたような。12歳という年齢にふさわしいその笑顔は、グロ吉も慎一もはじめてみるもの。 彼女は笑ったままグロ吉に抱きついた。抱きついて見上げ、叫ぶ。 「母様のお許しがでたわ! ねえ! もう逃げ回らなくていいのよ! わたくしと一緒に来て! 父様のように! わたしと、わたくしと……」 しかしグロ吉の口から出た言葉は。 「……そいつぁできねえ相談です」 「え……?」 断られるとは夢にも思っていなかったらしく、アリスはあっけにとられる。 「ど、どうして……?」 「よくきいておくんなせえ」 グロ吉の口調と声は、あくまで優しい。 「あのお袋さんは、なんで嬢ちゃんをガミガミしかるか、考えたことはありやすか?」 「知りませんわ!」 「嬢ちゃんのことが大事だからに決まってまさぁ。世の中にゃ、嬢ちゃんくらいの子を見てよだれを垂らすド畜生がウジャウジャいやがる。たった一人で知らな い国を歩くなんざ、襲ってくれといってるようなもんですぜ」 「でも、エドッコさんが助けて……」 「あっしは、たまたま通りがかっただけ。運がよかっただけでさぁ。運がわるけりゃ今ごろ嬢ちゃんは、そうですなぁ。ぱんつ脱ぐどころではすまねぇことに なってましたぜ。 嬢ちゃん、お袋さんは間違っちゃいないんですぜ」 「だ、だって……」 「あっしを信用できねぇのも道理ってもんで。なにしろ身元不明ときてやがる。 お袋さんは、親として当然のことをやっただけ。それなのに嬢ちゃん、なにをやりました? ぱんつの中を見せる? そんなことしたらきっとあとあと後悔しやすぜ? お袋さんも、きっと親父さんだって悲しむにちげぇねえ」 「なにがいいたいの!? はっきり言って!?」 アリスは叫んだ。その声には怯えと悲しみがにじんでいた。 グロ吉がなにを言いたいのか、ほんとうはわかっているのだ。 「……嬢ちゃん、あっしが惚れるにゃガキすぎる」 「え……きらい? きらいなんですの!?」 「いい子だとは思いやす。でも惚れはしねぇ。まだ12歳で、母ちゃん父ちゃんの気持ちも何もわからねぇ、ただ自分は好きだからって何やっても許されるなん てワガママ小娘! あっし好みのいい女には10年早ぇってもんで。すまねえですが、あっしはここで失礼させていただきやす」 沈黙。 沈黙を破ったのは、アリス。 「……わたし、ふられたの?」 「ええ。きっぱりと」 「そうなんだ……これが、ふられるってこと……」 「貴重な経験ですぜ? 誰かを好きにならねぇとできねぇ」 「エドッコさん。……もし、もし、5年経ったら、10年経ったら、エドッコさん好みの『いいオンナ』に、なることができたら」 「そん時ぁ、あっしもクラッときちまうかもしれませんや。それじゃあ、いきやすぜ」 グロ吉、走り出す。 アリスの背後に広がるオタク集団の中に飛びこんだ。 パトリシア、呪縛から説けたように叫ぶ。腕を振り下ろし、戦闘命令。 「お、追え! 捕縛しろ!」 「いいのです、母さま!」 アリスが駆け寄り、パトリシアの腕を押さえて訴える。 「いいのです、いいのです……」 アリス、母の腕をつかんだまま、至近距離で何度も叫ぶ。 「……あなた、泣いてるの?」 「泣いてなどいません!」 アリスは空を見上げた。 駅ビルとダイビルにはさまれた、狭くて汚い東京の空。 アリスはそれでも空を見上げ続けた。 見上げていれば、なぜだか目蓋を押し開けて溢れてくる熱いものを、こらえていられるからだ。 11 「……あれでよかったのかな」 慎一、デパートの屋上よりも高い空中から、駅前広場を見下ろす。 とっくに体を脱ぎ捨てて霊体のみになっている。 「まあ、他に手はなかったと思いやすぜ」 グロ吉(マグロ状態)が、慎一の頭上をグルグル回りながら答える。 あのあと、彼もすぐに体を捨てた。仮の肉体は『カラダ人形』に戻って回収した。だからパトリシアがいくらさがしてもグロ吉を見つけることはできなかった ろう。 駅前広場では、アリスが母親と一緒にヘリへ乗りこんでいた。 「……あの子はどうするんだろう。せっかく好きになった人に振られて」 「おや、あっしを責めてるんですかい?」 「そうはいわないけど。他に手はなかったってのはわかるけどさ……でも、やっぱり辛そうだな」 「じゃあ、どうすればよかったんでさぁ? 知りもしない男にスキスキって、それがあっさり通って欲しかったっていうんで?」 「……そこまではいわないけど。仕方なかったのかな。ひとときの楽しい思い出、それだけでいいのかな。ぼくだったら、そんなのはむしろ不幸だと思う。最初 から好きにならなきゃよかった」 ミレイのくすくす笑いが聞こえてきた。 「な、なんだよ! ……なんですか?」 さらに頭上、空中に腰掛けて、ミレイは笑っていた。 頭の上からベレー帽を外して片手でもてあそびながら。 慎一、ふわりと上昇してミレイに目線を合わせる。 「そう怒るな。きみの恋愛経験がどれだけ乏しいかよくわかった、ということだよ」 「え……?」 「アリス嬢は、きっと不幸なんかじゃない。早くそういうこともわかるようにならないと、生き返っても女に相手にされないぞ?」 「ひ、ひどい……」 と、そこにアリスたちのヘリが上がってきた。 石を投げれば届きそうな距離を通過した。 ヘリの操縦席にアリス親子の姿はない。 後ろのカーゴルームは小さな窓があるだけで、中にいる人間の姿は判別できない。 だからアリスの顔などわからなかった。 分からなかったから、慎一はヘリ全体に向かって手を振った。 「……元気でねー!」 「まるで小学生だな」 「い、いいじゃないですか……」 「いいオンナになりな、嬢ちゃん!」 「オトナの男は違うね、どう思う慎一」 「……ほっといてください」 ヘリが見えなくなった。 ぽつりと慎一が、 「あれはあれで幸せだって言うんなら、初仕事は成功なのかな?」 ミレイ、難しい顔をして腕組み。 「……微妙な問題だな」 「え? だって幸せにすればいいんでしょ?」 「君が何をした? 私の眼には、9割9分までグロ吉の功績に見えてならないんだけど」 「で、でもそれは! 天界獣は道具だから天界獣の功績ってのは使役した人間の功績で!」 「それはあくまで建前だ。この場合はどうかな」 ミレイはしかめっ面を笑顔にかえて、眼鏡の奥の青い眼に明るい光を宿らせた。明らかに楽しんでいた。 「真剣に取り合ってくださいよ! ね、ぼくは頑張りましたよね?」 「上に戻ったらまたみっちり特訓だな」 「そんなー!」 嘆きの叫びをあげて天を仰ぐ慎一。 空には、アリスたちが乗るヘリ。 視線がその一点に吸い寄せられた。 いい子だった、それだけは間違いないと思った。 幸せになって欲しい。 ぼくは今回何もできなかったし、天使の力なんてわずかなものかも知れないけど。 でも…… いつしか慎一の心から、嘆きは消えていた。 12 『2005年2月23日 父様のまねをして、今日からわたくしも日記をつけることにしました。 でも最初の日記がこんなのなんて、なんだか複雑な気分です。 きょうは、父様のいろいろな秘密を知ってびっくりした日です。 それから、わたくしがはじめて人を好きになって、あっさりふられてしまった日です。 何年も前から、父様と母様の昔話をきいて、父様からもらった漫画をよんで、きっと恋ってのは楽しいものなんだろう、誰かを好きになれたらどんなにいいだ ろうって思ってました。その一方で怖い、という気持ちもありました。 きょう、東京の街で、不思議なあの人と一緒ににげまわって。なにもかもがはじめての経験で。 だっこしてもらって走って逃げて。命がけでまもってもらって。一緒にお茶を飲んで。とても短い間の体験でした。 なんと2時間しか経ってないんだ、と驚いてます。 でも、忘れられない2時間でした。ほんの少し言葉をきいただけで、わたくしの言葉で微笑んでもらえただけでうれしかった。見たい、あのひとの顔をもっと 見たい、でも恥ずかしい、変な目で見られるかも、そんな気持ちがぐるぐるしていた、そんな強烈で、いままでお話の中で読んできたどんな恋よりも。 熱くて、たのしくて、時間の感覚もおなかがすいたことも追われていることも忘れることができた、 母様にしかられてもあんなことができた。いまでも信じられません。 結局わたくしは、たったひとことでふられてしまいました。 お話の中では、ふられたら世界そのものがまっくらになったり、あらゆるものが作り物に見えたり、食べ物ものどをとおらなかったりするらしいですけど。 わたくしはそうはならなくて、ただ心が重くなって、どこかがしびれて麻痺したような気分になっただけです。何を食べても、本を読んでも、母様にあれから こっぴどくしかられても、「ふうん」って。 たいしたダメージじゃないです。時間が短かったからでしょうか。何ヶ月もつきあった果てのことだとしたら、違ってくるんでしょうか。 でも。 母様はああいうけど、わたし、楽しかったんです。 あの人にあわなきゃ良かった、とは絶対に思わない。 あとで言い訳するのはかっこわるいから、日記にこれだけは書いておきます。 わたし、アリス・マクレインは幸せでした。 ところで『なんでわたくしたちの場所がわかったんです?』って母様にきいたら。 インターネットだそうです。 「ぱんつはいてないちゃんねる」という掲示板があって、そこの「速報スレッド」に、これはたぶんわたくしのことだろうという書きこみがあったとか。 日本って怖い国ですね。 』 第4話につづく |