だめてん 第5章 1 「いってきます」 慎一は小脇にファイルをかかえて、ドアを開け分局を出ようとする。 「がんばってくださいねー」 コンロの前で何やらお茶をわかしていたマユリが大げさに手を振る。 「いってらっしゃーい。がんばってくださいねー。夕ごはんまでにはもどってきますかー?」 「たぶんもどってきます。今日はした調べだけだから。人間関係の調査とか」 慎一が笑顔を作ってこたえる。マユリの柔らかな笑顔が伝染したかのようだ。 ミレイが書類から顔をあげて冷たい声を浴びせる。 「下調べは重大だぞ。手を抜くんじゃないぞ?」 「大丈夫だって。ぼくだってもう天使の仕事一年やってるんだから」 ちょっと不満げに慎一が言う。 「そうですよーミレイきょくちょー。最近の慎一さんは前ほどへなちょこじゃなくなったですよー。ほら先月なんて6つもお仕事こなして失敗はひとつもないん ですよー? とくにあのワンちゃんに宿った件は新人離れしてると思いましたー。ワンちゃんに入るのは簡単だけどバレないようにするのは大変なんですよー。 ついうっかり人間の体のクセが出ちゃうんですねー」 ミレイは苦笑して手を振る。 「わかったわかった。シンイチはそこそこうまくなった。認めてやってもいい」 「みっミレイさん、それほんと? じゃあ昇級試験うけてもいい? 推薦してくれる?」 「だ・め・だ。お前の提出するレポート 、なんだアレは。『ためしに道具ナニナニをつかってみました』『うまくいかなかったので今度はナニナニをつかってみました。』『うまくいきました。よかっ た。』小学生か? あてずっぽ天使か? 効率が悪すぎる、まだしばらくはデミエンジェルのまま修行しろ」 「うう……まだこのダサい輪のままかぁ」 頭上の「ピンクの輪」を見上げて嘆く。 同期のミヒャエルはさらに一階級あがってアークエンジェルとなり、天界軍に志願してがんばっているというのに。 でも、いいか。 少しずつだけど、ぼくは確かに先へ進んでる。いつか追いつけるさ。 「……じゃあ、いってきます」 マユリがあきもせずにぶんぶん手をふって。 「……ん、気をぬくなよ。おまえはまだ一人前なんかじゃないんだからな?」 「はいはい。わかってまーす」 ドアを開けて分局の外へ。 ドアのすぐ横で留守番をしていた馬よりでかいジャーマンシェパード……ミレイの天界獣・チャッピー二等兵に挨拶する。 「よお、チャッピー二等兵、いってくる」 「フンッ」 鼻を鳴らして慎一の服に顔を近づけくんくんかぎ始める。グロ吉の魚臭さが染み付いているらしい。 「わっ、離せって!」 ワイシャツのそではよだれでベトベトだ。 「じゃあなー」 「ンフー!」 相変わらずチャッピーは人間の言葉を喋らない。何かポリシーでもあるのだろうか。 真っ青な空にポツンポツンと家や店が浮かぶ、いつもの天界の風景。 慎一は鼻歌を歌いながら飛んでいく。 わかっているのだ。ミレイはガミガミとうるさいが、本当は自分を認めてくれているということが。 一緒に働いて一年、やっとミレイの感情表現が把握できるようになってきた。 「シンイチさん」 声をかけられた。 声のほうに向くと、巨大なズタ袋を背負った大男。浅黒い肌にヒゲ面。ラシードだ。切り落とされた腕もみごとに治っている。 「おはようございますラシードさん」 「これからお仕事で?」 「そうなんです。今日のは……喫茶店が流行らなくて困ってるという不幸。わりと軽いです。時間はちょっとかかるかなー、でも誰かが死ぬような不幸じゃない しね」 「頑張ってください。ではわたしはこれで」 ラシードと別れてから慎一は、ますます明るい気分で天界の空を進み。 一番近くにある地上界への門をくぐった。 2 慎一、グロ吉にまたがって山の上を飛んでいる。 眼下には、ところどころ雪に覆われた低い山のつらなり。 山の中にはうねる国道と、それからいくつかの民家が見える。 そのうちのひとつを指さす慎一。 「んー、あれかなー? あれが喫茶店?」 「あれですかねえ?」 「看板っぽいものがなんとなく見える」 「すいやせん、あっしは江戸っ子なもんで視野は広ぇんですがどうにも遠眼がきかねぇもんで」 「だからそれは江戸っ子以下省略」 こんなやりとりもすっかり習慣になった。 「にしても雪降ってるとなんか寒い気がするよね。霊体だからほんとは感じないけど」 「若、あっしの眼のあたりを触ってくだせえ。マグロは眼の筋肉で熱を出してあっためることができるんでさぁ。カイロがわりにうってつけですぜ?」 「え、遠慮しとく」 高度を下げて「あれかな? あれかな?」と首をかしげる慎一。ファイルに閉じられた写真と照らし合わせて「うーん」とうなる。 と、そのとき。 国道を一台の観光バスが走るのが見えた。 走り方がおかしい。 やけにフラフラと走っている。対向車線に飛び出すのは当たり前、カーブに飛びこむスピードが速すぎてガードレールに車体をこすりつけて、まるで何かの追 われるようにして猛烈な速度で走っている。 「……なんだろあれ」 「せっかちな奴ってのはどこにでもいるもんでさ……」 「いや江戸っ子関係ないから! 中を見て!」 「承知しやした」 急降下してバスの天井を通り抜け。 慎一は見た。 バス運転手にショットガンを突きつけている中年男の姿! 男はドブネズミ色の背広姿。疲れと焦りで今にも倒れそう、といった顔色。ネクタイは曲がり薄い髪が汗で頭に張りつき、血走ってギョロリとむき出された眼 で運転手を見たり乗客をにらんだり。 「バ、バスジャックだ!」 「ちげぇねぇや」 「よし、助けるぞ」 「え? 大丈夫なんですかい若? 応援を呼びましょうや」 「一人でもできる! 犯人だって一人だ、何十人もいるわけじゃない」 「若、デミエンジェルは荒事用の道具をもらってねぇはずですが」 「う、それは……」 慎一は、人間を殺したり動けなくするような「武器」ジャンルの天界アイテムをほとんどあたえられていない。最下級の准天使、デミエンジェルだから。 「ミレイのアネゴを呼びましょうや」 「そんなの待ってられない! 犯人の眼を見ればわかるだろ、いまにも皆殺しにしそうだ」 バスの後ろのほうで小さい子供が「ぐすっぐすっ」とぐずりはじめた。すぐに「うえぇん」という泣き声があがった。 「おい! うるせぇぞガキ!」 「すっすみませんっ!」母親らしき女性が座席のかげから顔を出して頭を下げた。 「やっぱり一刻の猶予もないよ、グロ吉!」 「……若、妙にうれしそうですなぁ」 じっさい慎一の声には喜びがにじんでいた。 ここで活躍すれば。不十分な天界アイテムしか持ってない自分が何十人もの人間を救えば。 ミレイも、ほかの天使たちもきっと自分を認めてくれるはずだ。特例として昇級させてくれるかもしれない。 そんな期待があった。大勢の命がかかっているのに心は浮わついていた。 「武器なしでいったいどうするんでさ?」 「こうだよ!」 慎一はバスジャック犯に体あたり。霊体をバスジャック犯の体にもぐりこませ、乗りうつ…… ……ろうとしたが慎一の全身を激痛が襲った。圧倒的な力強さを持った『声』が頭の中に炸裂する。 ……「なんだオマエでていけ俺の体から出て行け入ってくるなお前もオマエも俺を馬鹿にしているなそうだわかったぞ全部が全人類が裏で俺を馬鹿にしてる ん だ分かってるそうだそうに決まった出て行け出て行け」 「うわあ!」 悲鳴を上げてバスジャック犯の体から飛び出す慎一。 「大丈夫ですかい?」 「……乗り移れないや……」 バスジャック犯は恐怖心を刺激されたらしくますます落ち着かない様子でショットガンを右に左にフラリフラリ。 「……だれだ!? いま俺のことを笑ったろうお前ら!」 乗客は声も出せない。 座席に身をちぢめている乗客のひとり、小柄なおばあさんにバスジャック犯がショットガンをぴたりと向け、 「事態がやばくなってる!」 慎一はあわてた。とっさに背中から一枚の羽根を引き抜く。「ざんげハンマー」に変化させる。 天界アイテムの定番。人間の罪悪感をよびさます。 深くは考えなかった。 ただ、改心させるには罪悪感だろうと思っただけだ。 ハンマーでバスジャック犯を殴った。 「ひっ! おれは……おれはぁ! なんてことを! とうちゃん! かあちゃん! おれは死んでわびますぅ!」 バスジャック犯は全身を痙攣させて泣きわめき、 ショットガンを自分の頭に向けてドスッと発砲! 運悪くそのときバスは下り坂の急カーブにさしかかっていた。銃声におどろいたのか運転手はただでさえ危なっかしかったハンドルさばきを完全にあやまり、 慎一は、銃声に続いてガツンっという音を聞いた。銃声と比較すればささやかな音だった。バスがガードレールを突き破る音だと気づいたのはずっと後になっ てからだ。 次の瞬間、バス全体が激しく揺れ、座席から全ての人間が放り出され、 広いフロンガラスから見えるのは雪のところどころに見える谷とがけ、ぐんぐん接近して、 つまりバスは道を踏み外してまっさかさまだった。 すべては一秒もしないうちに起こった。慎一もグロ吉も、誰一人助けられなかった。 3 そのあとのことはよくおぼえていない。 谷底へ転げ落ちたバスに飛び込んだような気がする。 「たすけなきゃ! たすけなきゃ! だれか! だれか!」と自分が霊体であることも忘れて大騒ぎしたような気がする。 次々にパスから乗客たちの霊が出てきて、自分が死んだことに気づいて取り乱したような気がする。 白い衣の救霊天使と青い衣の天界軍兵土が舞い降りてき たような気がする。 白い衣の救霊天使は慌てふためくバス乗客の霊をなだめて落ちつかせ天界のことを説明し、ひとりひとり手をとって励まして。 青い衣の天界軍兵士は無表情で冷たい眼で慎一を見て、 手錠をかけた。 すべてが夢の中の出来事のようだった。 気がついたら天界まで戻ってきていた。 背後には「天界=地上」をむすぶ次元の扉がブインブインと耳ざわりな音を立て、両脇をかためる天界軍兵士がまったくの無機的な表情で慎一をチラチラみ て、どうでもいい細かいことばかり気になってならず、つまり自分のやったことから眼をそらしたくて、自分がいま大事故を起こした業務上過失致死の容疑者と して、つまり「堕天使」として連行されているのだという事実も受け入れたくなくて…… 「……シンイチ!」 ミレイの叫びが慎一の胸をうった。 一気に現実に引き戻された。 目の前、たった数メートルの距離にミレイが立っていた。 となりにマユリもいたが眼に入らなかった。慎一の視線はミレイにすいよせられた。 ミレイの顔はこわばっていた。白い肌がますます青ざめ、頬に、眉間に、こらえきれない激情がにじんていた。 「……ミレイ、さん」 「……お前。油断するなと、気を抜くなと、あれだけ言ったのに」 「ごめんなさい。でも、ぼくは本当になんの悪気もなくて、犯人を止めるにはあれしかないと思って」 慎一がそこまで言った瞬間、ミレイは駆け寄ってくる。 となりの天界軍軍人がたちはだかろうとするがそれより早く慎一に近づき、 バチンッ! 慎一の頬を勢いよく平手打ち! バランスを失って飛んでいきそうになった慎一の首根っこをつかんで、ビンタ2発目、3発目! そのたびに慎一はうめいて首を左右に振り、 「みっ、ミレ……」 最後に一発、鼻っ面にミレイの鉄拳が炸裂。 熱さが鼻の中で弾けた。 鼻を押さえようとした。手錠で両手が固定されているのでできない。ガチャガチャと手錠が鳴るだけだ。 「ふざけるなぁ! 『ごめんなさい』だと!? 『でも』だと? 『悪気はなかった』だと!? それで許されると思ってるのか。何人死んだと思ってる! 26人! 26人だ! お前の不注意が! 傲慢が! 軽率が! 26人の命を! 奪ったんだ!! お前は何を学んできた人殺し!」 激烈な調子で、早口で、一気にミレイはまくし立てる。 カチンと来た。そこまでののしられるのは納得できなかった。 「でっでも……死んでも天界があるじゃないか、死後の世界にこられるならホントは死んでないのといっしょで、人殺しとは違うわけで……」 そこで慎一は言葉を切った。 いえなかった。 ミレイが泣いていることに、運動のせいか少しずり落ちた眼鏡の向こうの青い眼が、一筋の涙をながしていることに。 「……お前は」 泣いているミレイの唇から言葉だつむぎ出された。もう罵声ではなかった。押し殺した小さく低い声だった。 「……おまえは。天界にきてから一年、なにも見てなかったんだな。 すべてはむだだった。そういうことか」 そこでミレイは眼鏡の位置を直した。頬に不自然な笑みを浮かべる。そして笑った。大声を出して、体をゆすって芝居がかった笑い声をあげる。 「ハハハ……ハハ、ハハ、アハハハッ! こりゃいい! わたしの目はまったく曇っていたわけだ! 彼なら乗り越えてくれる育ってくれると……あはは! 節 穴もいいところだ!」 笑うミレイ、そこで突然真顔になって、 暗い目で慎一を見つめた。 「……失望したよ」 それだけポツリといって、 「行こう、マユリ」 「え、でも……」 「行くんだ。もう意味がない」 マユリをつれて去っていった。一度も振り向くことなく去っていった。 慎一は呆然とミレイを見送った。 「……おい! おい!」 天界軍兵士に怒鳴りつけられ、ぐいぐいと手錠を引っ張られて、やっと気づいた。 「え? はい」 「……来い」 慎一は兵士に質問した。自分でも驚くほど乾いたくらい声が出た。 「……あの。ぼくはこれからどうなるんですか」 兵士はすぐさま答える。 「取調べを受け、裁判を受ける。おそらく地獄送りだ。刑期はおそらく10年かそこら。お前がやったのはそれだけの失敗だよ」 10年! そしてもちろん天使の資格は取り消しだ。 「……地獄で刑を受けたら、また天使になれるんですか」 「難しいな。堕天使の反乱は何度も経験している。受験が認められない場合が多い」 ……天使にはもう戻れない。 もちろん、地上にいく権利も失われる。 彼女に、美弥子さんに会うことはできない。 わずかに残っていた望みが、たったいま消えた。 「うわあああ!」 叫んだ。納得できなかったから叫んだ。 嫌だった。何もかもが嫌だった。 自分は全力を尽くしたのに認めてくれない天界が。 いまや自分を蔑みの眼でしか見なくなったミレイが。 理不尽だと思った。だから叫んだ。 逃げたい。ここから逃げたい。もう嫌だ。 慎一が強く願った。 慎一の翼は武装解除され、天界軍兵士の手の中にあった。だが今、その翼が慎一の思念に呼応して暴れだす。 慎一の背中に張り付いた。 翼から一枚の羽根が飛び出した。羽根は真鍮のような輝きを放つハサミに変化。ハサミはひとりでに動いて手錠のクサリを切断! 「なにっ!」 天界軍兵士ふたりが緊迫した叫びをあげて腰のサーべルに手をかける。しかし彼らが剣を抜くよりも速く慎一の手がひらめいた。背中の翼からちぎりとった羽 根を『ざんげハンマー』に変化。天界軍兵士の頭をぶん殴った。 「ぐわ! ……ヒィィ!」 殴られた兵士が罪悪感に襲われ悲鳴をあげる。一瞬のスキが生まれた。慎一は空中を猛ダッシュ。 光かがやく輪、地上へと通じる門に向かって。 「待てッ!」 背後で天界軍兵士がドスのきいた声を張り上げる。ヒュンッ! と耳元でサーべルが風を切る音。 切りつけられるより一瞬だけ早く、慎一は『門』にとびこんだ。 4 慎一は校庭の上空数十メートルに浮かんで、夕日に照らされた学校を見ていた。 校庭ではジャージ姿の生徒たちがランニングをしている。 あのジャージのデザインを慎一は知っていた。校舎の形を知っていた。 ここは、つい1年2ヶ月前まで慎一が通っていた学校。 「……きちゃった……」 懐かしくて泣きそうになる。 天界から逃げ出してきた慎一は、地上に降りてすぐこの学校へと足を向けた。家にいって両親の顔を見るより先に、ここへ来てしまった。 もちろん、彼女に会いたかったからだ。 自分が重罪を犯したことはよくわかっていた。それならせめて最後にいちどでも会いたい。天界からかならずやってくるはずの追っ手につかまる前に。 どこにいるだろうか美也子さんは? やはり図書室か、それとももう帰ってしまったか。 と、そのとき慎一は校舎の屋上に、女の子たちが何人か集まっているのを見た。 みんな紺色ブレザーの女生徒たち。たったひとりを数人が取り囲んでいる。袖をつかんだり髪をつかんだり、いじめているように見える。 叫び声もきこえた。 「なんだよ。あたしらそんなに変なこと言ってんのかー?」 「勇気あるってんなら証明してみろっていってんだよー」 「おまえにはカンケーねーんだよほんとは、あたしらがなにをしようともさー」 あざけるような調子で大声を、取り囲んでいるたった一人の相手に投げつける。 いじめられていた一人は、屋上のフェンスを乗り越えて外側にたつ。ス力ートと髪が風にはためいた。 ……飛び降りようとしている! 頭より先に体が動いた。 慎一は急降下、 飛び降りようとしてる女生徒に接近、 そこで仰天した。 慎一は彼女を知っていた。 美弥子だった。 少しやせて、別人のようにひきつった暗い顔をしていたが、まちがいない。 ……なぜ美弥子さんが!? ……いやそんなことはどうでもいい、助けなきゃ、絶対に死なせちゃだめだ! 美弥子の手をにぎった。 かさなりあったエーテル体を通じて美也子の想念が伝わってくる。 ……『苦しいよ、どうしてわたし、毎日毎日こんな……楽になれるかな? 父さんたちと同じところにいけるかな? 一瞬よね? 痛いのは一瞬よね?』 美也子が足を空中へと一歩踏み出し、 ……『だめだーっ! 美也子さんっ!』 思念の絶叫を送りこむ。 「え!?」 声をあげて美弥子が眼を丸くした。あたりを見回す。もちろん慎一の姿は見えるはずがない。 ……『美弥子さん、絶対に飛び降りたりしちゃダメだ! ダメだからね!』 「だれ? だれなの?」 慎一はとっさに答えた。「天界の存在を秘匿する」なんて規則はもう知ったことではなかった。 ……『ぼくは天使。お願いだからとびおりないで。必ず助けるから』 「う、うん」 さきほどまで美弥子をののしっていた女生徒たちが、ますます冷たい声を浴びせる。 「なにやってんだよー。ギゼンシャ楠野さんはさっさと死んでろっての」 「ほんとだよねー。『いじめをするひとは心の弱い人です!』 とか言ってる癖に自分も弱いじゃんかよー」 こいつらか? こいつらが美弥子さんを死なせようとしたのか? 怒りを感じるまでもなく、当たり前のように体が動いた。慣れ親しんだ。「ざんげハンマー」を取り出す。 生身の人間が耐えられる限界の強度「3」まで目盛りをあげて、殴る、殴る! 「ぎゃ!」「ひいい!」「ごめんなさいお母さんわたしはなにもみてませんっ!」 うずまって叫ぶ彼女たちの頭に腕を突っこんで思念を送りこむ。 ……『ここから去れ! 天の怒りだ! 二度とあの楠野美弥子に手を出すな! 出したら何度でも天の怒りがお前を襲うぞ!』 彼女たちはあわてて逃げていった。 美弥子はフェンスのこちら側にもどってきて、あたりをキョロキョロと見回す。 「ねえ……誰なの? どこにいるの? わたしどうなったの? おかしくなったの? わたし……」 慎一は美弥子に近づいた。手を握って思念を伝える。 ……『ちがう。美弥子さんはおかしくなってない。ぼくは見幻覚でも妄想でもない。美弥子さんの味方だよ。天使だ。天使なんだ』 「……どうして、わたしを助けてくれるの? わたし、べつにキリスト教の人じゃない……やっぱりおかしくなったんだ……」 「そんなこと関係ない。ぼくは本物だ」 慎一は美弥子に顔を近づけた。キスできるほどに近づいた。慎一は優しく余裕をひめて微笑む彼女、快活にクラスメートをおしゃべりする彼女しか知らなかっ た。だが今の彼女は弱りきり、おびえている。 どうすればいい。どうすれば彼女を助けられる。 人間を助けるための修行は何のためだ? 美弥子の視線が心細げに空中をさまよう。 おもわず慎一は言っていた。 ……『滝森慎一っておぼえてる?』 「え?」 美弥子は戸惑いの表情を浮かべ、小さくうなずく。 「……うん、 おぼえてる。アニメとか好きだった子。いじめられてはいなかったけど、なんか浮いてた。どうしても他のひとと話があわない、みたいな。クル マにはねられて死んじゃったの」 ……『おぼえてくれてうれしい。その滝森慎一がぼくです』 「幽霊?」 ……『違う。あの世にいって、幽霊になったんだけど、地上に戻るため天使になったんだ』 「よくわからない……どういうこと?」 ……『天界に行くといろんな人がいるんだけど天界ではキリスト教が支配していて、メタトロンという天使がいちばん偉くて、天界の人間のなかで公務員みた いな人を天使って言って、天使には不思議なアイテムが与えられて、天子じゃない人は天界から一歩も出られなくて……街は建物が全部浮いてて、でもラーメン 屋と喫茶店があって。 ……そうじゃなくて。そんなのどうでもよくて。 つまり。その。ぼくは。 君に会いたくて、死んだけど、会いたくて、戻ってきたんだよ。 美弥子さんのことがすきだった。今でも好きです。 ひとりだけぼくと普通に接してくれた美弥子さん、図書室で話したときのことがいまでも忘れられなくて、それで、何ヶ月もずっと、どう伝えようかって思っ てて、でもやっと言おうと思ったらクルマにひかれて…… 会いたかった』 そこまで一気に言った慎一は、美弥子の顔から不審と恐怖の色が薄れているのを見て安心した。 ……『今度は美弥子さんのことを話して。あの連中は何? いじめらてるの? どうしてしななきゃいけないの?』 「いろいろあったの。滝森くんが死んじゃってから、いろいろ。つらいことが。さっきのは、わたしがいじめられっこをかばったからよ。かばったら一緒にいじ められるの。世の中ってそうよね」 ……『美弥子さんは間違ってない。なにも間違ってないよ。なんでそんな奴らのために死ななきゃいけないんだ。 つらかったら。大丈夫だから。もうこんなことはないから』 慎一はたった2、30センチの距離から美弥子の顔を見すえた。そして言い切った。 ……『もう二度とこんなことは起こらない。 僕が守るから。いっしょにいるから』 「ありがとう」 美弥子が精一杯の笑みを浮かべるのを見て、慎一は。 天界から逃げてきたことも、天界でおかした失敗のことも、心にわだかまるミレイとの衝突も…… 忘れてしまった。 美弥子さんに気持ちを告げることができた。 ありがとうって言ってもらえた。 その幸福感がすべてを押し流した。 5 「ミレイきょくちょー、ミレイきょくちょー」 やわらかくあまったるいマユリの声。 ミレイの机の上に湯飲みを置いて、とくとくお茶を注ぐ。 ミレイは書類に眼を落としたまま答える。 「なんだマユリ」 「まだかえらないんですか? もう10時ですよ?」 「まだだ。仕事が増えてしまったからな、事情聴取で時間をとられたし」 ミレイがいま見ている書類は、「喫茶店の経営不振という不幸」の書類。本来なら慎一がやるはずだった仕事だ。 「ふう、ひとまずこれでいいか……」 「あ、プランまとまったんですか? 見せてくださいー。うーん、これはー」 「どこかおかしいのか?」 マユリは小首をかしげる。 「商売としては間違ってないんですけどー。でもこの不幸って、たんにお金もうかればいいってもんじゃないと思うんですよー。バラバラになっちゃった家族の 再生が大事なんですー。つまりですねー、これこれこう、こうやってイべントをおこしてですねー」 ミレイの書いた計画書にサラサラ書きこんでいくマユリ。 「こうすればうまくまとまるはずですよー」 「なるほど……いい手かも知れない」 「でしょー? これはお仕事もののマンガ読むと身につく知識なんですよー。お仕事もののマンガは仕事のトラブルと人間関係の回復がワンセットですー」 「マンガなんて読む趣味あったか?」 「シンイチさんからきいたんです。あの人マンガにくわしくて」 「あいつの話はもうするな。……あいつは逃げた。逃げたんだ。ただ失敗しただけじゃない、真価がとわれる大失敗のときに、責任から逃げたんだ」 ミレイはファイルを閉じてパシンと机に叩きつけ、吐き捨てるように、 「もうあいつの名前は出すな! あんな奴を……いちどでも友人だと思っていたとはな! マユリも早く忘れるんだ!」 しばらく沈黙があった。 「……すまない、感情的になった」 「いいですよべつに。それですっきりするなら、お夜食つくります。あ、でもね」 マユリはミレイの前にしゃがみこみ、顔をちかづけて神妙な調子で、 「……怒るのはいいけど、いまのきょくちょーって悲しんでるようにしかみえないです」 「そんなことはない! わたしは怒ってるぞ!」 大声を張り上げてみたが、すぐに苦笑。 「……そうだな、マユリはだませないな。悲しんでるよ、あいつにも、あいつを信じてしまった自分にも」 そういってため息。お茶には手もつけようとしない。 「あー、これは重症です……」 6 慎一は美也子につれられて、学校から歩いて15分のマンションまで来た。 「ただいま」 ドアを開けて入っていく美弥子。 つかれた顔の中年女性が「おかえりなさい美弥子さん」 と出迎える。 美也子さん? 自分の娘をさんづけっておかしくないか? 慎一が不思議に思う。その心を読み取ったように美也子が説明する。 「あ、この人は母さんじゃなくて親戚のおばさん。いまあずかってもらってるの。両親は二人とも亡くなっちゃったから」 「美弥子さん……あなただれとしゃベってるの!?」 「なんでもありません、おばさん」 美弥子は慎一をつれて奥にいく。 何の飾り気もないドアを開けて入る。中は机と本箱が並ぶ部屋。ずいぶんと本が多い。収まりきらないのか本いり段ボールまでつんであった。 「散らかっていてごめんなさい、がっかりした? 女の部屋らしくないかな?」 「い、いや、そんなことないよ」 「着替えてくるからちょっと待っててくださいね」 美弥子はさってゆく。 一人残された慎一、本箱の本をながめる。 「海外ミステリか……。冒険小説も読んでるんだ……意外な一面」 大変な読書家だということはわかった。しかし慎一は小説などアニメ絵のついてるもの、いわゆるライトノベルしか読まない。話が合うのかと心配になった。 ゲーム機もパソコンもDVDもおいてない、テレビすらないのでますます不安が高まってきた。 と、そのとき美也子が戻ってきた。 制服のブレザーを、パー力ーとジーンズというラフな格好に着替えている。 「おまたせしました。……あれ? 滝森さん? いないんですか? 滝森さーん」 みるみるたれ眼がちの眼に不安の色が。 「こ、ここにいるから!」 「よかった……」 「えーと、あの、美也子さん」 「なんですか?」 「き、綺麗ですよ、その服。似合ってます」 「どのへんが似合ってます?」 「え、ええと……なんとなくっていうか……その……ジ、ジーパンがわりと意外な感じで……、美弥子さんはス力ート派というか文学少女というか、なんていう かその……」 美弥子がクスクス笑いだす。 「滝森くんって、女の子のことよくしらないでしょ? いまどきいわないよ、本読んでるからジーンズはかないなんて」 「う、うん……確かに知らなかったです……でもマンガとかの女の子は」 「オタク系だもんね。天国でもアニメみてるの?」 「美弥子さんは……ぼくのこと気味悪がったりしないんですか? こんなこと自分からいいだすのもへんだけど、でもいきなり『ぼくは天使だ』っていわれたら 普通へんに思うし……あっさり信じて家の中につれてきちゃうのは、ぼくとしてはありがたいけど、ちょっと不思議で……」 「おかしなこというのね。信じてほしかっんでしょう?」 「う、うん」 「それに……滝森さんがわたしをたすけてくれたのはたしかだから。この広い世界の中で、滝森さんだけが助けてくれたから」 椅子に腰をおろし笑う美弥子。しかし笑ってはいてもどこか思いつめたようすだ。 「ほかのひとは誰も助けてくれなかったの?」 「うん。わたしってクラスでは人気あったと思ってたんだけどね。いざいじめられる側になっちゃうとね、『かかわらないほうがいい』みたいな態度とられ ちゃって」 「それは……つらかったね……」 どう言ってよいのやらわからない。 天使として「人を慰める訓練」もいろいろやってきたはずなのに、まるで舌が回らない。 「それと両親のことも一緒にあって、すっかりへこたれちゃって。 そんなことより、ね、あなたのことを話して。天国ってどんなとこ?」 「ええと……」 慎一はしゃべり始めた。 天界では建物が全部浮いている。ラーメン屋と牛丼屋がある。あの肉はなんなのってきいたら『牛の霊を切り刻んでね』といわれて驚いた。天界に は光の輪を通って行く。 ミレイという女の天使につれていかれた。ミレイはいつも軍人みたいな格好をしてやたらプンス力怒って…… 「そのミレイさんってひとのこと好きだったの?」 「なっ、なにを言うのさ! ぜんぜんそんなのじゃないよ!」 「だって滝森さん、なんか楽しそう」 「それはただ、仲間として楽しい奴らだったから。でも好きっていうのとは違うよ、ぼくが好きなのは美也子さんだけ! 本気だよ」 あれだけためらっていた言葉なのに、いまはあっさり言えた。 「ありがとう」 「それでね、天界には自動車とか電車はなくて、かわりに天界獣というのがいて。馬とか鳥とかに乗って空を飛んでるの」 「ファンタジーね。見てみたい」 「天使はみんな天界獣をもっていて、ぼくが連れてる天界獣はマグロなんです」 「マグロ!?」 「そう。マグロ。4メールくらいあるの。江戸っ子で、こんなのが口癖で。『あっしはグロ吉っていうもんでさあ。あっしら江戸っ子は曲がったことがでぇき れぇでね』」 「おもしろい! 滝森さん、いまそのマグロさん連れてるの?」 「うん、持ってきてるよ」 「あわせてくれる?」 「うん……」 慎一は口ごもった。 ここにグロ吉を出すことはできない。もし出したらどうなるか。グロ吉は「曲がったことが大嫌い」だ。仕事に失敗して罰も受けず逃げてきた慎一のことを許 しはしないだろう。どんなにか軽蔑することか。 「え……ええとあの」 「どうしたの?」 「ちょっと事情があって。その。いま故障というかそんな感じで、だせないんだ。残念だね」 うそをついてしまった。 バレただろうか? 不安にかられながら美弥子の表情をみる。疑いの色はない。 「そうなんだ……」 「そっそれよりさ、もっと楽しいことがたくさんあるんだよ天界には! あのね……」 慎一は早口で語りだした。しゃべってしゃべってしゃべりまくった。美也子が相槌をうつよりもはやく次の話題をしゃべる。 天界に来てすぐに、テロ組織「天界エロエロ団」に拉致されて人質にされたこと。エロエロ団の首領はオタクの大先輩だったこと。そこに助けに来てくれたミ レイのこと。 天界でツバメに乗った白バイ警官と追いかけっこをしたこと、事務所で一緒に働いている女の子が巫女さんの格好をしていること、天使になるための研修所が あって自分もそこに通ったこと、クラスメートのひとりにミヒャエルという優等生がいたこと、ミヒャエルは「ミヒャエルエル」と呼ばれると怒ること。 それから仕事の内容。オタク青年を助けようと思ったら心の中に吸い込まれてしまったこと。「恋をしたい!」という家出お嬢様をまもって東京中を右往左往 したこと。 美也子の表情が好奇心に輝いていることに勇気づけられて、慎一はさらにしゃべりの勢いを増した。 ところどころ誇張してしゃべった。事件の展開を少しずついじってしゃべった。ほんとうはミレイが解決してくれたのに自力でやったことにした。失敗したこ とは話さなかった。 決まっている、バカにされるのが恐いからだ。 「滝森くんは優秀な天使だったんだね」 「うん、けっこうがんばったんだ。適性があったのかな、アハハ」 バレてないか? わざとらしく笑ったけど、大丈夫なのか? 不安がますますこみあげてきた。 「あの世って言うのも、そんなに悪いところじゃなさそうね」 「うん、でもね、あの世の実態ってばらしちゃいけないんだ。重罪なんだよ。だって『天国があるから死んでもいいや』って思われたら困るでしょ?」 「じゃあ……どうしてわたしには話してくれたの?」 「美也子さんは特別だよ。これで喜んでくれるなら」 「うれしい」 そのときドアが開いて先ほどの中年女性が顔をのぞかせる。 「美也子さん、晩ごはんよ」 それだけいい残して女性派すぐに去った。 「あ、はいはい、いまいきます」 美也子はたちあがった。 「じゃあ、ぼくはもういくよ」 慎一はそう言って美也子から離れようとした。 「待って!」 美也子はさっと手を伸ばした。まるでみえているように慎一の霊体をつかむ。 「……いかないで。いっしょにいてくれるんでしょ?」 つぶらな瞳に真剣そのものの光が宿っていた。 それから、慎一は美弥子の守護天使になった。 ご飯を食べるときも、学校に通うときも、授業を受けているときも、そばにいた。 お風呂のときとトイレの時はドアの外で待っていた。 寝るときは枕元に浮かんで見守った。 無防備な寝顔を見下ろし、慎一は自分の幸せをかみしめた。 もう二度と言葉を交わせないかも、そう思っていた相手がぼくのそばにいる。 頼りにしてくれている。 ここから離れたくなかった。 天界の追っ手をまくにはどうしたらいいか、考えるようになった。 7 ミレイとマユリは映画館にやってきた。 いつも通っているヒドリ町分局から、天界獣に乗って30分。 ミレイの犬型天界獣・チャッピー二等兵はそれほど俊足というわけではないので、出勤する天使や天界人に追い抜かれながらの30分だった。 天界ニホン州では屈指の大映画館。 でっかい看板が表にかかっている古めかしい建物だ。 看板は写真ではなく劇画調のペンキ画で、ますます古めかしい。 かかっているのはカンフー映画、恋愛映画、戦争映画、歴史映画……合計6つもの作品がかかっているらしい。 マユリはひとあし早くチケット売り場に到着。 「はやく、はやく!」 ミレイを手招きする。 「そうせかすな」 「遅いですよ、もうこんなに並んでる。初回は無理かも」 マユリの言うとおり、チケット売り場には何百人がすでに並んでいた。 前のほうから声がする。チケット売りのおばちゃんと客の声だ。 「『緋竜拳』一枚」「あいよ」「『彼女とかすみ草』一枚」「『ベナレス上空決戦』一枚」「はい」「『ベナレス上空決戦』」「はい」 マユリは前のほうから『ベナレス上空決戦』の一言が聞こえるたびに「わっ」と声をあげる。 「困りましたねー」 「まあいいさ、初回がダメでも次の回を見ればいい。他の映画だってある」 「だめですよミレイさん、楽しみだったんでしょこの映画。ベナレス決戦」 「まあな」 「じゃあちゃんとみないと。イベントは恥ずかしがらず熱いまま、隅から隅まできっちりたのしむものです!」 「きみには世話になりっぱなしだな」 このところミレイはマユリに助けてもらってばかりだった。ミレイは仕事の能率がはっきり下がっており、失敗をマユリがフォロー。休日はマユリがミレイを つれまわして「あそこにいきましょ!」「旅行! 旅行!」「ションピングですよ!」とさまざまな娯楽でリフレッシュさせる。 「なんてことないですよー。お互い様じゃないですか」 マユリは丸顔ににっこりと笑いを浮かべる。 「おなかすきましたね、それにしても」 「朝飯くらいは食ってきてよかったかな」 「でもそれだと映画に間に合わなかったですよー。まあ、前売り券をゲットしなかったわたしが悪いんですけどねー」 「お、動いたぞ」 「このぶんだとチケット無事にかえそうですねー。よかったよかった」 マユリは明るく笑う。 その明るさにはどこか不自然なものだった。 慎一が逃亡してから一週間、マユリはミレイを何かと気遣い、励まし、ふだんの2倍は笑って、暗い雰囲気を吹き飛ばそうとしてした。慎一の話は決してしな かった。触れてはいけないことだという暗黙の了解ができていた。 ミレイもマユリの思いやりにこたえて、無理にでも笑顔をつくった。 マユリもミレイも、「仲間がいなくなったのはつらいけど、でも乗り越えられる。あと一ヶ月もすれば過去のことになる」と思っていた。 映画館に入った。 「席、席! いちばん前ですよ?」 「子供かきみは。首が痛いだけだ」 スキップしそうな勢いで館内に駆け込んで行くマユリ。苦笑してついていくミレイ。 満席状態だったので、前のほうどころか一番後ろで立ち見をする羽目になった。 舞台挨拶がはじまって、とどこおりなく終わった。 ミレイの顔に興味津々という表情が浮かんでいるのを確認して、マユリはほっとひと安心。 映画館が暗くなり、背後の映写室からカラカラと音がして、スクリーンに映し出されたのは、まずCM。予告編が何本か。 「最近の映画って予告編のほうが面白いですよねー」 「マユリ、きみのいう『最近じゃない映画』ってなんだ」 「小林旭とかの……」 「きみの実年齢がばれる発言だなあ」 「そんなこといったらこの映画館にいる人の大半は100歳以上ですよ」 前に座っていたおじさんが振り向いて鋭い眼光で「うるさい」とにらんできた。 「すみません」 やがて映画がはじまる。 天界が「死後の世界の覇権」をかけて何百年も戦い続けた天界統一戦争、その前半分のクライマックスともいえる「ベナレス上空決戦」を描いた映画だ。空を 埋め尽くす数万のヒンドゥー神軍と天界軍の装甲騎兵部隊が光の羽を撒き散らして激突する戦闘シーンは圧巻だ、と言われる。天界軍の強さとかっこよさをうっ てつけの宣伝映画だが、ミレイとしては単に戦闘シーンの格好よさに興味があって観たかった。 いきなり画面の中では天界軍集団突撃が始まり、ミレイは一気に引き込まれた。 と、そのとき。 劇場の扉がドカッと外側から蹴り破られた。 拳銃をもった男たちが突入してきた。 サーベルをもった男たちが続いた。 私服だ。天界軍ではない。だが男たちの身のこなしは軍人に負けず劣らず素早かった。とっさにそちらのほうを向いたミレイ。体が天界軍の訓練を思い出し戦 闘モードに入る。男たちの一人は音もなく迫り、体が反射的に動いて男の手首をつかみ拳銃を奪い取ろうとしたミレイの腕を逆に蹴り上げた。一瞬の痛みに硬直 した。そのときにはもう、首筋に拳銃を突きつけられていた。 他の男たちも次々に劇場の四方に展開、銃を客たちに向ける。 「動くな! お前たちは人質になってもらう!」 ようやく悲鳴とどよめきが上がった。 映画の上映が中止されスクリーンが真っ白に。 映写室の方角から弾けるような音が連続して響く。天界軍にいたころよく耳にした音、霊光銃の銃声だ。誰かの重苦しいうめき。 ……撃った! ミレイは舌打ちする。 ……また、あの連中か。 「やあ、ミレイエル。今日はあのヒョロヒョロ坊やは一緒じゃないのかい?」 拳銃に力を込めて押し付けながら、男はミレイにささやく。 彼をミレイは知っていた。 浅黒い肌に脱色した髪、日本人離れした屈強な体格で、ふてぶてしい笑みを浮かべていた。 「たしか……タキトといったか?」 忘れもしない、慎一が天界に来てすぐの事件。 慎一を拉致して人質にした、あの団体だ。 「……そうだ、サブリーダーだったタキトた」 「『天界エロエロ団、略してTEED』の」 「その名前はやめてくれよ、恥ずかしい。『真の人間性を追求する戦闘団』だ」 「ダサいな。エロエロ団のほうがよほど率直で良かった」 「ふん。お前もあのマサキと同レベルの感性か。あいつらオタクとは手をきってせいせいしている」 「あいつらは同じテロリストでもユーモアがあった。今頃で地獄で同人誌でも作ってたのしくやってるだろう。で、お前は何をしに来た?」 「決まっているだろう」 タキトは顔をミレイに向けたまま目線だけで部下に合図した。 部下が大きなアンテナつきの機械とマイクをもってくる。 「はい、リーダー! 我らの革命の成功を祈って!」 「ああ。我ら人間に真の解放を」 「リーダー、人質の監視はわたしがやりましょう!」 「わかった、この女は要注意だ、存分に気をつけろよ?」 そう答えるとタキトは部下からマイクを受け取った。ミレイの首筋から銃口がそれ、かわりに別の男が銃を向ける。 ミレイは一瞬の隙をついて行動した。勢いよく踏みこんで男の手を蹴り上げようとして、 パンッ! と銃声が弾けた。 ミレイの肩に重い衝撃が走る。 撃たれた。押し殺した悲鳴が劇場内にたちこめる。 ミレイは肩を押さえて痛みにブルブルと震える。 過去の経験から自己診断する。 大丈夫だ、たいしたエーテル流出量じゃない、消滅はまぬがれる。 「抵抗しても無駄だ。わかったもらえなくて残念だよ」 タキトはそう言って劇場後ろから前へと移動、壇上に立った。 別の部下からビデオカメラのようなものを出してタキトにむける。 カメラをむけられたタキトは闘志に満ち溢れた表情を作り、マイクを握って高らかに叫ぶ。 「……『天界を統治する偽善者どもに告ぐ! 我らは真の人間性を追及する戦闘団である。我らは現在、マルタ劇場シアター3を占拠している。 観客の全生命はわれわれの手中にあることを忘れるな』」 どうやら犯行声明を出しているらしい。アンテナつきの機械はエーテル波放送の送信機だろう。 「全生命? とっくに全員死んでるよ」 ミレイのつぶやき。テロ集団の一人がミレイに銃口を向ける。 「おい、わかってんのか自分の立場! おれたちをコケにしやがってッ!」 ミレイは怒鳴りつけられてもまったくひるまない。 「はいはい、気の短いテロリストさん」 テロリストの怒りを軽くいなしながら、ミレイはテロリストたちの戦力、そして状況を分析した。 首筋には冷たい銃口がつきつけられたままだ、眼は動かせない。 精神を落ちつかせ、霊体の発する「エーテル波動」を感知することで眼の代わりとする。 ……劇場の広さは30メートル四方。客はおよそ600人。 そしてテロリストたちは客席の四方と劇場後ろの出入り口にたち、監視しつつ逃げ道を絶っている。 エーテル波動がもっとも強烈なのは……なんといってもミレイに拳銃を向けているこの男、タキト。 霊力の強さだけを比較したならミレイの2倍はある。上級天使に匹敵した。たいがいの天界アイテムを使いこなせるだろう。 ……口だけじゃない。要注意だな。 ミレイの観察を知ってか知らずか、タキトはマイクをにぎって犯行声明をしゃべりつづけていた。 「……われわれの目的はただひとつである。天界に蔓延する悪しき道徳主義、悪しき禁欲主義を打破することである! この放送をきいている全てのものよ、お 前たちは疑問に思ったことはないか? なぜ天界では性欲が悪とされるのか!? 異性と触れ合いたい、それは当然の欲求ではないか!? 物語や写真の世界に おいてエロスを追求したい、それも当然のことだ! しかし我らは現在、ただ一枚のヌード写真、ただ一度の乳モミも許されていない! 女性の場合も同様! なんじ姦淫するなかれ、わずかな性欲の発露も処罰される! そうだ、われわれがいるのは牢獄だ! 魂の自由を許さない牢獄の中に、われわれは……」 そこでタキトはくちごもり、ばつが悪そうな笑みを浮かべ、 「へっ、難しいこといったってしょうがないか! なんじ姦淫すべし! やりまくれェ! お前たち全員が絶ちあがれば、世界は変えられる!」 8 そのとき慎一は下界で、ショッピングモールにいた。 美弥子が前を歩いており、服や靴を見て回っている。 慎一は美弥子の少し後ろをついて飛び、「これが生身だったらどんなにいいか、データじゃないか」と思っていた。 「うーん、この靴どうかなあ?」 美弥子が展示されたブーツを見てひとこと。 独り言のようだが、実際には慎一に呼びかけている。 慎一はミレイに近づいて腕に触れ、思念を送って答える。 「……ちょっとオトナっぽいというか、こわい感じで、美弥子さんにはあわないんじゃ…… 「え? そうかなあ? レザーならともかくこれならかわいい感じよ? これとミニスカート合わせたらわりと活動的なかわいさが出ると思うけど。まだ寒いか ら勇気いるか……これからね、これから」 「美弥子さん、変に思われるよ、いまのは独り言としては変すぎるよ。外にいるときはぼくと喋らないほうがいい」 慎一が心配してそう言ったが、一足おそかった。 「美弥子じゃない?」 クラスメートの一人が彼氏連れで現れた。美弥子の風体をじろじろ見る。 「あ、ひさしぶり」 「美弥子、買い物中?」 「そうよ」 「いま誰かと喋ってなかった?」 明らかに美弥子のことを気味悪がっていた。美弥子は度重なる不幸で心が壊れてしまった、という噂を信じているらしい。 「ええ、喋ってたわよ」 「ちょっと、美弥子さん!」 あわてた慎一が叫ぶが美弥子はあっけらかんと、 「わたしをたすけてくれた天使さんと」 「……み、美弥子、あんた……」 「わたしのこと、うわさになってるんでしょ? 知ってるしってる。でも、いいじゃない、わたしはそれで幸せなんだから」 「そ、そうね、ごめん、いこう。じゃあね美弥子っ」 クラスメートは彼氏をつれて足早に去っていった。 「ばいばい」 「ねえ美弥子さん……ほんとに大丈夫だったの、あんなこと言っちゃって……」 「だって滝森くんは、天国のルールを破ってまで私のところにきてくれたんでしょ? それなのにわたしだけがなんのリスクもないなんて。いいのよ。変な目で 見られても」 あっさりと言い放つ美弥子。 その瞬間、慎一のこころに理解が広がった。 この人は本当にぼくをたよりにしてくれているんだ。 決めた、この人をずっと守ろう。 5年でも10年でも。たとえ最初に望んでいた恋人同士と違っていても。 「……どうしたの? 滝森くん?」 「……なんでもないよ」 「そういえばわたし、ずっと苗字でしか呼んでないね? 慎一くんって呼んでいい?」 「親しい仲みたいだ。彼氏とか? いいの? ええと……違うんだよね?」 美弥子はちょっと難しそうな顔をしたがすぐに、 「微妙ね。友達よりちょっと上の何かね」 そういってはにかみ、恥ずかしさを隠すようにして、 「こんどはお菓子買いましょ」 「……うん」 こんな毎日が、美弥子さんといられる日々が、いつまでも続いたらいい。 そう思った。 思った。まさにその瞬間。 バチリ、と頭の中で火花が散った。 「声」が聞こえた。人間の音声とは違う、心の中に直接響いてくる声。雑音交じりの声。 「……ガッ、ガッ……天界軍より刑法発令。人間界で任務中の全天使に即時の帰還と所属部署の安全確認を。こちらは天界軍。第2級神権危機事態発生。ニホン 州の劇場にて立てこもり事件発生。犯人グループの要求は……ガッガッ、第1級神権危機。各州で騒乱行為発生、地上において任務遂行中の全天使は……ガッ、 ガッ」 これがなんだが慎一は知っていた。 天界で緊急事態が起こったときだけ使われる、大出力エーテル放送。次元の壁さえもこえて、地上にいる天使の心に直接届くもの。もちろん慎一が天使になっ てからの一年では使われたことがない。 慎一の体に緊張が走った。 だが自分に言い聞かせた。関係ない。自分には関係ない。 美弥子が、どうやら慎一がついてこないことに気づいて人ごみを書き分けながら戻ってくる。 「慎一さん?」 そうだ関係ないんだ自分には、自分はもう天界から逃げたんだ、戻ることのできない身だ、居場所はここだ、美弥子さんのそばだ。 思って美弥子のほうへ向き直り、手をとろうとして、 頭の中の放送がまったくべつのものへと切り替わった。 「……よう! 偽善者メタトロンの愉快な下僕ども! 俺が今話題のたてこもり事件のテロリストだ!」 男の声だった。野性的で、どこか嘲笑するようなその声を慎一は知っていた。 かつて自分を天界で拉致した組織、あの連中のサブリーダーだ。 しかし、あの連中は壊滅したはずだ。リーダーもサブリーダーも納得して地獄いきだ。 誰かが力を貸したのか? 「どうしたの?」 美弥子の声が聞こえる。しかし意識を刺激しなかった。 頭の中に、声だけでなく映像も浮かんだ。 劇場の光景。 ステージ上、スクリーンの前にコート姿の男が銃を持って立ち、マイクを持って芝居がかったしぐさで喋る、演説する。 たしかにあの男、エロエロ団のサブリーダーだ。 「さて問題だ! お前らは今後いったいどうするべきなのか! 天界軍は戻ってきて俺らと戦えという! 馬鹿正直に従うか! それとも俺らと一緒に天界をひっくり返すか! どう思う! 劇場のみんな! すでに6ヶ所で俺たちの仲間が立ち上がった。 ここでお前たちも戦ってくれれば完璧だ! よーく考えろ! カビの生えた教えに従ってお清潔な生活したいか? 寿命もない天界で、200年、300年、エロ本一冊読めない毎日でいいのか?」 そこで男の声に「ふん、馬鹿が!」と女の声が混ざった。 慎一、背筋が凍る。 ミレイの声だ! 「ほう、勇気のある奴がいたな!? 誰だ、いま言ったのは」 頭の中の映像が流れる。映像を撮って放送しているカメラがぐるりと回っているのだ。 観客席の一番後ろ、立見席をカメラは写した。 ミレイがいた。 いつもどおりの迷彩服で、肩から白いエーテルをとめどもなく流し、隣では白と赤の巫女服をきたマユリが手を握って励まし、首筋と背中に銃を突きつけられ たミレイ。 ……ミレイさんだ。撃たれてる。 それでもミレイは気丈に背筋を伸ばし、顔を上げて、おそらく壇上にいるだろうテロ組織のリーダーをにらみつけた。 「馬鹿を馬鹿といって何が悪い」 「ミレイエル、そんなに死にたいのか?」 「ここは天界で、我々は霊だ、もう死んでいる。とくにわたしは、いまさら消えることなど恐れない」 カメラはミレイからはなれており顔は小さくしか映っていなかった。それでもミレイが自嘲の笑みをうかべるのがはっきり分かった。 「捨て鉢だなミレイエル、何かつらいことでもあったのか? 欲求不満か?」 「そうやってセクハラしかできないから、お前たちは三流テロリストなんだよ。どうせなら天界をひっくり返す本当の大騒動を起こしてみろ」 「お前の部下だったレイジのようにか? 天界軍の武装を奪って大反乱を起こそうとしたあのガキのように? なんの戦略も思想性もないあいつに、俺たちは負 けてるってのか?」 「そうだよ。考えてみれば、駄天使事件はテロ事件はあれをきっかけに増えたな。わたしがこうして撃たれてるのもわたしの責任かもしれん。……ほんとうに、 部下をそだてそこなったものだ。……責任重大だな」 慎一の背筋の冷たさが増した。 ミレイの口調は落ち着いている。 本気で殺されるつもりだ。自分の命にまったくこだわっていない。 そしてもうひとつ、慎一の心を串刺しにした事実。 それはミレイに銃を突きつけている男が、あのバスジャック犯であるということ。 天界にいってもすぐにテロリスト化? そしてそれを招いたのは、あの男がこうして天界でテロリストやってるのは。 自分のせいなのだ。 責任がある。慎一はこぶしをぎゅっと握った。 頭の中の画面ではミレイとテロリーダーが毒々しい会話を続けていた。 「……お前一人がころされてどうするつもりだ? もしかして時間かせぎのつもりか? 俺に歯向かって時間を稼ぎ、その隙に突入する。 無駄だ、突入のそぶりでも見せたら俺たちは自爆する。エーテル破砕弾でお前ら人質もろとも全滅だ。天界軍がそんな賭けをするはずがない。実戦を長年やっ てない軍隊は弱腰さ!」 「……わたしはそんなこと期待してない」 「……ほう? じゃあ、お前だけで俺たちを倒す気だとも?」 「……」 「誰か、助けに来る心当たりでも?」 挑発されたミレイ、一瞬その表情をさびしげに歪ませ、 「……ないな、それは」 「じゃあ、黙っていろ。歯向かう力も、命を懸けてくれる賛同者もいない口先だけの奴は」 テロリーダーの声に根深い嘲笑が、毒が含まれた。 そのとき慎一の耳元が声が。 「……ねえ、慎一くん」 「……え……」 振り向くと美弥子だった。心配げな表情でこちらを見ている。 「な、なんでもないよ」 「ああ、やっぱりここにいたんだ。ねえ。……なにかあったの?」 「天国で、大きな騒ぎがあって。……その」 「天国に帰ったりするの? 私を置いていくの?」 慎一、すぐに「帰らない」と答えるつもりだった。 決まっている、戻ったところで武装したテロリスト相手に何ができるのか。 だが、そのとき慎一の心を何かが締め付けた。 ミレイの、さびしげな表情が心をよぎった。 強いだけ、勇ましいだけの軍人女でないことは知っていた。本当は弱い部分もたくさんあって、部下や友人をなくした過去を何年も悔いて、でもそれを隠して 胸を張って、そんな女性だと知っていた。 だからこそ慎一にはわかった。 ミレイがテロリーダーに向けたさびしげな顔の意味が。どれほどの悲しさと怖さを感じているか。 「ねえ、慎一くん?」 すぐ耳元で美弥子が心配げに問うた。 頭の中に開いた映像では、ミレイが口を開き、 「そうだな、撃つなら撃て」 まさに捨て鉢な表情で。 その瞬間、慎一はうめいていた。 「……いかなきゃ!」 「え?」 美弥子が眼を見張る。慎一じしんも自分の口から出た言葉に驚いていた。 「どうして行くの?」 「それは……どうしてだろう?」 自問自答した。答えは決まっていた。ミレイがいま命の危険にあるからだ。あの「そうだな、助けに来る奴はいない」と言い切ったときのあの表情を見ていら れないからだ。ほんとうはミレイはそんなに強い女性じゃないと知っているからだ。自分はミレイの信頼を裏切って、あんなに悲しい顔をさせて、そして今ま た、見捨てようとしている。 「……ともだちがいるんだ」 「……大切な人? こないだ言ってた、ミレイさん」 「ああ。ミレイさんがいま大変なんだ。助けに行かなきゃ。ミレイさんに、謝るんだ」 「謝るってどういうことなの? 何を言ってるか分からない。慎一君は優秀な天使だったんでしょ?」 「嘘なんだ、美弥子さん。ぜんぶ嘘なんだ。ぼくはすごくダメな天使だったんだ。失敗ばかりで、天界からは逃げてきたんだ。ぼくは、責任取らなきゃ」 「でも、わたしにとっては関係ないことよ! ここにいて! 一緒にいてくれるって言ってたじゃない! どうして戻るの? 天国はここにあるのに。あなたを 認めてくれなかった天国なんかに。危険でつらいことの中に、どうしてもどるの!?」 慎一、言葉を失った。 頭の中に浮かぶミレイの顔を、もう自分の死を受け入れたように超然としているミレイの顔を見た。 もう片方の目では、自分のすぐ前にたつ美弥子を見た。 ショッピングモールのど真ん中で「見えない人」と喋っている。周囲の人々から奇異の眼を向けられ、それでもまったく気にせず、ただ「一緒にいて欲しい」 といってくれる。少し垂れた眼は、よくよく見ればうるんでさえいた。 決まっていた。答えは決まっていた。 「ぼくは……」 慎一、美弥子の顔を見ながら、その眼から視線をそらすことができずに、 「……ぼくは、天界に帰る」 一気に言った。 「どうして!?」 慎一、美弥子を両腕で抱きしめた。正確には、抱きしめようとした。体と体がすり抜けあった。 ありったけの思いを、送りこむ。 ……美弥子さんにあえてうれしかった。たよりにされてうれしかった。 ……でもぼくは、いくよ。 ……いままでありがとう。とっても。とってもたのしかった。いままで生きてて、こんなに楽しかったことはなかった。 迷いを押し殺し、慎一は上昇。 ショッピングモールの天井を突き抜け上の階を突き抜け、曇った空の下に出る。雪が舞い始めていた。 背中から羽根を出し、心の中で渦巻く感情を押し殺してさけぶ。 「……いでよ天界獣、ロケットツナ!」 羽根は黒々と光る巨大なマグロになった。 グロ吉が喋るより先に慎一は謝った。空中に座って、土下座する勢いで頭を下げる。 「久しぶりじゃあねぇですかい若。そいつぁいったい何のつもりで?」 「すまなかった! ごめん! ぼくが逃げたことをきみがどう思ってるか……どんなに軽蔑されてもかまわないよ でも今は……頼む! 乗せてくれ! いま行 かなきゃいけないんだ! どうしても必要なんだ!」 「……かまいやしません、乗ってくだせぇ」 「……いいの!?」 「人生なんどでもやり直しはできるってもんでさ。心根までくさっちまわない限りはね!」 慎一が背中につかまった。 次の瞬間、グロ吉は種族名にふさわしいロケット加速で天高く上昇を開始。 慎一はただ、背中に捕まって耐えていた。 さきほどまでの迷いは、もう心になかった。 ただ、どう助けるか。それだけ。 9 天界への門を突破。 「どけどけどけってんだい! 一大事でいっ! どかねえとあっしのハゴロモ殺法の餌食だぜ! そう! それでいいぜぇ! って、とおう!」 立ちふさがる何十何百の建物、何千何万の天使と天界獣を、まったく減速せずにやりすごし。 慎一とグロ吉は、テロリストがたてこもる映画館についた。 映画館の周囲は青い軍服の天界軍兵士がかためていた。100人はいるだろう。ライフルを構えて建物に狙いをつけていた。だがある程度以上は接近しようと しない。 兵士の一人が、「とまれーっ!」と叫んでグロ吉の前にたちふさがる。 急ブレーキをかけるグロ吉。慎一はこらえきれず前方にふっとんで兵士に抱きとめられる。 「いてっ!」 「ここから先は危険だ、避難命令が聞えなかったのか」 慎一は兵士の腕から脱出、精いっぱい胸をはってたち、 「……なかに……中に友達がいるんです! いかせてください!」 「バ力な、一般人に何ができる。その輪っか、最下級のデミエンジェルじゃないか」 そこにひとりの天界軍兵士がやってくる。 金髪に青い眼、さわやかな美貌の天使。頭の上で光るのは赤い輪。第7階位天使アークエンジェルのあかしだ。 彼は慎一を見て眉をひそめる。白い顔にはっきりと「嫌悪感」がうかんだ。 ミヒャエルだ。 「なんでこんなところに? 話はききましたよ。あなた大失敗をやらかして、天界から逃げたんでしょう? 罪人が何をやってるんです」 「ミレイさんを、たすけたくて」 「無理ですよ。われわれ正規の天界軍ですらどうしようもないのに」 「ちぃとばかり不思議なんですがね」 グロ吉が口をはさんだ。 「これだけの兵隊がガン首そろえていやるんだ、さっさと殴りこみかけりゃいいでしょうに」 ミヒャエルはゆううつそうな表情で答える。 「それがそうもいかないんだよ、マグロくん。連中は前回の失敗からまなんで、強力な自爆装置を用意している。劇場を中心に半径200天界メ一トル。これ以 上接近は許さない、200メートル内に入ったら即座に爆発させるそうだ。おそらく爆発物はアバドン06、人質もろとも劇場はこっぱみじんだ」 「それじゃあ、いってぇどうするつもりなんで?」 「包囲して、テロリストの疲弊を待ち、精神的プレッシャーをかけて降伏させる」 「かーっ、まだるっこしい! そんな悠長なことでいいんですかい? あん中にはケガ人もいやがるってのに」 「やむをえない」 「ミレイさんが死んでも……いや、消えてもいいっての!?」 慎一が問い詰めると、ミヒャエルは軽蔑を隠しもしない冷たい声で、 「ミレイエルさんももと天界軍なら覚悟はできてるはず」 「そんな! ミレイさんだってほんとは死にたくないはずだよ。やりたいことだってたくさん……がまんしてるだけだよ。ほかの人質とおんなじだよ、見殺しに するなんてあんまりだ」 慎一の叫びはミヒャエルのかんに触ったらしい。彼は慎一の肩をつかんで叫び返してくる。 「……えらそうにいいますけど! ではあなたには代替案があるんですか?」 「……それは……EMP弾は? 自爆装置をとめることができるかも」 ずっと昔ミレイから、強烈な妨害波を出してあらゆる天界アイテムを止めてしまう「EMP弾」のことをきいた。天界軍の装備にあったはずだ。 ミヒャエルは少し意外そうに片眉をあげる。 「……たしかにひとつの手ではあります。しかし、時間が短すぎます。効果が持続しているのはせいぜい10秒です。10秒の間に200メートルを駆け抜けて 突入、人質を傷つけず犯人を制圧……こちらも一切のアイテムを使えないのですよ?」 「う……」 慎一は言葉に詰まった。他の天界軍軍人たちも、口々にうなずく。 「そうだ。とても可能とは思えない」 「そもそも、10秒じゃ200メートル飛ぶのがやっとだ。戦ってる時間なんてない」 そのとき慎一は叫んでいた。 「スピードでしょ!? スピードがあればいいんでしょ? ぼくがやりますよ。ぼくの天界獣が!」 グロ吉がその場で高速旋回しながら叫ぶ。 「お任せくだせぇ若! 韋駄天ぶりなら負けやしねえ、なーに200メートルなんざ4秒、いや3秒で駆け抜けて見せまさあ」 ミヒャエルの目の色が変わった。他の軍人たちも感嘆の声を上げる。 「突入したあとはどうなる? 戦闘能力は?」 「あっしには先祖伝来のハゴロモ殺法がありまさぁ。それで足りなきゃ背中の天使のあんちゃんらが腕をふるうってな寸法で」 「何人、乗せられる?」 ミヒャエルが緊迫した声で問う。 「そうですなあ、あっし一人だと運べるのは3人がやっとってとこですな」 「それじゃあダメだ。同レベルの高速天界獣が、せめてあと1頭いれば」 野太い声がわりこんできた。 「おいおい、そんなときこそ俺の出番だぜ!」 巨大な黒と白の鳥が、ツバメ型天界獣が飛んできた。背中から飛び降りたのはヘルメットにサングラスの男だ。 「……誰ですか貴方?」 いぶかしげなミヒャエル。 「フッ、天界の白い稲妻と呼ばれたこの俺を知らないとは」 「ミヒャエルさんミヒャエルさん、この人あれだよ、女子更衣室の突っ込んだ人」 「ああ! 珍妙なポエムを垂れ流しながら走り屋まがいのことをやってるという、あの!」 「……お、俺はそんな風に有名なのか? まあいい。話は聞かせてもらった。スピードが必要なら俺の出番だろうが? シーチキンにだけでかい面はさせねえ」 「なんべんいやあ分かるんでい、この黒眼鏡! あっしは由緒正しい本マグロ! シーチキンとは人間とテナガザルくらいのちげぇがあるんでい」 「まあグロ吉おちついて、えーと、ガイエルさんでしたっけ」 「おうガイエルだ。久しぶりだな小僧」 ミヒャエルが、他の天界軍軍人が、熱のこもった口調でガイエルにたずねる。 「君もやってくれるか!?」 「そうですね、マッハスワローなら速度的に問題ありません」 「おう、そういうわけだシンイチよ。俺の活躍を指くわえてみてろって。スピードで天界を救った英雄ってことで一躍大スターだぜ?」 「いえ、ぼくも行きます、いいでしょう、ミヒャエルさん」 「戦闘訓練も受けてない人間は連れて行けない!」 「いいや、若には何が何でもついてってもらいやすぜ。若がのらねえ限り、あっしはうごかねぇ」 「困った奴だな……」 そのとき、劇場の中から一発の銃声が。 天界軍兵士たちの顔色がかわる。 「い、いまのは! み、み……ミレ……わからないのか! 内部の状態は分からないのか!」 「落ち着いてくださいシンイチさん。確かに時間はなさそうですね。 EMP弾で敵集団の自爆装置を停止、その間に高速天界獣2頭が突入、敵集団を制圧。いいですね、隊長?」 「問題ない」 ミヒャエルはすぐに人選を決め始めた。「きみはグロ吉に乗ってください」「ツバメのほうに」と割り振っていく。 最後に残ったシンイチに向かってミヒャエルは言う。 「……足手まといにならないでくださいね? 現場で泣かれても助けられません」 「なるもんか。泣くくらいなら、戻ってこない」 「ふん、どうだか」 一時期とは打って変わって、ミヒャエルは完全に軽蔑のまなざしをむけてくる。 ……でも仕方ないんだ。ぼくは逃げたから。 ひっくりかえしてやる。自分の力でひっくりかえしてやる。 そしてミレイさんにちゃんと謝るんだ。 もしできたら、ぼくは。 少しだけマシな天使になれそうな気がする。 「何をしている! 早く!」 尻を蹴り飛ばされた。慎一はグロ吉にまたがる。 「作戦開始!」 ツバメの後ろのほうに登場したミヒャエルが叫ぶ。 ボスッという気の抜けた爆発音。閃光が周囲を包んだ。 EMPが発生した。 グロ吉は、ツバメは、背中に天使を満載したまま突進! 慎一にとってすべては一瞬だった。 いきつくひまもなく、猛烈な加速に耐えてしがみつくのがやっとで言葉を発することもできず、気がついたらもう目の前に劇場の入り口があって、入り口のド アに頭からグロ吉がつっこんで破片をまきちらし、「うわあ!」と叫んで首をすくめる慎一、首筋や後頭部に破片のぶつかる感覚、「ぐえ!」という誰のものか わからない叫びが慎一の耳に飛び込んできた。ドア突入のあおりでふっとんだ奴がいたのだ。そのままグロ吉は減速せず劇場内を飛ぶ。 壁に激突寸前まで接近、体をかベのポスターにこすりつけるようにして急夕ーン。 廊下の先ではテロリストがあわてて銃を構えてこちらに向けた。だが銃声はしない。まだEMP弾の効力がすべての天界アイテムを強制停止させているのだ。 テロリストの顔が驚愕に引きつって慎一の視界の中でどんどん大きくなって、 「どきやがれってんでいっ!」 グロ吉が怒声を張り上げて体当たり。紙細工のように吹き飛んでいくテロリスト。ついでに慎一の前にしがみついていた天界軍兵士までふりおとされた。 「ぐげぇ!」 「ちょっ、ちょっとグロ吉あらっぽ、はみゅら!」 文句をいおうとした慎一、舌をかんでしまった。 パンフレット売り場やジュースの自販機がならぶ場所を突っ切り、人質がいる「シアター3」入り口に到達、劇場の入り口を固めていたテロリストたちに体当 たり! 「ぐべえ」とみじめなうめきをあげるテロリストたち。そのままグロ吉はシアターの入り口扉をつきやぶって内部に侵入。 だがしかし、扉の向こうの暗い空間へと抜けたその瞬間。 左右から剣がつきこまれた。 非常灯の赤い光を反射した刃が、1本2本3本! グロ吉の胴体側面に。目玉につきささった。 ドアを開ける瞬間スピードが遅くなる、その隙をつかれたのだ。 「ぐ……っ!」 グロ吉の全身が痙攣。 「グっ、グロ吉ィ!」 とっさに起き上がって剣を引き抜こうとする慎一。 「若! あぶねえ!」 重傷を負ったはずのグロ吉が絶叫。 え、と思ってとびのいたその瞬間、テロリストの剣が首筋を掠めた。 「うわぁ!」 誰か助けて、と思ってあたりを見まわす慎一。 グロ吉に乗って一緒に突入した天界軍兵士二人はすでにグロ吉の体から離れ、剣を抜いてテロリストたちとわたりあっていた。床からジャンプして観客の頭の 上、さらに跳んでシアターの天井に移動、そのあいだも剣を振るいつづけ、ふたりのテロリストにはさまれてしまい肩口に剣の一撃をうけ、「グゥッ」とうめい たかれはひるまずに突撃してテロリストの腹に蹴りを叩き込む。もうひとりも同じ状況だった。 人数に勝るテロリストと切り結ぶのがやっとで、突破できな い。シアターの一番前、壇上には先ほど放送で見たあの男、テロリストのリーダーがこちらをにらんで嘲笑を浮かべているというのに。 おそらくリーダーのすぐ隣においてある円筒形の機械が自爆装置だろう。 たどりつけない! たった10メートルかそこらの距離をつめることができない。 慎一を助けられる人間など誰もいない! 自力でなんとか逃げ回りながら、「どうして3人だけなんだ? どうして増援こないんだ? ツバメに乗った残り3人はどこに?」と頭の中で疑問が炸裂。も う3人来てくれればだいぶ状況はかわるはずなのだ。 シアターのべつの扉がやっと開いた。向こうからツバメが突入してくる。背中で手綱を握るガイエルが白ヘルメットをきらめかせて飛び降り、残る二人も抜刀 して手近のテロリストに切りかかる。とくにミヒャエルはただ一刀でテロリストを切り倒し背後から飛びかかってきた男の顔面にブーツで蹴りを撃ちこんで大変 な活躍だ。 やった、これで数は互角になった。 なんとかリーダーを倒せれば…… と、そこまで考えたとき、わき腹を激痛が貫いた。 痛みで体が硬直。うめく以外なにもできない。 剣で刺された、と気づいたが反撃の気力がない。 慎一を刺したテロリストは顔を近づけ、ささやいた。 「さて坊主、あんたの戦いは終わりだ」 最後まで望みをすてる気はなかった。足手まといにはなりたくない。 殴りかかろうとした。だがわき腹に突きこまれた剣が痛みをまき散らす。 「無駄だよ、素人」 テロリストの嘲笑が耳元で弾ける。 まだだ、ぼくがやられても他の連中がきっとやってくれる。 しかし慎一は見た。壇上に立つリーダーが、使えないはずの銃を天井に向けて発射、銃声がとどろく。 「タイムアップだ! 残念だったなあ!」 10秒たってしまったのだ。もうEMP弾の効果は切れた。 天界軍兵士が腰の拳銃を抜いて剣に持ち変えよう、とするよりも先にリーダーの持つライフルが連続して火を噴いた。天界軍兵士が一人、また一人とのけぞっ て吹き飛ぶ。もみあっていた味方、テロリスト側まで巻きぞえにして撃った。 最後に残ったのはミヒャエルだった。彼はリーダーが銃を射撃を開始したのを見るやすぐに天井を蹴って急降下、客席に飛びこんだ。人と人の間を縫って壇上 へと迫る。テロリストたちは彼を撃たない。観客が邪魔で撃てないのだ。ついに客席のはじまで走ってミヒャエルは壇上に飛び上がり、拳銃を両手で構えてリー ダーに向ける。 しかしリーダーがライフルが一瞬早かった。銃を取り落として吹き飛び壁に叩きつけられるミヒャエル。 腹の傷から吹き出す白いエーテルをものともせず、ミヒャエルはふたたび立ち上がる。空中を漂う拳銃を手につかんだ。 10メートル以上はなれた慎一にも、ミヒャエルの表情がよくわかった。歯をくいしばり、唇をぎゅっと結んで敵をにらみつけている。まだ闘志十分だ。 そのときリーダーが叫ぶ。 「動くな! こいつを爆発させるぞ!」 軽く自爆装置を叩く。 ミヒャエルの動きが止まった。 「武器を捨てろ! お前らもだ! 全員だ!」 シアターのあちこちで、ああ、ふう、というため息が連続して上がる。 ミヒャエルが、他の天界軍兵士が、武器を捨てる。背中の翼も取り上げられた。 もちろん慎一も。翼を奪われた姿で、他の天界軍兵士と一緒に並ばされた。 場所は壇上だ。 左右から銃を向けられているので何もできない。 リーダーが日焼けした顔に薄ら笑いを浮かべ、慎一たち突入部隊を面々をひとりひとり見渡して、 「人質をふやしてくれてありがとうよ。礼をいうよ」 慎一はリーダーの顔などほとんど見ることができなかった。自分に向けられている銃口が怖かった。しかしそれでも勇気を振り絞って言った。 「リーダーさん。タキトさんでしたか?」 「なんだ?」 「人質の手当てをしてください。ミヒャエルさんと、ミレイさんとか。とくにミヒャエルさんは……」 ちらりと、同じ列のミヒャエルを見る。ミヒャエルは脂汗をびっちり顔に浮かべ、ふらふらと立っていた。腹からは白い煙のようなエーテルが漏れ続けてい る。「出血が止まらない」状態だ。このままだと長くはもたないだろう。 「やなこった。どうして人質を助けなきゃならねえんだ」 「革命するんでしょ? 正義なんでしょ?」 「挑発してくれるじゃないか。いちばんの役立たずだった癖によ。まあいい、応急処置くらいはしてやる。妙なことしたら即座にぶっ殺すからな?」 脅すときだけ慎一を真剣ににらみつけた。 「ありがとう、シンイチさん」 治療を受けながらミヒャエルが言う。 「いや……せめてこのくらいは」 慎一は頭を下げる。実際、「自分がちゃんと戦っていれば多少はマシだったのでは?」という思いがある。観客のほうを見るのが恐ろしい。 その怯えをリーダーに見破られたらしい。 「おい。なにそっぽ向いてんだ能無しくん? ちゃーんと観客見ろよ、お前が助けられなかった観客をよ! ほれ」 「う……」 強引を首をつかまれ、観客席のほうへ向かされる。 慎一は観客席を見下ろした。 600人の客は全員がこわばった表情で、恐怖と失望の表情で、一言も発さずおとなしく椅子に納まっていた。 慎一はなんとなく自分が責められているような気になった。 そうだ、ぼくはのこのこついてきたけど何もできなかった。 このままじゃいけないんだ。 なにか手はないか。 こいつらを倒す方法。すべての武器、天界アイテムをおさめた翼も奪われた状態でそんなことが? 無理に決まってる。だが、なにがなんでもやらなければ。 もし自爆させてしまったら。ミレイさんミヒャエルを死なせたら。それだけは嫌だと思ったから、ぼくはここに来た。美弥子さんとの生活を捨てて、来た。 あきらめるなら来た意味はない。 なにか、必ずあるはずだ、あいつらの隙をつけば…… そのとき、慎一の心にある言葉がうかんだ。 ……こいつらはなんと名乗っていた? 真の人間性がどうたら? いやそっちじゃない。もともとの名前だ。天界エロエロ団。 そうだこいつらは天界のエロ規制に反対しているんだ。街にエロ本をあふれさせるためなら命だってかけていいって連中だ。 それなら方法はある。 でも、他の人質が乗ってくれるか? ミレイさんに期待をかけるしかない。 あんな大切なときにミスをして逃げ出したぼくのことを考えてくれるだろうか? わざわざぼくなんかの考えを読み取ってくれるだろうか? ……やるしか、ないんだ。 慎一は背筋を伸ばした。ぎゅっと握った手の広に汗がにじんでいるのは傷の痛みのせいばかりではなかった。 「……リーダー。タキトさん」 「なんだ、役立たず」 「タキトさんはエロのために戦ってるんでしょ? 女のひとの裸とか見るために」 「そうだ。お前だって苦しくはないか? 天界にいる以上ずっと禁欲だ。耐えられるか? フフン、もっともいまさら俺たちに共鳴しても手遅れだがな」 「別に苦しくないよ。だってぼく、ふだんからエロいことやり放題だもん」 リーダーの表情が凍りついた。 「なん……だと?」 「あのミレイさんがものすっごいスケべでね」慎一は勢いよくミレイを指差し、 「とにかくことあるごとにぼくをエッチに誘うんだ」 リーダーは明らかに半信半疑のようすで慎一とミレイを交互に見る。 「バ力な、ありえない。姦淫は七つの大罪だ。天使がそんなことしたらただじゃ済まないはずだ」 「うん、だから秘密なんだけどね。でもどうせ殺されちゃうんだから全部バラすよ。ミレイさんはすごかったよ。二人っきりになったらかならずぼくにすりよっ てきてね、ぼくにキスして、舌までいれてきて、ぼくのズボンのなかに手をいれてきてね、耳元であまーくあまーく『いいんだぞ、声をだしても?』っていいな がら股間をぐりぐり、ぐりぐりって……ね、ミレイさん?」 慎一は心からの祈りをこめてミレイを見つめた。伝わってくれ! どうか伝わってくれ! ミレイと眼があった。 ミレイは笑いをこらえていた。その眼だけは期待に輝いていた。 フフン、とわざとらしく笑ってミレイは、いたぶるような口調で喋りだす。 「タキト、かれの言うとおりだ。私は彼にいろんなことをさせていた。どうにも我慢がならなくてね。××を××したり」 「そうそう、××なんて××しちゃったり」 となりのマユリも普段どおりの間延びした口調で、 「そうなんですよー。最初はないしょにしてたんですけど途中からわたしもくわわることになっちゃいましてー。『えーい袴プレイだ!』『行灯袴は脱がしやす くていい!』とか言っちゃいまして……わたし、もうおよめにいけないですよー」 眼を丸くするタキト。静まり返るテロリストたち。人質たち。 そこで慎一は追い討ち。 あらんかぎりの想像力で、ありもしないエロ話を語った。 ミレイと慎一とマユリがどんなにただれた毎日を送ってきたか、語って語って語りまくって。 いつしかテロリストたちは身じろぎもせずに慎一の話に聞き入って。 大きな隙ができたそのとき、 「動くな!」 ミヒャエルがリーダーを後ろからはがいじめにして叫ぶ。 いつのまにやら背後にしのびよっていたのだ。 「なにっ」 ほかのテロリストたちがかけよるが、そのときにはミヒャエルの手にはすでに拳銃があった。リーダーの側頭部に銃口がつきつけられる。 「さあ、降伏しろ、さもないとリーダーを射殺する」 リーダーは眼をむいて、ミヒャエルの腕の中から脱出しようとあがく。 「射殺するといってるだろう」 負傷しているとはとても思えない力のある声でミヒャエルがすごむ。 「だからどうした、俺を殺してみろ、自爆装置で道連れだ」 「できないね」 せせら笑うようにミヒャエルが。 「そうだ、できるはずがない」 ミレイがにやついたまま言う。 「うん、この人たちには自爆なんかできない」 慎一も言いきった。 「なにをバ力な! おれたちはやるぞ、本気だぞ!」 そう叫ぶリーダーの声には明らかな焦りがあった。 慎一はリーダーを真正面から見つめ、たたきつけるように叫ぶ。 「ほんとに死ぬ覚悟のある人が、ぼくたちのエロ話でハアハアするはずがないよ! 君たちは自爆なんかできない!」 リーダーは呆然とした。そして、大げさにヤケクソ気味に笑いだした。 「ククク……ハハハッ、ハハハハッ! そうだよ、俺たちの負けだよッ。……俺たちは誇り高い革命家だったはずなんだけどな……」 「おまえたちは自分の性欲に負けたんだ。いや、こいつのエロ妄想力に負けたんだ」 「ミレイさん、なんかそれぜんぜんほめてないよ……」 10 「若、このあたりでいいんですかい?」 慎一とミレイは包帯グルグル巻きのグロ吉に乗って、街の上空を跳んでいた。 「うん、あれ。もうすこし高度さげて」 「がってん承知!」 商店街に降下する。高度20メートルほどで止まる。 「ここでいい。……美也子さん……」 ちょうど真下に美也子がいた。 制服のブレザーを着て、クラスメートの女子ふたりといっしょに、楽しくおしゃべりしながら下校の途中だ。 ふっくらした頬には明るい笑み。「お願いいかないで」と慎一に頼んだときとは別人だ。 あのあと、美弥子は記憶消去の処置を受けた。慎一が天使になって戻ってきたことを忘れた。それと並行して優秀な奉仕天使たちによる救済作業が行われ、美 也子は再びクラスの人気者になった。 いまの美也子をみたら胸がいたむんじゃないか。そう思っていた。 だが実際にわき起こったのは、やわらかな安心だけ。 「……これでよかったんだ。……これで……」 後ろに座るミレイが鋭い口調で、 「ホッとしてる場合じゃないぞ慎一。自分の立場がわかってるんだろうな?」 そう言われると慎一は一気に気が重くなった。 「……わかってますよ……これから地獄いきでしょ?」 「そうだ」 テロリスト退治に協力した慎一。だが多少の功績があっても数々の罪状を帳消しにはできなかった。天使の資格を剥奪された上で地獄送りが決まっている。最 後の猶予時間をつかって地上にきている。 ……これでよかった。最後に美也子さんを見ることもできたから。 そう自分にいいきかせてはみるが、やはり地獄は恐ろしい。研修所で教えられた「地獄で受ける刑罰の数々」が脳内を行進する。 学校の勉強でもヒイヒイ言っていた自分が、地上の刑務所より厳しいという地獄暮らしに耐えられるだろうか……耐えて耐えぬいて、出てきたあと幸せになれ る保証もないのに? そのとき慎一の肩をポンとミレイがたたいた。 ふりむいた慎一。ミレイがレンズの向こうの青い瞳に、なにかをいたぶるときのような喜びがあるのに気づいて驚く。 「え? なにミレイさん……」 いじめっこの微笑みを浮かべたままミレイは、 「ところで、きみはわたしにいろいろと欲情してるらしいなあ? ×XをXXしたいとか、××に×Xしたいとか、服の上からを股間を……毎日二人っきりに なったらかならずやりたいんだよな? あれはきみの願望だよな? なるほどなー、わたしはそんな眼で見られていたのか、なるほどなー」 「いやっ、でもそれはっ。仕方なくて! テロリストたちの気をそらすためには仕方なくて!」 「テロリストがじゅるじゅるとよだれをたらす、迫真のエロ話だったぞ?」 「だからそれは!」 そこでミレイはいたぶるような笑みを消しておどけた調子で、 「あとでたっぷりきかせてもらおう。 ……だから、かならず帰って来いよ!」 慎一、一瞬きょとんとして、ミレイに負けず劣らずのあけっぴろげな笑顔をつくって、 「はいっ!」 だめてん おわり |