ナイフに捧げろ 第1稿

 1

 ぼ くが中学に入ってから七ヶ月。奴らの暴力は激しくなるばかりだった。その日、ついにぼくは便所に引きずりこまれて、個室の便器を舐めさせられた。「もうお 金は出せない」と言ったらこうなった。イジメっ子たちの笑い声が頭の上でゲラゲラ響いていた。女の子の声もした。男子便所までわざわざ来て、ぼくをあざ 笑った。「ウソ、信じらんねえ。きったねー。なんでお前生きてんの?」ぼくはなにも抵抗できなかった。いつもように、涙をあふれさせながら命令に従った。
 だから、その日も、ナイフを見に行った。
 放課後、壊されてガムテープで直したカバンを肩に下げて、中学の校門を出た。
 小さい体を猫背にして、住宅地をトボトボ歩く。ぼくは歩くスピードが遅い。ブレザー姿の男子生徒たちが次々と追い抜いていく。中間テストが終わったからだろうか、みんな明るい顔で、楽しそうに友達と話している。彼女連れもいる。
 ぼくだけが一人だ。もう慣れて、悲しくなんてないはずなのに、ぼく以外の人間がどんなに楽しくてもぼくの世界には関係ないはずなのに、会話がどうしても 耳から侵入してきて、涙がこぼれてきた。鼻水をハンカチで拭こうとして間に合わず、首のマフラーを汚してしまった。情けなくて、ますます涙が出る。
 住宅地を抜けて、国道を渡って商店街に入る。
 カマボコ型アーケードで覆われた商店街はさびれていた。道路はタイルが貼られているけど、何ヶ所か剥がれて直されていない。しかもガムが汚らしくこびり ついていた。道の左右には店が並んでいるけど、半分くらいはシャッターを閉ざしている。シャッターには赤錆が浮いている。
 小さな本屋の前を通り過ぎた。エプロンをつけた中年男が出てきた。店主だ。ぼくと目が合う。店主は顔を不快そうに歪める。嫌がられる理由は、こないだ学 校の奴らに脅されてこの店でジャンプコミックスを一冊盗んだからだ。でも本当に悪いのはぼくじゃないのに。なんでそんな目で見るんだ。
 顔をそむけ、うつむいて、路面のタイルだけ見て歩いた。
 誰かに突き飛ばされて転んだ。髪を短くした若いサラリーマンが、刺すような目つきで見下ろしていた。
「どけよ、急いでんだよ」
 頭のなかで反論の言葉が生まれる。そっちからぶつかってきたじゃないか。でも口には出せない。体が硬直して「殴られモード」になっていた。蚊の泣くような声で「ごめんなさい」と言った。サラリーマンはぼくの言葉を聞きもせず、足早に去っていった。
 立ち上がる。別のサラリーマンに「邪魔だよ」という目で見られた。買い物袋からネギが飛び出してるおばさんが、「なにあんた?」という不審そうな目でぼ くの体を眺め回した。ジャージ姿でラケットをもった中学生の集団が、ぼくのことを見て眉間にしわを寄せた。「うぜー」「汚いものを見た」といわんばかりの 目だ。建設中のビルがあって、ビルの前で警備員の爺さんが立っている。警備員まで、ぼくをにらんだような気がした。
 この町は敵意に満ちている。
 だからぼくは、たったひとつ安らぎのある場所へと急いだ。
 商店街の中ほどにあるナイフ店。文房具屋のチェーン店と、小さな酒屋に挟まれた店だ。曇りガラスのドアに、こう書かれている。
『ナイフ専門店 ミヤサカ』
 この店を見つけたのは一ヶ月前。それ以来、ずっと下校のときに立ち寄っている。
 ぼくは通学カバンが店内でぶつからないよう、前に抱えた。ドアを開けて、薄暗い店内に入った。
 店の中は十畳ほどしかない。でも数百のナイフがあった。ドアを開けてすぐ目に入るのは、奥の壁にある大きな額縁。額縁の中には、子供の腕ほどもある湾曲 したナイフが鈍く光っている。この店で一番の大物、「ククリ」というインドのナイフだ。先端に行くにしたがって幅広で、怪物の舌のようだ。柄には泥色に染 まったタコ糸が巻かれている。質素な木の鞘が、すぐそばに並んでいる。
 店に入るたび、ぼくはこの巨大なナイフを見て、震える。
 今回も震えた。カバンをぎゅっと抱きしめた。掌が汗ばんだ。緊張と興奮で心臓の鼓動が早くなった。このククリには凶悪な魅力がある。無骨で重量感たっぷ りな、まさに人斬りのための刃物だから。直感的に「これは人間の血を吸ってる」と感じる。ずっと見つめていると頭の一番奥がツンと痺れたようになって、と ても心地いい。
 たっぷり五分はククリの魅力に酔って、ぼくはようやく視線を外した。
 ククリの額だけでなく、店の四方の壁には額がびっちり取り付けられている。みんな中にはナイフが飾られている。
 目線を下ろすと、今度はショーケースが目に入る。三列のショーケースの中はビロードが引かれている。ビロードの上にも同じようにナイフが並べられている。
 ぼくはカバンを前に抱きかかえたまま、ショーケースをひとつひとつ覗きこんで回った。
 メーカーごとに分けられている。
 刃にはギザギザが刻まれ迷彩色が施された、スパイダルコのタクティカルナイフ。
 隣には張り合うように、米軍御用達・カミラスのタクティカルナイフ。シンプルな形だけど、ハンドル部分には大きなゴツゴツした節があって、いかにもマッチョな印象だ。
 そっけ無いプラスチックのブラックハンドルと、両刃の極太刀身をもった「人を刺す専用」、ガーバーのマーク2。
 ハンドルは鹿角(スタッグ)で作られ、鍔の部分が黄金で、刀身には「輝く十字の紋章」。ドイツのヒューバーツ・ナイフはまるでファンタジーの聖剣だ。
 ダマスカス鋼で有名なメーカー、ハットリのナイフもあった。大きさ順に並んでいる。いちばん大きい「雅」は黒檀のハンドルがつややかに光り、ブレード全 体に走る数十本の波紋が虹色に輝き、息を呑むほどに美しい。 ぼくが好む大型ナイフは全体の半分ほどで、あとは掌サイズの小型だ。レザーマン・ツールの多 用途ナイフが、コルク抜きや鋏などを展開した状態で置いてある。S字を緩やかにしたような優美な曲線を描いた、ラギオールのポケットナイフもある。
 ひとつナイフを見るたびに、手に取ったときの感触を、重量をイメージした。そして手にしたまま、誰かを突き刺すことをイメージした。鍔がないと自分の手 が切れるけど、鍔があるナイフは思いのほか少ない。やはりマーク2が最強だろう。頑丈な鍔で、全体重をかけても受け止めてくれそうだ。刃が相手の肉体、腹 に突き刺さる感触ってどんなものだろうか。噴き出した血が、きっとぼくの体も真っ赤に染めるだろう。血は熱いのだろうか。
 などと考えながら、じっくりと、なめるようにナイフ群を見ていた。ぼくはこの店でなら何時間でも過ごせる。
「お客さん……」
 小さな声がした。年老いた男の声だ。
 我にかえって顔を上げ、声のしたほうを見る。
 すぐ目の前にレジカウンターが見えた。年代物のレジカウンター。ツヤツヤ光るボタンの機械式レジスターだ。ぼくはちょうどレジの前に来ていたのだ。
 レジの向こうには黒いセーター姿の老人が座っていた。頭髪は真っ白く、顔は深いしわに覆われている。かなりの年配だ。この店の店主なんだろう。レジに座っているのは常にこの人だ。
「あ、はい……」
 ぼくは店主の呼びかけに答えた。震えて弱々しい声しか出なかった。知らない人相手にはうまくしゃべれないのだ。目線を合わせようとしたけど、やっぱり怖いので一瞬だけ合わせてまた下を向いた。
「このところ毎日来ていますね。なにかお気に入りでも? お出ししましょうか?」
「あ、いや、その……」
 ついに言われた。どう答えよう。たしかにケースを開けてもらえるなら最高だ。手にとってみたい。ハンドルはどんな感触なんだろう。鹿角のハンドルは手に 吸い付いてくるというのは本当だろうか。大型ナイフって重いんだろうか。包丁とは違うんだろうな。振ったときに手が滑ったりしないのかな。ダマスカス鋼の 虹色に輝く波紋を、ほお擦りするほどの距離で見てみたい。
 頭の中に渦巻く気持ちを押さえこんで、答えた。
「その……とくに……ないです……」
「そうですか」
 店主の声は不審そうだ。
 そうだろうな。中学生が毎日ナイフ屋に来て、すべてのナイフを穴が開くほど見て、『特に欲しいナイフはない』という。怪しい。誰も信じない。
 でも、買えない。
 お金がないんだ。お母さんからもらってる月に三千円は、いつも学校の奴らに取られるから。もっともってこいと殴られるので、親の財布から抜いた。すると親は財布を隠してしまって、もうどこにお金があるのか分からない。全財産はたった815円だ。
 欲しいのに。
 極太のブレードのナイフを持っていたらどんなに安心だろう。そして、毎日夢想しているように、あいつらに逆襲してやるんだ。ナイフを出せばあいつらだって恐がるだろう。突きつけてやる。手足を少しくらい切ってもいい。いざとなったら刺してやる。
 でも……お金がない。買えない。
 だから毎日毎日、ぼくはこの店で見ているだけ。
 すると老店主は、懐かしいものでも見るように目を細めて、小さくうなずいた。そして言った。
「お客さん。もしかして、憎い相手がいるのではありませんか。ナイフを買って、憎い相手を刺したい。恨みを晴らしたい。そういう顔です」
「え……」
 まさに言い当てられた。ぼくは抱きしめていたカバンを落とす。顔を上げて店主を見た。店主は細い目を見開いてぼくを見つめていた。シワに覆われてたるんだ顔の中で、目だけが生気と意志力をたたえて鋭く光っていた。
 否定しなきゃ。
 そう思ったけど、寒気に震える体が、勝手に答えてしまっていた。だって恐かったんだ。逆らえなかったんだ。
「はい……そう……です」
 悪い予感がする。頭の中に最悪の想像がフラッシュ。犯罪傾向、殺人願望があると思われてしまう。もちろんナイフは売ってもらえないし、学校や親にも連絡される。どうしよう。
 しかし店主は、にっこり微笑んだ。
「やはり。お客さんにぴったりのナイフがあります」
 笑って、レジの下から小さいものを取り出した。
 掌を広げたくらいの長さの、一振りのナイフ。
 ハンドルはツヤツヤに磨かれた白い木材。鞘は皮製で、こちらも白い。鞘には文字がびっちり。人文字というのか、『踊る人形』って言えばいいのか、人間を象ったような文字がたくさん縫い取られている。
 ぼくは知っていた。これはラップランドナイフだ。
 北欧フィンランドで、何百年も昔から使われてきた「狩りの友」。
「これが、なにか……?」
 ぼくがたずねる。
 店主は、ラップランドナイフを掌に載せたまま、静かな口調で解説を始めた。
「これは、ただのナイフではありません。言ってみれば呪いのナイフです。このナイフに血と肉を捧げれば、望みの相手に災いをもたらすことができます」
 ぼくは口をポカンと半開きにした。次の瞬間、馬鹿にされたと気づいた。
「……からかわないでください……」
 ぼくには珍しく、怒りをこめてにらんだ。
 すると店主は、ナイフを鞘から抜く。
「お客様、失礼。……捧げる!」
 叫ぶと、自分の手の甲を切った。
 鮮やかな赤い血があふれ出す。ナイフが閃光を発した。 
 ぼくの頭の中で痛みが爆発した。頭を締めつけられる痛み。いままで風邪のときに味わった痛みの何百倍。ぼくは頭を両手で抱えた。痛みはどんどん激しく なっていく。割れる。頭が割れるよ。全身がわなないた。体中に汗が吹き出た。目の前が暗くなっていった。その場に座りこんでしまった。
「ああっ……ぐうっ……」
 店主の声が聞こえた。
「もういいぞ、とめろ」
 すると、頭痛がウソのように消滅した。
「あ……いまのは……」
 額の汗を袖でぬぐって、店主を見上げながら問いかける。でも訊くまでもなかった。
 呪いだ。このナイフの力は本物なんだ。
 店主は胸ポケットからハンカチを出し、傷ついた手に巻いた。血はどんどんにじんでくる。痛いはずなのに微笑を浮かべたまま、深々と頭を下げる。
「お客様に対し、たいへん失礼しました。これが呪いです。使い方は簡単。『捧げる』と言いながら、このナイフで自分を切り裂くのです。そのとき、対象のこ とを思い浮かべればよいのです。捧げた血と肉の量が多ければ多いほど、巨大な災いをもたらすことができます。災いの種類はコントロールできません。このナ イフが自分で決めます。ただし、いまやったように、呪いを途中で止めることはできます。嫌がりますがね」
 そう言って店主はナイフを持って、ぼくの目の前に示してくれた。血に濡れたブレードが明滅し、ナイフ全体が、目で見てはっきり分かるほど振動していた。
『おぉぉぉぉん、おぉぉん……』
 甲高い奇妙な音がナイフから発されていた。ナイフの鳴き声? 悲鳴ってことか?
「どうですか、この商品は」
 ぼくは即座に答えた。
「欲しい! ……でも、値段は?」
「いいのです、金銭など。このナイフを大切にしてください。よく磨いて、研いで、そしてたっぷり餌をあげてください。それだけでよいのです」
 そこで店主は笑顔を消した。眉間に深いシワを寄せ、目を細め、鋭い眼光でぼくを見つめてきた。口元は引き締められている。
「……約束していただけるのなら、お譲りしましょう」
 ぼくは立ち上がった。店主の険しい顔を見つめ返した。
「もちろん! 大切にするよ」
 全身が熱かった。思わず手を突き出して握手を求めた。

 2

 ナイフを受け取った。
 ぼくはすぐ家に帰った。夕暮れの商店街を走って抜け、そのあと住宅地も走る。ぼくは体力がないし、運動するのが大の苦手で、滅多に走ったりしない。体をカバンの側に傾けて、顔を伏せてトボトボ歩く。普段はいつもそう。
 今だけは違った。カバンを脇に抱えて、走った。走った。足首が悲鳴を上げても、口の中がベトベトになってゼエゼエと激しい息をして顎を突き出して、それでも足を振り上げて走り、走り……
 家についた。
 小さな一戸建てで、ぼくは小さい頃からこの家に住んでいる。
 ドアには鍵がかかっていた。父さんも母さんもまだ仕事なのだ。
 鍵をポケットから出してドアを開ける。ただいまは言わない。息が上がって言えない。無言でドアを開け、靴を脱ぎ散らかして、自分の部屋とに通じる階段を駆け登る。ぼくに声をかけてくる人もいない。やっぱり父さん母さんは帰っていない。
 自分の部屋に飛び込んだ。
 そのとたん、ハアッと大きく吐息する。ドアにもたれかかってずり落ちた。
 部屋の中は薄暗い。小学生の頃からずっと使っている勉強机が置かれている。パソコンを買って欲しいと何度も頼んでいるのにまだ買ってもらえない。だから 14インチの小さいテレビと、ゲーム機しかない。本箱だけは立派だけど、並んでいるのは面白くもない図鑑とか児童文学とか。母さんが、ぼくの好きな本を買 わせてくれないんだ。
 しばらくしゃがみこんだ姿勢のまま、呼吸が落ち着くのを待つ。椅子に腰掛けた。
 なんで全速力で走ってきたのか。
 もちろん、一刻も早く、ナイフを試したかった。
 救急箱が必要だろうか。
 いや、そんなに深く切るつもりはない。
 机にあるティッシュの箱、これひとつで十分だろう。
 ポケットからラップランドナイフを取り出す。
 左腕の袖をまくった。机の上に腕を置いた。
 ぜんぜん日焼けしていない、体毛も生えていない、細い腕。腕の筋を挟むような形で、二本の青い静脈が浮いている。男らしくないと、いつもみんなにバカにされる。 
 頭の中に、イジメっ子たちの顔を思い浮かべる。
 ぼくをイジメているのは主に三人。
 体がでっかくて四角い顔の、越智田。ゲジゲジ眉毛をヒョコヒョコ動かしてぼくを笑う奴。太い腕で首を締め上げられたときの恐怖は忘れない。
 細くて眼鏡をかけた、目つきの悪い男子。市ヶ谷。暴力は振るわないけど、ぼくの教科書を破ったり、弁当を捨てたり、牛乳をかけたりするのは必ずこいつだ。越智田のご機嫌ばかり取っている。
 そしてその二人にくっついている女、高村エリ。校則をまったく無視した茶髪にどぎついソバージュまでかけて、細いつり目と、大きな口をあけて下品に笑う姿。
 思い出すだけでムカムカしてきた。
 まずは、越智田から。
 克明に越智田の顔をイメージする。それだけで吐き気がした。こらえる。深呼吸。さあいくぞ。
「……ささげる」
 小声でつぶやいて、左手首に刃を当てた。
 引いた。
 ジリッ。
 痛みが一瞬、手首で弾けた。
 刃がわずかに、白い光を放った。
 刃を放すと光は消えた。痛みは弱くなった。「かゆみ」というレベルになった。刃でなぞったところに赤い血の線ができている。でも、それ以上は流れ出さない。
 やっぱり。
 昔、自殺について調べたとき、リストカットで死ぬのは難しいと知った。手首の動脈は奥深いところにあって、なかなか切れない。それこそ手首を落とすくらいの切り方をしないと。
 刃がうなりはじめた。
『きぃぃぃん……きぃぃぃん……』
 金属を立てる。不満を訴えているのだ。
『きぃぃぃん……きぃぃぃん……もっと……もっと……きぃぃぃん……もっと』
 刃の立てる金属音に、人の言葉が混じった。
「え? 喋れるの?」
 驚いて、ナイフを持ち上げ、目の前にかざして見る。
『きぃぃぃん……もっと……もっと……』
 ナイフの発する声はだんだん大きく、だんだん明瞭になってきた。震えも激しい。
「わかったよ」
 ちょっと手首を切ったくらいでは足りないんだな。
 ぼくは、何度も手首に切りつけた。
「捧げる。捧げる。捧げる」
 そのたびに痛みが走る。赤い線が五本十本と生まれた。
『きぃぃん……きぃぃん……もっと……もっと』
「え? もっと?」
 血の量が足りないのだろうか。たしかに血はにじんでいるだけだ。
 ええい。じゃあ、こうだ。
「捧げる!」
 ぼくは左手でナイフを思い切りつかんだ。握りしめた。
 手首とは比較にならない鋭い痛み。皮膚が裂け、筋肉の繊維にブチブチと刃が入っていくのが、はっきり伝わってくる。ゴリッと音がした。骨にまで食いこんだのだ。全身に汗が噴きだした。
「ぐうっ……」
 思わずうめき声をもらした。手を開こうとしたら、それだけで痛さが倍増した。腕全体が痙攣する。なんとか手を開いた。掌は、あふれる血で真っ赤だ。血は掌から流れ出して腕をつたってゆく。机の上にもこぼれていく。
「これでいいの……?」
 そして掌に食いこんだナイフは、まぶしく白く発光していた。
 もう、音は出していない。
 ぼくはナイフを引き抜いて、また目の前にかざして問いかけた。
 ナイフはもう声を出さない。ただ、答えるように白い輝きが脈動した。

 3

 次の日の朝、ぼくは右肩にカバンをかけて、学校の廊下を歩く。
 廊下を歩く生徒たちが、ぼくを追い越していく。
 あのあと、ぼくは手の傷がひどく痛くて、眠れなかった。
 だから今もフラフラだ。母さんには「そのケガどうしたの?」って変な目で見られた。
 だけど。痛みなんてなんでもない。
 呪いが本物だったら。ぼくの苦しみは終わるんだ。
 そう思ったら、笑い声がこみ上げてきた。
「くすっ。うふっ……」
 頬は緩みっぱなしだ。廊下で生徒たちが全員、「気持ちわりー」という嫌悪の表情をした。
 気にしない。
 さあ、教室の前に着いた。
 あいつらにどんな不幸が! 腕の一本でも折ってもらおうか!
 踊るような足取りで、ぼくは教室に飛びこんだ。
 飛びこんで、入り口のところで立ち止まった。
 教室の中には何の異常もなかった。
 ごく普通に椅子と机が並び。
 男子と女子が数人ずつ集まって、いろいろ話をしていて。
 いちばん真ん中に、越智田たち三人がいた。
 越智打は机の上にあぐらをかいていた。上履きを潰して履いて、ブレザーの前を全部開けていた。何が面白いのか、でかい口をあけて笑っている。
 となりには召使みたいに市ヶ谷が突っ立っている。
 エリもいる。ブラウスの胸元をだらしなく開けている。波打った茶髪を片手でいじっている。
 ぼくは口をあんぐりと開けた。
「そんな……」
 あり得ない。
 あいつら三人に、何の災いも訪れていない。
 捧げたのに。手を切ったのに。あれだけ血が噴きだしたのに。
 なんで?
 市ヶ谷が、ぼくが入ってきたことに気づいたようだ。
「越智田さん、あいつ来ましたよ」
 そうだ、こいつは越智田相手にはいつも敬語なのだ。
 すると越智田は立ち上がって、頬にニヤニヤ笑いを貼りつけてぼくを見る。
「来たか。死んだかと思ったぜ。市ヶ谷のやつが心配してよ。よかったな、心配してくれるトモダチがいてよー」
 市ヶ谷は薄い唇を笑いの形に歪めて、言う。眼鏡の奥の釣り目に強烈な侮蔑が宿っているのがはっきりわかった。
「考えてみれば、死ぬわけがありませんね。こいつに、そんな度胸あるわけがない」
 市ヶ谷が言うと、椅子に腰掛けたエリがケラケラと大口開けて笑った。
「そうだよ。あたしらの前でパンツ下ろされても泣くだけだぜ?」
 越智田が手招きする。
「で、どうしたんだよそんなとこで突っ立って。こっち来いよ。なに笑ってんの?」
 ぼくはたぶん、ひきつった笑いを浮かべていたんだろう。
 カバンを取り落として、よろめいた。
 頭の中は疑問符でいっぱい。
 ありえない。ありえない。どうして。
 カバンの中に、ナイフを持って来ている。いますぐトイレにでも行って、もういちど「捧げる」か。
 そう思ったとき、越智田が近づいてきた。ぼくのすぐ目の前に立つ。ぼくより頭半分背が高いだけだけど、胸板と肩幅がふたまわりも違う。だから怖い。でか い目をギョロリとむいてぼくを睨んできた。ゲジゲジ眉毛が別の生き物のように動く。胃袋がきゅーっと収縮して、すっぱいものがこみ上げてくる。
「だから、んなところで突っ立ってんじゃねーっての? 朝っぱらから、やられてーのか?」
 膝がガクガク笑い出した。涙があふれてきた。この数ヶ月、殴られ続けたぼくの体は正直だ。
 でも、でも、たしかに「捧げた」んだ。ナイフの力は本物だったはずなんだ。
 そう信じていた。だからぼくは言った。精いっぱい背筋を伸ばして、上ずった大きな声で。
「わ、わらっていられるのも、いまのうちだぞっ。お、お、お前に、災いが降りかかるぞ。罰だ」
 一瞬、越智田は目を丸くした。そのあと大げさに笑い出す。
「ぎゃっはっはは! 災い! なんだそりゃ? 呪いでもかけてくれたのかよ!? なあみんな、呪いだってよ!?」
 越智田が叫ぶと、市ヶ谷とエリも声を立てて笑った。
「呪い! 丑の刻きたー! ははっ」
「きもーい」
 ぼくはチラリチラリと周囲に視線を走らせた。教室にいる三十人ばかりの生徒、その半分がこっちを見て、口元を歪めて声を出さず笑っている。残りの半分はぼくから目をそむけている。
 誰一人助けてくれない。分かっていることだ。それが世界の法則だ。
「ほ、ほんとうだぞ……きっと、必ず、お前たち全員に、ものすごい災いが……」
「おーう。見せてくれよ。呪い!」
 大口を開けて越智田が嘲った。と、その瞬間、彼の四角い顔が硬直。全身が震えた。
 え? なにが起こったの?
「は、はぉっ! ぐうっ……むぐっ……」
 うめいている。顔を苦しみに歪めている。顔色も急に悪くなっていた。大きな体を前かがみにしている。
「ど、どけ……」
 うめきながら、ぼくの肩に手を置いて教室の外へ出ようとする。
 普段はぼくの体なんて腕一本で吹き飛ばすのに、今回はやけに腕の力が弱い。
 まさか、これは……
「いやだ。どかないぞ」
 越智田の腕をつかんで、勢いよく振り払う。それだけの動作で越智田はよろめいて、「うっ……ううっ……」と泣き声を発した。片方の手を自分の尻にまわした。黒ズボンの上から尻を押さえた。もう越智田の顔は真っ青で、体全体をビクビクさせている。
 もしかして、と、他の二人を見た。
 他の二人もおかしくなっていた。市ヶ谷はペンギンのように小股で歩いて、教室前方の出口へと進んでいた。細い目をひんむいて、顔は真っ青で、一歩歩くた びに「あうう!」「ぐう!」と大げさに悲鳴をあげる。エリに至ってはスカートの中に手をつっこんでいた。こちらも歯を食いしばって何かに耐えている。越智 田や市ヶ谷と違い、椅子から立ち上がることもできないようだった。
 やっぱり。
 ぼくは思い切り叫んだ。
「わーっ!」
 最後の一押しだった。
 目の前で越智田が、泣きそうな顔をさらに歪める。
 ぶりゅっ……ぶりゅっ……
 液体の噴きだすような音。越智田のズボン、尻にあたる部分がみるみるうちに膨れ上がる。
 ツンと鼻に刺さる、強烈な糞の臭い。
 凄まじい勢いで下痢便を漏らしたのだ。
「あがっ……あがっ、み、見るな……」
 ズボンの尻部分に手を当てたまま、しゃがんで叫ぶ越智田。尻の中に押しこむつもりか。できるはずがない。
 ぼくは教室を見回した。あとの二人も同じだった。
 市ヶ谷は立ったまま脱糞した。エリは顔を覆って「ああっ、ああっ」と泣いている。スカートの中から茶色い液体がゴボリゴボリと音を立ててあふれ出して、椅子一杯に広がって床に流れる。
 教室の空気が凍りついた。全員が目と口を大きく開けて、異常な光景をみつめていた。
 ぼくの全身が震えた。もちろん喜びのためだ。頭の中がかあっと熱くなった。
 そうだ。これこそが災いだ。ナイフの力だ。
 イジメっ子にとって最大の災いは怪我をすることでも病気になることでもない。教室で大便をもらすことだ。いままでイジメられっ子に向けてきた嫌悪と侮蔑が、すべて自分に帰ってくることだ。
「はは……はは……」
 ぼくは、目の前でしゃがむ越智田を蹴飛ばした。
 なんの抵抗もできず、越智田は尻餅をついた。ついた瞬間に「ぶちゃり!」と大きな水音がした。ズボンの中はもう大便でいっぱいなのだ。
「おい!」
 ぼくは怒鳴りつけた。いままで、こいつから味あわされてきた屈辱の全てを叩きつけた。
「きたねーなっ!」
 顔面を力の限り蹴り飛ばした。
 そんな目にあっても、越智田はなにもできない。おびえた顔でぼくを見上げるだけだ。自分の身になにが起こったのか信じたくない、わかりたくない、怖い、怖い……そんな顔。
 もう生きていけないんじゃないか、こいつら。
 一生引きこもってろよ。
 ぼくは先生が来るまでの数分間、越智田の体に、顔面に蹴りを入れ続けた。越智田はまったく別人のように無抵抗だった。
 きっとぼくは、心からの晴れやかな笑顔を浮かべていたと思う。

 4

 それから一週間後。
 ぼくは教室を支配していた。
 六時限目、最後の授業が終わる。
 日直に指定されている生徒が、「起立、礼!」と叫ぶ。
 クラスメートが立ち上がる。席はところどころ空いている。包帯で腕を吊ったり、頭に巻いている者も多い。みんなぼくがやったのだ。
 ぼくはあれから毎日ナイフの力を使ってきた。だからブレザーの下は腕も足も包帯グルグルの状態だ。体が痛むのでゆっくり立つ。他の連中より明らかにワンテンポ遅い。
 教師が顔をしかめてぼくをにらんだ。ジャージ姿のがっしりした中年男性で、太い眉毛に四角い顔。越智田おっさんバージョンだ。柔道部の顧問をやってい る。「武の精神」とやらについて何度か説教をされたことがある。でも、この人はぼくが殴られているとき顔を背けて通り過ぎたんだ。
「なにか?」
 ぼくは思い切り冷たく言ってやった。
 すると教師は急に目線をそらして、「いや、なんでもない」とつぶやいた。顔には明らかに恐怖がにじんでいる。
 そうだ、それでいい。さすがのあんたも家が燃えれば恐がるか。娘さんもまだ小さいしねぇ。
 ぼくがゆっくり立ち上がり終えると、ようやく日直が「礼」と言って頭を下げる。
 クラス全員が頭を下げる。ぼくだけはそのまま突っ立っていた。冗談じゃない、これ以上頭なんて下げるもんか。もう一生分下げたじゃないか。
 「礼」が終わるや否や、後ろの席から声がする。
「荷物、お持ちします!」
 眼鏡をかけた、ひょろりと細い男子生徒。薄い唇に媚びる笑いを浮かべている。市ヶ谷だ。こいつはいまや、ぼくのパシリなのだ。向こうから頭を下げてきた。「なんでもするから助けて」って。だから雑用をやらせている。家が金持ちだから、金もたくさん出してくれる。
「ああ。落とすなよ。落としたり汚したら罰金一万円な」
「はい。でも、一万円はちょっと……」
 市ヶ谷のやつが言いよどんだ。ぼくは思い切りにらみつけてやった。
「たかが一万円だよ。なあ、そうだよな?」
「あ、はい」
 市ヶ谷はガクガクと激しくうなずいた。
 恐喝? そんなことはわかっている。
 でもクラスの連中は誰一人文句を言わない。
 逆らう奴は全員、ナイフの力で黙らせてやったからだ。ぼくは勝利者だ。
 教室を出ようとしたとき、後ろから声がかけられた。
「ねえ、待って!」
 女の子の声だ。
 振り向いた。二本のお下げを頭から垂らした女子がいた。そばかすの目立つ、おとなしそうな丸顔の女の子。いまは目を悲しげに潤ませ、頬を青ざめさせている。
 この人のことは好きだった。以前、ぼくが越智田たちに殴られて泣いていたとき、一度だけ助けてくれた。ぼくを助けた人間は「汚れた」って言われるから女 子なんかはぼくに近寄りもしない。でも彼女だけは違った。先生を呼んできて、腫れ上がったぼくの顔に濡れたハンカチを置いてくれた。みっともなく流れる鼻 血をぬぐってくれた。照れくさくて、ぼくはお礼も言えなかった。
「……なに?」
 ぼくがたずねると、彼女は祈るように手を合わせて、言った。
「どうして、こんなことするの?」
「こんなことって?」
 ぼくの胸の中に黒い、冷たい感情が沸き起こった。説教か。こいつもぼくに説教をするのか。
「呪いだかなんだか知らないけど。クラスのみんなを脅しているでしょう。お金だって巻き上げている。馬鹿なことやめて。見ていられないの。あなたは、イジメられる人の苦しみを誰よりも知っているはずでしょ。それなのにどうして、同じことをするの? 仲良くでき……」
 ぼくは胸の中のムカつきが命じるがまま、鋭く一歩踏みこんで、彼女の手をつかんだ。彼女の顔が歪む。
「い、いたいっ。やめてよ」
「だからどうした。イジメの苦しみを知ってるからどうした。そんな言葉で、ぼくは幸せになれない! なれなかった! そんな奇麗事で!」
 彼女の手をつかんだまま上下に振り回し、ぼくは叫んだ。叫び続けた。
「人をイジメちゃいけない! 暴力はいけない。みんな知ってる! でも、そんな理屈なんの力もない! ぼくだって何百回も言った。でもあいつらはやめてく れなかった。それなのにぼくだけがやめるのか。嫌だ。そんなの絶対に嫌だ! ぼくの痛みはどこにいくんだ。悔しさはなんなんだ。ぼくが馬鹿みたいじゃない か。みんなを、馬鹿にしてきたクラスの全員を、同じ目にあわせて何が悪いんだ! 理屈じゃないんだよ! 力だけなんだよ!」
 胸の中の気持ちを吐き出した。だがスッキリしない。ムカつきがますます激しくなった。
 彼女は青ざめた顔をますます強張らせて、唇を引き結んで、黙っている。 
 ぼくは彼女の手を振りほどいた。
「来い、市ヶ谷!」
「はいっ」
 ぼくは激しく床を踏み鳴らして、教室の外へ向かう。夕方の廊下には、昇降口に向かう生徒たちが大勢いた。明るい調子で、これからの予定について話し合っていた。
 ぼくは首をめぐらせた。するとぼくの視線を浴びた生徒たちは全員が沈黙する。男も女も、血の気が失せた表情でうつむいた。
 階段をゆっくりと下りる。
 昇降口で外ばきに履き替えて、市ヶ谷から「今日の軍資金」を受け取った。
「カバン、家までお持ちします」
「いや、いい」
 今日もナイフの店に寄るつもりだ。だからこいつがいるとまずい。
 市ヶ谷と別れ、校門の外に出た瞬間、笑いがこみ上げてきた。
 肩を震わせ、身をよじって笑った。
「やった……やったぞ!」
 ついに教師まで服従させた。
 あのムカつく女も、何も言い返せなかった。
 あとは親だけだ。ぼくが毎日体を傷つけていることを不審に思っている。病院に連れていくだと? ふざけるな。
 親も従わせてやるさ。ナイフの力は無敵だ。
 痛む体を伸ばし、胸を張った。
 学校は住宅地に立っており、校門を出たら目の前は細い路地だ。ブロック塀が並び、塀の向こうには桜や松の枝が顔を出している。赤いスーパーカブにまたがった郵便局員が配達中だ。
 力強く、一歩踏み出した。

 5

 と、ちょうどそのとき目の前の道路をでっかいベンツが通り過ぎた。窓から何かが投げつけられた。空き缶? 
 顔面に重い衝撃。
「があっ……」
 うめき声を上げた。
 熱い鼻血が鼻孔の中に広がっていく。空き缶なんかじゃない、中身が入ったままだ。
 くそっ……
 鼻血を学生服の袖でぬぐって、走り去るベンツをにらみつけた。
 お前にも裁きを下してやる!
 ズボンのポケットからナイフを出した。鞘から引き抜いた。
『おおおん! おおん!』
 そのとたん、強烈な甲高い金属音が耳を打った。刃が猛烈に振動している。ナイフが絶叫しているのだ。
『おおん! おおん! もっと! もっと!』
「な……」
 ぼくは驚いた。ここまで大きな声を出したことはない。それに、ぼくはまだ呪いの力を使っていないぞ。なんで『もっと、もっと』なんだ?
 便所に入って、すこし捧げよう。ナイフで手足を切ろう。
 そう思って、学校内に戻ろうときびすを返した。
 途端、頭の上に、ガッガッと衝撃。硬く鋭いものが突き刺さった。同時に、鳥の羽ばたき音が耳にとどろく。
「ぐあっ」
 うめいて、空を見上げた。
 夕焼け空に、黒い影が何十となく舞っていた。ぼくの体のまわりを飛び回っている。ぼくの顔面に突っこんでくる。首筋を、腕を、頭を突いてくる。
「え? カラス!?」
 ぼくはカバンを振り回してカラスを追い払おうとした。
 まわりには下校する生徒たちが何人もいる。
 ぼくじゃなくて、こいつらのところに行け! 
 どんなにカバンを振りかざしても、カラスは幻のようにすり抜ける。まわりの生徒たちは「うわあ」「すげえ」「きゃあ」と声をあげる。でも、カラスは他の生徒たちにはまったく興味を示さない。ぼくだけを狙ってくる。
 目に、鼻に、クチバシがめりこむ。涙が止まらない。うずくまって顔を手で覆った。鼻の頭に、肉をちぎったような穴ができていた。熱い血がどんどんあふれてくる。うずくまってもカラスの攻撃はやまない。
「スッゲー、なにあれー」「ぎゃはははっ」
 生徒たちが笑っている。遠巻きにして笑っているのだ。
 こんな惨めなところをクラスの連中に見られたら。すべておしまいだ。越智田たちと同じで、権威が失墜する。
 ぼくは立ちあがった。
 どうにかして逃げないと。カラスのいないところに。
 走った。いままで体中に刻んだ何百という傷が絶叫を上げた。だが、カラスに突っつかれてうずくまっているくらいなら! 足を思い切り振って、筋肉と骨が激痛を訴えるのを無視して、学校前の道路を渡った。住宅地を走った。
 ぎゃあぎゃあっ
 ぎゃあぎゃあっ
 甲高い声を上げて、カラスたちは追ってきた。角を曲がってもついてきた。振り向くたびに数が増えた。上空から、背後から襲ってきた。
 なんで、これはどういうことだ。
 さっきから、缶が飛んできたり、カラスに襲われたり……
 この不運。誰かがぼくを呪っている?
 そいつを殺す!
 そう思って、走りながら、ナイフを顔の前にかざす。
 さきほどからずっと、握り締め続けてきたのだ。
 ナイフは相変わらず絶叫していた。
『おおおおおん! おおおおん!』
『たりなああい! たりなああい! もっとぉ! もっとぉ!』
 ぼくは叫びを無視して、ナイフを自分の頬に突きたてた。
 痛みなど、知ったことか。頬の筋肉が抵抗してくる。弾力がある。震える手でナイフを押しこんだ。
「捧げるっ!」
 しかし、光らない。
『ぎいん! ぎいん! おおん!』
 ナイフの振動がますます激しくなっただけ。
 え? と呆然とするぼくの顔に、カラスが突撃。眼球にクチバシが突き立った。
「ぎゃあっ」
 転んだ。手をつく余裕すらなく、顔面から倒れこんだ。
 次の瞬間、背後でエンジン音。尻、背中、頭に凄まじい圧迫感と激痛。背骨がバキリと鳴った。胸の中でパキッと軽い音が弾けた。肋骨が折れたのだ。車か何かがぼくをひいていったのだ。しかもエンジン音は止まりもせず遠ざかっていく。
 ひき逃げされた。
 まだ呪いは続いている! どんどんひどくなっている!
 一瞬のち、頭上にギャアギャアとカラスの鳴き声。頭に、背中に、足にクチバシが突き立つ。何十、何百という連打。
 なぜ……?
 ぼくは亀のようにうずくまったまま、頬からナイフを引き抜く。涙でいっぱいの眼を開いて、目の前のナイフに問いかけた。
「まだ足りないの?」
 するとナイフは答える。
『おおおん! おおおおん!』
『もっと! もっと!』
『めだまを えぐれ! てあしを! きりおとせ!』
『はらがへった! もっと! もっと!』
『ささげてくれないなら! くらうまで!』 
「なっ」
 ぼくは思わず驚きの声を上げていた。じゃあ、ぼくがカラスに襲われているのは。
「ナイフ! 答えろナイフ! いまの呪いは、お前がやっているのか!」
『そうだ! もっとぉ! もっとぉ! くわせろぉ!』
「なんでだよっ!」
『あれだけ のろいをつかっておいて このていどの くもつで たりるとおもうなぁ』
『もっと もっと もっとぉぉ おおおん』
『てきのうでをおるなら うでをさしだせ』
『てきのめをつぶすなら めをさしだせ』
『じゅうにん にじゅうにんにかけるなら いのちをさしだせ もっと もっとぉ』
「そんな……」
 ぼくは震える声でうめいた。震えが全身に広がっていた。これだけ走り回って汗まみれなのに、体中を悪寒が包んだ。
 足りない支払いの「取立て」を受けているんだ。
 どうすればいい。
 このままじゃ。殺される。
 顔をカバーしている左腕は、もうカラスに何千回突っつかれて感覚がなかった。左腕を覆うブレザーはすでにボロ切れで、しかも血まみれだ。
 そうだ。ナイフを壊せば。
 ぼくはうずくまったままの姿勢で、アスファルトにナイフの切っ先を叩きつけた。
『やめろぉぉ おおおおん』 
 何十回も繰りかえしたが、折れる気配はない。
 もらった店に行こう。あの店の爺さんならなんとかしてくれる。
 わめきたてるナイフを皮の鞘にしまった。ポケットに放りこんで、両手をアスファルトについて、一気に起き上がる。
 唖然とした。
 住宅地の道といっても、大型ダンプが通れるくらいの広い道。
 その道全体を、真っ黒い海が埋め尽くしている。カラスの大群だ。
 道の上に渡された電線も、家の屋根も、端から端までカラスだらけ。道の両脇のブロック塀にもびっちりとカラスが。
 すべて首を上げていた。黒い小さな目が何千も並んで、赤い夕日を反射して光っていた。にらまれているように感じた。
 数百のカラスが一斉に翼を広げた。黒い海が盛り上がる。爆発する。ぼくに向かって飛び立った。
 いくしかない。
「うわあああ!」
 カバンをふりまわしながら、絶叫して、突進した。
 あまりに密度が高いせいか、何羽かのカラスを撃墜できた。だが、大部分はカバンをかいくぐって突っこんでくる。顔に取りつかれた。
 目玉に、鼻に、クチバシの連打。口の中に、飛び散った羽毛がたくさん入りこんでくる。
 片方の眼に灼熱の感覚。顔面のカラスをつかんで投げ捨てる。二羽目、三羽目が顔にとりついてくる。突かれたほうの目は涙があふれるだけで何も見えない。もう片方の眼も危険だ、顔の前にカバンをかざして、絶叫を上げながら走り続けた。
 どんどんカラスの数が増えている。あたりが真っ黒だ。たどりつけるか?
 前から走ってくる自転車に乗った中年女が、ぼくの姿を見て腰を抜かした。中年女の連れている犬が猛然と吼える。やっぱりカラスは女にも犬にも興味を示さない。ぼくにだけたかってくる。
 足になにかがぶつかってきた。重い。足が重くなった。
 下を見た。仰天した。両足に猫が何匹もしがみついていた。ぼくは全力疾走しているのに振り落とされもせず、顔めがけて登ってくる。また一匹とびついてきた。
 猫のうち一匹が胸まで上がってきた。
「しっ」
 カバンではたいて追い払おうとする。しかし猫はひらりとかわして、ぼくの右手にかみついた。
 ごりっ。激痛。肉が裂けて骨が砕かれる音。
 猫、猫まで攻撃してくる……
 足が重い。走れない。でも走るのをやめたら、カラスの攻撃がもっと激しくなるだろう。
 と、そのとき目の前が急に開けた。
 住宅地が途切れていた。目の前は片側二車線の大きな国道。渋滞している。大型ダンプが地響きを上げてノロノロと通過していく。乗用車もずらり並んでいる。クリーム色の歩道橋が右手に見える。
 国道の向こうに、商店街入り口のアーケードがあった。
 左右に目をやる。横断歩道まで、数十メートル。立ち止まったせいでカラスの攻撃が激しくなった。肩に、腹にまで突き刺さる。ブレザーの前を止めているボタンが吹っ飛んだ。
 ダッシュだ。横断歩道までダッシュだ。
 と、そのときぼくの視線が、国道をノロノロ運転する車に吸い寄せられた。
 運転席で、派手なジャンパーを着たパンチパーマの男が、ライターでタバコに火をつけていた。
「それだ!」
 ぼくは叫んで、その車に突進。
「わっ、なんだお前!?」
 窓の中に腕を突っこんで、パンチパーマ男からライターを奪った。
 ズタボロになっていたブレザーを脱いで、ライターの火であぶる。冬で空気が乾燥していたのがよかったのか、すぐに火がついた。
 燃える上着を高くかざした。
 ぼくの体をつついていたカラスたちが、一斉にギャアギャア叫んで逃げていく。
 猫も、ぼくの体から飛び降りて逃げる。
 やっぱり! 火を恐れるんだ。
 安堵で頬が緩んだ。一気に引き離すぞ。
 ガードレールを乗りこえる。国道に飛びこんだ。走る。車と車の間をすり抜ける。商店街入り口まで一直線。片手にカバン、もう片方の手に燃える上着をもったまま、トレーラーや乗用車の間を抜けて走る。
 反対車線に走りこんだ。こっちの車線は渋滞してない! 車は勢いよく流れている。ヘッドライトをパッシングさせ、クラクションを猛烈に鳴らして白のセダンが突っこんでくる。
 いまなら一瞬早く、前を抜けられるはず!
 アスファルトを蹴り、全力で前に跳んだ。
 白のセダンが急ブレーキをかける。ぼくはセダンの広いボンネットに飛び乗った。膝に激しい衝撃が走る。体をゴロリと丸めて転がり、向こう側の歩道に着地した。
 心臓が凄まじい勢いでドクドクと跳ねていた。膝が震えている。肩も震えている。自分にあれだけの離れ業ができたなんて。
 走り出した。ブレザーの火が消えかかっていたので、またつけた。
 背後で「ぎゃあっ」「ぎゃあっ」と叫び。
 まだカラスたちが追ってくる。
 炎だけじゃ安心できない。いつまでも燃えているわけじゃない。
 商店街に突進した。
 入り口のところでカラオケ屋のプラカードをもっていた若い店員を、肩から突っこんで吹き飛ばす。
 なんてことだ、商店街の左右に放置自転車が並んでいる。道幅が半分になっている。
 普段は、こんなたくさんの自転車なかったのに。
 歩行者の数も異常に多い。買い物袋をもった中年女、ジャージ姿でラケットを持った女子中学生。見える限りで何十人、前方から歩いてきて、ぼくの姿を見てみんな立ち止まる。ぼくが傷だらけだからだろう。燃える上着を持っているからだろう。 
 止まるな馬鹿! ぼくが通れないじゃないか!
 背後からギャアギャアと叫び。一瞬振り向いた。黒い影が数十、翼をばっさばっさと撃ち振って追いかけてくる。数は減ってるけど、まだいる。
 素早く左右に体を振って、呆然と立ち止まる通行人をかわして、自転車が前から走ってきたら体当たりして吹き飛ばす。背後でキャアッと女性の悲鳴が上がった。振り返らず走り続けた。
 ちっぽけな本屋の前を、走り抜けた。
 おどろおどろしい看板の出ている「占い 運命鑑定」という店の前を走り抜けた。
 ナイフ屋の看板が右手の前方に見える。あと少し、あと三十メートル。
 足がまた重い。下半身の方からグルグルと獣のうなりが聞こえる。また猫がしがみついてきたんだ。なんで? もう火に慣れたのか?
 だけど、いま雑貨屋の前を通り過ぎた。あと二十メートル!
 突進した。揺れる視界の中でナイフ屋の曇りガラスドアがどんどん大きくなる。これで助かる!
 と、そのとき、横から男が飛び出してきた。エプロン姿の男。なにか細長いものを抱えている。
 ぼくはよけることができず、男に激突した。一緒に転がった。
 道路の上に、うつ伏せに叩きつけられた。頭の上に重くて硬いものが降ってきた。ガラスの割れる音が立った。なにかの液体がぼくの体にかかった。
 次の瞬間、ぼくの体は燃え上がった。
 視界がオレンジの炎に包まれる。鼻の中に、口の中に灼熱の空気がなだれこんでくる。髪が燃えた。ブレザーの下に着こんでいたVネックセーターの腕が燃え、胸が燃え、ズボンに燃え広がった。
 酒だ、と気づいた。いま落ちて割れたのは、ウォッカみたいなアルコール度数の高い酒だ。ぼくの持っていた火が引火したんだ。
「たすけっ、たすけっ」
 叫んだ。すると熱い空気が喉を焼いた。咳きこんだ。
 派手な炎を吹き上げるセーターを脱ごうとした。
「あぢっ」
 ダメだ。熱くてつかめない。叫んで、セーターから手を離してしまった。
 セーターの下はワイシャツ。ワイシャツの下はTシャツと包帯。ぼくはこの一週間で全身に切りつけ、服の下のいたるところに包帯を巻いている。だから燃えるものはいくらでもあるんだ。
「たすけっ。たすけてっ」
 叫びながら、体をくの字に折って、道路の上をのた打ち回った。炎は全身に広がっていた。手足をジタバタさせ、放置自転車を何台も倒し、道の反対側まで転がった。それでも、まだ火が消えない。
 オレンジの炎の向こうに、たくさんの通行人が見えた。学ランやセーラー服の学生がいる。背広に白髪頭の男がいる。青い制服姿の警備員まで走ってきた。
 でも、だれひとり助けてくれない。ぼくを見ているだけだ。ぼくが手を伸ばすと、みんな顔をそむけた。
 なんで。なんで……
 耳に、彼らの台詞が飛びこんだ。
「おい、お前助けろよ」
「いやだよ、気持ち悪い」
「こわいじゃないか」
「つうか、あいつ最初から火もってたぜ、自殺じゃね?」
「きもーい」
 クスクスと笑う声すら聞こえる。
 そうだ。ぼくはずっと前から知っていたじゃないか。
 この世界は辛い場所で、誰もぼくを助けてなんかくれないんだって。
 鉛のように重い絶望で、手足から力が抜けた。ぼくはその場に倒れこんだ。
 ぼくを取り囲んでいる人たちの姿が、だんだん薄れていく。今も体は炎に包まれているのになぜか熱さを感じない。最後の力を振りしぼって腕を動かそうとしたら、ごっそりと皮膚のはがれる感触が伝わってきた。それなのに痛くない。まったく痛くない。
 ぼくは死ぬんだ、と分かった。
 いやだよ。ぼくはなにもわるいこと、してないのに。
 なんで、しななきゃいけないんだよ……
 
 6

 老店主はカウンターに座り、優美な曲線を描く小ぶりなナイフを研いでいた。棒状のシャープナーをブレードに当ててこすっている。しわだらけの顔に楽しげな表情が浮かんでいた。
 ふいに手を休め、真顔になって呟いた。
「お客さん。それは当然です。呪いというのは、命を捧げるくらいの覚悟が必要なんです。言ったでしょう、たっぷり餌を与えてくださいと」

 おわり


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