ナイフに捧げろ 第2話 第1稿


 1
 
 仕事が早く終わった。
 夜七時。こんなに早いのは珍しい。
 よし、帰ったら、いろいろやろう。観たかったドラマがたまってる。
 わたしは明るい気持ちで家に向かった。
 駅を降りて商店街を抜け、住宅地を歩く。
 激しい寒風が吹いてきた。わたしの小さな体なんて吹き飛んでしまいそう。よろめいた。もこもこダウンジャケットの奥まで寒さが染みとおってくる。自然と早足になる。早く帰ってカフェオレでも飲んであったまりたい。
 安アパートにたどりついた。
 何の気なしに郵便受けを覗きこんだ。
 しばらく仕事が忙しくて回収してなかったので、中身はグチャグチャだ。ピザのチラシなんかにまざって、ハガキが入っている。
 なにかなー?
 ハガキをつまんで顔の前にかざした。
 差出人の名前は……
 ハガキの表を見て、わたしの体が硬直した。
 
 『森塚カスミ様

 カスミさんをもっとも愛する男
 槙原純より』

 あいつだ。
 なんでわたしの住所を知ってるの?
 ダウンジャケットとワイシャツの下でわたしの二の腕に鳥肌が立った。
 震える手で、ハガキを裏返してみた。
 ボールペンだろうか、米粒のような小さな字でびっちり書いてある。
 
 『カスミさんへ
 
 職場でお世話になったものです。
 カスミさんを世界で一番愛しているものです。
 そうです、ぼくです。
 槙原純です。
 カスミさんのつややかな黒髪が好きです。
 髪を後ろでまとめたおとなしい髪型が、カスミさんの場合には神々しいほどの気品をかもし出していると思います。
 カスミさんの可憐でありながら優しげな顔立ちが好きです。
 カスミさんの小柄でスレンダーな肢体が好きです。
 人間は牛ではないので乳房という下品なものは小さいほうがいい、というのがぼくの考えです。
 カスミさんの知性にあふれた瞳が好きです。瞳を隠しているメタルフレームの眼鏡がとてもとても似合っています。
 遠慮がちに小さな声でゆっくり話す奥ゆかしさが、とても好きです。
  ついに、カスミさんの家を見つけました。
 質素なアパートに住んでいるんですね。そういうマジメなところも好きです。
 カスミさんと会えなくなってから二週間。カスミさんのことを忘れたことは一日もありません。
 二十七歳になってもまだイジメられつづけてきたぼくを、カスミさんだけが救ってくれました。
 だから、理不尽な世界の攻撃によって別れ別れにさせられても、まだカスミさんのことを愛している。
 カスミさん。ぼくはカスミさんの存在に、心の底から感動した。どうかそのことだけは覚えていてください』

 思わず、ハガキを握りつぶした。
「うえっ……」
 あまりの嫌悪感に吐きそうになった。激しいめまいが襲ってきて、よろめいてしまった。鼻からずり落ちた眼鏡を元の位置に戻す。
 グシャグシャになったハガキを広げる。その時わたしは気づいた。「ひっ」と息を呑んだ。
 これ、切手が貼ってないよ。
 しかもわたしの住所が書いてない。
 『カスミ様』だけで郵便が届くわけない。
「……来たんだ。うちに直接来たんだ」
 あいつのことを考えただけで、嫌悪に体が震える。自分のうかつさを責める気持ちもわいてくる。
 一ヶ月前、あいつは同じ職場にやってきた。わたしと同じ派遣社員だけど、エクセルも検品処理もろくにできず、すぐ契約を打ち切られた。
 ひょろりと細っこい体つきで顔白い顔だった。いつも自信がなさそうにオドオドしていた。他人からキツイことを言われると反省するでも反論するでもなく、青ざめて、うつむいて口元を痙攣させていた。
 毎日店長に叱られてばかりで可哀想だと思った。だか ら励ましてあげた。そういう優しさがいけなかったんだと思う。彼はわたしに好意を持つようになった。よく休み時間に話しかけてきた。仕事が終わったら食事 に誘ってきた。何万円もするプレゼントを贈ってきた。「ぼくのママに会って欲しい」とか凄まじいことを言い出した。
 わたしが「困ります」と言っても耳を貸さなかった。 それどころか「カスミさんに嫌な思いをさせてしまった償いがしたい」とかいって、ますます付きまとうようになった。仕事が終わって会社の外に出たら、彼が 待っていたことが何度もある。恐くてならなかった。同僚のサヤカに助けてもらって、家までついてくることは防いだ。
 クビになって、やっと安心できたのに。
 それなのにわたしの家を知った。
 何をされるのかわからない。盗撮。侵入。下着泥棒。どんどんエスカレートして……今朝の新聞の事件みたいに、強姦されるかも。
 いますぐ警察にいこう。そう決めた。
 早足で歩き出す。いま来た道を戻り、夜の住宅地を歩く。犬の散歩をしていたおばさんが、すれ違う時にわたしの顔を見てギョッと驚く。よっぽど怖い顔をしていたのか。
 住宅地を抜けて、アーケードつきの商店街に入る。さびれた商店街だ。まだ夜七時ごろなのに、シャッターを下ろしている店が多い。明るいクリスマスソングが鳴り響いているので、よけいさびしく感じる。
 商店街を通り抜けた。屋根がなくなって、視界が開ける。二階建てのちっぽけな駅がある。駅前にはバス停。すぐそばに交番。
「おまわりさん!」
 息を切らしながら飛びこんだ。
 交番の中には初老の警察官が座っていた。カップうどんを食べていた。
「どうしました?」
 警察官は四角い顔を上げて、にっこり笑いかけてきた。だがその間も手は止まらず、カップうどんを割り箸でかき回している。
「はぁっ……あの。あの……ストーカーに……」
「ほう。ストーカー?」
 警察官の表情から笑顔が消えた。細い目に緊張が走った。太い眉毛がピクリと持ち上がった。頭髪は八割方白髪なのに、眉毛だけは黒々としている。
 わたしは少し安心した。警察の人は真剣だ。
「は、はいっ。わたしの職場に以前いた人なんですけど……なんか、こんなのが入っていたんです」
 ハガキを警察官に渡した。
 警察官は眉根を寄せてハガキを受け取り、ハガキとカップうどんを交互に見て、悔しそうにうどんの容器を下ろした。
 警察官はハガキを黙読した。だんだん顔に笑みが浮かんできた。頬がたるんで、口元が歪む。その笑顔を見てわたしは不審に思った。
 このハガキ、笑い飛ばせるような内容じゃないと思うんだけど?
 読み終えた警察官は、すっかり笑顔に戻ってわたしに言った。
「すごいですねぇ、これ。情熱というか、紙一重というか」
 自分の耳を疑った。あっけらかんとした口調だ。まるで危機感がない。
「あの……情熱とかじゃなくて。とにかく困ってるんです。読めば分かるでしょう?」
「そうですねえ。で、お姉さんのほうは彼をどう思ってるんですか?」
「は? どうって……あんな人、なんとも思ってません。ただちょっと同情しただけなんです。それなのに勘違いされて」
「じゃあ、それを本人に伝えることですね。まあ難しいもんです、恋愛問題ってのは。よく話し合ってください。それではこれはお返しします」
 警察官はそう言って、ハガキをわたしにヒョイと差し出した。もう片方の手でカップうどんを持ち上げて汁をあおる。ズズウと汚い音が響いた。
 わたしより夕食のほうが大事なんだ、この人!
 頭をガンと殴られたようなショックが襲ってきた。一瞬後、ショックは怒りに変わった。
 わたしは机に両手を突いた。
 べちん!
 カップうどんが揺れて汁が飛び散る。
 頭の中がカッカして、ひとりでに大声が出てしまう。
「は、話し合って解決できるなら、来ません。どうにかしてほしいから、来たんです!」
 警察官は、机の上にうどんの汁が広がっていくのを呆然として眺めた。顔から笑みが消えていく。立ち上がった。
 この人、体が大きい。見上げるようだ。座ってるときは小さく見えたのに。胸板だって厚い。太い腕を組んで、怖い顔でわたしをにらんできた。低い、ドスの効いた声を投げつけてきた。
「で? なにを期待してるんですか?」
 わたしはひるんでしまった。一歩さがった。背中が戸に当たった。目を下にそらしながら、なんとか声をしぼりだす。
「だ、だから……相手を逮捕するとか、わたしをボディガードするとか……」
「はは、お姉さんね。一体いくつですか。世間知らずですね。その人は手紙を投函しただけですよね? 下着の一枚でも盗みましたか? 抱きついてきたとか、服を脱がしたとか、そういうワイセツ罪は?」
 警察官は今までとは打って変わった野太い声で、鋭く問い詰めてきた。わたしは目線を空中にさまよわせながら、考える。思い出す。あいつがわたしにやってきたことを。
 しつこく声をかけてきた。職場で泣きながら「好き、好き」と言われてすごくキモかった。振っても振ってもついてきた。ついにわたしの家まで突き止めた。
 ……あれ? これだけ? 
「ありません……」
「そうですか、ありませんか。それなら警察ができることもありません。なにかあってから、また来てください」
 なにかあってからでは遅いんだ。
 わたしはそう言おうとした。だけど警察官が、太い眉毛の下の眼で眼光鋭くにらんできた。
 身震いして、頭を下げて、ハガキをひったくって回れ右した。
 交番の外に出て、がっくり肩を落とした。
「だめだなあ、わたし……」
 どうしよう、家に帰るのが怖い。
 冬の寒さがやけにこたえた。マフラーをきつく首に巻いているのに体が震えてならない。
 そのとき、携帯電話が着メロを奏でた。
「……もしもし?」
『あー。カスミ? あたし、あたし?』
 声でわかった。同僚、っていうか友人の、サヤカだ。
 目鼻立ちのパッチリクッキリ整った凛々しい美人で、背もすらっと高くて、胸なんかは凄いボリューム。同じ女のわたしでも惚れ惚れする。あと、わたしと違って言いたいことをズバッと言える人なんだ。きっとサヤカなら、さっきの警官相手にも物怖じしなかっただろう。
 引っ込み思案のわたしとは性格全然違うんだけど、ひょんなことから親しくなった。いまでは恋愛相談までされる仲だ。なんでも彼氏が浮気性で困ってるんだって。
「ああ、サヤカ」
 友人の声を聞いて、心があったまった。曲がっていた背筋がひとりでに伸びた。
『うん? どうしたの? ところでさ、こないだあんたが言ってた映画みたけど……』
「そんなことより聞いて、サヤカ」
 わたしはサヤカの明るい声をさえぎった。
「槙原の奴、覚えてるでしょ」
『あー、そりゃ覚えてるっての。あのキッモイ奴。ぼ、ぼ、ボクボク、カスミさんのことが! みたいな。ああいう奴最近多くて困るよねー』
「あいつ本格的にストーカーになったの。わたしの家に手紙入れたの。中身は相変わらずよ」
『な……』
 電話回線の向こうでサヤカは一瞬絶句する。そして怒りをこめて叫んでくれた。
『あの、バカ男! なんでそう、ネチョネチョすっかなー』
「警察に相談したけど、相手にしてもらえなかったの」
『そうだろうね。ケーサツってさ、人でも死なないと動いてくれないんだよ。変な気持ちを向けられること自体が怖い、ってことが分かってないんだろうな。じゃあカスミ、あたしの家に来なよ』
「え? なんで」
『だって家を知られてるのってキモくて怖いでしょ。あたしの家にしばらく避難すればいいのよ』
 心が動いた。
 友達といっても、サヤカの家に行ったことはない。前から関心はあった。どんな部屋なのかな? わたしと違って整頓してるんだろうな。意外とヌイグルミ大事にしてたり? 遊びに行きたいけど、なかなか言い出せなかったのだ。「なれなれしい」って怒られたら怖いし。
 しばらく一緒に暮らす。とても楽しいだろう。どっちがベッドに寝てどっちが床に寝るかで喧嘩したり、朝は、目玉焼きになにをかけるかで「あんた変だよ?」って笑いあったり。まったりした楽しい時間。
 でも。
「それはできないよ、サヤカ」
 わたしは声を絞り出していた。
 そうだ。できないのだ。
 だってサヤカにも迷惑がかかるから。あいつは職場を知ってるんだから、帰宅時を尾行してサヤカの家も見つけてしまうだろう。
『もしかして、あたしを巻きこみたくないとか思ってるの?』
「うん、まあね」
『そっか……だったら自分で身を守るしかないけど。護身グッズとか買って』
 護身グッズ。スタンガンとか、警棒とか、そういうものかな。自分の人生にスタンガンが関わってくるなんて、想像もしていなかった。
「うん、買うよ」
『でも護身グッズでどこで売ってんのかな。通販ならネットで見たけど』
 通販はダメ。時間がかかる。あいつは今夜にでも忍びこんでくるかもしれないんだ。
 電話の向こうでサヤカは一瞬沈黙し、
『あ! そうだ。いまどこにいるの?』
「うちの駅前」
『ちょうどよかった。あそこの商店街にナイフショップってあるから、護身グッズ扱ってるかも』
「あったけそんなの。うん。行ってみる。ありがとう」
 電話を切った。
 持つべきものは、やっぱり友達だ。

 2

 商店街の寂れた町並みの中に、たしかにナイフ店はあった。
 酒屋兼コンビニの隣、曇りガラスのドア。ドアにはひどく古めかしい字体で、
 『ナイフショップ ミヤサカ』
 ドアに手をかけた。押し開けて、店内に入った。
 その瞬間、目を丸くした。
 店内は広くない。せいぜい十二畳くらい。それなのに何百のナイフがあった。四方の壁には全部木枠がとりつけられている。木枠の中にはずらりとナイフが飾られて刃をギラつかせている。
 ガラスケースも並んでいる。ビロードが引かれ、こち らもやはりナイフがたくさん。人の頭でも割れそうなゴツいものがあった。ほっそりとした流麗なデザインのものがあった。刃物なんて包丁とカッターナイフし か触ったことがない。詳しい種類なんて分からない。こんなにたくさんナイフがあり得るなんて。
「いらっしゃいませ」
 声がかけられた。静かなしわがれ声だ。
 声の方向を向いた。店の左奥にレジがあって、黒いセーター姿の老人がいた。
「あ……その」
 わたしは店内をくるくる見渡して、オドオドと小さな声でたずねる。
「なんていうか……護身グッズ……とか、ないですよねえ。スタンガンとか」
 店主らしい老人は、シワだらけの顔に笑顔を浮かべた。
「そうですね。当店にあるのはナイフだけです。ナイフを護身用に使うのはお勧めできかねます。接近しなければなりませんし、重傷を負わせてしまう。たいへん扱いが難しい。私見ですが、女性が持たれるなら催涙スプレーかブザーが良いでしょう」
 わたしは頭を下げた。
「ありがとうございました。他の店に行きます」
 そう言って回れ右、店のドアに手をかけたとき。
「お客さん。ひょっとして、ストーカーでも付け狙われているのですか?」
「な……」
 どうしてわかったの?
 驚いて振り向き、店主の顔を見つめた。
「はは。不思議なことではございません。女性の方が護身を考える理由はだいたい決まっています。そういった理由であれば……」
 老店主はカウンターの下から、小さなナイフを取り出した。
 カウンターから出てわたしのところまで歩いてきて、ナイフをわたしに差し出す。
「これがお役に立つかもしれません」
 鞘に入ったナイフだ。
 美しい。
 刃物なんかを愛でる趣味はない。でも、目が釘付けになった。
 高級漆器を連想した。鞘も柄も、黒い木材でつくられている。黒檀だろうか、深みのある光沢を持っている。黒い材質の上に、淡く光る銀色の模様が彫られていた。
 ツタだ。絡み合う銀のツタ模様が、ナイフ全体を覆っているのだ。
「これは、『想いを断ち切る』ナイフです。恐怖、欲望、愛……『気持ち』を、ばっさりと切ることができるのです。ストーカーさんがお客さんに抱いている邪な気持ちも、このナイフの一振りで消えてしまいます」
 わたしは一瞬ポカンと口を開けた。
「からかわないでください……!」
 この人までわたしを馬鹿にする。ひどいよ。
 あるいはオカルト商法かもしれない。この不思議なナイフで悪い宇宙波動を除去します。二十万円です、みたいな。
 店主はわたしに怒鳴られても顔色一つ変えず、柔和な笑みを浮かべたまま言った。
「お客さん、わたしのことをどう思いますか?」
「え……どうって……」
 いきなりの質問に戸惑ったが、意を決し、店主の眼を見つめ返しながら答えた。
「うさんくさくて……インチキかも」
「はは、 やはりそうですか。ではお客さん。その気持ちを切りましょう」
 店主はいきなりナイフを鞘から抜いた。自分とわたしの体、そのちょうど中間あたりに、ナイフを走らせる。
 ぶちん!
 太い輪ゴムが千切れたような音がした。
 わたしの頭の中にしびれるような感覚が走った。
「どうですか。まだ私を『うさんくさくて信じられない』ですか」
 店主に問われて、わたしは答える。
「そりゃもちろん……」
 愕然とした。言葉が途切れた。
 そう思ってない。自分の心が一瞬で変わってしまった。
 わたしは目をパチクリさせて老店主の顔を見つめてしまった。『この人なに言ってるの?』 という当惑が消えてしまっている。つい数秒前まで確かに感じていたのに。
 この人は怪しい人だ。そう自分に言い聞かせてみる。
 それでも、怪しいと思えない。
 まるで洗脳だ。このナイフの力は本物だ。
「すごい……」
 思わず感嘆の声を漏らすわたしに、店主はあらためてナイフを差し出してきた。
「お貸しします。きっとお役に立ちますよ」
「はい。ありがとうございます」
 わたしは受け取った。ツタ模様の輝く黒い柄を、強く握り締める。

 3

 高揚した気分で、商店街を足早に抜けて家に戻った。
 このナイフさえあれば。
 わたしのアパートが見えてきた。
 二階建てで、あんまり女性が住むようには見えない瓦葺きの古臭いアパート。部屋の窓で明かりがついているのはたった一室。住んでるのは一人ものばかりだから、まだ帰ってないのだ。
 と、気づいた。
 アパートの前に、黒い塊が。誰かがうずくまっている。
 わたしが近づくと、勢いよく起き上がった。
「カスミさん!」
 あいつだ。家で待ちぶせしてたんだ。
 なんのつもりか、細い体をタキシードに包んで、大きな花束を持っている。
「手紙、読んでくれましたよね!?」
 大声を上げて走りよってきた。
 わたしの手を力いっぱい握ってきた。
「いたっ。いたいっ」
 眼をキラキラ光らせて猛烈な勢いでまくしたてる。わたしの顔面に大きな花束を押しつけてくる。
「今日はぜひ、カスミさんにこれを受け取って欲しく て。探したんです。この花はカスミ草というんんです。ほら、小さな花がたくさん連なってまるで霞みたいですよね。いや違うんです。名前がカスミだかって安 易なことじゃなくて。この花の素朴な可憐さが、カスミさんに捧げるにふさわしいと思って!」
 やっぱり怖い。こうして面と向かっていると体が震える。腕に鳥肌が立っちゃう。
 この人には、生身のわたしのことなんかなにも見えてない。わたしの声も届かない。
 こんな「好き」には絶対耐えられない。
「やめて!」
 わたしは彼の手を払いのけた。カスミ草の花束が吹っ飛んで宙に舞った。
 とたん、彼の表情が一変する。街灯の薄暗がりの下でもはっきり分かった。陶然としていた眼がすわり、口の端から泡状のヨダレがこぼれる。頬が痙攣する。
「なんで、なんでわかってくれないのカスミさん!」
 彼は絶叫する。その目から涙があふれた。
 わたしはその瞬間、ポケットからナイフを取り出す。
 鞘から勢いよく引き抜き、彼の前で刃をひるがえす。
 ぶちんっ!
 ゴムの切れる音が盛大に響いた。わたしの頭の中に白い閃光がフラッシュした。よろめいた。
 彼の受けたショックはわたし以上だった。そのまま地面に尻餅をついて頭を抱え、絶叫する。
「あーっ!」
 そして、頭から手を離して、ポカンとした顔であたりを見回す。
 わたしを見上げる。
「……だれ? おねえさん」
 あっけにとられた。
「わたしが誰だか、わからないんですか?」
「あー……カスミ……さん?」
 彼は頭を左右にゆっくり振りながら、たどたどしく言った。うるんだ目がくりくりとよく動く。
 まるで幼児だ。
「ああ……そういえば、前、職場にそんな人がいたよねえ。おひさしぶりぃ」
 そこでパンと手を叩く。
「おもいだした。なんか、ボク、カスミさんをおこらせちゃったんだね。ごめんね。それじゃ」
 あっさり言って、花束を拾いもせずに、そのまま歩き去っていった。
 振り向きもしない。猫背で、頭をゆっくり振りながらノロノロ歩いていく後ろ姿は、なんとなく夢遊病を連想させる。
 彼の姿が曲がり角を曲がって家の向こうに消えた。
 わたしは呟く。
「すごい、こんなに簡単に……」
 そのあと自分の部屋に戻って、とっておきの豆でコーヒーを淹れた。飲みながら、たまっていたビデオを見た。
 その日はぐっすり眠れた。

 4

 次の日の昼休み、会社の給湯室で。
 わたしが自分用のコーヒーを入れていると、後ろからサヤカが話しかけてきた。
「カスミー。メール読んだよ。ストーカー撃退できたんだって?」
 振り向くと、大柄でロングヘアの美人が、サヤカが、満面の笑みを浮かべていた。
 見ているだけで幸福な気分になる晴れがましい笑顔だった。他人のことなのに、ここまで喜んでくれるなんて。
「うん、そうなの」
「いったいどうやったの?」
「それは……」
 わたしは口ごもった。
 ナイフのことを話していいものかな。
 一瞬とまどっているうちに、サヤカが話題を変えた。
「それにしてもキモかったよね、あいつ」
 わたしの口から、とっさに言葉が出た。
「そう?」
 言った瞬間、わたしは当惑した。
 キモかったに決まってるじゃない。
 なんで「そう?」なんて言うの?
 サヤカも目を丸くする。
「そんな他人事みたいに。アレだけ嫌がってたじゃない」
「そうなんだけど……」
 わたしは口元に手を当てて、眉間にシワを寄せ、昨日のことを必死に思い出す。
 あいつは気持ち悪かった。恐かった。そのはず。
 それなのに……
 あいつを怖いと感じる心が消えてしまった。
 いったいどうなってるの?

 5

 仕事が終わってすぐ、わたしは例のナイフ店を訪れた。
 起こったことを一通り話すと、老店主は静かな笑みを浮かべてうなずいた。
「それは当然のことです、お客さん。人の想いというのは双方向のものですから」
「意味が分かりません」
「ストーカーはお客さんに欲望を向けていた。ナイフを振るってその欲望を切断した。そのとき、お客さんがストーカーに向けていた想いも切断されたんです。怖い、気持ち悪い、という思いも」
「じゃあ……」
 自分の胸にバッグを押し当てた。きっとわたしは今、青ざめている。
 知らない間に人格改造されたようものだ。
「これからずっと、『あのストーカーが怖い』って思わないんですか?」
「そうです。切った心は二度と戻らない」
 老店主はあっさりとうなずく。
「ひどいじゃないですか。こんな副作用があるなんて聞いていません」
「そう怒らないでください、お客さん。使い方しだいな のです。このナイフで高所恐怖症を克服した人がいます。アルコール依存症などにもきわめて有効です。どうしても諦めきれない恋心を、きれいさっぱり忘れ去 ることもできます。想いを喪うのが悪いこととは限りません。もう少し試してみてはいかがですか」
「それは……」
 わたしは口ごもった。
 そういわれてみれば。
 ストーカーをキモイと思わなくなったのは、いまのところ実害ないし……
「わかりました。もう少し使ってみます」
 使いすぎなければ、いいんだよね。

 6

 冷たい土砂降りの雨に打たれながら、わたしは息を切らして夜の住宅地を走っていた。
 家で誰かが待っているわけじゃない。
 でも、急いでいた。
 傘を差しても防ぎきれない雨が、顔面に吹きつけてくる。額に髪の毛が張りついて気持ち悪い。
 うざったい。この気持ち、切りたいなあ。
 風も冷たい。ほっぺたあたりは感覚がなくなってくる。まだ十二月、冬はまだまだ続く、嫌だなあ。
 この不安も、寒さも、切りたいなあ。
 アパートにたどりつき、鍵を開けて部屋の中に転がりこむ。
 傘をみっともなく無造作に放り出す。すっかりぬれて重くなっているダウンジャケットを脱いだ。ベッドに腰掛けて一息つく。
 ぽつりと呟く。
「もう耐えられない……」
 ナイフをカバンの中から出す。
「切りたい、切りたい、切りたい……」
 ナイフを握った手が、震えている。
 今日、ナイフを持ったまま職場に行った。
 一日中、「切りたい、切りたい、この気持ちを切りたい」と思ってばかりだった。
 朝寒い。切りたい。通勤電車が混んでいて嫌だ。切りたい。
 お昼ごはん、評判の店に行きたかったのに同僚のおしゃべりに捕まって、時間が足りなくなった。うっとおしい。切りたい。
 仕事が終わって、帰ってくるときも、頭の中は切りたい、切りたい、そればかり。
 日常には小さなストレスがあふれている。
 いままでは「仕方ない」と我慢できた。
 でも「このナイフさえあれば、どんなストレスも、イライラも消せる」。
 だから使いたくて使いたくて、小さなストレスが我慢できない。町を歩いてるときはバッグに手を突っこんでナイフに触っている。仕事中も「ここでナイフを一振りすれば」ってそんなことばかり考えている。
 おかげで頭痛になった。額に手をあてる。 
「だめ……この頭痛も切りたい……切れるかな……」
 今日はお酒でも飲んで、もう早く寝てしまおう。
 ベッドから立ち上がったそのとき、電話が鳴り出す。
「……もしもし」
 サヤカかな、と思ったけど、サヤカが固定電話のほうにかけてくるなんて今までなかった。
『あたしだけど』
 サヤカじゃない。低くて、疲れた感じの女性の声。実家の母さんだ。
「あ、母さん。久しぶり」
『あんた、年末の休みは取れそう? 何日にする?』
「は?」
 一瞬、母さんが何を言ってるのかわからず、ポカンとした。
『ほら! 年末くらいうちに顔見せに来なさいって言ったでしょ!』
 ああ、そういえば数日前、そんな話をした。
 ストーカー騒ぎでそれどころではなかったのですっかり忘れていた。
「ご、ごめん忘れてた」
『あんたねぇ……洋一おじさんなんかもお前に会えるのを楽しみしてるのに……』
「わかったから、また今度ね。職場のみんなのシフトを確認しないと休めないし」
 電話を切ろうとしたら、母は急に声をあらげた。
『そんないい加減なことでどうするの? もともとあたしは女が都会で働くなんて認めてなかったのに、あんたがたまには顔を見せるって言うから……』
 母さんの説教がはじまった。いつも長いのだ。
『電話屋なんかで半端な仕事して、将来どうするのって話を。洋一おじさんのところで一人、いい話があるの』
「お見合いの話ならいいわよ。間にあってる」
 わたしは大きな声を上げて断った。それでも母さんは説教を続ける。
『だいたいね、あんたはおねえちゃんなんだし、お前みたいのをもらってくれ……』
 うざったいなあ。でも途中で切ったら「何であたしの話をきかないの」ってもっと怒られるよなあ。
 受話器を握り締める手に力がこもる。このままノラリクラリと逃げ切れないかな。
 と、気づいた。
 わたしの左手は受話器を握っている。
 右手は、何を握ってる?
 ナイフだ。ナイフの柄の固い感触が掌の中にある。
 ナイフを持って、刃を出して、受話器に押し当てているんだ。
 ぞっとした。背筋に悪寒が走った。無意識のうちに切ろうとしてたんだ。
「やめて、母さん……」
 お願いだから黙って。これ以上喋ると、わたし切っちゃう。
 母さんの気持ちを、切っちゃう。
 簡単なこと。刃をすうっと軽く、横に動かすだけ。
『はあ、何よ。昔っからあんたはあたしの言うこときかない子だったわねえ。それで、あたしの意見を無視して就職して、いいことあった? 素直にきいてたほうがよかったんじゃない?』
 ダメ。ますます説教が激しくなった。
 わたしは目を閉じる。受話器をますます強く握り締め る。プラスチックがきしんでギリギリと音が鳴る。右手のほうもナイフを離せない。刃を受話器に当てたままだ。引いちゃダメだ、引いたら……それなのに手が 動かない。手が震えだし、刃の先端が受話器に当たってガチガチ、ガチガチ。
『ちょっとカスミ、きいてるの? なに、このガチガチって音?』
 真っ暗闇の中で、母さんの声がうるさく響く。
 もっと激しく、ガチガチガチガチガチッ。
 わたしは熱病のように激しい吐息と一緒に、泣きそうな声を出した。
「黙って。黙って母さん。お願いだから。そうしないとわたし、切っちゃう」
 切ればいい。そうすればもう、母さんはわたしのことなんてどうでもよくなる。
 もう一生、わたしを心配しない。わたしを怒らない。
 一生。一生。一生……!
 切りたいという気持ちがどんどん高まっていく。
 でも、同時に母さんとの思い出が胸のうちで蘇る。
 小さい頃は近所の悪ガキと一緒に遊んでいて、「この子大丈夫かしら、お人形とかで遊ばせたほうがいいかしら」と困っていた母。
 わたしが小学生のとき、泣かされて帰ってきたら学校まで乗り込んでいって先生を呆れさせた母さん。
 中学のとき、わたしが男友達と遊んでいただけなのに彼氏ができたと勘違いして、誰も訊いてないのに自分の恋愛体験を話し始めた母さん。
 高校のとき、つきあいだした彼氏がバイク乗りだったので後ろの乗せてもらって帰ったら、「カスミが暴走族に!」と大騒ぎした母さん。
 そそっかしくて、うざったくて、痛い人だった。
「切りたい……切り……」
『ちょっとカスミ、あんたなにいってんの? どうしたの?』
「切り……」
 できない!
 ここでナイフを一振り、母さんとの間の気持ちを全部消して……できない、そんなこと!
 だって、痛い人だったけど、大切だもの。これを振ったとたん、母さんは他人になる。「娘? そういえば、いたわねえ」になる。
「あああ……!」
 わたしの口から激しい嗚咽がほとばしった。相変わらず目をつぶっているので視界は真っ暗なまま。目頭が熱い。わたし、泣いてるんだ。掌の中で激痛がはじけた。ヌルヌルする。
 目を開けてみた。わたしは、顔のすぐ目の前でナイフの刃を握り締めていた。右手は血まみれだ。
 痛みのおかげで、『切りたい! うざったさを切りたい!』がやわらいだ。
 すうっ。はぁっ。大きく深呼吸して、心を落ち着ける。
『どうしたの? ねえ、どうしたの?』
 わたしの様子が尋常じゃないと感づいたのか、母さんは切羽詰った声で何度も呼びかけてくる。
「ううん。なんでもないよ。いつもありがとうね、母さん」
 涙声を気づかれたくなくて、無理やり明るく言った。
 そして受話器を放り出し、ベッドに倒れこんだ。
 血まみれの手からナイフが滑り落ちた。
「わたし……ばかみたいだよね」
 真っ赤な手を上げて、天井の蛍光灯の下にかざす。
 それでも、ナイフを手放そうという気にはなれない。手放すのが怖い。
 ナイフを手放してしまったら、辛いとか、嫌だとか感じたときにそのまま受け止めるしかなくなる。
 「あのナイフさえあれば」って、毎日思うだろう。
 考えただけで、また身震いに襲われた。
「やっぱり、ばかだ……」
 もうナイフから離れられない。こんなに恐ろしいナイフなのに。
 
 7

 サヤカにナイフのことを話そうと決めた。
 一人で抱えこんでいるから辛いんだ。
 次の日、仕事が終わったあとで、わたしはサヤカを喫茶店に誘った。
 会社近くにこないだ開店した店で、個人経営。ゆったりとしたフカフカの椅子と大きなテーブルは高級感がある。ふだんドトールにばかり行っている貧乏なわたしには、まるで別世界だ。
 壁際の席に座って、壁に飾ってある絵を眺める。
 店主なのか店主の奥さんなのか、ぽっちゃり太った中年の女性がやってきた。
「ご注文はお決まりですか?」
「あたしはミックスサンドイッチと、ブルーベリーベーグル。あとヨーグルトと、あとミルクティーを。ダージリンで」
 サヤカはぱっちりした釣り目をかわいらしく輝かせて注文する。これだけ食べてもスラッとしているのだから世の中理不尽だ。
「あんたは?」
「わたしは……アイスコーヒーでいいや」
「ここ紅茶がオススメって書いてあるわよ?」
「そうだね、じゃあ紅茶で、サヤカと同じのでいいよ。ところで……」
 わたしは姿勢を正して、サヤカの大きな瞳を真正面から見つめた。
「……どうしたの?」
「サヤカ、知りたがってたでしょ。どうしてわたしがストーカーから逃れられたのか」
「うん。なんで? 親とか?」
 興味津々、身を乗り出す勢いで訊いてくるサヤカ。
 わたしはもってきたカバンから、ハンドタオルでくるんであるナイフを取り出す。
 タオルをほどいて、テーブルの上にナイフを置く。
 冗談に聞こえないよう、まじめな顔をつくって、落ち着いた声で言う。
「このナイフには不思議な力があるの」
 サヤカは目をパチクリさせる。
「え……意味がわかんない。オカルトとかやる人だったっけ?」
「そういうのじゃなくて。これは本物なの。『想い』『気持ち』をスッパリ切ることができる。たとえば、わたしとサヤカの間でこのナイフを振ったら、友達だとか、好きとか嫌いとか、お互いの気持ちが全部なくなるの。まったく興味のない他人になって、二度と戻らないの」
 喋っている間、わたしはサヤカの表情をずっと確認していた。笑い出したりしないかって。
 心配は無用だった。最初は驚いていたけど、いまは淡いルージュの引かれた唇をきゅっと引き締めている。表情は恐ろしく真剣だ。
「で、ストーカーを撃退できたのも、このナイフの力。これがあると『ちょっと辛い』だけで気持ちを切りたくなって、恐いけど。ね、サヤカ……」
「貸して!」
 わたしの話を遮り、サヤカがナイフをひったくった。
 わたしは当惑した。あっさり信じてくれて楽だけど、この反応は何?
「あ……使いたいの? うん、たしかに便利だけど、切った想いは戻らないから慎重に……」
「いいから! これで払って!」
 サヤカは勢いよく立ち上がった。財布から千円札を一枚出すとテーブルに叩きつけ、椅子にかけてたコートを持って、店を飛び出していく。もちろんナイフも持ったまま。
「ちょ、ちょっと!」
 わたしも立ち上がり、追いかけようとドアに走る。
 しかし、
「お客さん! 代金!」
 中年女性の焦った声が響いた。
 お金を払い終わって店を出た。
 たった十秒そこそこの遅れだったが決定的だった。
 わたしは周囲を見回した。駅前の繁華街だ。八階建ての大きな駅ビル。ロータリーを囲んでデパートとかパチンコ屋さんとか居酒屋がネオンを輝かせている。マフラーにコート姿で家路を急ぐ人たち。バスがうなりを上げて目の前を横切ってゆく。
「サヤカ! サヤカ!」
 いない。
 駅前の雑踏の中に、サヤカの姿はなかった。
 何度も何度もケイタイに電話したが、誰も出ない。
 わたしは町を歩き出した。あてはない。だがサヤカを見つけたかった。あの切迫はただごとじゃない。
「いったいどうしたの……」
 いますぐ切りたい想いが、サヤカにはあったのか。
 かつてサヤカから受けた恋愛相談が胸に蘇った。
 そうだね。あなたはわたしなんかより、ずっと切りたい思いを抱えていたんだね。
 それなのに、軽い気持ちでナイフのことを教えた。
 わたしは、やっぱりばかだ。
 どこにいる、サヤカ。
 また周囲を見回す。
 ちがう、サヤカはこんなところにはいない。
 サヤカのやりたいことは、恋人関連。
 ナイフの力で何をする……?
 彼氏を探すだろう。そのあとは?
 わたしはすぐにケイタイを手にした。会社にかける。
「……もしもし。わたしです。はい。森塚です。……人事のファイル、ありますよね、サヤカの、いえ、谷村さんの住所を教えてください! いえ、本人と連絡が取れないんです!」 
 
 8

 会社の人たちは渋っていたが、なんとかサヤカの住所を聞き出して、わたしはサヤカの家に向かった。
 すでに夜十時を回っている。人通りの少ない住宅地を走って、マンションにたどり着いた。わたしのアパートよりはマシだけど、いまどきオートロックもない、クリーム色の塗装がところどころはげた古いマンションだ。
 サヤカの家は四階。階段を駆け上がる。ここまでずっと走り通しだったので、ふくらはぎが破裂しそうに痛い。がまんする。サヤカはきっと、それどころじゃない状況だ。一瞬でも早く着くんだ。
 サヤカの部屋のインターホンを鳴らした。誰も出ない。ドアを叩く。わたしの胸の中の不安がどんどん高まってゆく。
 ドアノブに手をかけた。
 回った。鍵がかかってない。
「ああ……!」
 この瞬間、すべては遅かったんだなってわかった。
「サヤカ、わたしだよ。入るよ!」
 家の中に踏みこんだ。明かりがついていない。暖房もない。入ったその瞬間、濃厚な異臭が鼻を突いた。男性経験の乏しいわたしでも知っている。これは精液の臭いだ。
 家の中はワンルームだった。 
 暗い部屋の中にはベッドが置かれ、全裸の男女が睦みあっていた。
 男がベッドに横たわり、その上にのしかかった女が、髪を振り乱して男の股間に舌を這わせている。男のほうも女の腰に手を回して、女の股間に顔をうずめている。粘膜のこすれ合う激しい音。
 間違いなく女はサヤカだ。大きく膨らんだ乳房にも、張りのありそうな腰にも、汗がうっすらと浮いている。サヤカは青年の厚い胸板を抱きしめ、口を半開きにして、両手を青年の股間に伸ばしていた。
 男のほうは、薄暗がりの中でも鍛えられた筋肉がよくわかる、長身の青年。
 ふたりとも、わたしが入ってきたことにはまるで気づきもせず、互いの体をむさぼりあっている。
 小さな常夜灯の光だけでもわかった。ふたりとも、とろんした表情。なにかに酔いしれているような表情。目の焦点はまったく合ってない。
「サヤカ……」
 わたしは部屋の明かりをつけて、呼びかけた。それでも二人は反応しない。サヤカは体を起こし、青年の腰の上にまたがった。激しく尻を上下させ始める。青年が両手でサヤカの乳房をもみしだきはじめる。
「……サヤカ! わたし! わかる! サヤカ!」
 近寄って至近距離で大声を上げた。サヤカの両肩をつかんだ。
 ようやくサヤカが反応した。
「あーっ!」
 裏返った大声をあげた。整った顔をクシャクシャにして、両手をふりまわした。
 拳がわたしの頬を叩いた。
「あーっ! あーっ! うぇーっ!」
 わめくサヤカの眼からボロボロと涙があふれだす。
 まるで、小さな子供だ。おもちゃを取り上げられて暴れだす子供だ。
 わたしが体を硬直させて沈黙すると、ふたりはまた激しく交わり始めた。ぐちゅん、ぐちゅん、粘膜の音だけが途切れることなく響いた。
 部屋の中をよく見れば、ベッドの周囲に、机の上に、丸められたティッシュがたくさん転がっている。
 もうすべては明らかだった。
 わたしの口から、震える声が出た。
「……そうだよね。ぜんぶ切っちゃったんだよね。好きな人のこと以外、全部切っちゃったんだよね」
 まずナイフの力で彼氏を独占して。そのあと、愛し合 うのに邪魔なものを切ったんだろう。切っているうちに、わたしと同じで、どんどん切りたくなった。だから全部切ったんだろう。わたしのことも、常識のこと も、きっと会社のことなんかも忘れた。他人とのコミュニケーションを一切忘れた。だから言葉も忘れた。
 そして、もう、治らない。切ってしまった想いは蘇らない。
 この二人は、互い以外のものは何も見えないのだ。永遠にだ。
「しあわせ、なのかな」
 わたしはつぶやいた。
 
 9

 そのあとわたしは救急車を呼んだ。きっと飲まず食わずでセックスを続けて、死んでしまうから。二人は「あー! あー!」と叫んで悶えながら運ばれていった。

 10

 翌日は休日だった。わたしは朝、ナイフ店を訪れた。
 事の次第を老店主に話した。放しているうちに泣きそうになった。
 わたしが少しでも冷静なら。もっと早くナイフを手放していれば。サヤカを巻きこまず、自分ひとりで解決していれば。ナイフをひったくって逃げたサヤカを、すぐに追いかけて、殴ってでも止めていれば。
 老店主は神妙な顔つきで黙って聞いていた。
 話し終わったら、小さくうなずいた。
「なるほど。たしかにその方は、もう元に戻らないでしょう。どんな治療を受けても、一生『二人だけの世界』です」
「……これ、お返しします」
 わたしはナイフを店主に差し出す。
「ほんとうにいいのですか?」
「……え?」
「罪悪感を感じているのでしょう。ご友人を壊してしまったことに。……このナイフ、あと一度だけ使ってみてはどうです。罪悪感など一振りで消せます」
 わたしは店主のシワだらけの顔を見つめた。邪気のない穏やかな笑みが浮かんでいる。
 そうだ。あと一回。あと一回だけなら。それで苦しみが消える……
 などと悩んでいたのは、ごくわずかな時間だった。
 姿勢を正して、言い切った。
「もう使わないと決めたんです。絶対に。自分が友達をあんな風にしてしまった。もう戻せない。だったら、痛みも忘れません。ずっと覚えて、背負い続けます。……だから、これ、お返しします」
 すると店主は細い腕を伸ばして、わたしの手からナイフを受け取った。
「……あなたは、本当にこのナイフを必要としていない方のようだ」
 顎を撫で、片方の眉を上げて、興味深そうにわたしを見つめていた。
 わたしは無言で頭を下げて店を出た。
 店の外は、さびれた商店街。赤錆シャッターには落書き。むなしく響く、誰も聞かないクリスマスソング。茶髪でヒマそうな顔の少年たちが、こちらに陰気な視線を浴びせながら歩いてくる。
 ちいさなストレスで、イライラで、あふれた世界。
 でもわたしは、歩き出した。
 
 おわり
 

  作者サイトのトップへ    感 想を送る