ナイフに捧げろ 第3話 第1稿

 1

 俺がその町に着いたのは夕暮れ時だった。駅前の広場には大きな木があって、冬の風に枯れ葉を散らしていた。
 駅前にバイクを止め、寂れた商店街を足早に歩きだした。色あせたバイク用革ジャケットのポケットから紙束を取り出す。
 この県内のナイフ屋がすべてリストアップされているものだ。
 次はこの商店街の、ナイフショップ・ミヤサカだ。
 住所を再確認して、また歩きだす。
 そのとき、ポケットの携帯電話が明るい音楽を奏でる。女の子二人が変身して悪と戦う、幼児向けアニメの主題歌だ。娘が好きな曲で、よく調子っぱずれに歌っていた。
 携帯を開く。
「……もしもし」
『あ、主任! 俺です、杉本です』
 電話回線の向こうから聞こえてくるのは若者の声。最近配属されたばかりの部下だ。
「はい。谷口です」
『すいません、今度の日曜なんですけど、おれらだけでは手に負えなくて、主任にも出勤してくれないかなあと……』
「無理です。用事があります」
 俺は八年前からずっと、余暇の全てを娘のために使っている。だから次の日曜も予定がぎっちりだ。ナイフ屋めぐりと、他の遺族との情報交換と、警察にも話を聞きにいきたい。
『そんなあ。聞きましたよ、主任っていっつもいっつも、用事があるって休んでばかりじゃないですか』
 部下の声は軽い。俺をからかっているようだ。
「じっさいに用事があるんです、では失礼します」
『あっ主任』
 ぷつん。
 有無を言わさず電話を切った。俺の評判がますます悪くなるだろうが、仕方がない。出世など、とうに諦めた。娘のことが何よりも優先する。
 と、ここだ。見つけた。
 雑貨屋と、シャッターを閉ざしたままの床屋に挟まれた、ちっぽけな店。
 セピア色のガラス戸には、古風な書体で『ナイフショップ ミヤサカ』と書かれている。
 ガラス戸を開けて店内に入った。
 店内は狭かった。十畳程度の面積で、太った人だと通れないほどびっちりとガラスケースが並んでいる。ガラスケースの中はすべてナイフ。壁にも何百種類ものナイフが飾られている。
 娘の事件について調べるうち、ナイフの知識が身についてしまった。だからこの店は品揃えが良いとわかった。なかでも目立つのは、奥の壁に飾られた牙のようなナイフだ。赤ん坊の腕ほどもあり、大きく湾曲している。もはや刀剣といったほうがいい。インドのククリ・ナイフだ。
「いらっしゃいませー」
 かわいらしい女の声がした。
 驚いて声のほうを見た。店の左奥にはレトロなレジカウンターがあり、若い女が座っている。
 いや、少女と呼びたくなる年齢だ。くりくりと丸い目を俺に向けている。黒髪を伸ばして、小柄な体を漆黒のカーディガンで包み、エプロンをつけている。
 なぜナイフ屋にこんな女の子が?
「どういったものをお探しですか?」
「あ……」
 一瞬驚いたが、俺は少女の元に歩み寄って、言った。
「店長さんはいらっしゃいますか」
 少女は一瞬キョトンとしたが、やがて自分の体を見下ろしてウンウンとうなずき、答えた。
「わたしが店主の宮坂キリノです」
「え……?」
 俺はまた呆けた声を出した。なぜこんな若い女性が? 高校生より上には見えないが。今までいろいろなナイフショップを巡ってきたが、店主は常に中年以上の男性だった。
 俺が口をポカンと開けていると、少女……店主は小首をかしげる。
「お客さん、どこで見たような……」
 パンと手を叩いて、
「あ! もしかして谷口康彦さんですか? 『ナイフ魔事件』のご遺族の」
「はい。知っていましたか。妻ならともかく、私のほうを知っているとは」
「本読みましたよ。『由香、奪われた命』『世界は人殺しの夢で』『青い殺意』『裁かれない少年たち』……」
 どれも俺ではなく、妻の真美子が書いた本だ。たしかに俺のことも書いてあるが。
「ありがとうございます。それで、お願いしたいことがあるのですが」
 少女……店主は顔を伏せ、悲しげな表情を浮かべた。
「もしかして……まだ犯人を捜しておられるんですか」
「はい。もちろんです」
 俺は勢いよくうなずいた。
 俺たちの娘……谷口由香は、八年前の冬に殺された。
 よく晴れた、寒い日だった。小学校が引けたあと、由香はお気に入りのピンクのダウンジャケットを着て、ウサギ耳のついたリュックを背負って友達の家に遊びに行った。
 それきり行方が知れなかった。
 夜になって、空き地の草むらで発見された。
 見るも無残な姿で。
 まだ六歳の由香は、小さな喉をかき切られ、両手足の腱を切られ、腹を十文字に割かれて、内臓をズタズタに寸断されていた。腹の中に鋭い刃物を入れて力の限りかき回したようだった。
 おかしなことに、体がそれだけ切られているのにジャケットやシャツには何の損傷も無かった。裸にしてから切り刻み、服を着せ直したということだろうか。考えただけで吐き気がする。
 駆けつけた時のことをよく覚えている。取り囲んでいる警官たちを押しのけ、小さくて冷たい由香の体を、褐色に染まったをダウンジャケットを抱きしめた。泣くこともできず、俺はただ震えていた。
 由香は最初の一人にすぎなかった。
 それから一ヶ月間で五人もの子供が殺された。殺され方は全く同じ、服は無事で喉が切られ、腹がズタズタにされていた。
 テレビは「謎の連続殺人鬼・ナイフ魔」として大きく取り上げ、犯人像をああだこうだと推測したが、警察の捜査はまったく進まなかった。そのまま八年が過ぎた。
「警察だけにまかせてはおけません」
 そう言って、俺は背負ったリュックからビラを取り出した。
 真ん中に由香のあどけない笑顔の写真。そのまわりには大きな文字で、俺が書いた文章。
 
 『犯人を捜しています

 八年前、わたしたちのかわいい娘、由香(六歳)は殺害されました。
 
 疑わしい人物を見たものはおらず、証拠もなく、警察も手のつけようがない状態です。
 どうか、みなさん力を貸してください。
 由香を奪った犯人が、なんの罰も受けずに高笑いしているかと思うと夜も眠れません。
  
 犯人の特徴

 1、『ナイフに強いこだわりを持つ刃物マニア?』
 犯人は由香の体を何十回も切ったようです。しかもノコギリや鉈ではなく、ナイフだけを使っています。
 
 2、 『殺人や暴力行為に慣れた人間?』
 事件があったのは住宅地。昼間なので数分に一度は人が通っていました。しかし犯人らしき人物は誰も目撃していません。悲鳴を聞いたものもいません。

 一般の皆さんへ
 200×年の1月18日、S県S市M町で、不審な人物、出来事を目にしなかったか、お尋ねしています。
 
 知人の中に、ナイフ、刀剣、暴力行為、小児性愛などに関心を持つ方がいないかお尋ねしています。

 ナイフ店、刀剣店の方へ
 顧客、同業者などでナイフ類に度を越した執着を示すもの、ナイフを使った犯罪に関心のあるもの、などがいないかお尋ねしています。

 有力な情報を提供された方には情報提供料として50万円を差し上げます。

 谷口康彦

 連絡先 TEL ××××
 WEBサイトURL ××××』

 店主は、カーディガンの袖から覗く小さな手でビラを受け取った。
 ビラに目線を落とし、小さな顎に手を当てて、「むー」とうなる。
 やがて顔を上げた。細い形のいい眉が八の字に下がっている。
「これ……情報、集まらないでしょう」
 俺はうなずいた。
「はい。さっぱりです。妻の真美子などは諦めています。『もう犯人を捜すのはダメだから、こんな事件が起こってしまう世の中を変えよう、もう二度と起こらないようにする、それが弔いだ』と言っています」
「なるほど。だからあの人は本を出したり、テレビのコメンテイターさんやってるんですね」
「はい、そういうことです」
 事件後、俺はいつまでも犯人を捜し続けた。
 だが真美子は、体験談や娘の思い出などをまとめて出版した。
 その本は売れに売れた。文才があったのだろうし、たまたま大物エッセイストが死去したこともあって出版社のプッシュを受け、彼女はベストセラー作家になった。その後、教育問題や児童福祉、犯罪者の更生などさまざまな本を出し、テレビの常連にもなっている。
 店主はしばらくビラを見つめていた。
「あの……なにかお心当たりでも?」
 俺が声をかけると、店主はまた顔を上げ、俺の顔を見つめてきた。ひどく真面目な、思いつめたような表情だ。そのまま黙っている。
 間近で見る店主の顔立ちは、極上の和人形のように整っている。シミひとつない雪のような肌、あどけなさと深い知性の同居するつぶらな瞳。
 由香もつややかな長い髪で、白い肌とくりくりした大きな目の持ち主だった。生きていたら十四歳。ちょうどこんな感じか。俺は胸に苦しさを覚えて、手を当てた。
「……谷口さん」
 沈痛な表情のまま、店主は口を開いた。
「どうしても、犯人を知りたいですか」
 即答した。胸の中で四六時中うずまいているドロドロした情念を吐き出した。
「もちろんです。どうしても、罰を下してやりたい。警察に突き出してやりたい。娘が、由香が土の下に行ったあの日から、私は、俺は、何も他のことが考えられないんです。何を食べても、寝ているときも、どんな本を読んでいるときも……」
 言っているうちに感情が高ぶってきた。目頭が熱くなる。頬を涙が伝った。俺の体は小刻みに震えていた。昔から涙もろくて、由香にも真美子にも「オトナでしょ?」とよく笑われた。だが、娘のために泣くことが恥だとは思わない。
「そうですか」
 店主はぺこりと頭を下げ、カウンターの下をゴソゴソとまさぐった。
 何かを取り出す。布で包まれた細長いものだ。店主は慎重な手つきで布を解く。中から出てきたのは、一振りのナイフだ。柄も鞘も、まるで真鍮細工のように金色に輝き、きらびやかな装飾が施され、鞘には真紅の十字が刻まれている。
 ファンタジー映画に出てくる魔法の剣のようだ、と思った。
 店主は、その黄金ナイフを俺に差し出した。
「このナイフを使ってはどうでしょう?」
「このナイフを……使う?」
 意味がわからない。俺はオウム返しに尋ねた。
「娘さんに直接聞くんですよ、犯人のことを」
 一瞬、自分の耳を疑った。ついで、この女が冗談を言っているのだと思った。だが店主は真面目そのものの表情で、眉間にかわいらしい皺まで寄せて語る。
「このナイフには、冥界の死者と交信する力が備わっています。このナイフで生き物を殺し、生贄に捧げれば、あなたの望む死者と会話できるようになるのです。霊を呼び出すわけじゃなくて単なる交信ですから、残念ながら、会話以外のことはできないんですけど」
「な……」
 がん、と頭を殴りつけられたような衝撃。俺の口から、言葉にならない声が漏れた。
 ついで、静かな怒りがこみあげてきた。
 からかっているのか、それとも……自称霊能者か。
 由香を亡くしてからしばらくの間、この手の連中がよく近づいてきた。
『わたしの霊力で娘さんと話をする』
『この教えを信ずれば娘さんは神の王国に行ける』
『娘さんがああなったのは仏法に帰依しなかったから』
 もう、うんざりだ。
 俺は店主を睨みつけ、彼女の手を強く払いのけた。
「馬鹿なことを言わないでください! オカルト宗教は飽き飽きだ」
 すると店主は困惑の笑みを浮かべて首を振る。
「えと、えと。そうじゃなくって。うちの子たちは、普通のオカルトとはちょっと違うんです」
「とにかく、霊感商法にも宗教にも興味が……」
 ありません、と俺は言おうとした。
 その言葉を言い終わるより早く、店主が動いた。手の中の黄金ナイフを抜き放ち、長い黒髪をゆすり、思いっきりジャンプした。
「えいっ!」
 俺は慌てて跳びのいた。ナイフの刃が、俺の顔のすぐそばをかすめる。
 飛んでいた一匹の蛾を、まっ二つに引き裂いた。
 その途端、ナイフが白く発光した。店主は輝くナイフを高く掲げ、澄んだ声で叫んだ。
「われ、汝に血と魂を捧げん! ナイフよ、願わくば冥府の底より、谷口由香の声を届けたまえ!」
 ナイフの発光がますます激しくなった。もう直視することもできない。太陽ほどの輝きだ。
 そして、声が聞こえた。
『……だれ? だれかいるの?』
 幼い女の声だ。俺の心臓が跳ね上がった。この声は。八年間聞いたことがない声。だが八年間決して忘れなかった声。
 由香だ。由香の声だ。
「ゆ、ゆかぁっ!」
 俺は裏返った声で叫んだ。
『おとうさん、おとうさんなの!?』
 また声がした。ナイフだ。輝くナイフから声が。
 俺は眩しい光の中に手を伸ばして、手さぐりでナイフを掴んだ。痛い。皮膚の切れる感触。
 気にしない。俺は顔をナイフに近づけ、至近距離から叫んだ。
「そうだ、俺だ。父さんだ!」
『おとうさん! あいたかっ……』
 その瞬間、由香の声が途切れた。光が消えた。スイッチを切ったように唐突に消滅した。
「ああっ……」
 俺は叫んで、ますます強くナイフを握りしめた。店主の手から奪い取る。
 もうナイフは単に、蛍光灯を反射して鈍く光るだけだった。声も出ない。
 俺は目をこすった。
 店主に向き直って、問いかけた。
「……どういうことです、これ」
「見ての通りです。娘さんとお話できたでしょう?」
 店主は嬉しそうな表情だ。
「トリックだ。ありえない」
 俺は上ずった声を出した。
「でも、記憶どおりの声でしょう?」
「じゃあ、俺の幻覚だ」
「そう思うなら、それでもいいです」
 笑顔を消し、急に真面目な顔になって店主はうなずく。
「谷口さんが何を望むのか、です。娘さんより、常識を守るほうが大事なんですか?」
「うっ……」
 言葉につまった。俺は空いているほうの手を胸に当て、店主と見つめあった。店主は真面目な表情だが、黒目がちな瞳はキラキラと輝いていた。俺はこれがどんな目だか知っていた。「好奇心」の目だ。
 しばらく俺は沈黙した。だが答えは決まっていた。「死後の世界などありえない」? だからどうした。科学の常識が何だというのだ。娘と話せる、その喜びに比べれば。
 俺は姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「すみませんでした。このナイフ、譲ってください」
 すると店主はあっさり言った。
「はい。わかりました。大事にしてくださいね」
 俺は顔を上げて、
「おいくらでしょうか」
 心霊や宗教にかかわったら莫大な金を吸い上げられることがある。『五百万円です』などと言われたらどうしようか。いや、借金してでも必ず手に入れる。
「お金は必要ありませんです、はい」
 店主は再び笑顔を浮かべて、店内をぐるっと見渡す。
「うちの子たち……ナイフたちを、心から欲してくれるお客さんであれば」
 即座に俺の口から言葉が飛び出した。
「もちろんです。俺は今、そのナイフが欲しくて仕方ない」
 店主は笑顔のままうなずいた。カウンターの下から白い布を出してナイフの刃を拭き取り、鞘に収めて、うやうやしい動作で差し出した。
 俺は受け取った。真冬なのに、柄が汗でぬめった。緊張と動揺で汗をかいているのだ。
「では、使い方を説明します。先ほどお見せしたように、このナイフは命を捧げることで力を発揮します。このナイフで生き物を殺しながら、ナイフに訴えてく ださい。『血と魂を捧げる、だれだれの声を届けたまえ』って。交信できる時間は、魂の質と量に比例します。昆虫なら、十秒。金魚なら三十秒。ネズミさんと か小鳥さんなら、二分。そうですねえ、犬さん猫さんなら五分くらいはいけるでしょう。あ、でも……」
 店主は表情を曇らせた。指を一本立てる。
「ひとつだけ忠告しておきます。死者の言葉は、幸福をもたらしてくれるとは限らないです。聞くんじゃなかった、という人も大勢います」
 誰が後悔などするものか。
「わかりました」
 俺が言うと、店主は大げさに頭を下げた。長い黒髪がサラリ、と流れた。
「では、大事にしてあげてくださいね」

 2

 次の日、例によって仕事を早く切り上げ、俺は家に帰ってきた。
 普段、通勤にはバイクを使うが、今日に限ってはバスと電車だ。荷物が多すぎてバイクでは運べないのだ。
 家の近く、住宅地のバス停でバス停を降りる。
 両手には大型のケージを二つずつ持っている。右手は昨日怪我をしたので、ケージの取っ手が傷に食いこんで痛い。
 俺は住宅地を歩き出した。ケージの中からはガタガタと音がする。
 大型ペットショップに寄って、ジャンガリアンハムスターを二十匹買ったのだ。店員は「なんだこいつ?」という目をしていた。
 少し買いすぎたか。いや、これでも足りないくらいだ。ハムスター二十匹を生贄にして、わずか四十分しか会話できないのだ。
 高台にある高層マンション。まわりは緑に囲まれている。ここが俺の家だ。
 マンションの集合ポストをのぞきこんだ。中に大きな封筒が入っている。
 手にとると、差出人は『谷口 真美子』。
 ああ、また本を送ってきたのか。
 袋を開けてみる。出てきたのは一冊のハードカバーだ。
 
 『真美子さんに訊いてみよう
 悩める女性たち100問100答』
 
 表紙では、背のスラリと高い眼鏡美人が微笑んでいる。豊かな黒髪をアップにして広い額をさらしている。額の下にはトレードマークである赤いセルフレーム の眼鏡が光り、キツさと知性を同時に感じさせる切れ長の吊り眼がある。顔立ちも服装も派手目で、「女優だ」と言われればみんな納得するだろう。
 とても三十代後半には見えない。俺のところにいた頃より若くなってる。
 これが俺の妻、真美子だ。いまは別居中だが。もともと良くなかった夫婦仲は、由香がいなくなってからの五年でますます悪くなった。
 パラパラと中身をめくってみると、人生相談だった。女性週刊誌でやってる連載をまとめたものらしい。回答者が「真美子さま、どうしましょう」とか言って、真美子が断定口調で答えていた。
「真美子さまか……教祖だね、もはや」
 俺はため息をつく。
 凄いとは思うが、やはり妻のことを考えると胸の中にドロドロしたやりきれない想いが沸き起こる。
 娘の死を金儲けに使っている、利用して成り上がった、という気がするのだ。昔はもっと優しい女だったのに。
 しばらく物思いにふけっていた俺は、足元から聞こえるゴトゴトという音に我に返った。
 いかん、ハムスター二十匹なんて変に思われる。誰かに見られる前に、早く家に持っていこう。
「よいしょっ」
 俺はハムスターのケージ四つを持って、また歩き出した。エレベーターで八階まで上がる。廊下からは夜の住宅地と国道が見下ろせた。
 802号室、俺の家に入る。
「ただいま」
 誰もいなくとも、俺は頭を下げて挨拶をする。
 挨拶しないと、由香は「もーっ」と怒ったからだ。
 2LDKのマンションだ。真美子と別居して、今は一人暮らしだから広すぎるほどだが、引っ越す気にはなれない。
 玄関を入って右の手前に、由香の部屋がある。いまも由香がいたころのままにしてある、ヌイグルミも図鑑もサッカーボールも置いたままの、由香の部屋。
 ここで作業するか? いや、由香の部屋で血を流すのは、何か嫌だ。俺の部屋でやろう。
 俺は上着をハンガーに掛けて、自分の部屋に向かった。
 俺の部屋はフローリングの六畳で、大きな机と本箱に占領されている。
 はっきり言って殺風景だ。
 机の上も、本箱も、同じ形のファイルがズラリと並んでいる。すべて事件の資料だ。
 昔はマンガも小説も置いてあったが、売り払った。ファイル以外にあるのは、真美子が出した一連の本だけだ。
 他には、ノートパソコンが一台、バイク用の革ジャケットやグローブ、ヘルメットが壁に掛けてある。
 趣味のものが極端に少ない。当然かもしれない。この八年、俺の人生は由香のためだけにあったのだから。
 俺は床にケージを置いたが、ふと『このままだと床を汚す』と思った。ひとまずベランダに行って古新聞を取ってきて、床に敷き詰めた。
 よし、これでいい。
 俺はケージに手を入れた。中で群れている灰色のハムスターのうち一匹をつまみ出す。鶏の卵くらいしかないちっぽけな生き物だ。
 左手でハムスターを握って新聞紙に押し付ける。右手で黄金のナイフを握る。
 俺の殺意を悟ってか、ハムスターは小さな足を俺の手に食いこませ、激しく暴れる。
 俺は息を止めた。やはり生き物を殺すときは緊張する。ペット虐待は立派な犯罪だ。
「はっ」
 止めた息を吐き、その瞬間にナイフを閃かせてハムスターの胴体ど真ん中に突き立てる。
 ゴリン、何かに当たった。骨だ。硬い。押し込むと、ナイフはそのまま骨を切断してハムスターの体を貫き、反対側から飛び出した。体から真っ赤な鮮血が噴き出して、俺の手を汚す。
 ナイフが光り輝き始めた。
 まだだ、もっと殺すんだ。もっと捧げるんだ。
 俺は二匹、三匹目、次々にハムスターを殺戮した。
 十匹目を殺した。そろそろいいか。
「我、ナイフに血と魂を捧げる! 谷口由香の声を届かせたまえ!」
 ナイフの光が閃光に変わった。白い輝きが痛いほど目に突き刺さる。
「由香! 聞こえてるか! 返事をしてくれ」
 光の中心から声が聞こえてきた。
『おとうさん!』
「由香!」
 俺は泣きそうになった。
『おとうさん、おとうさん……! ほんとうにおとうさんなんだね、あのね、あたしさみしかったの。ずっとひとりだったの。こっちではまっくらなの。天使さ んとか、鬼さんとかいないの。ずっと、ずっとまっくらの中に浮かんで、誰もいなくて。ほかの死んだ人もいないの。しゃべることもできなくて。ごはんも食べ られなくて。ずっと、ずっと……さみしかったよお』
 息苦しくなった。罪悪感で胸が痛む。
 なんと辛い思いをさせてしまったのだ、俺は。
 犯人への憎しみも蘇った。
「由香、由香」
 俺はまぶしく輝くナイフを顔の前にかざして、間じかから呼びかけた。
「ごめんな由香。ずっと一人にして。でもいまなら話ができるからな。不思議なナイフを手に入れたんだ。魔法のような力で、死んだ人間と話ができるんだ」
『ほんとう? ずっとお話できるの? もう、ひとりじゃなくてそこにいてくれるのおとうさん』
「ああ、いくらでも話をしよう。こっちの世界では八年も経って、いろいろなことが起こったんだ。話すことはいくらでもあるさ。でも、その前に聞きたいことがあるんだ……」
 俺は一度言葉を切って、唾を呑み込んだ。
「……犯人、覚えてるか」
 俺は声を潜めて言った。
『えっ……』
 ナイフから聞こえてきたのは、おびえて震えた声。
「由香を殺したやつのことだ。顔は覚えてるか。服装は。背は高かったか、低かったか。せめて性別は。頼む、由香、思いだしてくれ」
 俺は涙声で言った。
「辛いだろう、殺された時のことを思いだすのは。わかってるよ由香。でも必要なんだ」
『見えなかった……』
 かすれた声がナイフから聞こえてきた。
『顔とかなにも見えなかったの。後ろからザクって、すごく痛くて逃げ出して、空き地の草の中に逃げて、そしたら追いかけてきて、足音とかなにもしなくて、ただナイフだけがキラっと光って……おなかを刺されて……いたいよ……いたかったよ……』
「見えなかったか……」 
 俺の口から弱々しい声が漏れた。全身を脱力感が包む。ナイフを手から取り落としそうになった。
 これからも地道にビラまきと聞きこみを続けるしかないのか?
 俺はため息を一つついた。だが、もちろん諦めるつもりは無い。
 由香に声をかけた。
「悪かった、由香、嫌なことを思いださせて。大丈夫だ、必ず俺が犯人を見つけてやるから」
『あのね……おとうさん。そういうのはやめて。もういいから。もう、いらないから、犯人とか、探さないでいいから』
「何を言ってるんだ由香。おまえをそんな目にあわせた奴がのうのうとしているなんて、絶対おかしいだろう」
『だから! もういいの。おとうさんまで殺されちゃうよ!』
 由香の語調は強かった。俺は気圧され、息を呑んだ。
『犯人に殺されちゃうよ。探さないで。探したってあたしが生き返るわけじゃないもん。おとうさんまで死んじゃったら、あたし、あたし……』
 声は途切れ、すすり泣きにかわった。
 俺は言葉を失った。反対されるとは思っていなかったのだ。
 だが……そうなのか。警察が役に立たないなら俺がこの手で犯人を探して、裁いてやる……
 すべて自己満足なのか? 由香はちっとも望んでいない?
『あたしは、おはなしできればいいから。おはなしして、おとうさん』
「わかった」
 俺は喋りはじめた。
 この八年、俺がどんな人生を送ってきたか。
「……そんなわけで、いま真美子とは別居してるんだ」
『ええ!? ひどいよおとうさん。おかあさんが、ほんとはさびしがってる人だってしってるでしょ。もう、ツンツン怒ってても、ほんとは一人がいやなの、おかあさんは。なかよくしなきゃだめでしょ』
 由香は怒り出した。まるで自分のほうが親のような口調だ。俺は苦笑した。
 そういえば、生前から由香はそうだったな。
 父と母が喧嘩したとき、泣くのではなく、大人びた説教をするのだ。
 懐かしさで胸がつぶれそうだ。
 俺は話を続けた。
 由香は「うんうん。それで?」と相槌を打ちながら真剣に聴いてくれた。
 世の中ではどんな出来事が起こったか。
 由香の好きなアニメは続編がどんどん作られて、メンバーが五人に増えたとか。
 由香の好きなミスタードーナツにこんな新メニューができた、ということまで。
 話しているうち、俺は夢中になっていた。
 二度とは会えないと思っていた娘がここにいる。こうして会話できる。これって幸せじゃないか。俺はいつしか犯人探しを忘れていた。

 3

 突然、由香が言った。
『ねえ、あたし、おかあさんともしゃべりたい』
「え」
 俺は体を硬直させた。真美子と会話するのは気が重い。過去に何度も喧嘩して、とげとげしい言葉を浴びせ合った。
 それに真美子は俺以上に現実的な人間だ。死者との会話など受け入れるだろうか。
「いや、ちょっと真美子とは……」
『おとうさん、あたし、おかあさんとはなしたい』
 繰り返し言われて、俺はうなずいた。
 わかった。真美子だって娘をないがしろにしているわけじゃない。話せるものなら話したいはずだ。俺との不仲なんて由香には関係ないじゃないか。
「待ってくれ、今電話する」
 俺はズボンから携帯電話を取り出した。まだ目に白い光が焼きついているので、目をこすりながら操作した。
 真美子に電話する。
『はい』
 電話がつながった。聞こえてきたのは不機嫌そうな、低い女の声。この声の真美子はたいてい、原稿を書いて、しかも詰まっているのだ。
「俺だ」
『ああ、康彦さん』
 ますます声のトーンが冷たくなったような気がする。声に混じって明るい歌詞なしのポップスと、『ホットココア追加でーす』というウェイトレスの声が聞こえてくる。
 どうやら喫茶店にいるらしい。真美子は昔から、原稿に詰まるとよくノートパソコンを持って出かけていた。
「驚かないで聞いてくれ。実は俺、いま由香と話しているんだ」
 電話の向こうでは沈黙。驚いて声も出ないのか、俺の正気を疑っているのか。
「いや、本当なんだ。幻覚とかじゃない。不思議な力を持ったナイフがあって……」
『ナイフ?』
「うん。声を聞けば分かると思う。由香も話したがってるんだ」
 俺はそう言って、携帯をナイフに近づけた。
『もしもし、おかあさん?』
 おっかなびっくり、といった感じの由香の声。
 携帯から小さな声が出た。真美子が返事をしたらしい。俺には聞き取れなかった。
『うん。本当だよ。おかあさん、本だしたんだ。すっごい。え、離婚!? ダメだよ、おとうさんとは仲良くね。あたし、前からずっと悲しかったの。けんかするたび悲しかったの。お願いだから、おかあさんも犯人捜さないでね』
 よほど話したいことがたまっていたのか、由香は矢継ぎ早に言葉を繰り出した。携帯からはポツポツと声が漏れるだけだ。真美子はあまり喋っていないようだ。
『え? 犯人のこと? おとうさんと同じこときくんだね。犯人は見えなかったよ。ナイフだけがビューンって、うん』
 しばらく話して、由香が話を打ち切る。
『じゃあね。おかあさん、体に気をつけてね』
「もう、いいのか?」
『うん。おとうさんに代わってって』
 俺は携帯を自分の耳に当てる。
「ほら、嘘じゃなかったろ」
『そうね。不思議なことってあるものね。あの子に怒られちゃった。もっと仲良くって』
「体まで心配されたな。死んだ人に心配されるなんて。……なあ、俺たち、もう少し話し合ってみよう。喧嘩する必要はなかったんじゃないか」
 一瞬の沈黙があった。
『そうかもしれないわね』
 決意を吐き出す、という感じの、緊張した声だった。
 だが、いままでの真美子なら突っぱねていたはずだ。
 由香に諭されて、俺たちは仲直りできるかもしれない。
 携帯を切ったあと、俺は由香に話しかけた。
 ナイフの光が弱くなっている。もうそろそろ限界だ。
「なあ由香、俺、母さんと会ってみるよ」
『それがいいよ。よかった……もうけんかしないでね。約束』
「う、うん。約束、だ」
『おかあさん、よろこんでたよ。あたしと話せてうれしいって。きらわれてたんじゃないかって思ってたの。よかった』
 ナイフに感謝だ。あの店に感謝だ。
 と、そのとき気づいた。
 不思議なナイフ……まさか?
 娘を殺した凶器も、ナイフだと言われている。
「なあ由香。一つだけ聞かせてくれ。犯人のことだけど」
『お父さん。その話はもうしないって』
「ごめん。あと一度だけ。犯人が見えなかったってのは、『よく見えなかった』じゃなくて『本当に、ナイフだけしか見えなかった』のか。人間の体がなくて、ナイフだけが飛んできたのか」
『うん。そうだよ。いってるじゃない。ヒューンって、ナイフが』
 俺の胸の中で心臓が大きく跳ねた。
 やはりそうか。
 犯人が見つからないのは、「不思議な力を持ったナイフ」を使ったから。 
 ナイフだけが生き物のように飛んできたのだ。
 そんな馬鹿な、とは思わない。俺はすでに、この世に魔法が存在することを知っている。
『お父さん……ぶつっ』
 由香の声が途切れた。ナイフの光が消えた。
 ちょうどいい。
 確かめなくては。
 俺は震える指で携帯のボタンを押した。
 ナイフショップ・ミヤサカの電話番号だ。
『はいー。ナイフショップ・ミヤサカです』
 柔らかく、幼い女の声。
「店長さんですね。谷口です。昨日うかがった者です」
『あー谷口さん。いかがでした、当店のナイフは』
「素晴らしいです。でも今はそうじゃなくて……お尋ねしたいことがあるんです。そちらの店では、このナイフ以外にもいろいろと魔法の品を扱っていると思うのですが」
 俺は緊張した。粘っこい唾を呑み込んだ。いまだ焼けるように痛む目を、しばたたかせる。
『いろいろ扱ってますよ、はい』
「空を飛んで自力で人を殺すようなナイフ、ありますか」
 間髪いれず答えが返ってきた。
『ありますよ。猟犬のナイフちゃんですね』
「あるんですか!」
『はい。顔を覚えさせたらどこまでも追いかけて、喉笛をスパッとやっちゃいます。飼い主の言うことをよく聞く、いい子ですよ』
 俺は携帯をきつく握り締め、勢いこんで早口で尋ねた。
「教えてください! 誰に売ったんですか。そのナイフを売りましたよね? 誰に売ったんですか!」
『むー……教えられません。わたし、こう見えても商売やってるひとですから。お客さんの情報はナイショなんです』
「そこをなんとか!」
『そうですねえ……じゃあヒントだけ。うちの子たちって、大部分はただのナイフなんです。不思議なナイフはごく一部で、譲るのは、ある条件を満たしてる相手だけ。たった一つの条件……そのナイフを、心から欲していること』
 俺は沈黙した。
『追いかけて人を殺すナイフ』を『心から欲しがっている人間』。なんだそれは。
 殺し屋? ヤクザ? いや、子供相手なら、変質者ということか。
「もっと詳しく教えてくれ、頼む、金なら払う」
『ダメですよ、お金なんか出されても。あ、すいませんお客さん来ちゃいました。それでは』
 電話が切れた。
 俺は溜息をついた。
 これでは何もわからないのといっしょだ。
 心から欲している人間……
 わからない……
 なにかヒントはないか。俺は部屋中を眺めまわした。
 すっかり部屋は血なまぐさくなっていた。
 床に広がった新聞紙の上には、灰色の物体がゴロゴロ転がっている。すべて、俺が殺したジャンガリアンハムスターだ。
 部屋の隅にはケージが四つ寄せてある。そのうち二つの中では、残りのハムスターがガタガタと蠢いている。さっきより動きが激しくなった気がする。自分たちもすぐ殺される、ということが分かっているのだろうか。
 ハムスター以外には、机と本棚があるが……
 分からない。
 不意に尿意に気づき、便所に行こうと俺は立ち上がった。
 視線が本棚を泳いだ。
 何十も並ぶ事件ファイルの中に混じっている、ハードカバーの本が見えた。真美子が出した本だ。
 かちり、頭の中で何かが繋がった。
 本を出した真美子。ベストセラー作家になった真美子。娘が猟奇殺人で殺されたからこそ、悲劇の登場人物だからこそ真美子の本をみんなが読んだ。
「なっ……まさか。まさかそんな」
 最初から真美子の企みだったとしたら。有名になりたくて、そのために娘の死を心から欲して。
 真美子がデビューした直後、大物エッセイストが事故死した。そのおかげで真美子は出版社のプッシュを受けられた。あの事故も真美子が?
 俺はフラフラと立ちあがった。
 万が一、念のため、確かめるだけさ。
 ずらりと並ぶファイルを一瞥し、『ナイフ魔 類似事件』と書かれたファイルを抜き出す。
 死体になって散らばっているハムスターをよけて歩き、ケージからハムスターを一匹、掴みだした。
 新聞紙の上に転がして、黄金のナイフを勢いよく突き立てる。
「われ、血と魂を捧げる! 高槻信二の声を届けたまえ!」
 
 4

 二十分後、俺は、輝くナイフに焦った声で呼びかけていた。
「間違いないんだね。ナイフだけが飛んできた」
 ナイフが男の子の声で答える。
『うん。プールの帰りだったの。いきなり顔の前でキラっと光って、喉を切られたの。痛くて、声も出せなくて。そのあとナイフが服の中に入って、グサッグサッって。こわいよ、おじさん。ここはさびしいよ』
 いま俺が話を聞いているのは、『ナイフ魔事件』の五人目の被害者。亮という男子小学生だ。
「それで、亮君。殺される前に変わったことはなかったかい」
『知らないおばさんに声をかけられたよ』
 亮は即座に答えた。
『かわいいね、写真撮っていい、って。ぼく、いやがったんだけど、おばさんがスーパーで今川焼き買ってくれたから』
「そ、それで、そのおばさんの外見は」
 俺はどもりながら問いかけた。
 喉がカラカラだ。後ろに手を伸ばして机の上のコップを取り、中の水を飲んだ。
『うん。メガネをかけてた。髪の毛が長くて』
「おでこが広かった?」
『うん』
 ナイフを持ったまま立ち上がろうとして足が滑り、ハムスターの亡骸を膝で潰して這いつくばってしまう。
「……そんな……」
 すべての被害者が同じことを言った。真美子そっくりの女に、携帯で写真を撮られていた。
 これが偶然であるものか。
『ねえ、おじさん。あのおばさんがどうしたの。あのおばさんが犯人なの。だったら、やっつけて。早くやっつけて』
 俺はナイフを口元に近づけた。少年を元気づけてやろうと口を開いたが、俺の口から出たのはかすれた声だけだった。
「……ああ、安心してくれ……そいつが犯人だよ……」
 ナイフの光が消えた。
 ハムスターの死骸は二十に増えていた。
 これで生贄はすべて使い尽くした。
 沈黙したナイフを取り落とし、俺は弱々しく首を振って、うめいた。
「どうすればいい……由香になんて言えばいい……」
 由香は母を愛していた。父と母の不仲を憂いていた。自分の不幸を忘れてまで、母のことを心配した。
 それなのに告発できるか。俺がこの手で殺せるか。
 俺は目を閉じた。そして回想した。
 真美子との思い出のすべてを。 
 何のとりえもなかった俺と、何年も一緒にいてくれた。結婚式で恥ずかしがる俺と、自信たっぷりと構えていた真美子。「お前は尻に敷かれるな」と同僚に笑 われ、そんなことないと反駁したがその通りになった……由香が生まれたとき、俺は仕事を中断してまで駆けつけた。汗まみれの真美子は「なんて無責任な、 社会人でしょ」と叱り、そのあとで「でも、そういうところ好きよ」とニッコリ微笑んでくれた……
 優しい真美子は、すべて偽りだったというのか。信じたくない。
 真美子が死刑になるところを想像した。体が悪寒に包まれ、激しく震えだした。またしても熱い涙が頬を濡らした。
 たとえ喧嘩しても、死んで欲しいと思ったことなど無い。真美子に支えられたことは一度や二度じゃない。
 それに由香とも約束した。真美子と仲良くすると。このまま見なかったことにしたほうがいいのでは? 今までどおり、何も見つかっていない振りをして……
 だって由香を悲しませるわけにはいかないから。
 だが、「仇をとる」とも誓ったのだ。
 結論が出せない。どうすればいい。
 俺は目を開けた。
 その瞬間、部屋中に散らばるハムスターの死骸が目に映った。すでに俺の目は眩しさから回復していた。だからハムスター二十匹の凄惨な姿がよく見えた。
 灰色の体毛を褐色に汚し、腹が破けて細長い内臓が飛び出したおぞましい姿。
 そうだ、由香もまさにこんな風に死んだんだ。
 そして今、暗闇の中に一人ぼっちだ。
 これからもずっとだ。
 なのに犯人は金を儲けて有名人。
 冷水をぶっかけられたように頭が冷えた。
 頭の中のモヤモヤが晴れていった。
 俺は弾かれるように立ち上がった。黄金のナイフを顔の前にかざす。震えが止まらない手で、ナイフの柄を力の限りきつく握り締めた。右手は掌にケガをしているので、息が止まるほど痛い。
「……ごめんな、由香。俺、母さんを大切にできない」
 一度言葉を切り、大声を張り上げた。宣言した。誓った。
「真美子を、殺す」
 そうと決まれば、やることははっきりしている。
 すぐに携帯を取り、真美子にメールした。

 『真美子へ
 お前が由香を殺したんだな。
 決定的な証拠が手に入った。
 ナイフで聞き出した。
 いますぐ俺の家に来て釈明してくれ。
 しなければ証拠をバラ撒く。新聞社、テレビ局、ネットを全部使う。』

 恐ろしいのは長期戦に持ち込まれることだ。
 人間の注意力は無限には続かない。眠っている時にナイフが来たらどうすることもできない。
 だから、挑発する。
 来るなら、いま来い。
 勝負だ。

 5

 一時間後、俺は自分の部屋のクローゼットに隠れていた。薄暗い中、息をひそめていた。
 バイク用の革ジャケットと革パンツを着込んでいる。フルフェイスヘルメットとグローブ、革ブーツも装着している。
 さらにジャケットとパンツの上には、空き缶を潰した物を多数貼り付けてある。これで防御力が増し、たいがいの刃は通らないはずだ。すでに、包丁を弾き返せることを実験済みだ。
 隙間から俺の部屋がだいたい見える。
 本棚と机が並んでいる。すでに新聞紙と死骸は片づけた。
 そして、ドアの向かいにある壁にはフスマが立てかけてある。
 フスマには、俺の等身大写真をプリントしたものが貼り付けてある。
 来い、ナイフ。来い。写真を追いかけて、ここに来い。あのフスマめがけて飛び込んで来い。
 壁にかけた時計のチッチッという音がやけに大きく聞こえる。
 待ちくたびれた。口の中は緊張でカラカラだ。
 まさか、今日は来ないのか。俺の挑発に乗らないのか。
 証拠をネットでばら撒かれても痛手にはならない、と高をくくっているのか。
 疑心暗鬼が胸の中で膨らんでいく。もとより絶対の自信はない。暖房はちゃんと入れてあるのに、膝が震えてならない。
 そのときだ。
 パキッ
 何かの割れる音。ベランダの方角からだ。ガラスだ。ガラスを割って侵入してきた。
 来たぞ。
 わずか数秒後、ドアの下の隙間を抜けて、一振りのナイフが室内に飛びこんできた。
 一メートルの高さまで飛び上がって、刃をあっちこっちに向ける。
 首振りの動きはゆっくりで、ナイフの形がよく見えた。
 刃は十センチに満たない、牙のように湾曲したものだ。柄は黒く、「犬の横顔」が彫り込まれている。狼かもしれない。横顔の眼が赤い燐光を発している。まさに猟犬か。
 突然、ナイフが動き出した。
 俺の写真がプリントされたフスマに突進する。
 よし、そのまま突き刺され! 
 その裏には強力な接着剤が塗ってあるのだ。これでナイフの動きを封じられる。
 しかしナイフは、フスマに刺さる寸前で動きを止めた。
 何故だ?
 俺は驚いた。声を出しそうになって、慌てて口元を押さえた。
 ナイフはまた首振り運動を始める。部屋のあちらこちらに刃を向ける。
 ピタリと、こちらを……俺のいるクローゼットを指して止まった。
 すっ飛んでくる。
 何故わかった。顔で目標を探すんじゃなかったのか。臭いか? 音か?
 一瞬のうちに俺の頭の中で思考が駆け巡った。このままクローゼット内に入ってこられたら。ここは両肩がぶつかるほど狭い。自由な動きができない。圧倒的不利。
 脱出を決断した。全身のバネを使い、体ごとクローゼットの扉にぶつかって、部屋の中に飛び出す。俺はライダー用の皮ブーツを履いているので床を踏んだときガツリと音が立った。
 まったく同時に、ナイフは蛍光灯を反射し銀色の光になって、俺の顔面に飛んでくる。
 速い。反応できなかった。腕で払う暇も無かった。
 ギンッ! 乾いた衝突音。衝撃が俺の頭蓋骨に伝わってくる。
 ナイフは、ヘルメットのバイザーに突き刺さっていた。先端だけが貫通して止まっている。刃はまさに俺の鼻骨に突き刺さる直前だ。
 ナイフが振動する。目に見えない手で左右に激しく揺さぶられているようだ。ガリッ、バイザーのプラスチックを砕いて侵入してくる。
 チャンス。俺は顔面に手をやり、右手でナイフの柄を掴んだ。動きが止まっている今なら、折れる。
 俺はナイフをバイザーから引き抜いた。手の中でナイフがますます激しく暴れだす。左手も出して、革グローブに包まれた手で刃を握る。
「ふんっ」
 渾身の力をこめて、刃を曲げた。
 へし折ってやる。
 その時ナイフから、甲高い獣の絶叫が迸った。
『おぉーーん!』
 俺の耳に突き刺さり背筋を震わせる声だった。本能的に恐怖を覚えた。俺の手の力が緩んでしまった。手の中からナイフが滑り、勢いよく空中に飛び出した。
 今度は、顔に飛んでこなかった。素早く下に飛んだ。
 え? 俺は一瞬、ナイフの姿を見失った。フルフェイスヘルメットは上下方向の視界が狭いのだ。
 足元を見て襲撃に備えた。すでにナイフは床スレスレを飛び、俺の脚に突き刺さる直前だった。
 とっさに足を振るった。蹴っ飛ばしてやる。
 俺の両足は革ブーツと革パンツで覆われ、さらに空き缶プロテクター。刃を跳ね返せる自信があった。
 それなのに、足に激痛。
 俺の全身が硬直。胸に、腹に脂汗が噴き出す。
「あがっ」
 俺は思わずうめき声を上げた。
 何故だ、なぜプロテクターが役に立たない。
 激痛を訴える右足を見た。俺は息を呑んだ。
 ブーツと足の隙間にナイフが入り込んでいる。スルスルとブーツの中に消えた。
 慌てて痛いほうの足を上げ、ブーツを脱ごうと手をかけた。
 ブーツの中で激痛がさらに爆発。悲鳴をあげようとしたが声が出ない。ただ乾いた息だけが喉を押し開けて排出される。
「っ……はぁっ……」
 立っていることができなかった。尻餅をついて倒れた。そのまま転がって、机の角にヘルメットの後頭部がぶつかった。
 ごりっ。
 ブーツの内側で肉がえぐられる。熱い血が噴き出して脛を流れ落ちていく。刃が骨に当たる。痛みの場所が移動していく。ブーツの奥へ、奥へと。
 みちりっ。
 皮膚が剥がされ、筋肉が断ち切られ、骨から削ぎ落とされていく。魚か獣でも捌くように、俺の右足が解体されていく。
 なぜ由香は、体を刻まれても服が無事だったのか。やっとわかった。
 ナイフは服の中に潜り込んで暴れまわったのだ。俺も同じ運命をたどる。もはや革の防御力なんて意味がない。
「あっ……ごあっ……ぐううっ……」
 俺はもう何もできない。尻餅をついて、手足を痙攣させていることしかできない。涙が溢れ、鼻からは惨めに鼻汁が出て、ヘルメットのバイザーが白く湯気で曇っていく。
 考えろ、考えろ俺。
 まだなにか手はある。
 このまま足を、切りおと、切り、切り落とされて、たまる、か。
 俺が今着ているジャケットの胸ポケットには例の黄金ナイフが収まっている。だめだ、今の状況では役に立たない。
 やはり、ブーツを脱がさなければ。体を前に曲げて、両手を伸ばして右ブーツを掴もうとする。だが、右足は痛みでカチンカチンになって棒のように伸びてい る。だからブーツは遠くて、なかなかそこまで手が届かない。しかも足全体が痙攣している。ブーツも激しく震えてつかめない。ブーツの先端をやっとつかん だ。爪先のほうに下ろして脱がそうとした。ちょっと動かしただけでブーツの中からピッチャという液体の音。だめだ、わずかしか動かない。ブーツの中は血液 でいっぱいだから粘着して、足が抜けないのだ。俺の腕が痙攣して力が出せない、という理由もあるだろう。
「うううっ! ぐううっ!」
 俺はそれでも、なんとかブーツの爪先に手をかけて引っ張った。右膝が曲がって、ブーツが近づいてきた。さっきより力を込めやすくなった。
「ふんっ! むんっ!」
 ブーツはびくとも外れない。
 次の瞬間、ブーツの中で、いままで以上の痛みが弾けた。
 ブチ、という音が響いた気がした。
 アキレス腱を断ち切られた。
「っはぁ!」
 俺は唇の端から涎を垂らし、あえいだ。俺の手が滑ってブーツから外れた。体全体がエビぞりになって、また机に頭をぶつける。
 ヘルメットの曇ったバイザー越しに、机が見えた。下から見た机の端に、コップが見えた。水の入ったコップだ。
 水……?
 そのとき俺の頭の中に、閃いた。
 奴は、もしかして水に弱いんじゃないか。
 いけるかもしれない。
 おれは寝転がった状態のまま片腕を伸ばしてコップを取った。
 震える腕を意志の力で押さえつけてなんとか制御して、ブーツの中に注ぎこむ。
「おぉぉぉん!」
 ブーツの中から絶叫がした。ナイフが飛び出してきた。
「おおん! おおん!」
 何度も叫んで、部屋の中を飛び回る。
 やはり!
 六人の子供たちは、すべて晴れの日に殺されていた。
 なぜかは知らないが、『猟犬のナイフ』は水を嫌がるのだ。錆びるからだろうか。
 このチャンスを逃すな。俺は机の手を突いて片足で立ち上がった。衝撃が右足に伝わって痛みが大爆発する。歯を食いしばった。口の中でギリリと音がして、歯が砕けた。
 片足で跳ねて、部屋を飛び出した。廊下を玄関に向かって数歩進んだ。玄関手前の左手にはドアがある。体当たりする勢いで中に入る。便所と洗面台と脱衣所と風呂場がある。風呂場に入る。電気をつける暇がなかったので風呂場は薄暗い。
 振り向いて後方を確認したまさにその瞬間、
ナイフが柄部分の眼を光らせ、俺の目の前に現れた。混乱から回復したのだ。
 俺の首筋めがけてすっ飛んできた。体を沈めてかわし、浴槽のフタに体をダイブさせた。
 フタは白いプラスチック製で、人間の体重には耐えられなかった。パキパキ音を立てて壊れた。俺は頭から風呂の中に飛び込んだ。
 水音。視界が暗くなって水で包まれる。ヘルメットから空気がこぼれだしてゴボリと泡になる。ヘルメットの中に水が入ってくる。袖口から、襟から、水が流れ込んでくる。普段ならガクガク震えるほど冷たい水なんだろうが、まったく気にならなかった。
 体を丸めて、頭から足まで全て風呂の中に入れる。
 俺は浴槽の中で、両足を抱えた姿勢で横になった。体が浮き上がりそうになって、手探りで左手を伸ばして栓の鎖を掴み、体を安定させる。
 よし、これで、少しは時間が稼げる。
 だが、そのあとどうする。どうやって逆襲する。
 首を左に回した。つまり水面のほうを見た。
 泡がいくつか、暗い水の中を登っていく。暗い水面が揺れている。
 水面が赤い光に切り裂かれた。
 ナイフだ。ナイフが水面スレスレを走っている。
 しぶきが線状に走った。何度も、何十回も、浴槽の端から端まで淡い赤の線が横切った。
 俺が顔を出してくるのを待っているのだ。
 ブハアとばかりに頭を突き出してヘルメットのバイザーを開けた途端、奴は顔面に食らいついてくるだろう。喉かもしれない。目玉かもしれない。
 戦慄した。ゴボリ、と息を吐き出してしまった。
 状況は全く好転していない。いや、立ってナイフに応戦していたほうがまだよかった。この浴槽の中は狭いし、水の中で体を起こす動作なんて、それほど俊敏にはできない。避けられるだろうか。難しい。
 危機から逃れたつもりで、もっと不利な状況に飛び込んでしまったのだ。 
 どうすればいい、息だって無限には続かない。
 と、考えて、俺は不思議なことに気づいた。もともと浴槽の中は暗いが、ますます暗くなっていく。いや、水が濁っているのだ。下のほうから、赤い煙のようなものが立ち上って水を汚染していく。
 ズタズタの足から流れ出した、俺の血だ。
 痛みばかり気にかけて、「激しい出血」を忘れていた。
 一刻も早く血を止めないと、俺は出血多量で死ぬだろう。
 止めるためにはブーツを脱いで、動脈のある部分を何かで縛って……もちろん浴槽から上がって。
 出来る訳がない。その瞬間に喉元をザクリだ。
 俺に残された選択肢は三つしかないのだ。
 溺れ死ぬか。出血多量で死ぬか。一か八か起き上がって、ナイフともう一戦するか。
 わずかでも可能性があるなら、やってみるか。
 ああ、もう息を止めているのが苦しくなった。切り裂かれた右足だけが妙に冷たく感じるのは、死にかかっているということだろうか。暗い。目の前が真っ暗 だ。もう、水面を走る赤い線すら見えない。ただ、ジャッジャッと水の切り裂かれる音は聞こえる。目に見えなくなっても、ナイフは俺の頭上二、三十センチの ところにいて、確実な殺意を向けているのだ。
 首を左右に回す。ヘルメットの中に残っていたわずかな空気が、泡になって顔の前を横切る。
 とっさに口を大きく開けて、泡を吸いこんだ。
 空気! 最後の一息!
 それなのに胸がスウッとしない。ますます息が詰まる。肺が苦しい。意識が薄れる。
 これ……いま吸ったのは、空気じゃない。俺が吐いた息だ。酸素が少ないんだ。こんなもん吸ったってますます辛くなるだけだ。
 もう駄目だ、もうこれ以上息を止められない。物を考えるのも辛くなってくる。なにか打開策があるはずだ、と思っても、次の瞬間「息が苦しい」で上書きされる。
 苦しい。苦しい。苦しい……
 ヘルメットだけ出して、空気を持ってこれないだろうか……
 ヘルメットだけ? 
 頭の中で閃光が走った。
 まだ手があるかもしれない。
 俺はヘルメットを外した。頭上を通るナイフの音「シャッ、シャッ」に耳を澄まし、全神経を集中し、タイミングを見計らって……
 ヘルメットを、水面の上に突き出した。
 ガン!
 軽い音がした。ヘルメットの中に手ごたえ。
 俺は急いで腕を引いた。ヘルメットも水中に引き込まれる。
 中にナイフを入れたままで!
『おぉぉーん!』
 ナイフの苦しみの絶叫が聞こえてきた。コップ一杯で逃げ出すほどだ。風呂に沈められてさぞかし辛いだろう。それでも水中を進んで逃げることはできないらしく、ヘルメットの中で暴れている。
 俺は体をひねった。ヘルメットを浴槽の底に押し付け、全力でのしかかる。
『おぉーん! おぉーん!』
 ますますナイフは絶叫、ヘルメットの中で暴れまくった。押さえつけている俺の手が浮き上がるほどだ。腕力だけじゃダメだ。
 腕と足を伸ばして、上半身を風呂を外に出した。これで体重が増える。
『おぉーん……おぉ……』
 そのまま押さえ続けて、一分たったか。それとも二分か。
 ヘルメットの中は沈黙した。
 まだヘルメットは下に向けたまま、恐る恐る手を入れた。
 ナイフを手探りで握り締める。まったく動かない。
 死んだふりかもしれない。そう思ったが、一秒、二秒と握り締めてても、無防備な俺の手がそこにあるというのに、まったく動く気配がない。
 溺れた……のか?
 
 6

 俺はそのあと、浴槽を出て、ナイフをガムテープでグルグル巻きにして、便所に流してやった。
 そこまでやって、やっと「勝った、生き延びた」という感慨が沸いてきた。
 緊張の糸が切れた。体から力が抜ける。右足の激痛が襲ってきた。
 便所のドアの外側に、ズルリ、じゃぷっ、と水音を立てて倒れこむ。そのまま床まで滑り落ちた。
 目の前には脱衣所のカゴ。すうっと眼がくらみ、カゴがぼやけた。
 意識が遠のいていく……
 と、そのとき、リン! とチャイムの音がした。
 一気に意識が覚醒した。
 まだ気を失うな。
 俺には、まだ、やることが二つ残ってる。
 俺は深く息を吸い込み、ハアッと吐き出す。後ろ手に便所のドアノブを掴んで、片足だけで立ち上がる。
 壁をつたって便所のドアから離れ、脱衣所を抜けてドアを開ける。廊下に出る。
 まさにその瞬間、玄関のドアが開いた。
 合鍵を使って、真美子が入ってきた。
 長身を、いつも通りの派手なファッションに包んでいる。
 ワインレッドのウールのコートを羽織り、鮮やかなオレンジのラビットマフラーを巻き、腰にはレザーのベルトをつけた姿だ。足元はロングブーツ、顔には赤いセルフレームの眼鏡。
 入ってきた瞬間、真美子は笑顔だった。一瞬で笑顔は吹き飛んだ。目を丸くし、口を半開きにして青ざめる。もちろん俺が生きてるからだろう。
「な……な……あんた、なんで……」
 右足が訴える激痛を無視して、俺は胸を張り、精一杯の笑顔を作った。
「やあ真美子。お前のナイフは便所に流しちゃったよ」
 真美子は息を呑んだ。眼鏡の向こうの大きな吊り目が恐怖に揺れ、細い肩が震える。だがすぐに彼女は笑顔を浮かべた。目だけがまだ恐怖を浮かべて潤んでいる。
「な、なによ……そのくらいで威張ってんじゃないわよ……『魔法のナイフで殺した』なんて裁判で通用する訳ないのよ。あんたはあたしを罰することはできないわ」
 俺は笑いを漏らした。
「くくっ」
 甘い。まだ分かってないのか。
「そうだ、そのとおり、警察はお前に何もできない」
 俺は革ジャケットの胸ポケットに手を突っこみ、もう片方のナイフを取り出した。廊下の蛍光灯を反射して、黄金の鍔がキラリと光る。鞘に刻まれた赤の十字架も光る。
 俺は鞘を捨て、ナイフを構えた右手を、真美子に向けて突き出した。
「だから、俺が殺す」
 なんの躊躇いもなく、殺すと言えた。感情の高ぶりはなかった。恐怖も、興奮も。
 真美子は視線を宙に泳がせる。わめいた。
「嘘よ……あんたなんかに殺せるわけ無いわ。そ、そうよ……そんな体で!」
 きびすを返し、逃げ出そうとする。
 俺は力の限り、左足で床を蹴って跳んだ。
 ナイフを腰だめに構えて。
 一瞬だけ空中を浮遊。真美子の背中に体当たりした。
 どすっ、重い衝撃が手に伝わってくる。確かな手ごたえ。ナイフは真美子の背中に突き刺さった。俺はグローブ越しに強く柄を握り締めた。離さない。俺たち の体はドアにぶつかって跳ね返った。俺は真美子を押し倒す形で、一緒になって玄関の靴脱ぎ場に転がった。真美子の顔が至近距離で見えた。眼鏡がずれてい た。片方のレンズが割れていた。美しい顔に幾筋も涙が走っていた。青ざめて、恐怖に引きつっていた。首からラビットマフラーが外れた。
「ああっ……ああっ」
 呻きながらも、這いずってドアの方に行こうとする。俺はナイフを背中から引き抜いた。ナイフはまだ光っていない。つまり致命傷ではない、ということか。
 這いずる真美子の上に馬乗りになった。真美子は手を伸ばしてドアノブをつかもうとするが、俺がナイフを振ってその手を弾いた。新たな血しぶきが舞った。
「いやっ……いやっ……死ぬのはいやあ……」
 無理やりに体をひねり、顔を上に持ち上げ、俺を仰ぎ見て、真美子は訴えてきた。
「お願い……お願い……なんでも……なんでも……するから……お金も……だから……」
「ダメだ」
 俺は即座に言って、ナイフを真美子の肩に突き立てた。筋肉の束を切断する感触が、ゴリッと手に伝わってくる。
「あがっ!」
 もう片方の肩にも。背中に、二回、三回、振り下ろす。まだナイフは光らない。
「金も、謝罪も興味がない。君が何を思って由香を殺したのか、由香が嫌いだったのか金が欲しかったのか、それも、もうどうでもいい」
 俺の口から出る声は低く、かすれて、しわがれていた。別人のようだ。
「いやっ……いやあ……」
 真美子は口の端から涎を垂らして、泣きじゃくる駄々っ子のように「いやいや」をした。
「一つだけきくなら……由香に、なにか言う事はあるか」
「いやあっ……いやあっ……」
 真美子はそれだけを何度も繰り返した。
 だから、俺はもう終わりにすることにした。
 俺は真美子の頭を押さえつけて、長い黒髪を手でまとめて持った。狙いやすくするためだ。後頭部の一番下、延髄にナイフを叩きこんだ。
 ガクリ、真美子の全身が電撃を浴びたように痙攣し、動かなくなる。
 ナイフがまばゆい光を放ち始めた。
 俺はナイフを目の前にかざし、囁いた。
「われ、血と魂を捧げる。谷口由香の声を届けたまえ」
 ナイフの輝きがますます激しくなった。
 俺は深呼吸した。目を閉じた。
 さあ、これからは演技だ。
 俺はこれから殺人罪で捕まるだろう。あるいは、出血で死ぬのが先かもしれない。
 どちらにしても、由香と話せるのはこれで最後。言いたいことがある。あのまま由香を放っておけない。
 人間を生贄にした場合、十分くらいは通信できるだろうか。
 ナイフに呼びかけた。
「……由香」
 俺は、出せる限りの優しい声を出した。右足の激痛も、たったいま俺が両膝で踏みつけている妻の体も、その体が冷たくなっていくことも、全て忘れて。
『あれ? お父さん。あー、心配してたんだよ。突然声が聞こえなくなっちゃうから。ね、ほんと約束してよ。犯人、捜そうとか思わないで』
「もちろんだよ、由香……ちょっと話があるんだ。実は……由香と話せるのはこれで最後なんだ」
『え!? どうして!?』
「ナイフの魔法の力が、もう切れるんだ」
『そんなあ……もっとお話したいよ』
「ごめんな。でも、死んだ人とは喋れないのが普通だから。一度でも話す機会があっただけ、いいんじゃないかな。俺は、とても幸せだった」
『うん……それは。あたしも』
 由香の声に、すすり泣きが混じった。俺も泣きそうになって、耐える。
「それでさ、由香。母さんのことだけど。俺、母さんと仲直りするよ。そう決めた。母さんもそれでいいって、わかってくれた」
『本当!?』
 実に嬉しそうな声だった。
「ああ。もう喧嘩はしない」
 俺が心配しているのは、これから暗闇に取り残される由香のこと。それだけだ。
 だから由香が泣かないように、安心できるように、俺は嘘をつく。
「だって……俺は…真美子のこと好きだから」
 晴れ晴れとした口調で言った。
 足の痛みも、真美子をたったいま殺してしまったことも絶対に感じさせないように。
 俺はそれから、明るい口調で喋り続けた。
 どんなに真美子のことが好きか。いままでの人生でどんなに真美子に助けられてきたか。
 真美子とどうやって知り合ったか。そしてこれから、真美子とどうするか。
 ありったけの美しい嘘を。
 由香は黙って聞いていた。
 喋り終えたあと、由香がほっとした声で言う。
『よかったあ……あたし、それなら安心。これからも仲良くしてね』
「うん、もちろんだ」
『そういえばおとうさん、泣いてないね。いつも泣いてばかりなのに』
「あたりまえだ。いつまでも泣いてたら笑われるさ」
 俺は力強く答えた。冷たくなっていく真美子の手を握りながら。
『なんか、おとうさんの声が小さく聞こえる。そろそろ時間切れかな。でも、楽しかったよ。これからずっと、あたし、おとうさんのことを思い出してずっと……じゃあ。バイバイ』
 ブチン、ラジオのスイッチでも切ったかのように、声は切れた。
 俺の手の中からナイフが滑り落ちた。
 俺は目を開けた。途端に、いままで我慢してきた涙が、あとからあとからあふれてきた。
 ああ、視界が滲んで何も見えない。しかもあたりが暗い。俺の命は本当に尽きようとしているのだ。
 これでよかった。由香を最後に安心させられた。
 俺は再び目を閉じた。もう目を開けることは無いだろう。
 さようなら、真美子。
 さようなら、由香。
 
  おわり
 

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