「駄天使まゆこ、修行中!」

 1
 
「幸彦、あんた、まだ小説家になるとか言ってるんじゃないでしょうね!?」
 携帯の向こうから叩きつけられた母さんの声は、イライラ感でいっぱいだ。
「あー、いやそれはねえ、うん、書いてはいるよ、うん小説。あと少し、あと少しなんだ」
「あんた何年たったと思ってるの!? 高校のときからいってるからもう10年近くになるのよ? それなのに一度も本とか出たことないじゃない? 夢みたい なこと言ってないでちゃんと働きなさい、ね、母さん心配で心配で……」
「一人暮らしなんだからいいだろ!? バイトで生活費だって稼いでる!」
「よくないわよ! あのね、こないだテレビで大学の偉い先生が言ってたんだけどね、『俺には夢がある、普通のサラリーマンになりたくない』とかいい年して いってる人が多いんだけどね、みんな努力もしない癖に『俺は本当は才能があるんだ、本気を出せば凄いんだ』とかいって、ろくに働きもせず30になって、。 結局世の中をうらんで火をつけたりして……警察に捕まっても『俺は社会の被害者なんだ』って」
「俺がいつそんなことしたよ!? 誰にも迷惑かけてないだろ!?」
 さっきから、ずっとしきっぱなしのふとんに寝転んで携帯で話していた。だがさすがに頭にきたので姿勢を正して反論した。
「かあさんはね、とにかく幸彦のことを心配してるの。ね、幸彦。まずうちにもどってきて、それからちゃんと就職して。ね? おとなりのショウゴくん知って るでしょ、ショウゴくんなんかも長い間あんたみたいなフリーターだったけどこないだメーカーに就職してね、それなのにうちの幸彦はって、もう母さんなさけ なくてね」
「わかったよ!」
 電話を切った。机の引き出しに放りこむ。
 参ったなあ、またケンカした。
 ため息をついて自分の部屋をみまわす。
 本箱ふたつにぎっしり文庫本、床にまであふれ出して積んである。
 かあさんが心配するのも分からないでもない。
 でも、おれは「絶対かえらない」って言って出てきたんだ。あの頃の、本屋にいくたびに気分が浮き立って「ここに俺の本を並べてやる」って思えたころの気 力は残ってないけど、でも誓いまでもが消えたわけじゃない。
 俺は家に戻らない。
 負けたわけじゃないから……もうすぐ盆休みの時期だから顔くらいは見せにいってもいいかなと思ったけど、やめた。
 それはそれとして、バイトさがさないと。
 情報誌まだ買ってなかったな。まずはコンビニで買おう。ちょっと涼んで。
 立ち上がって、財布の中身を確認してまたため息ひとつ。ポケットに入れた時。
 目の前を、白い羽根が横切った。
 光る羽根だった。
 眩しいほど強くないが、どう見ても反射とか錯覚じゃない、確かな輝き。光りながら羽根は俺の周りを飛んでいる。風なんてないのに飛んでいる。落ちない。
 手を伸ばしてつかもうとする。
 逃げた。本当だ。羽根が、いっそう強く光って加速しながら逃げた。
 なんだこりゃ? 
「そっちですねー! 今行きますよー!」
 窓の外から飛びこんできた女の声。
 ピーピーピー、ピッピロピー
 という笛の音。
 バッサバッサと鳥の羽ばたく音。
 なんだ、何が起こっている?
「あ、あわわわ、痛いー!」
 また女の声。
 おれは窓から身を乗り出した。
 ぎょっとした。
 小学校で習うような縦笛をもった女の子が目の前に浮いていた。ここはアパートの2階。宙に浮いていたんだ。
「いたい、いたいって、髪つまんじゃだめですよー! か、神の使徒のいうことがきけ、あ、きゃあ!」
 女の子は包帯みたいな白い布に包まれていた。長い髪や包帯を、何十羽という数のハトについばまれていた。ハトに支えられて飛んでるらしい。
 こっちを見た。メタルフレームの大きな眼鏡の奥で、ひとなつっこそうな眼が輝いている。ほほえんだ。
「あ、こんにちわ! はじめましてですね! 春日幸彦さん!」
「あ、ああ」
 なんで俺の名前知ってるの?
 眼鏡少女は俺に向かって大きくおじぎした。その瞬間、何羽かのハトが髪からクチバシを離して飛び去る。
「きゃああ!」
 ぐらりと少女の体がゆらいだ。両手をのばして空中でもがく。ハトがまた逃げていく。
 俺は思わず腕を伸ばした。力いっぱい、女の体を抱きしめる。駄目だ支えきれない。腕にかかる重さは予想をずっと超えていた。前のめりの体勢だから力をか けられない。
 俺の体が前に倒れこんだ。
 見えるのは女の子の白いからだ、飛び散るハトの羽根、そして窓の下の駐車場に止められたクルマ。
 落ちる……
 もう無理だ。腹に窓枠が食い込んだ。激痛。
一瞬だけの浮遊感。
 全身を叩く、重い衝撃。少し遅れて、しびれるような痛みがやってきた。
「あ、あわわ……」
 俺の体の上で女の子がモゾモゾ動き出す。
 俺も起き上がった。骨とかは折れてないみたいだけど、割と痛い。
 いてて、でも骨とかはなんともないみたいだなと体を起こす。
 女の子と眼が合った。そのとたん女の子はウルウル泣き出す。
「あ、あ、ありがとうございますぅー! 命の恩人ですー! まゆこの下敷きになってくれたんですねー! まさに神の愛を体現したような方ですー!」
「うーん、よくわかんねーけど……無事で何よりだ」
 周囲を見回す。車の屋根の上に落ちたらしい。ガラス割らなくてほんとによかった。高いんだよね車のフロントガラスって。
「ところで、あんたは誰? 俺に何の用?」
「はいっ。『まゆこ』ともうしまして、下級天使ですっ」
 女の子……まゆこは小学生が「はい先生!」てな感じで片手をあげた。
「天使がどうしてハトについばまれて飛んでるのさ?」
「これはですねー、天使アイテム『平和のハト笛』の力なんですよ。平和の象徴であるハトを呼んで操ることができるんです」
「もしかして、ハトなしだと飛べないの?」
「そうなんですよー。まだ天使としてのレベルがあんまり高くなくて。でもハトのコントロールは完璧なんです」
「墜落したじゃないか?」
「そ、それは……」
 一羽のハトが舞い降りて、まゆこの眼鏡をついばんだ。
「わ、わ、眼鏡もってかないでー!」
「全然コントロールできてないじゃないか」
 ハトをひっぱたいて追い払ってやった。
「ところで天使がどうして包帯にくるまっているのさ?」
「あ、これは天使アイテム『禁欲の布』なんですよー。裸を隠して、男の人がみだらな気持ちを抱かないようにするためのものです」
「でも、かえってエロいんだけど」
 まゆこの姿をじーっと見た。包帯状の布がきつく巻き付いているせいで、腰とか、わりと大きな胸とかのラインがはっきりわかる。それにいま、俺たち、から だ重なりあってるし。俺の股間はまゆこの尻に敷かれてる状態だし。
「あ、あわわわわー、かっ姦淫の罪がー!」
 まゆこは車から飛び下りて叫ぶ。
「かわれ、『禁欲の布』!」
 全身を包んでいた白い布が変形した。白いブラウスと、チェックのプリーツスカート。
 俺もクルマの屋根からおりて、まゆこの服をよく見る。
 ブレザー系の夏服だ。縫い目までよくできてる。ほんとに魔法みたいだ。すごいな。
「なんで制服?」
「ここに来る途中で見かけた可愛い服です」
「感覚ずれてるなあ……ところで天使さんがうちに何の用?」
「あなたを幸せにするためにきましたっ」
「別に俺、不幸じゃないよ?」
「いいえ、きっと悩みとかを抱えてるはずです! 『しるべの羽根』があなたを指してますから! 天の恩恵と神の愛で、ぐいぐいっとあなたを幸せにします!  そうよね、『しるべの羽根』?」
 上のほうからさっきの光る羽根がふってきた。
 まゆこが制服のポケットからメモ帳をだす。
 と、羽根はペンみたいに動いてメモ帳に文章を書き始めた。
 
 「はじめまして
 しるべの羽根 といいます
 まゆこ のアドバイザー です」
 
 かっちりとした字だった。まじめな人が書きそうな。老紳士が書いた字、という印象。
「使い魔みたいなもの?」

 「天使ですから 魔 ではありませんが
 にたようなものです」

「まゆこを俺のところに連れてきたのは、あなた?」

 「はい。きっとまゆこは あなたの役に立ちます」

 俺はまゆこの方を向いて、
「なにか超能力でもあるの?」
「まゆこは下級天使だからとくにないです! でも一生懸命がんばります! とにかくがんばりますから!」
「とくにないですって言われても……」
「あ、お金はダメですよ。出せません。『貧しいものは幸いである』と神は言われてます。出せません。わたし、お金を要求されたときは『いかに貧乏が幸いか 説教しろ』っていわれてます。だからしますね。えーと。お金があるとダメなんですよ? 針がラクダを……じゃないやラクダが針の上に乗って天国へ入るのが 難しい? ラクダに針を刺して? 入れて? あれ?」
「どこの聖書だ! 『富めるものが天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい』でしょ」
「わあ! 聖書ごぞんじなんですねー。話が早くてたすかるなあ」
「なんで人間が天使にキリスト教おしえなきゃいけないんだ? きみニセ天使でしょ?」
 まゆこはもともとふっくらしていたほっぺたをますますプーッとさせる。
「ひどいです! わたし一応天使学校も卒業してるんですよ! 『もう来ないでくれ』って真剣な表情で!」
「いやそれって卒業か!?」
「お金は無理でも、食べ物なら出せますよ?」
「ツッコミはスルーかい!」
 まゆこはブラウスの背中に手を入れた。一枚の羽根をつかみ出す。
 背中に羽根があるのか。本当に天使?
「……えい!」
 まゆこが叫ぶと、羽根はむくむくと、小さなガラス瓶に変形した。透明な液体が入っている。
「はい、天使アイテム『マナ・エッセンス』ですよー」
「お、すごそうなネーミング」
 まゆこはそのへんに転がっていた枯れ葉をとって、ガラス瓶の中身を振りかけた。
「はい」
「これを食えって?」
 差し出された木の葉をかじってみると……旨い! なぜか高級な牛肉のような舌触りと、肉汁の味が……
「『マナ・エッセンス』一滴で、舌が完全におかしくなって、どんなものでもおいしく食べられるようになるんですよ!」
「ぺっぺっ」
「うわわ、なんで捨てるんですかっ」
「なんてものを食わせるんだ!」
「貧しきものは幸いだから天国いけるって主は言われてるですよ!」
「枯葉たべるのは貧しいの限界こえてるよ!」
「とにかく、まゆこを置いてください! 必ずお役に立ちます!」
 ぺこぺこ頭をさげるまゆこ。
「なんで俺なんだ? 俺より困ってる人はたくさんいるでしょ?」
「そ、それは……」
 口ごもるまゆこ。
 羽根が動いて、メモ帳にこう書いた。

 「すでにあちこちで断られてるんです
 こんど断られたら まゆこは けされてしまうかも
 お願いします」

 まゆこも頭をさげはじめる。
「おねがいします! おねがいします! おねがいしますうう!」
「しょうがないなあ……せめてお手伝いさんくらいのことはやってくれるんだよな?」
「はいっ! もちろんです!」
 
 2
 
 次の日、俺はまゆこに起こされた。
「おはようございます、幸彦さん!」
 俺は布団から体を起こし、まゆこをボーッと見て、ポツリとひとこと。
「なんでメイド服きてんの?」
「はいっ、それはですねー、『おまえはそうやってご奉仕すると地上の男たちによろこばれるよ』って教わってるからなんですー」
「……それ、天国の人がいってるの?」
「そうですが何か?」
「天国ってアニメとか放映してる?」
「え? 何で知ってるんですか? 最近になって衛星放送が受信できるようになったんですよ! やっぱり世代交代が重要なんですねー。あ、それよりお掃除し ますんでちょっとどいていただけませんかー」
「いや、掃除はいいよ」
「えー、おふとんあげてお部屋をピカピカにするのが、毎日の日課ですよ! 天界でも『きみは頭わるくてアイテムも使えないけど掃除は一生懸命だね!』って ほめられてるんです」
「いや、それは馬鹿にされてるんじゃないかなあ」
「はーい、とにかく外にでるでーす。お掃除終わったらすぐに朝ごはん作りますからねー」
 眼鏡のむこうのくりくりした眼が、にっこにこ。
「わかったよ、外にいってるよ」
 パジャマのまま靴だけつっかけて、外にでて廊下でたたずむ。
 ……こういう時はタバコを吸いたい、と思ったが、きのうまゆこに「こんな吸っちゃったら欲望にとらわれてダメ人間になっちゃうですよ!」と謎な理由で取 り上げられたことを思い出した。
 手持ち無沙汰だ。
 小説のネタでも考えるか。
 んー天使、天使ねえ……天使が降ってくる話なんてマンガとかにたくさんあるしなあ……
 と、そこまで思ったところで部屋の中から「きゃああああ!」と叫びが!
「どうした!」
 ドアを蹴破るように突入。
 と、まゆこが、エロ本をもってへたりこみ、ガクガク震えていた。
「ああああ、あわわわわ……ゆっゆっゆきひこさんっ! あなたなんてもの読んでるですかっ」
 まゆこがエロ本の一冊を俺の目の前にデーンと開く。
 むう。巨乳ナースの淫らな遊びか……
 ふむ、コスプレ妻鮮烈挑発ヌードか……
「もっもっもしかして他にもあるですかこういう本っ!」
「いや、女の子に見せたのは悪いと思ってるけど、って、あああ!?」
「こうです! こうです! えいえい!」
 まゆこ、エロ本を真っ二つに裂く! さらにもう一度タテに裂いて、ページを一枚一枚ビリビリと。女のこの尻とか胸とかでてくるたんびに「きゃわああ!」 とかいいながら。
「ちょ、ちょっとひとの本に何するの」
「わたしは幸彦さんを堕落から救ってるんですっ!」
 ちょっといじわるをしてやりたくなった。
 俺は冷たい調子で言う。
「ふーん。他人のものを壊すのってドロボーだと思うんだけどなー。ドロボーやっていいって天国では教えてんだー。へー。ふーん」
「え……」
 まゆこ、エロ本(の残骸)をおっことし、たちまち真っ青。
「ひえええ! 主よ! 主よ! お許しくださいいい! 直しますからあ!」
 その場に座りこんでセロテープで、ビリビリになったエロ本を張り合わせようとする。
「えっと……ここがおしりだから……こっちの足とつながって……あああ! なんと背徳的な水着をがぁー! この白いのはなにー!?」
 張り合わせてる途中で悲鳴をあげてのたうちまわること5回10回。
「わかったわかった、撤回する、捨てていい」
「えっ! わかってくれたんですね! 神の御心が!」
「いや神関係ないけど。なんかかわいそうになって……わるいことしたなって」
 まゆこ、超スピードでエロ本をごみ箱にポイ。
 そしてごみ箱の前で一心に祈り始めた。
「主よ……」
「なにを祈ってるの?」
「こういう本が二度と幸彦さんを汚染しませんように……幸彦さんが生涯にわたり清いまま生きていけますように……」
「それはぶっちゃけ呪いにちかいよ!」
 あーあ、疲れる女……
 とは言っても、おれはけっこう楽しかった。
 だれかとドタバタやるのって、楽しいことだったんだな。
 ここのところずっと一人だったから、気づかなかったよ。
「あ、どうしたんですか幸彦さんニヤニヤして! さてはさっきの、えっちでよくない本思い出してるんですね! だめですよ!」

 3
 
 ふたりでご飯を食べた後、俺は出かける支度をした。
 アパート横の駐車場までやってきた。
 赤と白と青。トリコロールに塗られたバイクがある。
 今どき珍しくなった250ccのカウルつきで、しかも2スト。
 NSR250というバイクだ。
 まゆこがメイド服のままやってくる。
「あれー? どこいくんですかー?」 
「バイトの面接。いま、俺はフリーターですらない失業者だからね」
「まゆこもつれてってください!」
「いや、君にできることはないよ」
「応援します! だって今の幸彦さん、顔色が悪くっていっつも下向いてて、なんか元気がなくて……元気出さないと、おっこちちゃいますよ! まゆこは『き みは元気以外にもなにか見につけようね、なにかとつでいいから』って言われちゃうんですけどね。えへっ」
「お、応援ねえ」
 言われて見ると不安になった。俺はそんなに「やる気ゼロ」だったか。
 やっぱりいい年だし、「このままバイトでやってけるのか」って不安があるんだろうな……
「うん、ついてきて。応援して」
「わあい! さっそく変身! バイク乗りモード!」
 まゆこはその場でくるんと回る。
 服がぐにゃっと変形した。
 黒い革ジャン、皮パンツ、銀色の半ヘルにはゴーグル、という格好になった。
「かなり古風なバイク乗りだね……」
「えー。だめですか?」
「悪くはないけどNSRとはちょっと合わないかな……。まあいいや、乗って」
 俺はヘルメットかぶりまたがる。「んしょっ」という声が後ろからした。
「しっかり俺の腰につかまってろよ?」
「こ、腰だなんて! いやらしいですよ! 姦淫です!」
「お前の想像がよっぽどやらしいよ! じゃあ行くよ!」
 俺はキックでNSRのエンジンをかける。
 パンパンスタタタタタパンパンっ!
 軽い、何かが破裂するようなエンジン音をたてて走り出す。
 住宅地をちょっただけ走ったら国道に出た。
 車の流れに合流する。
 うしろのまゆこがぜんぜんバイクに慣れてないらしく「きゃーきゃー」言いながらあっちむいたりこっちむいたりしてるので、ゆっくり走ることにした。
「うわー、速い速い! バイクって速いんですねー」
 後ろからまゆこの大声。
 運転中なので振り向かずに、同じくらいの大声で答えた。
「わかったからおとなしくして。あと、曲がってるときは絶対にからだ動かさないで。本気で転ぶから!」
「はい。それにしてもはやーい!」
「たいしたことない! 昔はすごかったけど、いまは1000cc以上で300キロ出せるマシンがあたりまえのように走ってるから!」
 そうだ、このタイプのバイクは過去のものだ。
 スピードを求めるなら中途半端。もっとでかいの買えばいい。かといってレース用なのでのんびり乗ることはできないときている。もう10年も前に生産中止 だ。
 少し寂しい。
 このマシンは、数年前に友人から譲り受けたものだ。
 奴はピザ屋のバイトをやりながらレーサーを目指していた。結局あきらめて、俺にこのマシンを渡して、その後すぐ、ケンカして疎遠になった。
 軽くて走りやすい、キビキビ加速して楽しい、だが俺がこのバイクのことを考えると寂しくなるのは、きっとこのバイクが夢の残骸だからだろう。
「あ、あの大きい看板は何ですか」
「あれはファミレス。となりのは車売ってる店。向こうのはコンビニ。危ないから手はブラブラさせないで。……っと」
 赤信号でブレーキをかけた。
 「わっ」とまゆこがつんのめって頭突きをかましてくる。
「痛いです……」
「俺も痛い。やっぱりそのヘルメットじゃ危ないぜ? フルフェイスにしないと」 
「それにしてもこのバイク、シャカシャカってかき氷つくってるみたいな音しますねー!」
「乾式クラッチっていうんだ。ドカティとかにもついてる」
「幸彦さん、かき氷たべたくありません?」
「あとでね。っていうか天国にはかき氷があるのか?」
「流行ってますよ?」
「そ、そう……?」
 天国のイメージが崩れる……
 信号が青になった。
 後ろの乗用車がクラクションを鳴らしてくる。
 俺はスロットルを開けた。甲高いパアンという音を立ててNSRが加速する。
「うわっ」
 まゆこの慌てた声。腹のあたりを痛いほど強くつかまれる。
 後ろから女の声、懐かしい。
 ずっと昔こんなことがあった。
 俺がまだ年に何本も作品を上げて投稿してたころの話だ。
「と、とばしすぎですー!」
  あのころは同じ夢を追う友達もいた。信じてついてきてくれた女もいた。友は普通のサラリーマンになって音信が途絶えた。女は、俺が書けない 言い訳を並べるようになると消えていった。
 金はなかったし、みんなから笑われることもあったけど、夢を語るだけで楽しくなれたあの頃。
 なんとなく、あの頃に……
「あの建物なんですか? あのでっかい車はなんですかー?」
「あれはバスだ」
「わわわ、あの人駄目ですよあんな格好でスクーター乗ったら、パンツ見えちゃってますー! 注意するから近づいてください」
「別にどんなかっこでもいいだろ」
「だめですよ、わっ、あのスクーター犬載せてますよ大丈夫なんですか!」
「どこをつかんでるんだ痛い!」
 訂正。やっぱりあの頃とは違う。

 4

「ここだ」
 俺は駐車場にNSRをとめた。
 まゆこが降りて、大きく伸びをする。
「ふわー疲れたですよー。それに暑くて暑くて」
「そりゃこっちの台詞だ。電車にすりゃよかった」
 と言った瞬間、「うわー電車ってすごいですね景色が動いてますよー。がったんごー、がったんごー!」とか言って座席に膝立ちするまゆこを想像した。すげ えリアリティだ。どっちも駄目か。
 ちょっと歩いて、目的のビルについた。
 見上げた。
 看板には「3F ××警備保障」とある。
「警備会社さんですか」
「うん。まあ警備員っていうか交通誘導員をやろうかなって」
「やりたい仕事なんですか?」
「やりたいっていうか……できる仕事だね」
「でもでも、やりたい仕事をやらないと幸せにはなれないですよ?」
「やりたい仕事なんてできるのは、ごく一部の才能ある人だけだよ」
 まゆこが何か言い返すかと思ってじっと顔をみた。しかし何も言わず、悲しそうに顔を伏せた。
「……まゆこ?」
 スイッチが切り替わったみたいに明るい表情のまゆこが、
「はい?」
「いってくる。その辺で時間潰してて」
「応援がまだですよ。かわれ、禁欲の布!」
 まゆこがその場でくるっとまわって変身。
 チアガール姿になった。
「フレッフレッ、ゆっきひこっ。ふれっふれっ!」
 ボンボンをふりふり、足をあげて。
「いや、はずかしいから! そんなこと街中でやんないで!」
「え? 効果ないですか? おかしいなあ……『ブルマをはいてこれをやるのがポイントだ』ってきいたのに」
「天国ってのは何を教えてるんだ!」
「うーん、チアリーダー姿が効果ないなら、これです!」
 まゆこは背中から羽根をとりだす。
 羽根はムクムク大きくなって、でっかい金色のラッパになった。
「天使アイテム『希望の応援ラッパ』です。これを吹けば勇気が百倍になっちゃいます。でもわりとおっかない諸刃の剣だそうです」
「いや、いらないって」
「いきますよー!」
 まゆこはラッパを俺に向けて勢いよく吹いた。甲高い音色が俺の耳に飛び込んだ。
 プアー!
 その瞬間、全身が震え出した。
 背筋が伸びた。拳がひとりでに握りしめられた。
 俺はすごい。俺は優秀だ。俺ならできる。俺は神!
 心の中の暗いものがすべてふっ飛んだ。俺は勢い良くビルに入った。階段を3階まで駆けのぼり、「大山警備保障」とプレートがつけられたドアをノックして 開ける。靴を脱いで上がると、大きな一つの部屋。絨毯の上に並んだいくつかの机、ロッカー。机の向こうで、人のよさそうなおばさんが俺を見て頭を下げる。 青いガードマン制服の男がソファーでペットボトルを開けてくつろいでいる。俺は室内を見渡す。机の上でファイルに囲まれた、眠そうな顔つきの背広男。
 背広男に向けて大声で、
「面接を受けに参りました春日です!」
「あ、ああ。どうも。ちょうど時間ですね」
 背広男はいかにも疲れきったという感じで立ち上がり、パイプ椅子を向い合せに二つ並べた。
「そこに座って」
「はい」
「どうも、大山警備保障の坂上です」
「春日です。偉大な春日、ゴッドノべリスト春日とおよびください!」
「は、はあ……? さっそくですが春日さんはバイト希望ということですが、いわゆるガードマンの経験はありますか?」
 坂上さんの質問に、俺はナチスみたいに片手を振り上げて即答。
「ありません!
 しかし俺はすごい才能があるのでまったく問題ありません!」
「凄い自信ですね。なにか特技でも?」
 俺はたちあがった。直立不動の姿勢をとった! そしてしゃべった! 早口でしゃべりまくった! 
「俺は小説を書いています。一般にはライトノベルと呼ばれるジャンルで、SF未来史の要素も加わっています!
 まず第一に正伝として20巻、10億年前に地球を訪れたネルティア人の計画が(中略)そしてネルティア人の『刻印』がつくりだした有機ロボット群によっ て世界の歴史は操られてきたんです! ナポレオンもヒトラーも織田信長もすべて『刻印』の計画によって生み出された人間だという新しい歴史の見方をいれて あります!
 しかし人類のなかにも『刻印』の支配に気づき、それに逆らおうという者たちが現れました! 彼らは歴史の裏側で秘密結社リべりオンを結成し、人類の魂の 自由を勝ち取るため『刻印』と戦ってきたのです! 物語は1999年の東京に住む平凡な高校生の少年が、ある日『特異点』に覚醒することで始まります!
 『特異点』とはつまり超能力で、超科学を持つ『刻印』と『使徒』に対抗できる唯一の武器なんです! そしてですね! 少年は少女ミリアの導きにより人類 の運命をかけた戦いに!」
 坂上さんが片手をあげて、
「いや、あのね春日さん!? わたしはアルバイトの面接をしてるんですよ!? あなたの妄想を聞いてるわけじゃ……」
「妄想! なんてことを!」
「妄想でしょう!?」
「ち・が・う・ん・で・すってば!」
 俺は室内を見まわし、全員の冷たい視線を無視してホワイトボード発見! 
「いいですか図に書いて説明しますよ? 人類に対する『刻印』の支配があって、それに戦いをいどむ少年少女たちの熱い戦いのサーガを語ることにより」 

 刻印(ネルティア文明の意思)
 ↓
 人類(アトランティス代〜22世紀) 
 ×
 対抗組織リベリオン
 +
 (愛、勇気、運命)
 ↓
 感動の大時空叙事詩

 図を書いた。あちこちに物語に出てくる組織の名前とかびっちり設定を書き加えた。
「そして! こうです!」
 
 大時空叙事詩
 ↓
 大ヒット(初版50万部以上推奨)
 ↓
 べストセラー作家春日幸彦の時代(俺時代)日本に到来
 ↓
 俺を雇用する警備会社大ブレイク(まあすごいわ)

「結論としてはこうです! いいですか! 俺は凄い作家に将来なるので雇用しておくと絶対特になります!」
 つまみ出された。
 
 5

 ドアが背後でガシャンと閉まった。 
 その瞬間、俺の体から熱気が全部抜けて、かわりに寒気が包んで……
 いまになってやっとラッパの効力きれた!
 俺は、俺はいったいなにをやっちまったんだ……
 ビルを出たところにまゆこが立っていた。あいかわらずのチアガール姿で両手にボンボン。
「あっ幸彦さんっ。どうでした?」
「……なあ、まゆこ。バイトの面接で『俺の考えた小説の設定』をダーッと喋りまくる奴ってどう思う?」
「え……えっと……『電波さん』。『きゅいーんきゅいーん、ぼくのロボット100まんばりきー』みたいな」
「やっぱりそうだよなあ……」
 がっくり落ちこんだ。
「えっと、でもほら……自分で自分のことおかしいって思ってる人はまだ救いがあるっていうじゃないですか!」
「……きみの慰めかたはますます傷つく……っていうか、ラッパのせいだよ!」
 このダメ天使! と怒鳴りつけようとして
「でもでも、『応援ラッパ』は人格とかを変にする力はないんですよ? あくまで自信がムクムクわいてきちゃうだけで」
「俺はもともと電波さんだってこと? 本性ってこと?」
「えーと……ほら! 自分のダメな部分を見つめるのは大切なことですよ。それは幸彦さんに多くの成長をもたらすと思います(棒読み)」
「……きみ、それ学校で習ったこと丸暗記してしゃべってるでしょ?」
 体ををびくっとさせて大げさにおどろくまゆこ。
「ええっ? なんで分かるんですかー?」
「まあいいや……とにかく面接は大失敗。帰ろうか」
「はいっ。元気だしてください、アルバイトなんてたくさんありますよ! ふれっふれっ、ゆっきひこっ!」
「だから、街中でそれはやめろってば、ハハハ」
 怒るつもりで言った。
 でも、俺の口から出たのはなぜかクスクス笑いだった。
「ふれっふれっ!」
 まゆこが力いっぱい、長い髪を振って眼鏡をズリ落とさせながら応援してるのを見てると。
 なんだか、イライラでいっぱいだった気分がやわらいできた。
 そうだな、まゆこ。
 俺は、君に救ってもらってるよ。 
 
 5

 俺は疲れきって家に帰り着いた。
 今日は面接を3件うけた。職安にもいった。
 どうも手ごたえが悪い。
 俺はバイトひとつ見つけられんのか。母さんに頭下げるしかないのか?
 アパートの駐車場は車が占領している。隙間には自転車が並べられている。俺は自転車をどかしてバイクを入れた。ただでさえNSRは排気音がパンパンうる さくて変な煙がまで出るので、他の部屋の連中にはいい顔をされてない。迷惑にならないよう置かないと。
 バイクを停め終えて階段をのぼった。他の住人が晩飯つくってるらしく、カレーの匂いがする。
 部屋にはまゆこがいるはずだ。彼女がうちにきてもう1週間。
 そういや俺、女と一緒に暮らすなんて初めてだな。嬉しいはずなんだが、なんとなくまったり嬉しい、が限度だ。とにかく常識がなくて、銭湯につれていった ら女湯の方から「これはどうやって使うんですか幸彦さーん!」とか大声で叫ぶし、買い物に行かせたら募金の人に感動して持ってる金みんな渡しちまうし。
 でもまあ、悪いもんでもない。
 廊下の窓が明るい。誰かいるってのは悪いもんじゃない。
 ドアを開けた。
 まゆこが机に向かっていた。俺のノートパソコンを開いていた。
 俺が帰ったことにも気づかず、一心に画面をみつめている。
 近寄り、何の気なしに覗きこんで。
 俺は凍りついた。うめいた。
「まゆこ……それ……」
「はい?」
 やっとまゆこが反応した。椅子ごと振り向いて、眼鏡ごしに、いつも以上にきらきらした眼を俺に向ける。
「あ、幸彦さん! すごくよかったですよ! 幸彦さんの小説! 小説かいてたなんてしらなかったです! もしかしてプロとか目指してるんですか?」
「……めざしてるよ、何年も前から。結果が出ないけど」
「わあ! もしかして幸彦さんの不幸ってそれのことなのかな? まゆこ、応援します! 新しいの書いてくださいよ」
 俺はこたえた。あせったような声が出た。
「……無理だよ。いまちょっとテンションが落ちちゃって。ネタもないし。創作意欲を高めないと」
「えー? おもしろいですよ、がんがん書いてください。こんな感じのがいいです」
「見るな!」
 俺の手が勢いよく動いた。ノートパソコンを閉じた。
「え? あれ、どうしたんですかあ?」
「見るなって言ってるんだ」
「でも、すごく面白くて……」
 まゆこはきょとんとしていた。
 悪気なんてぜんぜんない。
 それはわかってる。
 でも、まゆこの素朴な「がんばれ」が胸に刺さった。
 責められてるように感じた。
「面白いわけがあるか。どこに送っても落ちたんだ。だから今はかけない。もっと実力を高めてから出ないと」
「でもでも。書かないとうまくならないですよ? 送ってみて落ちたら、また次の書けばいいじゃないですか?」
「だめだ、今の実力では、俺はダメだから……」
「幸彦さん、もしかして……失敗するのがこわくなってません?」
 さりげない一言だった。
 責めるような語調ではなかった。
 だが、俺は口ごもった。まゆこから眼をそらした。次の瞬間、仇のようににらみつけた。
 得体の知れない怒りがわいてきた。
 急所を突かれた。地雷を踏まれた。
「そんなことないさ」
「もっとがんばらないとダメですよ? たとえばまゆこだって試験をうけるときは何十回もおっこちてやっとうかったんです。幸彦さんだって……」 
「説教か、やっぱり君は説教するのか! ……もう嫌なんだ……何も知らずに適当なことを……頑張れ頑張れって……それでなんとかならなかったら責任とって くれるのかよ!」
 毒をこめて、ののしるように言葉を吐いた。吐いてしまった。
「そ、そんな言い方ってないですよ! 夢を持ってる人を応援しちゃいけないんですか! はっきりいいますけど、そうやって他人のせいにするのはダメな人で すよ!?」
「なんだよ! ほんとはわかってるんだぞ、応援するやつなんて、信じてるって言うやつなんて、応えられなかった奴の気持ちなんて何もわかってなくて、なん の責任もなしにプレッシャーだけかけて……お前らが応援なんかするからあきらめられないじゃねーか! あきらめて楽になりたいのに……俺にはできるわけが ないって分かってるのに……」
 俺はまゆこの顔をにらみつけた。まゆこは怒らなかった。驚きに見開かれていた眼が、ぱちぱちと瞬き、やがて申し訳なさそうにうつむいて、ぼそりと一言。
「まゆこ、じゃまですか……?」
「ああ! 邪魔だ! もっと他の奴を助けろ! 街ん中でかたっぱしから声をかけろ!」
 まゆこは椅子から立ち上がった。
 俺の前に立ち、深々と頭をさげた。
「……ごめんなさい。もう二度と、こないですから」
 それだけ言って、出ていった。
 古くて傷んだドアのきしむ音がきこえ、消えた。

 6

 俺は畳の上に転がっていた。
 布団を敷く気にもなれない。
 天井の蛍光灯を見つめて、俺は独白した。
「……あれが俺の本音か……?」
 反吐が出そうなほど卑怯で薄汚いあの台詞が?
 そうだ。本音に違いない。何年も前から俺の心にあったものだ。
 いつからだろう。
 半年前、書いていた物を投げ出してそれきりパソコンを開かなくなってからか。
 2年前、渾身の長編が1次選考で落とされてからか。
 3年前、俺より下手だと思ってた作家志望者仲間が初投稿でデビューしてからか。
 それとも、それとも……
 何もできなくて、できない理由を他人のせいにして、他人を見下して自分のプライドだけ守って……プライドのせいでますます前に進めなくなって……
 それが俺だ。俺の全てだ。
 ため息が出た。昼から何も食っていないはずなのに空腹も感じなかった。このまま横たわって餓死できればと思った。だが俺が死んだりできない人間だという ことも分かっていた。きっと「親が悲しむ」とか理由をつけて死ぬのをやめるだろう。嘘をつけ、恐いだけのくせに。
 時計が眼に入った。11時。おれは4時間も転がっていたのか。
 眠ることができない。起き上がってパソコンを開いた。本当はとっくに諦めている物を残しているからいけない。奇麗さっぱり削除してしまおう。
 ……そして、母さんにもはっきり頭を下げるんだ。あきらめましたって。
 だが、ついつい原稿を読みはじめてしまった。三年半ほど前の短編だった。それなりに気に入っていたけど結果は最低だった。
 思い出した。書いていた頃の、浮き立つような気持ちを。書き終えたときの高揚を。雑誌を立ち読みして選考結果を知った時の悔しさを。
 未練なんかもってちゃだめだ、削除するんだ、そう分かってはいたのに結局全部読んでしまった。
 そして気づいた。
 最後に、見なれない文章がつけくわえられてる。

 『おもしろかったです でも主人公の過去を最初にあかしてくれるともっとよかったかも まゆこ』

 なんだ……なんだこれは?
 俺は他の文書ファイルを開いた。次から次へと、小説の末尾を見た。

 『クライマックスは主人公が説教するだけじゃなくて行動してくれたほうがよいです まゆこ』

 『真ん中へんで主人公とヒロインが仲直りするあたりがすっごくよかったです でもそのあとがだらだらしててスピード感がほしいです まゆこ』

 『主人公がうじうじしてて好きになれないです。もうちょっと明るい人でもいいかなあと思っちゃいます まゆこ』

 古いのも新しいのも。感想がつけられていた。
 これ全部読んだっていうのか? 俺がいない間に、家事も手伝ってくれて疲れてるのに、俺に文句ばかり言われてるのに、このクーラーもない暑い部屋で、ボ ツ以前駄作以前の代物を……
 ここまでしてくれたまゆこに、俺はなんて暴言を。
 画面が歪んだ。いや視界が歪んでるんだ。熱い涙が俺の眼から流れていた。
 力いっぱい眼をこすって涙をぬぐった。
 俺はどうすればいいんだろう。
 その時、目の前を光る物が横切った。
 羽根だ。羽根は俺の頬をつついた。
「なんだ?」
 1週間前とちがい、羽根だけでまゆこは来ない。
 何度も何度も、光る羽根は俺の顔をつついた。
「何か言いたいのか?」
 こいつは喋れない。どうやって訊こう。
 そうだ、どこかにあるはずだ。
 机の引き出しを片っ端から開けた。ここでもない、ここでもない……見つけた。
 原稿用紙。
 机の上に原稿用紙を広げた。光る羽根が踊るように動いた。原稿用紙を横いっぱいに使って巨大な字でこう書いた。

 『まゆこがさらわれた』

「なんだって!」

 『わるいやつらにだまされて車で』
 『繁華街で片っ端から『あなたを助けさせてください』って言ってたら、さらわれた』

「俺に……おれにどうしろってんだ」
 助けろっていうのか。できるわけない。女の子を拉致るような連中と喧嘩して勝てるもんか。相手は何人もいるだろうし喧嘩なれしてるはずだし……まゆこは 天使アイテムとかもってるしきっと大丈夫さ、自力でなんとかできるさ、俺なんて行ってもなんにもできない。俺は……
「どうしろってんだ。助けてくれってのか。俺には、そんなことは……」
 羽根ペンは宙に浮いたままだ。何も書かない。答えない。何の強制もしない。
 俺は羽根ペンから眼をそらした。ノートパソコンの画面を見つめた。

 『最初がちょっとよみにくかったけど終わりの方は感動しました まゆこ』

 そうだ、決まってるじゃないか。
 俺はうめくように言葉をもらした。
「……いかなきゃ。俺、いかなきゃ」
 そして、ちゃんと謝るんだ。

 7

 俺はNSRにまたがり、タンクに腹ばいになるほど伏せて、深夜の田舎国道をぶっとばしていた。
 前方に明かりはない。街灯もない。
 俺はさらにスロットルを開けた。
 すでに街を離れている。
 国道は畑や田んぼ、たまにガソリンスタンドが点在する中を伸びている。俺はほとんど明かりのないそんな場所を猛スピードで走り続けた。覆面パトカーがい たら免停どころか交通刑務所にぶちこまれること確実だ。
「おい! まだか! まだまっすぐでいいのか!」
 俺は風の音に負けじと絶叫する。
 右の頬にチクリと痛みが走る。羽根が刺したのだ。右を刺すのは「YES」の合図だ。
 ずっと先に車が見えた。
 羽根が左頬を鋭く刺した。
「あれか!? あの車か!?」
 右を刺された。 
 ブレーキをかける。前輪のダブルディスクが音を発し、後輪が振れる。
 ヘッドライトに照らし出された赤い車は、たぶんアメ車……カマロだろう。ちょっと昔のやつだ。せいぜい70キロくらいで走っている。
 右側から追い抜きながら窓を見た。
 暗いからよく見えない。誰かがもがいているのが見えた。速度を合わせる。数十センチの距離で並走する。
 後部座席で髪を振り乱して暴れているのは、まちがいなくまゆこだった。窓を内側から叩きはじめた。誰かにはり飛ばされて倒れた。
 ……この野郎!
 俺はプロテクター付きグローブをはめた拳で窓を殴った。ドアに蹴りを入れた。
 車がこちらに曲がってきた。幅寄せして道路から叩き出すつもりらしい。俺は急加速して逃れた。バックミラーにはカマロのヘッドライト。フロントの鋭い切 れ込みに並んだ4つ眼、怒り狂ってるようにも見える。俺のNSRと比べれば鈍重な動きで加速してついてくる。
 俺は思いきり速度を上げた。100キロ突破。
 できるか? できるのか?
 やるしかない。
 応えてくれ、NSR!
 後ろの車との距離を正確に勘定しながら、急ブレーキ!
 ハンドルがぶれ、後輪が滑り、NSRが尻を振った。俺はバイクの滑りをコントロールして横移動させた。ブレーキング・ドリフト。タイヤが転倒寸前のわず かなグリップで路面にくいついているのが分かる。すぐ真横を、キキイとブレーキ音を上げながらカマロがすっ飛んでいった。車体が振り回され、回転し、道か らはみ出し、パトカーの形をした看板を木っ端みじんにして、田んぼに飛び込んだ。しぶきを上げて止まった。ギュルギュルとタイヤの空転する音。泥にはまっ て出られないらしい。
 俺はNSRを降りて近づいていった。フルフェイスヘルメットはかぶったままだ。
 カマロのドアが勢い良く開け放たれた。
 皮ジャンにロン毛のでかい奴が出てきた。あと2人出てきた。同じような風体の男たちが全部で3人。まゆこは2人に押さえつけられている。
「てめえ、なんのつもりだ」
「その子を返せ!」
 ヘルメットをかぶったまま俺は叫んだ。
 そして、手を背中のリュックに伸ばした。中にある大きなメガネレンチをつかみ取る。
 抜いた。剣のつもりで振りかざした。カマロのライトを反射して銀色に光る鋼の棒。両端にギザギザの輪。棍棒としてならそこそこ使えるだろう。
 男たちは答えなかった。かわりに一人が飛びかかってきた。
 俺があっと思ってメガネレンチを振り回したが空を切った。突っこんできた男が消えた。身をかがめたんだ、と気づいた時にはもうそいつのタックルが俺の腹 に決まっていた。痛みよりもなによりも先にバランスを崩して尻餅をついた。メガネレンチを握りしめたまま座り込んだ俺の腹に蹴りが叩き込まれた。うえっと 声をあげて、痛みをこらえて立ち上がる。瞬間、足に折れそうな衝撃。後ろに回り込んでいたやつが蹴飛ばしたらしい。
 俺は今度は前のめりに倒れた。
 姿勢を低くしてのタックルと、足への蹴り……ヘルメットかぶった奴を攻撃する方法をよく知ってるんだ。ケンカ慣れしてる。そう気づいたが遅かった。地面 に這いつくばった俺の背中に何度も何度もキックが浴びせられた。アスファルトについた手を、グローブごと踏みつけられた。もう、どうすることもできなかっ た。いつのまにか頼みの綱のメガネレンチも消えていた。赤ん坊のように体を丸めて腹を守り、降ってくるキックに耐えるのがやっとだった。蹴りだけでなくメ ガネレンチも振り下ろされているようだった。
 かっこわるい……やっぱり駄目だった。勝てるわけがない。
 でも、まゆこが逃げるチャンスはできたはず。逃げてくれまゆこ。少しでも遠くへ! 俺はそれだけを願った。
 薄れていく意識の片隅で、プォーという音をとらえた。ラッパの音。なんだ?
「こいつ!」という男の怒鳴り声。「きゃっ」とまゆこの悲鳴。なんだ、いままゆこは何をやった?
 意識がはっきりした。全身を熱気を走り抜けた。痛みが消えた。はねるように起きた。
 眼に映ったのは、俺を挟んでいる男ふたりの驚いた顔、座り込んでいるまゆこと、そのそばにいる男。転がっている金色のラッパ。天使の応援ラッパ。根拠の ない超ゴーマンな自信を呼び覚ますアイテム。
 わずかなチャンスを、ラッパ出すために使ったんだ。
 逃げることだってできたはずなのに。」 
 あんなにののしった俺のためにか!
 まゆこは、逃げてるだけと俺のことをいった。
 そのとおりだ。
 だが今は、逃げない!
「お前……!?」
 俺をさっきまで蹴飛ばしていた奴がうめいた。この状態から立ち上がってこられるとは思っていなかったのか、当惑したような調子だ。俺はその隙を見逃さな かった。そいつの手で光っていたメガネレンチをひったくった。全力でそいつの顔面を殴りつける。声もだせずにそいつが硬直すると、俺は走った。まゆこのす ぐそばにいる奴へと。
「ーーー!!」
 俺は何事か絶叫していた。数メートルの距離を一足とびに走りぬけて、レンチで殴りかかった。そいつはさすがに喧嘩なれしてるのかのけぞってかわした。だ が一瞬あとに俺が体ごと突っこむ。肩口から体当たりした。俺とそいつは重なりあって倒れる。馬乗りになった。
 俺はレンチを振りあげてる。
「や、やめろーっ……」
 男が叫んだ。まゆこの声も耳にとびこんでくる。
「やめてください! そんなので殴ったら死んじゃいます!」
 そういわれて、俺は動きを止めた。
 レンチで頭を割るかわり、怒声を浴びせる。
「おい! この女を置いてゆけ! いいな!」
「わ、わかった! 悪かったからっ」
「し、死んじまうっ」
 左右から悲鳴があがった。
 その2人をよく見る。おびえていた。手を合わせていた。
「……わかった」
 俺がそういって立ち上がる。
 男たちはカマロに乗って逃げ去っていった。
 あとには、俺とまゆこが残された。
「……まゆこ! 無事か! 変なことされなかったか!?」
 俺はヘルメットを脱いだ。レンチを投げ捨てた。
 まゆこは最初の日と同様、どこかの女子高生みたいな服装だ。ずれた眼鏡を直して俺の方を見る。
「だいじょうぶです。幸彦さん……怪我は?」
「すごく痛いはずなんだけど……なぜか痛みがない」
「興奮状態だからですよ。あとで病院行かないと」
「……そうだ、そんなことじゃなくて」
「……そうですね、まゆこも、いわなきゃいけないことあったんです」
 俺とまゆこは姿勢を正した。至近距離から見詰め合った。
 そして、同時に、さけんだ。
「ごめん!」「ごめんなさいです!」
 二人して、目をぱちくり。
「え……なんで幸彦さんが謝るんですか?」
「せっかく応援してくれたのに、あんなひどいこと言っちゃったからさ。まゆこはなんで謝るの?」
「捕まって幸彦さんに迷惑かけたじゃないですか?」
「……そんな……どう考えても、悪いのは俺だよ」
 素直に、そう認めることができた。なんておひとよしで、なんていいやつなのか。自然に涙があふれた。
「幸彦さん! 幸彦さん! 痛いんですか! 横になってください!」
「いや、痛いから泣いてるんじゃないよ、まゆこ。
 ……自分が情けなくて……それから、うれしくて」
「うれしい?」
「まゆこに読んでもらえて、はげましてもらえて。うれしかった。だから、おれは……もうあきらめない。もう逃げない」
 まゆこ、一瞬だけきょとんとした表情。
 すぐに、すこしだけいたずらっぽく笑みを浮かべる。
「えへへ、それ、本音ですね? もうあとから取り消しきかないですよ?」
 俺は一瞬もためらわなかった。
「もちろんだ! 俺は未来の大作家、春日幸彦だ! 何百万部だって売れてやる!」
「……よかった。まゆこ、役にたったんですね」
「もちろん。きみは最高の天使だよ!」

 8

 俺はまだ痛む体を引きずるようにして、バイクに乗って小説を買ってきた。
 リュックサックいっぱいのライトノベル。
 ここしばらく、流行のライトノベルも読んでなかったから。
 これを読んで読んでよみまくり、そして書いて書いて書きまくる。
 いままで怠けていたなら、これからそのぶん頑張って取り戻せばいい!
 もちろんバイトも探す。やることはいくらだってあるんだ。
 ドアをあけると、まゆこが出迎えてくれた。
 なぜか、OLのかっこうをしている。謎だ。
「あ、幸彦さん。お茶入れますねー」
「うん、ありがとう」
「そうそう、なんかバイトの件でどうしたって電話ありましたよ? 宅急便集配センターから、採用だって」
「おおお! まずはバイトゲット!」
「でも断っておきました」
「……は?」
「『未来の大作家にそんなちっぽけな仕事はさせられません!』って。あれ? どうしたんですか幸彦さん? 顔色わるいですよ? なんでほっぺたがピクピク いってるですか?」
 ぜ、前言撤回……
 やっぱり、ばか天使かも……

 おわり。


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