正義の少女が殺しに来るぞ (誤字脱字修正版) 1 クリスマスまであと一週間に迫った日のことだ。 (あ、靴がある。お兄ちゃん、帰ってるんだ) 灰原弥生は玄関で学校指定のローファーを脱ぎ、勢いよく家の階段を登った。 象牙色のコートも脱いで、細い腕で小脇に抱える。冬服の紺色ブレザーはそのままだ。服を着替える時間が惜しい。早く兄に会いたい。大好きな兄に会いたい。今朝、ひどく陰気な表情をしていたので気になる。 家の中にはまったく暖房が効いていなかった。『あれ? どうして?』と不思議に思いながら、足早に階段を登る。 登って右側が弥生の部屋、左側は兄の部屋になっている。 大好きな兄の部屋、そのドアの前に立った。 そのとき気づく。なんだか変な臭いがする。獣の臭い、排泄物の臭い。 小首をかしげた。 (お兄ちゃん、また猫とか連れてきたのかな?) 兄は心優しく、怪我をした猫などをよく拾ってきては両親を困らせていた。そういうところが大好きだった。もちろん、一番優しいのは妹である弥 生に対してだ。小さいころから、兄は弥生のことを守ってくれてきた。弥生が自転車に乗れず泣いていたら、日が暮れるまで付き添って練習してくれた。学校で 男の子にからかわれていたら、次の日には授業を抜け出して弥生のクラスにやってきて守ってくれた。「妙なものが見える」弥生は、親からも学校の友達からも 冷たい眼で見られがちだった。兄だけが優しかったのだ。 「高校生にもなって、あのべったりは引く」という人もいる。しかし弥生は気にしていなかった。自分は幸せだと思う。 「お兄ちゃん。はいるよー」 トントンとノックする。 反応はない。 「お兄ちゃん……?」 ドアを、しずかに開ける。 廊下以上に冷たい空気の中、糞尿と汗のツンとする嫌な臭いが充満して…… 弥生は、小柄な体を硬直させた。 部屋の中では、人間が首を吊っていた。 窓際のカーテンレールにベルトをかけて、弥生のほうに顔を向けてぶらさがっている。 学生服姿。顔にはセルフレームの眼鏡。 弥生の兄、睦月だ。 「……お……にい……ちゃん?」 象牙色のコートを落とした。学校指定のカバンも落とした。口を半開きにして、かすれた声を漏らした。 何が起こっていたのか理解できない。理解したくない。認識できない。 コッチ、コッチ、と音がした。壁にかかる時計の音。時を刻む音。 たっぷり三、四秒、弥生は固まって、ようやく兄にとびついた。 「死なないでぇっ!」 首からベルトを外そうとする。だが固くて外れない。隙間に指を突っ込めない。 兄の体を持ち上げようともした。足をつかんだ。腕をつかんだ。脇の下に手を入れた。ダメだ、重くてまったく動かせない。睦月は男子高校生にしては小柄で、六十キロ程度のはず。それなのにびくともしない。 机に走った。机の上のペン立てに大型カッターナイフが刺さっていた。震える手で握り、チキチキと刃を出す。兄の首をいまも締め続けるベルトにカッターの刃を当てる。手の中が汗まみれだ。ベルトは固かったが、なんとか切れた。 腕の中に睦月の体が倒れこんでくる。よろめいてしまうほどの重量感だ。弥生は身長わずか百五十センチ、運動部にも入っていない。男一人の体を支えるのは無理だった。腕にちぎれそうな痛み。そのまま尻餅をついてしまう。 兄の首がショックで曲がった。顔に載っていた眼鏡が外れた。口から透明な胃液があふれてきた。その眼はむき出され、まったく焦点があっていない。 弥生は無言で兄のワイシャツを脱がせた。裸の胸にたくさんの傷痕があるので息を呑む。 兄の鼻をつまんで、兄の体の上にのしかかるようにして口と口を合わせる。至近距離で、兄の鼻と口は悪臭を発していた。吐しゃ物の臭いだ。我慢した。 息を吹き込む。薄い胸板に手を当てて押し込む。何度も、何度も。 兄の眼は焦点を結ばない。 息もせず、体もまるで動かない。 「い……いやっ……」 弥生は悲鳴をもらした。兄の体を抱きしめ、小さく首を振る。まるで幼児が「いやいや」をするように。 やがて弥生の悲鳴はすすり泣きに変わってゆく。すすり泣きは数十秒続き、唐突にやんだ。 兄は死んだ。この冷たい体は二度と動かない。 だが、なぜ。 弥生は兄の体を抱き抱えた。眼を閉じる。 「おにいちゃん……」 小さな口から言葉をもらす。亡骸をきつく抱きしめ、弥生は精神を集中した。 自分の胸の奥に、冷たいドロリとした塊がある。その塊に命じて、動かす。固まりは弥生の体の中を音もなく流れ、手足を通じて兄の亡骸に飛び込んでゆく。 冷たい塊は、弥生の持つ「霊力」だ。 「おにいちゃん……きかせて……なんで……どうして……どうして死んじゃったの……」 兄の体に魂は残っていなかった。 だが思念のかけらが残っていた。弥生はきいた。かすれた小さな声を。 (たすけて) (たすけてくれ) (もうなぐらないでくれ) (顔は傷つけないで、弥生が心配する) (どうして殴ったりするんだ。無抵抗の人間を殴ったりするんだ。恥ずかしいとは思わないのか) (や、やめてくれ、弥生は、弥生だけは) 弥生の心臓が、わしづかみにされたような衝撃に跳ねた。 (これはなに?) (お兄ちゃんはいったい……だれかにいじめられていた?) さらに意識を集中した。 兄の声が、より鮮明に聞こえてくる。 (やめてれ……たのむ……やめてくれ……やめてくれ……それでは意味がないんだ……やめてくれ……暴力……やめてくれ……弥生! 弥生!) 伝わってくるのはしかし、兄の声だけ。兄が見ていた光景、兄が聞いたことはわからない。 「おにいちゃん!? 誰なの? 誰がお兄ちゃんをいじめてるの!?」 弥生は兄の体を揺さぶって叫んだ。 (弥生……弥生……ごめん……ぼくは……だめだったよ、もう頑張れないよ) その言葉を最後に、何も伝わってこなくなった。 「おにいちゃん……」 弥生は、睦月の体を椅子に座らせた。胸が反吐でひどく汚れている。弥生はポケットからハンカチを出して丁寧に拭い取った。 息が苦しい。手も足も冷え切っている。体が震えて、止めることができない。 「……どうして」 睦月の体をまさぐった。「ごめん、兄さん」と一言、ワイシャツのポケット、ズボンのポケットに手を突っ込んでまさぐる。 遺書が、かならずどこかにあるはずだ。 出てこない。財布と学生証だけだ。 「どうして……」 知りたい。兄が死んだ理由を。兄を死なせた奴らが誰なのか。 その瞬間、まさしくジリリとベルが鳴り響く。 弥生は飛び上がった。 ベル音を発しているのは、睦月に机に置かれた携帯電話だ。着信のランプが明滅している。 弥生は震える手で電話を取った。 電話を耳に当てた。もしもしと言おうとした。 声が出ない。緊張で、渇いた空気が喉から押し出されただけだ。 「おいセイロン君、どうよ、気は変わったかよ!?」 電話の向こうから発せられたのは、ひどく軽い、おどけた声。男の声だ。 同じような声をきいたことがあった。以前、駅の階段に座りこんだ酔っ払いを見たことがある。ペンキまみれの作業服を着込んだその男はなにやら悪口を大声でがなりたてていた。その男とそっくりだ。 暴力的で嘲笑のにじんだ声だ。本能的に恐怖を感じた。 「な……なんですか、あなた」 「ああん? おめえこと誰だよ? セイロンのケイタイだろ、これ?」 セイロン? セイロンとはだれのことだ。兄のあだ名か。 「ははあ、おめえ、ヤヨイだろ? 妹の?」 「だ……だったらどうしたというのです」 「ビビリまくっちまって。声ききゃわかるぜ。兄妹そろって腰抜けだな、おい。ヤヨイちゃんよー。直接でもいいやー。一発やらせてくんねー?」 「……は?」 「やらせてくんねーかっていってんの。愛する兄貴を守るためだぜ、アッヒャッヒャ」 「に……おにいちゃんに……なにをしたのです」 そこで弥生は眼をつぶった。体が凍えるほど寒く、それなのに頭の中に熱い塊があった。 こんな奴に、こんな下品で下種で暴力的な奴に、兄さんが。 「おにいちゃんは……死んだんですよ! 首を吊って……いま目の前で冷たくなってる……あなたが……あなたが殺したんでしょう?」 「へ?」 電話の向こうの男は呆けた声を出す。 ついで、大爆笑する。 「あーヒャヒャヒャヒャヒャッ! 死んだ! 死んだってか! あひゃっ。そうかー、セイロン君はジサツくんかー。あっひゃひゃ」 「あなた……あなた……なんで笑うんですか」 すごんだつもりだった。魂をこめた絶叫を放ちたかった。だが大声が出ない。かすれた小さな声が出るだけだ。声帯がいうことをきかない。 「なんだよ。勝手に死んだんだろ。オレが殺したわけじゃねーよ、ボケッ。くやしかったら警察でもなんでもいってみろよ。ガタガタいってるとテメエも……」 相手の大声が鼓膜に突き刺さる。 弥生はケイタイを投げ捨てた。これ以上きいていたくなかった。 「あ……あ……」 小さな二つの拳を胸の前で握って震える。体全体が知らず知らずのうちにわななく。 「あ……あ……」 頭の中には言いたいことがたくさん。呪詛が。怒号が。嘆願が。悲鳴が。でも口から出るのは意味不明なうめきだけ。 何十回も、何百回もうめき声をあげつづけた。 やがて、うめき声は一つの言葉にかわる。 「しかえししたい……仕返ししたい」 そう、兄を殺したあいつに、復讐したい。 でも、できない。自分には何の力もない。 過去のニュースで見て知っていた。イジメ自殺の場合、自殺の原因を作った生徒が処罰されることなどない。いままでもなんら変わらない生活を送る。 再び、兄を見つめた。 物言わぬ亡骸は、椅子に浅く腰掛けている。首が折れて、うつろな表情で、膨れあがった舌を口からこぼれさせている。 「……ごめん……なさい」 恨みを晴らす力が欲しい。 と、そのときだ。 頭の中に声が響いた。 『……しいか?』 「え?」 『……ちからがほしいか』 声がまた聞こえた。 部屋の中を見回す。誰もいない。目の前に兄の亡骸、本棚には教科書や辞典、小説がよく整頓されて収まっている。 「だれ? 誰なの?」 兄の声ではない。いままできいたことのない声だ。 『……ちからがほしいか?』 周囲を見回しているうちにもう一度声がした。 背筋を極寒の塊が駆けた。 いまの声には『方角』というものがない。どこから聞こえてくるわけでもない。 「……だれよ……誰ですか……」 『力が欲しいか?』 自分の頭の中に、直接聞こえてくるのだ。染みとおってくるのだ。 『オレの名はアレクセイ』 「あれく……せい?」 『アレクセイ・ミハイロヴィッチ・セバチンスキイ。ロシアの大殺人鬼だ。もと特殊部隊で、つい先日警察と銃撃戦を家って射殺された。二十人は道連れにしてやったけどな。ニュースで見たことはねえか?』 「しらない……」 弱々しく首を振る弥生。 『だが、殺人鬼に用があるだろう?』 「ありません……そんなもの」 『はは。嘘はよくないな。あんたの切実な願いがオレを呼んだんだ。あの世から呼び出したんだ。……殺したい奴がいるだろう』 「え……」 心臓がまた跳ね上がった。全身に冷や汗が噴出した。 『ウソをつくな。ごまかすな。恥じることはねーよ。誰だって人を殺したくなることはある。ただ、『殺せない』だけだ。ある者は警察を恐れ、あるものは力が足りない。だが大丈夫。このオレが殺してやる。だから、お前の体を貸せ」 「殺せる……?」 小さな声で言ってみた。 「ころせる……コロセル……」 口の中で何度もその言葉を転がした。だんだん気分が高揚してくる。『殺す』なんて一生言わない言葉だと思っていたのに。 「でもわたし……腕力も運動神経もないんです」 『気にするな。技術でカバーできる。オレは世界最高の殺人術を身につけている』 「どうすればいいのですか」 『体から力を抜け。オレを求めろ』 弥生の逡巡は一瞬だった。椅子に腰かけて力なく頭をたれる兄を見て、うつろな兄の眼を見た。心は決まった。 ふうっと深呼吸。ほっそりした両腕を広げる。 つぶやいた。心からの願いをこめて。 「……きて。わたしに、『人を殺す力』を」 次の瞬間、弥生の両耳に氷の杭が突き刺さった。『激痛』と『冷たさ』の塊だ。 「ああっ、あがああっ!」 弥生は立ったまま大きくのけぞり、長い黒髪を振りみだして全身を痙攣させた。それなのになぜか倒れることはなかった。眼に見えない力が弥生の体を支えていた。 耳に突き刺さった『痛さと冷たさの杭』は、そのまま外耳、中耳、内耳を貫いて脳にまで入ってきた。流動し、頭蓋骨の内側を駆け巡った。 頭の中で、無数の単語が、映像が明滅する。 『アレクセイ』『スペツナズ』『チェチェン』『殺せ。ゲリラの可能性がある』『お前の帰るべき場所はもうない』『隊長、隊長!』『お前にとって戦場だけが真実だ』『十歳の時から銃を手にしていたろう』『この感触だ、頚動脈をナイフでえぐるとき』 瓦礫の山と化した都市。転がっている兵士の死体。頭の上半分がない。首があり得ない角度に曲がり、その灰色の眼がうらめしげに宙を見上げている。黒光りするライフル。空から降ってきたロケット弾。戦車が撃破される。 めくるめく戦争、殺戮、死の映像。一秒間に何度も切り替わる。ただ映像だけではなかった。小縁の花を突くにおいが、放置されたしたいの悪臭が、自分自身 が打たれたときの激痛が、瓦礫の中で敵兵とばったり出くわしたときの緊張が、敵がライフルを振り上げるより早くタックルしてナイフで下腹部を突き刺した 重い感触が、 いっペんに押し寄せてきた。 翻弄された。悲鳴を上げることすらできない。 『最後にもう一度だけ訊くぞ。力がほしいか?』 「ほしい。憎い敵を殺せる力が」 『いいだろう。ははっ。オレはお前となり、お前はオレとなる。無敵の殺人能力を約束する』 「むてきの、さつじんのうりょく」 弥生はつぶやいた。 おそろしく無感情な声で。 こうして灰原弥生は、殺人鬼アレクセイと一つになった。 2 寒川大輔は自宅の部屋でベッドに寝転がっていた。 よく日焼けした顔に、小動物を潰して遊ぶ小学生のような笑みが浮かんでいる。 残虐な、嘲りの笑いだ。 冬だというのに、畳十畳ほどの広さを持つ部屋はガンガンに温められている。 大輔は下半身は軍パン、上半身は迷彩柄のタンクトップ一丁という姿で、膨れ上がった両腕の筋肉をむき出しにしている。 そして枕元にラッキーストライクと灰皿を置き、プカリプカリと吹かしていた。 まだ高校生の彼がタバコを吸いだしたとき、母は嘆いた。オドオドした調子で叱った。しかし大輔が「ウッセエババア」を連発すると、何も言わなくなった。 彼がいるのは広い、乱雑な部屋だった。 天井にはカンフー映画のポスター、壁にはレーシングバイクのポスターが貼られている。酒ビンとダンベルが床のあちこちに転がっている。本棚はない。机の 上には本が確かにならんでいるが、マンガ週刊誌やバイク改造の雑誌、格闘家のDVDばかりで、教科書や参考書の類は一冊もない。 太い眉を不意に動かし、起き上がる。 「……そうだ、エリに言うべ」 ケイタイを床から拾い、女友達にかける。 すぐにつながった。 エリは学校からは半ばドロップアウト状態で、いつも暇そうにしている。 「ふわぁー。あたしれーす。エリちゃんれーす」 ケイタイから流れ出す、女のガラガラ声。 「……あー、おれおれ。大輔。あのさ、いま電話があったんだけど、セイロンの奴がさ……そう、セイロン。ほらお前が踊り場で蹴っただろう。あのメガネザル だよ。そうそう。あいつ死んだんだってよ。いや、ウソじゃなくて。あいつの妹が言ってるんだ。そうそう。クビ吊って。最低だよな。あんだけえらそうなこと 言っ手て、俺達にちょっと殴られたくらいでさ」 電話の向こうで「そうだよねー。ひゃははっ」とエリが笑う。 「妹としゃべったんだけどさ、もうスゲースゲー。『あたしの兄さんをかえしてよぉっ! うえええんっ』。ずっと涙声でさ」 エリがくすくす笑いながら言う。 「いや、なにそれ。キモイじゃーん。妹って小学生かなんかだっけ」 「いやー、たしか中坊だったと思うべ。セイロンがゆってた」 「チューガクにもなって『おにいちゃんかえして!』かあ。やだ、マジキモイ。ブラコンって奴かな?」 「ブラコンとシスコンの二人だよ。セイロンのほうもやばかったぜー」 「だいたいさー。『返して』ってヒドいよな。勝手にしんだんだろ」 「オレもそれ言いたい。やっぱアレだよな、イジメられるような奴は、なんでも他人のせいにするよな」 「世の中、ジコセキニンなのにーっ。きゃははっ」 携帯を通してキンキン響くエリの声は底抜けに明るい。セックスもうまいが、大輔はエリのそんな明るいところが好きだった。エリの笑い声を聞いていると頭の中がしびれて、難しいことを考えずに住む。不安から逃れられる。 そのとき、勢いよく部屋のドアが開け放たれた。誰かが入ってきた。 大輔は即座に叫ぶ。母親だと思ったのだ。 「ババア! 入るときはノックしろって……」 大輔の叫びは途切れた。口を半開きにしたまま顔面を硬直させる。 ドアから入ってきたのは母ではなかった。 小柄な女だ。まず目に付いたのがコート。白とも灰色ともつかない色のロングコートで首から下をすっぽり包んでいる。 露出しているのは頭だけ。長い黒髪をス卜レートにしている。前髪が長く、額を完全に覆いつくしている。 顔立ちは……顔に眼をやった瞬間、大輔は寒気を覚えた。むき出しの太い腕に鳥肌が立つ。 顔は整っていた。クラスの女子で一、二を争うほどには。目はぱっちりと大きく、鼻と口はあくまで控えめだ。おカッパ頭にして和服を着せたら似合うだろう、和風の美少女だった。 だが整った顔からは一切の感情がそぎ落とされていた。つぶらな瞳には射ぬくような冷たい眼光があった。 「なっ……おまえ、だれだ?」 少女は答えなかった。中学時代からケンカで鳴らしてきた大輔のメンチを受けて眉ひとつ動かさない。 逆に、問いかけてきた。 「……寒川大輔ですね?」 少女の声は低く、冷たかった。 「寒川大輔で間違いありませんね?」 「テメェ。きいてんのはこっちだ!」 ベッドから立ちあがる。両腕を振り上げる。たくましい筋肉を震わせて、すごむ。 「……灰原睦月に、連日の暴力を振るいましたね?」 少女のそのセリフをきいて、大輔は理解した。口元をニヤリと歪め、大きくうなずいた。 「あー、わかったぜ。おまえ、さっきの妹な? ヤヨイとかいうやつ。感じがぜんぜん違うから分からなかったぜ。で、なにしに来たの? フクシューかあ?」 そこで大輔は、少女……弥生が靴を履いていることに気づいた。コートの下から黒いローファーが覗いている。顔をしかめた。 「オイッ! クツ脱げよこの野郎っ」 大輔が拳を振り上げる。 ペッ! 小さな音がした。大輔の右眼に熱い痛みがはじけた。 反射的に手で押さえた。右眼から涙があふれていた。涙と一緒に、ねばついた液体が流れていた。 唾だ。唾を飛ばしてきたのだ。 頭の中で怒りが爆発した。 「こっ、このやっ……クソがぁぁっ!」 絶叫し、床を蹴って少女に突進する。そのときにはすでに左右の拳を胸の高さに構えている。わずかに前傾したボクシングスタイルだ。 飛びかかりながら、まったく躊躇せず右の拳を引いて、弥生の顔面めがけてパンチを、 叩きこもうとした。しかし少女の姿がかき消えた。拳は空を切った。 「え?」 当惑した瞬間、世界が回転。フローリングの床が持ち上がってきて、天井のポスターが見える。両足をバタつかせた。なにもない空中を掻くだけだ。回転しているのは自分のほうだと気づいた。投げられたのだ。 ダンッ! 鋭い衝撃音がして、背中と後頭部に痛みが弾けた。視界の中で火花が散る。 「があっ……」 うめき声を上げてしまった。 視界が回復した。やはり自分は仰向けになって床に転がっている。見えるのは天井と、コート姿の弥生。相変わらず、整った顔立ちをまったくの無表情に保っ ている。いや、眼だけが動いて大輔を見下ろしている。両腕をダラリと垂らしている。よく言えば自然体、悪く言えば無防備。 頭の中はパニック状態だ。 (なんだ。何が起こった。投げられた。柔道? 合気道?) だが、相手につかまれた感触がない。まるで魔法のように体が浮いた。 そんなことあるはずがない。自分で自分に言い聞かせた。 (俺は強い。今のは油断しただけだ) 専門的に格闘技を学んだことはなかった。だが自己流でも喧嘩に勝ってきた。うちの学校で自分より強いのは鷹城翔子だけだという自信がある。 再び闘志を燃やし、両手で床を叩く。反動で跳ね起きた。 最大のスピードで、再びつかみかかる。 今度はパンチでは攻めない。転がされにくいように、大きく体をかがめてタックル。 紙クズのように吹っ飛ぶ弥生の姿が脳裏に浮かぶ。 目の前まできたとき、弥生が動いた。 腕を伸ばして、こちらの腕をポンと叩いた。 一瞬にして、また世界が回転。両足が空中でバタつく。眼前に光るものが接近し、激突。パリンガシャンと甲高い音。ガラスが割れる音。 また投げられて、十畳ある部屋を横切り、プラズマテレビに頭から落ちたのだ。。 破片が額や頬に刺さって痛い。熱い痛み。鼓動に応じて傷口から血液が噴き出す。 「あ……」 手でぬぐって、ぬぐって、粘っこい感触が肘まで来て、まだ血が止まらない。 なんとか両手を床に突いた。しかし立ち上がることができない。膝が震えている。痙攣している。痛みではない。恐怖のためだ。 もう間違いない。 相手は、触っただけで自在に投げられるのだ。 こんなデタラメは格闘技でも武術でもない。 魔法だ。 「大丈夫ですか、傷の具合は?」 背後から弥生の声が追ってくる。 「ひいっ」 大輔は這ったまま逃げ出そうとする。目の前に部屋の壁があるので、九十度横を向いて、無数のガラス片が膝や掌に突き刺さるのを気にもせず、早回しの速度で這う。 「逃げないでください」 弥生の声が、すぐ後ろから浴びせられてきた。まったく同時に、顔面を激痛が襲う。鼻を蹴り上げられた。 「うぐっ!」 うめき声を上げた。涙と鼻水が反射的にあふれだした。床に突っ伏して鼻を覆う。掌に血と鼻水の粘液が張り付く。 続いて頬に「ゴンッ!」蹴りが浴びせられた。体が横に転がってしまう。剥き出しの腕に、またいくつもの痛み。ガラスの破片だ。 大輔は仰向けになり、」顔を手で覆った。膝の震えが止まらない。指の隙間から少女が見える。自分の顔のすぐそばに立って見下ろしている。コートの中が見えた。下にはスカートを履いていた。薄暗がりの中に、黒いニーソックスを履いた足が溶け込んでいた。 ダンッ! 弥生は足を振り上げ、ローファーで大輔を踏みつける。 ダンッ! 肩に一発。骨と骨がこすれ合い、関節の外れる音が響いた。肩の骨が外れた。ダンッ! もう片方の肩を踏まれ、「ボキンッ!」、大輔は激痛に身悶えした。 「ダンッ!」「ダンッ!」ついで両膝を蹴り飛ばされた。「ポキッ!」「ゴリュッ!」一撃で関節が外れた。 弥生の動きは無造作だ。踏みおろされた力も強くない。それなのに関節が外れた。 大輔の顔中に油汗がにじみ出た。激痛のあまり体が痙攣する。外れた手足の関節がますます痛んだ。 「ああっ……はあっ……ふう……どうして……」 大輔はうめいた。声と一緒に、口からは唾液が、鼻からは鼻血と鼻水がこぼれだす。股間も温かく濡れていた。 すると弥生は眉ひとつ動かさないまま言う。 「最適な角度で打撃すれば関節を外すのは容易なことです」 ブルリ。背筋を悪寒の塊が駆けあがった。なんだこいつは。なんのためらいも興奮もなく暴力を振るった。こいつにとって人を血まみれにするのも、立てない体にするのも「ごくあたりまえの日常」なのだ。 こいつは人間の感覚を持っていない。自分とはまるで別の世界からやってきた怪物だ。 殺される。何の躊躇もなく、蟻でも踏みつぶすように殺される。 弥生は、いきなり大輔の上に飛び降りた。腹筋に力をいれる余裕などない。柔らかいままの腹に少女の膝がそろって突き刺さり、 「ゴフッゲボッ!」 胃袋が押しつぶされた。大輔の口の中に胃液が逆流してくる。落下の衝撃が全身の骨に伝導した。外れた膝と肩にも響いた。 弥生はいまや大輔の体にまたがっていた。そのまま首の近くに手を突いて体を傾け、顔を近づけてくる。少女の顔が頭上から迫る。恋人にキスをするように。だが大輔は、喉笛に食らいつく肉食獣を連想した。 わずか三十センチばかりの距離にまで弥生の顔が接近した。長い黒髪が大輔の顔に垂れ、頬をなでる。いままでずっと無表情だった弥生だが、口元がわずかに歪んだように見えた。 「それとも、まさか……『どうしてボクがこんな目にあうんだ』ですか。『悪いことしてないのに』って言うつもりですか」 弥生の口元の歪みが大きくなった。形よい小さな唇を笑みの形にしている。しかし黒い瞳だけはまったく笑わず、恐ろしく真剣な視線で大輔を見下ろしている。 「まさか、そんなこといいませんよね。だってあなた、わたしのお兄ちゃんを殺したんですもの」 そこで弥生は、笑ったまま小さな手をすっと動かした。殴られる、と大輔は身をこわばらせた。しかし弥生の手は視界から消えた。顔の横に回った。 まさか。 大輔の想像はあたった。両耳が細い指で握られた。指が食い込んで、思い切り上に向かって引っ張り上げられている。頭が持ち上がった。耳の中でツウンと音がする。鼓膜が破れそうになっているのだ。 「お兄ちゃんに、どんなことをしたんですか? こんなことですか?」 耳が思い切り、上に引っ張り上げられた。頭全体が勢い良くフワリと浮いた。手が離された。落下する。その途中でまた耳をつかまれた。焼け付く激痛。 「ブチッミチッ」 耳の中で布のちぎれるような音。鼓膜が破れたのだ。耳穴の奥深くに、鉄串を突き刺されたような痛み。 「それとも、こんなことですか?」 耳から思い切り手が離された。頭が落下し、後頭部が床に叩きつけられる。ヌルリと血の感触があるが、その程度ではいまさらなんとも思わない。助かった、苦痛からの解放にため息をつく。 と、弥生の手が、今度は光る何かをつかんでいた。ガラスだ。掌ほどもあるガラスの破片をたくさん、両手一杯につかんでいる。それがプラズマテレビの破片だと気づいた。何をされるのかわかった。 思い切り口を閉じ、歯を食いしばる大輔。 しかし弥生は即座に、大輔の鼻に手を押し当てる。 「むぐうっ……むぐうっ……」 息が苦しくなった。身悶えして耐える。頭を激しく揺さぶって、鼻を覆い隠す手をどけようとする。しかしできない。ついにプハアッと口をあけてしまう。すかさず弥生が手を振り、ガラスの破片を口の中に放り込んでくる。 「それとも、こうですかっ」 弥生はパンチを繰り出してきた。パリンバキッと口の中でガラス片が砕ける。柔らかい口内の皮膚にたくさんのガラス片が刺さる。 「こうですかっ、こうですかっ」 ガラス片はすでに何百。口の中、頬の裏側、歯茎、舌にも刺さった。舌が勝手に痙攣し、ますます多くのガラス片がささってしまう。 「うーっ! うーっ!」 叫び声を上げた。吐き出そうとした。口の中は血の味で一杯だ。激しい吐き気。しかし弥生は許さない。 「こうですか? こうですか?」 連続して拳を振るってくる。小さな拳だ。殴る力も、友達の肩を叩いて呼ぶような小さなものだ。だが数十回も続く。 「むぐっ……」 吐き気。だが吐くことを許されない。ついにガラス片と血の塊を飲み込んでしまった。喉にも刺さった。決して触れることのできない痛みが、心臓の鼓動に合わせて喉で暴れる。 「教えてくれないんですか? いったいあなたはお兄ちゃんになにをしたのか。わたしの大切なお兄ちゃんに、なにをしたのか」 よどみない口調で言いながら、弥生は大輔の体の上に覆い被さっている。大輔の手が弥生につかまれた。恐怖に体がひきつる。股間に温かい感触が生まれた。 温かい感触は太股を伝い降りて広がってゆく。頭の中で悪い想像が炸裂する。指を折られる。手首を折られる。腱を切られる。考えただけで顔面が引きつる。あ れだけ泣いたのに、まだ涙と鼻水が噴き出してくる。 「ううーッ」 身をよじって泣く大輔。黒髪が頬をさらりとなでるほど顔を接近させ、弥生は言う。今までと違い、はっきり感情がこもっていた。やわらかい声だった。 「そんなに怖がらないでください。殺しはしません」 え? 大輔は眼を見張った。間違いなく殺されると思っていたのだ。思わず頬が緩み、「はあっ」と安堵のため息を漏らしてしまう。 「だから教えてください。おにいちゃんを殺したのが誰なのか。あなただけではないですよね? 全員の名前を言ってください。おにいちゃんを傷つけ苦しめていた全ての人間を教えてください」 言ってやる。助けてもらえるならなんだって言ってやる。睦月をイジメていたのはもちろん自分だけではない。 口を開く。口の中でガラス片の触れ合う音がジャリリと響く。 「あがっ……あがっ……いじゅめてゃにょはっ、ひちがあ、やんどっ」 イジメていたのは市ヶ谷と安藤。そう言おうとしたのだが、言えない。舌が痺れて動かない。喉にはガラスが刺さっているらしく、声を出そうとするだけで激痛が走る。まともに発音できない。 焦った。 「ひちがあ! やんどっ!」 もう一度言おうとした。やはり明瞭な発音ができない。 「そうですか……喋れませんか。ちょっとやりすぎたみたいですね」 「ちょりょしゃなひれっ!(殺さないで!)」 「では、『読ませて』もらいます」 弥生はそう言うと、大輔の額に手を当てた。 ビニールの手袋越しにでも、手の冷たさが伝わってくる。氷のような、異常な体温だ。 「さあ、見せてもらいます」 少女がその台詞を発したのと同時に、手のひらを通じて「冷たい何か」が押し寄せてきた。鉛のように重量感がある、冷たい冷たい流れが、頭蓋骨の中に入ってくる。 「がっ……」 痛みはない。だが何が起こっているのかわからず、大輔は呻いた。呻いて体をびくつかせるたびに、外れた関節や口の中が痛む。 頭の中に、無数の火花が散った。火花とともに映像が現れた。一瞬ごとに別の映像が出た。スライドを切り替えるように何十、何百。みんな「過去に見たも の」だった。幼い頃好きだったテレビ番組。幼い頃食べていた小学校の給食。まだ若い両親。中学にあがり、初めて着た学ラン。学校の裏で喧嘩したときの思い 出。そして高校で、むかつく奴らに暴力を振るった。トイレの薄暗い床の上に伸びている、小柄で眼鏡をかけた少年。灰原睦月だ。 何をされているのか直感的に分かった。心だ。心を読まれている。オカルト的な力で心に侵入されている。心を侵略され、えぐられているのだ。 最後に、大輔の友人や知り合いたちの顔が現れては消えた。 弥生が大輔の顔から手を離し、うなずいた。 「……わかりました。ありがとう」 そこで笑った。いままでとは違い、顔全体を朗らかな笑顔に変えたのだ。 「……では、死んでもらいます」 「なっ……やふほふっ! やふほふがっ」 約束が違う! そう叫ぼうとした。曲がったたまま動かない手足を懸命にばたつかせた。 弥生はわずか数十センチの高さから大輔を見下ろし、さも不思議そうに首をかしげる。 「なにを言ってるんですか? もしかして……『約束が違う』ですか? ……どうして、あなたなんかと約束を守らなければいけないのですか」 3 弥生は大輔の上に覆いかぶさったまま、震える彼の喉元に手を伸ばした。 すでに彼は抵抗すらやめていた。大きなギョロ目が潤んでいた。血と鼻水まみれの顔を哀願の形にゆがめていた。頬のあちこちのガラスの破片が突き出し、顔の皮膚と一緒に震えていた。 もちろん、どんなに哀願されても助けるつもりなどない。 首を手でつかむ。首筋に沿って指を滑らせ、激しく脈打つ血管を、頚動脈を確認した。 親指で押さえる。強い力はいらない。正しい指圧ポイントを押さえれば、血流を止めるには握力三十キロで十分だ。 大輔の体が痙攣した。そして死んだ。 念のため手首と首筋の脈を取ってみる。 間違いない。死んでいた。 大輔を殺し終わったあと、弥生は立ち上がる。 広いフローリングの部屋の端っこに、仰向けで転がっている大輔の屍。 手足がおかしな方向に捻じ曲がり、頬からガラス片がたくさん突き出し、顔は血と鼻水だらけ。真っ赤に充血した目玉を、飛び出さんばかりに見開いている。 「……醜い」 ため息をつく。 しばらく眺め、窓の外に目線を移す。 外はすっかり暗くなっていた。 「少し時間をかけすぎましたね」 と、室内を見る。床に転がった携帯電話がしきりに着メロを奏でている。 手にとって開くと、「着信 エリ」 「通話」ボタンを押して耳に当てた。こちらからは何も喋らない。 女の声が聞こえてきた。ハスキーな声だ。 「あ! 大輔! どうしたんだよ大輔! いったいどうしたの? さっきからずーっと電話かけっぱなしなのに。なんで電話でてくれないの?」 それでも弥生が答えずにいると、エリはますます焦った様子で言葉を続ける。 「なあ、なんかあったの? 大輔、大輔だよな……? いま、そっちに行く!」 弥生は、叩きつけるように短く鋭く言った。 「次はお前だ」 4 啓の家から高校まで約五キロ。世田谷のややこしい住宅地と、国道246を超えないとつかない。啓はいつものように、その距離を十五分で走っていた。 啓は商店街を疾走する。 黒い学ラン姿、真冬なのに足を全力運動させているおかげで熱くて仕方ない。上着の第一ボタンを開けているが、それでも体中に汗が噴き出し、前髪が額に張り付いている。 商店街は幅数メートル、朝の八時という時間帯の割りにずいぶん人通りが多い。啓は重い自転車を操って、人々の間を猛然と抜けてゆく。 目の前に買い物袋をもった老婆。腰の曲がった老婆は目を丸くしている。 「うりゃっ!」 男性らしさにかける高い声で気合を入れ、啓は自転車をひねり、衝突寸前のところで老婆を回避する。一瞬だけ振り向いて老婆に頭を下げる。 「ごめんっ、おバアちゃん!」 叫んで前に首を戻したら、今度は自転車が花屋に突っ込みそうになっていた。距離すでに数メートル、ひまわりエプロンのお姉さんがジョウロを落っことして逃げる。 「むううっ!」 ブレーキをかけて後輪をポンと浮かせ、棹立ちの状態になって体ごと振り回して自転車を強引に方向転換。店の前に並べられた植木鉢に突っこむ、まさに一瞬前に止まった。 「こらー!」 お姉さんの声が後ろからすっ飛んでくる。 「ごめんなさーい!」 振り返らずに叫んで、さらに走る。 道の左右を挟んでいる商店は、花屋、弁当屋、酒屋、薬屋、テーラー……どれもチェーン店ではない。しかも店を開けている。この世田谷の三軒茶屋には、むかしながらの商店街がいまだ残っているのだ。 商店街を端まで疾走すると、とつぜん眼前が開ける。片側三車線の巨大な国道が行く手を阻んでいる。乗用車やトラックが勢いよく国道を流れている。しかも頭上を首都高速の高架がふさいでいる。国道246だ。 ここが一番大変なところだ。なにしろ三軒茶屋付近の246には横断歩道が一つしかない。 歩道上で自転車を方向転換、そちらに向いたところで、啓は「はあっ」と大きくため息をついた。 まさにいま、歩行者用信号が赤になった。 左手にはめた時計を確認。もう八時二十分。時間はわずか。 右を向き、百メートルかなたの歩道橋めがけて疾走。歩道橋は、自転車を抱えて駆け上がった。 息を切らし顎を上下させて歩道橋を降りた。また自転車にまたがって走り出す。ここからは住宅地だ。世田谷の住宅地は一方通行と袋小路だらけだが、通いな れた道、啓は狭い路地を猛スピードで駆け、やがて世田谷線という路面電車に出くわし、その路面電車の踏切を突っ切ってさらに進み、 学生服姿の連中が自転車をこいでいるのを何台も追い越す。 門をくぐって自転車置き場にすべりこみ、肩掛けカバンをガンガンを振り回しながら教室に突進。 二年三組の教室に飛び込んだ。 戸をあけた向こうでは、一人の女の子が仁王立ちしていた。長身で、漆黒の髪をポニーテールにまとめている。 走りこんできた啓を、いきなり抱きしめた! 「おめでとう啓!」と叫びながら。 啓の顔面が柔らかいもので埋まる。セーラーの冬服だ。冬服越しに豊満な乳房がムニュリと伝わってくる。 恥ずかしさを感じるまもなく、啓は女の子に抱きしめられた。背中に回された腕が、鋼鉄のように硬く、啓の筋力限界をはるかに超えた力で胴体を締め上げられる。 メキメキッと肋骨がきしみ、灰の中にある空気が全部押しだされ、背骨までS字型にひん曲がって、啓は「うーぎゅーっ」とうめき声を上げる。視界がゆっくりと闇に閉ざされてゆく。 「あ! ごめん!」 頭の上から女の子の声が振ってきた。腕の力が弱まり、解放される。 「ふう……」 思い切り息を吸って、啓は女の子を見上げる。 目鼻立ちは整っている。ぱっちりくっきり、とくに吊り目気味の大きな眼が印象的だ。いまの流行から大きく外れた太い眉毛もよく目立つ。 鷹城翔子。啓にとっては幼なじみだ。 格闘技の姉弟子でもある。 「ひどいよ、翔子ちゃん」 「あー、ごめんって言ってるじゃん」 翔子は手を合わせ、苦笑いを浮かべて小さく頭を下げる。次の瞬間、翔子はガラリと表情を変える。満面の笑みを浮かべて、啓の背中をぽんぽん叩く。 「それよりさ、ついに合格だよ!」 翔子は腕時計を啓の前に示してみせる。 現在時刻、八時三十二分。 「そりゃ、一ヶ月もやらされればね。じゃあ、これ外すよ」 手首と足首から鉛入りのリストバンドを外す。手から滑って一つ落とした。ゴチンと床に当たる。 「明日から、重さは倍にしよう。自転車につけるウェートも倍」 「そんな! ムチャだよ。自転車に三十キロつけたらまっすぐ走れないよ」 「なんだ情けないなあ。あたしなんて、この程度の訓練は小学六年のときにこなしたよ」 「それは翔子ちゃんが……」 ボソボソと呟いた啓の言葉を遮り、大声が響いた。 「おまえみたいなゴリラ女と一緒にすんなっての」 軽く甲高い男の声だ。啓と翔子がそちらを向く。 声の主は、教室の一番後ろ、窓際の席に座っていた。 背丈は百七十くらい、ほぼ平均身長だが、やけに痩せている。黒い学ランと細い体がまったくマッチせず、案山子に学生服を着せたようだ。顔も逆三角形で細く、銀ぶちのメガネを書けている。 なぜか机も上に胡坐をかいて座り込み、その上につや消し黒のノートパソコンを乗せて、カタカタ、カタカタと五月雨のような音で規則正しくタイピングしている。 啓の友人の一人、礼一だ。いつもパソコンばかりいじっている。 翔子は彼の元までツカツカと歩み寄り、 「あたしはゴリラじゃ……」 「ほい」 礼一はパソコンの画面から顔も上げず、机の中から「茶色い木の板」を出す。 翔子は正拳突きで叩き割った。 「たあっ!」 目の前に石や木があったら、反射的に割ってしまう。鷹城翔子は長年の修行でそういう体になってしまったのだ。 「ほら筋肉ゴリラだ」 「体が勝手に!」 「やっぱり上腕二等筋の収縮運動でものを考えてるんだなキミは。なんつーか、『ここはあなたの住むところじゃないのよ、森へお帰り』みたいな」 頬を膨らませた翔子、礼一をビシリと指差して、口をとがらせる。 「あたしがゴリラなんじゃなくて、お前がひ弱すぎるんだよ。体育の時間はいつも見学してるし」 だが礼一は鼻で笑う。 「フン。過度の運動は活性酸素によって体内を破壊するからね。どうせスポーツ選手になるわけでもないのだ、運動など自己満足に過ぎんよ」 「おまえ成績だってそんなによくもないだろ。うちみたいなバカ学校きてるし」 「学校の勉強など重要ではないよ。国立大学を出ても年収二百万のアルバイトしか見つからない人間が、いくらでもいるのだ。社会的サバイバルに必要な『真の知性』は……」 ふと翔子はいたずらっぽく笑う。 「そういうお前はなにやってんだよ? このパソコンオタク。どうせエロいゲームだろ」 にやにや笑いながら礼一の前の後ろからパソコンを覗き込む。 「……なんだこりゃ。字ばっか」 「ブログのネタ集めをしているのさ。フフン……オタクといえばエロゲー。なんとも単純な固定観念。まさにパブロフの犬だね。いや犬以下かもしれない。いい かい。オタクというのは、常識も倫理も無視して『自分の好きなもの、自分の面白いと思うもの』を追及する人間だ。自ら道を切り開く者なんだ。だから最初か らオタク向けのゲームやアニメを与えられて、それを消費してよしとする人間はあまりオタク的ではないんだな」 相変わらず翔子の顔を見ないまま、早口でまくしたてる。 「ああ、もう屁理屈いいやがって」 「屁理屈ってことはないさ。インチキ武術の人には理解できないだろうけど」 翔子は眉をつりあげる。 「鷹城流はインチキじゃない!」 「だって自称五千年の歴史があるんだろ。どこのムー大陸だよ。そのうち詐欺で捕まるよ」 「うちのじいちゃんを悪く言うな!」 翔子は礼一の顎をつかんで持ち上げた。 眼鏡の奥で、礼一の細い眼がますます細められる。 「ボクの執筆活動を邪魔しないでくれ」 「なーにが執筆だい」 至近距離で激しく火花を散らしあう翔子と礼一。 啓は不安を覚えた。ふたりに近寄って、両方の肩をポンポン叩いて声をかける。できるだけ笑顔を作って、できるだけ明るい声で。 「あのー、もうすぐ授業始まるし、喧嘩はやめたほうが。ほら、教科書とか出して」 そのとたん翔子と礼一の両方が同時に言い返してきた。 「あんたはそのへんで腕立てしてなさい!」「パシリは黙って!」 啓は呆然とする。 「あ、あの……」 「腕立て! 二百回!」 さびしいので、本当に腕立てをはじめた。 翔子は厳しいし、子供みたいだが、間違ったことを言ったことは一度もないんだ。 フウフウと汗を流しながら腕立て伏せをはじめる啓。 まわりの生徒たちは、いまさら変な目でみない。 「百二、百三……」 礼一がふと口ゲンカをやめて、啓を見る。 「こうしているとイジメみたいだなあ」 「何いってんのよ。一緒にしないで」 「わかってるさ。イジメといえば、今日はあいつらいないな」 「ああ、灰原ね。いないわね。寒川たちもいない」 「どっか中庭とかでボコってんじゃない?」 翔子の表情は苦々しい。さきほどの口ゲンカでは怒っていても目はキラキラ輝いていた。いまは単なる不機嫌だ。眉間にもシワが寄っている。 「それなら、まだいいが……もしかしたら、やっちまったかも」 「やっちまったって?」 会話を聞いていた啓が、ハッと気づいて顔を上げる。 「まさか……仕返し? 道連れに死んだ?」 翔子と礼一、啓を見下ろしてうなずく。 「あり得ない話じゃないな」 「ほら、校門のところにパトカーいたろ? きっと関係あるな」 「だけど灰原の奴は、虫も殺さない……いや、『殺せない』奴だと思ってたんだけどな」 翔子と礼一のふたりは腕を組み、真剣なまなざしを向けあう。 さきほどの喧嘩中とは別人のようだ。 この二人はいつもそうなのだ。 と、そのとき教室の戸が開き、教師が入ってきた。 担任教師は中年の男性で、やけに陰気な顔をしている。 (あれ?) 啓は不思議に思った。なにがあったのだろう。 「あー。起立」 教師が号令をかける。その声もボソボソと小さい。 翔子は、さすが武道家という素早い滑らかな動きで着席。 礼一もパソコンをたたんで机にしまい、自分は机から飛び降りて着席。 啓は慌てて立ち上がろうとしたが、自転車猛疾走と腕立て伏せのコンボですっかり疲れ、立ち上がれずに潰れてしまう。 「きゅう」 「礼。着席」 教師が、床にはいつくばった啓に目を留める。 「なんだ新川。具合悪いのか?」 「いえ……」 啓はよろめきながら、周囲の机にしがみついて立ち、席に戻る。 教師が教室全体を一望する。 「さて……おはようみんな」 教師が暗い表情で喋りだす。 礼一がいきなり質問を叩きつけた。 「先生。灰原が死んだって本当ですか?」 教師は目をむき、目に見えない何かに叩かれたようによろめいて、教卓につかまる。 声を裏返して、礼一を叱り付ける。 「な、な、なにを言うんだキミは!」 「ああ、やっぱり死んだんですか。灰原をイジメてた連中、寒川とかも姿が見えませんけど?」 「いや、だからそれは……」 教師は口を尖らせ、教室中に目線をうろつかせる。スーツのポケットからハンカチを取り出して額を拭く。何度も拭く。 礼一は大きくうなずいた。 「なるほど、確定のようですね。死んだ、というより殺されたのかな」 そう言った礼一に、翔子が厳しい視線を浴びせてボソボソと言う。 「おまえ、失礼だぞ」 意に介さず、礼一は肩をすくめる。 「知的好奇心だよ。ブログ管理人としてネタも集めないといけない。君と倫理面の議論をする気はないな」 教師は苦虫を噛み潰したような顔で、 「う、うん……これはすぐにばれるな……ああ、うん。灰原は亡くなった。寒川、神代、市谷、安藤もだ」 「合計五人ですか。たった一日で五人死んだ。いや殺された」 礼一はうなずいた。机の中からノートパソコンを出す。サスペンド状態になっていただけだったらしく、すぐに画面が映った。カタカタとリズミカルに入力する。表情は楽しそうで、口元には笑みすら浮かんでいる。 「お前、ほんと悪趣味な奴だな。人が死ぬのもネタでしかないんだ?」 晶子が眉根を寄せて毒づいた。 「あー、黙ってて集中力が途切れる」 啓もなんだか暗い気分になって、礼一をたしなめる。 「礼一、礼儀正しくしようよ。人が亡くなったんだから」 「その台詞、ほんとに思ってるか?」 礼一はパソコン画面から顔を上げ、啓のほうを向いて言う。 「あいつらは死んでよかった、とか思ってないか?」 礼一の表情と声色があまりに真剣なものだったので、啓は絶句した。 そういわれて見れば、と、心の中で誰かが同意する。 「そ、そりゃ寒川たちのイジメはひどかったけどさ」 そこで言葉を区切る。自分の心の中に、寒川の所業を思い返す。寒川はこのクラスで一番の暴れん坊だった。学校に通わず夜の街でたむろしていたが、たまに 学校に来るときはたいがい恐喝目的だった。啓自身も、入学した直後に目をつけられた。たいへん体が小さく、顔が女の子みたいで、弱そうに見えるからだ。 その寒川が、正体不明の殺人鬼に殺されるところをイメージした。薄暗い路地裏で、覆面をかぶった男に押し倒されて、包丁で喉を切られる。 なんども何度も助けてと叫ぶ寒川。しかし殺人鬼の包丁は無慈悲に喉を切り裂き、鮮血が噴水のように天高く噴き出す。 だめだ。やっぱり不快だ。かわいそうだ。 たとえ、あんな悪党でも。 心を決めた啓は、礼一の鋭い視線を受け止める。そして言い切る。 「でも、やっぱりダメだよ。人殺しは。あんな奴でも、死ぬのはきっと辛くて恐かったに決まってるんだ」 「そうだよな」 礼一は眼鏡の向こうの眼を、まぶしそうに細める。 「おまえは、そういう奴だ。……それがいいところでもあり、悪いところでもある」 そこで暮らす全体を見回した。 「他の連中はそんな殊勝なこと考えてないけどな」 そのとおりだった。 クラスメート三十六人は、みな、礼一に触発されたかのように好き勝手なことを言っていた。 「死んだって」「寒川はオレも嫌いだったんだ。弱いものイジメばっかで、不良の美学がないよな」 「誰が殺したんだ」「決まってんじゃん、灰原だよ。復讐大魔神だよ」「そんなマンガみたいなことがほんとにあるのかなあ」「現実の犯罪はマンガより奇なり だぜ」「まあ、そうだけどさ」「こわいわよねえ」「とかいってるけどアンタ、嬉しそうジャン」「まーねー。あたしも寒川きらいだったし。あいつがいるとク ラスの雰囲気悪くなるのよね。タバコくさいし」「でもあたし、実は灰原もヤだった」「そうだよねー。あいつ、ウザイよねー」 クラス全員があっちでペチャクチャ、こっちで机を叩いてドンドン、もう収拾がつかない。 「あー、キミたち。仮にも同じクラスの友人たちが亡くなったんだ、もう少し弔いの気持ちというものをだね……」 教師が顔を引きつらせて言う。 そのとき教室前のドアが開く。 年配の女教師が駆け込んできた。 啓は彼女を見て、不審に思った。 どうして、顔が真っ青なんだろう? 「……みなさん、ただちに集団下校してください。校長先生の指示です」 教室のあちこちで「えっ?」「オー」と声が上がる。だが大部分の生徒はまだ騒いでいる。 「またひとり生徒が殺されたんです!」 女教師が叫ぶ。 教室は静まり返った。 5 それから十分後、啓たちは商店街を歩いていた。 下北沢から三軒茶屋に向かって伸びる大きな通り「茶沢通り」だ。 車道をはさんでデパートやスーパーがビッチリ立ち並んでいる。 「わりと壮観だね、こうしてみると」 啓は自転車を押して歩きながら言った。 この茶沢通りの歩道は、軽自動車ならば上を走っていけるほど幅が広いのだが、そんな広い歩道が二、三百人もの学生で埋め尽くされているのだ。学ランと セーラー服が生み出す黒い波のところどころに、ママチャリを押した中年女性、作業服姿で段ボールを持った男が見える。学生の波に逆らうのが大変そうだ。 かたわらの翔子が、ひょこひょこと妙な歩き方をしながら答える。 「ああ、そうだね。時間が普通じゃないしね」 翔子は、ちょうど行く手にある写真屋の軒先を指さす。写真屋の軒先には時計があって、九時ちょうどを指している。こんな朝早くに学生が集団下校など、めったに見られない光景だろう。 「ところでさっきからなんでヒョコヒョコしてるの?」 翔子はフフンと笑う。 「見てわからない? 訓練だよ。爪先立ちで歩いてるの。満員電車とか人ごみの中でこうやってると、なかなか鍛えられるよ。啓もやれよ」 自転車を押しながら爪先でヨチヨチ歩く、という姿を想像して、噴きだしそうになった。 「え、遠慮します……あっそれにしても。なんだかお祭り気分だね、みんな」 このままで修行につき合わされるので、話題を強引に変えた。 「たしかにな」 翔子は太い眉をひそめる。 周りの生徒たちは一様に楽しそうな表情だ。カバンをぶらぶらさせて足取りも軽く、友達と遊びの計画について喋っている。とくに女の子たちの声が大きく甲高く耳に飛び込んでくる。 「ねえねえ、ユカが誘ってるカラオケだけどさ」「この時間からカラオケはないっしょ」「そうだよねー」 「旅行いこっか。冬休み増えたし」「いいねー」「うちはババアが勉強しろってうるせーからよー」「一回くらいプチ家出したらどうよ? 泣いて追いかけてきたりしてー」 誰の顔も明るい。 「……まるで、人が死んだなんて嘘みたいだ」 うつむいてつぶやく啓。背後から声が浴びせられた。 「人間というのはそういうものだ」 乾いた、嘲るような調子。顔を確認するまでもない。礼一だ。 「自分には関係がない。尻に火がつくまではそう思い続けるんだ。アメリカの地下鉄で起こった事件だ。一人の女性が暴漢に襲われて、ナイフでメッタ切りにさ れて死んだ。ところが、地下鉄には大勢の客が乗ってたんだ。何十人何百人がいたのに、誰も助けなかったんだ。『オレには関係ない』って。関わって巻き込ま れるのがいやなんだ。もっとすごい例もある。韓国の地下鉄にガソリンがまかれて放火、二百人が焼け死んだ。映像を見たけど、みんな逃げずに座ってるん だ。すぐ隣の車両で人がボウボウ燃えているのに。信じたくないんだよ、現実を」 「礼一のいうことは、きいてると心がくじけそう」 「だが、本当のことだ。こいつらの場合は……『冬休みが増えてラッキー』くらいに思ってるんだろうな」 「これで事件が終わってくれればいいけど」 啓がそう呟くと、翔子と礼一がまったく同じタイミングで、 「まあ無理だな」「無理よ」 「え? なんで」 あまりに反応が早いので驚いて翔子を見る。 翔子は広い額に片手を当てて、嫌そうな表情を作り、 「簡単さ。犯人の目的が終わってないから」 「え? 犯人って、灰原じゃないの」 「たぶん違う」 「あたしも違うと思う。灰原は、連続殺人なんかやらない」 「翔子の言うとおりだ。ゴリラが北京原人に進化したな。偉いぞ。第一、最後に殺されたのはイジメグループとは関係ない奴だ」 啓は首をめぐらし、翔子と礼一を交互に見る。 喧嘩したかと思えば、こんなに心が通じ合いもする。 (なんなんだろう、このふたり) 「とにかく、犯人は違う奴だ。だから、まだいる。かならずどこかに」 礼一はそこで声を低めた。 「もしかしたら、この中にも」 「まさか」 反射的に啓は否定した。 殺人犯がすぐそばに? 身震いしたそのとき、声が前のほうから飛んできた。 「すいませーん」 女の子の声だ。甲高く柔らかい、かわいい声だ。 声の主はかなり小柄らしく、学生服の群れに埋もれながらこっちに近づいてくる。あちこちで学生と衝突して「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」と頭を下げている。 なんだあれ? 啓は一瞬、自分の眼を疑った。 人ごみの上に、白いボンボンのついた赤い帽子が踊っている。サンタクロースの赤帽子だ。 やがて女の子の体も見えてきた。やはり赤い。上も下もサンタ服だ。 サンタ服の少女は、啓たちの前に飛び出してきた。そして頭を下げて、言う。 「すみません、どなたかわたしと、デートしてください!」 おじぎすると、長い黒髪がサラリと流れた。 変な服と変な言動の組み合わせ。啓は眼を見開いて少女を見つめた。目鼻だちの控えめでよく整った、かわいい女の子だと思った。 まわりの学生達の多くは眼を見開いて「は? あんただれ?」という顔をして通りすぎた。 啓たちをぐるっと見回して、「ねえ、デートしてくださいませんか?」 啓は答えられなかった。「この変な人は何なんだろう?」「なんでサンタ?」「なんでぼくたちに声をかけるんだろう?」などという疑問が頭の中をぐるぐる回っている。口をぽかんと半開きにして、固まってしまった。 礼一が少女を鋭く見つめ、質問を浴びせた。 「なぜデートの相手を探しているんですか? なぜボクたちでなければいけないんですか?」 礼一の声はひどく冷たかった。啓は驚いて礼一の顔を見る。ますます驚いた。礼一の目は細められ、ただでさえ悪い目つきが射抜くようだ。 「はいっ、デートの相手がいなくなっちゃって……」 礼一が口を開こうとしたそのとき、人ゴミを掻き分けて大きな体が現れた。 イガグリ頭に大きな体格の男子生徒。もうひとり背が高くて頭を茶色に染めている男子生徒。 啓はその二人を知っていた。同じクラスで、「ナンパ大王」とか「スケベの双璧」と呼ばれている二人だ。直接の付き合いはないが、「あいつは昨日ふられたばっかりなのにもうナンパしてる」「大学生の女を妊娠させた」などと噂が伝わってくる。 「ねえ、デートの相手って俺たちでいいの?」「きみ、かわいいね!」 ふたりでサンタ少女を挟み、声をかける。 「はいっ。大歓迎ですっ。お二人とも、スポーツでもやってらっしゃるんですかっ」 イガグリ頭と長身金髪は軽薄な笑みを浮かべて目配せしあう。 「あ、やっぱりわかる? オレは柔道やってるの」「オレはサッカーだ」 胸を張って二人は言う。だが啓は知っていた。二人のスポーツ自慢は女の子を落とすためのハッタリで、毎回変わるということを。 「かっこいいですね! 素敵なところに連れてってください! あ、ところで……」 サンタ少女は目を見開き、芝居がかった大げさな仕草であたりを見回す。 「あ、でも……よく考えたらみなさん、どうしてこんなに大勢で? まだ朝なのに? 学校はどうしちゃったんですかぁ?」 イガグリはサンタ少女の肩に手を置いて、にやりと笑う。 「そんなこと、どうでもいいじゃんかよ」 長身金髪は少女と強引に腕を組む。 「そーそー。そんなことよりオレたちとイイコトしようぜ」 少女はすぐに、満面の笑みを浮かべて、二人と腕を組む。 「はいっ。ではいきましょうっ」 三人で、足取りも軽く路地裏へと消えていった。 啓は呆然と見送った。三人が表通りから消えたときに、はじめてため息をついた。 「うーん、すごいねえ……やっぱり女の子にモテる人ってのは、あのくらい行動的じゃないとダメなのかな」 6 少年二人は大柄な体を期待に震わせ、サンタ少女の小さな手を握って、商店街の裏路地に入り込んだ。 茶沢通りの裏は「住宅地になっている部分」「飲み屋街になっている部分」の二種類あり、このあたりは完全な飲み屋街だ。あたりに三、四階建てのビルディ ングが立ち並んでいる。「スナック」「小料理」「韓国風居酒屋」「中華酒房」などと看板がビルから突き出している。いまの時間帯にはどの店も開いていな い。みんなシャッターを下ろしている。あたりに人通りは全くない。アルコールの臭気と生ゴミの臭気がわずかにただよってくる。表通りから二、三十メートル 入っただけなのにまったく別世界だ。 「なあ、まずはどこにいく?」 サンタ少女は小首をかしげる。頭に載せたサンタ帽の白いボンボンがヒョコリと動いた。 「ん……おまかせしますっ」 「じゃあさ、カラオケいかね? オレのダチが店員やってて、すっげーサービスいいんだよ。芸能人御用達のカラオケで、麻布にあるんだけどよ」 「からおけ……ですかあ……」 となりの長身金髪が、イガグリの肩を小突く。 「朝っぱらからいきなりカラオケはねーだろ」 「ああいう店は使えるんだぜ? 酒、歌、食いもん、女コマすにゃ……」 「だからそれがダメだっていってんの? なあお嬢ちゃん。おなか空いてねーか? いいカフェ知ってるんだ。おしゃれで、きっと気に入るよ」 「なあ、どっちがいい?」 サンタ少女はにこやかに笑いながら二人の顔を見比べて、言う。 「どちらでもかまいません。わたし、とっても嬉しいんです!」 突然、彼女が長身金髪のほうに飛びついた。 赤い袖に包まれた腕が翻り、学ランの背に回される。 「だって!」 抱きつかれた長身金髪が、体を痙攣させた。 「ためらいなく殺せるから!」 顔面が一瞬にして紙のように青くなり、そこらのシャッターに倒れ掛かる。 「なっ……」 なにが起こったのかわからない。イガグリ頭は目を見張った。倒れた長身金髪には目もくれず、サンタ少女は裏路地の真ん中に仁王立ちしている。 少女の顔を見た瞬間、イガグリ頭の全身に鳥肌が立った。 顔はかわっていなかった。白い頬、小ぶりで形の整った鼻と口、サンタ帽の下から艶やかな黒髪が流れている。 それでも思った。「この女は、一体誰だ」。 朗らかだった笑顔が一切消え、黒い瞳には冷たい眼光がやどっていた。 そしてイガグリ頭は視線を動かし、少女の手を見た。 手には小さなナイフが握られていた。刃渡りは十センチ程度か。リンゴの皮をむくときに使うフルーツナイフだ。全体が真っ赤に濡れていた。 「な……あんた……それ……」 ナイフで刺した。俺の友達をこの女が刺した。そしておそらくは殺した。一撃で。 見れば明白なことなのに、脳が理解を拒絶していた。 「それ……それ……」 サンタ少女は一歩こちらに近づいてきた。毛の植えられた赤いブーツで、ゆっくりと路面を踏みしめて歩み寄ってくる。 相変わらずまったくの無表情のまま、刺すような視線をこちらに向けたまま、少女は言う。 「はい。そうです。わたしはたったいま、この人を殺しました。簡単でしたよ。延髄をサクリと一撃。それだけで呼吸が止まります。あ、はい。そのとおりで す。クラスのほかの人たちを殺したのもわたしです。助かります、みなさん良心がない人で。だってクラスメートが亡くなったたことより、女の子とデートするこ とのほうが大事なんですよね。そういう人相手だと、わたしはためらいなく殺せます。もっとも」 そこで少女は言葉を切った。表情が仮面のように凍らせたまま、右手をナイフを軽く振った。 「……どんなに優しい、どんなに人格者でも、結局殺すんですけどね」 全身の冷や汗が、一気に乾いた。寒気に襲われ、イガグリ頭は身震いする。 (こいつ、本気で頭おかしい) 殺された友達を気遣うことも怒りを覚えることもなく、彼はすばやく後ろを向いて、表通りに向かって駆け出す。 と、次の瞬間、足首に激痛が走った。 走れず、つんのめって倒れた。受身を取ることもできず顔面から道路に突っ込んだ。頭の中で火花が散り、鼻の奥で血の臭いがあふれる。身をよじり、手を道路について、這いずって逃げようとする。 表通りまでたった二,三十メートルだ。 「おー……」 助けを呼ぼうと声を張り上げる。だがその瞬間、視界の片隅で赤いものが閃き、喉に重量感のある衝撃。「がはっ!」喉が、気管が一瞬でつぶれた。 喉仏を蹴り上げられたのだと気づいた。とても声など出せない。また路面jに突っ込み、頬をアスファルトでこすり、もだえる。 はあっぐふっ…… はあっぐふっ…… 呼吸が苦しい。体を痙攣させることしかできない。 頭の中に無数の疑問符が浮かぶ。 (どうして、どうして) 俺が何をした。寒川たちとは違う。イジメには参加していない。どうして、どうして…… いつのまにか、うつぶせだったはずの体が仰向けになっていた。涙でにじんだ視界の中に、サンタ少女が見える。血塗られたナイフを手に、自分を見下ろしている。ビルの谷間に降るわずかな陽光の中で、赤いその姿はまるきり死神のようだと思った。 「あがぁっ……」 少女が口を開いた。 「ひどい顔ですね。そんな顔では女の子にモテませんよ? ああ、不満なんですか。自分はイジメをやっていないのに何故殺されるのか。 簡単です。 あなたは助けなかったからです。わたしの大切な人が、どんなに苦しんでいても。あなたもまた加害者なのです。安心してください。一瞬です。あなたの罪は比較的軽いので、長くは苦しめません」 イガグリ頭が声を上げる暇も、目をつぶる暇もなかった。 サンタ少女の赤いブーツが宙に跳ね上がり、彼の胸に蹴り下ろされた。 ボキンッ 枯れ枝をまとめて折ったような音が弾けた。次の瞬間、胸の奥に爆発的な痛み。呼吸が止まり、全身の筋肉が硬直して体中の穴という穴から汗とよだれと小便が噴出し、視界が真っ暗になった。意識がとぎれた。 肋骨の破片が心臓に突き刺さったのだ。彼は死んだ。 7 啓は途中で翔子や礼一と別れ、三軒茶屋の住宅地を自転車で走る。 家に着いた。家は猫の額ほどの庭をもつ小さな一戸建てで、公務員の父が長年ローンを組んで建てたものだ。 「ただいまー」 玄関を開けて母に挨拶する。母は昼間パートをやっているが、今はまだ九時半。この時間帯ならいるはずだ。 案の定、母が洗濯物を抱えて顔を出し、啓の顔を見て目を丸くする。 「え? え? どうしたの?」 母は丸顔で身長百四十五センチ、ひどく小柄だ。本人の話では、「高校生になっても小学生と間違えられていた」という。体の小ささと童顔は、そのまま啓に受け継がれた。 啓は思案する。『クラスメートが次々と殺された』なんて正直に言ったらさぞ心配するだろう。 「あー、学校でちょっとね」 言葉を濁すことにした。学ランの上着を脱ぎながら言う。 言ったとたん、母の顔色がかわった。洗濯物を取り落とし、声をひそめて問いかけてくる。 「啓、あんたまさか、また昔みたいにイジメられたの? すぐに言いなさいね? 一人で我慢してちゃだめよ? 啓は優しいから、なんでも一人で我慢しちゃって、母さん心配で……」 「ちがうって母さん。いまのぼくをイジメる奴なんていないって。知ってるだろ、ぼくけっこう強いんだよ?」 「それはわかってるけど……」 仕方ない。正直に話そう。 「しばらく学校は休校だってさ。ぼくだけじゃなくて、みんなが。クラスメートが何人か殺されたんだ。犯人がまだ、うちのクラスメートを狙っているかも。だから休校。母さんも気をつけたほうがいいよ」 「どうしましょう。父さんにも帰ってきてもらうわ」 「いや、そこまでしなくても。何日か休むだけだよ。すぐに犯人は捕まる。その間ちゃんと勉強してないとね」 啓は明るい笑顔をつくって、洗濯物を拾って渡す。 「そうだといいけど……」 「大丈夫だって」 母が心配しているところは見たくない。 だから自分の部屋にすぐ引っ込んだ。 部屋は六畳の和室だ。机の上には教科書が整然と並んでいる。本棚にはマンガや小説もあるが、どこにもゲーム機がない。 なにより目立つのは、四方の壁、戸、フスマ、天井に張ってあるポスターだ。胴着を着込んだ武道家のポスターばかりがずらりと五枚十枚。 どれも「清龍館空手 乾師範 朝と夕に拝むべし 翔子」などと一文が添えられいる。 ポスターに一礼して、机に向かう。 母に言ったとおり、いまのうちに予習をしようと思った。カバンからまとめて教科書を出す。 さて、どの教科からはじめようか。 「……テストが返ってないから、わからない……」 つぶやいて、頭を抱える。 数日前の、二学期の期末テストが行われた。 その結果を見てから勉強方針を決めようと思っていたのだが。 「どうしたもんかなあ……」 体の鍛え方、三食の献立までああしろこうしろと言って来る翔子だが、勉強に関しては頼りにならない。 うん、礼一に訊こう。 ポケットから携帯電話を取り出したその瞬間、リリリリンと鳴り出す。 「あ、礼一?」 ケイタイを開けてみて驚く。「着信 礼一」。まさに礼一からかかって来た。 「あー、もしもし、勉強のことでちょっとききた……」 軽い気持ち、軽い口調で話し出す。 しかし電話の向こうから、緊迫した礼一の声。 「またふたり殺された」 思わず啓は目をパチクリさせる。 「……は?」 「新田と山原が殺された」 だれだっけ? と一瞬考えた。 すぐに、イガグリ頭の男と背の高い金髪男が脳裏に浮かぶ。ついさっき商店街でサンタ少女についていった、あの二人じゃないか。 「あの二人が……死んだ? ニュースでやってる?」 椅子から立ち上がる。居間に行ってテレビを見ようと考えたのだ。 「ちがう。ニュースではまだやってない」 そこで礼一は言葉を切った。息を吐き出す音がハアと聞こえてきた。礼一はかなり緊張しているようだ。 「……ボクが見つけたんだ、死体。いま目の前にあるよ」 「えーっ!」 8 あたりは薄暗く、店はすべてシャッターを閉ざしている。酒と吐しゃ物のすっぱい臭気が鼻を突く。 目の前には、横倒しにされたポリバケツ。ポリバケツの中には、学ラン姿の男子生徒が二人詰め込まれている。 礼一はズボンのポケットにケイタイを入れ、インカムを耳につないで通話しながら、両手で死体をいじっていた。手袋をはめているので、指紋は残らないはずだ。 「……ボクが見つけたんだ。いま目の前にあるよ」 「……えーっ!」 インカム越しに啓の叫びが聞こえる。 「ほ、本当なの? っていうか! 警察! あわ! あわっ! いったい誰が! どこで! いまどこ礼一! 犯人はやっぱりこの町にいるんだ!」 啓のあわてように礼一はあきれた。フフッと鼻で笑う。 「フフッ。犯人は決まってるじゃないか。サンタ女だよ」 「え……」 「場所は茶沢通りの路地裏。ボクはあの後、不審に思って戻ってきた。死体はすぐに見つかった。すごいね、この死体」 礼一は死体の片方、イガグリ頭の首筋を撫でた。首の裏にある傷痕を指先でなでる。 「延髄を、鋭い刃物で一撃だ。凄腕だぞ。それなのに筋力はない。不思議な犯人だ。ああ、筋力がないと考える理由はね、死体が『横倒しのポリバケツ』に入っているから。要するに人体を高く持ち上げることができなかったんだ」 「そ、そんなことより! 警察呼ばないと!」 耳に飛び込んでくる啓の声は悲鳴に近い。 礼一は答えた。自分でも首を傾げるくらい、落ち着いた声が出た。 「警察は呼ぶ。だけど、その前で自分で調べたいことがある」 「なんだい!? そんなことより、いま礼一が見つかったら、犯人と勘違いされるよ! とっても心配……」 啓の言葉を、礼一は鋭く遮る。 「なあ、サンタ女の顔を覚えているかい?」 「覚えているに決まってるじゃないか! あんな至近距離でみたんだよ! だから警察に……」 「じゃあ、特徴を言ってみてくれ。目は大きかった? 垂れ目? 吊り目? 鼻は? 顔全体の輪郭は?」 「え……」 啓が口ごもった。 礼一はうなずき、もう片方の死体の頭を引っ張った。バケツの中で複雑に手足が絡み合っているので、バケツから出てこない。舌打ちする。 「ほら、思い出せないだろう。ボクもそうだ。『サンタの格好をしていた』ということしか覚えていない。なあ、三億円事件って知ってるか」 「う、うん」 「白バイ警官に成りすました男が三億円を奪った。犯人は捕まらなかった。その場に居合わせた人間が誰一人、犯人の顔を覚えていなかったから。『白バイ警官の格好』という印象が、顔のことを忘れさせたんだ。『全裸強盗』という同様の例がアメリカにもある」 「何が言いたいのさ!」 「まず第一に」 礼一はポリバケツの死体、イガグリ頭の顎に手をかけ、自分のほうを向かせる。 「犯人は人間心理を知り尽くした凄い奴だ。大胆不敵、だが尻尾をつかませない」 次に礼一は、もう片方の死体、金髪男の顔面に手を当てた。それなりに整っていたはずの、ふだんは軽薄で好色な笑みばかり浮かべていた顔が、涙とヨダレにまみれている。ありったけの驚愕と恐怖に歪んだまま、固まっている。 見開かれたままの目蓋を、閉じさせてやった。 「第二に……ボクたちがあそこで気づいていれば。この女が怪しいと気づいていれば。この二人は死ななかった!」 声が感情で甲高く裏返った。最後の「なかった!」のあたりで目尻に熱いものがにじんだ。 啓が意外そうにたずねてくる。 「礼一は、あの二人キライなんじゃなかったの?」 礼一はおのれの激情を恥じた。 深呼吸して、声を落ち着ける。 「勘違いするなよ啓、ボクは正義の話をしてるわけじゃない。仇をとってやる、という考えじゃない。負けたんだ。このボクが、知性や注意力、分析力で完敗したんだ。腹が立つ。犯人を捕らえたい。倒したい」 「できるわけないよ。ぼくたちはただの素人だ」 啓が戸惑った声で言ってくる。 礼一は立ち上がり、ポリバケツに頭を下げる。 勢いよく言った。 「策はある。すべての餌を、一つの場所に!」 9 その日の夜、啓は鷹城流の道場入り口に傘を持って立ち、クラスメートたちを迎えていた。 戸の向こう、激しい雨の中に一つの影が浮かび上がる。 男子生徒。礼一と啓に呼び出されてやってきた、クラスメートの一人だ。 大雨の中をやってきたクラスメートは、傘をさしていても髪や手足が濡れている。不機嫌そうだ。 「あ、荷物持ちます。ごめんね」 小脇に抱えていたタオルで、男子生徒の頭をぬぐおうとする。 「いらねえよ気色わりい!」 男子生徒は啓の手を振り払い、傘を無造作に振って雫を飛ばし、靴を乱暴に脱いで道場内にあがってゆく。 「あ……」 ごめん、とい言おうとして啓は男子生徒に声をかける。だが男子生徒が「なんだよ? あん?」と不機嫌そうににらみつけてきたので、何もいえなくなった。 気を取り直して、また道場の外に目を向ける。 激しい雨の向こうで、街灯に照らされたブルーの傘がうごめく。 「道場の入り口ってこっちー?」 女の子の声だ。 「はーい、こっちでーす。家の玄関じゃなくて道場に直接入ってくださーい!」 雨音に負けじと、啓は声を張り上げる。 女の子はこっちに歩いてくる。啓は、傘の下にチラリと覗く顔を確認した。間違いなく、うちのクラスメートだ。ウェーブのかかった茶髪、少し背の高いグラマーな体つきで、たしか大学生の彼氏を自慢していた。 「傘をあずかりま……」 啓は腕を伸ばす。女の子は啓を冷たい眼で一瞥して、たたんだ傘を乱暴に押し付けてくる。 「雨の中、ごめんなさい」 精いっぱい申し訳なさそうに言って頭を下げた。だが女の子は、フンと思い切り鼻を鳴らす。 「ほんとにゴメンって思ってるの? こんなとこに呼んどいてさ。あたし、いろいろ予定あったのよ? リュージの奴が新車買ったから、あしたドライブに連れてってもらえんのよ」 「すいません、ドライブはあきらめてください。っていうか、しばらくはこの道場から動けないってことを覚悟してください」 「しばらくって、どのくらいよ?」 「一週間か二週間か……犯人が捕まるまでです」 女の子に首根っこをつかまれた。 「わわっ」 「マジでいってんの? もうすぐクリスマスなのよ? 女の子にとってクリスマスがどんなものか、あんた知らないの?」 「え、えーと……」 「知らないでしょうね、あんたゴリラ女のパシリだもんね、カノジョとか一生つくんないだろーしね。とにかく、あたしやりたいことがたくさんあるのよ」 「すみません、ごめんなさい」 「まったくよう……」 女の子は、啓の持っているタオルを強奪して顔と髪を拭きながら、道場の奥に入っていった。 「ふう……」 啓はため息をついた。 手にしているビニール袋は、すでにクラスメート十人分の傘が詰め込まれ、ずしりと重い。 「どうよ?」 突然、目の前に翔子が現れた。 目に刺さるほどまっ黄色な雨合羽を着ている。合羽のフードがトレードマークのポニーテールを隠している。だが「翔子はここにいるぞ!」という強烈な存在感があった。暗がりの中でも、大きなつり眼が鮮やかに光っていた。 「うーん……まだ十五人しか来てない」 恥ずかしく思いながら、啓は正直に言った。 翔子ははた目でも分かるほど、大きく肩を落とした。 「そうかあ……まだ十五人かあ……やっぱ、自分たちの楽しみを邪魔されたくないってことかな?」 「そうみたいだね。デートがあるから行けないとか、三学期までずっとバイトが入ってるとか。来てくれた人たちも、みんな不満ばっかり。まあ、いつまでこの道場に閉じ込められるかわからないんだもんね、仕方ないかも」 言っているうちに自信が失せて、オドオドした喋り方になってしまった。 翔子は啓の肩を叩いた。剣道の試合で面一本でも決まったように鋭い音がバンッとはじけた。 「そんなことないわよ。殺人鬼に殺されちゃったらデートも何もないのにさ。わっかんないかねー」 「ところで翔子ちゃん、警察の説得は」 この道場にクラスメートを集める一方、周りを警察に守ってもらう。いま翔子と、道場主である祖父が交渉中のはずだ。 翔子は大げさに首を振った。 「あー、こっちもうまくいってない。『警察にコネがあるからチョチョイのチョイ』ってのはハッタリらしい」 「いつもそうですよね、あの人」 道場主・善次郎老人が語ってきたホラの数々を思い出し、啓は噴きだす。 「そうそう。じいちゃんのハッタリは生まれつきだからね。なんたって……『わが鷹城流古武術には五千年の歴史がある』」 笑いをこらえながら啓が続ける。 「『開祖は古代中国の黄帝に仕えたといわれ、その後、日本に渡って富士山麓の古代都市を守護し……』」 「まったくよー、どこの『ムー』だっての。そんな作り話で門下生が集まりゃ誰も苦労しないわよ」 「わしがどうかしたか?」 突然老人の声が響いてきた。 「うわ!」 啓と翔子は同じタイミングで飛び跳ねる。 翔子のすぐ後ろに、老人がいた。鴉のような真っ黒い合羽に身を包んでいる。小柄で痩せていることが合羽の上からもはっきり分かる。だがその眼光は鋭く、啓は射抜かれたように体を震わせた。 道場主の鷹城善次郎だ。 「いや、じいちゃんっ。なんつうかその、あのっ」 啓相手にはあれだけ高飛車な翔子が、視線をあちこちにさまよわせ、しどろもどろ。 「まあ、よいわい。なにを言われておったかは分かっておる。うちの道場の場合、少しばかり『ぴーあーるしゅほう』と『ばっくすとーりー作り』が間違っておったのじゃ。やはり、『世界各国の特殊部隊で採用されている』あたりがトレンドだったかな、どう思うね?」 啓は目線をそらしながら答えた。 「えーとあの、正直に言ったほうがいいんじゃないかなーと思います」 「ふうむ……まあそれはともかく」 善次郎の後ろに警察官もやってきた。 初老の男だ。額に深くしわが刻まれ、疲れたような顔だが、キビキビした動作で合羽を脱いで、羽状の中を覗く。 「ふーむ。十五人程度ですか。学校がお休みの間、ずっとこちらで過ごすと?」 翔子が大きくうなずいた。身振り手振りを加えて熱く語る。 「そうなんです。こうしておけば殺人来がバーッと来たときに守りやすいでしょ。でも、あたしたちの自衛だけじゃ不安なんですよ。どうにかして警察を配備してくれると最高。ね、おまわりさん」 となりの善次郎も勢いこむ。 「そうそう。なにも難しいことを頼んでおるわけじゃないのです。機動隊っておるでしょう、盾をもった連中。あれを何十人かずらっと並べて、それから……」 「法治国家でそんなことできやしませんよ」 警官は苦笑した。 「まあ、防犯に協力していただけるのは有難いことです。我々もパトロールを強化しますので」 「それじゃダメなんだって。啓、あんたも何かいってやれ」 「え、そんなこと言われても」 啓は困り果てた。どうやって説得すればよいものやら見当もつかない。 そのとき、背後で大声。 「ごめん! 遅れた!」 啓は声のほうを見た。道場の外に礼一が立っている。傘を差し、背中には巨大なリュックをしょっている。 「遅い! 遅すぎる!」 翔子が声を張り上げて怒る。 「ごめんごめん。ちょっとセンサー類とかの機器を用意するのが遅れてさ」 礼一は手を合わせて謝った。翔子相手にこれだけ素直なのは珍しい。 「ところでこのおまわりさんは?」 礼一が尋ねると、警官は顔面に苦笑いをはりつけたまま答える。 「近所の警察署のものです。この道場を守ってくれ、といわれまして。なんでも殺人鬼をおびき寄せるそうで。はは、一個人の思いつきで警察は動かせませんよ」 礼一は目を細め、うなずく。 「やはりそう来ましたか。……おまわりさん、ボクは『レイズ・ラボ』ってブログやってるものなんですけど。今回の発案者はボクです」 「え?」 警官が目をむいた。礼一の頭のてっぺんから爪先まで眺め回す。道場の外に飛び出した。携帯電話でなにやら話しながら戻ってきた。 「……はい。はい。わかりました。一班を当たらせます」 電話を切り、あたらめて啓たちに頭を下げる。 「護衛をまわしてもらう事になりました。これはあくまで防犯と市民生活を守るための予防的措置です。では失礼」 警官が去ってゆく。 残された啓たちは、礼一に驚きの声を浴びせる。 「ど、どういうこと!?」と啓。 「やるじゃん! ただのオタクじゃないんだな!」 礼一は唇の端を歪めて得意そうに笑った。 「まあ、ボクのブログの読者は多いってことさ。警察を動かせるほどにね」 啓は思わず、駆け寄って礼一の肩に手をかけた。 「いや、ほんとに凄いって。ぼく、インターネットがここまで力あると思っていなかったよ」 「ネットそのものの力じゃない。ボクの力だ。そもそもキミたち古い世代の人間は、インターネットが商業シュパン物に劣ると考えている。しかし実際には場所と使い方を選ぶことでマスメディアに匹敵するインパクトを世界にもたらすことができるだろう……」 「ごめん、早くセンサー取り付けてくれないかな」 「くっ……せっかくノリにのっていたんだがな……」 10 その日の深夜。 男は佐山急便の縞シャツに身を包み、ブラックブラックガムを噛みながら、大型トラックを運転していた。 フロントガラスに土砂降りの雨が浴びせられている。ひっきりなしにワイパーがこすっているが、それでも外の光景は歪んで見える。 東名高速を降りて、いま国道246を渋谷方面に進んでいる。すぐに、頭の上に首都高の高架道路が現れる。 さすがに夜の二十二時を回ると交通量も少なくなっている。時速五十キロで巡航できた。 男、ちらりとダッシュボードの時計を見て眉根にシワを寄せ、ポツリとつぶやいた。 「やっぱり遅れちまったか」 雨が激しすぎた。世田谷の配送センターまであと二十分で着かないとと怒られる。このところ寝不足で仕事にミスが多い。今日も遅刻したらどうなることか。同僚の中にはクビになった者、減俸された者も多くいる。 まだ生まれたばかりの娘のことを思った。犬のぬいぐるみが大好きで、このあいだ噛んで耳をちぎってしまい、この子は大丈夫なのかと大騒ぎした。妻は笑っていた。 (お父さんは失業者。冗談じゃない。クビになってたまるか) 自分の頬をパンと勢い良く張って、気合を入れた。 と、そのとき。 前方で、誰かが歩道から車道に飛び出してきた。 小さく、妙に細い人影。 蛍光チョッキを着ている。手には赤く光り輝く棒を持っている。誘導灯だ。 街灯の薄い明かりの中に浮かび上がったシルエットは…… (警官!? それとも警備員?) 急ブレーキをかけた。 雨の中、タイヤを盛大に引きずって止まった。トラック前面から警官までの距離はわずか一メートル。すんでのところで事故を回避できた。 男は安堵の息をもらし、窓から顔を出して、警官を見る。 ヘッドライトに照らし出された警官は、女だった。長い黒髪が額に張りついて色っぽい。妙に若い。道端で見かける制服姿の女子高生よりも若く見える。白い 首筋はほっそりとして、握り締めただけで壊れてしまいそうな華奢な印象だ。しかも、なぜか雨具を身につけていない。上着も、スラックスもズブ濡れだ。 なんだこいつ、と男は小首をかしげる。 「どうかしましたか?」 すると婦警姿の女は、男のトラックに近づいてきた。窓のすぐ下までやってきた男を見上げる。 「免許証をみせてください」 婦警の声は冷たく澄んでいた。 「え? なんの違反ですか?」 小首をかしげる。速度も出していない。携帯電話も使っていないし、信号も青だ。一体どんな理由で警官に止められたのか。 「とにかく、免許証を」 婦警はトラックのドアを開け、勢いよく運転席に上がりこんできた。 男の胸の中に疑念が広がった。おかしい。警察はこんな行動とらない。 婦警の肩をつかんだ。語気荒く言った。 「おい! あんた本物の警官か? なんで一人でズブ濡れなんだ? その服はどこから盗んだ?」 婦警の表情が曇る。やはり、と男が思った次の瞬間、婦警の右腕がはね上がった。 男の額にリボルバーの銃口が突きつけられていた。目にもとまらない速さで拳銃を抜いたのだ。リボルバーは街灯の光を浴びて不気味に光っている。金属の冷たく固い感触が伝わってくる。 「この銃はニセモノじゃありませんよ?」 男の体が硬直した。 「あ……」 「降りなさい」 11 深夜の道場。 クラスメイトたちが三十人ほど集まっていた。道場の広さは五十畳程度、三十人が座るとかなり狭苦しい。となりの人間と肩や尻をぶつけ合わせるほど密集して座っていた。みんなでジャージやパジャマに着替えていた。 ある者は珈琲やコーラの入った紙コップ、ある者はポテトチップ、思い思いの食べ物飲み物を手にして、車座になって、啓を囲んでいた。 「いいぞー!」 「あと一本! あと一本!」 「あー、ちょっと右足が震えてるぞー! 根性入れろー!」 クラスメイト数十人の真ん中で啓は……芸をやっていた。 鷹城流の胴着を着こんで、足をハイキックの高さまで上げて、肩に、頭の上に、足の上にコップを置いている。コップの中にはなみなみと水が注がれている。 「あ、あのー。もう辛いんだけど……」 バランス感覚と足腰は鍛えてある。それでも、すでに軸足のふくらはぎが緊張のあまり痛い。 クラスメイトの一人が歩いてきて、「あ、これも」などと、頭の上にもう一つマグカップを追加した。 「一分経過、すげーよなー」 「新川、おまえってたいした奴だったんだなあ」 クラスメイトたちはしきりに感心している。 「あー。楽しんでもらえてなにより……うう」 ため息をつきたいが、ついたら微妙なバランスが崩れてコップを全部落としてしまうことは確実だ。 (おかしいなあ、なんでこんなことになったんだろう?) 最初は、「集められたみんながイライラしている。だから気分を和ませよう」という考えだった。 なにをしようか、と翔子に相談したら即断即決、「ここは道場でしょ?」。 鷹城流の演舞を見せることになった。 最初は板を蹴り割ったり、投げ技の型を見せたり、翔子と二人一組で約束組手をやったり。 「うるせー」「うさんくせー」と難癖をつけていたクラスメートたちも、啓が汗を飛び散らせて演舞を続けるうちに引き込まれていった。 クラスメートたちはしきりに注文をつけてきた。もっと派手な技を。こないだマンガで見た技を。 できるだけ要求にこたえてきた結果がこれだ。 (やっぱり、オーバーヘッドキックでリンゴ割ったあたりから、おかしくなってたんだ……) 「ねえ翔子ちゃん、もうやめていいよね?」 目だけを動かして道場内を見回す。翔子がいない。 ひょい、といきなり目の前に現れた。 手にでっかい氷の塊を持っている。 にっこり微笑んで、 「やっぱり氷割るのは基本だよね!」 「ちょっと武道っぽく戻ってきた!?」 「あ、ただ割るのは当たり前すぎるから、頭のコップそのままで」 「できないよ! 重心が移動するに決まってるじゃないか!」 「あんたならできる!」 力強くうなずく翔子。 だが「あんたならできる!」を信じたばっかりに北海道でツキノワグマに張り倒されたこともある。 「み、みんなあ……もう寝ようよ……」 クラスメートたちを見渡す。 しかし全員の眼が楽しそうにキラキラ輝いている。誰一人眠そうなものはいない。 いつの間にやら、和服姿の老人……善次郎師範までもが混ざって、ニコニコ笑っている。 唯一の例外は、端っこで胡坐をかいてノートパソコンをいじっている礼一。彼はいつもどおりの「ちょっと皮肉げな表情」でパソコンのキーを叩いている。 「れ、礼一。きみなら止めてくれるよね? ぼくもう疲れたよ」 しかし礼一はパソコンから顔も上げず、ただ口元をかすかに歪めて、 「自然の摂理だよ。危機的状況にあるからこそ人は狂騒をもとめてドンチャン騒ぎをするんだ。恐怖を忘れたいんだね。これも修行の一つだと思ってくれ」 「そ、そんなー!」 「ちなみに僕は、ブログのネタができてとても喜んでいる。そんなわけで止める気はない」 困り果てた。 翔子が、巨大な氷を片手でつかんでブラブラさせながら言う。 「べつの演舞じゃなくてもいいじゃない。みんなを楽しませるようなことなら」 「よ、よし。歌を歌います」 クラスメート三十人が一斉に声をあげた。 「つまんねー」「ききたくねー」 「ああ、もう、どうすりゃいいんだよ!」 啓は叫んだ。思わず涙声だ。 でも、楽しかった。 殺人鬼に狙われている、という異常な状況であっても、これだけクラスのみんなが笑ってくれる、楽しい空気が流れている。心のどこかに充実感があった。 この瞬間までは。 12 「それ」が起こった瞬間、啓は背筋に寒気の塊を感じた。火照った体が一気に冷却され、全身の汗腺という汗腺から冷や汗が噴き出す。 体が逃亡を要求した。考えるより先に、ありったけの瞬発力を動員、頭の上や腕の上のコップを残らず吹き飛ばし、後ろに転がって逃げた。 次の瞬間、道場の壁を突き破り、巨大な塊が突入。 四連のヘッドライトをギラリと輝かせた、高さが家ほどもあるトラック。壁を破砕して木片と白い漆喰を吹き上げ、巨大なタイヤと車重で道場の床を踏み砕き、まったく速度を殺さないまま道場の中を突進。 進路上のクラスメートが一瞬のうちにまとめて轢殺された。子供の背丈ほども直径のあるタイヤがジャージ姿の少年を、パジャマ姿の少女を巻き込んで回転、少年の体が紙屑のように舞う。 トレーラーは急減速した。重く甲高いブレーキ音が響き渡り、トレーラーは止まりつつ旋回する。車体の後ろ半分が振り回される。棍棒だ。長さ十八メート ル、重量十トンも二十トンもある棍棒だ。床を粉砕して木片を撒き散らし、道場の反対側の壁を吹き飛ばす。逃げる間もなく車体が、タイヤがクラスメートたち を襲う。 啓は転がって道場の壁にピッタリ張り付いていた。座り込んで震えた。まさに彼の目の前数十センチのところをトレーラーの尾部が通過する。銀色の大きな車体に「佐山急便」と書かれているのが見えた。 トレーラーは道場全体の床を耕し、反対側の壁を突き破って破砕し、柱も倒す。電気系統がおかしくなったのか、天井にある蛍光灯四本のうち二本が消えた。道場内が薄暗くなる。 トレーラーは道場のど真ん中で停車した。周囲には赤黒いものが転がっている。人体だ。手足を変な方向に曲げ、口から血を吐いている生徒たち。男も女もいる。 プッシュウ、とブレーキが空気音を発する。急に静かになった。 「あああっ」「おお、うぐっ、うぐっ」 静まり返った道場内に、クラスメートの嗚咽が聞こえる。啓は薄暗いあたりに目を凝らした。あのクラスメートも、あの娘も知っている。みんな口から血を吐いて、むせ返るたびに体を痙攣させている。 「あっ……」 啓もうめきをもらした。 立ち上がろうとする。うまく立てない。畳に手をついて起き上がろうとした。何か柔らかいものに手が当たった。思わずそちらを見た。全身が硬直した。 死体だった。眼鏡をかけた細身の少年。 礼一だ。 ノートパソコンを大事そうに抱えたまま、死んでいた。 腹の厚さが半分になっている。腹のへそあたりに両手が入るほども大穴が開いて、ピンク色に光る太いホースがこぼれ出している。腸だ。 「れ……礼一……」 声をかけた。自分の口から出た声とはとても思えないほどにしわがれていた。 もちろん返事はない。 「れ……礼……」 もういちど声をかけ、礼一の亡骸にさわる。体に触るのが恐いので、服の端をつまんだ。 思ったより勢いをつけて引っ張ってしまったらしい。いままで上を向いていた亡骸が手前に転がった。 どろリ、と鼻から、口から、血があふれた。レンズの割れた眼鏡の向こうで眼球が動き、片方がこぼれ落ちる…… もはや声も出せなかった。 震えながら目をそむける。 ちょうどそのとき、すぐそばにある壁の穴を抜けて、雨合羽を着た男たちが突入してきた。 手にしているのは、カールコードのついた拳銃。警察官たちだ。三人いる。 「手を上げてでてこいっ」 警察官たちはトレーラーの運転席に拳銃を向ける。 と、運転席のドアからオレンジの火が噴いた。 ダッ! 銃声はただの一発にしか聞こえなかったが、警察官三人がいっぺんに倒れた。凄まじい早業で連射したのだ。倒れたうち一人が啓のすぐそばに倒れてくる。仰向けだ。 至近距離から警官の顔を見た。あ、と思わず声が漏れた。 礼一と話していた、あのブログ好きの警官だ。 深いしわの刻まれた狭い額に、丸い穴が開いている。 (また死んだ。自分の目の前でこんなにもあっさりと) 全身の震えがますます大きくなっていた。 震えながら、道場内に視線をさまよわせる。 死体。どこを見ても死体。 陥没し、掘り返された畳のいたるところに、トレーラーの前輪の下に、死体。 壁面そばにも、吹っ飛ばされた生徒が数人転がっている。耳から血を流し、まったく動かない。 「あ……あ……」 自分の口から漏れる声を止めたかった。見つかってしまう。 (次はぼくが殺される。死にたくない) それだけしか考えられなかった。でも声がどうしても漏れてしまう。声帯の筋肉が一定の形で固まってしまったようだった。死体なんて見たくもないのに、目蓋を閉じることもできない。何もできず、ただうつ伏せでねそべっていた。 ドアが開いた。婦人警官が降り立つ。 拳銃を構えて警戒しながら、啓のほうに近づいてくる。 いや、タイトスカートに紺のジャケット、頭に制帽。婦人警官の制服をきた少女だ。なぜか制服は濡れている。 白いうりざね型の顔のなかで、潤んだ大きな黒目がひときわ目立つ。 間違いない、いま見てはっきり思い出した。今朝であった「サンタ少女」はこういう顔だ。 だが、表情はまるで別人。あのときは満ち溢れていた優しさ、明るさがまったくない。黒い瞳は黒メノウのように無機質な光を放ち、白い顔にはいかなる表情も浮かんでいなかった。 婦警姿の少女は、手にしたリボルバーをゆっくりと、啓の頭に向けた。 一瞬のうちに、啓の頭のなかで無数の思考が飛びまわった。 逃げる方法。戦う方法。 この日のために鷹城流古武術なんてモノを習ってきたんじゃないか。 だが恐い。掌の中にびっしり汗をかいていた。道場の壁が破壊されて冬の空気が流れ込んできたのに、額を幾筋もの汗が流れていた。 いますぐ警官の死体を跳ね除けて戦え、そう心は命ずる。でも体が動かない。 婦警姿の少女は、まったくの無表情のまま啓の体中を眺め回す。 視線が合ってしまった。 心臓を握り締められたような衝撃。息がつまる。呼吸が苦しい。それほどの恐怖。 (だめだ、ぼくはころされる) (武術なんて習っていたけど何の役にも立たないんだ) 胸の奥に冷たくて重苦しい感情が生まれた。全身に広がっていく。 そのときだ。 道場の真ん中をふさいでいるトレーラー、その向こうで、誰かが口笛を吹いた。 ピューウ。 一瞬、啓は目をしばたたかせた。あまりに場違いな、間の抜けた響きだった。 婦警姿の少女もそう感じたらしい。まったくの無表情だったのに眉をひそめ、すばやく振り向いて、トレーラーの陰にまわりこもうと歩き出す。 ついで、トレーラーの陰から「人影」が飛び出してきた。 婦警姿の少女、手にした拳銃を唸らせる。銃口から噴き出すオレンジの炎、「人影」はその場で倒れる。ジャージ姿。男子生徒の一人だ。 しかし、手足がひん曲がっている。撃たれる間もなく死んでいたはずだ。 これは囮だ、と啓が気づいたその瞬間、二つの影が走る。ひとつは死体を追ってトレーラーの陰から、もう一つはトレーラーの反対側の陰から。 啓の動体視力が「影」の正体をとらえた。 ふたつの影は、翔子と、その祖父だ。 長いポニーテールを振り乱して前傾姿勢で翔子は突進する。足元は「あちこち穴の開いた木の床」なのに彼女の足取りはゆるがない。 婦警姿の少女、拳銃を翔子に向ける。少女は拳銃を撃たず、投げつけた。弾切れらしい。黒い影となって飛ぶ拳銃を、翔子は避けない。手で払うこともない。額で受けた。赤いしぶきが散る。それでも翔子は悲鳴一つあげず、突進の速度を緩めもしない。 婦警姿の少女に、飛びかかった。 婦警姿の少女はほんの少し紺色の袖を翻して翔子に触れた。 手首をつかんで関節を下に曲げ、一瞬のうちに引いては押す。 それだけで、翔子の体が浮き上がり軽々と宙を舞った。 啓、目を見開く。 投げられた翔子はしかし、床からわずか数十センチという超低空で体をクルリと回転。床に両手をついて逆立ち、ポニーテールをぶん回し、下半身をまるごと鞭のようにしならせて 「ぬっ……!」 婦警姿の少女がうめいた。いままでなんの動揺も示さなかったのに。うめきながらも上半身をのけぞらせてキックを回避。翔子の長い足が、婦警少女の顔面を掠める。 よけた。だが間違いなく隙はできたはずだ。 そのとき、超低空で黒い影がタックルしてきた。婦警少女の足にしがみついた。胴着姿の小さな老人。善次郎だ。もともとバランスを崩していたので、婦警少女は仰向けになぎ倒される。 頭に載っていた帽子が吹っ飛び、雨に濡れた長い黒髪がパッと広がる。婦警少女は体をひねり、床を叩いて受身をとった。とっさに上体を起こそうとする。 しかしそのときには、タイトスカートから伸びる足に善次郎が組み付いていた。細い足首を抱え込む。 啓にはわかった。関節技だ。あれは足首を極める技だ。 「ぐっ……」 婦警少女がまたうめく。上半身を痙攣させる。 雨音にまぎれて聞こえなかったが、啓には足首関節の外れる音が想像できた。 善次郎の関節技と全く同時に、翔子もカポエラ体勢をやめて床に足を着き、身もだえする婦警少女に素早く近寄る。 婦警少女、懸命に首を上げて翔子をにらみ、右拳を振り上げて翔子の顔面めがけてパンチ、左手で目を突こうとする。 翔子はあわてずに攻撃をさばいた。右手のパンチは軽々とはたき落とす。左手の目突きは寸前で手をつかんで、指を逆方向に折り曲げる。指関節を極める、柔術の基本技だ。 翔子、婦警少女の右手をつかんだまま、右腕をまるごと極める。これで少女は上半身も動けない。動かした瞬間に肘の靭帯が断裂する。 さらに翔子は体を下げる。婦警少女の上に覆いかぶさるような体勢。ほっそりした少女の首に腕をかけた。裸絞めだ。そのとき善次郎は、今度は逆の足を取っている。こっちの足首関節も外した。 すべては一瞬で行われた。 一番最初に翔子が突進してからここまで、二秒かかっていない。 啓は改めて息を呑んだ。 (すごい。圧倒的な強さ) (この二人の息があってることは知ってたけど) (でも楽勝じゃないか) 安堵して、思わず全身の筋肉が緩んだ。つい何秒か前、拳銃を向けられたときの恐怖が嘘のようだった。 婦警姿の少女をじっと見る。 血まみれの床に這いつくばり、足は善次郎に固められ腕は翔子に固められ、身動き一つできない。このまま絞め落とされるのを待つだけ。 翔子も勝利を確信したのか、すぐそばにある少女の顔に向かって語りかける。 「あんた、変ね。筋肉とか体力とか全然ない」 「うっ……うぐっ……」 少女は首を絞められているので答えられない。 「達人なのに筋肉は全く鍛えてない。まるっきり素人。どういう人生だと、そんな体になるの? ちょっと興味あるんだけど?」 翔子は余裕たっぷりだ。 安心のあまり、そっと目を閉じた、そのとき。 「うわあっ!」 翔子の悲鳴が響いた。 あわてて啓が目を開けると、翔子は婦警少女の首から手を離していた。さっきまで余裕の笑みを浮かべていたのに、いまは顔面がこわばり、震えている。 「こ、こいつ……あたしの心に入ってきた? 超能力!?」 婦警姿の少女は挑戦的に微笑む。 「そのようなものです。お兄ちゃんの仇をうつため、わたしが授かった力!」 叫んで、自由に動けるようになった頭を思い切り振り上げる。翔子の顔面に頭突き。 「ぐふっ」 翔子はよけられずに食らってしまう。もともと血まみれだった翔子、鼻から血を噴き出す。視界もふさがれたらしい。「くそっ」と毒づいて、右手で顔を覆う。 そのとき婦警少女がさらに、空いている右手で翔子の喉元をつかむ。 「ぐうっ……」 翔子がうめいた。自分の喉に手をまわして、婦警少女の手を払いのけようとする。だがまるで翔子の動きを全部読んでいるかのように、婦警少女の手は逃げる。今度は翔子の顔面を這いった。目に突き刺さった。 「があっ」 翔子の悲鳴。婦警少女の、白い手袋に覆われた指が深々とめり込んでゆく。しかも一本でなく二本。翔子の大きな瞳にめり込んでゆく。 「うがっ……へっ、そんなことやったって腕は離さねえよ!」 翔子は勇ましく、男言葉で叫ぶ。眼球が潰される凄まじい激痛に苦しんでいるはずなのに。おそらく全力で技をかけているのだろう、右腕の筋肉が膨れ上がる。いままさに婦警少女の肘関節は破壊されているはずだ。 そのとき、せせら笑う声がした。婦警少女の白い顔に笑顔が浮かんでいた。小さな口から笑い声が漏れていた。 「なにが……おかしいっ」 「たかが腕一本、くすっ」 婦警少女は笑いとともに、指をますます深く眼球に突き入れた。 「がっ……」 翔子の体が大きく痙攣した。指はすでに根元まで入っている。 婦警姿の少女は、翔子の眼窩ふかくにつきさした二本の指を、 ぐいっ。 動かした。 ごっ。ばきっ。 雨音の中で、たしかに啓はその音をきいた。 翔子に頭の中から、頭蓋骨の中から聞こえてくる音。 翔子の頭、黒髪で覆われた頭蓋骨が変形した。縦に長さが伸びた。耳の上の高さに赤い線が走る。頭蓋骨を赤い線が取り巻く。赤い線から血が噴き出す。水鉄砲のように。頭蓋骨が破壊されてゆく。 翔子、口を大きく開ける。顎がはずれるほどに。口から絶叫がほとばしった。 「ああああーっ!」 啓が生まれてはじめて聞く声だった。肺の中の空気を一声ですべて吐き出して肺ごと潰してしまうような、血を吐くような絶叫。 「翔子ーッ!」 婦警少女の足に取り付いていた善次郎が叫んだ。関節技を解く。 立ち上がって翔子を助けようとしたのだろう。しかし、できなかった。 関節技を解いたその瞬間、婦警少女の足が動いた。足首関節を外しているはずなのに素早い動き。膝が跳ね上がって善次郎の腹部をとらえた。それだけで善次郎の体が宙に浮いた。数十センチ浮いて床に転がり、体を折って「ゲボウッ」と血の塊を吐く。 婦警少女、翔子の両目から指を引き抜く。ゲボリと液体の泡立つ音。指を覆う手袋はいまや真っ赤だ。血があふれ出す。ついで、その場に胡坐を組んで片手で足首をひねった。バキン! バキン! 足首を動かした。スムーズに動く。もう関節が治ってしまったのだ。 そのまま立ち上がろうとした。 バランスを崩し、片膝を突いた。 自分の左腕を見た。いまだ、左腕に翔子が組み付いている。 意識などまったくないはずなのに。頭からおびただしい血を流しているのに。 「食らいついたまま死にましたか」 少女は薄笑いを浮かべてつぶやいた。。 腕にしがみついたままの翔子の頭を、何度も、何度も床に叩きつけた。そのたびに翔子の頭から血がほとばしる。すでに顔も、髪の毛も真っ赤だ。もともと白かった胴着までも、流れてきた血によって半分以上が赤く染められている。 十回ほども床にぶつけて、ようやく翔子の腕がゆるみ、ほどけた。 婦警少女は立ち上がり、翔子を見下ろす。 と、そのとき、どこからかウーッとサイレンが鳴り響く。 婦警少女、目を見張る。口元を悔しげに歪めた。 そのままくるりと後ろを向き、壁に開いた大穴から走って逃げていく。 啓、口を開く。 言おうとした。叫ぼうとした。 「待て」と。 言えなかった。 口がすうっと空気を吐き出しただけ。 少女は消えた。建物の外に逃げてしまった。 啓、ため息をつく。 それが安堵のため息であることに気づいた。 愕然とした。 (ぼくは。ともだちをこんなに殺されたことより) (自分が助かったことのほうが、大事なのか) 啓の両目から涙があふれた。 「なにもできなかった」 そうだ。ぼくは何もできなかった。 鷹城流の修行を積み重ねた。翔子にも、善次郎にも散々稽古をつけてもらった。 いろいろな技を覚えたつもりだった。小学校のイジメにも打ち勝ち、それからは不良のたぐいに絡まれることもなく、心だって強くなったつもりだった。 だが、肝心なときにはなにもできなかった。 ちっとも強くなどなかったのだ。 啓、そこで勢いよく首を振る。 (まだだ。まだ翔子が生きているかもしれない) (善次郎さんが生きているかもしれない) まだ膝が震える。立てない。床を這って、翔子のもとへと向かった。手が血だまりに突っこんだ。腹が破れて腸のはみ出したクラスメートを、乗りこえた。床に転がる木片が、掌に刺さった。 翔子がいる場所は手が届きそうなのに、わずか二、三メートルの距離しかないのに、ワナワナと震える手足はじれったいほどゆっくりとしか動かなかった。 やっと翔子のもとにたどりついた。 頭を、顔をなでる。掌一杯に血がまとわりつく。 温かい。まだ温かさが伝わってくる。 「生きてる……?」 急いで、翔子の服の胸元を開く。 パーカーの前を開け、中のTシャツを引きちぎり、その下から出てきたスポーツブラを力任せにむしりとる。白い大きな乳房が露わになった。 乳房に耳を当てる。 とく。とくん。 小さい、だが確かな鼓動が聞こえた。 「……やっぱり生きてる」 啓、裏返った声で絶叫した。 「たすけて! だれか! 翔子を! たすけてーっ!!」 13 それから四日後の昼。 翔子の面会謝絶が解けた。 啓は自転車で街を走っていた。 空は真っ青に澄み渡っている。 額に汗を流しながら、ウィンドブレーカーを風に乱しながら、自転車の上に立って、漕いで漕ぎまくる。古いママチャリはギシギシと分解しそうだ。 病院の正門から突入する。 自転車置き場に自転車を放り出し、肩掛けカバンを振り回して走る。自動ドアを開けて走りこむ。 看護婦に衝突しそうになった。老婆の乗った車椅子を押している。 とっさに体をひねって避ける。肘が老婆の車椅子に当たった。 「こらッ! 走らないで!」 「ごめんなさいっ!」 看護婦の怒声。啓は振り向きもせずに叫ぶ。 注意されても止まる気はない。 走る。まだ走る。 出くわす看護婦、医者、患者は啓を見て驚く。なにしろ全力疾走だ。 「走らないで!」 また看護婦に怒鳴りつけられたが、今度は返事もしない。 エレベーターに飛びこんだ。 三階のボタンを押す。翔子が入院しているのは三〇三号室だ。個室だ。 誰も乗っていないエレベーターの中で、啓は地団太を踏んだ。 「はやく! はやく! もっと!」 はやく着け、エレベーター。 もっと早く翔子に会いたい。 エレベーターのドアの隙間をすり抜けるようにして飛び出す。三階の廊下もまったく同じように疾走する。 そして、三〇三号室の前で急ブレーキ。 胸に手を当てる。ドクドクと爆発しそうに脈打っている。走ってきたせいだけではない。 翔子に会いたい。でも会うのが恐い。 あの後、確かに翔子は一命を取り留めた。 頭蓋骨が変形して大量出血、普通の人なら即死していたという。それなのにたった四日で、面会を許可できるほどに回復した。超人的な体力だ。 しかし……後遺症が出ないわけがない。 なによりも、両の眼が喪われているのだ。 もう武術の修行どころではないだろう。辛いに決まっているはずだ。 (それに……ぼくを憎んでいるんじゃないか) そう考えただけで、啓は身震いした。握り締めた掌が汗でぬめった。 敵がやってきて、クラスメートの大半を殺して。自分もやられて祖父もやられて、それなのに、なにもしなかった奴がいる。 戦うでもなく、ただすみっこで震えていて、助かってしまった奴がいる。 ぼくなら、そいつを憎む。心から軽蔑せずにいられない。 でも…… 拳を、ギリリと音が出るほどに握り締める。 通りかかった看護婦に、声をかけられた。 「……あなた、大丈夫? 顔が真っ青よ?」 啓、深呼吸する。うなずいた。 「大丈夫、です」 (そうだ) (たとえ憎まれていても、ぼくは行かないと) 翔子に会いたいんだ。 病室のドアをノックした。 「翔子? ぼくだ。啓だ。入るよ……」 小声で言って、中に足を踏み入れる。 六畳間ほどの広さを持つ個室があった。 窓は大きい。壁は真っ白ではなくクリーム色で、絵が飾られていた。まぶしいほどに鮮やかな、青い森林だ。「病院は殺風景過ぎる、絵を飾って患者のメンタルをケアしよう」という最近の考えを取り入れているらしい。 窓際にベッドが。ベッドの上には掛け布団が盛り上がっている。誰かいる。 ベッドのそばには、ストレッチャーに乗っかったさまざまな機械。機械からはチューブが伸びて、掛け布団の中に消えていた。 「翔子……?」 ゆっくりと近寄る。 ベッドの上の布団から、何かが覗いていた。 白い丸いもの。 それが人間の頭だと気づくのに、一瞬かかった。 髪の毛を全て剃られ、包帯でぐるぐる巻きにされた翔子だと気づくのに、さらに一瞬かかった。 啓、体中の血が凍った。 包帯は縦横無尽に頭を丸ごと包んでいる。頭蓋骨の形自体が、前とはだいぶ変わっていた。翔子の頭はこんなに細長くなかった。いや、この細長さは「人間のものではない」。 ちゃんと骨をつなげなかったのだ。現代の医学をもってしても。 頭の真ん中あたりに二つ、落ちくぼんだ部分があった。その部分だけ血がにじんでいる。 いわずと知れた眼だ。指を根元まで突きこまれ、網膜どころか眼球も視神経も潰された眼。いまでは、ただの穴だ。湿った穴が二つ並んでいるだけだ。 眼の下あたりに、透明なチューブが突きこまれている。チューブの中を泡が移動していた。 「翔子……?」 また、おずおずと声をかける。 すると、翔子が……包帯にくるまれた丸いものが、もぞりと動いた。 「……けい……ズズーッ。か?」 声を発した。液体をすするような音が混じっていた。 「う、うん。ぼくだよ、翔子ちゃん」 「そう……ズズーッ」 「あ、あの……今回は、本当にとんでもないことになっちゃって。あの、あの……」 啓は翔子の顔を見つめ、本来なら眼があったはずの二つ並んだ空洞を見つめ、しゃべりはじめた。 「あの……その……」 しかし、言葉がこれ以上でてこない。 どんな言葉をかければよいというのだ。 まだ年齢一桁の頃からひたすら体を動かし、武術に打ち込んできた娘が、体も動かず眼も見えなくなって、どんなに悔しいか。絶望しているか。 頭のなかにはいくつかの台詞があった。 生きてて良かった。会いたかった。 ごめん翔子ちゃん。ぼく、何にもできなかった。 手足なんか動かなくたって、楽しいことはあるよ。 だが、どの言葉も口に出せない。 出せるわけがないのだ。 どの言葉も翔子を傷つける。 沈黙していると、翔子が喋りだした。 明るく。啓の想像を遥かに超えて明るく。 「ははっ。ズズーッ。啓、お前もしかして、気にしてるの、ズズーッ。『自分は何もできなかった』って。 ばーか。そんなのあたしは気にしないし、ちっとも恨んでないよ。あんたが肝心のときはへタれる奴だって、ズーッ、昔からわかってたさっ。この体だって、誰 もせいでもないさ。勝負の結果だ。あたしは武道家だよ? 父ちゃんみたいに、負けて死ぬ人だっているんだ。たかが半身不随でメソメソ泣くわけない」 啓、耳を疑った。 「そうなの? でも、翔子、その体は……」 「うん、医者は、ズーッ、『もう動かない』って言ってるよ。脳にかなり損傷が出てるんだってさ。じっさい、首から下の感覚とか全然ないし。でもさ、普通な ら生きてるだけでも不思議なんだ。頭蓋骨が割れて脳ミソでちゃったんだから。いま、あたしの頭って左右からプレートでガッチリ固めてるの。すごいよー。サ イボーグだよ。でさ、生きてるだけでも不思議なんだから、もっと不思議なことだって起こると思わない? たとえば立てるようになったりさ。車椅子なら乗れ るとか。あたしねー。車椅子バスケとかちょっと興味あったのよ。あっちの世界で一流になってやるわ」 怪我をする前と同じように、いや、それ以上にハイテンションに、翔子は喋り続けた。 ぼくも明るい話をしなくちゃ。 啓はカラカラになった口の中を舐めて、無理やり笑顔をつくって言う。 「う、うん。見たいな、翔子の車椅子バスケ。最近だとネットをつかえば、体がちょっと不自由でもいろんなことできるしね」 「そうなのよ啓。そういう前向きな態度が大事よズズーッ。てなわけで、あたしは前向きに第二の人生にチャレンジしまーす。この話題おわりっ。あ、それでさ、あのあと犯人どうなったの? 犯人は結局、灰原の妹なんだよね? 捕まったの?」 「え? お医者さんからきいてないの? まだ捕まってないよ。でも、いまのところ新しい殺人は起こってないんだ」 啓がそういうと、翔子の包帯頭がゆっくり揺れた。うなずいているのだろうか。 「すごい事件だよなあ。助かったのは、あたしと、啓と、あの一人いたっけ? いっぺんに二十五人殺しだもん。国際テロリストのレベルだね。『世田谷二十五 人殺し』とかって歴史に残るんじゃないの。技もすごかった。頭蓋骨をあんな風にぱっくり割るなんてなー。絶対、マンガの中だけの話だと思ってたよ。灰原の 妹、なんであんな技使えるんだろう?」 「う、うん。不思議だね」 「それでさー」 結局翔子は、二十分ほども喋り続けた。ほとんど啓にしゃべらせず、一人で、聞いているこちらがあっけにとられるほどすっとぼけた、明るい調子で。 「あー。はーっ、ズズーッ。ちょっと疲れちゃったなー」 啓は椅子から立ち上がる。 「あ、じゃあ、ぼく失礼するよ」 「おう、まだ休学してるんだよな? いまのうちにしっかり勉強やっとけよ? あんた、たいした特技があるわけじゃないんだから、勉強しないと一生フリーターだよ」 「うん」 最後まで翔子は明るかった。啓は微笑んで、最後に握手しようと手を伸ばす。そこで、いまの翔子には首から下の感触がないと気づいた。 握手のかわりに、包帯の上から頭をなでた。 「おい、啓、なにすんのよ」 「いや、ちょっと握手のかわりに」 「なによ、ひとを赤ん坊扱いしてさー。ふん。まあいいっか。それじゃあね」 啓はカバンを肩に担いで、病室を出た。 出るときに一瞬だけふりむいて、窓際のベッドに横たわる翔子を見た。 真っ白い包帯の塊。 だが、もう、痛々しいとは思わない。 かわいそう、声をかけられない、とは思わない。 どんなに怪我を負っても、翔子は翔子だ。 オラオラいいながら自分を道場でしごいてくれた、愛にみちたドツキを見舞ってくれた、あの翔子なのだ。 明るく前向きに生きてゆくだろう。 ぼくなんかが心配することは何もない。 ぼくはぼくで、やるべきことをやろう。 たとえば、家に帰って勉強するとか。 翔子がああいう体になったから、武術を独習するとか。 などと考えながら病院の中を歩き、玄関にまで来た。車椅子の老人と一緒に自動ドアをくぐる。 老人の持っているプリンがふと目に付き、思い出した。 あ、そうだ。 せっかくおみやげのプリン買ってきたのに、渡してないじゃないか。 ものは食べられるのかな? 確認してないけど、渡すだけ渡しておこう。 カバンを揺らして翔子の病室に戻る。 足取りも軽く、鼻歌すら歌いながら廊下を歩き、 翔子の病室までやってきて、 そのとき、きこえてしまった。 クリーム色の半開きになった扉の向こうから、声がする。 泣き声。すすり泣き。 翔子の。 「ぐすっ……あっ……うっ……ぐしゅっ……ああ……ううう……」 その声が耳に飛び込んだ瞬間、啓は硬直した。心臓をわしづかみにされたような衝撃。口をポカンとあけ、その場に立ち尽くす。 一枚のドアを隔てて、泣き声はきこえてくる。まだまだ続いた。 「ああっ……もうやだ……やだよお……うごかないよお……手足うごかないよお……やだよう……やだよう……あたし……けいこ……前みたいに……やだよ……どうして……こんな……えぐっ……えぐっ……ズズーッ……」 つい二、三分前の、はじけるような能天気は影も形もなかった。聴いているだけで胸が締め付けられる泣き声だった。 そうか。 啓は気づいた。自分の愚かさが悔しい。 さっきの翔子は、あの明るさは全部演技だったんだ。ぼくの前で泣きたくなかった。ぼくの前で弱いところ、暗いところを見せたくなかったのだ。 小さい頃から一度だって、ぼくの前では泣かなかった。いつだって強い女の子だった。 ぼくを暗い気分にさせたくなかったのか、ぼくの罪悪感を気にしたのか、単にプライドが許さなかったのか、それは分からない。 だがとにかく、翔子は仮面をかぶった。 すべての悲しさを、涙を、悔しさを封じた。 啓はフラフラとよろめいた。 病室入り口の反対側の壁に、もたれかかる。 膝から力が抜け、そのまましゃがんでしまう。 ああ、と嗚咽を漏らしそうになり、口を手でふさぐ。 ここに自分がいる、泣き声を聞いてしまった、とは知られてはいけない。絶対に声を出すな。 それにしても。 自分はなんてバカだったのか。 明るい翔子に引きずられて、ヘラヘラと愛想笑い。 しかも翔子は、あれだけ悲しんでるのに、ぼくへの恨み言は一言もいわない。 ぼくが悪いのに。 口元に当てた手をスライドさせ、顔全体を覆った。 何もかも、ぼくが悪いのに。ぼくがあの時震えてままでいなければ、少しでも立ち向かっていたら、翔子が逃げる時間くらいは稼げていたかも。 ぼくはどうすればいいんだろう。 「ううっ……ぐすっ……えぐっ……ズズーッ……」 翔子の悲痛な声が、耳に刺さる。 きっとこの声は夢に出る。ぼくは汗びっしょりになって夜中に飛び起きるだろう。いや、眠れないかもしれない。 (もちろん翔子はぼくなんかより何倍も辛い) (翔子は小さい頃から、ずっとのぼくのそばにいてくれたのに。ぼくは肝心なときになにもできなかった) 涙が目蓋を押し上げた。あふれ出した。手の指を伝って落ちた。自分も声を上げて泣いてしまいそうだった。歯を食いしばって耐えた。 思い出せ。 翔子は、小さい頃いじめらていたぼくを助けてくれた。二度と苛められないように鍛えてくれた。そのあとも、困っていたときは必ず力になってくれた。翔子の出してくる解決策はどれも過酷なもので、ぼくはそのたびにヒイヒイ言う羽目になったけど。 でも、助けてくれたのだ。 翔子は何を望んでいるだろう。 そのとき、暗闇の中に声が聞こえた。 知らない声だ。 「……この病院、例の事件の被害者もいるんだって?」 「そうそう。あのトラック突っこんだ奴」 「犯人まだ捕まってないんだよねー、恐いよねー」 横を、しゃべりながら患者が通り過ぎたのだ。 「……あ」 ぜったいに声を出さないときめていたのに、かすかに声をもらしてしまった。 顔から手をどけた。目を開けた。立ち上がった。 ……そうだ。 犯人はまだ捕まっていない。 どこかにいる。 ぼくが捕まえよう。ぼくが、灰原弥生を倒そう。 逆の立場だったら、翔子はきっと仇をとってくれる。 だから、ぼくもとる。 両方の拳をぎゅっと握った。 できるか。灰原弥生はあんなにも強い。 啓は、翔子の病室のドアをみつめ、心の中で誓った。 できる、じゃない。やるんだ。 翔子なら、そう言う。 翔子みたいに強く前向きになりたいって、ぼくはずっと思ってた。 待ってて、翔子。 ぼくが、必ず。 啓は背筋を伸ばし、歩き出した。 足早に。 もう心に迷いはなかった。 14 同時刻、安アパートの一室で、灰原弥生は目を覚ました。 まず感じたのは、痛み。 左腕に、肉を焼かれるような痛み。一定の周期でドックドックと強くなり弱くなる。 次に感じたのは、寒気。 いま、弥生は下半身にパンツをはいているだけだ。「下僕」に買いに行かせた、淡い水色の質素なパンツだ。両の太腿はむき出しになっている。ゴワゴワした 重い布団が足に乗っているが、それでも寒い。腹も寒い。全身に汗をかいているのに、Tシャツが濡れて小ぶりな乳房に張り付いているほどなのに、寒くて仕方ない。 重い目蓋を開ける。涙で視界がにじんでいる。右手を動かして布団から出し、目をこすった。 天井が見えた。真ん中に蛍光灯の吊られた、あちこちにシミのある天井。 本箱も見える。自分が今いるのは六畳程度の狭い部屋で、左側には部屋を埋め尽くすような大きな本箱があるのだ。本箱からは小説やマンガ雑誌が乱雑に飛び出している。柱にかけられた時計は十二時を示している。あたりは薄暗い。背後でゴトンゴトンと電車の音がする。 弥生の部屋ではない。 「ここは……?」 ここはどこだろう、自分は何故こんなところで寝ているのだろう。思い出せない。まだ意識がぼやけている。風邪をひいて熱を出したときのように体が火照って、頭がぼうっとして、ものを考えられない。 左腕のほうを動かそうとした。しかしまったく動かず、激痛が爆発する。背骨が反射的にしなった。頭のてっぺんから爪先までの筋肉をガチガチに硬直。 「うっ……」 いまの痛みで意識が急激に澄んだ。 そうだ、自分はあの翔子という女と戦って負傷。このアパートに潜伏していたのだ。 あの後、弥生は自転車を奪って逃走し、警察官を振り切ると、数キロはなれた小田急線沿いの安アパートを見つけた。大雨の中、街灯に照らされて浮かび上が るアパートは木造で階段などは錆びて穴だらけ、大変なオンボロだった。郵便受けをあさって、たくさん広告の詰まっている部屋を見つけた。住人はだらしない 性格らしい。ピッキングして部屋に入った。部屋の主が驚いて飛び起きると、霊能力で「恐怖」を植え付け、下僕にした。 それ以来、四日。 右腕を布団に突いて、慎重に上半身を起こす。 布団を払いのける。 乾燥した冷たい空気に、体をさらした。 下半身はパンツのみ、上半身はTシャツのみ。 もう一つ体を覆っているのは包帯だ。弥生は自分に左腕に視線を向ける。 片から肘までが、茶色い包帯に覆われていた。 本当は白い包帯だった。内側から滲み出した膿が、一晩のうちに包帯をぐっしょり濡らしているのだ。 四日前、翔子との戦いで肘関節を粉砕された。砕かれた骨が肉に食いこんで、ひどい炎症を起こしていた。このアパートに潜伏しながら、弥生はアレクセイの 戦場知識を使って治療を試みた。切り開き、水とアルコールで何度も膿を洗い出した。抗生剤を下僕に買わせて飲んだ。縫わない。まずは膿を根絶してからだ。 しかし症状はいっこうによくならなかった。腕は黒く腫れ上がって五割も太くなり、切っても切っても次の日には膿があふれ、炎症は体全体に脱力感と高熱をもたらしていた。 「どうしよう……」 肘を見て、弥生は泣きそうに顔をゆがめた。 頭の中でアレクセイが声を発した。いつも変わらない、冷笑し、鼻を鳴らし、高みから見下ろすような声だ。 『うーん。こりゃヒデエ。骨髄炎が悪化してるんだな。ほっとくと敗血症でビクンビクンとあの世行きだ』 「どうにかならないの?」 『体が根本的に弱すぎるんだよアンタ。オレでも、細菌への抵抗力まではいじれないねえ』 「どうすれば……このままじゃ、わたし、死ぬのね」 『ああ。間違いなく死ぬね。いますぐ専門医の治療を受ければ助かるかもな』 「いやよ。それじゃ逮捕されちゃうじゃない」 『へえ、それじゃイヤなんだ? フフッ』 アレクセイの鼻にかかった笑い声が、頭の中に強く反響した。 『あんた、もうクラスメートの大部分を殺してるじゃないか。イジメの直接実行犯はもちろん、見てて笑ってた奴らも死んだ。もう、復讐はいいだろ?』 「え」 弥生は絶句した。本当にそうか? 目を閉じる。たちまち目蓋の裏に、いとしい兄の姿が現れた。学生服を着て微笑んでいる。やさしい笑み。困ったときには いつも助けてくれた。火事の日からずっと、いつまでも一緒にいられると思っていた。兄に抱きしめられたときの、背中に回された腕の力強さを忘れない。弥生 が泣いていたときには一緒に泣いてくれた。忘れない。もちろん、兄が首を吊っていたときの、。血も凍るような戦慄も。 「……無理よ。だってわたし、まだ許してないもの。まだ、お兄ちゃんが『たすけて』って言ってるもの。わたしが少しでも気づいてたら、助けられたかもしれないのに」 『具体的に誰が憎い? 誰を復讐の対象にする? 何故?』 弥生は間髪いれずに答えた。 「クラスの全員。だって、お兄ちゃんがいじめられるのを黙ってみていたから。クラスだけじゃない。別のクラスも、別の学年も、先生も、誰も助けなかった。みんなが憎い」 あえぐように弥生は言う。はだけた布団の端をつかんだ。指の骨がきしむほど握り締めた。 「だから……だから……殺すのよ。もちろん、助けられなかったわたしも。すべてが終わったら、わたしも死ぬの。お兄ちゃんのところに行くの」 自分の言葉に勇気付けられた。あれほど強かった寒気は消えていた。パンツとTシャツだけ、裸体同然の体に熱が満ちている。 そうだ。わたしはまだ立ち止まれない。 憎い奴らはまだいる。 『フフフ……クククッ……ハハッ』 頭蓋骨の中で、アレクセイの甲高い笑い声が反響した。 『いいねえ。実にいい。最高だ。あんた、オレが思っていたとおりの逸材だよ。もっと憎むといい。愛する人を奪った敵たちを。なあに簡単なことさ、体力が半分なら十倍の怨念で埋め合わせろ。そうすれば、あんたは願いをかなえられる』 はっと目を見張る弥生。 「この腕、直す方法があるの?」 『病根をまとめて切除すればいい。切り落とせ』 弥生は即座にうなずいた。立ち上がった。 「わかったわ」 そのとき、部屋に男が入ってきた。 太った中年の男だ。丸い顔、小さなよどんだ眼がついている。ヨレヨレのジーンズに、土木作業員がよく着ている様なジャンパーを羽織っている。 この部屋の本来の主だ。 男は弥生の姿を見るや、持っていたスーパーの袋を投げ出して、その場に平伏した。 「あ、あ、あ、あの。お嬢様。お目覚めですか。お、お、お体の具合は」 弥生は男を一瞥する。下着姿を見られたことになるが、羞恥は感じない。家畜の前で裸になることがなぜ恥ずかしいのか。 「具合はよくありません」 「あ、あ、あ、あのっ。びょっ病院にっ」 「病院には行けないのです。そんなこともわからないのですか」 「ご、ご、ごめんなさいっ。もう、恐くしないでっ」 男は畳に額をこすりつけた。毎日精神攻撃を行った結果、ここまで恐怖を感じるようになっている。 「と、と、ところでお嬢様っ。お食事を買ってまいりました」 男は顔を上げる。スーパーの袋を掲げて見せる。 弥生は一瞬だけ躊躇した。いや、食べるのは後でいい。 「それより、この家にノコギリはありませんか?」 「え……ノコギリ……ですか」 「できるだけ頑丈なものを」 「以前、棚を作るときに買いました。あるはずです」 「すぐに出してください。それと、アルコールを。ウォッカがまだ残っていますね?」 男が部屋中をゴソゴソと探し始める。 弥生は風呂場に行った。ボロアパートにふさわしい、狭苦しいユニットバスだ。両手を広げたら壁に当たってしまう狭さだ。 浴槽に入って、深呼吸。 背後で折りたたみ式のドアが開いた。 「お、お、お嬢様。ノコギリです」 弥生は振り向いて、男からノコギリを受け取る。刃は錆びていない。 「そ、それからウォッカです。あのっ。あの、お嬢様、一体なにを……」 「見ればわかるでしょう。腕を切るのです」 弥生は言い切った。ノコギリをひとまず置き、Tシャツを脱ぎ捨てて、パンツも脱いだ。窓から差しこむ陽光の下に、真っ白いスレンダーな裸身をさらす。胸のふくらみは掌で包み隠せるほどに小さいものだ。腰はまったくの未発達で、股間のかげりは淡い。 いまや弥生が身につけているのは左腕の包帯のみ。 その包帯さえも、解いた。 じゅぶり。粘液が泡立つ音とともに包帯が落ちた。その下から出てきたのは、ボンレスハムのように膨張した腕だ。茶色い粘液にまみれている。粘液の下からのぞく皮膚はドス黒い。すっかり組織が壊死しているのだ。 見た瞬間、弥生の心臓が高鳴った。額を汗が流れ、髪がはりついた。 「命令があります」 「はいっ、な、なんでしょうっ」 「わたしは今から腕を斬ります。しかし悲鳴を出したくありません。わたしが悲鳴をあげたら口をふさぐのです。わたしの手が震えてノコギリをもてなかったら、あなたが斬りなさい」 「えっ……」 狼狽する男を無視して、弥生はまずシャワーを流し始めた。 水シャワーだ。頭から浴びた。冷たい。氷の塊に顔面を叩かれたようだ。ブルリと身震いする。冷水はそのまま肩、胸、腹、腰と流れ落ちていった。 たったいま脱いだばかりのTシャツを噛む。ノコギリを手にした。 『弥生、切るなら根元からだ』 アレクセイの指示に従い、左腕の付け根、肩甲骨に刃を当てる。 引いた。 引いた。 何度も、何十回も。 肉が爆ぜた。血が噴きだした。いままでに百倍する痛みが全身を荒れ狂った。歯を食いしばった。Tシャツを噛んでいたのは正解だ。これがないと歯がガタガタ鳴ってしまう。 痛みに耐え、なおも引いた。刃に硬いものがあたり、ゴリリと振動が腕に伝わってきた。骨だ。 「うんっ……」 歯を食いしばったまま、なおも引いた。 ノコギリのギザ歯が骨に食い込む感触は、ひどく熱いものだった。骨の髄まで灼熱の針をつきたてられたようだった。しかも針は、刃を動かすたびにますます強く食い込んでくる。 ゴリ……ゴリ……ゴリ…… 不思議なことに、斬っているのは左腕だけなのに右腕も痛い。足も、背中も痛い。足がつったときの痛みだ。肉離れの痛みだ。なぜだろうと膝を見下ろす。むきだしの膝が笑っていた。電流でも流されたように痙攣していた。 体中の筋肉が極度に緊張して、千切れそうに張りつめているのだ。 ノコギリの刃が急に止まった。見ると、骨の真ん中あたりまで食い込んでいる。 どうしても動かせない。動かそうとしただけで、ノコギリを振るう右腕さえもが痙攣する。ノコギリから手が離れてしまった。シャワーをザアザアと浴びなが ら、ユニットバスの壁に手をついた。筋肉の反乱は手足のみならず内臓にまで達していた。激しい吐き気がこみあげてくる。その場にしゃがみこみ、口からT シャツを落として、浴槽の中に吐いた。 出てくるのは胃液ばかりだ。すぐシャワーで洗い流された。胃袋はまだ反乱している。 ぐぶん、ぐぶん、ごぶるんっ。腹の中で異音を発してのたうちまわっている。 「あっ……あっ……」 『どうした弥生。あんたの怒りはそんなものか。オレは腕をなくしても、ハラワタが飛び出していても戦おうとする奴を見てきたぞ。あんたにはできないのか』 「あ……」 弥生の心臓が大きく跳ねる。 血走った目を見張った。 (そうだ) (わたしは、お兄ちゃんの仇を取る) (お兄ちゃんを、あんなふうにした奴らを、クラス全員を、学校全員を……) (そのためなら、なんでもするんだ!) (お兄ちゃんが、ずっと見てるんだ!) (見てて、お兄ちゃん!) 弥生、浴槽のふちをつかんで立ち上がる。 もう、膝は笑っていない。 もう、胃袋が暴れることもない。 心の中はたった一つの気持ち。 シャワーの中に背筋を伸ばしてすっくと立ち、ノコギリに再び手をかける。 引いた。今度は動いた。骨にまた少し食い込む。 ゴリリ、ゴリリ、ゴリリ、ゴリリ。 弥生は手を動かす。そのたびにノコギリの刃が骨にめり込み、髄を断つ。 つぶやいた。シャワーの水音にかき消されてしまうような小さな声で。 「おにいちゃん……」 ゴリリ。 「おにいちゃん……」ゴリリ。「おにいちゃん……」ゴリリ。「おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん……」ゴリリ、ゴリリ。ついに刃は腕の骨をすべて切断。反対側の筋肉に食い込む。 「おにいちゃん。おにいちゃん。おにいちゃん……」 どれほど時間がたったのか。 刃が、腕の皮を切断した。するりと軽い。もう抵抗がない。 腕が、ごろり、と浴槽に落ちた。たった一メートルそこそこの高さから落ちただけなのに、腕は醜くつぶれて茶色の汁を撒き散らした。熟しきった柿のようだ。すっかり中身は腐っていたのだ。 「はあっ……」 荒い息をした。 口の中をなめた。奥歯が一本ぐらついていた。噛み砕いてしまったようだ。口の中はカラカラだった。 「ねえ……」 弥生は振り向いて、「下僕」の男に声をかけた。 男はバスルームの入り口で尻餅をつき、白目をむいていた。失神しているらしい。 「役に立たない人ですね」 『まあ、そう言うな。いまのあんたの見れば気絶くらいするさ』 「そうでしょうか」 弥生は小首をかしげた。不思議だ。自分はそんなに大変なことをやっただろうか。 ただ、大好きなおにいちゃんのために。仇をみんな殺せばきっと喜んでくれる。そう思って、思いのまま行動しただけなのに。 「でも、疑問があります」 弥生はそう言って、浴室の壁面に取り付けられた鏡を見た。自分の姿が映っている。 白い細身の少女。長い黒髪は濡れて額に張り付いている。左腕が肩口から切断されている。切り口は赤黒くギザギザで、中心に灰色の骨が覗いている。 「たしかに命は助かったかもしれません。でも、片腕がなくなりました。前より弱くなったし、片腕では目だって仕方がない。警察にすぐ捕まってしまうのではないですか」 『なあに、大丈夫さ』 頭の中に響くアレクセイの声は、冷水シャワーよりもなお冷たかった。 『警察が機能しないように、世の中のほうを変えてしまえばいい。あんたならできるさ』 声は冷たいのに。体を伝っていく冷水も肌が切れるほどなのに。 弥生は、その言葉をきいてますます胸が熱くなった。 そうだ。わたしはまだ戦う。 15 彼は警官だった。 官給品の白自転車に乗り、豪徳寺駅前の商店街をパトロールしていた。 時刻は午後一時ごろ、昼食を抜いているので胃袋がキリキリと痛んだ。恋人が大変な浪費家で、彼はいつも金欠に苦しんでいるのだ。朝、恋人とケンカをした ストレスかもしれない。朝、上司から『大量殺人犯の写真』を見せられたのが原因かもしれない。灰原弥生という少女で、おとなしそうな垂れ目が印象的だっ た。あんなかわいい子が大量殺人なんて。そして、この町に潜伏しているかもしれないなんて。 こんなはずではなかった、と思ってばかりだ。 大事件を解決する夢は、とうの昔に捨てた。だが町の平和を守っているのだ。それなのに。 商店街のコンビニにはブレザー姿の少年少女たちがたむろしていた。平日の午後一時なのになぜ外で遊んでいるのか。 説教したい気分に駆られたが、黙っていることにした。勉強をサボって困るのは彼ら自身だ。 と、コンビニ前を通りがかったとき、頭の帽子何かが当たった。 ゴンッ。ぶちゃ。冷たい白い液体が飛び散って顔に流れ落ちてくる。 とっさにブレーキ。帽子を手にとって調べる。 牛乳だ。帽子はびっしょり濡れている。 投げつけられたのだ。 振り向いた。 コンビニ店頭の少年たちをにらんで、彼は大声を張り上げた。 「お前たちか?」 彼らはよく日焼けした顔に薄ら笑いを浮かべ、茶色い頭をかきながら言った。 「へへー」 「そーでーす」 あまりにあっけらかんとしている。絶句して口を半開きにしてしまった。 (いや、ダメだ。舐められてはいけない) 「なんでこんなことをした」 精いっぱい迫力ある表情を作ってにらんだつもりだった。しかし見下ろされた少年たちはまったく悪びれた様子もない。 少年たちのひとりが隣の少年の頭を叩く。 「あー。オレがこいつに『おまわりにアイスぶつけてみろ』って言ったんだよ。まー度胸試しみたいなもんだよ、わりーな」 頭を叩かれたほうの少年は「へへへ」と笑うだけだ。 「あのなあ、きみたち」 彼は胸ポケットからハンカチを出し、帽子と顔をぬぐった。牛乳はすぐに洗わないと異臭を発する。憂鬱な気分になった。自転車を道の端に止め、少年たちの前に仁王立ちする。 「おれが警官だからってわけじゃない。きみたちがやったのは立派な犯罪だ。傷害罪だ。人によっては事故を起こしていたもしれない、もしおれが……」 少年たちは「うぜー」と言い切って立ち上がり、去っていった。 三人いる少年たちは誰一人振り向かない。 あろうことか、彼らは歩きながら軽口を叩いている。 「あのさー、おまえのバイト先の女さ、ユカだっけ?」 「ユカは兄貴の彼女だよ。バイト先のはユキ」 「あーユキか。そのユキがさあ……」 彼は愕然と立ち尽くしていた。 (こいつらはもう忘れているのだ。三十秒前に牛乳ぶっ掛けた相手のことをすっかり忘れ、「どうでもいい」と思っているのだ) 「くそっ……」 彼は悪態をついて、停めてあった白自転車を蹴飛ばした。 白自転車は大きく吹っ飛んで、たまたまそこに自転車で走ってきた中年女に激突した。 女は自転車ごと派手に吹っ飛ぶ。ガシャンと音がして道路にころがる。自転車の前カゴから何かが落ちた。黒くて細長いものだ。地面に叩きつけられ、キャンと甲高く鳴いて手足をジタバタさせた。 犬だ。ダックスフンドだ。 倒れた中年女に駆け寄ろうとした。女は自力で飛び起き、「クロちゃんっ!」と金切り声をあげて犬を抱き上げる。犬を抱いたまま立ち上がり、男のほうをにらみつけた。眼が血走っていた。 「あんたーっ! うちのクロちゃんになんてことしてくれんのよーっ!」 男は勢いよく頭を下げた。 「もうしわけありません! すぐに動物病院に……」 「誠意が足りないわ!」 中年女は彼を突き飛ばした。恐ろしいほどの力であっさり尻餅をついてしまった。 「ですから、申し訳ないと……」 「あやまるだけかーっ! うちのクロちゃんがどれだけ痛い思いをしたか! ねークロちゃん!」 中年女はダックスフンドを抱きしめる。ダックスフンドは元気に尻尾を振っている。みたところ怪我はないようだ。 「どうすれば……よろしいので?」 頭を抱えたかった。どうすればいい。上司に相談するか。冗談じゃない。ただでさえ住民の対警察感情が悪化しているのだ。どんな厳しい叱責を受けるか。 救いを求めて、中年女の居るような眼光から逃れるようにあたりを見回した。 商店街のど真ん中に自分は座りこんでいた。 周囲の老若男女がとりかこんでいる。買い物袋を持った女性。犬を連れた女性、ジャージ姿の少女、そして、さきほどパック牛乳を投げつけてきた少年たち。 全員が冷たい眼をしていた。パックの少年たちは口元を楽しそうにゆがめていた。 警官がどんな謝罪をするのか楽しみでしかたないのだ。 中年女と目線を合わせる。誠意をこめてまた謝ろうと口を開いた。 「土下座しなさいッ」 「土下座……ですか?」 「そうよ! あたしの大切な家族を死ぬような目にあわせたのよ! 反省しなさい! 土下座できないの? 教育が悪いのかしら? ちょっとあなたの上役に報告するわ!」 女は首から提げたケイタイを開く。ジャラジャラとストラップが鳴った。 「やめてください!」 男は泣き声をあげて、膝立ちの姿勢で女に近寄った。 上司にこんな失態がバレたら、それこと自分の一生はメチャクチャだ。八丈島の駐在所勤務だ。 「じゃあ土下座しなさいよ!」 拳を固く握り締め、彼はうめく。 「わかりました」 その場に膝を突く。握り締めた拳をほどく。手が震えていた。路面に手を突き、頭を下げてゆく。体後と倒れこんだ。 アスファルトの路面が目の前に迫る。 「こ、これで……」 「まだまだ! オデコを地面にこすりつけるのよ! ゴリゴリってね!」 中年女の金切り声が鼓膜に刺さる。言われたとおりにした。真冬のアスファルトが額にあたった。思っていたより冷たい。頭を前後させて路面をこする。こすりながら大声をはりあげる。 「もうしわけありません……!」 「もっと大きな声で!」 「もうしわけ! ありませんっ!」 絶叫した。頭の中が真っ白になっていた。「いま自分が何をやってるのか考えるな、乗り切ることだけ考えるんだ」と思った。ところが耳に笑い声が飛び込んできた。 「ぷぷっ」 女の声だ。つづいて、女のひそひそ声が続く。 「なーにアレ」 「おまわりさんが謝ってんの。犬を蹴っ飛ばして殺そうとしたんだってさ」 「うわ、ありえなくね? 自分が犯罪者じゃんかよ」 こんな言葉はききたくない。だが耳に入ってしまう。耐えた。警察学校での苦労を思い出して耐えた。 「まあいいわ。今後から気をつけなさいね」 中年女がそう言った。顔を上げると、女の後ろ姿。他の聴衆も、なにやらつまらなそうな、「興ざめだ」という顔をしている。もう彼のことはどうでもいいらしく、口々に勝手なことを言いながら道に散っていった。 あとには彼ひとりだけが残された。 明るいクリスマスソングが鳴り響く中、彼はうめいた。路面に倒れたままの自転車を起こした。ハンドルが曲がってしまっている。備品を壊したので、怒られることは間違いない。 自転車を押して、とぼとぼと歩き出す。 通行人と眼が合った。冷たい眼だ。体がこわばる。「じゃまくさいな、どけよ」と言われた気がする。 泣きそうになった。何でオレはこんなことを。青い空を見上げて、涙がこぼれるのをなんとかふせいだ。空には雲ひとつないのだ。 と、そのとき背後に声がかけられた。 「かわいそう……なぜあなたは、そんな目にあわなければいけないのですか?」 若い女の声だった。はっと胸をつかれた。その通りだと思った。こらえていた涙が一筋、右目から頬を流れ落ちた。 振り向いた。探すまでもない。声の主は目の前にいた。 女だ。小柄で、コートを着た、白い顔の女だ。 フレームの太いセルフレームの眼鏡をかけている。レンズの向こうの眼がじっと彼を見つめている。顔はまさに蒼白で、幽霊を連想してぞっとした。長期入院している病人でももっと生気があるだろう。 体は小さい。せいぜい百五十センチくらいだろうか。頭の上にニット帽を載せ、帽子からは長い黒髪が流れ出してつやつやと輝いている。象牙色のコートを着ていた。コートの袖は右しか腕が入っていない。左側はだらんと垂れている。 あ、こいつ…… 彼はついさっき見た写真と、目の前の少女を頭の中で比較する。 写真の少女にはもっと血の気が通っていたし、眼鏡もかけていなかった。 だが顔は同じだ。 こいつが犯人? なんて大胆な。この商店街には防犯カメラもあるのに。 「おまえ……」 声をかけようとした。とっさに腕を伸ばし、少女の腕をつかもうとした。 だがそれより早く少女の腕が動く。彼の顔に手を当てる。 冷たい! とても生身の人間とは思えない。ぞくりと背中を悪寒が走り抜けた。 次の瞬間、少女の手を通して何かが流れこんできた。 眼に見えない、氷のように冷たい流れ。頭の中に侵入する。 頭の中で、快感と幸福が爆発した。 視界がフラッシュした。脳裏で記憶がよみがえった。 いままでの人生であじわってきた、すべての幸福な記憶。 幼い頃。大好きなハンバーグを食べた。 幼い頃。おじいちゃんの家にいって、仲良くカブト虫をつかまえて遊んだ。 小学生の頃、さんざん苦労して自転車に乗れるようになった。 中学生のとき、親友ができた。そいつの家に遊びにいってバカ騒ぎをした。 高校生のとき、はじめて彼女ができた。デートに誘ったときの緊張と、彼女が喜んでくれたときの身震いするような感動を忘れない。 そして警察官試験に合格したとき。 映像だけでなく、その瞬間の喜び全てが再生されて体中を駆け巡った。 「な……」 彼はうめいた。気がついたら記憶の再生は終わっていた。彼は道路に膝を突いていた。 少女は彼をじっと見詰めている。見下ろしている。額に手をふれたままだ。 近くにあったコンビニのゴミ箱に手をかけて、起き上がろうとする。できない。体中の筋肉が、ふにゃふにゃにとろけてしまったようで力が入らない。 驚いて少女を見上げる。 なにをされた。オレの体に何が起こった。 少女は眼鏡のむこうの瞳に哀れみの感情を宿していた。漂白したように真っ白い顔に微笑を浮かべた。 「驚くことはありません。人間は苦痛には耐えられますが、快楽には耐えられません。アレクセイが教えてくれました」 「なんだ? あんた、なにをいってるんだ?」 (こいつは犯人だ、不思議な術を使うぞ、早く逮捕だ。応援を呼ぼう) 頭のどこかでそう考えている。 だが体は相変わらず脱力している。頭の中に薄紅色の靄がかかったようだ。物をはっきりと考えられない。 少女はつづける。 「ねえ、おまわりさん。おまわりさん、今は幸せですか? 不満はありませんか。ありますよね。なんでおれはこんなに不幸なんだって。こんなに頑張っているのにって」 少女の言葉が心に染みとおっていく。 そのとおりだ。頭のなかでぼんやりと怒りが固まってきた。ついさっき、おれは大変な侮辱を受けた。 「うん……ある……雨の日も……風の日も……こうして毎日かけずりまわって……それなのに一生、出世はたかが知れて……街の連中は……おれのことを汚いものみたいに……おれが、おれがなんのために……」 少女はうなずいた。 「では、何をしたらいいと思いますか?」 「なにって」 少女は彼の額を当てたまましゃがみこんできた。 目線をあわせ、いちど手を離して彼の背中にまわしてくる。 抱きしめられた。コートごしに少女の胸と腰が押し当てられる。少女の体は、折れそうに細い。 「簡単なことです」 吐息がかかるほどの至近距離に少女は接近していた。 耳元で少女のかわいらしい声がささやく。 「せかいを、おわらせるのです」 心臓がドクンと跳ねた。 まったく同時に、頭の中で声がした。 『そうだ。おわらせちゃえばらくになるぞ』 『おわらせろ』 『ころすんだ』 「せかいを……」 「だって世界はあなたを認めないんですから。あなただって、本当はそうしたいんでしょう?」 彼の体が震えだしていた。 こわい。この女の言っていることが恐い。 世界を終わらせる。その意味は分かった。殺すのだ。多くの人間を。 そんなこと、笑いながらあっさり言ってしまう少女が恐い。 だがそれ以上に……嬉しくて、だから震えが止まらない。 「けいさつに……父や母が……」 最後に残った理性が、抵抗の言葉を発した。 仕事に苦労があるのは当然だ。 だが少女はクスリと笑った。 「そんなのどうしたというのです? 警察はあなたをつかまえられません。殺人事件が百倍になったら、千倍になったら、警察に何ができますか? 親? 親があなたに何をしてくれたのですか? 苦しんでいるあなたを助けてくれなかった。敵でしょう」 小さくかぶりを振った。 「ちがう……」 頭の中で、ひっきりなしに声が響き続けている。 『殺せ』『ころせ』『ころせ』 背中にまわされた少女の腕が、ひどく冷たい。それなのに頭の中は爆発しそうに熱い。 「はあっ……」 息を吐いた。 眼をつぶった。 暗闇の中に幻が浮かんだ。 さんざん小言をいう大嫌いな上官が、頭をスイカのように炸裂させて死んでいる光景。 もう、心は決まった。 『殺せ』『ころせ』『ころせ』 「そうだ。ころす」 警官はつぶやいた。自分の口から出たものとはとても思えない、冷たく無感動な声だった。 「そうです。自分を信じて、あなたのやりたいことをやりなさい」 至近距離で、白い少女が微笑む。 「はい……」 少女は腕をほどいた。 警官は、振り向かずに歩き出す。 足取りは、一歩、一歩ごとに強く確かなものになってゆく。 もう心に迷いはない。ためらいはない。 当然だ。 殺せばいいのだから。もう悩まなくていいのだ。巡査部長への昇進試験は今年も落ちたと、カナコに報告しないで済むのだ。嫌な奴に頭を下げる必要も、みぞれ交じりの雨の中を自転車でパトロールすることも…… 商店街を歩く。 夕刻ということもあり、あたりは数十人の人間がいる。 周囲を見回しながら、右手を、拳銃のホルスターに滑らせる。 みつけた。古着屋から、さっきの高校生三人組がでてくる。なにか買ったのか、袋をもっていた。 すぐに向こうもこちらをみかけた。 「おう、さっきのおまわりじゃん。面白かったぜサイコー……」 彼は拳銃を抜き、そいつの頭に向けて撃った。 たんっ。 軽い銃声がした。そいつは吹き飛んで、古着屋のショウウインドウを割って倒れこむ。 飛び散ったガラスが路面に落ちてガチャンと音を立てる。 吹き飛んだ少年は、飾られていたTシャツやジーンズにからまってくずおれた。 頭から血を流している。 「あっ……あああ!」 他の少年たちが逃げようとする。 すかさず彼は二発め、三発めを放つ。少年たちの足から、背中から血が噴き出す。路面に転がって倒れた。 警官はすぐさま駆け寄る。 「あがっ。あがっ……ひ、ひとごろしぃ」 少年の一人は撃たれた足を抱えて、涙を垂れ流してうめいていた。 警官、足を抱えた少年の顔面を思い切り蹴り飛ばす。鼻がつぶれる衝撃がグチョリと伝わってきた。鼻血が飛び散って空中に赤い花が咲いた。 「ふげぇっ」 足を抱えていた少年は、ギョロ目をますますむき出してのた打ち回る。警官は続けざま、彼の腹に、胸に、全体重をかけて踏み下ろす。腹を踏んだときは、濡 れた雑巾を潰したような感触。胸を踏んだときはパキンという衝撃。胸がすうっとした。とても小気味よい音だと思った。何度も何度も胸だけを踏む。そのたび にバキン、またバキン、肋骨が次々にへし折れ、胸の厚みが半分になった。ブレザーの前を押し広げて、血まみれの白い細長いものが突き出してくる。折れた肋 骨だ。 ギョロ目の少年は、もはや声を出すこともできない。全身を痙攣させている。 最後に思い切り胸の中央を踏んだ。ギョロ目少年が大きく痙攣し、止まった。 「死んだか!」 警官は叫んだ。口の端からヨダレが垂れた。踊りだしたい気分だ。 最後の一人に目を向けた。 もう一人の細っこい少年は歩道を這いずって逃げていくところだった。ブレザーの背中はもう真っ赤だが、興奮で痛みを感じないのか、這う速度は速い。もう二十メートル進んで、牛問屋のある角を曲がるところだ。 「おい、逃げんなよっ」 警官は駆け寄った。こちらの少年も蹴り殺そうと足を振り上げ、 「やめろーっ!」 甲高い声が響いた。裏返った男の声だ。 振り向くと、わずか数メートルの距離に警官がいた。白髪頭の初老で、拳銃を構えている。 同じ交番の、いつもうるさい上司だ。 「やめろ、やめるんだ、おまえ警察官だろう、なぜ……やめないと撃つぞ」 そういいながらも、腰を落として銃を構える初老警官は、腕全体をブルブル震わせている。 不思議に思った。なぜ、さっさと撃たないんだろう。 上司の顔を見て、青ざめてこわばった顔、痙攣する頬を見て、理解した。 (そうか、こいつオレが恐いんだ) (なあんだ。こんなショボイ奴だったんだ) 勢いよく拳銃を振り上げ、撃った。 乾いた短い銃声がはじける。 上司は吹っ飛んで仰向けに倒れた。帽子が落ちて広い額が露になる。 警官、鼻歌を歌いたい気分で歩み寄り、上司の手から拳銃をもぎ取った。 左右の手に拳銃を握って、顔面を歪めて笑う。 「これで二丁になったあ。へへ、へへっ」 口の端から、ヨダレが垂れた。 16 「世の中クリスマスで浮かれているのに、あなたはさびしそうですね。どうしてそんな顔をしているのですか? さきほどからカップルたちを恨めしそうに観ているのは、なぜですか?」 十二月二十二日十四時三十分。ジングルべルの鳴り響く渋谷のデパートに、包丁を持った男が飛び込み、店内の若い男女を無差別に斬りつけた。そのご、犯人は逃走し、いまだ消息がつかめていない。 「ファミリーストアに、なにか御用ですか? あ、ごまかさなくていいです。解き放ちましょう、心の内なる衝動を」 十二月二十二日十八時。池袋サンシャイン前にある大手コンビニエンスストア「ファミリーストア」本社ビルにトラックが突っ込み、そこから降り立った初老 の男はガソリンを撒いて火をつけながら社内の人間を手当たり次第に殺戮。駆けつけた警察に投稿するかに見えたが、体に巻き付けた手製爆薬に点火。警官二人 を巻き添えに死亡した。トラックに残された遺書は、『フランチャイズ経営が失敗し、いかにファミリーストアを憎んでいるか』というものだった。 「駅員さん、駅員さん。毎日お仕事ご苦労様です。こう思いませんか。おれたちは一生懸命電車を動かしてるのに誰も感謝しないって。そうそう、少しは有難さを教えてあげるといいですよ」 十二月二十三時七時三十分。通勤客でごった返す新宿駅のホームで、ひとりの駅員が乗客を線路に蹴り落とし始めた。直後に山手線が通過、落とされた乗客四名は即死、山手線は二時間にわたり運転を中止した。 なお、取り押さえられた駅員は調べに対し、 「俺たちががんばっているのに客が感謝しないから」と上ずった口調で答えた。 「ねえ、おじさんたち。おじさんたちは一生懸命、雨の日も風の日も働いたんですよね? 家族に邪険にされても給料を持って帰ったんですよね。それなのに今 は段ボール住まい。おかしいですよね? おじさんたちは悪くないです。悪いのは、あそこのビルにいる人たち。ね、昔を思い出して。元気を出して。わたし、 応援します」 十二月二十三日八時四十分。隅田川沿いに住むホームレスが数十人規模の大集団となって東橋を渡り、川向こうにそびえ立つ墨田区役所に侵入し、角材や鉄パイプを振り回し破壊の限りを尽くした。一部のホームレスは職員を人質にとって篭城を開始した。 17 それから三日、クリスマスの昼ごろ。 弥生は銀座の歩道を歩いていた。晴海通りぞいの歩道を、日比谷公園のほうから、銀座四丁目交差点に向かっている。 国道には車がびっちり並んで、まったく動かない。ここ数日、山手線など鉄道のダイヤが大幅に乱れ、煽りを食らってどこの道路も大渋滞なのだ。 歩道は人々が埋め尽くしている。背広をパリッと着こなしたサラリーマンが多い。年齢はみな四十代五十代、若い人間はほとんどいない。 外国人もいた。自分より頭一つも二つも大きい、スーツ姿の白人黒人たちと何度かぶつかりながら、歩く。道行く人々全員が、顔をこわばらせて早足で歩いている。ぶつかった人々は目をむいて弥生を見下ろしてくる。 銀座四丁目交差点についた。弥生は立ち止まる。 左を向くと、交差点の向こうに二つのデパートが鎮座している。左側は重厚な石造りの建物、和光百貨店。右側のデパートはずっとカラフルで、「クリスマスセール」という垂れ幕がある。 そちらのデパート、壁面にある巨大テレビに注目した。の壁面テレビにはニュースが表示されている。 顔色の悪い、疲れきった表情の女性アナウンサーが記事を読み上げている。 「以上、墨田区役所篭城事件についての最新情報でした」 そこで画面の中に手が現れ、アナウンサーに紙の束を渡した。 アナウンサー、紙を広げて、凍りつく。 「なっ……ええと……たったいま入った情報によりますと……東海道新幹線が沼津付近で脱線転覆したという……現場では爆発が目撃されており……」 そこでまたプリントが手渡された。 「あ……横須賀市の本町1で……アメリカ海兵隊員の男が散弾銃を乱射して……警官隊と銃撃戦になっている模様です……」 そこにまたプリントがドサ、ドサ、と積み重なっていく。 アナウンサーは、もはや顔の半分が笑い、半分が泣いている壊れた表情で、広辞苑より分厚く積みあがったプリントのうち一つを取り上げる。 「……十六時五分後、東京都渋谷区松涛の住宅街で通り魔が……被害者は新原豊五十九歳……い、いやああっ、おとうさーん!」 アナウンサーがプリントを取り落として叫ぶ。 画面が切り替わる。お花畑に「しばらくお待ちください」の文字。 弥生の背後で「おお」と人々のどよめく声がする。 みんなこのテレビを見ているのだ。 この東京は一体どうなってしまったのか、これからどうなるのか、不安で不安で仕方ないのだ。 「うふふ」と弥生は笑う。 頭の中で声がする。アレクセイの声だ。晴れ晴れした明るい声だった。 『まさか、ここまでうまくいくとねえ』 「ええ」 思わず声に出してしまう。 この三日間、弥生は電車とバスを乗り継ぎ、東京のいたるところに『火をつけて』回ってきた。人々の心に呼びかけ、犯罪者を生み出してきた。およそ四百 人。テレビは臨時番組を連発して大事件の連続を報じている。ニュースを見る限り、警察はもはや事態に対処できなくなっている。 そして、自分は解放され た。 『これだけ殺人犯が増えれば、オレたちが捕まることはねぇだろう』 弥生は小声で答えた。 「はい。それに……わたし、これがやりたかったのかもしれません」 抑えきれない喜びが、顔全体に広がって笑顔を形作ってゆく。 「世の中が壊れて、わたし、とても幸せなんです。 いっそ、世界中をみんな殺人犯にしましょう」 『できるかな』 「できますよ。だって人間なんて、みんな一皮むけば同じです。だってわたし、『犯罪をやれ』『人を殺せ』なんて一言もいってません。もともとやりたがっている人に『いいんだよ』っていってるだけです」 そのとき、罵声が耳に飛び込んできた。 そちらにちらりと視線を走らせる。 和光百貨店の、ギリシャ風アーチの出入りで、ケンカが起こっていた。褐色の肌を持つアラブ系の男が、若い日本人達に囲まれて小突かれている。 「しねーっ」 「てめえ臭いんだよっ」 「東京駅のテロはてめえだろっ!」 「日本から出ていけよ、オー」 「そのデケェ荷物はなんだよ! 見せてみろよ!」 アラブ風の男性はうずくまって腕で顔を隠しながら『違う、違う、助けて、助けて」とくりかえしている。だが誰も耳を貸さない。あたりにいる通行人がアラブ風の男を取り囲む。男の回りは群集で覆われた。 この騒動は弥生が起こしたものではない。人々が勝手に起こしたのだ。 「ほら、人間はこんなもの」 弥生は、右しか残っていない拳を硬く握りしめた。さきほどから胸の奥で心臓がトクトクと跳ねている。 この気持ちは何だろう。わたし、とても嬉しい。リンチを見て嬉しい気分になるなんて、変かな。 アレクセイが答えた。 「そうだな』 「わたし、うれしい」 『なぜだ? 計画がうまくいったからか?』 「ちがういます。……世界が、壊れていくから。鬼いちゃんを本当に傷つけたのは『世界』なのかも知れないって思ってるのです」 『では、もっと火をつけるか、弥生』 「もちろん」 力強くうなずいて弥生は歩き出した。 18 同じ頃、啓は自分の部屋にいた。 机に向かって、ノートパソコンをいじっている。 もう朝から数時間もいじりつづけているので、肩が凝って仕方ない。腕をグルグル回し、大きく伸びをした。 ドアがトントンと叩かれた。 とっさに、机の上のノートパソコンをたたむ。椅子ごとドアのほうに向き直る。 「啓」 入ってきたのは母だ。ここ数日で、小柄な体がますます小さくなったように見える。 お盆を持っている。お盆の上はスパゲッティミートソースとミルクティーが載っていた。 「お昼ごはんよ」 「あ、ありがと母さん。いただきます」 笑顔をつくって立ち上がり、お盆を受け取る。 母は机の上に目を走らせる。 「……勉強してたんじゃないの?」 「いや、勉強してるよ、ちゃんと。いまはちょっと気分転換さ。勉強しとかないと、いざ学校に戻ったときヤバイからね、ははは」 すでに一週間、休校は続いていた。解除されるめどは立っていない。それどころか啓とは別の学校でも休校があいついでいる。東京中で多発する凶悪事件のた めだ。毎日、新聞の一面を「数十人死亡」という記事が占領している。電車が動くのは一日のうち数時間、あとはテロで止まっている。だから親が学校に通わせ ないのだ。 「あんた……」 母が眼を細める。疑惑の表情だ。 「ん、なに、母さん」 「あんた……なんか変なこと考えてないだろうね」 「へ?」 「顔が恐いわよ」 そういわれて、啓は自分の頬を引っ張ってみた。ビローンと伸ばして、おどけた顔をつくる。 「ほら、こーんなに明るいよー」 「……明るく笑えるわけないのよ、無理しないで」 「そうだね。……礼一が死んで、まだ、たった一週間だもんね」 「どうなっちゃうのかしらね。ねえ、ほんとに、変なこと考えないでね」 「だから、なにが?」 「あんた、犯人に復讐する気なんでしょ?」 「え……」 息を呑んだ。改めて、自分の顔をぺタリぺタリと触る。 「ごまかしたってダメよ。あんた、礼一くんとか翔子ちゃんの話をするとき、眼が冷たくて、恐ろしい顔をするのよ。あたしのことなんか見てない。わからないわけないわ」 母は一歩近より、啓を抱きしめた。 やめてくれよ。ぼくはもう高校生だ、気持ち悪い。 普段ならそう言っていたはず。 だが啓は言えなかった。動けなかった。 母に抱きしめられるままだった。母の腕はきつく背中に回され、痛いほどだった。 「母さん……」 「啓。死なないで。ぜったいに変な気を起こすんじゃないよ。犯人を捕まえるのは警察の仕事。素人が手を出したって何にもならないんだから。危ないことはやめて。お願い。ね、お願い」 膝をつき、目線の高さを合わせて懇願してくる母。 啓は口ごもった。 「それは……わかったよ、母さん」 母は無言でうなずいた。シワのよった目尻に光るものがあった。 母が部屋を出て、ドアがきっちりと閉じたとき、啓はこわばった全身から力を抜いた。 そして、ため息をつく。 「はあ……ごめんね、母さん」 ノートパソコンを開く。 ブラウザ・ファイアフォックスが立ち上がっている。ブラウザに表示されているのは、礼一の残したブログ『ドクターレイ・ラボ』。啓は先ほどからずっと、ブログのコメント欄に返事をつけていた。 12月24日のエントリ 更新者 ケイ どうも、ケイです。 きのうに引き続き、「片腕の女」に関する情報を募集しています。 画像はこれです。 ただ、変装している可能性もあります。 「片腕の女」は、かならず東京にいます。 そして、人間の心に毒をまき続けています。 どうか、「片腕の女」に関する情報をお聞かせください。 通りすがり♯>ケイさん 片腕の女ですか。。。自分はピザ屋のデリバリーをやっているので、千駄ヶ谷〜渋谷あたりをよく走ります。きのう、明治通りの京 セラのあたりで、変な女を見ました。サングラスして、この季節なのにポンチョ着てるんです。雨具じゃないですよ、雨降ってなかったですから。片腕を隠して いるのかもしれませんね サイクロプス♯っていうかさあ、これって何なのさ? >ケイ ここって、ドクターレイのブログだよね。ドクターレイが亡くなって追悼はわかるけどさ その後のずーっと更新してるあんたは、何者なの? パヤパヤ♯ただの厨だろww ドクターレイの友達だからって、アクセス数=自分の支持者だと思ってるww あーん、ボクは2万人の手下がいるんだぞーwww みかん♯>パヤパヤ なんでも厨っていうのイクナイ! でも、たしかに納得できないところもある。私物化つーか、ドクターレイの人気を利用しているように見える。片腕の女って何なのか、情報集めの意味がなんなのか、しめしてくれないと協力できないな。 ギガ♯ドクターレイさん、亡くなったそうですね。それなのに>ケイ あなたは追悼もせず。思い出のブログを変なことに使って!!! レッドアイ♯オレ的にはどっちでもいいな。ドクターレイがケイになっただけで。で、ケイはどんな面白いエントリをあげてくれるの? 「ボクはドクターレイと仲が良かった、レイが死んで悲しかった」、っていうお涙頂戴だけではいつまでも客をひきつけられないよ? ケイ♯わかりました。説明します。『片腕の女』は『この事件の犯人』です。『この一連の事件』です。女はぼくの学校のクラスメートを殺し、ドクターレイ を殺し、ぼくのもう一人の友達に深い傷を負わせました。そのとき、友達が女を攻撃して片腕を奪いました。そして、いま東京中に犯罪者を生み出しています。 ぼくの家の近くでも駅が燃えました。商店街で散弾銃の乱射がありました。どちらの犯人もまだ捕まってません。警察の人手が足りないんです。こんな状況を生 み出したのが『片腕の女』です」 ギガ♯なんですかそれ。犯罪者を生み出しているって。電波ですか。その女が超能力を使っているとでも? それともマインドコントロール(古っ)ですかww 笑い殺す気ですか。 ケイ♯本当なんです。この女は特殊な霊の力で、人の心に語りかけることができます。その力を利用して、人の心に干渉して犯罪者にしているものとおもわれます。 そこまで書いて、ブログの片隅にある『投稿』ボタンを押そうとした。 啓は眉間に深いしわをよせ、首をひねった。 パソコンをトラックパッドから手を離す。 「だめだ。こんなやり方では伝わらない」 椅子の背もたれに勢いよく寄りかかる。 頭をグシャグシャとかきむしる。 当然だ。顔も知らない、友達どころは知り合いですらない人間が突然言い出す。 『この女は特殊な霊の力で……』。 誰が信じるものか。ただでさえネット上には「自分だけは世界の真実を知っている!」という連中がウヨウヨいるのだ。 ドクター・レイこと礼一のブログは大人気で、毎日一万人が訪れていた。その圧倒的人気を使えば弥生の情報も手に入るだろう、と思っていた。 甘かった。ブログ上で情報集めを開始して二日、まったく成果が上がっていない。 「どうしたもんかなあ……」 そのとき鼻孔をミートソースの香気が刺激した。一気によだれが口の中にあふれ、腹がきゅうっと鳴る。 「……人間、こんなときでも腹は減るんだな」 礼一の頭脳も、翔子の武術も頼りにならない状況で、たったひとり戦わなければいけないのに。 フォークでスパゲッティを丸めて、口に放り込む。 美味い。 酸味のあるミートソースが舌を心地よく刺激する。弾力ある麺をズルズルとすすりこんだ。 すぐに食べ終わった。牛乳も一気に飲み干す。 啓は机の引き出しから何冊も本を取り出す。 『実戦格闘技 第三巻』 『世界の格闘技』 『実戦殺人術』 『軍隊格闘技』 机に積み上げる。そのうち一冊を開いてパラパラめくる。中は写真とイラストを使って、まざまな格闘が描写されている。人間同士が殴りあったり関節技を掛け合ったり。 犯人探しと平行して、「犯人に勝つ方法」も調べているのだ。 あるページで手を止めた。 移りの悪い写真が載っている。小太りの中年男が、頭一つ大きい軍服男を投げ飛ばし、関節を極めている。 写真につけられた説明は、 『システマ ロシア特殊部隊の誇る格闘技。 日本の合気道とよく似たもので、円の動きで相手の攻撃をさばき、相手の力や重心移動を逆利用して倒す』 「やっぱり、これだよなあ」 啓は思い出す。弥生が翔子を軽々と投げ飛ばしたときのことを。弥生の腕はマネキンのように細く、とても腕力などなさそうだった。そんな細い手で、ヒョイ、だ。 解説の続きが恐ろしい。 『システマ熟練者は単に倒すだけでなく、人体構造を熟知して瞬間的に急所を破壊し無力化する』 生唾をのみこんだ。頬の筋肉が引きつる。 (まさに、翔子を一撃で破壊した) 頭蓋骨を一瞬で真っ二つにするなんて、そんな奴とどうやって戦うのだ。 「無理だ……」 つぶやいて本を閉じる。 自分は武術の実力で翔子や善次郎に遠く及ばない。特異なのはキックだけだ。体が小さい自分は組み技・寝技を重点的に覚えるべきなのに、体の柔軟性がいまいち足りなくて苦手としている。 でも、それでも勝ちたいのだ。 警察にとらえてもらうだけではダメだ。 自分の力で勝って、弥生を警察に引き渡してこそ、「自分は逃げなかった」と言える。翔子の無念を少しでも晴らしたことになるのだ。 それなのに。 「ああ、考えたってダメだ」 ぼやいて立ち上がる。 こんなとき、越えられない壁にぶつかったとき、翔子はいつも言っていた。 『そういうときは運動しながら悩め!』 激しい運動のほうがいいぞ、脳の変な部分が刺激されるから! とても科学的とは思えない胡散臭い意見。だが啓は過去に何度か翔子の言葉を実践して、うまくいっていた。 啓、まずは畳の上に体を起こし、胡坐をかく。 息をすうっと吐きながら、そのまま後ろに倒れた。太腿の筋が伸びて痛みが走る。だが小さい頃からやっているので、胡坐を崩さないまま背中をタタミにつけた。 そして腹にウン! と力を入れて起き上がる。 この腹筋運動は琉球空手の一部に伝わっているもので、効率よく腹筋を鍛えられる。それも体の奥深くにあるインナーマッスルを鍛え上げることができる。体も柔らかくなって一石二鳥だ。 腹筋運動を一度やっただけで額を汗が伝った。荒い息をしながら三十回、百回と繰り返す。だんだん頭の中が真っ白になっていく。犯人のことも勝つ手段のことも頭から消えた。ひきつる腹筋と、全身の皮膚をうっすら包む汗の膜だけを感じた。 百回やったときは、もう額は汗だらけだ。 熱くなったので、カーディガンを脱ぎ捨てた。 腹筋運動が終わったら、立ち上がって鷹城流の型稽古をはじめる。腕と足を振るう。勢いよく空気を切って蹴りを、正拳突きを放つ。肘を払う。 もう頭の中には真っ白い光だけがある。 一通りの練習を終え、その場に膝を突く。 「はあっ……ふうっ……」 シャツが汗まみれになって肌に張り付いている。着替えよう。 重くなった手足を引きずり、立ち上がった。スローモーションのような動作しかできない。翔子はもっとスタミナがあった。だが疲れといっても心地よい疲れだ。 やっぱり体を動かすと違うよな。 考えるより先に体を動かせ、って翔子はいつも言うけど、ほんとのことだよな。 と、そのとき頭にひらめくものがあった。 「……こっちから犯人に呼びかけるのは!?」 すうっと頭の中が冷えた。 顔の前で拳を握る。 「そうだ、これだよ」 探す必要はない。なんで逆の発想ができなかったのか。 立ち上がり、頭を下げる。 「ありがとう翔子ちゃん。翔子ちゃんの言うとおりだった」 19 それから五日間、啓は東京の盛り場という盛り場に自作ビラを貼りまくった。 地元の三軒茶屋をはじめ、渋谷、新宿、池袋、目黒…… 六日目、十二月三十日の昼。啓は大田区・京急蒲田駅を降りた。 強い風が吹いていた。風に粉雪が混じっていた。 西口を出ると、二車線の道があって、その両脇を屋根つきの歩道がはさんで商店街になっている。 昼飯のオカカお握りを食べながら、重いリュックを背負いながら歩く。 道は大渋滞で車の列が完全に停止している。冬なのに車はどれも少しだけ窓を開けて、「金属バット」や「木刀」を突き出している。 この数日の間に広まった習慣だ。無防備な車はよく強盗に狙われるから、武装をアピールしているのだ。あまりに当たり前のことなので「たかが強盗」ではテレビのニュースにも取り上げられなくなった。 いっぽう商店街のほうに目をやると……どの店も閉まっている。 この蒲田は町工場が無数に並ぶ、労働者の町だ。商店街には作業着屋、一杯呑み屋、牛丼屋など、庶民向けの店がずらりと勢ぞろい。その大半がシャッターを 閉ざしている。シャッターには『当分の間、休業させていただきます』などと張り紙がある。ガラス戸が割れている店もやたら多い。 啓は思い出した。つい昨日、テレビのニュースで「蒲田駅の暴走通り魔」が報道されていた。軽トラックに乗った男が暴走して歩行者を何人も轢いたのだ。 歩行者は多いが、みな脇目も振らず足早に歩いていく。ダウンジャケットやコートで着膨れして、防寒着のポケットに手を入れている。 歩行者の一人が、どん、と啓にぶつかってきた。 「あ、ごめんなさい」 啓はすぐに謝った。 「ひっ」 ぶつかった相手は頭にパーマをかけた中年女性だった。恐怖に顔を引きつらせて、持っていたトートバッグから筒状のモノを取り出す。手に持って、啓に向ける。 催涙スプレーだ。 「わ、おちついてくださいっ」 「なにもしないのね?」 「なにもしませんって。ちょっとぶつかっただけです、すみませんでした」 啓があわてて謝ると、中年女性は一目散に走り去っていった。 「みんなピリピリしてる……」 啓は暗い声でつぶやいた。 ここはビラ貼り、やめたほうがいいだろうか。 すでに啓はこの五日で一万枚を張っている。コピーするのに大金を使ってきた。ビラは無限には作れない。 いや、だめだ。盛り場は全部張るんだ。犯人は必ず見る。 近くの電信柱を見る。すでにビラが貼ってある。雨で汚れて色も褪せている、女の裸の絵だ。風俗のビラだろう。剥がして、背中のリュックから取り出した自分のビラを貼る。 白黒で、両掌を合わせたくらいの小さなビラだ。 内容は文章だけ。 『灰原弥生へ きみの兄、灰原睦月について、伝えたいことがある。 どうして灰原睦月は死んだのか、 なにを思って死んだのか、 僕は知っている。 だから君と会いたい。話したい。 連絡先は×××−××××−××××』 たったこれだけのビラだ。 これで弥生が連絡を取ってくる、と確信しているわけではない。 だが、家で待っているよりはいい。 歩きながら、商店街の電柱に、ガードレールに貼っていく。十本、二十本。 もちろんビラ貼りは違法だが、いまの警察は忙しい。凶悪事件の多発で、とてもこんな小さな犯罪にまで手が回らないはずだ。 と、そのときだ。 後ろから肩をつかまれた。強い力がこもっていた。痛い。 「はい?」 振り向いた啓。 目の前を、黒ジャンパーにジーンズ姿の大きな男がふさいでいた。 胸板が厚く肩も広い。腹が出ているがただの肥満ではない、筋肉も相当ついている、と分かった。 頭は白髪交じりで、大きな眼をギョロリと剥き出して啓を見下ろしている。 「なにをしてる!?」 野太い声で怒鳴りつけられた。男の後ろから、同じ黒ジャンパー姿の男たちが姿を現す。五人、十人。歩道一杯に広がった。啓の後ろに回りこんだ。 「ビラ貼ってるだけです」 啓は答える。背筋を寒気が駆け上る。危険だ。そう思ったが、この人たちが何者なのかわからない。知らない人をいきなり殴れない。握り締めた拳を、振り上げようとして止めた。 太った白髪頭の男は、啓に顔を近づけてきた。抱きしめられそうな至近距離だ。 「なんのビラだ。最近暴れまわってる連中とは関係ねぇのか」 太った男はドスの利いた声ですごんだ。啓の手からビラをひったくる。 「灰原弥生へ……はあ? なんだこりゃ。どういう意味だ」 「深い意味はないです。返してください」 「そうはいかねえ。これが何で、あんたが何をしているのか詳しく説明してくれねえとな」 そういいながら、太った男は啓の腕をつかんだ。 「あなたたち何者ですか!?」 「俺たちは蒲田の自警団だ。警察が頼りねぇから、俺たちが町を守ってるんだよ。おめえみたいな怪しい奴は全員捕まえるわけよ?」 太った男がまた凄む。まわりの男たちが、ジャンパーのポケットから次々に金属の筒を出した。ヒュンと一振り、筒は伸びて特殊警棒になる。 (自警団……?) 渋谷にも同じような連中がいた。金髪に染めた青年たちが、おそろいのジャケットを着て街中をパトロールしているのだ。ここの連中はもっと過激らしい。 啓は一同を見渡した。 数は十人もいるが、腕が立ちそうなのは、目の前の太った男。柔道の有段者だろう。 それから隣の、ひょろっとした茶髪の青年。警棒の構え方が堂に入っている。剣道でもやっているのか。静かに構えてこちらを見つめているだけなのに圧迫感を感じる。 この二人は強い。あとは体が大きいだけだ。 (このままではリンチにかけられる。どうしよう) (なんとか傷つけずに倒したい。なんの恨みがあるわけでもない) (できるか、自分に?) (やるしかない) 決意した。息をすうっと吸う。横隔膜を大きく動かした、腹がベコンと動く呼吸法。 そのときにはもう、頭の中に映像が浮かんでいた。いかにしてこの人たちを倒すか、連続映像が。 「おい、なんとか言ったら……」 太った男が声を上げ、啓の腕をつかんだままねじり上げる。 同時に啓は動いた。 片方の足で太った男の靴を思い切り踏んづける。硬い。安全靴だ。ダメージは与えられない。だがそれでもいい。男の動きが止まった。同時に啓はもう片方の足を上げ、膝を曲げてローキック。 足どうしを絡めあうような動きで、太腿に横からキックを叩き込んだ。濡れた布の塊を蹴ったような、むちっ、という重い衝撃が伝わってきた。音はしない。キックの威力がすべて相手に吸収された証拠だ。 太った男の体がわずかによろめいた。啓はすかさず、太った男の顎に向かって肘打ちを繰り出す。今度はガイン! と鋭い衝撃が腕に響いた。みごと顎の骨に ヒット。男がまたよろめく。だが倒れはしない。つんのめっただけだ。これだけ体格差があると打撃がなかなか効かないのだ。 しかし、啓の腕をねじり上げる力が弱まった。啓、一気に腕を引き抜く。 ローキックをもう一発、膝関節に叩き込んで、飛び退る。 目の前に、黒いジャンバーの男たちが立ちふさがった。とっさに体をかがめる。啓の身長は百六十しかない。かがめて、振り回される警棒の下、つかみかかっ てくる腕の下をくぐる。背後から蹴飛ばされたが、背中で受け止めた。大して痛くもない。頭の上のほうで「いでっ」という声が上がった。振り回した警棒が仲 間に当たってしまったのだ。 「自警団」の隊列を突破して、一気に駆け出そうとしたそのとき。 頭の横に鋭い衝撃が走った。閃光が視界を埋め尽くし、手足から力が抜けた。 殴られた、頭を殴られた、と気づいた。 このまま倒れてはダメだ、あの人数に袋叩きされたら。 体をひねって右を向くと、そこに歩道と車道を仕切るガードレールがあった。ガードレールに手をついてなんとか倒れるのを防いだ。そして振り向き、攻撃に身構える。 目の前にいたのは、やはりヒョロリとした茶髪の男だった。警棒を勢いよく薙ぎ払ってくる。 とっさに足が出た。力の限り足を振り上げた。 カンッ! 警棒を蹴り飛ばした。足の甲に当たってしまった。痛みが骨まで響いてきた。 (いまのうちに!) 痛みに耐え、ガードレールを乗りこえて逃げようとした。 「待て! 待てっていってんだよ!」 後ろから声が浴びせられた。両肩をつかまれた。足をつかまれた。後頭部に、首筋に何度も重い衝撃。 ガードレールにしがみついた状態で、それ以上動けなくなった。 翔子ならどうするだろう、こんな有様で弥生に勝てるもんか。どうしよう。 首筋への度重なる衝撃。衝撃のたびに視界が真っ暗になって意識がとぎれる。 目の前にある車道、車道には渋滞中の車がぎっちり並んでいる。 車に乗っている若い女と眼があった。女はぎょっとして目をそむけた。汚いものを見る眼だった。 (そうか……そうだよな……係わり合いになりたくないよな……) (みんな、自分の身を守るので精いっぱいなんだ) (ぼくは……だめだ……自分も守れない) (ためらわず、囲まれる前に対処すればよかった……) つかんだガードレールから手が外れた。歩道に倒れこむ。意識がとぎれた。 20 「おにいさん……」 声がした。小さい子供の声がした。 気がついたら、啓は歩道に這いつくばっていた。 全身が痛い。動かそうとしただけで鈍痛が走る。 しかし、起き上がることができた。両腕を伸ばして上下に振ってみる。足を伸ばして屈伸運動。筋肉の痛みが数倍になる。だが動作自体はできる。吐き気もない。骨は折れていない。 ダウンジャケットが破れてしまっていた。背中のリュックは丸ごとなくなっていた。 「はっ」としてポケットに手を入れた。 よかった。携帯電話が無傷で残っている。運が良かった。これが壊されたら、弥生からの連絡を受けられない。 「おにいさん、だいじょうぶ?」 すぐ目の前に、小さい女の子がいた。鮮やかなピンクのダウンジャケットを着込み、背中にはウサギ耳のついたリュックをしょっている。くりくりとよく動く大きな瞳を啓にむけている。 なんでこんなところに子供が? 「大丈夫だよ……」 啓はにっこり笑顔を作って答えた。 「それより、うろうろしてると危ないよ。悪い奴にされわれちゃうよ。お母さんのところに帰らないと」 「おかあさん、いなくなったの」 「え?」 「こわい人たちにつれていかれたの。おとうさんもいなくなったの。まゆしかのこってないの」 女の子の名前は、まゆというらしい。 「恐い人たちって……」 「さっきのおじさんたち」 その言葉の意味が分かった。目の前の光景がサッと暗くなった。胃袋の中で冷たく重いものが広がった。 自警団は「怪しい奴」「犯罪やりそうな奴」を片端から捕らえているのだ。 「まゆちゃん……」 「うん、まゆだよ?」 「早くこの街から逃げたほうがいい。東京から逃げたほうがいい」 「え? でも。『まってて』っておかあさん言ってたから。だから、まゆ、どこにもいかないの」 その言葉にハッとして、まゆを見る。 つややかな髪にも、ピンクのダウンジャケットにもうっすらと雪がつもっている。そして顔は青ざめている。もしかすると、ずっと前からここにいたのか。町をうろついていたのか。 「いつから?」 「いち、にい……おとといから!」 「危ないよ。いますぐ町を出るんだ。あと、交番に行くのもいい。ぼくが連れてってあげる」 体の痛みなど気にしていられない。 啓はまゆの小さな手を引いて、駅の方に歩き出した。 「すいません、交番はどこですか?」 道行く人に尋ねる。だがみんな顔を背けるだけで答えない。 (ああ、仕方ないや。ぼく傷だらけだしな。怪しいよな) なんにせよ、早く交番を探して保護してもらわないと、また自警団に襲われる。 「ねえ、まゆちゃん。今度から、ぼくみたいに殴られてる人を見ても、助けないほうがいい」 「やだ!」 「なんでさ!?」 まゆは立ちどまり、啓の手を強く握って、即座に答えた。 「こまってるひとがいたらたすけるんだよって、おかあさんいってたもん!」 「え……」 絶句してしまう。一瞬のち、はあ、と息を吐く。 (こんな小さい子が、こんなに健気で、こんなに優しくて……) (このまま放っておいたら、こんな子も殺されてしまう) すぐに交番は見つかった。 警察官は机に突っ伏して寝ていた。 (人が袋叩きにされてるのに昼寝か!?) 「おきてくださいっ!」 頭に血がのぼって、揺さぶって叩き起こした。目を覚ました警官が目の下に真っ黒い隈をつくっているのをみてたじろいだ。すさまじい激務なのだろう。 「きみ……あ、その傷はどうしたんだ?」 「そんなことどうでもいい! この子を保護してください」 「え、でも、わたしは他にもパトロールが……自警団との折衝もしないと……」 警官は眠そうに首を振った。 「そんなこと言わないで、この子は殺されてしまいます」 啓は警官の手を握った。 「きみ、わたしにもいろいろやることがあるんだ。女の子一人だけにかまけることはできないよ」 警官はうんざりした顔で言って、啓の手を振り解いた。有無を言わさない口調だ。よく見れば眼は血走っている。ワイシャツの襟元が黒ずんでいる。全く家に帰れない激務が続いているのだ。 どうしよう、と舌打ちしたその瞬間。 ポケットの中で、携帯電話が着メロを奏でた。 「……はい」 耳に当てた電話から、声が、女の子の声が流れ出す。 『……わたしです』 心臓が跳ねた。体中の汗腺から冷や汗が噴き出し、まわりにあるものが何も見えなくなった。声にだけすべての意識が集中した。 あの女の子、弥生の声だ。 甲高いかわいらしい声なのに、なぜだか悪寒をおぼえる声。 ハッハッと呼吸が乱れる。深呼吸をしたが、おさまらない。 自分はこんなにも弥生を恐れている。友人たちを殺した相手を。 荒い息をそのままに、啓は言った。 「……灰原弥生、だね?」 『そうです。あなたのビラは読みました』 「どうかな。きみはたぶん、知りたいと思うんだけど。ぼくと会いたいと思うんだけど」 口の中はカラカラだった。ケイタイを握る手が震えた。半分寝ているような顔の警察官さえ、「きみ、どうしたんだ?」と問いかけてくるほどの震えだった。 (おそれるな。翔子の仇だ、礼一の仇だ) 震えはまだ止まらない。当然だ。これから「無敵の殺人者」を舌先三寸で誘い出すのだ。 「きみは、誰に復讐すればいいのかわからなくなってるよね。クラスの面々を殺しても恨みが晴れなかったんだよね。だから世の中の人たちを次々に殺してるんだよね。それできみは幸せになったかな」 『……』 電話の向こうからは何も聞こえてこない。だが啓には想像できた。きっと向こうで、弥生は怒りをこめて携帯電話を握り締めている。 もう一息だ。怒らせろ。 「なれないはずだ。だって君は間違ってるから。ほんとの敵はほかにいるから。君の兄さんが死んだ理由をぼくは知ってる。会ったら教えるよ」 警察官が目をむいて、啓の手から電話を奪おうと手を伸ばしてきた。 「おい、何の話だ。相手は誰だ!」 啓は飛びのいて、警官を手をよける。弥生にむかって語り続ける。 緊張で体はまだ震えているのに、言葉はいくらでも出てきた。 『会ったら、あなたを殺します。あなたのクラスの一員だからです』 「殺してしまったら、君が知りたいことを知れないよ。まずは会おう」 『警察をつれてこないでください。もし警察を動かしたときは……東京じゅうで、同時に百ヵ所でテロを起こします』 ごくりと生唾を呑み込んだ。 百ヵ所。一体何千人死ぬことか。弥生には果たしてそんなことができるのか。 『嘘ではありません。絶対につれこないでください。それから。会う場所と時間はわたしが指定します。十八時ちょうどに、お兄ちゃんが通っていた学校の、お兄ちゃんが通っていたクラスで』 「え」 時間と場所を指定される。しかも学校。予想外だった。 とっさに腕時計を見る。 いまの時刻は十六時五十分。あと一時間程度しかない。 なんてことだ。電車と自転車を駆使して、やっと間に合うかどうかだ。 (こっちに準備をさせない気だ。体一つで来いってことだ) 『一分でも遅れたら、百ヵ所でテロを起こします。選択の余地は、あなたにはありません』 拳を握り締めた。生唾をまた飲み込もうとしたが、口の中はカラカラでもう唾がでなかった。 「わかった。あと一時間だね」 『楽しみにしています。どんな真相を教えてくれるのか。くすっ』 幼い声で弥生は笑った。電話はそれっきり切れた。 「きみ、今の電話はいったいなんだ。誰と話していた」 警官が目の色変えて、啓の腕をつかんできた。 「秘密です。そんなことよりおまわりさん! この子の世話を! よろしくお願いします!」 警官の腕を強く握り返して、警官の眼を見つめて、叫んだ。 気迫に呑まれたのか、警官はずれていた帽子の位置を直して、 「わ、わかった」 「こんなこと、こんな世の中、もう終わらせますから! それじゃあ! まゆちゃん、元気で!」 まゆに手を振って、交番から飛び出した。 点滅中の横断歩道を駆けわたり、駅舎への階段をダッシュ。 啓がホームに駆け下りたそのとき、ちょうどサツマイモ色の京浜急行線がホームに入ってきた。 ぎゅうぎゅうづめになっている人々を押しのけて、電車に飛び込む。 そのまま品川へ。駅構内をダッシュしてJR山手線に乗り換える。 学校の最寄り駅まであと二回乗り換える必要がある。時計を電車内で何度も見る。 あと四十分。三十五分。早く。早く。 地団太を踏んだ。窓の外の雪はいつしか激しくなっていた。ふだんより山手線がゆっくりに思えるのは雪のせいでスピードを落としているのか。 やっと渋谷についた。駅のホームから、超高層ビルがいくつも見える。着膨れした人々を押しのけて、一度渋谷駅の外にでる。すでに道路は雪が積もって解け、シャーベット状になっていた。地下にある東急田園都市線のホームへと走る。 と、階段の手前で駅員が通せんぼしていた。 「申し訳ありません! ただいま田園都市線は全線が不通となっております! 駒沢駅付近で車内事故のため……」 「なっ……!」 声をあげ、その場に膝を突いてしまった。 車内事故とは言うが、実際にはテロだろう。列車を狙ったテロは毎日起こっている。 「復旧の見通しは立っておりません。まことに申し訳ありませんが、バスのご利用を……」 聞かずに走り出した。 頭の中は「どうしよう」でいっぱいだ。 バスなど使ったら電車の倍は時間がかかる。あと三十分。とても間に合わない。 そのとき、渋谷駅前に大量駐車してある自転車が目に入った。 (これだ) (ぼくはいままで、毎日自転車で走りまくっていたじゃないか) あたりを見回し、自転車を押して歩いている男を発見。おあつら向きにスポーツモデルの自転車だ。 「それ貸してくださいっ」 乗っている男をむりやり引きずりおろす。 「どろぼうっ!」 「ごめんなさい! ごめんなさい! あとで弁償します!」 そう大声で叫ぶ。振り向かない。もうペダルを漕ぎ出していた。 渋谷の駅前から、ごった返す道玄坂を一気に駆け上る。 タイヤが雪でスリップした。だが転ばなかった。毎日毎日、ウェイトつけての自転車特訓でバランス感覚が鍛えられたのだ。 道玄坂はどこまでも続いているようだった。渋谷は本当に谷底にあるのだと実感できる。 道玄坂を登りきり、国道246に入った。 時計を見た。あと二十五分。 頭の中で地図をイメージする。距離的にはあと六キロ。 大丈夫。できる。 だって毎日やってきた。 雨の日も、風の日も。こんな雪の中も。 自信を持って、ペダルを踏み下ろした。 21 啓は学校の廊下を走る。顎を突き出し、荒い息をして、パンパンに張って痛む足を引きずって。 廊下には一切の照明がない。窓から差しこむ町の明かりだけだ。自分の足も見えない暗さだ。 二年四組。啓のクラス。見つけた。 「はあっ……ふうっ……」 戸に手をつき、激しく顎を上下させる。 腕時計を見た。 十七時五十八分。 ほっとして、顔中をダラダラ流れ落ちる汗をぬぐった。 戸を開ける。 廊下よりもさらに暗い教室の中に、一人の女の子が座っていた。 窓際の席で、机の上に腰掛けている。 身についている服も黒いので、一瞬、顔だけが浮いているように見えた。 よく見れば紺色のブレザーを身につけている。胸元のネクタイだけが鮮やかな赤だ。 彼女はうつむいていたが、啓が入ってくるとすかさず顔を上げた。 さらりと肩口までの髪が揺れる。ブレザーの左袖もふわりと軽く揺れる。やはり袖の中身がない。片腕だ。 「間に合うとは思いませんでした」 彼女の、弥生の声はごく冷たい。 道場のときよりもさらに冷たくなっているようだ。一言聞いただけで、心臓を締め付けられるような重圧感が襲ってくる。 ぼくは恐怖を感じてる。冗談じゃない。負けるか。 「まあ、準備運動にはちょうどよかったよ。ゴフッ、ゲフッ」 フフンと鼻で笑うつもりだったが、咳き込んでしまった。 「あはは。無理してますね。とても滑稽です。それでは教えてください。なぜお兄ちゃんは死んだのか」 「一言で言うと、きみの兄さんがバカだったからだよ」 「な……」 薄暗がりの中でも、弥生の肩が震え、眼が見開かれたのがわかった。声からも冷たさが残らず剥がれ落ちる。 弥生はあからさまな怒りを込め、早口で言う。 「もう一度いってください。お兄ちゃんが、どうしました?」 「なんどでも言う。きみの兄さんは馬鹿だ。そして間違ってる。だから死んだんだ」 「わたしを挑発するつもりですか? ……後悔しますよ!」 弥生は叫んだ。黒い髪を揺らし、床を蹴って一気に突進してくる。 弥生がいるのは教室の後ろの窓際。啓がいるのは後ろの戸。 教室の一番後ろ、机がない空間を走ってくる。 啓は思った。 (遅い。やっぱり脚力はないんだ) 啓、突進してくる弥生を見つめ、彼女の腕が伸びて啓の首根っこをとらえようとしたその瞬間、右にステップを踏んで回避した。走る。教室の前へと。 すぐに振り向く。弥生が追ってくる。啓はわざとスピードを落とした。弥生の手が啓の襟首をつかむ寸前、床を蹴って全力で走り出す。 逃げる啓。追ってくる弥生。教室の外周を走った。机と机の間にある通路を走った。弥生は狭い通路の中で腰を机にぶつけて転びそうになっていた。その隙に啓は引き離した。教室一番後ろのロッカー前に立ち、片手を上げて手を振ってみる。 「馬鹿にしてっ!」 冷静さを失い、弥生はまた突進してくる。そのときには啓はまた走り出している。 教室中を走り回り、追いかけっこを五分、十分続けた。 啓、走りながら胸に手を当てる。苦しい。心臓が機関砲射撃のようにドドドと咆哮している。 だが足はまだ動く。教室右後ろの角を曲がって走り抜けた。脛がパンパンになって痛いが、「こういう状態になってからが勝負」だと知っている。背後から響 いてくる弥生の足音。乱雑で、早くなったり遅くなったり、ひどくペースが乱れている。ダンッ、ガシャッと大きな音がした。 振り向くと、教室の真ん中で弥生が片膝を突いていた。机を倒してしまっている。倒れた机に手をついて、激しく肩を上下させている。顔を上げて啓をにらみ 付けている。目だけはらんらんと輝いているが、表情は引きつって激しい疲労を感じさせる。少しでも酸素を取り入れようと、口を大きく開閉している。 「はあっ……はあっ」 啓は弥生を見つめ、言った。ゆっくりと、できるだけ冷たい声で。神経を逆なでする喋り方で。 礼一を毎日見ていたので、やり方はすぐにわかった。 「きみ、足遅いね。わかってるんだ。きみは技術を身につけているだけで、体をぜんぜん鍛えていないって。だからぼくには絶対追いつけない。追いつかない限り、どんな技も使えないよ」 弥生はほっそりした首を弱々しく振った。暗闇に大きな眼が光っている。 『なぜだ!?』という当惑と失望が瞳に浮かんでいる。 「ハアッ……ハアッ……なぜ……あなたも疲れ果てているはずなのに……」 「そうだよ。足も痛いよ。胸の中が焼けるようだよ。……でも。そんなの慣れっこだから。毎日、修行でやってることだから。まだ耐えられる」 痛いのは足だけではない。自警団の連中に殴られた首筋も、血がかたまってゴワゴワする頭のケガも、痛くて仕方ない。だが、いまなら耐えられる。 かならずこいつを倒す。こいつに言いたいことがある。 だから意識は濁らなかった。なにをすればいいのか、明白だった。 「きみみたいな、なんの苦労もせずに得た借り物の力とは違うんだよ」 「おまえっ! 苦労だって……わたしがどんなにお兄ちゃんを……おにいちゃんがいなくなってどんなに苦しんだか……それをっ!」 弥生、甲高い声で絶叫。同時にその右手がひらめいた。 (なにか投げた!) 窓からの灯りを反射して、細い何かが空中できらめきながら飛んでくる! 「はっ!」 啓、すかさず顔面の前で肘を振るう。 ギンッ! 肘に手ごたえ。はたき落とした。叩き落とされた「細長いもの」は机の上に落ちて跳ねた。 掌ほどの大きさのナイフだ。 肘を突き出して顔の前で構えたまま、啓は叫ぶ。 「苦しんでるのは……大切な人を奪われたのは、お前だけじゃない!」 一気に勝負をつける。 そう決めた。 弥生に向け、一気に駆け出す。 つかれきった今の弥生なら、倒せるはず。 だが二歩、三歩歩いたそのとき、膝にバキリと骨のきしむ音が響いた。脛の筋肉に激痛が走る。足がつったときの痛みだ。肉離れを起こした。 「くっ……」 うめいて歯を食いしばり、なんとか足を引きずった走ろうとする。だが無理だ。片足の筋肉はカチカチに緊張し、焼けた鉄棒を突っこんだような痛みを発している。 啓は片膝を突いた。 近くの机に手をかけて立ち上がろうとする。 だが今度は、肉離れを起こさなかったほうの足まで「ビキリ!」と痙攣する。耳の奥でツーンと音がして、気が遠くなった。 もう片方の膝も床に叩きつけ、机を倒して床に這いつくばった。それ以上動けない。両足の筋肉の痙攣が激しい。 「くぅっ……」 弥生の笑い声が聞こえてきた。 「あは。あなたも限界じゃないですか。わたしはまだ動けますよ」 がしゃり、と机のぶつかる音がした。 たっ、たっ、たっ。 小さな軽い足音が、近づいてくる。 啓は精いっぱい顔を上げた。ズラリ並んだ机の向こうに弥生が立っている。ゆっくりと歩いてくる。 瓜実型の白い整った顔から、すっかり驚愕や狼狽が消えていた。つめたい無表情に戻っていた。 啓は考える。 (このままでは、弥生になぶり殺しだ) 頭の中に、いくつもの光景がフラッシュ。 眼に指を突っ込まれて頭蓋骨を割られる自分。 うつ伏せに倒れ、延髄を蹴り潰される自分。 システマの技で全身の関節を一つ一つ外され、のた打ち回って苦悶する自分。 (どうすればいい) 先ほどから何度も何度も、足を動かそうと力を込めていた。筋肉の緊張は解けた。だが今度は力が抜けて動かない。鉛の塊のように重い。疲労の限界を超えてしまったのだ。 弥生が目の前に来た。 中身のない左袖が翻る。スカートがフッと持ち上がった。足を上げた。蹴る気だ。 踏みつけられる。いま啓は、急所である後頭部をむき出しにしている。 そのとき、ひらめいた。 翔子なら、きっとこうする。 自分にできるか? やるしかない。 「はっ!」 気合一発、声を張り上げる。 逆立ち、した。 足は動かない。だから床を蹴ることができない。手の力と、それから腹筋背筋で体を持ち上げて、なんとか倒立成功。 逆立ちして両足を折り曲げてブラリとさせながら、弥生に向かって歩き出す。 「こんなもの!」 弥生は嘲りの声を上げた。啓の肘関節にキックを叩き込んできた。 まさに、そちらの腕に体重をかけた瞬間だった。熱い痛みが肘で炸裂。ガクリと腕が曲がる。逆立ち体勢を維持できない。体全体が弥生のほうに向かって倒れこむ。 弥生の手が、倒れこんでくる啓の足を捕まえ。 投げ飛ばせ、なかった。 「え!?」 ふたたび弥生、驚愕の声を上げる。 啓、口元を歪めて笑う。 (これを狙っていたんだよ!) システマは合気道と同様、相手の力を逆用して投げ飛ばす。だがいま、啓の下半身は完全に脱力状態。技の振るいようがない。 本当のシステマ使いなら驚かなかっただろう。「投げられないのは当然」と理解するだろう。だが弥生は驚いた。他人の技を借りただけで、原理を理解していないからだ。 驚きが、弥生に隙を作った。 啓、体から力を抜いて体重だけで倒れこむ。 弥生を巻き込んで、机をなぎ倒して、二人して床に転がった。 「ぐうっ!」 弥生が苦悶の声を上げる。 啓は弥生を下敷きにする形で、うつぶせに倒れていた。逆立ち状態から倒れこんだので、胸の下から弥生のほっそりした足が突き出している。ローファーは脱げてニーソックスだけに覆われた足。 薄暗がりの中で白く浮かび上がっていた。 目を奪われるほど美しかった。だが頭の中で瞬間的に警報が鳴る。 (来る! あの寸勁が。ワンインチキックが) (よけよう) 頭ではそう思った。だが体がまったく逆の行動をとっていた。長い間翔子に鍛えられてきた、この体が。 逃げるどころか、目の前の足二本にしがみついた。渾身の力で膝関節をホールド、逆向きに捻じ曲げる。 腕の力だけで足関節を極めるのは非常識だ。一片に両方の足にかけられる関節技も存在しない。それでも、力の限り、弥生の足を曲げた。啓の上腕が膨れ上が り、弥生の膝靭帯がビキリと鳴る。まったく同時に弥生は動いた。啓には、体の下に組み敷いている弥生が異様な動きをしたのが分かった。胸、腕、腹、足、す べての筋肉が脈動し、体の各部で発生した波動が片足に向かって流れ込んで収束。 (これが、寸勁……!) 抱え込んだ腕の中で、弥生の右足が跳ねた。 衝撃が腕に弾ける。バキッ。乾いた音が、腕の骨を伝わって頭に響いた。 自分の腕が折れる音。 そして弥生の足が折れる音。 もともと弥生の体は脆弱だ。関節を固定された状態では「全身のエネルギー」を受け止め切れなかったのだ。こちらのダメージは腕一本。きっと本来の威力を半分も発揮できなかったはず。 啓、腕の痛みをこらえ、声を出して明るく笑う。 「ははっ……!」 「ぐうううっ!」 弥生が悲鳴を漏らす。弥生の顔はちょうど啓の股の下あたりにあって見えないが、さぞ苦悶していることだろう。 「しょせん借り物の力だからさ!」 啓は叫んだ。 「まだ、まだです!」 弥生が叫び返してきた。 同時に、弥生の足から、いや、弥生の体全体から、なにかが流れ込んできた。目に見えない、触ることもできない。だが息が止まるほどに冷たい、何か。未知のエネルギー。 音もなく啓の体にもぐりこんでくる。 (これか、これが精神攻撃) 啓の五体を、痺れるほどの快感が包んだ。うまいものを食べたときの喜び、ぐっすり眠ったときの喜び、テストで高得点を取ったときの喜び、性の喜び、啓がいままでの人生で味わってきた全ての快感が、一気に押し寄せてきた。 肉体が凄まじい勢いで反応した。 両目から涙が溢れ出す。口からはヨダレがこぼれ、ズボンの股間の部分を硬いものが押し上げる。 一瞬、気が遠くなった。押し流されてしまいそうになる。ここがどこで、いま犯人と取っ組み合っていることを忘れた。目を閉じた。このまま快感だけ味わいたい。辛いことなんてなにも見たくない。 目蓋の裏に翔子の笑顔が浮かんだ。 ついで、太い眉を吊り上げて怒る翔子。 啓がだらけていると彼女は怒った。 辛い辛い修行を押し付けてきた。 だが自分も同じだけの修行をした。 汗まみれになって修行をこなしたときには、人目もはばからず抱きしめてくれた。 男とは女とかそういう問題を超えた、大切な友達だ。 裏切れない。翔子を裏切れない。 ぼくは二度、翔子を傷つけた。 目の前でズタズタにされる翔子を、助けられず震えていた。 半身不随の翔子の前で、翔子の苦しみに気づきもせずヘラヘラ笑った。 せめて三回目は。 かならず犯人を倒す、この決意だけは。 (つらぬかなきゃダメだ!) だが、そう思っても、快感の波はとめどもなく押し寄せてくる。体がとろけてしまいそうだ。 ついに、精神の集中がとぎれた。 ひたすら強くイメージしてきた翔子の笑顔が揺らぐ。 口が勝手に動き、叫びを発する。 「ああああーっ……!」 歓喜の声だ。陶酔の声だ。 心の中に声が響いた。 弥生の声だ。 (さあ、心の全てを見せて) 体に侵入してきた冷たい謎の力が、ますます脳の奥深くへと侵入してくる。 数百の映像が現れては消えた。 赤ん坊の頃から現在までの記憶が、壮絶な早回しで再生されていく。 弥生が、啓の記憶を読んでいる。 精神の奥深くにまで侵入しているのだ。 (ごめん……翔子ちゃん……) 意識が遠のいていった。 22 小学六年生の夏のことだ。 ミンミンというセミの鳴き声をよく覚えている。 田舎から東京に引っ越してきて、「きっと東京にはセミなんていないだろう」と思っていた。ところが夏になるとそこらじゅうでミンミンジジジ。 前の学校と同じく、この小学校でも啓はイジメの標的にされた。 近所の公園で、正確には公園の林で、小学校の帰りに、殴られた。 毎日のことだった。 草むらに、仰向けに転がった。 背中に、木の根が激突する。息が詰まった。 恐い。もう殴られたくない。 体を丸めて草の上を転がり、うつ伏せになる。這いずって逃げる。公園なので草は短く刈られていた。こないだ見たアニメの主人公は草に隠れて脱出できたのに、啓にはできなかった。 「おい、逃げんな!」 声がする。小学生の声だ、啓と大差ない声変わり前のボーイソプラノだったに違いない。だがそのときの啓には、怪獣の唸り声にも似た恐ろしい叫びだった。 「あ……あ……」 「逃げんな!」 思い切り腹にキックを食らった。 「げはっ」 体が横転する。伏せていることができない。仰向けになった。 「逃げんなって言ってんのがわかんねーのか」 声が頭の上から降ってきた。坊主頭で上半身はTシャツ一丁、太った大きな体の男子が、ドングリ眼をギョロリと剥きだして、啓を見下ろしていた。 視界の中に、もう一人現れた。坊主頭の声よりもっと高い。体が細く、真夏なのに長袖シャツを着ている。整った顔立ちの中で冷たい眼がひときわ目立っている。 「たたねーと、ほら」 細いほうが、手に持ったペットボトルを逆さにする。何も包装のない透明ペットボトルで、中身がそのまま見える。中身は黄色。黄色い液体が、そのまま重力で啓の顔面に降ってくる。 「あっ……うえっ」 変な臭いがする。オシッコだ! とっさに転がり、草の上に手をついて体を起こす。それでもシャツの胸と腹に液体がかかってしまった。どんなに母さんに怒られるだろう。身震いした。 「よーし、わかってんじゃねーか」 「そのまま立ってろ」 「は、はいっ」 林の中に立った。半ズボンから出た足が震えている。 頭の中は恐怖で一杯だ。 (また殴られる。痛い。また殴られる。痛い) 「よーし、うごくなよー」 坊主頭のほうが、啓の数十センチ前に立ち、左右の腕を持ち上げて構えた。 ボクシングの構えだ。 「準備オーケー」 背後で、細いほうの声がする。 「オラッ! オラッ!」 坊主頭が蛮声を張り上げ、拳を振るう。どっちが右でどっちが右、そんなもの見えない。ほとんど同時に頬と鼻に衝撃が走り、鼻の奥で熱い血があふれ、涙が反射的に出てくる。 「うわ、鼻血かよ。手が汚れる」 膝が笑った。そのまま腰が落ち、後ろに倒れそうになる。 「おっと、倒れるなって」 背後で冷笑の混じった声。腰と背中を捕まえられた。力強く押さえつけられる。 「もういっちょ、いくぜ。オラッ! ワンツー! ワンツー!」 リズミカルな叫びが聞こえてくる。連続したパンチが顔面に打ち込まれる。恐い。恐い。恐い。頭の中はそれだけだ。背後から腰に腕を回され、逃げることも避けることもできない。ただ眼をつぶって耐えていた。頬に、鼻に、眼に重い衝撃がきた。二十発、三十発。 ふいにパンチがやんだ。 眼を開けてみる。顔全体がじんじんと痛んだ。熱かった。視界が涙でにじんでよく見えない。 「ふう……ふう……」 坊主頭は荒い息をしているように見えた。 (疲れてる。今ならやめてくれるかも) 「も、もう、やめ……」 坊主頭は鼻を鳴らす。 「やだね! こんどはキックの練習だ。あとは投げ技の練習も待ってる。おい、なんでそんな顔すんだよ。オレがまるでイジメてるみたいじゃねーか。オレは練習してんの。お前が練習につきあってくれてんの。トモダチだから。そうだろ?」 「あ……」 違う。苦しい。もうやめて殴らないで。 そう言おうと思ったが、言えない。言ったら何倍も殴られることが分かっているからだ。さんざん思い知らされてきたからだ。前の学校でも、その前の学校でも、どんなにやめてくれって言っても、親が問題にしても教師がしかっても、ぼくはいじめられ続けるのだ。 そのときだ。 「あのさー、やめてくれないかなー。見苦しいから」 女の子の声がした。上からだ。真上からだ。 「な、なんだてめえ?」 啓は声を追って上を見上げた。 ちょうど啓は木の根元にいる。その木に誰かが登っているのだ。人影が揺れている。涙でにじんでどんな人間かわからない。 手で涙をふき取った。眼のまわりの肉が、ぎょっとするほど熱を持っていた。 ようやく視界が晴れて、見えた。 胴着を見につけた女の子だ。 上下逆さになって、木の枝にぶらさがっている。木の枝を太腿ではさんで体を支えているのだ。漫画のキャラクターならともかく現実の人間にそんなことができるなんて想像もつかなかった。 啓よりも少し年上だろうか。体は確実に啓より大きい。黒々とした長い髪を頭の後ろで結んでいる。目鼻立ちは整っているが、目は吊り眼でパッチリと、鼻も口も大きくて、なにより目立つのが眉毛の太さ。 女の子は怒りの表情を浮かべて言った。 「テメエって言うな。あたしは鷹城翔子っている立派な名前があんのよ」 女の子は不敵に微笑んで、 飛び降りた。 啓の上に。 「ぶげっ」 腹の上に重力の加わったショック。身悶えする。 「じゃますんなよっ」 坊主頭たちは叫ぶ。女の子に向かって拳を上げる。 啓は見た。 至近距離、数十センチで、翔子のキックを。 大気をつんざき、残像を残し、坊主頭のスネに叩き込まれるスニーカーを。 ダンッ 重量感たっぷりの打撃音がした。 「あおうっ……」 潰されたカエルのような苦しげな声をもらして坊主頭が崩れ落ちる。 「なっ……」 もうひとりの、細身のイジメッ子も拳を構える。 翔子が踏み込んだ。啓の腹の上で。眼にも留まらない速さでパンチ。細身の少年が、眼に見えない力に叩かれたように首を振った。その場に倒れた。 翔子は憮然とした表情で腕組みをする。 「ふう。ちょろい連中よねー」 「あ……くるしい……」 「お、ごめんよ」 女の子はペコリと頭を下げ、啓の体から飛び降りた。ポニーテールが、まるで生命あるもののように勢いよく動いた。 啓はそのあたりの木に手をついてよろよろと起き上がる。姿勢を正した。 「ありがとう、たすえてくれて」 精いっぱいの誠意を込めて言ったつもりだった。 ところが翔子は、そう聞いて大きな吊り眼をしばたたかせ、次の瞬間、笑う。 頬を歪ませ、口の端を吊り上げて歯を見せる。挑みかかるような戦闘的な笑み。イジメッ子たちが浮かべる笑みとよく似ていた。 啓の背中をゾクリと悪寒が走る。 「べつに助けちゃいないわよ」 「え……」 女の子は長い手を勢い良く振るって、啓を指差した。 「『見苦しい』ってのは、あんたもよ。何よ。あんだけ殴られて一発も反撃できないの? あいつらスキだらけじゃん? ヒョロいほうなんて、あんたと体格いっしょだし」 「え……あ……」 胸のうちに冷たい塊が生じた。絶望という名の塊だ。 (たすけてくれると思ったのに) 拳を握り締めた。眼を伏せた。膝が震えていた。 (やさしいひとだと、思ったのに) (あいつらと同じだった) 顔の筋肉も引きつった。伏せられた眼から涙がこぼれた。 「あー。やっぱりかー。『この人がボクを守ってくれる』とか期待してたんだ。そうでしょ。だから『うらぎられたー!』って思ってる。あははっ。バッカじゃーん」 女の子は笑った。はっきりと嘲笑を含んだ声だった。 「おっ……お前なんかに……」 顔を下に向け、足元の黒い土と木の根をにらみつけながら、啓は言った。腹が立っていた。本当は相手の顔をにらみたい。だができない。恐いのだ。 (お前みたいな強い奴にぼくの気持ちがわかるか) 強くなってイジメに勝て、という説教は昔からなんども言われてきた。 でも、どうしてもできなかった。強くなる、というのは自分の人生とまったく別次元だと思った。 「強くなる」なんてことができる奴は、そもそもイジメられたりしない。 そう言いたいが、口に出せない。 「わかるわよ、あんたの気持ちくらい!」 いきなり目の前で大声がした。ぐいっ! 顎をつかんで、強引に持ち上げられた。 顔が上向きになり、女の子の顔が見える。 いつのまにか女の子は至近距離まで接近していた。 黒目がちの大きな吊り眼が、啓を鋭く見つめていた。 広い額には皺がより、口元はキリリと引き結ばれている。 口が動いた。 「だって、あたしも昔弱かったもん」 「え……」 「あたしんちって道場やってんだけど。ジジイに毎日しごかれるのよ。で、イヤだったらもっと強くなれって」 翔子はシャツを持ち上げて見せた。白いおなかが見える。 「うわっ」と声をあげる啓。 おなかに傷があるのが見えた。 「あ……これ……」 「そう、ひどいでしょ、これ。子供相手に何やってんのって感じよ。もうジジイのことビール瓶が何かで殴ってやろうかと思ったわ」 啓は言葉も出せない。 「結局、次の稽古では顔面に一発入れてやった!」 ガッツポーズをとる。 「あんたもあたしの顔面に一発入れなさい!?」 「はあ!? なんでそうなるの!」 「できるわよ。そのくらいの元気がないとイジメには勝てない! さあ、あたしを殴れ! あっそうだ」 翔子は眼をつぶる。 「さあ、来い!」 「え……」 「このくらいのハンデがあってちょうどいいって。やらないなら、こっちからいくぞ」 そういって翔子はパンチの姿勢をとる。フットワークのつもりか、軽くヒョコヒョコ飛び跳ねる。まるで先ほどイジメッ子がやっていたように。 啓は生唾を飲み込んだ。 (この人は本気だ。きっと殴られる) 拳を開いた。中は汗まみれだった。もう一度握りなおす。 ……眼をつぶった状態なら、きっと! 「うわあっ!」 啓は甲高い叫び声をあげた。腰が引けたまま腕だけ振り回して、おっかなびっくり殴りかかる。 しかし翔子は横に軽く跳ねる。かわされてしまう。 「えっ!」 確かに翔子は目をつぶったまま。それなのに。 次の瞬間、視界の片隅を黒い影が駆け抜けた。 顔面に、また衝撃。 殴られた。拳が見えなかった。 後ろに吹き飛ばされて吹っ飛んでしまう。 「ギャアッ」 「そんな大げさな、大して痛くないはずだよ」 「うわっ!」 何も考えられなかった。あわてて立ち上がり、また駆け寄る。大きく腕を振ってパンチ。翔子は体をのけぞらせて啓のパンチを避けた。 その後、何度も走りよってパンチをくらわそうとするが、全てよけられてしまう。その間、ずっと両目をつぶったままだ。 とうとう啓は草むらの上に座りこんだ。 涙声で叫ぶ。 「な、なんで!? 超能力!?」 「ちがうって。気配よ。人間ってのは体を動かすときに音を出すから。筋肉が縮んだり、骨がこすれたり、服がバタバタいったり、あと足音も。ここは下が木と草だから、ガサガサって音が大きくて分かりやすい。そういうのを総合して気配って言うわけ」 そうか、と生唾を飲み込む啓。 じゃあ、音を出さなければ。 啓、二メートル離れた翔子をじっと睨む。 一歩も動かず、その場からジャンプして飛び掛る。 「へっ……うわっ」 避けきれず、翔子は啓に飛びつかれてしまう。肩にしがみついて倒す。 体の上に馬乗りになった。二人はゴロゴロっと公園の森から転がりだした。 「あーっ! あーっ!」 頭の中は真っ白だった。思い切り拳を引いて、翔子の顔を殴った。 「いて! やるじゃん。あんた強いじゃん。あ、もういいって。いてっ」 何度も拳を振り上げる啓。頭を殴られながら、翔子は笑う。白い歯を見せた豪快な笑い。 「そんな。強いなんて」 「あの距離からジャンプでしょ? おまえ、足すげーよ、どこで鍛えたの」 「……みんなに……」 「みんな?」 「越智田とか……高沢くんとか……鷺沼くんとか……」 「ああ、わかった。イジメっ子たちね」 「あいつらの荷物をみんなもったり……あと『椅子』をしたり」 「椅子?」 「あいつらが、ぼくの上に座るの。ぼくはずっと我慢してなきゃいけない」 「へえ」 翔子は面白そうに口元をゆがめた。 「こんど、うちの練習にとりいれようかな」 「笑い事じゃないよ!」 「まあまあ。とにかく、おまえ見所あるよ」 そこで翔子は表情を変えた。恐ろしくマジメな顔になって言う。 「クズなんかじゃない。イジメられてていい奴じゃないよ。だってホントは、あいつらより強いもん」 「え……そう、かな」 「そうだ」 クズなんかじゃない。その言葉を口の中で何度も繰り返した。 とても魅力的な言葉だった。体がガタガタ震えだした。 恐いのではない。興奮している。 「だから、うちの道場入れよ。もったいないじゃん、せっかくの強さが」 反射的にこう答えていた。 「うん! 入る!」 23 次の日、夏休みが始まった。 他の子供たちは友達と一緒に帰り、これからやてくる輝かしい四十日間について熱く語る。家に帰って、親とは「どこに旅行しよう?」と話す。 啓にはどちらもできない。 終業式が終わったその足で、翔子と二人で道場へ。啓は「あの、お母さんと相談しないと」などと言うが、翔子は「いいから、いいから!」と、啓を引きずっていく。 つれてこられたのは、世田谷の街中に立つボロボロの道場。 『鷹城流古武術』の看板だけが立派で、窓は割れて新聞紙でふさいであるわ、屋根はトタンであちこち割れているわ、すさまじい。 道場では、胴着姿の小柄な老人が待っていた。頭はすっかり禿げ、顔にも深いしわが刻まれているが、眼光はあくまで鋭い。 「あ、あの、ぼく……」 啓が自己紹介しようとおずおず口を開く。 老人は啓の肩をボンと勢いよく叩いて、たたみかけるような早口で喋りだす。声も若々しい。 「おお! きみのことは翔子からきいてるぞ。感心な少年だ。うちに通って心身ともに強くなりなさい。あ、月謝は月に六千円で良い。申し遅れたな、俺は道場長の鷹城善次郎だ。師範と呼んでくれるといいぞ。あ、ジッちゃんでもかまわん」 啓が返答に困っていると、翔子が胴着を抱えてやってきた。 「はい、これ。だいたいお前の体に合ってるだろ」 「おう。そうだな。まずはこれを着て、基礎の修行から入るといい。なに、胴着代はサービスだ」 啓は肩を落とした。 イジメられても抵抗できなかった人間が、この押しの強さに逆らえるわけがない。 その後、天井に穴が開いた道場で、ひたすら筋肉トレーニング。 胴着を着せられて、ガニマタの状態で腰を落とし、そのままじっとしている。 となりで翔子も同じ姿勢だ。 「これって……なんの練習なの?」 「あー。『馬歩』っていって、足腰を鍛えるの。中国拳法の基本練習」 「そ、そうなんだ……」 腰が落ち着かず前後左右にフラフラする啓。翔子は鉄の棒でも入っているように、微動だにしない。 「つらいよ……」 まったく動かしていないのに、なぜだか汗がでてくる。 善次郎師範が小首をかしげる。 「翔子。聞いた話では、この子は足腰が強いそうだが?」 「まだうちの修行に慣れてないだけだよ。ジャンプしてあたしの顔面にパンチ入れたんだ。将来有望だよ」 「おお。それは素晴らしい」 善次郎師範は深々とうなずく。 「あ、あの……」 ついに膝がプルプルと震えはじめた。 「どうしたの?」 翔子はまったく平気な顔だ。 「なんか、もっと実際の戦いで役に立つ技を教えて欲しいんだけど……」 翔子と善次郎、まったく同じタイミングで首を振る。 「あー、それはダメ」「うむ、危険だな」 「どうしてですか!? ぼくはイジメられなくなれば、それでいいんです」 「そういうわけにはいかないのよ。基礎の筋力とか柔軟性を鍛えずに技だけ身につけると、たいてい薄っぺらのハリボテ技になるわよ。こういう言葉があるのよ。『百芸これあるを恐れず一芸きわむるを恐れよ』」 「どういう意味」 「あたしも知らない」 「なんだよそれ!」 コホンとわざとらしく咳をする善次郎。 「百の技を不完全に覚えているより、ひとつの技をちゃんと覚えたほうが強いのだ」 「そうそう。あたしもそう言いたかったのよ」 「でも……」 「でもじゃない!」 「おなかすいた……もう三時間もやってるよ……」 「わかった。ではメシにするか」 善次郎がうなずいて立ち上がったので、啓は思わず安堵の声を上げた。 「ごはんだ……」 そんな啓の肩をポンと翔子が叩く。 「あ、ここのご飯って、お粥だから。間違ってもハンバーグとか出ないから。あと、ご飯の後は別の修行だから!」 啓は泣いた。 24 夏休みのある日の夕方、道場から出て家に帰る途中。 三軒茶屋の商店街で。 短パンにTシャツ姿、そろってガリガリ君をたべているイジメっ子たちに遭遇した。 「お? クソケイじゃん」 「ひっさしぶりー。どこ逃げてたの?」 彼らの姿を見た瞬間、足が震えだした。 愕然とした。 おかしい。あれだけ鍛えたのに。 「べ、べつに、逃げてなんか」 胸を張って喋ろうとしたが、声までどもってしまった。 「あのオッカネー女、今日はいねーの?」 「オレらの手下じゃなくて、あの女の手下になったってわけ?」 「そ、そ、そんなんじゃなくて、ど、道場に行ってるんだ。だから、ぼくはもう強いから、お前たちなんかの言うことはき、聞かないぞ」 啓が何度も噛みながら言う。 イジメッ子たち二人は目を見張り、次の瞬間笑い出した。商店街を歩く人たちがみんな振り返るほどの大爆笑だ。 「アーハッハッハッ!」 「ヒーヒー。最高ゥゥゥ!」 「マンガだよお前。マンガすぎるよ。道場だって。キモー。お前みたいなウンコモラシが強くなるわけねーだろ!」 「だよなー。いまもビビッってるしなー」 「なあ、ほんとに強くなったんなら、やろうぜ?」 イジメッ子の片方、イガグリ頭が啓の腕をつかむ。 「う、うん」 勝てるはずだ。そう思ったからうなずいた。 一本奥の通りに連れて行かれた。 たった二、三十メートル商店街から離れただけなのに、あたりは店がなくなってマンションだらけ、人通りも少ない。 「オラ、いくぜ?」 イガグリ頭がボクシングの構えで前進してくる。 「えい!」 啓は力いっぱい足を振り上げた。同時に体重を前に移動。イガグリ頭のスネを真正面から蹴り飛ばした。 「あがあっ!」 それだけでイガグリ頭は崩れ落ち、足を抱えて転げまわった。 「あ。あれ……?」 あまりの威力に、啓のほうが驚いてしまった。目をパチクリさせる。 「てめーっ!」 細いほうのイジメッ子が殴りかかってくる。しかし啓は軽くパンチを受け止めて、スネに回し蹴りを打ち込んだ。 「あがっ。痛えようっ」 二人はその場にうずくまってメソメソ泣き始めた。啓はしばらく呆然と見つめていた。やがて、 「だ、大丈夫……? ごめんね……?」 声をかけ、肩を貸して起き上がらせる。 いつの間にか腕力もよほど鍛えられていたらしい。巨大な怪物に見えたイジメッ子は、軽々と持ち上がった。 泣いているイジメッ子ふたりに謝りながら、商店街を歩く。啓は彼らの顔を見て思った。 ぼくもたぶん、つい一ヶ月前までこんな感じだったんだろう。 やり返したいと思っていた。 でも、実際やり返してみると、なんだか胸がモヤモヤしている。 (ぼくがやりたかったのは、ほんとうにこんなこと?) (こんなにちっぽけで……なんだか、自分が悪い奴になったような) 気になったので、次の日、道場で翔子に疑問をぶつけてみた。 前蹴りの練習をえんえんと繰り返しながら翔子は答えてくれた。 「えらいじゃん。ただ殴ればいい、強ければいい、ってのはホントの武術じゃないもん。暴力は怖いってことよ。人を殴るの最高! みたいなダメ武術家にはならないね、よかった」 「そうじゃなくて……ぼく、もうイジメられないと思うけど……もう目的がなくなっちゃった」 「ああ、それなら簡単。ジッちゃんが言ってた。武芸に終わりなんてないんだって。あんたもさ、今度は違う目的で頑張ればいいじゃん。たとえば……」 「たとえば?」 翔子は、蹴り上げた姿勢のままぴたりと静止。 まるで彫像だ。 「誰かを守る! あたしがあんたを助けたみたいに」 翔子、叫んでヒュンと大気を蹴る。 「そんでもって、うちの道場まで引っ張ってきてくれたら最高よ」 「ぼく、できるかな、そんなこと」 「イジメッ子に勝つのも『できるわけない』って思ってたんでしょ? やってみりゃいいのよ」 25 それから数年、翔子と啓は成長し、高校生になった。 中学時代に礼一という仲間もできた。 高校二年の夏。ある日の昼休み。 啓は弁当を早く片付けてジャージに着替え、学校の周りを後ろ向きに歩きだした。 最近、翔子に薦められている鍛錬法だ。 これで、普段使わない筋肉が鍛えられるのだという。 昇降口から出て、校庭をぐるりと周り、プールの水面を眺め、校舎の裏の部室群前を通り抜ける。 ジャージ姿の生徒などもいて、啓の「後ろ歩き」を怪訝そうに見ている。 変な目で見られるのはとっくに慣れた。 有効な訓練法があるなら実行するまで。 翔子との約束を守るために。 いつか他人を守るために。 ぐう、と腹が減った。 「うう……それにしても豆腐は足りない……『大豆をとるべし!』は間違ってるだろ……」 鷹城流の教えは翔子と善次郎のヒラメキでけっこう変わるものだ。最近は「肉食をやめて大豆を食べよう」とか言い出したので豆腐や納豆ばかり食べさせられている。 腹をさすりながら「後ろ歩き」を続ける。 後ろ向きで中庭に入る。コの字型校舎に囲まれたスペースで、園芸部が頑張って花壇を整備してくれた。 (花を踏まないように気をつけないと) 前が見えないので、頭の中に地図を思い浮かべて、いまどこをどっちに向いて歩いているのか把握し続けないといけない。それも訓練の一つだ。 中庭に入ったとたん、気づいた。 中庭の大花壇の真ん中で、誰かがケンカしている。 姿は見えなくとも、声が聞こえる。 小さな声だが、啓にはわかった。 『やめてくれ』という少年の悲鳴が、『オラオラッ』という楽しそうな声が、鼓膜に刺さる。 啓は思い出した。数年前、自分がイジメられていたときのことを。あの頃、まさにこのような蛮声をよく耳にした。苦い記憶が蘇る。 (助けなきゃ) 「おい!」 叫んで、くるりと反転して前を向き、走り出す。 やはり、数十メートル離れた花壇の真ん中で、ひとりの少年が殴られていた。殴っているほうは体格が大きい。馬乗りになってパンチの雨を降らせている。そのそばに何人かの男子生徒がいる。助けるそぶりはない。 走って近づいていくと、すぐそばの男子生徒たちはなにやら指図していた。 「さっさと謝っちまえよ」 「ここじゃ人目につきすぎるだろ。便所いこうぜ、体育館の便所」 頭の中が熱くなった。怒りのためだ。 まわりの連中はイジメの共犯なのだ。集団でやっているのだ。 啓、その連中のすぐそばまで突進してきて立ち止まる。 「やめろ!」 叫んで、その連中をにらむ。 にらんだつもりだが、いまだに啓は「女の子みたいなカワイイ顔」と言われるので、迫力があったかどうかは分からない。 「あん? なんだオメー」 馬乗りになっている男が、顔を上げて啓を見た。 がっちりした体格で、学ランがよく似合っている。 顔は四角くよく日焼けしている。目つきはやぶ睨みで、口は不機嫌そうにへの字に曲がっている。 クラスメートの寒川大輔だ。学外の大きな不良グループに加わっているとか、いろいろと悪い噂を聞いている。喧嘩も強いらしい。この目で見たわけではないが、町で空手家といざこざを起こして殴り合いになり、頭突きで勝ってしまったという。 「やめろ」 ふたたび啓は言う。 すでに拳を握っている。基本に忠実、小指から先に握ってゆく。 殴られている生徒も見る。 自分と大差ない小柄で細い体。おとなしそうな顔立ち。肩はなで肩で、眼鏡をかけていた。こちらも同じクラスの、灰原睦月だ。休み時間はよく本を読んでいる物静かな人、という印象がある。 大輔はゲジゲジ眉毛をうごめかせ、蔑みも露わに啓を見て、叫んだ。 「だまってろよ、鷹城のパシリ!」 「喧嘩が自慢なんでしょ。集団でいじめて恥ずかしくないの?」 「けっ!」 寒川大輔は顔を嘲りにゆがめる。両手を挙げて、「あーあ。お手上げ」というおどけたしぐさをした。 「おまえなー。センセーに言われなかったかよ。物事を外見だけで判断すんなって。オレがやってるのはイジメなんかじゃねー」 「じゃあ、何だって言うんだよ?」 「こいつが俺たちにツマンネー説教するんだよ。『花壇を荒らすな』とか『猫をいじめるな』とか。ウゼーんだよ。だからオレらが教育してやってるんの。な?」 大輔が周りの手下たちに問いかける。全員うなずいた。 啓は睦月に問いかける。 「……灰原さん、本当なんですか?」 灰原睦月は顔を上げる。弱々しく微笑んで、「ああ」と言った。 「ほーら、言ったとおりだろ、原因はこいつなんだよ!」 再び拳を振り上げる大輔。 啓、とっさに踏み込んで、大輔の両腕をつかんだ。 「なにすんだよ。あー?」 「そんな理由で暴力を振るうんじゃない」 「へー。正義の味方ってわけか。おもしれーじゃん」 大輔、睦月を放り出して立ち上がる。 身長は啓より頭半分大きく、肩幅も胸板も上。 だが啓は恐怖を感じなかった。 (この人、ちょっと体重が重すぎる。足を狙えば) 頭の中は冷静だ。まわりの連中がいっぺんに殴りかかってきたら対処に困る。睦月を守りきれない。最初の一撃が勝負だ。 すると、ローキックだけでは弱いか……もっと派手で、畏怖させるような一撃を決めよう。 構えを取った。 ふう、と息を吐いて心を決める。 そのとき、 睦月が声を上げた。 「やめてくれ! やめてください!」 泣きそうな声だ。 「え?」 「暴力はやめて!」 睦月の頬が引きつっていた。瞳に深刻な嫌悪が浮かんできた。 啓は動揺した。目を白黒させ、問いかける。 「あの……灰原さんを助けるつもりなんですけど……」 「いらない。困るんだ。暴力なんかで助けられると」 「で、でも。このままずっとイジメられるままだと嫌でしょう? ぶん殴ってでも勝ちましょうよ。いまはぼくが戦いますけど、そのあとは灰原さんが自分で強くなってください。ぼくの通ってる道場があって……」 睦月、座り込んだまま啓を見上げる。 眼鏡の向こうの澄んだ瞳があまりに悲しげなので、啓は口ごもった。 睦月は、口から流れる血を袖でぬぐって、ゆっくりと語りだす。 「……新川さん。ありがたいけど、いりません。暴力で対抗するつもりはないし、武術を身につけるつもりもありません。だいたい、『イジメられるのが嫌なら 強くならなきゃ』って、それ自体が間違った考えです。だって、『どうしても強くなれない奴は、イジメられても仕方ない』ってことですから。喧嘩だけの話 じゃありません。そういう弱肉強食的な考えっていうのが、どうしてもダメなんです。ぼくは。どうしても強くなれない人がこの世にはいて、ぼくはその人のこ とが好きだから」 啓は息を呑んだ。 この男は、戦いが本当に嫌なのだ。本心なのだ。 「じゃあ、どうするの? 逃げるの?」 「言葉で説得して、この人たちに暴力をやめてもらいます」 「そんなムチャな……」 「とにかく、助太刀は無用です。放っておいてください」 睦月の表情を見てわかった。思いつめている。決心を変える気はないのだ。 よし決めた。 たとえ嫌がっていても、助ける。 啓、拳を胸の高さに構え、一歩踏み出す。すでに頭の中には、大輔たちをどうやって倒すかシミュレートが出来上がっている。そのあとは睦月を引きずってでも鷹城流の道場に入れる。なに、結局は感謝してくれるはず。ぼくと同じで。 殴りかかろうとしたその瞬間。 「やめなって!」 翔子の声が鼓膜を叩いた。肩をつかまれた。 驚いて振り向くと、翔子がすぐ後ろに立っていた。夏服姿で、広い額にしわを寄せて不機嫌そうにしている。彼女がこんな顔をするのは珍しい。 「なんでだよ! このままじゃ彼、ボコボコにされちゃうよ!」 翔子のほうに一歩踏み出し、勢いこんで言った。 しかし翔子は気だるそうに首を振る。 「失礼だと思わないの? あいつの選んだ道よ?」 「え……?」 翔子が何を言っているのかわからない。目の前で人がイジメられていたら助ける。当たり前のことで、理屈などいらない。 「あいつは、何が何でも暴力を使わないで解決したいんだろ? たとえどんなに痛くても? そうだよな?」 睦月は即座に答えた。 「そうです」 「だったら啓、他人の生き方じゃん。覚悟してることじゃん。あたしが『武術なんてやめて女らしくなれ』って言われるのと一緒だよ。侮辱だよ」 「でも、ぼくはどうしても彼を助けたくて……」 「ワガママだよ、それ」 胸に痛みが走った。翔子に否定されるなんて。 だが、たしかにその通りかもしれない。 啓、睦月に再び目線を移した。 睦月の表情に怯えはなかった。決然と顔を上げて、啓のことを見つめ返してきた。 (たしかに、この人も戦ってる。この人のやり方で……) (ムリヤリ助けたがるのは、エゴなのか。自己満足なのか) 啓、拳を握り締めたまま下ろす。 胸の痛みはますます激しくなってきた。睦月がどんな目にあうか不安でたまらない。 だが、翔子の言うとおりだ。睦月を尊重しよう。 唇を噛み締め、ペコリと頭を下げた。 そして、回れ右して、歩き出した。 一度も振り向かず、見物客たちを押しのけて、その場を去った。 26 睦月とは同じクラスなので、彼がイジメられるシーンはその後もよく目撃した。 大輔やその取り巻きが睦月を休み時間にからかい、連れ出した。休み時間が終わると睦月は腹や腰を押さえてヨロヨロと戻ってきた。啓が心配のまなざしを向けると、大げさにニッコリ笑って「大丈夫!」と明るく言うのだ。 廊下で、便所で、殴られている現場を見たこともある。 睦月はまさに彼が宣言した通り、けっして反撃しなかった。 暴力を振るわず、逃げることもなく、ただ「イジメをやるのがどんなにいけないか」切々と訴えた。 説得は大輔たちをますます怒らせているようだった。大輔たちのイジメ方は日に日に酷くなっていった。 27 灰原睦月がたったひとりの戦いに疲れ果て、死を選んだのは、それから五ヵ月後のことである。 28 啓は目を開いた。 まず見えたのは、弥生の顔。 かわいらしい顔を驚愕にこわばらせて啓を見下ろしている。黒髪が風に揺れている。窓から大量の雪が吹きこんで黒髪に付着していた。弥生はしかし雪を払おうともしない。 弥生は手を啓にのばしていた。啓の額の上に、ぞっとするほど冷たい弥生の手が乗っていた。どうやら弥生は啓の上にまたがっているらしい。 「そんな……」 弥生のこわばった顔が動いた。黒目がちな目に涙がにじんでいる。 「ほんとうなの……? この記憶、本当なの……?」 啓、自分がなんでこんなところにいるのか思い出した。 自分は弥生と戦って、精神攻撃を受けたのだ。弥生は自分の記憶を見たのだ。 (これでいい) (これで、目的は果たせた) 体を起こそうとした。腕が灼熱の激痛を発する。 耐えて、笑顔を作った。弥生の眼をみつめて、笑いかけた。 「……ほんとうだ。灰原睦月は、イジメられたから死んだわけじゃない。ぼくたちクラスメートが助けなかったから死んだわけでもない。なんども助けようとし た。彼がイジメから脱出するチャンスは何度もあった。逃げればよかった。ゲンコツを振るえばよかった。ぼくたちに助けを求めてもよかった。でも彼はすべて の選択肢を潰していった。たった一本の道を突っ走って、そして死んでしまったんだ」 啓は口を閉じる。 数十センチ頭上にある弥生の眼から、大粒の涙があふれた。頬に当たる。 「それじゃ……それじゃあ。お兄ちゃんを殺したのは」 「そうだ。誰が殺したわけでもないんだ。すべて彼自身が選んだことなんだ。それを『世界が悪い』にしちちゃうのは……失礼だ。侮辱だ」 「そんな……そんな……じゃあ、わたしのやったのは……なんの意味も……?」 弥生の頬が引きつり、声は涙声だった。小さい子供が『いやいや』をするように、小刻みに首を振っている。 啓には弥生の苦しみがよくわかった。良かれと思ったことが自己満足だとわかった痛み、知っている。弥生は人まで殺したのだ。とっくの昔に、引き返せない一線を超えてしまった。足元の地面が崩れ去るような衝撃に打ちのめされているはずだ。 だが同情するつもりはまったくなかった。 追い討ちをかける。 「うん。なんの意味もなかった。きみの兄さんは、絶対にこんな復讐なんて望んでない。だって、正当防衛すら認めない人だもの。こんなメチャクチャになった世の中を見たら、兄さんはなんていうかな」 弥生はついに泣き出した。顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙を幾筋も流して、感情のままに絶叫する。 「じゃあ……じゃあわたしはどうすればいいのよおっ!」 両手の指を胸の前で合わせた。神に祈るようなしぐさだ。 「教えて……わたしどうすればいいの……おしえて……おしえてアレクセイ……おしえて……いや……わたしのやってきたことが……わたし……おにいちゃんの……」 祈るしぐさをやめた。両方の手で顔を覆った。ぐすり、ぐすりと泣きじゃくる。 そのときだ。啓の心の中に声が響き渡った。 男の声だ。 『ちぇっ。もうダメか。心が折れちまった。使いモンになんねーな』 啓は驚愕した。なんだこの声は。一瞬後、脳裏にひらめくものがあった。 体なんて全く鍛えていないのに、なぜか弥生はシステマの達人。 何者かが、たとえば霊が乗り移っているなら説明がつく。 『その通り。オレはアレクセイ。ロシア殺人鬼の亡霊だよ。この女でさんざん遊ばせてもらった。お前なかなかやるじゃないか。たった一言で、この女の執念を 打ち砕いた。こいつ、一生後悔して『おにいちゃんごめんなさい』だけを考えて生きていくぜ。まあ、あっけない幕引きだけどそれなりに楽しめたぜ? じゃあ な』 啓は叫ぶ。 「おい、逃げるな!」 弥生も絶叫する。 「いかないでぇぇ!」 しかし、どちらの願いもかなわなかった。アレクセイの声はそれっきり聞こえてこなかった。 「わたし……わたし……」 弥生の手が制服のポケットにすべりこんだ。 一振りのナイフを取り出す。 啓は直感した。自殺する気だ。 「やめろっ!」 骨が折れていないほうの腕を伸ばして、ナイフをつかむ。 エッジ部分を握ったので、痛い。肉が裂けて骨に食い込む感触。 「なんで! なんで止めるのよ……もう死ぬしかない……わたしのやってきたことはみんな間違い……アレクセイには遊ばれてただけ……おにいちゃんは……ぜったいにわたしのことを許さない……もういや……もういや……」 啓の心に、ようやく怒りがわき怒った。 なんだこいつ……ぜんぶ他人のせいか。霊にそそのかされたとしても、殺しをやったのは自分なのに。何百人も殺して東京中をメチャクチャにして、それなのに、死んで逃げることしか考えていない。 こんな奴のために、こんな奴の自己満足で、礼一は死んだ。翔子は障害を負った。 怒りで胃袋がでんぐりがえりそうだ。腹の底の熱さが激しくて、腕の骨折も気にならない。 「灰原弥生。きみにききたい」 ナイフのエッジを強く握り締めたまま、たずねた。 「死ねば、すべてオッケーだと思うか。それなら死んでいい。ぼくが殺そう。でも、すこしでも、生きてなんとかしようって思うなら……絶対に死ぬな。どっちだ。どっちなんだ。自分の意思で、どっちなんだ」 弥生、沈黙する。真っ白い顔、涙の跡が残る顔が、苦悶の形に歪んだ。 沈黙は続いた。十秒、二十秒。 啓にとっては、気が遠くなるほどの時間だ。 やがて弥生が小声で呟いた。 「……死なない。死なないで、償い続ける。だってわたし、もう、お兄ちゃんのところにはいけないから」 29 それから一週間後。 啓は目を覚ました。 全身の肌がしっとりと汗でしめっているのがわかった。 それなのに寒気がする。 まず目に入ったのは天井。ポスターが貼られていた。袴姿の老人が道場でなにやら技を掛け合っている。『対極流柔術 酒井師範 毎日拝むべし 翔子』と書かれている。 (ああ、ここは自分の部屋だ) 自分の部屋で、折れた腕をギブスで固定して、布団に横たわっていたのだ。 悪いのは腕だけではない。これまでの疲れが出て発熱し、この一週間ほとんど寝たきりの生活だった。 枕元にはラジオが置かれている。起き上がれない啓の気をまぎらわせるために、母親が用意してくれたものだ。 男性アナウンサーの読み上げるニュースが耳に流れ込んでくる。ぼんやりと聞き流す。 『さて十八時のニュースをお届けします。新しい年をむかえまして一週間。いまのところテロ、犯罪は起こっておりません。去年末に大量発生したテロ・犯罪の 多発、いわゆる『東京大発狂』は収束したと考えてよいようです。この件につきまして安川首相は談話を発表し、国民へ警戒を呼びかけています』 あの大晦日の日、弥生は「下僕」すべてに命令を出して、おとなしくさせた。その後は殺人犯として自首し、いまだ警察で取調べを受けている。 『いっぽう、『東京大発狂の首謀者』を自称する少女についてですが。彼女の自供には多くの矛盾、荒唐無稽な点が見られることから……』 やっぱり、と啓は思った。 アレクセイという霊のこと、精神操作でテロや犯罪を撒き散らしたこと。どちらもマジメに受け取ってもらえないだろう。合計何千人もの人間を死傷させて、自首した程度で責任を取ったことになるのか、という疑問もある。 だが…… 啓は熱い吐息を吐いて、寝返りを打った。 (どうやって責任を取るのか。それを決めるのは、ぼくじゃない。あの子が……弥生が選ぶことだ) (ぼくはぼくのやるべきことをやらないと) (ぼくのやるべきこと……なんだろう) 布団の上で体を横たえ、考える。 部屋の片隅に積み上げられた本が、ちらりと目に入った。 これも武術の本だ。 「やっぱり、鷹城流をぼくがなんとかしよう」 口に出して言ってみた。 なんとも恐れ多い。自分はまだまだ未熟者なのに、流派の看板など背負えるものか。 でも、ぼく以外いないのだ。善次郎は死に、翔子は歩けない体だ。 (ありったけの技を覚えて鍛えまくって、道場を再建して、門下生も集めよう) 「よし、やるぞ……」 顔の前で拳を握ってみる。 遠大な目標だが、進むべき道がはっきり決まっているのは悪くない。 翔子にああしろ、こうしろと言われたのではなく、自分で決めた道。 (その前に、いまは体を治さないと) そう思って目を閉じた、そのとき。 部屋の戸がガラリと開いた。 「よお!」 女の声が浴びせられた。 明るい声。凛々しい、覇気に満ちた声。 翔子の声だ! 「え!?」 仰天し、目を開ける。 だるさも吹き飛んだ。全身の筋肉や骨が悲鳴をあげるのを無視して、布団から跳ねるように上半身を起こす。 入ってきたのは間違いなく翔子だった。 頭と目の部分は相変わらず包帯グルグル巻き、服装は水色のパジャマで、小脇にコートを抱えている。他には何も着ていない。奇妙な格好だ。 翔子は片手を上げた。ゆっくりとした動作だ。 「具合どう? お見舞いにきてあげたわよ。つうか脱走してきたんだけどさ」 包帯だらけの痛々しい姿と裏腹に、声はやはり明るい調子だ。よく見れば口元には微笑が浮かんでいる。 啓は金魚のように口をパクパクさせた。頭の中は大混乱だ。 翔子の状態はまったくよくなっていない、と聞いていた。だいたい頭を割られたのはたった三週間前なのだ。回復するはずがない。それなのに病院を脱走するほどの元気? 「え……あ……な、なんで歩けるの……」 すると翔子は頬を子供っぽくぷうっと膨らませた。 「なによそれ。治っちゃいけないみたいじゃない。まあ医者もびっくりしてたけどね。『一生歩けないかも』って言ってたくらいなんだから。いまはまだ、足とか重いけど。杖が必要だけど。また前みたいにガンガン鍛えるわよ?」 「え……でも……眼が……」 「あたしも、目は問題だと思うのよ」 翔子は腕組みした。抱えていたコートが落ちる。 「でも盲目で強い人ってよく聞くのよね。気配っていうか聴力を研ぎ澄ましてさー。もし無理だったら、そのときは車椅子バスケみたいな盲人格闘って新ジャンルを作って、その中であたしが最強になるのよ」 啓はポカンと聞いていた。やがて笑いの発作に襲われた。 「ぷっ……くすっ……」 「あ、なによー」 「いや、馬鹿にしてるわけじゃないんだ。翔子はやっぱり凄いな、と思って」 翔子を守ろう、なんて思った自分は浅はかだった。 この人がメソメソ泣いたままなんて、あるわけがないのだ。 「当ったり前じゃない。でも、あんたもけっこう頑張ったね」 そう言って翔子は、部屋の中を歩いてくる。 まったく視力がないのに、恐れもせずに布団の上をスタスタと。 そして、啓のすぐそばに腰を下ろした。いきなり抱きしめてくる。 「あ、ぼく汗臭いよ、やめてよ翔子ちゃん……」 驚いて身をよじる。翔子は離さなかった。豊満な翔子の乳房が啓の胸に押し当てられてくる。翔子のパジャマからは消毒液の臭いがした。 耳元でささやかれた。 「……ありがと。犯人のこと」 素っ気無い口調だった。 だが啓にはわかった。犯人への怒り。自分で仕留められなかった悔しさ。膨大な感情を飲み込んで、たった一言に凝縮したのだ。 だから啓も翔子を抱きしめ返した。同じように万感の思いをこめて、ささやいた。 「うん。翔子がいたから、頑張れた」 おわり |