百年の手紙 全面改訂版
少年から少女への、第一の手紙
今日、越智田がぼくのことを虫だと言った。
澤井がぼくの教科書を女子便に放り込んだ。
ぼくが取りに行こうとしたら、女子便の入り口で待ち構えていた中森がキャーキャー叫んで、「江田くんが女子便に入ろうとしてます変態です」と言った。
廊下を歩いていたみんなが見た。
放課後にとりにいこうと思った。でもそれも無理かもしれない。
昨日もそのまえもそのまたずっとまえも、放課後は、階段の一番上、屋上につながるドアの前の踊り場に座らされて、ずっとボールをぶつけられるから。そのときずっと黙って、何も言わず動かずに、我慢してなきゃいけない。
手で顔を隠したり、腕を振り回したり、やめてよーっていったら、みんなそれをまねするから。
すごく甲高い声を出して、休み時間とか授業中とかに真似するから。
するとみんなが見るから。だからぼくは黙って、目を閉じているしかない。ボールが野球のボールになったときは凄く痛かったけど、でも黙っていればいつか終わるし、みんなに笑われることもないと思うから。
やっぱりその日の放課後もそうだった。
だからぼくはまっすぐ家に帰った。家の中にはあいつらはこないから。
あしたもずっとこうだろう。
目が覚めたら今までのは全部夢だった、ということになったらいいなって思ってたこともあるけど、本当はそうじゃなくてやっぱり現実だった。何度も思ったけどやっぱり現実は現実だった。だからもう、夢かもって思うのは無駄だからやめた。
だけど布団に入っているときは幸せだから、たとえまた明日が来るとしても幸せだから、家に帰ってこれるとうれしい。
いまは日記を書いているけどすぐ寝る。
日記を書くのは別に楽しくない。
昔、少年ジャンプに載ってたマンガで、ぼくみたいな目にあってる人は日記をつけると良いって書いてあったからつけてるけど、でもぜんぜん楽しくない。
昨日自分が書いた日記をもう読み返したくない。汚いもののように感じる。だから書いたらすぐ破って捨てることにしてる。そんなことするくらいなら書かなきゃいいんだけど、どうしても書いてしまう。
毎日必ず書いて、書き終わったら絶対見ないで、触るのも嫌だけどこのまま捨てたら誰かに見られるからビリビリに破いて、ゴミ箱に入れる。
それをずっと繰り返してきた。これからもそうする。でもどうしてなんだろう、全然楽しくないのにどうして書くんだろう。
書かないと不安でしかたないのはどうしてなんだろう。日記というのは書いてるうちに自分の気持ちを整理するとか言われてるけど、ぜんぜん整理なんかされない。
書いたら捨てちゃうから日記じゃない、なんの役にも立たない、でもどうして書くんだろう。
もういい。捨てる。
少女から少年への、第一の手紙
あなたはだれですか?
どういうことなんですか?
私は最初、だれかのいたずらかと思いました。お父さんお母さんが、私を少し驚かせようとしてやったんだと思いました。でも違います。この手紙は私の机の上に、私が見てる前で、突然現れました。
次に、私の頭がおかしくなったんだと思いました。ずっと統合体に接続できないから、他の人達に自分の気持ち伝えたいと思っててもどうしても出来ないから、もともと脳に異常があるから接続できないわけだし、本当におかしくなっちゃったんだって、そう思って。
この手紙は幻なんだって。
でもちがう。絶対違う。
他の人もこの手紙が見えるし、間違いなく、これは本当に、私の前に現れました。
確かに私は先天性の統合体接続不適合者ですけど、でも五感はしっかりしています。
どうやって返事を出せばいいのか全然分からないけど、とにかく書きます。
あなたが不思議な力をもっているんなら、私の書いた手紙をそっちにもっていくことも出来ると思うから。
とにかく返事をください。
あなたはだれなんですか?
この手紙はなんですか。
少年から少女への、第二の手紙
驚いてるのはぼくの方だ。
書き終わって、破って、捨てようとしたら日記が消えた。最初からそこになかったみたいに。
頭がおかしくなったのかと思った。
これは何かの間違いで記憶が飛んだだけでほんとはちゃんと捨てたんだって思おうとした。
学校に行ってる間ずっとそう思ってたら、ほんとにそうな気がしてきた。
でも、いま違うことがはっきり分かった。
君が返事の手紙をくれたから。
部屋に鍵をかけて、今日の分を書こうと思ったら、手紙が来た。
何もない空中から現れてストンと落ちた。
何がどうなっているんだかわからない。
でも本当だ。
女の子の字で書いてある。本物だ。
ぼくは君に手紙なんか出してない。送るつもりもなかったし誰にも読んでほしくない。
なんなんだ。昨日そっちにいったのは手紙じゃない日記なんだ。捨ててくれ。
少女から少年への、第二の手紙
待ってください。
もっと話を聞かせてください。
不思議な偶然が起こってしまっただけなのは分かりました。日記を勝手に読んだのは謝ります。
でも、話がしたいんです。
やっと、言葉で話をしてくれる人に会えたんです。
自己紹介します。
音声識別名、リンナといいます。
女です。15歳です。
統合体に接続できないからIPアドレスはないんです……ごめんなさい。
あ、でも、あなたも、こうやって紙に文章書いてるってことは統合体に接続できない病気なんですよね。私と同じですよね。
あなたのことを教えてください。お願いします。
少年から少女への、第三の手紙
リンナさんへ
困ってる。
教えてくれといっても困る。
ぼくは江田ケンジという名前だけど。
年は十四歳。中学三年生になる。
それより君の言ってることが分からない。
音声識別名ってなに?
統合体に接続ってなに?
少女から少年への、第三の手紙
江田ケンジさんへ
リンナです。
統合体を知らないってどういうことでしょう。それにいまどき苗字のある人なんて。
最初に来た日記にも変なことが書いてありましたね。
「学校」とか……
学校ってなんだろうと思ってお母さんに訊いたら、「統合体が造られる前、一箇所に子供を集めて、言葉でものを教えてたの。それが学校」って言ってました。
教えてください。
今はいつですか?
江田さんのいるのは西暦何年ですか。
私がいるのは2102年です。
リンナ
少年から少女への、第四の手紙
君は未来の人間だってのか?
信じられない。
ぼくがいるのは2002年だ。
でも信じられない。
未来の人間と手紙のやり取りが出来るなんて、そんなマンガみたいなこと信じられない。
ぼくのことをだまそうとしてるだろう。
わかってるんだ。
いままでやさしくしてくれた人はみんなそうで、本当はみんなぼくを笑うんだ。
だからもううんざりだ。
イタズラはやめてほしい。
でも手紙は確かに、出たり消えたりした。
じゃあぼくが本当におかしくなったのか。
それならそれでいい。
おかしくなったらなにも感じない。何も分からない。早くそうなりたいと思ってた。
このままどんどん頭がおかしくなればいい。
少女から少年への、第四の手紙
江田ケンジさんへ
リンナです。
待ってください。
信じられないのは分かります。
私だってこんなこと、現実とは思えません。
「マンガみたい」という言葉の意味は分かりませんけど(マンガってなんですか?)。
でも本当なんです。
ずっと、お話してくれる人を探してたんです。統合体に繋がってない、私と同じ世界に生きてる人を。
だからもっとお話してください。お願いします。
その前に統合体のことを説明します。
今の人間は、五歳になったらみんな「統合バイオチップ」っていう小さな機械を埋め込むんです。
その機械は人間が考えたことや感じたことを記録したり、電波にのせて他の人とかコンピュータとかに送ります。
江田ケンジさんの時代にはコンピュータはありますか? コンピュータ同士をつなげたネットワークは?
確か20世紀にはもうあったはずですよね。それを人間に応用したような感じです。
人間全員の心が繋がっていて、考えるだけで世界中の誰にだってその気持ちを伝えることが出来るんです。その「つながり」が、「統合体」というネットワークです。
でも、私はその統合体に入れないんです。
何億人に一人っていう特殊な体質で、脳の回線がバイオチップとくっついてくれないんだそうです。
だから私は、こうやって字を書いて、自分の考えとかを伝えてます。声を出して喋ったりもします。
江田さんの時代にはみんながやってることなのかもしれませんけど、今は違うんです。
町を歩いてても、レストランに入っても、喋る人は誰もいません。「統合体」を通じて会話する人しかいないんです。世の中のほとんどの人は言葉が使えないし読み書きもできません。父さん母さんは、私がこうだから、一生懸命声の出し方とか字の書き方とかを覚えたみたいです。
ありがたいと思ってます。
私みたいな人は、会話ができないから仕事にもつけないし、町に出ても買い物ひとつできないんです。お金はみんな「統合体」の上で管理されてますから。江田さんの時代のお金って、物質なんですよね? 紙とか金属とかでつくられていて、触れるんですよね?
映画で見ました。映画とか本とか、統合体以前の古いものが好きだって人も少しはいて、父さんが私のためにそういうのを探してくれるんです。外に出ても何も出来ないので、ずっと家にこもって映画みたり本読んだりしてます。
外にもいいものはたくさんあるのかもしれませんが、ほら、外に出たら人に会いますよね。おじさんおばさん、おねえさんにおにいさん、子供……みんな私をみてぎょっとするんです。たぶん私の脳が何のシグナルも出してないからなんでしょう。
私のことばっかり話しちゃいました。
江田さんのことを話してください。
江田さんがいるその世界は、私にとっては夢の世界なんです。みんな、統合体じゃなくて言葉で喋ってる。隣の人に挨拶するだけでも、ほんとに口を開いて喉を震わせなければなにもできない。みんなそれを当たり前だと思ってる。そんな人達だけが何万人もいる。
どんな感じなんですか?
どういうことを喋るんですか?
あ、呼び方、江田さんでいいんですよね? ごめんなさい、姓のある人って会ったことないから、どう呼べばいいのか分からなくて……
それでは、お返事待ってます。
リンナ
少年から少女への、第五の手紙
江田ケンジです。
タメ口も悪いかなっておもったんでこういう書き方にします。
リンナさんが、ぼくをからかったりバカにしてるわけじゃないのは分かりました。
ぼくがおかしくなったわけでもなくて、これは本当のことなんだって分かりました。
でも、ぼくが話せることはなにもありません。
ぼくのいるところは全然楽しくないです。
がっかりさせて悪いけど、でも本当にそうです。
ぼくは、リンナさんの手紙を読んでいて、リンナさんのことがうらやましくなりました。
だって学校に行かなくていいし、父さん母さん以外はぜんぜん話しかけてこないんですよね。いいじゃないですか。
だれも、自分に何もしない。
学校にも行かなくていい、ずっと家に閉じこもっていてもいい。
ぼくもリンナさんみたいになりたいです。
江田ケンジ
少女から少年への、第五の手紙
江田さんへ
リンナです。とてもショックでした。どうしてそんなことを言うんですか?
一番最初の手紙には、ボールをぶつけられるとか虫だといわれたとか、よく分からないことが書いてあります。それが原因なんですか。何が起こってるんですか。学校でつらい目にあってるんですか。
リンナ
少年から少女への、第六の手紙
リンナさんへ
教えたくないんです。だから最初の日記を読まれたのは絶対に嫌なことで、あのことは忘れてほしいとおもってるんです。
忘れてください。
ぼくが話したって何も出来ないでしょう。
みんなそうなんです。
頑張れ、頑張れって言う人はたくさんいるんです。勇気を出してやり返せばいいのにって言うんです。
でもそんな奴らにはぼくの気持ちなんて分からないんです。だから簡単にやり返せばいいなんていえるんです。ぼくはあいつらが嫌いです。この世で一番嫌いです。
少女から少年への、第六の手紙
江田さんへ
こんなこと父さんには相談できないから、百年前の人と手紙のやりとりをしてるなんて言ったら頭がおかしいと思われるから、でもそれでも江田さんのいってることを分かりたかったから、映画を探しました。本を探しました。
すると、江田さんと同じような目にあっている人はたくさんいたことが分かりました。もっとひどい目にあわされて死んでしまった人もいるそうです。でも脱出できた人もたくさんいます。
私は江田さんに死んでなんかほしくないです。もっと話を続けたいんです。だから、この本に書いてあることを話します。
江田さんと同じくらいの時代、同じ国で、同じようにいじめられた子供が、体を鍛えていじめっこたちに勝った話です。
まず、この本には「黙っていないで相談すること」って書いてあります。話したら迷惑がかかると思ってずっと自分の中だけにためておいたらどんどん不安が不安を呼んで、その不安にがんじがらめにされてしまうんだそうです。学校の先生でも親でも、相手は誰でもいいです、詳しく話してみるのが第一歩だと思います。
リンナ
少年から少女への、第七の手紙
リンナさんへ
どうしてぼくを助けようとか思うんですか?
どうして話をする相手がぼくでなきゃいけないんですか?
リンナさんには優しくしてくれるお父さんお母さんがいるじゃないですか。
それに、先生とかに相談したことくらい、あります。でも無駄でした。
「逆らえないお前がおかしい」といわれるだけでした。
みんな、私ならぶん殴るって言います。
教科書を隠されたり、机にチョークで「死ね」とか書かれたり、弁当を盗まれて廊下に全部ぶちまけられたり、そんなことをされたら怒って反撃するのが当然なんだっていいます。
だから分かったんです。
あの人達は強い人間で、勝てる人で、だからぼくみたいな、どうしてもやり返したり出来ない人のことなんて分からないんだって。
男子便の個室に入ってたら四人がかりで上から水をかけられたりモップでつつかれたり、教科書を取られて便器に突っ込まれたり、それをとろうとしたら大声で汚い汚いっていわれたり、そんな目にあってもどうしても逆らえない人がいることなんて分からない。
その本に出てくる人も同じです。
特別な強い人なんです。
もしかしたらそういう人が普通で、ぼくが特別に弱いのかもしれないけど、でも同じです。やっぱり違う種類の人間なんだから。
それもわからず、「がんばれ」って言う人のことがぼくは嫌です。
やっとあきらめられたのに。
何年もかかって「ああ、ぼくにはなにもできないんだ」って、やっとそう思えるようになったのに。勝てるはずだとか思うから苦しいんで、ぼくは何も出来ない人間なんだって思ってしまえば楽になれるってやっとわかったのに。それをまた壊してしまう、せっかく手に入れた幸せはぐちゃぐちゃです。
ぼくは今夜眠る前、「ぼくは何も出来ないんだ、何をやっても無駄なんだ」って自分に言い聞かせるつもりです。毎日やってますけど、今日は普段の倍やります。
とにかく嫌だから。
ぼくにああいうことをする人よりもっと嫌だから、ああいう人は地震とか台風みたいなものだって思えるけど、でも「頑張れ」って言われるのはとても我慢できないから、だからそういう話をするのはやめてほしい。
そういう話しかしないんなら、もう返事なんて書かない。
ケンジ
少女から少年への、第七の手紙
江田ケンジさんへ
ごめんなさい。
嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。
ずっと考えました。
ケンジさんの言っていたことを。
諦めるのが幸せなんだってことを。
納得できない部分がたくさんあったけど、でも私、何日も考えたら分かったんです。
私と同じなんだって。
私だって、「頑張って統合体につなげるようになろうよ」って言われたら、傷つくと思います。
頑張ってできることじゃないのに。
生まれつきなのに。
私だって何もやらなかったわけじゃないのに。何度も何度も病院で検査を受けて、頭を開いてチップを埋め込んで、それでもやっぱりしばらくしたらチップは死んじゃって。お父さんお母さんにたくさんお金使わせちゃってごめんって思って、自分はどうしてこんな体なのかって思って。
小さな子供のころは、私が悪い子だからバチが当たったんじゃないかって思ってたんです。だからいい子になりますからどうかみんなみたいに私をしてくださいって、そうお祈りしてたんです。
心理的な理由かも知れないってお医者さんが言ったときはつらかったです。
「この子は他人の心に触れることを拒否してるんじゃないか、だから統合チップが脳とくっつかないんじゃないか」って。
私の心がいけないんだって思ったから、来る日も来る日も、他人の心はすばらしいものだって、嫌がっちゃいけないって、絶対怖いとか思っちゃいけないって……自分の心に刻み付けるみたいに、呪文みたいに言い聞かせてたんです。
でも、やっぱりダメでした。
心理的な理由なんかじゃなかったんです。
生まれつきだったんです。
どうしても治せない病気だったんです。
それが分かったときには、もう。
悲しかったっていうのとは違います。
涙とかぜんぜんでなかった。
ショックで、周りで起こってることとかぜんぜんわからなくて、自分の部屋のベッドで丸くなってそのまま何時間もいて、お母さんがご飯だよって呼んでも返事するのも嫌で、部屋の電気を真っ暗にしていて、ノックされても無視して……
暗くなるんです、窓の外が。部屋の中が。
それから明るくなるんです。
朝がきたんです。
長い夜の間にずっと考えました。
でも、ずっと私の心は同じところを回っているだけでした。
私がこんなでも世界は変わらず動くんだって、それが分かって、たまらなくつらい気持ちで。
誰もわかってくれないんだって。
窓の外から見えたんです。
庭の大きな樹が。
風が強くて枝が揺れていたんです。
葉っぱがふわっと落ちたんです。
その瞬間分かったんです。
あの葉っぱが落ちてもこの世の誰も気にしない。
口では、「可哀想だね」って、「大変だね」って、そういってくれるけど、そういう人はたくさんいるけど、でもそれは私のことを分かっていってるわけじゃなくて。
そんなこといわれるたびに傷つく。
言われれば言われるほどいや。
父さんだって母さんだって、悪気があっていってるわけじゃない。それは分かってる。
でも、私のことが分かってるわけじゃない。
私を見ないで言ってる。
どんなに優しい言葉でも私を沈んだ気持ちにさせるだけだって分かってない。
あの人達は私と違うから。絶対私じゃないから。思っただけで気持ちが他の人に飛んでいく。地球の裏側にいる人とも、隣にいるのと同じくらい簡単に心を通わせられる人たちだから。
口を動かして、百の気持ちをどうにか十くらいの言葉にして、それでも全部は伝わらなくて。せいぜい一か二で。
その一とか二だって、ちゃんと伝わったかどうか分からない。知る方法がない。向こうも、めったに使わない音声言語で、何か伝えようとするけど、でも言葉で表せない気持ちってたくさんあるし、「わかったよ」って口でいうより簡単なことってないし、そういわれたら私は「うん、ありがとう」って言うしかないし、ほんとは全然伝わってなくても言うしかないし。
それが、とても嫌。
だってどこにも本当のことがないから。
それが分かったのがもう二年位前のことです。
いまでも、私は家に閉じこもってます。
一生何もできないのだとわかっています。
いまでも、お母さんは優しいです。
父さんも、「いつか治療法が見つかるかもしれないし、統合体なしでもできることはあるじゃないか」って言います。
そこには少しの悪意もないんです。
だからそれに、私は弱々しくわらって答えるしかありません。
ケンジさんの言ってるのはこういうことですか。
こういうことですよね。
だとしたら分かります。
私も同じです。
「がんばれ」って言われることが苦しい人間です。
がんばれなんて、言っていい言葉じゃないですよね。
それを分からなければいけなかったんですよね。
ごめんなさい。
もう、いいません。
だから、もっとお話をしましょう。
リンナ
少年から少女への、第八の手紙
ケンジです。
分かりました。
信じていいんですね。
リンナさんは裏切りませんよね。
分かったような顔をして、元気出せよっていう人達とは違いますよね。
「自分ができたんだから当然相手もできるだろう」ってことしか考えない人達とは違いますよね。
ぼくの言ってることがわかりますよね。
ケンジ
少女から少年への、第八の手紙
ケンジさんへ
リンナです。
わかります。
本当です。
私、最初ケンジさんの手紙が届いたとき、嬉しいって思ったんです。
もちろん、私と同じ、紙に書いた文字で会話する人がいるから。
でも違う意味で、いまはもっと嬉しいです。
自分の中でモヤモヤしてた考えがありました。
どうして私は、こんななんだろうって。
頑張ってもどうにもならないのに「がんばれ」って言われるんだろう。
いままでは、そう言われることに意味はあると思ってました。
でも、違ったんですね。
ただ、あの人達は、私のことをわかってくれないだけの人なんですね。
ケンジさんをいじめてるのと同じような、ただそれだけなんですね。
いままでずっと、「自分が悪いんだ」って思ってました。
どこかに、きっとその考えがありました。
統合体に接続できないのは自分がいい子にしてないからだって最初は思いました。
次は、努力が足りないからだって思いました。
最後に、ただの生まれつきで、どうしても直せないんだと分かっても、それでもやっぱり、お父さんお母さんに対して、ごめんなさいって気持ちがありました。
でも思わなくていいんだ。
悪いのは私のことを分かってくれないほかの人の方なんだ。
はっきり、それがわかったんです。
ケンジさんのおかげです。
「私は何も悪くない。」
昨日の夜、私は、その言葉を一度口に出して言ってみたんです。
カーテンを閉めて、部屋のドアに鍵をかけて、ベッドに横になって。ゆれる電灯の紐を見ながら。
すこし、勇気が必要でした。
そうしたら気持ちがすうっと、ほんとにすうっと楽になったんです。
もう一度、「私は何も悪くない」って言いました。
二回目はとても簡単に言えました。
「そうか、私は何も悪くなかったんだ。
悪いのは、分かってくれないみんななんだ。」
そんな気持ちが自然にわいてきました。
嬉しかったです。
心躍るような、という嬉しさとは違います。
重荷がなくなったような、体全体の疲れが急に取れたような安心感です。
そのまま眼を閉じました。
落ち着いた気分のまま、眠ることができました。
その次の日、つまり今日。
私は幸せでした。
やっぱり私の頭は治っていなかったけど、それで私も困るし父さん母さんも迷惑なのかもしれないけど、でもそれでも、私悪くないから。私悪くないから。
そう思ったら、何もつらくない。
あと、もう一つ「つらくない」理由があるんです。
ケンジさんが私と同じ考えで、私の言ってること分かってくれて、ケンジさんの言ってることも私は分かって、それが凄く嬉しかったんです。
ありがとうございますケンジさん。
ほんとうにありがとう。
そうだったんですね。
どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんだろうと思いました。
自分が馬鹿みたいです。
でも、これからはいままでよりずっと楽に、生きていけそうです。
本当のことが分かったから。
この気持ちも、ケンジさん、分かりますよね。
リンナ
少年から少女への、第九の手紙
リンナさんへ
ケンジです。
よかった。
本当によかった。
仲間だったんですね。
リンナさんはやっぱりぼくの仲間だったんですね。
ぼくもリンナさんの仲間です。
他の人達みたいなことは言いません。
絶対に言いません。
本当は怖かったんです。
リンナさんが「あなたの言ってることは間違ってる」って言うんじゃないかって。
自分の考えを言ったことはいままでも何回かあるんです。
でも誰もわかってくれませんでした。
「それは甘えているだけだ」とか、
「君よりつらい目にあって、それを乗り越えた人間だっているんだよ」とか、
「自分は能力のない人間だからって諦めてるんだろう。でもそれは違うんだよ、どんな人間だって頑張ればできるんだよ」って、おんなバカなことを言います。
奇麗事です。
それは頑張れる人間だから言えることなんだって、ぜんぜん判ってない。「頑張れる」のは立派な才能で、それは生まれつき持ってる人と持ってない人がいて、その人は持ってる人でぼくは持ってない人なんだってことが全然わかってない。
そんなこと、言えば言うほどぼくを傷つけるんだって事が。
でもリンナさんはちがう。
「頑張って」って絶対言わない。
そんなのはただの嫌な言葉だってわかってる。
ほんとは、ぼくも怖かったんです。
リンナさんもほかの人達と同じなんじゃないかって。
でも違いました。
リンナさんだけは、いままで会った人達の中でリンナさんだけは、ぼくのことをわかってくれた。
嬉しいです。
最高の気分です。
どう書いていいのかわかりません。
リンナさんはぼくの仲間なんですね。
そう考えていいんですね。
ケンジ
少女から少年への、第九の手紙
ケンジさんへ
リンナです。
ええ。
仲間です。
ケンジさんと私は仲間です。
やっとできた仲間なんだって、そう思います。
リンナ
少年から少女への、第十二の手紙
リンナさんへ
今日も、あの連中はバカなことをやってきた。
でも平気だった。ぜんぜん平気だったんだ。
教科書を破かれた。
ノートを隠された。
休み時間トイレに行って戻ってきたら、椅子の上に牛乳がぶちまけてあった。
トイレに行ったら、越智田たちにじろじろ見られて「すっげえ小せえ。五ミリだ!」とか笑われた。先生が来る前に黒板に「五ミリ」って書かれた。
でも平気だった。
放課後もいろいろあったけど、でも平気だった。
全部どうでもいいことだから。
ウソと同じだから。
世界でたった一人でいい、ぼくのことを本当にわかってくれる、認めてくれる、仲間だって言ってくれる人がいる。
だから平気。
ここにいるぼくは本当のぼくじゃないから。ここにある学校も、クラスも、いじめるみんなも、見ている女子たちも、嫌そうな顔をするだけの先生たちも、ぜんぶ、本当の世界じゃないから。
ウソだから。
リンナさんがくれる手紙の中に、本当の世界があるから。
こんな汚い世界とは違う本当の世界。
だから、もう、こっちの世界で何が起こっても平気になった。
今でも、体は泣く。
男子便に連れ込まれて殴られたり、足を引っ掛けられて転んで、倒れたところに水とクレンザーをぶっ掛けられたら、泣く。
でもそれは体が勝手に反応しただけで。
ずっと昔、まだ小学生だった頃は、泣いたらとりあえずやめてくれたからすぐ泣く癖がついてるだけで。ぼくの心はもう体とは別のところにあるから。もちろんこの体も偽物で、ウソの存在だから。
だからどうでもいいから。
実は幸せも感じるんだ。
可哀想になあって、思うんだ。
殴られたり、転ばされたり、便器とかモップとか銀色のすっぱいバケツとかをなめさせられたりしながら、思うんだ。
君たちはくだらないウソの世界にずっといるんだなあ。
かわいそうに。
さようなら、ぼくはもう、綺麗な本当の世界に行くよ。ここにある体はもうぼくじゃないから好きにしていいよ。もっとも君たちにはそんなこともわからないんだろうけどね。
そう思うんだ。
思うと、不思議となにも感じなくなる。
リンナさんにはわかってもらえるよね。
ケンジ
少女から少年への、第十四の手紙
ケンジさんへ
ケンジさんからの手紙が毎日くるので、返事を書くのも大変です。
でも、いいんです。
私も、部屋にこもって、カーテンを閉めて、ケンジさんから来た手紙をたくさん並べて、読み返して、どうしようかなどんなこと書こうかなって思ってるときが一番幸せです。
母さんは私のことを気味悪く思ってるみたいです。ご飯を一緒に食べるのをいやがるからでしょうか。外に散歩に行こうとしなくなったからでしょうか。そうかも知れません。
でもそれは、お母さんたちが悪いんだって、はっきり判ったからもう何も感じません。
あ、怒ってもいないんですよ。
だって私とは感じてる世界、見てる世界がぜんぜん違うから。判るはずがないから。
どんなに頑張っても私の心が統合体に繋がることは絶対ない。でもあの人達はずっと繋がりっぱなし。だからあの人達に私の考えてることなんてわからない。私の気持ちなんてわからない。
だから私のほうも「ああ、判らなくっていいんだ」って思うことにしたんです。
さてケンジさん。
ケンジさんが今好きなものってなんですか?
私はいま、昔の小説を読むのにはまってるんですよー。
ケンジさんは本とかあまり読まないんでしたっけ?
五十年くらい前のものが中心なので、ケンジさんにとっては未来の本なんですね、よく考えたら。
ちょっと長くなるので小説の紹介はまた今度にします。
リンナ
少年から少女への、第十八の手紙
リンナさんへ
ケンジです。
いきなり便箋がすごいデザインのものに変わっていて驚きました。
楽しい気分になってきそうな便箋ですね。
ぼくも今度かえてみます。
いつまでもレポート用紙ってのはちょっと。
あ、でもレポート用紙もそれはそれで味があるって思いません?
それから小説の話でしたね。
ええと、実はぼくあまり読んだことないんです。
ぜひいろいろ教えてください。
ぼくが読んでるのはおもに漫画なんです。
そういえばリンナさんはずっと前「漫画ってなんですか?」って言ってましたよね。
一冊、漫画の単行本を入れておきます。
これも一緒に飛んでいってくれるといいんですけど……
ではまた。
ケンジ
少女から少年への、第二十三の手紙
漫画の本たくさんありがとうございます。
次から次から来るので、読むのが大変です。
私の方はあんまり送れるものがなくてごめんなさい。
でも。その感想も書きたいけど、でも。
それよりずっと大変なこと、書かなければいけないことがあります。
今日、朝にお母さんが部屋のドアを開けて言ったんです。
「たまには外でお母さんとごはんたべよ、話したいこともあるから」って。
そのとき少しだけ気分が良かったから「いいよ」って言っちゃったんです。
二ヶ月ぶりに外を歩くと、怖かったです。
知らない人がたくさんいるって、こんなに怖いことだったんですね。
お母さんに連れられてレストランに入りました。私は注文できないから、お母さんがメニューを口に出して読んで、私に選ばせてくれました。
ウェイターの人が持ってきてくれたピザとグラタンを食べました。
食べながら、お母さんは私にこう言ったんです。
最近変だよ、どうしたの。
あの机の中のたくさんの手紙はなに。
私は怒りました。
私とケンジさんとのことは誰にも知られたくなかったからです。
だいたい、百年前の男の子と不思議な力で文通してるなんて誰も信じるわけないし。
母さんには関係ない、どうして私の心の中に入ってくるの、って言いました。
すると母さんは「リンナのことが心配だから」って言いました。
また怒りがこみ上げてきて、「ウソばっかり。私のことなんて、私の気持ちなんて絶対わからないくせに。判るふりをするのはそんなに楽しいの!」って叫びました。
すると母さんは、泣きそうな顔になりました。泣きそうだけど泣いてない。必死に我慢している顔です。
「あなたがそれで幸せならいい。でも幸せそうに見えないの。だって笑ってくれなくなった。外に出るのも、私や父さんと話すのも嫌がる。無表情で、今だってご飯を食べてるのに食べ物の味なんてぜんぜんわかってないみたいで……」
「それがなぜ悪いの?」
私はついに言ってしまいました。
ケンジさんからの手紙が来たこと。
ケンジさんが百年前の人間だってこと。
ケンジさんは学校でひどい目にあってる人で、まわりは誰も助けてくれなくて自分でもどうにもできなくて、結局「あきらめる」ことだけが幸せなんだって気付いて、その気持ちが私にもよく判って、だからケンジさんのせいで私は心がすごく軽くなって、つまりケンジさんは私のことをわかってくれたたった一人の人で、ケンジさんも私を必要としてくれていて、つまり私は今とっても幸せで、お母さんとか他の人がどう思おうと関係なくて。
と、そこまで言ってしまったんです。
しまったと思いました。
きっと「頭がおかしくなった」って思われるから。
次の瞬間、「それでもいいや」って思いました。
判ってくれないのは、みんなが私と全然関係ない世界で生きてるのはいつものことだから。
ところが、母さんの反応は違ったんです。
「……そう。そうなんだ」
そういって、微笑んだんです。
「どうして不思議に思わないの? 気味悪がったりしないの? なんで私の言うことを信じるの?」
私がそう訊くと、母さんはとても不思議そうに言いました。
「疑って欲しいの? 気味悪がって欲しいの? どうして?」
「だ、だって」
母さんはナイフを下ろし、私をまっすぐ見つめてちょっとだけ黙り、そして言いました。
「……リンナが幸せになってくれたなら、それが幸せなら、最高じゃない? 喜ぶのは当然よ」
言葉が出ませんでした。
私は思いました。
どうして母さんはこんなことを言うんだ。
もっと嫌がって欲しい。気持ち悪いって言って欲しい。頭がおかしくなったんだって言って欲しい。やっぱり統合体に繋がってない人は精神がダメになるんだって言って欲しい。「私が必ず直してあげる」って、思い上がったことを言って欲しい。
そうすれば、「ああ、やっぱりこの人なにもわかってない」って思えるから。
でも母さんはまだ続けました。
「……いままで母さん、リンナの幸せのこと分かってあげられなくてごめんね……。もう母さん何も言わないから……」
私はただ「こんなはずじゃない」って思ってました。
こんなはずじゃない。絶対おかしい。
もっと悪く対応してくれないと。
もっと私に冷たくしてくれないと。
そうすれば軽蔑できる。自分だけ可哀想な被害者なんだって思える。
と、そこまで思ったとき、気付いたんです。
私は何をしてるの? って?
私はなんてことを考えてたの?
私、ただの嫌な奴じゃない。
体を悪寒が走りました。
もう、分かってしまったんです。
私とケンジさんが今まで居た、「暖かい、綺麗な、二人だけの世界」が、どんな場所であるかってことが。
そのために、どれだけ多くのものが犠牲になっていたかってことを。
とってもグロテスクでした。
母さんの表情に迷いはありませんでした。
きっと、私がいままでどおり部屋に引きこもってケンジさんとだけお話しても、決して怒ったりしないでしょう。私のご飯を作ってくれて、そのために働いてくれて、文句一つ言わずに……
だからこそ、ダメでした。
そういう人なんだって気付いてしまったから、そういう人であることを忘れて悪い奴なんだって思うことはできないから、だから、もう……
ケンジさんと一緒の世界には、もういられません。
そのとき私は母さんに何も言葉を返すことができず、そのまま食べ終わって家に帰りました。自分でも最低だと思います。
考えをまとめながら、この手紙を書きました。
もう決めました。
母さんと、もっと話してみようと思います。
リンナ
少年から少女への、第三十の手紙
裏切ったな。裏切ったな! 裏切ったな!
やっぱり汚い世界に行ってしまうんだな!
君だけはずっと必ず絶対分かってくれると思ってたのに!
絶対裏切ったりしないって思ってたのに!
こんなに信じてたのに!
ぼくが出した手紙はなんだったんだよ!
すべて無駄だったのか!
ぼくのことを馬鹿にしているのか!
きっと次の手紙では、「わかってください」「目を覚ましてください」「現実の世界に戻ってきてください」とか言うんだろう!
思い上がって! 偉そうに!
それができた人間にできない人間の気持ちなんて絶対分からないから!
ついさっきまで君も同じだったなんて忘れて偉そうに!
みんなそうなんだ!
わかってるんだぞ!
ケンジ
少女から少年への、第二十四の手紙
リンナです。
そんなつもりはありません。
私もついこの間まで、ケンジさんと同じことを思ってましたから、馬鹿になんてできるわけがないんです。
ケンジさんと手紙を交換するのはとても楽しかったです。自分は一人ではないと感じることができました。それは今だって変わってません。
ただ思ってしまったんです。
ケンジさんと会う前の自分は本当に一人だったのか? って。
実は一人なんかじゃなかったのに、一人だと思ってた、気付かなかっただけなんじゃないかって。
ケンジさんのことを裏切るつもりもないし、ケンジさんのことが嫌いになったわけでもありません。
それ以外にもなにかあるんじゃないかって、思っただけなんです。
私はお母さんとあのあと話しました。
お母さんは相変わらず、私のことを分かってくれてません。分かってくれてはいないけど、分かろうとしてくれてます。
いまの人間は言葉を使う習慣がないんです。私ひとりのために、声を出す訓練、言葉を聞き取る訓練、してくれたんです。
これを「ウソだ」って、「くだらない」って言わない限り、ケンジさんのいる場所には戻れそうにありません。
だから、今の私には無理です。
ケンジさんに私が言えることは「考えて欲しい」ってことです。
ケンジさんが、今みたいに、みんな敵なんだって思って、自分のことを百パーセント好きになって認めてくれる人だけと一緒にいて、それが幸せなんだって、心から思えたら……別にそれなら、それでいいと思う。
でも、「もしかしたら別の幸せもあるかも知れない」って少しでも思ったら、なにか行動してみるべきだと思います。
それでは。
リンナ
少年から少女への、第三十一の手紙
リンナさんへ
もう二度と手紙なんて書かないつもりでした。
でも、どうしても一言いってやりたくなったので書きます。
あれからずっと怒っていた。
わけが分からないまま別の世界に行ってしまった、変わってしまった君のことが憎かった。
やっぱり味方は誰も居ないんだ、そう思った。
ずっと誰の言うことも信じないで、ただ毎日が過ぎていくのを我慢してよう。
そうすればいつかきっとぼくの寿命は切れて死ねるから。
今日も、学校で越智田とか澤井とかにいろいろやられた。
弁当を食べていたら囲まれて、「これくれよ」「これくれよ」って言われた。
箸が伸びてきていろいろ取られた。
ぼくは黙ってうつむいて、あいつらがいなくなるのを待ってたんだ。
あいつらは全部取ったりはしないから。
ご飯とおかずをちょっとだけ残して、昼休みの時間はあとちょっとしかないから急いで食べる、それを教室の反対側で越智田たちが見ている。
他のクラスメートたちは目をそむけて、自分の弁当を食べたり友達と喋ったりしてる。
トイレに行きたくなった。普段の休み時間はこの人達の相手で時間をとられるからいけないんだ。でも昼休みなら少し時間があるから。だから急いでトイレに行った。
ところが男子便の前では中森が待っていた。
「男子便はいま使ってるんだ、女子便に入りな」
でも女子便に入ったら、そのことをクラス中に言いふらされる。だから「通して」って言った。でも中森は「嫌だ」といった。「虫の癖に逆らうな」って言った。
ここで、言うことを聞かないとどうなるか、ぼくには分かっていた。
放課後、中森が仲間を連れてやってきて、他のクラスの奴まで来て、ぼくを男子便に連れて行って、殴ったり蹴ったりする。上履きで思いっきり顔を蹴られて、鼻が熱くなって鼻血がどばっと出て、涙があふれてきて何も見えなくなって、「消毒だ」とか言ってサンポールをかけたりする。押さえつけられて、ズボンとパンツを下ろされたりする。「五ミリ、五ミリ」って言われる。
だから、おとなしく言うことを聞くしかない。女子便に行くか、それとも行くのを我慢するか。それしかない。
一度、ずっと我慢していたことがある。
硬くて重い塊が股間でどんどん大きくなっていった。授業中、先生に指されて立ったとき、どうしても我慢し切れなくて漏らしてしまった。「あああうううう」という声が自然に出た。
中学生で授業中もらす奴なんていないからみんなびっくりして、あの連中さえからかうのを忘れて、口をぽかんと開けてた。
それからトイレに行くのが怖くてしょうがない。
だから、たとえ後で何を言われても、みんなから変態だって言われても女子便に入ろう。
そう思った。
でも、ぼくは言ってた。
「どいて」
中森が股間を蹴り上げてきた。
体の中心を凄い痛みが走り抜けて、足が言うことをきかなくなってぼくは倒れた。中森がかかとをつぶして履いてる上履きが見える。上履きの前の黄色いゴムのところに落書きがしてあるのが見える。
手を突いて起き上がろうとすると、中森が手を踏んづけてきた。痛い。ぼくがうめくと、中森は何度も何度も、もう片方の足でぼくの頭を蹴っ飛ばした。
「どうした?」
って言いながら越智田が来た。本当は分かってるみたいだった。にやにや笑っていた。
「虫が逆らうんだよ」
「じゃあ遊んでやろう」
二人はそういって、「おら、とっとと入れ、男子便行きたかったんだろ?」と言った。
中でどんな目にあうかは分かっていた。
でも、ぼくは抵抗した。
その場でもがいた。頭をあげようとした。空いてるほうの手を伸ばして中森の足首をつかんだ。思いっきり。
「なんだよ! その手は!」
背中を踏んづけられる。ああワイシャツに靴の後がついちゃう。そんなどうでもいいことをぼくは考えてた。
「うぜえんだよ!」
何度も足は踏み下ろされた。だんだん本気になってきてるらしい。腹の方まで衝撃が響いてくる。
あとはどうなるんだろう、そう考えていた。頭の中が真っ白になることもなく、自然と涙があふれて視界がぐちゃぐちゃになることもなかった。いつもとは違っていた。
多分、このまま男子便の中に引きずっていかれて、三人がかりでぼこぼこにされるんだろう。あるいはバケツで水をかけられるかもしれない。モップを目の前に出されて、舐めたりしゃぶったりするように言われるかもしれない。
それはもう決まりきったことで、今まで毎日やられていたんだから今日もそうで、いまここで逆らうことになんの意味もなくて。
そのはずなのに、ぼくはつかんだ手を離さなかった。
そのうちチャイムが鳴った。
「くそお!」
「覚悟してろよ!!」
吐き捨てて、連中は去っていった。
ぼくは起き上がる。
女の子と目が合った。
びっくりして女の子は小走りで逃げていく。
起き上がってすぐにやったことは、股間を確認することだった。
べったりと布地がはりついて腿がかゆくなる、あの感覚はない。かわりに、内側から肉を押し広げられるような痛みがある。
ああ、まだもらしてない、よかった。
ぼくは男子便に入って用を足した。
何度も何度も後ろを見て、あいつらがやってきて殴ったりしないかどうか確認した。
終わったら教室に行った。
授業はもう始まっていて、先生が「どうして遅れた」と訊いてきた。ぼくが「別に……ちょっと」と言うと先生はため息をついて黙った。
授業中ずっと、「ぼくはどうしてあんなことをしたんだろう」と」思っていた。
あそこで逆らっても何にもならないのに。
あとで何倍にもやり返されるだけなのに。
だから体を丸めておとなしくして、通り過ぎるのを待ってるのが一番良いんだって、分かったのに。
どうして逆らってしまうんだ。
おかしくなった。ぼくはおかしくなった。
放課後がやってきた。
ぼくはすぐに帰ろうとしたけど、やっぱりそれよりあいつらのほうが早かった。
「おい、こいよ」
「遊んでやるから来いよ」
従ったら人気のないところに連れて行かれる。そしてぼこぼこに。
でも逆らったらここでぼこぼこに。みんなの見てる前で。
だから従ったほうがいい。
そのはずなのに、何度も同じ目にあってやっとわかったはずなのに、またぼくは、
「嫌だ」
と言ってしまった。
「おい、なめてんじゃねえぞ」
澤井が太い眉毛の下にある眼で笑っている。笑いながらにらみつけてる。
そこでおかしいと思った。どうしてぼくは相手の顔を見ることが出来てるんだろう。
そんなこと、とっくの昔に出来なくなってるはずなのに。
「その拳固はなんだよ? あ? やろうっての?」
「どうせまた小便漏らして泣くだけなんだから無駄だよ無駄!」
「考えてみたら、こいつもいつか女とセックスすんだよね。許せねえよな」
「ありえねー!」
「俺らが遊んであげなかったらこいつ何も出来ねえって!」
「じゃあおれたち、イイコトしてんだ」
どうしてなんだろう、ぼくがそこで怒ってしまったのは。
机の上の、「ハナゲ」とか「おしょうゆ」とか落書きだらけであちこち破れてる教科書を、そいつらに投げつけたのは。
教科書は越智田に当たった。
越智田は「んああ!?」と仰天した。自分の身に何が起こったのかわからないみたいだった。
「てめえ! なんてことしてくれんだ! いてえぞこら! 怪我したらどう責任とってくれんだ!」
「おーおー。責任取らせなきゃなー」
「黙ってりゃ俺らも手加減してやんのに、ふざけたことを」
「さあ、いますぐ土下座して床をなめれば許してやるぜ」
「なあなあ、はじめてじゃない教室でやるの? やばくね?」
「なんてこたねーよ、ふざけて遊んでただけですって言えばセンコー黙っちまうし」
「こいつがますます恥かくだけ」
「そーそー、まあ虫だしな」
「黙ってガタガタピクピク震えてるのがおにあい」
そこから先のことはよく覚えてる。
覚えてるけど、どうしてそんなことをしたのかは全然わからない。
ぼくはとびかかった。
机の横にいた澤井に。
驚いたのか、抵抗しないで倒れた。
ぼくはその上にのしかかった。
髪の毛をつかんで引きちぎった。
澤井が暴れる。腕を振り回した。下半身が、ぼくの体の下でじたばた動く。
ぼくは思い切り頭突きをかけた。
いままで一度も味わったことがない不思議な感覚。おでこが相手の顔に当たる。痛い。痺れる。
何度もやった。一度目は痛かったけど、でも二度目三度目は何も感じなかった。
澤井はまだ腕を振り回しているけど、近すぎてぼくに当てることは出来ないみたいだ。
「う、ええ?」
澤井がうめいた。鼻血が出てる。
澤井の下半身がますます激しく動いた。股間に、内側から炸裂するみたいな痛みがあった。蹴られた、そう思った。気が遠くなる。冷たいような、おなかがすいたような感覚が体全体をつつんで。
でも、ここでやめちゃいけないってわかってた。
だから両腕で相手の首をつかんで。
ただ、何十回も頭突きをした。
やがて、誰かの泣く声が聞こえてきた。
ぼくはまだ泣いてないのに誰だろう。それともやっぱり泣いてるんだろうか。
泣いてるのは、澤井だった。
そう気付いたから、頭突きをやめた。
澤井の顔の下半分が、血まみれだった。
それに鼻水と涙が混ざって、ぐちゃぐちゃだった。
先生が来た。
職員室に連れて行かれた。
ぼくは叱られた。
いじめは見て見ぬ振りをする。でもやり返して喧嘩になったら怒る。先生ってそういうものだから。
「どうしてあんなことをした。鼻が折れてるんだぞ。澤井君の親から君の親に連絡が行くと思うよ」
「や……」
「なに?」
やりかえしただけです、といおうとした。でもぼくは言葉を変えた。
言葉はいくらでも出てきた。
「うらやましかったんです。
何かできた人がうらやましかったんです。
うらやましくてうらやましくて、どうしても自分はそうなれないから、できる人は自分とは別なんだって、敵と同じだって思ってごまかしてて、でもやっぱりほんとはそうじゃなくて、自分と同じ人でもできるようになれて、だからどうしてもがまんできなくて。がまんしてるより、あきらめるより、あきらめないほうが幸せだから」
先生は「はあ?」といいそうな顔をしていた。確かに意味不明だと思う。
ぼくだって、どうしてそんなことを言ったのか分からない。
どうして、そう言ってしまったんだろう。
リンナさんのせいだ。リンナさんはぼくの心を壊してしまった。これからどうやって生きて行けばいいのかわからない。
何もかも君のせいだ。
少女から少年への、第二十五の手紙
ケンジさんへ
リンナです。
びっくりしてます。ケンジさんは、本当は逃げたくなんてなかったんですね。諦めてもいなかったんですね。
私と同じ、ずっと諦めきれない気持ちを抱えてたんですね。
よく考えたら、本当に諦めてる人なら、頑張れって言われて怒るはずないですよね。「ぼくには関係ない」って言えるはずですよね。
だから、私がやったんじゃなくて。
みんなケンジさんのなかにあったことだと思います。
リンナ
少女から少年への、第三十一の手紙
手紙が消えませんね。
机の上においても消えません。
同じ内容のものを、今度こそ届いてくれと思いながら何通か書いてます。
きっと、私たちを結んでいる不思議な力が弱くなってるんだと思います。
もう、必要ないから、かな。
リンナ
少年から少女への、第三十二の手紙
手紙、まとめて届きました。
いやだ。やめてくれ。
リンナさんのことは嫌いなはずだった。
憎んでるはずだった。
でも。違う。
ほんとはすごくうらやましかったんだ。
すごいなって、ぼくと一緒だったのに凄いなって思ってたんだ。
だから、もっと話したい。
それに、リンナさんは大丈夫なのか。
ぼくはいい。
絶対に勝てないって思ってた越智田たちも、ただの人間だった。あのあと父さんに叱られて母さんが泣き出して大変だったけど、でも、不思議だけど、どうにかなりそうな気がする。
でもリンナさんの方はどうなるんだ。
その世界にひとりきりになって。
だって脳のことが治る見込みは絶対にないんだろう。ぼくとはぜんぜん状況が違うじゃないか。
まだ繋がってなきゃダメだ!
ケンジ
少女から少年への、最後の手紙
リンナです。
大丈夫です。
やっぱり今回も、なかなか手紙が消えませんでした。どうしても届けたいって強く念じれば届くみたいです。
それも今回が最後かもしれません。私たちを結んでいる不思議な力が「もういい」って判断したのか、それとも私たち自身が、あまり互いを必要としなくなったのか……二人だけの世界は、もうなくなっちゃったから。
私のことなら、平気です。
確かに私の脳は治らないかもしれないけど、でも、それでもできることはあるような気がします。まずは簡単な家事の手伝いからはじめます。そのあと、統合体なしでもできる仕事とか探します。
だって、ほら、ケンジさんだって、絶対できないはずのことができたでしょ?
最後まで勝手な言い分でごめんなさい。
もうひとつ。
ありがとう。
うれしかったです。
リンナ
少年から少女への、最後の手紙
リンナさんへ
ケンジです。
この手紙を書き終えても、消えたりしないかもしれない。
届かないかもしれない。
でも、書く。
ぼくはあれから、あの連中には狙われなくなった。
ずっとこうかも知れないし、力をたくわえて仕返しにくるかも知れない。
いままでは考えても見なかったけど、あいつら以外にもいろいろ敵はいる。学校の先生も。授業の成績も。卒業してからも、ずっとずっと、敵はたくさんあって、逃げ出したくなったりあきらめたくなったりすると思う。
でも、絶対諦めないから。
それが幸せだなんて思わないから。
本当の、本当のバカになりたくないから。
なにが言いたいのかって言うと。
さよなら。
ありがとう。
ケンジ