天才! 松戸才子まーち

 第5.1話「フラレナオン大作戦」

 一

 授業終わりのチャイムが鳴ったとたん、ぼくは教科書とノートを黒カバンに放り込んで立ち上がった。ほんとはこの後掃除しなくちゃいけないんだけど、そんなことにつきあってる場合じゃない。
「おい……」
 クラスメートが呼び止めるのを無視して、ぼくは教室後ろの扉か廊下に飛び……
 飛び出そうとして、立ち止まった。
 例によって、異常にサイズのでかい白衣を羽織った松戸才子がいた。腕組みして、『フフフ』という感じで笑っている。
「逃がさないですよ?」
 大きめの眼鏡がキラッと光った。
 この眼鏡が光るたびにロシアンルーレットでもさせられているような気分だ。飛び出してくるのは銃弾よりもっとやばい何か。
「は、早い!」
「あたりまえですよお。さあ今日のプランですが……」
「プランとかはどうでもいい! もう君にはつきあってられない!」
 才子の横を走り抜けようとする。
「はう!」
 才子は手を伸ばしてぼくをつかまえようとしたけど、運動神経が全然ないから、ぼくがちょっとフェイントを使っただけでその手は空を切った。
 よし!
 これで今日は無事に帰れるぞ!
 今度才子のいうこときいたら、マジで命がないかもしれないからな……
 廊下を走り出した。
 ひゅ! という音が後ろでした。
 首筋に鋭い痛み。
「げ……」
 ぼくの体から力が抜けて、廊下の冷たいタイルの上に倒れこむ。
 やっとの思いで壁まで這っていき、よりかかりながら立ち上がる。
「だから無駄だっていってるですよ」
 才子が極細注射器を手に、近寄ってきた。
「なんで注射器投げだけは上手いんだ……」
「マッドサイエンティストのたしなみです。はい、言うこときいたら解毒剤をあげるですよ?」
「わかった……判ったから」
「はい、これです」
 才子がぼくの腕をとり、注射器を無造作に突き刺す。全身の脱力感がたちまちなくなった。
「ところでどうしてそんなに嫌がるですか」
「君が無茶するからだよ! こないだなんて……」
「秦の始皇帝に同人誌を献上したまではよかったんですけどねえ。戻ってくるの大変でしたねえ」
「でしたねえ、じゃないよ!」
「大丈夫ですって。今度はもっと堅実です。世の中で一般に言われている恋愛の原則を考慮しました」
「いや、その時点ですごく悪い予感がする」
 ぼくは後ずさりを開始した。
「文献によると、『ギョワー、フラレナオンをゲットなのじゃよー』ということです」
「その文献というのがなんなのかすごく気になるけど……」
「とにかくです。フラレナオンというのは失恋した女性のことです。失恋直後の女性は傷付いてるし心に隙があるから、そこを優しくしてあげれば惚れてくれるらしいですよ?」「逆効果のような気がするけど」
「そうやって行動する前に否定するからいけないですよ。まずは何でも試しにやってみるです」
「積極的だね」
「ほら、失敗しても泣くのは才子じゃないですし!」
「……正直だね」
 もう、ため息をつく気もしない。
「で、具体的にはどうするの? 失恋したかどうかなんてどうやって判断するの?」
 才子は得意そうに笑って、白衣の『異次元ポケット』に手を突っ込んだ。ポケット周囲の空間がグニャリと歪んで、口よりずっと大きい何かが引っ張り出されてくる。
「これです!」
 才子がポケットから出したのは……
 鳥? 茶色くて翼がなく、くちばしが長い。キーウィ」にそっくりだ。
「才子の研究によると、フラレナオンは『フラレナオノイド』という特殊な化学物質を出すですよ。このフラレナオノイドを感知する嗅覚を持ってるのが、この鳥『フラレ鳥』なのですよ!」
「うわあ、安直な名前」
「名前なんか問題じゃないですよ。さあ、行くですよフラレ鳥!」
 才子の腕の中で大人しくしていた「フラレ鳥」は、その一言でスイッチが入ったかのように首を伸ばし、腕の中から飛び出した。しばらく周囲を見回していたが、すぐに教室に駆け込んだ。
「追うです!」
 ぼくと才子が教室に入ると、そこには一応まじめに掃除をしている男子と、適当にさぼって窓際でだべっている女子がいた。女子グループのひとつに向かってフラレ鳥は一直線に走っていく。
 そして、グループの中心で陽気にしゃべっている背の高い女子の前で停止。
「なに、この鳥?」
 しゃがみ込んだ彼女に向かって、フラレ鳥はいかにも鳥らしいキンキン声で叫ぶ。
「フラレタ! フラレタ! フラレタ!」
 教室内の空気が凍りついた。
 背の高い彼女も、凍りつく。
 他の女子たちがボソボソッと言った。
「そういえば恵里子って、先輩に……」
「フラレたって本当だったんだ……」
「ち、違うのよ! 嘘よ!」
 恵里子さんは立ち上がって必死にそう言った。でも彼女の声をかき消すほど強く、
「フラレタ! フラレタ! フラレタ!」
 才子がぼくの背中を叩いて促した。
「さあ、行くですよ!」
「い、行くって……」
「チャンスはいまですよ、失恋に傷付いた彼女の心を多久沢さんが癒してグーでゲットですよ!」
「いや、今のは失恋とかじゃなくて単に君が傷つけてるんじゃないか?」
「理屈こねてないで突撃ですよ!『かわりにぼくじゃだめですか』って言うですよ!」
「あ、ああ」
 ぼくはおずおずと返事をすると、彼女たちに歩み寄った。
「や、やあ」
 片手を挙げて挨拶。視線が痛い。
「か、か、かわりにぼくじゃだめかな?」
 一瞬の沈黙があった。
 クラスの女子全員が奇跡のように声をそろえて叫んだ。
「サイテー!」

 二

 ここは三年の教室。
「え。えーと、ふられたんですよね、かわりにぼくなんかどうですか、あはは」
「いきなり何言ってんのよー!」
 彼女は叫んだ。足下で騒いでいるフラレ鳥を蹴り飛ばす。フラレ鳥はゴロゴロ転がって教室の外に消えた。
「はうー! 動物園から拉致ってくるの大変だったのにー!」
 本当にキーウィだったらしい。
「出てけー!」
「うわあ! 才子逃げよう」
 彼女はマジで刺しかねない形相なので、ぼくは才子を連れて逃げた。
 走って走って、ずっと離れた廊下で一息ついた。
「ハアハア」
「ハア……才子、大丈夫?」
 真性運動オンチの才子には相当辛かったはずだ。
「さ、才子より、フラレ鳥が……大変」
 才子に抱かれたフラレ鳥は、首を垂れたままで身動き一つしない。
「ぐったりしちゃってるね。ねえ才子、その鳥だけどさ」
「多久沢さん、判っているです。動物を盗むのがいけないことだってくらい。でも、どうしても改造の素体はキーウィである必要があったです。嗅覚の優れた鳥というのは珍しいんですよ」
「いや、そういう話をしてるんじゃなくてね……」
「はう?」
「もうやめよう。フラレナオン相手ならもてる、という考えそれ自体が間違っていたんだ」
「……そうかも知れないですね……」
 と、その時。
 死んだようだったフラレ鳥が、その体を痙攣させる。首を起こした。黒いボタンのような眼がギラリと光った。力強く跳躍すると廊下に降り立ち、そしてくちばしを大きく開いて絶叫。
「フラレタアアアアアアッ!!! フラレタアアアアアッ!」
 叫びつつ、走り出す。
「……ど、どうしたんだ才子!?」
「ものすごいフラレナオノイド反応です! いままでとは全く比較にならない超ド級のフラレナオンがいたんですよ!」
「ええっ」
「追うですよ!」
 
 三

 フラレ鳥がたどりついたのは図書室。
 図書室の前でフラレ鳥はその体をガタガタとゆすって羽毛をまき散らしながら、激しく叫んでいた。
「フラレタアアアアアアア! フラレタアアアア! フラ……」
 またフラレ鳥の体が痙攣する。泡を吹いて倒れた。全く動かない。
「才子!」
「……興奮し過ぎたみたいです」
「ここまでとは、一体どんな壮絶な振られっぷりなんだ!?」
 その時図書室の扉が開いて、一人の女性が姿を現した。
 長い黒髪。白いブラウスとタイトスカート姿で、丸顔の美人だけど、「きれいだ」というより「ほんわかしてる」「おっとりしてる」という感じ。
 司書の先生だ。確か水戸部……水戸部温子先生って名前だったはず。
 先生は涙ぐんでいた。
 ぼくたちの姿、そして倒れている鳥を見ると、なんだか自嘲するような表情を作った。
「フラレタ、フラレタ、って叫んでたの、君たちかしら?」
「違うです。この鳥です」
「そうなんだ……こんな鳥にまでわかっちゃうんだ……」
 先生は深いため息をついた。よろめいた。その場で泣き出すんじゃないかってくらいだった。
「せ、先生」
「いいのよ、気使わなくて。ほんとのことだもの。私、この歳まで生きて男の人とまともにつきあったことがないの。たった今、四十三回目の失恋をしたところなの。どうしてわたしってこうなのかなって、ほんと、嫌になるわ……」
「え……でも」
 ぼくは不思議に思った。水戸部先生は美人だし、実際男子の間でも人気がある。先生と会話したくて図書室の常連になってるとか、そういう人もいるぞ。交際を申し込んだって話も聞いたぞ。
「先生、もててるのでは?」
 ぼくが言ったとたん、先生の顔が悲しみに歪んだ。
「確かにね、機会はあったの。中学の頃からいままで、機会だけはたくさん。友達から始まったこともあったし、こっちから好きだって言ってOKされたことも、向こうから言ってきたことも。でも、そこまでなの。一か月もしないうちに駄目になっちゃうのよ」
「はう。なんでですか?」
 才子が遠慮ゼロで訊いた。
 おい、失礼だぞ。ぼくは目でそう訴えたけど才子は気付かず、水戸部先生も嫌がらなかった。むしろ誰かに話したい気分なのかなと思ったけど、よくわからない。
「それがわたしにもわからないの。デートの途中で突然相手がいなくなってしまったり、『もう二度と君の前には現れない!』とか真っ青な顔でいわれたり、家族ごと遠くに引っ越してしまった人までいるわ」
「それは……」
 ぼくと才子は絶句した。
 こりゃ確かに、フラレ鳥が大騒ぎするわけだ。目に見えない謎の力が、先生をモテさせないようにしてるとしか思えない。
 まてよ。
「先生、なんで先生がそうなっちゃうのか知りたくありませんか? 普通に男の人とつきあったりしたいんですよね?」
「ええ。それができればどんなにいいか」
「才子、科学的に興味ないか?」
 才子は指一本立てて小首を傾げる。
「確かに知りたいです。多久沢さんと違ってダメ人間カウンターにも反応しないし……本来モテ系人間のはずですよ? つまり科学的に説明できない現象です。好奇心をそそるです」
「じゃあ先生、この松戸さんが、なんで先生がそうなのか解明します。きっと解決策もみつけてくれるでしょう」
「え? 本当なの?」
 才子はここぞとばかりに胸を張った。
「もちろんです。才子はマッドサイエンティストですよ? どんな科学的難問も才子にまかせれば一発です」
「一発で大変なことになるね」
 才子が冷たい眼でぼくをにらんで、
「何か言ったですか?」
「いや何も」
 先生は手を合わせた。
「本当ならぜひ知りたいわ。おねがい」
 ぼくは精いっぱい落ち着いた態度を作る。
「わかりました。才子、がんばって。でもそのかわり、なんていうかその、ぼくとつきあって下さい、先生!」
「はう!?」
 才子が何か言い出そうとしたが、その前に言い訳を並べた。
「いや、その。ほら実際にだれかとつきあってみないとさ、その状況の再現もできないじゃないか! ほら解決のためにも必要なんだよ、か、科学的に!」
「ふうーん、科学的ですか」
 才子の視線が痛い。
「人の弱みに付け込んでるです。才子、多久沢さんがそんな人だったとは思わなかったです」
「なんとでも言ってくれ。ぼくは手段を選んでいられないんだろう?」
「……なんか納得いかないですよ」
 口を尖らせる才子。でも先生は、急に明るい表情になってうなずいた。
「松戸さんに任せるわ。そっちの、ええと」
「多久沢です」
「あら、その名前知ってるわ。みんなが、キモいオタクだとか何とか……あの多久沢くんかしら」
「ええ、その多久沢です、間違いなく」
「とにかく、多久沢くんともつきあうわ。勘違いしないで、あくまで実験みたいなものだから。彼氏ごっこだから」
「わかってます、わかってます」
 ぼくはできるだけまじめな表情を作ってうなづいたつもりだった。でも才子は冷たい視線を浴びせてくる。
「多久沢さん、鼻の下が……キモッ!」
「きみは協力してくれるんじゃなかったのか!?」
 
 四

 学校からの帰り道。
 レンガっぽいタイルの敷かれた商店街をぼくは行く。カバンをぶらぶらさせて。
 嬉しくて嬉しくて、鼻歌が出た。
「ふんふんふんー、次の日曜は先生とデートー。はじめてはじめてのデートー!」
「……キモい」
「ふんふんー!」
「キモい」
 ぼくは振り向いて、さっきから後ろでブツブツ言っている才子に叫んだ。
「なんでそんなに嫌がるんだよ!」
「生理的なものです。カッコ悪いです今の多久沢さんは」
「判ってるよ。べつに先生はぼくのことなんとも思ってないって。でもやっぱり嬉しいじゃないか、あんな美人と遊びにいける」
「そういうもんですか……まあ、それより原因を究明するです」
「きみの方が前からいるから、先生がどんな人か詳しいんじゃないの?」
「まあ一応は。なんかすごく純粋というか無邪気な人らしいですよ。男子が本読んでると、その本がなんなのかぜんぜんわかんなくて、『まあすごいのね』『むつかしい本読んでるのね』って……あと、すごいことがあったです。昇降口でカップルがキスしてたら、先生がそこにばったり通りかかったです。すると……」
「すると?」
「『まだ高校生なんだからキスなんかしちゃだめよ! キスしたら赤ちゃんできちゃうじゃない!』って」
「はあ!?」
 さすがに耳を疑った。
「すこし世間知らずな人です」
「少しじゃないだろ……それはカマトトって奴では?」
「アステカの戦士カマ・トトが闘技場で128人の敵を殺して心臓をえぐり出したという、あれですか!」
「なんだよそりゃあ!?」
「……え? 才子、父さんからそう聞いたですよ?」
「大ウソつきか、君の親父さんは!」
 才子は立ち止まった。表情から笑いが消えた。携帯をポケットから取り出す。プンスカ怒りながら猛烈にキーを叩く。
「……もしもし父さんですか、才子です! なんか声が遠いですねどこにいるですか? 銀河中心のブラックホール? 銀河超獣の封印が解ける? なんですかそれ? そんなことより許さんですよカマトトの……え? アステカじゃなくてオルメカ? なるほど! ありがとうです父さん!」
 笑顔で電話を切った。切ったとたんに首をかしげる。
「……あれ?」
 なんと言えばいいのやら。
 と、その時。
 背後から声がした。
「多久沢さんですかな?」
 上品で、落ち着いた、渋い声。でも枯れた感じは全くしない声。
 ぼくは振り向いた。
 商店街の真ん中に、一人の男がいた。
 四十代後半くらいだろうか。おじさん……いや、紳士だ。喫茶店でウエイトレスさんに『お嬢さん、お水を一杯頂けませんかな』とか言ってそうだ。なんとタキシードに身を固めている。高い鼻、広い額と銀色の髪。どうみても白人だ。「恐い顔」なんだけど、穏やかな笑顔のせいでそういう印象はない。
「……どちらさまですか」
 ぼくは緊張して答えた。なぜか身の危険を感じた。
 すると紳士はまた同じ質問を繰り返す。親子ほど歳の離れたぼく相手に、やたら丁寧な口調で。
「多久沢さんですかな」
「そうですが。あなたは?」
 紳士は微笑みを絶やさないまま答えた。
「申し遅れました。わたくし、水戸部家の執事を務めております。豪炎寺セバスチャンと申します」
 才子がのんきに言う。
「はうー、変な名前です」
 君が言うな。
「水戸部家……ああ、水戸部先生のことか。あの人、執事なんかがいるような家の人なんだ。浮き世離れしてるなーと思ってたけど」
「……はい。水戸部家は旧家です。わたくしは先代より水戸部家にお仕えしております」
「……それで、なんの御用で」
 ぼくはそれだけ言った。なぜだか額に汗が噴き出した。
 豪炎寺セバスチャンと名乗った執事は、少しだけ間を置いて、こう言った。
「……温子お嬢様が、新しくおつきあいすることになった男性とは、あなたですね?」
 やっぱり。
「はい、そういうことになってます……」
 ぼくがそう答えるのと、セバスチャンが突っ込んでくるのは全く同時だった。
 彼は全身から正体不明の光を放っていた。そして手刀を作って、本物の剣のように振りかざした。ぼくの首あたりを薙ぐ、光の剣。
 とてもよけられる速度じゃなかった。
 死を覚悟した。
 しかし、その剣が止まった。セバスチャンの体ごと。彼の首筋に、一本の注射器が刺さっていた。
「……面白いですな」
 セバスチャンは注射器を引き抜き、冷たい声で言った。その表情からも優しさ、明るさが全て消えていた。
「き、効かない……うそです!」
 才子が驚きと呆れの混ざった声を上げる。
「ブラキオサウルスを一撃で半身不随にできるくらい強力なのに……」
 そんなものを町中で投げるな。
「豪炎寺さん、どういうつもりです?」
 ぼくはそう言いながら、手を後ろに突き出した。才子が無言で瓶を手渡してくれる。
「簡単なことです」
 セバスチャンは言った。
「お嬢様をお守りすることがわたくしのつとめです。お嬢様を誘惑する不埒な男は、すべて排除しなければならないのです」
「じゃあ、これまでの彼氏は全部……?」
「ええ。多久沢さんもですよ。二度とお嬢様に近寄らないと約束してください」
「いやだと言ったら?」
「……地獄を見ていただきます」
 セバスチャンが即座にこたえた。同時にぼくは瓶を開けて中身を口に放り込む。呑んだのはもちろん、水虫の力で変身するあの薬だ。全身を痛みが駆け巡る。体が菌類によって作り替えられる。セバスチャンが突っ込んできた。眼にもとまらなかったその速度が急に遅くなる。ぼくの反応速度が上がったんだ。ぼくは手をかざした。セバスチャンの手刀を受け止める。
 火花が散った。
「そんなのムチャクチャだよ!」
 ぼくは叫ぶ。セバスチャンは険しい表情を崩さない。灰色の眼でぼくをにらみつけていた。
「……その姿は一体?」
 ぼくはいま、体全体を黒い装甲に包まれている。この装甲がなんであるかについてはあんまり思い出したくない。
「多久沢さんはですね、カビの力で変身した、、世界一キモいヒーローですよ。人呼んで、えーと名前は、カビだから、カビルマン?」
「まずいよ才子、それ訴えられるよ。ダイナミック系は本気でやばいんだよ。ぼくは『万猫』の『ゲターロボ』がなぜ許されたのかいまでも不思議に思ってるんだ」
「はう。じゃあ名前変えるです」
「名前などどうでもよろしい。……あくまで抵抗するのですな?」
「先生は嫌がってる! 彼氏ができないって泣いてる!」
「お嬢様はわかっておられないのです!」
 セバスチャンの眼が燐光を発した。黒いズボンに包まれた脚が跳ね上がる。とっさに跳ねとんでよける。
「才子、他の人を避難させて!」
「いないです! 変な世界に……」
 え? と思って周囲を見回す。
 本当だった。街が消えていた。店が、通行人が消えていた。何の障害物もない。ただ、どこまでも鏡のような大地が広がっていた。はるか彼方には虹色の霧がかかっている。ほんの何秒か前まで商店街のど真ん中にいたのに、いつの間にやら謎の異世界に!?
「……な、な、なんだこれ……」
 セバスチャンは冷たい声で言った。
「執事聖拳奥義・戦闘空間発生です。この空間内で何をしようと外界に影響を与えることはありません。無関係な人間を巻き込むのは紳士的とは言えませんからな」
「なんだよ執事聖拳って!?」
「わたくしがお嬢様をお守りするために編み出した究極の戦闘術です。七つの大陸のあらゆる武術、格闘技、仙術、魔術、超能力を融合させたものです」
「大陸は七つもないですよ?」
 才子がのんきにツッコミを入れた。
「ムーとアトランティスを含めて七つです」
 真顔で言い切るセバスチャン。両腕をあげて奇妙な構えをとる。
「……さて、死んでいただきましょう」
「だめだって! 先生は嫌がってるんだって! このまま永遠に、先生をひとりぼっちにしておくつもりなの!?」
「きれいごとをおっしゃらないでください。ただ、あなた一人の下心でしょう! 執事聖拳奥義・執事千手拳!」
 セバスチャンの両腕が分裂した。形がはっきりしないほど早く、何十かの触手になって襲いかかってくる。
 ぼくは必死になって攻撃をよけつづけた。でも攻撃のチャンスがつかめない。
「やりますな! 執事聖拳奥義・眼球大白熱!」
 眼からビームが出た。真っ白い光が視界を塗り潰した。もはや拳法でもなんでもない。
 両腕でブロックするのがやっとだった。火ばしを押しつけられた痛みが腕を這う。
「なんとこれに耐えるとは。執事聖拳奥義……!」 
 拳を二つそろえて突き出し、また何か技を出そうとするセバスチャンに向かってぼくは叫んだ。
「なんで『奥義』がそんなにたくさんあるんだあ!」
「我が執事聖拳には二百二十五の奥義があります」
 ありがたみないなあ。
「執事がなんでそんなに強いですか! おかしいと思うです!」
「何をおっしゃいます。執事は英語で『バトラー』ですから、戦うのは当然ではありませんか」
「スペリングが全然違うです!」
「……スペリング?」
 セバスチャンは太い眉をひそめた。そして力強く断言した。
「そのような不粋なもの、意に介しません」
「はうー! それ父さんの決め台詞です!」
「同類だよこの人!」
「しかし……執事聖拳にここまで抗えた男は久しぶりです。骨がありますな」
 セバスチャンが表情をゆるめる。
 今だ、と思ったぼくは言った。
「ねえ、豪炎寺さん。豪炎寺さんだって、先生をずっとひとりぼっちにしておくつもりはないんだよね……ふさわしい男の人があらわれたら結婚させるんだよね?」
「む、それは確かに」
「じゃあぼくは?」
「あなたはまだ若過ぎます」
「でも、いままでの男たちと比べたら骨があるんでしょ?」
「それはあくまで才子の薬の……」
「黙ってて! ねえ豪炎寺さん、そうなんでしょ?」
「ううむ」
 セバスチャンはとがった顎に手をあてて考えこんだ。
「……いいでしょう、少し様子を見ます。自分がお嬢様にふさわしい男性であることを証明してみせてください。もし、ふさわしくなかった場合は……」
 片手をかざした。真っ白い光が手からほとばしった。床が木っ端みじんになった。
「……このセバスチャンが執事聖拳をもって排除、抹殺いたします」
「やった!」
「何が嬉しいですか?」
「認めてもらったから!」
「気に触ったら抹殺されるですよ!?」
「大丈夫、危険なのはもう慣れた」
 君といっしょにいればだいたい平気になるよ。

 五

 ぼくは授業を受けていた。
 現代文の時間。
 先生はちょっと太った中年男で、女子にキャーキャー言われることは絶対ないけど授業がよく脱線して面白い雑談をするので人気がある、というタイプだった。
 今日も元気良く脱線していた。
「あはは、みんな文学者とかっていうと堅苦しく考えるかもしれないけど、実は結構人間的な弱いところを持ってる奴が多いんだぞ。おれたちと全然変わらない弱さを持ってるから面白いんだ。たとえばロシアのドストエフスキーって知ってるか? あの人はギャンブル狂でな、どうしてもカジノ通いがやめられなかったんだと。いやあ彼なんてのはまだ甘い方でな、すごいスケベな文学者がいてな」
 なにがどうスケベなのか! 男子が注目する。女子たちはどうかと見回してみた。三分の二くらいは恥かしがってる。残りの三分の一は、どうも興味しんしんみたい。
 その時、教卓の上に光の塊が出現した。
 金色の光がつくるシルエット。それはシャチホコみたいな形をしていた。光が薄れた。人だった。黒いタキシード姿で銀髪の……セバスチャンだ。頭を一番下にしてエビ反り、という異様なポーズをとっている。
 セバスチャンは口を開いた。そのかっこでよく喋れるな。
「執事聖拳奥義・セバセバテレポーテーション」
「う、うわっ! なんだ!」
 慌てる先生に、サバスチャンはにこりともせずに言った。
「よくぞ聴いてくださいました。この『水魚のポーズ』をとることにより全身のチャクラが活性化し……」
「ポーズの説明を訊いてるんじゃないっ!」
 先生は気丈にも突っ込んだ。
 セバスチャンはアゴを教卓につけたまま、首の力だけでジャンプした。天井近くまで飛んでいき、そこで体を丸めて回転。足から床に降り立った。
「執事聖拳奥義・紳士っぽい着地」
「技なのか!? 今のも技なのか!?」
 ぼくのツッコミを無視してセバスチャンは先生に向き直った。
「はじめてお目にかかります。教諭。わたくし豪炎寺セバスチャンと申します」
「な、なんの御用ですか!」
「生徒たちを不浄な知識で汚染するところでしたな?」
 先生は怯みながらも言い返した。
「下世話な雑談を入れることは、生徒の興味をひくために重要なんだ。テクニックだ」
「言い訳ですな。教諭ご自身が下品な人間だというだけの話でしょう。そんな人間に多久沢さんの教育を任せることはできません。お嬢様への悪影響が大き過ぎます。
 ……執事聖拳奥義・煩悩腎虚殺!」
 そう叫んで、セバスチャンは二本の指を先生の額へと突き立てた。
「がはあっ!」
 先生は倒れた。
「殺したのか!」
 ぼくが叫ぶ。セバスチャンは無表情のまま答えた。
「まさか。全ての欲望を消去したのです」
 起き上がった先生は、修行僧を思わせる澄んだ瞳をしていた。 
「さあ、授業に戻りましょう」

 六

 ぼくは学校から家までの道を全力疾走していた。たちまち商店街を抜け住宅地に入る。
「な、な、なんでそんなに急ぐですかっ。まってくださ……」
 背後から才子の声。
「急がないと大変なことになるんだよっ!」
 ぼくは家にたどりついた。ドアの鍵を開けて飛び込む。母さんはいないようだ。ぼくの部屋に向かった。
 着替えるより先に、押し入れから段ボール箱を出した。中身は同人誌。本箱から本を抜き出した。これは……その、違うカバーをかぶせてごまかしてあるけど、ほんとは18歳未満の人は買っちゃいけない漫画。本箱の裏に隠してあった本を引っ張り出す。これは特殊な同人誌。
 全速力で、一つの箱にまとめる。
「おじさんに、おじさんにひきとってもらわないと……」
 才子が悲鳴をあげた。
「はうー! こんな本買ってるですか! 才子もなんていうかその、男の子ならしょうがないかなって思うんですけどその、まあ自然なことですから、でも、そのなんていうかその、ごめんなさい……」
「読まないでー!」
「うわ、こんなことまで! いいですか多久沢さん。そこに座るです。現実の女の子はこんなことしても喜ばないですよ!」
「いやそんなこと知ってるよ! それより早く処分しないと大変な……遅かったああ!」
 床からセバスチャンが生えてきた。
「なりませんぞ、そのような有害図書を読んでは!」
「ど、どっから出て来たんです!」
「執事聖拳奥義・イクストルエフェクト。肉体を超高速で振動させれば、分子と分子の隙間をすり抜けることができるのです」 
 レトロSFだ。
 セバスチャンは明らかに敵意のこもった眼で同人誌の山を見つめた。
「こういった本を愛好する輩が、果たしてお嬢様の伴侶にふさわしいと言えますかな」
「いや、あの、違うんです豪炎寺さん。この本は全部処分しますから」
「果たして、それだけですかな! 執事聖拳奥義・超越念力!」
 セバスチャンが両手で印を結んで叫ぶ。
 押し入れから、本棚から、アニメ雑誌や漫画の単行本が飛び出す。眼に見えない手が猛烈な勢いでページをめくる。押し入れが開いてプラモデルが飛び出して来た。
「このような趣味が、水戸部家にふさわしいとは思えませんな」
「で、でも! アニメは奥の深い文化で!」
「執事聖拳奥義・有害滅消破!」
 光が部屋に満ちた。
 同人誌が! 漫画が! 漢のモビルスーツ・ズゴックが! 悲運の名機ケンプファーが! 木っ端みじんに!
「ぎゃあああ!」
 ぼくが悲鳴をあげる。あれを買うのに、買うのにどんな……
「さて、次はあのコンピュータですな」
 セバスチャンが部屋の隅におかれたパソコンを指差す。そして眼を閉じ、叫ぶ。
「執事聖拳奥義・電脳念力操作!」
 パソコンが一瞬にして立ち上がった。もの凄い勢いでハードディスクが唸る。
 セバスチャンは閉じていた眼を見開いた。
「三千八百四の有害な画像ファイルが見つかりました」
 超能力で直接ハードディスクを読んだらしい。
「いや、それはその」
「言い訳はききたくありませんな。執事聖拳奥義・有害滅消破!」
 パソコンが爆発した。
「ひええええ!」
 ぼくは気絶した。

 七

 眼を開けた。
 才子が心配げにのぞきんでいた。
「……眼をさました!」
 体を動かそうとして、額に濡れた手ぬぐいが置いてあることに気づいた。
「看病してくれたんだ。ありがとう」
「せっかくいろいろ試そうとおもったのに……もう起きちゃったですか」
 毒々しく光る注射器を振って残念がる。 
「前言撤回……そうか、ぼく気絶したのか……かっこ悪いな……」
「もうやめるですよ。あの人が本気だということはもう判ったですよね? 今度はパソコンとか本では済まされないですよ。確実に抹殺されるです」
「……」
「ねえ多久沢さん……はうう! 少年漫画のキャラが戦いを決意した時の顔になってるです! 頭のうちどころが悪かったですか!」
 ぼくは上半身を起こした。そして才子に目を合わせた。精いっぱい微笑んでみせる。
「駄目だ。やめるわけにはいかないよ」
 恐怖はなかった。
「……なんでですか!」
「ぼくはたくさんの物を奪われた。始発で行って何時間も並んで買った同人誌。拝み倒してやっと買ってもらったパソコン……毎日深夜まで起きて集めたいけない画像……すべての苦労を無にされたんだ。ぼくの趣味自体、全部否定された……ここで引き下がったらぼくはただのバカじゃないか。ぼくはそんなの嫌だぞ」
「死ぬですよ!」
「そんなの今までだって何度もあった! ぼくは何がなんでもあいつの条件をクリアして、あいつの鼻をあかしてやりたい!」
「……そうですか……誇りの問題というやつですね……もう、モテるモテないの問題と違うですね……」
 才子は眼を大きく見開いてぼくを見つめていた。感動してるらしい。
「いや、それもそれで大事だ。先生は美人だし。えへへ」
「……は、鼻の下のびまくり……少しでもカッコいいと思った才子がバカだったですよ」
「でも実際、どうやってクリアするかは問題だよな。あの人が認める交際相手ってのはすごくレベルが高そうだ。無限の教養を持った聖人君子でもない限り……」
「多久沢さんが本気なら、才子に一ついいアイディアがあるです」
 才子は「異次元ポケット」から一本の試験管を取り出した。
「自分を捨てる勇気があるですか?」
 試験管の中に、とても小さい「脳」が浮かんでいた。   

 八

 ぼくは先生と一緒に歩いていた。
 場所は美術館。
「……この画家というのは……」
 ぼくが額の中の絵を手で示して、解説をはじめる。もちろん先生の表情を読んで、うざったく感じない程度に配慮しながらだ。
「……多久沢くんってすごく詳しいのね。漫画の知識しかないんだと思った」
「そんなことはありませんよ」
 ぼくはそう言って微笑んだ。
 その言葉の端々に、高校生に出せるとはとても思えない落ち着いた気品がある。多分表情も、立ち振る舞いも、自信にあふれているはず。
 本当はぼくには絵画の知識なんてない。萌え絵ならそこそこ詳しいけど。女の人と歩いて落ち着いてふるまうのも無理だと思う。
 でも、今のぼくには出来ていた。
 ぼくの体を動かしているのは、ぼくではないから。
 才子がぼくの頭に、人工頭脳を入れてくれたから。人工頭脳がこの体を操っている。ぼくはただ、自分の体が勝手に動いて喋るのを見守ることしかできない。
 ……才子、才子。うまくいってるよ。
 言葉が出せないので、頭の中で才子にメッセージを送る。人工頭脳と一緒に、思考を転送する機械も埋め込んでくれたのだ。
 ……よかったですね多久沢さん。 
 ……本当にすごいねこの人工頭脳は。
 ……古今東西の芸術学問礼儀作法を全部詰め込んでますからねー。性格的にも数万回のシミュレーションしましたから、きっと執事の人も納得してくれるですよ。
 ……で、これ、どうやってもとに戻すの?
 ……え。
 ……考えてなかったの? ずっと体を乗っ取られたままなの? ちょっと待てよ!
 ……才子がこれから研究しますから! それにそのままでもホラ、つきあえることには変わりないですよね!
 ……いや、これはぼくのふりをした別の人がつきあってるんじゃないか!? なんか違うだろこれは!
 ……でも普通の多久沢さんに戻ったら、たとえ執事の人がいなくても一瞬で振られる気がするです。具体的には二秒くらいで。
 ……ああ、否定できない……
 ぼくと才子がなんだか泣けてくる会話をしている間に、ぼくの体の方は美術館を出ていた。時刻はもう夕刻。
「……今日は楽しかった」
「ぼくも楽しかったです」
 二人は町中を歩いていく。
「多久沢くんは他の人と違って、私のこと気味悪がって逃げたりしないのね」
「誰が逃げるもんですか」
 ぼくは言った。普段のぼくならとてもできないくらい落ち着いて。先生が、はっとするような表情を作った。
「ぼくには正直判りませんよ、その逃げていった人たちのことが」
「でも、気になるわ」
「気にすることありませんよ。そんなことより大事なのは未来です」
 くさい! その台詞クサい! 
 いいのかそんなんで、人工頭脳!
 すると先生は戸惑ったように眼をそらして言った。
「……そ、そうね」
 いいのかこれで! ああもう代わってくれ代わってくれ人工頭脳!
「でもよく考えたら私たちって教師と生徒よね。あんまり一緒にいると変な噂とかされないかな」
「大丈夫ですよ。先生は少し他人の眼を気にし過ぎなんじゃないかなって思います」
 あああ! ぼくもこんなこと言ってみたい! いや言ってるんだけどこれはぼくじゃなくて!
「そうかしら?」
「そうです。今回はただのテストみたいなものでしたけどぼくは楽しかったし、これからも会ってくれると楽しいな」
「ま、まだ気が早いわよ」
 先生ははずかしがっていた。冗談抜きで、まったく男に免疫がないらしい。
 ギャルゲーか!? これはギャルゲーの中か!? こんなことが現実に!? 出してくれ! ぼくをこの頭蓋骨から出してくれー!
 ……落ち着くです多久沢さん!
「……いや、そんなことは……あの喫茶店でお茶でも呑みなが……が、が、がんだむ!」
「……え?」
「のみながらゆっくり話を……はなしを……萌え絵のほうが……喫茶店はメイド喫茶でなければ……」
「どうしたんですか?」
 ……おい才子、どうしたんだ。
 ……才子にも判らないです!
 ぼくはその場にうずくまった。
「……ブツブツブツ……」
 そして失われた同人誌のタイトルを列挙しはじめた。体がブルブルと震えた。
「多久沢さん!」
 先生に揺さぶられる。
「……ぼ、ぼくは……にじげんのおんなのこが……すきです……」
 ……こ、これは!
 伝わってくる才子の思念はひどく焦っていた。
 ……多久沢さんは今までずっとオタをやってました。脳の奥の部分までオタが染み付いてるんですよ! 同人誌やガンダムや声優さんのことが……人工頭脳がそれを力づくで抑制したから反発があって……逆にオタ分が人工頭脳を乗っ取ろうとしてるんです!
 ……ぼくはそんなこと望んでない!
 ……意識じゃなくて、無意識のうちにやってることなんですよ! 
 ……ぼくはオタク以外の何かはなれないってことか!? そこまで業が深いってことか……!?
 ……ごめんなさいです……
 ぼくの体の痙攣が激しくなった。同人誌の名前を並べ終わり、ついで声優さんの名前をブツブツ言いはじめた。好きな順に。
 ……自分のやることながら耐えられない。とめてくれえ!
「多久沢くん! 誰か! 誰か救急車を!」
 その瞬間、ぼくの頭の中で激痛が弾けた。視界がフラッシュする。
 体の自由が戻った。
 手のひらを見る。汗でべとべとだ。
 ……人工頭脳が焼き切れちゃったみたいです……オタの煩悩恐るべし……
 ぼくは強い脱力感に耐えて、立ちあがる。
「大丈夫? 病院行った方がいいよね?」
 すぐそばに先生の顔。先生は泣きそうな顔をしていた。
「大丈夫です、先生。説明しますよ、全て。分かりやすく言えば……」
「全てが偽りだったと言うことです!」
 力強く断言する低い声。
 そちらの方を向くと、思った通りガンバスターポーズをとったセバスチャンが道路から生えてくる途中だった。やっぱり見張ってたか。
「セバスチャン! どうしてここに!」
 先生は驚きの声をあげる。……地面を通り抜けることには驚かないらしい。
 セバスチャンはツカツカと音を立てて、ぼくと先生の側までやって来た。
「お嬢様、この少年に決して関わってはなりません。この少年はオタクとかいう不気味な人種で、頭の中はいやらしく不健康な妄想だらけ、それ以外のことはなに一つ考えていないのです」
 そこまで言うか。ちゃんと他のことも考えてるぞ、脳の二割くらいで。
「そんなことないわセバスチャン、彼はちゃんと教養があって礼儀を知ってる人で、とても高校生とは思えないくらいで」
「それは全て作り物、まやかしです。そうですな、多久沢さん」
 この期におよんで嘘をついても仕方ない。
「そうなんです先生。この人の言う通りで、ぼくは今日、別の人間になってたんです」
「このような卑怯な手段で女性をろう絡する輩が、お嬢様にふさわしいとは思えません」
 ぼくはポロシャツのポケットに手を突っ込んだ。中のカプセルを握りしめる。
「そうかも知れない。でも、大人しく始末される気はないよ!」
「始末? 始末ってどういうこと? 答えてセバスチャン! まさか……まさか、今までの人たちは、みんなあなたが!?」
 気付いたようだ。先生は蒼白になってセバスチャンに詰め寄る。セバスチャンはほんの一瞬だけ悔やむような顔をしたが、すぐに胸を張り、言った。
「知られたくはなかったのですが……その通りです。お嬢様に近寄って来た男は、全てわたくしが始末しました」
「どうして! どうしてそんなことをするの!?」
 泣き出しそうな顔でそう問いつめられ、セバスチャンは絶句した。だがすぐに彼は、とても真剣な表情で先生を見つめた。そして言った。
「……お嬢様のためなのです……!」
 その言葉にどれだけの思いがこめられていたか、他人のぼくにもわかった。それは血を吐くような叫びだった。
 先生を見ると、夢見るような表情で、うるんだ瞳でセバスチャンを見つめ返し……
 って、おい!
「セバスチャン……あなたがそんなに私のことを思っていてくれたなんて……! ごめんね……気付いてあげられなくてごめんなさい……」
「いけませんお嬢様! わたくしは水戸部家の使用人です。主人と使用人、その関係は崩してはならないのです……」
 先生は激しく首を振った。涙を流す寸前のような、それでいて無理に笑みを浮かべようとしているような表情。
「そんなの関係ないわセバスチャン、だって私が心から望んでるんですもの! それが私の幸せなんですもの……!」
 顔を苦悶させるセバスチャン。ためていた息を吐き出すようにして、言った。
「お嬢様がそこまでおっしゃるなら」
「セバスチャン!」
「お嬢様!」
 二人は熱い抱擁を……
 ぶち。
 また謎の音がした。ぼくの頭の中から。
 ……多久沢さん、いまのブチってのは一体なんですかあ?
 キレた音だよ!
 こんなのってありか? つまりあれか? ぼくはただ同人誌とか焼かれただけ。骨折り損のくたびれ儲けか!?
 ぼくは先生とセバスチャンに背を向けた。
 夕暮れの真っ赤な空に叫んだ。
「やってられるかああああっ!!」

 つづく
  

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