天才! 松戸才子まーち

  第1話 「早く人間になりたい」

 一

「えー、それでは転校生を紹介する」
 かなり枯れた感じの先生の声。ぼくはさっそうと教室の戸を開けて、黒板の前に歩みだした。
 学生服の集団が、一斉につまらないそうな視線を浴びせてくる。
「えーと、このたび転校してきた多久沢優一(たくざわ ゆういち)くんだ。多久沢くん、自己紹介を」
 じいさんの先生が、一人だけ落ち着いた態度でそう言った。
 ここで一発決めるか! ここでどういう自己紹介をするかで、この学校での人生がもう決まっちゃうもんね!
 前の学校みたいに、いきなり自己紹介で好きな特撮の話しちゃって、調子になって主題歌まで熱唱し、あだ名が「メガレンジャー」になっちゃうような失敗は避けるぞ。
 そうだ、ぼくは生まれ変わったんだ。前の学校にいた時みたいに、「なんか多久沢ってさー、近寄ったらオタ菌が伝染しそうなんだよねー」とか女の子に言われたりしないような人間になるん だっ。
 だいたいオタ菌って何だよ。そんなもんが実在するなら秋葉原はバイオハザード爆心地じゃないかっ。
 ぼくは、こないだ大量に買い込んだ本のことを思い出した。

 「オタ卒業」
 「オタはやめられる」
 「早く人間になりたい」
 「なぜあなたには彼女ができないのか」
 「駄目人間の恋愛講座」

 これらの本をレジに持ってったときの店員の顔が忘れられない……!
 あの屈辱は無駄にはしないぞ!
 ぼくはかつてないほどの決意と自信を胸に、教卓の前に立った。
 そのときボソリと、クラスメートの誰かがいった。
「なんだ、男か」
 誰かが言った。ぼくは脊髄反射で叫んだ。
「男で悪いかっ!」
 ……はっ。思わずZガンダムのネタをやってしまった。ぼくのバカ。もう、こういうオタクノリはやめるって決めたのに。
 弁解しなきゃ、ガンオタだと思われる!
「ちがいますみんな! いまのはZガンダムの台詞を引用したわけじゃありません ごくフツーにそんな感じの言葉が出ただけです! 誤解です! ぼくはガンオタじゃありません!」
 ポカーンとしている教室の人達。
「あ、あれ……?」
 し、しまった、もしかして普通の人は『男で悪いか!』でガンダムなんか連想しない!
 黙ってりゃバレなかった! 一言でいって自爆!
 なんとか取りつくろおう!
 『オタ卒業』第1章15ページに書いてあった『キラリとクールに爽やかな挨拶で君もバカウケ』を実践だ!
 奥付が「1988年初版発行」になってるのが気になるけど、でもこの本はベストセラーだきっと信頼できる!
「フッ……始めまして、というべきですかね……しかし人間とは……」
 ニヒルっぽい声を作ってマニュア通りの挨拶を始めた。  その時、教室の一番すみっこの方で交わされていた会話が耳に入ってしまった。
 『なあ、さっきのゼータガンダムってなに?』
 『しらねー。ガンダムに種類なんかあるの』
 『よくわかんない。だってどれもロボットがピコピコ撃つ奴でしょ』
 頭が真っ白になった。脳味噌の中でスパークが走った。ぼくは猛然と、その二人のいる所にダッシュした。  そして両手を振り回しながら独演会を始めた。
「違うんだ! 君は何もわかってないっ! そもそもガンダムとは!(二十行ほど略)つまりトミノ論が!(三十行ほど略)それに対しサンライズのスタッフ が!(十七行ほど略)そしてファンはあくまで商品として(五十行ほど略)宇宙世紀におけるセンチネルの位置づけは(十八行ほど略)つまり! ガンダムと は!(最初と同じ話を繰り返す)」
 ぼくの新しいあだ名は、「ガンダマー」に決定した。
 
 二

 ぼくは机に突っ伏していた。
 放課後になったが、そんなことはもうどうでもよかった。
「あの子すっごいオタクなんでしょ」
「そうらしいよ。なんかガンダムの話させると五時間は一人でしゃべってるんだって」
「おれの聞いた話では、ズゴックの爪をオカズにご飯三杯はいけるってさ」
「一年戦争を世界史の教科書に載せるべきだとか言ってたぞ」
 ああ。だれかがぼくの事を噂している。
 いつのまにか話に尾鰭がついて大変なことになってる。ぼくはそこまで重度のオタじゃないのに。
 別に世界史の教科書に載せる必要はない、副読本くらいでいいと思ってるのに。
 こんなんじゃ、普通の高校生になってモテモテライフを送るって計画は台無しだ。
 ぼくはフラフラと体を起こし、やっぱりフラフラと教室から出た。
 ああ、もう帰ろう。
 やっぱりあの時、占い師に言われたことは事実だったのか。

 ……「ぼくの二年後の彼女を占ってくださいよ」
 ……「むむっ彼女とな。なんと! 二年後、おぬしの彼女はモニターの中におるわ!」
 ……「それ彼女って言いません! じゃあ五年後はっ!?」
 ……「むう……見えた、見えたぞ。おお、おぬしが美少女フィギュアのスカートを下から嬉しそうにのぞいている姿が見える。これがお主の彼女のようじゃ な。どうやら二次元からは卒業したようじゃな」
 ……「じゃ、じゃあ十年後は!」
 ……「見えた、見えたぞ。おお、これは抱き枕! お主は抱き枕を……ぬおお、抱き枕にあんなことまで!
 ……「もういいですっ!!」
 ……「しかし、とても幸せそうな表情をしておるぞ?」
 ……「だから嫌なんですっ」

 そんな人生送るのは嫌だと思って、それで普通の男子高校生になりたくて。この学校なら、昔のぼくのこと知ってる人は誰もいないから、きっと変われると 思ったのに……
 校舎をあてどもなくさまよった。
 気が付くと、自分がどこにいるのかわからなくなっていた。
「そこのあなたっ」
 女の子に呼びかけられた。
 きっと幻聴だ。こんな奴に声をかけてくる女の子なんているはずがないさ。恋愛シミュレーションのやりすぎで幻聴が聞こえるようになったのさ。
 でも、どうせ聞こえるなら、こんなキンキンしたコザエツ系の声じゃなくて、もっと……
「そこのあなたっ!」
 ……妙にリアルな幻聴だな。
 ぼくは振り向いた。
 そこには、幼い声にふさわしい子が立っていた。
 身長せいぜい百四十センチ。フレームの細い丸眼鏡。二本お下げ。床に引きずった、体格に全然合ってない白衣。
 科学者ごっこをしてる、小学校高学年の女の子に見えた。いや、女の子がそんな遊びするとは思えないけど。
 ……どうしてこんな小さい子が高校にいるんだ?
「ああ、やっと気づいてくれましたねっ。うれしいですよおっ」」
 白衣の女の子は、超音波声をさらに強める。眼鏡の向こうにある大きな眼を見開いて、ぼくのことをじろじろ見る。
「……なに?」
「ずばりあなた、モテない人ですねっ!?」
 いきなり何を言うかああああっ!
「なっなっ、なっ! そんな事はないっ!」
「じゃあ、モテモテですかあ?」
「モテモテだっ」
「でもお……」
 と、その女の子は白衣のポケットから奇妙な機械を取り出した。ビデオのリモコンみたいな細長い箱形をしている。彼女がその機械をぼくに向けると、機械は 「ビーッビーッビーッ」と耳障りな音を発した。
「ほらあ。このダメ人間カウンターによると、あなたのモテナイ率は四〇〇パーセントを超えているんですよおっ?」
「な、なんだよモテナイ率って?」
「その人間がいかにもてないかという数値ですよお。ちなみにそれが四〇〇パーセントということは、一生モテないどころか四回生まれ変わってもまだモテない ことを意味してるです」
「な、なんでいきなり見ず知らずの人にそんなこと言われなきゃなんないんだよっ。っていうかあんた誰だよっ」
「はう? ああ、言ってなかったですねっ、才子はこういう人です」
 白衣のポケットをゴソゴソ。名刺を出した。
「名刺? 
 綾椎(あやしい)高校三年二組……
 科学部部長
 天才科学者
 松戸 才子(まっど さいこ)……。
 って、おい、三年生っ?」
「そうですよお?」
「わかった、小学校の?」
「高校ですっ。あなたより二つも上なんですよおっ。松戸先輩って感じですよお」
「……どうしてぼくが一年生だって知ってるの?」
「生徒のことはすべてうちの部のデータバンクに入ってますよお」
「どうひいき目に見ても一二歳くらいにしか見えないんだけど……天才科学者だって?」
 自分のことを名前で呼ぶあたり、精神年齢はもっと低そうだ。
「ですよお」
「この、泣き系エロゲーに出てくる萌えキャラみたいな喋り方の女の子が?」
「……あなたがどうしてモテないのか、今の台詞でだいたいわかったです」
「……失礼な奴だな」
「失礼なのはあなたですよお。あんまりヒドいこと言うと、あなたを実験体一八号に任命するですよお?」
「なんだよ実験体一八号って? 一七号までいたわけかっ?」
「一七号は、このあいだまでうちの部にいました。才子の実験によくつき合ってくれる、立派な部員でした。アンテナを脳に立てて操ったりしなくても、ちゃん と働いてくれたんですよお。あなたの犠牲は無駄にはしないです」
「あ、あの……言ってる意味がよくわかんないんだけど……もしかしてその十七号っていうのは……」
「あっ、死んではいないですよ? むしろ普通の人間より死ににくい体になりましたっ。ただ、少しだけ人の形を失っちゃっているだけですよおっ」
「……ぼく帰る」
 怖い。こいつと一緒にいると大変なことに巻き込まれそうだ。
 足早に歩き出す。
「モテモテになりたくないんですかあ?」
 ぴたっ。ぼくは足を止めた。
「多久沢さんは転校生ですよねえ? まだどこの部活にも入ってないですよね? いま、科学部は部員が才子以外いなくなってすごく困ってるんですよお。科学 部に入ってくれれば、アメンボだってオケラだってモテてモテて困っちゃう方法を教えるです」
「……ホントかっ」
 振り向いて彼女に向かって二、三歩歩みよる。
「うわ、きゅぴーんって感じですよお。ホントです」
「その方法とは!」
「その前にこっちにサインをして欲しいです」
 松戸才子が白衣のポケットから出したのは、四つ折りにされた紙。広げると「入部届け」だった。
 サインを済ませたあとで気づいた。なにやら物騒な一文が添えられていることに。

 『この入部により私の生命・精神・社会的地位・魂その他にいかなる破滅的な損害が生じたとしても一切の責任は問わないことを誓約します』

「なんだよこれ!」
「書いてある通りの意味ですよお」
「死んだりするのか!」
「大丈夫ですって。そういう時にはちゃんと処理しますから。才子こう見えてもマッドサイエンティストのはしくれです」
「処理ってなんだーっ!?」
「処理は処理ですよお」
 彼女のメガネが不気味に光った。
 入部届けを破り捨てた。
「はうー!。なにをするですか。ひどいです!」
「帰る。ひとりでモテる努力をする」
「あなたがモテないのは努力でどうにかなる問題じゃないですよおっ」
「その言い方がなおムカつく!」
「じゃあ、先に才子が多久沢さんを見事モテモテにしてあげるです。結果が出れば文句ないですよね?」
「ああ、本当にモテモテにしてくれたなら」
「簡単なことですよお。とりあえず部室にいきますよおっ」
「部室?」
「科学部の部室です。すぐそこですよお」
 
 三

 確かに、科学部の部室はすぐそばにあった。
「普通、科学部って生物実験室とかを借りるんじゃないの。専用の部屋があるなんて恵まれてるね」
「それだけ才子が優秀だということですよおっ」
「部員が一人しかいないのに?」
「はう……とにかく入るですよお」
 科学部の部室は、マッドサイエンティストらしからぬ普通の教室……と言いたいところなんだけど、戸の上にこう書いた紙が貼ってあった。

 「この門をくぐる者、すべての希望を捨てよ」。

「……」
「どうしたですかあ?」
「やっぱり帰っていい?」
「モテモテ人生とダメダメ人生どっちがいいですかあ?」
「……わかったよ」
 部室に入ったとたん、凄まじい異音と臭気がぼくの五感を刺激した。
「うわあ……」
 そこらじゅうで、訳の分からない機械がウオンウオンと唸っている。毒々しい色の液体がゴボゴボ泡立ってる。
「いかにも……」
「そう、いかにもって感じですよお。才子って基本に忠実なマッドサイエンティストなんですよお」
「で、モテは?」
「簡単なことですよお。フェロモンですっ」
「フェロモン?」
「動物はフェロモンという化学物質を出して異性をひきつけるんです。才子はこないだ、超強力フェロモンの合成に成功したですよ。これはもう異性の性欲を刺 激しまくって、いつも多久沢さんが夜中に考えてるようなことを実現させるです」
 才子は勢いよく、白衣のポケットからガラス瓶を取り出す。
 手から瓶が滑り落ちた。
 がしゃっ。
 ぼむっ!
 もくもく。
「……爆発したね」
「はう。爆発しましたねえ」
「煙が出てるね」
「出てるですねえ」
「床に穴が開いてるよ」
「才子は基本に忠実ですからっ!」
「なんの基本だよっ」
「爆発しない発明なんて!」
「だからこれのどこがフェロモンなんだっ」
「間違えただけですよお。ええっと。これは……腕が四本生えてくる薬だから違いますね。これも……デンデンムシに変身する薬ですね。これはどうでしょ う……性格が反連する薬ですね……こっちのは……頭からパックンフラワーが生えてくる薬でした……」
 次から次へと、才子はポケットから瓶を出して机にならべる。机の上は見る見るうちに瓶でいっぱいになっていった。
「……あのさあ、どうしてそんなにたくさん入るの?」
「このポケットはですねえ、『異次元ポケット』という版権的にギリギリなネーミングの代物なんですよお。異次元につながっていて、どんなにたくさんのもの だって入れることができるんです。まあ、たまに入れた覚えがない変な生き物とか出てきますけど……まあ、そのへんは異次元ですから!」
「納得するんかっ」
「あ、あった。これですよお。超強力フェロモン! さっそく使ってみるですよ?」
 渡された瓶の中には、薄紫の液体が入っていた。
「あやしい……」

 四

 と言いつつも使ってみたくなるあたり、ぼくはかなりダメな人かも知れない。
 教室に戻ってみると、まだ女子が何人か残っていた。下校するでも部活に行くでもなく、友達とだべっている女の子達。彼女たちは、ぼくが入ってくるなり一 斉に顔をそむけ、あるいは声をひそめた。
「……うわ。多久沢だよ」
「帰ろうよ。あいつと口きいたらオタ菌がうつっちゃうよ」
 もう言われてるー!
「っていうかガン菌だろ」
 ガン菌って何だー!
「だよなあ。多久沢ってズゴックの爪でご飯六杯食えるんだろ」
 増えてるー!
「お、おまえら。よくみてろよっ」
 ぼくは彼女たちの前に立ち、胸を張った。
「ぼくのことを、オタとかキモイとか臭いとか言ってられるのも今のうちだ。ぼくはこのフェロモンの力で生まれ変わるのだーっ!」
 瓶の中身を、頭から盛大にぶっかけた。
 とりあえず爆発はしない。全身が濡れて、妙な香りが周囲に漂いはじめた。
 さあ、効果を発揮してくれ、フェロモン! 異性の性欲を刺激するんだ!
 とたんに彼女たちの様子が変化した。
 とろんとした目つきになるもの、眼をうるませるもの……ハアハアと荒い息をしはじめる者。
「た、多久沢くん……」
 そう言ってぼくにすり寄って来たのは、さっきまでぼくを絶対零度の眼で見ていた、ロングヘアの女子だ。
 うおおおおっ! すごい効き目!
「ど、どうしたんですか粟野さん」
 つとめてクールをよそおいつつぼくは問いかけた。間近で見ていると、粟野さんは今や、夢見るような表情だった。いける。これはいける。すごい。
「あなたを……あなたを食べたいの!」
 いきなりそこまで行くかああああ!
「ずるい! 独り占めするなんて! わたしもよ!」
「そうよ! わたしも多久沢くんが欲しい!」
 ……!
 ぼくは感動のあまり立ちすくんでいた。
「ねえ、多久沢くん!」
「……は、はいっ」
 もうクールもへったくれもない。
「もう我慢できないの! いますぐ服を脱いで!」
「どえええええっ!?」
 それはちょっと、まだ何もしてないのにそれをやっちゃうってのはさすがにちょっと、いやその、やりたくないってわけじゃないんだけど、いやほら、その前 に色々、ね?
「えーとその」
 意味も両手をひらひらさせながら言い訳を考える。何も出てこない。
「お願い!」
「だから、あなただけなんてずるいわよ! わたしにも多久沢くんを味見させて!」
「そうよ! いますぐここで脱いで!」
「いや、でもここは教室だし!」
「そんなこと気にしないわよ!」
 ああ、どうすればいいんだ。まさかここまで効くなんて想像もしていなかったぞ。ああ、でもここで拒否するのはむしろダメな気がするぞ。よしっ、ぼく も……ああ、でもいきなり複数なんて!
「美弥子、いますぐ家庭科室いって!」
「うん! すぐ戻ってくるね! それまでとっておいてよ!」
 は? 家庭科室? ぼくの知る限り、家庭科室には、こーゆー時に使うものはないぞ。あえていうなら、保健室にだったらあるかも。
フォークとナイフと、それから調味料一式よ、必ず持ってくるのよ!」
 ふぉ、ふぉーくとないふううう?
「ま、まさか……」
「どうしたの多久沢くん。あたしたちに食べられたくないの?」
「あのー、その食べるっていうのは、文字通りの意味?」
 汗をダラダラ流しつつ訊く。
「もちろんよ! さっきからそういってるじゃない。もう、どうしても我慢できないの!」 じゃあこのフェロモンは、もしかして……
 性欲じゃなくて食欲をかき立てる、超強力な薬かーっ!?
 ぼくは走って逃げようとした。だが後ろから抱きすくめられる。足にしがみつかれる。フェロモンのせいで特別な興奮状態にあるってことだろうか、すごい馬 鹿力だった。ぼくはすぐに床に押し倒された。
 上履きを、上着を、そしてズボンを脱がされる。パンツに手がかけられた。体をよじり、腕を振り回して抵抗しているのに、彼女たちはやめてくれない。
「めぐみ! フォークとナイフ来たよ!」
「よし! ちゃんと人数分あるな!」
「うん! スパイスも各種そろってるよ!」
「完璧だ!」
 うわああああ!
「いただきまーすっ!」
 喰い殺されるー!
 その瞬間だった。
 戸が猛烈な勢いで開け放たれた。消防服と宇宙服が混ざったようなものを着た誰かが飛び込んできた。
 その誰かは、ノズルみたいなものをこっちに向けた。
 ノズルから噴き出す白い煙!
 女の子たちはバタバタと倒れていく。
「なんだ? なにがどうなってるんだ?」
「無事でしたかあ? 助けにきましたよお」
 よく見ると、その「誰か」は妙に背が低かった。そしてキンキン声。たぶんこの服は化学防護服とかいう奴だろう。そして中身は才子だ。
「あ、あ、あんたなあ……」
「はい? 中和剤をたっぷりまいておきましたから、もう普通に戻るはずです。……はうーっ! 変なもの見せないでくださいっ! 早くパンツはくです!」
「誰のせいだよーっ!」
 白い霧が晴れた。
 女の子たちが一人また一人と意識を取り戻す。
 そして見た。素っ裸で倒れているぼくの姿を。
「へ、変態いいいいっ!」

 こうしてぼくのあだ名は「変態ガンダマー」になった。

 第2話「激突! とんがりVS丸」

 一

 ぼくはカバンを抱えて廊下を走っていた。
「待ってくださいよおっ」
 背後から松戸才子の声。
「科学部に入ってくださいよおっ」
「いやだっ」
「どうしてですかあっ」
「モテるどころか犯罪者よばわりじゃないかっ」
「はう……今度こそきっとモテますよお! だから入ってくださいよおっ」
「他の奴に頼めばいいだろっ」
「だって他の人は、『科学部に入るくらいなら死ぬ』とか、『人間としてそれだけはできない』とか……みんなひどいです!」
「知ったことかっ」
 息が切れてきた。階段を駆け下りる。そしてまた廊下を全力疾走。
「はあっ、はうっ、待つですよお!」
 ぼくもスポーツは苦手だけど、才子はそれ以上に足が遅いらしく、まったく追いついてこれないでいる。
 よし、このまま振り切って。
「はうっ」
 びたんっぶちゃっ。
 今の音は。盛大に転んだ音だ。たぶん顔面から突っ込んだぞ。白衣を踏んづけたんじゃないか。
「はう……はう……えぐっ、えぐ。ふえええええん」
 転んだくらいで泣くか? それも大泣き!
「ふえええええんっ」
 回りの生徒たちが噂している。
「おい、小さい子が泣いてるぞ」
「小さい子じゃないよ。松戸だよ。科学部の部長だよ」
「えっ。アレが?」
 ロリィな外見にだまされちゃいけない。あいつのせいでひどい目に遭わされた。今度は死ぬかも。
 だからほっといて逃げようと思った。思ったんだけど……
 気が付いたら、ぼくは才子にかけよっていた。そんなことするつもりは全然なかったのに。
「……大丈夫?」
「はうっ……」
 才子はその場にうずくまって、眼鏡のあたりを両手でおさえて、鼻をすすりながら泣いていた。
「怪我をしたの?」
 ぼくが彼女の前にしゃがみこんで、その顔をのぞいた瞬間。
 彼女の手が動いた!
 「異次元ポケット」から、小さな瓶が取り出される。目にも留まらない早業。彼女の手がまた閃いた。ぼくは得体の知れない液体を全身に浴びていた。
「なにをするんだっ」
 才子は笑っていた。もうその眼に涙はない。いや、最初からそんなものはなかった。
「う、嘘泣きかーっ」
「引っかかりましたねえっ。頭脳の勝利ですよおっ」
「なんだよこの薬はっ」
「フェロモンの改良型です。今度は間違いなく、性欲と恋愛感情を刺激するように作り直しました。効果を確かめてくださいっ。うまくいったら入部ですよ おっ」
「……でも、効いてないみたいだよ?」
「はう? そういえば」
 もし本当のフェロモンなら、目の前にいる才子が真っ先に影響をうけるはずだ。
 ぶうううううん。
 奇妙な音が耳に飛び込んできた。
「何だ?」
 その音の正体を知った瞬間、ぼくは叫んでいた。
「は、蜂!」
 ものすごい数のミツバチが飛んでくる! いや、蝿もいるし蛾もいるぞ! みんなひとかたまりになって、ぼくの方に飛んでくる!
「そういえば働き蜂ってメスですよね。昆虫にしか効かないみたいですっ。これは失敗ですねーっ」
「ですねーっじゃないっ」
「でもモテモテじゃないですかっ」
「虫にもてたってうれしかないわいっ」
「もう一度研究してみますねっ」
「みますねっ、じゃなくて……どうするんだよこれっ」
「こんな時はモスラも一撃の超強力殺虫剤で!」
 ぶしゅー。
「全然きいてないぞっ」
「きっと多久沢さんのためにがまんしてるんですよっ。愛の力は偉大ですねっ」
「こんな愛いやじゃーっ」
 と言いつつ、ぼくと松戸は逃げる。逃げる。だが二人とも足は遅いし、もう走りすぎてへろへろだ。すぐに足がもつれる。背後には、やかましいほどの羽音。
 「ギル、やりなさい!」
 突然、そんな女性の叫びがした。
 才子とはまるで違う、大人びた、少しクールな声だった。
 同時に、「ジャッ」という何かが焼けるような音。眼の前が白く染まった。
 羽音が消えた。焦げ臭い匂いが廊下に充満する。
 昆虫はいなくなっていた。なにか不思議な力で……レーザーのようなもので、一瞬にして焼き尽くされたのだ。
 ぼくは周囲を見回した。
 いつのまに現れたのか、そこには二人の人間がいた。
 一人は白衣をまとった長身の女性。ストレートのロングヘア。オーバルタイプというのか、細長い楕円形の眼鏡。少し吊り目気味の黒い眼。
 そのかたわらには、整った容姿の少年が、片手をこちらに突き出していた。
 なんだ? 手から光線を出したっていうのか?
「ひどい有様ね、才子」
 ロングヘアの女性はこちらに歩みよりながらそう言った。
「はう……お姉ちゃん」
 おねえちゃん?
 才子とこの女性を見比べた。どっちも白衣きてるし眼鏡かけてるけど、それ以外似ているところはない。顔も、雰囲気も。
「あ……あの。助けてくれてありがとうございました」
 ぼくはその女性に頭を下げた。近くで見るとかなりの美人だ。少しその眼に、他人を見下しているような、冷酷な感じの光が宿っているけど。
「あら、こっちの人が、才子の言ってた新しい部員さん?」
「部員になる予定の人、っていったほうが」
「ぜんぜん予定じゃないっ」
 ぼくはあわてて口をはさんだ。
「なんか話が違うわね。こう言ってるけど」
「聞いてくださいよ。ええと……」
「わたし? 私は彩恵。松戸彩恵。確かに、この子のお姉さんよ」
「聞いてくださいよ彩恵さん。この人は天才とかいってるくせに全然駄目なんですよっ。目的どおりの薬を作れた試しがない」
 彩恵さんは少し大げさに溜息をついた。
「やっぱりね。ねえ才子、あなたはマッドサイエンティストとしての才能がないのよ。別の道を探したほうが私いいと思うわ」
「そんなことないですよおっ! もう才子は一人前ですよおっ、お姉ちゃんにも負けないマッドサイエンティストですよお!」
「あら、言うじゃない」
 愉快そうに彩恵さんは微笑んだ。冷笑の色がまじった、でも基本的には暖かく見守ってる感じの、複雑な笑みだ。
「それじゃ勝負しない?」
「はう。いいですよお。どういう勝負? 才子が得意なのは薬の調合で、お姉ちゃんはロボット工学だから、あんまり勝負にならないと思うけど」
「ロボット工学……ですか?」
 ぼくは尋ねた。じゃあこの少年は。
「ええ。ロボットに関しては世界一の天才と自負しているわ。もちろん才子とちがって、自分で言ってるだけの天才じゃないわよ。この子を見ればわかるでしょ う?」
 彩恵さんが、さっきから彫像のようにピタリと止まっている少年を指さす。
 やっぱり。金色の髪をしたその少年は、人間にしてはあまりにも顔が整いすぎていた。そしてまったく表情を変えない。
「私の作ったヒューマノイド・ロボットの一つ『ギル』よ。まあ私にとっては凡作でしかないけどね、ごらんの通り、完璧な二足歩行と言語機能、それから護身 用の光線兵器まで搭載しているの。あ、ギル、もう腕をおろしていいわよ」
「了解、マスター」
 ギルと呼ばれた少年型ロボットが抑揚のあまりない声でそう言って、腕を下ろす。直立不動の姿勢で固まった。
「ぼく帰ります。なんか、巻き込まれると嫌なことになりそうだから」
 彩恵さんは確かに美人だ。ちんちくりんの才子よりずっといい。でもやっぱり姉妹だし、マッドサイエンティストだから……嫌な予感がするんだ。
「待ってよ。才子から聞いた話だと、あなた、まったくモテない男の子だそうね」
「な、なんでそんなこと話すんだよっ」
「学術的に貴重ですよお、モテナイ率四〇〇パーセントなんて。天然記念物ものです。チャバネゴキブリだって三二〇くらいしかないんですよお?」
「ぼくはゴキブリよりモテないのかっ」
 さすがに泣けてくる。
「あら、でもアメリカシロヒトリは三九八だから、かなり近い数字ね」
「はうー、なにか縁があるのかも知れないです」
「あってたまるかっ」
「とにかく人類の歴史に残るほどのモテなさっぷりなのよ、あなたは。そんな訳で……どう? それで勝負というのは」
「はう? 多久沢さんをモテさせればいいですか?」
「そうよ。あなたはもともとそうする予定だったんでしょ。成功すれば部員も手にはいるし。逆に私のほうがうまくやったら、研究やめてもらうわよ。あなたの 研究は危険すぎるのよ」
 最後のは同感だ。
「そんな有利な条件でいいですかあ? ロボットじゃモテなんてどうにもできないですよお?」
 彩恵さんは腕組みした。微笑みを絶やさない。
「大丈夫よ。あなたもいいでしょ、多久沢くん?」
「え、あ、はい?」
「本当にもてさせてくれるんなら文句はないわよね? 最終的にはあなたに審査してもらうわよ?」
「え、ええ」
「これで決まりね」
 彩恵さんの黒い切れ長の眼が、あやしい光を放った。

 二

「さあ、こっちに来るですよおっ」
「痛い、痛いっ」
 さっそくぼくは、才子の手によって部室に連れ込まれていた。
「そこのベッドに寝るですっ」
「寝てどうするんだよ。モテモテ人間に改造でもしてくれるのかっ」
「鋭いですねっ。かなり近いです」
 才子は白衣の『異次元ポケット』から、試験管を一本取り出した。
 中には淡いピンク色の液体が。
「これはイタリア人男性三千人から抽出した『モテ要素』です。これを多久沢さんの肉体に注入すれば別人に生まれ変わります」
「それはフェロモンとはどうちがうの?」
「フェロモンは身体の表面に塗りたくるだけでした。でもこれは身体の奥まで浸透して遺伝子レベルで身体を作り替えるんです。さあ、横になって」
「はあ……」
 小さすぎるベッドに寝た。いきなり腕に注射器を刺された。冷たい液体が腕に入ってくる感覚。
 突然、全身を激痛が襲った。
「ぐわああああああああっ」
「はうっ?」
「痛い! 痛い! 身体が痛いいいいいいっ」
「おかしいですね。そんなに痛いはずは。あっ、これは!」
 才子の声がどこか遠くのほうできこえる。
「ものすごい免疫反応。多久沢さんの中の『アンチ・モテ要素』が、注入したモテ要素と激しく戦ってるんですよお」
「どうでもいいから早くとめろおおおおっ」
「確かに、このままでは死んでしまうです。えいっ」
 もう片方の腕にまた注射された。
 痛みが消えていく。
「これでモテ要素は体内で分解されます。モテ要素は、多久沢さんにとって『異物』以外の何物でもなかったんですねーっ」
「結局、ぼくはイタリア男のようにはなれないってことか?」
「まだ諦めるのは早いですよお。やっぱり元から断たなきゃ駄目なんですっ。いまやったのは、半年お風呂に入ってなくて体からネギが腐ったようなニオイ出し てる人に香水をふりかけるようなものでした。まず臭いを消すべきだったんですっ」
「生々しすぎるから臭いにたとえるのはやめてくれっ」
「今度は多久沢さんのモテナイ要素を消滅させる薬をうちますっ。また腕を出してくださいっ」
 ぐさっ。
「なんか注射器が、さっきより遙かにでかいな」
「多久沢さんの中には膨大なアンチ・モテ要素がありますからね。残らず分解するには、このくらい薬品を大量に投与しないと駄目なんです。はいっ、終わり です。もうしばらくすると効いてくるはずですよお」
 なんか寒気がする。
 身体から力が抜ける。
 手や足の感覚がなくなってくる。
 ふと首をめぐらして自分の手足を見ると……げえっ!
「す、透けてる! 透けてるよおっ」
「はう? ほんとですっ」
 ぼくの身体は半透明になっていた。こうして見ているうちにも、どんどん透明度が高まっていく。
「消えてる! ぼく消えちゃうよっ」
「これを打つですよおっ。中和剤ですっ」
 三本目の注射器をまた腕に刺した。しだいに身体がもとにもどっていく。
「これはつまり……多久沢さんからアンチ・モテ要素を取り除いたら、何一つ残らないという……」
「あんまりだああああああっ!」
 泣き叫ぶぼくを、才子はすまなそうな顔で見下ろしているばかりだった。

 三

「どうすればいいんでしょうねえ」
 学校からの帰り道、ぼくと才子は並んで商店街を歩いていた。
「そんなの知るかっ。やっぱり君の言うことを信じちゃいけなかったんだ。もう君の負けは決まってる」
「そんなことないですよお。お姉ちゃんだってできないかも知れません。だって、まさかここまでの……」
「言うなっ」
「あれ? あそこにいるのはお姉ちゃんじゃないですかあっ?」
「本当だ」
 確かに、ぼくたちの歩いていく先に彩恵さんの姿があった。今日も白衣をまとい、長い髪を風に揺らしている。その両脇には二人の人間がいる。
 片方は、「ギル」だろう。
 もう一人は……
 ぼくは自分の眼を疑った。
 ぼくたちの姿を認めたらしい彩恵さんが、その二人を連れて足早に近づいてきた。
「あら、こんにちわ才子、それから多久沢くん。どう調子は?」
「はうっ。訊かなくてもわかってる……」
「ええ。その顔だとさっぱりみたいね。たぶんそうだろうなあと思って、ここで待ってたのよ。早く多久沢くんを喜ばせてあげたくてね」
 そういって彩恵さんは笑う。自信満々のその笑みは、どちらかというと「才子に早く勝ちたくて」だろう。
 ぼくは我慢できなくなって訊いた。
「その……彩恵さんの方法ってのが、ここにいるロボットですか」
「そうよ。私の最高傑作『ミリア』よ」
 二体目のロボットは女の子だった。
「はじめまして。ミリアです」
 やわらかく暖かい、聴いているだけで心が癒されるような声で、ロボットは言った。
「逆転の発想よ。多久沢くんがモテるようにするんじゃなくて、多久沢くんみたいな子でも好きになってくれるような人を作ればいいのよ」
「で、でも」
 才子がほっぺたをふくらませて抗議した。
「そんなの反則ですっ。それじゃゲームのとかアニメの女の子相手に萌えーとか言ってるのと同じじゃないですかっ」
「それは本人に決めてもらいましょう。どう、同じだと思う? この子じゃ不満?」
「い、いや……」
 ぼくは「ミリア」のそばに寄って、しげしげと観察した。
 完璧だ。
 息をのむぼく。彩恵さんが解説する。
「髪の色は緑! これは基本ね。それから服装はメイド服。これも基本よ。喋り方は『ですわ口調』に設定しておいたわ。声は癒し系の皆口裕子! アクセント として耳のあるべき場所には魅惑の突起物
 才子がぼそりと口を挟んだ。
「お姉ちゃんもしかして隠れオタクですか?」
「う、うるさいわね。私はロボットの天才よ、天才はあらゆる種類のロボットを完璧に作れなければいけないの。だからマンガやアニメについても研究したの。 それだけよ!」
「なんでそこまでムキになるですか?」
「ま、まあとにかく……多久沢くん、あなたこういうの好きでしょ」
 脊髄反射なみのスピードで答えていた。
「うん、大好きっ!」
「……」
 才子が軽蔑のまなざしを向けているのがわかった。でも、どうでもいい。
「嬉しそうね。ただ奇麗なだけじゃないのよ、この子はあっちのほうも完璧で、×××なんて××××××よ? しかも××だから××××もできるわよっ?」
「お、お姉ちゃん露骨すぎますよおっ」
「うっ、うおお鼻血がっ」
「あら、ちょっと刺激が強すぎたみたいね。さあミリア、あなたはこの男の子の恋人になるのよ?」
 ミリアは小首をかしげた。
「コイビト……この男の子が、わたしのターゲットだということですか?」
「ターゲット? ええそうよ。いいことミリア、こんな奴とつきあうのはいろいろと耐え難いことがあるかも知れないわ。でも、耐えるのよ。どんな障害があっ ても、必ずやりとげるの。わかったわね」
「わかりましたわ。では殲滅します
 相変わらずの、柔らかくて明るい声で。
 ミリアはそう言った。
「は、はあっ?」
「お姉ちゃん、このロボット戦闘用です!」
「そんなはずないわよ。恋人用のロボットよ。どんなダメ男だって愛せるようにプログラムしたのよ。『ラヴ&ピース』の精神が入ってるのよ。さあ答えてミリ ア、あなたの基本プログラムは?」
『サーチ&デストロイ』です」
「あれえ?」
 そう首をかしげた彩恵さんの仕草は。
 恐ろしいことに、妹そっくりだった。
「ちょ、ちょっと違うわねっ!?」
「ちょっとじゃありませんっ! あなたは天才じゃなかったんですかーっ!」
「それはねえ……」
 彩恵さんは眼を伏せて、モジモジと恥ずかしそうに言った。
「私、ロボット工学は天才だけど、プログラムのほうはさっぱりなの」
「それを先に言ってくださいっっ!」
 ぼくはわめいてあとずさった。
 ミリアは微笑を浮かべてスタスタと自然な調子で歩みよってくる。
「ちがう、ちがうんだ、ぼくは……その、そういう意味のターゲットじゃなくて……」
「殲滅しますわ」
「ミリアやめなさい。やめないと破壊するわよっ、ギル、このロボットを」
 そこまで言った瞬間、ミリアの片手が流れるように動いた。ギルに五本の指が向けられる。閃光が走った。ギルが出したのとは比較にならない強さの光線だ。
 ギルは跡形もなく蒸発していた。
「最高傑作だけのことはあるわ……やめなさい! それ以上さからう……」
 ミリアの片手が、今度は彩恵さんに向けられた。光ではなく、「ばしっ」という音が弾けた。
「うっ」
 彩恵さんは倒れた。
「マスターはおっしゃいました。どんな障害があっても実行しろと。だからそれを邪魔するものは、たとえマスターでも……」
「殺したのかっ!?」
「いえ、気絶しただけですわ。でも……」
 そこでミリアは、満面の笑顔を作った。
「あなたは、確実に殺してあげますねっ」
「たすけてええええ!」
 ぼくは叫び、振り返って逃げた。
 目の前に何かが瞬間移動してくる。いや、そう見えるほど早く、スカートを揺らめかせてミリアが回り込んできたのだ。
「逃げてもだめですわっ」
「多久沢さん! これをっ」
 才子がぼくに突進してきて、注射器で何かを突き刺した。
「走って! 逃げて!」
 言われる通り走った。
 才子が打ってくれたのは、足が速くなる薬らしい。それも驚異的に。ぼくのスピードはたちまち時速五〇キロを超え、百キロを超えた。
「わっ、わっ、わあああっ」
 あまりのスピードに本人が驚いてしまうほどだ。
 ぼやけるほどの速度で前方から飛んでくる歩行者や自転車。ぼくは商店街を飛び出し、大きな道路に出た。歩道からはみ出しそうになるのを無理矢理コント ロールして、超スピードで歩道を走る。
 それでも後方から「スタタタタタタッ」という足音がやまない
 このスピードについてくるよっ!
 耳元で声がした。
「多久沢さん。多久沢さん」
「さ、才子っ!?」
 間違いなく才子の超音波声だ。
「なんで名前呼び捨てにするですかっ」
「そんな事言ってる場合じゃないだろっ、どうして君の声がきこえるんだっ」
「こっそり多久沢さんの服に通信機をつけておいたんですよおっ。盗聴にも使えますしねっ。もてさせるためには情報収集は必要不可欠ですっ」
「で! この状況をどーするんだよおっ!」
「お姉ちゃんの目を覚まさせますっ。それまで逃げ回っててくださいっ」
「わ、わかったっ」
 ぼくはさらに走るペースを早めた。
 前方に交差点。もう止まるのは間に合わない。
 えーいっ!
 薬が運動神経まで高めてくれていることを信じてジャンプした。
 見事、ぼくの身体は交差点の向こう側に降り立つ。
 背後で「キキキーッ」「グシャッ」とか……ミリアはジャンプしなかったらしい。
 やったか?
 また背後に気配が出現した。
 うわああ! ミリアは車をよけられなかったんじゃない、車なんかにひかれても平気だから、よける必要がなかったんだっ!
「無駄ですわ、必ず殺してさしあげますっ」
 ぼくは振り向いて怒鳴った。
「どうしてだよっ! あんたはぼくの恋人になるため作られたんだろっ」
「あら、それはおかしいですわ。愛は死を超越するものですわ。だから殺すことと愛することは矛盾しておりませんわ」
「むちゃくちゃ飛躍してるよっ」
「愛しているからこそ殺す、という愛の形もあると聞きましたわ」
「あるかも知れないけど、そーゆーのしか知らないのかあんたわっ」
「とにかく殺しますねっ」
 全く屈託のない笑顔と声。皆口さんの声で『殺す』とか言うな!
「才子っ! 彩恵さんはまだ眼をさまさないのかっ」
「はう。気付け薬が見つからないですよっ。これでもない、これでもない、これでもない、これも違う、これも、これも……慌てると全然関係ないものばっかり 出るんですこのポケット……」
「そんなところまで似なくたって!」
「あ、これかな? それっぽいですっ。えーい!」
「えひゃっ、はひゅーん、はらぴょほほほほほほっ」
「お、お姉ちゃんが壊れたですっ」
「はむんぺ。はらぱぺ、へひゃーっ」
「『気付け薬』じゃなくて『気が狂う薬』でしたーっ。惜しかったです」
「惜しくないわいっ!」
「ちんぴょろすぽーん!」
「はうっ、お姉ちゃんが大変なことにーっ!」
 ど、どうなったんだ! 見たいぞ!
「とにかく、お姉ちゃんは駄目です、頼りになりません、ひどい有様ですっ」
「だから誰のせいだよっ。もう足がだめだよっ」
「……一つだけ方法があります。学校にいって、部室から薬をとってくるです」
「薬?」
「その薬の力で、ミリアを倒すですよっ」

 四

 さっき以上の速度で走ってきたせいで、もう心臓は破裂しそうだった。
 昇降口から入る暇はなかった。ぼくはさっき同様、ジャンプして窓から科学部に飛び込んだ。
 床の上を転げ回り、椅子を蹴倒し、ビーカーやフラスコを机からいくつか落として、それでようやく止まった。
「はあっ、はあっ……どの……薬……っ」
「右奥の机の、一番の左の引き出しですっ」
 ぼくは急いでその机を探した。引き出しをあける。不用心なことに鍵はかかってない。
 中には、カプセルが一つ。
「呑んで!」
 言われるまでもなく呑み込んだ。
 ミリアが窓を突き破って、両腕をいっぱいに広げて飛びかかってきたのはその瞬間だった。
 全身に、痛みが生じた。
 死んだのか。あの光線で焼かれたのか。それとも怪力でグシャグシャか。
 いや……違うぞ。
 全身の筋肉と皮膚が悲鳴をあげていた。ミシミシときしむような音がしていた。
 ぼくは呆然と、自分の身体を見下ろした。
 足。腕。指。肩。腹……すべてが、服を着ていたはずの部分まで、黒光りするプロテクターで覆われていた。いや、昆虫の外骨格みたいな、といったほうがい いかも知れない。
「……!」
 ミリアはさすがにロボット、驚きもせず、。無表情にぼくを観察。こっちに手を向けた。あの破壊光線がほとばしる。
 だが、痛くもかゆくもない。
「ちゃんと変身できましたかっ! それは変身の薬なんですようっ。それを飲めば五分くらいの間、無敵の変身ヒーローになるですよっ。さあ、ちゃっちゃっと やっつけちゃってくださいっ」
 勝手なことを!
 でも、これ以外助かる方法がないとも思う。
 ミリアが発した光線のせいで、ぼくの周囲でいくつかの発明品が燃えていた。
 ここはまずい。ひとまず出よう。
 ぼくは全速力で壁を突き破って飛び出す。時速100キロを軽く超えてる。
 ミリアもついてくるが、あきらかにワンテンポ遅れている。
 校庭に着地した。
 くそっ、部活やってる奴がいるぞ。巻き込まないうちに早めに片をつけないと。
 ソフトボール部の女の子が、ぼくを指さして何事かさわいでいる。まあ突然こんな『怪人』が現れたからそりゃ驚くだろう。
 ましてそれが、メイドさんのロボットと戦っているんだから。
「必ず……殺しますわっ」
 光線は効かないと悟ったからだろう、ミリアが突進してくる。
 ぼくは身をかわした。やっぱり戦闘用に作られたわけではないから、ミリアの動きは少し単調だ。いまの身体ならよけられる。
 だが。
 勢い余って、ぼくのいる場所を通り過ぎて走っていくミリア。
 その向こうに、練習中の女子が!
 何事かと見に来たんだろう。常人の十倍くらいの超スピードで突っ込んでくるメイドロボに、ただ怯えている。だめだ。普通の人間の反射神経では絶対よけら れない。
 できるか? 止められるか?
 ぼくは、走った。止めるしかないんだ!
 そのダッシュは、変身後の肉体にとってもキツすぎたらしかった。あちこちで「ビシッビシッ」と関節のきしむ音がした。
 だが、ぼくはミリアに追いついた。追いついて、後ろからタックルし、そして地面に組み伏せて……
 頭を、両手でつかんで破壊した。
 ごめんよ、ごめんよメイドさん!
 爆発が生じた。
 ギリギリのタイミング、ギリギリの位置だった。爆風と破片があたりに広がった。
 炎のなかでぼくは立ち上がった。
 ソフトボール部の女の子が、呆然とぼくの姿を見ていた。
  
 五

「本当なんだって!」
「ばか、そんなもんいるわけねえだろ」
「ほんとだって」
「お前アニメの見過ぎだよ。メイドさんのロボットが襲ってきて、それで何だって?」
「真っ黒い変身ヒーローが助けてくれたんだよっ! 本当だって!  あたしがそんなバカみたいな嘘つくわけないだろ、多久沢じゃあるまいし!」
「まあ、他にも見たって奴はいるけどよ」
「だろ? 誰なんだろうなあ、かっこよかったなあ……」
 ぼくは机に突っ伏して、女の子たちの会話を聞いていた。
 耳の中に才子が呼びかけてくる。
「はう? どうしたんですか多久沢さん? どうして名乗り出ないんですか、自分があのヒーローだって……そうすれば絶対」
「そんな馬鹿なことはしないよ」
「どうしてですかあ?」
「だって、ぼくみたいな奴が正体だってばれたら、あの子たちがっかりするじゃないか。正体は秘密のままでいいんだよ」
「はう……多久沢さん……」
「ところで、あの薬って何なの? どうせあれも、もともとは違う目的で作っていた薬なんだろ?」
「ああ、あれは水虫です
 ぽかんと口を開けた。
「水……虫?」
「そうですよお。用務員のおじさんに、水虫で困ってるから直す薬を作ってくれって頼まれたんです。それで、性質を調べるために水虫の菌をいじり回していた ら、特殊な性質の菌ができたんです。宿主の肉体と融合して、装甲のように全身を覆い、肉体を強化する水虫が……」
「じゃ、じゃあ……」
 さ、さっきから妙に全身がかゆいのは。
「変身が解けたあとは、たぶん死ぬほどかゆくなると思いますよお。ものすごく強化された水虫ですからーっ」
「もう遅いっ! ひ、ひいいいいっ」
 ぼくは上着を脱ぎ、上履きと靴下を脱ぎ、シャツやパンツの中に手まで突っ込んで、身体のいたるところをかきむしりはじめた。
 かいかいかいかいかいっ。
「うわっこいつ汚ねえ!」
「水虫じゃねえの」
「ノミでもいるんじゃねえのっ」
「さっきからブツブツひとりで喋ってるしよお。電波?」
「電波で水虫でノミ? うわ、なんか人じゃねえって感じ!」
「うつったらやだぜっ。窓から捨てよう」
 女の子たちの罵声を浴びながらぼくは思った。
 ヒーローは辛い。

 追記

 彩恵さんは、まだ元にもどらないらしい。

 第3話「にこやかに微笑もう」

 一

 ぼくは歩いていた。学校が終わり、家に帰るのだ。
 レンガっぽいタイルの敷き詰められた商店街を歩いていく。
 今日はいい天気だ。いい天気すぎて少し暑い。この調子では夏になったら一体どうなってしまうんだろう。
「はうー、はやすぎですよ」
 背後で声が。
 ぼくは振り向いて、丸眼鏡をかけて白衣をずるずる引きずってる、やたら小柄な女の子をにらんだ。
「……だから、どうしてついてくるの?」
「多久沢さんの家が見たいからですよ」
「いやだ見せたくない」
 才子は一瞬キョトンとしたが、すぐに笑った。
「あ、大丈夫ですってちょっとくらい変なものがあっても。男の子ですからねー、見なかったことにしてあげますよお。あとで思い出してププッと笑うだけです よお」
「そうじゃなくて!」
「でもこれは必要なことなんですよお」
「ぼくの家に押しかけてくるのが?」
「そうですよお。モテのために必要なんです」
 ぴくっ。
「あ、動揺したですねえ。ちゃんとわかってるんですよお」
「も、もう君のことなんて信じないぞ。彩恵さんだって信じない! 君たちの言うことなんて聞いてたって一生モテない!」
「大丈夫ですよお。今度は原因から直しますから」
「……原因?」
 ぼくは立ち止まり、才子をじっと見つめた。
 才子は腕を組んで自信満々、眼鏡まで怪しく光っている。
「そう、なぜ多久沢さんはこれほどまでにモテナイのか? っていうかもはや人間のレベルじゃないですよ? いったいなんで? これを究明しなければ直しよ うがないんですよお」
「そ、それはぼくがオタだから」
「ブブーですよお。それだけじゃ説明つきません。モテとまではいきませんが人並みに女の子と付き合ってるオタ野郎はいます」
「う……それはたしかに」
「だから、『どうして多久沢さんはこんなにアレなのか』というのはオタ以外の理由があるはずなんですよお。才子はですねえ、ずばり『家庭環境がアレ』だと いう結論に達したですよお!」
「う、まあ確かに家庭環境って人間をつくるよね」
「というわけでれっつごーですよお!」

 二

 ぼくたちは家に戻ってきた。
 ちなみにうちはマンションの一階だ。
「んんー、わりと普通の家ですね。もっととんでもないところかと思いましたよお」
「はいはい。かえったよー」
 そう言ってぼくはドアを開ける。
 ちょっと疲れたような感じの、中年の女性が現れた。ぼくの母さんだ。
「おかえ……」
 出迎えてくれた母さんの言葉が止まった。顔が引きつった。
「あ……あ……」
「どうしたの母さん?」
「け、警察ーっ!」
 母さんは叫んで、家の奥に走っていった。
 へ?
「あ、もしもし、うちの息子が小さい女の子をさらって……」
「ちがうー!」
 急いで追いかけて、居間に飛び込む。
 母さんの手から受話器をひったくった。
「優一! あんた自首しなさいっ!」
「だから違うんだって母さん! ちょっときて才子」
「はうー。おじゃましますー」
頭を下げて、才子が現れる。
「この人は小さく見えるけど高校生なんだ。高校の先輩なんだよ」
「もしもし! もしもし精神科ですよね! うちの息子が妄想を!
「少しは信じろおおお!」
 また受話器を取り上げた。
「よく見てよ、制服着てるでしょ?」
「はうっ。生徒手帳はこれです。あ、別に変な改造とかしてない普通の手帳ですから。ビームはまだ出ません」
「……本当だわ……」
 よほど驚いたのか、母さんはその場にしりもちをついた。
「じゃあ、さらってきたんじゃないのね? 変な薬とかも使ってないのね? 脅迫もしてないのね、普通に、友達が家に来たのね?」
「だからいい加減に信じてよ。大体さあ、高校生の男が女の子を家に連れてきたら、ふつう母親は『あ、彼女ができたんだな』って思うものだろ、どうしてそれ がでてこないの?」
「だ、だって……」
「だって?」
「そんなの絶対ありえないじゃない」
 沈黙。
 静寂。
 たっぷり五秒間たってから、松戸才子が、おずおずと手を挙げながら言った。
「……はうー、さすがに今のはフォローしようがなかったです……」
「いいよ……フォローしなくて」

 三

「たっぷり食べていってね!」
「はう、はう、こんなにたべられないですよおっ」
 テーブルにはものすごい種類と量のクッキーが詰まれ、ケーキ皿が並んでいる。
「じゃあお茶! 好きなだけお代わりしてね! あ、ジュースもあるわよ」
「母さん、すごい気合入れてるね」
「あんたもケーキ焼くの手伝いなさい!」
「はう、おなかいっぱいですよお」
「ほらそう言ってるし、別にケーキなんか作んなくていいよ」
「なにいってんの! 女の子が遊びに来てくれるなんてもう一生ないわよ!
「……」
「はう、反論しないですか多久沢さん?」
「出来ないんだ……」
「そうよねえ」
 母さんは席を立ち、段ボール箱を持ってきた。
「……なにそれ?」
「はう?」
「うふふ、これはねえ……優一が中学の時に出して突っ返されたラブレターよ」
「うわあああ! やめろおお!」
「はうー! こんなにいっぱい! うわ! すごく恥ずかしい文面です! 電波ゆんゆんです! ラブレターってそういうものかもしれないけど限度があるです よお。っていうか突っ返されたものを何年も保管してるのがキモすぎですよおお!」
「勝手に中身見るなああ!」
「その程度で驚いてちゃだめよ。これなんかすごいわよ」
 母さんは才子に、透明なプラスチック容器を渡す。まさかそれは!!
「なんですこれ?」
「小学校六年のときにもらった、麦チョコの入れ物よ」
「なんでそんなの取ってあるですか?」
最初で最後だったからに決まってるじゃない」
「は、はう……」
 やめろー! こっち見るなー!
 そんな目で見るなー! 
「なんかあまりのモテなさっぷりにめまいがしてきましたよお」
「帰れ! きみ帰れ!」
「馬鹿なこといわないで! あんたをモテさせてあげるってのよ? 何が不満なのよ」
「母さんはこいつの恐ろしさを知らないからそんなこと言えるんだよ。こいつの言うこと聞いてたらモテるどころか死んじゃうよ!」
「あんたがもてるためには一度死ぬくらいの目に合わなきゃ駄目ってことじゃない?」
「あ、計算によると四回死んでもまだ駄目らしいですよお」
「あら、それなら五回死ねばいいのね。簡単じゃない」
「親が言うか! そういうこと言うか!」
 そのとき。
 ぴぴぴぴぴ!
 才子の体から電子音が。
「つ、ついに体から音が出るように……!?」
「ちがいますよお携帯ですよお! ちょっと失礼するですよっ」
 ポケットから携帯電話を出して開く。
 細い眼鏡をかけた、ロングヘアの美人が出現した。
 才子の姉、彩恵さん……の立体映像だ。
「才子! いまどこにいるの?」
「はう、お姉ちゃん。多久沢さんのおうちにお邪魔してるですよお」
「あいつのうち? あんたまだあきらめてないの? まあいいわ、とにかくうちに戻ってきなさい! 今すぐに!」
「はう?」
 彩恵さんはマジに切羽詰った感じだった。
「父さんよ! 父さんが帰ってくるのよ!」
「そそそ、それは大変ですぅすごく大変ですよおお!」
「でしょう! 迎え撃つわよ! 撃たれる前に撃つ! それが大宇宙の掟よ!
「ちょ、ちょっと彩恵さん」
 ぼくは会話に割って入った。
「ん? モテナイ率400パーセントは黙ってて!」
「家族じゃないか、そんな『敵』みたいな扱いをすることないじゃないか」
 すると才子はちぎれそうに首を振った。
「わかってないですよ! 父さんは敵じゃないけど敵より怖いですよお!」
「あんたも見ればわかるわ。あっ才子、父さんは経度×××・緯度××に緊急着陸するそうよ!」
「はう? 緯度じゃわかんないですよお!」
「住所で言うと日本の××県××市××町1242よ」
 ぼくと母さんが顔を見合わせた。
「それ、うちの住所」
 次の瞬間、天井をぶち抜いて何かが降ってきた。

 四

 轟音。
 衝撃でぼくたちは吹っ飛ばされた。
 そして煙が満ち溢れる。
 少しずつ煙が晴れていく。
 床に、何かが突き刺さっている。
 ドラム缶みたいな筒だ。
 床の上に出ているのはごく一部らしい。
 筒が開いて、白衣姿の男が現れる。
 大変な長身だ。百九十はあるだろう。
 サリーちゃんのパパとターンAガンダムが混ざったような、満員電車に乗ったら隣の人の顔面に刺さりそうな、ものすごいヒゲを生やしている。
 整ってはいるけど怖い顔。
 ひと目見てわかった。
 これが、この生き物が、才子たちの父親だと。
「ふむ……」
 ヒゲの人物は鋭い眼光で室内を見渡す。
「おお! 才子ではないか!」
「は、はう父さんひさしぶり……お姉ちゃん教えるのが遅すぎですよお!」
 立体映像の彩絵さんも、引きつった顔で父に頭を下げた。
「……お帰りなさい、父さん」
「おお彩恵まで。ワガハイは嬉しいぞ」
 一人称ワガハイ。こんな奴見たことない。
「父さん、どうしてここに才子がいるってわかったですかあ?」
「いや、でたらめに着陸地点を選んだらここになったのだ。これを科学的に解釈すると……」
「すると?」
「愛の力だな」
「ちっとも科学じゃないわよ!」
「はうー、だいたい父さんが才子たちを愛してるとは思えないですよお」
「心外だな。誕生日プレゼントを欠かしたことはないし旅行にも連れて行ったぞ」
「そのたんびに才子たち死にそうです!」
「そんなことより!」
 ぼくは才子たちの親父に向かって叫んだ。
「どうしてくれるんですか、こんなに壊しちゃって! 上の階だってぐちゃぐちゃじゃないですか!」
 親父はぼくをじっと見つめた。
 ぼくがいることに今気づいたらしい。
「ふむ、なかなかうまくなったな才子。だが本物の人間というのはもう少し気品のある顔立ちをしているものだ」
「……多久沢さんは生身の人間ですよお。才子が作ったわけじゃないですよお」
「なに? ばかな?」
「才子が通ってる学校の後輩さんです。科学部の部員でもあるんですよお」
「はいってないって!」
「才子の学友なら挨拶せねばならんな。ワガハイは松戸博士(まっど ひろし)。マッドサイエンティストをやっている」
「それは見ればわかります」
「ところで父さん、どうせ父さんが来たからには何かトラブルも一緒なんでしょ、何があるの? どうしたの?」
「実はな。
 ……宇宙人が攻めて来るのだ」
「は?」
 呆然としたぼくと裏腹に、彩恵さんと才子は落ち着いていた。
「はあ……そんなことだろうとおもったわ」
「はうー」
「地球科学の代表であるワガハイとしては迎え撃たねばならんのである」
「なにが代表だか知らないけど、父さんが原因で攻めてきたんなら自分でなんとかしてよね」
「無論そのつもりだ。準備を頼んだぞ!」
「ちょ、ちょっと父さん!」
 親父は携帯のスイッチを切った。彩恵さんの姿が消える。
「マッドカーッ!」
 指をバチンと鳴らすと、床に埋まっていた円筒から車が飛び出してきた。昔のSF映画に出てきたようなグニャッとしたデザインの車だ。
 車は、倒れたテーブルを粉砕し壁を突き破って止まった。
「また壊れたー!」
「マッドサイエンスとは破壊の美学だ」
「ごまかさないでください!」
「ワガハイは事実を述べたまでだ。才子、乗れ」
「はう。ねえ多久沢さん、多久沢さんも乗ったほうがいいですよお!」
「なんでだよ?」
「多久沢さんも一緒に宇宙人と戦って地球を救うんですよお。その様子をテレビとかで全世界に中継するんですよお。いくら多久沢さんがアレな人でも人類を 救ったヒーローならきっとモテますよお!」
「う……」
 想像してみる。
 ちょっといいかもしれない。
「よし、ぼくも行く!」
「なに、君は女にモテたいのかね? そんなものはちょっと脳を改造すれば簡単だ、ワガハイもそうやって母さ
「危険発言ストップですよお! 早く行くです!」
「うむ。マッドカー発進!」
「あ、じゃあ母さん行って来る!」
 ぼくたち三人の乗ったマッドカーは、壁をぶち破り塀まで破壊して道路に飛び出した。
「わー!」
 道路に出てからもそのメチャクチャな走りは変わらなかった。
「ぎゃーっ!」
 制限速度なんて全部無視、対向車線を爆走し、赤信号を突っ切り、歩道に乗り上げる。
「いかれてるー!」
「マッドカーだからな」
 親父は満足そうに腕組みして答えた。運転してない。車がロボットで、勝手にこういう走りをしているらしい。
「いや、そうじゃなくて! 交通ルールとかぜんぜん……」
 急ブレーキと激突の音が背後で何度も。
「危険だし!」
「だが警察には見つかっていない」
「見つからなきゃ何してもいいんですか!」
 すると親父は深々とうなずいた。
「量子力学を知っているかね? この宇宙のあらゆるものは、『観測される』ことによってはじめて存在するのだ。したがってバレなければやっていないのと一 緒だ。これが科学の結論なのだ。これを否定する者は科学を否定する者である
「違うと思う。その解釈絶対違うと思う!」
 そのとき車がジャンプして、渋滞を飛び越えた。
「うあああ!」
「舌をかむぞ」
 
 五

 ようやく車は家についたらしい。
 やけにでかいけど普通の一軒屋だ。研究所には見えない。
「父さん!」
 門をくぐったところで彩恵さんが出迎えてくれた。
「うむ、帰ったぞ。準備は?」
「一応、父さんの作った兵器は出しておいたけど。お爺さんのアレはどうするの?」
「XWFー001か! あれも必要になるかも知れんな。出してくれ」
「はうー、ついにアレの封印解いちゃうですかあ!?」
「まあ、万一の用心だ」
 ぼくは吐き気とめまいで息も絶え絶えになりながら言った。
「なんで平気なんだ? あの運転で酔わないの?」
 親父は腕組みをしたまま答えた。
「精神力だ」
 そ、それは科学者の台詞ではない。
「はう、才子もう慣れちゃったです……」
 親父は車から降り立った。
 彩絵さんがロボットを引き連れてやってくる。ロボットたちは、変な機械を二つ、それから鉛色の箱を持ってきた。
 親父は庭に仁王立ちになった。
 「重力波」と書かれたメガホンを白衣のポケットから取り出すと、口にあて、天に向かって叫んだ。
「宇宙人の諸君!!!
 ワガハイは天才科学者松戸博士博士(まっどひろしはかせ)である!
 諸君らの敵はここにいる!!!
 惑星・地球を代表して相手になろう!
 さあ、かかってくるのだ!」
 そのとたん、頭上の雲が真っ二つに割け、巨大な円盤が現れた。
「むう、やはり悪の宇宙人は円盤に限る」
 妙な美意識に合致したらしい。親父はうなずいている。
 円盤から声が響いた。
「わかった。叩き潰してやる。我らの受けた屈辱を、この怒りを知るがいい!」
 こんな簡単に宇宙戦争が始まってしまっていいのかよ!
「ちょっと、まず相手に謝るとかないのか? あんたが悪いんだろどうせ?」
「失敬だな君は。ワガハイはただ、宇宙旅行中、急に便意を催してだな……」
 オチがすでに読めた気がする。
「しかし、なんとこの天才としたことが、宇宙船に便所を付け忘れていたのだー!」
「……それで?」
「ワガハイは便所を借りるべく、近くの星に突進、あらゆる防衛ラインを力ずくで突破し、便所を借りた! ところが! なんと紙がなかったのだ! ワガハイ はワガハイ自身の名誉のために、近くを歩いていた異星人の持っていた本を奪い、ページを一枚破って尻を拭いた! だがー! なんとその本は、その星の聖典だったのだ! 怒り狂った異星人たちは……」
 ぼくは親父のメガホンを取り上げてそれで殴った。
「やっぱりあんたが全部悪いんじゃないか!」
「では訊くがな! 便所に入って紙がなかったときの屈辱と! 恐怖を! 君は知らんのかね!」
「っていうか、行きたくなった時点で宇宙船改造して、便所つけりゃよかったでしょうが!」
 ぼくがそう叫ぶと、父・姉・妹の天才科学者三人はそろって眼を丸くした。
「て、天才……?」
「はう……」
「ふむ……その手もあったか!」
 だめだこいつらー! こんな奴らのせいで地球は終わるのかー!
「まあいい、すべては過ぎたことだ」
「ごまかすんかい!」
「宇宙人め! 受けてみるがいい我がマッドサイエンスを!」
 きいてないし。
 親父が叫んで、パラボラアンテナとチューリップの混ざったような機械のスイッチを入れる。
 すると機械からジグザグ型の光線が飛び出し、頭上の巨大円盤に吸い込まれていく。
 急に気温が急激に下がった。鳥肌が立つ。頬が痛くなった。地面がバキバキと凍っていく。空気中の水分が凍って、きらきら光るダイアモンド・ダストが舞い 散り始めた。
 冷凍光線……か?
 光線が命中した。円盤は爆発しなかった。だけど当たったところに大きなひび割れが出来た。外板がはがれていく。
「見たか! マイナス五万度の冷凍光線! 超冷気によってすべての物質構造は破壊されるのだ!」
「ちょっと父さん! マイナス五万度ってなによ!」
 彩恵さんが速攻で突っ込んだ。
「フッ、甘いな彩恵。ワガハイは天才であるからして、絶対零度などという無粋なものは意に介さないのである!」
「いや、無粋とか言われても!」
「はう! 撃ち返してきてますよお!」
 そのとおりだった。宇宙人もこちらそっくりのジグザグ光線を撃ってきた。
 向こうの光線とこちらの光線が激突した!
 ぐいぐいと押されてくる!
 ……って、光線ってのはぶつかり合うものなのか?
 深く考えないことにした。
「いかん押されている! 向こうの冷凍光線はマイナス十万度を超えている!」
 ついにこっちの光線は負けた。
 宇宙人のジグザグ光線が降ってくる!
 家の屋根より少し上あたりで、光線は眼に見えない壁にぶつかった。跳ね返った。
 そうか、当然バリアくらいはあるよな。
 でも冷凍光線では倒せないことがはっきりしてしまった。
「ならばこっちだ!」
 松戸博士はもう一つの機械を天に向けた。
 レールみたいなものが二本生えている変な箱。
「食らうがいい!」
 レールの表面を稲妻が駆けた。
 衝撃波でぼくたちは張り倒された。
 眼には見えなかったけど、多分弾丸が飛んでいったんだろう。
「秒速一億キロの弾丸だぞ! ただでは済むまい!」
「ふーん一億キロね、よかったわねー」
 彩恵さんは、もう突っ込むのをあきらめたらしい。賢明な判断だ。
「ぬうう!?」
 松戸博士はうめいた。
 円盤は、傷一つついていなかった。
「これでもか!」
 何度も何度もレールガンは発射される。
 だが円盤にはダメージゼロみたいだ。
 天から声がした。
「その程度の攻撃か! 愚か者め! 我々は光よりずっと速く飛べるのだぞ! たかが一億キロの衝突を防げないはずがあるか!」
「そ、そういうことか……」
 松戸博士は明らかにうろたえていた。
「父さん、まさかもう打ち止め?」
「残念ながらワガハイの武器はこれで全部だ。あの宇宙船に積んであったものは破壊されたからな……」
「それにしても、なんで攻撃が効かないのか解説してくれるなんていい宇宙人ですよお」
「才子もそんなこと言ってないで! どうすんだよ!」
「多久沢さんが戦うんですよお、そしてヒーローに……」
「無理だよ! いくら変身したってあんなデカいのどうにもならないよ!」
 そうしている間にも、宇宙人は例のジグザグ光線を連発してくる。バリアはそのたびに受け止めていたが、少しずつヒビが入ってくる。
 ……え? バリアってヒビが入るの?
 考えない、考えない。
「かくなる上は仕方ない。封印を解くぞ」
「……それ以外ないようね」
「はうー」
 三人は深刻な顔でうなづきあう。
「え? なんの話?」
「この箱よ」
 彩恵さんは、鉛色の箱を指差した。
「この箱には、お爺さんが作った『最終兵器XWFー001』が封印されているの。地球が侵略されてもう絶体絶命というときにだけ開けろって言われてるの」
「うむ、どんなものかはワガハイも知らんのだ」
「さっそく開けるです!」
 才子が飛びついて、箱の鍵をガチャガチャいじる。
 箱が開いた。
 中にあったのは。
 最終兵器「XWFー001」の正体は。
 木の棒と、その先にくっついた白い布。
 いわゆる「白旗」。
「え、XWFって……ホワイトフラッグ……?」
「Xは試作型ということか」
「そんなはずないわ! 白旗に見えるだけできっと凄い兵器よ! 銀河系くらいドーンと吹っ飛ばすような!」
「あ、マニュアルがあるよ」
 ぼくはそれを拾って、読み上げた。

「XWFー001 取扱説明書
 本製品の概要
 白旗です。
 本製品の特徴
 驚きの白さです。
 使用方法
 これを持って敵の前に立ち、にこやかに微笑みましょう。
 使用上の注意
 明るい中に虚無を秘めた絶妙の表情を心がけましょう。」

「じーさんのあほうー!」
「彩恵さん落ち着いて落ち着いて」
「確かに、父はこういうイタズラをやりかねない人間だったな……」
「なにもの思いにふけってんのよ! こうなったら手は一つよ! 謝るのよ! とにかく謝って許してもらうのよ!」
「うむ、仕方ないな」
 松戸博士はメガホンをまた空に向けた。
「宇宙人の諸君! ワガハイは降伏する。天才であるからして引き際も潔いのである。そもそもだな、たかが聖典のページ一枚でなぜそんなに怒っているのか。 偉大なワガハイの役に立てたのだからむしろ光栄と……」
「ますます怒らせてどーすんのよ!」
 彩恵さんが父を張り倒し、メガホンを奪った。
「松戸彩恵と申します! このたびはうちの馬鹿親父が大変なご迷惑をおかけして本当にもうしわけありません! 今度から外に出るときはポケットティッシュ を持ち歩くように、きつく言っておきますから!
 って、なんで私がこんなことを! もういやよー!」
 彩恵さんは壊れつつあった。
「おねえちゃん、父さん、もう一つだけ方法があるですよ?」
「ん? さすがワガハイの娘! なんだね?」
「なによ! 言ってみなさいよ!」
「ゴニョゴニョですよ」
「おお!」
「それは……いけるかもしれないわね!」
 一体なんだ?
「宇宙人の諸君!」
 また親父の方がメガホンで叫んだ。
「確かに通常の戦闘では、諸君らのほうが強いようだ! このままワガハイを殺し、地球を滅ぼすのはたやすいだろう!
 だが本当にそれでいいのか!
 諸君らの受けた屈辱は、相手を殺すだけでは晴らせないほどのものではなかったのか!
 そうだろう!
 だからワガハイは、『究極の戦闘方法』で戦うことを提案する!
 それは『ニラメッコ』という方法だ!
 ニラメッコとは古代バビロニア語で魂の決闘を意味する!
 この戦闘方法は単純!
 相手を笑わせれば勝ち!
 だが勝つためには、相手の心理や感情を読む洞察力、瞬間の判断力、そして自分が先に笑わないための、超人的な意志力が要求されるのだ!
 この戦闘方法は惑星・地球でもっとも神聖で格の高い戦闘方法! まさに魂と魂の闘い! 負けることは死よりもなお悪い、魂そのものの破壊なのだ! それ が我々地球人の文化なのである!
 さあ、どうする!
 たかが殺すだけで終わらせるのか!
 それとも究極の屈辱を与えるのか!」
 しばらくして、攻撃がやんだ。
「よかろう! 望みどおり貴様の魂を破壊してくれよう!」
「のったか! うむ!」
「全然違う土俵に引きずりこんだのか。やるなあ! でも、ニラメッコなら勝てる自信あるってこと?」
「それは多久沢さんしだいですよ」
「は?」
「これを重力波メガホンで読み上げるです」
 才子がぼくに何かを渡した。
「こ、これ……」
「がんばるですよお!」
「人類の未来は、地球の運命は君にかかっているのだぞ!」
「恥ずかしがってる場合じゃないわよ!」
「あ…ああ」
 ぼくはよろめきながら、メガホンを受け取った。
 そして、才子から受け取った紙を読み上げ始めた。
 ……ぼくが中学の時に書いたラブレターを。

「 前略
 いとしい××××さんへ

 夢を見せて 誰も知らない夢
 光を見せて 星の海さえ越える光を
 ぼくが君に願ってること。
 それは光と夢なんだ。
 君がもし答えてくれたなら、ぼくの世界はもっと輝くだろう。地動説の太陽のように中心で君が輝くだろう。
 だからああ、答えをぼくは待つしかない。
 ルルル ラララ パヤパヤー
 答えをぼくは待っている。
 すべての未来を照らしてくれる光を

 夢の狩人
 多久沢 優一より」

しばらく沈黙があった。
「ぷっ! ぷぷー! ゲラゲラ、ゲラゲラ、ヒイ!」
「くく……狩人ねえ……相手の子も困ったでしょうね、くくくっ……ははははは!」
「むう……かなり来るな……これは!」
「お前らに受けてもうれしかないわい!」
 ぼくは視線を空に戻した。
 円盤の各所で爆発が起こっていた。煙と火花が、巨体を包む。装甲板がはがれ落ちる。
 火を噴いた。傾いた。
 ふらふらと、ようやく浮いている感じだ。
「……地球人よ」 
  円盤からの声は、ひどく苦しそうだった。
「今の攻撃で乗組員の八十七パーセントが笑い死んでしまった。恐るべし地球人、恐るべきニラメッコ……い、いかん思い出してしまう。ルルル、ラララ……ぷ ぷっ! がははははは! うっ!」
 そこで声が別の声に切り替わった。
「……艦長は戦死された。もはや我らに戦うすべはない。完敗だ。おとなしく引き下がろう。だが必ず! 必ず我々は再びやってくる! 地球! この名は二度 と忘れん!」
「何度でも来るがいい!」
 親父が、偉そうに腕を組んで叫んだ。
 円盤は煙を盛大に噴き出し、部品をボロボロを落としながら上昇していく。
「はうー! 多久沢さんありがとうです! 地球は救われたです!」
「うむ、君こそ真の英雄だ!」
「嬉しくない……ぜんぜんうれしくないよ……」
「何を謙遜してるですか! 計画通りちゃんと中継したから多久沢さんの雄姿はみんなが見てるですよ! ヒーローですよお! もう断然モテモテですよお!」
「え? いまなんていった」
「そこのカメラで中継してるです。この闘いは最初から最後まで全部」
 才子が指差した先には、凄く小さな目玉みたいなものが浮いていた。
「……日本中に?」
「全世界にですよお!」
 そうなんだ。今の、世界中に見られたんだ。
 ぼくは、にこやかに微笑んだ。
 たぶん明るい中に虚無を秘めた、絶妙の表情だったと思う。

 第4話 「Cの福音」

 一

 目の前に化け物カレーが出現した。
 洗面器ぐらいある皿。
 半分は茶色い液体が、だぷんだぷん。顔を洗うのにちょうどいい量。
 半分は白いご飯が湯気を立てて。
 うわあ。となりのコップと比較するといかに化け物かがわかる。
 これが千四百グラムカレーだった。
「それでは挑戦者への説明を始めます」
 店員さんが神妙な顔つきで言った。
 ぼくは「や、やめときゃよかった」と思いながら聞いていた。
「制限時間は二十分です」
「ひい」
「一粒でも残したら失格になります」
「は、はあ」
「それでは健闘を祈ります」
 やるしかないのか。
「がんばるですよお!」
 向かいの席では、子供っぽいワンピースを着た大きめ丸眼鏡の女の子が嬉しそうに笑っていた。私服に着替えた松戸才子だ。
「スタート!」
 店員さんが、テーブルに置かれたキッチンタイマーを作動させる。
 ええい!
 ぼくは千四百グラムカレーに顔を近づけた。スプーンを突っ込む。
 食べる。また食べる。大食い早食いにはいろいろテクニックがあるらしい。ペースを一定にするとか味に変化をつけるとか……
 いろいろ考えていたはずなのに頭は真っ白、思い出せない。それどころじゃない。
 スプーンを往復させた。ご飯とスープを胃袋に押し込んでいく。
 ……ぜんぜん減らない!
 すくってすくって、確かに胃袋は内側から押し広げられていくのに、皿にこんもり盛られたカレーは相変わらず。このペースならもうなくなってるのが普通な のに端っこの方が少し減っただけ。せいぜい四分の一。
 なんて、化け物。
 そう思った瞬間、胃袋が「ぐりゅっ」と異音を発して身もだえした。
 混ぜてみる。ご飯をカレーに全部漬け込んでみる。あとで味なしご飯だけが大量に残るという悪夢のようなことだけは避けたい。生暖かい、ちょっと茶色く なっただけでほとんどなんの味もしなくなったご飯を、500グラムも1000グラムも食べなきゃいけないってことがどんなことか。考えただけで気が遠くな る。だからまだものを考えられるうちにやっておかないと。
 だけど、ああ、駄目だ。
 一瞬カレーを口にするのをやめたから、「ぼくは何をやってるんだ?」って体が思ってしまった。
 スプーンをカレーに突っ込んでみた。だが動かない。動かせない。
 水を一杯飲んで胃に刺激を与える。汗を拭く。そしてまた食べ始める。
 食べて食べて……まだやっと半分。
「はうー、あと九分しかないですよ半分過ぎちゃいましたよお、ペースアップするですよお!」
 才子が言った。冗談じゃない。そんなことできるか。
 ああ意識が遠のいてきた。なんで才子がここにいるんだっけ。何でぼくはカレー食ってるんだっけ。
 そうだ。才子にだまされたんだ……

 「才子の調べたところによると特技のある人ならモテのきっかけが作れるですよ! でもアニメに詳しくなっても逆効果だと思うですよ! 多久沢さんは勉強 も運動も駄目だから手近なところで大食いとかに挑戦してみるといい感じですよ! ほら商店街のカレー屋で大食い挑戦者募集してるですよお! たくさん食べてテレビに出るです!」

 なんていわれて、その気になって。
 ただ、たくさん食べるってだけのことがこんなにつらいなんて。
「才子さあ……」
「はう?」
「なんか薬ない? 胃袋をパワーアップできる薬とか」
「そんなの使ったらインチキですよ。自分の力でやるからいいんです! さあもう8分! ぜんぜん間に合わないです! もっと急いで!」
 ニコニコしながら、才子は言う。
 楽しんでるだろこいつ。
 無理やりスプーンを口に突っ込んだ。口のなかが、もう味も分からなくなった粘液とご飯粒でいっぱいになる。
 胃袋がぼくの意思に逆らってゴキュンゴキュンと異音を立てる。なにか重い塊が腹の中で転がってる。痛い。体が抵抗してる。水と一緒に無理やり飲み下した。
 苦しい……
「もうやめる……」
「駄目ですよお! 大丈夫です多久沢さんならまだやれます! 弱音を吐いたりできるうちはまだ余力がある証拠ですよお!」
「吐くとか言うなあ!」
 い、今の言葉で今の言葉で胃袋が大々的にポンプ活動を開始。
 立ち上がってトイレに駆け込もうとした。でも才子がぼくを見つめて、丸眼鏡を光らせながら言った。
「こらえるんですよお! 食べたらモテますよおー。食べモテですよおー」
 ううう……
「商店街のカレー屋さんで爆発ピー事件起こしたなんて知れたらもう大変ですよ。学校中に知れ渡っちゃうですよ? カレーゲロッパーの十字架を一生背負うで すよ? モテは永遠に不可能になるですよ?」
 そういわれると、もう少し粘ってやろうかって思う。
 大皿をにらみ付けた。
 8割は食べた。でもあとの2割を攻略するのがどんなに大変か。
 でも……
「食べればモテモテ食べればヒーロー食べればモテモテ食べればモテモテ」
 耳元で変なことをささやくな!
 ああ。
 食べたいのは山々だ。どうにかしてもっと食べたい。でも体が言うことを利かないんだ! 食べたい。でも食べられない。食べたい。食べたい。食べたい。
 ぼくはスプーンを持ったまま、震えながら、カレーをにらんでいた。
 食べたい、食べたい、食べたい……
 その瞬間だった。
 ぼくの中で、なにかが変わった。
 カチリと、スイッチが入った。
 胃袋の圧迫感が消えた。
 ちょっと動いただけで逆流しそうだったのに。
 逆にわいてきたのは空腹感だった。
 鼻がピクピク動いた。腹が鳴った。よだれが口の中にあふれてくる。ほんの一瞬前まで、カレーはもう嫌だなんて思っていたことが信じられない。
 食った。食った。いくらでも食える。
「は、はう!! 凄いです!」
 これまでの何倍もの速さでぼくは千四百グラムカレーを平らげた。
 スプーンをえぐるように皿にこすり付けて、粒一つも残さず食べる!
「完食したです! わあ! 店員さああん!」
 才子が店員を呼んだ。
 だが、ぼくにとってはどうでもいいことだった。
 カレーがなくなってしまった! 食べたらなくなるのは当たり前? うるさい! ぼくはカレーが食いたいんだ。あの鼻腔をくすぐる刺激的な香りが、生命の 熱気に満ちたあの褐色の液体が! 
「カレー!!!!」
 やってきた店員に、ぼくは絶叫した。
「は……完食おめ……」
「カレー! カレー食わせろ! もっと! もっと! もっと! カレーを! 今すぐに! もってこい! 大量に! 無限に! 永遠に!!
 店員は言葉を失った。
「もってこいといってるんだっ!!」
 ぼくはまた叫んだ。店員は慌てて走っていく。
「ど、どうしたんですか多久沢さん? カレーのうまさに目覚めちゃったですか? これで全国いけますね!」
「……」
 ぼくは返事をしなかった。
 それどころではなかったのだ。
 カレー。早くカレーをもってこい。もう三十秒経った。もうすぐ一分だ。あと何分かかるだろう。五分か。十分か。ダメだとても待てない今すぐ食べたい。
 食べたいカレーを食べたいカレーを食べたいカレーをおおおお!
 隣の席に座ってる奴に襲いかかった。張り倒す。皿を奪う。顔を皿にくっつけて、湯気を立ててるカツカレーを貪り食った。
 あっという間になくなった。
 まだだ! もっと! もっと!
 ぼくはその次の獲物を探した。悲鳴をあげる奴がいる。店員が血相変えて飛んでくる。
邪魔する気か!
 カレーを食べることを邪魔する奴は許さんぼくは口からボタボタとカレーをこぼしながら立ち上がった。
 と、そのとき首筋に冷たい痛みが炸裂した。
 振り向く。
 才子が、ぼくの首に注射器をつきたてていた。
「あ……」
 体から力が抜けていく。
 あの気持ちも消えていく。カレー……カレーがなんだっていうんだ?なんでカレーがそんなに食いたくなったんだ? ぼくはなにを……

 二

 ぼくは才子の家にいた。
 居間のソファに腰掛けている。
 隣には才子。消化器みたいにでかい注射器を抱えている。向かいには彩恵さんと親父が白衣姿で座っている。
 ……いつも白衣なのか、この人達は?
「……つまり、ある瞬間、カレーが食べたくて仕方なくなったのね?」
「うん」
 彩恵さんは切れ長の眼を真剣な光で……警戒心で満たしてる。
「すごかったですよお。カレー食わさねば斬る! みたいなノリでしたよお!」
「それで襲い掛かってしまった」
「うん……」
 自分でも、なんであんなことをしたのか全然分からない。
「ひとつ原因に心当たりがある」
 さっきから尊大百二十パーセントで腕組みしていた親父が言った。
「君はもしかして、昔カレーを粗末にしたことはないかね」
「……カレーのバチがあたったんですか?」
「科学的に消去法で考えるとそうなる」
「そういうのを真っ先に消去してくださいよ!」
「だって……」
 彩恵さんは言った。うめくような声だった。
「もう一つの可能性は、あまりに恐ろしいのよ」
 彩恵さんの声は、震えていた。
 隣の才子が身をこわばらせた。
「……お、お姉ちゃん。もしかしてお姉ちゃんが言ってるのは……」
「そう、アレよ」
 親父が眼を「ぐわっ」と見開いた。怖い顔だった。
「ありえん。アレは100年以上前、完全に撲滅されたはずだ」
「ねえ、何の話してるの? アレって何?」
「……才子、あなたが説明しなさい。一番詳しいでしょ」
「はう……多久沢さんは、ある恐ろしい病気にかかっている可能性があるんですよお。その病気の名は……印度人驚愕的激辛過食症候群と言うです」
「い、いんど人……!?」
 彩恵さんがあとを続けた。
「ドイツ語では『カレークイスギリッヒ・クランクハイト』。19世紀の欧州で荒れ狂い、世界最悪の疫病と恐れられた病気よ」
「そ、そんなの聞いたことないよ!」
「そうでしょうね。カレークイスギリッヒ・クランクハイトの存在はすべての公式記録から抹消されているから。でも本当のことよ」
「この病気にかかったものは、カレーのことしか考えられなくなるんですよお。仕事もせず家族も友人も捨ててカレーカレーカレー……カレーを絶つと幻覚が見 えて錯乱して、泡を吹いて死んでしまうです。しまいには一滴のカレーのためなら平気で人を殺すように……」
 なんてバカな……でも恐ろしい病気。
「第一次世界大戦でマスタード・ガスが使用されたのは、いまだカレーの恐怖を忘れていないヨーロッパ人が黄色いガスにおびえることを期待したからだ、とも 言われている」
「間違いなくその病気だよ」
「だが、そんなはずはない。カレークイスギリッヒ・クランクハイトは1899年、ドイツ帝国の誇る天才医学者、パウル・カーレンハイト博士とヨハネス・ シュタインハフ博士によって完全に滅ぼされた」
「でも、げんに症状がそっくりだったですよお!」
 その時、来た!
 ぼくの中で、なにか熱い塊がはじけた。
 カレー! カレーが好きだ!
 カレーを! もっと!
 ぼくは立ち上がった。「カレエエエエエエ!!!」と絶叫した。
「はう! もう鎮静剤が切れたですか!」
 才子がぼくにしがみついた。だが、注射器を突き立てられるより早く振り落とす。
 駆け出す。台所。台所はどこだ。カレーはあるか。ないなら用はない。カレーだ。カレーだけがぼくの全てなんだ。
「ギル2、やりなさい!」
 彩恵さんの叫び。天井がパカンと開いて、少年型ロボットが上下さかさまで現れる。光線を撃ってきた。
 視界が真っ白になった。手足から力が抜ける。
「カレエエエエエエ!」
 うめいた。でも起き上がれない。
「カレエエ、カレエエ!」
 才子がぼくの背中に乗った。また首筋に痛み。頭の中に響いていた絶対的な命令が消えた。
「うむ、まちがいない」
「父さん……」
「これはカレークイスギリッヒ・クランクハイトの症状そのものだ。彩恵、才子。現実を認めようではないか」
「でも。どうして……」
「ワガハイの科学的推論によるとだ。どうしてもカレーを完食したい、という強い想念が時空を歪め、過去から病原菌を招きよせてしまったのだ」
「いいのか、そんなアバウトな科学で!」
 ぼくのツッコミを親父は無視した。
「そんなことより重要なのは、事態をどうやって打開するかだ。才子に頼るほかなさそうだな……」
 全員の視線を浴びて、才子はふるふると首を振った。
「そ、そんなの無理ですよお! 世界中の医学系マッドサイエンティストが力をあわせてやっと退治したんですよお! 才子ひとりじゃ……」
「一人とはいっておらん。応援は頼む。だが時間はなさそうだからな……」
「どういうこと?」
 不審げな彩恵さんに、親父は答えた。
「100年前より、格段に症状の進み方が早い。この病気がここまで進行するのは半年ばかりかかるはず」
「つまり……時空の壁を超えたショックで菌が突然変異してパワーアップしてしまったと?」
「おそらくそうだろう」
 だからいいのか、そんな説明で!
「この少年の症状が最終段階に達するまで、この分だとたった数日ということも考えられるのだ! 応援を待っていたら全てが終わってしまう」
 とても怖い言葉をきいた。
「最終段階? 最終段階って? ただカレー中毒になるだけじゃないの?」
「いや。それは第二期に過ぎない。その後に第三期がやってくる。内臓がすべてカレーに置き換わり……体中の穴という穴からカレーを噴出して絶命する!」
「そんなああ!」
「才子、治療できるか?」
「……第二期まで進行した患者の快癒率は40パーセントしかないですよ……パワーアップしてるならなおさらですよお」
「……彼だけじゃないわよ、多分」
 そういって彩恵さんはテレビをつけた。
「……臨時ニュースです。××市の商店街で、数百人規模の暴動が起こりました。現地からのレポートです。暴徒はカレー屋を襲撃しているようです。なぜカ レーなのでしょう。ありったけのカレーを持ち出しているようです。あ、店を破壊しています。鍋で店員を張り倒しています。以上、現地の……ああ。それにし てもなんていい匂いの……ああ! ああ! カレーエエエエエ!
 画面が「しばらくお待ちください(熱帯魚の絵付き)」に切り替わった。
「あ、あわわわ……」
「……すさまじい伝染力ね」
「状況は一刻を争うようだな。才子、鎮静剤を大量に持て。行くぞ」

 三

 商店街は地獄絵図と化していた。
 男、女、子供、青年、中年、老人……あらゆる種類の人々が、カレーカレーと叫んで暴れていた。カレー屋はもちろん、レストラン、コンビニも襲われてい た。道端では一袋のレトルトカレーを取り合って少年たちが殴りあっていた。カレーを食った人間をみんなで蹴飛ばして吐かせようとしていた。
 そんな人達を、彩恵さんの連れた少年型ロボット数十人が捕まえて、注射していく。
 ばたばたと、気絶した人達が歩道に積み重なっていく。
「もう発症者は一万人を越えているわ。今の段階で食い止めないと本当に人類は滅亡するわよ!」
「はう! もう鎮静剤が底をつくです!」
「時間稼ぎにしかならんぞ。早く特効薬を開発せんか!」
 自分は何もしてないのにどうしてこの親父はいつもこうなんだろう。
「はうー。今ちょっと調べてるけど資料が少なすぎで作り方よくわかんないですよお」
 才子がノートパソコンと格闘していた。眼鏡が不安に曇っている。
「しかし、不思議だよな。こんなにすぐ伝染するんなら、真っ先に君たちがかかるはずじゃないか。ぼくのそばにいるのに」
「才子たちマッドサイエンティストは普通じゃないですから。病気くらいでどうにかなってたらマッドサイエンス的実験には耐えられませんよお」
「鍛えられてるのよ。爆発とか暴走とか汚染とかで」
「そ、そう……」 
「いい考えがあるわ。なにも薬で治すことはないのよ」
 彩恵さんはそう言うと、少年ロボットに命じて、巨大なトランクを持ってこさせた。
「どうするですか?」
 トランクの中から現れたのは、上半身だけのロボットだった。タキシードにシルクハット、蝶のようなマスク。
「催眠術ロボット『クルクルさん一号』よ! さあ、お前の力を見せてやりなさい!」
 クルクルさん一号は白い手袋に包まれた手を突き出した。彩恵さんを指指す。指をグルグル回した。渋い声で言う。
「お前は鳥だ、お前は鳥だ、お前は鳥だ……」
「……!」
 彩恵さんはうっとりとした表情になった。両腕を伸ばし、甲高い声で叫ぶ。
「コケー!!!」
 そのまま腕をばたばたさせ、髪を振り乱し、眼鏡を落として走り去っていった。
「すげえ効き目!」
「これなら病気も治せるかもしれないです!」
 そのとき一人の男が、歩道からむっくり身を起こした。早くも鎮静剤が切れたらしい。
「カ、カレー……」
「よし、さっそく!」
「クルクルさん一号! あいつをカレー嫌いにするんだ!」
「了解」
 クルクルさんは腕で体の向きを変えると、そいつに向かって指を突きつける。
「催眠強度六十パーセント! お前はカレーが嫌いだ、お前はカレーが嫌いだ、お前はカレーが嫌いだ……!」
 男は全身を硬直させた。
「か……レー?」
 道路に突っ伏して、うめいた。
「なんでカレーなんか食いたがってたんだろう。あんなの見るのも嫌なのに……ああ! あんなとこにカレーが! あっちにもこっちにも! いやだああ!」
 男は泣きながら逃げ去っていった。
「やった!」
「よし! もっと催眠術かけまくるですよ!」
 クルクルさん一号は深々とうなづくと、まだ暴れている人達を指差して叫んだ。
「かしこまりました。……催眠強度八十パーセント! お前はカレーが嫌いだ、お前もカレー嫌いだ、お前も、お前も……みんなカレー嫌いだ!!」
 その言葉を浴びせられた途端、みんな悲鳴をあげる。
「うわああああ! カレーだあああ! やめろおおお! 俺にカレーを近づけるなあ!!!」
 一目散に逃げていく。服についているカレーの匂いに耐えられないのか。上着やズボンを脱ぎ捨てる人もいた。
「簡単だったね!」
「うむ。ワガハイほどではないが、さすが彩恵は天才だな。その調子でしっかり頼むぞ」
「はう……あれは?」
 才子が指で示したのは、最初にカレー嫌いの催眠術をかけた男だった。
 うつろな表情でブツブツつぶやきながら、半壊したカレー屋を目指している。
「……どうしてカレーが嫌いだなんて思ったんだ。食いたくないなんて思ったんだ。カレー最高なのに。カレーさえあれば何もいらない……!」
 も、戻ってる?
「どういうことだよ、クルクルさん一号!」
 クルクルさんは口元を歪めた。
「……私の催眠力とカレークイスギリッヒ・クランクハイトの症状が拮抗しているためです。振り子のように、嫌いになったり好きになったりするのです」
 さっき逃げていった人達も戻ってきた。口々にカレーカレーと叫びながら。
 かと思うと、またカレー食いに行った奴が「うわああカレー怖いー!!」と叫んで店を飛び出してきた。号泣している。
「一分おきに入れ替わるようです」
「これじゃますます厄介じゃないか」
 クルクルさん一号が唸った。
「ううむ。催眠強度をあげてみます。催眠強度百二十パーセント! 君たちはカレーが嫌いだ! 嫌いだ! 嫌いだ!嫌いだ! 嫌いだ! 嫌いだ! この世の何よりも嫌いだ! 憎んでいる! 敵だ! 敵なんだ! 滅ぼしてやりたい! そう思っている! 見たくない! 近くにあるのもいやだ! そのくらい嫌いなんだ! 断じて好きなんて事はない! さあ、嫌いになれ!!」
 見渡す限りの範囲にいたカレー中毒者が、全員その場にうずくまった。
「カレー嫌だああ!」
 ところが、そう叫んで立ち上がった次の瞬間にはこう叫んだ。
「カレー大好きー! カレー食わせろ!!」
 そういってカレー屋に駆け込もうとした。そこでまた切り替わった。
「カレーだ! 助けてええ!」
 回れ右して、全力疾走で逃げさる。数歩進んだところでまたまた切り替わる。
「カレーハアハア!」
 全員がこんな調子だった。二秒くらいで大好きと大嫌いが切り替わり、その場を行ったりきたりしていた。
「サイクルが早くなっただけじゃないか!」
「うむ。催眠力が強くなればなるほど、それに抵抗して病気の支配力も強くなるということか。これぞ作用・反作用の法則だ。実に科学的である!」
 そうかなあ。
「はうー、全然役に立たないですよお!」
 その言葉にクルクルさんは反応した。
「や、役に立たない? 私が?」
 頭を抱えた。
「そ、そうか、そうだよな、役に立たない、わたしはぜんぜん役に立たない。私は無能、私は用なし、私はゴミ、私はポンコツロボット……」
 うわ! やばい! 自分の言葉で暗示にかかってる!
「私はダメ、私はダメ、私はダメ、私はダメえええええ!」
 ぼむっ!!
 クルクルさん一号は頭から煙を吹いて沈黙した。
「……クルクルさんが!」
「だらしのない奴だ」
「才子! もっと他の方法はないのかよ?」
「ちょっとまってくださいよお! やっぱり薬作るしかないですよお!」
「前回はどうやって治療したの?」
「結局薬では治せなくて、印度の山奥で修行してカレー奥義を会得し、それで治したです。修行の仕方を間違えてレインボーマンやダルシムになる人が続 出したです。このレインボーマン・ダルシム大発生がドイツに神秘主義を流行させ、やがてナチスドイツ誕生に繋がったという説もあるですよ」
「修行なんかしてる暇ないよ!」
「だから他の手を探しているです……あ! お姉ちゃん!」
「コケーコココ!」
 まだ催眠術にかかったままの彩恵さんが、両腕で羽ばたきながら駆け寄ってきた。
「コケココココ」
「なに言ってるかわからないですよ!」
「コッコッコッ!」
 クチバシで……と言いたいところだけど体は人間のままだから顔面で、彩恵さんはクルクルさんの残骸を指し示した。
「はう? それはもう壊れてるですよ? だからお姉ちゃん元に戻れないですよ!」
「ココココ!」
 首を左右に振った。
「違う?」
「コッコ!」
 今度は少年ロボットの集団を指す。少年ロボットたちは光線を出して、暴れる中毒者たちを捕らえている。
「ギルたちがどうしたですか?」
「コココー!」
 またクルクルさんの方を示す。
「ロボット! ロボットって言いたいんですねお姉ちゃん!」
「コー!」
 ブンブンと首を上下に。
 そして口をパクパクさせ始めた。
「はう? 食べる? 食べるですか? 食べる……ロボット!? はう! お料理ロボットですね!」
「コケコッコー!」
 嬉しそうだ。当たったらしい。
「来るですよお!」
 才子はノートパソコンで何か操作をしている。
 すぐに、全身真っ白のロボットが駆けつけた。といっても白衣じゃない。コックの格好だ。帽子までかぶっている。
「究極コックロボ一号! これですね!」
「コココ!」
 上下にぶんぶん。
「料理には料理! カレーよりうまいものを作ってやればいいんですよお!」
「なるほど一理あるな! よしコック! お前に究極のハヤシライス製作を命じる!!」
「かしこまりました」
 コックロボの腹が開くと、中から腕が何本も生えてきた。すさまじい早さで料理を作り上げていく。
 黒い液体が完成した。ご飯にかけられる。カレーとは全く違う甘酸っぱい匂いが充満した。
 う、うまそう!
「さあ、食べるです!」
 患者の一人がギルによってつれてこられた。患者は抵抗した。
「い、嫌だ! 俺はカレー以外のものに興味はない! カレー以外のものを食べたら魂が穢れる!」
「いいから食べるです!」
 口に中に無理やりスプーンを突っ込んだ。
「……!!!!」
「どうですか?」
「おおおおお! うまああああい!」
 あとは、ガツガツと犬のように平らげた。
「カレーとどっちがいいですか?」
 才子は問いかけた。もう答えは決まっていた。男の目に、表情に喜びがあふれていたのだ。
「断然こっち! 最高だ!」
「カレーを食べたいとは思わないですかあ?」
「うまいほうがいいに決まってるじゃないか?」
 本当にうまいものの力なら、中毒をも打ち破れるのか!
「よし、他の患者にも食わせるのだ!」

 四

 治療は完璧にうまくいった。
 コックロボの作った究極ハヤシライスを口にしたものは、みなカレーの呪縛から解放された。カレーはたくさんある食べ物の一つにしか過ぎなくなったらし い。ロボットは商店街にいた人間全員に食べさせて回った。みんな治った。それっきり二度と症状は現れなかった。
 こんな治し方があるなんて、と才子は驚いていたが、現に効いてるんだから仕方ない。
 そして……

 五

 ぼくたちは松戸家の居間にいる。
 みんなでテレビを見ていた。
「……次のニュースです。ハヤシライス依存症が爆発的に増大しています。ついに痛ましい事件が起こりました。本日未明、××市××町のファミリーレストラ ンに、拳銃のようなものを持った四人組の男が押し入り、店のハヤシライスを全てよこせと要求しました。店長がメニューにないと応じると男たちは大暴れ、店 を破壊して逃走。この事件をきっかけに全国で同様の事件が続発しており……」
 ぼくは彩恵さんを見た。
「彩恵さーん!」
「お姉ちゃん!」
「彩恵!」
 彩恵さんは両腕を上げた。
「コケーコココ!」

 第5話  タイム・ディープ

 一

 たくさん本が入るリュックを背負って、買いすぎてそれでも容量が足りなくなったときのために紙袋を用意した。
 秋とは言え、会場はかなり暑くなる。だからPETボトル入りのお茶を用意した。
「母さん、行って来るよー」
 ドアを開けた。
 廊下に、ぶかぶか白衣を着た女の子がいた。
「どこに行くですか!」
 松戸才子だった。丸い眼鏡がきらっと光る。
「な、なんで君が!」
「どこに行くかと訊いてるですよ!」
「えーと……同人誌を買いにいく。『琥珀さんオンリー同人誌即売会 あはっ出しちゃえ2003』っていう奴」
「それがいけないですよ!」
 才子は大げさに首をブンブン振った。
「ただでさえ多久沢さんはモテっこないのに自分からオタ全開してどうするんですか! モテ計画あきらめたですか?」
「い、いや、諦めてはいないけど……ほらぼくだって息抜きしたいことはあるし、こないだ才子はオタでもモテる人はいるって言ったから……」
「調べてみたけど、やっぱりアレは特別なエリートオタの話ですよお。多久沢さんは人よりずっと下だからそんな事できるわけないですよ!」
「でもほら、『自分の世界を持ってる人が好き』っていう女の子いるじゃないか? だから別にオタでも……」
「あれは女の子が『あなたはいい人』っていうのと同じ社交辞令ですよ! 実際には『いい人』じゃなくて『どうでもいい人』だと思われてるですよ!」
「え? そうなの?」
「まったく……とにかくモテない原因は一つでも少ないほうがいいです! いますぐオタをやめなきゃダメです!」
「それを言いたくてわざわざ来たの?」
 ヒマ人だなあ。
「口で言っただけでは無駄だって分かってるですよ。だからこれから才子と一緒に脱オタ特訓をするですよ!!」
 小さい手で袖をつかまれた。
「あんた何やってんの?」
 母さんが出てきた。
「あら松戸さん! あがっていって! ごめんねうちのバカのためにわざわざ」
「はう、ちょっとお借りするです!」
「優人! 松戸さんの言うことをよくきくのよ!」
 ……。
 ぼくは弱々しく首を振った。
 母さんは完全に才子をお目付け役みたいな感じで認めてしまってる。
「……行って来る」
 ドアを閉めると、ため息をついた。
「きみ、母さんに好かれてるね」
「生まれてはじめて息子にできた、女の友達だからじゃないですか?」
「女の!? 君が?」
「……人のことよく言えるですね! それより出発! 時間がないです! 症状はだんだん進行していくですよ?」
 才子はペタペタという変な足音を立てて歩き出した。ぼくはそのまま引っ張られていく。
「ちょ、ちょっと引っ張らないで。みんな見てるよ」
 住宅地だからそうでもないけど、やっぱり通りがかった近所のおばさんとか子供とかが見ている。
「多久沢さんが『ヤダ、オタ? キモ!』とかそういう目で見られるのは元からですよ!」
「……」
「まずテストをするです」
 才子は紙を何枚か出して広げた。
「テストっていうと?」
「オタ度判定テストです。まず多久沢さん。『マーク2』という言葉から何を連想するですか?」
「……そりゃもちろん、ガンダムマーク2」
 才子は立ち止まった。笑っているような泣いてるような微妙な表情をしている。
「違うの? じゃあエルガイムマーク2」
「……他に何かないですか?」
「……うーん、そうだ! これなら確実だ。レイズナーマーク2!!
「……次の問題! 『Uー20』ってなんですか?」
「そりゃもちろん、名前からして潜水艦でしょ?」
「ああもう! それも間違いではないですけどおお! 『MS』は何の略ですか?」
「モビルスーツ」
「ATは! 」
「アーマードトルーパー以外に何かあるの?」
「じゃあアステルパームってなんですか?」
「魔法少女の新しい奴?」
 才子は頭を弱々しく振った。
「ハイデッガーって?」
「勇者シリーズ?」
 才子はその場に座り込んで頭を抱えた。
「あああ……お姉ちゃん、才子はもうダメっぽいです……」
「どうしたのさ?」
「ここまで終わってる人だとは思わなかったです。この世にはコミケ会場と秋葉原以外の場所もあるんですよお!?」
「分かってるって。他の即売会もあるからね」
「ぜんぜんわかってないですよ!! そんなことで生身の女に相手にされると思ってるですか!?」
「君、今もしかしてすごいこと言わなかった?」
「真実ですよ! ちょっとこれをはめれば治ると思ったのに……」
 才子は白衣の「異次元ポケット」から金色の輪っかをとりだした。
「なにそれ」
「これを頭にはめると、オタっぽいことを考えるとギリギリ閉まるですよ! これをはめたまま秋葉原に放り込んで、しばらくのたうち回らせればたいていのオ タは治るですよ! でも多久沢さんの場合は治る前に頭がグチャッといっちゃいますから駄目です」
 才子は立ち上がり、腕を組んで考え込み始めた。
「オタの駄目っぷりをさんざん見せるのはもう慣れてるからムダですしぃ……うーん……やっぱりこれしかないですねえ……」
 ごそごそと、薬の入った巨大ビンを出す。
「それは?」
「多久沢さんはなんでこんなに終わってるのか? きっと幼い頃に人生が大変腐ってしまう感じの出来事があったに違いないです。それをもとから断つですよ!  オタ人生を変えるですよ!」
「じゃあ、その薬は時間を超えるの?」
「そういうことです。この薬を飲むと脳のある部分が活性化されて量子力学的な場が発生して時空を超えるですよ!」
「もしかして自分でも原理分かってないでしょ?」
「はう……物理学は才子の専門じゃないですよお。だから原理は今適当に考えました」
「え……?」
 ぼくは凍り付いた。それって……
 才子は薬のビンを両手で持って、とても嬉しそうに微笑んでる。才子が嬉しそうであればあるほど事態は危険であることを最近になってやっと学習した。もちろんもう 遅い。
「……どういうこと?」
「用務員さんに悪いなーと思って水虫の薬をもう一回作っていたですよ。そしたら偶然この薬ができちゃって……」
「なんでそうなるんだよ!?」
「『おまたせしたですよ! これさえ飲めば水虫なんて一発ですよ!』とか言ったら大喜びでグビッと……そしたら用務員さんごとバシュッと消えたですよ!  父さんのタキオンレーダーで追跡したら八百年後の世界に飛んでいったらしいですよ。でも八百年後の科学なら水虫なんて簡単に治るから才子嘘ついてないです よ!」
「ぼく帰る!」
 そう叫んで帰ろうとした。くるっと回って早足で歩きだす。
 だって、今度こそ死ぬぞ。
 でもベルトのあたりをつかまれた。
「一生女の子とつきあえなくてもいいですか?」
 振り向いて、むっとした顔の才子にぼくは叫んだ。
「……時空のかなたに吹っ飛ばされるよりはマシだ!」
「その問題なら解決したですよお。用務員さんの尊い犠牲があったからいろいろ分かったです。もう制御できますよお!」
「……君の言うとおりやってうまく行ったことがあるかい!?」
「じゃあ自力でできたことがあるですか!?」
 今度はぼくが硬直した。
「い、い、言い過ぎ!!!」
「事実を認めるのは科学の第一歩ですよ!」
「そんな科学は嫌だ!」
「っていうか、こないだお姉ちゃんが活躍したから、才子も凄いことをやってお姉ちゃんをギャフンといわせたいですよ! マッドサイエンティストとして才子 の方が上だって分からせるですよ! ところでギャフンって何語?」
「結局、ぼくの事なんか考えてないんじゃないか!」
 才子はえらそうに腕を組んだ。
「それは仕方ないですよ。マッドサイエンティストは『マッドサイエンティスト三原則』に従わなければいけないんですよ!」
「……なにそれ?」
 才子はポケットからプラカードをにょきっと出した。
 こう書いてある。
 『マッドサイエンティスト三原則
 第一条 マッドサイエンティストは周囲に迷惑をかけなければいけない。
 第二条 マッドサイエンティストは第一条に反しない限り、他人の挑発やおだてに乗らなければいけない。
 第三条 マッドサイエンティストは第一条および第二条に反しない限り、自分を守らなければいけない。』
 ぼくはわめいた。
「なんて迷惑な原則だああ!」
「でも、これはすべてのマッドサイエンティストが守らなければいけない絶対法則なんですよお!」
「知るかああ!」
 今度こそ才子から逃げようと、ぼくは走りだし……
 走ろうと思ったんだけど、そのとき何かがヒュンと飛んできた。
 首筋に鋭い痛み。
 手で首を探る。小さな注射器が刺さっていた!
「さあ、もう体内に薬がはいったですよお」
 才子はにっこり笑っていた。
 いつの間にかプラカードはしまわれていた。
 かわりにシャープペンシルみたいな極細の注射器が指の間に挟まれていた。
「そ、それって……」
「口から飲ませなければ効かない、なんて才子いってないですよ?」
「わあああ!」
 どうすればいいんだ。飲んだんなら吐けばいいかも。でも注射は……
「効果は一分以内に表れるです」
 そう言って、才子は自分の腕にも注射した。
「この薬によるタイムトラベルは強い思念によってコントロールできるですよ! つまり行きたい時代を力いっぱい念じればいいわけです! 五年前くらいがい いと思うですよ? さすがにその頃はまだオタじゃなかったでしょう? その頃から人生を修正すればいいわけですよ!」
「五年前……」
 もうこうなったら行くしかない。
 五年前、五年前。その単語だけを何度も念じた。
「才子も五年前に行きますから、勝手に時代を変えたら離れ離れになりますよ? 絶対ダメですからね?」
「わ、わかった」
 五年前、五年前。
「声優だれだれさんの若い頃に会いたいとか、有名漫画家が無名だったころに出してた同人誌が欲しいとか、そういう雑念はだめですよ?」
「いま君が言ったせいで雑念がうまれちゃったよ!」
「こらえるです!」
 五年前! 五年前!
 全身に、痺れるような感覚が走った。
 そして周りにある家が、道が、通行人が、空が、ぼんやりとかすんで消えていく。
 
 二

 しりもちをついた。
 道路の上だ。
 あたりを見回す。
 ぜんぜん変わったように見えない。
 さっきまでとおなじ、うちのすぐそばの住宅地だ。
 時刻も変わってない。
 あ、でも、よく見ればちがう。
 あそこには自販機があったはずなのに、ない。
 あの家も少し変だ。屋根の形が変わってる。たぶん建て直す前って事なんだろう。
 たしかに時間をさかのぼったんだ。
「はう……いたいです」
 声がしたほうをみると、才子が顔面直撃な感じで倒れていた。じたばたと起き上がった。不思議なことに、彩絵さんと違って眼鏡が落っこちてない。
「あ、ちゃんと時間戻ってますね」
 才子は腕時計を見て言った。たぶんただの腕時計じゃなくて超空間ナントカ、タキオンナントカなんだろう。
「五年じゃあんまり変わらないなあ」
「商店街のほうに行ったらちょっとは違いが分かると思うですよ」
「……でもさ、場所がまったく同じってのはどういうこと?」
「この薬には空間を移動する力はないです」
「だったらおかしいじゃないか。地球とか太陽とかは全部動いてるんだから、時間だけ十年前に戻ったら地球はそこまで来てなくて、宇宙に出現することにな る」
 すごくもっともな事を言ったつもりだったけど、才子は指を立てて左右に揺らした。
「ちがうですよー。それは相対性理論に反してるからありえないです。『静止する』ってのは絶対空間の存在を前提にしてるから出てくる考えですけど、ホント は絶対空間なんてないんですよ。あくまで時間移動は地球の慣性系の中で行われるから一緒についてくるですよ」
「……あのさあ。どうしてそういうところだけ科学的なの?」
 才子は胸を張った。
「サイエンティストですから!」
「ウソだ! ぜったいウソだ!」
「まあ、そんなことより……」
 あ、逃げた。
「当時の多久沢さんはどこにいるですか? 早く人生を正してあげるですよ」
「いや、だからさ」
 ぼくはため息を付いた。
「ぼく転校してきたんだよ? この町には住んでなかったの!」
「じゃあどこにいたですか?」
「××県××市」
「半日はかかるですよ!」
「仕方ないだろ。今度から空間移動もできる薬を作るんだね」
「……駅に行くです」
「電車で行くの?」
「才子は薬が専門だから移動メカとか持ってないですよ!」
「電車で移動するマッドサイエンティストなんてきいたことないよ!」
「黙るです!」

 三

 やっと着いた。
 もう夜の八時になっていた。
 ぼくがついこないだまで住んでいた団地を見上げて、才子は言う。
「はうー、ここが多久沢さんの家。ここにはまだ汚染されてない、真人間の多久沢さんがいるですね」
「……君、オタに嫌な目にでもあわされたの?」
「内緒ですよ。さあレッツゴーです!」
「ちょっと! なんて言ってあがりこむんだよ!」
「そりゃもちろん、『ハイ、ぼくは五年後の君ですよー。アニメなんか見てたらこんなになりますよー、だからやめましょうね』」
「信じるわけないだろ!」
「子供は純朴だから信じるですよ?」
「だいたい、子供がアニメ好きなのは当然じゃないか。十歳で生身の女の子に興味ありまくりでもてたいもてたいって言ってたら、そっちの方がよっぽどおかし いよ!」
「甘いです! そういう常識論を言っていいのは普通の人だけです! 多久沢さんはそのくらい小さい頃から英才教育してやっと一人前なんですよ!」
「……!」
 ひどい。そう思ったけど言い返せない。
 と、そのとき……
「うちの前でなにやってるの?」
 子供の声がした。
 そこに現れたのは。
 五年前の……小学生のころの、ぼくだ!
「あ……」
「多久沢さん? どうしたですか? もしかしてこの子が……」
「うん」
「か、かわいいですよお!! 信じられない!!」
「お兄ちゃんたち、だれ?」
「えーと……」
 どう答えればいいのかわからない。
 そこにまた誰かがやってきた。
「おおい待ってくれよお! ゆうとー!」
 ゼエゼエと息を切らして、もの凄く太った男がやってきた。年は三十歳くらい。
 ……ぼくはこの人を知っていた。
「おじさん……」
 ぼくが子供のころになついていた、おじだ。今でも趣味が一致してるからたまに会う。
 才子はひそひそ声で話しかけてきた。
「……誰ですかこの人?」
「おじさん。アニメ雑誌とかで書いてるライターで、すごくアニメとかに詳しくて。この頃父さん母さんが二人とも働いてたから、ぼくの面倒はおじさんが見て くれることが多かったんだ。ぼくがオタになった原因の一つじゃないかな」
「じゃあ今すぐ抹殺しなきゃダメですよ!」
「才子、声が大きい!」
 おじさんが話しかけてきた。
「おいおい、ひとの家の前でなに物騒なこと言ってるんだよ。誰を抹殺するって?」
「あ……」
「才子黙って! あ、なんでもないです! 行こう!」
「モガモガ口ふさがないでモガモガ! 子供の頃の多久沢さんに警告モガモガ」
「……ちょっと待った、なんで君たち、この子の名前知ってるの? そもそも誰? 優一くん、この人達知ってる?」
「しらない」
「知らないってさ。君たちは誰だ?」
「才子たちはタイム……」
「わーわー! いや別にその、正体はあかせないのですが……」
 才子が耳元でひそひそと、
「どうして言っちゃいけないですか?」
「タイムトラベルが本当にあるなんて分かったら、ぼくは別の方向のオタクになってたよ! SFオタクか、科学オタクか、なにかの拍子にオカルトオタクって ことも……」
「それはそれでまずいですねえ」
「君たちさ、全部聞こえてるんだけど」
「はうー!!!」
 才子、ほっぺたを押さえて仰天。
「分かりました。ええと、ぼくたちは、未来からタイムトラベルしてきたんです。
 ぼくは、五年後の多久沢優一なんです。それからこいつが、タイムトラベルする薬を発明したマッドサイエンティストです」
 おじさんは驚かなかった。
「……嘘をつくならもっとマシな嘘をついてくれよ」
「うわ、全く信じてないですよ!」
「オタクって意外と、現実とフィクションを分ける人種だからね。超能力とか宇宙人とかは、あくまで話として好きなだけで」
「才子、現実ですよ?」
「いや、何かの悪い夢だったらいいなあと、ぼくはいまでも思う」
「ひどいですよ!」
「つまんないこと言ってないで! 君たちは何の誰で、何の用なんだよ?」
「正体は信じてくれないみたいだから目的を話すです。
 分かりやすく言うとですね!
 優一くんにオタク教育を施すのをやめてほしいですよお!」
「……オタクがどうしてわるいんだい?」
「えーと……」
「非難するんなら、それなりに知った上でいってるんだろうね? まず訊くけど、ガンダムは何色?」
 才子は戸惑った表情を浮かべた。
 ガンダムの色はだいたい白いけど、でも一言では表現できない。
「はう……ガンダム色?
「そんな色があるか!」
「はう。だって空は空色で水は水色で灰は灰色だから、ガンダムはガンダム色です」 「ダメだ。君はわかってない!」 「その質問には、『どのガンダム?』って確認しなきゃ答えられないんですよね。あと、どの状態ってのも訊かないと」
「お、君はわかってるなあ! それにひきかえこっちの彼女は……」
「そんなことどうでもいいです!
 ずばりって、優一くんはこのままではアニメとかゲームとか漫画のことばっかり詳しくなって、一生現実の女の子と付き合えないですよ! それはあなたが原 因ですよ! いますぐ悔い改めるですよ!!」
 おじさんは「ふん」と鼻で笑った。
 この手のことはおじさん自身いろいろ言われてるから痛くも痒くもないんだろう。
「べつにオタクでもいいじゃないか。好きなもの、楽しいものがあるってのはすばらしいことだよ?」
「今はいいけど後がダメですよ! でもこの子の人生が台無しになるですよ!」
「そんなことわかりゃしない。恋愛でも何でもいいさ、本当にオタクであることを捨ててまでやりたいことがあるなら自分の意思で捨てるだろう、それをしない のは趣味のせいなんかじゃない、本気でやりたいと思ってないからだよ。趣味のせいにするなんて最低じゃないかな?」
 言葉が出なかった。ため息さえ。
 ……おじさんの言うこと、正しいかも知れない。
 才子も何も言い返せないらしい。
「さあ、分かったんならどいてくれ。ぼくはこの子に本当のガンダム色を見せてあげなきゃいけないんだ」
 そう言っておじさんは、紙袋を持ち上げて見せた。中にプラモがたくさん入っている。
「ちょ、ちょっと……」
 才子はまだ食い下がろうとしたけど、おじさんは無視してその脇を通り抜け、団地の階段を上がりはじめる。五年前のぼくが続く。
「ねえ! えーと多久沢くん!」
 今度は子供のほうに話しかける才子。
 こっちを説得できないかと思ったんだろう。
 でも。
 振り向いた「五年前のぼく」を見た瞬間、「ああ、ダメだ」とわかった。
「おじさんは、おまえたちなんかにまけないぞ!!」
 「おじさん」に対する本物の敬意が、その口調、表情、きらきらと光る目に満ち溢れていたから。
「……ゆ、ゆういちくん」
「なんだよ!」
「おじさんのこと、尊敬してるの?」
「うん! すごくいろんなこと知ってて面白いし、さっきの最高にかっこよかったじゃん! ぼくも大きくなったらおじさんみたいな立派なオタクになるん だ!
 そう言うなり、階段を駆け上っていく。
「……」
「……」
 ぼくと才子は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「多久沢さん。もしかしてこれって」
「ああ。思い出した。ずっと昔、うちに変な人が来てアニメとかの悪口を言ったんだ。そしたらおじさんが凄くかっこよく言い返して、変な奴らを追っ払っ て……それでしびれて、ぼくもああなろうって……確かに思った」
「そ、それじゃあ……」
「うん。ぼくがオタクになったのは、ぼくたち二人がこの時代に来たからだね」
「いわゆるタイム・ループですかああ! ありがちすぎるですよ! 納得いかないですよお!」
「あのさあ、もう無駄なんじゃないかな、帰ろうよ」
 ぼくは才子の肩に手を置いてそう言った。
「いやです! まだです!」
 お下げごと首を激しく振る。
「こうなったら……こうなったらアレしかないですよお!」
 眼鏡が真っ白く光っていた。
「な、なにをするのさ!!」
「多久沢さんがオタであることを変えられないんなら! 世界の方を変えてしまえばいいですよお! メソポタミアとか古代中国とかに行ってアニメ・マンガを 教えて教えて教えまくるですよ! 直立猿人までさかのぼってもいいです! 人類がはじめて持った道具は棍棒じゃなくてGペンとトーンナイフだ、という風に 変えるんですよ! 人類の文明そのものをオタ知識で埋め尽くせば、すごいオタ=偉人という価値観になるですよ!!」
 才子の両手が閃く。次の瞬間には極細注射器が左右四本ずつ握られていた!
「うわああ! やめろお! そんなことのために人類文明をめちゃくちゃにするなあ!」
「才子やるですよ!!!」
「やめろおお!!!」

 第6話「フラレナオン大作戦」

 一

 授業終わりのチャイムが鳴ったとたん、ぼくは教科書とノートを黒カバンに放り込んで立ち上がった。ほんとはこのあと掃除しなくちゃいけないんだけど、そん なことにつきあってる場合じゃない。
「おい……」
 クラスメートが呼び止めるのを無視して、ぼくは教室後ろの扉か廊下に飛び……
 飛び出そうとして、立ち止まった。
 例によって、異常にサイズのでかい白衣を羽織った松戸才子がいた。腕組みして、『フフフ』という感じで笑っている。
「逃がさないですよ?」
 大きめの眼鏡がキラッと光った。
 この眼鏡が光るたびにロシアンルーレットでもさせられているような気分だ。飛び出してくるのは銃弾よりもっとやばい何か。
「は、早い!」
「あたりまえですよお。さあ今日のプランですが……」
「プランとかはどうでもいい! もう君にはつきあってられない!」
 才子の横を走り抜けようとする。
「はう!」
 才子は手を伸ばしてぼくをつかまえようとしたけど、運動神経が全然ないから、ぼくがちょっとフェイントを使っただけでその手は空を切った。
 よし!
 これで今日は無事に帰れるぞ!
 今度才子のいうこときいたら、マジで命がないかもしれないからな……
 廊下を走り出した。
 ひゅ! という音が後ろでした。
 首筋に鋭い痛み。
「げ……」
 ぼくの体から力が抜けて、廊下の冷たいタイルの上に倒れこむ。
 やっとの思いで壁まで這っていき、よりかかりながら立ち上がる。
「だから無駄だっていってるですよ」
 才子が極細注射器を手に、近寄ってきた。
「なんで注射器投げだけは上手いんだ……」
「マッドサイエンティストのたしなみです。はい、言うこときいたら解毒剤をあげるですよ?」
「わかった……判ったから」
「はい、これです」
 才子がぼくの腕をとり、注射器を無造作に突き刺す。全身の脱力感がたちまちなくなった。
「ところでどうしてそんなに嫌がるですか」
「君が無茶するからだよ! こないだなんて……」
「秦の始皇帝に同人誌を献上したまではよかったんですけどねえ。戻ってくるの大変でしたねえ」
「でしたねえ、じゃないよ!」
「大丈夫ですって。今度はもっと堅実です。世の中で一般に言われている恋愛の原則を考慮しました」
「いや、その時点ですごく悪い予感がする」
 ぼくは後ずさりを開始した。
「文献によると、『ギョワー、フラレナオンをゲットじゃよー』ということです」
「その文献というのがなんなのかすごく気になるけど……」
「とにかくです。フラレナオンというのは失恋した女性のことです。失恋直後の女性は傷付いてるし心に隙があるから、そこを優しくしてあげれば惚れてくれる らしいですよ?」
「逆効果のような気がするけど」
「そうやって行動する前に否定するからいけないですよ。まずは何でも試しにやってみるです」
「積極的だね」
「ほら、失敗しても泣くのは才子じゃないですし!」
「……正直だね」
 もう、ため息をつく気もしない。
「で、具体的にはどうするの? 失恋したかどうかなんてどうやって判断するの?」
 才子は得意そうに笑って、白衣の『異次元ポケット』に手を突っ込んだ。ポケット周囲の空間がグニャリと歪んで、口よりずっと大きい何かが引っ張り出され てくる。
「これです!」
 才子がポケットから出したのは……
 鳥?
 茶色くて翼がなく、くちばしが長い。
 「キーウィ」にそっくりだ。
「才子の研究によると、フラレナオンは『フラレナオノイド』という特殊な化学物質を出すですよ。このフラレナオノイドを感知する嗅覚を持ってるのが、この 鳥『フラレ鳥』なのですよ!」
「うわあ、安直な名前」
「名前なんか問題じゃないですよ。さあ、行くですよフラレ鳥!」
 才子の腕の中で大人しくしていた「フラレ鳥」は、その一言でスイッチが入ったかのように首を伸ばし、腕の中から飛び出した。しばらく周囲を見回していた が、すぐに教室に駆け込んだ。
「追うです!」
 ぼくと才子が教室に入ると、そこには一応まじめに掃除をしている男子と、適当にさぼって窓際でだべっている女子がいた。女子グループのひとつに向かって フラレ鳥は一直線に走っていく。
 そして、グループの中心で陽気にしゃべっている背の高い女子の前で停止。
「なに、この鳥?」
 しゃがみ込んだ彼女に向かって、フラレ鳥はいかにも鳥らしいキンキン声で叫ぶ。
「フラレタ! フラレタ! フラレタ!」
 教室内の空気が凍りついた。
 背の高い彼女も、凍りつく。
 他の女子たちがボソボソッと言った。
「そういえば恵里子って、先輩に……」
「フラレたって本当だったんだ……」
「ち、違うのよ! 嘘よ!」
 恵里子さんは立ち上がって必死にそう言った。でも彼女の声をかき消すほど強く、
「フラレタ! フラレタ! フラレタ!」
 才子がぼくの背中を叩いて促した。
「さあ、行くですよ!」
「い、行くって……」
「チャンスはいまですよ、失恋に傷付いた彼女の心を多久沢さんが癒してグーでゲットですよ!」
「いや、今のは失恋とかじゃなくて単に君が傷つけてるんじゃないか?」
「グダグダ理屈こねてないで突撃ですよ!
『かわりにぼくじゃだめですか』って言うですよ!」
「あ、ああ」
 ぼくはおずおずと返事をすると、彼女たちに歩み寄った。
「や、やあ」
 片手を挙げて挨拶。
 視線が痛い。
「か、か、かわりにぼくじゃだめかな?」
 一瞬の沈黙があった。
 クラスの女子全員が奇跡のように声をそろえて叫んだ。
「サイテー!」

 二

 ここは三年の教室。
「え。えーと、ふられたんですよね、かわりにぼくなんかどうですか、あはは」
 彼女は叫んだ。
「いきなり何言ってんのよー!」
 足下で騒いでいるフラレ鳥を蹴り飛ばす。フラレ鳥はゴロゴロ転がって教室の外に消えた。
「はうー! 動物園から拉致ってくるの大変だったのにー!」
 本当にキーウィだったらしい。
「出てけー!」
「うわあ! 才子逃げよう」
 彼女はマジで刺しかねない形相なので、ぼくは才子を連れて逃げた。
 走って走って、ずっと離れた廊下で一息ついた。
「ハアハア」
「ハア……才子、大丈夫?」
 真性運動オンチの才子には相当辛かったはずだ。廊下の壁に手をついてピクピクしてる。
「さ、才子より、フラレ鳥が……大変」
 才子に抱かれたフラレ鳥は、首を垂れたままで身動き一つしない。
「ぐったりしちゃってるね。ねえ才子、その鳥だけどさ」
「多久沢さん、判っているです。動物を盗むのがいけないことだってくらい。でも、どうしても改造の素体はキーウィである必要があったです。嗅覚の優れた鳥 というのは珍しいんですよ」
「いや、そういう話をしてるんじゃなくてね……」
「はう?」
「もうやめよう。いくらやっても無駄だよ。フラレナオン相手ならもてる、という考えそれ自体が間違っていたんだ」
「……そうかも知れないですね……」
 と、その時。
 死んだようだったフラレ鳥が、その体を痙攣させる。首を起こした。黒いボタンのような眼がギラリと光った。力強く跳躍すると廊下に降り立ち、そしてくち ばしを大きく開いて絶叫。
「フラレタアアアアアアッ!!! フラレタアアアアアッ!」
 叫びつつ、走り出す。
「……ど、どうしたんだ才子!?」
「ものすごいフラレナオノイド反応です! いままでとは全く比較にならない超ド級のフラレナオンがいたんですよ!」
「ええっ」
「追うですよ!」
 
 三

 フラレ鳥がたどりついたのは図書室。
 図書室の前でフラレ鳥はその体をガタガタとゆすって羽毛をまき散らしながら、激しく叫んでいた。
「フラレタアアアアアアア! フラレタアアアア! フラ……」
 またフラレ鳥の体が痙攣する。泡を吹いて倒れた。全く動かない。
「才子!」
「……興奮し過ぎたみたいです」
「ここまでとは、一体どんな壮絶な振られっぷりなんだ!?」
 その時図書室の扉が開いて、一人の女性が姿を現した。
 長い黒髪。白いブラウスとタイトスカート姿で、丸顔の美人だけど、「きれいだ」というより「ほんわかしてる」「おっとりしてる」という感じ。
 司書の先生だ。確か水戸部……水戸部温子先生って名前だったはず。
 先生は涙ぐんでいた。
 ぼくたちの姿、そして倒れている鳥を見ると、なんだか自嘲するような表情を作った。
「フラレタ、フラレタ、って叫んでたの、君たちかしら?」
「違うです。この鳥です」
「そうなんだ……こんな鳥にまでわかっちゃうんだ……」
 先生は深いため息をついた。よろめいた。その場で泣き出すんじゃないかってくらいだった。
「せ、先生」
「いいのよ、気使わなくて。ほんとのことだもの。私、この歳まで生きて男の人とまともにつきあったことがないの。たった今、四十三回目の失恋をしたところ なの。どうしてわたしってこうなのかなって、ほんと、嫌になるわ……」
「え……でも」
 ぼくは不思議に思った。水戸部先生は美人だし、実際男子の間でも人気がある。先生と会話したくて図書室の常連になってるとか、そういう人もいるぞ。交際 を申し込んだって話も聞いたぞ。
「先生、モテてるのでは?」
 ぼくが言ったとたん、先生の顔が悲しみに歪んだ。
「確かにね、機会はあったの。中学の頃からいままで、機会だけはたくさん。友達から始まったこともあったし、こっちから好きだって言ってOKされたこと も、向こうから言ってきたことも。でも、そこまでなの。一か月もしないうちに駄目になっちゃうのよ」
「はう。なんでですか?」
 才子が遠慮ゼロで訊いた。
 おい、失礼だぞ。ぼくは目でそう訴えたけど才子は気付かず、水戸部先生も嫌がらなかった。むしろ誰かに話したい気分なのかなと思ったけど、よくわからな い。
「それがわたしにもわからないの。デートの途中で突然相手がいなくなってしまったり、『もう二度と君の前には現れない!』とか真っ青な顔でいわれたり、家 族ごと遠くに引っ越してしまった人までいるわ」
「それは……」
 ぼくと才子は絶句した。
 こりゃ確かに、フラレ鳥が大騒ぎするわけだ。目に見えない謎の力が、先生をモテさせないようにしてるとしか思えない。
 まてよ。
「先生、なんで先生がそうなっちゃうのか知りたくありませんか? 普通に男の人とつきあったりしたいんですよね?」
「ええ。それができればどんなにいいか」
「才子、科学的に興味ないか?」
 才子は指一本立てて小首を傾げる。
「確かに知りたいです。多久沢さんと違ってダメ人間カウンターにも反応しないし……本来モテ系人間のはずですよ? つまり科学的に説明できない現象です。 好奇心をそそるです」
「じゃあ先生、この松戸さんが、なんで先生がそうなのか解明します。きっと解決策もみつけてくれるでしょう」
「え? 本当なの?」
 才子はここぞとばかりに胸を張った。
「もちろんです。才子はマッドサイエンティストですよ? どんな科学的難問も才子にまかせれば一発です」
「一発で大変なことになるね」
 才子が冷たい眼でぼくをにらんで、
「何か言ったですか?」
「いや何も」
 先生は手を合わせた。
「本当ならぜひ知りたいわ。おねがい」
 ぼくは精いっぱい落ち着いた態度を作る。
「わかりました。才子、がんばって。でもそのかわり、なんていうかその、ぼくとつきあって下さい、先生!」
「はう!?」
 才子が何か言い出そうとしたが、その前に言い訳を並べた。
「いや、その。ほら実際にだれかとつきあってみないとさ、その状況の再現もできないじゃないか! ほら解決のためにも必要なんだよ、か、科学的に!」
「ふうーん、科学的ですか」
 才子の視線が痛い。
「人の弱みに付けこんでるです。才子、多久沢さんがそんな人だったとは思わなかったです」
「なんとでも言ってくれ。ぼくは手段を選んでいられないんだろう?」
「……なんか納得いかないですよ」
 口を尖らせる才子。でも先生は、急に明るい表情になってうなずいた。
「松戸さんに任せるわ。そっちの、ええと」
「多久沢です」
「あら、その名前知ってるわ。みんなが、キモいオタクだとか何とか……あの多久沢くんかしら」
「ええ、その多久沢です、間違いなく」
「とにかく、多久沢くんともつきあうわ。勘違いしないで、あくまで実験みたいなものだから。彼氏ごっこだから」
「わかってます、わかってます」
 ぼくはできるだけまじめな表情を作ってうなづいたつもりだった。でも才子は冷たい視線を浴びせてくる。
「多久沢さん、鼻の下が……キモッ!」
「きみは協力してくれるんじゃなかったのか!?」
 
 四

 学校からの帰り道。
 レンガっぽいタイルの敷かれた商店街をぼくは行く。カバンをぶらぶらさせて。
 嬉しくて嬉しくて、鼻歌が出た。
「ふんふんふんー、次の日曜は先生とデートー。はじめてはじめてのデートー!」
「……キモい」
「ふんふんー!」
「キモい」
 ぼくは振り向いて、さっきから後ろでブツブツ言っている才子に叫んだ。
「なんでそんなに嫌がるんだよ!」
「生理的なものです。カッコ悪いです今の多久沢さんは」
「判ってるよ。べつに先生はぼくのことなんとも思ってないって。でもやっぱり嬉しいじゃないか、あんな美人と遊びにいける」
「そういうもんですか……まあ、それより原因を究明するです」
「きみの方が前からいるから、先生がどんな人か詳しいんじゃないの?」
「まあ一応は。なんかすごく純粋というか無邪気な人らしいですよ。男子が本読んでると、その本がなんなのかぜんぜんわかんなくて、『まあすごいのね』『む つかしい本読んでるのね』って……あと、すごいことがあったです。昇降口でカップルがキスしてたら、先生がそこにばったり通りかかったです。すると……」
「すると?」
「『まだ高校生なんだからキスなんかしちゃだめよ! キスしたら赤ちゃんできちゃうじゃない!』って」
「はあ!?」
 さすがに耳を疑った。
「すこし世間知らずな人です」
「少しじゃないだろ……それはカマトトって奴では?」
「アステカの戦士カマ・トトが闘技場で128人の敵を殺して心臓をえぐり出したという、あれですか!」
「なんだよそりゃあ!?」
「……え? 才子、父さんからそう聞いたですよ?」
「大ウソつきか、君の親父さんは!」
 才子は立ち止まった。表情から笑いが消えた。携帯をポケットから取り出す。プンスカ怒りながら猛烈にキーを叩く。
「……もしもし父さんですか、才子です! なんか声が遠いですねどこにいるですか? 銀河中心のブラックホール? 銀河超獣の封印が解ける? なんですか それ? そんなことより許さんですよカマトトの……え? アステカじゃなくてオルメカ? なるほど! ありがとうです父さん!」
 笑顔で電話を切った。切ったとたんに首をかしげる。
「……あれ?」
 なんと言えばいいのやら。
 と、その時。
 背後から声がした。
「多久沢さんですかな?」
 上品で、落ち着いた、渋い声。でも枯れた感じは全くしない声。
 ぼくは振り向いた。
 商店街の真ん中に、一人の男がいた。
 四十代後半くらいだろうか。おじさん……いや、紳士だ。喫茶店でウエイトレスさんに『お嬢さん、お水を一杯頂けませんかな』とか言ってそうだ。なんとタ キシードに身を固めている。高い鼻、広い額と銀色の髪。どうみても白人だ。「恐い顔」なんだけど、穏やかな笑顔のせいでそういう印象はない。
「……どちらさまですか」
 ぼくは緊張して答えた。なぜか身の危険を感じた。
 すると紳士はまた同じ質問を繰り返す。親子ほど歳の離れたぼく相手に、やたら丁寧な口調で。
「多久沢さんですかな」
「そうですが。あなたは?」
 紳士は微笑みを絶やさないまま答えた。
「申し遅れました。わたくし、水戸部家の執事を務めております。豪炎寺セバスチャンと申します」
 才子がのんきに言う。
「はうー、変な名前です」
 君が言うな。
「水戸部家……ああ、水戸部先生のことか。あの人、執事なんかがいるような家の人なんだ。浮き世離れしてるなーと思ってたけど」
「……はい。水戸部家は旧家です。わたくしは先代より水戸部家にお仕えしております」
「……それで、なんの御用で」
 ぼくはそれだけ言った。なぜだか額に汗が噴き出した。
 豪炎寺セバスチャンと名乗った執事は、少しだけ間を置いて、こう言った。
「……温子お嬢様が、新しくおつきあいすることになった男性とは、あなたですね?」
 やっぱり。
「はい、そういうことになってます……」
 ぼくがそう答えるのと、セバスチャンが突っ込んでくるのは全く同時だった。
 彼は全身から正体不明の光を放っていた。そして手刀を作って、本物の剣のように振りかざした。ぼくの首あたりを薙ぐ、光の剣。
 とてもよけられる速度じゃなかった。
 死を覚悟した。
 しかし、その剣が止まった。セバスチャンの体ごと。彼の首筋に、一本の注射器が刺さっていた。
「……面白いですな」
 セバスチャンは注射器を引き抜き、冷たい声で言った。その表情からも優しさ、明るさが全て消えていた。
「き、効かない……うそです!」
 才子が驚きと呆れの混ざった声を上げる。
「ブラキオサウルスを一撃で半身不随にできるくらい強力なのに……」
 そんなものを町中で投げるな。
「豪炎寺さん、どういうつもりです?」
 ぼくはそう言いながら、手を後ろに突き出した。才子が無言で瓶を手渡してくれる。
「簡単なことです」
 セバスチャンは言った。
「お嬢様をお守りすることがわたくしのつとめです。お嬢様を誘惑する不埒な男は、すべて排除しなければならないのです」
「じゃあ、これまでの彼氏は全部……?」
「ええ。多久沢さんもですよ。二度とお嬢様に近寄らないと約束してください」
「いやだと言ったら?」
「……地獄を見ていただきます」
 セバスチャンが即座にこたえた。
 同時にぼくは瓶を開けて中身を口に放り込む。呑んだのはもちろん、水虫の力で変身するあの薬だ。
 全身を痛みが駆け巡る。体が菌類によって作り替えられる。
   セバスチャンが突っ込んできた。眼にもとまらなかったその速度が急に遅くなる。ぼくの反応速度が上がったんだ。ぼくは手 をかざした。セバスチャンの手刀を受け止める。
 火花が散った。
「そんなのムチャクチャだよ!」
 ぼくは叫ぶ。セバスチャンは険しい表情を崩さない。灰色の眼でぼくをにらみつけていた。
「……その姿は一体?」
 ぼくはいま、体全体を黒い装甲に包まれている。この装甲がなんであるかについてはあんまり思い出したくない。
「多久沢さんはですね、カビの力で変身した、世界一キモいヒーローですよ。人呼んで、えーと名前は、カビだから、カビルマン?」
「まずいよ才子、それ訴えられるよ。ダイナミック系は本気でやばいんだよ。ぼくは『万猫』の『ゲターロボ』がなぜ許されたのかいまでも不思議に思ってるん だ」
「はう。じゃあ名前変えるです」
「名前などどうでもよろしい。……あくまで抵抗するのですな?」
「先生は嫌がってる! 彼氏ができないって泣いてる! もう邪魔をするな!」
「お嬢様はわかっておられないのです!」
 セバスチャンの眼が燐光を発した。黒いズボンに包まれた脚が跳ね上がる。とっさに跳ねとんでよける。
「才子、他の人を避難させて!」
「いないです! 変な世界に……」
 え? と思って周囲を見回す。
 本当だった。街が消えていた。店が、通行人が消えていた。何の障害物もない。ただ、どこまでも鏡のような大地が広がっていた。はるか彼方には虹色の霧が かかっている。ほんの何秒か前まで商店街のど真ん中にいたのに、いつの間にやら謎の異世界に!?
「……な、な、なんだこれ……」
 セバスチャンは冷たい声で言った。
執事聖拳奥義・紳士空間発生です。この空間内で何をしようと外界に影響を与えることはありません。無関係な人間を巻き込むのは紳士的とは言えませんから な」
「なんだよ執事聖拳って!?」
「わたくしがお嬢様をお守りするために編み出した究極の戦闘術です。七つの大陸のあらゆる武術、格闘技、仙術、魔術、超能力を融合させたものです」
「大陸は七つもないですよ?」
 才子がのんきにツッコミを入れた。
「ムーとアトランティスを含めて七つです」
 真顔で言い切るセバスチャン。両腕をあげて奇妙な構えをとる。
「……さて、死んでいただきましょう」
「だめだって! 先生は嫌がってるんだって! このまま永遠に、先生をひとりぼっちにしておくつもりなの!?」
「きれいごとをおっしゃらないでください。ただ、あなた一人の下心でしょう! 執事聖拳奥義・執事千手拳!」
 セバスチャンの両腕が分裂した。形がはっきりしないほど早く、何十かの触手になって襲いかかってくる。
 ぼくは必死になって攻撃をよけつづけた。でも攻撃のチャンスがつかめない。
「やりますな! 執事聖拳奥義・眼球大白熱!」
 眼からビームが出た。真っ白い光が視界を塗り潰した。もはや拳法でもなんでもない。
 両腕でブロックするのがやっとだった。火ばしを押しつけられた痛みが腕を這う。
「なんとこれに耐えるとは。執事聖拳奥義……!」 
 拳を二つそろえて突き出し、また何か技を出そうとするセバスチャンに向かってぼくは叫んだ。
「なんで『奥義』がそんなにたくさんあるんだあ!」
「我が執事聖拳には二百二十五の奥義、十四の究極奥義、七つの最終奥義があります」
 ありがたみないなあ。
「執事がなんでそんなに強いですか! おかしいと思うです!」
「何をおっしゃいます。執事は英語で『バトラー』ですから、戦うのは当然ではありませんか」
「スペリングが全然違うです!」
「……スペリング?」
 セバスチャンは太い眉をひそめた。そして力強く断言した。
「そのような不粋なもの、意に介しません」
「はうー! それ父さんの決め台詞です!」
「同類だよこの人!」
「しかし……執事聖拳にここまで抗えた男は久しぶりです。骨がありますな」
 セバスチャンが表情をゆるめる。
 今だ、と思ったぼくは言った。
「ねえ、豪炎寺さん。豪炎寺さんだって、先生をずっとひとりぼっちにしておくつもりはないんだよね……ふさわしい男の人があらわれたら結婚させるんだよ ね?」
「む、それは確かに」
「じゃあぼくは?」
「あなたはまだ若過ぎます」
「でも、いままでの男たちと比べたら骨があるんでしょ?」
「それはあくまで才子の薬の……」
「黙ってて! ねえ豪炎寺さん、そうなんでしょ?」
「ううむ」
 セバスチャンはとがった顎に手をあてて考えこんだ。
「……いいでしょう、少し様子を見ます。自分がお嬢様にふさわしい男性であることを証明してみせてください。もし、ふさわしくなかった場合は……」
 片手をかざした。真っ白い光が手からほとばしった。床が木っ端みじんになった。
「……このセバスチャンが執事聖拳をもって排除、抹殺いたします」
「やった!」
「何が嬉しいですか?」
「認めてもらったから!」
「気に触ったら抹殺されるですよ!?」
「大丈夫、危険なのはもう慣れた」
 君といっしょにいればだいたい平気になるよ。

 五

 ぼくは授業を受けていた。
 現代文の時間。
 先生はちょっと太った中年男で、女子にキャーキャー言われることは絶対ないけど授業がよく脱線して面白い雑談をするので人気がある、というタイプだっ た。
 今日も元気良く脱線していた。
「あはは、みんな文学者とかっていうと堅苦しく考えるかもしれないけど、実は結構人間的な弱いところを持ってる奴が多いんだぞ。おれたちと全然変わらない 弱さを持ってるから面白いんだ。たとえばロシアのドストエフスキーって知ってるか? あの人はギャンブル狂でな、どうしてもカジノ通いがやめられなかった んだと。いやあ彼なんてのはまだ甘い方でな、すごいスケベな文学者がいてな」
 なにがどうスケベなのか! 男子が注目する。女子たちはどうかと見回してみた。三分の二くらいは恥かしがってる。残りの三分の一は、どうも興味しんしん みたい。
 その時、教卓の上に光の塊が出現した。
 金色の光がつくるシルエット。それはシャチホコみたいな形をしていた。光が薄れた。人だった。黒いタキシード姿で銀髪の……セバスチャンだ。頭を一番下 にしてエビ反り、という異様なポーズをとっている。
 セバスチャンは口を開いた。
「執事聖拳奥義・セバセバテレポーテーション」
 そのかっこでよく喋れるな。
「う、うわっ! なんだ!」
 慌てる先生に、サバスチャンはにこりともせずに言った。
「よくぞきいてくださいました。この『水魚のポーズ』をとることにより全身のチャクラが活性化し……」
「ポーズの説明を訊いてるんじゃないっ!」
 先生は気丈にもツッコんだ。
 セバスチャンはアゴを教卓につけたまま、首の力だけでジャンプした。天井近くまで飛んでいき、そこで体を丸めて回転。足から床に降り立った。
「執事聖拳奥義・紳士っぽい着地
「技なのか!? 今のも技なのか!?」
 ぼくのツッコミを無視してセバスチャンは先生に向き直った。
「はじめてお目にかかります。教諭。わたくし豪炎寺セバスチャンと申します」
「な、なんの御用ですか!」
「生徒たちを不浄な知識で汚染するところでしたな?」
 先生は怯みながらも言い返した。
「下世話な雑談を入れることは、生徒の興味をひくために重要なんだ。テクニックだ」
「言い訳ですな。教諭ご自身が下品な人間だというだけの話でしょう。そんな人間に多久沢さんの教育を任せることはできません。お嬢様への悪影響が大き過ぎ ます。
 ……執事聖拳奥義・煩悩腎虚殺!」
 そう叫んで、セバスチャンは二本の指を先生の額へと突き立てた。
「がはあっ!」
 先生は倒れた。
「殺したのか!」
 ぼくが叫ぶ。セバスチャンは無表情のまま答えた。
「まさか。全ての欲望を消去したのです」
 起き上がった先生は、修行僧を思わせる澄んだ瞳をしていた。 
「さあ、授業に戻りましょう」

 六

 ぼくは学校から家までの道を全力疾走していた。たちまち商店街を抜け住宅地に入る。
「な、な、なんでそんなに急ぐですかっ。まってくださ……」
 背後から才子の声。
「急がないと大変なことになるんだよっ!」
 ぼくは家にたどりついた。ドアの鍵を開けて飛び込む。母さんはいないようだ。ぼくの部屋に向かった。
 着替えるより先に、押し入れから段ボール箱を出した。中身は同人誌。本箱から本を抜き出した。これは……その、違うカバーをかぶせてごまかしてあるけ ど、ほんとは18歳未満の人は買っちゃいけない漫画。本箱の裏に隠してあった本を引っ張り出す。これは特殊な同人誌。
 全速力で、一つの箱にまとめる。
「おじさんに、おじさんにひきとってもらわないと……」
 才子が悲鳴をあげた。
「はうー! こんな本買ってるですか! 才子もなんていうかその、男の子ならしょうがないかなって思うんですけどその、まあ自然なことですから、でも、そ のなんていうかその、ごめんなさい……」
「読まないでー!」
「うわ、こんなことまで! いいですか多久沢さん。そこに座るです。反省するです。現実の女の子はこんなことしても喜ばないですよ!」
「いやそんなこと知ってるよ! それより早く処分しないと大変な……遅かったああ!」
 床から、セバスチャンが生えてきた。
「なりませんぞ、そのような有害図書を読んでは!」
「ど、どっから出て来たんです!」
「執事聖拳奥義・イクストルエフェクト。肉体を超高速で振動させれば、分子と分子の隙間をすり抜けることができるのです」 
 レトロSFだ。
「床を通り抜けるなんて……才子にもできないのに」
「え、できないの?」
「できないです。『あらゆる物体を通り抜ける薬』は著作権上の重大な問題を引き起こしたため、マッドサイエンティストの間でも研究が禁止されてるですよ」
 なんとなく聞き覚えのある話だ。
 セバスチャンはぼく達のやり取りを無視して、明らかに敵意のこもった眼で(エロ)同人誌の山を見つめた。
「そのような本を愛好する輩が、果たしてお嬢様の伴侶にふさわしいと言えますかな」
「いや、あの、違うんです豪炎寺さん。この本は全部処分しますから」
「果たして、それだけですかな! 執事聖拳奥義・超越念力!」
 セバスチャンが両手で印を結んで叫ぶ。
 押し入れから、本棚から、アニメ雑誌や漫画の単行本が飛び出す。眼に見えない手が猛烈な勢いでページをめくる。押し入れが開いてガンダムのプラモデルが 飛び出して来た。
「このような趣味が、水戸部家にふさわしいとは思えませんな」
「で、でも! アニメは奥の深い文化で!」
「執事聖拳奥義・有害滅消破!」
 光が部屋に満ちた。
 同人誌が! 漫画が! 漢のモビルスーツ・ズゴックが! 悲運の名機・ケンプファーが! 木っ端みじんに!
「ぎゃあああ!」
 ぼくが悲鳴をあげる。あれを買うのに、買うのにどんな……
「さて、次はあのコンピュータですな」
 セバスチャンが部屋の隅におかれたパソコンを指差す。そして眼を閉じ、叫ぶ。
「執事聖拳奥義・電脳念力操作!」
 パソコンが一瞬にして立ち上がった。ものすごい勢いでハードディスクが唸る。
 セバスチャンは閉じていた眼を見開いた。
「3804の有害な画像ファイルが見つかりました」
 超能力で直接ハードディスクを読んだらしい。
「いや、それはその」
「言い訳はききたくありませんな。執事聖拳奥義・有害滅消破!」
 パソコンが爆発した。
「ひええええ!」
 ぼくは気絶した。

 七

 眼を開けた。
 才子が心配げにのぞきんでいた。
「……眼をさました!」
 体を動かそうとして、額に濡れた手ぬぐいが置いてあることに気づいた。
「看病してくれたんだ。ありがとう」
「せっかくいろいろ試そうとおもったのに……もう起きちゃったですか」
 毒々しく光る注射器を振って残念がる。
  「前言撤回……そうか、ぼく気絶したのか……かっこ悪いな……」
「もうやめるですよ。あの人が本気だということはもう判ったですよね? 今度はパソコンとか本では済まされないですよ。確実に抹殺されるです」
「……」
「ねえ多久沢さん……はうう! 少年漫画のキャラが戦いを決意した時の顔になってるです! 専門用語で覚悟完了です! 頭のうちどころが悪かったですか!」
 ぼくは上半身を起こした。そして才子に目を合わせた。精いっぱい微笑んでみせる。
「駄目だ。やめるわけにはいかないよ」
 恐怖はなかった。
「……なんでですか!」
「ぼくはたくさんの物を奪われた。始発で行って何時間も並んで買った同人誌。拝み倒してやっと買ってもらったパソコン……毎日深夜まで起きて集めたいけな い画像……すべての苦労を無にされたんだ。ぼくの趣味自体、ぜんぶ否定された……ここで引き下がったらぼくはただのバカじゃないか。ぼくはそんなの嫌だぞ」
「死ぬですよ!」
「そんなの今までだって何度もあった! ぼくは何がなんでもあいつの条件をクリアして、あいつの鼻をあかしてやりたい!」
「……そうですか……誇りの問題というやつですね……もう、モテるモテないの問題と違うですね……」
 才子は眼を大きく見開いてぼくを見つめていた。感動してるらしい。
「いや、それもそれで大事だ。先生は美人だし。えへへ」
「……は、鼻の下のびまくり……少しでもカッコいいと思った才子がバカだったですよ」
「でも実際、どうやってクリアするかは問題だよな。あの人が認める交際相手ってのはすごくレベルが高そうだ。無限の教養を持った聖人君子でもない限 り……」
「多久沢さんが本気なら、才子に一ついいアイディアがあるです」
 才子は「異次元ポケット」から一本の試験管を取り出した。
「自分を捨てる勇気があるですか?」
 試験管の中に、とても小さい「脳」が浮かんでいた。

 八

 ぼくは先生と一緒に歩いていた。
 場所は美術館。
「……この画家というのは……」
 ぼくが額の中の絵を手で示して、解説をはじめる。もちろん先生の表情を読んで、うざったく感じない程度に配慮しながらだ。
「……多久沢くんってすごく詳しいのね。漫画の知識しかないんだと思った」
「そんなことはありませんよ」
 ぼくはそう言って微笑んだ。
 その言葉の端々に、高校生に出せるとはとても思えない落ち着いた気品がある。多分表情も、立ち振る舞いも、自信にあふれているはず。
 本当はぼくには絵画の知識なんてない。萌え絵ならそこそこ詳しいけど。女の人と歩いて落ち着いてふるまうのも無理だと思う。
 でも、今のぼくには出来ていた。
 ぼくの体を動かしているのは、ぼくではないから。
 才子がぼくの頭に、人工頭脳を入れてくれたから。人工頭脳がこの体を操っている。ぼくはただ、自分の体が勝手に動いて喋るのを見守ることしかできない。
 ……才子、才子。うまくいってるよ。
 言葉が出せないので、頭の中で才子にメッセージを送る。人工頭脳と一緒に、思考を転送する機械も埋め込んでくれたのだ。
 ……よかったですね多久沢さん。 
 ……本当にすごいねこの人工頭脳は。
 ……古今東西の芸術学問礼儀作法を全部詰め込んでますからねー。性格的にも数万回のシミュレーションしましたから、きっと執事の人も納得してくれるです よ。
 ……で、これ、どうやってもとに戻すの?
 ……え。
 ……考えてなかったの? ずっと体を乗っ取られたままなの? ちょっと待てよ!
 ……才子がこれから研究しますから! それにそのままでもホラ、つきあえることには変わりないですよね!
 ……いや、これはぼくのふりをした別の人がつきあってるんじゃないか!? なんか違うだろこれは!
 ……でも普通の多久沢さんに戻ったら、たとえ執事の人がいなくても一瞬でフラれる気がするです。具体的には二秒くらいで。
 ……ああ、否定できない……
 ぼくと才子がなんだか泣けてくる会話をしている間に、ぼくの体の方は美術館を出ていた。時刻はもう夕刻。
「……今日は楽しかった」
「ぼくも楽しかったです」
 二人は町中を歩いていく。
「多久沢くんは他の人と違って、私のこと気味悪がって逃げたりしないのね」
「誰が逃げるもんですか」
 ぼくは言った。普段のぼくならとてもできないくらい落ち着いて。
 先生が、はっとするような表情を作った。
「ぼくには正直判りませんよ、その逃げていった人たちのことが」
「でも、気になるわ」
「気にすることありませんよ。そんなことより大事なのは未来です」
 くさい! その台詞クサい! 
 いいのかそんなんで、人工頭脳!
 すると先生は戸惑ったように眼をそらして言った。
「……そ、そうね」
 いいのかこれで! ああもう代わってくれ代わってくれ人工頭脳!
「でもよく考えたら私たちって教師と生徒よね。あんまり一緒にいると変な噂とかされないかな」
「大丈夫ですよ。先生は少し他人の眼を気にし過ぎなんじゃないかなって思います」
 あああ! ぼくもこんなこと言ってみたい! いや言ってるんだけどこれはぼくじゃなくて!
「そうかしら?」
「そうです。今回はただのテストみたいなものでしたけどぼくは楽しかったし、これからも会ってくれると楽しいな」
「ま、まだ気が早いわよ」
 先生ははずかしがっていた。冗談抜きで、まったく男に免疫がないらしい。
 ギャルゲーか!? これはギャルゲーの中か!? こんなことが現実に!? 出してくれ! ぼくをこの頭蓋骨から出してくれー!
 ……落ち着くです多久沢さん!
「……いや、そんなことは……あの喫茶店でお茶でも呑みなが……が、が、がんだむ! ただしてぃたーんずからー!」
「……え?」
「のみながらゆっくり話を……はなしを……萌え絵のほうが……喫茶店はメイド喫茶でなければ……」
「どうしたんですか?」
 ……おい才子、どうしたんだ。
 ……才子にも判らないです!
 ぼくはその場にうずくまった。
「……ブツブツブツ……」
 そして失われた同人誌のタイトルを列挙しはじめた。体がブルブルと震えた。
「多久沢さん!」
 先生に揺さぶられる。
「……ぼ、ぼくは……にじげんのおんなのこが……すきです……」
 ……こ、これは!
 伝わってくる才子の思念はひどく焦っていた。
 ……多久沢さんは今までずっとオタをやってました。脳の奥の部分までオタが染み付いてるんですよ! 同人誌やガンダムや声優さんのことが……人工頭脳が それを力づくで抑制したから反発があって……逆にオタ分が人工頭脳を乗っ取ろうとしてるんです!
 ……ぼくはそんなこと望んでない!
 ……意識じゃなくて、無意識のうちにやってることなんですよ! 
 ……ぼくはオタク以外の何かはなれないってことか!? そこまで業が深いってことか……!?
 ……ごめんなさいです……
 ぼくの体の痙攣が激しくなった。同人誌の名前を並べ終わり、ついで声優さんの名前をブツブツ言いはじめた。好きな順に。
 ……自分のやることながら耐えられない。とめてくれえ!
「多久沢くん! 誰か! 誰か救急車を!」
 その瞬間、ぼくの頭の中で激痛が弾けた。視界がフラッシュする。
 体の自由が戻った。
 手のひらを見る。汗でべとべとだ。
 ……人工頭脳が焼き切れちゃったみたいです……オタの煩悩恐るべし……
 ぼくは強い脱力感に耐えて、立ちあがる。
「大丈夫? 病院行った方がいいよね?」
 すぐそばに先生の顔。先生は泣きそうな顔をしていた。
「大丈夫です、先生。説明しますよ、全て。分かりやすく言えば……」
「全てが偽りだったと言うことです!」
 力強く断言する低い声。
 そちらの方を向くと、思った通りガンバスターポーズをとったセバスチャンが道路から生えてくる途中だった。やっぱり見張ってたか。
「セバスチャン! どうしてここに!」
 先生は驚きの声をあげる。……地面を通り抜けることには驚かないらしい。
 セバスチャンはツカツカと音を立てて、ぼくと先生の側までやって来た。
「お嬢様、この少年に決して関わってはなりません。この少年はオタクとかいう不気味な人種で、頭の中はいやらしく不健康な妄想だらけ、それ以外のことはな に一つ考えていないのです」
 そこまで言うか。ちゃんと他のことも考えてるぞ、脳の二割くらいで。
「そんなことないわセバスチャン、彼はちゃんと教養があって礼儀を知ってる人で、とても高校生とは思えないくらいで」
「それは全て作り物、まやかしです。そうですな、多久沢さん」
 この期におよんで嘘をついても仕方ない。
「そうなんです先生。この人の言う通りで、ぼくは今日、別の人間になってたんです」
「このような卑怯な手段で女性をろう絡する輩が、お嬢様にふさわしいとは思えません」
 ぼくはポロシャツのポケットに手を突っ込んだ。中のカプセルを握りしめる。
「そうかも知れない。でも、大人しく始末される気はないよ!」
「始末? 始末ってどういうこと? 答えてセバスチャン! まさか……まさか、今までの人たちは、みんなあなたが!?」
 気付いたようだ。先生は蒼白になってセバスチャンに詰め寄る。セバスチャンはほんの一瞬だけ悔やむような顔をしたが、すぐに胸を張り、言った。
「知られたくはなかったのですが……その通りです。お嬢様に近寄って来た男は、全てわたくしが始末しました」
「どうして! どうしてそんなことをするの!?」
 泣き出しそうな顔でそう問いつめられ、セバスチャンは絶句した。だがすぐに彼は、とても真剣な表情で先生を見つめた。そして言った。
「……お嬢様のためなのです……!」
 その言葉にどれだけの思いがこめられていたか、他人のぼくにもわかった。それは血を吐くような叫びだった。
 先生を見ると、夢見るような表情で、うるんだ瞳でセバスチャンを見つめ返し……
 って、おい!
「セバスチャン……あなたがそんなに私のことを思っていてくれたなんて……! ごめんね……気付いてあげられなくてごめんなさい……」
「いけませんお嬢様! わたくしは水戸部家の使用人です。主人と使用人、その関係は崩してはならないのです……」
 先生は激しく首を振った。涙を流す寸前のような、それでいて無理に笑みを浮かべようとしているような表情。
「そんなの関係ないわセバスチャン、だって私が心から望んでるんですもの! それが私の幸せなんですもの……!」
 顔を苦悶させるセバスチャン。ためていた息を吐き出すようにして、言った。
「お嬢様がそこまでおっしゃるなら」
「セバスチャン!」
「お嬢様!」
 二人は熱い抱擁を……
 ぶち。
 また謎の音がした。ぼくの頭の中から。
 ……多久沢さん、いまのブチってのは一体なんですかあ?
 キレた音だよ!
 こんなのってありか? つまりあれか? ぼくはただ同人誌とか焼かれただけ。骨折り損のくたびれ儲けか!?
 ぼくは先生とセバスチャンに背を向けた。
 夕暮れの真っ赤な空に叫んだ。
「やってられるかああああっ」

 第7話 「超同人物語」

 一

「凄い人ですねー」
 才子が、ずらりと並んだ人の列を見て言った。会場である灰色の建物をぐるっと取り巻いている人の列……たしかに多い。ぼくたちも列の中にいるからますま す多く見えるってのもあるかもしれない。
「……どうしてみんな太ってるですか?」
「…オタクだから」
 ぼくは少しためらって答えた。
「……どうしてみんなチェックのシャツ着てるですか?」
「……オタクだから」
 そう言われて初めて自分の格好が気になった。
 うわ。ぼくもチェックのシャツだよ。でも風呂入ってるから最低限の線だけはクリアしてるのだと思いたい。これがボーダーラインってのも凄い話だけど。
「格好っていうなら君もすごいじゃないか」 
 才子は不思議そうに目をパチクリ。お下げを振って自分の格好を見る。
「『動きやすい格好がいい』っていうからジーパンにしたですよ?」 
 才子はジーパン姿の上に白衣を羽織っている。まわりの人たちがじろじろ見ている。本人は全く気にしてないみたいだ。
「いや、白衣の方なんだけど」
「白衣はマッドサイエンティストの戦闘服であり正装ですよ」
「わかったよ……」
「それにしても凄いひとですー」
「でも才子、本場のコミケはもっとずっと大きいんだよ。ここはせいぜい一万人、でも向こうは四十万人!」
「こわいです!」
「なんでこわいの?」
「だって多久沢さん」
 才子は隣にいる小太りの男性を片手で示して、あきらかにおびえた様子で言った。
「あの大きなバックパックにはさらってきた幼女がはいってるんですよね? そんな人が四十万人も……」
「さらってないよ!」
 ぼくが反射的に叫んだ。ぎょっとしてこっちの見たとなりの小太りさんに、両手をあわせてペコペコ頭をさげた。
「どうして君はそんなに偏見あるんだ!」
「だってみんな、普通じゃないです……みんなアニメの女の子が描いてある袋もって……」
「みんなじゃないだろ! 半分くらいだよ。それにあれはアニメじゃなくてゲームのキャラも混ざってる」
「はいはい。とにかく多久沢さんの仲間みたいのがたくさんいるんだなってことだけはわかったです」
「いや、ぼくはまともじゃないかも知れないけど……でも、オタクの人が全部変なわけじゃなくて、普通に三次元の女の子とつきあってる人もいるし、結婚して る人だっているんだ」
「そう聞いてましたけど、現物を見ちゃうと信じられないです」
 丸眼鏡の向こうの大きな眼を不信感で一杯にしている才子。
「……ほんとだって!」
 とぼくが言った時、会話が聞こえて来た。
 姿は見えないけど声はする。何列か離れたところの声だ。
「お前最近彼女できたんだって?」
「いや、まあ、そうなんですけどね」
「この裏切りもの! ずっとぼくは二次元でいきますって言ってたじゃねえか!」
「いや、それがその……こないだ彼女とデートしたときに、そのなんていうか、ちょっと抱き合ったりしてキスっぽい雰囲気になりましてね」
「『キスっぽい』ってなんだか知らんが……とにかくむかつくぜ!」
「でもですよ先輩。その時ついうっかり、『三次元の女……! 三次元の女……ハァハァ!』っていっちゃって、一瞬にしてフラれました」
「なんでそんなことを?」
「か、体が勝手に……やっぱりぼくは一生二次元なんですよー!」
「男だ! お前こそ男だ! カンと書いてオトコと読むアレだ!」
 悪い意味でゾクゾクした。恐かったけど才子の顔を見た。
 才子は、叩きつぶしたあとのゴキブリを見るみたいな顔をしていた。
「……いや、あのね才子」
「多久沢さんもああなるですね?」
「いや、でもね?」
「……」
 眼鏡の向こうに、『じとー。』としか表現できない冷たい目。
「いいです、まあ人それぞれですし……」
 その、微妙に優しいようで投げてる発言がなお痛い。
「ま、まあその……今日はほら、目的が違うからね、ね」
「……そうでしたね……」
 才子は白い目のままうなずく。
 『どうせオタクをやめられないならいっそ頂点をきわめてみたら?』
   ぼくが半分冗談でいったこの台詞を才子はけっこうまじめにうけとって、「じゃあ頂点を学んでみるです」ってなことになって、ぼくたちはここに来ているのだ。
「やっぱりあれですか、ここで売ってる本というのは、多久沢さんがたくさん集めてるような感じの、えっちでよくない本ですか」
「露骨すぎるけど……まあその、大半は。そうすると売り上げも伸びるし」
「……」
 才子は無言だ。なにやってんのかなと思って見ると、メモを取っている。
「『オタクはえっちでよくない漫画がだいすき』……と」 「まじめにオタのこと勉強してるんだ……」
「当たり前です。才子は生物系マッドサイエンティストですからね、ヘンテコな生き物には興味あるです」
「生き物……」
 脱力感を覚えた。でも、まあいい。あ、列が動き出した。
「才子、行くよ」
「みんな整然と並んで、割り込みもせずに進んで行くですね……ええと……『オタクはデリカシーがないくせに礼儀正しい』と……」
「なにメモしてんだよ!」

 二

「はう……!」
 会場内。
 倉庫のように高い天井。
 ズラリと並ぶ長机。
 人、人。なぜか平均体重が妙に重い、美少女キャラ絵つき手提げ袋を巨大ナップザックを装備した男たち。
 眼鏡着用率妙に高し、レンズの向こうの目はギラギラしてるか瞳孔開いちゃってるかの二択しかない。
 彼らが机の前を通るたびに、売り子はイラストボードやノボリの向こうから熱い視線を送る。
 何人かがフラフラ吸い寄せられて財布を開く。ありがとうございますという声。
 後ろから人波が押しよせてくるので立ち止まって見ることができない。ぼくと才子もズルズル流されていった。
 ぼくたちの隣を、なぜかコスプレ姿の人が通り過ぎた。ここはコスプレして良いとこじゃないんだけどな……ってツッコむのはそこじゃない。その人は白を基 調にした魔法少女のコスチュームに身を包んでいた。髪もそれっぽく結っていた。アニメではなくゲームのキャラだ。なんて作品の誰かは見れば判るんだけど認 めたくない信じたくない。だってとっても太って二の腕がブクブクっとしてて、それでヒゲの剃り跡が青黒くて……そうだよ、男なんだよ! 汝のあるべき姿にもどれー!
 才子がまたうめいた。
「すごい人……!」
 ぼくは力なく「う、うんそうだね」とうなずく以外何もできなかった。
 気をとりなおしてカタログを広げた。
「よし、こっちだ」
「どこ行くですか?」
「まずはおじさんのとこだ」
 おじさんはアニメ系のライターで、商業誌でも書いてるけど同人誌も出してる。すぐにおじさんのスペースは見つかった。メイド本だしてるサークルと巫女 サークルの間に挟まれて、一か所だけ看板もない地味なスペースがあった。テーブルの上には同人誌が少しだけ積んであって、とても太った人が店番をしてい る。
「こんにちわ」
「おお! 優一くんか」
「ひさしぶりです」
 おじさんは微笑んだ。太ってるからほっぺたやアゴの肉が変な感じに歪む。でも不快な印象はない。小さい頃から見なれてるってだけかもしれないけど。
「オタ修行は積んだかい?」
 おじさんが微笑んだまま問いかけてくる。
「けっこう追い付いたと思うよ」
「言うじゃないか。じゃあ問題。これは何ていうアニメの主題歌?」
 おじさんは一枚のCDを出した。
 タイトルは「DON.T LOOK BACK」。
 おじさんの年齢からして、決まっている。
 ぼくは胸を張って、ほとんど反射的に答えた。
「『ボーグマン』でしょ?」
 おじさんの顔から笑みが消えた。
「……残念。『ガルキーバ』だ」
「ああ! そっちか! くそう!」
「まだまだだね。オタ道は深いよ」
「うう……」
 うめくぼくを、才子が後ろからつついた。
「なに不思議バトルしてるですか!」
「……この子は?」
 才子の方を見て、おじさんが不思議そうな顔をする。
「はう。友達です」
「……きみ、どこかで会ったことなかったっけ?」
「はう……ないですよ!」
 確かに会ってる。過去の世界で。
「気のせいか……まあ確かに年齢が……ああすまん優一くん、今日は買いに来てくれたのか?」
 おじさんがそう言って同人誌を差し出す。薄くて中とじのコピー本だ。一応美少女イラストが表紙だけど中身は大部分評論。あと知り合いのセミプロ漫画家に 描いてもらったイラスト数枚。ぶっちゃけ売れそうにない本だ。
「うん。買うよ。ああそれとね、才子」
「はう」
 ぼくがうながすと、才子が神妙な顔つきでおじさんに言った。
「オタの神髄というか、頂点が知りたいです」
「む……なかなか凄いことを言うね」
 おじさんの顔から瞬時に笑みが消えた。
「君はオタになりたいの? オタはどっちかっていうと、『なってしまう』ものだと思うけどな」
「そうじゃないです。多久沢さんをオタの頂点にするです」
「へえ。僕も優一くんにはもっと極めて欲しいな」 
 おじさんはたるんだ頬を微笑ませた。隣のスペースでメイドさん巫女さんの同人誌売ってる人たちも興味深そうにこっちを見た。 
「しかし何だって急に?」
 才子は指を一本立てて言った。
「オタの頂点になれば、腐っても大人気作家、才能がある人ということで女の子にもモテモテですよ!」
 いや、やっぱりそれは無理があるだろ……と才子にツッコミを入れようとした。
 だがそれより早く、メイド同人誌売ってる人が椅子を勢い良く立ち上がった。叫んだ。
「邪道だっ!!!」
 巫女同人誌の人も、机を拳で叩いて絶叫。
「そんなオタ道は間違ってる!!」
「……え? はう……」
 あまりの剣幕に才子はたじろいだらしい。一歩後ずさる。
 メイド同人誌の人が、机の上のメイド人形を握りしめ、才子に突き付ける。
「……オタ道は、女がどうしたとかそんな不純な動機でやっていいもんじゃないんだ」
 巫女同人誌の人は深くうなずいて、
「そうそう。三次元の女を求める時点でオタ失格!」
 彼等の目をぼくは見た。
 とても澄んでいた。
「……え? それマジですか? 本気で言ってるですか?」
「当然だ」「無論」
「はう……彼女とか欲しくないですか? 漫画とかゲームの女の子だけでいいですか?」
「くどい!」
 巫女同人誌の人が鋭い眼光を浴びせて来た。
「俺は二十九歳だが三次元の女などには一切関わったことがないぞ! それで幸福だ!」
 メイド同人誌の方は、メイド人形を顔の前にかざし、微笑んだ。
「僕なんかもう三十一だけどずっと二次元ハアハアだよ? まあ属性は変わったけどね」
「……え? あ?」
 才子は明らかにうろたえていた。
 キモイ、とすら言えないようだった。まっったく理解不可能な考えに出会ったら人間そうなるのかもしれない。
「きみも早く、三次元への執着を捨てて一人前のオタにならないと駄目だよ?」
「うんうん、彼の言う通り。こんなメイドさんは現実にはいないからね。メイドの格好をした肉の塊がいるだけだ」
「いや……あの……」
 ぼくはまた二人の目を見た。
 神の声でも聴こえていそうなほどにきらきら光っていた。
「で、でも……」
 ぼくは何か言おうとした。とたんに二人が、奇妙なくらい明るい声でさえぎった。
「でもじゃないよ」
「君はまだ悟りが足りないだけなんだ。『その時』が来てないだけなんだよ」
「そうそう。二次元美少女に比べれば三次元なんて。だってこの娘たちは永遠だ! 永遠に赤と白の無垢なる恍惚が!」
「こっちの世界に来れば、女の子にもてないからどうだなんて気にしなくなるよ! ずっと僕におつかえしてくれるんだ!」
「なに、『こっちの世界』に来る方法は簡単さ。股間を握りしめて、『捧げる……!』と誓いの呪文を叫べばいい。そうすれば魔の存在と契約して、二次元だけで満 足できる体になるんだ」
 どこの邪教の儀式ですかそれは。そんなこと満面の笑顔を浮かべて言われても。
 ぼくも才子といっしょに後ずさろうとした。逃げようとした。だができなかった。
 魅力を感じてるのか、ぼくは……そんな!
 でも、もしほんとにアニメだけで満足できるようになれたら……他人が何と言ってもぼくがそれで幸せなら……それはそれで……
「お、おじさん、ぼくはどうすれば……」
 ぼくの口から出た声はけっこう切羽詰まっていた。おじさんは一瞬だけ驚いたが、すぐにその顔を緊張させた。目を細め、首とつながってしまっているアゴに 手を当てて、落ち着いた調子で言った。
「……君の好きにすればいい。『オタクだからこう生きなければいけない』って決まりはない」
「え。でも。……さ、才子!」
 ぼくは才子に向き直った。呆然としていた才子が我に返ってぼくを見た。
「……それで本当に多久沢さんがいいって言うんなら、止める気はないです」
 才子も真剣な目をしていた。
 ぼくは深呼吸をした。よどんだ空気が肺になだれこんできた。
「……いや、ぼくは決めたんです」
「何を?」
「アニメも漫画も好きだけど……それだけではちょっと……実物も好きです」
 二人の目つきが変わった。冷たい、どこか見下すような光を投げ付けてくる。
人類の最終進化を拒否するのか?」
「純粋二次元こそ真のオタ道だ!」
 ぼくは二人を交互に見て、ゆっくり首を振る。
「いえ、でも決めたんです」
 苦々しい顔つきになって二人は沈黙した。
 おじさんがにっこり笑って、
「決めたんなら話は早い。だが難しいよ、オタ界での成功をモテに結び付けるのは」
「でも売れっ子になれば」
「売れっ子同人作家って、たいていエロ漫画だよ? 女の子のファンがつくかな? まあ、頂点まで行けば不可能じゃないか。でも君、漫画とか描けないよね」
「うん、かけない」
「じゃあダメじゃないか。それを練習して今から上手くなる手間を考えたらオタ界とは別のところで頑張った方が良いんじゃないか」
 おじさんは言う。普通なら、その通りだとぼくは思う。 
 でもここにはマッドサイエンティストがいるんだ。純粋培養ドリル付きの奴が。ついてないか。
「ふふーん。才子にそんな常識は通用しないですよ!」
 才子は自信満々、白衣の『異次元ポケット』から薬瓶を取り出す。青い液体が入っていた。
「多久沢さん、これちょっとなめるです」
「う、うん」
 ぼくは瓶を手に取り、指先でちょっとだけなめた。
 すうっと、頭の中身を冷たい風が吹き抜けた。
「さあ、絵を描くです」
「うん。じゃあメイドさんを」
 とたんにメイド好きさんがその目に不穏な光を宿らせた。
「何だと? 半端なものでは許さないぞ」
 ぼくはメモ用紙にサラサラとペンを走らせた。でもぼくに絵なんて……描けたー!!
 メモ用紙にボールペンで、それも三十秒ぐらいで描いただけのに……紙の中のメイドさんはかわいらしく微笑んでいた。まるで萌え系漫画を十年描いてる大ベ テランが描いたように……
「見せてみろ……ううう!」
 メイド好きさんはぼくの絵を見るなり悶絶した。
「うますぎるうう!」
「ふん、何を大げさな……って、ああ!?」
 巫女同人誌の人もぼくの絵を見た瞬間、泣きながら机に突っ伏した。
「同人やって十五年の俺より上手いィィィ!」
「これでわかったですね? この薬は絵が上手くなる薬『オエカキスラスーラ』です。ひとなめしただけでこの威力! これさえあればオタのハートをつかむこと なんて簡単で……」
 才子は言い終えることができなかった。
「よこせえええ!」
「俺にもおおお!」
 メイド好きと巫女好きが、机を蹴って飛びかかって来た。
「あぶない!」
 ぼくはとっさに才子の肩をつかんで倒そうとする。才子は倒れた。瓶が床に転がる。割れはしなかったらしい。
「おれのだ!」
「嫌だ渡せねえ! 究極の巫女を!」
「ちがうおれのだ! 絵の上手くなる薬ー!」
 二人は床の上でもつれあい、瓶を取り合っている。メイド好きさんが巫女好きさんに容赦のない頭突きを食らわせて瓶を奪取。仁王立ちになって『オエカキス ラスーラ』の瓶を高く掲げ、
「俺は王になる! 萌王にー!」
 萌王ってなんだ。電撃?
「させるかー!」
「おれにもよこせー!」
 そうわめいてタックルして来たのは、巫女好きさんだけではなかった。
 たくさんのオタたちが来た。押し寄せて来た。
「ハアッハア」
「ボ、ボ、ボキも欲しいんだな」
「その薬さえあればー!」
 その数何百人。
 ぼくと才子が机の下に隠れた格好のまま、顔を見合わせた。
「ど、どうする……?」
「はう……」
「大変なことになったなあ」
 おじさんもモゾモゾと机の下を這って接近してきた。
「まずはこれを!」
 才子が水鉄砲みたいな物を出した。
 机を倒し同人誌を吹き飛ばしてもみ合っているオタ集団に向けて引き金を引く。透明な液が発射された。
「おれのだ!」「ハアハア」「爆萌えを我が手にー!」
 ぜんぜん効いてないぞ。
「鎮圧銃が効かないです! まさか萌えを求める心がこんなに強いとは……!」
 おじさんがしみじみと言う。
「薬を飲むだけで超美少女が描けるなら、死んでも欲しがるさ」
「その情熱を他のことに使えばいいと思うです」
 才子がどこか恐れるように言った。なんか君に言われるのは納得できないなー。
「じゃあ次はこの脳細胞デンジャラス銃で!」
 才子がポケットから次の道具を出した。
「名前からしてダメ! ダメ、ゼッタイ」
「え? 脳の微妙な部分に気まずい刺激を与えるだけの銃ですよ?」
「とにかくダメー!」
 と、その時。
「ぬおおお!」
 野太い男の声がどこからか響いてきた。
「ぐわ!」「うお!」
 悲鳴がそれに重なる。
「うおおお!」
 同じ蛮声。悲鳴。机の下からだからよく見えないけど、圧倒的な力を持った何者かが、オタ集団を強行突破しているらしい。
「負けるなあ! 萌えの力を見せてやるんだ!」
 オタたちも負けずに叫び返した。だが蛮声男はちっともひるまない。こう怒鳴った。
「イワンめ。教育してやる! 俺の××を××ろ!
 たいへん下品な台詞のため修正させていただきました。
「ぐああ!」
 悲鳴一発。柔らかい物が落ちるドサドサという音。あっさりオタたちはなぎ倒されたらしい。
「思い知ったか。これでもくらえ! フンガー!」
 また低い叫び。今度は女の声がそれに続いた。
「兄さん、ドイツ軍人は『フンガー』とは言わないと思いますよ?」
 野太い声の主はこう叫び返した。
「デア・フンガーリッヒ!」
「いや、そういう事じゃなくって……全くもう兄さんは……」
「やはりフンガーで正しいはずだ。『フランケンシュタインの怪物』が『フンガーフンガー』を口癖にしているのだから、フンガーがドイツ語であることは言語 学的に証明されている」
「間違いです!」
「むう……まあいい、あらかた片付いたようだな」
「ええ。しょせん女の絵なんかにうつつを抜かす連中はこの程度ですね」
 ちょっとまて何だそれは聞き捨てならないぞ。っていうか誰だあんたたち。
 ぼくは机の下から出た。
 とんでもない光景があった。
 何百人もいたはずの狂暴化オタたちはみんな倒れている。そして折り重なったオタの輪の、その中心には二人の人間がいた。
 一人は、真っ黒い軍服姿。たしかナチスの軍服だ。背が高く、そして筋肉ムキムキ。とどめに割れアゴ。
 もう一人はセーラー服の美少女だった。ショートカットで、挑戦するようなきつい目つき。
「誰だ!」
 ぼくの叫びに筋肉ナチス野郎が答えた。
「俺の名は軍御田独人(ぐんおた どくひと)! 貴様ら軟弱オタどもを叩き潰す鋼の伝道士だ! つまり独逸語で言うと……アイゼルン……いやアイゼルネ ス……ええい! 細かいことは気にするな!」
 セーラー美少女もついで答える。
「わたしは軍御田和美(ぐんおた かずみ)。独人の妹です。わたしたちは、あなたたち間違ったオタの目を覚まさせるために行動する者です」
「ぼくたちの何が間違ってるっていうんだ? やっぱり、現実の女の子から逃げてるとかそういうことを言うのか?」
 ぼくの問いに、軍御田独人と名乗った軍服マッチョはふんぞり返りながら答えた。
「いや、それはどうでもよい。自分の趣味を追求するのは正しいことだ。色恋に縁がなかろうと知ったことではない。……だが!! なぜこんな趣味なのだ!  なぜ小さい女の絵なのだ! 世の中にはもっと美しく気高いものがあるだろうが!」
「な……なんだよ!」 
 軍服マッチョとセーラー美少女が声をそろえて叫んだ。
「兵器だ!」
「兵器です!」
「……兵器だって? 戦車とか?」
「うむそうだ。重厚で男らしいティーガーの砲塔形状を愛し、甲高い54口径88ミリの砲声に血をたぎらせる!
「そうです、百式司偵の曲線美を愛し、島風の高速性に頬を染め、九六艦戦の究極的な運動性を想って……おそらく堀越さんにとって零戦は妥協の産物、九六艦 戦こそ会心作だったのでは……」
 両手を合わせて語り続ける彼女に軍服マッチョが口をはさんだ。
「和美よ、また日本軍の話か」
「兄さんこそドイツ軍ばかりですね。日本軍の方が美しいのに」
「なんだと? ティーガーやパンテルのようなたくましい戦車を日本が作れるとでもいうのか? ドイツの戦車に勝てるのか。なーにがチハタンだ」
「一号戦車が相手なら勝てるでしょう。おそらく二号でも勝てます」
「情けない自慢だな! 飛行機にしたところで、ドイツの方が遥かに設計思想が先進的で、しかも機体の発展性がある。零戦とBf109を比較すればすべては 明らかだ」
「まともに空母ひとつ作れなかったくせに」
「そ、それは条約の規制がいろいろあったのだ! 先手を打って言っておくがビスマルク級戦艦の設計が古いのもベルサイユ条約のせいであって決してドイツの 技官が無能だからではない。ドイツ軍は世界一だ」
「でも日本より早く負けましたよ」
 不機嫌そうな表情で妹がつっこむ。
「そ……それは……高度な戦略的政治的な問題があって……まあそもそも地政学的に……くそ、もしイギリスが大陸と地続きでソ連が暖かければ戦争に勝ってい たのに。歴史の大いなるイフだな」
「そんなのイフじゃありませんよ眼を覚ましてください」
「だいたいだな、日本の零戦や酸素魚雷が優秀だといっても、しょせん現物を手に入れてリバースエンジニアリングを行えば全て解明できる程度のものに過ぎん のだ。開発者まで連れて行く必要があったのはドイツの兵器だけなのだ、これこそ日本よりドイツの兵器のほうが……」
 つばを飛ばし拳をふるって熱弁を振るう独人に、ぼくは声をかけた。
「あのーもしもし」
「ドイツの……おおそうだ! ケンカしてる場合ではない!」
 独人はグローブのような手をバチンと打ち合わせた。
「目的を忘れてましたね。ともかく我々は真の美であるミリタリーを追求します。目をさましなさい、女の絵で喜んでいる場合ではないはずです」
 そう言う軍御田和美の手には、いつのまにやら「オエカキスラスーラ」の瓶が。
 ぼくは反射的に叫ぶ。
「馬鹿にするな! 萌えは大切だ!」
「美しい兵器の絵を見ればその考えも変わりますよ」
 そう言って瓶のふたを開ける。あおろうとした瞬間、ぼくは一気に駆け寄ってその手首をつかんだ。
「あなたも邪魔をするのですか」
「日本軍だかなんだか知らないけど、この人たちを助けろ! 謝るんだ!」
 ゴロゴロ転がってるオタたちを指差しながらぼくは叫んだ。才子とおじさんが介抱してまわってるけど、みんななかなか目をさまさない。才子は変な薬を投与 して治そうと試みてるみたいだ。
 軍御田和美は腕組みをした。冷たい目でぼくたち全員を見る。
「……嫌です」
「俺も断る。そんな軟弱者どもに配慮することはない」
 そうか。それならぼくの考えは決まった。
「才子!」
 振り向いて叫ぶ。
「言われるまでもないです!」
 才子が例の水鉄砲を発射。
 しかし独人は、頭からその水を浴びたのになんともない。丸太のような腕を組んで、ただ笑っている。
 次の瞬間、独人の顔が変形した。目の辺りがパカンと横に開いて、レンズみたいなものが突き出す。レンズから光線がほとばしった。
「はう!」
 才子の手から水鉄砲が飛んだ。
「今度は銃だけではすまさんぞ」
 独人は鋭い眼光をぼく達に向ける。
「その体は……!?」
「これか。このあいだ街を歩いているとだな、眼鏡をかけた白衣の女が『兄さんいい体してるわね、サイボーグになってみない?』と声をかけてきて改造手術を 施してくれた」
「その人知ってる……」
「お姉ちゃんなにやってるですか……」
 彩恵さんが改造したんなら手強いぞ。
「やはりドイツの軍人たるもの、一度はサイボーグになってみないとな」
 この人のドイツは何か間違ってる。
「多久沢さん、これを!」
 才子がカプセルを手渡してくれた。僕は一気に飲み下す。全身に痛み。体が黒い装甲に包まれた。
「むう……お前も改造を!?」
 ぼくは強化された力で、妹の方から瓶を奪い取った。そして腰を落として、独人の攻撃に備える。
「頑張るです多久沢さん! パワー三倍痒さ十倍に改良しといたです!」
 せめて逆にできなかったのか。
「なぜ歯向かう」
 ぼくはとっさに答えた。
「……ぼくは戦車とか、軍艦とか、詳しくないけど。……でもこれだけは言える! 自分の趣味を押し付けるのは正しいオタの姿じゃないんだ! 別にアニメ絵 でハアハアしたっていいじゃないか!」
「か……かっこいいような……悪いような……」
「才子は隠れてて!」
「断じて認めるわけにはいかんな、そんな考えは! ゲルマンンンンンンッビィィィィムッ!」
 多分技の名前だろう奇声を発すると、独人は顔のレンズから光線を発射。
 よけたら、倒れてる人たちに当たる。
 両腕を交差させてビームを受け止めた。痛い、メチャクチャ痛い。アニメとかだとニヤッと笑って止めるのに。
 ぼくは勢い良くかけよって、独人の腕をつかんだ。機械の体だから殴ったら爆発するかもしれない。押さえこむしかない。つかんだままひねり上げる。ありったけの筋力を振 り絞った。
「……むう……力で負けている……!?」
 うめく独人。よし、これなら勝てそう。
「あたっ!」
 女の声が、鋭い叫びが耳に飛び込んだ。脇腹に痛みが炸裂。体が浮いた。すっ飛ぶ。机を倒してぼくはころがっった。手が、足が冷たくなる。力が抜けて、立 てない。
「おお! ありがとう和美!」
「油断しすぎですよ、兄さん」
 妹の方が、どっかでみたような拳法の構えをとって立っていた。
「そ……その技は……」
「執事聖拳の一つです。体の『気』の流れを乱しました。あなたはもう動くことができません」
「執事聖拳!? な……なんで……」
「兄が機械の体になった以上、私も変な拳法のひとつくらい身に付けなければ、と思ったのです」
 思うな。
「そんな時、不思議な技を使う紳士に出会ったのです。豪炎寺セバスチャンという方です。私はすぐさま弟子入りを願ったのです」
 奇人変人どうし、引かれあうのか。
 精いっぱいの力を振り絞ってぼくは叫ぶ。
「才子! みんなを逃がして!」
「その必要はない!」
 元気な声がかえってきた。
 首だけを動かして、ぼくは見あげた。
 シャツはやぶれ鼻血を流した……メイド同人誌の人が立っていた。
「……俺も戦う!」
 巫女同人誌の人も体を起こした。目をらんらんと輝かせ、独人をにらんで叫ぶ。
「……萌えを馬鹿にする奴は許さん!」
「ぼくも!」「おれもだ!」
 次々に、倒れていたオタたちが起き上がってくる。大部分は太ってるか痩せてるかの男性だけど、中には女の人もいた。
「おれたちにもその薬を!」
「おれにも!」
 全員がぼくと才子を真剣にみつめ、そう言ってきた。
「これ……カビですよ? 全身が水虫菌でかゆくなるですよ?」 
「そんなことは気にしない!」
「そうだ! おれなんかコミケ前はコピー本づくりで一週間くらい風呂入らなくても平気だし! いつものことさ!
 ちょっとまて周りの人たちは平気じゃないぞ。
「はう……でもあの人たち強いですよ。変な拳法使うし」
「変な拳法が恐くてオタがやってられるか!」
「じゃあこれを飲むです!」
 才子がポケットからたくさんの薬瓶を出す。オタたちは争うようにしてそれを取り、飲んだ。
「何人かかってこようと無駄だ!」
「兄さん、兄さんは敵を侮る悪い癖があります。まるでクルスク戦で重防御の陣地に突っ込んで大被害を受けたドイツ軍のように……」
「何を言うか! あの戦いでのドイツ軍は油断などしていない! 敵をあなどるというのは、台湾沖でちょっと艦隊を攻撃しただけなのに空母十隻以上沈めたと 思い込んだ日本海軍のT攻撃部隊が……」
「そういうことを言いますか! あれはですね……」
「和美! 敵が来るぞ!」
 薬を飲んで変身したオタたちが、雪崩となって突撃していった。
「ゲルマンッッッッッビィィィィィムッ!」
 目から出た光線をまともに受けて何人かがふっ飛ぶ。
「執事聖拳奥義!」
 押し寄せるオタ群の前で、和美が拳を振るう。
 次から次へと、オタたちが倒れていった。
 ダメなのか?
 萌えオタは、軍オタには勝てないのか?
 いや、まだ手はある。
 手足は動かせない。だけど口なら。
 ぼくは絶叫した。
「開場でーす!」 
 その途端、倒れていたオタたちがいっぺんにたちあがる。
 そう。即売会に通っている人間なら遺伝子に刻み付けられてる、あのプログラムが発動したのだ。
 オタたちは一瞬にして四列で並んだ。独人たちに向かって突進を開始した。さっきを遥かに超える勢いで!
 ぼくはさらに叫んだ。
「走らないで下さい! 走らないで下さい!」
 連中の目が光った。突進の勢いが増した。
「な、なにっ!?」
 独人はビームを放つが、効かない。興奮状態で痛覚がマヒしてるのだ。
「執事聖拳奥義っ!」
 次々に倒れる。だが一瞬で隊列を組みなおして突っ込んで行く。
「こ、これはどういうことだ、和美!」
「信じられません、執事聖拳が効かないなんて……ぐは!」
 独人と和美は、オタ数百人に飲み込まれた。
「ゲルマングレートハリケーン!」
 独人が両腕を広げて高速回転。
「兄さん、それ全然ドイツ語じゃありませんよ」
「英語とドイツ語をまぜるのはよくあることだ! ほら、あるだろうツインリンクもてぎとか!」
 オタたちがまとめて吹き飛んだ。
 強い。あの数でもだめなのか?
 その時、一人のオタがぼくの前に立った。
 顔は真っ黒い装甲で包まれているから誰だか判らない。
「……もう、ダメか」
 ぼくは思わずうめいていた。
 しかしそのオタは力強く断言する。
「何いってるんだ! その薬さえあれば!」
 喋ったのでやっとわかった。
 あのメイド同人誌の人だ。
 彼はぼくが握りしめていた『オエカキスラスーラ』の薬瓶を取って、そのまま一気にあおる。近くの机からスケッチブックとマジックを取り、サラサラと描い た。
「……見ろ! これが究極のメイドだああ! あまりの凄さにヴィクトリア女王が化けて出るぜ!」
 ぼくの位置からはどんな絵なのか見えなかった。だが独人の反応はよく見えた。
「くっ……!」
 独人は回転を止め、両腕をだらんとたらして、一歩後ずさった。目に見えない力に押されるように。
「どうしたんですか兄さん! まさかあんな絵一枚に……」
「そんな馬鹿な事があるかっ」
 怒鳴り返す独人。しかしその目はしっかりと、メイド好きさんの掲げたスケッチブックに向いている。
「私ひとりでも! ドイツが降伏してもまだ三か月は戦えます!」
 なんかビームとか出しそうな構えを取る和美。
「女向けだって描けるぞ!」
 一瞬、一瞬だけ、和美は動きを止めた。
「今ですよ!」
 才子の叫び。ぼくは声を張り上げた。
「開場ー! 走らないで下さい走らないでください!」
 オタ集団の目が光った。四列で並んで突っ込む。
「ド、ド、ドイツの軍事力は世界一ィィィ! ドイツ語で言うとヴェルト・アイーン!」
「兄さんそれ説得力ないですー! っていうかドイツ語間違ってます!」
 オタ津波は二人を呑み込み、薙ぎ倒し、机を破壊して同人誌をまき散らしながら、会場の壁まで突き進んでいった。

 三

 才子がポケットから出した「超強力ツタ・だんぜん捕縛くん一号」でぐるぐる巻きにされて、二人はうなだれていた。ブツブツと文句を言っている。
「……兄さんがあんな絵なんかで動揺するから……」
「そういうお前もたじろいでいたぞ」
「ほんとの軍隊なら鉄拳制裁ですよ、精神注入棒ですよ」
「まて、たしか東条英機は鉄拳制裁を禁じていた気がする」
「あんな陸式の丸ハゲ上等兵の言うことは知りませんよ。日本海軍と陸軍は全然関係ない別の軍隊なんです。『帝国海軍はまず帝国陸軍を撃滅し、その余力を もって米英に相対す』という名言もあります」
「名言なのか? 皮肉じゃないか? これだから日本軍びいきは……」
「ドイツなんて軍隊が四つもあって全部喧嘩してたでしょうが!」
「くっ……」
 ぼくは声をかけた。もう体も動くようになって、変身も解いている。
「きみたち」
 二人は黙って、むすっとした顔になった。
「……馬鹿にして悪かったと思っている」
「ああいった絵も悪くはないですね」
 反省してくれるなら、まあいいいか。
「萌え絵の勝利を祝って乾杯だ!」
「おう!」
 服ボロボロでもたれあって立っているオタたちが歓声をあげた。
 よかったよかった。
 ……なにか忘れている気がする。

 四

 数分後、ようやく駆け付けた警官隊は、全裸になってヒイヒイ言いながら体をかきむしるオタ数千人の姿を見て仰天した。
「やっぱりかー! やっぱりこの落ちかー!」
 ボリボリボリボリ。
「はうー! どうせこんなことになるとおもっていたですー!」
「才子ー! 助けてくれー才子ー!」
「はうー!」
「恥ずかしがってないでー!」

 第8話「しじょーさいもえの決戦」

 一

「さあ、いくですよー。はりきってゴーですよー」
 才子が元気な声をあげる。
「さーむーいー!」
 ぼくはガタガタ震えながら叫んだ。
「たかが10月で何を大げさな」
「特に今日は寒いよ! パンツ一丁じゃ耐えられないよ!」
 ぼくは砂浜に、水泳パンツはいてるだけの姿で立っていた。
 こないだの事件で、オタのイメージは最悪になった。そりゃそうだろう、「即売会の会場を埋め尽くし、白目向いて悶絶する無数のオタ(半裸)」が全国に放 映されたんだから。
 才子はすぐに「じゃあ正反対の路線を狙いましょう。健全でさわやかなスポーツマンに!」と言い出した。それはわかる、わかるんだけど……
「もうすこしあったかくなってからにしようよ!」
「辛いのに我慢して頑張る姿がハートをゲットするですよ!」
 才子はそう言うが、才子自身はダウンジャケットとか着てる。納得いかない。
「じゃあマリンスポーツじゃなくて他のにするとか……」
「でも才子、もう準備しちゃったです」
 ぼくたちのすぐ横に、サーフボードやジェットスキーが置いてある。
「ぼくどれもできないんだけどなあ」
「頑張って覚える姿がハートをゲットするですよ?」
「わかったよ……でも、せめてもう少し、寒さどうにかならないのかな」
「ではこれを使うです」
 才子はポケットからチューブを出した。
「この激烈塗り薬『アチャチャ01』を体に塗りたくると、ワサビの百倍という強烈な刺激で、寒さなんて感じなくなります!」
「痛かったら意味ないだろ!」
「痛みに耐えて頑張る姿がハートをゲット……!」
「本気か? 本気で、それでモテると思う? 正直なところをきかせて」
「ええと……面白いじゃないですかー!」
「変わってる! 目的変わってる!」
「あ、それよりあれは何ですか?」
「ごまかすなー!」
 ぼくは叫んだ。同時に、才子が指差した方を見る。
「……なんだろ」
 瓶だった。白い瓶が砂の上に転がってる。いや、流れ着いたんだ。
 手に取ってみる。金属でもガラスでもプラスチックでもない不思議な触感だ。表面にびっしり文字が書いてある。見たこともない文字だ。
「ボトルメールだと思うです」
「それにしては少し変だよ」
 ぼくは瓶のフタを開けようとした。
 かなり固い。でもなんとか回って……
 ぽむ! ぷしゅー!
 軽い爆発音、煙が噴き出す。
 瓶を放り出して何歩か逃げた。
 煙がはれたとき、そこには女の子がいた。
 十二歳くらいか。髪の色ピンク、頭の左右に巨大なリボン。フリフリだらけの服。しましまのニーソックス。先端にハートのついたステッキをもっている。
「ま、魔法少女!?」
 思わず声を出した。だって他にいいようがない姿だから。
 ピンク髪の魔法少女は目をパチクリさせ、そして……ぼくにとびついてきた。
「うわーい! 出られた! 出られた! 出られたーっ!」
「うわっ」
 魔法少女の体は、才子ほどじゃなくても小さくて軽かった。よろけそうになったけど立て直す。
「き、きみは……!?」
「あ、申し送れましたっ」
 魔法少女はぼくから離れ、ぺこりと頭を下げた。彼女の声は柔らかくて、少し舌足らずな喋り方だった。
「わたし、魔法少女アステルパームといいますわ! ありがとうございます! あなたが出してくださったんですね!」
「……どういうこと?」
 アステルパームは悲しげに、
「……わたし、悪い魔法使いによってあの中に封印されていたのですわ……」
「そうだったのか……それは大変だったね」
 才子が後ろからどついてきた。
「ちょっと多久沢さんっ!」
「なに?」
「なんでこの人の言うことあっさり信じるですか! 魔法少女とか封印とか……」
「いや、別にいまさら、ねえ」
「心外ですよプンプンですよ! 才子のはちゃんとした科学ですよ! 魔法なんかと一緒にしないで欲しいです」
「ぼくの目には同じように見えるけど」
 そこに魔法少女が口を挟んできた。
「あら、魔法は実在しますわ」
「じゃあ使ってみるといいです!」
 才子がなぜか敵意をあらわに言う。魔法少女はにっこり微笑んで、ハートのステッキを軽やかに振る。
「パールルパスパル、小さくなあれ!」
 そしてステッキを才子に向け……
 才子の体が見る見る縮んでいく。三十センチくらいになった。
「は、はうー! こんなことが……」
 自分の体をパンパン叩いて、「し、信じられないです……」
「おわかりいただけましたか?」
「はうっ、きっと科学的に説明できるはずです、魔法とかいって思考停止するのはいけないですっ」
「才子の薬も同じように見えるけどなあ」
「何をいうですかっ!」
「うふふ、強情なひとですわー。はいっ、元にもどしますねっ。パールルパスパル、もとにもどれーっ!」
 ステッキをフリフリ、すると才子は音もなく大きくなっていく。
「はう……」
 才子は自分の手を見つめ、ほっぺたをつねった。そしてさも悲しげに、
「負けたです……才子、ここまでうまく大きさ変える薬作れないです……」
「うふふっ、精進してくださいねっ。ところでお兄さん!」
「え? ぼく?」
「はいっ。ほんとに感謝してますっ。瓶の中にずっと閉じ込められたままって辛かったんですよっ」
「うんうん」
 置いてあったバッグからタオルを出してはおりながら、ぼくは相づちを打った。
「だから、恩返しをしたいです」
「お、恩返し!?」
「えっちなことではありませんわよ?」
「……そんな事思ってないよ!」
「顔に書いてありますわ」
「え? そんなにモロバレ?」
「まあ、それはともかく……恩返しの定番、『どんな願いでも一つだけ叶えてあげます』ですわ」
「おおお!」
 ぼくは一歩詰め寄った。
「といっても限度はあります。『願い事を三つにしろ』とか『百個にしろ』とか『全知全能の力を与えろ』とか『ドラえもんを出せ』とかそういうのはダメです」
「うん。わかってる」
 もちろん、ぼくの願いは決まっていた。拳をかかげて叫ぶ。
「モテモテに! 生身の女の子にモテモテ!」
「……あ。あまりにストレートでちょっと引いてしまいましたわ……まあわかりました。願いかなえてあげますわっ」
「うわあ、本当に? なんか願い事が勘違いされて叶うとか、いやなオチがあったりしない?」
「……妙に疑り深いかたですわね」
「身近に変な発明とかする人がいるとね、ちょっとね」
「どういう意味ですか! 説明するです! 才子の発明はちゃんと成功してるです!」
「『成功』の定義は人によって違うしねー」
「いつからそういうイヤミな人になったですか! もう協力してあげないですよ!」
「いいよ。だって魔法でモテモテになれるんだから!」
「さあ、いきますわ!」
「おねがいしまーす!」
 背筋をピンと伸ばして、魔法少女の前に立つ。
「パールルパスパル、モテモテセカイ、発生ーっ!!」
 ぼくの目の前に、魔法のステッキが突き付けられた。
 ピンク色の閃光が爆発した。

 二

 ぼくは眼を開けた。天井が眼に入った。
「……あれ?」
 木の天井。ぼくの家の天井とは少し違う。アニメキャラのポスター貼ってないし……
 手足を動かしてみる。首をめぐらす。ベッドと掛け布団の感触。ぼくはいつの間に寝たんだ。
 っていうかここはどこなんだ!
 掛け布団をのけて起き上がった。部屋の中も、ぼくの部屋と似てるんだけど違う。ゲーム機の種類が少ない。パソコンがない。萌え系のポスターが一枚もなく なってる。
 と、そのときドアが空いた。
 紺色のブレザーを着た女の子が入って来た。活発そうな美人で、ポニーテールがよく似合っている。室内とみまわしてぼくと眼をあわせ、「あ、ゆーいちおき てた」と言う。
「……誰?」
「はあ? ゆーいち、寝ぼけてるの?」
 ……そういわれてやっと思い出した。
 ああそうか、この人はぼくの幼なじみで、となりにすんでる女の子じゃないか。最近妙に怒ったりすねたりして、昔みたいに毎日一緒に遊んだりするような気 楽な関係じゃなくなったけど、でもこうして起こしにきてくれるんだ。
「いや、だいじょぶ。思い出した」
「……それならいいけど……」
 じゃあ、いままでのは夢か。そうだよな、アニメのキャラばかり詳しくて現実の女の子には全然縁がなくて、いる女といえばトンデモ発明するマッドサイエン ティストで……うん、そんな嫌なことが現実であるはずがない。しかしそれにしては妙に鮮明だ。
「ちょっと待ってて。すぐ着替える」
「もう。ゆーいちの『ちょっと』は長いのよねー」
 そういいつつ彼女はドアを開けて去って行った。ぼくはすぐに制服に着替え、階段を下りていった。……この家は一戸建てらしい。まったく見覚えがない。
 台所にいた母さんは、やたら若々しくて三つ編みで、ほんわかした喋り方だった。
「あらー、優一おはよう。意外と早かったわねー。母さんびっくりしちゃったわー」
 ……こ、この人はぼくの知ってる母さんじゃない……いや、でもたしかにこの母さんと一緒にすごした十五年間の記憶があって……あれ? もう、夢の中の記 憶があまりに強烈すぎて……
 ぼくはテーブルに向かい、パンと目玉焼きを急いで平らげた。幼なじみの彼女がぼくの前に座ってコーヒーを飲んでいた。彼女は話しかけてきた。しかしぼく はある一つのことが気になって会話に集中できない。
 この人の名前って何だっけ?
 十年以上一緒にいる幼なじみの名前を知らないなんてそんなことがあり得るだろうか?
「あのさー、もうすぐ誕生日だけど……」
「うん」
「きいてる?」
「うん」
「眼がうつろだよ?」
「うん」
「って、生返事じゃない。なにか悩み事でもあるの?」
「いや別に」
 訊けばすむ話かもしれない。でも、訊いたら恐ろしいことが起こりそうで……訊くことができない。
「むー。愛想悪いなあ。ほら、もうすぐゆーいちの誕生日じゃない」
「うん、そうだね」
「今年はデレデレしないでね」
「……え?」
 どうも話が理解できない。
「ほら、ゆーいちってモテモテだからさ、いつも誕生日とかバレンタインのときはクラス中の女にチヤホヤされちゃってさ」
 なんだって? ちやほや? ぼくが?
「……ぼくが学校でモテてるって?
「うん。どうしたの?」
「そんな馬鹿な……」
「えー、それ厭味よ。男子はみんなうらやましがってるじゃない」
「……そ、そうなの?」
「……ゆーいちにはあたしがいるじゃないの、もー」
「……はい!?」
 毎日起こしにきてくれる幼なじみがいて、学校ではモテまくりで……なんだこれ? なんだこの三流ギャルゲー時空は?
 ぼくは頭を振った。……いや、思い出した。たしかに記憶がある。ぼくはずっと前からモテモテだったんだ。
 具体的にどうモテていたのか思い出そうとすると霞がかかったように判らなくなるのがちょっと気になるけど……
「あらー、あんまりゆっくりしてる時間ないわよー」
 相変わらず、非現実的なまでにおっとりした口調で母さんが言った。
「う、うん」
 ぼくは慌ててコーヒーを流し込む。上着をはおってカバンを持つ。
「いってきまーす」
 ドアを開けた。
 門から出る。
 ……そこでぼくは立ち止まった。立ち止まらずにはいられなかった。
 なにこれ?
 門の外には、道があった。その道は10メートルおきくらいにクネクネと曲がりくねっていた。そして曲り角の向こうで人影がチラチラ動いてる。女の子の頭 だ。女の子が曲り角の向こうに隠れて、こっちをうかがってる。その次の曲り角も、そのまた次の曲り角も……
 曲がりくねった道と、角ごとに待ち構えている女の子。それ以外何一つなかった。他の家なんて一軒もない。空を見上げると、クレヨンで塗りこめたような 嘘っぽい青一色。
「……なんだこりゃ!?」
「え? だから曲り角よ?」
「だからなんでたくさん……あの女の子たちは?」
「曲り角でぶつかってくるために決まってるじゃない?」
「なんで? なんでぶつかってくるの?」
「ゆーいちのカノジョになるためでしょ?」
「……ずっと昔から、そうなの?」
「うん、前からそうだったじゃない。登校の時に曲り角でぶつかったらカノジョになる、それは世の中の決まりでしょ?」
「……そ、そう。ずっと昔からそうだったんだ……」
 ぼくは、弱々しくそう言った。そして高さの全然感じられない青空をあおいで、力一杯叫んだ。
「そんなわけあるかーい!!!」
 その瞬間、世界が消えた。目の前が真っ白くなった。

 三

 ぼくは眼を開いた。本物の空があった。体がブルッと震えた。メチャクチャ寒い。体の下に砂の感覚。
 跳ね起きた。
「……え?」
 ステッキを向けたままの魔法少女が、大きな眼をますます大きく見開いた。
「……眼をさました? うそ……」
「ぼくに何をした? 今の夢は何?」
 才子も大声で、
「言うです! 何したですか!」
 魔法少女アステルパームの丸っこくて愛嬌のある顔が、一変した。
 いや顔が変わったんじゃない。とても冷たい、人を見下すような笑みを浮かべたんだ。
「……ちょっと夢を見てもらっただけですわ。幸せな夢をね」
「願いを叶えるってのは嘘だったですね!」
「夢の中でかないましたわ。あなたは夢を見続けて、その代償にあたしは力をもらう。そのはずだったのに……」
「力ってどういうことですか!」
 才子の問いに答えず、アステルパームはステッキを振るった。
「力がもらえないなら、用はないですわ! パールルパスパル、翼よ!」
 フリフリドレスの背中がパッと花開いた。真っ白い翼が展開する。アステルパームは勢い良く飛び上がった。
「待つです!!」
 才子はとっさに注射器を投げ付けた。だが届かない。
 アステルパームは何十メートルかの高さまで上昇すると、そこで止まってぼくたちを見下ろした。
「名を名乗っておきますわ。あたしは魔王アステルパーム!」
「ちょ、ちょっと待つですよ! 魔王ってどういうことですか!」
 アステルパームはもう答えなかった。どんどん高度を上げて飛び去っていく。
「……多久沢さん……」
 才子は、ぼくにタオルをかけてくれた。
 でも体の震えが止まらない。それは寒さのせいじゃなかった。
「……魔王? ぼくは魔王の封印を解いてしまったのか?」

 四

「まずお姉ちゃんに相談するです」
「うん」
 才子は携帯を取り出してピポパと叩く。
 画面から立体映像が飛び出した。大きさは手のひらに乗るくらい。白衣を着てスパナを握ってる女性。彩恵さんだ。
「……あら、どうしたの才子」
「封印がとけちゃったです」
「ふ……」
 彩恵さんが絶句した。スパナを落っことした。
「ふ……封印? だって才子……どういうことよ?」
 どうしてここまで驚くんだろう? 「封印」に何か心当たりでもあるんだろうか?
「最初から順を追って話すです。まず多久沢さんが瓶を拾ったです。すると魔法少女が入っていて実は魔王だったです」
「……よくわかんないけど」
 ちょっと落ち着きを取り戻して彩恵さんは
言う。
「とにかく、危機なのね?」
「らしいです」
 その時、ぼくの携帯が鳴り出した。
「はう、意外と普通の着メロですね。アニメの歌しか興味ないんだと思ってたです」
「いや、普通の歌に聞こえるアニソンなんだよ……」
 ぼくは携帯に出た。すると、おじさんの声が耳に飛び込んでくる。
「優一くん!」
「あ、おじさん。こないだは大変でしたねー。」
「それどころじゃない!」
「……え?」
「僕はもうダメかもしれない。でも君は自分を見失わないでくれ。自分の好きなものを最後まで愛しつづけてくれ」
 とても切実そうな声色だった。これから死ぬ人みたいだ。
「え? どうしたの? なにがあったのおじさん?」
「……それだけだ!」
 切れた。
「……なんだってんだ!?」
 ぼくは首をかしげる。

 五
 
 その日を境に、オタク仲間たちと一切連絡が取れなくなった。

 六

「なんだこりゃ……」
 ぼくはアキハバラの街を歩きながら、ほとんどうめくように言った。
「全滅ですね……」
 街には人影がなかった。
 今日は日曜だ。普通なら、チェックのシャツ着てエロゲーキャラのイラストつき袋持った小太り軍団(根拠のある偏見)が道路を練り歩き、同人誌の店に出た り入ったりしてるはずなのに……街を埋め尽くしてるはずなのに……
「一人もいない……」
 秋葉原のオタク、全滅。
 ぼくは近くの同人ショップに入ってみた。
「いらっしゃいませー!」
 店長が飛んできた。
「どうしたの、今日はいったい?」
 すると店長は泣きそうになって、
「こっちが訊きたいですよ……もう三日前からずっとこうで……」
「お客さん全滅?」
「ええ」
 ぼくは店内を見回す。なるほど、普段は歩いて回るのも大変なくらい混み合ってるのに……ぼくたち以外誰もいない。マイナー声優の明るい歌がむなしく響い ている。
「最初の一日で半分くらい、その次でまた半分、土日になったら回復すると信じていたのですが実際にはこのありさま……」 
「……この店にはお世話になってるからなあ……あんまり持ち合わせがないけど、少し買うよ」
「ああ! ありがとうございますううう!」
「いや、何も土下座しなくても!」
「いえ、あなた様は救い主ですううう!」
 どうしよう。一番安いのを一冊だけ買おうと思ってたけど、ここまでされたらたくさん買わないわけにいかない。
 ……あれ?
「そういえば、店員さんがいないけど。ああ、お客さんいないなら必要ないってこと?」
「いえ。実は店員も、突然出勤しなくなったんです。まったくもう踏んだり蹴ったりで……」
 ……どういうことだろう?
 店員と客が同時にいなくなった……
 ああそうそう、買わなきゃ。
「これと、これと、これと、これ。下さい」
「あ、あ、ありがとうございます! 三千八百円になります!」
「才子、お待たせ」
 店の外で待っていた才子に声をかける。
「……」
 才子の眼がとても冷たかった。
「……なに?」
 そこでぼくは、自分が買った物が何なのか気付いた。
 表紙は、アニメ絵の女の子たちが裸にされたり、しばられちゃってたり、もっと先のことも……もちろん中身もそんなので……
「……いや、これはその」
 アキハバラは周りが全部こんな感じだから自分が何やってるか気付かないんだよー!
「よく女の前でそんな本買えるですね……」
「いや、だからほら……」
「早くしまってくださいです!」
 お下げを大きく振って、歩き出す。
「う、うん」
 慌てて同人誌をカバンにしまって追いかける。
「店員の人も来なくなったって」
「……つまり、オタ全滅ということですか。これはやはり、あの魔王アステルパームの仕業ですよ」
「でも、オタばかり狙って何のつもりなんだろう? 何が目的なんだろう?」
「それは判らないですよ……お姉ちゃんも父さんも知らないって言ってたですし……」
「そうなんだよなあ……」
 あのあと、才子たちの家族に「魔王アステルパーム」について調べてもらった。だがそんなものは聞いたこともない、記録にも残ってないというのだ。
「どうすればいいですか……」
「もう、あとは自宅に行ってみるしかないね」

 七

「おじゃまします」
 そう言ってぼくは頭を下げた。
 おばさんは暗い表情で、ほとんど心ここにあらずという感じで、小さく頭をさげた。
「……はじめまして。お邪魔するです」
 才子がおじぎする。
 ここは、ぼくのオタともだちの家。
 といってもクラスメートじゃなくて、ネット上で知り合った友達で、即売会やoff会では会うけど、家まで来たことは過去一度しかない。
 だから怪訝そうな顔をされることは覚悟してたけど……
 この暗さはなんだろう。
「お友達がきてくれたわよ!」
 おばさんが彼の部屋に入って呼ぶ。
 しかし、反応はない。しばらくしておばさんはますます悲しそうに出て来た。
「どうしたんですか?」
「ごめんね……いまちょっと会えないみたいなの……」
「どうしたんですか? 病気ですか?」
「病気……なのかしらね……」
 そういうことか。
 ぼくはおばさんの横をすり抜け、部屋に入った。
 そこには、パジャマ姿の彼がいた。
 しきっぱなしの布団の上に転がって、寝ている。そして何か寝言を言っている。
 近寄って、耳を傾けた。
「……かえってきてくれたんだね……かえってきてくれたんだね……」
 幸せそうだった。彼の顔を見た。涙が頬を伝っていた。
「……ずっとこうなんです」
 はいってきたおばさんが言う。
「眼を覚まさなくて……夢ばかり見て……たまに眼をさましてもすぐ戻ってしまうんです……! このまま死んでしまうのかと……病院しかないのかしら……で もこんな病気聞いたことなくて……」
「いや、病院では治せないでしょう」
 ぼくは言った。
 声に、自分でも意識せずに恐怖がこもっていた。そして怒りもこもっていた。
「みんな、アステルパームが夢を見せてるですね……」
 そして魔力の供給源にされている。オタの妄想力は人より強いからうってつけなのかもしれない。
「ああ。治せるかな?」
「頑張ってみるです」
 才子がポケットからたくさんの薬を出す。
 すると目の前の空間がぽん! と爆発。ピンク髪にフリフリドレスの女の子が出現。
「そうはさせませんわー」
「この人たちを元に戻せ!」
「いやですわ」
「才子!」
 ぼくがそう言うのと同時に、才子はポケットから水鉄砲を取り出す。やっぱりそのへんが適当な武器だよな。変身して殴ったら殺してしまうし……
「パールルパスパル、けんか、だめー!」
 ステッキを一振り。すると才子の水鉄砲がでかいキュウリになった。
「はうっ」
 もう一丁出す。それもアステルパームに向けた瞬間ダイコンに。注射器を取りだす。それは特大の青虫に!
「はうー!」
 青虫を放り出す。
「あ、あなた……あなたね! あなたがやったのね……!」
 おばさんが叫ぶ。ようやく「魔法少女が魔法で息子を眠らせている」という異常な状況を認識したらしい。いや、かなり適応が早い方かも。
「あーもー。うるっさいなあ。パールルパスパル、デンデンムシになーれ!」
 ぽん! おばさんが消えた。いや、畳の上には一匹のデンデンムシが。
「なにが目的だ!」
「魔王の目的といえば世界征服にきまってますわ! もう魔力は十分だし……よし! 一気にいっちゃいましょー! パールルパスパル、世界征服せんげー ん!」
 ステッキを振り回す。
 部屋の片隅にあったテレビが、触れてもいないのに画像を映し出す。アステルパームの姿を。そして底抜けに明るい叫び。
「世界中のみなさんこんにちわー! 魔法少女あたらめ魔王アステルパームちゃんですよー! 元気してましたかー! それはさておきあたしは大宣言しちゃい ます! 
 世界征服せんげんー!
 これから世界中のみなさんはアステルパームちゃんの奴隷ですよー! 逆らう奴は顔に応じてデンデンムシ・ミミズ・ウシガエル・ヒシバッタなどに変えちゃ うですよー! みんなあたしのことを祝福しちゃいなさい!」
 才子の携帯が鳴った。パカッと開くと、彩恵さんの立体映像が飛び出した。
「才子! 大変なことになったわ! 魔王アステルパームが……!」
「いま目の前にいるです!」
「えっ!」
「早く応援に! 才子だけじゃ勝てないです
「判ったわ!」
 電話が切れる。
 アステルパームは無邪気に笑って、
「応援なんて何人呼んだって無駄ですわー」
 テレビの中のアステルパームも元気に喋り続けていた。
「はーい、今ニュースがはいりましたー。アメリカさんが戦闘機を出撃させちゃいましたー。
 もー困ったちゃんですわー。ケンカはめーなのっていってるのがわかんないのかしらー。
 そんなわけで、パールルパスパル、ケンカ、だめー! はーい、アメリカさんの飛行機は全部おっきなイカさんになりましたー!
 おいしそうですね! これでもうケンカはできないですねー! アステルパームちゃん偉い! ノーベル平和賞! 
 ってなわけで逆らうおバカさんには容赦しませんわ! ただちに各国はあたしに無条件降伏して、『アステルパームえらい』というテーマで反省文を提出する こと! 原稿用紙で2枚以上5枚まで! あとノーベル平和賞ください! 
 えー、以上のことが四十八時間以内になされない場合、悲しいけどこれ戦争だから、力づくで征服しゃうぞー!」
 もう十分に力づくだ。
「みんなの応援、まってますっ。魔王アステルパームちゃんでしたっ」
 テレビのスイッチが切れる。
「いまのは……」
「えへへー。世界中のあらゆるテレビで流してるんですー。これでみんなが降伏してくれればいいけど。してくれなかったら……えへへ、それはそれで楽しみ!  また大暴れしてスッキリ!」
 とんでもない奴だ。
 でも不思議だ。封印される前のアステルパームもこんなことをやってたなら、どうして記録に残ってないんだろう。
 その時、壁が爆発。
 部屋の壁を突き破って現れたのは、黒光りする流線型の車。マッドカーだ。
 ドアが斜め上に開き、身長二メートルでアンテナみたいなヒゲを生やした男が飛び出してくる。才子の親父・松戸博士だ。彩恵さんも続いて降りてくる。
「才子! 応援に来たぞ!」
「は、早かったです!」
「フフフ、ワガハイを誰だと思っている。世界最高の宇宙船技術が詰め込まれたこの『マッドカー・アルティメットカスタム』は地上でマッハ七の速度を出すこ とが可能であり、『曲がれない』という欠点に対しては立ちふさがる全てのものを分子レベルで粉砕……」
「解説はいいから、やっつけるです!」
 才子の言葉に親父はちょっと不機嫌そうに眉間をしかめ、
「むっ、そうだったな」
「何人来たってムダですわ! このアステルパームちゃんに勝てるわけないですわ!」
「ほほう、大した大言壮語だ! だがワガハイに勝てるかな! こんなこともあろうかと思って無敵の宇宙戦艦を建造しておいたのだー!」
 それは絶対、違う目的だと思う。
「いでよ!」
 謎のコントローラを取り出し、ボタンを押す。
 轟音が壁の外から聞こえてくる。どんどん近付いてくる。
 窓から見た。宇宙戦艦が浮いていた。
 普通の戦艦みたいな形で、艦首には謎の巨大ビーム砲が! 非常に見覚えのあるデザインだ。
「あ、あの形は!」
「これぞ天才・松戸博士が世界に誇る渾身の力作、宇宙戦艦アローターゲットであーる!」
「アローターゲット! つまり日本語に訳すと!」
「決して訳してはならん! 訴えられる!」
「だったらそんな名前つけるなよ!」
「天才は著作権などという不粋なものは意に介さない、と言いたいところだが微妙に気にする! イッツ・タイトロープダンサーッ! それはともかく、ゆけアローターゲット! 主砲斉発!」
「ちょ、ちょっと! 才子たちまでふっ飛んでしまうですよ!」
「心配するな才子。アローターゲットの火器管制システムは、地球から冥王星のミジンコを狙い撃つことも可能な超精密射撃能力をそなえているのだ! 見たか 知ったか、このオーバースペック!」 
 アステルパームはちっとも怖がらず驚かず、魔法のステッキを窓に向けた。
「パールルパスパル、でっかいでっかいエビフライに、なーれっ!!」
 ステッキから虹色のビームがほとばしり、窓に吸い込まれる。宇宙戦艦アローターゲットに飛んでいく。
 魔法の力だ、アローターゲットは巨大エビフライに……ならなかった。
 艦全体がピカッと光って、魔法の光を弾き返した!
「え……!?」
「ふっふっふ。しょせん魔法など過去の物、科学には太刀打ちできんと思い知るがいい!」
 どうして効かないんだ?
 あ、よく見ると艦の表面にお経みたいなものがびっしり書いてある。あの呪文で魔力を跳ね返してるのか。
 アステルパームがひるんでいたのは一瞬だった。すぐに微笑んで、
「パールルパスパル、おっきいスプレー!」
 ステッキを一振り。
 アローターゲットのすぐ側に、たぶん百メートルくらいあるだろうスプレーが出現。
「むっ、いかん!」
 親父がコントローラを操作するが、遅かった。
 スプレーが真っ赤な塗料を噴射。アローターゲット全体を塗装して、呪文の文章を覆い隠した。
「もういっかーい。パールルパスパル、でっっかいでっかいエビフライに、なーれっ!」
 再び飛んでいく虹色の光。
 アローターゲットはカラリと揚げ上がったばかりのエビフライになった。落下する。
 轟音。地響き。
「なんということだ……アローターゲットが一瞬で……」
「父さん、呪文で防御するというのは魔法ですから、マッドサイエンティストとして邪道なのでは?」
「違う、あれは魔法ではない。霊子力防御スクリーンだ!」
「一緒よ!」
「断じて違う! そもそも霊子力とは!」
 ぼくは怒鳴った。
「そんなことでもめてる場合かー!」
「そ、そうだったわね……」
「もうおしまいですのー? 口ほどにもないですわー。前の連中のほうがずっと手強かったですわー。うふふー」
「私がやるわ!」
 彩恵さんがアステルパームの前に立ちはだかった。
「クルクルさん、やりなさい!」
 彩恵さんが着てる白衣のポケットから、タキシードに蝶マスクという姿の男性型ロボットが「うにゅーっ」と現れた。催眠術ロボ・クルクルさんだ。
 クルクルさんは白手袋に包まれた手でアステルパームを指差す。指をグルグルまわす。
「催眠強度百二十パーセント! あなたは魔法が使えない、使えない、魔法が使えない……!!」
 しかしアステルパームは平然としている。
「むー。それだけー? つまんなーい。パールルパスパル、おともだちー!」
 ステッキを一振り。するとクルクルさんが指をピタリと止める。
 ……クルクルさんの眼がハート形になってるー!
 アステルパームがニコニコしながら言う。
「お友達のクルクルさん、お願いです! そこの眼鏡お姉ちゃんをお猿さんにしてください!」
「ク、クルクルさん! 私の命令に従いなさい!」
 彩恵さんがあわてて命令するが、クルクルさんの眼はハートマークのまま。指を彩恵さんに向ける。
「あなたは猿になる。あなたは猿になる。あなたは猿! お尻は真っ赤っか!」
「ウッキー!」
「はうー! お姉ちゃんがーっ! また壊れたーっ!」
 またとか言うな。
「かくなる上は!」
「何か手があるの?」
 松戸博士は眼をむいて叫んだ。
「逃げる!」

 八

「……どうしたものか……」
 親父が腕組みして呟く。
 ここは才子たちの家の、今。
 みんなで椅子に座って顔をつきあわせているが、アステルパームを倒す良い手は見つからない。
「そもそも、どうして催眠術が効かなかったんだろう?」
「それはワガハイも気になる。そのあたりに敵の弱点が隠されている可能性もある」
「あの催眠術って、人間以外にも効くはずだよね?」
 ぼくは才子に質問したつもりだったが、答えたのは彩恵さんだった。
「ウキッ。ウキウキッ」
「彩恵はこう言っている。『人間、犬、猫、猿、馬などのほ乳類には間違いなく効く』」
「お父さん、よくお猿さんの言葉わかるですね」
「ワガハイとて、伊達に銀河系中を探検してるわけではない」
 よくわからない理屈だ。
「しかし、ほ乳類ということは……?」
「はう! そう言えば、最初に拾ったあの瓶! あれを調べてみるです!」
「おお、そうか!」
 さっそく、アステルパームの封印されていた瓶を検査した。
 検査機器を近付ける。ノートパソコンの画面に、物質組成などが表示される。
「なにっ」
「はう、この数字確かですか?」
「間違いない。するとアステルパームの正体は……記録に残っていないのも当然だな」
「でも、正体がわかっても倒す方法がみつかったわけじゃない……」
 ぼくはうめくように言った。
 このままだと世界はアステルパームに征服される。みんな奴隷にされるんだ。こんなことならずっと、アステルパームの夢をみたままでいるべきだったのか?
 少なくとも夢の中では幸せだ。
 ……待てよ?
「……才子。テレパシーの薬はないか?」

 九

 ぼくは才子の家の屋根に立って、夜空を見上げている。
 テレビのニュースによると、日本政府はアステルパームに降伏することを決めたらしい。
 でも、降伏したからって無事で済む保証はどこにもない。
「多久沢さん」
 背後で才子の声。
「なに?」
 振り返ることなくぼくは答えた。
「その薬はやばすぎるです……とても精神が耐えられないですよ?」
「でも、他に方法が思い付かないよ」
 ぼくは自分が握っている薬ビンを見つめた。超強力総合精神感応薬「デンパビリビリV」の試作品。
 ふたを開け一気にあおった。眼をつぶる。
 すると真っ暗な視界の中に、化学方程式がいっぱい現れた。才子の頭の中だ。
 ぼくは精神を集中する。もっと遠く、もっと広く、テレパシーを届かせる。日本全国に散らばるオタたちに。アステルパームの魔力源になっている人たちに。
 頭が砕けそうな衝撃。
 猛烈な幸福感をともなって、たくさんの単語が頭のなかに押し寄せてきた。

 メイド巫女メイド巫女妹看護婦女医体操服剣道着ウエイトレス看護婦メイド妹妹妹男言葉ボク少女メイドポニー妹眼鏡眼鏡ツインテール妹妹幼馴染メイド男言 葉クール系チャイナプリンセス眼鏡ショートカット青髪病弱系お嬢様メイド妹眼鏡姉母みつあみニーソ
 
 単語の次には映像がやってきた。
 妹に怒られたりメイドさんに世話を焼いてもらったりポニーテールのボク少女に叱ってもらったりする光景が、次から次へと現れた。
 体を包んでいる、とろけるような快感、それがますます強くなっていった。
 流されてはいけない。
 ぼくは声を張り上げた。
「……みんな! きいてくれ! みんなはいま、夢の中にいるんだ!! 
 それは現実じゃないんだ! 現実の世界では恐ろしいことが起こっている! 魔王アステルパームとかいう奴が世界征服しようとしてるんだ! 嘘じゃない本 当だ! そのアステルパームの魔力は君たちが与えてるんだ! 頼む、眼をさましてくれ!」
 圧倒的な萌えイメージの洪水に向かってぼくは叫んだ。その声は小さくてすぐにかき消されてしまった。
 ……ダメか?
「……なんだよ、うるさいな」
 声が返ってきた!
「きいてくれ! いま君たちが見ているのは夢で……」
「知ってるよ」
「え?」
「これが夢だなんて判ってる。現実にあるわけないだろう」
「俺も判ってる」
「ぼくも気付いてる」
「ぼくもだ」
 次々に声が。
「……それなら眼をさましてくれ。君たちがこうやって眠って夢をみて、その妄想エネルギーを吸収したアステルパームが世界を征服して……」
「だから何?」
 返ってきた声はひどく冷たかった。
「……何って、君たちが眼をさましてくれないと世界が……」
「知ったことじゃないよ」
「うん、ぼくも」
「だって現実の世界に戻って、それで何があるの? 夢の中のほうがずっと幸せだよ」
「そうだよな。現実の世界でアニメ声のメイドさんとラブラブできるか!? もう現実の世界なんかには何の未練もない。むこうの世界がどうなろうと知ったこ とか」
「そうそう。だってこっちにいればずっと幸せでいられるのに」
 ぼくは愕然とした。
 無理か? 無理なのか?
 そうかもしれない。ぼくだって夢の中は幸せだった。ずっとあそこにいたいと思っていたかもしれない。
 いや、違う、ちがうぞ!
「……みんなは間違ってる」
 ぼくは言い切った。
「なに? どこか間違ってる?」
「萌えを否定するのか? 我々オタが夢見た世界にケチをつける気か……?」
「違う! 夢の中は素晴らしい! ぼくだって、たとえ夢のなかでも幸せになりたいさ!
 でも、本当にそれだけでいいのか。
 だってメイドだって妹だって、そりゃ最初は幸せかもしれないけどずっとは続かないだろ! ぼくはどんなアニメみても、どんなキャラを好きになってもその 楽しさは永遠には続かないぞ。みんなもそうじゃないのか。そして次の作品が楽しみになるんだ。それがまだ発売されなくて待ってる時間の楽しみ、それも幸せ なんじゃないのか!?」
 一瞬、沈黙があった。声が消え、萌えイメージの奔流も消えた。
 しばらくして、ためらいがちの声。
「……完全に満たされてしまった萌えは、もう幸せではない……そういうことか!?」
 ぼくは力の限り叫ぶ。
「そうだよ! その通りだ!」
 ざわざわ、またざわざわと、声が生まれた。
「……そうかもしれない」「うん」「あと何分で仕事が終わって帰りにアニメショップ寄るぞとか、楽しいもんな」「また発売延期すんのかよって思いながら雑 誌の特集読んで想像する楽しみもあるぞ」「夢の中にはその楽しさがない」
 ぼくはまた叫んだ。
「さあ、還るよ!」
 世界が、力強い声に満たされた。
「おう!」「眼を覚まそう」「よし!」
 そして、閃光が視界を包む。

 十
 
 どさっ。
 ぼくは尻餅をついた。屋根の上に転がった。
「多久沢さんっ!」
 才子がしゃがみこんで心配げに声をかけてくる。眼鏡の奥にある瞳を、ぼくはじっと見た。いつもの、どこかイタズラっぽい感じは全くなくなってる。真剣そ のものだ。
「大丈夫だよ、才子」
 そう言って起き上がった。体中が鉛のように重い。顔も服の中も汗びっしょりだ。
「うまくいったんですか?」
「うん、これで大丈夫だ」
 その時、目の前にポンと爆発。
 アステルパームが出現した。
「いったい何をしたんですっ!」
 切迫しきった声を上げるアステルパーム。彼女は疲れ果て、立ってるのもやっとという感じだ。
「みんなには眼をさましてもらった。君の魔力はもうないよ!」
「やっぱり……そんなことで勝ったと思ったら大間違いですよ!」
「でも、もうほとんど魔法使えないよね!」
「……うっ……」
 アステルパームは魔法のステッキを天に向けた。
「みんなー! もう一度アステルパームちゃんに力を貸してー! もっと楽しい夢を見させてあげちゃいますわー!」
 ぼくの心にオタたちの声が飛び込んで来た。まだ薬の効果は切れてないのだ。
「……ど、どうする?」
「……いや、やっぱりダメだろう?」
 アステルパームは眼に涙を浮かべ、小さな手を祈るように合わせた。
「……おねがい……たよれるのは、あなただけなの……」
 とたんに頭の中で萌えテレパシーが爆発した。
「萌え!」「たまらん!」「あんなかわいい子にお願いされちゃったら……」「やる! おれは力を貸すぞ!」「アステルパームちゃーん! ぼくもー!」
 アステルパームは泣きながら微笑んだ。
「ありがとう……みんなならきっと、助けてくれるって信じてた……」
「うおお! 今のでますます萌えー!」
 ダメか? いや、まだいける! 
 ぼくは声を上げた。
「だまされちゃダメだ!! 才子、変身解除を!」
「わかったです!」
 才子の手がひらめいた。白衣のポケットから水鉄砲を取り出して、撃つ。
 薬がアステルパームにかかった。
「ふんだ、なにを……こ、この薬はー!」
「それは強制変身解除薬『バケカワハガレールGX』ですよ!」
 アステルパームの体が変化していく。
 粘土をこね回すように変形していく。ピンクの髪が肌に吸収され、肌の色がかわり、眼や口の形が、骨格それ自体が多きく歪む。
「や、やめてー!」
 アステルパームは必死になって、両手で顔を隠した。だがその手さえも緑色で……
「さあ! みんな見るんだ! これが魔法少女アステルパームの、本当の姿だ!」
 ぼくはアステルパームをじっとにらんで、見たまんまの映像をテレパシーで送ってやった。
「……こ、これがアステルパームちゃん!?」
「と、トカゲじゃないか!」
「いや、恐竜だ!」
 そうだ。変身が解けたアステルパームは、恐竜人間だった。
 全身が緑色のウロコに覆われ、突き出した口には牙が並んでいた。でも服だけはピンクのフリフリドレスのまま。
「あ……ちがうの! これは違うのよ!」
 その声も今まで通りのロリ声だ。
 アステルパームが封印されていた瓶を年代測定したら、なんと六千五百万年前のものだった。そう、アステルパームはそのくらい長い間封印されていたんだ。 記録に残ってないのも当然だ。きっと恐竜が進化した知的生物なんだろう。
「さあみんな、これでもアステルパームの言うことをきくかっ?」
 一瞬で、悲鳴がかえってきた。
「うわー! おれたちはあんなのに萌えてたのかーっ!」
「いやじゃーっ!」
 アステルパームはそれでも魔法のステッキをこちらに向けた。
「パールルパスパル、子ブタさんになれー!」
 ぽしゅん。
 ステッキから煙が出ただけ。
「そ、そんなあー!」
「さあ、覚悟するんだ! 才子!」
「はう!」
 才子が素早く投げた注射器がアステルパームの首筋に突き刺さる。そしてポケットから出した封印の瓶を向ける。
「えーい、封印されるですー!」
 瓶が光った。アステルパームの体が、シュルシュルと小さくなって吸い寄せられてゆく。
「油断さえ、油断さえしなければ……たすけてえ、いやあああっ!」
 最後までアニメ声で叫びつつ、アステルパームは瓶に消えた。 
 こうして、人類は救われた。

 十一

 がらがらっ。
 ぼくは教室に入った。
 今までお喋りしてた女子たちがシーンと静まり返る。そして下水でものぞきこむような目つきでぼくの方をチラチラみる。
「や、やあ、おはよう」
 ぼくが一人の女子に声をかけると、その女子は二、三歩後ずさって、
「近寄らないで! やめてよ!」
「そこまで嫌わなくても……」
「だって、あんなこと考えてるなんて!」
 他の女子たちも声をそろえる。
「ほんとほんと、やらしーよねー。限度があるってもんよ」
「……口きいたら、よごれるわよ(ボソボソっと)」
 あああ!
 そうだ。まだ試作段階だった超強力テレパシー薬のせいで、ぼくは考えてること垂れ流し状態になってしまった。能力をコントロールできないんだ。で、学校 のこととか、読んだ漫画のこととか考えてるうちは別にいいんだけど……その……あまり他人には知られたくないこととかも考えちゃうわけで……とくに、ある 種のゲームや漫画、同人誌について考えたりすると……考えるなって言われれば言われるほど、ね。
 男なんだから仕方ないって思うんだけど……だめかな……
「ダメです!」
 女子が叫んで、手で「シッシッ」という仕草をする。うわあ、この考えも伝わってた!
「才子! 助けてくれ才子! この薬なんとかならないの!」
 ぼくはテレパシーで才子に呼びかけた。
 答えは無慈悲だった。
「まだどうにもならないです!」
「そんなあ!!」
「そうだ! この薬を試すです! これを打つと脳の一部が破壊されてすべての性欲が一生なくなるんですよー! さあ!」
「やめてーっ!!!」
 
 おわり。

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