「7億8000万キロの約束」

 増田 淳

 1
 
「クリスマスには戦争が終わる、ってきいたことあります?」
 肩を叩かれてそう言われた瞬間、アンジェラ・ルッツ少尉は考えるより先に攻撃体勢に入っていた。
 自分が地球圏統合条約機構軍のラウムイエーガー(人型宇宙戦闘機)乗りであることも、これから出撃することも、彼女の脳裏から消えていた。
 腕を組んで腰をひねり、黒いタイツのような第2種空間戦闘服に包まれた身長155センチの引き締まった体を丸ごと回転させた。
 タイミングを見計らって腕を伸ばし「声の主」の首筋に手刀をぶちこんだ。手応えあり。ゼロGのため体が反動で遠ざかる。すかさずもう一回転して足で顎を 蹴り上げた。真空のため音はしない。ただ足の骨を衝撃が伝わってくる。
 その時はじめてアンジェラは、「声の主」が専属整備士のクルト・ホフマンであることに気づいた。
「ぷげっ」
 悲鳴を上げてクルトがふっ飛んでいく。アンジェラの体も反作用で斜め上へと漂う。
 腕をいっぱいに広げて回転速度を減らした。飛んでいく先には巨大な銃をかまえたラウムイエーガー(人型宇宙戦闘機)の姿。ミュケンベルガーMu175 「ヤークトフォイエルランツェ」だ。アンジェラはラウムイエーガーの肩に手を触れた。軽く触れたようにしか見えなかったその動作が機体表面をとらえ、体の 回転をぴたりと止める。
 片手で機体につかまったままアンジェラは下方に眼を向けた。
 激しく回転しつつ手足をばたつかせながら飛んでいくクルトが見えた。
 その間も通話回線が開きっぱなしになっているらしくアンジェラの耳には「うわぁー」というクルトの間抜け声が響きわたる。
 クルトは7メートルほどの距離を瞬く間に突っ切り、隣で整備を受けていたラウムイエーガーの胸に激突、斜め上に跳ねかえって『ぐえっ』と声を上げ、ほと んど速度を減じないまま天井に突入、『ひいっ。うわっ』と天井の梁をつかもうとして失敗、下方に跳ね返ってきた。
 空気さえあればすぐに減速したはずだが格納庫は与圧されていない。速度が落ちるのはぶつかった瞬間だけだ。
 床にぶつかってまた跳ね上がり、『とまれぇー!』と叫びながらまた手足を振り回し、とある人型戦闘機の脇の下に体ごとはまり込んでやっと止まった。
「ううう、痛い……ひどいよアンジェラさん」 
 クルトがうめきながらもがいて脇の下から脱出、空中を泳いできた。アンジェラのすぐ下、機体の腕あたりにし がみつく。
 アンジェラを見上げてクルトは叫んだ。いつもはヘラヘラと笑ってばかりの顔が泣きそうに歪んでいる。鳶色の眼がうるんでいる。
「いきなり蹴っ飛ばすなんてひどいですよ……」
 アンジェラは幼く整った顔をクルトにむけて冷たい声で言い放つ。
「相変わらずゼロG機動が下手だな。艦隊勤務にむいてないんじゃないか?」
「いきなり第一声がそれですかっ!? 蹴っ飛ばしといてそれですかっ!?」
「む……敵かと思ったんだ。後ろに立ったから」
「思わないでください! アンジェラさんはマンガのキャラですか?」
「マンガってなんだ?」
 クルトはぱっと顔を輝かせて、
「20世紀に出現した古典アートですよ! 三次大戦で大半が失われていたんですが、20年くらい前にイギリスの好事家がコレクションを公開したりして世界 的な評価が高まり……」
「興味がない」
 ぶっきらぼうに言うアンジェラ。
 クルトは大げさに両腕を広げて早口でまくしたてる。
「あーもう。いつもこれだ。ねえアンジェラさん、そんなだから『戦争機械(シュラハトマシーネ)アンジェラ』とか『完全兵士(フォルコメンゾルダート)ア ンジェラ』とか言われるんですよ」
「その形容は不快じゃない。むしろ誇らしげに思える。むしろ君がだらけすぎなんだ」
「もっといろいろな事に興味もちましょうよ。あと、そのにらんでるみたいな目つき。せっかくの美人なのにもったいないなあ。
 ねえアンジェラさん知ってます? アンジェラさんってその目つきと喋り方を直せばこの艦の女で一番美人だってみんなが、その黒髪と青い眼のミスマッチ が、髪伸ばすともっといいんですけど、とくにツンとすましてるときのアンジェラさんがすげーいいなあって、ギースラーの奴も言ってるんで……女に詳しいあ いつが言うなら間違いないと……」
 どんどん早口になっていくクルト。
「うるさい。で、何だって?」
 クルトはため息をついて、
「『クリスマスには戦争が終わる』って噂ですよ? 僕たち整備班の間で広まってるんですよ」
「そんな噂。この戦争が始まった時だって言われていた」
 艦隊でひと突きしてガリレオ衛星群を占領すれば木星は降伏する、この戦争は6週間で終わる、と上官たちも口をそろえて断言していたものだ。西暦2200 年8月、5年4ヶ月ばかり前のことである。ところが戦争は終わる気配も見せない。
「まあそうなんですけどね、でも……」
「まじめに仕事をしてくれ」
「それじゃまるで僕がさぼってるみたいじゃないですか。完璧にやってますよ。ヤークトフォイエルランツェに機種かえてからやたら動力系がトラブル起こすん で すけどねー。部品もろくに来ないし。でも完璧にしあげてますよ?」
 アンジェラは笑った。彼女とのつきあいが長い人間でなければ笑いと認識できない、口元をわずかにほろこばせるような笑みだ。
「私は『完璧』という言葉を軽々しく使う人間を信用しない。前回の出撃では右機動ユニットのノズルが詰まった。前々回は左足のアクチュエータが破断し た」
「違います違いますって! あれ整備ミスじゃありませんよ! 機動ユニットの件は核融合ぺレットの表層コーティングが雑なんですよ。戦争始まった頃と比べ るとかなり駄目になってます。あとアクチュエータの件はアンジェラさんが無茶するからです。ほらアンジェラさん足振って機体回すの好きじゃないですか?  かっこいいなーと思うんですけど負担かかるんですよねー」
「君の仕事は言い訳することか、整備することか」
「う……相変わらずきついなあ」
「仕事に戻れ、ホフマン軍曹」
「はい……とほほー」
 機体を足下からよじ上りはじめるクルト。肩につかまったまま格納庫内を見回して待っているアンジェラ。100メートル四方の格納庫にはラウムイエーガー が数十機並んで立ち、整備を受けている。大半はアンジェラ機と同じミュッケンベルガーMu175ヤークトフォイエルランツェだが、胸板がひとまわり薄い旧 式フォイエルランツェの姿もある。
 しばらくして「整備完了しました!」というクルトの声。別人のように引き締まった硬質な声だ。
「ごくろう」
 短くぶっきらぼうに返事をして、アンジェラはヤークトフォイエルランツェの腹部にある搭乗ハッチに体を滑りこませる。
 中は直径1.2メートルほどしかない球状の操縦席だ。薄暗い中、頭から入ったアンジェラはなめらかに体を回転させてシートに着席。ハーネスで体を固定。
 搭乗ハッチの向こうにクルトがひょいと顔を出し、にっこり笑って「いってらっしゃい、アンジェラさん!」と手を振る。
 アンジェラは手を振りかえさない。薄くほほんでうなずく。
 ハッチが閉められクルトの顔も見えなくなった。
 アンジェラはシートから伸びるケーブルを戦闘服の首筋と手首につなぐ。これによって彼女の戦闘服は機体の電子系と接続された。
 ヘルメット内に響く合成音声。機体の戦術電子脳のものだ。
「個人情報認証完了。地球圏統合条約機構軍、ドイツ航宙艦隊、正規空母『アドルフ・ガーランド』航空団所属、アンジェラ・ルッツ少尉と確認。機関、全兵 装、使用可能。精神接合可能」
 平板で無個性な男声だ。たいがいのパイロットは自分の好みにあわせて恋人なり女優なりの声に変えるものだがアンジェラは機体を受領した時のまま変えてい ない。
 アンジェラも負けず劣らずの無感情な声で、
「精神接合開始」
 頭蓋骨の中でバチリと火花が散って、
 頭の中で文字が矢継ぎ早にフラッシュ。
 『精神接合開始』
 『脳内麻薬分泌制御開始』
 『神経電流バイパス化』
 『情報代行処理開始』
 戦闘服を通じてヤークトフォイエルランツェの戦術電子脳とアンジェラの脳が連結された。次の瞬間アンジェラの心は生身の肉体から切り離された。アンジェ ラは身長10メートルの巨人になっていた。脳が受け取る情報のうちデジタル処理可能なものは電子脳で代行処理され、思考速度が数十倍に加速される。
 目の前にはクルトが浮かんでいた。あいかわらず手を振っている。チラリと視線をクルトの顔に合わせると機体の光学センサが近接モードで動作、クルトの顔 面の毛穴までとらえてくれた。
 いつもの習慣で、アンジェラは「手」を顔の前に持ち上げてみた。
 鉄骨を組み合わせたような細い指。
 握ったり閉じたりを繰り返す。
「では、行ってくる」
 アンジェラは電波で喋った。
「無事を祈ってますっ! 帰ってきたらもっといろいろ話があるんですよっ!」
 クルトの叫びを無視して、アンジェラは細い脚で床面を蹴り機体を進ませる。漂う先は格納庫の中央にある銀色のチューブ、電磁カタパルトだ。
 カタパルトの前にはすでに10機ほどが列を作っている。
 カタパルトが向かう先は格納庫の壁面、いや扉だ。いま扉がゆっくりとスライドして開く。瞬くことのない星々が見える。
 カタパルトに乗って次から次へと人型戦闘機が艦を離れる。すぐにアンジェラの番がやってきた。両脚を固定、心の中で『安全確認完了。発艦準備よし』と念 じた瞬間、機体の戦術電子脳がカタパルトに命令を出した。
 後方にふっとんでいく格納庫の景色。
 宇宙空間に放り出される。

 2
 
 世界が一変した。
 周囲には何千とも知れない光がぎらついていた。
 星ではない。
 みなアンジェラ機と同じラウムイエーガー。核融合プラズマの光を眩しくふりまき飛び去っていく。
 はるかに大きな軍艦群の姿もあった。エンジン噴射を止めているため光は発していないが、見渡す限りの空間に一千隻は浮かんでいた。巨大な箱のような空 母、砲塔だらけでゴツゴツした戦艦、細長い巡洋艦駆逐艦。国籍もさまざまだ。ドイツ、フランス、イギリスにロシア……アンジェラが軍艦に眼を向けると戦術 電子脳が自動的にデータを引っ張り出し、「ドイツ航宙艦隊正規空母ヴェルナー・メルダース」「イギリス王立宇宙艦隊戦艦インヴィンシブル」などと艦名を表 示し てくれる。
 アンジェラがいるのは「防空球形陣」をとる艦隊の中心部。真ん中には空母を並べ、その外側には戦艦、そのまた外側には巡洋艦と駆逐艦を並べた陣形。アン ジェラたちはまず球形陣の外側に出なければならない。
「エンジン点火」
 心の中でつぶやく。思考コマンドを感知した機体が胸の中のパルス核融合エンジンを点火。背中の翼が開かれ、翼に左右六つずつ並んだ推力偏向ノズルから白 く輝く核融合プラズマが噴き出す。
 アンジェラ機に、三機のラウムイエーガーが追いついてきた。細い手足、アンバランスなほどたくましい胸板、背中には翼、腰回りには円筒形の燃料タンクを ずらりとぶら下げている。アンジェラ機と同じヤークトフォイエルランツェだ。
「隊長、遅くなりました!」
「ルッツ中尉、ちょっと早すぎですよ!」
 口々に文句を言いながらアンジェラ機と編隊を組む。
 アンジェラの率いる飛行小隊(シュヴァルム)の面々だ。
 部下の一人ドリス・バイパー曹長がアンジェラ機の顔を覗きこむように接近して言う。
「隊長、またクルト君に口説かれてたんですか?」
 精神接合状態で無線を使うと、頭の中に直接声が響いてくる。ドリスの声は生身の時と同じだった。そんな声になるよう登録してあるのだ。
「本人は口説いてるつもりらしいな」
「彼、こだわってますね隊長に。一ヶ月くらいやってません?」
「二ヶ月前、この艦に乗り組んできてからずっとだよ。私の何が気に入ったのか分からないが」
「あ、でも隊長は確かに美人だし、っていうかお人形さんみたいでかわいいとか思っちゃうし。彼氏の一人くらい」
「興味がない」
「いつもそうですね」
「軍人なら当然のことだ。戦闘に集中するんだ」
「はーい」
 そのときアンジェラに呼びかける声。
「空母アドルフ・ガーランド航空団司令より全機に通達。敵編隊は方位270・031距離20万キロにあり、速度200前後で接近中。総数10000程度と 推測、邀撃に尽力せよ」
 一方的な命令で、返答は求めていない。 
 それでもアンジェラは「了解」と答え、「いくぞ!」と部下たちに呼びかけた。
 加速、さらに加速を続ける。燃料満載時の最大加速、およそ4Gで飛ぶ。
 鉛色に鈍く光る軍艦と軍艦の間をすり抜けて、およそ60秒で球形陣を離脱。
 敵の姿が見えた。
 この距離では、「大きな光のもや」にしか見えない。だが間違いなく、ラウムイエーガーが1万機だ。
「わりと少ないですね、今回の敵」
「そうだな、妙に少ない。前回の攻勢から立ち直っていないのか?」
 会話しているうちに、光の点が周囲に集まってきた。よく見れば光の点ではなく手足が生えている。味方が空中集合しているのだ。
 あたりは光の点に包まれた。およそ8000機ばかり。
 「空中集合完了を確認。
 邀撃部隊司令より全機に通達。
 全機、邀撃体勢に入れ。各部隊の判断で射撃を開始してよし。
 我ら地球人の勇気を見せよ。以上」
 響いてきた声を受けて、アンジェラたちは
身長の七割はあろうかという巨大な銃を前方へと向ける。
 71口径88ミリプラズマ銃だ。
 向けた瞬間、機体の戦術コンピュータが敵の戦力や距離を自動的に解析。敵である「光のもや」にかぶさって、

「総数1万
 距離18万
 相対速度240接近中」

 と表示される。
「いつも通り、距離1万で撃て」
「我慢が辛いんだよなー。早く撃たせろー」
「待つことができないものは、よい兵士とは言えない」
「はーい」
「それが上官に対する返答か? パイパー曹長」
 ドリスは沈黙した。
 全員が黙ったまま、ひたすら敵との距離を詰める。

 「総数12000距離13000相対速度150接近中」

 右で、左で、光が弾けた。
 弾けた光は一瞬にして前方へ飛んでいった。
 味方が射撃を開始したのだ。
「まだ辛抱ですかー?」
「必中の距離まで待て」
 味方の撃ったプラズマ弾は敵編隊に吸い込まれたが、爆発は起こらない。当たっていないようだ。
 アンジェラは敵編隊をにらむ。
 数字はこう変化していた。

 「総数10000距離9500相対速度240接近中」

 あたりを一秒ごとに何百もの光線が駆け抜けていた。まだ発砲していないのはアンジェラ隊だけのように見えた。
「距離9000を切りました、小隊長」
「そうだな、そろそろ撃つか」
 アンジェラが敵編隊を凝視する。光学センサ系が9000キロ離れた敵機の姿をとらえ、電子処理を加えて拡大、噴射ガスの赤外線パターンなどから得られた データと照合してアンジェラの脳に送る。
 視界が歪んだ。一点が拡大された。
 自分達のヤークトフォイエルランツェと同じような銀色の、しかしどこか寸詰まりの人型戦闘機。木星共和国軍の主力戦闘機、アッシャーAs14空間戦闘機 だ。銃を構えているだけで、まだ撃っていない。もっている銃はアンジェラたちの巨大銃と異なり、細い銃身を束ねたものだった。射程が短いためまだ撃てない のだ。
 アンジェラはその敵機に狙いをつけ、撃った。
 核融合ぺレットが爆発、発生したプラズマ流が誘導銃身内で形を整えられ、秒速2万キロにおよぶ速度で銃口から射出される。
 純白の光線が敵機まで9000キロの距離をコンマ5秒足らずで駆け抜け、敵機の腹部を直撃する。光が弾け燃料タンクが破裂、手足がちぎれ飛ぶ。71口径 88ミリ銃の威力はイエーガーの手持ち火器としては最強だ。
 その隣を飛んでいた敵機は背中のノズルを噴かして回避機動、だが一発目はよけたものの二発めをくらって片腕を銃ごと吹き飛ばされ、直後に三発目が胸を貫 いて爆発。
 残った敵機はひるまず、エンジンを噴かして加速しながら撃ちかえしてくる。細い光の針を打ち出してくる。
 視線を外して味方編隊を確認した。4機とも無傷で連射している。
「幸先いいですね、隊長!」
 ドリス・バイパーが明るい調子で叫ぶ。
「敵の数が少ない。腕も良くないようだ」
「もしかして、あれですかね?」
「あれとは何だ、正確に発言しろバイパー曹長」
「『クリスマスには戦争が終わる』って奴ですよ。もうすぐ終わるから敵は本気じゃないんです」
「あ、私もその噂きいたことあるよ!」
「自分もです」
「そうか、そんなに広まっている噂なのか」
 アンジェラは一瞬、どう答えればいいのかわからなくなった。
 二つある光学センサのうち「片目」を横に向け、パイパー機をじっと見る。まるで顔色をうかがおうとしているかのような動作だ。
「……ただの噂だ」
「あ、いまの妙な間、気になるなあ!」
「実は隊長もこの噂信じてるでしょ? 終わったらいいなあっておもってるでしょ?」
 視線を前に向け、ただ敵編隊だけをにらんでアンジェラは答えた。
「……そんなことはない。私は軍人だ。敵を効率良く倒すこと、軍人の本分を全うすること……それ以外のことに興味はない! あってはならない! 私語は禁 ずる!」
「うわっ、隊長の『私語は禁ずる!』が出ちゃったよー!」
「パイパー曹長! 禁ずるといったはずだ!」
 ドリスは黙った。
 敵編隊は近づいてくる。
 撃った。撃ちまくった。
 前後に何万の光線が走った。
 ときおり脳が発する警告を頼りに回避機動を繰り返し、撃ちつづけた。
 敵編隊の中で爆発が目立った。当たっている。一方、左右でも爆発があった。アンジェラの部隊ではないが、味方がやられている。

 『総数9500距離5000相対速度240接近中』

 距離が詰まるにつれて互いの銃撃がよく当たるようになった。アンジェラたちのすぐ横でも味方の編隊が次々に爆発四散する。
「わっ」
 ドリスが悲鳴を上げた。足が片方吹き飛んだようだ。腿を半分だけ残して解け落ちてしまっている。敵機が小口径多銃身主義だからこの程度ですんだのだ。
「うわー足がー!」
「うろたえるな! なくても平気だ!」
 距離が四千を切った時、アンジェラは叫んだ。
「決戦距離だ! 火力を敵攻撃機に集中しろ!」
 アンジェラたち4人は目標を変えた。
 敵編隊の後ろ側で隠れるようにして飛んでいる、ビヤ樽のように太った機体へと銃を向けた
 マーチンM11艦上攻撃機。肥満体の中に対艦ミサイルを詰めこんだ機体。
 連射。
 マーチンM11は次々に爆発した。回避機動は鈍重で、盾となるはずの戦闘機部隊も数が減りすぎていた。
 距離3000。2000。1000。
 そしてゼロ。二つの編隊が交差した。
 アンジェラのすぐ真横で大爆発。
 ハッとなって確認したが、部下たちは無事だった。すれ違った瞬間に敵機が爆発しただけだ。
「機体を反転! 減速しつつ射撃続行!」
 アンジェラの声に部下たちが元気よく答える。機体を逆向きにして、遠ざかっていく敵編隊へと撃ち続けた。

 『総数6000距離1500相対速度240離脱中』

 すでに敵の数は半分。
 ここまでの打撃を与えられてもなお逃げず、攻撃任務を全うすべく地球艦隊に飛びこんでいく。

 「総数5900距離13000相対速度240離脱中」

 敵編隊はアンジェラたちの射程を抜けた。まっしぐらに艦隊に突っこんでいく。
「射撃中止! 減速し艦隊への帰投コースに乗れ!」
 アンジェラの命令に従い部下たちは銃を下げる。
 すでにアンジェラたち邀撃部隊ができることは終わったのだ。ここからは艦隊そのものの防空戦闘力が問われる。
「大丈夫ですよね?」
「ああ、あれだけ数を減らせば問題ないだろう」
「隊長、落ち着いてますねえ」
「経験だよ。過去5年の間では楽な戦いだ」
 味方艦隊の球形陣から何百本もの白い糸がいっせいに放たれた。糸はプラズマ弾よりも遅い速度で敵編隊にからみつき、爆発。また爆発。艦隊の放った対空ミ サイルだ。
 爆発の閃光が消えたとき、敵編隊は数が減っていた。それでもまだ進み続ける。
 ついに敵編隊は味方艦隊の球形陣に突入した。
 球形陣の内側で白く眩しい閃光が炸裂した。人型戦闘機の爆発ごときとは比較にならない大爆発。対艦ミサイルの核融合弾頭だ。
「食らったか」
 だが、爆発は一度、二度、たったそれだけしか起こらなかった。
「二隻!? たった二隻? 信じられないー! ヒャッホー!」
 ドリスはそう叫んで機体を宙返りさせる。
 他の部下たちも歓声をあげ、ぱちぱちと手を叩く。事実、空襲の被害がこれほど小さかったことはアンジェラの記憶にもほとんどなかった。
「いやあ、やったやったー!」
 アンジェラははしゃぎ回るドリス機の後頭部に拳を叩きこんだ。
「うがっっ! なにするんですか!」
「私語は禁止だといったはずだ!」

 3

 格納庫の中にもどってきた。
 核融合プラズマを艦内でまき散らすわけにはいかない。かわりに冷たいガスを吹いて緩やかに機体を制御、着艦する。このあたりの着艦プロセスは電子脳が自 動操縦を行ってくれる。
 目の前にはクルトが待ち受けていた。
「精神接合を解除」
 アンジェラが思考コマンドを発する。
 機体との接続が切れ、アンジェラは生身の体に戻った。
 視界が濁ってぼやけて見える。機械の超視力が失われたための錯覚だ。全身に凄まじい疲労感があった。
 何もしてないのにハッチが開いた。
 クルトの軟弱そうなにやけ面が向こうからのぞく。
「お帰りなさい、アンジェラさん!」
「あ、ああ」
 喉を使って声を出すことが苦痛に思えて仕方なかった。精神接合で人型戦闘機を飛ばすのはそれほどの重労働なのだ。
「あ、起きられないの? 手を貸すよ?」
「大丈夫だ……」
 のろのろした動きでハーネスを外し、シートに手をついて体を浮かばせ、頭をぶつけながら外に出た。
「大活躍だったみたいだね!」
「お前は脳天気でいいな……敵が弱かっただけだ……」
「アンジェラさん、戦果があったときは素直に喜びましょうよ! アンジェラさんの悪い癖ですよ、無愛想だったりいっつもつまんなそうにしてるのは!」
「悪い癖で結構」
「またまた!」
「ところでクルトはどうして悪い癖満載の私なんかにこだわるのかな?」
「あっ、いまクルトっていいましたね! やっと名前で呼んでくれた! 長かったなあ! 今日という日を忘れないようにしよう、うん!」
「違う! 今のは疲れていてついうっかり言ってしまっただけだっ!」
「あー。そこまで本気でうろたえなくってもー!」
 
 4

 飛び退くのが百分の一秒ばかり遅かった。
 撃破された。
 衝撃が全身を貫く。
 するとアンジェラは座席に座っていた。
 ここはラウムイエーガーの球形コクピットではなく、真っ白い壁に囲まれた大きな部屋。無人の座席が並んでいる。
 自分の着ている服も黒い空間戦闘服ではなくポケットだらけで作業着じみた艦内服だ。
 ヘルメットを外し、汗で濡れた手を見て、自分がいる場所が空母アドルフ・ガーランドの仮想訓練室であること、今の戦闘が電子脳の生み出した仮想体験であ ることを思い出した。
 手首の腕時計がデジタル表示で2140と時刻を告げている。
 アンジェラは今日の待機任務が終わってすぐにこの仮想戦闘室へ直行、訓練に励んでいたのだ。いままで毎日毎日やっていたように。
「おかしい……」
 目の前で手を握りしめ、うめく。
「こんなはずじゃない! 20回連続なんて……」
 アンジェラは短く切った黒髪を揺らめかせて立ち上がった。この仮想戦闘室も無重力で、勢いあまったアンジェラは天井に激突した。
 いまはヘルメットをつけていない。
「くっ」
 痛みに頭を抱える。
「ぶざまだ……」
 顔をしかめながら部屋を出る。
 と、廊下にはイエーガー乗りたちが数人いた。
 みな男。見知った顔はいない。アンジェラはとっさに全員の階級賞を確認、自分より階級の高い者に向かって敬礼した。
 相手の男は答礼すると、アンジェラの顔をしげしげと見つめ、
「ルッツ少尉だね?」
「私のことをご存じで?」
「有名人だからね。女のイエーガー乗りは珍しくないけど、女で、美人で、凄腕で、大変な堅物ってのはな」
「堅物は事実ですが、私は凄腕というほどではありません」
「謙遜はよせよ。こないだの邀撃戦でも何機か墜としてるんだろ? 全部で何機? 30くらい?」
「公認された撃墜数は35機です」
「この艦で一番だ! 俺もあやかりたいよ! なんかコツでもあるのかい?」
「教えられるようなことは何も。あえて言うなら訓練を怠らないことでしょうか?」 
「はっ、聞いた通りだね。今もここで仮想訓練?」
「はい。しかし調子が良くないようです。先ほどから20回も撃破されました」
 男は分厚い掌をポンと叩いて、
「そりゃあんた、クリスマスの話のせいじゃないか? みんなアレで身が入らなくなってるんだ。うちのヒヨッ子なんて……」
「クリスマスには戦争が終わる、ですか。みなさん信じているのですか?」
「ああ、いままでの噂とは違うよ、根拠がある。第一、この艦隊の行動自体がおかしい。木星まで来て、敵と艦隊戦をやるでもない、アナンケなりパシファエな り衛星群を攻めるでもない、ただ木星の近くでプカプカ浮いて、攻撃を跳ね返してるだけ……」
「私も疑問には思っていました」
「他にもあるさ。敵の行動が不活発なのも妙だ。実際、もうそろそろ限界なんだよ、この戦争は。最初の一撃で屈服させられるはずが五年! 五年だよ!? そ れでなんの成果もなし。互いに艦隊出して、迎撃受けてズタボロになって退散。そんなことばっかり何十回もやってる。金と人命が失われるだけだ、何もいいこ とはない」
「それは、軍人が考えて良いことではないと思います」
「そうかい?」
「……失礼します!」
 アンジェラは立ち去った。
 振り向かなかった。
 床と壁と天井を蹴り、通行人をはねとばしかねない勢いで進んだ。
 あの場所にいて、あの男の話を聞き続けることが恐かった。
 だから逃げ去った。

 5

 しかしどこにいけばいいのだろう、アンジェラは余暇時間の過ごし方を訓練しか知らなかった。
 廊下の手すりにつかまって浮かび、途方に暮れる。
「……寝るか」
 まったく眠くなどないが、ベッドで横になっていれば少しは気分も落ち着くかもしれない。
 士官用居住区にもどろうと振り向いた時、「アンジェラさん! こんなところに!」
 ふわふわした金髪、小柄で細い体、しまりのない顔つきの青年がいた。クルトだ。
「なんだ、ホフマン軍曹。私のことはルッツ少尉と呼べ」
「うわ、いつもよりカタい人になってるよ……まあとにかく探したんですよ!」
「私は君に用がない。君と趣味の話をするつもりもないし、恋愛関係や友人関係を築くつもりもない!」
 意識しないうちに刺々しい喋り方になっていた。
「まあ、そう言わずに」  
「ちょ、ちょっと。どこへ連れていく気だっ……!」
 クルトはアンジェラの腕をとって引きずっていく。
「レクリエーション室ですよ。あ、そうそうジュース飲みます? おいしいですよー」
「栄養は十分にとっている」
「食べ物は娯楽ですよ、ご・ら・く!」
「……君はなぜ私に構うんだ!?」
 そう叫びつつもアンジェラは抵抗しない。
「気になるんですよ、アンジェラさんのことが」
「どうして?」
「説明するのは難しいなあ」
「ところでレクリエーション室にいくのか? 閉まっているに決まってるだろう?」
「行ってみれば分かります」
 アンジェラはもう手を引かれる必要もなく自分からついていった。エレベーターで数階降りて、また廊下を進む。
「ほら」
 クルトが指差す先には、レクリエーション室の入り口。ドアの向こうから何やら談笑する男女の声がきこえてくる。
「ばかな! 戦闘空域の近くだぞ!」
「まあ精神衛生上、遊びは必要ですよ軍人にとっても」
「そういうものか?」
「どうせアンジェラさんはいつも訓練でしょ? 勤務時間のあと寝るまでぶっつづけで」
「そのつもりだったが今日は調子が出ない」
「そんなときこそ気分転換ですよ!」
 ふたりはレクリエーション室に入った。
 学校の教室ほどの広さの空間に、カードゲーム用のテーブル10ばかり、映画鑑賞とゲーム用のブースが4つ並んでいた。
 軍人が艦内服の男女がテーブルに群がりカードに没頭している。入ってきたアンジェラたちを誰も見ない。
「うわー、いっぱいだなあ。あ、アンジェラさんこのブース開いてますよ映画みられますよー」
「待て。私は遊ぶと決めたわけじゃない」
「気分がモヤモヤしたままだと任務にも支障をきたすでしょ!?」
「それは……わかった。一回だけだぞ」
 二人はブースの一つに入る。
「わりと狭いな」
 二人ならんでシートに腰掛けると、もう肩が触れあうほどだ。
「映画なに見ます? ふだんどんなの見てるんですか?」
 アンジェラは腕組みしてしばらく沈黙、
「……二ヶ月前に、地球で『地球人の大旗4』を見た」
 クルトはブース全面の40インチモニターを操作し、映画ライブラリに収録されたリストをずらり並べて、
「あんなもんは映画とは言えません。プロパガンダの垂れ流しです。じゃあ僕にまかせてください、そうですね、アンジェラさん冒険物と恋愛ものとどっち が……いや、そこまで深刻そうに悩まなくていいです。僕がきめます、はいこれ」
 モニターに映画が流れはじめた。
「これは何時間くらいあるんだ?」
「短いです。90分かな」
 映像は街の中、商店街をうつしている。
「古くさい街だ。車が少し変だ。なんで自動運転じゃないんだ?」
「21世紀初頭のニホンなんです。いまはもうない国ですよ」
「サムライがアチョーと叫んでいた時代か」
「アンジェラさん、ほんと軍隊以外のことは何も知らないんですね……はい飲み物」
 アンジェラはアルミパックに入ったグレープフルーツジュースを受け取り、映画に集中した。

 メタルフレームの眼鏡をかけた女が主人公のようだった。彼女の職業は研究者。白衣をきて何かの機械を操作、シャーレに入った菌を培養している。自室に入 ると、中は殺風景で仕事関連の資料ばかり並んでいる。仕事ひとすじに生きているらしい。
 彼女はある日、友達の友達である男から求愛を受ける。
 最初は困ったように拒否して、職場である研究所にもどる女。

「そうだ、男の誘いなど受けない方がいい。正しい行動だ」
「映画と会話されても」

 しかし何度もアプローチを受けて彼女の態度がかわる。困惑しながらもはじめてのデートの約束をする彼女。
 彼女は男とふたりで街を歩く。
 彼女の風体はいつもと同じ眼鏡、黒いセーター。しかし下半身はジーンズではなくチェックのスカート。
 私なんかと話して楽しいですか? と気にしながらデートを続けるふたり。
 やがてふたりとも幸せそうな表情に。

「なんでこの女は表情が変わったんだ?」
「デートが楽しかったんでしょ?」
「私には分からない……」
 アンジェラの声はさきほどよりためらいがちなものだった。
「アンジェラさんもスカートはいたらわりと似合うと思いますよ。嫌いですか?」
「はいたことがないのでわからない」
「絶対、似合いますって」

 やがて映画の中でふたりは何度かデートを繰り返し、彼女は男のことしか考えられなくなってしまう。そしてある日実験中にシャーレを落として割ってしまう のだ。
 床に広がっていく液体を呆然と見つめる彼女。
 次の休日、ちょうどクリスマスの日、彼女は大きな時計台の下に男を呼び出して別れを告げる。もう会わない方がいい、私は仕事に生きたいと思う。
 男は「君の仕事が暇になるまで待つ」と言った。女が鋭く「3年かかるわ」と言ったが男は「それでも待つ」。
 驚きに眼をみはる女の前で男は、「3年後のクリスマスの日、時計台の下で会おう」
 二人は一度わかれる。
 雪がふりはじめ、静かな音楽の中、去っていく男の背中、見つめる女。

「……なぜ待っているんだ? あの男の行動が理解できない」
 アンジェラが細いあごに手をあてて首を傾げる。
「他の女を探せってことですか?」
「そうだろう? 眼鏡の女は決して絶世の美女というわけじゃない」
 クルトはにやにやして、
「僕にはわかります。きっと放っておけないんだ」
「なんのことだ?」

 映画の中では時が流れていた。
 3年後のクリスマス、雪ではなく雨が降っていた。浮かない顔で街を歩く女。
 彼女は時計台にいってみると、そこには誰もいない。
「やっぱり」と傘を取り落とし、くすくす笑い出す女。その場にしゃがみ込んで、通行人の奇異の眼も気にせず笑い続ける。
 彼女の傘を誰かが拾い上げる。
 驚いて顔を上げると、そこに彼が。
 彼はずぶぬれの彼女をみて不思議そうに、
「2時じゃなかったっけ?」
 彼女は「1時よ! 相変わらずいい加減な人ね!」
 彼はぺこりと頭を下げて、
「そうだったかな……ごめん。でも、その……メリークリスマス」
 彼女もぎこちなく笑って「メリークリスマス」。
 二人は抱き合ってキスをして、満面の笑みをうかべるそのシーンがアップになり、悲しげだった音楽がアップテンポのものに変わっていって、スタッフロール がはじまった。

 アンジェラとクルトは、無言でモニターを見つめていた。
 先に口を開いたのはクルトだった。
「わりといい映画でしたねー。あれ、アンジェラさんどうしたの? なんでそっぽむくの?」もしかして泣いちゃった?」
「誰が!」
 勢いよくクルトに向き直るアンジェラ。
「訳の分からない話だった。男も女も行動の理由がわからない」
「そのわりに、途中から夢中になってましたよ?」
「夢中になんてなってない! ただ……まあ。私の知らない世界だったから、勉強になったことは認めてもいい」
「認めてもいい、か」
 クルトは苦笑しながら、
「アンジェラさんは、この映画のヒロインより手強いなあ」
「……私もあんな風に口説くつもりだったのか?」
「でも、楽しかったでしょ?」
「ごまかすな! まあ……私には関係のない世界だったから、少し楽しかったことは認めてもいい」
「関係あるよ。戦争が終われば、アンジェラさんは軍隊から離れられる。好きな人と二人で買い物をして、並木道を歩いて、恥ずかしがりながら手をつないで、 待ち合わせに遅れて怒って……そういう世界にいけるんだよ」
 アンジェラはクルトから眼をそらして、重苦しい表情で、
「私には関係ない」
「関係ある。戦争が終われば……」
「それが恐い!」
 アンジェラの口からふいに、弾けるように言葉が飛び出した。自分の口から出た言葉が信じられないように眼を見張り、悔やむような表情。
「……こわい?」
「そうだ。私は15の時から軍にいた。親が突然いなくなったんだ。8年前だ。当時から地球の経済はズタボロで、子供を捨てる親はいくらでもいた。イエー ガー乗りの適性を認められた時はうれしかったよ。脳をいじられ、高いGに押しつぶされて、それでも嬉しかったよ。ここにいれば役に立てる、ここに私はいて もいい、そう思えたからだ」
 アンジェラはスタッフロールを流し終えて止まったモニターを指差して、
「この女とは違う」
「せっかく居場所をみつけたのに、戦争が終わったら消えてしまう?」
「そうだ。この場所で生き残ることしか考えていなかった。他の場所なんて知らない」
 クルトはアンジェラに顔を向けた。近づけた。白くてしまりのない、いつも笑っている彼がこの時ばかりは真剣な決意を秘めた眼差しでアンジェラをみつめて いた。
「……それなら、僕がおしえるよ」
 アンジェラは何か言おうとして口ごもる。
 クルトはつづけた。
「軍隊を出たあとの生き方のことも、きれいな服の買い方も、喫茶店でじろじろ見られない方法も、面白い本も映画も……アンジェラさんが知らずにいたこと を、ぼくがぜんぶ教えるよ」
 しばらく沈黙があった。
 アンジェラは眼をそらし、恥ずかしそうにつぶやいた。
「……それもいいな」
「え?」
「ききかえすな! それもいいなって言ったんだ! ほんとうに終わったら……責任もって私に教えるんだぞ!」
 クルトは微笑んで、
「はいはい」
「なんだその返事は!」
「いやあ、アンジェラさんが僕の思っていた通りの人でよかったよー。クリスマスまであと3日、楽しみだなー」
「うるさいっ」
 アンジェラはクルトの顔面を殴ってそっぽを向いた。
 
 6

 アンジェラは円筒形のシャワー室に全裸で浮かんでいた。
 夜間当直明けで、いまは0930時。
 シャワー室内では何万もの丸い水滴が漂ってはぶつかりあい分裂と合体を繰り返していた。
 眠たげに目を半開きにして、真ん丸い水滴をすくいとり、壁の蛇口から出した液状石鹸と混ぜ合わせて体にこすりつける。
 肉づきの薄い胸、軍人らしからぬ細い腕、ひきしまったお腹と尻、うっすらと褐色のかげりがある股間。体を丸めて、すらりと伸びた両足に泡をぬりたくる。 股間、尻、腹と胸に手を伸ばす。体を洗う順序と時間は軍に入ってから5年間一度も変えたことがなかったが、いまは普段の2倍3倍の時間をかけて洗う。
 順々に泡を落とし、髪の毛を洗いはじめた時、
 シャワー室のドアがノックされた。いかにもプラスチックという安っぽい音。
「まだですかー!!」
 くぐもった声が外から響いてくる。
 アンジェラは士官で、下士官とは待遇がまるで違う。個室を与えられ食事レパートリーは倍も多く、シャワーに割り当てられた時間も長い。まだまだ時間は 残っているはずだ。
「まだです!」
 相手の階級が分からないので敬語で叫んで叩き返す。
 ドアが開け放たれた。
 水滴が外の脱衣所にあふれだす。
 全裸の女が入ってきた。赤毛でくっきりした目鼻立ち、健康的に日焼けした体はアンジェラより数段は豊満だ。
 ドリス・パイパー曹長だった。
「……小隊長?」
「なんで君がここにいるんだ? 君は下士官だろう?」
「ここで下士官用シャワー室ですよ」
「あ……」
 アンジェラはそこで周囲を見渡し、
「そういえば狭いな」
「私で良かったですね、別の小隊の人とはちあわせしたら恥ずかしいですよ?」
「そうだな、すまん。出る」
「最近おかしいですよ、いつもボーッとして。こないだなんて灰皿をコップみたいに持って飲もうとしてたでしょ」
「いや、あれは……出る、どいてくれ」
 顔をそらし、ドリスの体をよけてシャワー室から出ようとするアンジェラ。
 しかしドリスがどかない。腕組みし、砲弾型の乳房を腕で押しつぶしていたずらっぽく笑う。ほっぺたにえくぼが生まれた。
「あれでしょ隊長、クルトくんとうまくいってるんでしょー?」
「ば、ば、ばかなことをいうな! いちど映画を見せられただけだ! わ、私のことなんてなにも知らないくせに勝手に選んだ映画を! それが実につまらなく て、眼鏡をかけた女と軽薄な男がいちゃいちゃするだけの話で」、どっどっどこが面白いのか全く分からないなっ!」
 しゃべればしゃべるほどアンジェラはしどろもどろになっていった。
「嬉しそうですね隊長」
「ちがう……」
 弱々しくうめく。
「隠すことないじゃないですか。がんばって下さい。あ、ソッチの方のことなら私先輩ですから、いくらでも助言しますよ? デートはまだ1回だけですか?」
「デートとかそういうんじゃないんだ……私はそういったことをやろうと思ったことはないし……実際、男から気に入られることも全くなかった。きみと違って 無愛想で、体もまったく女らしくない」
「訊いてみたらどうですか? 私のどこがいいのかって」
「はぐらかして答えてくれないんだ」
「もっと真剣にききましょう」
「……不思議な気分だ。立場が逆になったみたいだ」
 アンジェラは腕で体の前を隠した。
 スマートといえばきこえはいいが乳房も腰も張っていない自分の体が、妙に恥ずかしく思えたのだ。どんな高Gにも長時間飛行にも耐えたこの体をずっと誇り にしてきたというのに。
 ドリスは明るい笑顔で胸を張った。ゆたかな乳房がますます強調される。
「当然でしょ? 戦争以外の世界では私が大先輩なんだから!」
 つられてアンジェラも笑ってしまった。
 (戦争以外の世界……悪くないかもしれない)
 自然に、そう思えた。

 7

 12月25日の朝。
 アンジェラたちイエーガー搭乗員はブリーフィングルームに集められていた。
 300人全員が起立していた。
 彼らの前に立つのは空母アドルフ・ガーランド航空団の司令、エッケルト少佐。
 アンジェラは上の空だった。
 心の中で期待が膨れあがっていくのを止められなかった。
 気にするのはやめようと思えば思うほど、あの日映画ブースでクルトに告げられた言葉が胸に響く。
 (教えてあげるよ、か)
 だからアンジェラは、エッケルトが発した言葉をききとれなかった。
 心が、ききとることを拒否したのだ。
「これより総力攻撃を行う」
 (なんといった? いまなんといった?)
 エッケルト少佐を見る。少佐はいかめしい顔つきで全員を見渡している。再び口を開いた。
「総力攻撃の目標は……」
「待って下さいっ!」
 アンジェラは叫んでいた。
「質問はあとで受け付ける」
 エッケルトは一瞥もくれない。
「待って下さい、戦争が終わるという話は、クリスマスに戦争が終わる話は……」
「ああ」
 エッケルトは薄い唇をゆがめて、ようやくアンジェラに眼を向けた。
「あの噂はデマだ。敵工作員による謀略だった。我々の戦意低下を目的として流布された噂だ。古典的な手だが、きわめて大規模に行われた」
 アンジェラは言葉を失った。
 背筋を冷たいものが駆け抜けていった。
「我が艦隊が積極攻勢に出なかったのは、工作員を狩り出すための時間が欲しかったからだ。すでに目的は達成された。噂を信じた者も大勢いるようだが、事実 無根であると改めていっておく。太陽系の盟主たる地球は決して屈しない」
 エッケルトは作戦説明を続けた。
 全航空兵力を用い敵艦隊に決戦を挑む野心的なものだった。戦いの規模は前回の邀撃戦などとは比較になるまい。
 気がつくと、搭乗員たちが駆け足で部屋を退出しつつあった。
 アンジェラだけが呆然としていたのだ。
 エッケルトがアンジェラを指差し怒声をあげる。
「そこ! なにをしている! 命令が聞こえなかったか!?」
 アンジェラは自分の顔面が引きつるのを感じた。
 泣こうとしたのか、笑おうとしたのか、それとも何かに怒っているのか、自分でも分からなかった。
 得体の知れない感情を力づくで押さえつけてアンジェラは応じる。
「申し訳ありません! ルッツ少尉、ただちに任務にうつります!」
 アンジェラはゼロG下で器用に回れ右をしてブリーフィングルームを出る。
 心の中でつぶやいて。
 (わかっていたのだ)
 (どうせこんなことになると、わかっていたのだ)

 8

 空間戦闘服姿で格納庫に立ち、機体を見上げるアンジェラ。
「あの……アンジェラさん」
 ヘルメットの中にクルトの声が響く。
 ふりむいたアンジェラの目の前にクルトが立っていた。
 彼の表情はひきつっていた。
 いまでは少し、その表情が何を意味するのか理解できるようになっていた。
 彼はアンジェラを心配しているのだ。
 どんな言葉をいえばアンジェラを傷つけずにすむか分からず困り果てているのだ。
「なんだ?」
 アンジェラは笑いながら言った。精いっぱい闘志にあふれた、不敵で挑みかかるような笑みを浮かべたつもりだ。
 しかしクルトの表情は暗いままだ。
「残念でしたね……」
 絞り出すような声だ。
 アンジェラは笑った。鼻でフフンと、相手を小馬鹿にするような笑いだ。
「君らしくないな、いつもニコニコヘラヘラしてるのが君だろう?」
 いつもならこう言えば「なにいってんですか! そんなんじゃないですよ!」とでも笑い飛ばしてくれる。
 だが今日ばかりは駄目だった。アンジェラの記憶にある限りいつも笑っていた彼が、泣き出しそうに顔を歪めて、
「だってアンジェラさんほんとに楽しみにしてたから。だからさぞショックだろうから。期待させたのは僕だから」
「気にすることはない。早く作業を。機体の最終点検を」
「……はい」
 かたい表情のままクルトは機体の後ろに回り込み作業をはじめた。
 アンジェラは目を閉じる。
 暗闇の中で、何の物音もない真空の中で、ただ自分にいいきかせる。
 わたしはアンジェラ・ルッツ。イエーガー乗り。階級は少尉。公認撃墜数は35機。一個飛行小隊をまかされている。わたしはアンジェラ・ルッツ……
 何十回も繰り返す。
 だが、雑念が消えない。
 クルトと見た映画のことが、映画のなかで「スカートなんて似合うかな」とデート用の服を選んでいたヒロインのことが、「必ず教えてもらうぞ」というアン ジェラ自身の言葉が。胸の奥でじんわりとにじむ、痛みが。
 どのくらい目をつぶっていただろうか。
「アンジェラさん、アンジェラさん」
 クルトの声に目を開く。
「点検終わりました」
「ずいぶん遅かったな」
 他の機体はすでに歩き出し、格納庫中央のカタパルト横に並んでいる。発艦を開始した機体すらあるほどだ。
「小隊長」
 ドリスの声が耳にとびこんできた。
 見回すとドリス機も銃を抱えてすでに行列している。
「すぐ行く」
 そう答え、アンジェラは床を蹴って舞い上がった。機体腹部の搭乗ハッチにもぐりこむ。何十回となく繰り返してきた動作。なにも考えずにできる動作。心の 中に、拭いきれない未練や迷いがあっても体が勝手に動く。
 ハッチを閉めようとした。下からクルトが飛んできてハッチにしがみつき、アンジェラを見つめた。
「かえってくるよね?」
 アンジェラの心の中をいくつもの言葉が駆け抜けた。当然だ、君の馬鹿面が見たいからな、私の腕なら大丈夫だ、生き残ることには自信がある、約束して生還 率が上がるのか……
 たくさんの言葉は頭の中を巡るだけだった。口から滑り出したのは、
「……楽しい夢だったよ」
「アンっ……!」
 クルトの叫びを断ち切って、アンジェラはハッチを叩きつけるように閉めた。
 
 9

 宇宙空間は無数の輝点で満ちていた。
 核融合プラズマ噴射をまたたかせ編隊を形成する、その数2万におよぶイエーガー。
 アンジェラはすぐに部下たちと合流した。
「小隊長、大丈夫ですか?」
「問題ない」
 すぐさま答えた。じっさい、精神接合して宇宙に飛び出したとたん不安は消えていた。脳内麻薬の制御によるものなのか長年の経験によるものかはわからな い。
 冷静に周囲を確認した。
 固まって飛んでいるアンジェラたち4機から10キロばかり離れたところにも同じような小隊がいる。その先にもいる。前後左右上下に、4機小隊が同じ間隔 で整然と並んでいる。
 ずっと後方にはひとまわり大柄で動きの鈍いイエーガー群が浮かんでいる。対艦攻撃機部隊だ。対艦ミサイルでぶくぶく肥え太ったこの連中こそ攻撃の主役で ある。アンジェラたちは彼らの露払いをつとめるにすぎない。
 アンジェラたちは加速し、進んだ。
 黒くぼんやりと光る艦と艦の間を抜けて進んだ。
 艦隊の外に出た。
 前方を見る。
 およそ100万キロのかなたに、自分達と同程度の艦隊が浮かんでいた。
 艦隊の前方に、白い光のもやが展開しつつあった。敵の邀撃部隊だ。
 視線を向けると、もやの下に
 「距離100万 総数不明 相対速度30接近中」と文字列が出る。
「数が多いですね、小隊長」
 パイパーが心配げにいう。
「そうだな。18000機くらいか。心配するなこの程度、自分達の腕を信じろ」
「隊長の励ましは説得力ないですね」
「そうかもしれないな」
 アンジェラは戦術電子脳に命令、シミュレートを行った。味方は2万、敵18000の邀撃をかいくぐって艦隊に突入。できるか? 戦果は? 予想される損 害は?
 すぐに結果は出た。戦争がはじまって5年の間にデータはいやというほど貯えられている。
 戦果は、敵主力艦を5隻ないし6隻撃破、補助艦を10隻撃破、我が方の損害は七割。未帰還七割。
 アンジェラは心の中で自嘲した。
 なるほど、これでは説得力がない。そらぞらしい励ましだ。
 だが、いくしかない。
 鍛え抜かれた空間戦闘のセンスが、少しでも確率の法則をゆるがしてくれることを期待するしかない。
「秒速200だ、加速停止」
「了解」
 アンジェラの命令で部下たちは噴射を止めた。これ以上突入速度をあげると対艦ミサイルが当てられなくなる。
 だが、秒速200キロでは敵艦隊まで1時間以上かかるのだ。
 待った。
 巨大なプラズマ銃を抱きかかえ、空間を滑るように飛びながら、待った。
「待つって辛いですね」
「パイパー曹長、きみは無駄口が多いな」
「しゃべってないと潰れちゃいますよー」 
「そうだな、きみは前から、みんなの不安をとりのぞくのが上手かったな。確かに必要かもしれない、すまない」
「いや……急に謝られても……逆に不安になりますよ小隊長」
 アンジェラは黙った。
 誰ひとり口をきく者はなかった。
 「距離80万 相対速度250接近中」
 「距離60万 相対速度250接近中」
 前方のもやは強く輝き、しだいに距離の数値が小さくなってくる。

 10

 「距離1万 総数18000 相対速度250接近中」
 距離が1万キロを切った。
「よし、撃て」
 そう言ってアンジェラは71口径88ミリプラズマ銃を前方のもやに向ける。
 視覚強化。画像拡大。
 もやを構成する敵機のうち1機に狙いをつける。銃口の向きを精密制御。発射。吐き出されるプラズマ弾。同時にドリスたち部下も撃ちはじめた。隣の小隊、 そのまた隣の小隊も撃つ。白い光条が数万、真空空間に放たれて飛んでいく。
 敵も撃ち返してきた。瞬く間に視界が光線で埋めつくされる。
 アンジェラの強化された視力がひとつの閃光をとらえた。プラズマ弾。他のものとは違う、こちらに向かってくる。噴射を右にむけて機体を横滑りさせ回避。 そして直後に反対方向へ回避。肩をかすめるように飛んできた細い光線。
 よけるだけで精いっぱいだ。自分の射撃が当たったかどうか確認する余裕などない。
 ふいに視界の半分が白く染まった。至近距離での爆発だ。
 眼をそちらに向ける。
 部下の一機がやられていた。
 背中の翼に被弾したヤークトフォイエルランツェが、制御を失ってコマのように回り出し、編隊を飛び出していく。そこにまた敵弾が集中、今度は機体が丸ご と爆散。
(ベーア曹長か)
 アンジェラはたったいま死んだ男の名を思い出した。
  だが感傷はない。いつもそうだった。哀しみを感じるのは戦いが終わったあとだ。
 仲間が死んで動揺する人間はこの戦争を生き残れなかった。
 距離8000。初弾必中を期していままで撃たずにいた者も撃ちはじめた。双方から放たれるプラズマ弾の数が跳ね上がる。
 距離6000。
 アンジェラの心に通信が響く。
「前衛部隊司令より全機。『高貴なる盾』隊形を取れ」
「了解!」
 アンジェラたちは一斉に答え、機体を横に移動させる。他の小隊も移動させる。
 全ての小隊が密集した。
 前衛部隊のイエーガー群およそ1万機が、となりまで100メートルもない密集隊形を組んで空間に整列する。これまでの100万倍の密度だ。
 この隊形は、「高貴なる盾(エーデルシルト)」と呼ばれていた。これによって火力が極限まで高まる。そして「的」となる。文字どおり、みずからの体を盾 に対艦攻撃部隊を守ろうというのだ。
 距離4000。決戦距離。
 密集したまま撃ちまくった。
 敵も撃ってきた。凸レンズの光が一点に集中するかのように、何万の光線が狭い密集隊形に集中する。
 世界が真っ白いプラズマ弾に埋め尽くされた。
 アンジェラたちは回避しない。
 回避すると射撃軸線が狂って照準のやり直しになるからだ。前方投影面積を減らすための伏射すらせず、その姿を誇示するかのように立ちつくした姿勢のま ま、撃って撃って撃ち続けた。
 さすがによく当たった。敵編隊の中で何十もの連続爆発が生じる。
 プラズマ誘導銃身が真っ赤になっていた。アンジェラは銃身を外し、腰の燃料タンク外側にとりつけられていた予備銃身と交換。弾も切れた。やはり腰の弾薬 箱から予備弾倉を取り出して交換。
 音もなく、アンジェラの真横で光が爆発。
 カメラだけをちらりと動かして横を確認、アンジェラは一瞬だけ凍りついた。
 パイパー機が被弾していた。
 たった一発。だが腹に、コクピットにくらっていた。内側から破裂したように腹が破れている。
 パイパー機の画像に重なって見間違えようのない簡潔な文字、「搭乗員死亡」。
 シャワー室での会話がアンジェラの脳裏によみがえる。あの声は二度と聞けない。
 機体は銃撃をやめていた。だらりと手をたらし、銃をとりおとしていた。
 それだけだ。動力と操縦者を失った残骸は爆発するでもどこかへ吹っ飛ぶでもなく、アンジェラたちと同じ速さでついてくる。
 慣性の法則のためだ。敵の銃が低威力の場合にはよくあることだった。
「隊長! とどめをさしてやりましょう、見るに忍びません」
 部下の一人がアンジェラに叫ぶ。
「駄目だ。浮いていれば弾避けにはなる」
 アンジェラは即座に答えた。
「隊長はいつも冷血ですね」
「軍人として当然の行動だ」
 そう言ったアンジェラ機の足にも敵弾が命中、飴のように足が融解、ついで飛来したもう一発が脇腹をえぐる。あと1メートルずれていたらドリスと同じ運命 をたどっていた。
 動揺もせずに射撃を続けるアンジェラ。
 距離2000。距離1000。そして距離ゼロ。
 ずらりと銃口を並べたアンジェラたちは、敵邀撃部隊と正面から激突した。
 アンジェラは真横から連続して殴られた。
 機体の肩に、腕に何か小さいものが食いこむ。
 見るまでもない。視界をバラバラになった手足が横切る。
 目の前の光のシャワーが消えた。
 敵を突き抜けたのだ。
 前方に見えるのは、茶色い豆粒のような木星。
 その手前でうっすらと光る、ビーズ玉のような敵艦隊。
 戦術電子脳が自動的に諸データを計測して表示する。
「距離20万総数1000相対速度200接近中」
 また心の中に響く命令。
「前衛隊司令より全機、『高貴なる盾』を解除、ミサイル迎撃に備えよ」
 アンジェラたちは密集隊形を解いた。今度は極端な散開隊形をとる。
 敵の球形陣表面で光が生じた。
 ミサイルの発射だ。球形陣の外側に並ぶ巡洋艦や駆逐艦が一斉に対空ミサイルを放ったのだ。
 速い。イエーガーを遥かにしのぐ100G加速で飛んでくる。
「分裂する前に撃て! 遅れたら命取りだ!」
 どこかの誰かが叫んだ言葉が通信回線に飛び込んでくる。
 言われるまでもなかった。ミサイルが有効射程内に飛びこむと同時に撃った。放たれたプラズマ弾がミサイルを四散させる。隣の機体も、そのまたの隣の機体 も撃った。白い光芒に呑み込まれては爆発していくミサイル群。だが爆発を突き抜けて新手がくる。連射。まだ終わらない。増え続けるミサイルをついに迎撃し きれなくなった。 
 距離千キロ、ほとんど目の前といっていい場所でミサイルが分裂した。缶ジュースほどの子弾が何百とばらまかれる。そのままの速度をたもって突っ込んでき た。
 弾の嵐が殺到するまでわずか3秒足らず、アンジェラは撃ちまくった。連続して蒸発するミサイル子弾。だが全部は無理だ。
 アンジェラは胎児のように体を丸め、防御体勢をとる。
 子弾が爆発した。5キロトン級の小型核融合弾。イエーガーを蒸発させるには十分だ。
 世界が純白になった。光学系、電磁系、熱源系などすべてのセンサ類が自動的にシャットダウンされた。機体が揺さぶられ、冷たい声で損害報告が並べられ る。
「右脚部アクチュエータ機能停止」「耐熱塗装85パーセント剥離」「銃身歪曲、射撃不能」「アンテナ損傷、送受信不能」「電子系機能40パーセントに低 下」
 視界が回復した。
 隣のイエーガーがいなかった。いや、同じ小隊の仲間が誰一人いない。明らかに残骸にしか見えないものが一機ういているだけ。呼びかけてみたらやはり応答 はなかった。
 全滅だ。
 編隊のあちこちに大穴が開いている。至近距離で核爆発を浴びて消し飛んでしまったのだ。手足がちぎれて漂っている機体はさらに多い。無傷の機体はろくに ないようだ。
 乱れに乱れた編隊をざっと見渡す。数は5000かそこら。半分以上落とされてしまった。だが編隊の後ろ半分、攻撃機部隊はまだまだ残っている。
 分かっていたことだ。
 すでに指揮するべき部下はいない。単なる一人のイエーガー乗りとして、周囲のイエーガーに接近、編隊を立て直す。
 敵艦隊に突っ込んだ。
 細長い巡洋艦駆逐艦、巨大な黒光りする戦艦と空母が上下左右を瞬く間に通り過ぎていった。たったコンマ5秒で艦隊を通過する。
 反対側に飛び出した。
 同時に振り向いた。 
 アンジェラたちの後ろに続いて飛んでいた攻撃機群が、腹を開いてミサイルを連続発射するのが見えた。
 発射されたミサイルは、一隻の軍艦につき数十発、集中して放たれる。
 球形陣のあちこちで真っ白い爆発が生まれる。戦艦がV字型に曲がり、空母がポップコーンのように膨れ上がって破裂、巡洋艦がちぎれ飛ぶ。
 戦果確認の文字が出ない。電子脳の機能があちこち死んでいるようだ。だが目測でもある程度はわかる。20隻は沈めた。30隻かもしれない。
 敵艦隊急激に遠ざかっていく。
 沈めたといっても全体から見ればごく一部、球形陣は崩れる気配もない。
 予想を上回る戦果ではあった。
 艦隊司令部は「勝利」と宣言するだろう。新聞にも載ることだろう。
 しかし、30隻を沈めるために一万数千機を失って、アンジェラたちの艦隊はほとんど力つきた。撤退するしかない。この戦争が始まって以来5年、同じこと の繰り返しだ。

 11

 その瞬間、アンジェラ機を衝撃が襲った。光はない。ただ衝撃だけが。
 世界が大回転する。視界の端に損害報告の文字列が流れる。
「胸部に衝突」
「エンジン全損 推進不能」
「バッテリー駆動開始」
 手で胸を触ってみた。
 人間でいえばまさに心臓のある場所に、直径2、3センチの小さな穴が開いている。そんな小さな穴で、エンジンは完全に破壊されてしまっていた。背中も確 認すると、数倍の大きさの破口ができていた。
 浮いていた障害物と激突したのだ。
 木星周辺では艦隊やイエーガー同士が何十回も戦っている。破片が回収しきれずに残っていても不思議ではなかった。そして1グラムの破片が秒速200キロ で激突すれば、その威力は37ミリクラスのプラズマ銃に匹敵する。
 アンジェラは笑いたくなった。生身の体と切り離されていなかったら間違いなく笑っていただろう。おのれへの嘲笑だ。何万のプラズマ弾をかいくぐり核攻撃 すら耐え抜いた自分が、ゴミにぶつかってやられたのか。
 周囲にいる機体が集まってきた。
 何か伝えようとしているのかもしれないが、あいにくアンテナが壊れている。
 集まってきた機体のうち一機がハンドシグナルで告げた。
「健闘を祈る」
 アンジェラが返答するより先に、横方向にプラズマを噴射して遠ざかっていった。ほかの機体も続く。すぐにアンジェラの周囲には一機もいなくなった。
 これから180度旋回をかけて艦隊まで戻らなければいけない。追撃もあるだろう。アンジェラ一機を救っている余裕はないのだ。アンジェラ機を曳航すれば 加速力は半分になる。立場が逆でも仲間を見捨てたに違いなかった。
 だからアンジェラは、秒速200キロでまっすぐに、酸素が尽きて死ぬまで飛んでいくことしかできないのだ。
 助かる方法はないか?
 考えようとした。計算しようとした。
 だがまとまらない。
 考える気力がわいてこない。
 どうしてだろうと思いをめぐらし、ぐるぐる回る星空をみているうちに、気づいた。
 自分はもう戦うのが嫌なのだ。
 たとえ帰っても、終わらない戦争の中で集団自殺も同然の出撃を繰り返すだけ。
 目の前に手をかざした。
 ミサイルの熱でやられたのか、外皮が溶け落ちて骨だけになった機体の手。
 機体の向こうに見える、回り続ける星空。
「……私はもう死にたかったんだ」
 アンテナが壊れて喋れない。心の中だけでつぶやいた。
 イエーガー乗りになってから泣き言を口にしたことはなかった。泣き言は判断力をにぶらせると拒否していた。だがいまは何の抵抗もなく言える。
「……もう嫌なんだ」
 どうしてか。決まっていた。戦争が終わるかもと思ってしまったから。戦争の外にある世界を知ってしまったから。つかめそうな希望が消えてしまったから。
 最初から希望など知らなければ苦しむこともなかっただろう。
 神経接続を解除した。
 生身の体に戻ったアンジェラは、クスクス笑いはじめた。
 笑いながら、ヘルメットに手をかけた。
 もう死にたいなら簡単だ、ヘルメットを脱げばいい。真空中だから一分で死亡する。
 ためらいはなかった。
 首の後ろの着脱スイッチをひねる。
 その瞬間、声がした。
「こんにちわアンジェラさん」
 クルトの声だった。声はヘルメットの中にひびいていた。
「この声をきいてるってことは、機体が重大な損傷を受けたって事だよね?」
 ふん、とアンジェラは鼻で笑う。
 クルトの奴、こんなメッセージを吹き込んでなんのつもりだ。
「そしてアンジェラさんは、『もう死んでもいいや』って思ってる」
 息をのんだ。
「なぜわかった」
 思わず声が出た。まるでアンジェラの声がきこえてでもいるかのようにメッセージはこたえる。
「どうしてわかるのかって?
 わかるよ。
 だって僕はアンジェラさんをいつも見ていたもの。うざいうざいって追い払われても、いつも表情を観察してた。怒って怒鳴りつける声も何百回も聞いた。他 の人にはいつも同じに見えても僕には違いがわかる。
 出撃前のアンジェラさんは死にたがっていた。それがわかる」
「励ますつもりか? 死ぬのを止めるつもりか!? 無駄だ。もう嫌だ。もう嫌なんだ、お前のせいだからな、お前があんな映画なんて見せたりしなければ、ク リスマスには戦争が終わるって言わなければ、あんなにっ、あんなにたのしかったのっ。そうだ! ほんとは楽しかったよ! 終わったらどんなだろうって、ス カートなんてはいたいことないけどはいちゃおうかって、お前は私なんかとデートするの嫌がるかもって、ずっと考えたよ! 恐いけど嬉しかったよ! でもダ メなんだよ! 戦争は終わらないんだ! 終わらないんだ! 当たり前だと思ってたけど、もう、駄目だ……耐えられない……」
 いつしか涙声になっていた。
 メッセージが続く。
「もしかして僕が『死なないでお願いアンジェラさん!』って言うと思ってた? 『生きてればいいことあるよ』って?
 バカだなあ言うわけないじゃない。
 ただ、『ああアンジェラさんは弱い人なんだなあ』って笑い者にするだけだよ。うん弱い。ぜんぜんダメ。しかも馬鹿。
 アンジェラさんのこと天才パイロットだとか言う人いるけどさ、戦争以外のことなにもできない専門バカだってだけだよね。それでちょっと戦争終わる話きい たら子供みたいに舞い上がっちゃって、終わらなかったら死んでやるーって。子供かっての」
 アンジェラは眼と口を丸くして、クルトのくすくす笑いを聞いていた。
「ほんとバカだよね。自分が勝手に期待しただけなのにさ! ああもう、ほんとここまで情けない人だとは思わなかったよ!
 いやあそれにしても最高、あの映画見てるときのアンジェラさんは10秒ごとに恥ずかしがったりとまどったり、もう免疫ゼロなんだね恋愛ものに! 気持ち 悪いくらいだよ!
 なんでそんな人、好きになっちゃったんだろうね僕は!」
 ひどい早口だった。なにかの感情をごまかそうとするかのように一息でまくし立てて、終わった。 
 しばらくアンジェラは呆然としていた。
 やがて、またクスクス笑いはじめる。
「いってくれるじゃないか……弱虫で、ヘタレで、ゼロG機動もろくにできないくせにっ。いつもヘラヘラ笑ってて文句の一つも言えないくせにっ……」
 アンジェラの心に、もう死にたいという気持ちはなかった。
 ここまで言われたら言い返さずにいられるか。かえらずにいられるか。
 もちろん理解していた。
 アンジェラの気力を取り戻させるために、クルトはわざと悪口を言っているのだ。
「……私は、かならず帰る」
 つぶやかれた声はちいさく、つめたく、しかし決意に満ちていた。
 再び精神接合。
 視界の隅にあらわれた「バッテリー駆動中 残量98パーセント 活動限界まで15時間」の文字が冷たい現実を教えてくれる。この15時間は生命維持だけ を考えた数字で、激しく機体を動かせば動かすほど縮んでいくのだ。
 まずはセンサー類を使って自分の位置と速度を確認した。
 現在、アンジェラ機は秒速200キロで地球と木星の艦隊両方から離れつつある。木星艦隊まで5万キロ、地球艦隊までは100万キロ。進行方向には何もな い。木星に山ほどある衛星のどれにも突き当たらず、木星の引力を振り切り太陽の引力も振り切って宇宙の果てまで飛んでゆく。
 どうすれば200キロの速度を消せるか。単純に考えて、機体質量の2割を秒速1000キロで打ち出せばいい。核融合エンジンなしでは容易なことではな い。
 まず銃を考えた。プラズマ銃をエンジン代わりに使えないか。これも動力は核融合ではないか。
 機体の加速度を精密に測りながら撃ってみた。確かに反動で機体が動いた。
「だめだ。反動が弱すぎる」
 考えてみれば当然のことだった。エンジンは大量のプラズマを噴いて反動を得るための機械、しかし銃は微量のプラズマをできるだけ速く遠くへ正確に飛ばす 機械。反動は小さければ小さいほどよい。命中率が上がるからだ。
 こんなわずかな反動では全弾撃ったところで速度はろくに減らない。
 そもそもエンジンはどこが壊れているのか。背中の穴に指を入れて探ってみる。点火系らしい。
 代わりに銃で点火することはできないか? 腰の燃料タンクを開けてピンポン玉によく似た核融合ペレットをつまみ出した。空中に浮かべて銃で撃ってみる。
 核融合ペレットは四散した。しかし飛び散ったガスの速度は遅い。こんな遅いガスではとても秒速200キロを止めることはできない。放射線も出ていないよ うだ。正常な爆発ではなく単に熱で蒸発しただけだ。これもやはり当然のことで、銃で撃たれて核爆発を起こす燃料など恐ろしくて使えない。
 銃を分解して、中に入っている点火装置をエンジンにとりつけられないか? 銃をいじり回してすぐに断念した。複雑すぎてアンジェラの知識量では分解もで きない。当たり前のように分解整備していたクルトたち整備士の偉大さがよくわかった。
 敵に助けてもらうか? アンテナが壊れても出せる救難信号はないか?
 敵艦隊に銃を向けて撃った。長く連射してツー、短く撃ってトン、モールス信号を送ってみた。
 「こちら地球軍ラウムイエーガー 機動不能につき降伏す 救援乞う」
 返事はない。接近してくる敵機敵艦もない。
 気づいてもらえないのか。
 精神接合をまた解除した。
 生身に戻って、薄暗い球形コクピットの中で盛大にため息をついた。
 もうどうしようもないのか。すべての手は尽きたのか。
「クルトならどうする? あいつがここにいれば……」
 思わずうめいてしまって、苦笑する。
「頼りすぎだ。馬鹿にされるぞ!」
 自分自身に発破をかける。
 第一、クルトがここにいても解決はできないだろう。彼は機械の知識はあっても宇宙には不慣れなのだから。生身でのゼロG機動ひとつろくにできないのだ。
 と、そこまで考えたときアンジェラの背筋に電撃がはしった。目の前で拳を固める。拳は震えていた。震えるままの拳を壁面にたたきつけた。
「そうだ……なんで気づかなかった! 生身でいいじゃないか! 機体ごと行く必要がどこにある!」

 12
 
 アンジェラは戦闘服を身に着けただけの姿で宇宙にうかび、即席の「ロケット」を見つめていた。
 円筒形燃料タンクを束ねてつなぎ合わせただけの不細工な代物だ。
 一番先端にある燃料タンクは空で、ここにアンジェラが入る。
 原理は簡単。自動操縦のラウムイエーガーに後ろからプラズマ銃で撃ってもらう。燃料タンク内の核融合ペレットは核爆発こそしないものの気化して噴出、反 動でタンクは飛んでいく。計算上、200キロの速度を打ち消してまだ余力がある。余力で木星艦隊まで飛んでいって拾ってもらう。捕虜になる。
 もちろん不安要素はいくらでもあった。もし噴射の方向がずれたら。乗っているアンジェラには修正のしようもなくあさっての方角へ飛んでいく。もし燃料タ ンク群がGに耐えられず分解したら。もし自分の体が潰れてしまったら。何かの破片にまたぶつかったら。長い時間宇宙空間にさらされて放射線の影響はないの か。正体不明の飛行物体を、敵が問答無用で撃ったらどうする。
「成功する確率は1割もない」
 アンジェラは呟いた。その声に不安はない。
 ほかに手がないなら、やってみるまでだった。
 すでに自動操縦のプログラムは済ましてある。アンジェラは数十メートル離れた愛機に手を振って別れを告げ、「ロケット」の先端にもぐりこんだ。
 ドラム缶のようなただの円筒。操縦席も計器もない。時計すらないのでアンジェラは頭の中で数字を数え始めた。だいたい200秒で「点火」するはずだ。
 1、2、3、4……198、199、200、201、202。
 アンジェラの時間感覚は確かだった。激震と重圧が襲ってきた。床面に尻と背中が押し付けられる。身動きできない。血流がGに負けて視界が真っ暗になっ た。ただのGではなく振動が加わっているためいっそう苦しい。タンク同士の連結が不十分なのだ。 
 本当に息ができなくなってきた。気が遠くなっていく。
「く……るっ」
 クルト、と言おうとした。声がうまく出なかった。だが言葉は出せなくともクルトを思い浮かべただけで意識がはっきりした。
 クルト。必ず帰る。
 クルト、かえって……
 自分がどこの誰なのか、いま何をしているところなのか分からなくなっていった。
 わずかに残った思考力のすべてを振り絞ってアンジェラは名前だけを念じていた。
 クルト、クルト、クルト……
 耐え続けた。
 
 13

 夕日を浴びて、重い体をひきずってアンジェラは歩いていた。
 微重力のアマルテア捕虜収容所で過ごした3年のせいで足腰は極度に弱っていた。着替えと缶詰が詰まったリュックが一歩ごとに肩に食い込んで、苦しくて仕 方がない。
 道行く人々はみなアンジェラの倍も早足だった。
 突然誰かに突き飛ばされた。
 起き上がろうとして踏まれた。歩道の端まで這いずっていって、建物の壁につかまって立ち上がる。
 その建物がデパートだと気づいた。
 しかし映画の中とは違う。ショーウインドウにはなにもなかった。贅沢品など買う人間がほとんどいないのだ。
 あたりの風景も、映画の中とは比較にならないほど貧乏臭い。歩道を歩く人々はみんなアンジェラと同程度のボロに身を包み、車道を走るのは薄汚れたトラッ クばかり。
 戦争中に歩いた街よりもさらに貧しくなっている。莫大な賠償金の支払いと、軍需産業が軒並み潰れたせいだ。
 だが、戦争は終わった。
 たとえそれが、地球の降伏という形をとっていても。
 アンジェラは歩き出した。
 ずっと街の中を進む。
 片手に握りしめた新聞の切り端、手首にはめた粗末なアナログ時計を交互に見て、アンジェラは歩みを早めた。
 駅についた。駅前にはバスのロータリー。少ないバスに、窓からあふれるほど人が乗り込んでいる。
 大きな駅ビルには巨大スクリーン。戦争中は宣伝映画や「大戦果」のニュースをひっきりなしに映していただろうスクリーンにはいまや、歌い踊る美少女たち の姿が。
 アンジェラはスクリーンは一瞬ながめただけで、すぐに視線を下のほうへむけた。
 スクリーンの下に、何人かの人影。
 その中に小柄な男がいた。顔はまだよく見えない。
 だがアンジェラの心臓は高鳴った。
 確信があった。あれはクルトだ。
 もし違ったら、という迷いは少しもなかった。
 人を何人も突き飛ばしながら進む。
 バスのロータリーを突っ切って走る。
 転んで顔をアスファルトですりむいた。起き上がってまだ走る。息が切れてきたがそれでも走る。
 「小柄な男」が近づいてくる。間違いない、クルトだ。
 ついにクルトのもとまでたどりついた。
「く……クルトッ!」
 アンジェラの声にクルトは勢い良く振り向いて、
「やあ、アンジェラさん!」
 三年前と変わらない、明るく軽い声。
 アンジェラは一瞬くちごもった。収容所でクルトのことを考えない日はなかった。会ったら何を言ってやろうかと考えることで重労働の毎日に耐えていた。
 だが言おうと決めていたセリフの数々は頭の中から消えていた。無邪気な笑顔をむけられたままアンジェラは凍りつく。荒い息とともにようやく出た言葉は、
「……あの映画、真似なんて、似合わないぞ、かっこわるいぞ」
 即座に、なんでこんなことを言ったのかと後悔する。
「あは、いきなりそれかあ。アンジェラさんらしいなあ。やっぱりクサかったかな、クリスマスに大スクリーンの下で会おうってのは?? 広告出すのけっこう 高 かったんだけど」
「……まあいい、かっこわるいところもクルトらしくていい」
「あ、ちゃんと名前で呼んでくれるんだ?」
「それは……まあ、戦争も終わったしな」
「うん。約束した通り、いろいろ教えてあげるよ。映画のこと、遊びのこと、街の歩き方……」
「そのまえに、一つやりたいことがある」
「あ、うっかりしてたよ、キスだね、あの映画みたいに、さ、どうぞ」
 腕を広げるクルトに、アンジェラは勢い良く駆けよって、
「メリークリスマス!」
 顔面にパンチをたたきこんだ。
 吹っ飛んだクルトは、すぐに起き上がる。その顔に怒りはない。笑っている。ぎょっとして声をかけてくる通行人を「あっ気にしないで」と追い 払って、
「アンジェラさんらしい」
「よくもさんざんからかってくれたな?」
「ああ言わなきゃ、アンジェラさん帰ってこなかったでしょ?」
「そうだな。クルトにはかなわないよ」
 アンジェラは苦笑した。間近にクルトの顔を見つめる。
「さあ帰ってきてやったぞ、今度はクルトが約束を守る番だ」
「嬉しそうだね、アンジェラさん、顔が真っ赤だよ?」
 アンジェラは自分の頬に手を当てて、
「そ、そうか……まあ、嬉しくない、こともないぞ?」
「相変わらず素直じゃないなあ」
「うるさいっ!」
 アンジェラが振るったパンチをクルトは軽々とよけて走り出す。アンジェラも追いかけて走る。
 心から幸せそうな笑顔で。

 おわり。


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