戦士と剣士

 一

 穂村響は公園を散策していた。
 いや、散策などという言葉を使えるほど気楽なものではなかったかも知れない。学校が終わったのに家に帰る気になれず、いつも訓練に使っている志木のロフトに行く気分でもなく、ただあてどもなく、胸の奥にどろどろした気分を抱え込んでさまよっているのだ。
 空は青くそして高かったが、秋の空気は澄んでいたが、彼の心にたちこめた暗雲はなかなか晴れそうになかった。
 響が人間兵器・イレギュラーになり、ZAMZAとの戦いに身を投じるようになって一月以上が経過した。次々に襲い来る敵を返り討ちにする毎日。つい数日前も、ネコ型人間兵器ムーン・ゲイザー……またの名を稲垣真奈美を、血祭りにあげたばかりだった。
 なるほど、それも苦しい。人を殺し続けなければいけない、それが苦しくないはずがない。
 だがもっと苦しいのは、楠見麻由子に会えないことだった。
 俺は狙われている、だから彼女に会っちゃいけない。彼女を巻き込んじゃいけない。そう思ってはいても、諦めきれないのだ。
 この間の電話のように、たった一言でも話ができたら。
 だが、こんな風に思ってしまうのは、彼女の期待を裏切ることになるのだろうか。自分にべったり甘えてくる人間を彼女がどれほど軽蔑するか。
 それが怖いのだ、殺すことよりも。
 ……おかしいな、俺。
 無理矢理、笑顔を形作ってみる。いつも学校でやっているように、仮面をかぶるのだ。お調子者で明るく、人をよくからかう二枚目半の高校生、そんな仮面を。
 笑顔は歪んだ。微笑みは冷笑に変わった。
 あーあ。
 そのとき、彼の心臓がはね上がった。
 ……楠見さん?
 楠見さんがここに!
 さほど広い公園ではない。ベンチが数カ所にあり、真ん中に小さなよく止まる噴水がある。その噴水の向こうに、確かに車椅子が。
 身体がこわばる。サブマシンガンを向けられた時も、まるで動ずることなく行動できたのに。
 そして目を凝らし……落胆する。
 なんで間違えたんだ。
 確かに車椅子の少女と、それを押す学生服姿の少年がいる。だが。
 これっぽっちも似てないじゃないか。
 それほどに、麻由子を求めていたということか。
 そう、まるで違う。
 少年の方は均整のとれた体つきで、日常的に武道でもやっているらしいことが歩き方を見ただけでわかる。車椅子の少女は麻由子と逆に、ずいぶん髪の毛を短く切っている。いや、そんなことより彼女を特徴づけているのは、足の上の毛布、そのまた上に置かれた、何かの紙だ。遠すぎてよく見えないが、少女は鉛筆をにぎった片手で、その紙に懸命に書き込んでいる。
 ただ車椅子だってだけでごっちゃにするのか。聖也ならなんて言うかな。「お前は本当に表面的な部分しか見ていないのだな」とか何とか。
 おや……近づいてくるぞ。
 その通りだった。少女と少年は一直線に近づいてくる。二人の進む方向には、響しかいない。二人とも自分に視線を向けて、少々足早に進んでくる。間違いなく、自分を目指しているのだ。
数メートルの距離にまで近づくと、二人は止まった。少女のほうが、奇妙にねじれた手首を持ち上げて響を指さしている。少年はうなずいて、さらに車椅子を押す。
「……なんですか?」
 響が声をかける。彼の心には冷たいものが入り込んでいた。ずっと戦ってきた人間の常として、見知らぬ他人の接近には常に警戒を覚える。この少年がZAMZAの刺客でないという証拠は何もない。いや、あるいは少女のほうが。車椅子に乗っている? 俺を油断させるには絶好の策略じゃないか。何たって俺は、車椅子の女の子を客観的に見られない理由があるんだから。
「……あ、いえ。すこしお願いがあるんです、実は妹が……」
 少年が口を開いた。疲れないのだろうかと思ってしまうほどに、背筋をぴんとのばしたまま。口調も決してよどみがない。「はきはき」という擬音が具象化したようなしゃべり方だ。響の周りにはいないタイプだった。真木場委員長が、響以外の人間を相手にしているときは少し似た感じになるか。
 「妹」と呼ばれた車椅子の少女は、大きな目をきらきらさせながら響を見ている。
「妹は曲を作っているんです。あなたを見ているうちに曲が浮かんできたらしいんです。曲の題材にしたいから、もう少し近くで眺めさせて欲しいと……それでいいんだな、愛?」
 最後の一言は、妹に向けられたものだ。妹は小さくうなずいた。
「へえ……」
 ようやく気づく。「愛」と呼ばれた少女が持っているのは、五線紙だ。そこには音符が並んでいる。少女はさっきからずっと、かなりの速度で片手を動かして音符を増やしていた。手首の関節が不自然に曲がっているのは、彼女の障害が下半身だけではないという証拠だろう。おそらく麻由子とは、半身不随になった原因が違うのだ。麻由子は脊髄の損傷、この少女は脳性マヒか何かだろうか。
 音楽か……もう一つ共通点を見つけて、嬉しいような悲しいような気分になった。こんな失礼な代償行為を、やっていいはずがないのだ。だが、断る理由はない。
「……いいですよ」
「ありがとうございます!」
 愛が鉛筆を動かす速度が、ますます速くなった。書きながら小さな声で、だがとても楽しそうに曲を口ずさみはじめた。
 これが、その譜面の曲なのだろうか。
「不思議な感じの曲ですね」
 曲調そのものは明るいのに、歌詞をつけるとすれば明るいものは決して似合わない。そんな感じがした。音楽の素養のない響には、これ以上のことは言えなかった。
 せめてタイトルくらい知ろうと、響は五線紙をのぞき込んだ。そこにはこうあった。

 「鏡のなかのふたり」

 鏡のなか……?
 ふと、妹だけでなく兄の方も自分をじっと見つめていることに気づいた。
「なにか?」
「いえ、愛はなぜあなたに興味を持ったのだろうと思って。愛が人間を題材に曲を作ることは、ひどく少ないんです」
そこで彼は、なにか気づいたような表情を浮かべた。緊張感のある彼の顔が、苦痛をこらえているかのようなものに変化する。
「……過去に一度だけ、ありました……」

「このお礼は必ずします、曲が完成したら送ります」
「いえ、けっこうです」
 優等生や紳士のふりをすることも、もちろん響にはできる。謙虚に断った。
「そういうわけにはいきません。連絡先を教えあいましょう。僕は佐波木敬、こっちは佐波木愛といいます。住所は……」
「僕は穂村響……って、いいんですよ」
 連絡先をあまり教えたくない。
「そうですか……」
 兄は本当にすまなそうな顔で去っていった。やはり、背をぴんと伸ばしたまま。

 これが、「神話を為す者」穂村響と、「ザンヤルマの剣士」佐波木敬の出会いだった。

 二

 響は跳躍した。ビルからビルへ、数十メートルの上下差をものともせずに。
 超高速で屋上に着地しながらも、彼の足は音を立てることすらない。
 もちろん、今の彼は人間ではない。全身を灰色のプロテクターで覆った戦士、人間兵器「イレギュラー」に変身している。
 彼はいつかのように、変身しての夜の散策を繰り返すようになっていた。これが危険な行為だということは判っている。自分が変身できる回数は無限ではなく、また一般人に目撃される可能性もゼロではない。
 だが、やらずにはいられなかった。部屋でじっとしている事に耐えられなかった。
 ある、さほど高くないビルの屋上で一休みする。
と、その時、彼の聴覚に悲鳴が飛び込んできた。
 若い娘の悲鳴だ。
 ついで、柔らかい物……たとえば人間の身体……を殴打する音が、何度も何度も響いた。
 ちょうど、このビルの真下から聞こえてくる。屋上のふちから見下ろす。
 裏路地で、リンチが行われていた。
 十数人の男たちが、一人の茶髪の娘を袋叩きにしている。
 ……助けなきゃ。
 その考えはすぐに出てきた。弱い者を踏みつけにすることは許さない……決して許さない。彼はかつて麻由子の前で誓った。それはなにも、ZAMZA相手の場合だけではない。
 だが。自分は人間兵器だ。果たして手加減できるか。人体など、ほんの少し力をこめれば豆腐のように砕けてしまう。懲らしめる程度ではなく、惨殺してしまうのではないか。
 それでもいい、集団で女を暴行するような奴は死んでもいい……そんな思いもこみあげてくる。だが、その思いのままに行動することは控えた。
 どうする。
 と、その時彼の感覚が別のものをとらえた。空気がゆらぐ。風を切る音。何かが近づいてくる。彼は星空を見上げた。
 上空から飛来する、何者かの姿。
 ……人間兵器かっ。
 だが、違うようだった。その「何者か」は、生身の人間にしか見えない。白っぽいコートを風にはためかせ、剣を手にした少年。翼もないのに飛んでいるのだ。今まで響が見たことのある飛行型人間兵器「ナイト・マスター」よりも速く。
 少年は自由落下を上回る速度で急降下し、リンチを行っている集団に飛び込んだ。
 音もなく着地した少年は剣を振るう。
 銀の光が一閃する。ひとりの首が飛んだ。
 不思議なことに血は一滴も出ない。まるで人形のように、首がぽろりと外れた……そう見えた。
 まわりの男達が一瞬凍り付いた。だが抗争で人死にが出ることも経験済みなのだろう、次の瞬間、リンチ集団は一斉にその少年に襲いかかった。
 四方八方から。彼らの多くは鉄パイプやバットなどの武器を手にしていた。筋骨たくましい彼らがその武器を振るえば、たやすく人を殺せる。
 響は見知らぬ少年の死を確信した。いくら腕が立つとはいえ、これだけの数を一度に片づけることなど不可能だ。
 だが響の確信はたやすく砕かれた。
 少年の剣がまばゆい輝きを放つと、十数人の男たちが放射状に吹き飛ばれされたのだ。彼らは落下よりも速く飛んだ。一瞬ごとにさらに加速する。ビルの壁に叩きつけられた。壁面におびただしい量の血を残して、下に落ちる。ぴくりとも動かなくなっていた。明らかに頭蓋骨が砕けたり、首が折れたりしているものばかりだ。
 すさまじい力だった。まるで、透明な巨人が薙ぎ払ったかのような、いや、重力の方向が突然真横に変わったかのような。
 響の背筋に冷たいものが駆け抜けた。
 あんな攻撃方法、見たこともない。「超高品位人間兵器」などと言われている自分にもできないし、防ぐ方法も思いつかない。
 生身にしか見えないのに、あの少年は人間兵器をも超えているのだ。
男達を全滅させると、少年は天をあおいだ。
いや、こちらを見ているのか。俺に気づいているのか!
 そしてその顔を……数十メートル離れた少年の顔をイレギュラーの視力がとらえた瞬間、さらなる驚愕が響を襲った。
 あの少年だ! 車椅子を押していた、あの少年。佐波木敬と名乗っていた……
「う……たすけ……」
 リンチから解放された娘が呻いた。佐波木はその娘のほうに近づいてゆく。
 当然、助ける気なのだろう。自分が出ていくまでもなかった。そう響は思っていた。この時までは。
 娘に近づくに連れ、佐波木の表情がみるみる曇り、やがて冷たい怒りのそれに変わっていく。
「そうか……お前もか……」
 剣を下に向ける。
 おい、まさか。
「……同罪だ」
「やめろっ!」
 響は叫び、飛び降りた。
 少年は、剣を勢いよく突き立てた。
 屋上から路面まで五十メートルの高さを、三秒ちょっとで落下する。着地の衝撃に、イレギュラーの肉体はやすやすと耐えた。
 だが間に合わなかった。すでに剣は娘の胸を貫いていた。剣がよほどの高熱を発しているのか、死体はたちまち炭化し、煙を噴き上げる。そこまでやって、ようやく少年は剣を引き抜いた。
 目の前で起こった事が信じられなかった。こんなにもあっさりと人を殺せるなんて。
「お前、お前、一体なにを!」
 怒りを感じるより先に、響は呆然としていた。まったく理解できない。この娘は被害者じゃないのか? この娘を助けるために、この少年は来たんじゃないのか?
 少年……佐波木敬は、目を見開いた。
 人を殺した直後だというのに、彼の瞳に宿る光は修行僧のようだった。
「……あなたは……それは遺産? FINALがまだ残っていたんですか……違う……ZAMZA? 人間兵器? そんなものが……」
「訊いてる事に答えろ! なぜ、なぜ殺したんだっ?」
 佐波木敬の答えは、じつに簡潔なものだった。
「……同罪だからです」
「何だよ! 何なんだよそれはっ!」
 客観的に見れば、響は怪物以外の何物でもなかった。灰色の体毛に覆われ、鎧を身につけ、たてがみを振り乱し、真っ赤な眼で相手をにらむ……夜道で出くわしたら気絶すること請けあいだ。だが佐波木敬は少しもおびえていない。昼間会った時とまるで同じ、自信と意志力に満ち溢れた、それでいて礼儀正しい口調で答える。
「僕はザンヤルマの剣士。世界を終わらせる使命を帯びた者です」
 敬はそう言って、鏡のような刀身を持つ剣を持ち上げてみせた。
「この剣はザンヤルマの剣。人の心を読む力があります。ええ、最初は被害者だと思っていましたよ。でも剣が教えてくれたんです。この人はもともと、襲っていた集団の一員だった。強盗でつくった金を盗んで逃げようとして、それで捕まって、制裁を受けていたんです。そう、この人も同じように犯罪を繰り返していたんですよ。路地裏でサラリーマンや学生を襲って、男からは金を奪い、女は……このまま放っておけば、まだまだ犯行を繰り返したでしょう」
「……だから殺したのかよっ!」
 敬はザンヤルマの剣の剣を肩の高さで持ち上げたまま、響と眼を合わせた。
「ええ。それは僕の義務なんです」
 真紅の眼が、怒りの視線を敬に浴びせた。
 敬はやはりひるまない。
「……あなたは? あなたなら殺さないんですか? 本当に殺さないんですか?」
「……」
 いくつかの、忌まわしい記憶が瞬時に蘇った。忘れたい、だが決して忘れてはならない記憶。
 あなたさえいなければ。どうして暴力で解決するんですか。そう罵られ、悲しみと憎しみの入り交じった眼で見つめられた、あの時のこと。
 そして。つい昨日まで普通に話していたクラスメートの首をへし折った、あの感覚。
「……同じ事をやったことがあるんですね」
「……お前、俺の心を読んでるだろう」
「読まなくてもわかります、それだけ震えていれば」
「なんなんだよ、殺していいっていう……」
「僕も、よいとは思いません」
 敬はザンヤルマの剣を下げ、寂しげにほほえんだ。
「けれど、他に方法がないのなら仕方ないでしょう。悔やむことはない、そう思います。殺さないで済む方法があるかも知れない、そう言っているうちに何もかも手遅れになる、それこそ最悪です」
 ……なんだか、自分に言い聞かせているみたいだ。
 響はそう思わずにはいられなかった。その思いは敬にも伝わったらしい。
「……どことなく似ていますね、僕とあなたは。僕は佐波木敬、ザンヤルマの剣士、あなたは?」
「響。穂村響だ。『ミュートスノート・アルファ』とか『イレギュラー』とか、いろいろ名前があるらしいけど」
 敬の身体を眺め回す。イレギュラーの超感覚を総動員して見ても、やはり人間にしか見えない。骨格も、内臓も、筋肉も。人間兵器とは関係ないのか。それとも本人が言うように、剣にこそ秘密があるのか。
「……僕は嬉しいです。こうして、同じ考えを持つ人間と会うことが出来て」
「同じ考え……?」
「そうでしょう。人を殺すのは悪いことだが、大勢を救うためにはやむを得ない……ほら、同じ考えでしょう」
 そうなのだろうか? 自分はそういう考えで戦い、殺しているのだろうか? 自分にとって本当に大切なもの、姉、聖也、志木、そして楠見さんを守るためなら殺せる。だが、それ以外の人間を救うために人を殺せるだろうか。
「……同じじゃないと思うな」
「だが、同じになりたいと思っている。悩まずに人を殺せるようになりたいと思っている。違いますか」
 敬の言葉は、響の胸を貫くに十分なものだった。そうだ、それは確かに。
 敬のように、あるいは敬以上に、ゆるぎない自信をもって戦いたい。確かにそう思っている。これからもずっと戦いは続くだろう。守るため、それだけでは足りない。理由が足りない。彼が殺してきた、死なせてきたすべての人々の叫びに、ゆるがない心が欲しい。
「穂村さんには本当はわかっているはずです。たとえ辛くても、手を汚さなければいけない時があると。剣を振るうのが義務である場合もあると」
「義務……」
 そんなことは考えたこともなかった。
「そうです。あなたはザンヤルマの剣とも、イェマドの遺産とも関係ないかも知れない。けれど、超人の力を持っている。その力をどう使うべきか、正しい使い方とは何か、自分は何をすべきなのか、考えてみたほうがいいと思います。僕は、世界全体のために使いたいと思います」
 知らず知らずのうちに、響は拳を握りしめていた。いままで味わったことのない種類の興奮が、静かに押し寄せてくる。
「ああ。そろそろ帰らなくては」
「待ってくれ!」
「そうそう、穂村さん。今は持ってませんが、今度会った時こそテープを渡しますよ」
 それだけ言い残して、敬は夜空に舞い上がっていった。上昇の速度は、それこそ人間兵器の比ではなかった。どんな人間兵器でも上昇のさいには重力によってブレーキをかけられるが、敬は重力など無視できるようだ。
「……覚えていたのか」

 三

「殺せ」
 聖也の言葉は、ごく短かった。
 ここは皆が集合に使っている、スカーレットのロフト。
 まるでこの部屋がコンサートホールと化したかのように、その言葉は室内に反響した。
「……なんて言った。聖也。お前いまなんて言ったんだ」
「その佐波木敬とか言う奴を殺害しろ、そう言ったんだ。どうした、そんな真っ青な顔をして」
「どうしてなんだよ、聖也!」
 信じられないものを見る眼で聖也を凝視し、響は叫ぶ。
「滝沢、私も知りたい。頼もしい味方になってくれそうじゃないか」
 いぶかしげに聖也を見つめ、スカーレットは尋ねる。
「……響、お前の話をまとめると……佐波木敬は、恐ろしい力をもった武器、ザンヤルマの剣を持っている。そしてその力を、悪を裁くために……それ以上罪を重ねる前に殺してしまうために使っている。そして、それは自分の義務だと言っている」
「いいことじゃないか。きっと、一緒にZAMZAと戦ってくれる。彼がいてくれれば」
「そうだろうか?」
「どういう意味だよ?」
「佐波木敬が大変正義感の強い人間だということは判った。だが歴史を調べればわかる。強い正義感は、強ければ強いほど、間違った対象に向けられる。そして強ければ強いほど無慈悲に、残虐になる。昔キリスト教徒達は、全くの正義感にもとずいてイスラム教徒を殺し、アメリカやアジアの原住民に宗教を押しつけた。佐波木敬は、今のところいわゆる犯罪者を殺している。だが遠からず、一般人を殺すようになるだろう。一般人の中にも、悪の種を見つけてな」
「なんでだよ! なんでそんなことがわかるんだよっ」
「そう怒るな。別にキリスト教なんてものを持ち出す必要はない。稲垣真奈美で十分だ」
 その言葉に響は硬直した。
「稲垣真奈美は、自分が正義を行っていると信じていた。正義のために、人類を救済するため、新しい理想の社会を築くために戦っていた。自分ではそう信じていた。だが実際にやっていたことは」
「そんなんじゃない。彼はそんなんじゃない」
「ずいぶん入れ込むじゃないか、佐波木敬に」
 聖也は皮肉げに笑った。
「どうしてなのか、当ててやろうか。響、お前は佐波木敬に対してこう思っている『この人は僕と似ている』……」
 響の表情を読んで確信を深めたのだろう、聖也が続ける。
「この人は自分と同じ悩みを抱え、それを乗り越えた人なんだと思っている……彼のようになりたい、そこまで思っている」
 スカーレットには意外な話だったらしく、彼女は眼を丸くして響を見ていた。
「……ああ、そのとおりだ」
「だが、忠告しておく。佐波木敬のようになってはいけない。それは思考の停止だ」
「……それでも俺は答えが欲しいんだ」
「……俺の与えた『答え』では足りないのか」
 響は絶句した。彼の顔が苦痛に歪んだ。だが、答えはすぐに出た。
「足りない」
「そうか。だがな響」
「もういい。もうわかった」
 響は聖也と目線を合わせたまま、口を閉じ、それきり一切の反論をしなかった。本当は納得していないのだろうが。
「じゃあ始めよう、どうやって倒すか。話を聞く限り、佐波木敬は大変な強敵だ。重力を操る。これはアルファの能力では対処しようがない。それに心を読む。こっちの攻撃は、まず命中しないだろうな。そこでだ」
 聖也はさきほどからいじっていたノートパソコンを持ち上げ、その画面を響たちに見せた。
 画面にはこうある。
 「佐波木医院ホームページ」
 住所と電話番号も記されている。
「この家に敬という息子がいることも、すでに確認済みだ」
「滝沢、いつの間に」
「戦いは迅速にな」
「聖也、まさかお前」
「そうだ。相手が剣を出してからでは勝算は少ない。佐波木が剣を抜いていない時に襲え。不意打ちだ。これがもっとも確実な方法だ」
 響はますます青ざめた。青ざめたまま、彼はふらふらと部屋を出ていった。
 残されたスカーレットが、どこか怒りのこもった声で聖也に問いかける。
「……滝沢はもしかすると、嫉妬しているのではないか」
「何を言ってるんだ、志木?」
「話を聞いた限りでは、その佐波木というのはむしろ滝沢に似ている」
「近親憎悪だって言うのか? 馬鹿を言うな。俺はそんなに単細胞じゃない」
「自分は今まで穂村を支えてきた。それなのにあいつは自分でなく、突然出てきた得体の知れない奴の言うことを聞くのか……そういうことなのではないか?」
「馬鹿馬鹿しい。志木は勘が鋭いと思っていたが、買いかぶりだったらしいな」
 鋭い氷のような眼で、聖也はスカーレットを見る。スカーレットは青い眼に雷光のきらめきを宿して聖也をにらみ返した。
「……今までの滝沢なら、すぐに殺そうなんて言わなかったはずだ。役に立つかどうか、こちらの味方にできるかどうか十分に検討して、結論を出したはずだ。それなのに今回はなにもしない。おかしい」
「十分に検討した。佐波木という奴は、自分がどれほど危ういことをやっているのか判っていないらしい。そういう自分を客観視できない奴は、必ず暴走する。どれほど強くても味方には出来ない。それだけだ」
「それなら、これ以上関わるなと言えばすむ話だろう。どうして殺すんだ」
「……いずれ敵に回る。よく分かる。佐波木はZAMZAのような組織よりも、一般人を殺して回る方を選ぶだろう。そうなってからでは遅い。その前にやる。どこかおかしいか」
 ふいにスカーレットは、わざとらしく微笑んだ。
「確か滝沢はコーヒーが大好きだったな。うまいコーヒーを入れてやるぞ」
 緊張が崩れ、ぽかんとして表情でスカーレットを見つめる聖也。スカーレットはため息をついた。
「……コーヒーは嫌いだと言ったはずだ……どうしてそのセリフがすぐに出てこない? やっぱり平静を喪ってるな、滝沢は」
 聖也は沈黙するほかなかった。

 四

 時は夜。
 佐波木医院の裏口……家としての玄関を目の前にして、人間形態の響は立ちつくしていた。
 自分は何をしにここへ来たのだろう、そう思った。
 聖也の言うとおりにするなら、戦闘形態に移行して飛び込み、佐波木敬がなにをする暇も与えずに抹殺すればいい。
 そうじゃない、自分は話をしにきたんだ、そんな気もする。自分では、確かにそのつもりだったのだ。だが、だったらどうしてこんな時間を選んだ。もう真夜中といっていい時間だ。深夜を選んだのは、人の眼を気にせず変身するためではないのか。
 けっきょく俺は、聖也の言葉を無視はできないのか。本当に自分の方が正しいと確信しているなら、思い切って逆らえばいいのに。
 俺はどちらもできないのか。中途半端で、自分の意志がないのか。
 そのとき、裏口のドアが開いた。
 いけない……!
あわてて移動する。だが、一人の男が顔を出すのはそれより早かった。
「……穂村さんだったんですね。こんばんは穂村さん」
 佐波木敬だった。剣は持っていないが、やはりコート姿だった。
「気づいていたのか、僕がいることに」
「……気配は感じていました。剣を抜かなくても、鍛えればいろいろ判るものですよ」
 いまだ、やれと響の中で何かが命じた。
 まだ敬は剣を抜いていない、一瞬で変身してかたをつけろ。相手が気を許している隙に。
 だが、心のもっと奥の方にある何かが、やめろと叫んでいるのだ。
「最初は矢神さんかと思ったんです。最近ちょくちょく、僕の様子を見に来ているらしいですから……ああ、穂村さんには関係ないことでしたね」
 いまだ、いまだと言っている。響は自分の身体に叱咤した。
 だが身体は、やはり動かないのだ。
 おそらく響の顔には、二つの感情の激突がそのまま表れているはずだ。だが敬は気づかない振りをしているのか、何食わぬ顔で話を続けた。
「考えてくれましたか、自分の力の使い方について? ああ、そうそう、テープを持ってきます」
 彼の眼は澄んでいた。周囲は暗く、変身しなければ顔の造作もくにわからないほどだというのに、響にはそれが判った。
 唐突に、ある思いが脳裏に生ずる。
 水だ。清流みたいだ。いままで見たことのない眼だ。聖也は氷のような、スカーレットは稲妻のような光をその眼にたたえることがある。だが「水」はない。
 関係ない、そんなことに気をとられるな。
 さあ、いまだ……
 一歩踏み出した。右手をあげる。顔の前にかざす。銀河を……
 次の瞬間、響の口から出たのは「VITALIZE」という叫びではなかった。
「……佐波木くん。頼みがある。僕と一緒に、ZAMZAと戦って欲しい」
あらかじめそう言われるのがわかっていたかのように、敬は微笑を浮かべた。
 そして小さな呼吸を一つすると。
「……駄目です」
「なぜだ、なぜなんだ!」
「ZAMZAのことは、この間穂村さんの心を読んで知りました。ろくでもない連中のようですね。人間を怪物に変えて、売り物にして、逆らう者、秘密を知ったものをことごとく抹殺してゆく……その規模も大きい。僕と矢神さんが戦ってきたTOGO、FINALよりも凶悪な連中かも知れない」
 だったら。だったら何故。悪を裁くのが彼の義務ではないのか。ZAMZAのやっていることは、悪ではないと言うのか。
「少し歩きませんか、穂村さん?」
「……別にかまわないけど」
 佐波木は歩き出す。響も後を追った。相変わらずの歩き方だ。見ていて少し疲れる。
「あまり家の前でできる話ではないと思いますから。公園に行きましょう」
「夜中の公園なんて、ホームレスと、見回りの警官くらいしかいないよ」
「……だからいいんですよ。思い切り戦えるじゃありませんか」
 はっとして、佐波木の顔を見る。
「……とっくに気づいていました。剣を使う必要はありませんでした。こんな夜中に来るなんて、奇襲のつもりだったんだろうな……そのくらいはすぐにわかります」
 聖也は佐波木敬のことを、単純で客観視の出来ない、暴走しがちな危険人物だと評していた。だが、そんな人間がこれほどの洞察力を働かせるだろうか?
「……わからないのは、なぜ実際には奇襲をやめてしまったのか、ということです。いくらでも隙はあったのに」
「……それは……」
「まあ、いいんです。話し合うことに決めてくれたなら、それはそれでも」
 静まりかえった深夜の住宅地を歩く。
 やがて近くの公園にたどりついた。
 二人が出会った場所だ。
「……どうしてなんだ、佐波木くん」
「穂村さんは、風邪をひいたらどうやって治しますか?」
 またも唐突な言葉が敬の口から飛び出した。響はとまどいながら答える。
「……風邪薬を飲む」
 そこで気づく。敬が何を言おうとしているのか。
「……そう、判ったみたいですね。風邪薬には、風邪を治す力はありません。咳とか、鼻水とか発熱とか、そういう『風邪をひいた結果、出てくる症状』をどうにかするだけです」
 星明かりの下、佐波木は続けた。彼はうつむくことも天を仰ぐこともなく、次のセリフを発したのだ。
「ZAMZAという組織も同じです。僕はTOGO、FINALという二つの組織を潰しました。二つとも罪深い組織でした。これを潰せば、世界はよくなる……そう思っていました」
 過去形だ。つまり……
「でも何も変わらない。気づいたんです。悪の組織をいくら潰しても、表面に出た部分を、風邪の症状を潰しているだけなんだって。風邪自体は全く治っていないし、一見元気に見える分、むしろ本当に治るのが遅れることすらあるんじゃないかって」
 言うな。それ以上言うな。
 響の胸の奥で何かが悲鳴を上げていた。
 それ以上言ったら、聖也の考えが裏付けられてしまう……
「TOGOは、金のためなら何をやってもいいという原理で動いていました。FINALは民族の誇りを守るためなら何をやってもいい。そしてZAMZAは、強い者は弱い者に何をやってもいい……どうです? どの考えも、世の中に満ち溢れていると思いませんか? そして世の中の人々は、それを疑おうとも、変えようともしない。ただ自分の目の前のことだけ考えている。普通の人々こそが、ZAMZAを支えているんですよ」
 その言葉は確かに、響の胸を貫いた。
 熱い、乾いた吐息。全身に、しびれるような脱力感。
「じゃあ、君は言うのか。普通の人たちを、罪のない人たちを殺せと」
 聖也の言うとおりだった。佐波木は暴走し、無差別大量虐殺に手を染めようとしている。だが響は、それでも佐波木を手にかける気になれなかった。もっと聞いていたい。この言葉の向こうに何があるのか知りたい。響は思わず身を乗り出していた。
 星明かり、ところどころで頼りない光を発している街灯、その二つが照らす公園で、二人は接近した。響は敬を、敬は響を凝視した。
 敬がゆっくりと、しかし確かにうなずいた。
「くしゃみを止めても風邪は治りません。根本にあるものを絶つしかないんです。学校に、会社に、国に、この社会の至る所に、ZAMZA的、TOGO的、FINAL的な考えが満ち溢れているこの世界がある限り、それを見逃している人々がいる限り、いつまでたってもZAMZAのような集団は現れるんです。何の解決にもなってないんですよ」
 しばらくの沈黙ののち、響が反論する。いや、それは「論」などと呼べるものではなかった。
「だからって殺していいはずがないっ! みんな大切な! 仲間がいて! 友達がいて、恋人も家族もいて!」
 それは当然のことであるはずだった。敵ではない、こちらを殺そうとしているわけでもない人間を殺すことなど出来ない。それをやってしまったら、ZAMZAの連中とまるで同じになってしまう。だから響は抗議した。それなのに、口から出た自分の言葉は奇妙に薄っぺらで、現実の裏付けをもたない「ただの言葉」に思えた。
「そうでしょうね」
 敬の表情は曇らなかった。響の言葉は当然のごとく予期していたのだろう。
「でも……それ以外に解決の方法がないのなら。仕方がないと思いませんか。あの娘を殺したように。あのリンチ集団を殺したように。穂村さんが、ZAMZAの人間兵器を殺してきたように」
「あいつらは襲いかかってきたからだ!」
「では、襲ってこなければ殺すのをやめますか。ZAMZAの人間が、ごめんなさいもう手を出しません、と言えば許すんですか」
「許せ……ない」
「そうでしょうね。僕も同じです。恨みはありません。でも、やるしかないんです」
「なにを、何をする気なんだ」
 敬はそこで初めて響の顔から目線を外した。星がいくつか姿を現している夜空を見上げる。
「僕はザンヤルマの剣士。ザンヤルマの剣士の使命は、この世界を終わらせること……」
 呪文のようだ……そう感じた。
 自分に向けて、何度も何度も繰り返される呪文……自己暗示。そんな気がした。
「佐波木……くん?」
「世界から、罪を犯した人間、放っておけば罪を犯す人間を、一掃します。そのために、そういう人間を見分けるために、ザンヤルマの剣には心を読む機能があるのだと、僕は思っています。すべての悪を浄化するために」
 稲垣さんと確かに同じだ。この言葉遣い、この使命感、なるほどそっくりだ。
 だが、一つだけ違うものがある。
 計り知れないほどの悲しみ。
 そうだ、ザンヤルマの剣を持っている以上、殺す人間の心はすべて伝わってくる。死ぬ瞬間、その人間が何を思ったか、いままでどんな人生を送ってきたか、伝わってくる。 悪人だろうが在任だろうが、その人間にも仲間が、友人が、家族が愛する者がいる。それを佐波木敬は知っているのだ。自分の身に起こったことのように知っている。知らないはずがなかった。あるいは彼ほど深く知っている者はいないかも知れない。
「それでも、やるしかないんです」
 その声に、一切の喜びはなかった。
 自分は正しいことをやっているという高揚感はなかった。自らの正義に酔いしれるもの特有の熱気はなかった。狂信の光とでも言うべきものは、彼の中にはまるでないのだ。かわりに、そこにあるのは。
 疲れ果て、自らを疑い、それでもまだ倒れるわけにはいかない、そういった種類の気迫。
 ……知っている……
 こいつは、自分のやっていることが正しくないと知っている……それでもやらなければいけないと、再び立ち上がって。
 自分に出来るだろうか? それができるだろうか。できない。自分は、聖也の助言を受け、麻由子の励ましを受け、それでやっと目標に立ち向かえる人間だ。戦っている最中、自分の罪悪感は麻痺している。自分が悪いことをやっている事実から眼をそむけている。自分はそんなにも弱い人間だ。
 しかもその弱さを認めることすらできない。率直に言葉に出すことが出来ない。「俺」という一人称を使い、強さと明るさを装わずにはいられない。
 自分はそんな人間なのだ。それに比べて、この佐波木敬という男は。一体どうすれば、これほどの強さを手に入れられるのだろう。
「僕はおそらく、人類の多く……大半を殺すことになるかも知れません。何十億人という人間を。でも、放っておけば全て死にます。今の人間は、先のこと、五十年後、百年後の地球が人類がどうなっているか、なにも考えていない人たちばかりですから」
「だからって……」
 苦しげに、その言葉を吐いた。熱病のように身体が震えている。
「ええ、穂村さんの言っていることもわかります。だから僕も迷っているです。考えているんです。本当に、それ以外のやり方はないのか」
「……」
「矢神さんという人がいます。僕と同様、ザンヤルマの剣を持った人間です。彼は……矢神さんは、僕の言葉を受け入れてくれなかった。たとえどんな理由があっても、人を殺すことは許されない、たとえ人を救うためであっても……そう言っていました。穂村さんはどう思われますか」
 どろどろと濁り、泡立っていた響の胸の内。そこにさらなる悩みの種が投げ入れられた。
 わかる。それもわかる。
 矢神という人の言うこともまた、よくわかる。殺すのが良いことであるはずがない。
 だが、それ以外のやり方とはなんだろうか。話し合い? 政治活動で世の中を変える?
 とんでもない。ZAMZAにそんなものは通じない。普通の人たちにしても、変わるどころか悪くなっているのではないか。それでも殺してはいけないという矢神の主張は、とても空虚なものに思えてならなかった。
 もしかすると、殺さずに済む解決法はあるかも知れない。だがそれを探して時間をかけているうちに、さらに犠牲者が出たらどうする? それはつまり自分が殺したのと同じなのだ。さっさと元凶を殺していれば、それ以上の死は訪れずに済んだのに。
 そんなことを考えてしまうのは、聖也の考えの影響を受けているのだろうか。聖也は響に決断させるとき、この論法をよく使った。
 辛いかも知れない。だがもしお前が今ここであいつを殺さなかったら、楠見麻由子はどうなる、お姉さんはどうなる……
 それと同じではないか。だったら、聖也その言葉に従うことができたのなら、なぜ佐波木敬に従えない?
 はっとした。敬が本当は何を言いたいのか、やっと理解できたのだ。
 冬に近い季節なのに、全身の汗腺から汗が噴き出す。
「佐波木くん、きみは」
「わかってくれましたね。そう、僕は逆に、響さんに頼みたいんです。僕と一緒に、世界を終わらせてくれませんか……矢神さんにはできなかった。でも、あなたなら。本当に大切なもののために、自分の手を血で汚すことができたあなたなら」
 どくん、どくん、どくん……
 どこかから奇妙な音が聞こえてきた。
 なんだろう、この音は……
 自分の心音だと気づく。
 そして同時に、佐波木敬の眼の中に浮かんでいる感情にも気づいた。
 祈り。それは祈り。
 どうか是といってくれ、という祈り。
 また一つ、熱い吐息。
 これほどに真摯な叫びを、すべての罪を自覚し、それでもやらずにはいられない者の祈りを、自分は無視できるのか。彼のようになりたい、そう思っているのではなかったのか。
 答えは出せない。
 どくん、どく、どくどくん。
 ただ鼓動だけが早くなってゆく……
 その時聞こえたのは、幻聴だったろうか。
 穂村さん。それは甘えだと思います。
 楠見麻由子の声だった。この間ムーン・ゲイザーと……稲垣真奈美と戦ったとき、楠見麻由子に電話をかけた。その時言われた言葉が、脳裏に蘇ったのだ。
 ……いま、ここで、すべてが手に入らないからすべては無意味だなんて、間違ってます……
 ……すべてではなくても、意味のあるものが残っているんじゃないですか?
 そうだ、そうなのだ。
 だとすれば。
「佐波木くん、僕は」
 ちょっと意外そうに敬は響を見つめ直した。そう、響は「僕は」と言ったのだ。
「君の言っていることは正しいかも知れない。でも、無茶だ。今の人間に悪い部分があるから、罪があるから、すべて殺そう……それは、一度失敗したから全てを投げ出してしまうのと同じだ。いい部分もある、素晴らしい部分だってあるのに、それに眼をむけない。君のような人間がいるから、単純に割り切ってしまう人間がいるから、人間はいつまで経っても変われないんじゃないか?」
「それは本当に穂村さんの言葉ですか? 誰かの受け売りじゃないですか?」
 佐波木敬の勘は実に鋭い。だがたじろぐことなく、響は言い返すことが出来た。
「最初は他人の言葉だった。でも自分のものにしたい。自分も、そう考えられる人間になりたい、そう思っている」
 敬の身に起こった変化は劇的だった。
 彼は片手をあげた。黒い影そのもののような手袋をはめた手。それを顔の前にかざした。
 何かを隠そうとしているように。
 はあっはあっ、うっ、うっぐぅ……
 指の隙間から漏れてきたのは、そんな声。
泣いていた。誰よりも強いのだと、この人はなんて強い人間なのだろうと思っていた佐波木敬が、息を殺して泣いていた。
 時間にして、五秒もなかったろう。
 佐波木敬は手をずらし、顔をあらわにした。そこにはもう、いかなる表情も浮かんでいなかった。ただ頬に、涙の跡が残っているばかりだった。
「貴方まで、穂村さんまでそんなことを言うんですね」
「佐波木くん。剣を抜いてくれ。僕はもう考えを変えるつもりはない」
「僕もです。ええ、戦うしかないようですね。……鏡の中のふたり、か」
 二人は一歩離れた。

 五

「……斬!」
 佐波木敬が右腕をあげ、叫んだ。手の中に輝く光の棒が生まれる。棒は瞬時にして、鏡のような刀身をもつ剣に生まれ変わった。
「VITALIZE!」
 穂村響は右手を眼前にかざして絶叫する。
 全身を包む激痛と熱気。めりっ、めりっ、ぶちっ……肉体を構成する筋肉が、骨格が、血管が、神経が、形を変え位置を変え、まるで別のものに変化していく。灰色のプロテクターに身をかためた獣人……ミュートスノート・アルファ・イレギュラーへと「移行」するのに、一秒とはかからなかった。
 変身を終えるやいなや、響は突進する。
 遠距離戦ではまず勝ち目はない、だが殴り合えるほどの距離なら、あるいは。
 しかし敬はそれを予期していた。すかさず後退する。足で地面を蹴って移動したのではない。後方に重力場を作り、後ろに向かって落下したのだ。
 響は、足と地面が接触している一瞬にしか加速できない。一方敬は、連続的に加速しつつ離れていく。
 距離が詰まらない!
 それは勝率の劇的な低下を意味していた。
 敬は飛びのきながら、ザンヤルマの剣をこちらに向けた。
目に見えず、いかなる装甲でも防げない攻撃……重力の渦が刀身から発射され、響に向かって飛来する。
 と、響は真横の地面を蹴り、走る方向をねじ曲げることで回避した。敵を見失った重力塊は地面をえぐり、色あせたベンチを粉砕する。
 敬の顔にはっきりと驚愕が生じた。
 なぜ、どうしてよけられる?
 響自身も驚いていた。重力を見る力など、イレギュラーにもない。だが判ったのだ、重力塊の飛んでくるコースが。自分が走ることによって生じた土煙、その土の微粒子の動きを目で追って、重力の変動を察知したのだ。
だから今はかわせた。だが。
 何度でも同じ事が出来るとは、響は思っていない。
 敬は公園の端まで飛んでいくと、そこに着地、剣を振るった。剣が一瞬、稲妻そのもののような光を発する。
 白くまばゆく輝く球体が、剣の切っ先からほとばしった。イレギュラーの超視力は、光球から発されるすべての電磁放射……電波、赤外線、紫外線、エックス線などをとらえ、それが超高熱であることを響に教えた。
 弾丸よりは遅いが、自動車よりは速い速度で飛んできた光球を、とっさにとびのいてかわす。地面が音もなく弾けた。もうもうと煙が立ち上る。だが「この方向によけよう」という意志を剣の力で読みとったのだろう、回避した瞬間には二発目の光球が発射されていた。こちらが避けた地点に向かって。もう一度、矢継ぎ早の跳躍によってかわそうと試みる。だがかわしきることはできなかった。肩を光球がかすめていく。
 あまりの高熱に、痛みを感じなかった。
 次の瞬間響の肩に、拳骨ほどの大きさの穴が開いていた。中は真っ黒だ。炭化している。
これで片腕が使えなくなった……
 傷を治すには一度人間に戻らなければいけない。この状況でできるはずもなかった。
 飛び道具、飛び道具さえあれば。やはりこちらにも飛び道具が必要だ……
 手で公園の地面をえぐる。土と石をひっつかんで、力のかぎり投げる。
 イレギュラーの筋力によって加速された石は、小口径の拳銃弾並みの速度で敬に襲いかかった。敬が眼球を動かす。剣が不可視の力を発する。重力の壁が、石をはじき返した。
 その所要時間、〇.〇五秒といったところか。人間にとっては……ザンヤルマの剣士でも、反射神経そのものは人間と変わらないはずだ……ゼロに近い時間。だがミュートスノート・アルファにとっては違う!
 その時には、響はまた走り出していた。
 この隙をつき、背後をとる!
 イレギュラーの筋肉は、時速百キロ以上で響を疾走させた。回り込むまでの時間、およそ〇.三秒。人間の反射神経の限界に迫る数字だった。
 しかし、今まさに敬の無防備な背中に飛びかかろうとしたその瞬間、剣が閃光を発した。 両足が地面から浮く。それなのに力を感じない。水中に飛び込んだかのような浮遊感。間違いない、重力に捕らえられたのだ。
 駄目か……
 響の背筋に絶対零度の戦慄が走った。
 こちらは、たしかに〇.〇一秒で反応できるかも知れない。だが向こうはこちらの心を読んで、行動を始める前に対応できるのだ。つまり所要時間はマイナスといっていい。勝ち目がなかった。その厳然たる事実が響の心を貫く。
 すでに勝利を確信しているのか、佐波木敬はゆっくりとこちらに向き直った。
 「イレギュラー」にとって、この程度の暗さは闇とは言えない。敬の表情が、陽光の下と同様にはっきり判った。
 余裕は感じられる。やはり勝ったと思っているのだろう。だが、喜んではいない。
 どうしてこの人は戦いをやめてくれないのだろう……そう言いたげな表情。
 ……やめるわけには。やめるわけにはいかないんだっ。
 だが身体は宙づりになったままだ。足は地面につかない。どんなに動かしても空気を蹴るばかりだ。ほんの三、四十センチばかりの距離なのに、その距離は響からすべての移動力を奪っていた。
 ……くそっ!
 「イレギュラー」に汗腺はないが、もしあれば響は滝のように汗を流していただろう。
 だが、あがいても足は地面にとどかず、重力のくびきから逃れることもできない……!
 敬は、ザンヤルマの剣を中段で構え直した。
「……穂村さん。似ています、とても似ています。その動き、穂村さん自身の心にそっくりです。身体の中には力が満ち溢れていて、手足をばたばたさせて、それでも何も出来ない、歩くことも走ることもできない……。これで、終わりですね」
 剣の表面に稲妻が走り始める。稲妻は切っ先に集まって、光の球となった。球は膨れあがる。もう、野球ボール程度の大きさではない。スイカ大だ。あの直撃を受ければ、全身がこの肩と同じ運命をたどるのだ。
 ……楠見さん、俺は!
 負けるわけにはいかない、そう思ってはいても。
 すでに光球は、一抱えもあるエネルギーの塊となっていた。直視すれば即座に失明するほどの輝きを放つ、絶大な力の球体。それはまさにいま、発射されようとしていた。
 よけるすべはない。宙に浮かばされてからずっと、響の身体は一センチたりとも動いていなかった。さりとて防御もできない。両腕でブロックしても、あの威力だ、どうにもなるまい。
 ごく無造作に、敬はザンヤルマの剣の剣を振るった。光球が解き放たれ、宙を飛ぶ。
 敬と響の間の距離は五メートル。光球の速度は銃弾より遙かに遅い。その距離を0.一秒かけて飛ぶ。響の動体視力なら捉えられる時間だった。
 だがもちろん、見えたところで何も出来ない。視界の中央を占領し、少しずつ大きくなっていく光の球。やがて世界の半分が、まばゆい光輝に満たされて……
 絶対的な死を確信したその瞬間、響の中から恐怖と緊張が消え去った。かわりに、その心を満たしたのは。
 ある一つの少女に関する思い出。
 電話の向こうから聞こえてきた、戦う力を与えてくれたあの声を思い出す。初めて彼女と話したとき、自分でも信じられないくらい舞い上がってしまったことを思い出す。あんな目に遭わされても、響が怪物だと知っても、それでも会いたいと、また話をしたいと言ってくれる彼女のことを思いだす。
 彼女に関する、ごくわずかな思い出。
 そこにはもちろん、「想い」が混在していた。自分でも気づいていなかった。俺が、僕が楠見麻由子をこんなに。
「あ……愛!」
 誰かが叫んだ。
 次の瞬間、大爆発が起こった。
 響の身体を、後方からの爆風が叩く。真っ赤な炎が彼の身体を照らす。
 後方? なぜ?
 光球は当たらなかった。途中で向きを変え、響の横を通り過ぎて、背後の地面を吹き飛ばしたのだ。だが外れるような距離ではない。わざとやったのだ。
 ……なぜ?
 佐波木敬を見る。響はとまどった。
 敬が震えていた。剣の切っ先が揺れていた。
 なぜ。イレギュラーの攻撃をいともたやすく受け流した彼が、一体何に動揺しているのか。なぜ、明らかな怯えの色をその目にたたえて、響を見るのか。
 次の瞬間、戦士としての感覚が蘇った。
 理由はどうでもいい、これはチャンスだ。
 しかし、身体はやはり浮いたまま。飛びかかることはできない。もう投げる物もない。
 なにかの苦痛をこらえるかのように歪んでいた佐波木敬の顔が、元に戻りつつあった。
 チャンスが過ぎ去ろうとしている。
 電光のようにひらめいた一つのアイディア。
 響は、それを実行した。

 六
 
 その瞬間、敬の胸に「イレギュラー」の片腕が突き刺さった。
 響は動けるようになったのか。いや。
 では腕を伸ばしたのか。いや、イレギュラーにそんな能力はない。
 アイボリーのコートを障子紙のように貫き、肋骨を砕き肺までもえぐり背中から半分飛び出した、その腕は……肩のあたりで切りおとされていた。いや、切り口の乱れ具合からして「もぎ取った」のだろう。
 響は、使えない方の腕をもう片方の腕でもぎ取り、槍として投げつけたのだ。ぎりぎりのタイミングだった。あとコンマ一秒遅ければ敬の戦意は回復し、剣のバリアが腕を跳ね返していただろう。
「がっ、がっ……はあああっ……」
 そのままの姿勢で苦悶の声をあげる敬。肺をやられているためか、ひゅうひゅう、という風の様な音が声に混ざった。
 最後の力をふりしぼって、震える腕を安定させる。剣の表面にまた稲妻が走った。
 あるいは彼の意志力に驚嘆すべきかも知れない。この状態でなおも反撃しようというのだから。だが今の彼にとって、攻撃はすべての精神力を必要とした。バリア、重力制御、すべては解かれた。
 重力の鉄鎖から解放された異形の影が、敬に襲いかかったのは次の瞬間のことである。
  
 七

 渾身の力をこめたタックルは、敬の身体を紙人形のように吹き飛ばした。
二十メートル以上も飛んでゆき、砂の上に転がった敬。意識を失っているのか、もう起きあがらない。手足が関節の構造上あり得ない形に曲がり、胸に開いた大穴からは噴水のように血が噴き出している。
 片腕の響は、血を流しながら歩み寄った。
 敬は気絶していた。だが驚いたことに、胸の傷が凄まじい速度で回復しつつある。肉がもりあがり、骨が伸びてつながり、食い込んだイレギュラーの腕を外に押し出してゆく。
 この分だと、無傷に戻るのに五分とはかかるまい。恐るべしはザンヤルマの剣の能力であった。
 とどめを刺すか。
 刺すとしたら、今しかない。
 痛む身体に問う。
 刺せるのか。
 できない。俺が楠見さんのことを思ったときなぜ彼が苦しんだのか、なぜ途中で光球をそらしたのか、それを考えれば。
「鏡の中の二人、か……」
 そこで敬が眼を開いた。
「……僕の負けです、穂村さん」
「殺さないよ」
「……僕に情けをかけるんですか」
「君は俺を殺せなかった。同じ理由だ」
「人を殺そうとして殺せなかったのは初めてです」
「奇遇だな、俺もそうだよ」
「本当に僕を殺さないんですか。僕はまだ考えを変えませんよ。いつか、本当に世界を滅ぼし始めるかも知れない」
 敬の顔をのぞき込む。端正な顔はもちろん激痛に歪んでいたが、もう一つ別の表情が浮かんでいた。
「まるで俺に殺されたいみたいだ」
「……」
「間違ってるとは思う。でも俺には、本当に君を否定する資格がないんだよ。たくさん、殺しちまってるからな……」
「……」
「ほんとうに否定できるのは、殺さずに、世界をどうにかしようって奴……実際にそれをやってる奴だけだよ」
「そんな人がいると」
「いるんだって、そう言ってくれたじゃないか。いると……俺も信じたい」
 敬はもはや言葉もなく、ただ眼を開いて響を見つめるばかりだった。
 その瞳の奥を一度だけのぞき込み、あとはもう振り向くこともなく、響は去っていった。
  
 八

 せっかくのパスタに、スカーレットはまるで手をつけようとしない。
「穂村、お前背丈が縮んだのではないか」
 首をかしげて言う。
「気のせいだよ」
「ちょっと、そこに立て。背をくらべよう」
「だから気のせいだって」
「そこの柱でも良い。メジャーで測る」
「だから、気のせいだよ」
「しかし……」
「そのへんにしとけよ、志木」
 聖也の一言で、スカーレットの追求は止まった。
 気のせいではない。
 人間形態に戻った響は、自分の身体が微妙に縮んでいることに気づいた。確かに傷はふさがり、腕はまた生えてきたが、腕一本分の細胞を喪ったことは確かなのだ。姉にも不思議がられた。
「それより、稲垣真奈美の葬式の件だが」
「ああ、聖也、出席するんだったな」
 その時、もう心の表層から佐波木敬のことは消えていた。やることはいくらだってあるのだ。

 九

「ZAMZAを滅ぼすことができますか、か……」
 十二月二十四日。夜のとばりに包まれた見知らぬ街を、パーカーを羽織った穂村響は歩いていた。
 速水とは決着をつけられなかった。ディーシーにも逃げられた。彼女がなぜ麻由子を狙うのか、それも知ることができなかった。
 完敗って感じだな。
 ため息をついて、空を見上げる。
 速水の過去を知り、なぜ彼が自分を目の敵にするのか、それを理解した。やはり許せない、そう思った。それが唯一の成果だろうか。
 だがそれより、ディーシーの言葉が響に与えた負の衝撃の方が大きかった。
 ……生きるためならなんでもやる、それ以上の理由が必要なのか、か……
知りたい。彼女がそこまで思う訳を。
 その時ふと思い出した。
 自分と同じ理由で戦う少年のことを。
 鏡の向こうの、少年のことを。
 鏡の像はそっくりだが、実は正反対だ。
 そしてどんなに憧れても、鏡の中の像とふれあうことはできない……
 佐波木敬は、自分の答えを見つけだすことが出来ただろうか?
 自分は疲れているのだろうか、こんな脈絡のないことを考えるとは。
 ん……あれは何だろう?
 気づいた。夜空を何かが動いている。
「なんだ……?」
 かなり遠く、高いところに、何か流星のようなものが……
 いや、流星は下に落ちるだけだ。
 だがそれは、きらきらとガラスの針のように輝いて、ゆっくり、ゆっくりと上昇していった。
 ……あれはザンヤルマの剣だ。彼はあそこにいるんだ。そんな気がした。彼は今日もまた戦っているのだ。
 帰ろう。自分も、まだまだ挫けるわけにはいかない。聖也とスカーレットが待っている。
「VITALIZE!」
 響は再び変身し、鋭く跳躍すると、夜の闇に消えていった。

 


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