月を目指した男達

宇宙開発・有人宇宙飛行というと、世間の目は宇宙飛行士に向いてしまいがちです。しかし、実際のところ有人宇宙飛行において、真にそれを実現するために重要なのは優秀な指導者、技術者なのではないでしょうか。
事実、ガガーリンの代りを果たせる宇宙飛行士はいても、コロリョフの代りを果たせた指導者はいなかったのです。
ここでは、旧ソ連の有人月飛行計画を語るうえで避けては通れない技術者及び計画の指導者について簡単に紹介したいと思います。


コロリョフ
セルゲイ・P・コロリョフ
1907-1966
(1906年生まれとする記録はロシア革命以前のユリウス暦での記録である)
旧ソ連宇宙計画の父と呼ばれる人物。
OKB−1(コロリョフ設計局、現RKKエネルギヤ社)のチーフデザイナー。
スプートニク計画、ウォストーク計画、ウォスホート計画等を指揮し、優れた指導力でこれらの計画を成功に導いた。
ソユース計画と有人月着陸計画もコロリョフの指揮のもとに進められたが、1966年1月、結腸癌の手術中の事故で死亡。
それまでの宇宙計画の成功は彼の並外れた指導力によるところが大きく、計画途上での彼の死はソ連にとって最大の損失であり、この事が有人月着陸計画失敗の最大の要因であると見る向きも多い。
だが実際のところ、当時のソ連の宇宙計画のほとんどは彼の手によるものであったが、それがあまりにも多岐に渡っていた。仮に命を永らえたとしてもそれらをまとめていくのは至難の業であったと思われる。


ミーシン
ワシリー・P・ミーシン
1917-2001
コロリョフの存命中はその補佐役としてOKB−1に勤務。コロリョフの死後、その後任としてOKB−1チーフデザイナーに任命され、有人月着陸計画を引き継いだ。
彼の在任中はソユース1号の事故を始め、N1の相次ぐ打上失敗など、まさに失敗の連続であった。そのため余り良い評価をされていないが、これは前任者のコロリョフがあまりにも並外れていた事、さらに生前のコロリョフが手を広げすぎてしまったことのしわ寄せによるものでもある。
1974年に数々の失敗の責任をとらされる形で解任され、モスクワの航空宇宙研修所の所長という閑職へ左遷された。
1989年にグルシコが死去した後、グラスノスチの追い風もあって共産党機関誌「プラウダ」のインタビューに答え、それまで公式には否定され続けていた有人月着陸計画の内情を暴露した。


グルシコ
ワレンティン・P・グルシコ
1908-1989
旧ソ連ロケットエンジン開発の第一人者。
OKB−456(グルシコ設計局/気体力学研究所、現NPOエネルゴマシュ)チーフデザイナーとしてR−7(ヴォストーク・ソユーズ)ロケットやUR−500K(プロトン)ロケット等、数多くのロケットのエンジンを開発した。
N1ロケットに使用するエンジンをめぐりコロリョフと対立し、その結果N1のエンジン開発を拒否、以後グルシコはN1計画の妨害に力を注いだ。
ミーシンの解任後はその後任となり、自らのOKB−456とを併合したNPOエネルギヤ(現RKKエネルギヤ社)のジェネラルデザイナーとなり、N1/L3計画を中止に追いやった。その後1989年に死去するまでの間ソ連の宇宙計画を支配し続けた。


チェロメイ
ウラジミール・N・チェロメイ
1914-1984
OKB−52(チェロメイ設計局、現NPOマシノストロエニヤ)チーフデザイナーとしてICBMの開発を行っていた。後に宇宙計画にも手を広げ、大型ロケットUR−500K(プロトン)を開発。さらに有人月周回計画としてコロリョフのL1計画と競合するLK1計画を担当した。
彼の下には当時のソ連首相フルシチョフの息子が勤務していた。そのためフルシチョフが失脚するまでは政府への発言力が強かった。


クズネツォフ
ニコライ・D・クズネツォフ
1911-1995
クズネツォフ設計局(OKB−276、現サマラNTK)のチーフデザイナー。
航空機エンジンの開発で知られるが、ロケットエンジンの開発も行っていた。
コロリョフがN1ロケットのエンジン開発にグルシコの協力を得られなかったため、クズネツォフがN1のエンジン開発を担当する事となった。


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1999.07.08 公開
1999.11.08 コロリョフの生年修正
2000.01.24 ミーシンを除き、写真追加
2000.05.08 画像を削除
2001.10.22 ミーシン没年追加、コロリョフとミーシンの解説修正
2001.12.09 クズネツォフの没年修正