ピンポーン。 外門チャイムが鳴る。
いつもなら手伝いの婦人が出るのだが、今日は休暇を取っているため、リュミエールがインターフォンに出た。
「はい? どちら様でしょうか?」
「あれー、リュミエールですかー?
私ですー。ルヴァですー。こんにちはー。」
「あぁ、こんにちは。お待ち下さいね。」
夫・クラヴィスの同僚、ルヴァだった。 一軒おいた隣に居を構えるおっとりした人物だった。
リュミエールは、慣れない手つきで外門のセキュリティを解除しルヴァのために、門扉を開いた。
「こんにちはー。クラヴィスの調子はどうかと思って、お邪魔を承知で来ちゃいました。済みませんね。」
いつものようなおっとりした口調で、にこにこと笑いかけるルヴァ。
彼を見ているといつも、平凡が一番だと納得してしまうリュミエールだった。
「ありがとうございます。おかげさまで、どうやらやっと筆が乗ってきたらしくて。夕べから、書斎から出て来ないのですよ。」
リュミエールお得意の、自家製ハーブティーを入れて
もてなす。
「そうですかー。うんうん、良かったですね。
今回は、ジュリアスが青筋を立てて、この近辺をうろつくことにはならないようですねー。」
「す、済みません。何回も何回も。その度にルヴァ様がお宅まで
ジュリアス様を引っ張って行って下さって、本当に感謝しています。
ありがとうございます、ルヴァ様。」
慌てて、リュミエールが頬を染めて頭を下げる。締め切り破りの常習犯である夫に、出版社の編集長であるジュリアス自らが乗り出し原稿の催促に来るのが常だったのである。
「あ、あー、いいえ。そんなつもりで言ったのではありませんよー。
実は、あれはあれで私も楽しいんですよー。内緒ですけどね。」
「まぁ、ルヴァ様ったら。」
明るい笑い声が、リビングに響いた。
と、その時。
「きゃーっ!」
窓の外に、大柄な男の姿を見付け、リュミエールが叫んだ。
「な、な、何ですかっ! あなたはっ!? 一体、どこから。」
ルヴァも慌てて立ち上がり、後ろ手にリュミエールをかばってその男を睨み付けた。
手には武器代わりなのか、銀のスプーンが握られていた。
「わ、わたくし、外門のセキュリティーを解除したままでした。」
悔やむように、リュミエールが言う。
その男は窓の外で、キョトンとして2人を見つめていた。手には『粗品』とノシのついた小振りの箱を持っている。足下には、同じ箱がいくつか入った紙袋が置かれていた。
「ど、どうやら、泥棒のたぐいではなさそうですね。」
ルヴァは、スプーンをおいて、そろそろと窓に近付いて行った
「き、気を付けて下さい、ルヴァ様。」
おろおろと、リュミエールも得物を手にする。レース編みの編み棒だったが。
「えっとー、どちら様ですか?」
テラス窓を細めに開け、ルヴァは警戒しつつ、男に尋ねた。
「こちらの、ご主人ですか?」
男は逆に聞き返して来た。だが、視線はルヴァではなく、奧のリュミエールにのみ、注がれていた。
「いいえー、私は、こちらの一軒置いた隣の家のものです。ほら
隣に空き家があるでしょう? あの隣ですよ。」
バカ正直に、ルヴァが答える。
「あぁ。分かりました。 ちなみに、それは今日から空き家じゃなくなりましたよ。俺が引っ越して来ましたからね。」
男は、臆することなく答えた。
「は? えー、すると、あなたは。」
「引っ越しの挨拶に参りました。オスカーと申します。
どうぞ、よろしく。」
オスカーと名乗るその男は、ルヴァを無視して、真っ直ぐにリュミエールに白い歯を見せて笑いかけた。
「あなたは、こちらの奥さんですか?」
「は、はい。」
リュミエールは、どう対処していいのか分からず、おろおろしていた。
「済みませんね、門が開いていたもので、勝手に入ってきてしまいました。どうぞ、お許し下さい。
これ、つまらないものですが。」
そう言われては、オスカーに近付かない訳にもいかない。
ルヴァに受け渡しをしてもらうのもおかしい。
「は、はぁ。ご丁寧に、どうも。」
リュミエールが近付くと、オスカーは勝手に窓を広く開けてしまった。
「よろしく、奥さん。」
リュミエールが箱を受け取った時、オスカーの手が彼女の手を素早く握った。
「あっ! な、何をなさるんですか! 放して下さいっ。」
「こ、こらこらこらこら、よその奥さんに何てことをするんですかっ。
失礼ですねー。放しなさいっ。こらっ!」
リュミエールとルヴァが慌ててじたばたしているうち、オスカーは
あっと言う間に、その白く細い手にくちづけしてしまった。
「あっ、あぁーっ!」
ルヴァが白目をむいて叫ぶ。リュミエールは蒼白になった。
「…俺流のご挨拶でしたが、お気に召しませんでしたか?」
ゆっくりと顔を上げ、リュミエールを見据えるオスカー。握ったままの手を、そっと開いて解放した。
2,3歩後ずさって、そのまま床にへたり込んでしまうリュミエール。
見る見るうちに、その顔に赤みがさしてくる。
「なっ、何を…。」
「おやおや。これくらいで腰を抜かすとは。純情な奥さんだ。
ご主人はどんな人なのかな?」
不敵に笑うオスカー。あっけに取られたままのルヴァ。そして。
じわじわと目に涙を浮かべるリュミエール。
「ひ、ひどい…。」
なおも後ずさろうと、手を後ろにずらしてゆくリュミエール。ふと
その手に、茶器のワゴンが触れた。
「ひどいわ。あなたなんか」
こうしてやる、と言ったのだろうが、聞こえなかった。窓ガラスに当たったティーカップの砕ける音にかき消されたのだ。
次から次へとオスカーをおそう、高級茶器の数々。強化ガラスは割れることなく、それらを受け止めていた。
「あぁぁ、リュミエール、お、落ち着いて下さいーっ!」
窓の近くから非難したルヴァの声も、耳に入らない様子だった。
「お、奥さんっ!!」
逃げるのも忘れ、飛んでくるものを持参した小箱で防ぐオスカー。
リビングは、一気に戦場と化したかのように見えた。
「…騒がしいな。」
その一言で、リュミエールは動きを止めた。
「…あなた…。」
リビングに現れたのは、クラヴィスだった。オスカーが思わず躊躇するほどの長身。徹夜疲れが、その端正な顔にすごみを増していた。
「…どうしたんだ、リュミエール。」
が、妻に向ける笑顔と口調は、ことのほか優しい。
夫の姿を認めたとたん、リュミエールは振り上げていたワゴンを取り落とした。
「わ、わたくし、もうあなたのおそばにはいられません!
こんな汚れた女、あなたにはふさわしくありません!」
そう言ったきり、激しく泣き伏してしまい、話の出来る状態ではなくなってしまった。
ルヴァを無言で見つめるクラヴィス。
「あー、はいはい。えーとですね。こちらは、隣に越してきたオスカーです。彼がですね、引っ越しの挨拶に見えたのですが
その、つまりですねー。」
ルヴァは、横目でオスカーを指して言い淀んだ。察したクラヴィスは
オスカーを睨み付けて言った。凍える声で。
「…お前が、オスカーか。私の妻に、何をした。」
オスカーは、ヘビに睨まれたカエルの気分で正直に答えるしかなかった。直立不動で。冷や汗をかきながら。
「…そうか。では、挨拶は済んだのだな。だったら、とっとと次の家へ行くがいい。向こう3軒両隣、近所付き合いは大切だぞ。」
「はっ、はいっ。し、失礼しました。」
オスカーは一礼し、くるりと後ろを向いたが、思い直して新しい箱を2つ、紙袋から出し、ルヴァに押しつけてから出ていった。
どうやら、ルヴァの分もここで済ませてしまいたかったらしい。
ボロボロになった箱は、律儀に持ち帰った。
相変わらず泣きじゃくるリュミエールの肩にクラヴィスは手を置いた。
「それくらい、大したことではないだろう。とにかく、気になるのなら手を洗ってこい。顔もな。」
「…はい。」
素直に洗面所へ行くリュミエール。残された男2人で茶器の破片を片付けた。
「あれは、少し神経質過ぎるな。」
「そうですかー。いじらしいじゃないですかー。」
「歳が離れているので、扱いに少々戸惑ってしまう。困ったものだ。」
そうは言いつつも、クラヴィスの口調は楽しげだった。
「世の中には、年の差16歳でもうまく行っている夫婦もいますから、大丈夫ですよー。
ただしそこは、旦那さんのほうが大変そうですけれどね。」
(爆)
ルヴァが遠い目で言う。
「…? ルヴァは、時々訳の分からないことを知っているな。」
「いえ、こっちのことですから気にしないで下さい。」
(本当に)
やがて、リュミエールが戻ってきた。
ルヴァは気を利かせて帰宅した。
「…よく洗って来たか?」
笑いを含む声で、クウヴィスは聞いた。
「はい。でも…。」
まだ気になるのか、手の甲を見つめるリュミエール。
「…仕方がないな。」
その手を取るクラヴィス。
「あっ? あなた?」
「そう言えば、このようなことは、したことがなかったな。」
ゆっくりと、手にくちびるを寄せるクラヴィス。
「あ…。」
「…忘れられたか?」
「はい、あなた。」
優しく微笑むクラヴィスに、リュミエールもやっと笑顔を見せた。
「このくらいのこと気にするな。…全く、お前は。」
そっとリュミエールの肩を抱き、手を取ったまま、額と頬にもくちづけるクラヴィス。
「…お前は、誰にも汚されたりはしない。この私がいる限り、な。」
「あなた…。」
寄り添う2人。 満ち足りた気分で、リュミエールはクラヴィスの肩にもたれていた。花を生けていた時に感じていた物足りなさはみじんもなく吹き飛んでいた。自分でも単純だと思うが、事実だった。
穏やかな暮らし。それが自分にとって、一番なのだと実感した。
凪いだ海に星空が映るような幸せ。それこそが自分の求めるものなのだと、リュミエールは思った。
その頃、別室の外線専用電話のランプが着信を告げていた。
だが、クラヴィスが音量をオフにしていたので、その音は聞こえない。
電話の向こうで、ただ延々と続く呼び出し音に、ジュリアスは額に無数の青筋を立てまくっていたのであった。
Fin.