「あなた。お茶にしませんか?」
控えめなノックのあと、リュミエールが入ってきた。だが、いつも持って来るはずの茶器がない。視線で気付いたのか、リュミエールは目を伏せながら……これは、クラヴィスの気に入っているクセだ……天気がいいから、テラスに用意があることを告げた。
「そうだな。これを片付けてから行こう」
「ええ。お待ちしています」
うれしそうに微笑むリュミエールを見て、ふと、あることを思いついた。
ドアへ向かおうとしたリュミエールの腕をとって、ひきよせる。
そして……。
「あ、あなた?」
予想通り、リュミエールは頬を真っ赤に染めている。
「約束のしるしだ。それに、おまえも少しはこういうことに慣れたほうがよかろう?」
くつくつと笑いながらの言い訳では、説得力がまるでない。
リュミエールは、めずらしく音を立ててドアを閉めた。
そのままずんずん歩き、廊下の端まで来てやっと息をついた。
まさか、まさか、あんなことをされるなんて……。
先日と同じようなことを、しかし全く違うように感じているのに、リュミエールは気付く余裕がなかった。
書斎から押さえたままの左の頬。
あっと思う間もなく引き寄せられて、あの人の吐息が耳にかかったと思ったら。
「………………」
お、思い出すんじゃありませんでした。
リュミエールはしばらくの間、染まった頬を元に戻す苦労に、わけもなく幸せを感じるのだった。そして、
そう感じている自分に、無意識に安心してもいた。
書斎に一人残されたクラヴィスは、先程の妻の反応を思い出して笑っていた。
考えてみればおかしなものである。2人はれっきとした夫婦であるというのに、なぜあのようなことを恥ずかしがるのか。
そういえば、結婚して3年になるが、リュミエールはいまだこの生活に慣れないようだった。クラヴィスとの結婚が決まったときも、頬を染めて、うれしさと恥じらいに目を伏せて……しかし、瞳がどこか怯えたような光を宿していたのに、クラヴィスだけは気付いていた。
だが、結婚生活は何事もなく、むしろその年の差を心配していたまわりを拍子抜けさせるほど順調に過ぎていった。休日のクラヴィス邸では、穏やかに微笑みながら寄り添う2人の姿が見られるほどだ。クラヴィスやルヴァが寄稿している「文芸聖地」の編集長(クラヴィスは密かに「青筋」と呼んでいる)ジュリアスなど、自分が結婚の世話をしたというのに、2人の熱々ぶりに「原稿をとりに行けん!」と文句をつけたぐらいだ。(それはそれでクラヴィスはかまわないのだが。)
リュミエールに好かれている自信はある。だが、1番かといわれるとわからない。両親や兄弟でも、友人でもない1番。それは、自分なのだろうか。リュミエールの性格などを考えれば、それは当然自分であるはずだが、そういい切れない根拠をクラヴィスは持っていた。
ここ最近リュミエールを憂えさせている赤い影。クラヴィスは、それにひとつのこたえを見出していた。
影は、ひとつではない。
夫である自分にしか出せぬそれを思うたび、クラヴィスはわけもなく苛立つのだ。
そのとき、不意に庭の緑がざわめいた。
現れたのは、光をはじく白……いや、白銀。
「よお、クラヴィス。リュミエールはいるか?」
ルヴァの息子、ゼフェルだ。相変わらず、セキュリティをものともせずに入ってくる。今日は庭からのご登場だ。活動的なのは誰に似たのだろうか。そういえば、ルヴァも後先考えずに行動するところがあった。
父親に似ていないようで似ているところがなにやら可笑しい。それをいったらこの少年は決して認めようとはしないだろうが。
「ああ。何か用か」
「用っていうか……ま、そんなモンかな?」
「……あれなら、テラスだろう」
「そっか。サンキュ」
ゼフェルはそのまま、庭をまわってテラスへと向かった。
その後ろ姿を見送りながら、クラヴィスは残る資料を手に取った。厚い表紙の分厚い資料。ずしりと重みが手に返ってくる。……あれの心の重みは、こんなものではないのだろうな……。
庭の奥から現れたゼフェルを、リュミエールは特別驚くこともなく迎えた。
「いらっしゃい、ゼフェル。今日はどうしたのですか?」
「これ、やる」
「ありがとうございます」
まず礼をいうのがリュミエールらしい。しかし、受け取ったものの、この黒い、携帯電話よりも小さな物が一体なんであるのかわからない。
「これは?」
「スタンガンだぜ。痴漢撃退ぐらいにゃなるだろ」
そういってそっぽを向く。恐らく、先日のことをルヴァから聞いたのだろう。それにしても、スタンガンとは。
なにやら可笑しくなってくすくす笑う。
「あなたが作ったのですか?」
「ん、ああ。そこらで売ってるやつより効果はあるぜ。こっちがメインスイッチで、これが……」
嬉々として説明し出すゼフェル。
近所でも反抗的だと評判のゼフェルだが、リュミエールとクラヴィスにはなついていた。
ゼフェルがその人をどう思っているかは簡単に知ることができるが、自作のものを渡すというのは、好意を持っていることの最たる証拠だ。ゼフェルは、自分の意に染まぬことはしない。それこそ、父親であるルヴァの頼みでもだ。自分の作るものにはそれなりの責任と、なにより愛情を持っている彼は、ふさわしいと判断した者にしか触らせないのだ。それをいまだリュミエールは知らなかった。ゼフェルもわざわざ言うことはなかったが、とにかく2人の間には信頼関係が成立していたのだった。
それでだろうか。
「これですまなかったらどうしましょうか」
いつもならクラヴィスにさえ言わないようなことをつぶやいてしまった。
「なんだ。ほかに心配事でもあんのか?」
「心配、というのでしょうか。なんだかいやな感じがするのです。ひどく、いやな……」
リュミエールにしてはめずらしい口調だ。これだけ嫌悪をはっきりと表すのは。
隣の空家に越してきた赤毛の青年・オスカー。リュミエールの言ういやな感じに彼が関わっているだろうことは必死だ。リュミエールの様子がおかしいのは彼が越してきてからだから。それで、ゼフェルは端的にこんなものを作ってみたのだ。しかし。
逆効果だったか?
かえって意識させる結果となってしまったのではないだろうか。気休めにと思ったこれが仇にならな
ければいいが。
でねーと、しょっぱすぎる煮物とか出汁の飛んだ味噌汁とかばっかになりそうだもんな。
こっそりと心の中でため息をつく。
時々おかずを分けてもらっているが、あれ以来、自分が持っていったほうがいいんじゃないかとゼフェ
ルは真剣に検討していた。
うちとクラヴィス家の食卓のためにも、オスカーの野郎には手を引いてもらうぜ。
心に固く誓うゼフェルだった。
夕食後、クラヴィスと2人思い思いの時間を過ごしながら、リュミエールはなんとなく1日を振り返っていた。
今日のお茶の時間はとても楽しいものでした。ゼフェルとあの人と3人でテーブルを囲んで、他愛もないことに笑いあって。
子供がいたら、あんな感じでしょうか……。
ふと未来を思い描いてみる。
やさしい夫と可愛い子供。3人で囲む食卓はどんなに楽しいだろう。休日は公園へピクニックに。バカンスはどこか遠くで、波と戯れる子供をいさめながらあの人と並んで浜辺を歩いて……。
そこまで思いを馳せて、ぎくりと体をこわばらせる。
バカンスの海……南の島の、ハイビスカスの咲く島で、わたくしは、わたくしは………っ。
微かな衣擦れのあと、きつく結んだ手を大きな手がそっと包み込む。クラヴィスの、夫の手。
それを見たとたん、リュミエールの中から音を立ててあふれるものがあった。それは、かたちをとらえる前に次々と流れていって、切なくてどうしようもない感じだけを残していく。けれど、とどまることを知らなくて、それがなんだかいたたまれなくなって。そうして、やっと涙という形をとった。
「あなた」
「なんだ?」
「あなた」
「なんだ…」
「あなた。あなた、あなた……」
ふるえる声で夫を呼ぶ。なんども、なんども。ぬぐえない不安を追い払うかのように。
ただ自分を呼ぶことしかしないリュミエールを、クラヴィスはそっと抱きしめる。
「わたくし、幸せです」
唐突に、リュミエールがいった。それにクラヴィスは胸を突かれる。一体、何がこうまでこれを追い詰めるのか。
「本当に、本当に幸せです……」
そういって、クラヴィスにしがみつきながら声もなくただ涙を流す。
幸せだといいながら流すそれを、クラヴィスはそっとぬぐった。
それでも、おまえは怯えているのだな。幸せと感じれば感じるほど、それは大きくなり、おまえを苛むのだ。
話したくないのならそれでいい。だが、おまえは私の妻。私のものだ。
おまえの憂いは私が払おう。その微笑みを守ろう。しかし心の闇にまでは手を出せぬ。それはおまえのものだから。他人が触れてはならぬものだから。
抱きしめる腕に力をこめる。銀の髪を梳き、口付け、そのままそっと抱き上げる。
私にはなにもできぬ。だが、ひとときの安らぎくらいは与えられよう。だから。
ぱたりとドアの閉まる音がして、部屋には2客のティーカップが残された。
だから、せめて―――せめて今夜は眠らせまい。
………続くっ(ごめんなさい〜〜)