カチャカチャ...
たった2人の夕食が始まる。片手に機械工学の本を持ち、読みながら夕食を取る息子を見て、
困った顔でルヴァが話しかける。
「あ〜、食事中は本を読まない方がいいですよ〜?消化に悪いですからねー、うんうん。」
「...今、大事なとこなんだよ。」
本から視線もそらさずにゼフェルが答える。
「...そうですかー。それじゃ仕方ないですね。そこの個所だけ読み終えたら本を置くんですよ?いいですか〜?」
「...わーった...。」
何事もなかったかのように穏やかに食事に戻る父親を、ゼフェルは本のこちらから
目だけでそっと見つめる。
実際、変わってる。
普通の父親なら、『どうして親の言うことがすぐに聞けないんだ』とか何とか言って
本を取上げたり怒鳴りつけたりするところだろう。
だが、ルヴァが怒鳴りつけたり乱暴な態度に出たりするところを彼は見た事がなかった。
いつも春の陽だまりのように穏やかで、何もかもを受け止める父親。
そう、彼の母、ディアがこの家を出ていった時でさえ......
**************
その日まで、ごく普通の家庭だったと思う。
いや、ごく普通どころか、並外れて幸せな家族だったに違いない。
穏やかな父。優しい母。そして自分。
特に若く美しい母親は幼いゼフェルの密かな誇りだった。
友達に「ゼフェルはいいなー、お母さんが綺麗で優しくて。」と言われるたびに
「っせーな!」と言いながらも内心嬉しくてたまらなかった。
学校から帰ると一番にキッチンに駆けつける。
するとそこには彼のために手作りのおやつを作る母親の姿があるのだ。
いつもあるのだ。
それはごく自然な事だった。太陽が東から昇る事が決まっているように。
つまらなそうにクッキーの端っこを指でつまみあげるしぐさが、彼の照れ隠しであることも
母親にはお見通しのようだった。
甘い香り。バニラエッセンスやラムレーズンの香り。
それは彼の中で常に母親との幸せな一時を暗示するものとなった。
対照的に父親は彼の中では存在感が薄かった。
いつも取材旅行に出かけていたし、オフの時には釣りに出かけている。
幼いゼフェルが池にはまりでもしたらと心配して、母親は同行を許さなかった。
たまに家にいても縁側で何が楽しいのかお茶を片手ににこにこと笑ってるだけ。
活動的で、じっとしていられないゼフェルにはどう接していいのか分からない相手だった。
おそらくは父親もまた、同じ気持ちであったのだろうが。
そんなある日。一通の手紙が母親ディアに届いた。
なんの変哲もない真っ白い封筒にカードが一枚。
「”凪の時は終わった”」
それを読んだ母親の顔が蒼白になったのをゼフェルは今でもはっきりと覚えている。
人の顔がここまで血の気を失う事ができるのをゼフェルは初めて知った。
「どうしたの?」
何もわからずに聞くゼフェルに母親ははっと意識を取り戻し、ただ彼を ――
ぎゅっと、抱いた。
なにかとんでもないこと。とてつもなく恐ろしい事が起こるのを彼は感じた。
訳もなく不安になり、わめきたくなった。
「嫌だ!馬鹿ヤローーーー!!」
そう叫んだ時、振り切るようにディアが駆けていくのを彼は見た。
大きな音をたててキッチンのドアが閉まる。
何をしていいのか、何と言えばいいのかわからなかった。
ただ、頭のなかでぼんやりと思った。
『甘い匂いは...嫌いだ』
次の日から母の姿はなかった。
ゼフェルは何も聞かなかった。ルヴァも何も言わなかった。
近所の人間はあることないこと噂をしたようだが、その間も2人は何も言わなかった。
すっかり無口になり、部屋に閉じこもりきりになったゼフェルに、ある日、父が誘いをかけた。
「あ〜。よかったら私と釣りにでも行きませんか〜?」
陽射しを浴びて輝く水面に黙って糸を垂れたまま並ぶ2人に、春の風が吹く。
聞きたいこと。言いたいこと。聞けないこと。言えないこと。
時間に身を任せながらゼフェルはぼんやりと水面を見つめていた。
「ひいてますよ、ゼフェル!」
「あ。」
慌てて2人でリールを巻き、網を用意する。
暴れる魚をしっかりと手繰り寄せ、陸へと引き上げた。
「大きいですねー!80cmはありますよ、この野鯉。やりましたねー。」
にこにこと笑う父に何時の間にかつり込まれて笑ってしまう彼に、
唐突にルヴァが言い放った。
「じっと待ってれば必ず。ね?そこにそれはいるんです。待っててあげましょう。」
驚いて父の顔を見ると、そこにいつになく硬い表情があった。
「............。」
こくんと一つうなずく、と、見る間に父はいつもの穏やかな表情に返った。
「今夜は、鯉の料理ですね。いや〜、難しそうですね〜。」
困ったように微笑む父を見ながら、ぼんやりと思った。
何もかもわかってるんだ。でも、それもひっくるめて待ってるんだ。
すごい、と思った。そしていつかこんな風に誰かを愛したいと。
その夜、キッチンで悪戦苦闘するルヴァの手から包丁が奪われた。
「どけ。見ちゃいれねー。今夜からは俺がやるよ。」
「し、しかしですね〜。包丁は危ないですよ、ゼフェル?私がやりますから―」
「...百年かかるってんだよ。どけよ。俺のがずっとマシだ。」
ゼフェルは知っていた。慣れない家事をするために父親の睡眠時間が極端に
減っているのを。知ってて知らん顔をしていた。何も言わないルヴァへの、ささやか
な報復だった。
だが....。
初めてとは思えない、器用な手付きで鯉がさばかれていく。
そんな息子を見て、ルヴァは心で思う。
信じてますよ。こんなにいい息子を育てられるあなたのことを。待っていますよ。
私たちは大丈夫です。
そして、見事な鯉料理が並んだ食卓でゼフェルは家事全般は俺がやると宣言したのだった。
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「...ごっつぉーさん。」
食事が終わって本を閉じる。結局、本は離さずじまいだった。
「はい。今日は私、仕事があがったんですよー。ですから片づけはやりますねー。」
「...んじゃ、たまには頼むかな。」
「はいはい、任せておいてくださいねー。」
...この間みたいにわけわかんねーとこにしゃもじをしまうなよ。
背中にでも貼り付けといてくれる方がマシだぜ。
苦笑しながらキッチンを後にして自室へと戻る。
ベットに寝転がりながらふと、昨日すれ違った少女の姿を思い出した。
金髪に碧の目。どこにでもいる普通の女の子。
なのになぜ、今、こんなに鮮やかに浮かんでくるのだろう。
「やだー、アンジェってば、またそんな!」
友達らしき少女の言葉を思い出す。アンジェ...エンジェルか。
甘い匂いがしたな。バニラみたいな..........
いつしか彼は深い眠りへとおちていった。
遠い日の追憶と甘い香りの幻影に誘われて ――
======================== TO BE CONTINUE