別れ。。                       
                                     2005年9月1日 「真面目」なおやじ 

人の別れは実に悲しいものです。
8月21日11時私の母が亡くなり、8月29日午前3時兄の嫁さんが亡くなりました。
殆ど同時に私の大事な肉親を亡くしたこことなります。
今、私は悲しみに耐えることができないくらいの状況になっています。
この二人との別れを独り言として綴っておきたいと思います。

         ・母との別れ
          
          93歳と言う死去で世の中の方々は「永く生きたのだからお祝いだ」なんて無責任な言葉を聴きます。
          でも母は私をこの世に生み出した人、今の私があるのも母がいたから存在しているのです。
          私が父親を亡くしたのは13歳、小学校6年生の時、それから母の細腕で私を育ててくれ、上の兄弟も
          何不住せず過ごしてきています。
          男三人を女の細腕で育ててきたのだから大変な苦労があったと思います。
          母がいつも言っていた「男は自分の行動に責任を持ち、自分の思うことをやりなさい。」と言う言葉に
          我々息子は自由に生き、何でもやらせてもらったと感じます。
          一見、放任主義かと思いますが、「自分の行動に責任を持ち」がはっきりしており、悪いことをしても
          自分で始末することが多かったように思います。
          放任主義、実は寛大、寛容、責任感と言う言葉に置き換えることができます。
          私がこの世に生まれる時、破水状況となり、「子供を殺し親を助ける。このままだと親の命が危ない」と
          言われた時でも「子の命を優先に。。」と言って、死産に近い状態で生まれたことを聴きました。
          現在の医学なら安全な処置がきると思いますが、昔の医療では大変難しいことだったと思います。
          医者の言うとおりに「子供を殺し。。」と言う処置を取っていれば、私はこの世に居なかったことになります。
          これが最初の心配で、高い木から落ち意識不明、中学で兄の大きいオートバイに乗り転倒しこれも
          二日間の意識不明状態、スキーでの骨折、反対されながら北海道から出たこと、移民として渡米したこと
          など母の心配事を沢山作ってきたように思います。
          でも度々の帰郷では「よく帰って来たね。好きなものを作っておいたので食べなさい」と優しく、向かい
          入れてくれました。
          その母の暖かさにいつも甘えていたことになります。
          私には息子と娘がいますが、これ程の寛大さはありません。
          そんな母も病気には勝てず、二年間の病床の末、亡くなりました。見舞う度、苦労をかけた母が段々
          小さく成っていくのを感じ、「お母さん頑張れ」と心の中でいつも言うだけ、何もできない切ない気持ちが
          腹立たしいことさえありました。 北海道と静岡はあまりにも離れ過ぎました。
          偶然にも息子が私と同じように、故郷を離れ茨城県で所帯を構えていますが、寂しさを感じることがあります。
          母もどんなに寂しい思いをしたのかが、やっとこの歳になって分かるようになりました。
          私は「親不孝者」だと思います。
          また、病状の苦しさが感じられ「早く楽に。。」と思ったことさえありました。世の中に「殺人」と言う言葉が
          なければ殺していたかも分かりません。
          「安楽死」と言う非常な言葉も理解することさえができました。
          こんなことを感じたのか、8月21日未明93歳で静かに命を閉じました。葬儀で亡くなった顔を見たとき、出てきた
          言葉は「良かったね。これで苦しみから解放されたね。」、「本当に苦労をかけました。」の言葉でした。
          何回も。何回も同じ言葉がでて来たのです。
          涙も次から次に出てきて前が見えないほどだったことを覚えています。
          「男は大事な時だけ涙を流せ」と言っていた母の言葉、今が大事な時。。だと思い。。。
          焼き場に行き生身の人間が焼かれ、小さな骨壷に入れられた時にも止め処なく涙が出て止まりませんでした。
          「人はこんなに小さくなるのか」と人の世の「はかなさ」を強く感じました。
          もう、そこにはあの優しかった母の温もりも微笑みもありません。
          でも貴方のことは、私の思い出の中にしっかり残っています。
          私もいづれは絶えることとなり、優しかった貴方に会える日が来るのかも分かりません。
          楽しみにしていますが、それまでは私と私の家族を見守って下さいね。
          天国では頑固者のお父さんと仲良くやってください。

          ・姉との別れ

           64歳と言う若い命の終わり、私には衝撃的な事でした。
          まだ、母の悲しみも薄れていないのに、お世話になったお姉さんが亡くなったこと絶えられない悲しさが
          あります。
          お通夜での徹夜の見守り、葬儀など皆さんと一緒に付き合いましたが、若くして亡くなったことの寂しさが
          口々に言われ痛々しく感じ、お姉さんに先立たれた兄、88歳のおばあちゃんの顔は悲壮なものに見え、
          娘たちにも深い悲しみがありました。
          新幹線で2時間の近い距離に居ながら、こんな状態になっているとは分からず残念に思います。
          兄も私に迷惑がかからないように知らせてこなかったのでしようけれど、とても残念です。
          貴方との思いではそれほど無いにしても、いつも笑顔を見せてくれたことは忘れません。
          息子や娘の結婚式にも遠いところ出席してもらい、素敵な笑顔を見せてくれましたね。
          一時病気が治り、これで安心と寛子ちゃんの結婚式、いつもの笑顔が輝いて見えました。
          「病気も治ったよ」と嬉しそうに言っていたことを思い出します。
          まだ、一年も経っていないのに突然の死去、画然となりました。
          あまりにも悲しいのでこれ以上は書けませんが、兄とおばあちゃんが「私より早く亡くなって。。」と
          いつまでも泣いていた顔は、悲壮で私の脳裏を離れません。 いつまでも離れないと思います。
          これからは、残された兄とおばあちゃん、娘たちを天国から見守っていてやってくださいね。
          いつも仲良く笑顔で過ごしていた、貴方たちご夫婦を見本として、私たちも生きて行きます。
          「さようならお姉さん。。」
                   
                                     2005.9.1  「真面目」なおやじ