謙遜の文化

  日本人には謙遜、自分を卑下して相手を立てるという美学がある。具体的な例として、二人でコンビニにやって来て、いざ会計の段階になると「ここは私が。」「いやいや何をおっしゃいます、私が。」と財布の出し合いになる。そんなことせずに割り勘、自分の分は自分で払うようにすればいいのに、と思うが、そうも行かない。日本人、特に大人の世界ではこのような謙遜、相手を立てることが礼儀となっている。財布の出し合いに負けた方は、店を出てから金を渡そうとする。しかし全額は相手も受け取らない。そして結局半額、もしくは自分の分だけを渡す。それなら初めからレジの前で大騒ぎをすることもないだろう。しかし、それで社会が丸く収まっているのだから良いのだろう。中には初めから払ってもらうつもりなのか、やたら態度のでかい人もいるが、そういう人はやはりよっぽど偉い人なのだろう。

  レジ前のこういった譲り合いの中では、店員はあくまで第三者である。彼等が問題提起をして、彼等で解決してゆくのだから別に困ったことではない。ところが、店員がこの問題に巻き込まれてしまうのは、少々厄介である。

  ある日、店に年配の男性客がやってきた。彼は家にいた着の身着のままの姿で、今使いたいものが家になくて、あわてて買いに来たかのようであった。店内を一回りして、まだきょろきょろしながらカウンターにやって来てこう言った。「からしは置いてないんでしょ。」私は、そうだったかな、品切れかな、などと思いながらからしが置いてある棚まで行ってみた。からしは何食わぬ顔でそこにあった。私としては「あるじゃねーか、『ないんでしょ』なんてバカにしてるのか?」という思いだったが、「これしかありませんが、これでよろしいですか?」と彼にからしを手渡した。彼は「あぁ、あった、あった。」とからしを買って帰った。

  これは「自分で探したが見つからない」イコール「ここにはない」という公式を頭の中で作ってしまっている人が、一応聞いてみるが店員の手を煩わすまでもないという思いから、謙遜して言っているつもりなのだ(と思う)。しかし、普通「ありますか?」と聞かれるところを「○○はないんでしょ?」なんて言われてしまうと、「バカにしているのか?」「自分が一番正しいと思っているのか?」などと思ってしまう。

  以前私は、惣菜を温めてくれと頼まれて、他に客もいなく、機械に弱そうな客だったので、温めてあげることにした。その時、その客が言った。「ごめんなさいね、こんなことする人はいないんでしょ。」ここまで行くと自分を卑下し過ぎである。ごめんなさい、すみません辺りで止めておくならまだいいが、自分の他にいないと思っているようでは、謙遜して言っているつもりでも、聞き方によっては、自分が唯一の存在、だから何なんだ?という風に聞こえないこともない。これでは謙遜の目的は果たされてはいない。

  「偉いのは誰だ?」で敬語、丁寧語を使えと述べたが、相手を敬うのではなく、自分を卑下して言葉使いに気をつけるのもいいが、間違った謙遜の仕方は相手を不快にする原因になり兼ねない。日本語は難しいですが、簡単な解決法としては、物を尋ねるときには否定形で聞かないというのがあります。「すみません、両替して・・・もらえないですよね?」できないと思っているのなら言うな!!

 

 

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