第十五話・外伝の二:理想主義者の難儀なまどろみ

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 寄宿舎の自室に戻った瞬間、俺を襲ったのは強烈な不安感だった。
 胸を叩く動悸は収まらず、血流はこめかみを不快なほどに圧迫する。呼吸も過多で、落ち着かせようとしても上手くいかない。
 俺は照明も点けずにそのまま洗面台に向かい、コップの水を一息に飲み下す。水分が補給されたせいで、じっとりと体中に汗が滲む。
 一分ほどその場に留まって、酷い気持ちが過ぎ去る時を待つ。だがそれはかなわない。待った時間が一分なのかも正確には解からない。周囲の時間の流れや空間の成り立ちが歪んでいるような錯覚に陥る。
 コップにもう一杯、なみなみと水を汲み、悪酔いした状態でさらに酒を煽るかのようにもう一度飲み干す。再び体中から熱い汗が噴き出す。だが、動悸は止まらない。頭には血が上ったままだ。
 俺はそのまま反対側の壁にもたれこみ、重力に任せてずるずると座り込んだ。足が妙に重く、倦怠感を覚えていた。意図せずに吐息が漏れる。曲がっていた膝を、まるで無気力な少年がそうするように洗面台の排水パイプの方に向けて放り出す。今まで感じたことのない無力感がそこにあった。

 女の前で恥をかくわけにはいかない。
 ティスに対して精一杯に強がっていたまではよかったが、独りになった瞬間このザマだ。張り詰めていた心のたがが外れた。
 こんなことは初めてだ。冒険者となって十年にもなるが、こんな不安感は初めての経験だ。
 人であれ、人外の類であれ、この十年の間で俺を恫喝した者は数え切れないほどいる。そして、それを乗り越えた上で今の俺がいる。その俺があの男の姿と言葉に恐怖を受け、この場から立ち上がることもできなくなっている。
 男? いや、本当に奴が男なのかも解からない。男なのは見た目だけなのかもしれない。そもそも、人や人外・怪物などといった枠に捉われない超自然的な存在なのかもしれない。
 「感心感心。それでこそ『利用価値』があると言うものだ」。奴はそう言った。サバイバルナイフの一撃を見舞って奴に傷をつけたことは確かだが、俺は奴と引き分けたわけではない。
 俺は逃がされたんだ。言い換えてしまえば、俺は奴に負けたのだ。
 もしも殺すつもりだったのならば、俺に抵抗する間を与えることもなく、冥府(ニヴルヘイム)に叩き落す事ができたのだろう。

 一体、奴は何者だ。
 奴は俺のことを知っていた。
 俺は奴のことを知らない。
 過去に出会った事があるのか。いいや、ない。あれほど見事に化けていても、深い井戸の底に淀んだ瘴気の様な血の匂いまでは隠しきれていなかった。あれほど禍々しい匂いをもつ存在を、俺は始めて見た。
 奴はそれだけでなく、俺の不可思議な力についても知っているようだった。俺を最も恐怖に誘っているのはこの時の台詞だ。お前と私は同類だとでも言いたげに、見下すように「時が来たら教えてやる」と。
 何故知っている? あの力を知っている者は、俺とリーネの他には銃器師団の連中だけのはずだ。
 本当に奴は何者だ?
 そして、俺は何者なんだ?

 ティスは俺と違って大丈夫なのだろうか。……大丈夫なのだろう。わざわざ考えるまでもない。
 片腕を掴まれて身動きを封じられ、万事が窮しかけたあの時ですら、彼女の目には狼狽など欠片も浮かんではおらず、むしろ白刃の如き敵意と蒼炎の如き戦意に満ちていた。もし同じ状況に追い込まれたとしたら、彼女と同じ目を奴に向けることなど俺にはおそらくできないだろう。
 魔物との戦いの最前線に位置するこのタウンにおいて、最大の戦闘集団と目される銃器師団。彼女はそのギルドのナンバー2なのだ。心臓(ハート)の強さは見かけ以上に相当なものなのだと俺は感じた。
 それより何より、彼女はクールだ。パーフェクトなほどにクールだ。俺みたいに腐ってうなだれる姿など、想像もできない。
 糞。何が「ナイト気取りで斬りかかった」だ? 白騎士(ホワイトナイト)はどう見ても彼女のほうじゃないか。
 顔を上げて目を閉じ、眉目秀麗な銃器師団副長の姿を想い出す。
 右手に握られたコルト・ロウマン。男物でありながら見事に着こなしたヴェルサーチスーツ。流れるように舞う短めのプラチナブロンド。計算しつくされたように機械的で無駄のない射撃とリロード。寸分違わずに相手を無力化させる、突き詰められた技量――。
 それは一見して無骨でありながら、付け入る隙のない完璧さがあった。何でもない動作でも、磨きに磨き上げれば輝くものだ。彼女のスタイルはまさしくそれで、一挙手一投足が芸術作品のようでもあった。
 美しいと、素直に思う。恋愛感情などとは微妙に異なるが、心臓の高鳴りを覚えるに足る愛おしさがそこにはあった。彼女が白馬に跨った騎士様だったならば、どんなに良かっただろう。今回だけでも身を任せて甘えてしまう事ができただろうに。
 女々しいと言えばそれまでだ。俺はそれほど狼狽している。

 ……もう寝よう。
 俺のことも、奴のことも、ティスのことも、状況は一切変わらないだろうが、寝れば多少はすっきりするだろう。
 腹の中に砂袋を放り込まれたように体は重く、一ヶ月前の古新聞を突っ込まれたように頭は不鮮明だ。こんな疲労した体で、何を考えたって何も浮かびやしない。全身が休息を求めていることに、ようやく気付く。
 自分の体とはとても思えないほど緩慢に立ち上がって、血と脂のにおいが少なからず染み込んでしまった上着を脱ぎ捨てた。シャワーも浴びたかったが、眠気がそれに勝った。ふらりと洗面所を離れ、そのままベッドに倒れこんだ。布団を被ろうかと思ったが、暑苦しく感じてやめた。
 ごろりと仰向けになる。
 俺は隣部屋でぐっすりと寝息を立てているであろう相棒のことを思い、そのまま目を瞑った。
 口は悪いが頼りになる相棒だ。もう長い付き合いになるし、あいつの性格はよく理解している。
 ちょっとした散歩と言って出て行ったのに、帰ってきたのはこの時刻だ。さぞ心配していただろう。開口の一発目はきっと「ずーっと待ってたのに、真っ暗になるまでどこほっつき歩いてたのよ、この莫迦!」だろうな。
「あー、体のいい言い訳が欲しいな」
 ここの副長とうつつを抜かしていた、などと言っても嫉妬はしないだろうが、パンチの一発や二発は覚悟せねばなるまい。無論、本当のことを話すつもりはないが。
 まあいいさ。適当に話をでっち上げればいいことだ。詰問をはぐらかして逃げるのは俺のいつもの手管じゃないか。
 数時間後に繰り広げられるであろう俺とリーネの言い合いを想像しながら、何故か俺の気持ちは急速に落ち着き、やがて意識はまどろみの中へと落ちていった。

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