※左にこのページの目次を表示する。


め ま い

  夏の気流の力尽きたか、雲の峰のふと崩れて、窓開け放した部屋にも、調度の傍、壁の辺りに仄暗さの生まれる時、簾を透かす樹々の緑の却って陰りの内に鮮やかに、陽の下にこそ高かるべき蝉の声の一際激しい中に、ま近く降る雨の滝つ瀬を想い遣りつつ、人の感じているものは涼味ではない。
  暑熱の果ての薄闇は、軽い病の床に知る眩暈に似て、人を馴染み深い異境へと導くのであろう。我々は容易にポール・ゴーギャンのタヒチを理解することが出来る。南赤道海流に洗われる南緯十七度三十分のこの島の、海は暗く、泡立つ波頭さえ暗く、草も樹木も鳥の羽根も、人の肌までが色を沈ませている理由を、例えばビクトル・エリセの描く少女エストレリヤの考え深さよりも確かな果敢なさで、知ることが出来るのだ。ああ、これが「エル・スール」なのだと。
 記憶という名の蝙蝠が飛ぶ。驟雨の過ぎた夕映えの空に、くっきりと形を印しながら。しかし捉え難く蝙蝠は飛ぶ。我々は夜を待たねばならない。蝙蝠の翼が空の全てを覆い尽くした時が夜なのだから。夜には、青白い顔の按摩が家を訪ねて来たり、蚊帳の中で女が泣いていたりするのだ。不思議なものを見たとしても、恐いものに遇ったとしても、人の心を領するのは驚きよりは季節である。『夏祭浪花鑑』の七段目、長町裏の田圃の中で団七九郎兵衛が舅の義平次を殺す時、観客の見るのは泥舟に縺れる二人の男の姿ではない。書割の町家の屋根を越して見える祭の山車の提灯の、遠く夢のように行く形なのである。
  祭は果てる。長町裏では微かな悔恨と共に、そしてリオデジャネイロでは身の置きどころのない哀惜と共に。過ぎ去る祭が生命を拉致し、マルセル・カミュの眼差しは、電車通りを冥府へ向かう黒い肌のオルフェを追い続ける。サンバは神の音楽、魔術は人間の意志。だが、どうして禁忌を犯さずにいられよう。更け行く夜の、なお蟠る温気の中で、人は全てを失ったことを知るのだ。全てを生きたことを知るのだ。
  やがて、誰も知らない時間が訪れる。灯が最も少なくともり、またたく星達が退場を始める時間。夏はこっそりと次の秘密を準備する。

(常葉学園短期大学文芸部誌「奇譚倶楽部」創刊号掲載)  




秋の夜の訪問者

  兄妹とその母とが身を寄せ合うように暮らす家。そこへ二十年前に家出した父親が帰って来ることから生じる家族の愛憎の劇。それが菊池寛の戯曲『父帰る』である。しかし観客は、例えば、勤めから戻った新二郎の次のような科白に酔うのではあるまいか。 おたあさん、今日浄願寺の椋の木で百舌が啼いとりましたよ。もう秋じゃ。……兄さん、僕はやつぱり、英語の検定をとる事にしました。数学にはえゝ先生がないけに。
  「秋」が作品のもう一つの主題である。この主題を得て『父帰る』は古典となる。  秋の夜、ひっそりと部屋に居て、外の物音に耳を澄ますという文化が、かつてこの国にはあった。聴き耳を立てるのではない。訪れて来るものを心静かに待つのである。訪れとは即ち「音連れ」であり、来るものは何よりも先ず聴覚に於て捉えられるべきだったのだ。音立ててやって来るのは、最も古い意識に於ては祖先の霊=神であったろう。盂蘭盆とは、暦の上では秋の行事なのである。人は秋に神を待ち、神の来る音を聞き、そして神と一時を共にしたのだ。『古今集』藤原敏行朝臣の歌、

  秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

にも、こうした古い信仰の残映が認められるように思われる。やがて信仰の中に生まれた生活態度は、時の流れを下って、芭蕉の 、

  秋深き隣は何をする人ぞ

に到り着く。しばしば諧謔的に扱われるこの句は、もちろん諧謔に遠く、信仰には更に遠く、芭蕉の寂寥は鮮やかに近代人の孤独を先駆ける。しかし、孤独は秋にあり、孤独な魂は内にあって外の気配に聞き入るのである。童謡『里の秋』でも、音は家の外にしている。背戸に木の実の落ちる音である。母と子の小さな幸福は「外」の存在によって際立つのだ。神はもはや訪れることはない。神は平安の歌人達にさえ姿を隠しがちであったろう。だが、近代の母と子にも、「外」は訪れているのである。そして、その訪れを待つ季節こそ秋なのだ。  
  『父帰る』の舞台では、最近父を見かけた人のことが話題となっている。夜の更けるにつれて、「外」が少しづつ忍び寄る。遂に表戸の開く音がする。観客がドラマを意識する。その意識の谷間で、神話の冬仕度が始まっている。

(常葉学園短期大学文芸部誌「奇譚倶楽部」第二号掲載)




「死」への想像力

 ニュースや映画や小説の中で、時には身近な者の運命として、我々は夥しい死に出会っている。にも関わらず、我々が死を深刻な恐れの感情と共に受け止めることは希である。夥しい死とそれへの無関心の共存は、屡々現代人の精神の鈍麻として説明されてきた。しかし、この分かりやすい説明は恐らく間違いである。
 例えば、人は次のように考える。死によって全ての問題は解消する。だから、自殺すべきだと。その時死は、株式に投資することや、バッティング・フォームを矯正することと同様に、人生に役立つものとなっている。「名誉ある死」或は「犬死」という言い方は、死を手段と見做す考え方が、我々にとって如何に馴染み深いものであるかという事を示唆している。
 我々は、なぜこの様に考えるのだろうか。理由は、我々が死を外側から眺めているという点にある。突然に見知らぬ者の事故死を聞くときでさえ、我々は、生きていた彼と死者となった彼との両方を想起することが出来るのだ。その両方を比較的に眺めることが出来る故に、我々は死を、生命を物質に還元し意識を虚無に置き換える機能として了解する。既に機能である以上、我々にとっての関心は、その利用可能性ということにならざるを得ない。
 日々に出会う夥しい死を我々が恐れないのは、我々が観察者として、我々に外在する死に対しているからである。死はその時、機能として存在し、その意味で、我々が日常的に出会う万物と異質なものではなくなっている。我々は、死体となった我々自身をも想い描くことが出来、従って、自身の死を考えてさえ、我々は冷静でいられるのである。
  しかし死は、外在する認識対象であると共に、不可避な内的体験でもある。内的体験としての死は、それを回想することが不可能という点に於て、言い替えれば、体験の前後を比較することが出来ないという点に於て、他の諸体験とは隔絶している。その意味で、内的体験としての死は、如何なる意味に於ても機能ではなく、それ自体の目的として以外に存在のしようのないものである。従って、外在する認識対象としての死が世界の一部としてあるに過ぎないのに対し、内的体験としての死は、世界からの飛躍として在る。我々の想像力は、極く希にその様な死を捉えることがある。その時こそ、我々は死を恐れる。しかしこの恐れは、我々を閉ざすものではなく、解き放つものなのである。

(常葉学園短期大学文芸部誌「奇譚倶楽部」第三号掲載  S631004)




火トカゲの誘惑

 もう二千年も経ってしまったのだ。夏の終わりのアレキサンドリアで起こった事件の詳細など、今更解明出来るわけもない。確かなことは、その時図書館が焼けたのだと、人々が思いたがっている点である。被害は小規模に留まったはずだとウェイゴールは考証する。しかしマーキンウィッツは、銀幕の上に焼け落ちるムセイオンを描いたのだ。紀元前四八年、ローマの兵達が港に停泊するポテイノスの艦隊に火を放った。火の粉は天に舞い、延焼は都市に及んだ。都市にはムセイオンが在った。そしてこの学問の府には数十万巻の書物=甕に挿されたパピルスの巻物が蔵されていたのである。考証は保全を予想し、物語は喪失に傾く。喪われた書物はアスプ蛇の毒に斃れた女王に似て後代を魅了して已まない。
 まことに宝は封ぜられてこそ輝きを放つ。我が物ならぬ紅玉の赤は、城壁の内なる舞踏会の灯の色である。望んで得られぬ翠玉の緑は、地図にない南の島の貿易風に搖れる椰子の葉の色である。だから、超人的な記憶力の持ち主である法水麟太郎が黒死館の惨劇を解明するに当たり、所蔵する『妖異評論』誌の全冊を焼き捨てたからといって(彼は余計な知識によって推理が乱されない為にそうするのだが)、小栗虫太郎を非難することは出来ないのだ。主人公の能力とその行動の矛盾の底には、一貫した動機が潜んでいるのである。
 衒学への扉は、何時も二つの鍵によって開かれて来た。一は知識への愛である。そしてもう一つは、未知への不安である。ならば、最も貴ばれるべき知識とは、その存在が知られていながら内容が未知である知識に違いない。かくして焚書は百科全書派の秘儀となる。儀式は思想を裏切りつつ、その発生論的性格を露わにする。
 だからこそ、挟書の律は阿房宮の主に於て発せられたのであろう。「長橋波に臥すは、未だ雲あらざるに何の龍ぞ。複道空を行くは、霽れざるに何の虹ぞ。」「明星の**たるは粧鏡を開くなり。(略)煙斜に霧横はるは、椒蘭を焚くなり。」京兆の詩人は、かく歌った。地上の歓楽の極みに地上的な一切を超えようとしたものこそ阿房宮であったのだ。全てを手に入れた覇者に尚見るべき夢があるとすれば、それは量的拡張によって質的飛躍を結果するという世界の因果律的変更に他なるまい。今や、宮掖は模倣された天界でなく、天界そのものを目指していた。そして世界は、より深い魅力をたたえて蘇らなければならなかった。炎が竹簡を舐め、土が鴻儒を覆う。記憶の埋没の歴史は、却って世界の豊饒を幻視せしめる。始皇は神であった。自身が自らをそう見做そうとしたよりも遥かな確かさで、彼は神の座にいた。
 もちろん、何一つ滅びはしない。墨子さえ清朝考証学の庭に植えられていたのである。奪われた記憶の物語は、多く記憶の纏う綺羅である。孟子は東シナ海に沈んでも、海難の理由は日東の翰林に探ることが出来た。伝説こそが重要なのだ。人間は、見顕わされた世界の、その白日の限定に耐えることが出来ないのだから。だが、眼差しは外部へ向かう。誇らしげな知性は、何時も世界の所在を誤認する。
 消防士達が現われるのはこの時だ。制服の胸に火トカゲの図柄を刻印したバッジを付け、火焔放射器を手に持って。『華氏四五一度』の主題は、危険なまでに明快である。「意味」の防御こそ改心した焚書官の望みであったろう。しかし、ブラッドベリはフェイバー教授にこう語らせてしまうのだ。「わしは子供のとき、書籍のにおいを嗅ぐのが大好きだった。」と。書物は、道具から呪術への絶えざる運動として存在する。そしてこの運動の果てに、喪失という資格を得るはずだ。人里離れた川辺の林に、薄雪を踏みつつ記憶を確かめ合う「本」達の呟きを描いて、トリュフォーの抒情は原作者を捉えた時代の柵を越えようとする。
 赫奕たる逆説に夕映えて世界が無限への予感におののく時、倒立する時間の底にデカルトの族譜を圧搾せしめ、書物は無効へと羽ばたくイカロスとなるのであろう。

(常葉学園短期大学国文学会通信 第12号 本の話(十一) 平成元年2月10日)





散歩する

 趣味は、と問われると、最近では散歩と答えることにしている。最近になって散歩を始めたというのではない。散歩することがずっと好きだったのだと、このごろ気がついたのである。京都の北大路通りの近くに住んでいたころ、七条あたりまで使いに行って、往路はバスに乗ったのだが、ぶらぶら歩いて帰ってきたことがある。小路から小路を縫い、時に鴨川の堤に出たりしながら、京都を南北に横断したことになる。静岡駅と瀬名の間を歩いたことも何度かある。雲の形、街路樹の姿、家々のたたずまいを眺めて、飽きない。常には、長尾川の土手を歩くことが多い。夜など、懐中電灯をもったり、小さな赤い灯の点滅するバンドを腕に着けた散歩者が何人もいて、寂しい祭を見る思いがする。
 散歩ということを、いつごろから人間はするようになったのか。江戸時代以前の日本には、散歩という風習はなかったのだという説を読んだことがある。今、手元にその文章がないのだが、欧米に散歩という風習のあることを知った某知識人が、ステッキ片手に早足で自宅とどこやらとを往復したのが、日本に於ける最初の散歩であると書いてあったように記憶する。
 しかし、散歩という語は、既に南北朝時代の文献に見えている。虎関師錬の『済北集』に「前ニ坡、後ニに岡ト散歩シ、別レテ幽径ヲ尋ネ禅房ニ入ル」とある。堤や岡を散歩したというのであるから、今日の散歩の意に近いものであろう。語は、漢籍に由来する可能性がきわめて高い。『金史』に「散歩門外」の語句がある。
 平安時代には、散歩をすることを「ありく」といった。「五月ばかりなどに山里にありく、いとをかし」と『枕草子』にある、あの「ありく」である。但し、この言葉は、除目の時などに、人事の情報を得ようとして、あちらこちら走り回る場合にも使われている。平安時代の貴族たちは、そぞろ歩きや牛車でドライヴを楽しむことと、仕事で動き回ることとの区別を、明確には付けていなかったようなのである。ちなみに、「遊び」と「仕事」という、現代人には紛れようもない二つの概念さえ、十分に区別されていたかどうか疑わしい。定子や彰子に仕えた女房たちが、休暇を欲しがったといった記事は見当らないようだからである。
 平安朝から南北朝の間に、散歩という概念が日本に登場したのだと考えてもよさそうだが、一つの文化がある時代に一挙に全国に広まるというものでもなく、そうした文化の萌芽が、過去に遡っては全く求められないというのも不自然なので、余りせせこましく考えない方がよいかも知れない。
 今日、礼装として使われるモーニングは、本来、朝の散歩服であった。これが礼装となりフロックコートと競合するのは、一八七〇年代のことである。十九世紀の中ごろまでには、欧米でも、散歩は文化としての輪郭を十分に整えていたと考えられる。
 ただ歩き回り、見慣れた風景を眺めたり、風に吹かれたりするだけのことであるから、一つの特別な行為として散歩を概念化するのは、あまり簡単なことではなかったに違いない。散歩という概念を持たない民族は、今日でも多いのではないだろうか。しかし、一旦その概念を手にいれてしまえば、人間はこの楽しみを手放そうとは決してしなかった。蓮見(蓮の花の盛りを見物すること)にせよ、幇間芸にせよ、民俗舞踊という意味ではないレクリエーション・ダンスとしてのフォーク・ダンスにせよ、既に滅び、あるいは滅びつつある娯楽の数は多い。しかし、散歩というささやかな楽しみに、その気配はない。
 何よりも、手軽だということがあるだろう。文化の固有性に、ほとんど左右されないという点もあるだろう。人が歩く道と、風景がなくならない限り、散歩は可能なのである。
 しかし、人々が散歩をする最大の理由は、そのさなかには、世界と自分との関わりが、普段に生活している時とは、全く変わってしまうところにあるだろう。大げさなようだが、これは本当である。散歩に於ては、常には或る目的のための手段であるものが、目的そのものに変じているのである。道を歩くことは、どこかへ行くためである。雲を見ることは、天気の行方を知るためである。しかし、散歩に於ては、歩くことが目的であり、眺めることが目的である。目的的なものは、散歩者に現前しているのであって、彼の彼方にあるのではない。人間の不幸が、達成されない目的への想像力に由来するなら、例えば世界支配への野望が一国の王を安らがせないのなら、これは幸福なことである。
 もっとも、上手に散歩するためには、多少の努力が必要である。自動車に脅かされない道、美意識と余りにかけ離れたものがないような場所を探し出す努力である。そして、もちろん完全な環境はないのだから、小さな不満は見て見ぬ振りをする努力である。この努力を怠れば、目的はたちまち散歩者の外部に去り、彼は日常に閉じ込められた自身を見出だすことになるだろう。
 雲が芸をしていない、と嘆く前に、その雲に新しい芸を認めることが出来れば、理想的だ。貝原益軒によって「五穀生ぜず(略)不毛の地といひつべし」と評された軽井沢に、快適な避暑地の可能性を発見したA・C・ショウは、そのような理想を生きた人であったと思う。
 無価値とされているものに、自分だけで価値を発見するのは、どこか修行の趣がある。そういえば、ショウ師は宗教者であった。修行は、先に述べた努力の延長線上にあるように思われるが、私には遠い。
 私の最も愛するのは、シーズンオフの観光地を歩くことである。人々の去った静けさの中で、日を浴びながら散る落葉を見るときなど、私は、身に余るという思いがする。その思いを、少し気恥ずかしく反芻する。

(常葉学園短期大学文芸部誌「奇譚倶楽部」 H07)


散歩する2  秋・蛭ヶ野にて

  山荘に着いたのは夜であった。掃除もそこそこにして、岐阜で買ってきた駅弁を食べ終えると、すぐ蒲団に潜り込んだ。行火は使っていたのだが、明け方、身体が冷えて目が覚め、ストーブを入れた。
 再び目覚めたのは八時頃であったか。室内が薄明るい。起って、カーテンを開ける。突然、輝くばかりの黄色が目に飛び込んできた。快晴の下、見事なばかりの黄葉であった。夏には濃い緑に閉ざされる窓の景色が、全く別のものになっていた。所々に紅葉が混じっている。
 珈琲を飲んでから散歩に出た。山路は、どちらに向かっても、点景に紅を散らした黄の氾濫である。
 動物達も、冬の準備に忙しい。栗の毬ばかり落ちているのは、リスが実を採ってしまった跡なのだと教えてくれた人があった。夜道を歩いて狸に出会うのも、この季節である。
 自然は、思いの外に賑やかである。都会のそれのように心を苛立たせないだけで、変化に富み、色彩に富んでいる。既に分かり切ったことではあったが、秋の山を歩けば、この思いは発見として心に落ちた。そして、思いは動き始めた。
 「この道や行く人なしに秋の暮」と詠んだ芭蕉も、「鴫立つ沢の秋の夕暮」と詠んだ西行も、実は意外に賑やかな風景を見ていたのではなかったか。種田山頭火は、堂守の孤独に耐えかねて、行乞の旅に出たという。世捨て人と呼ばれる人々の生き様を、淋しいと思うのが誤解で、彼等の遁世は、淋しさを愛したが故ではなく、それを避けるためであったのかも知れない。
 書の世界には、墨色という言葉がある。墨に色のあるはずもないが、色は、書に関わる人の大きな主題となっている。そんなことも、心に浮かんだ。
 人の世に力の量的変位以外を見出し得ぬ魂にとっては、繁り戦ぎ色変わり散り囀りすだく自然に較べて、そこが余程単調で淋しいものに思えたとしても、無理はない。
 視界が開けると、遠く雪を冠った白山が見えた。前景の山並みは、大日ケ岳、願教寺山といった山々であろうか。山肌は、濃い赤に細かな網をかけたようで、山が燃えるという表現は、このような状態を指すのかと思われた。秋が一気に山腹を麓へと駈け下り、それを追って遠くに冬が姿を見せている。ここでは、時間を空間として見ることが出来る。
 白山は、我国の代表的な山岳信仰の霊場の一つである。『泰澄和尚伝』によれば、奈良時代、越前の僧泰澄が、「霊夢を受けて頂上に登拝し、翠ケ池で九頭竜の姿で現れた白山神を、仏としては十一面観音、神としては伊弉冉尊として主峰の御前ケ峰に祀り、さらに大汝峰に阿弥陀如来(大己貴尊)、別山に聖観音(別山大行事)を祀」ったという(白鳥町教育委員会発行『ぎふ美濃白鳥町の文化財』による)。泰澄は白山に千日の修行を積んだとあるが、彼もまた、したたる緑と、黄葉紅葉の輝きを見たはずである。あるいは、美しい風景こそが、白山を聖地と観想させた動機であったのだろうか。
 日本の風景は、ここ数十年の間に随分と変わった。山に落葉樹の森が減少し、杉の人工林が増えた。山は暗くなり、一方、都市はますます光に満ち溢れる。現代人にとって、遁世と修行の印象は、この新しい風景の中で形作られる他ない。そして例えば、比叡山延暦寺を訪れて、人々は納得する。樹齢数百年の杉の群落に囲まれた僧坊こそ、ストイシズムの象徴でなくて何であろう。
 しかし、それは恐らく例外なのだ。本州の大半がイタリアよりも南に位置するこの国を覆っていたのは、ほとんどが明るい落葉樹の森であったはずである。
 今、私の歩いているこの森は、恐らく原生林ではない。遠く望まれる紅葉の山も、そうではないかも知れない。それにしても、眩暈するばかりの季節の彩りは、落葉樹の群落のここに在ることの正しさを告げている。
 思いは、遁世や修行が潜める快楽といった地点に辿り着く。辿り着いたところに驚き、そして少し恐れながら、森を立ち去りかねている。

        (常葉学園短期大学文芸部誌「奇譚倶楽部」 H08 平成八年十月二十八日稿)


心の遠野


   一、賀茂川と黒人兵

 玄関で祖母が話をしている。相手は、祖母の女学校時代の同級生であったと記憶する。近所の話好きの小母さんだったかも知れない。私が、小学校に上がるか上がらないかの頃だったと思う。
 その婦人の話というのは、黒人兵が、夜の賀茂川で身体を洗っていたという噂であった。少し、注釈がいるだろう。
 京都市の北部に、賀茂川の東岸に接して、八万坪の敷地を誇る大きな植物園がある。戦前からのものであるが、戦後、安保条約が改定される昭和三十五年頃まで、米軍の駐屯地として接収されていた。私の家はその近くにあった。
 ところで、黒人が差別を受けていることは、当時の日本人にもよく知られていた。一方、京都人は京都の風物を妙に尊ぶところがあり、その頃までは、賀茂川の水は、清らかなものの代表のように、漠然と考えていたらしい。山紫水明の「水明」で、京都人が先ず思い浮かべるのは、賀茂川だったのである。
 恐らく、右の話は、これ等二つの印象が結びついて生まれたものであろう。黒人兵は、自分の黒い肌を厭わしく思っていた。そこで、清らかな賀茂川の水で洗い流して白くなろうとしたのであると。冷静に考えれば、滑稽としか言い様のない発想であるが、玄関から聞こえてくるこの話は、妙にリアリティを持っていた。夜の川面にゆっくりと動いている巨大な黒い人間の上半身を、子供の私は思い浮かべていた。
 この婦人は、また、市電の車庫の長い塀の続く細道に火の玉が出るとか、病院に深夜、化け猫が出たとかいう話を、持って来る人でもあった。何れも近隣の噂話である。

   二、夜の壁の桃太郎

 その頃か、あるいはもう少し前、幼稚園に通っていた時であったと思う。夜中に目が覚めると、長押の上の壁に桃色に光る線で描かれた絵が映っている。当時、幻灯と呼んでいたスライド映写のような四角い枠の中に、桃太郎の各場面が映し出されて行くのである。枠も光るピンクであった。後で、この家には昔、桃太郎が住んでいて、その幽霊が出たのではないかと考えた。
 夜は静かなだけに、家の中の微かな音が粒だって聞こえた。天井裏を鼠の走る音は、それが鼠と分かっているだけに怖くはなかったが、それ以外の音は恐ろしかった。「夜は色々な音がするものだ」と、怖がる私に祖母が言った。

   三、神様のお遣いの蝶

 やがて、子供たちだけで外で遊ぶ年齢となる。昆虫採集は、夏の遊びの代表的なものであった。図鑑で名前を調べたり、標本を作ったりすることはなく、やたらに何でも捕まえて虫籠に入れておくのが楽しかったので、昆虫採集とよりは、虫捕りといった方がぴったりする。その虫捕りに、しかし黒揚羽だけは捕らない約束があった。黒揚羽は神様のお遣いだからというのである。誰もその理由を問うことはなく、ひらひらと夏空を行く黒い大きな蝶を見送っていた。
 子供たちの言い伝えを、もう一つ。先の植物園のさらに北に、宝が池という池がある。江戸時代に灌漑用に掘られたものであるが、今は、隣接して国際会議場が建ち、ボートの浮かぶ公園となっている。この池に、全長数メートルの巨大な鯉がいて、ボートに乗っていると、水面間近にその巨体が浮いてくるのを見ることがあるという。これが池の主なのだと、小学校の友人から聞いた。

   四、電柱とラジオの声

 子供好きのお爺さんが近所にいて、よくYちゃんや私の相手になってくれていた。その頃、電柱はたいてい丸太ん棒であり、古い物では縦に小さな裂け目が入ったりしていた。そのお爺さんが、電柱の裂け目に耳を押し当ててみろという。かすかにラジオの音が聞こえるというのだ。ラジオは電器製品だから、放送は、電線や電柱を伝わって届くものだと思っていたらしい。Yちゃんと私は、電柱に押し当てた耳を澄ました。言葉が聞き取れたわけではないが、何かブツブツと声のような音が小さくしていた。

   五、山の白い布

 習い事の代表は、その頃もピアノであった。すぐに挫折してしまったが、ピアノを習いに通っていたことがある。東山連峰の麓の家で、窓からは、大きく山の姿が見えた。その山の中腹に、小さな白いものが出現したことがあったという話を、ピアノの先生から聞いた。布が木の枝に引っかかっているだけなのか、首を吊って自殺した者の白いシャツが見えているのか、麓からでは分からない。そこで、警官と先生の息子たちが、山に登ってみたが、結局その白いものは発見できなかったということであった。

   *     *

 これ等は、全て小学校以前の見聞である。なぜ小学校以前なのだろうか。
 私が小学校を終えた頃から、日本の高度経済成長は加速し、この国の風景と生活は急速に変貌して行く。東京オリンピックは、私の中学時代の出来事であった。そして、中学時代とは社会人への入口である。珍しいことや不思議なことよりも、他と比べて優れていることに価値を見出す季節が、ここから始まる。
 中学に入ったばかりの頃、新しくできた友人と、しきりに怪談をし合ったことを思い出す。互いの家を訪問し、部屋を暗くして、幽霊や妖怪の物語を語り合った。柳田国男の『遠野物語』には、ある村人が狼の巨大な群に出会ったのを境にして、その地方から狼の姿の消えたことが記されている。村人が見たものは、近代化の中で生存環境の崩壊に直面した狼たちの、最後の大移動の姿であったと言われてもいる。友人と語り合った怪談の数々は、あるいは心の遠野を立ち去るものの群であったのだろうか。

        (常葉学園短期大学文芸部誌「奇譚倶楽部」 H09?)



月光夢譚


 白い鯉の化身である少女が、吟詠に巧みな青年に恋をする。月光、水の如く流れる武昌の夜であった。青年の名は慕秀才、鯉にも名があって白秋練。この話は、清朝初期の怪談集『聊斎志異』にある。旅宿の部屋で夢中で詩を吟じていた慕は、ふと窓外に人の影を認めた。あわてて戸外に出ると、歳のころなら十五六の少女の急いで去って行く姿が、夜目にもしるく見えた。そして、人と魚との恋が始まる。
 やがて、三百年が経って、唐土の怪異は日本の童話にその知己を見出した。小川未明の『月夜とめがね』もまた、月の明るい夜に不思議なものが訪れる物語である。針仕事をする老婆の家の、外の戸をコト、コトと叩くのは、最初は髭を生やした「めがね売り」。次いでは「香水製造場」に雇われているという少女。少女は胡蝶となって、家の裏の花園に姿を隠す。
 遠い異国と近代の日本と、月影は、変わらず人の心に幻を描くものなのだろうか。そうではあるまい。幻影への意志はかかって人間にあり、月は同じく照っていても、ものは、為に訪れる人を選ぶのであろう。
 五月雨を聴きながら、男二人に女一人、恋の鞘当てするでもなく、ただ一夜風雅を語るという小説がある。作者は夏目漱石。ほの暗いランプの灯りに、一匹の蟻が菓子鉢を這う。菓子鉢にものが当たれば、蟻は驚いて鉢の中を馳せ廻る。すると女が、「蟻の夢が醒めました」と言う。そんな会話ばかりが続く小説である。男の一人が詩集を開いて、そこに書かれているのか、自身創作したのか、判然としない言葉を語る。
 百二十間の廻廊があって、百二十個の燈篭をつける。百二十間の廻廊に春の潮が寄せて、百二十個の燈篭が春風にまたゝく。……
廻廊には、二百三十五枚の額が掛かっていて、その二百三十二枚目に描かれている美人が、「波さへ音もなき朧月夜に、ふと影がさしたと思へばいつの間にか動き出す」。
 卯の花くたす雨の中、月は海上に仄かである。絵の美人が確かに動くには、魂の清遊を尊ぶ必要がある。かかる一夜をそのまま『一夜』と題して、「人生を書いたので小説をかいたのではない」と、漱石は述べている。しかし、作者は人生の内側には居ない。
 月明の下にものの訪れを得るには、精神は世界と打ち合う強さを必要とする。それは達人の剣に似て、舞いの姿をしている。

  月天心貧しき町を通りけり 蕪村

 通ったのは、もちろん蕪村その人であろうが、露地の、両側を小家の軒に区切られた細い空の高みを、月が通って行くとも読めるところが、この句の魅力のような気がしてならない。

  闇のよは吉原ばかり月夜かな

 これは誰の句であったか。「闇の夜は、吉原ばかり月夜かな」と読めば、遊郭の繁華を称えた句になり、「闇の世は吉原ばかり、月夜かな」とすれば、色や欲に汚れた世俗を捨てて、風流を楽しむ姿勢を詠んだ句になるところが面白い。もっとも、少し理が勝ちすぎている気もする。
 月影という言葉さえ、月の光とその光が造る物影と、対照的な二つの意味を含んでいた。言葉の意味の揺らめきを受け容れることが出来る精神だけが、月の下を訪れるものと出会えるのであろう。
月光、水の如き武昌の夜、人と魚とが恋をする。青年は少女の素性を、先ず「浮家泛宅」の者として知る。いわゆる水上生活者である。それは、かつての中国では蛋民と呼ばれ、賤しい身分とされていた。しかし、我朝に大江匡房の『傀儡子記』があり、スペインにガルシア・ロルカの『ジプシー歌集』がある。漂泊の民への憧れは、それへの怖れ以上に、失われることのないものであったろう。ましてや、舟を住まいとする水の民である。少女は、まさに「揺らめき」への誘引者であった。
 青年慕秀才は、豊かな商人の家に育てられ、学芸を禁じられた身であったとされる。詩を吟じること、身分賤しい少女を娶ることの、青年に於ける意味は明らかであろう。
 物語は、やがて少女の本当の素性が知れるところに辿り着く。しかし、恋は破れなかった。慕秀才は秋練の希望通り、南の湖の畔に移り住んだという。月は、沈まなかったのである。

        (常葉学園短期大学文芸部誌「奇譚倶楽部」 H10)




トップページへ戻る