事件  1701年(元禄14)3月14日に、江戸城本丸松之廊下で播磨赤穂城主(5万3500石)浅野内匠頭長矩(ながのり)が高家肝匙(きもいり)(旗本)であった吉良上野介義央(よしなか)に突然斬りかかって傷を負わせた事件があった。この日は幕府の年賀に対する答礼のため京都から遣わされた勅使・院使に対して、将軍徳川綱吉の挨拶が白書院で行われるはずであったが、事件は勅使らの到着直前に起こった。浅野長矩は勅使の御馳走役であったが職務を放擲(ほうてき)して事を起こしたのである。これらの条件が浅野の罪を重くし、彼は即日切腹の処分をうけ、浅野家は取りつぶされた。
 1702年(元禄15)12月14日夜、四十七人の元赤穂藩の浪士が、江戸本所松坂町の吉良上野介(こうずけのすけ)義央(よしなか)の邸を襲って、主君浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)の仇(あだ)を報いた。
 
【山崎闇斎】江戸前期の儒学者。名は嘉。字は敬義。通称、嘉右衛門。別号、垂加(シデマス)。京都の人。初め僧となったが、谷時中に朱子学を学び、京都で塾を開き、門弟数千人に達した。
 58年(万治1)初めて江戸に出て諸大名に講じ、これより毎年春江戸に行き秋帰洛して〈道〉を江戸の武家社会にひろめた。65年(寛文5)の江戸下向のとき、4代将軍徳川家綱の後見人会津藩主保科正之の賓師となり、73年(延宝1)には会津に下って正之の葬儀に出、以後東下を中止して京にとどまり、著述と門下の教育に努めた。
 吉川惟足に神道を修め、垂加(スイカ)神道を興した。著「垂加文集」など。(1618 1682)
 
【佐藤直方】江戸中期の儒学者。備後福山の人。京都で山崎闇斎に学び、朱子学に徹底、福山藩・厩橋藩・彦根藩などに出講。著に門人稲葉黙斎編「 蔵録(ウンゾウロク)」がある。(1650 1719)
 
【山鹿素行】江戸前期の儒学者・兵学者。古学の開祖。名は高興・高祐。会津に生れ、江戸に育ち、儒学を林羅山に、兵学を北条氏長らに学ぶ。「聖教要録」を著して朱子学を排し、幕府の怒りを受けて赤穂(アコウ)に配流。のち赦免されて江戸に帰る。著「武教要録」「配所残筆」「山鹿語類」「中朝事実」「武家事紀」など。(1622 1685)
 
 

仮名手本忠臣蔵 かなでほんちゅうしんぐら
 人形浄瑠璃。時代物。2世竹田出雲・三好松洛・並木宗輔(千柳)作。1748年(寛延1)8月、大坂竹本座初演。11段。《菅原伝授手習鑑》《義経千本桜》と並ぶ人形浄瑠璃全盛期の名作。前年、京中村粂太郎座で上演され、初世沢村宗十郎の大岸宮内(大石内蔵助)の名演で評判となった《大矢数四十七本》に刺激されて作られたもので、〈忠臣蔵物〉の最高峰に位置する。興行中、九段目の演出をめぐって人形遣い吉田文三郎と太夫竹本此太夫とのあいだに争いが生じ、此太夫らは退座して豊竹座に移り、代わって豊竹座から竹茂都大隅らを迎えて続演、それを機として竹本・豊竹両座の曲風が混淆するという、浄瑠璃史上、注目すべき事件が起こったことでも名高い。竹本座での成功の跡を受けて、同年12月大坂角の芝居の舞台に取り上げられたのをはじめ翌年には江戸三座で競演。爾来、歌舞伎の独参湯(どくじんとう)(起死回生の妙薬)と称され、大入りを呼ぶ人気狂言の一つに数えられ、演技や演出にもさまざまな工夫がこらされてきた。初世中村仲蔵が五段目の定九郎に新演出を試みた話などエピソードも少なくない。なお、幕末以後、歌舞伎では二段目を〈建長寺の場〉に改めて演じたり、三段目の切にあるおかる・勘平の件を割愛して《道行旅路の花聟》(《落人》)を四段目の後に付けたり、十一段目を実録風に仕立て直し、立回り本位の討入りに〈両国橋引揚げの場〉を添えるなど一部改作して上演することが多い。
 
【高師直】 南北朝時代の武将。足利尊氏の執事。武蔵守。尊氏に従って南朝方と戦い軍功が多かったが、後に尊氏の弟直義らと対立し、上杉能憲の一党のため殺された。(― 1351)
 
【塩谷判官】「仮名手本忠臣蔵」中の人物。名は高定。赤穂城主浅野長矩に擬する。太平記に見える出雲守護塩冶(佐々木)高貞(― 1341)の名を借りたもの。
 
 (1)第一(鶴岡の饗応 「大序」) 暦応1年2月、鶴岡八幡宮が造営され、将軍足利尊氏の代参として弟足利直義が鎌倉に下向。それを迎えるのは在鎌倉の執事高武蔵守師直(もろなお)。御馳走役に桃井若狭助安近と塩冶判官高定。尊氏の命によって、討死した新田義貞の兜を奉納することとなり、その是非をめぐって師直は若狭助に恥辱を与えるとともに、兜の鑑定に召された判官の妻かほよ(顔世)御前に懸想して付け文を送り口説く。
 (2)第二(諫言の寝刃) 若狭助は、師直から受けた数々の恥辱に憤懣やるかたなく、ついに師直を討ち果たそうと決意する。松切りそれを知った家老加古川本蔵は、主人の危機を未然に防ぐべく、師直のもとに赴く。
 (3)第三(恋歌の意趣) 本蔵から膨大な賄賂を贈られた師直は、若狭助に対する態度を改め、逆に、かほよからてきびしくはねつけられた恨みを判官に向け、散々に辱める。判官は堪えかねて師直に切りつけるが、本蔵に抱きとめられて浅傷(あさで)を負わせたにとどまる。殿中で刃傷したとがによって屋敷は閉門、判官は網乗物で帰邸。その間、主人の大事も知らずに腰元おかると灯瀬を楽しんでいた供の早野勘平は、おかるの勧めに従ってその場を立ち退く。
 (4)第四(来世の忠義) 花献上(花籠ー文楽)判官は切腹を命じられ、従容として死の座につく。駆けつけた国家老大星由良助は、形見の短刀を握りしめ、〈鬱憤を晴らさせよ〉という判官の遺言を胸に刻んで復讐を誓い、忠義の志厚い人々に決意を披瀝して、館を去る。
 道行旅路の花婿 早野勘平とおかるは、足利館を脱出し、夜の戸塚山中を落ちて行く。本来は、三段目の後に置かれる場面が、舞踊劇となってここに置かれている。
 (5)第五(恩愛の二玉) 猟師となった勘平は、偶然千崎弥五郎に出会い、仇討の企てを知って、御用金の工面を約束する。一方、勘平を再び世に出そうと、おかるは梢園の廓に身を売り、その半金五十両を入れた縞の財布を持って、父親与市兵衛が帰ってくる。不義士で山賊に落ちぶれた斧定九郎は、与市兵衛を刺し殺して金を奪うが、勘平の鉄砲に撃たれて死ぬ。勘平はその懐から財布を取って道を急ぐ。
 (6)第六(財布の連判) おかるを連れにきた一文字屋の亭主の話から、勘平は、自分が与市兵衛を殺したものと思い込み、姑もまた勘平を責める。訪れた千崎と原郷右衛門は勘平に詰め腹を切らせるが、勘平の述懐から死骸の傷口を改め、すべてが誤解であったと知り、勘平を仇討の連判に加える。
 (7)第七(大尽の鈷刀(さびがたな)) 祇園一力で遊興する由良助のもとに、嫡子力弥がかほよの密書を届ける。それを盗み読んだのが、おかると、師直に内通する不義士の斧九太夫。おかるを身請して口をふさごうという由良助の心を察したおかるの兄寺岡平右衛門は、おかるを我が手にかけ、それを手柄に連判の数に入れてもらおうとおかるを説得、おかるも父と夫の死を知って、命を捨てようと決意する。二人の心底を見届けた由良助は、平右衛門に仇討の供を許し、おかるの手に刀を持たせて床下に潜む九太夫を刺させる。
 (8)第八(道行旅路の嫁入) 本蔵の娘小浪は、母となせに連れられて、許嫁の力弥のもとへと急ぐ。
 (9)第九(山科の雪転(ゆきこかし)) 二人を迎えた由良助の妻お石は、本蔵が抱きとめたばかりに師直を切り損ね、切腹して果てた判官の無念を思えば、その本蔵の娘を嫁にはとられぬ。それをあえて嫁にするからには、本蔵の首を婿引出にもらいたいと主張。そこへ本蔵が訪れ、わざと力弥の手にかかり、引出物の目録代りと師直邸の絵図を由良助に渡す。
 (10)第十(発足の櫛笄) 夜討の支度いっさいを頼まれた天河屋義平は惟気のある商人。秘密の漏れぬようにと奉公人には暇を出し、妻おそのをも親里に帰すのみならず、九太夫につながる舅に疑いを抱かすまいと、去り状まで書く。夫婦の心を知る由良助は、おそのの髪を切らせ、自分たちが本望をとげた後、再び結ばれるようにと諭し、天河屋の屋号を合言葉に定めて出立する。
 (11)第十一(合印の忍兜) 義士たちは師直を討ってその首を判官の位使に手向け、焼香。駆けつけた若狭助の勧めに応じて、菩提所光明寺に引き揚げることとする。
 

 
『東海道四谷怪談』   鶴屋南北       文政8(1825)年
『サラリーマン忠臣蔵』 東宝         昭和35年
『わんわん忠臣蔵』   東映動画       昭和38年
『ベルリン忠臣蔵』   西独         1980(昭和55)年
『ザ・カブキ』     モーリス・ベジャール 1986(昭和61)年