『唐茄子屋政談』を歩く

【落語『唐茄子屋政談』梗概】
 日本橋横山町に住む徳さんという若旦那、吉原通いが過ぎて勘当されてしまう。行き処を失った若旦那は、吾妻橋から隅田川に身を投げようとする。そこへ通
りかかった本所達磨横丁に住む叔父さんが、若旦那を自分の家に連れて帰る。翌日、心を入れ替えて仕事に精を出せと、唐茄子(かぼちゃ)の行商に出される。
若旦那は、真夏のかんかん照りの中を、慣れない腰つきで天秤棒を担ぎ、吾妻橋を渡り、浅草広小路から田原町へとかかる。田原町で石に躓き、荷の唐茄子が散
らばり途方にくれていると、同情した人たちが買ってくれる。門跡様(東京本願寺)の裏手を歩きつつ、売り声の稽古をしていると、遠くに吉原遊郭の甍が見え
る。かつて花魁と遊んだ日々を懐かしく思い出す若旦那。さらに行商を続けるうち、誓願寺店と呼ばれる貧乏人の多く住む地域にやって来る。そこで、哀れな母
子に売上金を全て与えた若旦那は、帰って事情を叔父さんに話す。叔父さんは、それが本当なら金を持ち帰らなかったことは怒らないと言い、二人で誓願寺店へ
向かう。誓願寺店へ来て見ると、母親は、金を家主に取り上げられ首を吊った所。若旦那は、母親を助け、因業な家主を懲らしめる。若旦那は、お上から褒美を
いただき、勘当も許される。
 写真右上の「江戸」をクリックすると、江戸時代のその場所(『江戸名所図会』記載のほぼ同地点の図)に行けます。
 赤い文字が図会の解説です。「現代」クリックで戻ります。
現代             江戸

           121029撮影
 若旦那が住んでいた日本橋横山
町。但し、現在の横山町は、江戸
のそれに比べて、より地域が限定
されている。撮影したのは日曜、
ビルの立ち並ぶ街に、人影はまば
らであった。         
 横山町は右上方向。     

現代             江戸

           121028撮影
 吾妻橋を浅草側から見る。。右
手が下流、日本橋方向。若旦那は
ここで身投げをしようとしていた
ところを叔父さんに止められる。
左手の対岸には、巨大な金色の雲
の形をしたアサヒビールのモニュ
メントが聳えている。     
 浅草側から上方向に、隅田川を 望む。下方の広い道が浅草広小路
現代             江戸

           121028撮影
 吾妻橋を渡り、本所吾妻橋の交
差点を右折、三つ目通りを亀沢方
面へ向かう。若旦那が叔父さんの
家へと連れられて行ったのは、こ
の辺りの道であろう。ちなみに江
戸時代の本所は、現在の本所一〜
四丁目に加え、両国橋付近も含ん
で広大であった。       
現代             江戸

           121028撮影
 ご存知、浅草雷門の夜景。手前
の浅草通りは、かつて浅草広小路
と呼ばれていた。炎天下を天秤棒
を荷った若旦那は、この道を左手
田原町の方へと歩くのである。 


現代             江戸

           121029撮影
 営団地下鉄銀座線田原町駅の出
口右手に仏具店がある。この辺り
がいわゆる寺町であることを思わ
せる。            




現代             江戸

           121029撮影
 門跡様、東京本願寺の正門。こ
の門は、南に向いている。   







現代             江戸

           121029撮影
 右手に見える長い塀が、東京本
願寺の北側の塀である。若旦那が
売り声の稽古をした「門跡様の裏
手」はこの辺りか。      
 本願寺と道を隔てた北側の地に
江戸時代、誓願寺はあった。北寺
町と称されていた場所である。 
 なお、誓願寺店は、画面奥の左
手にあったと推測される。   
 中央の道路が、門跡様北側の道
画面上が北。         
現代             江戸

           121029撮影
 左写真の道に直行して北に延び
る道より、本願寺の伽藍を見る。
道の手前の方向(北)には、誓願
寺の彼方に吉原田圃が広がってい
たはずである。若旦那はそこから
遊郭の家並みを望んだのである。
 中段右の大きな建物に「誓願寺
」の注記がある。写真の手前方向
左手に当たると想像される。