【自著紹介】


『文学的体験とはどのようなものか』/『文学と想像力』『研究・泉鏡花』


書   名:文学的体験とはどのようなものか

発行年月日:平成十二年一月二十日
発 行 所:鰍ィうふう
A5版・205頁/二千円

内容:内容紹介として「序」からの抜粋を次に掲げます。


 本書の目的は、文学的体験と言われるものの全体像を素描することである。
 人は、なぜに文学へと誘われるのか。そして、作者として、あるいは読者として文学と関わる中で、どのような心的ドラマを生きるのか。また、文学的な体験の世界から日常的な現実へと、どのようにして帰還するのか。こうした問題に基本的な解答を与えたいと思う。言い換えれば、現実を生きる人の心の片隅に、文学的な精神が芽生え、それが心を領し、再び現実にその領土を譲り渡すまでの物語=人間精神に於ける文学の誕生から死に至る物語を描こうとするものである。
     (略)
 さて、本書の目的が右のようなものである以上、物語の最初の部分は、「個としての人間」についての記述でなければならない。本書は四部より成るが、「第一部 文学への旅立ち」の多くの部分は、この記述に費やされる。一つの統一体としてある「私」とは、どのような存在なのか。人が自身を了解する普遍的なメカニズムを考察する。ある作家がなぜ文学の道に進んだかといった、個人の精神の固有性についてではなく、考察はあくまでも個々の人間が共通に所有している精神の普遍性に向けられる。なぜなら、生涯遂に文学と出会わない人はあるにしても、文学とは、人間の人間的な能力に向かって開かれているものだからだ。
 ところで、ここでは、抑圧されている人間や自由な人間があるのではなく、(政治的、経済的なレヴェルでは、確かにこの両者が存在するのだが)、存在論的に見れば、人間が精神的存在であることと被抑圧的であることとは、同じ意味だということが語られるはずである。また、人間が言語的生物であることと、この被抑圧的状況が分ち難く結び付いていることも明かされよう。そして、この状況を脱するための条件を提示して、第一部は終る。
 「第二部 文学による癒し」では、第一部の最後に提示された条件を実現するための、文学的戦略が論じられることになる。書くこと、あるいは読むことが、人間精神の解放に、どのように関わるのかがテーマとなる。言い換えれば、人間が文学を必要とする理由を踏まえて、文学が人間に与え得るもののリストが、ここでは提示されるのである。
     (略)
 だが、文学が人間精神を被抑圧的状況から連れ出すとしても、精神は永遠に文学的快楽に浸っているわけではない。なぜなら、この解放が解放として意識されるためには、言い換えればそれが快楽であるためには、抑圧的な状況とそうでない状況とが、比較的に了解される必要があるからである。精神が、完全な自由の場に留まるならば、それは精神の死に他ならないし、実際上、時間的変異の中を生きる精神にとって、そのようなことは在り得ない。つまり、文学が精神を抑圧から解き放っているそのさなかに於いても、抑圧的なものは精神に向かって自らを受け入れるようにと、促し続けるのだ。文学的経験の内に於いてすら、文学的な世界だけが世界でなく、現実とか日常とか社会とか呼ばれるものがあり、それこそが自己の本来住むべき世界であると、人は感じ続ける。
 そこで、人は文学的世界から現実へと戻って来ることになるのだが、「第三部 文学からの帰還」で扱う問題は、この戻り道で生じる現象である。本を閉じて気を変えれば、それで帰還は達成されたように見える。しかし、文学的経験は、彼の精神の奥深くに留まり、彼の現実認識に影響を与え続けるのだ。
ところで、そのような個人の心的運動のある部分は、文学の発生的な諸状況の中に比喩的に見て取ることができる。生物について「個体発生は系統発生を繰り返す」という有名な言葉がある。言葉の正否はともかく、こうした現象は、文学を巡っても生じているように思われる。「第四部」で扱う主題の一つは、古い説話に頻出する怪物や妖精といった非日常的な作品素材の起源を、上述の文学からの帰還に関わる個人の心的運動についての考察を応用して説明するものである。そして、同章で扱われるもう一つの主題は、「カタルシス」と呼ばれている心的現象について、それがどのような現象であって、なぜ生じ得るのかを、「第一部 四 3、眩暈的状態」及び「第二部 第四章」での考察を踏まえて説明するものである。「第四部」は、それまでの論述に対し、補足的な性質を持つものと言ってよい。

目次:序
   【概念図】

   第一部 文学への旅立ち
     一 「私」とは何か
     二 幾つかの確認事項
     三 「私」を知ることと言葉
     四 「私」という苦の脱出方法

   第二部 文学による癒し
    第一章 言霊信仰の論理
    第二章 優れた表現と希望の実現
    第三章 主人公の運命と読者の慰め
    第四章 言語的性格を喪う言葉ーいわゆる詩的技巧の共通に持つ機能についてー
    第五章 「私」を対象化する文学

   第三部 文学からの帰還ー文学的経験の後退ー

   第四部 文学的体験の周縁
    第一章ファンタジックなイメージの起源 85
    第二章カタルシスーー快楽を生む文学的メカニズムーー 95

   あとがき




書   名:文学と想像力

発行年月日:平成二年五月二十日
発 行 所:桜楓社(現 おうふう)
A5版・185頁/二千二百円

内容:内容紹介として「あとがき」の一部を次に掲げます。


 「ここ数年の間、私の主要な興味は〈人間は如何にして想像するか〉という問題に向けられていた。小説や詩や漫画を読む時、映画やアニメを観る時、そこに提供されている世界が現実には経験不可能である場合でも、我々が作品世界を理解し楽しみ得ること。また、その様な非現実的な作品世界にさえ、強い存在感をもたらすものと空々しく感じられるものとがあること。これ等の事実に説明を与えたいという思いが、強く在った。
 右の問題意識は、『研究・泉鏡花』(白帝社)に収めた論文の幾つかを書いている内に兆したものであり、鏡花や上田秋成、石川淳や夢野久作について大学で講義を行なう内に、明確になって行ったものである。作品研究を目指して始めた講義が、作品の固有性の解明よりも、作品世界の成立と了解に関わる一般的な原理の発見に向かってしまうという事態を、教壇の上で私は何度も体験した。私は、私の言葉に驚き、私の主題に気付き、自身に忠実であることが文学的な誠実であると考えた。
 さて、主題の追求を始めてみれば、問題を所謂「非現実的な物語」にだけ限定することがとても不可能なことが分かってきた。限定的な領域に見出だされる原理的な諸問題は、より広範な領域に於けるそれと分ち難く結び付いていたからである。そこで考察の範囲は、人間にとって表現とは何か、現実とは何かといった問題にまで広がることになった。本書は、私にとってのこの広大な哲学的処女地に設けた、最初の小さなベース・キャンプである。」
 ちなみに、「V 素材と想像力」に含まれる「王≠ヨの想像力ー君主制の文学論ー」は、昭和から平成へと時代が移り変わる過程で、マスコミの一部で語られた天皇制批判に対する危機感から執筆したものです。私は、天皇制を支持し、その存在を誇りに思っていました。その立場は、現在も変わっておりません。論は、右の私の気持ちがどのようにして形成されたのかという問い掛けをモチーフとして、君主制、あるいは君主を大衆が愛する心的メカニズムを明らかにしたものです。君主制への支持が、歴史や社会に対する蒙昧に由来するのではなく、人間精神の自己了解に関わる普遍的な運動から導かれ得ることを、証明出来たと思っています。

目次:T 表現と想像力
      詩に於ける世界≠フ出現
名文論
      表現の巧拙は如何にして判断されるか 付ー泉鏡花『五の君』の表現
   U 物語と想像力
      奇想の発生論
      奇譚の方法論
   V 素材と想像力
      認識の文学・運動の文学ー秋成・馬琴、そして近代ー
      近世後期怪異小説と本草学的世界像
      王≠ヨの想像力ー君主制の文学論ー
   あとがき




書   名:研究・泉鏡花

発行年月日:昭和六十一年五月十日
発 行 所:白帝社
A5版・268頁/千二百円



目次:序説 鏡花文学に於いて何が問題か
   一、鏡花世界の成立ー観念小説から『化鳥』までー
     §1 批判者の文学
     §2 泉鏡花の方法Tー『外科室』論ー
     §3 泉鏡花の怨念
     §4 泉鏡花の方法Uー『化鳥』論ー
   二、母なるもの≠フ主題
     §1 鏡花マゾヒズム考ー『幻の絵馬』の論理ー
     §2 〈剣を持つ女〉の誕生
   三、民俗・芸能の主題
     §1 泉鏡花の怪異
     §2 泉鏡花と芸能ー『笈摺草紙』の成立ー
     §3 鏡花作品に於ける〈舞台〉の論理ー民俗性と近代性ー
   四、泉鏡花と上田秋成
     §1 秋成の怪異・鏡花の怪異ー『目ひとつの神』と『貝の穴に河童の居る事』を中心にー
     §2 秋成・鏡花の描く悪党達の世界
   ◎ 関係年表
   ◎ 索引
   ◎ あとがき



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