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【書誌】
編 著 者 三苫浩輔
発行年月日 平成十五年年三月十五日
発 行 所 愛知学院大学大学院文学研究科日本文化専攻 三苫研究室
A5版 436頁
編著者が愛知学院大学で指導した大学院生たちの論考に、編著者自身の論考を加えて編まれた論文集である。論の対象は古代・中古・近代と広い。
執筆者と論文名は、巻頭から順に次の通り。 |
出村亨市 | 『三輪山説話と箸』『倭迹迹日百襲姫命の霊威と崇神天皇』『大物主神と糞尿の霊威』『山の神としての大物主神と大国主神』 |
佐藤学 | 『弘徽殿女御の嫉妬とその政治的側面』『右大将道綱母の嫉妬』 |
原田絵理 | 『朝顔姫君論』『朝顔斎院と和歌』『宇津保物語にみる王氏と他氏の政治権力争闘』 |
銭紅儀 | 『恋に生きた和泉式部と朧月夜』『末摘花論 落魄の姫君から貞女へ』 |
末永晃代 | 『堀辰雄と更級日記』『昭和初期の堀辰雄』『堀辰雄と蜻蛉日記』『堀辰雄『ほととぎす』の世界』 |
三苫浩輔 | 『光源氏の成長』『物語文学つれづれ草』『歌詞の揺れと類型歌 将兵の短歌を中心に』 |
論考は全て真摯な文学研究であるが、中で『歌詞の揺れと類型歌 将兵の短歌を中心に』は、多少異質な性格を持つ。これについて些か紹介しておきたい。
『歌詞の揺れと類型歌』は、類型歌が生み出される過程を辿った、一種の文学発生論である。しかし、取り上げられた題材が「将兵の短歌」であることから、論考にはもう一つの主題が添うこととなった。それは、大東亜戦争(太平洋戦争)に於ける日本人の戦いを肯定的に捉え直そうという試みである。特別攻撃隊に参加した将兵の辞世を取り上げ、そこに吐露される愛国の情に留意し、論者は次のように述べる。
不断は作歌と縁の薄い生活をしてきて、命の極限のときにつくられた歌だという事情を考えれば、たとえ類型的であろうとも、一首一首をその人一己の真情の吐露されたものとして受け取らなければならない。(P.403)
そして、そのような精神に於いて戦われた戦いなるが故に、
それらは一部の人が言うように、犬死では決してなかった。一兵も残らず突撃して戦死する戦いぶり、あるいは特攻は、敵愾心を煽ったという一面はあるかもしれないが、日本の将兵は国のために一命を投げ出す戦士という名を高からしめ、敵からも尊敬の眼差しをもってたたえられたのだ。勝利には結びつかなかったけれども、その戦史は民族の誇りとして伝えられていくべきものである。
と説く。
この国の近代は、自国の過去を後代に伝えることを怠り続けてきた。その傾向は、第二次大戦後に、特に顕著である。長篠の合戦が世界の軍事技術史に持つ意味も、『菅原伝授手習鑑』の「寺小屋」が象徴する、江戸時代の産業と文化のとてつもない水準の高さも、旧帝国憲法に詔勅が効力を発生するためには所轄大臣の副書が必要であると規定されていることも、学校で教えられることは全くと言っていいほどない。戦後インドシナに再進駐したフランス軍がゲリラの攻撃に困り果てて、メコンデルタの水路を航行する艦艇に日の丸を掲げていた(ゲリラは日の丸を掲げた船は襲わなかった。日本軍は欧米の侵略者と闘う同士と意識されていたからである。)という事実も、ほとんど忘れ去られようとしている。
そのことに苛立つ人達は、しばしば言葉を激しくし、却ってこの国を貶めようとする勢力に付け入る隙を作ったりしている。
学識と教養に支えられ、抑制の効いた、こうした論考の貴重な所以である。
ちなみに、論述の中に、靖国神社とA級戦犯について、要領よく問題点をまとめた部分がある。首相の公式参拝等に関わる議論に有益であると思われるので、以下に引用する。
靖国神社は明治元年の戊辰戦争で戦死した三千五百余柱の霊を慰撫しようと、明治二年(一八六九)六月に明治天皇が「東京招魂社」として現在地に建立し、十二年に「靖国神社」と改称された。その後の佐賀の乱、西南戦争、日清戦争、日露戦争から太平洋戦争にいたる、日本が参戦した戦争の戦死者を祀るほか、幕末に国事に奔走して集れた吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎らの志士も明治二十年頃から合祀するようになった。
軍人ばかりではない。従軍看護婦はもちろん、対馬丸にのって沖縄から鹿児島へ疎開していて敵潜水艦に撃沈された学童、「ひめゆりの塔」などで知られる沖縄七女学校の生徒、二十年八月二十日のソ連軍侵攻を最後まで通報しつづけて自決した樺太真岡の女子電話交換手、学徒動員中に軍需工場などで敵機の爆撃で亡くなった生徒たちも祀られている。老若男女をとわず、国難に殉じて亡くなった人の御霊を祀るのが靖国神社で、戦争犯罪人と一方的に連合国側に断罪され、処刑された人たちの御霊も、東京裁判でいうところのA級戦犯で死刑になつた七人(東条英機、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、松井石根、武藤章、木村兵太郎)の御霊も祀られている。その数約二百五十万柱である。
今日靖国神社に首相が参拝すると政教分離の原則を盾に公式参拝か私的参拝かと一部のマスコミが騒ぎたて、近隣二ヵ国もA級戦犯が合祀されているのを口実にして嘴を容れてくる。
極東国際軍事裁判、俗に言う東京裁判は、国際法の原則に違反する事後法で「平和に対する罪」を裁いたところに、その正当性に問題のあることが指摘されてきた。
渡部昇一氏は東京裁判の冒頭に日本の清瀬一郎弁護人が「この裁判のジュリスディクション(裁判権・裁判管轄権)はなんであるか」と質問したのにウェップ裁判長(オーストラリア)は後で答えると言いながら最後まで答えられなかったことを紹介して、「東京裁判は、国際法とはまったく関係がない、と言ってアメリカの裁判権に属するものでもなければ」(20ー五一)、中国、ソ連の裁判権でもなく、「一般的な意味でのジュリスディクションは存在せず、GHQの占領行政として東京裁判は行われた」と述べておられる。マッカーサー主宰の軍事裁判だったのである。
その後マッカーサーは朝鮮戦争を戦った経験から、一九五一年(昭和二六)五月三日、上院軍事外交委員会で日本は侵略戦争をしたのではなく「セキュリティのためであった」と証言した。そこで渡部昇一氏は、「さきの戦争を侵略戦争と断じ、戦争犯罪人をつくったのは東京裁判である」、東京裁判は「マッカーサーの命令で行われていた。そのマッカーサー自身が裁判の根本的理論を否定したのであるから、判決そのものが無効になる」(20ー五二)と結論づける。すなわち戦争犯罪人はいないのである。国としても、講和後の昭和二十八年第十六特別国会で、所謂「戦犯」を罪人とみなさず、戦時中の法務死と認めると全会一致で決議しているのであり、この面からしても戦争犯罪人はいないのである。加地伸行氏は「東京裁判は、罪刑法定主義的になんらの法的根拠もなく、戦勝国によるリンチである」と述べておられる(中日新聞平成十四年八月十一日朝刊)。それをA級などとランクづけして裁いたその呪縛から、いまだに少なからぬ日本人が解き放たれていないのは不思議なことと言わなければならない。(P.409)