ブレーク・クラーク著『真珠湾』


昭和十六年十二月八日早朝、日本海軍機動部隊はハワイにある米太平洋艦隊と軍事施設を攻撃した。「本書は、あの歴史的な朝、ホノルルにあつて、したしく日本軍の壮絶果敢な攻撃を目撃した一米人大学教授が、その驚愕と恐怖の体験を、巨細にわたつて書き綴つたものである。」と、巻頭に置かれた「本書を読む人のために」にある。このドキュメントと、真珠湾攻撃についての米国側の調査報告とされる「ロバーツ委員会報告書」の訳文、及び訳者が随所に付した解説によって、本書は構成されている。
 本書は、下記に書誌を記したように、大東亜戦争(太平洋戦争)中に出版された。出版部数は、手元にある再版本の奥付によれば、計二万部。少なくともこれ以上が流布したと推定される。本書の中には、後に引用するように、開戦劈頭の真珠湾に対する攻撃が、宣戦の通告以前に行われたこと、少なくとも米国側はそのように主張していることが、明確に記されている(注)。
 本書の歴史的・社会心理学的な重要性は、まさに如上の点にあろう。国民は、戦時中、開戦にかかわる事情を知る、あるいは推測する情報を持ち得たことが、ここからは窺えるのである。
 先の大戦について、「国民が真実を知らされなかった」という非難があるが、「真実を知らされなかった」理由の一部が、都合のいい情報のみを歓迎する民衆心理に由来することも確かなようである。
 (注) 宣戦通告の遅れが、意図されたものではなく、駐米大使館員らの失態であったことが、今日では明らかになっている。

【書誌】

著者 ブレーク・クラーク
訳者 広瀬彦太
昭和十八年四月十五日発行(10000部)
昭和十八年五月十五日再版(10000部)
発行所 竃随走[ 東京市麹町区有楽町二ノ四
182×127mm 243頁

【訳者略歴】

明治三十七年 海軍兵学校卒業
海軍省嘱託海軍大佐
海軍有終会常務理事
「郡司大尉」「Z一旋」「日米未来戦」(訳書)等の著あり

【本文「ホノルルの驚愕」の章より】

 ところで、私どもの隣人に、クレ一アとよぷ婦人がゐる。かつてプナフ学校で老若男女のために教鞭をとつてゐたことのある人だが、この時このクレーアさんが、とつぜん部屋を突切つて走りこんできた。
「空襲よ! 空襲よ! 日本の飛行機がオアフ島を爆撃してゐるんです!」
 さう言つて、彼女は、そこに立つてゐる小さな日本人と、肥つた小柄な日本人の細君とを、気まづさうな眼で眺めた。
「空襲? 冗談いひなさんな。ただの演習ぢやよ。昴奮しては駄目だよ、クレーア」
 とフリーア氏が言つたので、私たちも、はじめてほつとした。そして、だがひに顔を見合せて、につこりと、うなづき合つた。かはいさうに、クレーアさんば、だまされたやうな顔をしてひきあげて行つた。
 しかし、ものの二、三分とたたないうちに、彼女は仕返しにやつてきた。もつともそれは彼女が好んでたくらんだ仕返しではなかったが−−。それはともかく、私たちが朝飯を食べ終つた鼻ッ先きへ、彼女は、再び芝生を横ぎつて駈け込んできたのである。
「嘘だと思ふなら、ラジオをかけてごらんない!」
 と、部屋へとび込んでくるなり、彼女は叫んだ。
 私はダイヤルをまはした。
「みなさま、落着いてください。オアフ島は、いまさかんに爆撃されてゐます。嘘ではありません。演習ではありません。ほんものです。真実の報道です。攻撃機の翼に、日の丸の標識が、はつきりと見えます!」 
 力強いアナウンスは、まぎれもないKGMB放送局の放送主任ウェブリー・エドワーヅの声であつた。
 この瞬間、私の頭にうかんたことは、「あの日本人夫妻は、どうするだらうか」といふことであつた。
 夫妻は、ヤマトおよびハツといふ名で、在留日本人である。二人とも、英語を話すのは下手である。日本の新聞をとつて読んでゐる。また、精巧な短波ラシオをもつてゐて、毎晩芝生の向ふにある召使部屋へさがつてから、日本からの放送をきくのを楽しみにしてゐる。最近は、シゲルといふ十七歳になる息子が、日本で教育を終へて帰つてきたばかりである。父親のヤマトは、小柄な身体つきにも似ず、仕事をやらせれば、人一倍能率をあげる。私にしても、もし重大な仕事を委せようとするやうな場合には、躊躇なくこの男を選ぶであらう。
 私たちは、さつそく、このヤマト夫妻を台所から呼んで、ラジオの放送内容を話してきかせた。
 するとヤマトは、破顔一笑、かるくこれを一蹴した。
「そんなことがあるもんですか」
 しかし、どことなく漠然とした口調であつた。
 細君のハツも、おなじやうに考へてゐたのか、
「嘘ですわ。戦争が、こんなに早く起るなんて、そんな筈はありませんわ。ワシントンでは、いま来栖さんがルーズヴェルト大統領と会談してゐるではありませんか。いいえ、戦争は、まだですわ」*
私たちが、やつと二人に真相を認めさせると、ハツの顔色は急に蒼白となつた。

 * わざと日本人の口を借りて不意討ちだといふ印象をあたへようと試みてゐることに注意されたい。「本書を読む人のために」の項参照。(この頭注は訳者によるもの)