「独坐大雄峯(どくざだいゆうほう)」は中国、唐時代の禅僧、百丈懐海(えかい)禅師
(七二〇〜八一四)の禅語で、「碧厳録」にあります。「わしはこの山(百丈山)に住ん
で坐禅をしている。ただそれだけだ。それ以外は何ものもない」との意です。
 これはある僧の「坐禅をして何かいいことがあるのですか」との問いに対する答えです。
坐禅をしているときは何も考えません。自分が何事にも本当になりきって生きるのが坐禅
です。それがそのまま宇宙の大原理です。何も坐禅しているときだけではありません。二
十四時間の毎日の生活のなかで、無心に生きるのが佛の生活です。その真実のまっただな
かに坐しているのだと説いているのです。常住坐臥(じょうじゅうざが)、すべてが禅に外
ならないとの教えです。「立てば芍薬(しやくやく) 坐れば牡丹(ぼたん) 歩く姿は 
百合(ゆり)の花」です。
 坐った時だけではない、立った姿も歩く姿もみんな坐ったと同じ姿です。起居動作すべ
てが美人の姿、この心です。
    どっしりと一人で 坐った心は
             日本一の 富士の山

 

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