戻る

 「安禅(あんぜん)は必ずしも山水(さんすい)を須(もち)いず、神頭滅却(しんとう
めっきゃく)すれば火自(おのづか)ら涼し」は、葬儀の導師であるご住職が引導を授ける
ときに唱えられる禅語です。もともとは、中国の詩人 杜荀鶴(とじゅんかく)という人が
悟空上人のとことをたずねたとき作った詩の中にある句です。
三伏門(さんぷくもん)を閉(と)ざして一納(いちのう)を披(ひ)す
兼ねて松竹の房廊(ぼうろう)を蔭(おお)う無し
安禅は必ずしも山水を須(もち)いず
神頭滅却すれば火自ら涼し

この三伏という炎熱やくような暑い夏の一日、みんな暑さをのがれようと一生懸命になって
いるとき、悟空上人のお寺をたずねた。ところが上人は門戸を閉ざし、あいも変わらず一
枚の破れ衣を着て、黙々として坐禅をしておられる。しかも蔭となる一本の松も竹もない
炎天下にある家の室で坐っておられる。何も坐禅をする所は静かな山の中や涼しい川辺で

なくてもよい。心が無心であり、暑さ寒さを超越してしまうならば、自分の心は自ら
涼しい境地にあるという意です。
 この語句は、中国の宋の時代の禅僧、園悟克勤(えんごこくごん)禅師
(一五六六〜一六四二)の禅語で、「碧厳録」第四十三則にあります。この語はまた快川和
尚の禅語でよく知られた語です。甲斐の国(山梨県)の恵林寺が武田方の武士をかくまっ
たとして兵火により焼き払われたとき、武田信玄の師である住職快川和尚が山門にのぼり
弟子たちとともに火の中で坐禅を組んでこの句を唱えたといわれています。
 碧厳録(へきがんろく)ではある僧と洞山(どうさん)禅師との問答となっています。
 「暑さ寒さがやってきたらどこへ逃げたらよいのか」とある僧がたづねたのに対して、禅師

は答えていわれた。「何故暑さ寒さのない処に行かないのか」と僧は問うた。「ではこ
の世で暑さ寒さのない処というのはどこのことでしょうか。」と。禅師は答えられた。「寒
いときは寒いだけになりきる、暑いときは暑いだけになりきることだ。これが暑さも寒さ
もない処だ。」と。
 この問答の中で、述べられているように何も暑さ寒さというのは気候からくるだけでは
ありません。人間の心からくるものです。この世の苦しみに対してどのようにして対処す
るのか。人生すべてにかかわる問題です。
 私たちは、苦しみから逃れて楽をしようとしても、それは一時しのぎです。決して根本
解決とはなりません。積極的に暑さの中で汗を流して仕事に没頭するとき、暑さを忘れる
のです。暑さはもはや問題ではありません。あの炎熱の甲子園での野球の選手は猛暑から
逃れようなどとは全然思っていません。選手が野球に打ち込むときは、暑さから全く解放
されているのです。このような解放された心こそ実は涼しさを招いているのです。これが
解脱(げだつ)の世界です。暑さ寒さになりきる心、禅の心がそこにあります。