現代と病     1、 貝原益軒の養生法  新しいミレニアム二十一世紀を迎えた今日、わが国はもとより、世界的に見ても、かつての高度経済成長の限界がはっきりと見え、地球の規模が限られたものという考え方が広がってきています。発展とか開発と言った時代は終わりをつげ、停滞と混迷の不透明な時代に向かいつつあることを実感します。これまで文明社会をリードしてきた西洋近代のイデオロギーではこれからの世紀は対応できなくなり、人々は将来に向けて異なる新しいパラダイムを求めてきており、人生の四苦である生老病苦に対応する生き方にも反省が求められてきています。いまや超高齢社会に突入して老いをいかに生きるべきかを突きつけられてきています。現代、癌、糖尿病をはじめとする生活習慣病に直面し、管理社会の中でさまざまストレスに冒されている現代人にとって西洋近代医学にはない古くて新しい生き方を求めてきています。現代における病に対する生き方をどう考えるか。私は貝原益軒にこれを多く学ぶことができます。  貝原益軒は江戸時代の高名な学者で当時の出版書で当時、ベストセラー第一位となった『養生訓』を書いたことで広く知られています。現代、同書が引続き古典としてひろく読みつがれており、益軒にたいする内外の関心は高まってきています。わが国では、江戸時代より口癖のように言っている言葉に養生という言葉があります。養生というと今日ではおもに病後の手当て、保養、摂生の意味で使われているが江戸の人たちにとっては、単なる健康法と言う狭い意味ではなくどう生きるかと言う人生指針でした。養生と言う健康法は、江戸時代の社会、文化に根ざした「生き方」の基本であったといえよう。  益軒は『養生訓』の冒頭で「わが身は私の物にあらず」と述べています。    人の身は父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐみを受けて生まれ、また養われたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養いて、そこないやぶらず、天年を長くたもつべし。    

2、 健康と養生 私たちの体は「私の物」ではありません。人のいのちは天からの「授かり物」です。「天地のみたまもの、父母の残せる身」ですからこのいのちへの畏敬への念を抱くことが益軒の説く根本的な考え方です。だからこそ人々はこの世に生きている以上、長く久しく長生きをして喜び、楽しみをするのが人々の願うところです。それにはどうしたらよいのでしょうか。益軒は次のように    養生の術を学んで、よくわが身をたもつべし。こ れ人生第一の大事なり。人身は至りて貴く重くして、天下四海にも変えがたき物にあらずや。然るにこれを養う術をしらず、欲を欲を恣にして、身を亡ぼし命をうしなうこと、愚かなる至りなり。        江戸時代にあっては、今日でいう「健康」と言う言葉はなく「身を保つ」という言葉があった。人はなによりも養生を学んで健康を保つことが「人生の一大事」である。「人身」は最も貴く、何物にも換えがたいものである。現代ではこの「人命の尊さ」と言う考え方はあまりにも言い古され当然のことと考えられている。 しかし、江戸時代はきわめて革新的な考え方であったといえよう。当時の武士たちは「身は鴻毛の軽きに比し、君のため身命を捨て」の時代であったから、このような時代 に「此の世にもっとも重いものは人の命であり、それを宿す体である。」だから養生を心がけなくてはならないと説いているのは異例であったといえよう。益軒の説く養生はたんなる健康法ではない。当時の人たちの生きる人生指針であったが、今日、これからの時代における私たちの生きる上でのみずみずしい新しい生き方を暗示している。   人は誰でも長生きをしたい。その願いは今も昔もかわりはない。しかし長生きをすることは老いる ことである。古今を問わず現代人にとっての最高の価値は「若さ」である。年齢に関係なくである。しかし長生きすることは肉体的には若さを失うことである。現代人にとって暦の上での年令を問われた時、一様に抱くこれから迫り来る心身の不安であり、生活への恐怖である。ところが益軒は「長生きすれば、楽しみ多く、益多し」と述べている。。  五十にいたらずして死するを夭(わかじに)という。これまた不幸短命というべし。長生きすれば、楽しみ多く益多し。この故に学問の長進するも、知識の明達なることも、長生せざれば得がたし。  人の身は百年をもって期とす。上壽は百歳、中壽は八十、下壽は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下壽を保つ人少なく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来稀なり。といえるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。人の命なんぞかくのごとく短きや。これ皆、養生の術なければなり。短命なるは生まれつき短きにあらず。十人に九人は皆みずからそこなえるなり。これを以って人皆養生の術なくんばあるべからず。   

3、  寿命と病 一昨年十二月、人並みに私は七十一歳を迎えました。古希ということで、友人や教え子たち、数十人が集まって祝賀会を催していただいた。ありがたいことである。古希の年を迎えるのはは古来稀な年であったが、この年を迎えるのは人生八十年代の今日ではむしろ、これから希望の年を迎えたのだと皆から激励された。 ところが昨年六月、私の孫が五歳で病死した。はかない短い一生であった。両親は医師の手当てのミスだといって人力の及ばぬ運命をはかなんで泣いた。私にとって孫は可愛いものであり、幼い幼児をあの世に送るのはひとしお悲しいものである。治療は成功、併し患者は早死にであった。岡田正彦著『治療は大成功、でも患者さんは早死にした』との著もあり、医学の限界に深く考えさせられたのだが、母親にどうしてもあきらめられない気持をあきらめさせるのは人には生まれつきそれぞれに定まった運命がある。定命というものがあるとしか考えられないと思わざるをえない。悲しい葬儀をした昨年であった。 それぞれの人間に授かった寿命、それは運命であり、命運尽きた時、人は死ぬ。人は生まれて(生)成長して老い(老)病いをえて死ぬ(死)の順序がそれぞれ異なるのであろうが出来るだけ死を遅らせたい。それは養生であると益軒は体験をもとに次のように説いています。人の命は天地からの「授かりもの」であるとの考え方に立つが同時に「人の命は我にあり、天にあらず」と。  命の尊厳を説く益軒が養生の核心を一字をもって言い表わすと何という字であろうか。益軒はいう。養生は、畏れ惜しむことであると。しかし、だからといってじっと動かないで安閑としていればよいのではない。養生の術は「身をうごかし、気をめぐらすをよしとす。つとむべきべき事つとめずして、臥すことをこのみ、身をやすめ、おこたりて動かざるは、甚だ養生に害あり。久しく安座し、身をうごかざれば、元気めぐらず、食気とどこおりて、病おこる。  益軒は口癖のように「気をめぐらす」といっている。すなわち休んだり眠りすぎるな、じっとしていてはいけない。手足を動かし、労働して血気をめぐらし、飲食を消化せしむべしとくりかし説く。気あるいは元気こそ「人身の根本であり、、百病は、皆気より生ず。」と説く。とかく現代医療が遠ざけていた気と体とは一体という全体論的総合的意味内容をもつ「元気」ということばが重視されている。  益軒のいう養生は、今日の用語でいえば「予防医学」である。すなわち、病気を未然に防いで健康を保つ医学であるといえよう。近代医学は治療医学が主流であった。ガンの研究をすすめてゆくと、ガンになった病人を治すことも大切であるが、最近ではガンにならないようにする予防医学の方が大切だとの考え方が広まってきているようである。これは東洋医学の伝統であり、中青医学としての脚光を浴びてきている。養生法を説くこの東洋医学の伝統に立っているのです。

4、 自然治癒力を信頼する    益軒は同時に薬学の道をきわめていたが「みだりに薬をもちいるな」とくりかえしいっている。益軒はたんに薬害をといているのではなく真意は「よく保養して、薬を乱用せず、病のおのずから癒るを待て」というにあった。 「只保養をよく慎み、薬を用いずして、病のおのずから癒ゆるをまつべし。」という「癒る」というのはからだのもつ自然回復力、自然治癒力に対する信頼感である。自分の身体は自分で守り、病気を自然に癒すという確信である。 そこに今日我々が自分の病気を安易に医療や病院に依存する考え方に対する反省がある。過剰な医療をさけ、急がずに時を待つことをいっている。我々がいう体調を崩した状態を回復させるには時が必要である。古代ギリシャのヒポクラテスは、何よりも人の体に備わっている自然の力に目を注ぎ、病はこの自然の経過と考え、医術はこれを助ける技術と心得ていた。ヒポクラテスは身体には自律的な動きがあり身体のもつ自然の働きを回復させるのが治療であり、健康法であると説く。「病はおのずから癒る」との考え方に通ずる。人間の身体にもともと備わっている自然の力を大切にする時、病は「その時節がこなければ直らない」とし、病の場合、身体の自然を待ち、自然の経過を信頼するのである。    

5、食生活が基本   益軒は、いのちの本は気であり、身体は自然が癒すと信ずるところから、医は食にあると説く。すなわち食養生である。  私は同じくかねて、前立腺が悪く、手術をすることを決意することを考えていた。いよいよ手術にあたり、腫瘍マーカーの数字から見て(当時、9・5)癌の畏れがあるというので念のため検査(生検)のため昨年入院し、検査を受けた。ところがまったくまさかと思っていた癌が八カ所中六カ所に発見され、最初予定していた手術をする予定は取りやめ、変わって癌の治療をすることを強く勧められた。すなわち、前立腺の根治である。思ってもいなかった検査の結果である。しかし癌の治療には切開手術による根治手術が必要であるとの医者のすすめにはどうしても同意できなかった。なんとかして切開手術によらずに癌の進行を食い止めることはできないとの医者のすすめに反して離院、これを食い止める方法として食事療法に取り組んだ。幸か不幸か前立腺の進行は他のガンより比較的遅く、特に老人は遅いということだった。  その日から癌に対する考え方をなによりも真剣になり、根本的に勉強をはじめ、文献を読み漁った。最も大きな裨益を受けたのはガンの権威者である北大医学部名誉教授小林博氏の著『ガンに学ぶ』であった。    端的にいって、直す事だけに腐心したかつての「奢れる医学」から、今死を見つめる生身の人間を見る「謙虚な医学」が求められている。つまりこれからは「対決の医学」だけでなく、「対話の医学」への拡大が望まれているように思う。    癌はあっては「いけない」と言うよりはあっても「やむをえない」、極端にいえばあっても「いい」のではないかという前提の上で手をつくすことである。できるものなら天寿を全うしてから癌になる「天寿がん」でありたいものである。    最近「代替療法」といわれる教えへの関心がたかまっている。代替療法とは科学的検証は十分なされていない医療の総称であるが、じつはこの代替療法がかなり多くの患者によっておこなわれているのである。どういうものがあるかといえば自然療法、東洋医学、伝統医学といわれているものである。    二十一世紀は癌に限らず生活習慣病の予防の時代である。がんは老化病、遺伝病、環境病の三つの側面をもっている。いずれにしてもがんの問題解決は一人一人の生活習慣のなかにもある。健康は一人一人の自己責任である。(小林博『癌に学ぶ』岩波書店)癌を通して小林博士からは多くの生き方を学ぶことが出来た。    

6、日常生活と病気治療法 がんは発見された時にできたものはないといわれています。発見の数ヶ月か、一年前にではなく、短い場合で数年、長い場合で二十年も前に癌の目が発生しているといわれる。これをいっぺんに取り除こうとしても無理で気鋭とっても再発するか別に転移するという。先ず癌の母体となるわれわれの身体を治して行くことが先決で、免疫力をつけることが大切である。特に高齢者の場合、老化と免疫力は並行しているため無理な手術は逆効果。老いればがんになるのは普通、無理せず、がんと同居して永く生きるのがよい。「がんになったからといって、すぐに死ぬわけではない。これ以上がんを大きくさせず、ともに生きて行く方が長生き出来る」と考えることに大きく考え方を変えていった。 とにかく、がんを切りたくないの一心。生活改善を進め、癌と戦う体力を高め、免疫力をつけるにはなんといっても食事である。私はこの食事療法こそ第一と信じて疑わない。西洋医学の父といわれるかの古代ギリシャのヒポクラテスも「食事で治らない病気は、医者でも治せない」と言っているように食事は大切で生活改善の第一のポイントである。 この食生活も次のことに留意する。
@ バランスのとれた食事をとる。
A 一日に食べる食事の量を考える。
B 年齢に応じた食事。
C 良く噛む。
D 朝、昼、晩とで食事の量を異にする。
E 食後は安静にする。
F 野菜と味噌汁は欠かさない。
次に大切なのは睡眠である。夜更かしと睡眠不足はしない。五十才過ぎたら十二時、六十才過ぎたら十一時、七十才になったら十時二は寝るのがよく七〜八時間は必要。   最後に、歩くこと。一日に最低二十分は必要。(町秀夫『ガンを切る前に読む本』光文社)    

7、老人病のための医療  特に参考になったのは、先輩に紹介された一文があった。小林信三氏という方の寄せられた論文で『カオス医学待望論(老人病医療のために)』、これは陸士五十八期生会報にあるもので、医学会では認められなかったものである。これを紹介すると、近年、同期生の病死率が急速に高まりつつある。死因別にみると、がん、心疾患ならびに脳、血管が上位三位をしめている。っそこで、老人病に極めて有効な煎じ薬を紹介し、健康維持に役立てて戴き快適な生活を末永く楽しんで戴きたい。その老人病医療の試論はつぎのとおりです。 一、現代医学の長所・欠点  現代医学は、西洋医学を中核とし、分析的手法を基本として確立されたものである。
その長所は
@人体の外部に起因する病気に対しては抗生物資やワクチンなどによる対処するという人体の再生力を活用しての快復治療療法が確立している。
A高度に発達した外科手術による、傷口の縫合、患部の切除による病害の排除B他人および自己器官の移植による代替を行なう。
B精度の高い検査 診断を行なう。

 しかし、これだけ高度に発達した現代医学にもつぎのような欠点がある。
@ 品と治療法に副作用を伴い重大な事態を招くことがある。
A老化など体内の状況に起因する老人病にたいしては対症療法により病状の軽減はできても根本的な治癒は出来ない。
Bガンは、手術によって患部を切除したからといっても、治ったわけではなく、単に害を取り除いたにすぎないのである。ただ、ガンにかからないのは、リンパ球や体細胞の有する免疫力が、ガン化を防止しているからである。この観点に立つと、ガンにかかるのは免疫力が低下することに起因するといえる。部分的であれ臓器などを切除された患者の免疫力は、むしろその分低下するので、新たにガンにかかる確率は以前よりいっそう高まるはずである。ガンは治ったのではない、害を取り除いたにすぎないのである。 現代の医学が老人病にたいし対処療法しかできないのは、老人病が老化に起因しているからである。 およそ人体はカオス(混沌)であり、分析的手法のなりたたないのであり、分析的手法を基本とする現代医学の限界がある。ここに紹介する野菜スープは新しいカオスの領域が形成されガンなどの治りにくい老人病が治り、末期ガンの治癒率が極めて高いことが実証されている。材料は人参、大根およびその葉、ごぼう、干し椎茸。材料の三倍のみずを入れ、なべで一時間ほど煮込む。 私は、この一年余、信じ、定められた方法でつくり、飲用。このほど、検査により、がんマーカーは0・5まで低下したことが判明し、すっかり落ち着いたことを医者から告げられた。 不安のうちにこの一年余を送った。私の考え方は間違いなかった。
@絶対に手術は行なわない。老人は、老人の治療法がある。
A西洋医学と東洋医学の両用でゆくこと。
B自然治癒力を高めるのが基本。
C食事は健康の秘訣。
D予防が最大。このようなことを体験的に悟った。病はこのようにして克服できるのです。