「油断」について

 徒然草第百九段に「高名の木登り」というのがある。木登りの名人といわれた男が、人に指図して、高い木に登らせ枝を切らせたときの話しである。この名人,見るからに非常に危険だと思われた間は、何も言わなかった。いよいよ切り終わっておりてきた時、初めて声をかけた。「足を踏み外すんじゃ。注意して降りろよ」と声をかけた。不審に思って「これくらいの高さなら、飛び降りたって地やんと降りられるだろうに、どうしてそんなことを云うのかい」きてみた。するとこの名人は「それなんですよ。高くて目がくらみ、枝が折れそうで見るからに危ないときは、本人自身が慎重ですから、注意する必要がありません。失敗というものは、きまって、なんでもないないところで、やらかすものなんですよ」といったという。

 兼好法師は、この男の話を聞いてこういっている。地位も教養もない男だが、言うことは、聖人の教えに一致している。蹴鞠も難しい鞠をうまく当てた後で、気を抜くと、必ず蹴りはずし、落としてしまうということだと。  安心して気を抜いた一瞬のすきに、事故が起きる。日々のテレビ、新聞の報ずるニュースで事故が起こった例をみると、皆といっていいほど、こうである。野球、サッカーの実況放送を聴くとみなそうである。油断した時というのは、勝ち目があったときである。選挙もそうである。逆転勝利というのは、よくあることである。油断大敵、火がぼうぼうである。人生、上るときよりも下る時が難しい。しかし、功成り遂げて安心した頃が危ない。だれでも晩節を全うすルことが難しいものである。終わり良ければすべて良しではないのか。ところが惨めな終わりを迎えることが多いのがこの人生である。

 大般涅槃には次のような話が説かれている。 善男子よ、たとえば世間にもろもろの大衆ありて、二十五里に満てり。王、一臣に勅す。『ひとつの油鉢を持ちて中を経由して過ぎよ。頃覆せしむるなかれ。もし一滴だにすてば、まさに汝を絶つべし。』また一人をつかわして刀を抜きてこれをおどす。臣、王の教えを受け、心をつくして堅く持ち、大衆の中を経て、かの邪欲をみるとも、心に根念言す。「我もし放逸にして邪欲に着せば、まさに持つところを捨て、命救わざるべし」と。油断の語源はこの釈尊のたとえ話からくるものである。

このたびの戦争がそうだった。戦時中に育った我々は、戦争に負けるとは夢にも思わなかった。このたびの戦争いぜんには、勝った勝ったであった。しかし、日露戦争も外交面では決して勝っていたのではなかった。国民は真実を知らされていなかったのである。無敵を誇る海軍が制空権なきところに制海権なしの原則がはっきりした戦争であったのである。立花隆特別起稿『戦艦大和と第二の敗戦』文芸春秋十二月号所収。吉田満氏の『提督伊藤整一の生涯』の中の『戦艦大和ノ最後』で感銘を受けるたのは、』臼淵大尉の次の言葉である。『進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上の道ダ(略)敗レテ目覚メル、敗レテ目覚メル。ソレ以外ニドウシテ日本ガ日本ガ救ハレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ』

 マリアナ沖海戦で事実上の敗戦を迎えたというのであるが、」それにより日本は戦争遂行能力を喪失、東条首相は、この敗戦の責任を取って辞職、終戦への模索が始まったのである。戦後の日本は戦争世代がこの気持ちを持って国家再生を目指し、経済の面で奮闘を続けたからこそ、あの奇跡の経済成長がなしとげられたのである。ところが、八十年代「戦争ではアメリカに負けたが、経済戦争では、圧勝した。もうアメリカから学ぶ者は何もない」と言い出したあたりから第二の慢心が始まった。これは、真珠湾以後の二年間、日本を支配した第一の慢心そっくりの慢心であった。第一の慢心によって、対米戦争能力を失い、第一の敗戦にいたった。同様の第二の慢心が第二の敗戦をまねいたのであると立花氏は喝破している。戦前、戦後のこの慢心こそ油断ではなかろうか。油断の目覚めが必要である。