法輪転ずれば食輪転ず  「腰」について

 「姿」という語は「姿勢」のすがたである。姿は腰できまる。最近の日本人は姿勢が悪くなった、とよく嘆かれる。自分では気がつかなくても、人から見るとよき姿勢はよいものである。昔の軍事教練は一にも二にも「気をつけ」であった。  坐禅もまたしかり。姿勢を見ただけで、その人の境涯がわかる。坐禅をはじめたころ、物指しが歩いているみたいだ、といわれて苦笑したものである。ダンスをはじめたころは、姿勢だけはいいなとひやかされたものである。礼儀作法の小笠原流の説く最も重要な作法は、腰の安定とされている。

 小笠原流では、これを「胴づくり」といっている。姿勢を正すというのは「背筋を伸ばす。あごを引く」。胸を張る。顔は正面に。視線はまっすぐ前に」というのであるが、これがなかなか難しい。何故かといえば、哺乳類の多くは四足で生きていたが、特に人間は大脳が発達して頭が重くなり、人間が二本足で歩き出すとともに、身体を直立させ、背骨や腰をしっかりと据え、その上に頭を乗せることが必要となった。細い首の上に平均七キロの頭を乗せるのだから、背筋がゆがんだり頭が傾くと、たちまちにしてバランスが崩れる。いかに腰が大切か、いかに腰を安定させることが重要であるか、再認識することである。  ところで、小笠原流は次のように『伝書』の中で胴の作り方を伝えている。「胴はただ常に立ちたる姿にて、退かず、掛けからず、反らず、屈まず」と。前後左右に上体が傾かないようにせよ、たとえていえば、背骨が腰につきささるように据え、髪の毛で上から背骨を吊り下げるようにせよ、といっている。

 真向法という体操がある。ふとした縁で始めた体操であるが、みなさんにも是非やることをお勧めしたい。創始者は長井津という方で、福井県の勝鬘寺という浄土真宗の寺の五男。長男は有名なインド哲学者長井真琴先生、私の郷里の大先輩である。この方が若くして脳溢血で倒れ、生家の勝鬘寺にある経を読経百遍、「勝鬘及一家眷属頭面接足礼」の経文に深く心を惹かれ一心不乱に坐禅を繰り返し、同じく浄土真宗の無量寿経にある「五体投地」も修められ、不治の病を克服されたと伝えられている。  真向法の意図とするところは、正しい姿勢をすることであり、若返りである。いつも正しい姿勢をとることにより、全身を活性化することにある。からだは使わないと筋肉が萎縮する。これを医学用語では「廃用性萎縮」という。使わないでいると、それまで使っていた筋肉が萎縮することはじじつである。

 いつも体験することだが、春夏の間よく使っていた農耕機具を一冬使わずにおいて、さあ使おうとすると、ぜんぜんエンジンがかからないので修理に出す。原因は何ということはない使っていたガソリンが古くなっていたからだ。しばらく使わないときはガソリンは使いきっておくことだ。使うときは新しいのを使う。

 人間の場合はどうであろう。人間は燃料をいくら変えたところで、機能はどんどん低下する。毎日わずかな時間でよいから使うことだ。  今日、科学技術の発達がもたらした省力化は、企業では生産性の向上に大きく貢献し、家庭の電化製品は、これまでからだを動かす仕事の多くを機械にゆだねてしまった。その結果、廃用性萎縮が生じ、物を作ることの出来た手、前後左右に自由自在に歩けた足、人間固有の頭脳は、使わなければどんどん退化している。

 一方、これと反対に「過用性萎縮」が進んでいる。過用性萎縮というのは、使いすぎというよりも誤った使い方である。深々としたソファーに腰掛け、猫のすわり。姿勢が崩れると内臓器官を圧迫し、血行を妨げる。過用性萎縮というのは使い過ぎという意味であり、使う筋肉と使わない筋肉、使い方にアンバランスが生じているとの意味である。偏った使い方が老化を招いているのであり、すべて滞っているのがよくないのである。

 私たちの体の中で、とりわけ大切な働きをしているのが腰である。からだの中で最も動かぬところであり、その中心が腰骨である。この腰を引き立てることにより、人間の根性が養われるのだと。これが「立腰教育」であると、実践礼道小笠原流会長はのべている。

 真向法は、腰部の関節「股関節」の屈伸体操を重視している。この股関節をさびつかないよう、老化するのを防いでいるのである。座ったときは正しく正坐し、腰を引き立て、上体を起こして胸をはる。背中は曲げずに、背骨をまっすぐにして伏す。このとき股関節が完全に屈伸するのである。

 正しい、美しい歩き方は腰を立て、上体を真っ直ぐに伸ばし胸をはり、腰で歩く。腰が曲がっていたのでは、上体を真っ直ぐに伸ばすことが出来ない。胸で歩き、腰で歩くのが最も理にかなった歩き方であり、見た目にも美しい。

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