第76回公演「修善寺物語」
2012年2月5日(日)三島市民文化会館小ホールにて
見えない人間行動に振るえる              演出 堀江辰男
修禅寺物語の初演は 、明治44年、1911年5月明治座で、市川左団次、市村羽左衛門等が舞台に立った。今から101年前ということになります。
 その100年後に、自分たちがなぜ今歌舞伎なのか。極めて当たり前のことに思いを巡らせば、彼のシェークスピアのハムレットの初演は1600年であり、今から400年以上も前である。完全に古典なのに、何故か違和感がない。それは、日本の歌舞伎表現は様式美を求めて完成してきたからに他ならないように思います。その結果、観るにしても、演じるにしても、構えてしまって、何となく近づきがたい世界になっている。
 見得を切らなくたって、台本に惚れ込めば自由に表現したっていいじゃないか。日本の歌舞伎が古典であろうと新歌舞伎であろうと、シェークスピアより遠い存在に押し込めておくことはないと、乱暴にもそう考えての取り組みなのです。源氏物語は、旧制高等女学校の学芸会での定番作品だったとか、その親しみでいいじゃないでしょうか。
 さて、この作品の事にちょっとだけ触れましょう。
 この作品、夜叉王の職人気質、それ以上に腹の底、いやどこからともわけもわからず吹き上げてくる感覚、自分で制御できない意地、これを芸術至上主義の言葉で片づけてしまうことは難しい。人間の奥深く住み着いてしまった得体の知れない魂の暴れだからである。 親(夜叉王)と子(娘のかつら)との断絶と和解、さらにかつらとかえでの理想・夢と現実的な人生観の対立、など。最後の幕切れに向かってすべてが収斂・増幅していきます。
 こんなもがきを皆様と一緒に考えたり、感じることが出来ればと最後の稽古に励んでいます。
 源左金吾頼家とは・・・
1199年、源頼朝の跡をついで鎌倉幕府2代目将軍となる。この時若干17歳。4月、北条政子は頼家の将軍親裁を制して13人による合議政治をすることを頼家が愚暗である為に決定する。
頼家は評判の美女瑠璃葉を影盛から横取りし、北条時政に非を訴えた影盛の父盛長に無礼討ちの兵を向けようとした。また、恩賞
地を幕府に召し上げ忠勤無禄の士に分け与えようとしたり、様々な軋轢を生む。頼家は比企一族との結びつきが強く、妻(若狭の局)
は比企の尼の孫。これによって幕府内での一族の発言力はまし、今まで幕府の黒幕として実権を握ってきた北条氏と激突する。
1203年、病にかかり危篤状態になる。この間に北条軍勢は比企一族を皆殺しにした。頼家の弟・千幡は征夷大将軍に補せられ、名
を実朝と賜り元服する。この時北条時政は将軍後見の役として執権となった。そして、頼家は修禅寺に幽閉されることになる。