第85回公演「長崎の鐘」

  
 あらすじ
昭和20年6月、長崎医科大学物理的療法学科助教授永井は、閉じた目を開けておそるおそる透視版を見た。暗い大きな塊の影、脾臓が極端に肥大しているではないか。これはまぎれもなく白血病だ。同僚の内科医から余命三年と宣告され、絶望と怖れにも耐え、残された生命を放射線の研究に捧げる決意を新たにするのであった。八月九日、長崎に原爆投下。永井を隊長とする物理的療法学科第11医療隊は、全身傷つきながらも献身的に傷ついた大勢の人々の治療にあたった。永井は、こめかみにガラスが突き刺さり、頸動脈が断裂し何度も倒れるが屈せず先頭に立って指揮にあたった。三日後、家に帰ってみると辺り一帯は白い灰が広がっていた。台所に目をやると最愛の妻、緑は黒い塊の骨となっている。その腰には十字架のロザリオがまつわっていた そして、8月15日終戦。12月24日午前、地中に埋まっていた浦上天主堂の鐘が奇跡的に発見される。その夜の25日クリスマス午前零時・・・天主堂から原子野に響き渡る長崎の鐘。世界に向けて平和の響きを伝えるかのように。
 やっと如己堂に、永井博士に出会う    作・演出  堀江辰男

 最初の永井博士との出会いは、もう50年も前だろうか。長崎市内を巡る観光バスのガイドさんが、涙を浮かべて(いたように思う)切々と語りかける原爆の悲惨さ、その中に白血病に苦しみながらも献身的に救護に尽くした永井博士のことがあった。
 それから何回か長崎の史跡などを訪ねながらも平和公園方面には足を向けなかった。が、3年前に、平和公園・原爆資料館に、そしてさらに2年前の夏、出張の午後に時間が空いたので時間潰しにと平和公園から浦上天主堂へ向かって歩き始めた。すぐに永井博士の最後を過ごした如己堂に出た。50年前の観光バスでもこの前を通っていたような気がした。何と狭くて粗末な住居なんだろうか、というかすかな記憶がある。この日は、時間はたっぷりとあったので、如己堂、その横にある「長崎市永井隆記念館」に入った。これはこの時初めて存在を知った。
 如己堂は、「己の如く隣人を愛せよ」との意味から名付けられ、病室と詳細を兼ねていた。入り口の石碑には、「玉の緒の 命の限り吾はゆく 寂(さびし)かなる 真理探究の道」とある。本当のところの深い意味はよく解らなかったが印象に残る。続けて記念館に入る。年譜、博士の遺品、書画、写真、多数の著作、書籍など。そして緑夫人の珊瑚が焼けただれた鎖のついたロザリオに出会う。切なく悲しい。恥ずかしいことに戦後のヒット曲である歌謡曲「長崎の鐘」(サトウハチロー作詞・古関祐而作曲)が、永井博士を詠っていたことをここで初めて知り、自分の無知さに愕然とした。心が高鳴り、いろんなことが渦巻いて、この部屋から離れがたく、もっと佇んでいたいと感じた。それに、いつの間にか、目に涙が溜まって来ている。そうか、50年前のあのバスガイドさんは、間違いなく涙を流しながら語りかけていたんだ、と確信した。
 受付で、「長崎の鐘」を買い求める。実は、受付に立ったその方は、永井博士のお孫さんで、お顔は永井さんの姿を偲ばせた。
 この本を手にした時、、永井博士のことを舞台にしなくちゃとの気持ちが膨れあがった。その気持ちが熱いうちに、浦上天主堂、そして、国際墓地に眠る永井隆博士と妻の高ウんのお墓にお参りし、さらに決意を新たにしたのである。