「さすがに、これ以上上がるのは無理だな」
そう、ディーンに言われて、リノアンは恐る恐る周囲を見渡した。そこは、どちらを見ても、星々の絨毯だけが無限に広がっていた。ゆっくりと下に視線をずらすと、遥か下に銀色に輝く大地が見える。それが、ずっと向こうまで続いて、途中から闇に飲まれるように暗い大地へと変わっていた。
「……すごい……」
頬に感じる風は、まるで身を切るように冷たいのに、それでもリノアンは呆然と、その神秘的な光景に見入っていた。
「かつてターラをお前に見せたときより、さらに高いからな。寒くはないか?」
「ええ。大丈夫です」
本当はものすごく寒かったのだが、それでも今、ここにディーンと二人だけでいることの方が、何倍もリノアンには貴重に思えたのだ。この一瞬の時間を、少しでも長く感じていたい。そう、リノアンは思っていた。
「ディーンこそ、大丈夫?」
「リノアンが、暖かいからな」
そう言って、ディーンはリノアンの肩を抱き寄せた。リノアンは、さらに強くディーンを抱きしめる。ディーンの暖かさを少しでも感じられるように。
「ディーンの飛竜に乗せてもらうのは、これで三度目ですね」
一度目は、まだ、ターラにいた時のこと。リノアンが、くじけそうになった時、ディーンはリノアンを空に導いてくれた。あの、空からターラを見たとき、リノアンはまだ頑張ろう、という気になれたのである。
二度目は、ついこの間。リノアンが無理をいって、ターラからトラキアまで一気に飛んでもらったのだ。アリオーンを止めるために。
「望めばいつでも乗せてやるつもりなのだがな」
「でもそうしたら、なんかありがたみがなくなってしまいそうでしたから」
「……そういうものなのか……?」
リノアンはくすくすと笑うだけで、その質問には答えず、別の話題に切り替えた。
「ターラは、どちらでしょう……?」
「ターラか?多分……あっちの方だ」
ディーンはそういうと、ある方向を指差す。だがそこは、銀色の大地が続き、あとは黒い山の影だけが見えるのみで、ターラの街の灯は見えない。
「トラキアは、この下、ですよね……」
そう言って、リノアンは下を見回す。すぐに、トラキアの街と城の灯が見えた。
「ああ、そうだな」
「これだけ高くまで上がっても、両方を同時に見ることはできない……のですね」
それは、お互いがどれだけ離れているかを表している。確かに、飛竜なら飛んで行けば数日の距離だ。だが、逆にいえば飛竜をもってしても数日を要する距離でもある。
「この戦いが終わったら、貴方はトラキアへ……私はターラに戻らなければならないのですよね……」
「リノアン……」
だがそれは、もはやどうしようもない事実。
実際、公式にはディーンはすでにリノアンを守る理由はなくなっている。
元々『アリオーン王子の婚約者』を守るために派遣されたのがディーンだ。だが、リノアンはトラキアの最終決戦の直前に、アリオーン王子から婚約破棄を言い渡されている。つまり、もうディーンがリノアンを守る理由はない。
となれば、ディーンはおそらく戦いが終われば、トラキアに戻ることになる。一時的に騎士団から籍を抜いているとはいえ、おそらく戦いが終わればまた竜騎士団に復帰する。そしてそれを拒否する理由をディーンは持たないし、また、彼自身拒否するつもりはない。だが、そうなればもう、勝手にターラに行くことなどは、到底出来なくなるだろう。
一方リノアンは、ターラの公女としての責任がある。
本来、もう解放軍には随行せず、ターラの復旧に尽力するはずであったのだが、アリオーン王子と解放軍との戦いを止めるために、ここまで来てしまった。ただ、こうなったらリノアンとしては最後まで戦いに随行するつもりだし、それはもう許可を取っている。実際、ターラ一国だけが平和を維持しても解放軍が敗れたらどうしようもないのだ。そして、リノアンもまた、強力な魔術師として戦うことが出来る存在なのだから。
しかし、戦いが終われば、もうターラを離れることなど、到底出来なくなる。当然、ディーンに逢うことも。
お互い、離れたくなどないのに、お互いの立場が、それを許さない。
いっそ、戦争が終わらなければ、そうすれば。
一瞬、そんな想いすら宿りかける。
しかし、それだけはさすがにあってはならないし、また、言うことも許されない。
解放軍の人々は、それこそ全力で、命を賭けてこの暗黒の時代を終わらせようと戦っているのだから。
「……でも、私、諦めません」
突然のリノアンの宣言に、ディーンは驚いてその少女の顔を見た。
「確かに、私は戦いが終わったらターラに戻らねばなりません。でも、いつか必ず、トラキアに来ます」
「リノアン、それは……」
まず不可能だ、とディーンは思った。
リノアンがターラの公主となれば、その婚姻は当然政治的な意味合いを持つ。ターラ公国のことを考えれば、妥当に行くなら北トラキアの誰かから夫を選ぶのが普通だ。この戦いにおいて、トラキア王国は事実上滅亡した以上、これからのトラキア半島は北トラキアの主導で、南トラキアも動いていく。いまさら、南トラキアの自分はもちろん、アリオーンなどがターラの公主の夫になることは、まずありえない。まして、ターラ公主の血族は、すでにリノアン一人しか残っていないのだ。その彼女が、トラキアに来ることなどありえない。
しかしリノアンは毅然として言い放った。
「ターラは、歴史的にはかつてターラ公爵がその聖戦での功績を称えられ割譲された一都市国家に過ぎません。本来は、アルスター王国に属する一都市なのですから」
「しかし……」
戸惑うディーンに、リノアンははっきりと、まるで宣言するように言葉を続ける。
「すぐには無理です。でも、ターラが復興し、私がいなくてもやっていけるようになれば。その時、私はターラ公主の座を降り、そして……」
「リノアン……」
ディーンは、その、自分の傍らにいる少女がたまらなく愛しく思え、これまで以上に強く抱きしめた。そしてリノアンは、その両の腕をディーンの首に回す。
「待っていて、くれますか?」
その言葉に対する、ディーンの答えはもう決まっていた。
「ああ。いつまでも待っている。なに、俺も最初は忙しいからな」
「では、どちらが先に暇になるか、競争ですね」
視界が、自らの意思で閉ざされる。お互いを抱く手に、力が込められた。
無数の星々が消え、お互いに触れあっている感覚と、肌を刺す風の感覚、それに風の音だけで世界が満たされる。
二つの影が、寄り添うように重なっていく。
その時触れ合った唇は氷のように冷たかったが、お互いの胸中は、暖かい何かに満ち溢れていた。
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